2009-11-15

"純粋理性批判(上/中/下)" Immanuel Kant 著

アル中ハイマーの購入予定リストには、昔から亡霊のように付き纏う奴らがいる。そろそろ亡霊退治に乗り出すとしよう。ただ、「カントの三大批判書」という亡霊は一筋縄ではいかない。科学書や歴史書などに触れていると、あちこちでカントの影響を感じることがある。一度読んで見る価値がありそうだと薄々感じてはいたが、その大作を目の前にすれば尻込みするというものだ。実は、全部読むのが億劫なので、第三批判書の「判断力批判」だけを読もうと試みた。ところが、一歩踏み入れたがために精神は蟻地獄へと引き摺られ、第二批判書「実践理性批判」、第一批判書「純粋理性批判」と遡ってしまった。通常の読み方からすると逆順であろうが、そこは天の邪鬼!結果的に理解を深めるためにも悪くない読み方である。というのも、読んでいるうちに気づいたのだが、三大批判書は併せて一つの体系を成している。「純粋理性批判」では、悟性認識に則った数学や自然科学の原理を論じ、「実践理性批判」では、理性認識に則った道徳と自由の原理を論じている。いずれも、認識能力の可能性と限界を考察したものである。前の二つの批判書で認識能力の限界を認めるならば、それに基づいた判断力もまた限界を認めることになろう。率直に「何のために認識能力を働かせるのか?」と問えば、それは「判断力を働かせるため」となろう。いや、認識そのものが判断の結果であるとも言える。カントは、思考の統合的立場としての判断力の不完全性を論じようとしたのではないか?おいらには、そう思えてならない。いずれの批判書も、ア・プリオリな認識を相手取った、人間認識の基本原理に迫ったものである。やはり一番おもしろいのは「判断力批判」であろう。したがって、おいらにとっては、前の二つの批判書は第三批判書のための序章の位置付けにある。いや!引き立て役と言ってもいい。ただ、記事にするのは通常の順番としよう。なぜかって?それは、純米酒を呷ると、天の邪鬼も素直になれるから。それにしても、引き立て役にしては大作過ぎるなぁ。アル中ハイマーは前戯が大好きだから問題はない。もちろん本番も!

偉大な哲学書というものは、難解な論理の羅列がBGMとともに流れ去るような、不思議な錯覚に陥れる。しかも、一つの言葉に違った意味をめぐらせながら混乱させやがる。一語多義的な世界とでも言おうか、一貫性さえ疑いたくなる。もっとも、人間精神は矛盾律で成り立っているので違和感はない。そして、いろんな思考を錯綜させながら自らの哲学を覚醒させる。これが哲学書の極意というものか?世界には実に多くのどうにでも解釈できる抽象的な概念が氾濫する。
カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに」
人間は、その概念が奥深いものであっても、皮相的な結論に安易に飛びつく習性がある。それも人生が短いので仕方がないのだろう。だが、真理の探究で結論を急ぐこともあるまい。未解決な問題があって結構!「哲学する」とは人生の暇つぶしであるから。

理性認識は、理性の欠いたアル中ハイマーのもっとも避けていた領域である。カントは、本書を哲学における「コペルニクス的展開」と述べたという。なるほど、ここに記される純粋理性認識は、数学的理性認識と言ってもいい。ただ、数学のような成功をおさめるかは別である。数学の公理は永遠である。はたして哲学に公理なるものを見出すことができるのか?哲学と数学は同じ論理学を扱う意味で非常に似通っている。おいらは、数学は哲学の中で普遍性を見出したものが独立したものだと考えている。逆に言うと、人間精神に関わるものだけが、哲学にとどまったままとも言えよう。不完全性定理は、まさしく数学を哲学の領域に引き戻した感がある。ただ、数学と哲学では扱う対象が違う。数学は物理量や時間スケールといった「空間の量」を対象とする。一方、哲学は人間の認識や理性といった「精神の質」を対象とする。論理学は常に客観性に基づく形式化を求める。ところが、精神ってやつは主観の領域に深くかかわるから厄介なのだ。数学の証明には直観的確実性や自明性なるものが現れるが、哲学の証明には弁証法なるものが現れる。あらゆる学問が人間にかかわる現象に対して体系化を試みたが、ことごとく失敗してきた。だが、体系化できるかできないかの境界をさまよいながら、人間精神の限界を知ろうとする試みは無駄ではない。物事を深く掘り下げれば哲学的思考に辿り着くはず。あらゆる学問で、偉大な学者が、同時に偉大な哲学者であったのもうなずける。哲学的思考では、物事は本当に存在するのか?と疑えば実存論と争い、存在意義はあるのか?と疑えば無意味論と対峙する。そして、哲学とは何か?と自己言及の罠へと導かれる。そもそも、人間精神の解明に人間精神がどこまで迫れるかという問題自体が、自己矛盾に陥っている。そして、「おいらは誰なんだ?」と問い続ければ、「飲むしかないではないか」となる。もはや、酒を飲んでいるのか?酒に飲まれているのか?自己認識の存在すら疑わしい。つまり、「哲学する」とは、酒を飲むことである。したがって、多くの哲学者はアル中に違いない。

本書のテーマは哲学的問題の中でも、理性というとてつもない領域へと踏み込む。理性を観察するには、理性よりも高次の宇宙原理的な価値観から眺めなければならないだろう。数学は、自然数を解明するために整数や有理数の概念を登場させた。物理学界は、空間を解明するために、より高度な次元への移行を求める。つまり、一つの系を観察するためには、より抽象度の高い系を必要としてきた。純粋理性とは、宇宙原理に近い恒久普遍的な理性とも言えよう。そして、純粋理性の中で根幹を成すものが、純粋悟性である。その認識能力は、直観的で単純な論理の組み立てだけでは到達しえない崇高なもののように映る。本書は「ア・プリオリ」という言葉を登場させる。そして、理性構築に人間のア・プリオリな認識能力から演繹できるのか?という問題と対峙する。
ところで、「ア・プリオリ」とはなんぞや?辞書で調べると先験的や先天的となるようだが、いまいちしっくりとしない。主観を働かせることによって得られる客観的帰結とでも言おうか。例えば、数学の定理は客観的な考察と言えるが、定理を導くまでの思考プロセスには直観的な考察が関与する。人間は物事を認識する時、論理の組み立てだけでは深い思考が得られない。そこで、本能的に自然原理のようなものに照らしながら、直観を働かせるだろう。つまり、直観と論理的思考の調和のようなものと解釈できそうだ。したがって、数学の公理は、ア・プリオリな総合的判断の演繹によって積み重ねらてきたと言えよう。そもそも論理学は、悟性によって形式的規則を成立させることを求め、客観的に構築するものである。その論理学を主観的領域に持ち込んで客観的に構築するとはどういうことか?問題は既に自己矛盾に嵌っている感がある。だが、論理学の先験的弁証法は主観的と言ってもいい。直観の原理による認識が、結果的に客観的認識として見出すことができれば、それをア・プリオリな認識として受け入れることはできそうだ。そこで問題となるのが「はたしてア・プリオリな悟性認識だけで理性構築は可能なのか?」ということになる。本書は、この問題を通じて、思弁的な理性認識を否定しているのではなく、おそらく理性能力の限界を示したかったに違いない。これは、アリストテレス的な形而上学の限界を指摘しているのか?唯物論よりも唯心論の方がましだと言っているのか?その批判の意図はよく分からん。酔っ払った精神では、勝手な解釈によって御託を並べてみることぐらいしかできないのだから。

本書で注目したいのは、理性認識の重要な意義に自由の概念が内包されていることである。古くから自由意志の存在をめぐった哲学的論争がある。自由意志を主張したところで自然法則に支配されるような気もする。ただ、理性認識の範疇で自由意志が規定される可能性を匂わせている。なるほど、自由の概念は理性の原因性によって生じると考えることができるかもしれない。理性構築では、どうしても経験的観念に頼らざるを得ない。では、経験を重ねれば理性は進化するのかと言えば、それも疑わしい。先験的認識と経験的認識が調和した時、更なる高次な統制能力を持った理性認識が生起するとでも言っているのだろうか?

1. ア・プリオリ
人間の意識はすべて経験に頼っているわけではない。生まれたばかりの赤ん坊が「おぎゃー」と泣くのも生まれながらに持った意識があるからであろう。ただ、人間は歳を重ねるとあらゆる現象が経験的に見えてくるところがある。ここで言う経験とは、自らの経験だけでなく歴史事象や他人の経験も含む。
また、経験を基に直観的認識が浮かび上がることもある。経験によって生じた認識であっても、結果的に純粋な宇宙原理のようなものを感じることがある。道徳的観念において抑制力が働くのは、すべてが経験的というのでは説明ができない。こうしてみると、「経験的認識」と「直観的認識」の境界を明確にすることが難しいことに気づかされる。大人になれば、純粋な心を失っていくのもうなずけるわけだ。
数学の公理は宇宙原理のような純粋な認識を求める。これは偶然存在するのではなく、もっと崇高な認識といったところだろうか。本書は、こうした純粋領域にあるものをア・プリオリと呼び、更にア・プリオリな認識は「時間」と「空間」だけであると主張している。なるほど、アインシュタインが時空の概念を持ち出したのも、本質をついていそうだ。不思議なことに、時間や空間は客観的でありながら、人間認識では主観的である。日常生活では、相対認識の中で時間を短く感じたり長く感じたりする。空間も広く感じたり狭く感じたりする。自殺する意識も、自らの存在感に悩んだ末に現れる空間的な相対意識かもしれない。人間は、時間や空間が絶えず変化することに、はかなさを感じる。しかし、時間と空間が変化するのは客観的事実である。こうなると、純粋直観と経験的直観、あるいは主観と客観の境界も曖昧になってくる。少なくとも、時間と空間の概念を精神の世界のみに限定する必要はないという意味では客観的ではあるのだが。
ちなみに、「ア・プリオリ」の対義語で「ア・ポステリオリ」という言葉もあるそうな。
ところで、ア・プリオリな純粋理性を規定することはできるのだろうか?人生経験の積み重ねの中で理性に目覚めることはあるだろう。しかし、人間の前に現れる問題はいつになっても尽きることがない。それは時間が途絶えることがないからか?人間は、理性が経験的な領域を超越していて、いつまでも不完全であることに、なんとなく気づいているのだろう。にもかかわらず、常識としての共通の価値観を持ち出す。その代表が法律や宗教の戒律といった道徳観である。あたかも完全であるかのような原則として用いて、そこに逃避せざるを得ない。人間はこうした一時避難所である実践的道徳を規定している。

2. 先験的弁証法
理性には、論理的能力と先験的能力があるという。いずれにせよ、人間は自らの価値観よりも高い認識能力を発揮することはできないだろう。人間は、都合によって主観的必然性を客観的必然性と見なすところがある。本書は、これを「仮象」と呼ぶ。そして、先験的弁証法をもってしても、この仮象を避けることはできないという。なるほど、経験を積めば積むほど、その錯覚に陥りやすい。誰が見ても客観性というのは、実は主観性の多数決であったり、業界の慣習に従っているだけだったりする。そこで、主観的認識は悟性との一致を求めて客観的に調和しようとする。だが、純粋理性は、経験から得られるのではなく、推論によって得られる概念である。言い換えれば、ア・プリオリな原則に従い、ひたすら悟性によってのみ規定できる認識である。本書は、純粋理性の分析であっても、無意識のうちに虚偽が入り込むと指摘している。それが誤謬推理である。しかも、純粋理性の先験的証明はすべて弁証法的仮象の中で行われると断言している。数学で生じる矛盾は客観性に基づくが、哲学における矛盾は主観性の中でさまよう。となれば、哲学の基本として、弁証法的矛盾を単なる矛盾として片付けるわけにはいかないだろう。
「自信は見せかけの真実に過ぎない。」
本書は、悟性判断は客観と一致するはずなので、自信を確信の地位に押し上げる努力を求めている。確信に近づけるためには、「臆見」「信」「知識」の三段階を経由するという。「臆見」は空想の段階であり、「信」は主観的段階であり、「知識」が客観的な地位の段階だという。数学で「臆見」を立てることは不合理かもしれないが、難問と対峙する時には有効となる。理性の先験的考察でも有効で、ここが人間精神を相手取る哲学の醍醐味でもあろう。「臆見」や「信」の段階で「神の存在を信じる」と主張したところでなんの問題はないが、宗教はこれを「知識」として押し付けやがる。

3. アンチノミー
アンチノミーは、二律背反と訳されることが多い。本書は、アンチノミーは弁証的推理を行う際の理性の状態であり、純粋理性には自己矛盾が自然に出現するという。
本書はアンチノミーの命題を四つ挙げる。
(1) 時間と空間の限界説は有限か?無限か?
(2) 全ての物質は分解不可能な単純要素によって構成されるのか?
(3) 普遍的な自由は存在するか?全て自然法則に従うか?
(4) 宇宙の原因となる必然的存在者が実存するか?

時間と空間が科学的に有限であるにしても、人間の認識としては無限に等しい。数学的に無限と有限の境界を定義したところで、哲学的に解決できるものではない。人間の精神は自己矛盾からは永遠に逃れられない運命にあるのだろう。そして、精神の矛盾を否定すれば、人間の存在そのものを否定することにもなりそうだ。
アンチノミーは、時間と空間の条件下に支配された認識である。もし、こうした概念が自然的、必然的、絶対的な支配から解放された時、宇宙論に到達した純粋理性の存在を認めることができるのかもしれない。だが、人間の理性は、相対的であり、社会的であり、多数決的な性格を帯びている。純粋理性を求めたところで、人間の認識は実践的な関心にしか向かおうとはしない。人間の理性は建設的な意識を受け入れ、体系的に矛盾しないように認識しようとする習性がある。あるいは不都合な現象を見ぬ振りをすると言った方がいい。自由な認識の延長上には、ご都合主義がある。こうした自由は欺瞞なのかもしれない。先験的哲学において答えられる対象といえば、宇宙論的問題や自然科学の問題だけであることを、カントは認めていたのかもしれない。アンチノミーの存在は、哲学の死、もっと言うと純粋理性の安楽死を意味しているのか?

4. イデア論
認識論を語る上で、プラトンのイデア論を避けることはできまい。イデア論はアリストテレスが論じた悟性概念を遥かに超越しているように映る。イデアは、物の原型である最高の理性から流出して、人間理性に授かったものと考える。プラトンは、もともと理想的な理念を持った純粋イデアなるものがあったと考える。だが、人間理性はもはや本来の純粋な姿に戻ることはできない。プラトンのイデア論は、遺伝子コピーが完全ではないことを意味しているのだろうか?遺伝子コピーはある確率の低いところで障害者を生む。というより、どんな人間もなんらかの障害を持っていて、それが不完全性と言えよう。本来人間の持つ純粋理性というイデアは、だんだん悪徳を身に付けて悪魔へと変貌するのだろうか?法や宗教といった道徳規制の登場は、人間の悪徳を抑制するための手段として登場した。法の進化は、人間の悪徳の進化に比例するとも言えよう。知恵や知識とは、悪魔への道しるべなのか?人間は進化とともに認識を拡大してきた。だが、これは本当に進化なのか?退化ではないのか?イデアは生きていく個人の中でも変化していくように見える。泥酔者ともなれば記憶も薄れ、理念も薄れる。きっと、アル中ハイマーにも理想的な理念を持った時期があったに違いない。子供は早く大人になりたいと夢を見る、大人はいつまでも子供のままでいたいと夢を見る。

2009-11-08

"帝国主義論" レーニン 著

前記事の「菊と刀」が読みやすかったので、その訳者である角田安正氏に惹かれて本書も手に取ってみた。ましてや、ボリシェヴィキに惹かれたわけでも、共産主義に惹かれたわけでもない。
ちなみに、酔っ払いが解釈する共産主義とは、すべて平等で、すべての国民を幸せにしてくれる思想といったところだろうか。ひらたく言えば、「みんなの社会にする」ということである。そのためには、あらゆる私有財産を没収する。私的所有の概念をすべて取っ払う。つまり、欲望という人間の持つ本質までも拒絶する。下手すると、個性をも否定しかねない。この体制の矛盾は、欲望を捨てきれない脂ぎった人間が支配することである。最高の理性の持ち主と自負する輩が権力の中枢に居座り、巨大官僚体制の下で堂々と搾取が行われる。平和主義者が理想を崇め過ぎて戦争を招きいれるように、現実を直視しなければ悲劇となる。まだしも、人間の持つ本質を認めた資本主義の方が現実的と言えよう。そもそも、マルクス主義者たちはテキストの解釈権を党が独占したという経緯がある。それをマルクス自身が意図したかどうかは知らん。どこぞの教会のように、恣意的に解釈されることを拒むような思想がまともとは思えん。マルクスは、まさしくマルクス主義者たちによって悪者に仕立てられたと言ってもいいだろう。優れた思想にありがちな展開だ。創始者がどんなに天才であっても、自称継承者は凡人である。マルクス・レーニン主義と呼ばれることがあるが、マルクスとレーニンが同じことを主張していたのかも疑わしい。アル中ハイマーが解釈する共産主義とは、所詮この程度のものである。

本書は、「資本主義の最高の段階としての帝国主義」という論文からきているらしい。レーニンは、帝国主義を資本主義の最高段階として位置付け、その体制を猛烈に批判する。その思想の根底にはマルクス主義があるのは言うまでもない。だが、その解釈には昔から疑問がある。マルクスの言った「疎外」を解釈したければ、その著書「資本論」を読むのが一番だろうが、あまりにも大作でなかなか手の出せる領域にない。ただ、本書によって、マルクス自身の意図とは別にしても、マルクス主義者たちがどのように解釈していたかを垣間見ることはできそうだ。また、資本主義の弱点を指摘している点から、資本主義の理解にも役立つ。ただ、本書がここまで資本主義あるいは近代経済の欠点を暴露しながら、なぜボリシェヴィキのような思想に陥るのか?なぜ暴力的な社会主義革命運動を煽るのか?という疑問が残る。この疑問を探るには、時代背景を考察しないわけにはいかない。その根底には、ブルジョアジーとプロレタリアートの対立があり、そこにイデオロギー闘争へと発展した構図がある。本書は、資本主義批判書であるが、資本主義固有の問題ではなく、人間社会が抱える普遍的な問題を内包しているように思える。

本書とは少々ずれるが、ちょいとレーニン時代までの経済史を紐解いてみよう。
資本主義思想の根底には、宗教や伝統主義から脱皮した自由な経済活動がある。つまり、労働者の自立である。この自立をうながしたのが、キリスト教の予定説であるといった議論は、社会学者ヴェーバーをはじめ多くの専門家が支持している通りである。中世ヨーロッパの時代に、ローマ教会の堕落が宗教改革やルネサンスを呼び起したのは事実であろう。ただ、プロテスタンティズムが資本主義傾向を加速させたと解釈することに異論はないが、資本主義がキリスト教世界のみに生まれた独自の思想という行き過ぎた解釈があるのには抵抗がある。
ここでいう労働者は、商工業であって、農業だけが置き去りにされる。一般的に先進国では、農業組織の発展が遅れてきた経緯がある。食料は人間が生きる上での根本であり、農奴といった政治による支配的伝統が農民の自立を妨げてきたとも推察できよう。当初の商工業は資本を持った経営者と、そこで雇われる労働者によって構成される。当然、資本家側の権力が強い。したがって、経済活動は資本家階級相互間の自由競争によって活性化される。自由競争が激化すると、勝者と敗者に分かれ、勝者は敗者を吸収していく。巨大化した企業は、資本効率が高まり、ますます優位性を保つ。となると、一部の資本家階級が社会を仕切るようになり、労働者の奴隷化が進むことになる。優位に立った資本家階級は、政治と癒着して、その地位をますます強固なものにする。つまり、企業による独占や寡占といった状態が、政治への寄生や腐敗となっていく。巨大化企業体の中で労働者は「疎外」を感じざるを得ない。いや、資本家階級ですら巨大化し過ぎた組織の実体すら把握できなくなり、もはや何を所有しているのかも分からなくなる。これが、マルクスの言う「疎外」の正体なのかは知らん!
そもそも企業体には、資源資本と労働資本によって生産して、製品を売るという仕組みがある。その決済は銀行を介して行われる。そもそも銀行の役割は決済の仲介業務であったはず。やがて、資本の流通に目をつけた銀行は、金融資本と化し間接的に企業体を支配することになる。株式資本という形をとって、その保有率を増しながら巨大化した企業に役員を送り込む。持ち株会社によって独占や寡占という形態が現れるが、これは一般企業のみにとどまらず銀行自身にも及ぶ。レーニンが生きた第一次大戦前後では、資本家階級の中でも金融資本が台頭した時代であり、ロックフェラーやロスチャイルドといった金融組織が勢力を拡大し、欧米政府を震撼させた。その名残で、いまだにユダヤ系の金融支配という陰謀説の噂は絶えない。欧米列強国では、莫大な富を得た金利生活者を蔓延らせる。しかし、誰かが生産しなければ生活は豊かにならない。そこで、隷属国で生産された商品を先進国に流通させることによって富を得る海外政策が展開される。つまり、独占と寡占によって巨大化した企業体が政府と癒着して植民地政策へ乗り出した結果、帝国主義という形態が生まれた。植民地支配は原料争奪戦である。列強国が競って新たな土地を求めれば、やがて植民地が枯渇し、植民地の奪い合いとなる。そこには、一部の列強国による世界分割という構図がある。
第一次大戦の発端に目を向ければ、バルカン半島をめぐった陰謀が渦巻く。古くからバルカン危機は、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャといった民族問題を抱えていた。ハプスブルク家の謀略は、セルビアをオーストリア=ハンガリー帝国に従属させようとする。もはや、資本主義で培われた自由競争原理は、まったく正反対の独占の概念へと変貌した。そこで、労働者階級は自らの権力を復活させるために立ち上がらなければならないと叫ぶ。大方の流れはこんなところだろう。
そこで、レーニンが「バーゼル宣言」で弱い立場にある労働者の結束を呼びかけたのは意義深い。とはいっても、インターナショナルという組織は平和主義を唱えながら暴力革命を煽るのだが。あらゆる平等を謳った団体の結成当初のスローガンは美しい。しかし、平等を崇め過ぎて宗教的な洗脳力を発揮して政治団体と化す。そして、結果的に、弱者を利用して毟り取る権力者を育ててしまう。これが社会のタブーとなり聖域化すると、もはや手に追えない。

本書は資本主義の暴走による独占権益が官僚体質と結びつき寄生と腐敗を発生させたと指摘している。だが、社会主義の暴走が寄生と腐敗で巨大官僚体制を築き、共産主義国を崩壊させたことは見逃せない。これはどんな体制や組織においても起こり得る現象で、ヴェーバーが指摘した官僚化の法則とも言うべき理論が的を得ている。いずれにせよ、イデオロギーの暴走は社会に害をなすことの証であろう。どんな社会システムであれ、常に検証され続けなければ健全な状態を保つことは難しい。
第二次大戦後、植民地解放運動が広まり、資本主義国は帝国主義を捨てた。これも、ソ連という巨大な社会主義国が経済的に成功するかに思えたからであろう。ソ連の計画経済は、1960年代までは福祉向上に貢献しているように見えた。西側で左翼政党が一定の勢力を保てたのも、ソ連の存在が大きい。資本主義の暴走を抑止するという意味では、ごく少数派で共産党が存在するのも意味があるかもしれない。となると、ソ連崩壊とともに抑止力を失ったと見ることもできるわけだが、現在ではその暴走が市場原理主義という形で現れているのだろうか?当時と似通った状況に映るのは、巨大な金融資本が蔓延るところである。資本主義が健全に機能するためには、本当の意味での投資が定着する必要がある。だが、実際は投機が煽られる。帝国主義熱は、現在の投機屋による金融資本熱にも通ずるものがある。経済システムが特定の金融組織に依存度を高めるということは、事実上、金融植民地化を意味する。資本主義国を代表するアメリカは、総収入90%以上を20%の富裕層が独占すると言われる。これが健全な資本主義の姿だとは到底思えない。対して、日本は一般的に資本主義と言われるが、高度成長期からの日本型社会主義といった側面がある。それは、「一億総中流」という言葉からもうかがえる。現在では、小さな政府が唱えられ、なんでも民営化の方向へと進む。この流れが間違っているとも言えない。少なくとも現在の政府は大き過ぎる。いや、政府は機能せず、官僚が巨大化し過ぎたと言った方がいい。日本が資本主義と信じていても、むしろ旧ソ連体制に似ていると疑っている人も少なくないだろう。

なんとなく、植民地の資本の流動が現在の途上国の資本の流動と重なって映るのは気のせいか?例えば、先進国よりも途上国の方が、賃金が安く労働資本は効率的に運用できる。大企業が生産拠点を途上国に移すのも理解できるが、やがて途上国も労働者の生活水準は上がる。そして、新たな途上国を求めることを繰り返せば、いずれ地球上の労働資本は限界点に達するだろう。これは急激な人口増加を無視して議論することはできない。つまり、地球資源の枯渇と似た状況にある。経済発展がこのままムーアの法則で加速するとしたら、資本の枯渇もそう遠い未来ではなさそうだ。となると、資本主義は拡張経済から分配経済へと移行するだろう。20世紀までは、国家間や企業間の格差が、資本の流れを円滑にしてきた。だからといって、わざわざ格差を拡大する政策をとれば暴動が起こるだろう。先進国では付加価値の高い製品が輸出され、後進国では資源資本や労働資本を供給するという関係は、後進国が豊かになれば資本の流れが均等化するだろう。では、最終的に資源資本を持った国が優位になるのか?いや、技術革新は資源や資本の概念をも変えるだろう。化石燃料に頼らないエネルギー政策を取ることが優位性を保つ鍵となるかもしれない。20世紀までは世界経済を自由の概念によって牽引してきたが、21世紀は平等の概念に少し重きを変えるのかもしれない。いずれにせよ資本主義の改良版が求められるだろう。極端に理想論へ移行するのは実践的ではない。人類には、皮肉にも理想を追いかけることによって、逆に社会を暴走させてきた歴史がある。本書は、資本主義の本質には私有財産の神聖化があるという。その通りであろう。しかし、社会主義が強すぎて国家が私有財産を取り上げれば、巨大官僚支配となる。この点では、資本主義よりもむしろ共産主義の方が質が悪い。もし、完璧な政治体制があるとすれば、それは神による独裁であろう。ただ、政治指導者たちが神になろうとするから困ったものだ。人間社会とはおもしろいもので、支配階級が自らの道徳観が最も優れていると自負した時に、最も醜い政治体制が完成する。

1. カウツキー主義批判
レーニンのドイツ社会民主党の理論家カール・カウツキーに対する攻撃は尋常ではない。その性癖はスターリンさながらである。ボリシェヴィキとは、そうした性癖をもった連中ばかりなのか?本書は、ほとんどカウツキー主義の批判書と言ってもいい。そして、第二インターナショナルを堕落と腐敗の産物と蔑む。第二インターナショナルとは、第一インターナショナル(国際労働者協会)の後継組織で、ヨーロッパ各国の労働組合と社会主義政党が結成した労働団体である。この団体は、マルクス主義に基づくプロレタリアートの組織として発展した。そして、指導者エンゲルスが亡くなると日和見主義者が指導者になったという。ちなみに、第三インターナショナルは、別名、共産主義インターナショナルなのだそうな。カウツキーは資本主義の崩壊を唱えている点でマルクス主義的であるが、プロレタリアートを軽視した点で、マルクス主義の理論的誤謬を犯していると批難している。そして、言葉の上では社会主義を唱えながら実は社会主義的排外主義であって、彼らが唱える社会平和主義や世界民主主義は欺瞞であるという。ここには、真のマルクス主義こそが共産主義であり、ボリシェヴィキだと主張しているところに、レーニンの傲慢さがうかがえる。実際に、ドイツではビスマルク首相の時代に社会保障政策を唱えている。こうした流れが、ドイツの労働者を資本主義の改良主義へ導いたとも言えよう。だが、帝国主義を目の当たりにすれば、資本主義の暴走に歯止めがかけられないと考えて、革命を煽るのも分からなくはない。そして、ボリシェヴィキが活躍したのが資本主義の後進国ロシアであったのも、まだロシアなら救済できると信じたからかもしれない。

2. 帝国主義批判
第一次大戦当時、帝国主義によって狂気の沙汰となった軍拡熱が高まり、物価の高騰を招いた。そして、列強国の国民は互いに反目しあうようになる。本書は、鉄道建設、石炭産業、鉄鋼業といった資本主義を牽引した工業を、ブルジョア民主主義文明の象徴と蔑む。そこには、カルテル、シンジケート、トラストといった資本家による独占形態が現れ、国内市場を分割して占有した様子が語られる。そして、必然的に独占団体同士が世界的に結びつき、国際カルテルを結成する事態になったという。更に、資本主義では農業は育たないと主張している。確かに、工業が資本主義を牽引してきた。だが、ボリシェヴィキの指導下で農業組織が進化したとも思えない。植民地支配もまた、資本主義が生み出した産物だと主張している。まさに、鉄道建設は資本主義的奴隷制によって支えられながら、私的所有と結びついてきた。しかし、強制労働という意味では、共産主義も負けていない。資本主義でなくても、支配階層の欲望に寄生と腐敗が結びつくのは人間の本性であろう。領土の奪い合いで見られる世界分割、植民地争奪戦、経済的勢力圏を求める闘争、これが資本主義の最終段階であるという。帝国主義は資本主義の振り子が極端に振れた結果とも言えよう。では、社会主義が極端に振れた結果が共産主義で、その最たるものがスターリンというわけか。ボリシェヴィキによってスターリンが登場したわけだが、レーニンがこの人物の危険性に気づいていたことは明白である。スターリンの失脚を企てて失敗したが、こうした行動はレーニンが社会主義の暴走にも危険性を感じていたからかもしれない。

3. 帝国主義における銀行の役割
いつの時代でも、銀行の役割が議論される。社会で最も道徳的な立場が要求される業種の一つでもあるが、伝統的に暴走する性格を持っているようだ。人間はお金が絡むと目の色を変える。それも、お金には実体がないという意識から不安に駆られるのだろう。だから、大金を持ち過ぎても欲望に憑かれる。現在では、銀行に依存しない経済システムの構築が囁かれるのも皮肉である。銀行は、決済の仲介業務から離れると常に批判の対象となる。まったく生産性のない業種が、資本主義の中枢を握るという経済構造があり続ける。本書は、銀行の独占化が帝国主義を強化したと指摘している。そこには、銀行は投資の仲介ではなく、投機を煽る巨大組織となった様子が語られる。旧来の資本主義では、銀行は自由競争の調整機関である証券取引所として機能していたという。証券取引所の役割は、企業価値や貨幣価値といった物質的評価を正常に安定させることにある。この仕掛けは、人間のできない価値評価を自然原理に委ねたと言ってもいいだろう。ところが、銀行が優位性を保つために巨大な資本を集めた結果、資金流入を独占し、資金を頼みにする企業を事実上傘下に置くことになる。株式保有率を高めれば、そこに役員を送り込み、そこに政府高官が癒着する。ドイツでは、巨大銀行の取締役に、国会議員や市会議員を見かけるのは珍しくなかったという。また、経営能力を超えた資本の流入によって、経営者がギャンブル的な事業に乗り出す光景がある。そこには、貸借対照表に現れない一般投資家を欺いた工作行為がある。おまけに、新規事業に失敗しても、機を逸することなく株式を売り抜ける。当時、貸借対照表の実態を読みにくくする手法が横行したという。本来、銀行は産業界の裏方のはずだが、資本主義では金融資本の強化が事実上国家を支配したと指摘している。「株式所有の民主化」と言ってしまえば聞こえはいいが、資本の民主化は金融寡占制の威力を増幅する便法になっているという。経済危機で、政府が救済するのは破産に追い込まれた富裕層であることは、いつの時代も同じようだ。

2009-11-01

"菊と刀" Ruth Benedict 著

アル中ハイマーの購入予定リストには、ずーっと前から亡霊のように居座る奴らがいる。本書もその中の一つ、これがどういう経緯でリストに挙がったかは記憶にない。

「菊と刀」は、いろんな訳版があるようだ。本書は訳者角田安正氏による光文社版である。第二次大戦中、文化人類学者ルース・ベネディクトは、アメリカ情報局の依頼を受け日本人の気質を研究した。そこには、戦時中でもあり、研究者として現地調査ができないことを悔しく思っている旨が語られる。参考としたのは、在米日系人と日本文学や歴史文献などだという。こうした制限の中で、これだけの分析がなされるのには感服せざるを得ない。本書は、あくまでもアメリカ人向けに記されたアメリカ人による日本人文化論である。
当時、日本に住んだことのある欧米人が書き残したものは、一般的に貧弱かつ皮相的だったという。したがって、欧米人の文献を参考にすると、むしろ誤った知識を展開すると警戒している。本書の分析は、時折ドイツ人やフランス人やロシア人との比較を交えながら、主にアメリカ人との対比の中で展開される。こうした比較分析の難しいところは、観察者が観察される側を見下ろしていると誤解されるところであろう。相対的な関係からは、文化の優劣が強調される感がある。こうしたわけで、ベネディクトへの批判が少なからずあるのも理解できる。鋭い指摘も多いが、事実誤認という欠点も見られるのは仕方があるまい。C・ダグラス・スミスによると、アメリカ人が大人であるのに対して、日本人は子供で成長過程にあると解釈しているという。日本の評論家にも似たような発言をする人がいるが、それは少々浅はかであろう。本書には、アメリカ人の自国民中心主義と、それを他国に押し付ける有難迷惑な態度を批判する様子もうかがえる。日本を命令によって自由で民主主義的に創造することは、アメリカの手には余ると述べている。そして、フランスのド・トクヴィルの言葉を紹介している。
「アメリカはさまざまな長所があるにもかかわらず、真の風格を欠いている。」
トクヴィルによると、アメリカ人よりも日本人の価値観の方が納得できるかもしれないと語っているそうな。法の力を借りたところで慣習として根付かなければ意味をなさない。ベネディクトはそれを理解しているように思える。人間が自らを客観的に評価することは難しい。身近過ぎて見えないものも多くある。日本文化に見られる行動様式を外国人の目で見た考察は、重要な手掛かりを与えてくれるだろう。そして、比較の中で相対的に語ることの難しさを改めて感じさせてくれる。なるほど、日米両国でロングセラーを続けているのもうなずけるわけだ。ちなみに、アメリカでは、ベネディクトの主著は「文化の型」と見なされているらしい。

ところで、「菊と刀」というタイトルに込められる意味とは何か?当初、菊の花に自然の美を求める心と、刀には好戦的な性格を表している印象を持っていた。時折、欧米人が口にする日本人の二重人格性である。だが、読み続けていくと、そう簡単には片付けられないように思えてくる。「菊」の美しさには、名誉や恥や自制心が象徴され、「刀」には、輝きを放つ武士の義務を全うする強い意志が現れる。本書は、日本人の自己責任の解釈は徹底的で、アメリカ人には遠く及ばないと語っている。したがって、「菊」と「刀」を対立関係として見るのではなく、なんら矛盾しない関係に映る。また、日本人の文化的倫理観は、アメリカよりもヨーロッパに類似したところがあるように思えてくる。本書も、日本人の価値観をドイツ人の名誉やスペイン人の勇気、あるいはナポレオン軍の誇りと重ねて論じている。ただ、最も性格の反するアメリカによって占領政策がなされたのも、歴史の皮肉というものか。確かに、本書には欠点も目立つ。だが、戦争相手の研究という意味では、アメリカは最低限の情報収集に取り組んだとも言えよう。対して当時の日本政府が、戦争相手の文化をどこまで研究していたのかは疑問である。日本には情報を疎かにする伝統がある。既に情報戦で負けていた証とも言えよう。
日本では、太平洋戦争を軍部の暴走と解釈する人が多いだろう。だが、そう簡単には片付けられないような気がする。軍部を含めた政治家たちが、アメリカの工業力に勝てると真面目に考えていたのか?当時の政治家はそれほど馬鹿だったのか?ポーツマス条約や海軍軍縮条約といった不公平条約への不満も見逃せない。敗戦を覚悟して国の威信を賭けたとも言えよう。また、国民感情が教育を含めて扇動されたのも事実であろう。平和論を唱えようものなら国賊と罵られる時代である。明治維新から急激な近代化にともない、天皇を中心とした神の国というスローガンの元に絶対に戦争に負けないと洗脳された。となれば、徹底的な敗北を喫するまで戦争を続ける運命を背負わされたのかもしれない、などと発言すると批難もされようが、酔っ払いにはそう思えてならない。そもそも、自国を神の国と崇める時点で、他国を蔑んでいる。現代風に言えば、アメリカが自らの理念の崇高さに酔いしれて強大な軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認し、国連を無視するといったところだろうか。しかも、その軍事行動は世論操作によって扇動され、おまけに、それを無条件で支持する無責任な国が取り巻く。こうしてみると政治手法は、現在も昔も大して変わっていないように映る。

欧米人は、イデオロギーの鞍替えや思想の転換を見ると、その人の人格の変化を再評価するという。まさしく、日本は太平洋戦争の敵国に対して、占領下では友好的な態度に変貌した。民族滅亡に瀕するまで戦い抜くという意志は、天皇の終戦宣言であっさりと方向転換してしまう。そこには西洋式レジスタンスのような態度は現れない。これにはアメリカも驚いたであろう。本書は、こうした一変した態度のできる国民の文化的倫理観を考察する上で、宗教的考察はもちろん、子育ての方法といった慣習にまで踏み込む。表面的には仏教国だが、その中身は仏教的でも儒教的でもない。煩悩を遠ざける一方で、五感の愉悦を楽しむ享楽の解放がある。極東に位置する日本は、あらゆる宗教を最も冷静な目で眺めることができると解釈することもできよう。無宗教と批難されることもあるが、これはむしろ良いことではないだろうか。無宗教でも信仰がないわけではない。一定の信仰に凝り固まらず、柔軟に思考が変えられる特長がある。悪く言えば優柔不断でもある。政治家の言葉はころころと変わり、もはや威厳も保てないでいる。
日本人は子育ての段階から、周囲の目を意識するように教育される。そこには、泣き虫がよその子と比較されて説教されるといった恥じらいの様子が再現される。そして、世間体を意識する風潮が、嘲笑われたり仲間外れにされることを極端に嫌うと分析している。こうした土壌は陰湿ないじめを助長するのかもしれない。
その一方で、日本には武士道精神に代表される義理、恩、礼節、誇りといった倫理観がある。これは武士階級に限ったことではなく、全ての階級に渡って恩返しのできない人間は非人格者と見なされ、社会から軽蔑される風習がある。世界的に見ても「義理」ほど稀な道徳観はないという。日本人は秩序と階層的な上下関係に信頼を置くが、アメリカ人は自由と平等に信頼を置く。自己犠牲を強いてまで組織の維持あるいは一員になろうと努力する姿は、自由を信奉するアメリカ人にとっては理解に苦しむだろう。
戦後の日本の方針転換は、なにも人格が変わったわけではない。その国民気質は、良く言えばバランス感覚、悪く言えば多重人格性のようにも映るだろう。そもそも、人間を雁字搦めにする宗教的な規律を必要としない。本書は、日本の強みは失敗した事実を一蹴して方針転換できる気質にあると語る。そして、世界の尊敬を得ようとする国民性があり、感情を押し殺し、欲求を戒め、不文律の求める自己規律を受け入れる能力があるという。また、義理と人情、忠と孝、義理と義務の板挟み、日本人はこの徳目と徳目の板挟みの中で生きていると指摘している。こうした性格は、良きにも悪しきにも受け継がれているのだろう。まさしく、現在の官僚政治がこの呪縛に嵌る。仕事仲間の義理を貫き、国民への正義を犠牲にする。賛同しない者を不誠実と蔑み、自らの斡旋を中立独立と叫ぶ。正義にかられて偽証できない者に自重しろと圧力をかけ、明らかに一般社会とは違った価値観の中で議論が繰り返される。彼らの論理は、日本人の慣習の悪しき解釈だけを大事に継承しているかのように映る。

本書は、日本の家庭が家族を社会から守る砦になっていないと指摘している。それだけに、競争の原理が働くと日本人は無防備に曝されるという。日本では、競争の原理が合理性となる可能性が低いだろうと。自由を崇めると自由競争が激化する。アメリカ社会は、まさしくその自由競争主義によって支配される。その結果、何が生じたか?未曾有の金融危機は何を意味するのか?本当の意味での合理性とは何か?一部の階級層に国民の資産が集中する社会が合理性に基づいているとは到底思えない。自由とはやっかいなもので、自己管理や自制のきかない社会では合理性を発揮できない。国民の慣習の違いによっても合理的手段が違ってくるだろう。経済危機に陥っても、他国の実施する政策の意味を理解せずに、真似するだけでは効果は望めない。日本には、皆がやることに追従していないと不安にかられる風潮があり、組織依存度も異常に高い。自己責任と叫びながら、組織の指示を仰がないと動けない。こうした気質は、あらゆる組織において官僚体質を強固にする。そうした反省を踏まえて、本書は現在にこそ存在意義があるように思える。

1. 民族分析としての社会学
多くの東洋人と違って日本人は文章を綴って自らを曝け出す衝動があるという。その文章も、恐るべき率直であると評している。伝統的に日本文学は欧米でも評価が高いようだ。社会学で民族を分析する時、重要なことは一定の冷徹さと寛容さが必要だという。つまり、善意の人々からの批難を浴びるような冷徹さと、同じ人間であるという寛容さの両面である。人間には、固有の理念と共通の理念が共存する。ただ、イデオロギーってやつは、振り子がどちらかに思いっきり振れないと気がすまないようだ。日本人やアメリカ人といった枠組みだけで、画一的な世界を想像することは無理であろう。よく日本人の意識が欧米意識と違っていると慌てふためく評論家を見かけるが、欧米意識だって一つであるはずがない。社会学者や心理学者は意見と行動を統計的に捉える傾向があり、経済学者はもっぱら分布図に気を取られる。アンケートや世論調査には、ある程度の傾向が現れるだろうが、それが絶対ではない。微妙な質問の仕方によっては方向性も変わるだろう。政治手法はもっぱらプロパガンダ手法に頼る。国民性を分析すれば有効な宣伝文句も発明できる。そして、歴史の解釈も巧みに国家間の政治戦略として使われる。人間社会とはおもしろいもので、「民族の誇り」を掲げた独裁者が異民族を迫害する一方で、「世界は一つ」と提唱する平和主義者が固有の民族意識を無視して平均化した価値観を押し付ける。

2. 占領政策と天皇
占領政策において天皇の処分をどうするかは、頭を悩ませたであろう。憲法上、天皇が直接支配していたわけではない。だが、統帥権が微妙な位置付けにある。外務省に交渉権があるといっても、はるかに軍部の権限の方が強い。天皇と政府の二重構造は、その源泉を鎌倉時代から南北朝時代あたりの中世日本に遡って考察がなされる。それも当然であるが、この二重構造体制をまともに説明できる人は少ないだろう。天皇に対する尊敬の念は、ヒトラーへの崇拝と同列にはできない。ドイツ人がヒトラーを戦争責任者として扱うのに対して、当時の日本人にとっては天皇と戦争は別次元にある。天皇を神と崇めたところでキリスト教的な神とは意味合いがまったく違う。だから、天皇の人間宣言をあっさりと承諾できたのだろう。当時、天皇が戦争を続行しろと命令すれば、民族が亡びるまで抵抗を続けたかもしれない。だが、天皇が敗戦を受け入れれば、国民があっさりと受け入れる脆さもある。となれば、アメリカの軍事戦略は天皇が戦争を止めると発言するように仕向ければいいはず。ただ、それではアメリカの世論が納得しないだろう。アメリカが、天皇に戦争責任を追及しなかったのは、日本文化を研究していた成果とも言えよう。結局、総合的な戦略研究や分析がなされた国や組織が、最終的に競争に勝利するということであろうか。
徳川幕府末期、世界の列強国に対抗するために国家の団結が迫られていた。幕府の攘夷派も倒幕派も、この点では一致している。宗教で団結できない日本は何か拠り所にする象徴が必要となる。天皇制の下での国家体制を築いた明治維新当時の政治家たちの眼力は鋭い。大日本帝国憲法が天皇の神聖不可侵を定めている点は注目すべきであろう。
中世日本において、律令制が天命思想を前提としているのに対して、日本では独特の解釈がなされた。天皇は律令制の皇帝としての役割と神聖な王としての役割がある。中国との交易を継続するために、象徴的な天皇家を絶やすことができなかったと考える歴史家もいる。中国の制度を取り入れて失敗したものに、後醍醐天皇の「建武の新政」がある。中国式の官僚制は日本の封建社会には馴染まなかった。ところで、現在では、日本古来の封建制から受け継がれた世襲制に加えて、古代中国式官僚制が蔓延り、それが欧州風議会政治の元で運営されるところに訳の分からんシステムがある。日本人は、何もかもミックスして新しい風潮を生み出す性質があると言われるが、それで硬直化してしまっては頭が痛い。これも世界で類を見ない日本独特の政治体制というわけか。

3. 戦時中の慣習
一般的に死傷者と投降者の比率には一定の規則があると言われる。これが当時の日本人に当てはまらないことは想像に易い。学業優秀な若者達が、自らの思考を放棄して宗教的に洗脳されたわけではない。民衆を含めた集団自決などは軍の強制も多少は影響しただろうが、もともと集団意識に個人犠牲という国民性がある。こうした行動を欧米人には理解できないだろう。どの国も戦争を正当化する。どこの国にも言い分があるから戦争状態となる。日本が、侵略国に倫理観を押し付けたのも確かであろう。愛国心とは実に微妙な位置にある。自己愛が強すぎると他人を認めないことにもなる。「大東亜共栄圏」という言葉を用いなければ、果たして日本の世論を動かせただろうか?欧米では、日本人の過度の精神主義は、貧しさからくる言い訳、あるいは、欺かれた感情の幼稚さと解釈する風潮があったという。古くから日本には質素で勤勉を美徳とする文化があり、これに精神論が加われば煽りやすくもなろう。
また、病気に対する心情にも文化的違いが現れるという。アメリカ人ほど医者に頼る習慣があるのも珍しいのだそうな。アメリカでは、病人に対する思いやりが、恵まれない人に対する救済措置よりも優先されるという。こうした傾向は元ブッシュ政権に代表されるだろう。日本兵の中に異常な精神主義が蔓延っていたのは否定しない。負傷者が手榴弾などで自決する姿も現れる。これを同胞に対する残虐行為と解釈する欧米人も少なくないが、これには抵抗を感じる。足手まといになりたくないという責任の表れでもあるから。日本兵には降伏の恥があった。その立場は家族にも及び、面目を失うと社会的な負い目がある。したがって、アメリカ人捕虜を恥知らずと軽蔑する。ところが、その慣習も徐々に崩れていったという。アメリカ人に対する疑念を忘れ、日本人捕虜の中には誠意ある者も現れ情報収集が円滑になったという。このような豹変振りは、欧米人には理解しがたいものがあるようだ。軍部に騙されていたという意識があったのかもしれない。人間は、信じていたことと逆のことが真実だと知ると簡単に意識改革できるということか。

4. 汚名をそそぐ
日本が日露戦争で勝利した時の写真を見ても、どちらが戦勝国なのか区別がつかないという。ロシア軍人は武器を剥奪されていない。乃木将軍とステッセル将軍は握手して、ともに勇敢さを称えたと伝えられる。そうした武士道とも言える礼儀を持ちながら、日露戦争から太平洋戦争までに日本人は豹変したと言われる。しかし、これは何も矛盾したことではないと指摘している。太平洋戦争では「鬼畜米英」と叫んで猛烈な反米思想を唱えた。こうした例は日露戦争や日中戦争には現れないという。これは、ポーツマス条約と海軍軍縮条約に果たしたアメリカの役割に恨みをもったことからきていると分析している。日本人の倫理観には、汚名をそそぐという概念が根強くあったのかもしれない。その例を「忠臣蔵」を持ち出して、お家断絶の不名誉を被った復讐と公儀への抵抗で分析している。討ち入りを眺めれば、奇襲攻撃と重ねることもできよう。だが、アメリカ人には卑劣な行為としか見えない。そして、普段礼儀正しい日本人が、一旦不名誉を被った相手には、手段を選ばす攻撃的になる性格があると指摘している。仇討ちを成し遂げた武士が華やかに切腹した一方で、影では家族や親戚は辛い運命を背負わされる。名誉のためならば家族の犠牲も惜しまないという習慣は伝統的にあったのかもしれない。借りを返すといった意識は日本人は強いということか?こうした倫理観を真珠湾攻撃と結び付けている。

5. 応分の場
日独伊三国同盟の前文には、次のような一節があるという。
「日独伊三国の政府は、政界各国に応分の場が与えられることこそ恒久平和の前提条件であると考える。」
また、真珠湾攻撃に際しても、ハル国務長官宛ての文書には、次のような一節があるという。
「各国が世界の中で応分の場を得られるように取り計らうことは、日本政府の不変の方針である。」
ここには「応分の場」を与えられなかった日本人の憤慨する性格が現れていると分析している。ただ、それは欧米と同等の権利を要求しただけのことで、現代ではアメリカ人の持つアメリカ中心主義の方が強烈である。また、階級制を基盤とした民主主義が日本流であって、欧米流のイデオロギーを基盤とした解釈は通用しないと指摘している。階級制と言っても、あからさまに階級差別があるわけではない。それは「応分の場」という概念であって、身の程をわきまえるといった感覚だという。日本人には敬語や謙譲語を相手によって使い分ける習慣がある。性別や世代、家族や組織の上下関係に道徳律がある。これを階級制と表現するところに少々違和感がある。また、大東亜共栄圏の、日本は兄で他国は弟であるとした思想を、長子相続制度と重ねている。

6. 戦後の政策
戦後、明らかにドイツやイタリアと違った政策をとった。それも日本の官僚機構を活用している。占領政策では、日本流の民主主義を土台にした方が、国民の自由を拡大しながら福祉を確立するのに都合がよいということだろうか。現在では、戦後政策が官僚体制を強固にしたと批判する評論家も少なくない。日本社会では、階層的秩序によって高い地位を占めた人間が傲慢な態度を顕にして、自らの恣意で権力を行使することはないという。最高責任者が実権をふるうのではなく、顧問団や黒幕が舞台裏で暗躍するというのだ。なるほど、一昔前まで総理大臣は黒幕に操られていた。各国代表は黒幕と直接交渉する動きがあった。今もか?その一方で、権力を行使する黒幕が明るみになると、世論から厳しい目が向けられる。私利私欲の追及に走る高利貸しや成金といった利益主義は顰蹙を買う。また、詐取や不公正に対して厳しい反応を示す。だが、そうした場合でも決して革命家と化すことはないという。西洋の論者は、日本人の大衆にイデオロギー的な大衆運動を期待したという。戦時中は日本の地下組織を過大評価して、降伏時に主導権が移るのを期待し、終戦後の選挙で急進的な勢力が勝利するだろうと予言したという。しかし、「応分の場」をわきまえた国民からは西洋的な革命運動は起こらないと指摘している。なるほど、社会保険庁の問題などは暴動が起こっても不思議ではない。日本人の感覚も西洋化が進んだので、今後、暴動が起こる可能性は否定できないだろう。ただ、高齢化が進むと性格が温和になって、意識は相殺されるかもしれないが。

7. 自己鍛錬
文化における自己鍛錬の方法は民族の特徴を表すもので、外国人にはとかく愚行に思えるものである。昔の日本は、自己鍛錬の場が日常生活に浸透していた。精神修行の根底には自制心や克己心がある。これは大和魂といったところだろうか。伝統的に個人的欲求を犠牲にすることに美徳を求めるところがある。ただ、アメリカ人には自虐に映るだけだろう。妻は夫のために人生を犠牲にし、夫は一家のために自由を捨てる。本人はそれを犠牲とは思わない。アメリカ人にだって、子供に対する愛情は無条件にあり、家庭の幸せを願うはず。ただ、日本の倫理観は、その枠組みが大きな組織にまで広がる。雑念を取り払い、ひたすら物事の本質を見極めるために鍛錬する。現在においても、仕事で努力するのはその能力を伸ばそうとするだけではなく、人生の本質を見極めるためと考える人も少なくないだろう。柔道を学ぶのは、強くなりたいという願望だけではない。柔道から人間の本質を学ぼうとする。達人や匠の世界には、そうした別次元に達する何かがあるように思える。こうした意識は、キリスト教でいう予定説にも通ずるものを感じる。与えられた職業は神によって運命付けられ、それを全うしようとする。人間に神の定めたものを知る術はない。したがって、ひたすら勤勉に励むしかない。神の信仰から悟りのような境地を求めるといった感性にも似ているような。

2009-10-25

"思考の整理学" 外山滋比古 著

ちょっと古い本だが、なぜか目立つように陳列される。宣伝文句には「1986年発売以来の超ロングセラー!」とある。完全に立ち読みしてしまったが、本書は是非我が家の本棚に並べておきたい。ほとんど共感できるからである。酔っ払いは、寂しさを感じながら同調者を求めているのだろうか?文章の流れには文学的な雰囲気さえ漂わせ、なんとなく癒される。いずれ再読するのは間違いないだろう。

知識の整理と思考の整理は違う。思考の整理の方がはるかに難しいように思われる。知識の整理はある程度の体系化が可能であろう。知識は、分類や階層化によって構造的にまとめることができる。現在ではコンピュータを利用すれば検索も容易にできる。だが、思考の整理となると事情は一変する。その有効手段を見つけるのは難しい。どちらも、抽象化の概念は必要であろう。伝統的な学校教育では、知識を教えても思考方法を教えることはない。にもかかわらず、人間はなぜか独自の思考方法を身に付ける。それは試行錯誤の中から会得するのであろう。人間は、幼児期に原始的思考というものを形つくる。思考の論理や法則性には、個人の経験則によって癖のようなものがある。人間の理念は十人十色で、合理性は別人からは不合理性と見なされる。したがって、思考の方法論が個人によって違ってくるのは自然である。思考を整理するのに文章を書いてみるのも有効であろう。書き出してみると、意外と理解していないことに気づかされる。一つの手段として図式化するのも有効であろう。おいらは言葉の関連図を書く癖がある。独自のマインドマップとでも言おうか。独自といっても、なんら難しい法則があるわけではなく、誰でも直感的に伝わるような表現を心掛け、その法則も気まぐれに従う。また、自分の思考を他人に説明しようとすると、いつのまにか自分の思考を整理していることに気づかされる。思考の整理に、プレゼンテーションの重要性を意識している人も多いだろう。
いずれにせよ、思考の整理方法で体系化できる黄金手法など存在しないだろう。そして、思考を洗練するには、ひたすら検証を繰り返すことだと思っている。本書は、こうした感覚を持った人間には惹かれるものがある。タイトルに「思考の整理学」と銘打っているが、そこに例題として用いられている手段はあるにせよ、体系的な技術や方法を伝授しようというものではない。思考の本質に迫ろうとすれば、抽象的にならざるを得ないし、哲学的思考が現れるのも自然であろう。本書は、物事を考えるとはどういうことか?思うことと知ることは違うのか?そうした素朴な疑問をあらためて考えさせられる。アル中ハイマーは、本書がしめくくる、このフレーズにいちころでなのだ。
「人間らしく生きて行くことは、人間にしかできない、という点で、すぐれて創造的、独創的である。コンピュータがあらわれて、これからの人間はどう変化して行くだろうか。それを洞察するのは人間でなくてはならない。これこそまさに創造的思考である。」

さて、今宵も酔っ払いの精神の動きに任せて、能書きを垂れてみるかぁ。

1. グライダー型と飛行機型
世間には、実に多くのハウツウものが氾濫する。その中で参考にできるのは失敗例であって、成功例には偶然性が潜むことを意識しておく必要がある。何々学校というものが大盛況なのも、新たに知識を得るために教師のような存在に頼るのが手っ取り早いからであろう。そして、無条件で教材が提示されれば、教材選びという面倒な作業から解放される。だが、あらかじめ教材が用意されるのと、自分にあった教材を最初から探し出すのとでは、意味が違う。教材の探索には、思考の試行錯誤が繰り返される。おいらは、新たな学問をしたければ、独学が一番心地良いと思う。独学は必然的に読書する。そして、散歩するかのように試行錯誤の中を漂いながら、具体的な手段を模索する。なによりも、誰にも指図されないのがいい。知識は獲得するまでの過程にこそ意義がある。つまり、最初から教材が与えられるということは、学問の醍醐味を省略していることになる。知識に到達するまでの思考を省いては、人生も味気ないものとなろう。そう言いながら、かつて英会話学校へ通ったことがあるのだが...よくセミナーにも参加するし...
いい歳をした大人が、なんでも手軽に教えてもらえると考えるのは、学校教育の弊害と言えよう。学校教育では知識を記憶することに没頭する。しかし、記憶は歳とともに薄れる。あらかじめ教材が用意され、情報探しで思考することを放棄させる。おまけに、重要なポイントが最初から示され、何が重要なのかを思考する過程をも奪う。何が重要なのか個人によっても観点が違うはずだが、学校教育の観点は試験のみである。問題はすべて学校側で用意される。だが、社会では問題は突然わいて出て、おまけに解答を知っている者は誰もいない。この答えの見つからない問題と対峙しながら、妥協という解決が求められる。
国語では解答が一つしかなく、文学作品の作者の意図も一方向に誘導される。歴史では、教師の解釈が強制される。数学では、有効な解法を一つ提示すれば、それに皆が群がる。そして、すべてが暗記科目となる。こうした傾向は社会現象にも見られる。世論は一方向に扇動され、違った解釈を持つものは不安に駆られる。こうした流れは、一時的にエントロピー増大の法則に逆らっているように映る。しかし、事象に対する後の社会的評価や歴史的評価は、時代の経過とともに変化する。社会を生きる上で、紋切り型の知識はあまり役に立たないことは、ほとんどの人が経験によって認識しているだろう。だからといって、知識を蔑むものではない。知識がなければ思考することも難しい。こうした視点を、本書ではグライダー型人間と飛行機型人間の対比で語られる。グライダーも飛行機も空を飛ぶ姿は似たようなものである。むしろグライダーの方が音も静かで優雅である。しかし、グライダーはエンジンが無いので、自ら舞い上がることができない。そして、学校はグライダー型人間の養成所であると皮肉る。グライダー練習上にエンジンのついた飛行機が混じっていては、騒音もうるさく迷惑するというわけだ。勝手な奴は規律違反をし、優等生はグライダーとして優秀となる。従順さの尊重こそ学校というわけか。おまけに、指導する教師もグライダー型である。面倒見が良さそうで親切そうな教師ほど、具体的な参考文献や問題の解釈などを提示してくれる。だが、それは意識の誘導でもある。こうした教師ほど評価される。これは学問にとって良い傾向なのだろうか?個人的には、好きなようにやればいいと助言してくれる方がありがたい。一見冷たく見えるがそうではない。こちらが考えをまとめて、議論に訪れれば話題も盛り上がる。逆に、こちらの思考が浅ければ冷たくあしらわれるだけのこと。人間社会はグライダー人間によって支配される構造的問題を創出しているのかもしれない。

2. 独創性
本書は、知識と思考を独創性や個性といった観点から議論される。ところで、独創性とは何か?独創性とは、どうやって磨くのか?その出発点をどこに求めるかは難しい。子供の行動は、大人の行動を真似ることから始まる。こうした素朴な行動には、独創性の本質が隠されているような気がする。作家ポール・ヴァレリーは、他の作品を養分にすること以上に、独創的なものはないと語った。ヴァレリーによると、偉大な芸術は模倣されることを自然に受け入れるという。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つというわけだ。日本の小説家で誰だったかは思い出せないが、似たようなことを語っていた。それは、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったフレーズに出会えるかにかかっているといったことである。個性を磨くにしても、いかに個性的な人間に出会えるかにかかっているのかもしれない。ただ、最も重要なことは、自らの精神を解放することであろう。いくら、優れた思考に出会ったところで、それを感じ取る力がなければ意味がない。芸術家は、日常生活の些細な出来事ですら、そこに芸術性や独創性を感じるのだろう。科学の独創性にも、先人たちの苦悩の積み重ねの上に成り立っている。そもそも、最初から独創性を意識したところで、独創的な思考は生まれないだろう。人間の理念が十人十色であれば、おのずと物事の解釈にも個人差が生じるはず。
「デマは見方によれば、自由な解釈にもとづく伝達の花だということにもなる。われわれは、だれでもデマの担い手となる資格をもっている。」
なるほど、ウィキペディアにも間違った情報が紛れ込む。おいらのブログも時々読み返して修正しているが、どれだけ間違いが紛れているかは計り知れない。酔っ払いには知識の整理だけでも難しいのに、思考の整理となると、独創性が絡み限りなく不可能となりそうだ。

3. 思考と閃き
思考していると、思わぬ閃きが突然やってくることがある。アル中ハイマーには、風呂の中か睡眠中に訪れる。アイデアや難題の解決方法が、思考をリセットした時に訪れることはよくある。ただ、困ったことに、こうした場面では即座にメモることができない。こうした現象は、緊張感から解放された時に起こるのだろうか?本書でも、REM睡眠と思考の関係を論じている。
通勤途中の電車に揺られている時にアイデアが浮かぶことある。電車の振動は思考のリズムをつくるのかもしれない。一日中解決できない技術的な問題を、徹夜して取り組むが、一晩寝るとあっさり解決されることもある。そして、昨日の苦労はなんだったんだ!とにやける。将棋の棋士が考慮中に真っ白な空白をつくることを心掛けているといった話を聞いたことがある。思考が枯渇した時、そうしたリフレッシュが大切なのは、経験的に感じる。これが気分転換というやつか。おいらは、よく煙草を吸いに海に出かける。波の動きを眺めたり、波の音を聞いていると、それだけで癒され、思考がなんとなくリフレッシュされるように気がする。そもそも、集中しようと思って意のままになることはない。ある程度の精神誘導は必要だが、焦らず自然に集中することを待つのが肝心!そして、突然フロー状態が現れる。本人は気づかず、心地良い宇宙へと自然に導かれる。無我の境地とでも言おうか。自我は、自由意志によってコントロールできそうで、できない。ただ、神は自我のコントロールが自在にできると信じ込ませるから、やっかいである。「自由」を実践することは難しい。好きなように実行することほど難しいものはない。自我とは、得体の知れないものである。自由意志の存在すら疑わしい。そこがおもしろいのだが。やりたいことを、続けていると、いつのまにかテーマが自然発生する。人間の精神は気まぐれに支配されると考えるしかあるまい。したがって、集中力は向こうからやってくる。それを、美味い酒でも飲みながら待つとしよう。

4. 夜型人間から朝型人間へ
エンジニアの世界には夜型人間が多いようだ。昔から勉強は夜間にやるという習慣があるのだろうか?おいらも、サラリーマン時代に夜型人間だった。そこで、フレックスタイム制はありがたい。しかし、会社を転々としているうちに、いつのまにか朝型人間になっている。ベンチャーと称する企業で働いていた時は、毎日メールを200通から300通処理しなければならなかった。これをやっているだけで一日が終わってしまう。そこで、メール処理のために朝を利用する。そうしないと、自分の仕事をする時間が確保できないからである。すると、朝6時から9時ぐらいに頭の回転が速いことに気づく。今では、朝4時から5時には自然と目が覚める。目覚まし時計が壊れていることにも気づかない。朝からステーキハウスに出かけることも珍しくない。他に客もいないので貸し切りにできるのが気分いい。ちなみに、一番多く食べるのが朝飯で、夕飯が一番軽い。その分、酒が入るが。いつのまにか朝型になっているのを、歳のせいだと言う人がいる。失敬な!そして、昼の3時ともなると飲みたくなる。この時間にバーが開いていないのが残念!個人事業主になると朝4時に散歩する習慣ができた。度々警察官から職務質問を受ける。今では、「ご苦労様です!お気をつけて!」とパトカーから声をかえられる。ちなみに、就寝時間は0時から1時。よって、連続睡眠時間は3時間から4時間ということになる。昔から、睡眠時間は短い方だが、その分、昼寝を1時間するとスッキリする。それも、昼間に眠くなれば自然と寝るだけのことで、無理に寝ようとはしない。仕事のパートナーに、「お前はいつ寝てんだ?」とよく聞かれる。おいらは、眠い時に寝る!腹が減ったら喰う!そこに酒があるから飲む!というのを実践している。すると、自然に規則正しい生活リズムが完成してしまった。動物は、生物学的に規則的に生きるようにできているのかもしれない。

5. 読書の中の思考
読書では、一つ一つの言葉は静止しているのに思考はうごめく。プログラムを書いていても、一つ一つの記述は静止しているのに、全体として振る舞いを持つ。音楽は、一つ一つ音波として存在するが、そこにメロディーが生じる。しかも、そのメロディーを感じることができる人と、感じることができない人がいる。一つ一つの科学現象をスナップショットすると、そこには自然法則を感じる。離散的現象を眺めていると、そこに連続性が現れる。人間の目が持つ残像効果も、こうした現象の一つであろうか。
一つの難解な文章に出会うと、その前後の文章から解釈するという思考が働く。言葉の非連続性から、思考によって連続性を構築する。人間の想像力とは大したものだ。難解な命題を理解するために、喩え話を登場させたりと、人間の感性は、総合的観点から物事を解釈しようとする。中には、部分的にしか解釈できなくて、揚げ足ばかりとる人もいる。これを突っ込みと言う。したがって、突っ込みの感覚には、嫌味となるか優れたジョークになるかの判断ができる微妙な感性が要求される。
おいらは、難解な文章に出会うと、よく後ろから読んでみたり、まん中から読んでみたりする。文章の構成を思考によって立体的に組み換えることによって、ある解釈が生まれることがある。もともと理解力の低い酔っ払いは、読み方も右往左往する。思考も千鳥足というわけだ。だから、一冊を読む時間も長い。それだけ長く楽しめるのがいい。速読なんて手法は、酔っ払いには必要ない。酒を多く飲むことが目的ではない。美味い酒をじっくりと味わうのが目的なのだ。

2009-10-18

"幾何学基礎論" David Hilbert 著

昨日飲んだ熟成純米酒に誘われたのか?いつのまにか純粋数学の古典を手に取っている。空間感覚の破壊された酔っ払いには、頭の体操にもってこい!なのだ。

幾何学は、ユークリッド以来、ひたすら公理から展開されてきた。ところが、19世紀になると集合論によるパラドックスの発見によって、その基礎は危機に曝される。そこで、ヒルベルトは公理主義を強調して数学の体系化を推進した。有名な「ヒルベルトの23の問題」が、現代数学の方向性を示したのは間違いないだろう。ヒルベルトは公理論的思惟にこだわった形式主義の立場をとることによって、数学を純粋領域で確立しようと試みた。だが、ゲーデルの「不完全性定理」の登場によって挫折することになる。言い換えれば、人間が証明できる純粋な学問は、人間の不完全性によって挫折したと言っていいだろう。人間が全ての宇宙現象を公理によって証明できるとしたら、人間の地位を神に押し上げるようなものだから。ヒルベルトの努力が、結果的に数学を再び哲学の領域へと引き戻してしまった感がある。だからといって、その貢献を蔑むことにはならない。人間の限界である完全性と不完全性の境界線を探求することに、学問の意義があるだろう。境界線に近づこうとする努力は、全てが完全であると信じるところから始まる。最初から不完全だと諦めていては、その境界線に近づくことすらできないだろう。現在においても、プラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な現象も、その背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた科学者の執念である。ヒルベルトもこの執念に憑かれたと言えるだろう。

本書は、カントの言葉から始まる。
「斯くの如く人間のあらゆる認識は直観をもって始まり、概念にすすみ、理念をもって集結する。」
ヒルベルトは、カントールの無限濃度アレフの存在を証明しようと試みても失敗することを認めている。つまり、本書には、有限個で完結した世界においてのみ純粋数学がありうるのであって、公理に基づいた数学を確固たる地位で安定させたかったという願いが込められる。彼は、数学をなんとしてもユークリッド幾何学に留めておきたかったのだろう。本書には、集合論の無限性を拒絶した反応があちこちに漂っている。
幾何学には、古くから議論される作図問題がある。結合公理、順序公理、合同公理、平行公理の4つの公理に基づいた幾何学においては、定規と定長尺を用いて作図することが可能である。だが、連続公理が加わった途端にその範疇から飛び出す。図を描くと自然に見えてくる定理が、ひたすら論理的な公理だけで解析を続けると、摩訶不思議な幾何学が登場してしまう。おまけに、複素数系に放り込めば、人間には手に負えない世界が広がる。そこには、幾何学と代数の融合が現れる。近代数学は、証明の可能性を示す方向から、不可能性を示す方向へと方針転換しているかのように映る。アーベルは、5次方程式の代数的解を求めることが不可能であること証明した。平行線公理の証明不可能性、あるいは、ネイピア数と円周率を代数的方法で作ることの不可能性やリンデマンの定理といった例が支配的となる。形式的公理による論理の組立てでは、人間の想像もつかない世界を構築する。こうした流れを、本書はパスカルの定理とデザルグの定理の展開から匂わせる。ちなみに、パスカルの定理とデザルクの定理は、射影幾何学の基本定理である。本書の考察は、実際に微分を用いて解析されるわけではないが、思考的には微分学の匂いがする。そして、ついに非ユークリッド空間を無視した幾何学の構築に限界が見えてくる。

数学の歴史は、抽象化の歴史と言えよう。代数の世界は、自然数に始まり、数の概念を整数、有理数、実数、複素数へと拡張させてきた。それは、自然数で引き算や割り算を行うと、答えが自然数の世界からはみ出すように、一つの系が算術によって世界が閉じられないからである。本書は、これを生成的方法と名付けている。
一方で、幾何学は、点、直線、平面の存在を仮定して公理的に展開される。結合、順序、合同と考察される中で、無矛盾性と完全性に従った公理が構築される。本書は、これを公理的方法と名付けている。そして、公理的方法の方が合理的であって、知識を完全に記述し、完全に論理的に保証する上で優れていると主張する。これは代数学への批判か?
ヒルベルトは、民族や国家の繁栄のために協和と秩序が確立されるように、学問同士の協和と数学界の秩序が重要であると訴えている。そして、幾何学では、平面方程式の一次性の定理と点座標の直交変換から、ユークリッド幾何学を完全に保証できると述べながら、あらゆる学問が公理的展開を見せると熱く語る。数論の構成には計算法則と整数法則があれば十分で、力学にはラグランジュの運動の微分方程式があり、電磁気学にはマクスウェルの微分方程式に電子と電荷の性質を加えたものが公理的な役割を演じるという。そして、熱力学では、エネルギー関数の概念と、そのエントロピーと体積を変数とした偏微分方程式で温度と圧力を定義することによって完全に構築でき、初等輻射論では輻射と吸収との関係を支配するキルヒホフの定理が中心となり、確率論ではガウスの誤差法則が、気体論ではエントロピーの定理が、曲面論では孤の長さを二次微分形式で表すことが、素数論ではリーマンのゼータ関数が、それぞれ基本定理になるという。これらの基本定理は、それぞれの分野における公理と見なすこともできよう。
本書は、高名な数学者であるクロネッカーやポアンカレのような、数学から純粋性を奪おうと企む連中が豊かな数学を脅かすと批難する。ヒルベルトは、交点定理であるデザルグの定理やパスカルの定理を仮定すれば、それを有限回繰り返すことによって、幾何学の公理を決定づけられると信じた。しかし、連続公理の無限性に現れる矛盾性がその道を妨げる結果となってしまった。デカルト座標において、幾何学的公理から矛盾が導かれれば、それは実数系の算術も矛盾として認識されなければなるまい。つまり、幾何学的公理の無矛盾性の問題は、実数の公理系の無矛盾性の問題に転嫁させる。そして、無矛盾性の問題は依然として残されたままである。

1. 5つの公理群
幾何学の構成元素といえば、点、直線、平面の3つに集約できよう。本書は、この基本元素を結合、順序、合同、平行、連続の5つを基本公理として展開する。結合公理では、2点間における直線との結合関係、3点間における平面との結合関係、あるいは平面における立体的な結合関係を示す。順序公理では、直線上、平面上、あるいは空間における点の位置関係を示す。合同公理では、線分と角から三角形の合同関係を示し、すべての直角は合同であることを導く。そして、空間移動における運動の概念を示す。平行公理では、線分と交わる角度の関係から平行の条件を導く。連続公理では、直線上の有限個の点を極限操作によって無限に拡張できることを示す。連続性については、アルキメデスの公理と完全性の公理とに分かれるという。ヒルベルトが公理の完全性を求める上で、連続性はやっかいな存在だったことだろう。無限の概念を避けては通れないからである。本書は、公理として無限性を含まないという意味で完全性公理を仮定しないと述べ、デカルト幾何学との同一性を宣言している。

2. 無矛盾性と独立性
本書は、5つの公理群の無矛盾性と独立性を証明しようとする。独立性とは、各々の公理から他の公理を演繹できないということである。平行公理の独立性には、非ユークリッド幾何学への拡張を思わせる世界をルジャンドルの定理によって紹介される。
ルジャンドルの第一定理:
「三角形の内角の和はニ直角よりも小なるか、あるいはこれに等しい」
ルジャンドルの第二定理:
「いずれか一つの三角形において内角の和がニ直角ならば、あらゆる三角形の内角の和がニ直角に等しい」

本書は、合同公理の独立性から非アルキメデス幾何学の存在を認め、連続公理の独立性から非ルジャンドル幾何学の存在をも認め、ルジャンドルの定理の拡張が述べられる。
「三角形の内角の和がニ直角よりも大か、等しいか、小になる。」
ついに、非ユークリッド幾何学の存在を認め、トポロジーの世界を匂わせる。

3. 分解等積と補充等積
三角形の合同と相似の関係を見出すのは容易である。本書は、多角形における面積理論を展開する上で、分解等積と補充等積を議論している。分解等積とは、二つの多角形をそれぞれ有限個の三角形で分割し、しかも細分した三角形が互いに合同で対応できれば、二つの多角形は合同ということである。補充等積とは、二つの多角形が互いに分解等積である場合、分解等積で得られる三角形の組み合わせで合成してできる多角形のことで、三角形の組み合わせ方で様々な多角形を形成することができる。そして、二つの同底、同高の平行四辺形は互いに補充等積となることが導かれ、二つの平行四辺形の面積は等しくなることが導かれる。
「二つの補充等積な三角形が底辺を共有すれば、その高さも等しくなる」
ここには、面積理論の基礎が構築されている。

4. デザルグの定理とパスカルの定理
デザルグの定理:
「同一平面上にある二つの三角形において、対応辺がそれぞれ平行ならば、対応頂点の連結直線は一点を通るかあるいは互いに平行である。また逆に、同一平面上にある二つの三角形の対応頂点の連結直線が一点に会するか、あるいは互いに平行であり、かつ三角形の二双の対応辺がそれぞれ平行ならば、両三角形の第三辺もまた互いに平行である。」

この定理は、結合公理、順序公理、平行公理によって証明される。しかし、直線公理および平面公理が成立しても、デザルグの定理が成立しない平面幾何学が存在する。立体公理を加えると、合同公理なしではデザルグの定理の証明は不可能という結論を導いている。本書は、デザルグの定理には、平面幾何学から立体幾何学へ拡張するための意義があるという。そして、あらゆる空間公理に代わるものになると示唆している。
パスカルの定理とは、円錐曲線論における定理である。
「点A, B, C、および点a,b,cをそれぞれ3点ずつ相交わる2直線上にあり、かつその交点と一致せざる点とせよ。しかるとき線分CbがBcに平行かつCaがAcに平行ならば、BaがまたAbに平行である。」

デザルグの定理とパスカルの定理はともに平面幾何学の条件であり、パスカルの定理もまた立体公理を加えることで合同公理なしでは証明できないという。ただ、デザルグの定理は、合同公理と連続公理を用いることなく、パスカルの定理から証明できるという。ちなみに、パスカルの定理には、比例の理論と相似関係の基本定理が内包されている。

2009-10-15

"初めてのRuby" Yugui 著

タイトル通りRuby入門書である。ただ、オブジェクト指向を少しぐらいかじっていないと読むのも辛かろう。前記事の「プログラミング言語 Ruby」と重複するところも多いが、よりコンパクトで、具体例はこちらの方が多い。頭の鈍い酔っ払いには、二冊セットで読むとちょうどよい。本書は、リファレンスを読むための手引書のような位置付けにある。ちなみに、著者のYuguiさんとは、園田祐貴さんのことでRuby1.9系統のリリースマネージャと紹介される。自らMtF-TS(Male to Female Transsexual)と告白されるように、その勇気には頭が下がる。こういう方にこそ研ぎ澄まされた感性や才能が宿りやすいのかもしれない。

人間は物事を考える時、自分で使いこなせる言語で思考するところがある。ただ、精神は言語を飛び越えた領域で思考するところもあって、言語学者は対象言語の外側から物事を眺めているのだろう。ちなみに、アル中ハイマーの精神は、しばしば自らのボキャブラリ障壁を越えられなくてイライラする。日常使われる言語には、民族の持つ文化や慣習といったものまで背負い込む。プログラムを書く時も同様に、プログラマは自然とプログラミング言語に沿って思考するところがある。そして、プログラミング言語の持つ文化や慣習といったものが思考の中に入り込む。したがって、システム構築にはプログラミング言語の選択も重要となろう。
ポール・グレアム氏は、著書「ハッカーと画家」の中で、「ハッカーというのは、言論の自由に対してものすごく執着するものなんだ。」と語った。仕事の要求が高ければ、より優れた言語を使うことで効率を上げたいと考えるだろう。だが、実際にはそれほど要求の高くない仕事がゴロゴロしている。よって、慣れ親しんだ言語を使ったり、流行を追いかけるのも悪い選択ではないだろう。言語は過去の資産や組織の政治力によって強要されることもあれば、言語には宗教のようなところがあって洗脳されるケースもあって、純粋に言語選択といっても難しいものがある。多くの言語に触れなければ的確な選択判断が難しいと同時に、一つの言語を深く使いこなさないと本質を理解できないというジレンマがある。したがって、酔っ払いには噂に流されることぐらいしかできない。
Rubyは、純度の高いオブジェクト指向言語として名高い。また、SmalltalkやLispの影響を受けた言語で、複雑なシステムを最小コストで構築する能力があると言われる。Rubyの古い謳い文句に「驚き最小の法則」というものがあるという。なるほど、その思想はシンプルである。数値や文字列、正規表現、入出力などすべてがオブジェクトで構成され、すべてのオブジェクトはメソッドを通して統一的に操作できる。
歴史的には、「より良いPerl」として受け入れられたそうな。Perlといえば、その自由さによって暗号文っぽくなりがちで、自分で書いたコードですら後で見るのが嫌になる。そんな酔っ払いが、Rubyを使えばスパゲッティコードから解放されるとは言い切れないだろうが。
また、「動く擬似コード」と評されることもあるらしい。ほとんどのプログラミング言語は、コンパイルのためのおまじないといった余分なコードが含まれる。その点、Rubyは本質的なコードのみを書くので解読しやすいという。そういえば、最近、数学書やアルゴリズム解説書で、Rubyで書かれたサンプルコードが付録されるのをよく見かける。これも、余計なおまじないがなく要所を押さえたコードということだろうか。
本書は、Rubyらしく考えることを主眼に置いている。言語を理解する上で、単なる文法法則だけを紹介されてもつまらない。言語の流儀や文化を知ることに意義がある。

ところで、オブジェクトとは何か?なんとなく目的を持って振舞う塊のようなもの。そして、多くの塊が協調しながら一つのシステムを形成する。こうした構造は、人間精神のメタファを感じる。精神には、一つの目的を持った意識のようなものが形成され、人間は多くの目的意識を見出しながら生きている。では、それぞれの意識は、何によって制御されたり操作されたりするのだろうか?そこには意志というメッセージが飛び込んでくる。これがメソッドだ。意志とは、石のような頑固な塊であって、それぞれが協調しながら妥協の中で目的を果たそうとする。その目的を持った意志が失われた時、精神は死んだり、精神病を患ったりする。目的を持った意志とは、欲望と解釈することができる。オブジェクトがデータ構造の管理を怠れば、メモリリークも起こす。そして、精神もパニックを起こし、犯罪を犯すことだってある。それが衝動ってやつか?こうした致命的なバグを言語仕様によって防ぐことができればありがたい。では、精神の衝動を抑える合理的な手立てはあるのだろうか?それが理性ってやつか?プログラミング言語の思想にも、危険な操作をすべてプログラマの良識に任せるか、すべて抑制するかという論争がある。ちなみに、Rubyの文化は前者のようだ。これも大人の世界ということだろうか。したがって、オブジェクトの構築には理性構築に通ずるものを感じる、のは気のせいか?

1. バージョン体系
MRI(Matz' Ruby Implementation)のバージョン体系は、"MAJOR.MINOR.TEENY"となっていて、MINORが偶数のバージョンが安定版で、奇数が開発版なのだそうな。ただし、1.9系統は変則で、TEENYが1以上のものが安定版で、0が開発版なのだそうだ。また、1.9系統は2.0系統の踏み台を意図しているという。なんとなく2.0に期待するのであった。

2. データ構造
Rubyは、だいたいにおいて定義が緩やかである。しかし、型変換では厳密な面を見せる。Perlのように、外部からの値を必要に応じて数値や文字列と勝手に判断して型変換をする言語は、あまり好まないのだが、Rubyの型定義の緩やかさの按配は酔っ払いの肌に合う。Rubyは、to_i, to_f, to_sなどの型変換メソッドを用意している。ちなみに、定数も変数でありオブジェクトである。ただし、定数を変更すると警告を発してくれる。
「Rubyは、すべてがオブジェクト構造をとるため、オブジェクトへの参照を別のオブジェクトへの参照へと対応付けるデータ構造をとる。」
といった表現がやたらとちりばめられる。なるほど、変数への代入は正確にはオブジェクトへの参照を代入していることになる。これは注目すべき性質であろう。例えば、以下のように動作する。
------------------
cattle = "yahoo"
animalx = cattle
animaly = cattle.dup # 複製メソッドで明示すれば分かりやすい
cattle[2] = ?p
p cattle # "yapoo"と表示
p animalx # "yapoo"と表示
p animaly # "yahoo"と表示
------------------
酔っ払いは、いかにもオブジェクト指向らしいこの性質に惹かれる。というのも、イテレータで書くと何をやっているかを明示できて、文章っぽくなるのがいい。
ところで、配列などでデータの範囲外にアクセスすると、他の言語では例外を起こすだろう。Rubyは、概して範囲外添字に対して寛容で、nilを返すだけである。この思想が良いか悪いかは、好みの分かれるところだろう。ちなみに、厳格に例外を発生させるfetchメソッドも用意されてる。
オブジェクトの占有するメモリは処理系が管理して解放するので、プログラマが管理に悩まされることはないという。ガベージコレクションが自動でメモリを解放するからである。だからといって、メモリリークが絶対に起こらないというわけでもないだろう。やたらと寿命の長い参照を作るコードが危険であるのは同じである。

3. 数値演算
多倍長整数をサポートしているので、桁あふれを心配せずに大きな数を扱うことができるという。Rubyの数値計算が遅いところは、少々気になるところである。それも1.9では大幅に改善されているそうな。言語によっては、32bitや64bit長という制限があるが、Rubyの整数型には制限がない。整数オブジェクトは、IntegerのサブクラスであるFixnumクラスとBignumクラスで実装される。Fixnumは固定長で実装される整数で、Bignumは多倍長で実装される整数で、これらのクラスを自動的に使い分ける。言うまでもなくFloatオブジェクトの実装はIEEE754に従っていて、その精度はシステムに依存する。IntegerクラスとFloatクラスの親クラスはNumericクラスである。
ちなみに、左辺が右辺よりも小さければ負の数を、等しければゼロを、大きければ正の数を返す比較演算子 <=> を、宇宙船演算子と呼ぶらしい。おいらには宇宙船の形には見えないが。
他に、数値演算に欠かせない複素数クラスや有理数クラスが提供されるのはありがたい。

4. 文字列
この手の言語で、正規表現などのunix流のテキスト処理は必須であろう。Rubyは、PerlやAwkといったシェルスクリプトを受け継ぐ。また、文字列操作のメソッドやイテレータが豊富なのも特徴である。1.9では、マルチバイト文字に対応した多言語テキスト処理をサポートする。マジックコメントは、emacsやvimにファイルのエンコーディングを知らせる方法を流用している。
Rubyには、文字クラスなるものが存在せず、マルチバイトのエンコーディングも含めて、すべてStringクラスで対応している。Rubyのライブラリ設計には、「大クラス主義」というものがあるらしい。むやみにクラスを増やしたり余計な階層化をしないという思想である。
正規表現は、1.8ではGNU regexを改造した独自のエンジンを利用していたが、1.9では「鬼車」というライブラリを採用して機能を強化しているという。
ところで、文字列とは別にシンボル(Symbol)という似通った概念がある。シンボルの特徴は、その唯一性と軽量性にあるという。文字列同士は内容が同じでも同一のオブジェクトとは限らない。対して、シンボルは内容が同値であれば同一のオブジェクトになるという。へー!オブジェクトが同一であるかを調べる場合、文字列よりもシンボルの方が高速に動作するという。シンボルは内容に対する唯一性を維持するので、文字列とは異なり変更不能(immutable)となる。このような性質はハッシュのキーなどに適していそうだ。

5. 入出力
しばしば、Rubyのクラスはunix文化に基づいていて、posixやシステムコールやC言語ライブラリ関数をオブジェクト指向でラップした形になっているという。IOクラスもその典型と言えよう。ファイルをオープンすると、ブロック付きメソッドによって自動的に閉じてくれる。こうしたライブラリがリソースを管理してくれるのはRubyの利点の一つである。リソースを手動で管理することもできるが、その時はcloseメソッドが必須となる。標準入出力やFILEやARGF以外にもIOオブジェクトがある。StringIOは、文字列に対してIOオブジェクトであるかのように振舞うラッパークラスである。1.9では、入出力も文字列と同様にエンコーディングを扱うことができるらしい。

6. 変数と式
Rubyの慣習で、変数名にcamelCaseやPascalStyleのような、大文字小文字で単語を区切るべきではなく、pascal_styleのようにアンダースコアで区切るべきだという。尚、クラス名のみは例外で、PascalStyleといった大文字小文字で名前を付けるらしい。
そういえば、Rubyには、インクリメント、デクリメント演算子がない。導入するかどうかという議論もあるらしいが、強力なイテレータがあるので不便を感じないということらしい。例えば、以下のようにやればいい。
0.upto(9){|i| puts i}
str = "Diogenes"; str.each_byte{|byte| puts byte}
多重代入で、a, b = b, a とやれば、値が交換できるのは便利。論理演算子は短絡評価にも使える。a || b は、aの値が真ならば、bの値を評価せずにaを返す。aの値が偽ならば、bの値を評価する。同様に、a && b は、aの値が偽ならば、bの値を評価しない。
ifやwhileなどの制御文は、Rubyでは値を返す式なので制御式と呼ぶそうな。ちなみに、ループ系の制御式は、loop, times, uptoなどのイテレータを使うとコンパクトに書ける。

7. メソッド
あらゆるオブジェクトにselfが存在する。C++やJavaのthisのようなものである。デフォルトのレシーバがselfなので、クラス内では省略できる。配列では、sortやuniqなどのメソッドが提供される。uniqは重複する要素を排除するメソッドで、元の配列を破壊しない新たな配列を生成する。対して、uniq!は破壊的メソッドとなり、元の配列から重複要素を削除する。一般的に破壊的メソッドは、末尾に!を付ける慣習があるようだ。
非オブジェクト指向的なメソッドに関数メソッドがある。厳密に言えば、どこかのオブジェクトに属するので、Rubyには純粋な意味での関数は存在しないようだ。つまり、トップレベルのメソッドである。
値を返す時は、returnを用いることができるが、省略すれば、メソッドの末尾の式の値が返される。ただし、多値を返すにはreturnが必須。ちなみに、void関数のような値を返さないメソッドは存在しない。神経質なプログラマは、意味のない値を返すよりも、意図されないようにnilを返すように書くらしい。
メソッドによっては、ブロック付きで動作させたい場合がある。ブロック付きメソッドを定義する時は、yieldを利用する。

8. クラスとモジュール
クラス名は大文字で始まる識別子でなければならないという。これはクラス名が定数名でもあるからだそうな。クラス定義の変更を禁止したい時は、freezeメソッドを使用すればいい。ちなみに、組み込みクラスを含む重要なクラスでも、初期状態ではfreezeされていないという。プログラマの良識に委ねているということか。
モジュールはクラスと似ているが、「インスタンス化できないクラス」のようなものだという。ClassはModuleのサブクラスである。モジュールの特徴はMix-inと名前空間にあるという。Mix-inは、制限された多重継承で、そのイメージはトッピングのような意味あいだろうか。ArrayやHashクラスには、EnumerableモジュールがMix-inされるので、その関係のイテレータが自由に利用できる。クラスにComparableモジュールをMix-inすれば、比較機能を自由に利用できる。

9. その他
gdb風のデバッガが標準に装備される。
$ ruby -rdebug hello.rb
pという信じられない短いメソッドがある。これはデバッグに用いられるメソッドでirbと共に重宝されるが、デバッグや学習、コードゴルフ以外に用いるのは行儀が悪いという。おいらは、このメソッドに病み付きだ。
RubyGemsはパッケージ管理システムで、インストール可能なパッケージの一覧などを参照できる。RubyGemsには、Ruby/GD2などの画像ライブラリやネットワークライブラリもある。
wxrubyは、クラスプラットフォームなGUIツールキットwxWidgetsをRubyから利用するためのライブラリである。

2009-10-11

"プログラミング言語 Ruby" David Flanagan & まつもとゆきひろ 著

ここ数年、遊びで書くコードはほとんどRubyである。毎日遊んでいるようなもんだが。というのも仕事では認可してくれない。管理ができないからという理由らしい。では、C++ならば管理ができるのか?正確にはC++コンパイラさえ通ればいいようだ。
ところで、遊びとはいえ使う言語の解説書を一冊も持たないことがよくある。試してみてから気に入ったら、その解説書を買うといったところだろうか。これも、安易に誤魔化すことができるネット社会の恩恵であり、惚れっぽい酔っ払いにはありがたい。ということで、Rubyの解説書を手にするのは初体験である。初体験という言葉はなんとなくドキドキさせる。これも若さというものか。

Rubyは、全般的に型の定義が緩やかである。いわゆる、動的言語で見られる「ダックタイピング」という特徴がある。ちなみに、この言葉は「あひるのように歩き、あひるのようにクワっと鳴けば、それはあひるに違いない。」という諺からきているそうな。個人的には型チェックの曖昧さを好まないのだが、あまり厳格過ぎるのも鬱陶しい。そこで、Rubyは、数値リテラルなど厳格に型チェックされる場合もあるので、その按配が肌に合うようだ。
Rubyは純度の高いオブジェクト指向言語として世界でも評判が高い。その普及を後押ししたのがRuby on Railsだと言われている。日本人が開発した言語が世界を席巻するというのもなんとなく嬉しい。文法的にもLisp, Smalltalk, Perlの影響を受けつつも、CやJavaのプログラマでも親しみやすいという特徴がある。特に、procやlambdaといったメソッド思想によって関数プログラミング風に書けるのがいい。ちなみに、lambdaは数理論理学などで見られるラムダ計算にちなんだ名前。
ところで、関数プログラミングといえば、Lispを思い浮かべる。ポール・グレアム氏は著書「ハッカーと画家」で、Lispを学べば実際にLispプログラムを作ることがなくても良いプログラマになれると熱く語っていた。現代のプログラム構造は、動作部からデータ構造へと注目点が移ってきた。Lispにはデータ構造の本質を覗かせてくれる何かがあるのだろうか?と、なんとなく興味を持っているが、いまだに手が出せないでいる。Rubyのおかげで、ずーっと避けていたLispにも手を出す日が近づいた予感がする。来年の目標はschemeあたりか?Lispは古い言語で、時代を前後した奇妙な順を追っているようでもあるが、そこは酔っ払いらしく千鳥足で言語選びの旅に出かけるのも悪くない。

本書は、改めてRubyの持つ思想や慣習といったもの味あわせてくれる。そして、かなり慣習を無視した書き方をしていることに気づかされる。やはり言語の勉強はいい加減にできるものではない。おいらの勉強は、いつも勘で始まって勘違いへと変化する。まったく学習能力がなく、いつも同じ轍を踏むわけだが、なぜか?気持ちええ。アル中ハイマー病とはそうした病である。
本書は言語リファレンスではない。それでも重要なクラスやモジュールを押さえている。Rubyの特徴は、豊かなAPIを備えていることであろう。特に、String, Array, Hash, Enumerable, IOといった主要クラスは押さえておきたい。また、数値と数学関係のNumericメソッドやMathモジュールも紹介してくれる。
Rubyのコレクションクラスには、ArrayやHashやSet(集合)があるが、いずれもEnumerableモジュールがミックスインされる。ちなみに、Enumerableオブジェクトは対象のオブジェクトを数えたり列挙したりできる。
ネットワーク機能も豊富だ。インターネットのクライアント側にはTCPSocketクラスが、サーバ側にはTCPServerクラスが、UDPデータグラムにはUDPSocketクラスが提供される。ソケットライブラリは、http, smtp, pop, imapといったプロトコルに対応している。Kernel.openは、File.openと同じような動作をするが、URLをファイルのように扱える柔軟性がある。仕事でWebアプリを作ることはないが、これを機会にRailsで遊んでみるのもいいかもしれない。
マルチスレッドも書きやすそうだ。ただ、プラットフォームに依存するのは仕方が無いか。スレッドの優先順位はOSによってまちまちである。だが、Linux上のRuby1.9はネイティブスレッドを実装していて、スレッドの優先順位の設定もRuby側で設定できるという。スレッドが一定の条件で自動で切り替わるのは多くの場合でありがたい。スレッドはキューで管理できる。

コンピュータ構造が、人間の思考方法や社会構造からヒントを得ることが往々にある。オブジェクトは、プラトンのイデア論に通ずるものを感じる。クラスという雛形からインスタンスを生成するあたりは、いわば実存認識といったところだろうか。そして、スーパークラスという基底なるものが理想イデアであって、それを継承しながら様々なクラスがイデアとして現れる。継承が複雑化して手に負えなくなると、遺伝子コピーの不完全性も現れる。ところで、オブジェクト指向という言葉が流行ったのは20年ぐらい前であろうか。Smalltalkのセミナーにも参加した記憶が蘇る。当時マイコン開発をしていた。いわゆる組込み系のプログラム設計である。そして、データ隠蔽の思想を好み、ローカルルールで実践していた。システムの規模は小さく、CPUで言うと8bitが主流で、まだ4bitも多く、稀に16bitを使うといった具合である。プログラムサイズで言うと、16KBから32KB程度でリアルタイムモニタといったところだろうか。今でこそリアルタイムOSが盛んであるが、当時は高価で手が出せかった。小規模なシステムでは助長したプログラムは実装できないので、OSもどきのカスタムプログラムを作る必要があった。使用する言語はCライクのものも登場していたが、コンパイラの性能から依然アセンブラが勢力を保っていた。小規模なシステムでは、あまり高級言語の恩恵が受けられないので、独自ルールで工夫することになる。アセンブラ言語のデータ構造はほとんど制約がないので、あらゆるアクセスを想定しなければならない。そこで、グローバルデータを思想から排除し、すべてメソッド経由でしかアクセスを認めないなどの規定をマクロ機能を駆使しながら実装する。データアクセスで必要なメソッドは、基本的にset/get系のみで集約できるはず。当時は、カプセル化の概念といった学術的な意義を知らなかったが、自然と実践していたような気がする。また、組込み系システムでは、コンピュータ上で動作する一般のアプリケーションと比べてソフトウェアの構成がハードウェアと対応付けしやすいというメリットがある。これは、ソフトウェア仕様を製品の取扱説明書と結び付けやすく、ソフトウェア部品であるオブジェクトは製品の部品のようなイメージで捉えられ、分かりやすいプログラム構造を実現できる。ちなみに、おいらはソフト屋ではない。どちらかといえばハード屋か?はたしてその実体は...雑用係なのだ。したがって、アル中ハイマーは、ソフトなピロートークを武器にハードボイルドに生きるのであった。

1. オブジェクト
Rubyの値は全てオブジェクトで、他の言語のような原始型なるものがないという。単純な数値やリテラルも普通にオブジェクトであり、それぞれのメソッドが実行できる。ちなみに、true, false, nilもオブジェクトで、Booleanクラスなるものがない。
Rubyは不要になったオブジェクトをガベージコレクションで自動的に解放するので、明示的な解放を必要とする言語に比べて、メモリリークを起こしにくいという。だからといって、メモリリークが絶対に起こらないというわけでもないだろう。やたらと寿命の長い参照を作るコードが危険であるのは同じである。
Rubyは、オブジェクトに対するテストや調査する機能が豊富である。インスタンスがどのクラスに属するかを問い合わせる機能や、クラスの親子関係を調査するのに比較演算子や等値演算子がオブジェクト間でも使える。オブジェクトの初期化ではコンストラクタを使うのがお馴染みであるが、Rubyではinitializeメソッドを使う。クローンやコピーを作らせないために、Singletonを定義することができる。ちなみに、シングルトンとは、インスタンスを一つしかもたないクラス。

2. メソッド
Rubyの構文の基本は式であり、制御文も式として評価できる。これがコンパクトに書ける理由でもある。演算子の多くはメソッドとして実装されており、クラスはメソッドを自由に定義できる。コアライブラリであってもメソッドを追加できる。ちなみに、どのクラスでもオブジェクトを文字列で表現するto_sインスタンスメソッドを定義しておいた方がよいという。デバッグ時に役立つからである。set/getメソッドを実装するのに、attr, attr_accessor, attr_reader, attr_writer(あまり使われん)によって抽象化できるのは便利である。C++のようにpublic, protected, privateを定義できるが、Rubyでの対象はメソッドのみとなる。インスタンス変数やクラス変数は、カプセル化されるからである。initializeメソッドは暗黙でprivateであるが、その他は明示しない限りpublicである。ただし、メタプログラミング機能を使えば、protected, privateメソッドも起動できるようだ。ここが、オープンな言語仕様ということなのだろう。一見矛盾した思想にも思えるが、デバッグ機能として活用できそうだ。

3. リフレクションとメタプログラミング
Rubyは、リフレクションのためのAPIを豊富に揃えている。リフレクションとは、プログラムが自分の状態や構造を解析することである。そして、その状態や構造を書き換えることさえできるという。こうした動的な性質が柔軟性をもたらし、メタプログラミングを可能にする。リフレクションAPIには、オブジェクトの型を判定するメソッドがある。文字列やブロックの評価、変数の取得、設定、テストが容易にできる。また、メソッドのリストアップと有無テストや、言語仕様の中でトレース機能を持つ。

4. セキュリティ
Webアプリでは、SQLインジェクション攻撃などのセキュリティ問題が発生するが、Rubyはこうしたリスクを追跡する手段を提供している。また、信頼されないデータやコードを区別するためのメカニズムが提供され、オブジェクトをフリーズさせたり、オブジェクトの汚染状態を明示することができる。

5. ファイバ
Fiberオブジェクトは、他の環境では一種の軽量スレッドを表すために使われるらしいが、Rubyではコルーチンと呼んだ方がいいという。これは、数値演算で数列のジェネレータなどに使えそうだ。わざわざ裏処理させる必要もないかもしれないが。ファイバは、少々分かりにくい制御構造である。スレッドのように即実行するものではなく、resumeメソッドを呼び出すことによって実行開始する。Fiber.yieldメソッドで呼び出し元へ戻したりと、スレッドを裏で実行させたい時だけ実行させるといったことができる。

6. Ruby1.8とRuby1.9の違い
細かく挙げると切りが無いので、気になったところだけを列挙しよう。
(1) スーパークラスは、1.8ではObject、1.9ではBasciObject。
(2) 1.9からパッケージ管理システムのRubyGemsが標準ライブラリ。
(3) procは、1.8ではlambdaと同じ意味であるが、1.9ではProc.newと同義語だという。1.8では曖昧さがあるのでprocを使うべきではないという。
(4) 1.9ではマルチバイト文字がシームレスに扱える。例えば、文字配列のポインタがバイト単位ではなく文字単位となる。このマルチバイト文字への対応がRuby1,8とRuby1.9の大きな違いのようだ。おいらは、jcodeライブラリあたりを意識するのが嫌いなので、もともとマルチバイトを避ける習慣がある。とはいっても、書籍購入予定リストなど日本語テキストをフィルタリングすると、マルチバイトを避けるわけにはいかない。したがって、エンコーディングクラスが提供されるのはありがたい。
そういえば、6月頃だろうか、Ruby1.8系の1.8.6-p368以前と、1.8.7-p160以前のバージョンで、DoS攻撃を受ける脆弱性があると発表された。BigDecimalオブジェクトからfloatへの変換の時、巨大な数値を扱うと、segmentation faultsを引き起こされる可能性があるといった話である。尚、1.9系は問題はないらしい。

7. 対話的Ruby
irb(Interactive Ruby)は、Rubyのシェル。
$ irb --simple-prompt # Rubyプロンプトを起動する
$ ri "keyword" # ドキュメント表示

2009-10-04

"アナログCMOS集積回路の設計" Behzad Razavi 著

ほど酔い気分で本棚を眺めていると、なにやら懐かしい香りがする。おいらがエンジニアになった頃、アナログ技術が盛んであった。20年以上前かぁ。新人研修では、テレビ受信回路や映像制御回路などが題材とされ、まともなコンピュータ研修の無かった時代である。おいらは、アナログ技術が全く理解できず、トランジスタの等価回路なんて物理的にイメージできないでいた。アナログ技術は物理数学の世界で、デジタル技術は論理学の世界である。言い換えれば、前者は職人の世界で、後者は屁理屈の世界とも言えよう。アナログ技術は、技術習得に時間がかかり、おいらのような飽きっぽい人間には難しい。とっくに数学で挫折していたので、ラプラス変換と聞いただけで蕁麻疹が出たものだ。ちょうどその頃、ワンチップマイコンやプログラマブルデバイスが登場して、デジタル技術が流行り始めた。おいらは時代に救われた。だからといって、デジタル技術が簡単なわけではない。高集積化が進めば複雑なアルゴリズムが要求され、数学からは逃れられない。結局、落ちこぼれる運命は変えられない。当時、アナログ回路は無くなるといった意見も多かった。アナログ設計者は、デジタル設計者へ転職を考えるといった社会現象もあったぐらいだ。ところが、近年システムLSIの登場により、アナログ技術者は引く手あまたである。高速化や高密度化が進むと、すべてをデジタル化することは難しい。高速化の要求はアナログ乗算器を登場させる。そして、省電力化が進み、やっかいなデジタル信号の高周波ノイズでEMC問題の対策も盛んになる。高速な半導体メモリやプロセッサは、高速デジタル設計であっても、ほとんどアナログ設計と言われる。こうした時代の流れで、アナログ技術のセミナーは大盛況で、5年ほど前にいくつか受講した。本書はその頃、再勉強しようとして購入したものである。ちなみに、アナログ回路は、おいらにとってデジタルシステムを検証するための補助的な位置付けにしかない。実験室でちょっいと試すぐらいなもの。それでも、安価な安定化電源や確実に動作するリセット回路ぐらいは必要である。最近はソフトウェア的な仕事しかしないので、実験室とは10年以上ご無沙汰している。

最近、新人君と付き合う機会が多い。教育係を依頼されるからである。ちなみに、人に教えることほど嫌いなものはない。教えるものなんて何もないから、自分の馬鹿さ加減を暴露するようなものである。なるほど、暗に引退せよ!と仄めかされているのかぁ。こんなフレッシュな酔っ払いを年寄り扱いするとは。世の中が不景気だと、若い連中を遊ばせるわけにもいかず、教育が盛んになる傾向がある。そこで、本書を読み返す羽目になる。そもそも、技術教育なんて必要なのかも疑問である。技術は盗み取るものであり、学問は知識を得るまでの過程にこそ価値がある。
ところで、新人君たちは想像もつかない勘違いをする。だが、アル中ハイマーの武勇伝には敵わないだろう。ということで、新人時代の失敗を暴露するとしよう。もはや精神の泥酔者には羞恥心の欠片もない。なにしろ、電解コンデンサにプラスとマイナスがあることも知らずに使っていたのだ。では、スモーキーなモルトに誘われて、焦げ臭いところを紹介しよう。あるシステムでアナログ部とデジタル部の電源を分離させて、双方のGNDを解放して独立に制御していた。しばらくは正常っぽく動作していたが、ある日突然高価なチップが燃えだした。いや!溶け出した。先輩から「実験室が焦げ臭いぞ!」と指摘されて「ハッ!」となる。ラッチアップを起こしたのだ。他にも、部分的なモジュールではそれらしい動作をするのに、全体を組み上げると燃えたことがある。問題は、半導体の仕組みを物理的に理解していないことだ。トランジスタとは奇妙なもので、抵抗などの素子が無いにもかかわらず、それだけで等価回路が実現できる。ということは、半導体素子を多段につなぐと、回路全体で想像もつかない機能を持つ可能性がある。一つの素子に想定外の信号が入力されると、周りの電子部品と干渉してとんでもない動作をするわけだ。アナログ回路は、物性物理学を体で覚える世界だといことを実感したものだ。
また、CMOSデバイスで回路を組んでいると、繋がなくても微妙に動作することには驚いた。バイポーラと違って、CMOSデバイスは接続されていなくてもオンすることがある。TTLが常に電流が流れるのに対して、CMOSはスイッチングの瞬間にしか電力を消費しない。言い換えれば、バタバタする信号は瞬間ノイズでうるさいわけだ。信号線にプローブをあてると完全に眠るのだが、放すと微妙に動作する。ノイズが原因だと思ったが、実は配線されていなかったというオチだ。それを解明するだけで一日無駄にするという馬鹿さ加減!導通テストは馬鹿にはできないことを実感したものだ。ちなみに、テスターで導通を確かめるのに「ピッ!」と鳴る機能は怪しい。微小抵抗でも反応するからである。もともとCMOSは遅いという弱点を持っていたが、当時は速度の問題も解消されつつあり、ほとんどCMOSを使っていたような気がする。
ところで、半導体とは奇妙な物質である。半分だけ導体とは、これいかに?「導体のようで導体でない、でんでん!絶縁体のようで絶縁体でない、でんでん!」外部から熱や光あるいは磁場や電圧といった刺激を与えることによって、電気特性が得られる物質である。バンドギャップが狭いからキャリア効果も現れる。P型とN型を接合することによってその効果も上がる。電源など駆動するための仕掛けが必要であるにせよ、増幅効果があるのは電子の流れを活発にするからである。バンドギャップ内はフェルミ準位近辺になり、電子が移動できるかどうかも確率論に持ち込まれる。こうした物理現象を眺めるだけでも、LSIの歩留まりが不安定なことは容易に想像できる。
つまり、半導体とは、泥酔状態が不安定で、酔ってんだか、酔ってないんだか、自覚できない物質というわけだ。いずにせよ共通した性質は、夜の社交場でホットな女性からちょいと視線ビームを浴びせられると、電流が走って痺れる。そして、精神のエネルギー順位が高まると「君に酔ってんだよ!」と囁きはじめ、その醜態はどんどん増幅される。ただし、女性の愛情障壁は固く、強力な電子ビームをもってしても簡単には突き抜けられないので、逆電流は流れにくい。一旦、逆電流が流れはじめると、一気に燃え上がるわけだ。

本書は、基本編と応用編の二冊に分かれるが、区別することもないだろう。むしろ上下巻とした方が適切だ。本書の目的は、最終的にデバイス動作を定式化して回路モデルを作るための知識を学ぶことである。そして、MOSFETの物理から始まってプロセス技術まで網羅される。MOSFETをスイッチとして使うならば、ゲートをオンするとソースとドレインが導通するという単純な構造である。しかし、ゲート電圧は?ソースとドレイン間の抵抗は?その抵抗は線形なのか?と悩み出すと頭が痛い。回路特性が線形性を保つならば、なにも悩まないだろう。おまけに、素子間のミスマッチが製造技術とレイアウトを悩ませる。高密度化が進めば、素子そのものの遅延よりも配線遅延の方が厄介になり、クロストークといった問題も発生する。
本書は、実験室で重宝した概念をいくつか紹介してくれる。高速性や微小信号を扱う場合、差動などの対称性を利用した概念がしばしば登場する。差動回路は、耐ノイズ性に優れているのはなんとなく感覚で分かるだろう。双方でスイングすれば、微小信号でも伝送系で効果がありそうに感じる。その重要な特性は外因に対する同相の除去効果である。
また、重要な概念にフィードバックがある。負帰還では高精度の信号処理ができたり、正帰還では発振器を作ることができる。信号の平均化という意味ではフィルタ効果もある。本書では、フィードバック回路の特性で、利得の鈍感化、端子インピーダンスの変更、帯域幅の拡大、非線形性の低減といった例が考察される。ただ、回路にループがあれば予期せぬ発振はつきもの。ループゲインが大きければ発振する可能性も高い。
更に、線形帰還システムの安定性と周波数補償を議論している。これはオペアンプの応用である。オペアンプはもともと差動増幅なので、そのままでも使えるし、その名称からアナログ演算にも使える。昔は、コンパレータやマルチバイブレータといったものに利用したのを覚えている。飽和領域で動作するMOSトランジスタは電流源としても使える。ゲートとソース間の電圧が定められても、ドレイン電流が定められなければ、電流源をバイアスする方法も必要となろう。そこで、電流源は既に定まっているものと仮定して、カレントミラーによって電流をコピーするといったことを考えたりする。デジタルシステムが専門とはいえ、振幅や周波数やデューティ比を自在に制御できる発振回路や、モノマルチといった簡単な信号発生器があると、実験に重宝したものだ。こういう状況を思い出していると、現在ではFPGAやCPUが搭載されたキッドが売られているから便利である。しかも、雑誌にも付属される。これは恵まれた環境とも言えようが、回路を燃やすような体験は難しいだろう。昔は、火を入れる瞬間もドキドキした。まさしく勉強に燃えていたのだ!

1. 雑音
アナログ技術者は絶えず雑音と葛藤している。アナログ回路設計とは、自ら創出する雑音と、周りから影響を受ける雑音の双方との戦いである。ちなみに、デジタル回路は雑音を発する側なので気軽だと思っていたが、雑音の悪魔と呼ばれ、いつも謝っていたような気がする。だから、酔うと謝り上戸になるのかもしれない。
雑音は、消費電力、動作速度、線形性とトレードオフの関係にあり、その特徴はランダム性にある。したがって、長期間の観察から統計論的モデルとして扱うことになる。雑音スペクトラムとして捉えれば、フィルタによって除去できるというわけだ。雑音には、熱雑音、ショット雑音など、その要因を上げれば切りが無い。本書は、MOSFETのゲート酸化膜とシリコン基板の界面で生じるフリッカ雑音を考察している。

2. 発振器
電子制御で発振器は不可欠である。それはプロセッサのクロックから携帯電話のキャリアにまで及ぶ。本書は、VCO(電圧制御発振器)の数学的モデルを検討し、周波数変調器として動作する様子を考察している。簡単なものではLC発振器が思いつくが、分かりやすいリング発振器にも触れている。昔は、インバータの多段によって、実験用に簡単な発振器を組んだものだ。そして、同期させるためにPLL(位相同期ループ)を使った。

3. デバイスモデル
デバイスのモデリングは困難で、シミュレーション値と測定値が違うことは珍しくない。本書は、ショートチャネル効果を理解するために、SPICEモデルを考察している。そして、MOSの理想的なスケーリング則とは何か?といった問題を扱う。半導体デバイスでCMOSが主流となる理由は、静的な消費電流がゼロであることと、MOSFETのスケーリングが容易であることであろう。スケーリングされたチャンネル容量が容易に見積もれなければ、製造工程に影響を与える。チャネル内で電圧低下といった現象があると安定した動作が望めない。熱雑音による電圧電流特性において、ダイナミックレンジが一定でないのは厄介である。また、しきい値電圧は、チャネル長によって変動する。よって、製造プロセスにおいてチャネル長の正確な制御が必要となる。ゲート電圧が上昇すると、ソース側のポテンシャルを上昇させたり、ドレイン電圧も表面ポテンシャルを上昇させる要因となる。これが、電荷の流れに障害を与えて、しきい値電圧を低下させ、ドレインとソース間の電圧による出力インピーダンスが低下する。縦方向の電界による移動度の劣化や、横方向の電界による原子運動によるホットキャリア効果の影響といった物理物性の世界は、最も苦手とするところだ。こんなものが理解できるレイアウト屋さんは尊敬してしまう。

4. プロセス
本書は、概念的な製造工程を想像させてくれる。基礎となるp型基板ウェーハの上に、nウェル、ソース - ドレイン領域、ゲート絶縁膜、ポリシリコン、nウェルと基板の電極、メタル配線が形成される。その工程はだいたい以下の手順となろう。
(1) ウェーハプロセス
(2) フォトリソグラフィ(回路のレイアウト情報をウェーハに転写する最初の段階)
(3) 酸化
(4) イオン注入
(5) 成膜とエッチング
(6) デバイスの製造(能動素子、受動素子など)
エッチング中、メタル領域では、イオンを収集し電位を上昇させるアンテナ効果が現れるという。そのため、製造工程中に、MOSデバイスのゲート電圧はゲート酸化膜を回復できないまでにブレークダウンする可能性があるわけだ。ゲート酸化膜にダメージが起こる可能性を最小限にするために、総面積を制限するのが一般的だという。大面積が避けられない場合は、エッチング中に大面積が直接ゲートにつながらないように切れ目を入れたりするわけだ。

2009-09-27

"対称性から見た物質・素粒子・宇宙" 広瀬立成 著

ブルーバックス信者を返上したはずなのに、いつのまにか買っている。もはや泥酔した精神は、衝動には勝てないのか?本書を眺めていると、なんとなく「対称性」を語りたくなる。酔っ払いにとって、自我の対称性を映し出す小道具といえば鏡である。その証拠に、鏡の向こうの赤い顔をした住人が、延々と話しかけてくる。ちょっとうるさいが、その付き合いの良さには感服する。なにしろ、いつも一緒に酒を酌み交わし、いつも一緒に酔い潰れるのだから。

人間の住む宇宙には、実に多くの対称性を見出すことができる。天体の姿には球形といった点対称があり、人類の住む地球も丸い。自転しているのでわずかに遠心力によって外側に膨れてはいるが、軸対称性を保っている。地球にも太陽系にも銀河系にも中心がある。そうなると、宇宙にも中心がありそうな予感がする。量子論者は、物質の誕生には無理やり反物質を登場させてエネルギー保存則になんら矛盾することなく宇宙の起源を説明してしまう。ここにも、物質に対する反物質という対称性が現れる。古代、惑星の運動が円軌道を描くと想像したのも、そこに自然法則の美しさがあると信じたからであろう。
生物に目を向ければ、人体にも左右対称性がある。DNAの二重螺旋構造の美しさには神秘を感じざるを得ない。生と死という対称性を感じるのも、永遠に避けられない現実である。対称性とは、生命の進化の過程で安定性を保つために現れた性質なのだろうか?ポーは、著書「ユリイカ」で、物体の本質は引力と斥力の二つの対称性のみで成り立つと直観的に語った。
数式に現れる左辺と右辺の対称性にも、数学者を虜にする何かがある。実数と虚数、実空間と仮想空間、有限と無限など、対称性を語る用語には限りがない。
科学現象に対称性が現れると、普遍的原理が内包されている可能性を想像する。電荷にはプラスとマイナスがあり、電磁波は電場と磁場が直交する。あらゆる自然現象には、波動や振動が現れ、分解と統合を繰り返す。しかも、波には永遠に直進する性質がある。こうした対称性の美しさに人間の精神が反応するのは、そこに真理があるからかもしれない。
また、人工物の中にも建造物や芸術作品に局部対称性が現れる。芸術家の精神には、対称性の美を求める衝動があるのだろう。合理性と非合理性の葛藤、欲望と抑制の葛藤、感情と理性の葛藤などなど。人間の精神は、主観性には客観性で均衡を保とうとする衝動が働く。あらゆる論争やイデオロギーにも対称性が現れる。政治屋は自らの意見をそれらしく見せるために対抗意見を無理やりでっちあげ、報道屋はあらゆる関係を対立構図で煽る。人間の集団によって引き起こされる社会現象にも、振動を続ける対称性が現れる。保守性と革新性の対立や、自由と平等の綱引きは永遠に続く。哲学的論争も、実存するかしないか、意味があるかないか、いまだに答えが見つからない。
人間の精神は対称性に調和を求め、そこに精神の安住を求めているかのようだ。幸福と不幸の相殺、夫と妻、やはり対になると精神は安らぐということか?ちなみに、アル中ハイマーの精神は、一夫多妻、いやハーレムの方がはるかに安らぐ。

宇宙原理が、創造と破壊を永遠に繰り返すことだとすれば、対称性は安定する力と解釈できる。だとすると、安定を破壊する力も、これまた対称性で説明できるはず。そして、自己言及の罠に嵌り、矛盾の概念を避けることができなくなる。まさしく不完全性定理だ。
人間の住む宇宙には、これまた多くの非対称性を見出すことができる。人体が左右対称とはいえ内臓に目を向ければ、その配置は、機能を無理やり押し込んだようにも見える。心臓は真ん中にはない。右脳と左脳でも働きが違い、左利きや右利きといった現象がある。右脳と左脳の大きさにも違いがあると言われるが、他の動物に比べれば論理的思考が強いのだろう。あらゆる機能が生存競争の過程で合理的に形成される。生物の自己複製能力は、まさしく驚異である。だが、遺伝子システムは、ごく僅かな確率で遺伝子コピーに失敗して障害者を誕生させる。
宇宙は、もともと対称性の高い単純な姿をしていたに違いない。それが対称性を破りながら複雑系へと変化してきた。これがエントロピー増大の法則なのか?宇宙の真理の背後には、ランダム性が潜んでいるように映る。素粒子のように物質の基本をなすものが球形をしているのに、様々な物体はごつごつした岩のような複雑な形状をしている。だが、トポロジーの世界では、これらを同相で抽象化してしまう。もしかしたら、単に人間の目が複雑に見えているだけのことかもしれない。いや!人間の認識が複雑化しているだけで、実はすべての現象は単純のままなのかもしれない。
だが、人間は複雑系を確率論に持ち込んで説明しようとする。量子論では、エネルギー準位によって粒子の存在確率を議論する。コンピュータには、周辺の磁気装置や記憶素子の性質に合わせて誤り訂正機構が組み込まれる。コンピュータは完璧な装置ではなく、確率論に持ち込んで実用レベルに押し上げているに過ぎない。インターネットの検索でも、完璧な検索結果を時間をかけて得られるよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られた方が有用性が高い。
人間社会も複雑系に支配され、その分析は人間の手に負えなくなった。社会で発生する犯罪や事故も確率で議論され、意思決定にも多数決原理が働く。ネット社会を「大衆の叡智」と崇めるウィキペディア崇拝者も少なくない。人間は、真理よりも多数決に身を委ねる方が、幸せなのかもしれない。宗教的精神とは、思考することを放棄して、信じることに身を委ねる。知らぬが仏というわけだ。だが、知った時の反動は、憎悪となって倍増するからおもしろい。
ところで、人間社会は本当に自然法則に従っているのだろうか?対称性が宇宙原理だとすれば、神の存在に対して悪魔を登場させなければならない。となると、人間が悪魔である可能性はないのか?自然法則に従って創造される生命体は、その進化が絶頂となった時に怪物になる可能性はないのか?それが集団化すれば、リヴァイアサンになっても不思議ではない。そして、創造と破滅を繰り返しながら悪魔へと進化した時、仕方なく神が姿を現すのかもしれない。

対称性の美は、非対称性の存在によって意義を持つ。全てが対称性に支配されれば、対称性そのものの議論はなくなるだろう。対称性と非対称性の存在を意識できるのは、その上位から眺めていることになる。すると、これまた上位の対称性に支配され、対称性の階層構造が永遠に見てとれそうだ。対称性を振動と捉えれば、その階層構造も永遠に続いても不思議ではない。対称性を保った美しい状態は対称性を破る方向へと向い、対称性が破れた複雑系の状態は対称性を取り戻そうとする。バネを引っ張れば、もとに戻ろうとするかのように。
ところで、対称性の美しさを本当に理解できるのは、その真中で冷静に眺められる立場にある人たちであろう。量子の世界では、プラスとマイナスを介在しない中性子の存在がある。実は反中性子なんてのもあるらしいが。人間社会には、男女の性の間に挟まった中性が存在する。中性が最も美的感覚に優れているのかもしれない。なるほど、偉大な芸術家にホモセクシュアルと噂される人が多いわけか。

1. 鏡
レオナルド・ダ・ビンチは「絵画論」で、「鏡を君の指導者となすべきである」と語ったという。ダ・ビンチには、鏡を使った光の反射という科学的な視点で絵画を観察する力があったようだ。鏡に映される姿は、真実であるのは間違いないだろう。だから、人は自らの姿を鏡で熱心に観察する。女性は自らの体型を誤魔化すことなく眺めることができる。ただし、平面鏡に限る。なるほど、デパートの試着コーナーに凹レンズを設置すれば、売れ行きも違うわけか。鏡の中にはナルシシズムが現れる。ギリシャ神話に、水鏡に映った自分の美しい姿に見入って水仙の花になったという話がある。自己陶酔に陥るナルキッソスの話だ。これがナルシシズム(自己愛)の語源だという。なるほど、水仙をナルシスと言うなぁ。白雪姫にも「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだーれ?」というのがある。鏡はおもしろいもので、三次元空間を二次元空間に投射しながら、その姿を眺めることができる。つまり、次元の投射である。その性質では、左右が逆になるのに、なぜ上下は逆にならないのか?と、よく話題にされる。本書は、心理学者のおもしろい解釈を紹介してくれる。人間の目は左右の運動に慣れていて、上下運動に慣れていないとか、人体が左右対称となっているだけで、上下対称になっていないからとか、そこには重力的な要素が絡む心理的錯覚がある。いずれにせよ、科学的に説明するのは簡単である。光の進み方は、あらゆる方向に平等というだけのこと。

2. 量子世界の対称性
波は減衰することなく、いつまでも運動を続ける。電磁波の直進性は永続的である。この定常性を失うと永続的な運動はありえない。電子のようなフェルミ粒子は永遠にスピンする。ただ、量子の世界では、粒子性と同時に回折のような波動性も示す。一つの電子を観察するのに、光を当てるという行為では、電子の運動状態が変わるので正確な観測ができない。量子の世界では、もはや素粒子の運動状態において、位置と速度を精度よく決定することができない。複雑系の世界では、エネルギーの総和として観察できても、内部エネルギーは確率論でしか観察できない。ここに不確定性原理の登場を見る。となれば、人間社会のような複雑系では、個々の物体が人間であっても、集団になれば波動性を示して、波動関数が適応されても不思議ではない。マクスウェル方程式は、磁荷が単独では存在しないという前提から構成されるという。となると、モノポールは存在しないのだろうか?量子論では、プラスとマイナスに介在しない第三者の立場が登場する。電子のような粒子が存在すれば、陽電子のような反粒子が存在し、そして、中性子が存在する。ただ、反中性子も存在するようだが、電荷がゼロなのでその区別はつかないという。

3. 重力力学の限界とプランクスケールへの挑戦
電子の電荷は、真の電荷ではないという。1個の電子を真空中に置くと、そのまわりでは光子の放出と吸収が繰り返され、光子から電子と陽電子が対になって発生する。陽電子は中心の電子に引き寄せられ、逆に電子は反発する。中心の電子を囲む真空では、一様な分布からずれた仮想的な電子と陽電子が存在し、その結果、真空の分極が起こるらしい。実験で観測する電荷とは、真の電荷と真空分極の効果が重なったものだという。ここで注意することは、不確定性原理によれば、ある現象の時間が極端に短くなるとエネルギーが増加するということだ。電子と陽電子の生成や消滅は、極めて短い時間に繰り返されると、それらはエネルギー保存則に制約されることなく、非常に大きなエネルギーを持つことができるという。つまり、無限に多くの仮想電子と陽電子の対が存在し、真空分極の効果が無限大になってしまうというのだ。これは、量子力学で必然的に現れる場のゆらぎであって、「紫外発散」というものらしい。「くり込み理論」とは、こうした無限大の手におえない量を互いに引き算して、意味のある有効な量を導き出すという発想から生まれたという。一見無責任な演算にも見えるが。重力を量子論に適応すると、極端に短いプランク距離では、不確定性原理からゆらぎが生じる。二つの電子の間で生じるエネルギーも、逆エネルギーが生じてゆらぎ、エネルギーや質量を確定することができない。エネルギーのゆらぎは、常に同一方向で無限大となり、紫外発散を引き起こす。これは、時空が連続であるかぎり、局所的対称性の理論では避けられない障害だという。統一理論から大統一理論へと邁進した物理学は、くり込み理論とゲージ理論によって邁進してきたが、ここで壁にぶつかる。そこで、素粒子理論に「超ひも」が登場し、プランクスケールへの挑戦が始まる。

4. 超ひも理論の10次元
超ひもが持つ驚くべき性質は、高い次元を持つことである。時間1次元と空間9次元の10次元で構成される。本書では言葉が登場しないが、これがDブレーンというやつか。人類の住む3次元空間は、宇宙原理の限られた次元であることは、なんとなく理解できる。生命体が感じられない次元は、生きる上で認識の必要がないとも言える。いずれ、地球は消滅するだろう。生命が更に長生きを望むならば、突然変異によって、いままで感じられなかった次元を認識する能力を身に付けるかもしれない。科学の発展とは、生命体が生存し続けるための欲望なのかもしれない。あらゆる説明のできない複雑系の現象は、別の次元を加えることによって、エネルギー保存則、運動量保存則といった「不変」あるいは「対称性」の原理に帰着するという。とすると、あらゆる次元が解明された時、結局、ニュートンやユークリッドに帰着する可能性はないのだろうか?偉大な数学者が、若き日に哲学を蔑み、結局哲学へ帰依するかのように。ところで、対称性の概念からすると、存在するということは、存在しないことを意味しないのか?自由意志とは、コントロールできそうで手に負えない。神は人間を自由意志の存在を認識させながら、気まぐれによって支配している。いや!別の次元を登場させることによって、反自由意志なるものが存在するのかもしれない。人間が感じることができるのは重力である。しかし、時折、霊感的なものを感じる。これも別次元から発せられる重力波なのかもしれない。

2009-09-20

"高校数学でわかるボルツマンの原理" 竹内淳 著

ブルーバックスの「高校数学でわかる...」シリーズは、なんとなく買ってしまう。大学時代に数学で挫折した人間は、このフレーズにいちころだ。おまけに、ボルツマンというと、電子工学を専攻して、物性や半導体工学の単位を取るのに苦労した記憶が蘇る。当時は、意味も分からず丸暗記で誤魔化したものだ。というより、教授のお情けで卒業できたのであった。その教授が作成する試験問題は10問ぐらいあって、1問目の答えを利用して2問目、2問目の答えを利用して3問目...という具合にカスケード構成となっていた。つまり、1問目を間違うと全滅する仕掛けだ。前期の試験で失敗すると後期で挽回することが難しい。うちの学部では、卒業までの最大関門とされていた。この教授は、おいらの名前が珍しいものだから講義中にいつも指しやがる。おかげで、ますます性格が捻くれるのであった。本書は、学生時代のいやーな記憶を思い出させてくれる。

ところで、電子回路では、昔から持ちつづけている素朴な疑問がある。半導体ってなんだ?半分だけ導体?これは導体でもなければ絶縁体でもない。外部から熱や光あるいは磁場や電圧といった刺激を与えることによって、電気特性が得られる物質であるが、バンドギャップが狭いからキャリア効果も現れる。しかも、p型とn型をうまいこと接合することによって、この現象も起こりやすくなる。電源など駆動するための仕掛けが必要であるにせよ、電流が金属物質の組み合わせによって増幅できるとはどういうわけか?電流が増幅されるということは、電子の流れを活性化できるということである。バンドギャップ内はフェルミ準位近辺になるというから、電子が移動できるかどうかも確率論に持ち込まれることになる。
また、LSIの歩留まりに目を向ければ、90%でも通常の製造ラインの感覚からすると信じられないほど低い数字である。最新プロセスともなると50%なんてざらで、最高周波数ともなると目も当てられない。ほとんどの生活用品が電子制御される中、こんな不安定な物質が電子回路の素子として主流になっているのも不思議でならない。こうした疑問を抱えながら電子回路の仕事を続けているのも奇妙な話である。人生をいかに誤魔化しながら生きているかという象徴でもあろう。プロでありながら理解度となると、まるで素人並なのだ。そして、工学とは試行錯誤でなんとなく結果が得られればOKという世界である、と言い訳する。この程度の意識しか持たないアル中ハイマーな技術者は、とっとと引退するのが業界のためなのだろう。おまけに、酔っ払いは自由電子の存在を自由意志と重ねつつ、自我の存在を疑う。自我の存在確率は、スコッチのアルコール度数近辺で40%ってところか。

本書のテーマは熱力学と統計力学である。そして、熱力学の延長上に統計力学を位置付けている。熱力学は、熱伝導で代表されるように人間の感覚で捉えやすい世界である。熱力学の第一法則をエネルギー保存則と重ねれば理解もしやすい。熱力学の第二法則では、熱は高い方から低い方へ移動して、やがて平衡状態になると考えれば、なんとなく感覚で理解できる。ただ、本書は、熱力学の第二法則は、様々な表現があって二十面相だという。ここに、エントロピーという言葉の解釈を混乱させる要因があるのだろう。熱力学の段階では、一つ一つの分子の衝突は、まだニュートン力学で説明できる範疇にある。しかし、統計力学の段階になると、人間の感覚では手に負えない世界に踏み込む。量子の世界では、それが粒子でありながら、想像もできない現象を見せやがる。電子で代表されるフェルミ粒子や光子で代表されるボース粒子などは、不確定性に支配された行動をする。あらゆる物体は、固体性と波動性の二重性を持っているのかもしれない。人間が個々で活動する分にはまだ手に負えるが、集団社会となると、波が押し寄せるかのように個人の意志ではどうにもならない。どんなに規制しようが、隙間から干渉現象のようにうまいこと回り込む犯罪者や、都合のよい解釈によって法律の障壁すら摺り抜ける政治家が蔓延る。もはや、人間の理性観念ですら確率論で語るしかできないのか?粒子性と波動性は、複雑系の持つ本質なのかもしれない。これが、エントロピー増大の法則の本性なのか?熱力学にせよ統計力学にせよ、扱う現象は、ほぼエントロピー増大の法則に従う。もし、エネルギー効率100%の理想の熱機関が存在するならば、発生する熱量を全てフィードバックさせて、エントロピーの変化をもたらさないであろう。だが、エントロピーは、断熱系において不可逆変化が起こるところでは必ず増大する。
ところで、サイクリック宇宙論において、宇宙構造は限りなく理想の熱機関に近いという可能性はないのだろうか?だとすると、宇宙は断熱系なのだろうか?宇宙の境界線はどんな空間と接しているのだろうか?という疑問がわく。高温であった宇宙の誕生から膨張を続け、だんだん冷えて、やがて絶対零度に達すると収縮を始め、これを永遠に繰り返す熱機関にも見えてくる。しかし、サイクリック宇宙論は、エントロピーの蓄積から現在の宇宙の平坦性を説明する。となると、宇宙は断熱系で、不可逆変化ということになりそうだ。いや!実は断熱系ではなく、宇宙の外にあるなんらかの次元空間とエネルギーのやりとりをしている可能性はないのだろうか?

1. 動力の発明
人類が初めて人工的な動力を手に入れたのがワットの蒸気機関と言われる。蒸気機関の原型は1712年にイギリスのニューコメンが開発したもので、炭鉱の排水用として使われたという。炭鉱内の事故といえば、落盤やガスによる酸欠、あるいは炭塵による爆発などがあるが、中でも地下水による浸水が大きな問題であったという。ただ、ニューコメンの蒸気機関は、掘り出した石炭の3分の1を動力として消費したので非常に効率が悪い。これを改良したのがワットである。蒸気機関は、石炭を燃やした時に発生する熱エネルギーを水蒸気の分子の運動エネルギーに変換し、これをピストン運動に使う。ワットの蒸気機関の効率は、わずか3%ぐらいだったと言われるらしい。ちなみに、ニューコメンにいたってはわずか1%だったという。当時、熱によって分子運動が生じることが知られていなかった時代である。熱量とエネルギーの関係に取り組んだのがジュールである。ジュールは醸造業の家に生まれたという。なるほど、美味い酒でカーッ!となるところから、熱エネルギーという発想が生まれたわけか。電線に電気を流すと熱が発生する。これがジュール熱である。ジュールはエネルギーと熱量を同等なものと考えた。こうした発想がエネルギー保存則へ導くことになる。

2. カルノーサイクル
カルノーサイクルは可逆過程であって理想の熱機関である。このサイクルでは等温過程と断熱過程がある。等温過程とは、気体の温度を変えない熱過程である。温度が変わらないということは、内部エネルギーを消費しないことを意味する。したがって、等温過程で膨張した場合、気体は外部から熱を吸収することになる。断熱過程とは、外部との熱のやりとりを遮断することである。したがって、断熱膨張では気体の持つ内部エネルギーを消費することになる。カルノーサイクルでは、二つの等温過程と二つの断熱過程を利用して1サイクルを形成する。
(1) 等温過程で、外部から高熱を吸収して膨張する
(2) 断熱過程で、気体の温度が上昇し内部エネルギーによって膨張する
(3) 等温過程で、外部から冷却して収縮する
(4) 断熱過程で、気体の温度が下降し内部エネルギーによって収縮する
カルノーサイクルの特徴は、サイクルを逆回転することができることである。つまり、可逆過程。熱機関で可逆であるかどうかを判断するポイントの一つに摩擦がある。摩擦は運動エネルギーを熱エネルギーへと変える。本書は「摩擦が不可逆過程である」というのが熱力学の第二法則だという。ちなみに、F1では、ブレーキング中に失われるエネルギーを保存して、オーバーテイクなどの必要時に馬力に変換するKERSが話題になっている。
エネルギー効率を高めることが工学の役割であるが、ガソリンエンジンでも効率は20%ぐらいだという。つまり、動力よりも暖房機として優れていると言えよう。ディーゼルエンジンは少し効率がよく40%に達するものもあるという。本書は、最も効率の良い熱機関でも50%に達するものを知らないと語る。ちなみに、動物の生命活動の効率は25%ぐらいなのだそうな。少し運動して汗が出るのも、捨てられる熱エネルギーが大きいということである。そういえば、肥満な人ほど汗をかいているような、汗かきほどエネルギー効率が悪いというわけか。

3. エントロピー
クラウジウスは、カルノーサイクルの(1)と(3)の等温過程で、熱量を絶対温度で割った量(Q/T)は、得るものと失うものとで打ち消し合うことに気づいたという。(2)と(4)の断熱過程で外部との熱量のやりとりはない。したがって、カルノーサイクルの熱量の総和はゼロということになる。これは可逆過程のみで成り立つ。ここでdQ/Tがエントロピーである。理想の熱機関では必ずしもエントロピーが増大するわけではない。クラウジウスは、エントロピー増大の法則が成り立つ条件として、断熱系と不可逆過程が同時に成り立つ場合としている。これは、熱が不可逆性に支配されることへの帰結ということだろうか。となれば、熱機関では必然的にエントロピーが増大することになる。

4. 気体分子運動
気体を分子の集まりと考えて分子運動に力学を適応し、気体の圧力を最初に導いたのがベルヌーイである。その後、気体分子運動を発展させたのが、マクスウェルとボルツマンである。とはいっても、個々の分子の振る舞いを語ることは不可能である。よって、気体のエネルギーは分子運動の総和として計算される。ただ、固体となると、分子運動が完全に自由というわけにはいかないので事情が異なる。気体と違って原子の回転運動も起らない。それでも、固体の中の原子は微小な振動をする。温度が高いほど、その振動も激しくなる。気体分子運動を唱えたところで、まだ分子の存在が証明されていない時代である。その論争に、マッハは攻撃し、ボルツマンは防戦するといった構図があったという。電子の存在を明らかにしたのは、トムソンやミリカンの実験である。更に、ラザフォードによって原子核が発見される。アインシュタインは、ブラウン運動を分子のランダム運動による衝突によって起こる現象だと考えたという。アインシュタインの論文には、「光電効果の理論」と「特殊相対性理論」の陰に隠れがちな「ブラウン運動の理論」があるという。

5. 統計力学
気体の分子が持つエネルギーは、全てが同じではない。個々の分子にはそれぞれ大小のエネルギーがある。よって、高いエネルギーを持った分子の集まる部分とか、低いエネルギーを持った分子が集まる部分といった現象がある。このエネルギー分布は統計力学によって求められる。気体分子のエネルギーを表すのが、マクスウェル・ボルツマン分布で、ニュートン力学から導かれる粒子を元に計算される。そして、その総和(ベクトル和)が統計力学として求められるわけだ。とはいっても、全てのベクトル方向を予測できるものではない。どうしても確率論に持ち込まざるを得ない。よって、最も起りやすいエネルギー分布として議論することになる。そこで、登場するのが、「ラグランジュの未定乗数法」である。
しかし、電子の運動は、マクスウェル・ボルツマン分布ではなく、フェルミ・ディラック分布に従う。他にもマクスウェル・ボルツマン分布に従わない粒子が存在する。ニュートン力学では扱えない粒子である。電子などフェルミ・ディラック統計に従うのがフェルミ粒子。光子などボース・アインシュタイン統計に従うのがボース粒子。電子の特徴は電荷を持っていることであり、外部からの電磁場でかなり自由に操れる。一方、光子は電磁場による直接的な影響を受けないので遠くへ飛ばしやすい。したがって、現在の通信手段で最も大きな容量をささえているのが、光ファイバーということになる。通常の粒子は二つあれば、その区別がつく。しかし、フェルミ粒子やボース粒子は、その区別がつかないという奇妙な性質がある。おまけに、フェルミ粒子は「パウリの排他原理」の制約に従う。

6. フェルミ・ディラック分布とボース・アインシュタイン分布
フェルミ粒子は、絶対零度でフェルミ・エネルギーの大小関係で存在確率が0%か100%のどちらかになるという。だが、室温では、フェルミ・エネルギーで存在確率が1/2になるという。その中間的な位置は、お湯を沸かした例で説明がなされるのは分かりやすい。分子が水として存在するものと、水蒸気として存在するものに分かれ、水面がフェルミ・エネルギーというわけだ。あらゆる原子は、原子核と電子でできているので、電子の分布が観測できれば、物質自体の分布を観察することができる。フェルミ・ディラック分布は、電子の分布を論じたものであり、固体物理学や半導体工学で重要な役割を果たしている。
では、ボース粒子はどうなるのか?アインシュタインは、分子間に相互作用のない理想気体を冷却すると、ある温度以下では最もエネルギーの低い状態に多数の粒子が集まることを理論的に導いたという。例えば、液体ヘリウムの超流動現象である。液体には水のように粘性があるが、ボース粒子は冷却していくとその粘性がなくなるという。そして、超流動状態になると、分子1個しか通れないほどの隙間を抜けたり、容器の壁をよじ登って外にあふれたりといった面白い現象が起こるという。まさしく量子の世界は何が起っても不思議ではない。量子の世界では、エネルギー障壁を越えるトンネル効果という現象もある。

7. ボルツマンの原理
ボルツマンの原理は、エントロピーの統計力学的な表現であるという。
「ある系が、場合の数の多い状態に向かって変化していく。」
エントロピーというと、一般的には「乱雑さ」と表現される。なるほど、乱雑さを「系の場合の数」と考えればいいようだ。「系の場合の数」は、「存在確率の最も高い分布の場合の数」へと近似される。そして、安定な分布の場合の数となり、この数が増える方向へ分布するという。より安定状態に変化するというのが、エントロピー増大の法則というわけか。

2009-09-13

"Beautiful Code" Brian Kernighan, Jon Bentley, まつもとゆきひろ 他著

冒頭には、竹内郁雄氏の「推薦のことば」が記される。
「...プログラムコードには、およそ人が「書く」もののエッセンスのほとんどが詰まっている。よい問題解決に始まり、設計、製造、検査、保守改良に至るソフトウェアのライフサイクルをきちんと制御する能力の大半は、実は文章の力であり、文章の力はよいコードを書く力とほぼ等価である。つまり、「美しいコード」を書けるということは、たとえ、コードを書くチャンスがなくても「美しいソフトウェア」を開発できるということなのだ。...」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころなのだ。本書には、33ものプログラマによるエッセンスが熱く語られる。そこには、一流と言われる技術者たちの哲学や美学が現れる。そして、プログラムを書くということは、単に記号を打ち込むというものを超越した世界があることを教えてくれる。
ところで、プログラムを書くことと文章を書くことが等価であるならば、ごちゃごちゃな文章を書くアル中ハイマーは、いつもスパゲティコードを書いていることになる。ちょっと落ち込むなぁ!それにもめげず、今宵も酔っ払った文章を綴るとしよう。ちなみに、おいらはソフト屋ではない。電子回路に実装するためのアルゴリズムやアーキテクチャを設計するハード屋である。それでも、検証モデルを構築するためにプログラムを書く。また、回路設計ではハードウェア記述言語を用いるので、本書がまるっきし別世界というわけではない。むかーし、組込み系のソフトを作っていた時代もある。リアルタイムOSとまではいかないが、リアルタイムモニタ程度の規模でOSもどきを作っていた。はたしてその実体はハード屋か?ソフト屋か?いや、雑用係だ!したがって、アル中ハイマーは、ハードボイルドをモットーに、ソフトなピロートークを持ち味に生きるのであった。

コンピュータの分野が客観の領域にあるのに対して、「美しさ」という感性は主観の領域にある。プログラムは正確に動作しないと全く意味をなさない。正しいか間違っているかは客観の領域にある。ここに、ソフトウェアの本質は主観と客観の双方の領域をまたぐことになる。ポール・グレアム氏の著書「ハッカーと画家」では、プログラマの芸術的感覚に迫っていた。客観に固執したところで所詮は人間のやることであり、主観を無視することもできまい。いや、むしろ主観の領域にこそ、技術者の哲学や美学が顕になる。こうした感覚は経験則から培われるところが大きい。自らの失敗を振り返り、より効率性を求めた結果、技術者の細かいこだわりが現れ、それが「美しさ」への探求へと進化する。こうした過程は、技術者の生き方を物語っていると言ってもいいだろう。
プログラムに求める美しさには、外観の美しさ、インターフェースの美しさ、構造上の美しさ、数学的単純さ、アルゴリズムのエレガントさなどがあり、その視点は多様である。ただ、共通して言えることは、ある機能をソフトウェアで実現するということである。つまり、実現性を前提とした芸術性の探求である。
プログラムに現れる効率性や移植性や柔軟性といったものには、芸術家を思わせるものがある。すべての要素が調和した時にのみ、信頼性と美が融合した時にのみ、コード作成者に対して芸術家に対するのと同様の敬意が表される。それがシンプルで長期間に渡って恩恵を与えているものであれば尚更。しばしば、入門書に登場する決まり文句も、発案者への敬意として使われる。単純な数学的考察であっても、ユークリッドは永遠に崇められるであろう。
美しいプログラムを書きたければ、美しいプログラムを見ることだとは、よく言われる。確かに、優れたプログラマのコードを眺めるだけでも勉強になる。優雅さと経済性を見せ付けられれば、そこには美しいコードとなる要素があるはず。科学の美的感覚は単純さを求めるが、プログラムにも同様の感覚がある。ただ、コンパクト過ぎると逆に読み辛い場合もあれば、難しいテクニックで記述を短縮して理解し辛い場合もある。コードが処理速度に制約を受けることもあり、自由に書けるとは限らない。プログラマの腕の見せ所は、コンパクト性とメンテナンス性のバランスの按配であろう。

データ構造の抽象化によって一般化する様式は、美的感覚を共有することができる。非連続性のデータ構造に対して強力なイテレータが登場すれば、一般化したコードが書きやすくなる。これも外見の美しさである。美しさを感じないが、どうしても避けられない機構もある。例えば、正規表現は文字列操作には欠かせない。これは非常に便利な機構であるが、方言があるのも事実だ。正規表現でしばしばイライラさせられるのは、そこに暗号めいた記法があるからである。それでも、酔っ払いには決まったいくつかの正規表現だけで、ほとんど事足りる。
また、美しさというよりも、むしろ一貫性と捉えるべきものがある。unix的な慣習で見られるようなドライバモデルには、その外見に一貫性が見られる。システムコールが提供するopen/read/write/closeパラダイムは、入出力装置の性能を最適化してバッファリング効果を助ける。そして、アプリケーション側でタイミングを制御するflush操作が実装される。
プログラミング言語の選択も、作業効率を求める手段となろう。連想記憶といった機構を使いたければ、それを実装した言語を使いたい。RubyやPythonのような動的な言語には、連想記憶を定義する構文が用意されている。テキストの行に、正規表現を当てはめたり構文を当てはめたりする思想は、awkのような言語から受け継がれる。ネットワークのプログラムでは、CレベルのAPIを使うところに鬱陶しさがある。また、しばしばOS間での互換性の問題も発生する。それでも、フレームワークや言語仕様などで、低レベルのAPIをカプセル化し、使いやすくはなっているのだろう。最近のことはよく知らんが。
こうしたものをすべて「美しい」という言葉で括れるのかどうかは、判断の難しいところである。ただ、技術者に思想や哲学の方向性を示してくれるのは、共通認識を与える効果がある。

経験上、一度やった仕事は、もう一度やればもっとスマートにやれると、必ず反省する。だが、同じような仕事を繰り返すことは滅多にない。反省も再利用と移植性に富んだものにしたいものだ。おいらの場合、仕事の美しさを上流工程に求めるところがある。上流工程の重要性は、かつて所属した企業で伝統的に先輩から叩き込まれたような気がする。おかげで、早い段階から仕様の疑問に飛びつく癖がある。システム構成の変更は、後の日程に大きな影響を与えるからである。事前検討がしっかりなされた仕様は、なによりも日程を正確に見積もれる。日程で一番厳しい状況にあるのは検証期間であろう。検証効率を上げるためにも上流工程は重要である。
また、プロジェクトには、哲学的意識をメンバーで共有するのも重要であろう。哲学的意識はプログラムの書き方にも影響を与える。手段であるプログラミング言語の選択も難しい問題である。より効果的な言語が存在するはずだが、スキルによって制限される。ちなみに、最近遊びで書くコードはRubyばかり。酔っ払いには、動的な記憶領域の管理などランタイム機構に任せるのが身のためである。そこで、スクリプト言語を多用することになる。とはいっても、だんだん保守的になって手段もワンパターン化してきた。新しいことも遊びでしか試さない。そんな時、「もう歳だねぇ!」と声をかけられると過剰に反応するので、周りはおもしろがる。もともとはデータの型が明確でない言語を嫌う傾向にあったが、だんがん面倒になってきた。Ruby開発者のまつもとゆきひろ氏によると、型も大切だが言語の本質ではないと語ってくれるのは心強い。

本書は、いろいろな専門分野における主観的観点が覗けるのがおもしろい。それほど美しいと感じないものもあり、感覚の違いが体感できる。また、プログラムに対する謙虚さの大切さを教えてくれる。クヌース先生は、2分探索が公表されてからバグのないコードが公表されるのに12年以上経っていると指摘したという。もっと驚くべきは、何千回も実装され作り変えられてきたベントリーの公式の証明済みアルゴリズムでさえ、配列が大きくアルゴリズムが固定小数点演算を使用した言語で実装されているときに出現する問題があるという。ちょっとおもしろいエピソードでは、スティーブン・レビーの歴史古典「ハッカーズ」にビル・ゴスパーの「データはバカバカしい種類のプログラムである」というのがあるらしい。逆に言うと、「コードはスマートな種類のデータである。」というのが導かれるわけだが、このことから、チャールズ・ペゾルド氏は、次のように語る。
「プログラムとは、CPUが何か役立ったり面白いことをする引き金となるようなデータというわけです。」

さて、あまりにも多くの中から、ちょっと興味を持ったものを摘んでおこう。

1. クィックソート
「私が書いたことのある、一番美しいコード」として紹介されるのがクィックソートである。ソート処理で重要なのは、いかに比較の回数を減らすかであろう。そこで注目すべきは、選択される比較の対象をランダムで選ぶところである。ネット検索など、ランダム性を利用したアルゴリズムで処理の効率化を図るシステムは多い。完璧な検索結果を時間をかけて得るよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られる方が有用な場面では、確率論に持ち込むアルゴリズムが有効となる。
本書は、その実行時間の分析を、ソートプログラムを使って計測しているのは分かりやすい。ゲーテの言葉「建築は凍りついた音楽だ」をもじって、ジョン・ベントリー氏は、「データ構造は凍りついたアルゴリズムだ」と語っている。そして、クィックソートのアルゴリズムが凍りついたら、そのデータ構造は2分木になると。なるほど、クィックソートのデータは、2分探索木のような構造になる。クヌース先生も、2分木構造の処理時間はクィックソートと類似した漸化式になると言ったという。

2. BioPerl
BioPerlは、生物情報学向けのラピッド開発ツールキットだという。これはDNAとタンパク質の解析、系統木の建築と解析、遺伝子データの解釈、ゲノム配列の解析などのモジュールを提供するのだそうな。本書は、Bio::Graphicsの例を使って、そこで使われるオブジェクトクラスを紹介している。ただ、これがPerlで書かれていることに驚いた。暗号っぽい言語は、遺伝子暗号を解読できる道具となっているというわけか。簡単にカスタマイズや拡張される様子を眺めていると、つい読みいってしまう。Perlは、あまり好きな言語ではないのだが、時々要求されるので仕方なく使う。

3. 遺伝子ソータ
遺伝子ソータはCGIスクリプトで、web上でユーザとの対話管理で使われるという。CGIスクリプトは提供する側のマシンで動く言語ならなんでもいいわけだが、これはC言語で書かれているらしい。少々大きめのプログラムで構造上の美しさを語っているが、要するにオブジェクト指向設計になっている。

4. ガウス消去法(LU分解)
コンピュータの技術革新で、アーキテクチャの変化に応じて、アルゴリズムも変化する場合がある。その例として、連立一次方程式を解くためのガウス消去法を紹介している。これは線形代数では欠かせない行列に対する操作アルゴリズムである。LU分解は、数値演算言語で実装されている関数なので、おいらは無条件に利用している。線形代数のカーネルであるBLASやLAPACKは、気まぐれで中身を覗くこともあるが、何も知らずに使う方が幸せである。
ベクトルマシンが登場すれば、行列アルゴリズムをベクトル化することに、一層の意味があるだろう。マルチコア化が進めば、並列アルゴリズムが有効となる。マルチスレッドによってブロック分割アルゴリズムを、ベクトルや行列レベルの演算で高度にチューニングすることもできる。

5. MapReduce
MapReduceは自動的に並列実行されるもので、gさんが開発した。実行時にシステムが入力データの分割を担い、一群のプログラム実行をスケジュールし、マシン間の通信を管理する。つまり、並列分散システムの経験がない技術者でも、大規模な分散システムの資源を容易に利用できるというわけだ。これは、並列処理の抽象化とでも言おうか。MapとReduceに分離して並列処理する仕掛けは、Mapでレコード毎の処理を定義し、Reduceで繰り返し処理を定義し、それぞれMapとReduceのドライバが管理するといった具合。この分離というか抽象化をうまいことやれば、かなり精度のよい並列処理が実行できるようだ。これはなんとなく凄い!

6. Schemeのsyntax-case
コードとデータは、通常はっきりと区別される。ただ、コンパイラから見れば、コードも単なるデータである。合理的に眺めれば、コードとデータはバイト列に過ぎない。こうした感覚は、lispの哲学が内包されているように思える。プログラムとデータが同じ形式というか、プログラムにはそもそも構文らしきものがないというか。lispには、そうしたなんとなく謎めいたものを感じるからである。構文の抽象化という意味で、Lispには昔から興味を持っているのだが、いまだに手を出せないでいる。

7. Emacspeak
emacsがただのエディタではないことは分かる。メールを読んだり、webを閲覧したり、シェルコマンドを実行したり、多様な用途のプラットフォームもどきになっている。周りには、マウスに頼った操作が嫌いな人で、emacsを愛用する人も多い。emacs-lispを実行できるところに、即テストできるという馴染みもある。
本書は、音声デスクトップ環境としての、Emacspeakを紹介している。完全な音声のみのデスクトップ環境というところに、emacsの可能性を垣間見る思いである。そこには、障害者向けの環境構築といった可能性がある。

2009-09-06

"ユリイカ" Edgar Allan Poe 著

本書を知ったのは、ポール・ヴァレリーの短編「ポーのユリイカについて」を読んだからである。そこには、自然科学を情熱的に語ったものだと絶賛していた。ヴァレリーの論評した作品は是非読んでみたい。
ところで、エドガー・アラン・ポーというと、推理小説のイメージしかない。だから、江戸川乱歩も名前をもじったのだろう。本書は、科学書という意外性が余計に興味をそそる。訳者八木敏雄氏によると、ポーは旅先でこんな手紙を残したという。
「...私は死なねばならないのです。ユリイカをなしおえてしまったので、もう生きていく意欲がありません。...」
そして、ボルチモアで客死する。享年40歳、路上で倒れているところを病院に運ばれ、そのまま死んだという。なんとなくガウディの死を思わせる。その死因は酒の飲み過ぎかどうかは分からない。この残された言葉には、「ユリイカ」に自らの生き様を託した情熱が伝わる。

ポーは、宇宙論を徹底して直観のみで語ろうとする。ここで注目すべき概念は「一貫性」である。彼は、真理を発見する唯一の方法は一貫性に頼るのみと主張する。科学の世界には、プラトン時代から継承される哲学がある。それは、どんな複雑な現象も、背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じる執念である。エンジニアの世界にも「Simple is the best.」を信仰している人は多い。しかし、現在、人間は複雑系と対峙する。もはや、人間の手に負える知的領域に留まっているのは、ユークリッド幾何学のみに思える。現代の物理法則は、世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。数学では、いつも割り切れない少数が残り、人間は不安と不徹底感に苛む。こうした光景を眺めていると、ポーの愚痴が聞こえてきそうだ。
ポーは言う。数学者たちがいかに主張しようとも、公理の証明などありえないと。それは、単に真理が存在するだけで、それを証明できるのは神だけだと言っているかのように。おまけに、宇宙を包括的に概観した論考の存在を知らないと、科学者を挑発する。
「論点の多様性は、必然的に細部の累積と概念の錯綜をもたらし、印象の全体性の把握をさまたげる。」
ポーは、科学が精神的な気質の持ち主による考察がなされないことを嘆いている。そして、宇宙を不可分な全体として如実に実感できるような宇宙の観察法を提示する。山頂で荘厳なパノラマを旋回しながら全体を眺望するような、そうした宇宙の眺め方とでも言おうか。あらゆる真理が自明であれば、公理から論理的結論が容易に導かれ、悩みも単純になるはず。真理が自明ではないから、哲学的あるいは精神的考察が繰り返され、悩みの根源も見えない。人類は永遠の試行錯誤の中を生きるように運命づけられるようだ。
更に、ポーは続ける。ただ直観に従うことによってのみ真理へ近づくことができると。ガウディも似たようなことを語っていた。自然法則を見つけるためには絶対に直観に忠実であるべきだと。
ところで、直観は限りなく主観の領域にある。芸術は主観性の領域にあり、科学は客観性の領域にあるというのが一般的な見解であろう。古くから哲学的な論争に、理性と芸術の衝突がある。科学者の中には、芸術的主観や直観的方法を蔑む人も少なくない。彼らはもっぱら客観的論考のみを推奨し、主観的思考を排除しようとする。だが、科学は天才たちの直観によって発展してきた歴史がある。客観性を主張する科学者ですら、人間のご都合主義に嵌ってしまった例は多い。説明ができないからといって、真理から遠ざかった他の方法で仮説を匂わせ、エーテルの存在をも示唆してしまった。主観と客観は人間の持つ本質であって、真理を探究するにはどちらからも逃れられない。
アル中ハイマー曰く、「主観と客観の双方を凌駕してこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。」

なんといっても、本書の迫力は、科学を徹底的に直観で言い尽くすところにある。直観的憶測法とでも言おうか。まるで科学的思考を否定しているかのように。これは科学への挑戦か?そして、アリストテレス的な演繹的方法論と、フランシス・ベーコン的な帰納法的方法論の双方を皮肉る。だが、直観で語るとは、どんな方法論を用いたところで、人間が認識できる閉じられた領域で議論されているに過ぎない。人間の認識できる宇宙は、特異点という限られた世界でもがき続ける。はたして、限定宇宙の中で、哲学的論考だけで真理に近づくことができるのだろうか?アリストテレスにしてもベーコンにしても、彼らが自負しているほど深遠な論考ではないのかもしれない。
本書に展開される宇宙論は厳密な科学論文などではない。既に確立された真理への方法論に対する揶揄に過ぎない。そこには、科学への愚痴っぽい話を詩的な表現で綴られる。だからと言って、本書が科学の領域から飛び出しているとも考えにくい。物質的宇宙論に対する詩的宇宙論とでも言おうか。詩的思考が真理を導く可能性がないとも言えないだろう。本書はむしろ芸術の領域に近いが、それでも科学の領域に違和感なく存在し続けるような不思議な世界がある。もちろん、神学の世界でもない。なぜか?こうした科学の精神的な考察には癒されるものがある。それだけ歳をとったということか?いや!それはありえない。アル中ハイマーの年齢はモジュロ計算とともに常に生まれ変わるのだから。サイクリック宇宙論のように。そして、周りの人々はどんどん追い越していく。あれ?宇宙は、膨張と収縮を繰り返しながらエントロピーを蓄積してるんじゃなかったけか?なるほど、歳を重ねるとは、エントロピーの蓄積を意味するようだ。
本書は、物質の基本要素を「引力」と「斥力」の二つのみと断定し、宇宙構造をこの二つの要素のみで語る。そして、二つの基本要素を「神の心臓の鼓動」と表している。
ところで、物事の本質を探求することは、よりプリミティブな方向へと向かうのだろうか?科学は宇宙を解明するために原始粒子を探求する。芸術は美を解明するために自然を探求する。哲学は人間精神を解明するために実存と対峙する。そして、人間は最高位の価値観である幸福のために「笑い」の感情を求める。プリミティブな「笑い」には、箸が転がるだけで笑える感覚にこそ本質がある。したがって、アル中ハイマーは女子高生に弟子入りしようと、逆援助交際を目論むのであった。

1. 無限の概念
人間の認識は、無限の概念をあっさりと受け入れる。人間はなぜ?このやっかいな概念を受け入れられるのだろうか?微分という数学の道具を使って「無限」に近づこうとする。だが、永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。逆に、「有限」の概念を考察すれば、それだけでは語れる世界が狭いことに気づかされる。「無限」の概念は、単に「有限」との対比として存在するだけなのかもしれない。単に、「無限」の概念を受け入れながら、精神の安住を求めているだけのことかもしれない。
ところで、本当に限界に達してしまうから有限なのか?有限と無限の境界には、いったい何があるのか?「俺は酔ってないぜ!」と永遠に酔っ払っていることを否定し、どこまで飲めるか限界を試す。だが、記憶を辿れないから永遠に飲める量が解明できない。つまり、有限も無限もその境界線は永遠に解明できないというわけだ。そこで、アル中ハイマーはある結論に達する。表面的には酔い潰れてその場に寝込んでいる状態が有限の概念であり、精神だけが「ああ気持ちええ!」と幽体離脱した状態が無限の概念であると。人間は、無限という実体があるのかも分からない言葉に惹かれる。人間の精神には、幻影を追いかけ続ける性質があるのだろうか?得体の知れない観念を熱烈に求めるのは、人間の持つ本質なのかもしれない。だから、実りもしない愛を求めるのだろう。愛は実を結んだ途端に興ざめするものである。

2. 引力と斥力
すべての物体は原子粒子から構成される。宇宙も原始粒子から成り立つ。では、原始粒子はどこまで極小なのだろうか?引力によって、原子相互作用の中で物質の構成が維持されるが、双方の原子が無限に接近しても接合することはない。そこに斥力が存在するからである。斥力は絶対に極小粒子の融合を許さない。引力はニュートンの重力法則によって説明される。では、斥力の正体は?時には熱、時には磁力、時には電気であって、二つの物体の異質性の原理に基づく。これは、二人の男女がどんなに愛し合って合体しようが、決して心が一つになることはありえないことを教えてくれる。人を強制しようとすると必ず反発力が発生する。
本書は、引力と斥力の基本原理を、物質的なものと精神的なものを融合しながら語る。引力を肉体とするならば、斥力は魂という形で表現しながら、前者は物質の本質を暴こうとし、後者は精神の宇宙原理について考察する。そして、宇宙は引力と斥力によってのみに支配され、物質の正体は引力と斥力の要素のみで説明できると主張している。これは、人間の死で、肉体が亡びると魂も亡びると言っているのか?これは、どこぞの宗教を否定しているのか?酔っ払いの解釈はますます拡がる。

3. 拡散宇宙
本書は、拡散の均等性から真理へ迫ろうとする。そこにはビッグバン説とも言える世界がある。ポーが生きた時代からするとビッグバン説はずっと後に登場するが、観測的な知識があったのだろう。それとも、宇宙創造説という宗教的思想からの派生か?ここでは想像するしかない。星が宇宙空間に無限に拡散している状態を説明するには、放射の観念を必要とする。その出発点を絶対的な点とするならば、現存する宇宙はこの点からの放射の結果ということになる。本書は、これを光の現象で説明する。つまり、光は発光地点を中心に放射される。放射が距離の二乗に比例して拡散すると仮定するならば、逆に物理現象である集中は距離の二乗に反比例して収縮することになる。そして、放射された物質が復帰する仮定には、重力の増大という直観的結論に達する。まるで拡散宇宙にブラックホールを対比するかのように。
ところで、拡散の均等性には真理があるのだろうか?天文学では、ビッグバン説を補完するためにインフレーション理論が登場した。つまり、宇宙の平坦性を説明するために、瞬間的な膨張期間があるという仮説である。だが、本書の思想からすると、こうした特異期間を持ち出す発想そのものを嘲笑している。現在ではサイクリック宇宙論の登場で、拡散と収縮を繰り返しながら徐々に宇宙が巨大化したという説が有力である。そうした時代の流れを、本書は先取りして直観的に示唆していたのだろうか?
「反作用とは現状の、そして不当な状態から、原初的既往の、それゆえに正当な状態に復帰せんとする傾向のことである。... そして、その反作用の絶対的強度は、もしその原初の事態の実体、真実性、絶対性、を測定しうるとするならば、それらと常に正比例するにちがいないのである。」
この言葉は、拡散宇宙が、いずれ収縮に向かうことを示唆しているかのかもしれない。
ところで、爆発的な人口増加や、複雑化する人間社会は、エントロピー増大の法則に従っているのだろうか?いずれ反作用によって、人口増加は減少に転じるのかもしれない。ただ、宇宙の規模に比べれば、人口増加など些細な現象である。人類が一瞬のうちに滅亡しても、些細な特異点として片付けられるだろう。人間の存在は、宇宙法則の中に紛れた気まぐれな特異現象の一つに過ぎないのかもしれない。

4. 生命の進化
「地球の生命力の進化の度合いは地球の収縮の度合いと一致するという命題に到達する。」
動物の系譜をたどると、地球の収縮が進行するにつれて、より優れた種類の動物が出現したという。地球上の変革が起こるたびに、それにともなった生命体の進化があったと。ここでは、地球に及ぼす太陽の影響力が変化するたびに、生命体に影響がもたらされるという仮説を立てている。
そういえば、子供の頃、太陽系を眺めた時、直観的に太陽を原子核、惑星を電子と重ねたものだ。そして、どんな小さな空間にも、極小の宇宙が無数に存在するのではないかと想像したものだ。自然法則が引力と斥力のみで支配されるならば、太陽系はすばらしい原子モデルである。それも、学校帰りのラーメン屋でいつも考えていた。スープの中にも宇宙があって、極小の生命体が存在するかもしれないと。麺を浸すと、スープの波が発生して突然の宇宙変革が起こるなどと。また、生命体の大きさは、そこに住む天体の質量によって相対的に最適化されるに違いないと考えたりもした。時間の概念も、生命体の住む天体の質量に応じて、長さの感覚が得られるのではないかと。同じレベルで考えるならば、人類の住む宇宙はグラスの中に注がれたアルコールの中に存在するのかもしれない。そして、太陽系はアルコール原子だと考えれば、俗世間に酔っ払いが溢れるのも説明ができる。酔っ払いは同じ言葉を同じ調子で口走る。これがステレオタイプというわけだ。時代が経てば、アルコールの熟成度も上がって、強烈な酒へと変貌していく。そして、人間社会の泥酔度も増していくのだろう。
ところで、科学の進歩に限界があるのだろうか?と考えることがある。科学の進歩は、宇宙の誕生から消滅までの仮定に同期しているのではないかと。つまり、現在は宇宙の青年期で、科学の進歩には無限に広がる可能性を感じる。いずれ膨張が停止すると、科学の進化も壮年期に入り、過去の知識に立ち返り、立ち止まる運命を背負う。そして、宇宙が収縮し始めると、科学は結末の覚悟を決める。この時に、人間は絶対的な価値観を会得できるかもしれない。ただし、宇宙消滅まで人類が存続できればの話だが。

2009-08-30

"反社会学講座" Paolo Mazzarino 著

さて、今日は国政選挙だ。とはいっても、いつも期日前投票で済ませる。今回は異様な盛り上がりを見せるが、政権交代したところで、巨大官僚体制に変化をもたらすことはできないだろう。ひょっとしたら、もっと酷いことになるかもしれない。だが、いつかは混乱期を迎えなければ、政治家も民衆も目が覚めないだろう。大物議員が落選すれば、派閥の性格も変わるかもしれない。日本社会は、その混乱期を経験することを、ずーっと先送りにしてきた。おかげで、行政をマネジメントできない政治家たちが蔓延り、ついに巨大官僚体制が完成してしまった。政治や行政の検証を怠ってきた付けがまわっているだけのことである。いずれにせよ、政局の安定までにはかなり時間がかかりそうだ。それまでは官僚支配が続く。さて、あと何年か?いや何十年か?民主主義への道はまだまだ長い。日本社会は、まだ政策論議の段階まで辿り着いていないのだろう。
ところで、選挙といえば、わけの分からない仕掛けが何十年も亡霊のように居座り続ける。その代表が、最高裁の国民審査であろう。投票用紙に×印を書かなければ、自動的に信任されるとは、これいかに?そもそも罷免された例があるのか?信任方向にバイアスがかかる仕組みが、民主主義のシステムだとは思えない。社会の反抗分子としては、全て×印を書いてきたが、最近はネット情報で判決状況が容易に分かるのがありがたい。インターネットというメディアが一般の報道機関を補完する役目を担っているのも事実である。また、選挙区の規模に目を向けると、国政選挙は小さな地方選挙の規模に過ぎない。だから、地元への癒着が強すぎて国政を疎かにする。知事選の方がはるかに多数から支持されるのだから、知事の方が権威があってもよさそうなものだが。国会議員の権威を持たせる意味でも、議員数を思いっきり減らすしかあるまい。更に、一票の格差にしても、民主主義のシステムとして妥当なのか?などと仕組みにかかわる疑問は多い。にもかかわらず、政党論争にかかわる情報は氾濫しても、選挙システムそのものの欠陥を指摘する情報があまりにも少ないのはなぜか?なるほど、民主主義のシステムを話題にしたところで、ワイドショーとしては成り立たんというわけか。

それはさておき、酔っ払った天の邪鬼は、あえて反社会学のネタを選ぶとしよう。どんな学問や思想にも、主流派と反主流派がある。アル中ハイマーは概して反主流派を好む。まさしく、本書は反主流派に属すもので、社会学をパロディーで綴り、社会学者を思いっきり皮肉る。そして、アンケートの調査や統計データだけで、あらゆる人間の心理状態までも結論付けてしまう学者たちのスーパーテクニックを披露してくれる。どんな現象も統計データで武装すれば見映えがいい。そして、前提条件を隠蔽しながら都合の良いデータばかりを強調すれば、見事な統計マジックの出来上がり!
本書は、社会学とは、社会学者の個人的な偏見を屁理屈で理論化したものだと指摘している。世間でいう「こじつけ」を社会学では「社会学的想像力」と呼ぶそうな。麻薬の実態調査では、アメリカにおける意外と低い数字を紹介しながら、本当に裕福な格好をした社会学者が、命がけでスラムに出向いて調査したのか?と疑問を呈する。そういえば、不思議な統計に性行為の時間というものを見かけたことがある。それも各国別に集計されるからおもしろい。そして、日本人は淡白と評価される。しかし、誰か見たんかい!見栄もあれば愚痴も吐く。性行為の手段もまちまちだろう。見詰め合う時間?手が触れ合う時間?それとも合体時間?まだしも、満足度や円満度で調査した方が良さそうなものだが。ちなみに、アル中ハイマーは前戯に目がない。
マスコミは性懲りもなくヤラセ報道を続ける。ナレーションもドラマチック!視聴率戦争とは恐ろしいものだ。だが、視聴率って本当に信頼できるのか?従来の民放を観るという人も思いっきり減ったような気がするが、たまたま酔っ払いの周辺だけか?
本書は、社会学者と心理学者が組んで、それにマスコミが加われば、世界征服も夢ではなくなると言わんばかりに捲くし立て、思わず!ニヤけてしまうような作品である。もちろん、アル中ハイマーはこれを正統派社会学と解釈している。

マッツァリーノ氏曰く、「問題は、自分をダメな学者だと自覚している学者は、一人もいないということだ。」
「社会学的な方法論とはなにか?それは、世の中が悪くなったのは、自分以外の誰かのせいだと証明することです。」

日本社会には実に多くのタブーが存在する。タブー化しながらエセものを寄生させる背後には、マスコミや権力者の影を感じる。だが、タブーを避けていては議論は空論化する。マスコミなどで露出される学者や識者たちが、本音を避けているのか、ほんまに鈍感なのかは知らん!ただ、マスコミに信頼を持てない人が、マスコミの誘いに乗って出演するのも奇妙な気がする。近年では、少子化タブーや環境タブーも登場する。本書はこうしたものにも突っ込みを入れてくれるので、ストレス解消によい。
ところで、著者パオロ・マッツァリーノ氏とは何者なのか?父親は寡黙な九州男児でマッツァリーノ家に婿養子、母親は花売り娘。父親の仕事は家族の間でも謎で、深夜に出かけることが多いことから、スパイかマクドナルドの清掃員ではないか?という。マッツァリーノ氏自身は、千葉県に住み、講師の他に立ち食いそば屋でバイトしているという。自称「戯作者!」戯作者とは、江戸時代、庶民向けに面白い本を書いた人たちで、明治時代に廃れたそうな。立川談志は落語家だが、初代談志は戯作者だったそうな。マッツァリーノ氏は、厚労省の会議にも出席した経験があるらしい。その会議の実態を暴露する場面では、参加人数が多すぎるために議論が平行線をたどる様子が描かれる。しかも、長嶋茂雄風な英語まじりで何を言っているのか分からない学者まで登場して混乱させる。なるほど、かなりの日本通で、この観察力からして代々スパイ一家なのかもしれん!

人口が増加すれば、様々な生活様式が現れるのも自然であろう。人間の多様性を否定しては、社会分析などできるはずもない。しかし、現実には一方向からの価値観しか持てない連中によって世論が煽られる。マスコミの論調から外れた人は、まるで社会の害虫のような扱いを受ける。フリーターやパラサイトシングルなどがその典型で、自立できない人間と蔑まれる。
しかし、だ!そもそも自立した人間などいるのか?彼らの中には自らのリスクを背負って生きている人も多い。定年まで安定した給料を当てにし、退職すると年金をたかり、一生を安穏とした立場で生きることが、はたして自立した人間と言えるのか?低賃金労働者のおかげで正社員の給料が安泰とは、これいかに?大企業に恨みつらみを持ちながら、にこやかにしている下請け業者も少なくない。健康診断にしても組織格差があり、胃や大腸で内視鏡検査を組織側で負担するところもあれば、形式的で終わるところもある。優遇された人間は、優遇されていることにも気づかないだろう。現役労働者を犠牲にしながら企業年金制度をいまだに固持している会社は、通常の年金受給を放棄すればいい。いずれ、正規雇用と非正規雇用の境界線も曖昧になるだろう。そして、会社が潰れた時に真っ先にうろたえるのは正社員であろう。現実に、定年を迎えて生き方が分からない人も少なくない。何のために仕事をしてきたのか?どうやって生きていくのか?それは定年のない主婦の方が理解しているように思える。キャリアウーマンでなければ能力がないなんて考えるのもナンセンスであろう。そういえば、政治家の発言に「女は子供を産む機械」というのがあった。「男はその機械にさす油でしかない」というわけか。ちなみに、おいらは主夫になりたい!そこのホットなお嬢さん、いかが!
議員定数を減らすとなると、最もうろたえる連中が騒ぎ出す。これが自立した人間の姿か?自立していると思い込むことで他人との差別化をはかり、精神の安住を求めているに過ぎない。有効求人倍率が低い中で、誰かが失業という犠牲を背負わなければならない。本当に、優秀な人材から職にありつけていると言えるのか?ちょっと視点を変えれば、他人に仕事を譲っていると解釈できなくはない。これはプータローのひがみか!少なくとも、世襲議員が「自立しなさい!」と説教できる立場にはないだろう。
世論が求める自立とは、核家族化を促進して、人口増加を煽る。これが、親の面倒を福祉施設に押し付け、社会保障費を拡大していると解釈することもできよう。一方で、親の年金を当てにしながら大家族化するということは、生活効率が上がることでゴミが減って環境的であり、社会保障費の効率を上げて社会貢献していると解釈することもできよう。パラサイトシングルだけでも、いろんな立場の人がいる。自由を謳歌する人もいれば、痴呆症や障害者を抱えて介護を強いられる人など、その多様性には限りがない。フリーターにしても、社会保障なしの低所得者の存在が製造コストに貢献している。機械の設備投資と低賃金労働者とで、コストの天秤にかけられる。機械コストの方が有利となれば、どっちにしろ低賃金労働者は失業する運命を背負う。企業は、機械に徹することを低賃金労働者に要求する。機械に徹するということは、力仕事が要求される。となれば、若年層へ目が向けられる。しかし、いずれ彼らも歳をとる。そうなってから職業訓練をしたところで効果は期待できない。つまり、最初から低賃金労働者としてレールが引かれた構造がある。だが、政治や行政は一方向の価値観しか持てない連中で議論される。そりゃ政策が的外れになるのも仕方があるまい。自立を叫べば他人を犠牲にし、自己責任を叫べば他人に責任を押し付ける。人間社会とは奇妙な世界である。
本書は、フリーターやパラサイトシングルが日本の社会制度を救うとまで語っている。「フリーターが200万人いる。パラサイトシングルが100万人いる。ひきこもりが100万人いる。このままでは日本はだめになる。」といった具合に煽るのは、「社会の寄生虫であるユダヤ人がいなくなれば良くなる」というヒトラー説と同列だという。ヒトラーは民族の多様性を否定した。本書の根底には、人生の多様性を否定する論調への批判があるように思える。

ところで、民俗学や文化人類学と社会学の違いには、言語学と国語学の違いに似た事情があるという。言葉の使い方が変化しつつある時、その変化をおもしろがるのが言語学者で、言葉の乱れを説教するのが国語学者といったところか。言語学的には、正しい日本語なるものは存在しないそうな。仕事の専門用語でも、会社や組織によって微妙に使い方が違うことがある。そして、一つの文化に染まっていることすら気づかない人から馬鹿にされる。逆に、好奇心旺盛な人は、そのニュアンスの違いを楽しんでいる。社会学者も正しい社会のあり方があると信じて、それを強要する人種だという。なるほど、社会学にもいろいろな立場があって、経済学的傾向と、人類学や比較文化的傾向といった違いだけでも学者の性格がまるっきり違うようだ。

1. スーペーさん!
社会学者は、言葉を定義せずに使う習慣があるという。なので、知らず知らずのうちに拡張した別の概念へと平気で飛び出していくのだそうな。哲学者の中に社会学を嫌う傾向があるという。なるほど、哲学は言葉の定義を明確にしたがる学問である。とはいっても、その定義もしばしば変化するが。
本書は、積極的な悲観主義者によって社会学が荒らされていると指摘している。悲観主義者は、なにかと問題を持ち出して、当たればそれみよ!とばかりに勢いずく。つまり、逃げ道をいつも確保しているズルい連中だというわけか。フリーターやパラサイトシングルやひきこもりを無責任と蔑むが、実は根拠もなしに悲観論を煽る連中が最も無責任であるという。まさしくマスコミの論調は正義感たっぷりに問題意識を煽るが、その根拠を証明しようとはしない。悲観論者でも消極的ならば、あまり社会に悪影響を与えないが、積極的な分やっかいというわけか。本書は、超悲観主義者をスーパーペシミスト、略して「スーペーさん」と呼んで思いっきり蔑む。その思考論法は、次の手順を踏むという。
(1) 社会は悪くなる一方だ!
(2) 自分は社会に迷惑をかけていない。いや!社会に貢献している。
(3) 自分の生き方は正しい。自分と違った生き方をしている奴らは間違っている。
(4) したがって、社会が悪くなったのはそいつらのせいだ!

なるほど、優れた理性の持ち主で自分の道徳観に絶対的に自信を持った人間でなければ、到達できない思考回路だ。超悲観主義者のくせして、自論を前向きに捉えるというのもおもしろい!社会学者の一般的な研究方法は、まず、新聞やテレビ報道で、気に食わない人間、こてんぱんにやっつけたい憎らしい人間を見つけるという。これは個人的感情論で。次に、その批判対象を落ち着いた雰囲気で分析して結論を出すそうな。これも感情論で。こうした思考を、理系では仮説と呼ぶが、社会学では仮説と結論が同義であるという。都合のよいデータだけを抽出したり、データを誤読することは、社会学上で重要なテクニックで、手頃なデータが入手できなければ海外に目を向けるという。欧米のデータならば、日本人の西洋コンプレックスを刺激できるというわけか。おフランスの芸術を浴びせ掛ければいちころだ!
「個人的な結論を一般的な社会問題にすりかえて、大袈裟に煽り立てよう!」
これが社会学の基本だという。

2. マッツァリーノの法則
「メラビアンの法則」というのを、時々見かける。この法則によると、伝達術で効果的なものに、次のような実験結果があるという。
「見た目、身だしなみ、表情などが、55%。声の質、大きさ、テンポなどが、38%。言葉の内容が、7%。」
一見、なるほどと思わせる。そして、この法則を信じて、やたらと表向きの指導をする企業が多いという。あらゆる社会学の法則には前提条件がある。言葉で7%しか伝わらないなんて、どうみてもおかしい。ならば、なぜ外国語の勉強に熱中するのか?確かに、見た目の印象は大切である。しかし、内容が伴って初めて成立する条件であろう。エンジニアには第一印象の悪い人が多い。だからといって、蔑んだりはしない。むしろ、お調子者の方が怖い。一度しか顔を合わさないなら、この法則も役立つだろう。なるほど、オレオレ詐欺で参考になるというわけか。お互いに心が通じるなんて恋愛ドラマのようなことを言ったところで、はっきりと言わないと揉めるのはどういうわけか?そこで、対抗して「マッツァリーノの法則」を紹介してくれる。
「研修屋が教えることの55%はウソで、38%はハッタリで、真実は7%だけです。」

3. マッチポンプ
社会に問題がなければ、社会学の存在価値もなくなる。したがって、平穏な社会では問題を捏造するしかない。無理やり話題性をでっちあげて、流行りもしない流行語をでっち上げて視聴率を煽るのと同じ理屈か。これを「マッチポンプ」と言うらしい。自らがマッチで火をつけておいて、自らポンプで火を消す。マッチポンプはセールスの古典的テクニックでもある。災害の恐怖を煽った直後に災害保険の勧誘があったり、人々が不安を抱えている状況につけこんでカウンセリングが流行ったりと。なるほど、SPAMやDOS攻撃を蔓延らせ、セキュリティ会社やウィルス対策部門の存在価値を高めるようなものか。人口が増えれば、無理やり仕事をつくらなければならない。となれば、悪行も必要というわけか。ところで、カウンセラーの家庭って円満なんだろうか?だとすると、悩みがないことにならないか?となれば、悩み相談に答えが出せるのか?

4. 読書の是非
作家の中には、強制的、権威主義的な読書に批判的な人が多いという。何事も知識を得るのに、興味を持たなければ効果は期待できない。読書をすると賢くなるという学者の話をよく耳にするが、そう単純でもなかろう。テロリストやカルト宗教に嵌る人ほど、よく読書していそうだ。煮詰まった時に思考をリセットしてみることも大切であるが、余計な知識のために、そのリセットの妨げになることもある。
本書は、学習成績と読書時間が比例するのは、一日2時間までという統計データを紹介している。毎日2時間以上読書すると、成績が伸び悩むのだそうな。まったく読まないのも問題であるが、読みすぎるのも良くないというわけか。要するに、読書であれ、テレビであれ、ゲームであれ、一日2時間を超えるほど熱中すると、本業の学習時間が必然的に減って、成績が落ちるということらしい。おいらの読書時間もだいたいこんなもんだろう。その半分は、立ち読み時間を含むというズルをしているが。ちなみに、酔っ払いは頭の切替えが鈍いので、ほとんど土曜日に集中して読書する。
本書は、OECDの調査では読む時間を調査するが、日本の読書調査報告は冊数ばかりを問題にすると指摘する。確かに、冊数をたくさん読むことを推奨する学者をよく見かける。おいらは、一冊を読むのに時間がかかるので、冊数で評価されたら落ち込むしかない。貧乏性だから、くだらない本でも熟読して元を取ろうとする。だから、ハズレないように立ち読み時間も長くなる。そもそも、難しい本ほど読む時間もかかる。本書は、ハリーポッター三冊読んじゃった!と、ハイデカーの「存在と時間」の上巻をまだ読み終わらない!とを比べるのは統計の暴力だ!と語る。
ところで、義務教育で盛んに行われるのに読書感想文がある。そもそも、感想というのがクセモノだ!感想とは自由なはずなのに、先生が正しいと思う思想を押し付ける。子供たちも教師の顔色をうかがいながら、優等生を装う。したがって、感想文を書くことで文章が嫌いになる子も多いはず。おいらはその典型。
一般的に学問を早期に始めることを煽る風潮がある。子供はあらゆる知識を容易に吸収するから、それも間違いではないだろう。ただ、本書は、幼児英才教育にしても短期的には意味があるが、長期的には効果も期待できないと指摘している。大学ぐらいになって自発的に学習しなければ、結局学力低下は防げないという。なるほど、学問はいつから始めるというよりも、続けることの方が重要だというわけか。この続けるという行為が、最も難しいのであるが。

5. 少子化問題
本書は、少子化論者は決まって「少子化は子供をだめにする!」と唱えると指摘している。そして、子供同士の交流が減って社会性が育まれないとか、キレやすいといった感情論が氾濫すると。ならば、子供が多い都会には健全な子供が多く、子供の少ない過疎化の進む地域では問題児が多いということか?と疑問を投げかける。そもそも、欧米に比べて劣悪な住宅事情の中で、人口を増やす政策が本当に健全なのか?少子化問題を、日本人滅亡論のように煽りたてるのは、いかがなものか?戦後8000万人ぐらいの人口が、いまや1億2千万以上に増殖した。女性の育児環境にしても、女性の社会進出を促す上で、昔からあった平等の問題であって、本来、少子化とは別もののはずだが。結局、自分の老後の年金を確保するために、少子化問題を叫んでいるだけか?あるいは、年金スキャンダルを少子化問題で揉み消そうとしているのか?なるほど、厚生官僚が叫ぶわけだ。もしかして、少子化問題って平均寿命が延びることへの警告か?健康ブームへの批判か?
ところで、社会保険庁をはじめ行政スキャンダルが明るみになれば、暴動が起こっても不思議ではない。外国人からは、日本では暴動や革命が起きないと揶揄される。それが悪い国民性とも言い切れないのだが。高齢化が進めば、温和な社会になりやすいのかもしれない。サミュエル・ハンチントンは、15歳から24歳までの若年人口が20%以上を占めると社会的に不安定になる傾向があると指摘した。だとすれば、一概に高齢化社会が悪いとも言い切れない。

6. 環境問題
「ムダを経済効果といい替えるのは、諸官庁や特殊法人の間では常識です。ムダな支出が五兆円と聞けば、誰もが腹を立てますが、経済効果が五兆円ならば、国民の賛同が得られます。」
そもそも、地球温暖化にしても、科学的な根拠が完璧に得られているわけではない。ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?ブラウン管廃棄物はどこへ行くんだ?本当にリサイクル効率が高いと信じていいのか?まだまだ使える物を...物の有り難味を子供に説教したところで説得力はない。まさか!ゴミを外国へ輸出してんじゃねーだろうな?日本を綺麗にして海外を汚染しているんじゃ、大人の行動を子供が尊敬できるわけがない。新型インフルエンザにしても、ワクチンの国内生産が間に合わなければ、海外から輸入する予算があるから大丈夫という発想も...ワクチンが足らない状況は海外でも同じはずだが。それにしても、エコポイントの申請の面倒さの上に、その後の時間のかかること。もう1ヶ月を過ぎるが、いまだに物が届かない。「エコポイント事務局」ってなんだ?まさか特殊法人か?わざわざ中央官庁に申請するのも効率が悪い。いずれにせよ、経済に長けた人間が考えた仕組みとは思えない。
本書は、冷静に事実を語っても、学問的や論理的正しさ一辺倒では注目されず、ゴアさんのように熱弁する方が評価されると指摘している。ただし、環境意識が、企業をはじめ人々に少しずつでも浸透するのは悪いことではない、とも語っている。その通りであろう。人間がどんなに努力しても自然現象には敵わないが、意識を持つことは大切である。本当に環境問題を考えるならば、人類を滅亡させるのが手っ取り早いが、それを受け入れることはできない。となれば、せめて人口をこれ以上増やさないぐらいか。あれ?少子化問題って人口を増やすことを奨励してるんじゃなかったっけか?

7. 自立の鬼
欧米人から日本の若者が自立していないと指摘されても、心配はいらないという。また、そうした外国人の意見を取り上げて、日本の若者に劣等感を植え付けようとする識者も相手にしなくていいという。欧米では、返済義務のない奨学金といった社会保障が充実していて、しっかりと寄生している実態があるようだ。日本の大学は、新入生からふんだくる高額の入学金と授業料をあてにして経営されている。しかも、通常の学部の在籍年数は8年と限りがある。だが、欧米では在籍年数に限りがないという。したがって、少子化は日本の大学経営を苦しくさせることになる。無理にベルトコンベア式に卒業させることもなかろう。本書は、大学の在籍年数の期限を無くすことを提案している。どこの国でも、若者が自立することは珍しいようだ。ただ、アメリカ人の傾向として、自立していると勝手に信じ込んでいる人が多いという。なるほど、アメリカの学生はカード破産している。
また、日本人は、他人に何かを頼むという簡単なコミュニケーションすら避ける傾向があるのに、空気を読んで構ってもらおうという心理が旺盛だという。ある婦人の告白記事で、イギリスでは駅の階段でベビーカーを運んでくれるが、日本ではそれがない!と嘆く様子を紹介している。しかし、階段で助けを求めれば、大抵の日本人男性は助けてくれるだろうと語る。日本人は、自分から頼みもしないで、他人は助けてくれないとひがみ、世間の人は冷たいと決め付けることで、自立の鬼になっていくと指摘している。
ところで、仕事と家庭を両立させていると自慢する評論家のスーパーおばさんを見かけるが、ほんまかいな?本書は、完璧に両立できる人もいなければ、完璧なバイリンガルもいないという。帰国子女というと、外国語も日本語もペラペラというイメージがあるが、だいたいどちらも中途半端なことが多いのだそうな。帰国子女に通訳させると、意思疎通が微妙にずれて、スリリングな業務になるんだとか。現実には器用貧乏ってことか。なんでもできるってのは、なんにもできないってわけか。ずっと日本で暮らすアル中ハイマーは、日本語も中途半端で面目無い。そして、中途半端な人生でも楽しければええじゃん!と自らを慰めるのであった。

8. 銀行系シンクタンク
銀行系や証券会社系のシンクタンクにお勤めのスーペーさんは、少子化が進めば、景気が悪化すると煽る。人口が減れば、渋滞も緩和し、広い家に住み、ぎくしゃくした社会が少しは緩和されそうなものだが。子供一人当たりの教育の場も充実しそうなものだが。彼らの経済予想ほど恐ろしいものはない。バブル崩壊も予測できない、いや!バブルの仕掛人だ!しかも、公的資金は真っ先に搾取する。生活保護者やニートを蔑む前に、公的資金をたかる銀行の方がよっぽど自立できていない。そもそも、人口増加を前提とした経済システムなんて、いつかは破綻するだろう。エコノミストは、少子化により労働力不足となり景気が悪化すると捲くし立てるが、現実には若年層の失業問題が深刻である。好景気になったところで経営陣の給料が上がるだけで、コスト削減に喘ぎながら格差問題を助長する。将来の労働力人口にしても、適正値を予測することは不可能であろう。いずれ、気候難民や環境難民が増えるかもしれない。世界的に人口は溢れているのだから。銀行系シンクタンクの経済予測に乗るのも、信じる側の自己責任というわけか。

9. ネット社会
ネット社会がなにも特別に高度な社会というわけではない。人間社会の一形態であって、社会問題の性格は昔と大して変わらない。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もなかろう。電子メールでは、真意が伝わらないと言う人もいるが、電話が登場した時も、顔を合わせないと真意が伝わらないと言われた。新技術に馴染めないおじさんが「心がない!」と難癖をつけるのも、人類の伝統であろうか。
本書は、ネットでググれば、なんでも分かるという発想は、危険であると指摘している。ネット社会が人類の知を深めるという議論も怪しい。情報が溢れれば、エセ情報も拡がりやすい。知識が真実を無視して多数決に支配されると悲劇である。現実にウィキペディア崇拝者も少なくない。知識を得ると、逆に知識の無さが見えてきて、物事がだんだん分からなくなるような気がする。自分の知識に自信を持てば、思考力や判断力も横暴になるかもしれない。
娯楽の流れも、書物からテレビやネットなど多様化が進む。今ではあまり従来の民放を観なくなったという話をよく聞く。おいらもその一人であるが、テレビの情報に飽きたのかもしれない。それほど有用な情報が得られるわけでもないし、ニュースもほとんどダブる。ネット社会も情報が溢れているわりには、有用な情報を得るのが難しい。お薦め度数には、売り手の思惑が見え隠れする。すべての情報を相手にできるほど人生は長くない。そこで、いかに情報を捨てるかが鍵となる。雑音を気にしていては、前へ進むのが難しい。情報化社会では、情報を収集する能力よりも、捨てる能力の方が強く求められるであろう。何事をなすにしても、頑固さも否定できない。世間への反抗心が前へ進むパワーを与えてくれる。したがって、前へ進む力とは、情報を捨てる能力、あるいは忘れる能力であり、無視する力である。これが、悲観的思考から逃れる手段ともなろう。

2009-08-23

"新ハイスピード・ドライビング" Paul Frere 著

先日、知人からポール・フレール氏が2008年に亡くなったと聞いた。そこで、本書をなんとなく読み返したくなった。これを読んだのは10年ぐらい前だろうか。カートで熱くなっていた時期のバイブルである。著者はアマチュアのために書いたと述べているが、前書きにフィル・ヒル(1961年F1チャンピオン)は、プロでも参考にするべきだと語っている。ちなみに、二人ともルマンの優勝経験者。本書は、現在でも通用するドラテク理論の名著と言っていい。今宵は、カートの体験談と重ねながら綴ってみよう。久しぶりに血が騒ぐぜ!(ドスの利いた声で)

10年前といえば、カート場に毎週のように通い、一日中走りこんでいた。タイムトライアルでは、常にベスト3にランキングされるように躍起になっていた。凝り性という性格が災いして、仕事をサボって走ったこともある(これは内緒!)。今では年に数回行く程度だが、それなりのタイムは出せるだろう!と意地を張る。まるで餓鬼だ!60歳過ぎても「趣味はカートです!」と言いたいものである。ちなみに、著者は70歳半ばでも、300km/hクラスの車をテストしていたという。当時、愛車をサーキットに持ち込んで走ることもあった。こちらはカートと違って思いっきりヘタレだ!経済的に辛いし、帰り道も自分の車が足なので絶対にぶつけられない。ただ、サーキットで走る経験は貴重である。グラベルにはまって動けなくなった時の景色はそうそう味わえるものではない。キャタピラ号に牽引される後ろ姿には寂しさが漂う。だが、それを酒の肴にされるのは愉快だ!ヘタッピだと思い知らされれば、公道で無謀な運転を避けるようになる。自称、走る道路交通法!ただ、いつまで経ってもゴールド免許になりきれないでいる。ちなみに、愛車はSW20の3型、生産中止の噂を聞いて慌てて購入したが、今では10%の税金アップが辛い。

カートを語り始めるとアル中ハイマーは熱い。カートは後輪駆動車なのでオーバーステア傾向にある。ミッドシップエンジンで、シートもやや後ろにあるので、重心は後ろにある。したがって、一旦回転運動が始まればリアが流されやすい。回転運動中に駆動力を与えれば簡単にスピンするわけだ。とはいっても、しっかりとフロントに荷重がかからなければ、フロントが軽い分むしろアンダー傾向となる。また、後輪軸は左右が直結されているので、2wayのデフのような感覚で、これもアンダーの要素となる。つまり、荷重移動の按配でアンダーにもオーバーにも容易にできる車なので、ドラテクの勉強にもってこいというわけだ。
速く走るためには、ブレーキングを最小限に抑え、なるべくアクセルの全開区間を長くすればいいわけだが、そう単純ではない。後輪駆動車の場合、コーナーの脱出方向に車体姿勢が決まっていないと、アクセルを開けることができない。オーバー状態では、絶対にアクセルを開けられないのだ。
なんといっても難しいのはブレーキングであろう。ブレーキングには主に二つの役割がある。コーナー進入のための減速と、回転運動のきっかけ作りである。最初は、この二つを使い分けていたが、慣れると一発でガン!と踏んで双方を兼用するようになる。適度にフロントに荷重をかけてステアリング蛇角を小さくすれば、スリップアングルの効率が上がる。また、フロント荷重の反動は、必ずリアに反作用となって返ってくるので、タイミングが合えば駆動軸への伝達効率も上がる。高速コーナーでは、アクセルを抜くだけでフロントに荷重がかかって、ブレーキを使わずに曲がれるが、低速コーナーでは、しっかりとフロントに荷重をかけないと曲がれない。パワーのないカートでは、一度減速するとスピードの回復に時間がかかるので、ターンインではなるべくブレーキを使いたくない。最初は、荷重移動にメリハリを付けて操作する。頭で確認しながら走っている感じだ。遠心力で体が外に流されるのを息を止めながら踏ん張るもんだから、吐き気もする。ステアリングも重く、疲れてくるとヘルメットの重さで首が流される。ところが、慣れてくるとステアリングの修正が少なくなり、姿勢も安定して全体的に滑らかになる。腕や足など部分的に疲れていたものが、やがて疲れにくくなり、しかも疲れが体中に分散する。

荷重移動の効率を上げるために、ライン取りも重要となる。車がコーナーに追従する能力は、ひとへにタイヤの接地力で決まると言っていいだろう。タイヤの接地は路面の摩擦係数に支配される。接地力は車両重量とも比例するが、車両重量が増せば遠心力も大きくなって外へ流される。コーナーリング中は、接地力の限界ぎりぎりに保つことが鉄則であろう。理屈はすべてのコーナーを速く曲がればタイムは上がりそうなものだが、そう単純ではない。すべてのコーナーで欲張っても、どこを速く走るように組み立てるか、全体のバランスが鍵となる。いくら一つのコーナーを速く曲がったところで、次のストレートでスピードが乗らなければ意味がない。最初は、コーナーを速く曲がろうと頑張りすぎて、突っ込み重視になりがちだった。その反動がコーナー出口に現れる。一概には言えないが、基本は立ち上がり重視にした方がタイムは出しやすいだろう。コーナーの進入を多少犠牲にしても、集中力が途切れずにタイムも安定する。この精神的なものって結構大きい。
また、コーナーの進入角度も重要である。次に続くストレートで加速効率を上げるためにも、なるべく速く脱出姿勢を決めたい。コーナー出口になるべく速くステアリングを向けて、カウンタをあてずに効率よくスライドさせる。いわゆる慣性ドリフトだ!ほとんどの車体運動で慣性力を利用することになる。ドリフト中はアンダー状態でなければ、アクセルは踏み込めない。ところで、四輪ドリフトとスライドやスキッドとの境界線も微妙で、明確な区分はないらしい。だた、レース用語としては、前輪が多少ベンドの内側へ向いているか、少なくとも直進方向を向いている場合がドリフトで、前輪をコーナーとは逆向きに修正する場合がスライドやスキッドだという。ひらたく言えば、無駄な滑りをさせないのがドリフトといったところだろうか。速く走るドライバーほど無駄な動きを抑え、派手さを感じさせないものである。

カートの体感スピードは一般車の倍ぐらいだという話をよく耳にする。100km/hぐらいでフルブレーキングすると、200km/hぐらいに感じるということか?ちと大袈裟ではないかい!カートでそんなに危険を感じることはないが、限界を試すにはそれなりに勇気がいる。コーナーでは外へ飛び出しそうになるから、最初から思いっきり突っ込むことはできない。だが、最悪でも直線運動を回転運動に変えてスピンすれば、外へ飛んで行くことはないことを体が覚えれば、少々のオーバースピードでも危険を感じなくなる。スピンする場所もコーナーの外側なので、後続車との危険も回避できる。
少し慣れてくると、ステップアップしてパワーのあるマシンを試す。そこで、いきなり体験するのがタイムダウンである。パワーがあれば、立ち上がりが鋭く、ストレートも速いので、感覚的には速く感じるが、タイムは逆に悪くなった。話を聞くと、多くの人がこうした体験をするようだ。こうして、ドラテクの奥深さを痛感させられる。
意外と難しいのは、縁石の使い方である。クリップポイントが内側の方が有利だとは言い切れない。縁石でグリップが格段と良くなるならありがたいが、行付けのカートコースではそれほどのグリップを期待できない。縁石の盛り上がりは、車体に傾きを与え逆バンクとなる。その傾き具合が、外側の駆動輪にうまく伝達する場合もあれば、逆に遠心力が邪魔になる場合もある。本書は、雨水溝に前輪をひっかける例を紹介している。つまり、車体が内側に傾くことで自然にバンクをつけるのと同じ理屈である。カートコースにも内側の段差に引っ掛けて加速できるコーナーがあるので、それを利用することがある。そう言えば、アニメでタイヤの内側を溝に引っ掛けて遠心力に対抗しながら、ジェットコースターみたいに曲がる話があったなぁ。
当時は、コースを歩いて観察したり、上手い人のライン取りを追走して参考にしたりしたものだ。そして、試行錯誤しているうちに、突然速くなる瞬間がある。速く走ろうという力みも薄れ、滑らかで自然な感覚になれる。自分の限界を知って諦めの境地に辿り着いたと言った方がいいのかもしれない。当時張り合っていたのは、小学生とスタッフの女の子だった。小学生は将来レーサーになると自信満々に語っていた。サインをもらっとけば良かったかも。なぜか?少年はインべたでスコンと曲がりやがる。どう見てもライン取りに無理があるのに、なんであのスピードで曲がれるのか?コーナーリング中はステアリングをこじって忙しそうに見えるが、タイムが出るのが不思議でならなかった。失敗してスライドさせたとしても、それほどタイムロスにならない。追走すると、立ち上がりで置いていかれるのが悔しい。これはテクの差ではなく体重差に違いないと言い訳したものだ。なにしろ20kgぐらいの差はあるのだから。ところが、雨になると立場が逆転する。わざわざ土砂降りの日を選んで走ることもあった。その理由はコースが空くからである。ただ、同じことを考える奴らがいる。マイマシンを持った連中は溝つきタイヤを装着するが、貧乏人はレンタルマシンで、しかもスリック!マイマシン派は、チューニングしていてエンジン音からして違う。それを後ろから煽るのが快感なのだ。雨の落ち始めは、ペイントされている所にタイヤをのせると、いきなりズルッ!といく。雨天で悩まされるがバイザーの曇りである。低速コーナーでいちいちバイザーを開けて拭くのが面倒でしょうがない。本書は、曇止め防止剤がない時、石鹸を薄く塗りつけ乾いた布で拭けば、曇止めに匹敵する効果があることを教えてくれる。
ちなみに、アル中ハイマーはなぜか?右曲がりのヘアピンが下手だ。夜の社交場では「右曲がりのダンディ」と呼ばれているのに。

本書は、着座姿勢からハンドリングの力学などを交えながら、運転技術の基礎理論と路面の安全性を解説する。おかげで、いい加減だった運転姿勢が、9時15分ちょい前でステアリングをしっかり握るようになった。どんなスポーツであれ、瞬時に反応して的確な動作をするためには、姿勢が大切である。理論の中には、物理学の数式を交えながらサスペンションのセッティングなど、運動力学の視点からも考察される。そして、バンク角度、タイヤ荷重、ダウンフォース理論といったデータも付録される。
また、後輪駆動車、前輪駆動車、四輪駆動車のタイプによって運動性能や操作性の違いを比較している。その大きな違いは、回転運動中に駆動力が増すと、後輪駆動車がオーバー傾向を示すのに対して、前輪駆動車と四輪駆動車はアンダー傾向を示すことであろう。後輪駆動車は、コーナー脱出時に車体の姿勢が出口方向に決まっていないとアクセルを開けられないが、前輪駆動車と四輪駆動車は、コーナーリング中に横を向いていてもアクセルが開けられる。前輪駆動車と四輪駆動車は、アンダー傾向が強いので危険の察知もしやすい。よって、一般車では前輪駆動車や四輪駆動車の方が好まれる。

「安全でしかも速いドライバーになるためにいちばん大切なのは、素早い反射神経ではなく、むしろ的確な予測能力である。」
どんなに練習してもドライバーの天性の素質には勝てないだろう。プロストやセナが、教科書やドライビングスクールを必要としたとも思えない。
「どんなに本を読んでも、レース学校でいかに練習しても、基本的な素質を生まれながらに備えていない人は優秀なレーシング・ドライバーにはなれないと私は思う。自動車の操縦は、ある水準以上ではスポーツとなり、鋭く正確な反射神経と完全な判断力が何よりも要求される。このスポーツでは、卓越した才能に恵まれており、しかも旺盛な研究心を持つものだけが一流の境地に到達できるのである。」
著者は、サーキットとロードではテクニックは別もので能力の比較は難しいが、ロードドライバーの方が偉大だと語る。その理由は人口的な環境ではなく、もっぱら自然を相手にするから、それにほとんどぶっつけ本番だからだという。ストリートで速い奴が王様ってわけか。それってストリーキング?なるほど、ふるちんで走るのは度胸がいるぜ!(ドスの利いた声で)

1. ギアチェンジ
シンクロメッシュ式であっても、素早く加速するために、ダブルクラッチがいまだに使われるという。一度吹かしてやれば、シンクロメッシュ・コーンも傷めない。
ところで、よくギアの選択で迷うことがある。あるギアで回ると、回転数がレッドゾーンまで上がり、コーナーを出た途端にシフトアップが必要になるが、一つ上のギアで回るには加速が不足するという場合など。本書は、迷わず高い方のギアを選択すべきだと助言してくれる。その理由は、精神的なものだという。ギアチェンジはタイムロスにも繋がる。ブレーキング中のシフトダウンも、コーナーでの集中力に影響を与える。この考えは公道にも当てはまるという。速く走ることを前提とすれば、最大トルクの回転数を維持するのが最も効率がよいはず。そのために、ヒール・アンド・トゥもやる。本書は、ヒール・アンド・トゥは単にタイムを縮めるだけでなく、車体を安定させる意味での安全性にも通ずるという。ちなみに、坂道発進にも使える。
また、機械の摩擦を考慮すれば、回転数がある程度のところまで達しないうちからフルスロットルにするべきではないという。低速回転からの急加速は、無駄な爆発を引き起こす。ちなみに、カートのような非力なマシンでは、いきなりフルスロットルにすると、逆にパワーダウンする。よくある話に、最良の加速性能を得たい場合、各ギアでエンジンの最大トルク以上に引っ張るのは意味がないという説があるという。しかし、この説は間違いだと指摘している。計算上でも最大トルクの少し上になるようだ。したがって、すべてのシフトアップは、最高許容回転数で行うべきだと指摘している。ただし、最大トルクが比較的低い回転数のエンジンもあって、その場合は、最高許容回転数よりも早めにシフトアップすることになる。ちなみに、おいらはよくオーバーレブさせる。ヘタッピな証拠だ!

2. ブレーキング
ブレーキは、運動エネルギーを熱エネルギーで吸収するシステムである。ブレーキ系統で生じた熱を瞬時に空気中に発散できないので、ドラム、ディスク、ライニングは異常な高温となりフェードの原因となる。その主な原因は、ライニング摩擦係数がある温度を超えると急激に減少することにある。レーシングカーはフェードしにくいが、逆に冷えるとライニング摩擦係数が小さい。高温は、同時にブレーキオイルを沸騰させペダルの踏みしろが増え、ペーパーロックを起こす。完全にブレーキが利かなくなった経験はないが、ブレーキがスコン!となって利きが鈍くなったことはある。ブレーキを使うのが少ないドライバほど上手いとはよく耳にする。タイヤのためにも、加速と減速は滑らかな方がいい。いずれにせよ、タイヤのグリップを超えるスピードでは、コーナーは曲がれない。ホイールロックすれすれの、絶妙なABS仕様の足がほしいものだ。ところで、カートでは左足でブレーキコントロールできるのに、車となると左足ブレーキは微妙な加減ができないのはなぜだろうか?単なる習慣であろうが、練習してもまったくセンスがない。

3. 空力
ほとんどの車は空力的なリフトを発生する。それは、飛行機が浮上する逆の原理で、車体の上を流れる空気が下を流れる空気よりも気流が速いために、気圧に差が生じるからである。しかも、後輪の方が浮きやすい。したがって、高速コーナーでは恐ろしいオーバーステアとなる。空気の流れといっても、正面からの流れに有効なだけで、横風に弱いのは飛行機と同じ。ちなみに、F1カーはトンネルの天井を走っても張り付くほどのダウンホースを発生する。実際に5G近くの求心加速度を得ながら、5Gの遠心力に対抗できるわけだ。もちろん、ドライバーの体にもそれだけのGがかかる。それで二時間近くも走り続けながら、瞬発力を維持しなければならないのだから、最も過酷なスポーツと言えるのかもしれない。
空力を利用せずに、高速コーナ-で程よいアンダーにシャーシーだけでセッティングしても、低速コーナーでは強いオーバーとなるので、シャーシーのチューニングだけではバランスを保つのは難しい。現在の空力は、グランドエフェクトを最大限活用して、ウィングは補助的な位置付けにある。本書は、セッティングの手順を解説してくれる。最初に、低速コーナーに合わせてシャーシーをチューニングするという。低速コーナーでは、空力効果よりもシャーシーのチューニングがものをいうからである。次に、高速コーナーのダウンフォースを調整するという。ウィングは前輪よりも後輪の方にダウンフォースをかけることになる。そして、サスペンションは、タイトコーナーで適度のアンダーとなるようにアジャストする。これがすべてだという。この状態でスピードを上げると、リアのダウンフォースが車速の二乗に比例して急速に立ち上がり、フロントのダウンフォースを凌いで大きくなり、高速コーナーで安定するという。

4. タイヤとホイール
一般にホイールのリム幅が広いほど、あるいはタイヤの断面が偏平になるほどスリップアングルは減少する。リム幅が広がると接地面の幅広いタイヤが装着できるので、接地面積が拡大してグリップ性能は上がる。幅だけでなく、半径方向にリム径を拡大しても、同様に接地面積が広がり同じ効果を得る。したがって、リアタイヤの幅と直径を大きくすればオーバーが減り、フロントで同じことをすればアンダーが減る。また、タイヤが関係するのは、コーナリング・フォースだけではないという。タイヤが支えることのできる垂直荷重の限界値も決まるという。ただ、タイヤの幅は大きければいいというものでもない。フォーミュラーカーは、タイヤが剥き出しになっているので、単純に空気抵抗にもなる。
ちなみに、ラリーともなると、ダートや積雪路を走るので、タイヤの種類も限りがないようだ。凍結するとスタッド付きが当たり前にしても、スタッド付きのスリックタイヤなるものもあるらしい。

2009-08-16

"社会科学の方法" 大塚久雄 著

著者大塚久雄氏は、ヴェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫)の訳者である。この本には感銘を受けて以前記事にもした。その訳者の解釈にも興味を持ったので本書を手にとった。ここでは、マルクスとヴェーバーについての著者の解釈が記される。この二人に注目した理由は、あらゆる社会学の科学的アプローチの原型がここにあるからだという。マルクスとヴェーバーの解釈をめぐっては様々な見解が錯綜する。その中で著者は、思いっきり主観で語ると宣言している。そもそも、客観で語ると言って、そうだったためしがない。もし、本当に客観で語られても、単なる事象の羅列に過ぎないことも多い。むしろ、主観的に語られる方が違った考え方が見られておもしろい。読者が客観的に眺められればいいだけのことである。もちろん本ブログも、すべての記事を主観で、いや!気まぐれで語っている。

社会学は、人間あるいは人間行動を対象にした学問であり、極めて複雑系の中にある。この学問を科学的に解析することは可能だろうか?人間行動をある程度は利害関係によって説明できるだろう。ただ、利害は個人の価値観で判断されるからやっかいである。経済学が扱う利害関係は物質的なものばかりに着目する。だが、実際は内面的や精神的な価値を追求する人も多い。知識を得ることに精神の安定を求める人もいる。また、倫理観や人生観を形成する慣習や信仰などによって価値観が生み出される。人間の行動には、どうしても動機付けのできないものがある。その人にとっての合理性は、他人にとっては非合理性と見なされる。結局、利害関係は個人の多様な理念によって生じ、もはや統計学的に捉えるしかないようにも映る。だが、多様性を平均することに意味があるのだろうか?あらゆる統計データはちょいと視点を変えただけで、どうにでも誤魔化せる。自由 + 平等を2で割ったところで、答えは見つからない。となると、統計的分析にも限界を感じ、もはや社会学の科学的分析は不可能のように映る。だからといって、諦めることにはならない。学問として法則性を追求することで、今まで見えなかった因果関連を解明できる可能性はある。そこに意義を求めなければ学問は成り立たない。少なくとも、物質的な価値評価のみで体系化できたと言い張るよりは、混乱を意識している方が健全である。人間は、永遠に人間自身を探求し続ける宿命を背負っているのだろう。

冷戦構造が終結すると、社会主義やマルクス主義は崩壊したと言われた。現在ではマルクス主義を見直す動きもあるようだが。歴史教育では、社会主義は資本主義の枯渇によって生まれたと教える。教育関係者に共産党系が多いかどうかは知らん!もし、そうならば、なぜ?資本主義の成熟したイギリスやアメリカで起きずに、資本主義後進国のロシアで起きたのか?未だ歴史上に、真の社会主義モデルは出現していないのではないのか?そうした疑問をなんとなく持ち続けている。世間では様々なマルクスの解釈が氾濫する。その混乱を招いていたのは、マルクス主義信奉者たちの奇妙な解釈であろう。本書は、ヴェーバーがマルクスを批判しているというよりは、むしろドイツ社会民主党を批判していると指摘している。なるほど、マルクスの経済批判は、資本主義を前提とした現行経済を批判したと主張する人も見かける。マルクスの主張は、社会主義というよりは、資本主義を認めた上での平等主義という解釈もできなくはない。少なくとも、マルクスをボリシェヴィキと一緒に葬り去るべきではないような気がする。いずれにせよ、マルクスの「疎外」を理解したければ、その著作「資本論」を読むのが一番であろうが、なにしろ大作!生涯読む気がしないだろう。ということで、本書でお茶を濁しておこう。
ところで、マルクスとヴェーバーを対立構図で語られることが多い。確かに、ヴェーバーの著作の中にもマルクス批判を匂わせる記述がある。しかし、本書は、批判しながらも褒めているところもあって、双方の分析手法では、むしろ二人は重なる部分が多いと指摘している。

1. マルクス経済学と疎外
マルクス経済学の対象はあくまでも個人であって、人間を超越したような社会的実体の一環といった発想はないという。そして、経済学を自然科学と同じように理論的方法を適用する。個人はそれぞれ意志をもって目的を設定し、手段を選び、決断しながら行動する。これを説明するのに、自然成長的分業という方法概念を持ち出す。これは、自然に発生した、いわば偶然性による職業分化であって、計画経済などで政治的に仕組まれる分業ではない。この分業が総合和となって、社会全体の経済力として機能する。もちろん、個人の職業は私的なものである。となると、需要と供給の関係の中で、必要な職業が生まれ、その人員配分も自然に組み込まれることになる。まさしく、自由主義や資本主義は、この方法で成り立っている。ただ、こういう社会では、マルクスは「疎外」という現象が起こることを指摘している。生産諸力の総合が巨大化すると、経済そのものが巨大な生物のようになり、人間の意志では手に負えなくなるだろう。こうした段階になると、自然と同じように法則性を持った客観的現象になるという。統計的現象とでも言うか、これを「疎外」と言っているらしい。
「疎外とは、人間自身の力や成果が人間自身から独立して、あたかも自然に法則性を持って運動する客観的過程と化すということである。」
個人の総和が群集の力となった時、個人の無力感を思い知らされる。資本主義が人間を対象とした経済システムであるにもかかわらず、巨大化すると物価の変動には無力となる。人間の欲望の総合力として株価が暴走し、社会そのものを崩壊させてしまう。こうした複雑化する群集の力をどうやって収拾すればいいのか?まさしく、現在の経済が直面する問題である。この対処で、一つ一つの疎外の現象を解消していくにも無理があろう。一つの疎外を解消すれば、新たな疎外が生じる。経済システムの中から社会の運動法則を見つけるのも難しい。そこで、問題となるのが資本家の人格で、彼らを経済的範疇へ人格化できるかが問題であるという。自らの利害関係だけでなく、社会全体の利害関係を意識する人格ということだろうか。疎外とは、絶望論にも映る。本書は、「資本論」が疎外現象の中を動きまわるだけの経済学を批判し、経済の主体は他ならぬ人間であることを明らかにしようとしたものだと語る。あくまでも、「疎外」からの回復という観点からの経済学の考察ということらしい。
ところで、哲学で「疎外」というと、やりきれない!自我の喪失!といった印象を与える。それが、資本主義から人間性が失われると解釈され、人間性を取り戻す意味での社会主義が想起し、その発展型が共産主義や全体主義となり、ついには完全に人間性を失うわけか。

2. ヴェーバー社会学
ヴェーバーもマルクスと同様、経済活動を営むのは個人であると主張しているという。ただ、ヴェーバーは経済の対極とも言える宗教を考察し、宗教社会学に大きな意義を与えている。この宗教的な考察には伝統的慣習も含まれる。ヴェーバーといえば「価値自由」の概念が登場する。これは、不当な価値判断を混入しないことであるが、その観点を人間の主体から遠ざけるという意味ではない。価値判断が完全な客観性に基づくのであれば、あらゆる物の価値は明白なものとなろう。しかし、主観的に価値判断されるのが人間社会である。本書は、目的論的関連と因果関連とが方法的に混同される危険性を指摘している。政治家の政策で思惑がはずれるのは、因果関連の分析が中途半端のまま、目的論的に結論づけるからであろう。現実に、政治が社会を混乱させ、経済政策が経済危機を引き起こす。最大の過ちは、政治主導だけで社会や経済が動いていると勘違いしていることであろう。資本主義が自然成長的な分業で成り立っているからには、あらゆる因果関連を解明することは不可能に思える。だが、ヴェーバーは、主観的な目的論的関連を、客観的な因果関連に組みかえることができると主張している。
「社会学とは、社会的行為の(主観的に思われた)意味を解明しつつ理解し、それによってその経過と影響を因果的に説明しようとする学問。」
社会学では、自然科学とは違って、動機を理解するという過程が加わるという。しかし、この動機を理解する方法が分からん!ヴェーバーの著書では理念型を定義していた。それは、階級や身分によって、理念型を細分化する。例えば、資本家の理念型、労働者の理念型といったあらゆる人間のタイプを分析する。ただ、理念型で抽象化したところで、それに属する人間の中でも意志はバラバラである。となれば、厳密な分析を求めると、理念型は人数分存在することにならないか?ある程度、多数決の原理や確率論に頼ることになろう。ヴェーバーは、人間の意志が自由になればなるほど、学問的に理解しやすくなり科学的な考察が有効になると主張している。そして、社会学の客観的考察が可能になるというわけだが、これが分からん!自由意志が拡大すれば、多様性が増大してより複雑系になるように思えるのだが?人間社会のエントロピー増大の法則とは、人間の凡庸化を意味しているとでも言っているのだろうか?精神の成長が、人間の持つ真の合理性へと向かわせ、共通理念に収束するとでも言っているのだろうか?そして、純粋理性の獲得と結び付けているのだろうか?近代では、ますます凡庸な指導者によって政治が行われるかのように映る。人々の自由意志が進化すると平均化され、精神のスーパースターが出現する可能性は低くなるのかもしれない。

3. 「ロビンソン漂流記」
18世紀前半イギリスで活躍した政治経済記者ダニエル・デフォーの著作に「ロビンソン漂流記」がある。デフォーは、イギリス経済を牽引しているのは中産階級であると確信していたという。いずれ、その考えは産業革命で証明されることになる。
ところで、彼が、ロビンソンとして登場させる人物は、この中産階級の人々に酷似しているという。本書は、この階級層の人々をユートピア的に理想化したものではないかと分析している。そして、アダム・スミスの「国富論」で登場する「経済人」を理解する方法として、この本を薦めている。ちなみに、子供の頃に読んだ覚えがあるが、そんな高級な内容だとは知らなんだ。もう一度読んでみるかぁ。
主人公ロビンソンは孤島に漂着する。そして、船に残った小麦や鉄砲などの資材を利用して生計を立てる。そこには、柵を作って土地を囲い込み、植木をめぐらして住居を囲い、囲い込みの中でエンクロージャー的な生活様式が現れるという。囲い込んだ土地の中で住居や仕事場をつくり、製造を営む。農業をやりながら、製造業を営むというマニュファクチャー的な工業形態とでも言おうか。当時のイギリスは、都市部よりも農村部の中産工業によって経済を牽引していたという。毛織物製造で分業し、雇い主も雇われ人も揃って仕事に励み、奴隷制の面影はない。この本には、世の中で最も幸福なのは上流階級でも下流階級でもなく、中産階級にこそ仕事と精神で有意義な生活ができるという教訓がこめられているという。そして、ロビンソンは合理的な人間として描かれる。現実的な計画を立て合理的に行動しながら、再生産によって規模を拡大する。ここには、再生産システムをよく理解した実践的合理主義があるという。おまけに、ロビンソンは、漂流生活の貸借対照表や損益計算書を作っているというから、資本主義の基本的な姿勢が現れているようだ。マルクスの「資本論」には、経済学者がロビンソン物語を好むことを揶揄している有名な箇所もあるらしい。
この本とは対称的にジョナサン・スフィフト著「ガリヴァの航海」がある。ちなみに、「ガリバー旅行記」も幼少の頃、絵本で読んだような気がする。これは、社会批判の書で、中産階級の暗い生活様式を集めてユートピア化したものだそうな。

4. 「儒教とピューリタニズム」
マルクスは、宗教は精神的アヘンであると徹底的に否定したことが取り沙汰されるが、本書は、批判しながらも議論の出発点にしていると指摘している。その意味で、マルクスとヴェーバーの宗教的方法は重なる部分が多いという。なるほど、否定と批判では意味が違ってくるわけか。資本主義思想はピューリタニズムから派生したと解釈する人も多いが、本書は、ヴェーバー著「儒教とピューリタニズム」の中に、アジアで唯一日本で資本主義的思想が生まれたと解釈できる部分があるという。それは、おそらく浄土真宗だという。
ところで、儒教とピューリタニズムには人間観の違いがある。キリスト教的な思想では、人間は罪人であって、自らは救いに到達しえないものといった観念がある。一方で、儒教的な思想では、血縁関係や伝統を重視するといった観念がある。ピューリタニズムでは人間を堕落と考えるが、儒教では人間を堕落とは考えない。内面的な成長の欲求を西洋的とするならば、そのまま運命を受け入れて諦めるのが東洋的とするとちょっと言い過ぎかもしれないが、能動的と受動的あるいは積極的と消極的といった印象はある。よって、君子に従う封建的社会が根強いのも、東洋的なのかもしれない。西洋にも、封建的な伝統主義の時代はあったが、宗教改革やルネサンスによって自由思想が広まった。中国の科挙は、まさしく教養人としての官僚層や支配層を示している。この亡霊を追いかけているのが日本の官僚政治である。孔子風に言えば、書物を通じて教養を求めながら、精神を無限に高めることによって自己を完成させる。そこで、書物という物質的背景を必要とするために富が必要となる。だから金儲けをする。つまり、人間形成のための手段として富にも倫理的価値があると考える。一方、プロテスタンティズムでは富の価値観はまったく逆となる。隣人のための奉仕であって、自らの富を直接肯定しているわけではない。その中心的思想に「予言説」がある。救われる者も救われない者もすべて神の予言によって運命付けられる。そして、職業は神から授かった義務、つまり天職と考える。神の予言を人間が知る由しもないので、ひたすら祈りながら励むしかないわけだ。この思想が、自由な個人の勤勉な経済活動と結びついて資本主義を加速させたと解釈される。
キリスト教では神が絶対的な道徳を持つことになるが、儒教では君子が超人的な道徳を有することになる。中世ヨーロッパの国王が絶対的権力を持てずに、ローマ教会にお伺いをたてなきゃならんわけだ。昔「論語」を読んだが、その中で好きな言葉がこれ!
「子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。」
つまり、70歳になったら聖人として完成するわけだが、キリスト教では人間がそんな地位になることはありえない。ヴェーバーは、キリスト教的な思想を「内面的品位の倫理」とし、儒教的な思想を「外面的品位の倫理」として対比しているという。西洋も東洋も宗教的な思想の発展は、似ていると言えば似ているし、違うと言えば違う。じゃ、日本は?東洋的とも言い切れない。一般的には、いろんな文化をミックスする伝統があると言われる。それも間違いではないだろう。極東の遠く離れた地域だけに、最も冷静に異文化を受け入れられたと解釈することもできそうだ。

5. 宗教と経済
ヴェーバーの著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、宗教改革の産物という解釈がなされ、精神面からの考察であって、物質的な利害関係の考察がなされないという批判が通説だという。実際に読んだがそうでもないような気がする。単に、経済行動に思想的なものがどのように影響されるかを考察したものに思える。倫理観だけで資本主義が発生したと主張しているわけでもないだろう。宗教的考察と芸術的考察には、見分けがつかないほど似通った境地に近づくことがある。だから、芸術が宗教に奉仕するような行為が見られるのだろう。しかし、本書は究極の考察を続けると、宗教と芸術には凄まじいほどの緊張関係があるという。宗教の立場からすると、芸術の自己目的とした探求は、悪魔の側に立つことになる。よって、ピューリタンにとって感覚芸術への強い嫌悪感があるという。同じような関係が政治と芸術にもある。芸術的価値の徹底した追及とは、人間のわがままの追求でもある。したがって、平等や協調といった場合に、反発する思考と解釈される。また、宗教と経済にも緊張関係がある。経済活動の目的は利潤を追求するからである。人間行動の基本は、利害関係から生じる。良い意味でも悪い意味でも人間は利己主義である。道徳にもエゴイズムが潜む。しかし、経済学で言う利害関係はあまりにも視野が狭く感じられる。利息が高い方向にお金が流れるといった発想も、そうした典型であろう。そこにリスクの概念が加わったところで、しっくりこない。客観的に社会を安定させるのが、経済の役割であり、政治の役割であるはずだが。人間の価値判断は多様である。いくら世界がグローバル化したところで、民族文化が消滅するわけではない。

2009-08-09

"戦争論(上/中/下)" Karl von Clausewitz 著

本書に出会ったのは20年ぐらい前であろうか。当時、感動したような気がするが、ほとんど中身を覚えていない。そこで、いつかは読み返して記事に残そうと固く決意し、やっと片付けた。なにしろ三巻からなる大作。一つ一つの文章はそう難しいわけでもないが、難解!戦争自体は、単純な人間行動の積み重ねで成り立っているので、そんなに難しいことが記されるわけがない。しかし、ある時は肯定し、またある時はそれを否定するといった具合に、しばしば混乱させられる。したがって、真意を読み取ろうとすると気が抜けない。だいたい10ページも読めば一冊のリズムは掴めるのだが、本書は100ページ読んでも掴めない。訳者篠田英雄氏によると、もともと原文も難しい文章で翻訳に苦労したという。それだけ戦争論を理論体系化することは難しいということであろうか。そもそも軍事行動とは、相手を出し抜くために仕掛けるものである。その行動パターンが体系化できれるとなれば、双方にとって矛盾が生じる。孫子の兵法では「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」と言うが、双方の知識水準が同等レベルにあれば知的優位性も失われるだろう。今日では、技術力や科学力によって圧倒的な有利性を保とうとする。有利性が確保されなければ軍事バランスは混沌とし、戦局は泥沼化するであろう。戦争の本性は激烈であるが、人間は物に臆する性質を持っている。となれば、戦争を好むなど不合理に思えるが、紛争はいつもどこかで繰り返される。

クラウゼヴィッツの「戦争論」と言えば、読み方は様々であろう。戦略理論や戦術理論として読む人が多数なのだろうが、ある人は哲学書として、ある人は歴史書として、ある人はビジネス指南書として、ある人はマネジメント手法の参考書といった具合に。また、読者の目的によって重要となる章も違ってくる。いろいろな場面で話題とされるのは、それだけ人間の本性に近づこうとした証でもある。「戦争論」は、クラウゼヴィッツの晩年12年間の労作である。彼はこの大作を生前に刊行することを拒否したという。序文には、出版を婦人に託した旨が婦人によって代弁される。彼は、ニ、三年で忘れ去られるような書物を作ることに、自尊心が許さなかったという。クラウゼヴィッツは、物理量と精神論の双方から考察して、戦争理論を体系化しようと試みる。そこには、戦争心理学や哲学的思考といった人間精神の分析が随所に見られる。だが、人間精神を扱うからにはどうしても不合理性が生じる。本書は、戦争理論を体系化するには不可能な部分が多いことを認めている。戦争は一つの人間行動の現象であって、主観的思考に大きく影響される。ここでは、戦争を一つの社会現象と見なしている。ここに現れる理論は彼自身の実体験に基づいていることに注目したい。それは、なんとなく古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスと重なるものを感じるからである。トゥキュディデスは都市国家アテナイの歴史家、いや政治家としてペロポネソス戦争で敗れた苦言を残し、クラウゼヴィッツはプロイセン国の軍事学者、いや軍人としてナポレオン戦争に敗れた苦言を残したと、双方を勝手に解釈している。だから実践的な考察がなされるのであろうと。そして、導かれる結論は「臨機応変」という概念に帰着するような気がする。物事を考察する上で、思考の出発点を定義し、思考の流れをつくることは大切である。理解していると大言壮語しながら、実際に資料としてまとめようとすると、実は全然理解できていなかったことに気づかされることも多い。複雑系だからといって考察を諦めていては、永久に脳死状態となろう。クラウゼヴィッツは、自らの理論に不完全性を認めながらも、後世に伝える価値があることを理解していたに違いない。

1. 批判的な歴史叙述の有効性
本書は、歴史叙述の方法論において、批判的な議論の有効性を主張する。なるほど、本書には従来の軍事論の批判が根底にある。歴史学では、事象をありのままに叙述することの重要性が問われる。だが、ありのままの叙述だけでは単なる物事の羅列に留まり、せいぜい最寄の因果関係を示すことぐらいしかできないだろう。そうなると、表面的な知識で終わってしまい、研究者としての使命を放棄することになる。人間は主観で物事を捉える傾向にあるから、客観に固執するぐらいでちょうど良いのだろう。だが、歴史学が、歴史事象を通しての人間そのものの研究であるとするならば、人間の本質である主観と客観の双方を相手にしなければ空論となろう。したがって、研究者の主観と客観の按配といった微妙なさじ加減に期待したい。
本書で注目したいのは、批判的叙述には知的活動が含まれると主張しているところである。批判には賞讃と批難が含まれ、そこから反省や教訓が導かれ、戦争指導の理論へと進化するという。批判的考察では、実際に採用された手段を検討するばかりか、採用されなかった手段も検討する。反対するだけでは思考停止状態となるが、批判するからにはより優れた手段を提示することを前提とする。確かに歴史事象は事実であるが、その事実が現象なのか原因なのかを判別することは難しい。例えば、ローマ帝国の衰亡をどこに求めるかは見解の分かれるところであろう。歴史教科書では、異民族の侵入、特にゲルマン民族の移動が原因であると教える。しかし、タキトゥスの叙述には、既に元老院が機能しなくなり、ローマ帝国の腐敗が共和制の崩壊とともに毒されていたことが詳述される。つまり、異民族の侵入は現象であって、その根底の原因はローマ帝国の内政問題と捉えることもできるわけだ。戦争ほど困難な事情が頻繁に生じるものはない。偶然的に突発的に生じる動因に支配され、真因が全く判明できないことも珍しくない。結果が一つの原因から生じることも稀である。「ナポレオン言行録(岩波文庫)」には、次のように語られていた。
「軍学は、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。」
動因は将帥が隠蔽することもあれば、将帥の主観に偏った回想もある。批判的な立場は分析される将帥には不愉快であろう。批判的な考察がより高次の分析へ導いたとしても、相手にされないことも多い。それは、確実な真理体系が証明できないからである。これは政治討論でもよく見かける。せっかく鋭い分析がなされたとしても、批判的な立場であるがゆえに煙たがれる。それが真理だという確証がなければ聞き入れられず、結局、虚栄心を煽るだけになろう。

2. 戦争は政治の延長上にある手段
「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない。」
戦争は政治における国家間の究極の闘争であって、二人の喧嘩の拡大版と解釈することもできる。本書は、政治に近い戦略論と、戦闘に近い戦術論に分けて考察する。戦略論、戦術論、そしてあらゆる場面に絡む戦闘の順にトップダウンで詳述される。ただ、戦略と戦術が供に戦闘に深く関わるので、その境界線も微妙である。戦争の形態はナポレオンの登場によって本質的な変貌をとげ、近代戦では国民総武装の様相を呈する。戦争が国民の利害関係に促されて、激烈化を剥き出しにした時代である。いわば国民戦争の幕開けと言えよう。戦闘の目的は敵の撃滅にあるが、戦闘の規模は一つの戦争そのものを大規模な戦闘として捉えることもできるし、大小様々な戦闘の混在と捉えることもできる。本書は、本戦や大軍の激突といった、それだけで国家の存亡を賭けた戦闘から、一物件の撃滅といった小さな戦闘までを細かく種別し、あるいは時間的に区分し、その影響力や方法論を展開する。ところで、戦略と戦術の違いってなんだ?戦略とは、最終的に戦争を勝利に導くためにあらゆる戦闘を結びつけることで、戦術とは個別の戦闘をどのように行動するかの手段を議論するといったところだろうか。本書は、勝敗の決定も捉えどころのない計測であると指摘している。現在でも、双方の見解に異なるケースがよく見られる。大方の戦局で勝利宣言したところでゲリラ戦やテロ行為が繰り広げられるのは、精神的に打倒できていない証でもあろう。更にやっかいなのは、そこにプロパガンダ性が高いことである。

3. 物理的諸力と精神的諸力
本書は、あらゆる考察を物理的諸力と精神的諸力に分ける。今日では精神論を馬鹿にする傾向がある。おいらもその一人であるが、だからといって、精神論が無用ということにはならない。太平洋戦争でもっぱら精神論に頼った結果、振り子が大きく逆に振れるのも仕方がなかろう。何事を成すにしても、精神論と物理量の双方が噛み合わないとうまくいかない。ただ、仕事をしていると、精神論ばかり強調するマネージャが実に多いことに驚かされる。戦争では、精神論が絶対的に必要であることは確かである。だが、あまりにも物理量とのバランスを欠けば、もはや知性が失われていると言った方がいい。将帥が物理量を怠り、将兵に精神論を強要すれば、もはや将帥の仕事を放棄して応援団になり下がっていると言えよう。本書は、戦争とは極めて知的な活動であることを示している。物理的損失は精神的損失へと転化するが、物理的損失に欺瞞があれば戦意を誤魔化すこともできる。復讐心が原動力となれば、精神的損失は相手国に移ることもある。逆に言えば、物理的損失が少ないにもかかわらず、精神的損失を与えるだけで決着を付けることができる。かつて、死者数や戦利品の量などで戦況の計測がなされた。現代では、プロパガンダによって被害数を都合良く水増しすることもある。被害者意識の助長が、敵意を剥き出しにして意識を高揚することもある。そこに民族の復讐心が結びつけば、驚異的な精神力を発揮して物理的損失すら無意味にすることもある。必ずしも物理的損失が大きいから有利とも言えないわけだ。本書は、最終的に敗戦の主因は精神的損失であると主張する。精神的諸力と物理的諸力を分けて考察し、最終的に融合しようと試みるあたりは、社会学的考察の様相を見せる。
現在では、勝利の概念も随分と変化してきた。完全に本土を征服できれば、明確な勝利と言えるだろう。しかし、そうなると、原住民族を滅ぼしかねないし、それを国際世論が許すわけがない。そこで、現代の戦争目的は、独裁政権を打倒して、民主主義という看板を押し付けることになる。何をもって勝利とするかも曖昧で、大規模な戦闘作戦が終わった時点と見るべきか、政治形態に平和がもたらされた時点と見るべきかなど、意見も分かれる。軍事行動的には、国民選挙が実施された時点で落ち着くようだが。戦争目的が政治目的とするならば、平和がもたらされない限り戦争状態と言えるだろう。現代では、冷戦状態のような、戦闘状態なのかも判別できない状態もある。さすがに、クラウゼヴィッツも冷戦構造までは想定していないだろう。核兵器のような人類をも滅ぼしかねない強力な武器が登場すると、逆に戦争の抑制になっているのも奇妙な現象である。常に拳銃を頭に押し当てながら引き金に指をかけている状態とは、まるで自殺志望者のようだ。

4. 防御は攻撃よりも強力
攻撃と防御は、背中合わせの関係にある。「攻撃は最大の防御」と言われるのも、防御は待ち受け状態であり、攻撃は先制という有利性がある。
しかし、本書は「防御は攻撃よりも強力な戦争形式である」と主張する。奇襲の効果を否定しているわけではないが、同時にその効果に疑問を投げかけている。戦争が複雑化するのは、交戦国の双方が戦術的に同等の水準に達したということであろう。となると、先制の有利性は小さくなる傾向にある。地の利をいかした幾何学的考察を加えれば、防御側が有利に展開できるはず。ところで、敵の撃滅とは何を意味するのか?味方の損害よりも敵の損害が大きいことを意味するとすれば、どちらかが攻撃を仕掛けなければ、戦闘は成り立たない。我が国には「専守防衛」という概念が強調される。これは近代化するほど曖昧な概念となろう。侵略はどこの国にとっても脅威であるが、何をもって侵略とするかは、科学力や技術力の進歩によってその判別も難しくなる。グローバル化が進めば経済封鎖も大きな脅威となる。この概念は、先制攻撃の禁止という意味で言葉で解釈することは容易であるが、相手国の攻撃をどの段階で判断するのか?戦闘準備の段階か?しかも、戦闘準備ってどんな状態か?科学の進歩は、直接軍隊の侵入がなくても、攻撃されたと認識した瞬間に敗戦となることもありうる。外交戦略も、一つの戦争戦略と見なすこともできる。外交能力に期待ができなければ、防衛システムにおいて科学力や技術力で圧倒するしかない。戦争を放棄した国家が、戦闘力を保持することに矛盾を感じないわけではないが、戦争を回避したいからこそ世界でも有数の防衛力を保持する必要があると考えることもできる。警察官が、一般市民よりも武装能力がなければ、市民の安全と言っても説得力がない。
昔から、軍事的立場が政治的立場から独立するのか、それとも政治的立場の一要素であるかといった議論がある。本書は、政治は知性であり戦争はその道具に過ぎないと語る。つまり、軍略の属するべき性格はむしろ政治側にあるというのだ。これは、この時代にあって、既にシビリアンコントロールの重要性を説いているように思える。本書は、戦争行動を政治の過失と見なしている。だからこそ、防御性の有利性を唱えているようにも映る。

5. 遠征の是非
本書は、ナポレオンやフリードリヒ大王などの軍事例を多く用いながら具体的に議論がなされる。そこには、ナポレオン戦争に敗れた悔しさがにじみ出ているように映る。ナポレオンがロシア遠征に失敗した要因は、様々な議論があるだろう。一般的には、前進が迅速過ぎて、あるいは深入りし過ぎたためとされる。トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争でアテナイが敗れた要因をペルシャの大軍がギリシャに遠征して敗れたことに結びつけている。つまり、シチリア島への遠征を直接要因とし、大軍が遠路はるばる進行して成功した例はないと記している。ヒトラーしかり、大日本帝国しかり。ただ、本書では、ナポレオンの敗北を少々違った角度から議論している。それは、遠征失敗の結論は成功に必須な手段を欠いていたからで、ロシアは侵略者がこれを占領地として守備し得るような国土ではないと。ましてやナポレオンが引率した50万の兵力では不可能だという。そして、ロシア帝国を屈服するためには、政治的弱点を突くべきだったと指摘している。その弱点とは、国内に内在する分裂である。ナポレオンは、むしろロシアの民衆を味方につけようとするべきだったのかもしれない。本書は、戦争が政治の手段である以上、政治的解決法を模索することの重大性を指摘している。

2009-08-02

"年代記(上/下)" タキトゥス 著

10年ぐらい前から読もうと決意していたが、なかなか読む気になれないでいた。それは、ローマ帝国時代の二代目ティベリウス帝からカリグラ帝、クラウディウス帝、ネロ帝の4人の皇帝を題材にしているところだろうか(紀元14年から68年の55年間)。目立った動乱もなく平穏な時代に映るので、退屈する読み物と思っていたからである。ところが、どうしてどうして!タキトゥスは、カエサル、クラウディウス家にあって、なぜこの時代を詳述したのか?その答えがいきなり記される。それは、古代ローマ時代の栄枯繁栄については優れた歴史家の記録がある。初代皇帝アウグストゥス時代しかり。しかし、それ以降については、元首の生存中は恐怖から曲筆され、元首の死後であっても恨み憎悪から編纂されたという。そこで、アウグストゥスについては簡単に最期を述べ、その後の四代に渡るローマ皇帝の歴史を、怨恨も党派心もなく述べてみたいと語られる。そこには、粛清とも恐怖政治とも言うべき、ローマ帝国が腐敗へと向かった様子が克明に描かれる。ちなみに、「年代記」は全18巻あるらしい。ただ、途中の7巻から10巻と17,18巻は消滅し、三分の一ほど失っているのは残念!本書は現存する16巻までを上下巻に分けて掲載される。

タキトゥスはローマ帝国の最盛期を生きた歴史家である。また、元老院議員になり、執政官にも就任し、属州統治者にまで出世した政治家でもある。彼の著書「ゲルマーニア」は、その観察力に魅せられたものだが、ここではかなり違ったイメージがある。彼の代表作は、むしろ晩年に記された「年代記」の方なのだそうな。その内容は、賄賂、不倫、近親相姦、冤罪、そして、暗殺、自殺の強要、死罪に追い込む謀略など汚い言葉を並べれば切りがない。更に続けるなら、血筋の夭折それも奇怪な死、不貞の皇后、風俗の乱れと腐敗した皇帝家... あらゆる人間の醜態を曝け出すかのような物語である。女性が活躍する時代は平和な時代の証でもあり、人類にとって良い時代だと思っていたが、その考えは2000年以上前の歴史書によってあらためさせられることになる。クラウディウス、ネロの時代になると更に泥沼化し、悪業も大胆で巧妙化する。まるで歴史書が推理小説化していくようだ。卑屈な態度を続ける元老院の隷属じみた様子には、何かに憑かれたような愚痴っぽい記述が加速する。ネロ帝の記述では、元老院のへつらい振りを次のように嘆く。
「このような決議を私はいったいいつまで述べてゆくつもりだろう。さよう、これを最後にしよう。しかし、この時代の不幸を、私の著述やほかの歴史家を通して知ろうとする人々はみな、あらかじめ次の事実を承知しておいてもらいたい。すなわち、元首が追放や死を命ずるたびに、いつも神々に対する感謝の儀式が執りおこなわれたということ。そして、かつては慶祝事と関係したこの儀式が、当時にあっては国家の不幸の象徴となっていたということである。」
岩波文庫「ナポレオン言行録」では、ナポレオンはタキトゥスが言うほどローマの皇帝たちは悪くはなかったと弁明している。なるほど、本書はローマの皇帝時代を暗黒時代とでも言うように綴っている。
ところで、ローマ帝国の衰亡の原因をどこに求めるかは議論の分かれるところであろう。そもそも滅亡の時期にしても、その原因にしても特定することは難しい。直接の原因、あるいは表面的な原因として蛮族による反乱、特にゲルマン人の移動に見ることはできる。しかし、本書を読んでいると、この時代に既に魔の手が忍び寄っていたと思わせる節がある。タキトゥスは、ローマの行く末を予想したのか?それともそれを阻止しようとしたのか?今となっては想像するしかない。

歴史書でいつも問題とされるのは、客観性の評価であろう。本書の中でも、タキトゥスは先人たちの史書に対して批判的な態度を見せる。元首政治による自由の圧迫とそれに由来する道徳的退廃を強調するあたりに主観性が混ざっているものの、客観性にこだわった努力は随所に見られる。これが、どこまで科学的、客観的に分析されているかは、専門家によっても意見が違うようだが、当時の歴史分析としては、かなり高いレベルにあることは間違いない。ところで、完璧に主観が排除された歴史書って存在するのだろうか?歴史家の解釈を全く排除するのも、その使命を放棄しているように思える。歴史事象を、ありのままを羅列するだけであれば、せいぜい最寄の因果関係を示すぐらいしかできないだろう。現在ですら原因を特定できないものが多いのだから、歴史の解釈が時代によって変化するのも仕方がない。あまり主観ばかりでも困るが、多少の主観の入り込む余地を残し、あとは読者に任せるしかなかろう。宇宙は、こうした実に多くの相反する概念に支配される。これを矛盾と捉えるか、対称性と捉えるかによっても思考方法が変わるだろう。主観の程度を議論したところで永久に解決を見ないだろうが、本書のレベルであれば、現代感覚でも十分価値あるものと評価できる。おまけに、政治が腐敗しきると民衆は嫌気がさし、独裁的な暴走的な政権を許す危険性があることを露骨に再現している。現代風に言えば、政治家たちのみっともない応酬の中で、官僚独裁が完成しつつあるといったところだろうか。

1. 古代ローマ
「太古の人は、性悪な欲望も破廉恥も犯罪も知らず、したがって、罰も取締りもなく暮らしていた。そして、美徳がそれ自体のもつ価値のため求められていたので褒賞は不要であった。誰一人として習慣に悖る行為を欲しなかったので、恐怖心に訴える罰則は全く無用だった。ところが、平等性が奪われ、謙遜と廉恥心に代って野望と暴力がのさばるようになって以来、専制君主が現れ、それが多くの国民の間で恒久化される。」
ローマの伝説的な起源は紀元前753年とされる。都市国家ローマはその起源から王に支配されていた。やがて、国家は法律を欲する。これらの法は始め素朴な精神にふさわしく単純であった。そのうちで最も名高いものが、ミノスがクレタ島民に与えた法律と、リュクルゴスがスパルタ人に与えた法律であり、次いでソロンがアテナイ人に洗練した複雑な法律を与えた。ローマでは、ロムルス(伝説の初代ローマ王)がその意志のまま命令していたが、ヌマ(二代)は宗教的規約と神聖な掟で国民を縛る。次いでトゥッルス(三代)とアンクス(四代)は、これにいくつかの新しい要素を加える。しかし、セルウィウス・トゥッリウス(六代)こそ、最も卓越したローマ法の制定者であるという。彼の法律は王ですら服従せねばならなかったからである。紀元前509年に、タルクィニウス(七代)が追放されると、自由と執政官による共和制が敷かれる。「古代ローマ」と言えば、この共和制時代を指すようだ。これはルキウス・ブルトゥスが創設した。とはいっても、期限付の独裁官制度で一時的な手段に過ぎない。次いで十人法官が生まれ、それ以前の優れた法を引用して十二銅板法が作られる。これが、不偏不党の法律の最後だったという。これ以降の法律は、階級闘争の道具といった邪悪な意図で暴力によって制定されることになる。十人法官に絶対権力を与えられたが、二年以上は続いていない。ルキウス・キンナやルキウス・スッラの専制も短命で終わる。第一回三頭政治では、カエサルとポンペイユスとクラッススが覇権を争って、カエサルの手に帰す。第二回三頭政治では、オクタウィアヌスとアントニウスとレピドゥスが覇権を争い、オクタウィアヌスの手に帰す。カエサルの暗殺後、内乱が起こるが、オクタウィアヌスが養父カエサルの後を継いで勝ち抜き「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を得て、初代ローマ皇帝となる。

2. ティベリウスが帝位に就く
ブルトゥスとカッシウスが倒れてからは国家に軍隊は存在しなかったという。というのも、三頭政治からの軍隊を私軍と呼んでいたようだ。元老院ではカエサル党とポンペイユス党で対立するが、やがてポンペイユス党が倒れカエサル党で生き残ったのはアウグストゥスのみとなる。アウグストゥスが独裁者となっても誰も反対しなかったという。権力者どうしの確執から横行する暴力や陰謀で、民衆も嫌気がさしていたからである。独裁制によって古くからある共和政の慣例は全て失われた。ただ、平等を奪われたにもかかわらず平和が維持されたために民衆は不満を持たなかったという。アウグストゥスには十分な後継者がいたにもかかわらず、なるべく多くの後ろ盾を得るために養子を入籍させていた。ティベリウスもその一人。多くの後継者が他界したのは陰謀なのか天命なのかは怪しい。結局、生き残ったのがティベリウス、そこには冤罪で消された者もいる。その頃、ゲルマニアとの戦争を残して全ての政治上の問題は解決していた。ティベリウスの母リウィアは、晩年のアウグストゥスを完全に牛耳っていたという。リウィアは、後継者のライバルたちを陰謀によって排除する。ただ一人の孫アグリッパ・ポストゥムスをプラナシア島に追放させたほどである。アグリッパは逞しい体力を愚かにも自慢するだけの教養のない人物だったという。アウグストゥスは、病状が悪化すると親友ファビウス・マクシムスをともないプラナシア島に赴き、アグリッパと互いに涙と愛情のしるしを交わす。この会談の模様は、マクシムスから妻マルキアへ、マルキアからリウィアへ漏れる。しばらくしてマクシムスは死ぬが、これが自殺だったかどうかも怪しい。ただ、葬式で妻マルキアが自らを嘆き悲しんだというから、情報を洩らしたことを責めたとも解釈できる。それはさておき、ティベリウスがアウグストゥスの元にかけつけた時、既に亡くなっていたかは不明であるが、アウグストゥス逝去と同時に万事は整えられ、ティベリウスの政権獲得が発表された。新しい元首の最初の悪業は、アグリッパ・ポストゥムスの暗殺である。ティベリウスは元老院で、アウグストゥスの遺言で殺すように命じられたかのように振舞う。アウグストゥスがティベリウスの安泰のために孫を殺させるなど誰も信じない。むしろ、ティベリウスとリウィアが共謀したと考える方が自然であろう。しかし、元老院はこれを承認する。この頃、執政官も元老院議員も騎士階級も、卑屈な服従に陥ったという。地位の高い人ほど、うろたえて本心を晦ます。まさしく暗黒時代の幕開けである。ゲルマニア人との戦争で勝利した時、ローマ軍将兵はアウグストゥスへ畏敬の念を抱くが、元老院はティベリウスの嫉妬心を恐れる。ティベリウスは世間の噂を気にして、国家から要請されて自然に帝位についたように振舞う。あらゆる都合の良い主張を第三者に発言させ、自らは穏健な態度を見せる。元老院が瀕死状態とはいえ、まだ自由の精神があったという。しかし、本質を隠蔽した自由の仮面が、将来いっそう恐ろしい圧政へと急変させることになる。ティベリウスは、しばしば次のように呟いたという。
「いつでも奴隷になり下がろうとしているこの人たちよ!」
ティベリウスですら議員の奴隷根性を嫌悪していたわけだ。やがて元老院は隷属から迫害への運命をたどる。

3. ゲルマニクスの夭折
カエサル家は、兄ゲルマニクス派と弟ドゥルスス派で二分されていた。ゲルマニクスは養子なので、ティベリウスは実子のドゥルススを引き立てる。ゲルマニクスの父の名もドゥルススというからややこしい。ちなみに、ティベリウスの父はティベリウス・クラウディウス・ネロで、養子になる前は同名を名乗っていたという。カエサル家の家系図を見渡しても、実子と養子が入り混じり、同名が多く連なるので目が回る。ゲルマニクスは司令官としてゲルマニア人と戦った。ティベリウスはゲルマニクスの名声を利用して、民衆の人気を取り付ける。そして、利用した後にあらゆる手段でゲルマニクスを抹殺しようとする。その機会をこしらえたかどうかは不明だが、少なくとも偶然の機会をものにする。元老院は東方の動乱を静めるためにゲルマニクスを派遣する。ゲルマニクスは、友人に優しく、一人の妻を通したという。たびたびゲルマニア人を撃退したにもかかわらず、奴隷に鞭をかけることができなかったのも、人柄の現れであろう。また、アレクサンドロス大王の運命と比較されるほど、武人としても尊敬されていたという。ゲルマニクスの死には、シリア総督ピソが毒を盛ったという噂が広まる。ゲルマニクスの葬儀で、民衆は「共和国は倒れた!すべての希望が消えた!」と嘆いたという。結局、ピソがティベリウスと謀って毒を盛ったのかどうかは分からない。ただ、ティベリウスはピソの噂を無視して快く迎えている。しかし、ゲルマニクスを慕い、ピソに我慢のならない人々も多い。ピソは訴訟を起こされる。直接ゲルマニクスの復讐を見せるわけにはいかず、ピソは過去の行為を弾劾される。軍隊の買収、属州を悪の中に放置したこと、最高司令官に侮辱的な行為があったことなど。だが、肝心のゲルマニクス暗殺の証拠は示すことができない。間もなくピソは死ぬが、刺客によるものか自殺なのかは不明。ただ、ティベリウスの命じた暗殺の書簡をピソが持っていたという噂が流れる。

4. セイヤヌスの陰謀
ティベリウスは残忍になっていく。その原因は護衛隊長アエリウス・セイヤヌスにあるという。セイヤヌスは唯一の信頼者で相談役。彼は表面では平静を装い、内心では強い権力欲を持っていた。ティベリウスはセイヤヌスを極度に寵愛して、その言いなりになる。当時カエサル家には後継者で満ちていて、男盛りの嫡子や成年に達した孫たちが、セイヤヌスの野望を妨げていた。だからといって、一度に抹殺するわけにはいかない。まず、ティベリウスの息子ドゥルススから始めるために、ドゥルススの妻リウィアに迫る。彼女はゲルマニクスの妹で美貌だったという。のぼせあがったように見せかけて近づき不倫関係で縛り付ける。当時、女性の貞操を奪うと、そのまま言いなりになるという価値観があるそうな。セイヤヌスは妻を追い出しリウィアを安心させ、将来結婚して王位を分け合う約束をし、夫を殺すようにそそのかす。そして、効き目のおそい毒薬を選んで病死と見せかけた。次の後継者には、ゲルマニクスの二人の子供ネロ(後の皇帝とは別人)とドゥルスス(ティベリウスの息子とは別人)である。三番目のガイウス(後の皇帝カリグラ)はまだ幼少。リウィアは、ゲルマニクスの妻で二人の子供の母でもあるアグリッピナと対立する。リウィアがセイヤヌスと再婚すれば、セイヤヌスは騎士階級を越えることになる。アグリッピナは気性の強い女性で、血縁の危険に腹を立ててティベリウスに直談判する。セイヤヌスはアグリッピナを亡き者にしようとする。この頃、アグリッピナは毒殺されるという噂が流れた。これも精神的な嫌がらせだろうか?元首の家では様々な陰謀の噂があり、ティベリウスは孤独を求めるようになる。セイヤヌスは、ティベリウスに快適な土地で暮らすように巧みに説得し、カンパニアに隠遁させる。そして、ゲルマニクスの遺子を罪に陥れる。別人の告発者を仕立て、自らは公平な裁判官を演じる。セイヤヌスは弟ドゥルススを味方につける。もはや元首の地位は弟様のものです!といった具合に。ネロとアグリッピナは別々の島に流された。間もなくネロは死ぬが、殺されたか自殺を強いられたかは不明。次は、弟ドゥルススの番である。セイヤヌスはドゥルススの妻をたらしこみ野心を吹き込む。ドゥルススもまた公敵と宣言され地下牢に幽閉された。ティベリウスは、セイヤヌスの離婚した元妻からドゥルスス毒殺の経緯を詳しく聞いて、セイヤヌスと距離を置くようになる。セイヤヌスは、ティベリウスと後継者ガイウスを亡き者にしようと企てたが、逆にティベリウスはセイヤヌス派の処刑を命じる。

5. 恐怖政治
ローマにおいて高利貸しのもたらす不幸の歴史は古いという。これがたびたび暴動や内乱の原因になっている。道徳がさほど腐敗していなかった昔ですら利息規制があったという。例えば十二銅板法が、はじめて利息の上限を元金の12分の1に規定した。それまでは、利息は金持ちの勝手放題だった。その後、護民官の提案で24分の1に引き下げられ、ついには一切の貸し付けが禁止された。金持ちの奸策を民会議決で押さえつけても、巧妙な手口が発生する。この頃、すべての負債が一斉に回収され通貨が不足していたという。断罪された人々の財産が競売にかけられる。現金が元首金庫や国庫に滞っていたのも、その原因だという。債権者は返済を要求し、要求された人は嘆願する。その多さに法廷も混乱。その対策で、元老院は債権者に貸付総額の3分の1をイタリアの土地に投資するように命じる。しかし、債権者は回収した現金を貯めて、土地を買う機会を狙う。売り建てが多くなると土地価格が下がり、借財が多いほど売却に苦悩し倒産者が続出する。財産の破滅は地位や名誉を真逆な立場にする。有力者は生贄となり、以前の恐怖政治へと戻る。資産家への恨みは大きく、次々と告発される。
「表面は逆境に苦しめられているような人が、実はしばしば無情の幸福者であり、財産があり余っていても、そんな人はたいてい、悲惨極まりないのである。なぜなら、前の人は、茨の運命を不撓不屈の精神で耐えて行くからであり、後の人は、幸運の贈物を、前後の見境もなく使い果たすからである。」

6. ティベリウスの最期
ティベリウスは自らの最期が近いとみるや、後継者を誰にするか迷う。まず、孫たちの間から候補者を考えた。ドゥルスス(ティベリウスの息子)の息子ティベリウス・ゲメッルスは血と愛情において一番近いが、少年の域を脱しない。ゲルマニクスの息子ガイウス(カリグラ帝)は、血気盛んな青年で世の衆望を集める。カエサル家の外部から後継者を選ぶと、体裁が悪い。晩年のティベリウスは生存中の評判よりも死後の栄光を気にしていたという。ティベリウスは予言した。ガイウスがルキウス・スッラのあらゆる悪徳を身に付けても、美徳を持つことはできないだろうと。ガイウスの陰険な顔を見ながら年下のゲメッルスを抱きしめ、この孫を殺すであろうと。その予言は的中することになる。ティベリウスの肉体が衰弱すると、後継者選びは運命に任せるしかなかった。ティベリウスの呼吸は止まり天寿を全うしたかに思われた。ガイウスは統治の一歩を踏み出すために、祝賀にかけつけた群衆の前に姿を表す。ところがその時、ティベリウスが目を開いて元気を取り戻したという報せが入った。ガイウスは茫然自失で言葉を失い、最悪の事態を想定して先手を打つ。ガイウスの護衛隊長マクロは部下に、この老人の上に蒲団を山と投げかけ、かぶせたままにして部屋から出て来いと命じた。

7. カリグラ(ガイウス)の統治
カリグラは、ナポリ湾の別荘でティベリウスが永眠すると、護衛隊長マクロをローマに派遣して、元首継承を円滑にするように工作させる。ゲメッルスには自殺を強いて、あらゆる陰謀が企てられる。このあたりは、第7巻から第11巻に記されるはずだが、ほとんど失われているのが惜しい。カリグラは気違いじみた自己崇拝に陥ったという。双子神カストルとポリュックスの神殿を住居とし、神々の服装を身にまとう。アポロン神や軍神マルス、あるいは女神ウェヌスやディアナの扮装で歩き回る。また、彼自身の像を世界中の神殿に置くように命じた。シリア総督ペトロニウスは、ユダヤのエルサレム神殿の聖地にカリグラの像を安置せざるを得なくなる。ちょうど、現地人の反対にあって困惑していた頃、カリグラは護衛官に暗殺されて事なきを得る。

8. クラウディウスの統治
カリグラが暗殺されると、元老院が臨時召集され深夜まで論じた。共和制復活を唱える者もいれば、カエサル家以外から元首を選ぶべきだという意見もある。結局、結論が出ず散会。やがて、護衛隊がカリグラの叔父のクラウディウスを担ぐ。クラウディウスは、乱れたローマの再建に乗り出すが、その妻メッサリナが次第に有害をもたらす。メッサリナから睨まれた人間はことごとく殺される。彼女はガイウス・シリウスという美青年にのぼせてあがり無理やり別れさせ、独身の情夫として思うがままに操る。シリウスは恥知らずの行為と百も承知しているが、拒むと破滅するのは明らか。クラウディウスは鈍感で妻の尻に敷かれっぱなし。元首がいっさいの司法権と行政権を掌中にすれば、彼女にあらゆる略奪の機会を与えることになる。本書は、公認の市場では、弁護人の不実ほど、売れ行きのよい商品はないとまで記している。メッサリナは、抵抗もされない情事に倦怠感を持ち淫蕩のうちに落ち込み、シリウスとの二重結婚の生活に明け暮れる。いくら鈍感なクラウディウスでも薄々気づきはじめ、ついにメッサリナの処刑を命じる。次の妻の座をめぐっての争いも凄まじい。財産をなげうってアピールする女性が続々と現れる。最後まで残ったのが、執政官級のマルクス・ロッリウスの娘ロッリア・パウリナと、ゲルマニクスの娘ユリア・アグリッピナ。肝心のクラウディウスは側近の忠告を聞く度に、あちらこちらに傾く始末。結局、誘惑も手伝ってアグリッピナと再婚。アグリッピナは、元首の結婚をめぐって争った時からロッリアに敵意剥き出しに占星師や魔術師に呪わせる。そして、ロッリアの罪と告発者をこしらえて財産を没収し追放する。おまけに、護衛隊副官を派遣して自殺を強いる。ロッリアの周辺の人々も陰謀の渦に巻き込まれる。アグリッピナの息子ネロ(後の皇帝)が二十歳で執政官職に就く。ネロはクラウディウスから見れば養子。その一方で、メッサリナとの間の実子ブリタンニクスの境遇に同情する者も多かったという。

9. クラウディウスの死
クラウディウスは、アグリッピナの野望に従って、考えられる限りの虐政を強いられる。資産家の告発や執政官職への謀略など、ことごとく破滅させる。クラウディウスの晩年、不吉な前兆とされる現象が相次ぐ。軍隊の旗や天幕が雷火で燃えたり、カピトリウムの神殿の破風に蜂の大群が巣を作ったり、半人半獣の子が生まれたり。財務官、造営官、護民官、法務官、執政官が各々一人ずつ、わずか数ヶ月で死亡するという現象もある。こうした凶兆を誰よりも恐れたのはアグリッピナである。おまけに、クラウディウスが泥酔した時に「妻の罪に耐え、やがて罰するのが、予の運命だ。」などと洩らしたもんだから、クラウディウス毒殺が計画される羽目に。共犯者は侍医クセノポン。じわじわと衰弱させる軽い毒では陰謀に気づかれる恐れがあるので、精神を錯乱させ死期を遅らせるという微妙な効用のある毒薬を選ぶ。ところで、カエサル家には、独裁政治の道具として毒殺専門のロクスタという女性がいたらしい。アグリッピナは彼女を抜擢。ロクスタも後に毒殺のかどで処刑されることになるのだが。

10. ネロの統治
ネロの影で、競争相手はアグリッピナの奸策でお膳立てされる。ネロには二人の指南役がいたという。一人は軍人アフラニウス・ブッルスで忠勤さと厳格な私生活を説く。もう一人は、哲人アンナエウス・セネカで雄弁術と威儀作法を教える。アグリッピナの横柄な振舞にも二人は結束して対抗した。アルメニアの使節が嘆願を訴えてきた時、アグリッピナが最高司令官の座に昇って、ネロといっしょに謁見しようとすると、周りの人々は恐れから立ちすくむ。だが、セネカはネロに忠告してその醜態を未然に防ぐ。クラウディウスは優柔不断さゆえに、不義な結婚と致命的な養子縁組を強いられて身を滅ぼした。しかし、ネロはおめおめと屈するタイプではない。歴代の元首のうちで、他人の雄弁術を必要としたのはネロが最初だったという。独裁者カエサルにしても、アウグストゥスにしても雄弁家であった。ティベリウスも、言葉を考慮吟味する才に熟達していたという。カリグラやクラウディウスにしても、演説の中に洗練された文体を見つけることができる。だが、ネロの精神は、雄弁術よりも彫刻、絵画、詩歌、馬術に向かったという。ネロの中で母アグリッピナの影響力が次第に崩れていく。アクテという解放奴隷の女と恋に落ちたからである。ネロの妻オクタウィアは高貴で貞淑の評判も高いが、嫌悪し遠ざける。アグリッピナは、解放奴隷の女を嫁にすることに反対であるが、息子からの疎遠を嫌って下手にでた。ネロはその豹変ぶりに騙されない。ついにアグリッピナは、正当な後継者はブリタンニクスだ!と言い出す。養子のネロは母を虐待し統治権を乱用していると言いふらす。すると、ネロは義弟ブリタンニクスの存在を不安に思い毒殺する。元首やその家族らと一緒に食卓を囲んでいる中での毒殺に、周りの人々は震え上がる。これを目の前にすれば、さすがのアグリッピナも恐れた。

11. アグリッピナの暗殺
ネロは元首の地位に長く就いていると次第に大胆になる。次に、ポッパエア・サビナという女性と恋仲になる。ポッパエアとの結婚を母アグリッピナが許すわけがない。クルウィウス・ルーフスの説によると、アグリッピは権力を維持したい衝動から、饗宴の席で酔ったネロと接吻したり、不倫を迫るといった醜態を見せたという。これは、元首の不名誉であり、もやはアグリッピナはネロにとって危険な人物となる。ファビウス・ルスティクスの説では、不倫を迫ったのはネロの方だという。クルウィウスの説は、他にも典拠されているので、巷ではこちらが有力とされるらしい。そういうわけで、ネロは母と二人っきりで会うことを避ける。そして、暗殺を目論むが、ブリタンニクスの例があるので偶然の出来事にするのは難しい。また、アグリッピナ自身も、食前に解毒剤を服用して身の安全を計る。そこで、アニケトゥスという解放奴隷が、船に乗せて海難事故に見せるのはどうかと進言する。ネロはこの案を気に入る。ちょうどミネルウァ祭で、ネロはバイアエに行く慣わしがある。そこに母も招待すれば、息子が改心したと母を喜ばすのにもってこい。そして、船を一気に沈めようとしたが、機敏さを欠きゆっくりと沈む余裕を与えてしまった。側近が「私はアグリッピナです。」と言って身代わりになり、アグリッピナは漁夫の小船に助けられる。母が助かったと知ったネロは復讐を恐れる。母はこの事件を暴露して元老院と国民に訴えるに違いないと。ネロは先手を打って刺客を送って殺害し、母が元首を暗殺しようとしてその罪の発覚を恐れて自害したという話をでっちあげた。アグリッピナには、自らの死を覚悟していた節があるという。あるとき、占星師に占ってもらうと、「ネロは政権をとるだろう。そして母親を殺すだろう。」と答えが出たという。しかも、彼女は「ネロが天下をとれば、私を殺してもよい」と言っていたという。ネロは元老院で母の罪をクラウディウス時代にさかのぼって追求した。

12. ネロ祭
母の死以来、ネロはあらゆる欲情に没頭した。いままでもそれほど抑制していたわけではないが、ネロはまだ公の場で身を汚そうとはしていない。しかし、「青年祭」と呼ばれる祭典をつくり、自ら登場しあらゆる階級に渡って人々を堕落させる。自らの恥さらしを人々の下劣な行為によって慰めようとでもするかのように。上流階級の婦人までもが下品な台詞を吐き、盛り場や居酒屋を設け、祝儀がばらまかれ民衆に浪費させた。次第に背徳と汚辱が幅をきかす世となる。当時の光景を、清潔潔白を保つのは難しく、悪徳を競い、純潔とか廉恥心とか、いかなる良風美俗にせよ、それを守ることは不可能であったと回想している。また、ギリシャの競技祭を手本にローマ五年祭を創設した。これはネロ祭と呼ばれ、費用は国家から捻出される。

13. セネカの隠退
国家の悪弊が募っていく中で、矯正する力も失っていく。まず、ブッルスが世を去る。病気か毒殺かは不明。ブッルスは呼吸障害を起こし窒息死したから病死と推定する人がいるが、ほとんどの人はネロの陰謀説を信じたという。市民は長い間、彼の死を惜しむ。元首にとって善良な両輪の片方を失うと片方も崩壊する。セネカは、多くの蓄財のために反感を買っていたので、ブッルスの死に乗じて性悪な連中の攻撃対象とされた。ネロはセネカを敬遠するようになる。セネカは権威者の生活を捨て都にめったに姿を見せなくなる。セネカが失墜すれば歯止めがなくなる。ネロの悪行は元老院で善行と見なされるようになる。オクタフィアを追い出し、ポッパエアを妻としてからは尻に敷かれる。オクタフィアの召使をそそのかし、奴隷と密通したと讒訴させる。オクタフィアの一部の下女は拷問に屈して偽りの罪を認めたが、大部分は女主人の貞節を頑固に弁護した。にもかかわらず、オクタフィアはカンパニア地方に追放される。民衆は公然と批難した。民衆は社会的地位がないので危険がないから言いたい放題。その時なぜか?ネロは自らの不正を後悔し、オクタフィアを呼び戻して再び妻としたという根も葉もない噂が広まって騒動は鎮まったという。オクタフィアは死を命じられる。縄で縛り上げ四肢の血管を切り開かれる。恐怖のため血管は締め付けられ、血はぽとぽと滴る程で、死に至るまでに時間がかかる。それで、発汗室の熱気にあてて窒息させる。おまけに、首を斬りポッパエアに見せた。これに恐怖した元老院は、神殿の感謝の供物を捧げることに決議したというから呆れるばかり。ちなみに、後のポッパエアの死は、なにかのはずみでネロが腹を立てて足で蹴ったためだという。史家には毒殺説を唱える人達がいるが、著者は信じてない。話の流れからすると毒殺でも不思議はないのだが、ネロは妻との間で子供を欲しがっていたという。

14. ローマの大火
ネロがヴェネウェントゥムに立ち寄った時、ウァティニウスという者が剣闘士の見世物を盛大に催していた。この男はネロの宮廷におけるもっとも醜悪な怪物の一人だという。最初なぶりものとしてカエサル家にかかえられるが、やがて著名な人々を讒訴して大きな勢力を持つ。ネロは公の場で饗宴を繰り返し浪費するようになる。中でも、正気の沙汰とは思えぬ浪費で、最も悪名を馳せたのはティゲッリヌスの膳立てした饗宴である。アグリッパ浴場の人工池に、饗宴を張って幾艘かの船に引かせて漂わせる。船は黄金や象牙で飾られる。池の土手には娼家を建て名門の婦女子で満たす。その対岸には淫売婦が素っ裸で、立居振る舞いは卑猥。ネロはあらゆる淫行で身を汚し、これ以上堕落のしようがないほどの背徳の限りを尽くす。この後、すぐに大火事が起こった。最初に火の手が上がったのは、大競技場の外側に出店が並ぶあたり。燃えやすい商品を陳列していた店が密集していたので火勢は強く、風にもあおられ炎は大競技場を包む。当時のローマは幅の狭い道があちこちに曲がりくねって、家並も不規則だったから被害を拡大する。ネロは、自分の財産を拠出して復興宣言する。奨励金制度を設け、地位や財産に応じた金額を貸し付けた。水道は、それまで個人が勝手に横取りしていたので、監視人を置き空地に消火用器具を備えるなどの火災対策も講ずる。しかし、元首の慈悲深い援助も虚しく不名誉な噂は絶えない。民衆は、ネロ自身が大火を命じたと信じたという。大火事を眺めながら、太古の不幸になぞらえて「トロイアの陥落」を歌っていたという噂が流れた。ネロはこうした風評を揉み消そうとして、身代わりの被告人をこしらえて処刑する。それは、日頃から忌まわしいと憎まれるクリストゥス信奉者たち。ちなみに、クリストゥスはティベリウス時代に処刑された人物。やがて、寄付金の徴収を名目にイタリア本土が絞り上げられ、属州や同盟諸部族も荒らされることになる。

15. ピソ一派の陰謀
ネロへの憎悪は日ごとに増していく。陰謀には元老院議員、騎士、兵士、婦人までもが競って名を連ねる。ガイウス・ピソは、カルプルニウス氏の出身で多くの名門と親戚関係にある。彼の徳望は人々に慕われていた。その一方で、快楽に自制心がなく軽率で放埓に溺れる。その欠点も大衆には気に入られたという。大衆は、支配が緊張しすぎることも、厳格すぎることも嫌うのである。ただ、誰が扇動したかについては、簡単には答えられない。陰謀はピソの野望から生まれたのではないらしい。最も熱心だったのは、護衛隊副官スプリウス・フラウスと百人隊長スルピキウス・アスペルである。やがて、疲弊した国家を建て直す人物を捜し求める人々が集まる。中には政変によって甘い汁を吸おうという魂胆で加わった者もいる。彼らはネロの暗殺を計画するが、陰謀は密告者によって暴かれピソは自決する。この時、ピソとセネカが通じている気配があり、ネロはセネカに死を宣告する。セネカも自決。続いてフラウスとアスペルも処刑。そして、多くの者が処刑あるいは自決する。ネロは断罪者の証拠や自白の記録書を出版した。無実な名士を、嫉妬や恐怖から根絶したという噂にさいなまれていたので、その言い訳である。

16. ネロの死
第16巻で断絶して、ネロの死までは到達していない。ただ、本書ではその後の略説が年代記風に展開される。ユダヤで大きな暴動が勃発した。エルサレムの群集は王宮を包囲し、王宮内のローマ軍は降伏。その一方で、カエサレア市ではギリシャ人がユダヤ人を殺し、各地で事件が波及する。シリア総督ケスティウス・ガッルスは、事態を収拾するためにパレスチナに入り、非ユダヤ人を助けながらエルサレムに接近する。ローマ軍の敗退で東方に暴動が広がり、ついにローマ中央政府も事の重大さを認識して軍隊を派遣する。さて、ネロはというと、暴動を知らぬふりをしながらギリシャ旅行に出発する。しかも、コリントスでは属州に自由を与えたと誇り高く演説する。ネロはオリンピア競技祭に音楽競技を加えさせ月桂冠に酔っていた。上級階級の人々はピソの事件以来、いつネロに狙われるかと不安に怯えていた。そんな矢先、有名な三将軍がギリシャに呼びつけられて殺され、人々はネロに我慢できなくなった。ネロは相変わらずユダヤ暴動に無関心。そこへ立ち上がったのが、老人のガルバ(後の四皇帝の一人)。ガルバは、自ら「ローマの元老院と国民の代行者」と呼ぶ。当初、これを公然と支持したのはオト(後の四皇帝の一人)だけであったが、やがて元老院も支持し、ついにネロは元老院で公敵と決議される。ネロは追い詰められ剣を咽喉に突き刺した。

2009-07-26

"戦史(上/中/下)" トゥーキュディデース 著

アル中ハイマーの購入予定リストには、昔から亡霊のように居座る奴らがいる。本書もその一つ。岩波文庫でしばらく絶版になっていたので諦めかけていたが、偶然にも復刊されているのを見かけた。と言いながら、本書を買ったのは昨年である。なかなか読む気になれないのも仕方がないだろう。なにしろ、大作だ!この三巻の分厚さを目の前にすれば、尻込みもしようというものだ。それにしても、本書から克明と伝わる出来事の記述は感動ものである。

古代ギリシャの歴史家トゥーキュディデースは、ほぼ同時代に生きたヘロドトスとよく対比される。それは歴史家の使命についての論争である。古代の歴史叙述には、神話や伝説といった物語的に着色されたものがほとんど。ヘロドトスの著書「歴史」にも、多くの誇張が感じられる。それも仕方がないだろう。現在でさえも主観的論調が多いのに、古典に期待するべくもない。歴史の信憑性という意味では、トゥーキュディデースに軍配を上げる人が多いようだが、二千年以上も前の文化的価値を現代の価値観で単純に判定するのも無理がある。よく歴史学で問題にされるのは、いかに主観を排除し、ありのままを客観的に語れるかである。これは非常に難しい問題で、主観も客観も人間の精神の持つ本質である。主観を排除すれば、深い思考は得られない。単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできない。主観の境界線も個人によって微妙であって、主観と客観の按配にこそ、歴史学者の腕の見せ所がある。また、歴史事象は社会現象の一つであって、真の原因と広められた原因の二つの性格を持つ。トゥーキュディデースの生きた時代は、宗教や神託など思想や予言に支配されていた。にもかかわらず、主観をできるだけ排除し、隙の無い論理で組み立てようと試みたところに凄みがある。本書の序説には、事実関係を淡々と記述しているため読み物としてはおもしろくないだろうと語られる。ところが、どうしてどうして!戦争の実況中継や、その原因と背景が詳細に描かれ十分に味わい深い。軍勢の数や死者の数など、その具体性には説得力がある。中でも注目すべきは、多くの演説が克明に描かれるところである。民主政治で最も有効な政治行動は、政策を論理的に民衆に訴えることである。その演説は対立構図で描かれ、民衆の票決で世論が動く様子には、民主政治とは何か?という原点に立ち返る思いがする。二千年以上の歴史の差がありながら、その演説の見事さや誇り高さには惚れ惚れする。ましてや、日本の政治ではなかなか見られない光景で新鮮なのだ。また、疫病が流行った時の病状の詳細には、後世に治療法をうながすためか?医学的使命感も伝わる。ソクラテスの生きた時期とも重なり、哲学的あるいは論理的論争が盛んであったことも想像できる。報告書とは、斯くありたいものだ!

本書は、古代ギリシャ最大の戦争と言われ、27年間続いたペロポネーソス戦争の記録である。とはいっても、著者は21年目で筆を置いていて、この大作は未完に終わっている。著者は戦後も生きているはずだが、執筆中に亡くなったということか?人間が20年も生きれば思想や哲学にも変化が生じるであろう。しかし、終始一貫して乱れがないという出来栄えには、戦時中の記録というよりも、戦後に冷静に分析した結果と思われる。ペロポネーソス戦争は、アテーナイ軍を中心としたデーロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟との間で発生した。地域でいえば、東側のアッテイカ地方と西側のペロポネーソス半島の対立である。著者自身は、両軍がトラーキア地方のアテーナイ植民都市アムピポリスをめぐって争った時、アテーナイ軍の指揮官として救援にかけつけたが、ペロポネーソス軍の名将ブラーシダースに先を越されて都市を奪われ、その責任を問われて追放されたという。そうした、やりきれない立場からの回想録と解釈することもできる。ちなみに、この戦争は、11年目のニーキアースの平和条約を境に二つの別々の戦争と解釈する人も多いという。この平和条約が有効期限を50年と定めているところからも、そのように解釈されたようだ。著者は、それは誤りであると主張し、あくまでも一つの戦争として記述すると語る。

著者は、予めこの戦争が史上最大になると予測している。その理由に戦備の量や参戦国の数を挙げている。戦争規模の基準は様々であろうが、著者が言う戦備とは軍資金のことを指している。そして、富の蓄積と政治権力の形成という観点からの国力の評価には鋭いものがある。富の蓄積がないところに政治力の結集は期待できないだろう。支配者と被支配者との関係も希薄となり、内乱があれば外敵に向かうことすらできない。その莫大な資金から、庶民の生活も豊かで税収入が多かったことが予想される。なるほど、人々の定住や、安心して農耕を営むこと、海洋を利用する商業利益の蓄積といったものに重点を置きながら、戦争が大規模化すると、武装と武装の戦いではなく、経済力と経済力の戦いになることを見越している。まさしく、現代的な分析と言おうか、科学的な分析である。これほどの冷静な分析がなされながら、なぜアテーナイは敗戦したのか?その分析は敵意とまでは言わないが、アテーナイに対してかなり辛口である。もしかして、著者は敗因を残そうとしたのだろうか?敗戦の問題提起だったのだろうか?戦争は得てして、敗者の分析に鋭いものが現れる。クラウゼヴィッツの「戦争論」はナポレオン戦争の敗戦の反省として残されたと解釈することもできよう。

本書には、全ギリシャの共通意識と価値観がうかがえる。その合言葉は「自由なギリシャ」といったところだろうか。その中で、実に多くのポリスが登場し、他ポリスからの干渉を嫌う性格が見受けられる。各ポリスで政治体制も異なり、大別するとアテーナイ側の民主制とペロポネーソス側の貴族制のイデオロギー対決といった構図がある。全ギリシャの民族価値を前提としながら、独自のポリスが多く混在する政治モデルには、地方自治体の単位で結束した地方分権モデルに通ずるものを感じる。アテーナイでは自由とは何か?といった哲学的思想が根付いているようにも見えるが、一方で奴隷制が栄えた時代でもある。現代感覚では矛盾しているが、「人間」という身分の抽象度はまだまだ低い。独立した諸ポリスの性格には個性があるが、ペルシア戦争では、大軍が押し寄せるとアテーナイとペロポネーソス諸国は団結した。いざとなると意志統一ができるのも、根底に共通文化があるからであろう。そして、ペルシア軍は遠征という不利な立場から撃退された。本書には、ペルシアの大軍に勝利した余韻がまだ残っているように思われる。ペロポネーソス側では、ヘーラクレースの子孫である誇りも覗かせる。しかし、不利な遠征を、ペロポネーソス戦争では、大軍アテーナイがシケリア(シチリア島)に侵略して大敗する。アテーナイでは、大敗責任を追及され民主制の弱点を露呈する。それは、気まぐれな世論の変化である。諸ポリスには強国アテーナイと隷属関係があって、その遺恨も根深い。この侵略の失敗が相次ぐ離反国を生み、ペロポネーソス戦争を敗戦へと導く。

1. 歴史学とは何か?
本書は、「歴史学とは何か?」という素朴な疑問に、一貫して答えようと努めているように映る。人間の文明は何を前提としているのか?人間の行動は何を目的としてるのか?社会や歴史を動かしているものは何か?こうした疑問を自問しながら、経過を辿る様子がうかがえる。そこには、条件と反射との正確な記述がなければ、人間行動の本質を見極めることはできないという原理が潜んでいるようだ。そもそも、歴史文献には権力に着色される性格を持っている。権力者は歴史を美化する傾向がある。したがって、歴史文献をそのまま鵜呑みにすると本質を見誤る恐れがある。世俗的な風刺などにその本性が隠されていることも多い。著者は、政治演説で、人から聞いたことや、自分で聞いても一字一句記憶することはできなかったことを予め断っていて、主旨をできるだけ忠実に綴ったと語る。特に、戦争といった敵対関係では、感情的になって食い違いも生じるだろう。歴史は分かりやすく記述することはできても、正確に記述することは難しい。正確であっても、その実証も難しいので、あぐらをかいてしまう。政策に対する意見の評価も難しく、常に賛否両論がつきまとう。本書の特徴は、そうした混乱を避けるために、賛否の演説が組となって記されるところにある。これは、議事録としての真実性よりも、更に踏み込んだ真実性とでも言おうか。真実は行動した結果だけをもって判断できるものではない。真の因果関係と、表に現れる因果関係が違うことも多い。人間の行動には、表向きの行動と、その奥底に潜む真の動機が共存する。本書は、演説と決議、理論と実際、知性と行動といった両面から迫ろうと試みる。

2. ヘラス(ギリシャ)の地
ヘラスの地に人々が定住したのは比較的新しい時代のことだという。それまで人々は住居を転々としていた。互いの生命を維持するに足るだけの土地を領有し、物資の余剰を持たず、日々の必要な糧さえ確保できれば十分だった。こうした身軽さから、外敵に侵略されると未練なく土地を捨てることができる。豊かな土地のテッサリア、ボイオーティア、ペロポネーソスは、内乱や陰謀の餌食となっていたという。その一方でアッティカ地方は、土壌の貧しさが幸いして内乱は稀であったがために、古来から同種族が住み着いたという。各地で紛争が起こると、国を追われアッティカ地方へ逃げ延びる。その結果、アテーナイの保護を求めた王侯貴族の数が多いという。アッティカの繁栄は難民の増加によってもたらされ、アテーナイのポリスを巨大化させた。トロイア戦争以前は、ギリシャという国が一致団結した例はないそうな。海洋航行が盛んになると、海賊からの防衛のために城壁を築きポリスが形成される。蓄財するようになると、海軍も組織され勢力が拡大し、その結果トロイア遠征が行われた。ここで、ホメロスの叙述にあるトロイア戦争の規模は、詩人としてのありがちな誇大な虚飾であると批判しているようだ。トロイア戦争後、国を離れる者など住民の入れ替わりが激しく、国力を充実することはできなかった。それは、トロイアからのギリシャ人の帰還が遅れたために社会的変動が生じ、新たな国を建てるという現象が繰り返されたためだと指摘している。その80年後、ドーリス人がヘーラクレースの後裔とともにペロポネーソス半島を占領して、ギリシャにようやく平和が戻ったという。ペロポネーソスはイタリア方面に植民地を建設し、ギリシャ人の勢力が拡大すると、各ポリスでは独裁者が台頭し収益を増大させた。各地に海軍が組織され、ますます海上へと勢力を広げる。ギリシャで最初に三重櫓船を建造したのはコリントス人だと伝えられるそうな。コリントスは、ギリシャ人がペロポネーソス半島を往来する時に通る通商の要地である。コリントスは、船舶を建造し海賊を制圧し、陸海両面の通商で商業の中心となる。アテーナイで軍船が建造されるようになったのは、ダレイオス王のペルシア軍が迫った時だという。ペルシア軍を撃退した後、アテーナイはギリシャの頭となった。そして、アテーナイを盟主とした同盟ができる。同盟財務局はデーロス島にが設置された。

3. アテーナイの民主制確立
戦前からアテーナイでは、急進的な民主派と旧勢力の保守派との間で指導権の争奪が続いていたという。新興勢力の海軍と、旧勢力の重装歩兵との間に政治問題が発生する。この問題を、支配圏拡大と植民地増設によって解決しようとする急進派と、収縮的な解決を狙う穏健派、更に、ペロポネーソスに対する親疎両派の対立などが絡む。そして、急激な民主制の発展にともない新旧勢力の均衡が崩れつつあったという。こうした背景で、著者とペリクレースの特殊な関係がある。著者の所属するキモーンの一派は旧派を代表する。その旧派を打倒し新派を代表したのがペリクレースである。著者の態度は、両派に影響されず、冷静に歴史を傍観する眼力を持っていたということだろうか。アテーナイの新旧両派の争いは、まずキモーンとペリクレースの政治抗争として現れた。キモーンは、海軍を率いてエーゲ海各地からペルシア軍を撃退し、後のアテーナイ支配圏の基礎を築いた。しかし、外交的にはスパルタとは平和政策をとったために破綻したという。勢いずく海軍を支えていた下層市民は、更に生活向上を要求したため、キモーンの内政政策に不満を持ったからである。そこに、下層市民の生活向上を旗印に現れたのがペリクレースである。スパルタが地震と奴隷叛乱のために窮地に陥ると、キモーンは援軍を率いるが、逆にスパルタ側の猜疑を受けて面目を失う。キモーンはその責任を負われて追放刑となる。この頃、法廷も民主派の要求に屈して権限を縮小された。新興勢力はテロ事件まで起こし、その振る舞いには目にあまるものがあったという。キモーン追放後、次々と民主派が勝利して、海軍はエーゲ海のみならずペロポネーソス連邦を牽制し始める。海軍は強化され重装歩兵は弱体化という構図。下層市民は海洋制覇を拠り所にして生活権を獲得する。ペリクレースは、植民地経営権を下層市民に分譲し、都市の美化運動、祭典や競技の振興などで民心を掴む。パルテノン神殿の建築もペリクレースが提案し着工したものだという。ペリクレースの政策は、最初は民主主義を押し進めたが、ある時期から民主主義の行き過ぎを是正し、福祉と国の安泰へ向かう。この時期、「人が人である限り守るべきものとして神が与えたものであり、現世の敵味方のべつなく守らねばならなぬもの。」といった高い道徳性と良心が現れたという。

4. ペロポネーソス戦争の直接原因
アテーナイの隷属国エウボイア島で離反が起こり、鎮圧のためアテーナイは軍を差し向ける。その隙を狙ってスパルタがアッテイカに侵入したが、深入りせずに引き揚げた。エウボイア島を屈服させた後、アテーナイはペロポネーソス側のラケダイモーン人と30年間休戦条約を結ぶ。ペロポネーソス戦争は、この休戦条約を破棄したところから始まった。それは、コリントス人とケルキューラ人の、エピダムノスというポリスを巡っての紛争から始まる。コリントスはペロポネーソス同盟に属す。ケルキューラは、イオニア海に面したポリスで、ギリシャ西方に位置しイタリア方面へ向かう要地でもある。エピダムノスを植民地にしていたのはケルキューラであるが、ケルキューラの母国はコリントスで、両者は遺恨の関係にある。ケルキューラはギリシャ諸国と同盟関係にないが、アテーナイに援助を請う。アテーナイもコリントスとの対立関係を歓迎して同盟参加を認める。いずれはペロポネーソス側と戦争が始まると考えていたので、強力な海軍を擁するケルキューラを同盟に加えることは得策だと考えた。そして、アテーナイとケルキューラのどちらかが攻撃されれば、双方で援軍を出し合うという防衛協定が成立。この同盟参加は、ペロポネーソスとの休戦条約違反にはならない。条文には「条約にその名を連ねないポリスは、意のおもむくままにいずれの側の同盟に参加することを得る」とあるから。条文を逆手に取ったわけだが、一方を害する国が、他方に参加することを容認できるわけもない。コリントスは、ケルキューラへ軍船を送る。アテーナイも、ケルキューラに援軍を送るが、指揮官にコリントス船と海戦してはならないと訓令を与えた。だが、戦争とは勢いで意図しないことが起こる。結局、アテーナイはケルキューラと組んで海戦に加わることになる。

5. ペロポネーソス同盟会議と戦争の原因
コリントスは、ペロポネーソス同盟の諸国にラケダイモーンに集まるように呼びかけた。コリントスの代表は、アテーナイが和約を蹂躙したと批難した。ちょうどこの時、アテーナイは代表使節をラケダイモーンに送っていた。アテーナイの代表も演説で、アテーナイがいかに強大な勢力を擁するポリスであるかを示すことによって脅威を与えようとする。各国の演説の応酬が始まる。ケルキューラ事件に見ぬ振りをする態度に、自由なポリスの尊厳をどう説明するのか?アテーナイ人の演説には、侵略行為への釈明が何一つ述べられていない!平和を守るという名目だけで、侵略を黙認することはできない。そして、票決で開戦が決定される。本書の分析では、戦争の理由はアテーナイがすでに広くギリシャ各地を支配下に従えている現状から、これ以上の勢力拡大を恐れたからだとしている。アテーナイの横暴な態度が、諸ポリスの間で顰蹙を買っていたようだ。

6. ラケダイモーンとアテーナイ間の外交的前哨戦
ラケダイモーンは、アテーナイへ何度も弾劾の使者を派遣し、開戦を正当化する有利な口実を模索していた。神の呪いを清めよ!デルポイの神託を仰げ!などの扇動の応酬が交わされる。そこには、互いに過去の侵略などの不当行為を責めるといった遺恨の深さが現れる。ラケダイモーンは陰謀を企て、ペリクレースを失脚させようとする。ペリクレースも、相手の資金不足や軍事的弱点を指摘し、ペルシア戦争以来のアテーナイの実力を誇示し勝算を裏付ける。そして、戦争完遂の決意と十分な資金の蓄積があれば、戦争に間違いなく勝てると主張する。やがて、両者は戦争不可避の結論に達する。開戦にあたっては、無数の予言も横行する。開戦の直前に、前代未聞の地震がデーロス島で発生すると、多くのギリシャ人はラケダイモーン支持に傾く。ある者はアテーナイ支配からの離脱を望み、ある者はその支配を恐れる。

7. 第一次アッテイカ侵攻
第一次アッテイカ侵攻では、ペロポネーソス勢が撤退しアテーナイは勢いに乗る。この勝利で、アテーナイの国葬の光景が詳細に描かれる。最初の戦没者を祖国の慣習にしたがって、栄誉ある死が崇められる。墓地はポリス郊外の美しい場所にあって、そこに参列者の列ができる。国葬でのペリクレースの演説では、偉大な民主政治を守るために犠牲者となった市民の誇りを賛える。利害得失の勘定にとらわれず、自由人たる信念をもって結果を恐れずに人を助ける。これがギリシャ人の理想的精神のようだ。もはや勇士たちに憐れみの言葉はいらない!とその演説も熱い。

8. 第ニ次アッテイカ侵攻
ペロポネーソスは大勢力で侵攻する。その時、アッテイカでは疫病が流行った。一説によると、疫病はナイル川上流のエチオピアで発生し、やがてリュビアに広がって、更にペルシア領土の大部分をも侵したと言われるらしい。それが突然アテーナイに発生したので、ペロポネーソス勢が貯水池に毒を入れたという噂が流れた。疫病による死者がたちまち急増し、混乱はポリス内の秩序を乱す。命も金も今日限りと思うようになった人々は欲望をほしいままに顕にする。宗教的な畏敬や社会的掟をすっかり失い、アテーナイは疫病と外敵の侵略によって窮迫状態に陥った。人間は困窮すると迷信深くなるもので、予言や神託の祟りのような噂も流布し士気が低下する。この窮地にペリクレースは、ラケダイモーンに使節さえ派遣している。だが、なんの成果もない。こうした弱気の行為は、ペリクレースに対する批難となる。ペリクレースは演説で不屈の精神を訴えるが、群集感情は収まらず罰金刑で落ち着いた。ペリクレースは、開戦後二年六ヶ月生きた。ペリクレースは世人の高い評価を受け、優れた見識をもった実力者だったと評している。彼は畏怖するまで市民を叱りつけ、群集から不安を取り除き士気を立て直したという。やがて持久戦となり、ペロポネーソス勢の兵糧が尽き、人肉を食すという事態まで起きたという。ここに経済力の差が出たのか、遠征軍の不利が出たのか、ついにアッテイカから引き揚げた。翌年はアッテイカへ侵攻せず、その後ペロポネーソス勢は苦戦する。アテーナイの船隊はペロポネーソスの船隊を撃破する。その戦闘シーンでは、アテーナイ軍の技術的経験の高さで圧倒した様子が描かれる。

9. レスボス諸市の離反
ペロポネーソス勢が第三次、第四次アッテイカへ侵攻した頃、ポリスの謀反が起こる。レスボス諸市が離反し、アテーナイはその鎮静化に追われる。クレオーンは演説で離反国に対する極刑論を主張する。離反国を討伐するのに、資金と命を掛けるが、勝利したところで得るものはない。疲弊しきった国は年賦金を納める力も失っていて、もはや戦力として期待できない。離反者の行為は過失ではなく、自発的に謀議を行った。情状酌量とは過失の場合のみに該当する。死刑を科せば、未来において離反者が減るといった意見である。
対して、デイオドトスは処刑に反対の立場をとる。
「良き判断を阻む大敵が二つある。性急と怒気だ。性急は無思慮におちいりやすく、怒気は無教養の伴侶であり狭隘な判断をまねく。」
彼は、怒りの立場からすればクレオーンの意見はもっともであるが、戦争勝利者は裁判官ではないと主張する。ギリシャ諸国の慣例では、様々な罪に対して死刑が定められる。にもかかわらず、浅はかな見込みを信じる者は危険を顧みない。成功を確信していなければ誰も無謀な事はしないだろう。離反する時に、ペロポネーソス側の支援が期待できたからこそ、事を起こしたのではないのか。だが、判断は公私に及んで誤る。これは、あらゆる立場の人間の本性に根ざしているという。人間は、あらゆる過ちを犯すのが本性であって、ほとんど全てを死刑に処してきた今日でさえ、犯罪は跡を絶たないではないか。となれば、死刑にまさる恐怖を与えない限り、死刑だけでは十分な拘束力を及ぼすことはできないだろう。人間は衝動の囚にあり、強い誘惑に盲導されて危険な深みに陥る。だが、一旦思いがけぬ幸福に出会うと、信じられない勇気と力を発揮するのではないか。人間の心情を、法の拘束力とその他の威喝の手段で阻止することは不可能であり、これができると思う者ほど単純な人間である。この条理に従えば、死刑にさえ処せば間違いないと信じる愚かな決定はできないはずだ、といった主張がなされる。アテーナイでは意見が真っ二つに分かれたが、デイオドトスの意見が決議された。そして、首謀者のみを処刑することで落ち着く。

10. 内乱がもたらす諸悪
本書は、戦争があるからこそ、内乱が起こると主張する。平和と繁栄のさなかであれば、国家も個人も己の意に反するように強制されることがないため、より良き判断を選択できるという。しかし、戦時では、円満生活を奪い、人間は弱肉強食となって、ほとんどの感情は目の前の安危へと向かう。そして、後から現れる行為は、先例よりもはるかに過激な行為となる。攻撃手段には復讐感情が加わり、更に残虐化を増す。そして、暴虐が勇気と呼ばれ、先を見通す者は臆病者と呼ばれる。人間の共犯意識は集団行動の中で加速する。優勢な方が寛容な態度で言い分を聞いていたものが、間髪をいれずに暴虐化し狂乱する。こうなると、もはや良識などなくなる。人間は、神よりも復讐を、正義よりも利欲を崇めるようになる。内乱で引き起こされた価値の倒壊や人間性の潰滅といった現象が鮮明に記される。

11. アテーナイ、シケリアで敗北
アテーナイの大軍が押し寄せるという報が入った時、シケリアでは次のような演説で鼓舞する。
「ギリシャ人にせよ、異民族にせよ、本国を遠く離れて繰り出した大軍勢が終わりを全うしたためしがない。いかなる大軍といえどもその地に住む人口を凌ぐことはできない。糧食補給が絶たれては異国の地で挫折する。」
アテーナイは、ペルシア軍と同じ過ちを犯して敗北した。本書は、シケリア諸邦のみが、アテーナイと類似の体質を有する国々であったと分析している。すなわち、アテーナイと同じくらい民主国家であり、軍船や騎馬などの軍備も大きかったと。相手国の反政府分子を利用することもできないほど、民主制が根付いていたと。自由を掲げ、他国の隷属を断固として拒否した結果であり、政治体制を崩すことができなかったことを敗因としている。アテーナイ本国に悲報が伝わっても、当初は誰も信じなかったという。それが真実だと判明すると、市民たちは決議に自らの票を投じたことを忘れて、遠征を支持した政治家たちを一斉に批難した。神託師や予言者などにも憤りを投げつけた。ポリスの多数の重装兵や騎兵を失ったばかりか、国内で第一線の壮年者を失った。船を失い、国庫には余財もない。おまけに、シケリアから襲来される恐れがある。離反国も、大挙して押し寄せてくるかもしれない。アテーナイに隷属していた諸国はその報に熱狂する。最大同盟国キオスが離反し、同盟国の離反が連鎖する。

12. ペルシア王とギリシャの思惑
アテーナイ軍がシケリアで大敗した後、ペルシア王とラケダイモーンが同盟を結ぶ。しかし、ここにはそれぞれの思惑が隠されている。ラケダイモーンからすれば、ペルシア王の資金援助があれば、兵士への給料も支払わられ諸都市が援助される。しかし、ペルシア王からすれば、ギリシャ人同士で互いに傷つけあう方が都合がいいので、この戦争を早く終わらせたくない。アテーナイからすれば、ペルシア王の仲間として支配圏を分け合う相手はどちらが都合が良いかいえば、ラケダイモーンよりもアテーナイであるという意見が支配的である。アテーナイは陸上の支配圏に固執しないからである。その頃、アテーナイでは民主政治の廃止を唱え始める風潮が現れる。そして、一部の有力者による貴族政治へ移行し、四百人評議会が成立する。民主政治を廃止すれば、ペルシア王との関係を良好にできるという意見が支配的だったからである。敗戦の責任を民主制に押し付け、強力なリーダーシップを要求した世論もあったのだろう。ただ、隷属諸邦に貴族派が政治工作したところで、もはや効力はない。そして、ペロポネーソス勢によって自由がもたらされると期待し、自ら自治独立の道を選択する。結局、四百人評議会は離反軍の鎮静化に失敗し、窮地に追い込まれる。この時の状況をほどんどの者が功名心に憑かれて、表向きの政治論を展開していたに過ぎないと、その光景を語る。機能しない貴族政治への不満は最高潮となり、五千人会議による平等な政治体制を模索する。そして、四百人評議会は解体され、貴族と民衆が融合して均衡に達し、悪化を続けていた状況が好転しつつあったという。

13. ニーキアースの最後の演説。
ニーキアースは撤退の兵を励ます。
「諸君、男児らこそポリスをなすもの、人なき城や船がポリスではない。」
しんがりはデーモステネスがつとめた。糧食類も枯渇し、軍兵はただならぬ困窮に陥る。ついに、デーモステネス降伏。続いてニーキアース降伏。両指揮官は処刑され、捕虜も過酷な運命をたどる。筆はこの21年目で終わる。その後、ペロポネーソス戦争は、27年目でアテーナイが降伏することになる。

2009-07-19

"社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」" Max Weber 著

マックス・ヴェーバーに魅せられて、もう一冊読んでみることにした。本書は、岩波文庫の古書「社会科学方法論」(1936年版)の補訳新版である。旧書はしばらく絶版になっていたが、こうして時折復刊してくれるのはありがたい。本書は、難解な文章で悩ましいところもあるのだが、折原浩氏の補訳と解説はその理解を助けてくれる。にもかかわらず、泥酔した精神は身勝手に解釈するのであった。これもアル中ハイマー病の特権である。

ヴェーバーは、社会学を科学的な観点から捉えようとした。認識論の観点から「価値自由」という概念で迫り、方法論の観点から「理念型」で体系化しようとする。その試みは、宗教、経済、政治、法律など多方面から研究を重ねたが、未完成に終わっている。ただ、その完成に見込みがあったのだろうか?科学的に分析するということは、客観性や論理性を保たなければならない。「人間の客観性」とは何か?と素朴に問えば、それは自然科学とは明らかに違う。人間行動とは、伝統的慣習、宗教や思想による信仰や倫理観、歴史による民族性、個人の経験則など、あらゆる諸条件が絡み合って生じる現象である。協定や契約など社会関係の制約で生じる義務や使命感もあれば、集団意識に扇動されたり、社会的制裁を恐れて心理的抑圧によって行動することもある。稀に、アル中ハイマーのように「気まぐれ」を信仰している人もいるだろう。その多様性には限りがない。人口増加がそれをますます顕著にする。行動の動機は、単純な利害関係だけでは説明できない。というより、個人の理念に沿った利害関係に基づくと言った方がいいかもしれない。奉仕や援助などの人道的行動は、個人の価値観において合理的に作用しているはず。人間はいまだ絶対的価値観を見出すことができない。価値観は個人の中に相対的に育まれるのであって、精神の合理性にはカオスの世界がある。本書も、無限の諸条件の中から法則性を見出すことは不可能といったニュアンスを匂わせる。ただ、個人の環境による諸条件の違いはあれど、条件の因果関係から人間行動の動機が生じるのも事実である。人間は直観的に追体験する能力を持っている。感情移入とはそうした現象の一つであろう。とはいっても、理解不能な行動も多く存在する。主観と客観の双方からアプローチして、最終的に融合することはある程度可能かもしれない。人間のタイプを、抽象化して区分や分類することは可能であろう。これが、社会学における「科学する」ということであろうか?ただ、カテゴリー分析論から社会問題を解決できるところまで学術的に高めることは難しかろう。本書は科学の限界を問題提起しているようにも思える。

一つの命題に対して、論理的な裏付けができたら、そこに安心感が生まれる。人間が客観的論理や体系化を追求するのは、精神が安住の場を求めているとも言えよう。そこで得られる快感も主観で解釈するから、人間とは得体の知れない生き物である。自己責任と他人責任の区別をするためにも、客観的な判断や論理的な説明が必要である。となれば、自己責任の範囲、ひいては精神の縄張りを明確にするために、科学的説明を求めているとも解釈できる。客観的に、論理的に説明できる人を見かければ、憧れてしまう。しかも、冷静な面持ちで渋い声で語りかければ、それだけで世論はいちころだ。ヒトラーのような演説の天才であれば尚更。政治マフォーマンスも政治能力の一つではあるが、大衆も経験を重ねるごとに胡散臭さを感じていくだろう。

以下は、酔っ払った精神が気まぐれで章立てている。なぜかって?そこに泡立ちのいいビールがあるから。本書に関係があるような?ないような?この解釈がヴェーバーの意図するものかどうかは知らんがねぇ!もはや泥酔した精神を諌めることはできないのだから。

1. 社会学で科学する
当初の科学は、おそらく実践的見地から始まったのだろう。リンゴが落ちるから重力理論が誕生する。臨床体験から医学を発展させる。数学の起源は、占星術が宗教と結びついた結果といったところだろう。政治論や経済政策では、理想と実践の立場で論争が繰り広げられるが、最初は実験的な模索から始まったのだろう。実践的方法は、経験的な反省から構築されていく。そこでの問題に対する思考方法は、主観から発生し、客観的な見解が求められることになる。工学は実践的に考察する分野であり、科学と数学に密接にかかわる。社会科学は、理論科学というより現実科学という意味合いが強いように思える。社会政策は、現実政策にならざるをえないからである。社会を分析する時、条件さえ固定できれば、ある程度の体系化は可能である。ただし、その条件が無限に存在するから困ったものだ。無理やり統計的に処理すれば多少の効果はあるが、真理の探求からは程遠い。はたして、人間社会の平均的価値観といったものを計測することができるのだろうか?それでも、本書は、個人認識の「価値判断」と「理念型」を形式化し、計測可能な領域へ持ち込もうとする。学者の立場からすると、真理の探求が不可能であるのと、それを諦めるのとでは違うということであろうか。不可能性を証明したり、科学的認識の限界に迫るのも意義深いはず。少なくとも、くだらない体系化による欺瞞が蔓延ることを抑制する効果はありそうだ。歴史的には、科学的解明が人間中心主義から徐々に離れさせる役割を担っている。

2. 理念型
複雑系を分析するプロセスとして、まず現実から遠ざかった単純化モデルから始める。科学的手段として、抽象化レベルを変化させながら考察する方法はよく用いられる。単純モデルでは、資本主義的な私的資本の増殖という利害関係だけで支配される社会を想像することはできる。その一方で、思想的に理想像でまとめあげたユートピアのような社会モデルを想像することもできる。人間の行動様式をある条件で縛ることによって、特定の理念をモデリングすることは可能である。本書の主旨は、こうした理念型を集めて、多様な実体へ少しずつ近づこうとすることである。そして、階級や身分によって理念型を言及し、売春婦というカテゴリーからも一つの理念型が構築できると主張している。とはいっても、一つの理念型に属す人々の行動も様々であり、時代が変われば区分そのものに見直しが迫られるだろう。自然主義的な理論と歴史とを混同すると本質を見誤る。やっかいなのは、価値観や理想像は時代によっても違うことである。
「思想が人間をもっぱら論理的に強制する力が、歴史上いかに巨大な意義をもったにしても、マルクス主義はその顕著な一例であるが、人間の頭脳にある経験的、歴史的事象は、通例、心理的に制約されたものと理解されるべきであって、論理的に制約されたものと理解されてはならないのである。」
本書は、マルクス主義の特有な法則や構成が、理論的に欠陥がない限り、理念的性格をそなえていると語る。だが、これはマルクス主義の科学的見地を皮肉っているようだ。いや!誉めてんのか?いずれにせよ、ヴェーバーはマルクス主義とは違う立場にあると主張している。理念型の概念は、その型に嵌る人々から見れば、それ自体は矛盾のない宇宙となるはず。しかし、すべての人間を理念型に当てはめるには、抽象度を上げなければならない。厳密な分析を求めれば理念型は無限に枝分かれし、下手すると人間の数だけ生成されることになりはしないか?もはや、社会学で人口論を無視することはできないはずだ。人口論のもとでは、戦争は奇妙な論理で成り立つ。世界恐慌時代、雇用を創出するために軍備を強化して帝国主義へと邁進した。しかし、大量に兵隊が死ねば、その補充で子供の量産が求められる。雇用の創出と子供の量産は、若年層の大量死によって相殺される。寿命の短い時代もそれなりに均衡されていただろう。少なくとも人口比に対して地球資源が無限に見えている間は。では、現在は?若年層の失業問題がある一方で、少子化問題を訴えながら子供をたくさん産むことを奨励する。まるで老後の面倒を押し付けるかのごとく。おまけに、地球資源の枯渇という問題が絡む。もはや、人間の遺伝子を突然変異させて、地球環境外でも住める生物に進化しなければならない段階にきているのかもしれない。

3. 集合知
集合知は、正しい方向へ、あるいは自然法則へ導くという意見もある。それも一理ある。ネット社会では「大衆の叡智」と賛美する人も多い。だが、人間の集団力には偏向を助長する危険性が高い。驚異的なベストセラーが発生する一方で、出版業界が揺れ動くのも、そうした現象の一つであろう。「口コミ」や「おすすめ商品」でいくら星印が並んだところで、その影には購入を誘導する思惑が透ける。匿名性は紳士をも凶暴化する。SPAMを送りつける連中を抹殺したいと思う人も少なくない。人間社会がどんな形態をとっても、コミュニティが形成されるところには必ず醜態を曝け出す。容易に拡がりを見せる社会ともなれば、その醜態を助長するのも自然であろう。
ここで、いったん政治に目を向ければ、各党派の行動が集合知として真理へ近づいていると思っている人は少数派であろう。政治屋が目論む意見の調停が、科学的客観性に基づいているとは到底思えない。むしろ、既得権益の維持に必死で、思いっきり主体性の中でうごめいている。おいらは、昔、政治家は理系出身者でなければならないと主張していた時期がある。社会システムを構築する上で、理系的な分析が必要だと考えたからである。しかし、ある知人から未納三兄弟で一世風靡した某元党首は理系出身者だと指摘されると、その考えはあっさりと崩れ去った。論理的思考に、文系や理系という枠組みに囚われることに、なんの意味もなさそうだ。政治家は、しきりに国益のために行動すると発言する。では、国益とは何か?既得権益のことか?グローバル化が進むと国益という概念も怪しい。一国の事情だけで経済動向を見極めることなどできはしない。情報化社会では、ある現象が自分の理想と矛盾すると、それに関心を持った人々で集まりやすい。彼らは、だいたい似通った理想像を持ち、親和力によって結束する。そして、客観的意見で集まったはずが、いつのまにか同士となり、科学的な思考も偏ってしまう。人間関係は、濃厚であってもドライであっても善し悪しがある。

4. 経済に関わる現象
本書は、「経済現象」、「経済を制約する現象」、「経済に制約される現象」を区別する。「経済現象」とは、取引所や銀行など、経済制度に直接関わるもの。「経済を制約する現象」とは、宗教や歴史などによる信仰や倫理観などから生じるもの。「経済に制約される現象」とは、不景気や経済危機によって、人間行動に制約が生じるもの。また、国家が法律で経済を制約する場合もあれば、逆に、経済動向が国家の行動を制約する場合もある。不景気下では、政府は無闇に税金を上げることもできず、節約方向の政策を取らざるを得ない。こうしてみると、直接経済制度に関わるものを除けば、あらゆる文化事象にまで拡大されることになる。経済現象には、政治、宗教、風土、その他無数の要因から様々な反応が起こる。所詮、直接経済に関わる制度やシステムだけを考察したところで、経済動向を見渡せるものではない。にもかかわらず、経済の専門家は、直接経済に関わる現象ばかり追いかける。

5. 偶然性の評価
歴史事象には無数の偶然性が潜むが、はたして偶然性を演繹する方法はあるのだろうか?自然科学の発展が、社会現象の合理的考察と密接に結びついているのは事実である。個人の価値観から解放されたい、あるいは偶然性からも解放されたいという願いから、概念の体系化は進む。ここで、「ナポレオン言行録」の中に偶然性について語った一文があったのを思い出す。
「軍学は、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。」
貨幣経済は法則的に把握できるという見解があるが、それも仕方がない。貨幣量は計測できるからである。しかし、経済は貨幣量だけでは計測できない。人間行動をも計測する必要がある。人間行動は精神を相手取った心理学の領域にある。経済学者たちは偶然性ですら統計情報に基づいて無理やり定式化する傾向がある。学説というものは、統計情報で武装されると、なんとなく説得力を感じるものだ。人間の精神は、規則性に支配された世界でないと安住できない性質を持っているのだろう。ただ、無理やり定式化すれば誤謬を犯す。現象と真理の違いを見極めるのは困難な作業である。「歴史は繰り返す」と言われるが、何も歴史が繰り返されるわけではない。諸条件はいつの時代も異なる。ただ、歴史を学ばなければ同じ過ちを犯す。事実認識を経験的妥当と混同するのは、人間の深層心理にご都合主義がつきまとうからであろう。

6. 国家という奇妙なシステム
人間が生まれると国家に自動的に、あるいは強制的に編入される奇跡ともいうべき社会システムがある。そこには理念の強制がある。幼い頃からの教育によって、その強制に疑問を感じることすらない。国家は歴史的に育まれたもので、国家観は自然に植え付けられる。では、この奇跡のシステムから逃れることはできるのだろうか?巧みな法律術を駆使すれば可能かもしれない。自由にどの国家にも属さないという身分保障があってもいいような気がするが、物理的には難しい。もし、そんなルールを作ろうものなら猛反対されるだろうが