2017-07-30

"選挙のパラドクス - なぜあの人が選ばれるのか?" William Poundstone 著

政治の在り方を問うたアリストテレスは、最善なのは君主制で、次に貴族制で、最悪なのは民主制というようなことを書いた。しかし、真の君主はどこにも見当たらず、ことごとく僭主と化す。有識者や有徳者の集団ですら権力を握ると、そうなるものらしい。今日、様々な政治体制が試されてきた中で、民主制が比較的マシとされる。そして、その実践法の代表とされるのが選挙だ。これに勝利した者だけが決定を下した事に正当性を与え、行政を機能させうる。
だが、貧困国では、西洋式民主主義を押すつける時に真っ先に導入され、腐敗選挙や恐怖選挙が横行する始末。ある経済学者はデモクラシーならぬデモクレイジーと呼んだ。民主主義は世界で一定の地位を獲得し、崇める人も少なくない。ならば、選挙の在り方について、あまり問われることがないのはなぜだろう。そりゃ、現行制度で当選した者が、わざわざ制度を見直そうなどとは思わないだろう。では、政治ショーを煽る報道屋はどうか。他の選挙方法では結果はこうなります!といったシミュレーションを公開してみるのも一つの手。選挙方法をちょいと変えただけで勝敗が逆転するとしたら、当選者の正当性はどうやって担保されるだろうか。選挙運動の不正もさることながら、選挙制度そのものの監視は誰の手に委ねるべきだろうか。
... などと問えば、民主主義ほど矛盾に満ちたものはなく、論理学を重んじたアリストテレスの主張も分からなくはない。一貫性という観点だけで言えば、独裁制の方がスッキリするだろう。腐敗体制か恐怖体制かは別にして...

ほとんどの選挙方法に「相対多数投票」が用いられ、無条件で多数決が崇められる。そうした感覚は、義務教育から馴染んできたこともあろう。候補者の戦略は、ひたすら過半数を目指すのみ。選挙に慣れない社会では最も分かりやすい方法だが、民主主義が成熟した社会ですらその意識は強い。
さらに、同じ相対多数投票であっても、境界条件が違えば意味するものも違ってくる。例えば、都道府県知事は、地域全体の直接選挙であるため単純に得票数で勝敗を決する。では、総理大臣はどうか?国会議員は地方選挙区で選出され、政党の中で有力となる人物は当選回数がものを言う。ならば、一国の元首が、地元の影響力が強い者ほどなりやすいということになりはしないか。相対多数の原理に深刻な欠陥があると納得させることは、それほど難しいことではなさそうだ。おまけに、選挙の勝者は常に好まれて選ばれるのではなく、しばしば消去法によって選ばれる。つまり、こういうことだ。
「相対多数から好かれる政治家は、大多数から嫌われる...」

本書は、相対多数より優れた方法として「コンドルセ投票」、「ボルダ式得点法」、「即時決選投票」を検討し、最有力な方法はインターネットでよく見かける「範囲投票」だと結論づけている。
しかしながら、どの方法をとっても、「不可能性定理」ってやつがつきまとう。ノーベル賞経済学者ケネス・アローが唱えた社会選択理論における法則である。やはりここにも、ナッシュ均衡が...
アロー風に言えば、そもそも合理的な民主制は不可能、いや、完全な合理的政治システムは不可能ということになろうか。政治コンサルタントとは、この不可能性につけこんで金儲けをする高度な知識集団ということことか。
「今日のコンサルタントを定義するものは、電子メディア、科学的世論調査、ゲーム理論を応用した戦略、そして最後に、徹底的にダーティなエートスだ。」
選挙戦略では、相手のスキャンダルに乗じたり、ネガティブキャンペーンを仕掛けるだけでは能がない。一騎打ちで勝算がなければ、わざわざスポイラー候補を立てて票割れのための生け贄を捧げたり、時にはメフィストフェレスとも手を組む。選挙で清廉潔白を競っても無駄だ。政治家の資質は清廉潔白などではなく、そう見せることが肝要なのだ。そして、あのマキァヴェッリの言葉が聞こえてくる... 盲人の国では片目の男が王様だ!

1. 非単調性と非推移性
本書は、「非単調性」という論理学用語が持ち出す。投票者が候補者の評価を上げようと高位にランク付けすれば、後押しできる。これが単調性で、その反対が非単調性である。単純な相対多数投票や優先順位付き連記投票では、政局に関係しそうにない票が集まり過ぎたために敗北を喫したり、支持者の一部が投票しなかったおかげで勝利したり、といった奇妙なことが起こる。
有力候補者が二人に絞られ、残りはマイナー候補者ばかりといった構図では問題はない。問題となるのは、有力候補者が三人以上の時だ。第一勢力が過半数に満たない場合、少数派であるはずの第三勢力がキャスティング・ボードを握ることもある。はたまた、アイツだけは勘弁してくれ!といった人が当選することもあれば、凡庸な首長が誕生したりもする。「スポイラー効果」のような現象は、有力者の票を喰ってしまうのだ。その場合、三番手の票が割れ、候補者が消去されていく順番が重要となり、党首指名選挙などでは決選投票が導入される。一方、知事選や代議士の選挙区には一人区があり、候補者が乱立すれば事実上の無効票も増える傾向にある。数学は二体問題を極めて単純化してくれるが、三体問題となると、たちまち難題にしてしまうのである。
また、本書は「非推移性」という概念を持ち出す。A が B よりも金持ちで、B が C よりも金持ちならば、A は C よりも金持ちとなる。これが推移性で、これが成り立たないものが非推移性である。A は B を愛し、B は C を愛しているが、A が C を愛しているかは知らんよ。
これらの概念は、勝敗逆転のパラドクスをよく表わしており、アローの「不可能性定理」の核となる。

2. ボルダ方式とコンドルセ方式
「ボルダ式得点法」は、最も好ましい者から最も好ましくない者までランク付けをする。例えば、投票用紙に記載された名前とともに番号をふり、集計の際は各候補毎に数字を合計していく。ポイント形式でもいい。このやり方は、相対多数よりも投票者の意思をより明確にする。絶対にアイツは嫌だという意思まで。ランク付け投票は、是認投票、あるいは、否定投票という形をとりうる。ただ、ライバル陣営は対抗馬に最低点をお見舞いするだろうし、この方式でも票の重みに歪が生じる。
一方、「コンドルセ投票」は、候補者が二人の場合を理想とし、あらゆるケースで一騎打ちさせるというやり方。最も正当な勝者は、すべての候補者を正面から打ち破り、最後まで立っているボクサーというわけだ。ただ、決選投票を毎回やるには手間がかかり、コストもかかる。
そこで、投票用紙には、候補者の二人の組み合わせがすべて記載され、どちらを好むかを問うようにする。これはこれで、投票用紙がややこしくなりそう。A よりも B を好む集団、B よりも C を好む集団、あるいは、C よりも A を好む集団が混戦すると勝敗は微妙だ。これを「コンドルセ循環」と呼んでいて、ジャンケンで言うところの、あいこの状態である。このような状態では誰が勝っても小差であり、すべての陣営が正当性を主張するような状況が想定される。世論はちょっとしたきっかけでどちらにも転ぶし、選挙後に不正があったと煽るのは政治屋や報道屋の常套手段だ。
ちなみに、ルイス・キャロルこと数学者チャールズ・ドジソンも、この二つの方式を自力で考えついたそうな。彼の著作「不思議の国のアリス」には数々のパラドクスが描かれ、その中にコーカス・レースが登場する。党大会レースってやつだ。まず、ネズミの無味乾燥な演説で、みんなのびしょ濡れになった身体を乾かそうとする。そして、盛り上がってきた聴衆が好きな時に走り始め、突然、ドードー鳥が終了宣言してレースはおしまい。つまり、多数派原則を、全員で勝手に盛り上げ、全員で勝利した気分になれるという不条理な競争として描いているわけだ。
多数派の循環論法が、しばしばコンドルセ循環と重なり、アロ-のパラドックスを生むという原理を再現している。その一方で、冷めた目で眺めるアリスのような存在が、結果に幻滅し、選挙の意味を疑い、無党派層を拡大させていく...

3. 中位投票者定理
一般投票者は、一人一票の権利が与えられるだけでなんとなく平等性を感じ、自分の票が無効となる可能性に気づくことはないだろう。知らぬが仏ってか。天の邪鬼なおいらは、しばしば無効票を投じる。そこそこ支持している場合でも、勝ちすぎることを懸念してわざと対抗馬に投じたり、どちらも支持できない場合はあえて第三勢力に投じたり。つまり、本書で問題とされる典型的な不正直者なのだ。選挙に行かないという選択肢もあろうが、それは選挙権の放棄を意味しかねない。白票に何か意味を持たせることはできないか?などと考えたりもするのだが...
本書は、「中位投票者定理」という概念を紹介してくれる。候補者の政治観を直線上に並べた時、中位的な立場が存在し、そこに最適点を見出そうとする考えである。購買心理に、製品ラインナップで真ん中のものが選ばれやすいというのがあるが、これと似ている。中位を制するものが勝利するという戦略は、ランク付けするような選挙方式では機能しそうである。
ちなみに、おいらは、売れ筋とは逆ポジションをとる天の邪鬼だ。例えば、最高裁判所裁判官国民審査のような記入しなければ自動的に信任される方式を、どうやって正当化できるだろう。最初からバイアスがかかっているとは、論理的にも、倫理的にも、欠陥どころではあるまい。おまけに、半世紀以上も放置されたままときた。分からないから記入しないという人が圧倒的に多い中、すべてに☓印を書くという行為も、それになりに道理に適っていよう。とはいえ、それはそれで票の重みを歪めていることになり、ここに中位の原理はまったく機能しそうにない。結局、ネットで公開される判決事例を参考にすることになるが...

4. 即時決選投票
ランク付け方式の変形で、「即時決選投票」あるいは「優先順位付連記投票」と呼ばれる方法を紹介してくれる。
まず、ボルダ方式と同じように、投票者はすべての候補者にランク付けをやり、各候補者にそれぞれの票を山に重ねていく。一位にランク付けされた投票用紙がそれぞれの山に含まれ、第一の投票で過半数をとれば、その者が勝利する。そうでない場合は、最も高さの低い山に注目する。つまり、最下位の候補者だ。この候補者は消去され、その低い山の票が残りの山へ再分配される。ここで再び過半数をとる者がいれば、その者が勝利する。こうして、候補者の消去と投票用紙の再分配を下位の方から繰り返していく。
これならば、上位二名の候補者の票が最後まで再分配されることはなく、ボルダ方式よりもよさそうである。ただし、嫌がらせ票が上位候補者に集まりやすいという前提で。ライバル陣営の投票者は、第三勢力や、その他大勢の党派、あるいは無党派層を装うこともできよう。
そして、消去される可能性の高い候補者に注目して、再分配される票をターゲットとすればどうだろう。メインの票が疎かになれば本末転倒だが、数学的に集団行動の最適化はできそうだし、この方式の弱点も見えてくる。優勢が 45% から 55% ぐらいであれば、勝敗は集団的投票行動にかかっているということだ。少なくとも数学的には...

5. 範囲投票
本書は、投票者を最も満足させる方法は「範囲投票」だとしている。それは、"hot or not.com" の評価方式である。インターネットに青年男女のプロフィールが公開され、1点から10点でホット度を投票する。合コンやパーティーで、ちょいと気になる異性に点数をつけたりする行為は、なにもネット社会に始まったことではないが、写真を公開するのは勇気がいる。そして、自分の点数を見て自虐に陥っても平気だ。Mだし...
この方式は、Amazon や YouTube などでも見かける。インターネットでは評価する集団が特定されることはなく、実に多様な集団が参加してくる。
しかしながら、範囲投票が最もよく機能するのは、同一集団が全候補を採点する場合だという。まさに選挙がその条件を満たす。スポイラーや票割れの問題も見事に解決し、驚くべきは、インチキがあった場合ですら上手く機能するという。ほんまかいな?投票数が多くなればなるほど、作為的な票は誤差に飲み込まれるということらしい。それは、どんな方式でも言えることで、正直者が多いほど機能しやすい。ただ、口コミ情報はあまり当てにならんけど...

6. 二大政党制と比例代表制
一名選出選挙のためのシステムには、有権者間の矛盾を解消するような、全員にとって最も合理的な代表者が求められる。対して、比例代表は、有権者の多様性を議会という縮小された規模で再現しようというもので、各政党に獲得票の比率に応じた議席数を割り当てる。比例代表の問題は、一名選出選挙の問題とは様々な点で正反対となる。
比例代表の一般的なシステムは、単記移譲式投票で、優先順位投票が用いられる。一定割合の票を得た候補者が当選するが、当選確定者の余分な票は、それぞれの順位にしたがって他の候補者へ移譲される。
したがって、少数派の意見を尊重しすぎるために、勝敗が逆転してしまうことがある。社会の多様性を勝者にどのように割り当てるかは、選挙制度の難題中の難題と言えよう。
ちなみに、比例代表制の反対派は、必ずヒトラーの事例を持ち出すという。過激派の躍進を許したヴァイマル共和国は、比例代表を採用した。もし比例代表でなかったら、ヒトラー率いる第三勢力の躍進はなかったというのが、反対派の主張らしい。ヒトラーの暴走を許したのは議会が全権委任法を可決させたことにある。議会を無力化した手腕は、鮮やかというか、えげつない。では、二大政党制だったら、こんなことは起こらないと言えるのか?
一方で、アメリカの二大政党制を、政権交代可能な制度として理想に掲げる政治家を見かける。比例代表が人間社会の多様性を反映する手段だとすれば、人種的にも、文化的にも、多様なアメリカ社会に適合していそうだけど。二大政党制がマイノリティを排除する方向に働き、無理やり二体問題に押し留めているとしたら、どうだろう。かつてアメリカでも比例代表制を採用していた時代があるという。廃止してしまった経緯があるだけに、復活させるのが難しいという事情もある。それでも近年、比例代表制を訴える動きがあるとも聞く。
二大政党制は、むしろ単一民族社会である日本の方が適合しやすいのかもしれない。ただ、いくら単一民族であっても、人間の多様性は一筋縄ではいかない。二大政党制と比例代表制の在り方は、人間の普遍性と多様性の共存を問うているように見える。いずれにせよ、カオスの世界で一つの方法論を崇めるのは危険である。おそらく学者は最良のセールスマンにはなれないだろう。どんな選挙制度を導入したところで、必ず批判を浴びせかけるのだから。自問を奨励し、自己をも含む批判哲学が、学問を進化させてきたのも事実。学者は、どんな現象でも単純化しようする。それが悪いわけではない。本当に単純化できるのなら...

7. ベイズ後悔
「ベイズ後悔」という統計学用語を紹介してくれる。その名はベイズ統計に由来し、範囲投票の優秀さを唱えるウォーレン・D・スミスが唱えた基準だという。その定義には、こうある。
「人間の不幸のうち、回避可能だったと予測される不幸」
ベイズ後悔がゼロとなるような選挙方法が理想というわけである。彼のコンピュータ・シミュレーションによると、最良な結果を得たのが「範囲投票」だという。パラメータには、投票者の正直度、無知度、作為度、恣意度、策謀度などが持ち込まれる。多くの投票者は、マスコミが報じる世論調査にも耳を傾けるだろうし、マスコミの思惑にも乗せられるだろう。満足できない選挙結果に遭遇すれば、正直者の行為より戦略的な行為の方が、後悔度は大きいかもしれない。
スミスのシミュレーションは、他のことも示したという。正直者が多い場合、即時決選投票は相対多数投票よりもはるかによく機能すること。コンドルセ方式が改善されること。全員が正直者だったら、ボルダ方式は、即時決選投票、コンドルセ方式よりも、はるかに凌ぐ結果になったこと。それでも、範囲投票を凌ぐものとはならないらしい。

8. 功利投票
社会学や経済学において、数値による点数評価は長い歴史がある。一つは、ボルダやコンドルセからアローへと至る流れ。もう一つは、功利主義から広まった流れ。
ジェレミー・ベンサムも啓蒙時代のリベラル派で、コンドルセと同じ種類の個人的自由を擁護したという。社会にとっての最良の選択は、全員にとっての最大の幸福を導くものだとする考えである。数学的には、全市民の幸福を合計して、最良の方式を判定する。
「功利投票」とは、各候補に対して感じる幸福を、投票者が数値で記入していくもの。原理的には範囲投票と同じで、投票のルールは必然的に範囲を規定することになる。

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