2017-08-13

"神曲 地獄篇" Dante Alighieri 著

ダンテの大作がモチーフにされるのを見かける度に、いつか挑戦してみたいと思い... 思い続け... 二十年は過ぎたであろうか。美術や音楽の題材で見かけるだけでなく、科学書や数学書、あるいは哲学書でもよく引用され、こいつが文学史屈指の傑作であることは想像に易い。
しかしそれは、西洋ないしキリスト教圏における評判であって、イスラム世界では悪魔の書のごとく扱われよう。たとえ善良であっても、キリスト教の洗礼を受けなかったというだけで地獄へ落とされる。キリスト教がまだ成立していない時代の人々だって容赦しない。真理を追求した自然哲学者たちも、信仰心が薄いとして地獄の生贄に...
そこには、自然学を唱えたアリストテレスや世界市民思想を唱えたディオゲネス、あるいは、ユークリッドやプトレマイオスやヒポクラテス、さらには、道徳家のキケロやセネカの姿を見つけることができ、おまけに、ダンテの師ブルネット・ラティーノも徘徊している。
一方、ダンテ自身はというと、生前訪れた傍観者、最もずるい立場!この場所では、小難しい説教を垂れても無駄だ。暗黒界に幽閉された人々は、せめてダンテに愚痴や言い訳を聞いてもらえれば、本望というわけか。アーメン!
生きている間は生きている者同士で騒ぎ、死んだら死んだ者同士で静かに語り合い、生きている者どもに静寂を邪魔されたくないものだ。ジョン・スローンは言った... 死んだ人の悪口を言うのはよくない、生きているうちにせいぜいこきおろしておこう... と。
尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。

人生の道なかば、三十五歳のダンテは、古代ローマの大詩人ウェルギリウスの導きを得て、地獄、煉獄、天国をめぐる旅に出る。「神曲」は、地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部で構成され、まずは地獄めぐりから始めよう...
ダンテはフィレンツェ生まれだが、ここに登場するフィレンツェ市の要人たちへの仕打ちは凄まじい。というのも、彼は政変に巻き込まれて祖国から永久追放され、生涯に渡って放浪生活を送った。フィレンツェを呪ったのか。誰でも気軽にくぐれる門戸を開き、怖いもの見たさの衝動に駆られた者どもを誘惑しようってか。この物語は、復讐劇なのか。
ダンテが語る道徳観や倫理観は、極めて自己中心的である。いや、自己陶酔論と言うべきか。永劫の呵責を受けた亡者たちも負けじと、ことごとく自意識のオンパレード。だから、地獄なのかもしれない。暗黒界が盲目な者どもの世界だとすれば、それは現世と何が違うというのか。芥川龍之介は言った... 人生は地獄よりも地獄的である... と。

宗教の本質は、寛容さにある。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ預言者アブラハムに導かれた、いわば兄弟の徒で、アブラハムの宗教と呼ばれる。なのに、親兄弟による骨肉の争いは加熱の一方。エントロピーの力は偉大と見える。血が濃いほど、熱湯消毒が必要ってか。
宗教の不寛容さは、まず論理の整合性を求めるところに現れる。そうでなければ、庶民を説得できないのだから。だが、論理は緻密であればあるほど矛盾を露呈する。これを、いかに感情論で包み込んでしまうか、これが宗教テクニックだ。宗教上の真理は、知性や理性などではなく、もっぱら信仰によって導かれる。そして、人間が最も忌み嫌う死後の世界を、心地よい天国として具体的に提示し、信じる者は救われる!の原理に働きかける。
したがって、科学者や数学者、あるいは哲学者たちが、地獄に落とされるのも道理である。しかしながら、アブラハムの宗教から遠く離れた読者が眺めれば、妙に皮肉が効いていていい。ダンテ自身にそんな意図はなかっただろうが。芸術作品とは、そもそも独り善がりの産物であって、地獄の傍観者ダンテを傍観する酔いどれ天の邪鬼には、このスパイシーさがたまらない。マーク・トウェインは言った... 天国だの地獄だのについて、とやかく言いたくはないね。だって、どっちにも友だちがいるんだもん... と。

1. 「神曲」という邦題
「神曲」は、その成立時期からしてイタリア・ルネサンスの先駆け的存在で、キリスト教中心主義に古代ギリシア・ローマ文化を融合することによってルネサンスの道が開かれた。
ただ奇妙なことに、原題には「Commedia(喜劇)」という名が与えられている。アリストテレスの時代、悲劇や叙事詩は崇高で高尚な文学のジャンルに、喜劇は劣った人間を描写する俗的なジャンルとされ、ダンテの時代もその流れが受け継がれていたようである。
あえて、劣悪とされる「喜劇」と名付けたのはなぜか?ダンテによると、悲劇の発端は立派だが、結末は血生臭く恐ろしいもの... 対して、喜劇の初めは血生臭くても、終わりはめでたく楽しいもの... ということらしい。
ダンテは、字の読めるすべてのイタリア人に向けて、品のあるラテン語ではなく、トスカーナ方言で書き下ろしたという。喜劇という気楽さが気取らない文体とさせ、俗語的であるがためによく皮肉を効かせている。「幸いなるかな、貧しき者よ、神の国は汝らのものなり。(ルカ伝、第六章20節)」... とは、この精神であろうか。この文学的な意識転換がルネサンス革命の引き金になった... と解するのは、ちと大袈裟であろうか。あまりにも文学芸術として評判の高い作品だが、酔いどれ天の邪鬼には滑稽芸術に見える。
ちなみに、「神聖喜劇」は後世の命名によるもので、今日、一般的となっている「神曲」という名を与えたのは森鴎外だそうな。

2. プトレマイオス的な地獄観
キリスト教中心主義の世界観は、プトレマイオス的な宇宙観と対称的である。地球を中心に据えた天動説とは真逆に、地球の核に向かって地獄を掘り下げていく。地球は神の創造物で、天空に神が宿るとしたら、地球という天体の内部は悪魔の棲家というわけか。
なるほど、地表に地獄の門番たる小悪魔たちが蔓延るのも道理である。そして、いつも誘惑に負けるのよ。ダンテは、同心円状に地獄の十段を築き、最大の罪に「ユダの接吻」を配置する。最大の絶望をもたらすものが接吻だとすれば、小悪魔には気をつけろ!
サンドロ・ボッティチェリの「地獄の見取り図」には、右上に辺獄(リンボ)に位置する七つの城壁に囲まれた高貴な城が、地底近くに橋のかかった悪の濠が...




時は1300年春、復活祭の聖木曜日の夜半から聖金曜日の朝にかけてのこと。正道を踏み外したダンテは、暗い森の中に迷い込む。森から抜け出そうとすると、豹と獅子と牝狼とに妨げられる。森はダンテの罪深い生活の寓意で、三頭の獣はその罪の象徴だ。
絶望した彼の前に、詩人ウェルギリウスが現れる。天国にいるマリヤとベアトリーチェがダンテの難渋に同情して、ウェルギリウスに使いを依頼したという。ベアトリーチェとは、若くして死んだダンテの愛した少女。そして、ウェルギリウスの案内で地獄めぐりへと導かれる。
地獄の門へさしかかると、いずれの党派にも属さなかった人々の亡霊が、蜂や虻に刺され、逃げ回ている。三途(アケロン)の川にさしかかると、地獄の渡し守カロンの船が待っている。門には一人称で語かける言葉が刻まれる。

憂いの国に行かんとするものはわれをくぐれ。
 永劫の呵責に遭わんとするものはわれをくぐれ。
 破滅の人に伍せんとするものはわれをくぐれ。
正義は高き主を動かし、
 神威は、最上智は、
 原初の愛は、われを作る。
わが前に創られし物なし、
 ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり。
 われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ。

アリストテレスの「倫理学」における三つの性癖、すなわち、放縦、邪悪、狂おしい獣性が語られ、その中で、放縦の罪が最も軽いとされる。地球の中心へ向かうほど罪は重く、ウェルギリウスとダンテは地獄の下層界の町ディースへと導かれる。肉欲、貪食、浪費、義憤、異端、暴力、欺瞞、裏切り... これらの魂を呪う圏谷(たに)へ。アリストテレス風に言えば... 人間の技法は、およそ可能な限り自然の法に則っている... といったところであろうか。

3. 地獄めぐり
地獄めぐりは、聖金曜日の夕暮れから、聖土曜日の日没まで24時間のうちに行われる。さて、この酔いどれ天の邪鬼は、どの地獄の圏谷へ放り込まれることやら...

第一の圏谷...
ここは辺獄(リンボ)と呼ばれ、善良だがキリスト教の洗礼を受けなかった者の魂が堕とされる。キリスト教以前の人々、ホメロスやオウィディウス、ソクラテスやプラトンとて例外ではなく、リュケイオンの学徒(逍遙学派)たちも、その深遠の縁を逍遥する...

第二の圏谷...
入口には、罪業を糾弾するミノスが仁王立ちしている。セミラミス、ヘレナ、クレオパトラなど愛欲と肉欲のうちに埋もれた女たち。死後も二人一緒になったままで、パオロとフランチェスカの魂が徘徊している。13世紀のパオロとフランチェスカの愛の逸話は有名だが、ダンテは、これを不義として裁こうとしているのか。いや、パオロが美青年だったことが罪なのだろう。かつて美少年と呼ばれたおいらには分かるよ!

第三の圏谷...
大食らいだった連中が、冷たい雨に打たれ、肉体を浸す大地に悪臭が立ち込める。ケルベロスが、むしゃぶりついているのだ。大食らいは、大食らいによって処理されるのであった...

第四の圏谷...
貪欲な吝嗇家どもと金遣いの荒い浪費家どもが、円周状の道を重たい荷物を引きずりながらぐるぐる回っている。彼らは、出会い頭に罵り、殴り合い、いつもどこかで衝突している。荷物の重量は、欲望の重さ。同じ欲望に支配された連中は、同じ軌道から外れることができない。生前は欲望の重さに憑かれ、死後は欲望の重さで疲れ果てるとは、それは彼らにとって幸せであろうに...

第五の圏谷...
義憤の魂よ。憤怒の叫びは、亡魂になってもなお猛り狂う。これが彼らの性癖ならば、死後もそれが存分に発揮できて幸せであろうに...

第六の圏谷...
異端者たちが、墓穴から囁きかける。信じない者は盲目の徒として片付けられるが、異教の地獄に何を恐れようか!

第七の圏谷...
暴力を呪う三つの同心円が谷底に見える。他人、自己、神の円が。降り口には人身牛頭のミノタウロスが横たわり、咬みついてきたが、なんとか逃れる。
次に、半人半馬のケンタウロスの群れが現れる。彼らは野蛮の種族として知られるが、中でもケイロンは、アキレウスの育ての親で知性を持つことで知られる。ウェルギリウスが諭すと、ケイロンは同じ種族のネッソスに案内を命じる。

第一の円には、隣人の財産や身体に暴力を加えた者ども。暴君たちが、赤い血の川で熱湯責めにされている。あれが、アレクサンドロス大王か!あれが、シチリアに圧制をしいたディオニュシウスか!
第二の円には、自らの命を傷つけたり、自分の財産を蕩尽した者どもが、曲がりくねった樹木にされている。ダンテが、その枝を折ると、幹から血が吹き出す。これが自殺者の森か。蕩尽者も自己の抹殺者であることでは同じこと。
「激した魂が自らの手で命を絶って肉体から離れた時、ミノスは第七の圏谷(たに)へその魂を送り込む。」
第三の円には、神を冒涜した者ども。荒涼とした熱砂の上で神と自然に叛いた者たちが、火の雪を浴びている。おお神の復讐よ!恐るべき復讐よ!神とて不寛容さは、人間並か...

第八の圏谷...
十のマレボルジェ(悪の濠)に分けられ、十種類の欺瞞の罪が罰せられる。
「ここでは情を殺すことが情を生かすことになる。神の裁きにたいして憐憫の情を抱く者は、不逞の輩の最たるものだ。」

第一の濠では、女衒が鬼に鞭打たれる。
第二の濠では、糞尿の中に阿諛追従の徒が漬けられ、糞まみれの爪で我が身をひっかいている。
第三の濠では、聖職売買の徒が罰せられる。... おお魔術師シモンよ、おお哀れなシモンの徒よ!
第四の濠では、不遜にも未来を占った者どもが、胴の上に頭を後ろ前にされている。そのために、後ずさりしつつ進まなければならない。希望ある未来を提供したところで、過去は片時も休まず未来を抹殺し続ける。
第五の濠では、汚職収賄の徒が煮えたぎる瀝青(チヤン)の中に漬けられている。
第六の濠では、偽善者どもが、表は金ピカだが、裏は鉛の重たい外套をまとって、のろのろ徘徊している。
第七の濠では、盗賊どもが毒蛇に咬まれ、絡み合って苦しんでいる。邪悪が絡み合えば揉め事は絶えず、人間社会は蛇悪な存在というわけか。おまけに、蛇のように執念深い!
第八の濠では、権謀術策をこととした亡者どもが、一人ずつ炎にくるまれて焼かれている。
第九の濠では、中傷分裂をこととした連中が、応報の刑により、一刀両断されている。
第十の濠では、贋金造りや錬金術師どもが、疥癬にかかって身悶えする。腐敗した五体が放つ悪臭がたちのぼる惨状。

第九の圏谷...
ここは「コキュトス」と呼ばれる氷の沼、四つの同心円状で四種の裏切り者どもが罰せられる。現世とは、魂が氷河期の中で氷漬けされ、肉体だけが現世で生身のまま歩き回っているようなものか。
「どこを通るか気をつけろ。おまえの足の裏がみじめな憂い同胞(はらから)の顔を踏んづけないように気をつけろ!」

第一の円は、カインの国カイーナと呼ばれ、肉親を裏切ったものが堕ちる場所。旧約聖書「創世記」で弟アベルを殺したカインの名が与えられる。
第二の円は、アンテノーラと呼ばれ、トロイアを裏切った人物の名が与えられる。
第三の円は、トロメーアと呼ばれ、客人を裏切った者どもが堕ちる場所。「マカバイ前書」第十六章11-17節に登場する人物の名に由来するとも言われるそうな。
第四の円は、地獄の底にあたり、ユダの国ジュデッカと呼ばれ、恩人を裏切った者が全身を氷漬けにされている。最も重い刑に処せられるのが、イスカリオテのユダである。ダンテは、イエス逮捕時の「ユダの接吻」をどう裁こうというのか。ちなみに、後世にもイタリアのマフィアが裏切り者を処刑する際、この接吻を真似るという風習があると聞くし、ギャング映画のシーンでも見かける。

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