2017-08-27

"神曲 天国篇" Dante Alighieri 著

「神曲」は、地獄篇の三十四歌、煉獄篇の三十三歌、天獄篇の三十三歌、その合計百歌から成る壮大な叙事詩である。この大作が、実に多くの芸術作品でモチーフにされ、様々な分野の書で引用されるのに出会う度に、いつか挑戦してみたいと思い... 思い続け... そして二十年が過ぎた。ようやく至高天に登りつめたという次第である。しかしながら、理性の世界は肩が凝る。酔いどれ天の邪鬼には、地獄の方が居心地が良さそう。天使と小悪魔の違いも、よう分からんし...

時は西暦1300年、大赦の年の復活祭。ダンテは一週間に渡って、地獄、煉獄、天国をめぐる旅をする。地獄と煉獄の案内人は、古代ローマの大詩人ウェルギリウス。ダンテは、この人物をライバル視したか。天国の案内人は、代わって久遠の女性ベアトリーチェ。かつてダンテが恋するも、他人の妻となって夭死した少女の聖霊で、いまだ未練があると見える。
そしてついに、天国の最高位「至高天」に達した時、新たな案内人が現れる。熱烈なマリア崇拝者として聞こえる老翁、聖ベルナールである。ダンテを救うために遣わされた案内人たちは、天界の女王たる聖母マリアの意志であったとさ...
地獄の深い谷を堕ちていくには、肉体の重みに身を委ね、煉獄の険しい山を登るには、肉体の罪がそのまま重石となる。そして、天国へ昇天するには、肉体をまとっていては重力に打ち勝てない。知への渇望が、身を軽くするのか。認識を司る五感を放棄すれば、苦痛を感じずに済むのか。脂ぎった欲望から脂肪分を落としきったら、自由になれるのか。天国では、魂どもがマリアを囲んで、バッハのカンタータ風にラブシーンまがいの唄で交わる。まるで女王蜂!どうりで女性はみな聖母に焦がれて、体重計の御前で存在の軽さを演じようと躍起なわけだ...
尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。

フィレンツェから永久追放を喰らったダンテの怨みは、天国に至ってもなお、おさまりそうにない。十三世紀、商業都市フィレンツェはヴェネツイアと並んで最も繁栄した都市国家の一つ。イタリアでは、「コムーネ」と呼ばれる共同体の間で抗争が続いていた。世界を支配すべき王者は誰か?それはローマ法王だとする法王党と、神聖ローマ帝国だとする皇帝党とに分裂し、法王党は、さらに白党と黒党とに分裂する。なぜ、正義の復讐が正義によって報復を受けるのか?ダンテは、こうした様を嘆いては、フィレンツェを呪い、ヴァチカンを呪うのである。おまけに、貨幣贋造などの悪徳商法が蔓延り、商売人魂に敏感なだけに憎しみも倍増。
しかしながら、目が開けられないほど眩い光景が眼前に広がれば、魂に安らぎをもたらす。地獄を見る資格とは、煉獄を見る資格とは、はたまた、天国を見る資格とは、どういう境地を言うのか。俗界の悪意から追放された者の特権だというのか。愛は障害があるほど燃える!というが、天国もまたそうなのか。愛が最高善だというなら、なにゆえ愛に溺れる者を罰する。ダンテは、人性と神性の境界をさまよい、実存の本質を探求し、形相なき存在への昇華を夢見る。それが、自由意志の本質だといわんばかりに。感動させる詩は、どこか神がかっている...

ダンテは、この大作に「喜劇」という名を与え、邦題では「神聖喜劇」の名を冠する。人生ってやつは、人が死んでも滑稽であり続け、人が笑ってもなお深刻であり続ける。理性は憎悪に姿を変えて魂を焼き尽くし、道徳は嫉妬に姿を変えて肉を焦がす。この悪臭から救う道は、もはや忘却しかない。いや、忘却よりも鈍感でいる方が遥かに楽だ。実際この世は、そこそこ鈍感でなければ生きては行けぬ。
人間の自尊心を満足させるには、眩しすぎる光を直視するよりも、盲目でいる方が遥かに楽だ。運命には、人に取り憑いて完全に支配する運命と、打開すべき自由意志を芽生えさせる運命とがある。仮に、天使と人間が相思相愛だとすれば、神の代弁者と称する者が、こうもたくさん現世にわいて出るものか。大きな銭を施して「おおきに」、程を越すから「ほどこし」言うんや。「信者」と書いて「儲かる」、そりゃ教祖様業もやめられまへんなぁ。皮肉屋バーナード・ショーは言った... 信仰を持つものが無神論者より幸せだという事実は、酔っ払いがしらふの人間より幸せなことに似ている... と。独り善がりな芸術家たちもまた、神への片思いは永遠に続くだろう。そして、人生は人間喜劇として完成を見るのである...

1. 地球中心主義とは
地獄の到達点が地球の核にあるならば、天国の到達点は、その真逆の天空に位置づけられる。プトレマイオス宇宙観の天動説をなぞるように。地球の核はただ一つの目標点で定められるが、天空にはあらゆる方向に星々が鏤められ、目標点が定まらない。おまけに、天体は運動してやがる。
ダンテは、天界を「月光天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天、原動天、至高天」の十天で構想し、この順番で昇天していく。最初の七つの身近な太陽系と、黄道十二宮の宿る恒星天までは具体的な星々で示されるものの、続く原動天と至高天の段位になると、もはやどこをさまよっているのやら?
ここでは、具体的な目標点を示してくれ!なんて野暮な質問はよそう。凡人は、具体的なやり方を他から求めてやまない。書店に行けばハウツーものが氾濫し、ネット社会ではたいていの知識がググれる。こうした面倒くさがり屋な性向を、俗界では合理性と呼ぶ。この世の合理性は、苦労して試行錯誤してやまぬ自由意志と相性が悪いのかは知らん。ダンテは、地獄で九つの悪徳を具体的にこらしめ、煉獄で七つの大罪を具体的に示した。地獄は具体論と相性がよく、天国は抽象論と相性がいいのか。そして、真理は抽象論の側にあるのか。
ここでは、天使が形相を表し、天球が形相と質料の両方を表し、地球が質料を表す。そして、形相もアリストテレスによって実体の仲間入り。神が存在し、人間が神の創造物だというなら、それでもいい。だが、本当に人間は神に看取られているのか?本当に神は製造者責任を負っているのか?昇天のための試練は、俗人の想像力ではついていけない。だから、地獄に近いほど具体的な対処法を提示するのか。地上では、政治屋どもが具体的な政策を示さなければ意味がない!と吐き捨てて政治哲学を疎かにし、宗教家どもが具体的な死の世界を提示しては暗示にかけ、小悪魔どもが具体的な肉欲を求める輩を餌食にし、これに酔いどれ天の邪鬼はイチコロよ!地球中心主義とは、欲望を具現化した様相を言うのかもしれん...

2. 天界の十天めぐり
月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、恒星は、天体運動を繰り返す。だが、神が住む第十の至高天には動きがないという。その中で回転している第九の原動天が、物質的宇宙の最外縁に位置し、すべての運動は、この原動天に由来するのだとか。原動天が、それぞれ聖なる天体に異なる性質を賦与し、下位の天に異なる性質が配られるという仕組みである。一つの魂から、それぞれ異なる性質を与えて五体に行き渡るように。
昇天するために、ダンテは現世から切り離される。真の実体が魂ならば、肉体はその属性に過ぎない。肉体は最下位の天から授かったもので、上位の天を目指すならば、それを失うことを恐れるな!というわけである。プラトン風に言えば... 至高天から降りたばかりの魂は限りなく純粋でイデア的な存在であり、下位の天に降りるほど歪み、もはや現世の魂は原型がどんなものだったかも分からない存在... といったところであろうか。原型をとどめていない魂ならば、真理を見るためには邪魔となり、そのまま十天をめぐる試練となる。天国に祝福されし者は、その至福以上に望むものはあるまい。では、何かを望んでやまない存在は、天国に祝福されていないというのか。少なくとも見返りを求めるようでは...

第一の天「月光天」...
いきなり太陽光を見るには眩しすぎるので、まずは月光から。幸いを得るために、神意のうちにとどまることが第一要件となる。最初に神が創り、次に自然が造る。実体とは、それ自体で存在を意識できるもの、すなわち、自分の罪を意識できるもの。ここには、誓願を立てたにもかかわらず、それを破ることを余儀なくされた人々の魂がいる。修道僧となってもなお、還俗した者たちの魂が...

第二の天「水星天」...
天地創造に際しての神が惜しみなく賜うた最大の贈り物は、神の意志に似つかわしいところの自由意志だという。それは、神と人間との間で交わされた契約に基づく、自発的な抑制である。そして、純粋な知識に飢え苦しむことが試練となる。ここには、名声に執着し、誉れを高めようと善行を働いた人々の魂がいる。正義の行為が怨みや妬みを買って...

第三の天「金星天」...
ここには、愛の虜となった人々の魂がいる。最上善が愛だとすれば、愛に溺れる者をなぜ罰するのか?ダンテは、意志的な愛と、自然的な愛を区別する。真理愛と欲望愛の違いとでも言おうか。
「剣を佩びるべく生まれついた人を無理強いに宗門に入れ、説教をするべく生まれついた人を国王に仕立てたりする。君らが道を踏みはずす原因はそこにあるのだ。」

第四の天「太陽天」...
神が子を生み、その両者から精霊が生じる三位一体の構図を太陽光に見る。直視するには眩しすぎる光だ。だから、人間の目に優しい日の出や日の入に神を拝むのかは知らん。ここには、盲目の魂を見開く智慧を求める人々の魂がいる。トマス・アクイナスが三段論法を用いて、真理を証そうとする。説教好きには、居心地のよさそうな場所だ。
ちなみに、彼はドミニコ会修道士で「神学大全」を著し、アリストテレス哲学をキリスト教の護教のために用いたスコラ哲学者。
「ああ、現世の人間の狂気の沙汰よ、なんという欠陥だらけの論理に左右されて地面をのたうちまわることか!ある者は法学を、ある者は医学を学び、ある者は僧職を狙い、またある者は詭弁を弄し、暴力をふるう。またある者は掠奪を事とし、ある者は俗務に専念し、ある者は肉欲の快楽にふけり、またある者は安逸の生活に溺れる...」

第五の天「火星天」...
ここには、信仰のために戦って死んだ者の魂が、十字の形に並んで光っている。十字軍の勇士たちである。ダンテの祖父の祖父に当たるカッチャグイダの魂もいる。彼は、イスラム教徒との聖戦で戦死し、殉教者となって、この天の平安へ到達したとさ。正義の復讐は、正義の報復を受ける。正義や聖戦といった言葉がもてはやされる社会は、ろくなもんじゃない...

第六の天「木星天」...
ここには、栄光に輝く賢王たちの魂がいる。彼らの正義心と慈悲心は、悪人どもですら敬服する。キリストを信仰する機会に恵まれなかった人々でも、神意に従えば、この天に達する機会が与えられるとさ...

第七の天「土星天」...
ここには、観想の生活のうちに一生を送った人々の魂がいる。自由な愛さえあれば、それで十分に永劫の摂理に従えるものらしい。愛とは信じることなのか。人間の肉体には、あまりにも誘惑が多い。善行をはじめたかと思えば、すぐに惑わされ、いつも良心は気まぐれときた。ひたすら神を信じ、信仰を重んじるには、清貧を聖貧に昇華させなければ。だが、無条件に信じるということは、信仰馬鹿にでもならないと難しい。なぁーに、心配はいらない。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、この道だ...

第八の天「恒星天」...
ここには、聖ピエトロ(ペトロ)らの魂がとどまる。聖ピエトロは、ダンテに問う。信仰とは何か?
「信仰とは望みの実体であって、まだ見えぬものの論証であります。これが信仰の本体であるかと思われます。」
なぜ、信仰を実体と捉え、ついで論証として理解できるのか?天上において見える深遠な事柄でも、下界ではまったく姿が隠れ、何一つ見えない。だから、下界ではその存在を、ひたすら信仰によって導くしかない。そして、その信仰が唯一の希望となる。それゆえ、信仰は実体の性格を帯びるとさ...
このような弁証法的な観点から、永遠の三位一体を信じると答えれば、聖ピエトロを満足させられる。ただ、彼らほどの聖人でも、これ以上の昇天は望めないらしい...

第九の天「原動天」...
中心部を固定し、それを取り巻くものを回転させる宇宙の性質は、この天を起点にするという。すべての事物はここから発し、神意もまたここから伝達されていく。物理学的な運動を示す時間の概念が、この天の鉢の中にあり、光と愛を内包する。時間もまた神の意志によって存在するというわけだ。ただ、この説明を聞いていると、酔いどれ天の邪鬼はブラックホールを想像してしまうのだけど...
原点に近いほど速度も大きく、第一の位階は、熾天使、智天使、王座の天使から成り、第二の位階は、統治、権威、権力の天使から成り、第三の位階は、主権の天使、大天使、天使から成る。この九階級に分かれた天使の群れが、九つの天球に対応する。すなわち、熾天使は原動天、智天使は恒星天、玉座の天使は土星天、統治の天使は木星天、権威の天使は火星天、権力の天使は太陽天、主権の天使は金星天、大天使は水星天、天使は月光天。
ダンテは、天使には記憶力がないとしている。天使は、神の姿に過去、現在、未来の万物を見ることができるから、記憶力を必要としないというのだ。なるほど、時間の概念を超越し、すべてを瞬時に見渡せるとすれば、記憶という概念も必要としない。
一方、人間ってやつは、時間の概念が崩壊した途端に、精神病を患わせる。おまけに、近代天文学では最も近い月は地球から遠ざかっているとされる。人間のツキも堕ちているようだ...

第十の天「至高天」...
ここでは、マリアの光明によって、新たな悟りの視力を得る。それは、忘却の奥義を会得した者だけが到達できる境地である。中央の光をとりまいて、天使の群れと祝福された人の群れが薔薇の花のように輪をなして広がる。まさに円形劇場。
案内人は、ベアトリーチェから聖ベルナールにバトンタッチ。ダンテは、ついに神を見る境地に達す。マリアの下に並ぶエバやベアトリーチェたち、彼女らと向かい合って座る洗礼者ヨハネと、その下に並ぶフランチェスコやベネディクトゥスら聖人たち。神は愛であり、愛をもってすべての円運動を規制する。神は、至高天においてさえ、愛に階級を与えるのか...

3. 呪われし詩人アンジョリエーレ
本書には、毒舌の利いたチェッコ・アンジョリエーレの詩が付録される。彼はダンテと詩で応酬を交わし、「呪われた詩人」というイメージを叩きつけたそうな。清新体の綺麗事や理想主義を打ち破る迫真の表現力は、まるで飲んだくれの悪態。こちらに心地よく反応するとは、やはり酔いどれ天の邪鬼には、天国よりも地獄の方がお似合いか...

「俺が火ならば、この世を焼いてやる、
俺が風ならば、この世を吹き荒らしてやる、
俺が水ならば、この世を水に漬けてやる、
俺が神様ならば、この世を地獄へ落としてやる。

俺が法王様ならば、キリスト教徒をみんな困らして、ひとつ大いに楽しんでやる、
俺が皇帝陛下ならば、なにをやる?すっぱりとみんなの首を斬ってやる。

俺が死ならば、親爺のうちへ行ってやる、
俺が命ならば、親爺のうちから逃げてやる、
お袋にも御同様、振舞ってみせてやる。

俺がチェッコならば、若い美人を取ってやる、
婆(ばばあ)は他人にくれてやる。」

そして次の詩は、ダンテがチェッコへ宛てた詩に対して書かれたものと推察されるそうな。

「ダンテよ、俺をお道化(どけ)の大将というなら、
おまえは槍をさげて俺の腰について来い。
俺が居候の名人というなら、お裾分けをくれてやる、
俺は脂身を喰らう、おまえは骨をしゃぶれ。
...
俺の言葉が過ぎるというが、おまえも一向に慎みが足らぬ。
俺が紳士気取りなら、おまえは学者の面(つら)をするじゃないか。
俺がローマ人を気取るというのなら、おまえはロンバルディーア人の面をするじゃないか。
...」

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