2018-08-19

"ランケとブルクハルト" Friedrich Meinecke 著

前記事「世界史的諸考察」の余韻に浸りながら古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。ドイツ史学界といえば、まずレオポルト・フォン・ランケの名を思い浮かべるが、その正統的な継承では、ヤーコプ・ブルクハルトに続いてフリードリヒ・マイネッケという流れがあるらしい。実は学生時代、ランケの「世界史」が未完に終わったことを知り、せめて選集ぐらいはと思い大学の図書館を漁ったものの、全巻見つけられず頓挫したまま。こうして断片の作品を漁ってお茶を濁し続け、もう三十年が過ぎた。
当時、ルネサンス時代の万能人たちに惹かれ、ランケの復古主義的な香りにも誘われたように記憶している。どんな分野であれ、創始者というのはそれなりに崇められるもので、ランケにもそのような地位を感じたものである。ところが、ブルクハルトに出会って風がちと変わり、天の邪鬼な惚れっぽい性癖がマイネッケへと導くのであった...
尚、中山治一, 岸田達也訳版(創文社)を手に取る。

歴史家が歴史学者になりきることは難しい。ナショナリズムを旺盛にする点では他の学問を寄せ付けないほど。当事者となれば尚更だ。とはいえ、学問の本質は客観的な視点を与えることであり、そうでなければ存在意義すら疑われる。宗教的な解釈の強すぎる時代、最初に実証主義的な立場を表明したランケの功績は大きい。
しかしながら、この大家をもってしても、まだまだ神の摂理に縋っていたようである。マイネッケは、ランケが提唱した「世界史の規則的な継続発展」という概念は信頼に足るか?と疑問を投げかける。ランケとブルクハルトの政治権力に対する態度は真逆である。ランケにとって権力は神の摂理が支配するもの、ブルクハルトにとって権力は悪、それも必要悪と見たようである。
古来、人間は生まれつき善か、生まれつき悪か、という論争があるが、ランケとブルクハルトの対置はその伝統を引き継いでいるかのようである。一人が、歴史にとって人間は何を意味するのか?と問えば、もう一人が、人間にとって歴史は何を意味するのかと問う。多神教の時代、人間にとって神は何を意味するのか?と問うたならば、一神教の時代にも同じことを問わねばなるまい。
歴史とは、ランケにとって神聖物だったのか、ブルクハルトにとって人類の恥部だったのか。両者とも歴史学者としての権威を獲得しているものの、プロイセン風ドイツ育ちと、中立国スイス育ちという地理的背景が、情熱的な語り手と冷めた目線の語り手とに分ける...

では、マイネッケはというと、ランケとブルクハルトを相互補完する立場を表明し、中道を模索する。あまりにも人間的なものを洞察した点では、ブルクハルトに軍配を上げ、国家、民族、制度といった客観的に考察すべき形成物に対して超人間的なものを要請した点では、ランケに軍配を上げる。
ブルクハルトの「人間的なもの」というのは、人間の本性、すなわち醜態にも深い洞察を与えたという意味で、はるかに現実的である。歴史とは、現実の連続であり、そこから目を背けるわけにはいかない。
だからといって、ランケも捨てたもんじゃない。ランケの「超人間的なもの」というのは、ニーチェが唱えた超人や永劫回帰にも通ずるものがある。
ただ、全般的には現実主義者持ちで、ブルクハルト評価の裏にランケ批判が見てとれる。真理が一つかは知らん。一つである必要があるのかも知らん。ただ、真理への道は多様性に満ちているのは確かなようである...

1. 歴史の距離感
歴史に法則性のようなものを感じても、そこに明確な法則があるのかは知らん。科学的に言えば、法則と法則性ではまったく次元が違う。どうしても説明のつかない法則性に対して神の意志を持ち出せば、それは宗教と何が違うのだろう。
歴史は不完全性に満ち満ちている。なにゆえ完全者が、なにゆえ万能者が、こんなものをこしらえたのか。しかも、繰り返し繰り返し。すべての出来事は必然だというのか。社会に蔓る悪は、善を認識させるための特効薬とでもいうのか。まったく神の忍耐強さには頭が下がる。すべてを神のせいにすれば、そりゃ楽よ。そして、いつか成熟した人間社会が実現されると儚い希望を抱き続ける。
しかしながら、人間の悪魔じみた性癖こそ歴史の本性であった。おそらくこれからも。集団性が暴走を始めると、もう手がつけられない。感情論が加熱すると、自分の主張がねじ曲がっていることにも気づかない。
だから、余計に優越感に浸ろうと懸命になる。学問ですら流行に走り、偏見を増殖させる。ヘーゲル的な歴史哲学にも危険性はあろうが、集団的な歴史観の危険性の方がはるかに大きいように思えてならない。
したがって、歴史学者の使命は、まずもって集団社会から距離を置くことになろう。ただ遠くからとはいえ、あまりに悪徳を眺め過ぎると、厭世観を肥大化させてしまう。集団性との距離感はなかなか手強い。ランケも、ブルクハルトも、歴史の理想像というものを描いたに違いない。そして、マイネッケも。人間社会が神の合目的に適っているかという観点では、ランケは楽観主義者で、ブルクハルトは悲観主義者である。
マイネッケはというと、二つの大戦というさらなる絶望を体験することになる。彼は、歴史考察の危険性を軍国主義、ナショナリズム、資本主義という三要素の結びつき方によって論じる。それぞれの要素が単独で非難されるべきものではなく、三者の運命的な出会いによって深淵に突き落とされたと。その態度は、必死に歴史との距離をはかろうとするかのように映る。ランケと距離をはかり... ブルクハルトと距離をはかり... 自己と距離をはかり...
「まず、軍国主義は国民皆兵制の導入によってはかりしれない物理的な力を獲得し、さらにそれは、ナショナリズムの興隆とあいまって、本来は弱小国の防衛手段であったはずの国民皆兵制を攻撃的手段へと転化し、西洋にとって戦争の危険となった。そしてこれらのものの上に、さらに資本主義的大工業による強力な技術的戦争手段の生産ということがくわわる。これらの諸要素の結合は、権力手段の拡大をひきおこし、これは権力政治に屈強の手段をあたえることになって、ここに国家理性の危機が生まれる。」

2.君主制と人民主権
十九世紀の生命要素として、ランケは、第一に君主制と人民主権という二つの原理の対立を強調し、第二に物質力の無限の展開を指摘する。
ついで、ブルクハルトは、フランス啓蒙思想とイギリス産業革命の結びつきという側面から、大衆の欲望が増大していく様を指摘する。しかも、その欲望を満たすべく国家の力が大衆の要求に応じて、ますます強大にならざるをえないと。
フランス革命からビスマルクに至る革命の時代、ランケとブルクハルトは両者とも力づくの行動を毛嫌いする保守派であり、ナショナリズムを旺盛にさせる近代国家の出現に戸惑ったと見える。フランス革命の論調では、ブルクハルトはランケよりもいっそう強く拒絶する。
それでもマイネッケは、近代民主主義の頑強な敵手とされるブルクハルトが、ランケより内面的に近く感じられると評している。
歴史事象の根底を懐疑的に捉えているのはブルクハルトの方であろう。ビスマルクの論調では、ランケは不快な現象と捉え、なかなか受け入れられなかったと見えるが、ブルクハルトは、ビスマルクが出現しなくても、大衆マキャベリズムへの流れは逆らえないと見ている。
そして、こう問わずにはいられない。かつての理想主義者たちが唱えたように、共和国化したからといって戦争は減ったか?と。悲劇を予言する眼光はまさにカッサンドラのごとく。案の定、大衆はナチス政権を許すことに...
「ブルクハルトは、あたかも鋭敏な地震計のように、大衆運動の中に潜伏していた最悪の可能性、すなわち極悪の人間どもが大衆の指導者としてあらわれてくることを感知する。」

3. 政治権力と文化
ランケも、ブルクハルトも、政治権力と文化の関係を論じたという。その違いは、神聖で高尚なものと捉えたか、俗物で劣等なものと捉えたか。
こうしてみると、文化の定義もなかなか手強い。まず自発的な活動であるということは言えそうか。それが普遍的であるかどうか、しかも、精神の発展を伴っているかどうか、などと線引きすれば、哲学的になり、やはり文化ということになる。だからといって、それ以外にも、充分に文化的なものを見つけることができる。隷属しているからといって、即座に文化的ではないとも言えまい。好んで隷属する場合もあれば、隷属していることに気づかない場合もある。人間の本性すべてが文化的要素になりうるはずだ。
ブルクハルトは、権力を握るための活動も、物質的な目的のための活動も、文化と見做す。悪徳までも。
歴史物語は、政治の側面から伝えられることが圧倒的に多く、支配者の系列や政変を論ずることで時代変化を追う傾向がある。平和で安定した時代の歴史は、退屈なものだ。それゆえ、政治というものが、高等な分野という印象を与える。
しかしながら、政治の世界ほど人間の醜態を曝け出すものはあるまい。支配欲、権力欲、名声欲、独占欲、金銭欲、物欲... あらゆる脂ぎった欲望を網羅し、まずワイドショーのネタで困ることはない。政治の役割が国民の幸福を実現することにあるとすれば、政治家に求められる最も重要な素養は、政策とその実行力ということになる。人格や高潔さなどは二の次。実際、民主主義の根幹をなす選挙では消去法が機能する。最も道徳的であるべき業界が法律のストレステストを繰り返すのは、自ら条文を検証しているとでもいうのか。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。二人の巨匠でなくても、政治的分析よりも文化的分析の方がはるかに高等に見えてくる。ただ、ランケの「世界史」は、文化的なアプローチを重要視すると宣言しながら、そうはなりきれなかったと見える...

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