2017-11-05

"日本王国記" Bernardino de Avila Giron 著

エスパニアの商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」は、16世紀半ばの三好長慶の京都占領から、下克上で台頭した織田信長や豊臣秀吉を経て、徳川家康の晩年までを物語る。本書は全編二十三章から成り、日本人の起源、風土、風俗、慣習、年月日の計算法、貨幣、度量衡、貿易、盃の儀礼、行政機構、宗教にまで及び、当時の日本人の価値観を西洋人の目から語ってくれる。
同じような記録に宣教師ルイス・フロイスのものが有名であるが、こちらは一般人が記したという意味で貴重な文献と言えよう。専門家が書いたものではないので、地名や人物名など誤記が目立ち、イエズス会士ペドロ・モレホンが多くの注釈を加えている。それでも、手掛かりなしに書けるわけもなく、当時の風潮、流布などを垣間見ることができる。例えば、本能寺の政変では、秀吉は毛利側に信長の死を隠して講和したという説が一般的だが、本物語では、素直に伝えて講和したことになっており、その親厚ぶりと人間味を伝えている。秀吉英雄伝として広められたのかは知らんが、世間ではそのような噂が流布していたようである。京の三条河原で盗賊が釜ゆでになった事件でも、石川五右衛門という名をモレホンの注釈によって見ることができ、実在した人物であることが伺える。
また、マニラ政府との交渉に原田喜右衛門が絡み、秀吉の誇大妄想が朝鮮出兵から明国に向けられただけでなく、フィリピンへの野望を隠さず、さらには天竺、すなわちインドに向けられていたことも匂わせる。

種子島の鉄砲伝来に始まり、西洋人の日本渡来が盛んになった、いわゆるキリシタンの時代。宣教師ガスパール・ヴィレラとルイス・フロイスは信長に謁見し、布教保護の朱印状を得た。
その頃、日本全国のキリシタンは3万を越え、1579年頃には約10万、1610年頃には75万にのぼったと伝えられる。信長の叡山焼き討ちに対しては、お布施で私腹を肥やす坊主どもの享楽ぶりに悪魔退治のごとく擁護する記述もある。アビラ・ヒロンは、偽りの阿弥陀や釈迦の教義、あるいは弘法大師のでたらめが教えられていると記している。坊主たちは権威や外面的な装飾と豪華さを誇り、王侯のごとく尊ばれ、なによりも偶像崇拝を導入していると。
ところが、秀吉のキリスト教禁止令から運命は一変する。1597年、二十六聖人の殉教。1614年、大殉教および宣教師をマカオとマニラへ追放。家康は秀吉の禁教令を引き継いだ格好だ。
本物語には、「元和の大殉教」にまで筆は及ばないが、そうなる運命を想像させる。高山右近は太閤秀吉に向かって、キリシタン宗徒の生き様を誇り高く言い放つ。キリシタンになったのは、けして気まぐれや好奇心などではない!ましてや利害関係でもなければ人生上の問題でもない!人を救うことのできる教えがあるとすれば、それは何かを問うた結果だ!坊主どもの教えすべてが悪ふざけで、偽りで、まやかしだ!さぁ、首を斬れ!... 本書の半分以上がキリシタン迫害史の様相を呈す。原題には「転訛してハポンとよばれている日本王国に関する報告」とあり、皮肉がこめられる。黄金の国ジパングと伝えたのはマルコ・ポーロの東方見聞録だという説があるが、以来、ジャパン、ジャポン、ヤポンなどと呼称され、ここでは「ハポンとは、サヨン(死刑執行人)なり」ということである。

しかしながら、異教徒を悪魔と呼ぶのは、どの宗派も似たり寄ったり。パーデルたちが信長の叡山焼き討ちを擁護するならば、坊主たちとて同じこと。統治者というのは、庶民が奴隷となるのを喜び、庶民が思考することを嫌う。したがって、まずもって迫害を受ける者は知識層である。
確かに、信長の叡山焼き討ちには凄まじいものがあり、日本史の中でも、この下克上の残虐な性格は非難の的とされる。だがそれ以上に、秀吉の大々的な迫害、さらに家康の拷問は陰険さを増し、蛮行はますます激化していく。聞かぬ耳は剃り落とし、命令に背いて動かぬ体は指を切り落とし、足を切り落とし... 親兄弟、親類にまでおよぶ。ここには、「踏み絵」なんぞでは言い表せない、凄まじい残酷史、いや拷問史が綴られる。キリシタンの時代とは、日本史随一の宗教戦争の時代とも言えよう...

1. キリスト教宣教師とて一枚岩ではない
コロンブスの新大陸発見後、1494年、エスパニアとポルトガル両国の間に「トルデシリャス協定」が結ばれた。この条約は、東方航路による地球半分をポルトガルの勢力範囲とし、アメリカ大陸の大部分を含む西方半分をエスパニアの勢力範囲と定めた。互いの航路開拓が進めば、両者はいずれ地球の反対側で衝突する。東方航路は、喜望峰をまわって、インドのゴア、マラッカ、マカオを経て日本へ。ポルトガルはエスパニアに先んじて日本へ上陸し、平戸や長崎をはじめ九州の諸港で貿易による巨利を得た。
とはいえ、日本へ渡ったのはポルトガル人だけではなく、エスパニア人やイタリア人も混じっている。初めて日本でキリスト教を説いた聖フランシスコ・ザビエルはエスパニア人だし、九州のキリシタン大名の名代として少年使節のローマ派遣に尽力したアレッサンドロ・ヴァリニャーノはイタリア人だし、この書を記したアビラ・ヒロンもエスパニア人だ。
一方、国家としてのエスパニアはマニラを征服し、ここを足場にシナや日本への進出を狙っていた。だが、1585年、教皇グレゴリオ13世の教令発布により、日本入国はポルトガル側のイエズス会に限られることに。これは、一歩先に日本に来たアレッサンドロ・ヴァリニャーノが、エスパニア側の宣教師が入国すると、布教に混乱をきたすことを憂慮して、グレゴリオ13世に要請したからだという。
しかしながら、オランダやイギリスも宣教師を派遣し、植民地貿易上でポルトガルやエスパニアと激しく争うことになる。日本では、先に関係を持ったポルトガル人やエスパニア人を南蛮人と呼び、新参者のオランダ人やイギリス人を紅毛人と呼んで区別した。いずれも蔑視を込めた用語であろう。
本物語には、宣教師やキリシタンの弾圧に紅毛人の助言があったことも記される。すなわち、南蛮人による植民地化を企てる陰謀があるという紅毛人の進言である。映画「将軍」でもモデルとなったウィリアム・アダムスこと三浦按針は、家康の外交顧問として仕えたイギリス人である。
秀吉が死去してしばらく政治不安が続くと、イエズス会やフランシスコ会だけでなく、ドミニコ会、アウグスチノ会も布教進出を狙い、宗派争いが国家の思惑と結びつく。日本人から見れば、南蛮人も紅毛人も同じ西洋人であって、双方が東洋をめぐって覇権争いをしていることは感じ取ったであろう。秀吉にしても、家康にしても、残虐きわまる迫害に及んだのは、外国勢力に対する恐怖の裏返しであり、特に鎖国政策はその顕れと言えよう。人間の意識として自己存在を強調するために排外主義に陥りやすいのは、いわば本能的な反応である。しかも、こいつは集団的意識と結びつきやすく、愛国主義とすこぶる相性がいい。そして、西洋への対抗意識とともに徳川家に対する憎悪までも、迫害の中心となった九州や山口に封じ込められ、明治維新で一気に爆発したという流れ... などと解釈するのは行き過ぎであろうか。

2. 信長の人物像
本書では、残虐な性格の持ち主とされる信長への擁護が感じられる。伝統や形式を打ち破ろうとした改革精神や、農民出身の秀吉を出世させるなど、この下克上の政治手法は、当時でも西洋人受けしたと見える。布教活動において坊主を排除する点で、利害関係が一致したこともあろう。信長の死は、勇気、寛容、気構えの気高さなど、ひとしくすべての人に惜しまれたと記している。そして、こんな人物像を残している。
「体格のよい、背の高い、よく均整のとれた人物で、眼は大きく、鼻の高い、小麦色の肌で、神経の強靭な、やせて、毛ぶかい、すばらしい武士で、しかも気さくで、面倒くさい儀式ばったことを極端に嫌った。」
こうした信長の風采や性格を記述したものは、日本の文献でもあまり見られないそうな。
尚、宣教師ルイス・フロイスは、こう記述しているという。
「この尾張の王は、年齢三十七歳ぐらい、丈は高くやせ型で髪は少ない。声は大層高く、非常に武技を好んで粗野である。正義と慈悲を楽しんでいるが、傲慢で名誉を重んじ、決断を表に現わさず、戦術にたくみであって、ほとんど規律を守らず、部下の進言に従うことも稀である。彼は諸人から異常な畏敬を受け、酒を飲まず、自らを奉ずること極めて薄く、日本の王侯たちをことごとく軽蔑して、まるで目下の役人に対するように肩の上から話しかけるが、人々は至上の君に仕えるかのように服従している。理解力にすぐれ、明晰な判断力を持っており、神仏やその他の偶像を軽視し、異教のうらないは一切信ぜず、名義上は法華宗信徒ではあるけれども、宇宙に造物主もなく、霊魂不滅なこともなく、死後何物も存在しないと明言している。彼の仕事の処理は完全であって巧妙を極め、人と話す際は廻りくどくくだくだ言うことを憎んでいる。」

3. 日本人評
キリシタンの時代とは、信長の下克上に始まり、強硬姿勢で外国を威圧した秀吉、その反動で、これまた強硬姿勢で内に篭った家康と、いずれも極端な人物の登場、極端な政策を経験した時代だったと言えよう。
アビラ・ヒロンは、日本人の起源をシナ人と同じとしながら、シナ人と違って日本人は派手で残虐と評している。三条河原の公開処刑や殉教事件を目の当たりにすれば、それも致し方あるまい。その半面、礼儀正しく、几帳面で、清潔としているなどは、フロイスの記述をそのまま引用した感がある。
女性や子供に対する評判は、すこぶるいい。女は色白で、鼻立ちがよく、美しくてしとやかな者が多いと。子供は可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほど優れた理解力を具えていると。このあたりは、フロイスも書いている。
特に、結婚した女性は十分に信頼に足り、世界中でこれほど善良で忠実な女性はいないとまで書いている。日本人はいかに貧しくても傲慢で尊大で怒り易く果敢であるという。残忍で非情、貪慾で吝嗇であると。あらゆる行動が陰険で、基準と誠実に欠け、何事にも極端に走りやすく、変わりやすい人々であると。だからこそ、キリスト教の布教が必要だというわけである。なんとも支離滅裂な論評だが、当たっている面も少なくない。
また、真面目な職人ということが、不名誉とされないどころか、芸術とも、技能とも見做され、鍛冶屋、大工、絵師、刀を研ぐ刀剣師などが極めて尊重されると、驚いた様子。こうした職業は、西洋では卑しいとされていたようである。
「日本人は占星師でも数学者でも哲学者でもない。それに大まかなところはほとんどない。もっとも、すばらしい手工業者で、生来ひどく短気なくせに、手先仕事なら何によらず、すばらしい完璧さを示して、ゆっくりと仕事をやる。しかし、それでも彼らの諸国の行政はすばらしい秩序と整いとがあり、完全無欠に諸法律が守られているので、どういう事態が起こっても、法律に反してことがおこなわれることはないくらいである。」

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