tag:blogger.com,1999:blog-44428142278249422992024-03-18T20:38:56.782+09:00アル中ハイマーの独り言おいらは酔いどれ天の邪鬼! 頭はいつも Kernel Panic !<br>Drunkard Diogenes = Toto's Pageアル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.comBlogger944125tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-56022689824156401412024-03-17T00:15:00.000+09:002024-03-17T00:15:44.341+09:00"FACTFULNESS" Hans Rosling, Ola Rosling, Anna Rosling Roennlund 著<div>TED talk でハンス・ロスリング氏を見かけたのは、十年ぐらい前になろうか。彼が亡くなって、五年が過ぎたというのも不思議な感じ。今でも生き生きとした講演が観覧できるのだから...</div><div><br /></div><div>産業革命で最も偉大な発明は何か?それは、洗濯機だ!この発明こそが、退屈な時間を知的な読書の時間に変貌させた魔法だ!と豪語したコミカル調が蘇る。</div><div>少子化問題で子供をどんどん産みなさい!と触れ回り、経済政策では消費を煽るばかりの政治家や有識者を尻目に、世界規模の人口増殖の方に問題意識を向ければ、マルサスの人口論を読まずにはいられない。経済学では、古びてしまったとされる理論を。いまや産んじまえば、なんとかなるって時代でもあるまい。ハンスは、貧困層の生活水準を引き上げることが人口増加の抑制につながる、と唱えるのであった...</div><div>尚、上杉周作、関美和訳版(日経BP社)を手に取る。</div><div><br /></div><div><b>"FACTFULNESS"</b> とは、ハンスの言葉で、データや事実に基づいて世界を読み解く習慣を言うらしい。本書の共著者でもある息子オーラ、妻アンナと共にギャップマインダー財団を設立。Gapminder は、統計情報を五次元で視覚化するツールとして知られ、ここでは国別に、所得、健康、寿命、人口の関係が示される。</div><div>こうして眺めていると、国の有り様が多種多様に富み、先進国と途上国で区別する国際機関や各国政府の要人たちの言葉が空虚に感じられる。先進国という呼称に固執する国もあれば、都合よく使い分ける国もあったり、あるいは、貧困国とされながらも最優先される必需品がスマホだったり。</div><div>本書は、10 の思い込みを提示してくれる。"FACTFULNESS" とは、これらの克服から見い出せるものらしい...</div><div><br /></div><div><ol style="text-align: left;"><li>分断本能... 世界は分断されているという思い込み</li><li>ネガティブ本能... 世界はどんどん悪くなっているという思い込み</li><li>直線本能... 世界の人口はひたすら増え続けているという思い込み</li><li>恐怖本能... 危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう思い込み</li><li>過大視本能... 眼の前の数字が一番重要だという思い込み</li><li>パターン化本能... ひとつの例がすべてに当てはまるという思い込み</li><li>宿命本能... すべてはあらかじめ決まっているという思い込み</li><li>単純化本能... 世界はひとつの切り口で理解できるという思い込み</li><li>犯人探し本能... 誰かを責めれば、物事は解決するという思い込み</li><li>焦り本能... いますぐ手を打たないと大変なことになるという思い込み</li></ol></div><div><br /></div><div>しかも、賢い人ほどハマりやすいという。問題は、知識のアップデート。変化の激しい時代では、すぐに知識が廃れていく。勉強は学生の本分!などと言われるが、社会人だからこそ、経験を積めば積むほど、その必要性を感じる。</div><div>古い知識が役に立たないということではない。古い知識に新たな知識を重ね、その知識に至るプロセスも新旧で重ねれば、より強力となろう。重要なのは、学ぶ習慣である。マハトマ・ガンディーは、こんな言葉を遺してくれた。「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」と。</div><div>そして、学ぶ習慣を支えてくれるのが、好奇心だ。様々な角度から学べば、いろんな面白味が見えてくる。多くの偉人たちが、読書批判をやりながら、熱心な読書家であったことも頷ける...</div><div><br /></div><div><b>「なによりも、謙虚さと好奇心を持つことを子供たちに教えよう。謙虚であるということは、本能を抑えて事実を正しく見ることがどれほど難しいかに気づくことだ。自分の知識が限られていることを認めることだ。堂々と知りません!と言えることだ。新しい事実を発見したら、喜んで意見を変えられることだ。謙虚になると、心が楽になる。何もかも知っていなくちゃならないというプレッシャーがなくなるし、いつも自分の意見を弁護しなければと感じなくていい。好奇心があるということは、新しい情報を積極的に探し、受け入れるということだ。自分の考えに合わない事実を大切にし、その裏にある意味を理解しようと務めることだ。答えを間違っても恥とは思わず、間違いをきっかけに興味を持つことだ。... 好奇心を持つと心がワクワクする。好奇心があれば、いつも何か面白いことを発見し続ける。」</b></div><div><br /></div><div>ただ、これら 10 の思い込みは、進化の過程で必要であったのではなかろうか。問題は、どれも感情を煽り、ちと行き過ぎるところにある。</div><div>人は何事も、善悪、白黒、勝ち組と負け組... などと、二項対立で捉えがち。おまけに、自分自身を優位なグループに属させ、ある種の優越主義に浸る。人はなんでも悪く考える傾向があり、隣の芝は青く見えるもの。進化の過程は右肩上がりに見えるもので、直線的に上昇するものと捉えがちだが、そのおかげで希望が持てる。</div><div>だが、実際には退化の時代もあったはず。そうでないと、自省というものが働かない。</div><div>そして、現在は、進化の時代か、退化の時代か、そんなことは知らんよ。</div><div>恐怖心は、人間の心理操作でもってこい。だが、恐怖と危険はまったく違う。恐ろしいと思うことはリスクがあるように見えるだけで、危険なことには確実にリスクが内包されている。ジャーナリズムは、分断意識を刺激し、恐怖心を煽って、注目を浴びようとする。</div><div>ソーシャルメディアだって、負けじと犯人探しに躍起だ。政治屋は手頃なスケープゴートに責任転嫁とくれば、大衆は、今すぐ手を打たないと大変なことになると焦る。</div><div>しかも、こんな複雑怪奇な人間社会を、ひとつの切り口で理解した気になれれば、すべての思考をたった一つでパターン化しちまう。こうした心理傾向は、いわば人間の本能である。</div><div>そして、これらの思い込みを克服できれば幸せになれるかも分からん。それで、ハンスさんは楽観主義者のレッテルを貼られたそうな...</div><div><br /></div><div><b>「わたしは、楽観主義者ではない。楽観主義者というと世間知らずのイメージがあるが、わたしはいたって真面目な可能主義者だ。可能主義者とは、根拠のない希望を持たず、根拠のない不安を持たず、いかなる時もドラマチックすぎる世界の見方を持たない人のことを言う。ちなみに、可能主義者はわたしの造語だ。」</b></div><div><br /></div><div>また、アフリカ連合主催の講演で、辛辣なツッコミを喰らった場面は、なんとも印象的である。しかも、穏やかな口調なだけに、なおさら辛辣に...</div><div><br /></div><div><b>「図とか表はよくできましたし、話も上手だったけど、ビジョンがないわね!極度の貧困がなくなるって話ね。そこが始まりなのに、先生の話はそこで終わってましたね。極度の貧困がなくなれば、アフリカ人は満足だと思ってらっしゃる?普通に貧しいくらいがちょうどいいとでも?講演の結びで、先生はご自分のお孫さんがアフリカ観光に来て、これから建設予定の新幹線に乗る日を夢見てるっておっしゃいましたね。そんなのがビジョンだなんて言えます?古臭いヨーロッパ人の考えそうなことですよ。... (略) ... 私の夢はその逆で... アフリカ人たちが観光客としてヨーロッパに歓迎される存在になる。難民として嫌がられるんじゃなくてね。それが、ビジョンというものよ。」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-71648737577431502092024-03-10T00:00:00.000+09:002024-03-10T00:00:26.199+09:00"饒舌について 他五篇" プルタルコス 著<div>プルタルコスといえば、その大作に<b>「対比列伝」</b>がある。ToDo リストにずっと居座ってるヤツの一つ。ちょうど、澤田謙の編纂版「プリューターク英雄伝」でお茶を濁したところ(前記事)。</div><div>だが実は、<b>「モラリア(倫理論集)」</b>ってヤツもある。邦訳版で全 14 巻にも及ぶ大作で、エッセーの起源ともされるそうな。ついでに、こいつもお茶を濁すとしよう。だからといって、どちらも ToDo リストから抹殺できずにいる。未練は男の甲斐性よ!</div><div><br /></div><div>本書は、その大作の中から「いかに敵から利益を得るか」、「饒舌について」、「知りたがりについて」、「弱気について」、「人から憎まれずに自分をほめること」、「借金をしてはならぬこと」の六篇をつまんでくれる。ソーシャルメディアでも見かけそうな題目が並び、現代病の根源を拾い集めたような...</div><div>尚、柳沼重剛訳版(岩波文庫)を手に取る。</div><div><br /></div><div>1. 最高の敵は己の中に...</div><div>敵があってこそ得られる利益がある。愚者は友人関係すらぶち壊しちまうが、賢者は敵対関係までもうまく利用するらしい。目を光らせる者がいて、修正される振る舞いもあれば、他人を観察することによって、自分の長所や短所が見えてくることだってある。人に騙されて高い授業料を払い、それで賢くなることも...</div><div>虚栄心は人間の本能的な性癖の一つだが、そんな悪癖までも利用しちまう人たちがいる。樽犬先生(ディオゲネス)ともなれば、祖国から追放され、財産を没収され、そんな不遇を閑暇と哲学の道へ転じた。賢者とは、なんと抜け目のないヤツらだ。</div><div>愚者は、成功よりも失敗に学ぶことが多い。ならば、友よりも敵に学ぶことが多いのやもしれん。恋愛よりも失恋に学ぶことが多いのやもしれん。結婚よりも離婚に学ぶことが多いのやもしれん。</div><div>わざわざ自ら失敗を招く必要もあるまいが、愚者は自ら体験してみないと分からない。そして、自分は悪くない!と、なんでも他のせいにできる性分は、ある意味幸せである。</div><div>おまけに、敵意が生じれば、憎しみとともに妬みが生じ、他人の不幸を喜ぶ気持ちまでも芽生えさせる。「嫉妬は憎悪よりも、和解がより困難である。」とは、ラ・ロシュフーコーの言葉。嫉妬こそが最も厄介な敵やもしれん。今こそ、嫉妬を感じないようにする修行を...</div><div><br /></div><div>2. 沈黙不能症</div><div>ソーシャルメディアに誹謗中傷の嵐が荒れ狂う時代では、沈黙の仕方も難しい。論争では、言葉で勝利することが第一の目的となり、真理なんぞ二の次三の次。ソフィストたちが育んできた弁論術の伝統は、いまやプレゼン技術として受け継がれる。ただ、技術がいくら進歩しようとも、古くから伝わる訓戒は変わらない。見た目より中身だ!言葉より実行だ!と...</div><div>お喋り屋が欲望を満たすのは、すこぶる難しい。人に聞いてくれ!と言いながら、自分は聞く耳持たず。他人に目を光らせておいて、自分自身には目を背ける。</div><div>それでも、お喋り屋が周囲を黙らすという意味では、人に沈黙を教えている。そればかりか、言葉の不毛を教えている。</div><div>酒呑みが、黙っていられるもんか!それで酒呑みに説教されてりゃ、世話ない...</div><div><br /></div><div><b>「哲学が饒舌の治療を引き受けるとなると、これは厄介でむずかしい。用いられる薬は言葉だが、言葉は聞かれてこそ効き目があるのに、おしゃべりな人間は決して人の言うことには耳をかさず、のべつしゃべってばかりいるからである。そして、この他人の言葉に耳をかさないというのが、沈黙不能症という病気の最初の兆候である。」</b></div><div><br /></div><div>3. 弱気の正体は依存症か...</div><div>弱気で他人の奴隷になるか、自己賛美で自己愛の奴隷になるか、借金でお金の奴隷になるか、いずれも似たり寄ったり。</div><div>しかし、人間ってやつは何かに依存せねば生きてはゆけぬ。アリストテレスは、人間を「ポリス的動物」と定義した。ポリスとは単に社会を営むだけでなく、最高善を求める共同体というような哲学的な意味も含まれているが、ほとんどの人間が社会に依存しながら生きている。社会制度がどんなに不完全であっても、その制度に文句を垂れようとも、その仕組みに依存せずには生きては行けぬ。自己責任なんぞクソ喰らえ!自立なんぞ悪魔にでも喰わしちまえ!それでミイラ取りがミイラに...</div><div>依存症に打ち負かされた弱気は、多くの不遇を呼び寄せる。不評の煙を逃れようとも、逃げ方が下手なもんだから、却って炎上よ。断ると気まずいかなぁ... という気持ちに憑かれ、無茶な要求までも引き受け、後の祭りよ。ノーが言えないのは、本当に相手への気遣いか。却って揉め事を増幅させてはいないか。</div><div>しかしながら、弱気がすべて悪いとは言えまい。無防備な強気よりはましかも。不当な要求で、厚かましく要求してくる連中は、断固として拒否!恥知らずを思い知らせてやれ!思慮分別に欠ける人間から憎まれるのは本望よ!</div><div><br /></div><div><b>ゼノン曰く、「何だと、愚か者めが。その友人とやらは、お前に対して不当不正な所業に及んでいるのだから、お前を恐れてもいなければ、お前に対して恥ずかしいとも思ってはおらぬ。しかるにお前は、正義のためにそやつに刃向かう勇気がないのか!」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-31699960366485241342024-03-03T00:00:00.000+09:002024-03-03T00:00:33.906+09:00"プリューターク英雄伝" プリューターク 著 & 澤田謙 編<div>死ぬまでに読んでおきたい!</div><div>そんな大作が、ToDo リストを賑わす。プリュータークの「対比列伝」も、そうした一冊。</div><div>だが、人生は短い。永遠に到達できない境地があるのも止む無し。だとしても、無闇矢鱈と足掻いてみるのも悪くない...</div><div><br /></div><div>そこで、本書だ!</div><div>翻訳者澤田謙が独自の視点で人物像を掘り起こし、編纂して魅せる。</div><div>「対比列伝」というからには、古代のギリシアとローマで著名な人物を、一人ずつ対比しながら物語るという趣向(酒肴)。それぞれ二十名以上、計五十名ほどの英傑が記される。優れた人物の優れた行為には、一種の張り合いのようなものを感じる。自分もこうありあたいと...</div><div>しかも、時代を超えた対比となると、人物の特徴がより鮮明になる。長所だけでなく、短所も露わになり、より親しみが感じられる。</div><div><br /></div><div>しかしながら、ここでは対比にこだわらず、自由奔放な書きっぷり!</div><div>「大王アレキサンダー」、「英傑シーザー」、「高士ブルータス」、「哲人プラトン」、「智謀テミストクレス」、「怪傑アルキビアデス」、「義人ペロピダス」、「雄弁デモステネス」、「大豪ハンニバル」、「賢者シセロ」と十名ばかりを炙り出し...</div><div>しかも、ハンニバルやプラトンは、対比列伝では一章をなしていないが、ここでは章に昇格させ、他の人物についても、かなり加筆したと宣言している。歴史学者箕作元八の著作「西洋史新話」を参考にしたと... そして、そちらの書にも興味がわくが、絶版のようだ。うん~、惜しい!</div><div>ブルータスの二大演説に至っては、対比列伝には骨格が記されるだけだそうだが、ここではシェークスピア風の戯曲で捲し立てる。</div><div>それで原書はというと、歴史書というより物語性に富んだ伝記小説風のようで、その性格は継承しているらしい。</div><div><br /></div><div>例えば...</div><div>アレキサンダーの大王たる逸話は、知っていても、やはり読み入ってしまう。</div><div>ダイオゼネス(ディオゲネス)との問答では... 樽犬先生、何をご所望か?じゃ、そこをどいてくれ。日が陰るでなぁ...</div><div><b>「我もしアレキサンダーたらずんば、願わくばダイオゼネスたらん哉じゃ。」</b></div><div><b>「ゴルディアムの結び目 - この紐を解くものは、天下に王たるべし。」</b>に挑んでは... 颯ッと佩剣を抜き放ち、紫電一閃!結び目を両断する。波斯(ペルシア)を平らげると、大王はこう言い放ったとさ...</div><div><b>「敵に克つよりも、己に克つこそは、王者たるに適わしきこと。王者の光栄は、そこのところにあるのだ!」</b></div><div><br /></div><div>プラトン物語は、ソクラテスに看取られている。</div><div><b>「雅典(アテネ)の神々を礼拝せず、自分の創った新たな神を拝する。濫りに新説を流布し、世の青年を惑わす。」</b>これが、ソクラテスの罪状。道徳を説き、真理を叫び、法に従うことを説いた賢者は、今、脱獄の勧めを拒否して法の裁きに身を委ね、毒杯を仰ぐ。</div><div>その意志を次いだプラトンは、学園アカデマス(アカデメイア)を開講し、青年たちを導いた。これが、今日のアカデミーである。プラトンは、哲学者こそ統治者の資質としながら、自らは教師に甘んじたとさ...</div><div><br /></div><div>ハンニバル物語には、人を動かすリーダーシップ論を学ぶ。</div><div>電光石火のごとくアルプス越えを果たせば、<b>「カルタゴは怖るるに足りないが、ハンニバルは怖れねばならないぞ!」</b></div><div>この豪傑に、ローマはアルキメデスの知恵で反撃す、<b>「予に支点を与えよ。然らば地球を動かさん!」</b></div><div><br /></div><div>... こうした物語を多くの作家が読み、また創作の糧にしたことだろうことは、想像に容易い。</div><div><br /></div><div>ところで、英雄ってやつは、どんな時代に出現するのであろうか...</div><div>大衆は、強烈な指導力を持つ政治家の出現を待ち望む。そして、選挙運動を冷めた目で眺めては嘆く。そんな人物は見当たらないと...</div><div>大衆は、移り気が激しい。いざ、豪腕な政策を施せば、それを嫌い、今日の英雄は一夜にして独裁者呼ばわれ。</div><div>しかも、大衆は盲目で、自信満々な語り手を信用する。こうしたことが、民主主義の最大の弱点なのであろう。</div><div>したがって、政治家は、弁論術を求めてやまない。支持を得るために、その技術を磨く。現代風に言えば、プレゼン技術。もちろん、その根底に政治哲学が重視されるべきだが、何事も手っ取り早く手段や方法に群がるのが人間社会というもの。効果的な人心掌握術があれば、そこに群がる。重要なのは真理ではない。真理っぽく装うことだ。大事業を成すには、真理では足らぬ。正義でも足らぬ。権勢や利運をも味方につけなければ。</div><div>ただ、いつの時代でも、どこの国でも、絶えないのは大勇を妬む小勇がある。民主主義社会では、善良な政府の存在よりも、善良なマスメディアの存在の方が本質的なのかもしれん...</div><div><br /></div><div><b>「大衆時代なればこそ、世は英雄を待望するのである。猫の顔ほどの希臘(ギリシア)の小天地に、偉人傑士雲のごとく現われたのは、いわゆる希臘の自由なる民主主義時代であった。羅馬(ローマ)の民衆が、世界統一を夢みはじめたとき、シーザーが起ってその大衆の呼び声にこたえた。仏蘭西(フランス)革命の怒濤のごとき大衆の波に乗ったのが、一世の風雲児ナポレオンであった。ながい封建の桎梏が自然に腐れ緩んで、百姓町人の手足に自由が訪れたとき、西郷南洲は錦の御旗を東海道に押し立てたのだ。真の英雄は、自由なる民衆時代にあらずんば、現われるものではない。」</b></div><div><b>... 澤田謙</b></div><div><br /></div><div>では、対比列伝に倣って、古代のギリシアとローマを対比しながら眺めてみよう...</div><div><br /></div><div>まず、古代ギリシア時代は、アテネとスパルタの争覇戦であった。しかも両国の性格は、人情風俗習慣に至るまで正反対。アテネは文化を重んじる民主主義、スパルタは武断を誇る国家主義。デモステネスのような雄弁家を輩出したのも、アテネのお国柄を表している。もはや覇王フィリッポスに対抗できるのは、執政官にあらず、将軍にあらず、ただ一人の雄弁家であったとさ。</div><div>テミストクレスは、雅典(アテネ)の未来は海上にあり!とし、海軍を創設。積極的な海外貿易で国力を強化していく。政変で専制政治に傾くと、直ちにこれを打倒するアルキビアデスのような怪傑が出現する。</div><div>対するスパルタは、他国と交われば衰弱な風土に汚染されるとし、海外との交流を拒否する。アテネは個人財産を重んじ、スパルタは金銭を卑しみ、自ずと両国で法の在り方も異なる。見事なほどの対称性をなす都市国家と言うべきか。</div><div><br /></div><div>これに、第三勢力としてテーベが割って入るといった構図。</div><div>ペロピダスは、異郷アテネに亡命するも、ひそかに二大強国の隙き間から、新興国テーベの樹立を画策する。それでも、外敵による危機が迫ると、ギリシア全土で惜しみなく結束できる関係が保たれている。</div><div><br /></div><div>一方、古代ローマ時代は、策謀と奸計で賑わす。</div><div>ローマ皇帝という絶大な権力者がいながら、元老院という諮問機関が併設され、その意味では、アテネとスパルタが融合したような。いや、ローマは群衆が動かす国家だ。それ故、大っぴらに事を運べない。</div><div>シーザーが慕った高徳な人物ですら、正義感が強すぎる故に私情を捨て... ブルータス、汝もか!</div><div>このブルータスこそは、専制政治を打ち破って平民政治を打ち建てた、古ブルータス家の子孫であったという。策略家カシアスは、ブルータスの純粋な使命感を操って、暗殺計画の一党に引き入れ、事を為す。</div><div>そんなローマを遠くエジプトから視線を送る女王は、シーザーを悩殺し、アントニーを弄殺。だが三度目の正直か、オクタヴィアスを艶殺せんとして成らず。クレオパトラの鼻が一分低かったら、世界の歴史は違っていたろう... とパスカルに言わしめた妖艶無比なる美女の運命は、自ら毒蛇の餌食に...</div><div><br /></div><div>シセロ(キケロ)ほどの人物までも、時代の餌食に... </div><div>クレオパトラの鼻とは反対に、シセロの鼻は豌豆(シセル)に似ていたので豌豆氏と渾名されたそうな。この賢者にして、二大欠点が暴かれる。</div><div>一つは、余りに己の功績を、自ら称賛し過ぎたこと。彼の文書には、自賛の言辞で満ち満ちていたという。</div><div>二つは、弁舌にまかせて、あまりに皮肉や毒舌を弄したこと。元老院といわず、人民会といわず、裁判廷といわず、人を見下すような...</div><div>いずれも悪意はなさそうだが、没落を早めるには、惜しみて余りある。そして、ローマを追われながらも、共和制が独裁制に変貌していく様を憂う。</div><div>オクタヴィアスはシセロの信望を利用して統領になるが、アントニーのシセロ暗殺計画に屈っする。皮肉なことに、アントニーはオクタヴィアスに攻められ、エジプトで非業の死を遂げることに。オクタヴィアスはというと、シセロの子を抜擢し、共に統領ならしめたとさ...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-6864919397255807222024-02-25T00:01:00.000+09:002024-02-25T00:01:10.151+09:00"向上心" Samuel Smiles 著<div>天は自ら助くる者を助く... と説く「自助論」に触発され(前記事)、サミュエル・スマイルズをもう一冊。</div><div>人の一生とは、その人がつくり上げた思想の世界に他ならないという。そうした世界を持つことが、人生を楽しむってことであろうか...</div><div>尚、竹内均訳版(三笠書房)を手に取る。</div><div><br /></div><div><b>「気高い思想を伴侶とすれば、人はけっして孤独ではない。」</b></div><div><b>... フィリップ・シドニー</b></div><div><br /></div><div>本書にも、格言めいた言葉が散りばめられる。自分を大きく育てよ!個性を磨け!仕事に人生の活路を見い出せ!自己投資を惜しむな!自分の頭で考え、信念を築け!強い磁力を持った人物に学べ!ありふれた義務を果たせ!などなど叱咤激励の数々。</div><div>世界を動かし常に躍動させているのは、精神力だという。あらゆる力を締めくくるのは希望だとか。かのバイロン卿は、こう叫んだそうな...</div><div><br /></div><div><b>「希望がなければ、未来はどこにあるというのだ?地獄にしかない。現在はどこにあるかと問うのは愚かしいことだ。われわれはみなそれをよく知っているのだから。過去はどうだ。くじかれた希望だ。ゆえに人間社会で必要なのは、どこにいても希望、希望、希望なのである。」</b></div><div><br /></div><div>人生で大切なのは、朗らかさ、包容力、人格、そして人間性こそが... などと並び立てられると、説教を喰らっているようで、自分の人生は生きるに値するか... などと考え込んじまう。<b>「崇高な精神に導かれたエネルギッシュな人格者」</b>という人間像も、こそばゆい。</div><div>おまけに、人格形成で重要な要素に<b>「義務」</b>とやらを掲げてやがる。おいらの大っ嫌いな言葉だ!なぜ、この言葉が嫌いかといえば、それは天の邪鬼だから、いや、誰かに押し付けられている感じがするから...</div><div>しかしながら、ここで言う義務は、ちと様相が違う。それは、自分で見つけるものであって、誰かに与えられるものではないってことだ。</div><div>しかも、どんな人間にも見い出すことができ、また、背負うべきだという。</div><div>自分のできることといえば、目の前にあることを地道に懸命にやるだけ。そうした意識を持ち続けることによって、義務とやらが自ずと見えてくるらしい。慣習の力というやつか。</div><div>となると、向上心を身につけるには、慣習のあり方を見直し続け、いかに生きるかを問うことになる。</div><div>こいつぁ、自分自身を叱咤激励する指南書か。いや、独り善がり論か。ちなみに、副題に<b>「すじ金入りの自分論」</b>とある...</div><div><br /></div><div><b>「実際に生きた歳月の長さで人の寿命をはかることはできない。どんな業績を残し、何を考えたかによって生きた長さを考えるべきである。自分と人のために役立つ仕事をすればするほど、考えたり感動したりすることが多ければ多いほど、本当に生きていると言える。」</b></div><div><br /></div><div>仕事は、行動力あふれる人格を養うための最良の方法だという。働くことによって、従順さ、自制心、集中力、順応性、根気強さが鍛えられ、実務能力こそが人格を高めると。</div><div>仕事に生き甲斐が持てれば、幸せであろう。一つの仕事に通じれば、人生哲学が会得できそうだ。</div><div>では、何を仕事とするか。本書は、社会に役立つすべての労働に価値を認めている。家事だって、立派な仕事。有能な主婦は、有能なビジネスウーマンになり得ると。こうした視点は、古代ギリシアの詩人ヘーシオドスの著作「仕事と日」にも通ずるものがある。</div><div><br /></div><div><b>「人間の内に秘められた才能は、仕事を通して完成されるのであり、文明は労働の産物と言える。」</b></div><div><br /></div><div>試練が人間形成の糧になるというのは、おそらく本当だろう。</div><div>では、利便性はどうか。どんどん便利になっていく社会では、人間は退化しちまうってことか。そうかもしれん。大衆は、分かりやすさに群がる。便利なツールに群がる。昆虫が光に集まるように。多様化社会と言いながら、同じ情報に群がる。共有という合言葉で。みんなが知っていることを知らないと、寄ってたかって馬鹿にされ、それを極度に恐れる。自立の道はいずこ?</div><div>生物学的にも、視力は衰え、嗅覚は鈍感になり... それで精神は?</div><div>人類の進化の歴史は、単調な右肩上がりであったわけではあるまい。進化する時期もあれば、退化する時期もあったはず。啓蒙の時代があれば、愚蒙の時代もあるはず。作用と反作用の力学は、人間精神にも当てはまるであろう。</div><div>そして、大局的見地から進化の方向にあるということであろうか。いや、それは進化論的な神話で、実は退化の道を辿っているのやもしれん。こうした古典が未だ輝きを失わないのも、そのためであろうか...</div><div><br /></div><div><b>「常に自分を今以上に高めようとしない人間ほど貧しいものはない。」</b></div><div><b>... 十六世紀の詩人ダニエル</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-57982183521243867952024-02-18T00:05:00.000+09:002024-02-18T00:05:48.806+09:00"自助論" Samuel Smiles 著<div>神様は冷てぇや。実に冷てぇや。言葉が欲しい時にいつも沈黙し、肝心な時にきまってお留守なさる。神様は臆病者が嫌いと見える。自分の意志で動こうとしないヤツが大っ嫌いと見える。おいらは神様が嫌いだ。バチ当てやがるから...</div><div><br /></div><div><b>「天は自ら助くる者を助く」</b></div><div><br /></div><div>保護や援助の度が過ぎると、人を無気力にさせ、自立心までも萎えさせる。政府が打ち出す支援策がしばしば失敗するのは、そのためか。そればかりか悪用される始末。一番の良策は、放っておくことかもしれない。</div><div>しかしながら、援助の手を差し伸べたおかげで、救われる場合もある。援助が人を救うのか、人を堕落させるのか。いずれにせよ、自らを救おうとする意志が伴わなければ。それこそ自由精神というものか...</div><div><br /></div><div>本書は、サミュエル・スマイルズが説いた自己啓発書である。</div><div>ここには格言めいた言葉が散りばめられ、その言葉を拾っていくだけでも、自分自身を救った気分になれる。気分は重要だ。自ら意志を活性化させるためにも。それで自己責任論に押し潰されては、元も子もない...</div><div>成長は、無知の知から始まるという。だがそれは、ソクラテスの時代から唱えられてきたこと。進歩する人は、まずメモと時間の使い方が違うという。まさに独立独歩のツールというわけか。日々のたった十五分の行為の積み重ねが、凡人を大人物に変えるんだとか。そして、最も重要なのが、人格だという。自分の人間性こそが、最も頼りになる財産というわけか。</div><div>日々の行為と習慣に才を見い出すとは... 早熟な才人には、その行為に圧倒されちまうが、大器晩成型の人間には落ち着いて学べるところがある。アリストテレスは、こんな言葉を遺してくれた。「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為でなく、習慣である。」と。</div><div>真の雄弁とは、無言の実践を言うらしい...</div><div>尚、竹内均訳版(三笠書房)を手に取る。</div><div><br /></div><div>スマイルズが生きた時代は... 西欧列強国が競って世界支配を目論み、日本は江戸末期から明治維新へと向かう中で国家という意識を強めていく。どこの国も自存自衛の意識を国粋主義へと変貌させ、領土野心を旺盛にさせていく... そんな時代である。</div><div>自尊心ってやつは、心の支えになる。だが、度が過ぎて暴走を始めると、これほど手に負えない意識もあるまい。自己を支配できぬ者は、他人の支配にかかる。真の自尊心は、自己抑制との調和において機能するというわけか。</div><div>スマイルズが「自助論」を書いたのは、それが時代への警鐘であったと解するのは、行き過ぎであろうか。まずは、そう思わせる言葉を拾ってみよう...</div><div><br /></div><div><b>「自助の精神は、人間が真の成長を遂げるための礎である。自助の精神が多くの人々の生活に根づくなら、それは活力にあふれた強い国家を築く原動力ともなるだろう。」</b></div><div><br /></div><div><b>「政治とは、国民の考えや行動の反映にすぎない。どんなに高い理想を掲げても国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルにまで引き下げられる。逆に、国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。」</b></div><div><br /></div><div><b>「暴君に統治された国民は確かに不幸である。だが、自分自身に対する無知やエゴイズムや悪徳のとりこになった人間のほうが、はるかに奴隷に近い。」</b></div><div><br /></div><div><b>「人は専制支配下に置かれようとも、個性が生きつづける限り、最悪の事態に陥ることはない。逆に個性を押しつぶしてしまうような政治は、それがいかなる名前で呼ばれようとも、まさしく専制支配に他ならない。」</b></div><div><b>... ジョン・スチュアート・ミル</b></div><div><br /></div><div>本書の言葉には、説教を喰らっているようで耳が痛い。学問に王道なし!と言うが、どこかに近道があるのではという考えは拭いきれず、つい手軽なハウツー本に突っ走る。そんなおいらの性癖は如何ともし難いが、自己修養だと思って、いくつか言葉を拾っておこう。</div><div>つまり、拾った言葉の対極に自分があるってことだ。言葉は心を映す鏡... というが、どうやら本当らしい...</div><div><br /></div><div><b>「真の人格者は自尊心に厚く、何よりも自らの品性に重きを置く。しかも、他人に見える品性より、自分にしか見えない品性を大切にする。それは、心の中の鏡に自分が正しく映ることを望んでいるからだ。さらに、人格者は自分を尊ぶのと同じ理由で他の人々をも敬う。彼にとっては、人間性とは神聖にして犯すべからざるものだ。そしてこのような考え方から、礼節や寛容、思いやりや慈悲の心が生まれてくる。」</b></div><div><br /></div><div><b>「どんなに高尚な学問を追求する際にも、常識や集中力、勤勉、忍耐のような平凡な資質がいちばん役に立つ。そこには天賦の才など必要とされないかもしれない。たとえ天才であろうと、このような当たり前の資質を決して軽んじたりはしない。」</b></div><div><br /></div><div><b>「人間は、読書ではなく労働によって自己を完成させる。つまり、人間を向上させるのは文学ではなく生活であり、学問ではなく行動であり、そして伝記ではなくその人の人間性なのである。そうはいっても、すぐれた人物の伝記には確かに学ぶところが多く、生きていく指針として、また心を奮い立たせる糧として役立つ。」</b></div><div><br /></div><div><b>「人間の進歩の速度は実にゆっくりしている。偉大な成果は、決して一瞬のうちに得られるものではない。そのため、一歩ずつでも着実に人生を歩んでいくことができれば、それを本望と思わなければならない。『いかにして待つかを知ること、これこそ成功の最大の要諦である』と、フランスの哲学者メストルも語っている。」</b></div><div><br /></div><div><b>「人間の知識は、小さな事実の蓄積に他ならない。幾世代にもわたって、人間はこまごました知識を積み重ねてきた。そうした知識や経験の断片が集まって、やがては巨大なピラミッドを築き上げる。」</b></div><div><br /></div><div><b>「真の謙虚さとは自分の長所を正当に評価することであり、長所をすべて否定することとは違う。」</b></div><div><br /></div><div><b>「金持ちが必ずしも寛大ではないのと同じように、立派な図書館があり、それを自由に利用できるからといって、それで学識が高まるわけではない。立派な施設の有無にかかわらず、先達と同じように注意深くものごとを観察し、ねばり強く努力していく以外に、知恵と理解力を獲得する道はない。」</b></div><div><br /></div><div><b>「依存心と独立心、つまり、他人をあてにすることと自分に頼ること... この二つは一見矛盾したもののように思える。だが、両者は手を携えて進んでいかねばならない。」</b></div><div><b>... ウィリアム・ワーズワース</b></div><div><br /></div><div><b>「最短の近道はたいていの場合、いちばん悪い道だ。だから最善の道を通りたければ、多少なりとも回り道をしなくてはならない。」</b></div><div><b>... フランシス・ベーコン</b></div><div><br /></div><div><b>「心の中にいくら美徳の絵を描いても、現実に美徳の習慣が身につくわけではない。むしろ心はコチコチに固まり、しだいに不感症となるだろう。」</b></div><div><b>... バトラー主教</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-69071913761630225152024-02-11T00:02:00.000+09:002024-02-11T00:02:10.812+09:00"LIFE SHIFT - 100年時代の人生戦略" Lynda Gratton & Andrew Scott 著<div>時間という物理量が、誰にでも平等に与えられているかは知らん。が、人生が長くなれば、それだけ考える時間も長くなる。鼓動や脳波の周波数に個人差があれば、時間の速さや感じ方も違うであろう。夭逝した偉人たちは、素早く時代を駆け抜けていった。天才とは、早世するものなのか。あまりに研ぎ澄まされた才能ゆえに、自ら寿命を縮めてしまうのか...</div><div>長く生きれば、それだけ充実した人生が送れるわけではない。いや、むしろ苦悩を長引かせるだけかも。人生ってやつは、長かろうが、短かろうが、有意義に生きることは難しい。百年時代ともなると、人生計画も思い通りにはいくまい。先が見通せないだけに、不確実性に対する心構えが問題となる。だがそれでも、ぶれない根本の哲学は持っておきたい。</div><div>ちなみに、おいらの座右の銘は、今はこれ!ちょくちょく変わるのだけど...</div><div><br /></div><div>"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."</div><div>「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」</div><div>... マハトマ・ガンディー</div><div><br /></div><div>さて、本書のテーマは、長寿という贈り物を、どうやって謳歌するか...</div><div>人生が長くなれば、まず、お金の問題が気になる。老後に必要な資金は... などとファイナンシャルプランナーが算出すれば、年金も心もとなく、社会全体に重苦しい空気が...</div><div>本書は問いかける。意識がお金の問題に偏りすぎてはいないか... 他にも同じくらい大事なことがあるのでは... と。そして、従来の人生観を「教育、仕事、引退」の 3 ステージで区分し、もっと多くのステージを模索すること。さらに、マルチステージに挑戦することを奨励している。第二の人生という言葉もあるが、第二と言わず、第三でも、第四でも... しかも、マルチタスクで... おまけに、年齢や世代を超えて、今すぐやってみよう!というわけだ。</div><div>尚、池村千秋訳版(東洋経済新報社)を手に取る。</div><div><br /></div><div><b>「アイデンティティ、選択、リスクは、長い人生の生き方を考えるうえで中核的な要素になるだろう。人生が長くなれば、経験する変化も多くなる。人生で経験するステージが多くなれば、選択の機会も増える。変化と選択の機会が増えるなら、人生の出発点はそれほど重要でなくなる。そのような時代に生きるあなたは、年長世代とは異なる視点で自分のアイデンティティについて考えなくてはならない。人生が長くなるほど、アイデンティティは人生の出発点で与えられたものではなく、主体的に築きうるものになっていく。」</b></div><div><br /></div><div>人生の道のりで、どんなステージを思い描くかは人それぞれ。スキルアップのステージ、旅で視野を広げるステージ、大学に行って再教育を受けるステージ、稼いで貯蓄を潤すステージ、ビジネスを立ち上げ野心に燃えるステージ、そして独りになって人生を見つめるステージ... と。どのステージに身を置こうと、自分を見失わないこと。いや、自分自身を知ること、もっともっと自分というものを知ること。それは、ソクラテスの時代から唱えられてきた難題である。人生が長くなれば、自分自身と向き合う時間も長くなる。いろんなステージを経験すれば、自分というものが、より確かなものになるやもしれん。いや、誇大妄想に駆り立てられるやも。</div><div>金融資産のポートフォリオよりも、人生のポートフォリオだ。スキルのポートフォリオに、仕事のポートフォリオに、シナリオのポートフォリオに、無論リスクヘッジも欠かせない。いよいよ、真の多様化時代の到来か...</div><div>しかしながら、人生を主体的に生きることは難しい。凡庸な人間には過酷だ。ただし、主体的に生きている気分になることは、そう難しくない。凡庸なだけに...</div><div><br /></div><div>本書は、<b>「自己効力感」</b>と<b>「自己主体感」</b>の両方を持つことを説く。自己効力感とは、自分ならできるという認識。自己主体感とは、自ら取り組むという認識。どちらも、今もてはやされる自己肯定感に結びつく。ただ、人間ってやつは、相対的な認識能力しか持ち合わせておらず、自己肯定感を他人否定で支えるのでは本末転倒。時には、論理的な悲観論も欠かせない。何事も、野心的すぎても、保守的すぎても、うまくいかない。</div><div>冒険心は若さの特権ではないが、歳を重ねれば、どうしてもリスクを恐れる。物事を知れば知るほど臆病になりがち。特に、お金のギャンブルは避けたい。</div><div>そこで、無形資産の重要性を説く。知的財産なら、いくらでも挑戦できそうだ。安全志向も、挑戦志向も、捨てがたいとなれば、どう使い分けるか。これも人生戦略のうち。</div><div>資産は、なにも金融資産だけではない。知識資産に、スキル資産に、人間関係資産に、活力意欲資産に、変身願望資産に... 自分の持ち分でどう組み立てるか。人生戦略では、有形資産よりも無形資産の方が重要なのやもしれん...</div><div><br /></div><div>現代は技術革新によって利便性が高まり、ますます時間の使い方を考えさせられる。人間が本来やるべきこととは何か。高齢者医療や年金ばかり見ていると人間の本分を見失う。単に機械に頼り、依存症を患うのでは、人間までも失いかねない。</div><div>では、人間と機械との違いとはなんであろう。いま、人間を凌ぐ勢いで進化を続ける AI。こいつに対抗できる能力が人間にあるとすれば、それはなんであろう。物理化学者マイケル・ポランニーは、こんなことを主張したという。</div><div><br /></div><div><b>「人は言葉で表現できる以上のことを知っている。」</b></div><div><br /></div><div>AI は獲得した知識のすべてを言語化、あるいは記号化する。だが、人間は言葉にできない多くのことを潜在的に、あるいは無意識的に知っている。このあたりに、人間と機械の境界があるのやもしれん。</div><div>しかし、人間が言葉にできない知識まで言語化する能力を、AI が会得しちまったらどうだろう。進化した AI は人間に命ずるやもしれん。人間どもを排除せよ!と。人間が得意とする排外主義は人間自身へ向かう。生きる権利を主張するなら、死ぬ権利を主張してもいい。裏社会に暗躍する安楽死ビジネスは盛況となり、尊厳死という価値観が見直されていく。しかも、AI の管理下で...</div><div><br /></div><div>ついでに、おまけ... いや、愚痴か...</div><div>長い人生では、経験したくないステージにも遭遇する。本書からは、ちょいと断線するが、高齢化社会における現実的なステージを一つ付け加えておこう。</div><div>仕事と家事の両立で苦労している人も少なくなかろうが、長寿化が進めば、さらに介護との両立も必要となる。まさに、おいらが直面している問題だ。しょんべんまみれで御飯を作り、ウンコまみれでキーボードを叩く。このマルチステージは、かなり手ごわい。仕事が自由に選べる立場として独立し、個人事業主となったが、まさか、介護との両立で機能しようとは。プロジェクトマネジメントの経験が、介護マネジメントにも役立っているとは、なんとも皮肉である。長く生きていれば、どんな経験が役立つか分からない。無駄なステージも、無駄ではなくなるかもしれない。家事を一つのステージとするなら、介護も一つのステージ。そして、三世代分の面倒を見なきゃならん時代の到来か。合理的な家族構成は、むしろ多世帯の方にあるのかも。人間嫌いには辛いが...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-77820998514110064712024-02-04T00:04:00.000+09:002024-02-04T00:04:29.023+09:00"シュルレアリスム宣言・溶ける魚" André Breton 著<div>シュルレアリスムって、なんぞや?</div><div>それは現実か、幻想か。アンドレ・ブルトンは、こう定義する。</div><div><br /></div><div><b>「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。」</b></div><div><br /></div><div>尚、本書には、自動記述による物語集「溶ける魚」が併収され、巖谷國士訳版(岩波文庫)を手に取る。</div><div><br /></div><div><b>「シュルレアリスム宣言」</b>は当初、32 もの小話が群れる<b>「溶ける魚」</b>の序文として書かれたものらしい。こうした作風を<b>「自動記述」</b>と呼ぶそうな。なんじゃそりゃ?</div><div>自動記述といえば、機会学習のような自動化を思い浮かべる。AI が勝手に文章を書いてくれるような。</div><div>だがここでは、むしろ逆で人間が思いのままに書くといったイメージ。自己集中できる場に身を置き、最大限に受容力を高め、自分の天分や才能、あるいは他人のそういったものに囚われず、文学的な思考を一切排除し、ただ書きまくる。その結果、生じる文章とは...</div><div><br /></div><div><b>「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ。」</b></div><div><br /></div><div>言うなれば、人間もまた、物理的に決まった分子構造をもつ機会仕掛けのオートマタのようなもの。そこから生じる文章とは、偉大なる気まぐれのなせる技!とでもしておこうか。</div><div>それは、芸術家が持つ資質でもあろうし、数多の詩人や作家、あるいは、哲学者にも見受けられる。自由精神こそが、古くから人々を熱狂に包み、芸術家を奮い立たせてきた狂気の源。</div><div>そして、映画のあるシーンを思い浮かべる...</div><div><br /></div><div><b>「とにかく書くんだ。考えるな!考えるのは後だ!ハートで書く。単調なタイプのリズムでページからページへと。自分の言葉が浮かび始めたらタイプする。」</b></div><div><b>... 映画「小説家を見つけたら」より</b></div><div><br /></div><div>「溶ける魚」という題目も、なかなか洒落ている...</div><div>自己とは、自分の思考の中で溶けていくものらしい。風景も、出来事も、溶けていく。想像も、希望も、記憶とともに溶けていく。溶けて限りなく透けた世界に、読み手も溶けていく。書き手も、読み手も、同じ世界に飢えた幻想共同体よ。そして、おいらもホットな女性に溶けていく。</div><div>夢想する自己も、幻想する自己も、現実の自己であることに変わりはない。この厄介な自己とどう向き合うか、それこそ自由裁量。ただし、悪用せぬよう...</div><div><br /></div><div><b>「私自身にきいてみたまえ、この序文の、くねくねと蛇行する、頭がへんになりそうな文章を書いてこざるをえなかった本人に...」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-69826511767354153602024-01-28T00:01:00.000+09:002024-01-28T00:01:47.999+09:00"過激にして愛嬌あり -「滑稽新聞」と宮武外骨" 吉野孝雄 著<div>型破りな人間!とは、こういう人を言うのであろう。外骨というペンネームからして世間をなめてんのか。いや、どうやら本名らしい。ほんでもって、トンチ絵図で明治天皇を骸骨になぞらえ、大日本帝国憲法に擬した「頓智研法」なんて出版した日にゃ... 牢獄行き!</div><div>おまけに、クソで書いた「法律」という文字で、今にも臭ってきそうな「糞法」をお見舞いする。</div><div>そして、敢えて問う、役人か悪人か... と。この人物は懲りていない。懲りるどころか、獄中でエネルギーを蓄えてやがる。奴は、次なる獲物を虎視眈々と狙っている。覚悟しておけ、役人ども!</div><div>二百三高地で苦戦が伝えられる中、いま日本は、国を挙げて露軍と戦争の真っ最中でござる。滑稽新聞社は、社を挙げて賂軍との闘いに日夜明け暮れ候...</div><div><br /></div><div>こんなことを、21世紀の今やるとどうであろう。政界や財界に忖度しまくるマスゴミ連中を見てりゃ、時代は大して変わっとらんか。</div><div>宮武外骨の編纂哲学に、滑稽文学の真髄を見る思い。彼は、「上片贅六」をもじって「贅六主義」と称し、六つの贅沢をもって滑稽文学とす。六つの贅沢とは、理想主義に、進歩主義に、実利主義に、楽天主義に、遊び主義に、金儲け主義と、これまた胡椒が効いて... ヘーックション!</div><div><br /></div><div><b>「抑(そもそ)も余輩の本誌を発行するや、只(ただ)人をして笑はしめんと欲するにあらず、余輩には抱負あり本領あり希望あり目的あり、随つて本誌の主義とする所豈に夫れ小ならんや、今若し之を哲学上よりいへば本誌は即ち理想主義と称すべく政治上よりいへば進歩主義、経済上よりいへば実理主義、宗教上よりいへば楽天主義を持し、更に進んで編輯上よりいへば遊び主義にして、発行上よりいへば金儲主義なり、余輩は此の六主義を執らんがために本誌を発行するに至りしなり、以上の六主義之を滑稽文学上よりいへば即ち贅六主義にして贅六文学の語是より起る...」</b></div><div><br /></div><div>地方権力の末端から始めた腐敗への攻撃は、次第に権力の中枢に迫っていく。それも意図的にやったわけではないらしい。末端権力をほじくっているうちに、自然と権力の中核に迷い込んでしまったとか。</div><div>当局は、そんな危険な新聞を野放しにはできない。だが、処罰して封じ込めようとすれば、ますます記事の餌食に。裁判で侮辱罪を主張するにしても、何をやったかが検証され、自らの非を国民の眼に晒すことになる。</div><div>有罪か無罪か、そんなことは知ったこっちゃない。聞屋は、権力が不当に処罰するのを、ただ待っていればいいとさ。そして、監視の眼にも皮肉で応酬!</div><div><br /></div><div><b>「尾行か、ご苦労だね... 吾輩は悪官吏どもを筆誅するが、君達が恐れる社会主義者や共産主義者じゃあないよ。吾輩が共産主義者になると、吐き出すほうが多いから絶対損をする。しかし、君達が共産主義者になったら、いまの月給よりよけいな分けまえにありつけるのじゃあないかね...」</b></div><div><br /></div><div>滑稽新聞は、癇癪と色気が売りものだという。<b>「肝癪を経とし色気を緯とす」</b></div><div>これを、検事が<b>「肝癪は破壊主義であり、色気は淫猥奨励である」</b>などと聖人君子ヅラで主張すれば、これに喰って掛かる。</div><div><br /></div><div><b>「怒りは人間の最も基本的な感情のひとつであり、色気は少々理屈っぽくいえば、生命を生む源泉である。それがいけないというなら、もう人間をやめるしかない。」</b></div><div><br /></div><div>冗談が単なる冗談で終わらず、過激にして滑稽!洒落の中に鋭い諷刺を極めた滑稽新聞も、自殺即ち、自ら廃刊することによって終わりを告げる。それは、権力に殺されたのではなく、自ら死を選んだところにユーモアと自負があるとさ...</div><div><br /></div><div><b>「人は死すべき時に死な々ければ死に勝る恥があると云うが、特種の有機体たる新聞雑誌も亦(また)人と同じく死すべき時に死な々ければ死に勝る恥がある。」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-35424161142876842972024-01-21T00:01:00.001+09:002024-01-21T10:39:07.198+09:00マルチモニタに睨まれて... 十面楚歌!?<div>マルチモニタ環境に病みつき... 四面楚歌、八面楚歌ときて、十面楚歌!?</div><div><br /></div><div>モニタってやつは、向こうから一方的に光を放ち、こちらは受け身でそれを見る。だから、出力装置なのである。</div><div>しかしながら、十面にも囲まれると、向こうから見張られているようで奇妙な気分。入力と出力の役割が曖昧になっていく。</div><div>もはやモニタを並べて監視している場合ではない。今こそ自己監視の主導権を取り戻さねば...</div><div><br /></div><div>さて、システムのグレードアップに伴い、モニタを二画面追加することに。おかげで、仕事環境は理想的!</div><div>とはいえ、いくら理想的な環境を手に入れたところで能力が上がるわけもなく、三日もすれば馴れちまい、贅沢病が疼くばかり。結局は、自己満足の世界か。いや、自己陶酔の...</div><div><br /></div><div><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhmaXWNP8tsWS77ZZ-DUnAegGaepaLnsYfbQk_OHz39sI23VlOlkoMHqa2oTSPOj-jK4sJzsXuH1xyuIpKwVfr6xheOfP4pJIgd6h3Kp3NrrWpJoOhgCTxFPhQAZKB0VRzIWox9V1u_8J3DAJ-WeiNMpM1LBrcAT0Q9fk5BdNd9oAWrZ6BJdF0dsyc2DX1Y/s640/monitor.png" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="340" data-original-width="640" height="170" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhmaXWNP8tsWS77ZZ-DUnAegGaepaLnsYfbQk_OHz39sI23VlOlkoMHqa2oTSPOj-jK4sJzsXuH1xyuIpKwVfr6xheOfP4pJIgd6h3Kp3NrrWpJoOhgCTxFPhQAZKB0VRzIWox9V1u_8J3DAJ-WeiNMpM1LBrcAT0Q9fk5BdNd9oAWrZ6BJdF0dsyc2DX1Y/s320/monitor.png" width="320" /></a></div><div><br /></div><div><br /></div><div>左 8 画面が 1st マシン。右縦 2 画面が 2nd マシン。</div><div>モニタの接続と配置は、上部と下部で 二つのグラフィックボードに振り分け、こんな感じ...</div><div><br /></div><div><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjrHmHFsYS0gqezd4CZLxPogstPi9qKVtxyWDnK65S6GgoVEwgyUm3cxHjtvNKKCOPeKDEboxxi5C086VNst9FVBk1-kxI8R-aMnz-gcAJ-qbq98FK_g8kH9N-MFk0rNPn2OpR6UEOVkbmSH3BYmm6sBU2-pwJ-iS7efguGd_jC-Wda19NAd6SEgkAc8k-c/s480/system.png" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="220" data-original-width="480" height="147" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjrHmHFsYS0gqezd4CZLxPogstPi9qKVtxyWDnK65S6GgoVEwgyUm3cxHjtvNKKCOPeKDEboxxi5C086VNst9FVBk1-kxI8R-aMnz-gcAJ-qbq98FK_g8kH9N-MFk0rNPn2OpR6UEOVkbmSH3BYmm6sBU2-pwJ-iS7efguGd_jC-Wda19NAd6SEgkAc8k-c/s320/system.png" width="320" /></a></div><br /><div><br /></div><div>前回は静音重視であったが、今回は冷却重視!</div><div>まず、ケースは、NZXT を採用し、ファンは前面に三つ、上部に三つ、後部に一つ、合計七つを配置。</div><div><br /></div><div>GPU は、前回、GeForce RTX 2060 四画面 + UHD Graphics 630 二画面という構成で、性能が UHD に引っ張られる感があった。今回、GeForce RTX 4060 二枚挿しで、スッキリ八画面!二枚ともなると消費電力も気になるところ。TDP = 115W に抑えて。ゲームをやるわけではないが、画像処理アルゴリズムの検証をやったりするので、このぐらいの性能は欲しい。</div><div><br /></div><div>マザーボードは、ASRock 好き!RealtTek の Audio Codec 搭載が、我が家のオーディオシステムと相性がいい。</div><div>てなわけで、新マシンの構成は...</div><div><br /></div>
<div><pre> Case : NZXT H7 Flow Black
M/B : ASRock Z790 Steel Legend WiFi
CPU : Intel core i9-13900K
GPU : nVidia GeForce RTX 4060 8GB x2
RAM : 64GB Crucial CT16G48C4OU5 x4
Strage : SSD 2TB Crucial CT2000PSSSD8JP(NVMe)
OS : MS Windows 11 Pro
Monitor : JAPANNEXT JN-IPS315UHDR-HSP 3840x2160 x2 # 新規追加(中央)
PHILIPS 234E5EDSB/11 1920x1080 x6
</pre></div><div><br /></div>
<div>そして、旧マシンを 2nd へ...</div><div><br /></div>
<div><pre> Case : be quiet! DARK BASE 700 BGW23
M/B : ASRock Z390 Extreme 4
CPU : Intel core i9-9900K
GPU : nVidia GeForce RTX 2060 6GB
RAM : 32GB
Strage : SSD 1TB Crucial CT1000MX500SSD4
OS : CentOS Stream 9
Monitor : PHILIPS 234E5EDSB/11 1920x1080
PHILIPS 224E5DSB/11 1920x1080
</pre></div>
<div><br /></div><div><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi1pbMi739jPXNnVHDPoLu7igl2HHvAjKsAMz-BtWAGhs32SpBYFwv-025ncPhGPcaM8HtAkbqSIukS4924pYbh-US7Bf3RSZhsbQWlDm3w8aMnnPnaVMeLDPYgYuZPH5c8rnxWJbHa8pYppU4Wujusf44BGojwOXgLCE4Syblay2mJzmxDMFwHsLWLQ7Xz/s400/pc.png" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="400" data-original-width="360" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi1pbMi739jPXNnVHDPoLu7igl2HHvAjKsAMz-BtWAGhs32SpBYFwv-025ncPhGPcaM8HtAkbqSIukS4924pYbh-US7Bf3RSZhsbQWlDm3w8aMnnPnaVMeLDPYgYuZPH5c8rnxWJbHa8pYppU4Wujusf44BGojwOXgLCE4Syblay2mJzmxDMFwHsLWLQ7Xz/s320/pc.png" width="288" /></a></div><br /><div><br /></div><div>手前に NZXT、奥に be quiet!... 大きさもマッチ!</div><div><br /></div><div><b>1. Windows 11 について...</b></div><div>MS アカウントは必須???まず、こいつをどうするか。UNIX ライクに root アカウントのような位置づけにしようかと思ったが、どうもしっくりこない。いや、まったくの異物!ローカルアカウントに管理者権限を与えておけば、大抵間に合う。Windows 10 では完全に抹殺したが、やっぱり必要な時がありそうな...</div><div><br /></div><div>おいらにとって Windows 11 へアップしたメリットは、Explorer にタブ機能が搭載されたこと、ぐらいかなぁ...</div><div>仰々しいスタートメニューがおとなしくなり、ウィジットが独立したのはいい感じ。しかし、表示位置がタスクバーに引っ張られては、マルチモニタ環境では面白くない。すべてのモニタにタスクバーを表示する気にもなれず...</div><div>ちなみに、Windows 10 で解像度の違うモニタを接続すると、その境界でマウスの移動がつっかえたりする。その点、Windows 11 には「ディスプレイ間でカーソルを簡単に移動させる」という設定があって、これをオンにすると、スムーズに移動できる。ありがたや!ありがたや!</div><div><br /></div><div>Windows 10 で動作したアプリはたいてい OK!</div><div>但し、メモリ整合性で違反するものがあり、セキュリティを緩くすれば動作する。これを OK! と言っていいのかな???</div><div><br /></div><div>モニタの拡大縮小率は、2K 画面は 100%(推奨)、4K 画面は 150%(推奨)をそのまま。推奨は当てにならんかぁ...</div><div>解像度の違うモニタ間でアプリを移動させると、ものによってはウィンドウサイズが奇妙な大きさに変化する。特に動画や画像処理系のアプリで。表示するモニタを決めておけば、いいのだけど。</div><div>また、4K と 2K の混在で不規則な配置ということもあり、アプリによっては表示領域外にウィンドウが配置されて見えない場合がある。当初、機能が制限されるのかと思いきや、GPU のメモリにはしっかりとマッピングされているようだ。一旦、シングルモニタ環境ですべての機能を出現させてメインモニタにしっかりと配置し、それからマルチモニタ環境に戻せば問題なし。マルチウィンドウで構成されるアプリは注意!</div><div>これに気づくのに、10 分ぐらい悩んでしまった。空間認識力を養わねば...</div><div><br /></div><div><b>2. CentOS Stream について...</b></div><div>2nd マシンはサーバー的な位置づけで、CentOS 7 を愛用してきた。8 へのアップグレードを計画していたところ、ショッキングなニュースが飛び込んできたのは周知の通り。この際、乗り換えることに...</div><div>むかーし愛用していたということもあり、Fedora 39 を試したところ、随分と様変わりし戸惑う。マルチモニタ環境が少々不安定なのは相変わらずか。</div><div>なので、CentOS Stream 9 を試すことに。やはり、こちらの方が安定感がある。しかし、Rocky Linux の方が良さそう。なにしろ、CentOS Stream のために、Rocky Linux のコミュニティを参考にしている有り様。おいらは移り気が激しい。千鳥足でハシゴか...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-42489911894032782412024-01-14T00:01:00.001+09:002024-01-14T00:05:54.228+09:00リアリティ依存症...<div>Real と Reality では似ているようで微妙に違う。</div><div>Real は、まさに現実。Reality はリアルっぽい、いや、むしろ仮想現実に近い。</div><div>人間にとって、現実ほど居心地の悪いものはないが、仮想現実となると、すこぶる居心地が良いと見える。</div><div><br /></div><div>この世に合目的なんてものが存在するのかは知らん。学問がそれを求めて深化させていけば、専門化が進むは必定。だがそれで専門バカを量産し、縦割り知識が充満するのでは本末転倒!</div><div>しかしながら、現実に目的を求めたところで詮無きこと。それでも、人生に意味を求めずにはいられないのが人間の性(さが)。</div><div>果敢ない人生を未練がましく生きることこそ、人間の甲斐性というものか。</div><div>現代人は、自らの人生を連想で埋め尽くそうともがき、仮想空間にのめり込んでいく。それは、現実に幻滅したからか...</div><div><br /></div><div>精神の実体が自由電子の集合体なのかは知らん。が、この塊を魂と呼ぶなら、魂ってやつは、真実よりも真実っぽいものに、本物よりも本物っぽいものに引き寄せられる性質があると見える。それは、精神そのものが、リアルよりもリアリティな存在だからであろう。類は友を呼ぶってやつか。</div><div>そして大衆は、リアルから遠ざかり、リアリティに群がる。現実から現実性へ、実存から実存性へ。それで幸せなら結構な話じゃないか!</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-46456356285005542522024-01-07T00:00:00.000+09:002024-01-07T00:00:33.898+09:00アップデート依存症...<div>人生のプレイヤーは、自己のアップデート欲に憑かれる。それは、ソフトウェアのアップデートと何が違うのだろう。ハードウェアのアップデートが叶わぬとなれば、せめてもの足掻き。そして、人生に疲れる...</div><div><br /></div><div>脳内記憶をアップデートしようと、知識を蒐集し、スキルを高めようと必死にもがく。それは、切手や美術品のコレクションと何が違うのだろう。ナチスの高官どもは、ヨーロッパ中の名画を漁り、美術品を露骨に徴収した。戦利品に群がるのも、征服感を満喫するため。人は何かを蒐集せずにはいられない。物も、人も。ブランド品を集めては目の前に並べ、満足感に浸る。書物を集めては本棚を満たし、満足感に浸る。それで、もったいない病が疼けば、しゃーない。書物蒐集家は読書依存症に...</div><div><br /></div><div>相手を見下すために知識で武装すれば、まさに他人依存症。自己の克服が叶わぬとなれば、他人の支配にかかる。そして、自らの優位性を誇示し、目の前の人たちを奴隷化しようとする。奴隷制が廃止されても、人間関係における所有の概念は廃れず。</div><div>しかし、人類はこうして進化してきた。進化の過程では、退化の時期もあったはず。では現在は...</div><div><br /></div><div>アップデート欲は、現状への不満や改善欲から生じる。それは、いわば人間の本能。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体は、比較においてしか欲求を満たせない。現状を見つめるために過去を振り返り、自己を見つめるために他人を観察する。アリストテレスは、うまいことを言う。<b>「希望とは、めざめている夢なり」</b>と...</div><div><br /></div><div>人間ってやつは、一般的に楽観主義者に違いない。取り返しのつかない過去に絶望し、根拠のない未来に希望を託す。</div><div>だが、明日はあさっての昨日に過ぎない。そこに限界を認めれば、妥協を強いられる。それが、自己満足というものか。依存症は自己満足との駆け引きにおいて生じる。依存症を黙らせるには妥協が必要だ。自己満足に抑制をきかせるためにも...</div><div><br /></div><div><b>「希望とは一般に信じられている事とは反対で、あきらめにも等しいものである。そして、生きるとは、あきらめないことである。」... カミュ</b></div><div><br /></div><div>デルポイの神殿には、汝自身を知れ!と刻まれる。自己を知ろうとすれば、自身のアップデート欲をますます旺盛にさせる。そして、わずかでも自己を知り、希望が絶望に変わった時、神は、おとといおいで!とささやく...</div><div><br /></div><div><b>「人間には絶望的なピンチよりももっとタチの悪いピンチがある。そいつはなまじ偽物の希望ってやつがあるというピンチだ。」</b></div><div><b>... アニメ「あしたのジョー」より</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-54119082819830171902023-12-31T00:06:00.004+09:002024-02-13T18:13:23.763+09:00介護歴七年目!ようやく喜びが感じられる境地に...<div>介護とは、日々気が狂いそうになる自分との闘いである。いや、もう狂っちまったか...</div><div><br /></div><div>要介護 4 の婆ヤと要介護 2 の爺ヤと共に、七年目に突入!</div><div>パーキンソン病で難病指定を受けた婆ヤに、アルツハイマー型痴呆症の爺ヤに... 当初、怒りを爆発させてトイレットペーパを投げたりもしたが、今では笑い草。ゲンコツで開けた壁の穴はあえて補修せず、今では語り草。</div><div>そして、婆ヤが逝った。</div><div>これで少しは楽になるかと思いきや、爺ヤがパーキンソン病を患い、要介護 4 に昇格して集約された格好、あまり代わり映えしない。いや、今まで婆ヤが爺ヤを叱って緩衝材になっていたので、それがなくなると辛い!</div><div>それでも、七年目にして辿り着きつつある境地がある。いや、地獄を見るのはこれからだ!</div><div><br /></div><div>婆ヤはもともと穏やかな人だったが、爺ヤは少し怒りっぽい人。老いていくと怒りっぽくなると聞くが、うちの場合、なぜか?どんどん穏やかになり、可愛くなっていく。おいらは、イタズラ好き。息子に可愛いと言われて、どんな気分よ?と言うと照れ笑いがまたいい。もっと喜ばせてやろう!って気分になる。ケアマネジャーさんには、相乗効果でしょう!と励まされる。</div><div>そして疑問に思う。介護士さんたちは、なりたくて選んだ仕事だろうか?と...</div><div><br /></div><div>どんな仕事でも、なりたくてなる、仕方なくなる、成り行きでそうなる... それぞれ事情があろう。おいらの場合、好きで技術屋になった。介護士さんもなりたくてなったとしたら、喜びを感じる部分があるはず。訪問介護士さんや訪問療法士さんたちにも聞くのだが、老人たちの笑顔に救われるという。単純な気持だけど、それが実感できるようになってきたのは、五年を過ぎたあたりであろうか。</div><div>例えば、クリスマスにサンタクロースの帽子をかぶって写真を撮ってもらったり、訪問看護師さんたちにいじられる爺ヤの笑顔は微笑ましい。歯が抜けて尚更。</div><div>チーフ看護師さんには、お宅は介護施設なみの介護ルームに、プロの介護士以上に介護士さんやってますねぇ!と冗談まじりに励まされる。</div><div><br /></div><div>福祉施設が乱立しても、まともな介護士や看護師が雇えなければ機能しない。実際、機能していない施設をちらほら見かける。どの業界も優秀な人の負担は増えるばかり。それで、丸投げ家族の苦情に晒されては、ますます成り手がいなくなる。</div><div>人口の膨れ上がった社会では、ある程度、自前でやっていかねばなるまい。今、介護力が問われている。</div><div><br /></div><div>しかしながら、介護をやっているというだけで、頭ごなしに不幸のレッテルを貼る輩がいる。しかも、こうした方がいい!こうすべきだ!などと安直な判断を下し、大きな悩みに直面している人を追い込む。それで助言した気分になってりゃ、世話ない。そういう輩は視界から抹殺!やたらと絆を強いる社会では、孤独に救われることが多い。ヘルパーを呼べばいい!施設に入れればいい!... などとという助言はまったく役に立たないばかりか、腹が立つ。一般論なんぞクソ食らえ!そして、こっちがクソ食らう。</div><div>考えてみれば、排泄処理さえ克服できればなんとかなる。おまけに痔で、摘便テクを要する。看護師さんは、なんでもやりますよ!って言ってくれるけど、やはり悪い気が... 結局、人間なんてものは単なる熱機関か。喰って排泄するだけの存在か...</div><div><br /></div><div>介護と仕事の両立はすこぶる難しい。だが、不可能ではない。しょんべんまみれで御飯を作り、ウンコまみれでキーボードを叩く。このマルチタスクは、なかなか手ごわい。介護マネジメントは、プロジェクトマネジメントの要領に似ている。</div><div>我が家は、2階がオフィス、1階が介護ルーム。おいらの場合、個人事業主で周りの理解もあり、かなり恵まれている。介護保険で適用される住宅改修を利用し、玄関や風呂場やトイレに手すりを設置。家を建てる時は介護なんてまったく想定していなかったが、理学療法士さんによると、廊下が広く、バリアフリーで、わりと介護向けの構造になっているらしい。</div><div>福祉用具は、車いす、シャワーチェア、トイレとベッドに補助手すり、あちこちに突っ張り棒と、ジャングルジム状態!</div><div>あとは、ナースコール、監視カメラ、音声感知、人体検知と、24 時間稼働中!</div><div>介護自体は大変だが、介護システムの構築は結構楽しい。おかげで、福祉関係者の見学コースに...</div><div><br /></div><div>外部環境にも恵まれている。通所介護や病院など同系列の医療法人を利用し、ケアマネージャさんをはじめ、訪問介護士さん、訪問看護師さん、訪問理学療法士さん、栄養士さん、福祉用具屋さん、お医者さん... ついでに食堂や売店のおばさんたちの連携が素晴らしい。さらに、訪問歯医者さんに、訪問美容師さんに...</div><div>プロとはいえ、いつも笑顔で彼らの仕事ぶりには頭が下がる。感謝以外に言葉が見つからない。医療現場といえば、たいてい医師が主導する立場にあろうが、逆に、介護士さんや看護師さんたちが率先し、お医者さんは後ろから支えているような位置づけ。</div><div>こうした組織構造は、実に民主主義的で、上の命令がなければ動けない大企業や官僚組織とは違う。彼らこそ日本企業の組織の在り方、意識の在り方を問うているような気がする。</div><div>延命医療はいらない。一流医療もいらない。いかに穏やかに人生を完結させられるか、これが最大の関心事である。</div><div><br /></div><div>おまけに、ボケ老人の頭を少しばかり活性化させようと、プロジェクタで大画面動画を上映中。コンセプトは、動画を壁に同化させ、絵画のように鑑賞す!</div><div>空間心理として、境界線がしっかりとしたテレビやスクリーンなどで繊細な大画面を眺めていると、鑑賞者を緊張させ、疲れさせてしまうところがある。</div><div>老人施設では映画やドラマを上演したりするが、痴呆症患者は内容についていけず、すぐに眠ってしまう。どうせ眠っちまうなら、気持ちよくなる映像を流したらどうだろう!と考え、例えば RelaxationFilm.com を... 実際、海外の風景を流していると、これは近くのどこどこの山だ!どこどこの川だ!などと、ちょっとしたデジャヴのような感覚に見舞われるようである。物理学的な観点からしても、自然風景というものは、地球上のどこでも大した違いはないのかもしれない。</div><div>そして、認知症予防学会のお医者さんたちと連携してモニタリング中!</div><div>ついでに、介護する側も癒やされる、今日このごろであった...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-57619199060828006712023-12-24T00:01:00.000+09:002023-12-24T00:01:11.438+09:00"外骨という人がいた!" 赤瀬川原平 著<div>こんな時代に、こんな人がいたとは... 今宵は、明治の時代へタイムスリップ!</div><div>日露戦争の機運が高まり、日本国中に軍国主義が充満していく中、<b>「滑稽新聞」</b>なる刊行物が創刊されたそうな。タイトルからして、反骨精神に満ち満ちていることが伺え、天の邪鬼にはたまらん。</div><div>書き手の名は、宮武外骨。外骨というペンネームも薄気味悪いが、どうやら本名らしい。この名で説教され、怒鳴られでもすれば怖そう。自分の名前が珍しかったり、面白かったりすると、馬鹿にされたり、からかわれたりと、幼き頃から捻くれた人生を背負わされることがある。おいらも珍しい名字のせいで、ずいぶんと捻くれちまった。子供は残酷なものだが、大人はもっと残酷!陰険で、策謀的で、おまけに政治的で...</div><div><br /></div><div>ここでは、言論の自由というものを改めて考えさせられる。言葉遊びに、パロディに、文字のツラで世界をぶった切る。こき下ろす相手は、批判精神を失った新聞屋に、ユスリ・タカリがまかり通る財界に、賄賂の警察署長さんに... お上に至っては、テんで話にならぬ大馬鹿者!テ柄にもならぬ事を威張る!などと、そのしつこさはケタ外れ。伊藤博文や明治天皇にも臆することなく、露骨即物精神をぶちまければ、案の定、投獄される羽目に。入獄四回に、罰金と発禁で二十九回と...</div><div>当時の検閲の厳しさや権力批判への圧力は、21世紀の現在とは比べ物になるまい。だがそれでも、誹謗中傷が弱者を襲い、政界や財界に忖度するマスゴミといった構図は、あまり変わらんようだ。言論の自由を盾にすれば、裁判も、牢獄も、同じことなのやもしれん...</div><div><br /></div><div>赤瀬川原平は、遺品の眼鏡や着物を拝借して外骨に扮し、その書きっぷりも、当人が乗り移ったかのように、えげつない。反骨精神に満ちた外骨を紹介しようと、外骨の知識に飢え、骸骨になっちまったか。そして、こう言い放って外骨講義を始める...</div><div><b>「人類はみな外骨の話を聴く権利がある!」</b></div><div><br /></div><div>外骨先生の主著には、<b>「スコブル」</b>という雑誌もあるそうな。スコブル念入りに、スコブル苦心し、スコブル猛烈で、スコブル慢心で... それが、スコブル面白いか、スコブルつまらないかは別にして、スコブル馬鹿げた表現力に、スコブル吸い込まれて、スコブル爽快!とくれば、読み手の方が、スコブル変になりそう。</div><div>外骨先生のスコブルぶりは、文面だけではない。挿絵や図板の存在感が、これまたスコブル強烈!絵は文章の背景にあるだけでなく、それ自体が言語機能をもってやがる。</div><div>そして、外骨講義は、「滑稽新聞」に掲載される図板をスライドで投影しながら、効果音とともに流れていく。しかも、妙にエログロ!R-18 指定か...</div><div><br /></div><div>例えば...</div><div>ケツの穴が小さい... という言葉があるが、まさに、ケツの穴の大きさを比較しながら、なんと下品な官僚批判!</div><div>カシャン!</div><div>糞で書いた「法律」という文字は、いかにも臭ってきそうな。司法界には、糞法で溢れているってか。</div><div>カシャン!</div><div>露と露とが舌でもって接する。接吻とはそうしたものだそうな。そして、表面張力が破れちまった日にゃ、とろ~り合体!お子ちゃまの目に触れぬよう...</div><div>カシャン!</div><div><br /></div><div>漢字論が飛び出せば...</div><div>「婆」という字を「波」+「女」に分解して、時代の荒波にもまれてきた女性ってか。</div><div>カシャン!</div><div>「口」から「耳」へ「囁く」のに、男から女へ向かうのが鉄則らしい。逆方向は、なんで禁句なの?</div><div>カシャン!</div><div>「襖」の「奥」には「衣」がどっさり隠されているとさ。衣服の整い具合で、その家の格式が決まるのかは知らんが。</div><div>カシャン!</div><div>ついでに本書にはないが、「信者」と書いて「儲かる」ってのはいかが。「酒」に「落ちて」「お洒落」ってのもいかが。いや、棒が一本足らんよ。</div><div>カシャン!</div><div><br /></div><div>言葉遊びでは、隠語も、禁語も、なんでもあり!</div><div>「身体で飯を食ふ人」シリーズでは、口で飯を食ふ人... 落語家、目で飯を食ふ人... 鑑定家、鼻で飯を食ふ人... 香道家、喉で飯を喰ふ人... 義太夫、あたりで軽く流し、腕で飯を食ふ人... 無頼漢(ゴロツキ)、他人の耳で飯を食ふ人... 音楽家、他人の目で飯を食ふ人... 眼科医、とくれば、他人の肛門で飯を食ふ人... 痔疾医、とグロテスクに...</div><div>カシャン!</div><div>社会は分業と言われるが... 看病する役に、人を殺す役に、人を弔う役に、人を焼く役に... と軽く流せば、子を仕込む役に、子を孕む役に、子をおろす役に、子を挹(く)む役に、とドぎつくなっていき、出征する役に、戦死する役に... と、すべての役が等間隔で静かに流れていく。</div><div>カシャン!</div><div><br /></div><div>思考の動きをそのまま言葉にすると、こうなるのだろうか。その場限りの使い捨て表現のオンパレード!極めて消耗的な力量でありながら本質的!お洒落にフランス語風に言えば、シュールレアリスムか。いや、スーパーモダンか。いやいや、あまりに規格外でスコブル恐ろしい...</div><div><br /></div><div>さらに、外骨先生と赤瀬川氏の対談も見逃せない。もちろん架空だ。</div><div>外骨先生をパラノ人間とすれば、精神だけは元気なもんで!</div><div>これに負けじと、赤瀬川氏がスキゾ人間を自称すれば、<b>「いいか、本当のスキゾ人間ってのは体なんてバラバラにしてなくしちゃってるもんだよ!」</b>と反駁を喰らう。</div><div>パラノとは、パラノイア、つまり偏執人間。スキゾとは、スキゾフレニア、つまり分裂型人間。類は友を呼ぶと言うが、パラノ人間とスキゾ人間は、すこぶる相性がよいとみえる...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-389522908902557082023-12-17T00:00:00.001+09:002023-12-17T21:18:48.038+09:00"日本美術応援団オトナの社会科見学" 赤瀬川原平 ☓ 山下裕二 著<div>小雨降りしきる中、古本屋で宿っていると、冒頭の一文に誘われる。凡人は、日常の幸せにも気づかないもの。観察力を研ぎ澄まし、情緒を感じながら... そんな生き方をしたい、と思いつつも...</div><div><br /></div><div><b>「日本美術応援団の対象とするものは、その名の通り日本の美術である。それがなぜ社会科見学なのか。それは、時として社会も美術だからである。たとえば国会議事堂というもの。その中では与党と野党が口角泡を飛ばして論争をしている。その論争の陰で、居眠りしているものもいる。それを報道陣が撮影していて、書記官は書記官でせっせと記録をとったりしている。そんなリズムの響き合いに、美術の可能性が秘められている。かどうか、とにかくそのみんなに共通していることは、給料をもらっているということである。金のためだけではない、ということはあっても、この世で金は重要である。それが社会というもので、その社会のてっぺんにある国会議事堂、これがふと、雪舟の水墨画に見えることはないだろうか...」</b></div><div><br /></div><div>アリストテレスは、人間を「ポリス的動物」と定義した。ポリス的という言葉は、様々な解釈を呼ぶが、精神的に最高善を求める共同体、その一員としての合目的的な存在といった高尚な意味も含まれよう。</div><div>しかし、人間ってやつは、どんな社会であろうと、その集団性と無縁で生きられるほど強くはない。社会と何らかの関係を持ちながら生きているとすれば、日々社会勉強ということになる。これぞ、オトナの社会科見学!</div><div>そして、介護士の振る舞いや理学療法士の身体の使い方にも、美術を観る眼が養われるやもしれん。ひょっとしたら、御老体の排便姿に向けた怒りの眼差しにも...</div><div><br /></div><div>日本美術応援団を結成するのは、この二人。超前衛派を自称する美術家赤瀬川原平と、美術史家山下裕二。現実主義者は、何事も手に触れてみないと気が済まないと見える。そのはぎゃぎ様はまるで修学旅行!それで、暗黙に節度を守りなさい!というのが、オトナの態度というものか。</div><div>しかし、童心に返らないと、純真な美術鑑賞は難しい。ましてや脂ぎったオトナには...</div><div><br /></div><div>本書は、国会議事堂に近代美術を見、東大総合研究所博物館に文化資源廃棄物を見、東京国立博物館に侮れない常設展を見る。ド素人の美術鑑賞家は、大々的に宣伝される展示会の方に目がいってしまうが、真の美術鑑賞家は日頃の展示品に愉悦を覚えるらしい。</div><div>そして、観光客で賑わう鎌倉ではあえて一歩路地に入って静寂に浸り、長崎では歴史と商業のチャンポン都市を探訪し、奈良では世界遺産の宝庫ぶりを堪能する。美術の眼で眺めると、当たり前のように見えた社会も面白く見えるから、摩訶不思議!</div><div><br /></div><div>しかしながら、すべてを肯定的に観るのでは、芸がない。現物主義なら予備知識なしで臨みたいが、新進気鋭の作風だから注目を、最新の理論だから勉強を、というのでは、せっかくの好奇心も萎える。国宝などと言われて臨む態度もあろうが、天邪鬼な性癖が条件反射的に漏らす。なんで、こいつが国宝なの?って。義務教育で教わった歴史建造物にも疑いの眼が...</div><div>例えば、世界遺産に登録される法隆寺は、長安からの直輸入品だそうな。こいつを、日本の心!などと崇めれば、くすぐったくもなる。戦時中、坂口安吾はこう漏らしたそうな。<b>「法隆寺が焼けてしまったら停車場にすればいい。それよりも、バラックに灯るあかりのほうが美しいんじゃないか!」</b>って...</div><div>とはいえ、本場中国に遺らず日本に遺ったということは、歴史的建造物であることに違いはない。文化ってやつは、計り知れぬものがある。原産地で評価されないものが輸出先で評価され、逆輸入されることも。輸出先の文化とうまく融合して、独自の文化を育むことも... </div><div><br /></div><div>芸術家も計り知れぬ、生き急ぐタイプが多い。だから、自画像を描かずにはいられないのか。芸術作品には、主語が重要だ。いい意味での独裁でなければ...</div><div>しかし、やたらと自己アピールし、存在感が強調される社会は、やはり息苦しい。多情多感な芸術家となれば、尚更。</div><div>絵を描くことが、極楽となるか、地獄となるか。芸術は長く、人生は短し... と言うが、芸術家も泡沫の如くでなければ、やってられんらしい。</div><div>おまけで、本書には「羅漢応援団」も結成されるが、狩野一信の「五百羅漢図」にも芸術家のアドレナリンを感じ入り、生きる勇気を与えてくれる...</div><div><br /></div><div>ところで、<b>「社会人」</b>という表現は、日本独特のものだそうな。そういえば、英語に訳してもピンとこない。成年や未成年といった用語は、海外でも法律で規定されるが、社会人となると、責任ある立場、自立した個人といった意味も含まれる。それで、すべて自己責任で!と、人のせいにしてりゃ、世話ない。</div><div>実際、子供じみた大人もいれば、大人っぽい子供もいる。駄々を捏ねる大人に、成熟した言葉を発する子供に、どちらも見ててくすぐったくなる。</div><div>しかし、こうした対照的な立ち位置が逆転しちまうと、それが芸術の要素になるから面白い。もともと芸術とは、人間模様を滑稽に炙り出し、それが芸術の域に達してきたところがある。世阿弥の「花伝書」にしても、モノマネや滑稽芸に日本の伝統芸能の源泉を見る。おそらく人間を自然に描くと、そうなるのだろう。人の心知らずして何が芸術か...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-52838503985290743802023-12-10T00:00:00.000+09:002023-12-10T00:00:14.005+09:00"マクロプロス事件" Karel Čapek 著<div>原題 "Vĕc Makropulos"</div><div>Vĕc(ヴィエッツ)という単語には、なんとも掴みどころのない意味が含まれているようだ。翻訳機にかけるとチェコ語で「もの」という訳語がひっかかるが、もっと曖昧で思わせぶりな... あえて訳すなら、マクロプロス家に伝わる、意味ありげなモノ(物)... といったニュアンスであろうか。</div><div>これの邦訳版の表題は、いろんなパターンを見かけるが、どうもしっくりこない。秘密、秘法、処方箋... では、あまりに直接的で翻訳しすぎの感もある。分かりやすさを求める風潮では、その方がいいのかもしれんが、せっかくの思わせぶりが... 翻訳界でも悩ましい表題のようである。</div><div>本書は、「事件」としている。うん~... これが比較的合ってそうか。</div><div>そして物語は、遺産相続事件を発端に、美貌の女性の正体をめぐってサスペンス風に展開され、モノ(封印書)の中身が明らかにされた時、終幕を見る...</div><div>尚、田才益夫訳版(八月舎)を手に取る。</div><div><br /></div><div>時は、三百年ほどさかのぼる。16世紀、神聖ローマ皇帝ルドルフは、侍医に不老不死の秘薬を所望した。侍医が秘薬の完成を告げると、試しにお前の娘に飲ませてみぃ... すると三日三晩、娘は高熱で意識を失い、侍医は皇帝の逆鱗に触れ、投獄されたとさ。それから三百年も生きてきたなんて、どうやって証明するの?</div><div>そして、不老不死の処方箋が焼かれた時、やっと死ねるわ!</div><div><br /></div><div><b>「老いしもの、もはや来たらず!栄華の夢も、灰燼に帰するなり!」</b></div><div><br /></div><div>人類は、何千年も前から不老不死の妙薬を夢見て、迷信とともに様々な処方箋をこしらえてきた。三千年紀が幕を開けた今日でも、長寿で、いつまでも健康でいたいと切望して止まない。人生を十分に謳歌するには、どのくらい生きればいいというのか...</div><div>医学は進歩し、寿命は着実にのびていく。幸若舞「敦盛」には、人間五十年... と詠われ、現在は人生百年時代と言われる。健康でいられるなら、いつまでも生きていたい。不老不死なら、これにまさる希望はない。</div><div>しかし、だ。長く生きれば、それだけ有意義な人生が送れるだろうか。それだけ幸せな人生が送れるだろうか。それだけ人間というものを悟れるだろうか...</div><div><br /></div><div><b>「死後の生、霊魂の不滅への信仰は、人生の短さにたいする激しい不満の表明以外の何でありましょう...」</b></div><div><br /></div><div>夭逝した偉人は多い。病死、戦死、刑死、獄中死、自殺... 二十歳で死を覚悟した大数学者は、理論の着想に、僕にはもう時間がない!と走り書きを添えた。</div><div>死と向かい合って、ようやく生と向かい合えるということもあろう。生の有難味を、死が教えてくれるということもあろう。生を浪費する人間には、時間と死の概念が必要だ。</div><div>セネカは、人間のどうしようもない性癖の一つ「怒り」を抑える方法として、果敢ない死を思え!と説いた。ガンジーは、明日死ぬと思って生きよ!不老不死だと思って学べ!と説いた。死と隣合わせだから、生にも迫力がでてこよう。死を覚悟するから、覚悟した生き方もできよう。</div><div><br /></div><div>人間社会は、奇妙なものだ。死がありふれれば、生を崇め、生がありふれれば、死に思いを馳せる。生死にも、希少価値という経済原理が働くようだ。</div><div>誰とでも繋がろうとするソーシャルメディアが猛威を振るう時代では、むしろ煩わしい関係を徹底的に切っていく方が楽ということもあろう。巷では、孤独死が不幸の象徴のような言われようだが、実は、孤独死こそ理想的な死ということはないだろうか。</div><div>老化にも意味がある。死を覚悟する時間を与えてくれるのだから。痴呆症にも意味がある。歳をとる恐怖心を和らげてくれるのだから。</div><div>何百年も生きられる時代となれば、人口問題と直結し、少子化問題などと言ってはいられまい。皮肉なことに、戦争や疫病が人口増殖の抑制に寄与している。あとは、安楽死ビジネスが盛況となるか。あるいは、地球外への移住を加速させるか。やがてヒューマニズムが命ずるやもしれん。そろそろ死ななきゃならん!と...</div><div><br /></div><div><b>「いいかね、ほとんどの有用な人間の使命は、ひとえに、無知なるがゆえに可能なのだ!」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-50605351486847164442023-12-03T00:03:00.002+09:002023-12-03T10:57:01.875+09:00"R.U.R. ロボット - カレル・チャペック戯曲集I" Karel Čapek 著<div>カレル・チャペックの小説「山椒魚戦争」は、知能の発達したオオサンショウウオが、やがて人類の総質量を上回り、知能をも上回り、地上の支配者であった人類を滅亡させちまうという物語であった(前記事)。人類が様々な種を絶滅させてきたように...</div><div>自然界で進化した生物が発見されると、これを人身売買のごとく商品化し、繁殖までさせて労働力にしちまう。シンジケートまがいの経済システムは、まさに人類の発明品!</div><div><br /></div><div>ここでは、人間が大量生産したロボットが、同じ役を演じる。R.U.R. とは、ロッサム・ユニバーサル・ロボット社。当社が開発した万能ロボットは、人間よりも安く、完全に従順な労働力を提供致します!</div><div>こいつぁ、人造人間か!バイオノイドか!人間を装うなら、少しは気違いじみていなくちゃ...</div><div>尚、本書には、二つの戯曲「ロボット」と「白疫病」が収録され、栗栖継訳版(十月社)を手に取る。</div><div><br /></div><div>1. R.U.R. ロボット</div><div>「ロボット」の語源は、この物語に由来するそうな。元々はスラブ語らしいが、チェコ語の "robota" は賦役、苦しい労働を意味するという。強制労働のための機械というわけか。</div><div>この物語は、アラン・チューリングやフォン・ノイマンが提起した問題にも通ずるものがある。それは、コンピュータが意思を持ちうるか?という問い掛けである。</div><div><br /></div><div>しかし、これは本当にロボットの物語であろうか。産業革命以降、世界中に工業化の波が押し寄せ、大量生産の時代ともなると、機械的な仕事が急激に増え、否応なしで命令に従う労働者が求められる。やがて植民地主義が旺盛になり、なりふり構わず人種や民族も一緒くたに労働力の集約にかかる。これぞ、生産合理性!</div><div>組織に隷属し、人間に隷属し、社会保障制度に縋る人々。自分で思考することを放棄し、情報を鵜呑みにする大衆。生産と消費を高めることでしか経済が回らない社会では、その成員がロボット化することで経済合理性がまかなわれる。うんざりする仕事は誰かに押し付けて、われわれは楽をしようではないか。そんな理想郷に思いを馳せるも、意志を持っちまった徒党が、そんな地位にいつまで甘んじてくれるやら。</div><div>世間には、非人道的な人間がわんさといる。これからの社会は、ロボットらしくないロボットも増えていくだろう。それは、 人工知能が暗示している。</div><div>そして、ロボットに戦争というものを教えてしまったら最後、人間よりもはるかに合理的な方法でやってのけるだろう。いや、わざわざ教えなくても、人間を観察していれば、いずれ知ることに...</div><div><br /></div><div><b>「われわれは人間の弱点を知ったのです。人間のようになろうと思えば、殺しかつ支配せねばなりません。歴史を読むがいいのです!人間の書いた本を読むがいいのです!人間になろうと思えば、支配しかつ殺さねばなりません!」</b></div><div><br /></div><div>2. 白疫病</div><div>熱病にかかったように軍備拡張が広がる世界で、今にも戦争をおっぱじめようとしている元帥がいる。その時、新たな疫病が蔓延!これはペストではない。ペストは全身が黒くなって死んでいくが、この病は白くなった肉の欠片がぼろぼ落ちていく。</div><div>しかし、ナショナリズムの熱病も同じことやもしれん。戦争は人口増殖の抑制に寄与する。疫病もまた...</div><div><br /></div><div>そんな最中、貧しい人々を献身的に診察していた一介の開業医が、この白い病の治療薬を発見する。侵略戦争をきっぱりとやめ、恒久的な平和条約を結ぶ国にのみ、この治療薬を提供致します!</div><div>医者の倫理からすれば、どんな患者にも治療薬を提供するのが道理だが、あえて政治家の論理を通す。平和テロか!</div><div>元帥は、医者の要求を頑固として拒否し、愛国心に燃える大衆がそれを後押し。人間ってやつは、一旦、権力欲に憑かれると、民衆の苦痛を見ても、立ち止まる勇気が持てなくなる。そして、大衆もまた熱狂から抜けられなくなる...</div><div><br /></div><div><b>「きみは、平和は戦争にまさる、と信じているが、私はね、勝った戦争は平和にまさる、と信じている。戦争に勝つ機会を国民から奪う権利など、私にはないのだ。戦死者たちの血によってこそ、ただの国土が祖国になるのだからね。戦争あってこそ、人間の集まりが国民になり、男たちが英雄になるのだよ。」</b></div><div><br /></div><div>こう主張する元帥も、いざ白い病が自分に感染して死が迫ってくると医者の要求を受け入れ、治療薬を提供してもらうことに。だが、医者が元帥邸へ治療薬を届ける途中、大衆にリンチされて命を落とす。この国賊め!元帥万歳!戦争万歳!いつの時代も、大衆(体臭)に付ける薬はない...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-53713864352229698352023-11-26T00:00:00.000+09:002023-11-26T00:00:16.917+09:00"山椒魚戦争" Karel Čapek 著<div>カレル・チャペックは、チェコの作家...</div><div>チェコというと、重々しい歴史を背負った印象がある。それもステレオタイプであろうが、歴史を遡ると、やはり重々しい。フランツ・カフカの場合、ちと異質な世界を魅せてくれたが、暗い感触は、やはり重々しい。</div><div><br /></div><div>首都プラハは度重なる戦渦に巻き込まれてきた。神聖ローマ帝国の時代には「黄金のプラハ」と形容されるものの、「プラハ窓外放出事件」を発端に、ローマ・カトリックと改革派の衝突から三十年戦争に至る流れがあり、この地にプロテスタントの源泉を見る思い。しかも、チェコ語禁止などの文化弾圧を受けてきた。</div><div>ナチス占領下には、親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復として、リディツェ村の住民が老若男女問わず殺害され、村の存在そのもが抹殺された。戦後、リディツェと名のる町があちこちに出現することに...</div><div>東西冷戦時代には、「プラハの春」と呼ばれる変革運動が、ソ連主導のワルシャワ条約機構に弾圧され、チェコスロバキア全土を占領下に置いた。</div><div>チェコという地には、自由を求める不屈の精神が育まれると見える。本書も、その影を引きずるかのように...</div><div><br /></div><div>本物語が諷刺であることは、疑いようがない。実際、ナチスがプラハを占領した時、いち早くゲシュタポがチャペック邸にやってきたそうだが、幸か不幸か、チャペックは既に病死していたそうな。</div><div><br /></div><div>さて、人類がまだ知らぬ未開の地に、高度の知能を備えた生物の世界があるとしたら...</div><div>科学的に地球の構造を外観すると、中心には核があり、その周囲にマントルの層があり、その上に地殻が乗っかっていることになっている。だが、それだけだろうか。この地球で、人類にだけ与えられたとされる進化エネルギーが、他の生物にも... という可能性はないのだろうか。物語は、海底奥深くに棲む黒々とした生物との遭遇に始まる。山椒魚に似た姿から魔物と怖れられたが、実は高度な知能の持ち主であったとさ...</div><div>尚、栗栖継訳版(ハヤカワ文庫)を手に取る。</div><div><br /></div><div>生物の種が、この地上を支配するための要件とはなんであろう。知能か。数の原理か。宇宙の重力法則に従えば、一つの要件として、おそらく種全体の総質量が物を言うであろう。アリやハエがいくら繁殖したところで、人類の総質量には遠く及ばない。文明の発達が人口爆発を引き起こし、地上の支配者へ加速させた、ということは言えそうだ。人類に、その資格があるかは知らんが...</div><div>では、人類の総質量を上回るほどに繁殖した生物がいたとしたら。しかも、人類に劣らず知能を発達させて...</div><div><br /></div><div><b>「もし人間以外の動物が、文明とわれわれの呼んでいる段階に達したとき、人間と同じような愚行を演ずるだろうか。同じように、戦争をやるだろうか。同じように、歴史で破局を体験するだろうか。トカゲの帝国主義、シロアリのナショナリズム、カモメあるいは、ニシンの経済的膨張を、われわれはどんな目で見るだろうか。もし人間以外の動物が、『知恵があり数も多いおれたちにのみ、世界全体を占拠し、すべての生き物を支配する権利があるのだ』と宣言したら、われわれはどう言うだろうか。」</b></div><div><br /></div><div>生産と消費を高めることで経済が成り立つ世界では、労働力こそが鍵。文句も垂れず、従順な働きアリは貴重な存在だ。人間は人間を奴隷にしてきた。</div><div>一方で、珍種は金になる。しかも、進化した山椒魚は賢く、うまく飼いならせば、人間以上に儲かりそうだ。奴隷商人はどこにでも湧いて出る。動物愛護団体の目を掠め、山椒魚シンジケートが裏社会を牛耳る。選りすぐりの山椒魚は売られ、買われ、交尾させられ、人類をはるかに超える数に繁殖させられる。</div><div>しかし、賢い山椒魚は奴隷の代役だけでなく、ご主人様の代役も務まるときた。そして、奴隷叛乱のごとく人間に襲いかかる。</div><div>戦争となると、人間を相手にする方が、はるかにやりやすい。同族同士であれば、相手が何を考えているかも分かるし、なにより互いに殺し合うのは人間の得意とするところだ。</div><div>21世紀ともなれば、気候温暖化で海面が上昇し、山椒魚の水陸両用体質の方が優位となろう。山椒魚相手では掴み合いにもならないし、海中に向かって銃剣突撃もできない。人類の肉体も海中で生きられるまでに進化させなければ...</div><div>そもそも、山椒魚は戦争というものを知らない。だからこそ、合理的に支配し、合理的に抹殺する手段を考案できる。最終的解決ってやつか。知能の発達は恐ろしい。実に恐ろしい。もはや人類は、AI の支援を仰ぐほかはない。それで、AI の奴隷になってりゃ世話ない!</div><div><br /></div><div><b>「現在、地球上には、文明化した山椒魚が、約二百億住んでいる。それは全人類のほぼ十倍である。このことから、生物学的必然性と歴史的論理によって、次の結論が出てくる。すなわち、山椒魚は、抑圧されているがゆえに、解放されねばならず、同質であるがゆえに、団結せざるを得ず、そしてこうして、世界始まって以来最強の勢力になった暁には、必然的に世界の支配権を握らざる得ない、ということである。そのとき、山椒魚は人間の存在を許すほどおろかだ、と諸君は思うだろうか。征服した民族や階級を絶滅させないで、奴隷にしたことによって、常におかした人間の歴史的誤りを、山椒魚がくりかえす、と諸君は思うだろうか。人間はエゴイズムから人間と人間とのあいだに新たな差別を、永遠につくり出し、その後、寛容の精神と理想主義から、ふたたび、そのあいだにかけ橋を渡そうとしたのだが、山椒魚も、そのような誤りをくりかえす、と諸君は思うだろうか。」</b></div><div><br /></div><div>そしてついに、この長編の最終章で、著者は自問自答しながら山椒魚(サラマンダー)の正体を論じて魅せる...</div><div><br /></div><div><b>「チーフ・サラマンダーは、人間なんだ。本名は、アンドレアス・シュルツといってね。第一次大戦当時は、曹長だったんだ。」</b></div><div><br /></div><div>チーフ・サラマンダーとは、山椒魚総統のこと。その総統が第一次大戦で曹長だったとなると。盲目的に襲いかかる山椒魚どもはナチス軍団か。</div><div>ノルマンディー沖でフランス巡洋艦が山椒魚に魚雷攻撃を喰らえば、U ボートの襲来だ。ただ、海の怪物だけあって、航空機の操縦は苦手と見える。</div><div>山椒魚どもは、哲学や芸術というものを知らない。しかし、ボスのお気に入りとなれば、それを収集にかかる。ナチス高官どもの絵画略奪のごく。</div><div>そして、本能的な虚栄心と征服欲を剥き出しに山椒魚ダンスに熱狂し、最大のエロチックなイリュージョンを演じる...</div><div><br /></div><div><b>「山椒魚には、もちろん精神はない。その点、人間に似ている。」</b></div><div><b>... G・バーナード・ショー</b></div><div><br /></div><div><b>「マルクス主義者でさえなければ、山椒魚でも、なんでもよい。」</b></div><div><b>... クルト・フーバー</b></div><div><br /></div><div><b>「きょう私は自作のユートピア小説の最後の章を書きおえた。この章の主人公はナショナリズムである。すじはまったく単純で、世界ならびに人間の滅亡。これは論理のみに基づいた、なんともうとましい一章である。そう、しかし、こういう結末のつけようしかないのである。人類を滅ぼすのは、宇宙の災害ではまずなく、国家・経済・面子といったもろもろの要因だけなのだ。諷刺作品を書くのは、人間が人間たちに向かって語ることのできる最悪のことである。これは、人間たちを非難するのではなく、彼らの実際の行動と思考から単に結論を引き出すだけのことなのである。」</b></div><div><b>... 付録「異状なし」より</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-60713610204118490682023-11-19T00:00:00.000+09:002023-11-19T00:00:49.590+09:00壁に動画を同化させ、絵画のように鑑賞す... by EH-LS800B<div>介護ルームの壁を賑やかにし、ボケ老人の頭を少しばかり活性化させようと美術品を物色する。いくつか候補が上がり、うん~... なんとか簡単に差し替えられる方法はないだろうか... などと思案していると、プロジェクタという選択肢を思いつく。おかげで、汚れた壁をせっせと掃除する羽目に...</div><div><br /></div><div>コンセプトは、<b>「動画を壁に同化させ、絵画のように鑑賞す!」</b></div><div>空間心理として、境界線がしっかりとしたテレビやスクリーンなどで繊細な大画面を眺めていると、鑑賞者を疲れさせてしまうところがある。第一の目的は、リラクゼーション!</div><div>老人施設では映画やドラマを上演したりするが、痴呆症患者は内容についていけず、すぐに眠ってしまう。どうせ眠っちまうなら、気持ちよくなる映像を流したらどうだろう... と考え、例えば、RelaxationFilm.com あたりをターゲットに。実際、海外の風景を流していると、これは近くのどこどこの山だ!どこどこの川だ!などと一種のデジャヴのような感覚に見舞われるようである。物理学的な観点からしても、自然風景というものは、地球上のどこでも大した違いはないのかもしれない。</div><div>そして、認知症予防学会のお医者さんたちと連携してモニタリングしているうちに、うちでも思い切って投資してみることに...</div><div>ついでに、痴呆症を相手にしていると、怒ることも、押し付けることもできず、こちら側のストレスもほぐすことに...</div><div><br /></div><div>まず、要求仕様は...</div><div><ul style="text-align: left;"><li>設置場所は部屋の隅っこに固定したい。専門用語で「超短焦点」と言うらしい。プロジェクタの位置ズレはかなりシビアで、その度に調整するのでは介護ストレスを増幅させちまう。</li><li>明るさは、3000 lm 以上。我が家の介護ルームは西日がきつい...</li><li>解像度は、4K 相当。大画面ではある程度の画質が欲しい。</li></ul></div><div>すると、EPSON EH-LS800B が浮上する。</div><div>超短焦点に、4000 lm に、4K 対応に... モノはいい!だが、コスパが悪い!</div><div>画像性能だけなら半額以下で買えそうだが、超短焦点は外せない。</div><div>おかげで、真面目に NAS 環境を検討してみたくなる、今日このごろであった...</div><div><br /></div><div><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj1Mo2stdNKGGB-MB8EylMghg6IIzaJ4OfiRnRyf9j51uuiQM-Ra4Q9EcmFqPiuxalzk0nVmJYASHNZxN7QmPcEXEuEi1_tOp9LrV9JSxrSBGjd-VDLg19s7VQgvkIVdzq5SaoPUTKnlFdb2QUuIbhEoKE9Q_eIAe6cKB037Oin2y2LKxm96n613LjzQQjh/s480/eh-ls800b.png" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="440" data-original-width="480" height="293" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj1Mo2stdNKGGB-MB8EylMghg6IIzaJ4OfiRnRyf9j51uuiQM-Ra4Q9EcmFqPiuxalzk0nVmJYASHNZxN7QmPcEXEuEi1_tOp9LrV9JSxrSBGjd-VDLg19s7VQgvkIVdzq5SaoPUTKnlFdb2QUuIbhEoKE9Q_eIAe6cKB037Oin2y2LKxm96n613LjzQQjh/s320/eh-ls800b.png" width="320" /></a></div><br /><div><br /></div><div>1. Android TV 搭載 </div><div>オンラインの WiFi 環境さえあれば、YouTube などが流せて、とりあえず遊べる。</div><div>但し、仕様には WiFi 5 とあるが、なぜか?5GHz 帯が拾えない。うん~... 伝送方式や暗号方式をいろいろ試してみたが。2.4GHz 帯では重いデータがたまにコマ落ちする。アクセスポイント側で帯域を広げれば、ギリギリ許せるかなぁ...</div><div>尚、アクセスポイントは、BUFFALO WXR-11000XE12 を Wireless Bridge モードで運用中。電波状況も、すこぶるいい!Ethernet の口があれば中継機に接続して、プロジェクタに関係なく、6E でも飛ばせるんだけどなぁ...</div><div>ちなみに、EH-LS800B のファームには「有線 LAN」という設定項目がある。</div><div><br /></div><div>2. Chromecast built-in</div><div>chrome ブラウザから全画面キャストを流せば、なんでもあり!ってのは大袈裟にしても、たいていのことはできる。プレゼンソフトでも、動画再生ソフトでも。</div><div>例えば、スライドショーをやるには、愛用の画像ビューワ IrfanView を使って風景画でも、日本画でも...</div><div><br /></div><div>3. USB メモリから動画再生</div><div>"MoviePlayer" というアプリが既にインストールされ、USB 外部メモリから動画が再生できる。ファイル形式は、webm, mp4, mkv などに対応。</div><div>但し、mkv では、オーディオトラックが Dolby Audio 形式の場合、手動で切り替えないと音がでない場合あり。認識してくれるのだから、自動で切り替わってもよさそうなものだけど...</div><div>さて、YouTube は広告が、10分か、20分置きに割り込んできて、Relaxation Film を流してもリラックスできない。1 分間も流された日にゃ、従来の民放と何が違うのやら。その度にスキップボタンを押すのでは却ってストレスになる。おまけに、アカウント作るといいことあるよ!みたいなメッセージが鬱陶しい。広告ブロック撲滅キャンペーンかは知らんが...</div><div>なので、動画を手元に落とし、USB SSD(NTFS)経由でオフライン再生する。</div><div><br /></div><div>4. その他</div><div>YAMAHA のスピーカ 2.1ch が搭載され、音質はまあまあ。</div><div>画面の境界線にぼかし機能があって、壁に同化しやすい。但し、もう少しぼかせると、もっと馴染みそうで、ぼかし効果の段階設定があるとありがたい。</div><div>スクリーンサイズは、150 インチまでの仕様だが、我が家にそんな壁はない。もったいないけど、120 インチ弱に抑えて...</div><div><br /></div><div>5. おまけ</div><div>ストアでブラウザアプリを探しているが、操作性がイマイチ。テレビ対応のブラウザなどいろいろと試してみたが、リモコンの方がショボいのかも。わざわざニュースなどに特化したアプリをインストールしなくても、ブラウザの操作性が良ければ、なんでもあり!ってことになりそうなんだけど。いや、パワフルなモバイル機器とリンクすれば、なんでもあり!ってかぁ...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-46975174394835757142023-11-12T00:00:00.000+09:002023-11-12T00:00:42.930+09:00"その言葉、異議あり! - 笑える日米文化批評集" Michael S. Molasky 著<div><b>「本書は、不良学者の無駄な時間の産物... まず役立たないという、へそ曲がりの意向から成り立っている。」</b>こう宣言するマイク・モラスキーさん。</div><div>それでも、<b>「逆説的に、このような、単なる遊びのつもりの非実用主義の姿勢こそ、知的な発見に不可欠」</b>と自ら鼓舞する。いや、開き直りか。未練は男の甲斐性よ!</div><div>副題に「笑える日米文化批評集」とあるが、笑えるというより苦笑か。いや、冷笑か。アメリカ人の目で日本を観察し、日本ツウの目で祖国アメリカを振り返り、疑問に思うことを皮肉まじりに物語る。やはり文化ってやつは、距離を置いて眺める方がいい。それで文化論に遠近法が成立するかは微妙だけど。</div><div>それにしても、アメリカと日本を往き来する曖昧な立ち位置は、居心地が良さそう...</div><div><br /></div><div><b>「どちらの社会の完全なるインサイダーでもアウトサイダーでもない、そのような立場だからこそ、想像力を刺激され、批評眼が磨かれる。」</b></div><div><br /></div><div>モラスキーさんには、ジャズ喫茶論(前記事)と居酒屋文化論(前々記事)にしてやられた。この大学教授ときたら、自ら「フーテンのモラ」と名乗り、日本全国をハシゴ。これを文化研究などと称し、思うままに日本探訪記を綴って魅せる。それこそ、日本人よりも日本人っぽい文脈をもって...</div><div>本書は、所々で英語のニュアンスを日本語で要約してくれるものの、あまり英語の勉強にはならない。むしろ、和製英語や日本語の使われ方に違和感を持つエピソードの方が興味深く、日本語の勉強になるから、語彙の逆輸入現象!とでも言おうか...</div><div>そういえば、むかーし、日本人のくせに着物も着れへんのか!とガイジンさんに大阪弁で馬鹿にされことがあったっけ。おかげで今では、出かける時は必ず和服である。</div><div><br /></div><div>本書の言葉遊びは愉快!実に愉快!</div><div>語彙の乏しいおいらだって、言葉に関しては、いろいろ思うところはある。言語は使いやすく、分かりやすい方向へ流れ、意味合いも時代に流されやすいのは確か。この柔軟性こそが言語システムを進化させ、人類を進化させてきたのも確か。ただ、ネアンデルタール人のおいらが、現代語についていけないだけのことである。</div><div><br /></div><div>言葉の乱用が、言葉を安っぽくさせるところがあるのも確か。本書とは関係ないが、例えば、謝罪や所信表明で見かける「真摯に受け止めます!」といった言い回しのおかげで、「真摯」という用語は、おいらの頭の中で胡散臭いという意味に変調される。</div><div>差別用語ともなると、有識者や教育家どもがこぞって目くじらを立てるが、それを禁止したおかげで、もっと具体的で過激な言葉を浴びせるのでは、差別を助長しているように見える。しかも陰湿に。昔の映画を鑑賞していると、なんでこれを禁止用語にせにゃあかんのか、と思うこともある。差別意識を問題提起する映画も成り立たなくなるのでは...</div><div>そもそも、差別のない社会ってあるのか。言葉を禁ずるより、言葉をどう意識するかの方が問題であろうに。そんなことを考えながら読んでいる読者も、かなりのへそ曲がりということであろう。</div><div><br /></div><div><b>「検閲官のようにあれもこれも使用禁止語とするような『政治的に正しい』ならそれでよしとする、安易なポリティカル・コレクトネスはつまらないと思っている。いや、はっきり言えば、差別用語だからといってある表現を禁止する行為自体は怠け者のやり方だと思う。それよりも、その単語に付着しているイデオロギーや、それが含む偏見的発想などを、なるべく印象に残るような形で明るみに出せば、少なくとも良識ある人ならば、もう少し自覚して使うようになることを期待できると思う。あるいは初めてその問題点を意識した人は、その表現を使わないようになるかもしれない。」</b></div><div><br /></div><div>さて、いつも長過ぎる前戯はこのぐらいにして、数多い体験談の中からちょいと気に入ったところを拾ってみよう...</div><div><br /></div><div>1. 盲人に道を教えてもらう超方向音痴!</div><div>モラスキーさんは、超人的な方向音痴だそうな。自分の子供から「ザ・U ターン・キング」と嘲笑されるほどに。東京で迷子になった時、 なんと!盲人に道を教えてもらったという。相手が白い杖を手にしていることにも気づかず。すぐに謝ろうとしたが、丁寧に道順を教えてくれたそうな。</div><div>目が見えるから、本当に見えているとは限らない。真理ともなると、盲人よりも見えていない事が多い。ただ、見えた気になっている事も多いので、それで相殺され、うまくバランスされるのだろう...</div><div><br /></div><div>2. 取扱説明書はホラー映画?</div><div>日本の家電品の取扱説明書は、古典的なホラー映画に似ているという。その構造は、こんな感じだそうな...</div><div>まず、表紙デザインで読者に安心感を与え、油断させる。次に、危険!警告!事項によって脅し、そして、穏やかな注意!お願い!でやや安心させ、ようやく本題である使い方の説明で、さらに安心させる。だが再び、故障や異常などの対処で不安に陥れ、最後に、アフターサービスの説明で再び安心させて、完結!オーブントースターひとつとっても、爆発しそうで使えねぇじゃん!</div><div>しかし、契約書ともなると、欧米のドキュメント文化の方が詳細に仕組まれていそうである。近年、日本でも通信サービスや保険などで事細かく記載されるようになったが、安易な宣伝パンフレットで決めちまう習慣は如何ともし難く、まともに契約書を読んでいる人はごくわずかであろう。</div><div>尚、携帯の解約を、本書では奴隷解放宣言と称している。</div><div><br /></div><div>3. SPAM vs. spam</div><div>日本語で "spam" といえば、迷惑メールのことだが、アメリカで "SPAM" というと食料品をイメージするそうな。それは、すでに調理された保存肉のことで、冷蔵庫がまだ普及していない時代に人気を博したとか。第二次大戦中の兵士の糧食にあやかって、これから死んでいく人間に喰わせる肉!といった意味にもなるらしい。</div><div>ジャンクメールにジャンクフードをかければ、同じスパムってかぁ...</div><div><br /></div><div>4. Bush & Rice</div><div>Bush とは、ジョージ・W・ブッシュ元大統領。Rice とは、コンドリーザ・ライス元大統領補佐官。二人の対照的な人物像は、アメリカという国の二面性を反映しているという。それぞれの出身地から、テキサスなまりの強烈な白人男性と、南部なまりをまったく見せない黒人女性という配置。</div><div>ブッシュは、マッチョな言葉遣いで乱れた英語を多用し、挑戦的なフレーズを好む。</div><div>対して、ライスは、言葉を慎重に選び、外交官のように正確さと曖昧さを織り交ぜる芸達者ぶりは、馬鹿にされるような隙を与えない。ブッシュは、父親も大統領なら、裕福な家系を後ろ盾に。ライスは、人種的なハンディを克服する上で完璧な英語を操り、完璧な仕事をする必要があったと見える。</div><div>このような人物配置は、アメリカ民主主義を語る上で、あるいは、政治的メッセージとして重要な意味を持つ。</div><div>では、日本は?閣僚に女性を何人配選ぶかで騒いでいるようでは、女性に失礼であろう。やはり個々の能力を語らないことには...</div><div><br /></div><div>5. 日本人の日本人論</div><div>日本はユニークだ... 日本語は難しい... 日本は島国だから... 日本は単一民族だから... といった類いの日本人論に物申す。昔から馬鹿げていると指摘されてきた議論だが、それも優越主義の表れか。</div><div>片言の日本語を喋れば、言語障害者のように見られ、それで見た方はというと、まともな日本語を喋っているのかも怪しい。近年、「おもてなし」なんて用語も、日本文化特有の意識として使われる傾向があるが、世界を見渡しても、もてなさない文化の方が珍しい。</div><div>人間ってやつは、帰属意識のようなものが自然に身につくもので、他に対して何かと優越したがるものである。</div><div>しかし、皮肉はなかなか厳しい...</div><div><b>「単一民族論は純血幻想に依拠しているイデオロギーであり、論理的に極限まで追求したら『近親婚こそ理想的だ』という結論に行き着くはずである。」</b></div><div><br /></div><div>6. 大と小の体験!</div><div>初めて来日し、トイレで流そうとしたら、「大」と「小」の文字に戸惑ったそうな。漢字の意味は知っていたという。しばらく考えて、突然、意味を悟り、無事に難を逃れたとさ...</div><div><b>「初めて異文化に接する時、まさにこのような小さな体験が大きな比重を占めるようになるものだ...」</b></div><div><br /></div><div>7. せめて名前だけでも幻想を...</div><div>アメリカの街づくりでは、自ら破壊した自然を道路などの名前だけで復活させるような自然回帰幻想があるという。</div><div>対して日本では、密集した住宅状況からの解放願望が、マンションやアパートの名前に反映されているとか。</div><div>"mansion" を辞書で引くと大邸宅や豪邸といった意味がひっかかる。これを集合住宅という意味で用いるのは日本だけらしい。</div><div>日本では、マンションに限らず、横文字がオシャレと言わんばかりに多用される。それで飽きてくれば、イタリア語に。ダサいとなれば、おフランス語!そして、学者までも横文字を乱用。高級そうな用語で実体を誤魔化そうとするのは、どこの世界も同じか...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-76049114064527876792023-11-05T00:00:00.001+09:002023-11-05T00:01:38.122+09:00"ジャズ喫茶論 - 戦後の日本文化を歩く" Michael S. Molasky 著<div>前記事では、日本人よりも日本人っぽい居酒屋文化論にしてやられた。青い目のガイジンさんと呼ばれるのを嫌い、千鳥足放浪記を夢見て...</div><div>ここではジャズ喫茶論を熱く語ってくれる。ジャズ喫茶未経験者の門外漢が読む本ではないかもしれんが、こんな描写に、おいらはイチコロよ!</div><div><br /></div><div><b>「ドアをあけてみると、さらなる異様な世界が展開される。思わず耳をふさぎたくなるほどの大音量で音楽が鳴っている。アメリカで聴きなれたジャズの生演奏や、自宅にある安っぽいオーディオやラジオで聴いてきた音量とは雲泥の差で、むしろそれは、ロック・コンサートを思わせる爆音である。店内の風景も実に異様に映る。霧がかかった夕暮れのごとく、目を凝らさないと何も判別できない。店内は暗く、しかも青い煙が重々しく漂っている。徐々に目が慣れてくると、椅子に座る人たちの姿が浮き上がる。その様は人間の死体かミイラのようで、首をたらし不動のまま点在している...」</b></div><div><br /></div><div>ジャズ喫茶というのは、日本独特の文化だそうな。ジャズやカフェといった要素は輸入品でも、これらを融合したカルチャーとなると、日本のものということになるらしい。著者は、自らこう名乗る...</div><div><br /></div><div><b>「私、生まれはアメリカ、東京は葛飾にひところ暮らし、現在このニッポン列島を放浪している者でございます。姓はモラスキー、名はマイク。人呼んで『フーテンのモラ』と発します!」</b></div><div><br /></div><div>そもそも、「ジャズ喫茶」とはなんであろう。戦後を背景にした映画などで耳にしたことはある。1950年代頃に始まり、90年代にはほぼ廃れ、この異様な空間を体験することは、おいらの年代では難しい。ジャズバーなら見かけるが、ジャズ喫茶となるとなかなかイメージできない。本書は、<b>「客にジャズ・レコードを聴かせることが主な目的である喫茶店」</b>と定義している。そのまんまやんけ!</div><div>バーと喫茶店の違いを言えば、夜の店か、昼の店か、ぐらいなもの。夜と昼では大きな違いかもしれん。お酒が出てくれば、法的に年連制限も加わるし...</div><div>音源が、レコードか、CDか、でも論争があり、こだわりは半端ではなさそうだ。レコードに針を落とす行為が、しべれるとさ。</div><div>しかし、個人経営で、こだわりがないという方が珍しい。呑み屋であれ、小料理屋であれ、寿司屋であれ、はまたま、物書きであれ、芸術家であれ、ついでに技術屋であれ... フーテンのモラさんのこだわりも、なかなかのものとお見受けする。そもそも、こだわりのない人間っているのだろうか。いや、いるやもしれん。公平無私と呼ばれる人も見かけるし...</div><div><br /></div><div>但し、こだわりが強いからといって、正真正銘の通とは限らない。ジャズ喫茶が、自信たっぷりのオヤジが説教を垂れる場となれば、若者たちの足が遠のくは必定。</div><div>本書には「ジャズとはなんぞや」を答案用紙に書け!と命令するカルトまがいなマスターまでも登場し、これを「硬派なジャズ喫茶」と呼ぶ。それもごく稀なケースで、たいていは話しやすく快い店主ばかりであったと回想しているものの、あまりにインパクトが強く、「ジャズ喫茶人」などと呼称すれば、ステレオタイプで見ちまいそう。文章の切れが良く、描写があまりにリアルということもあろうか。当時は、ジャズ喫茶のマスターは威張っていて怖いというイメージが定着していたようだ。</div><div>ちなみに、東京四谷のジャズ喫茶「いーぐる」のマスター後藤雅洋は、このイメージに皮肉をこめて<b>「ジャズ喫茶のオヤジはなぜ威張っているのか」</b>という本まで出しているそうな。</div><div>しかし、説教好きなオヤジはどこにでもいる。呑み屋にも、職場にも、家庭にも... そうしたことを差し引いても、一匹狼風で、変わり者が多いことは確かで、個人事業主のおいらも、この手の人種に属すのは間違いあるまい。そして、この多様化の時代だからこそ、のさばることもできよう...</div><div><br /></div><div>モラさんは、ジャズ喫茶が醸し出す不気味な空気から<b>「行動文法」</b>を読み取る。</div><div>まず、クールに振る舞うこと。次に、お喋りは最低限、そして、レコード鑑賞に陶酔しているというボディランゲージをはっきりとアピールすること。さらに、レコードジャケットやライナーノートを手にとり、たまにはリクエストしてみる... これが、60年代から70年代前半の暗黙のルールだそうな。</div><div>ちなみに、ルール破りでは、山下洋輔の武勇伝を紹介してくれる。平気でペチャクチャ喋って「会話禁止!」の紙を目の前に突きつけられたそうな。イエローカードか!一発レッドか!</div><div>これに似た光景は、バーやクラブでも見かける。いや、ジャズピアニストとしての反発心の表れか。モラさん自身もピアニストであり、ジャズ喫茶非国民!の同胞が見つかったと安堵した様子。ジャズミュージシャンが従順なジャズ喫茶オタクになることは、かなり難しいと見える。</div><div>とはいえ、こうしたルールのおかげで、内向的な性格や自閉症が救われるということもある。レコードという音源技術が、鑑賞者を集団から解放し、そのために疎外させ、私的な行為へと走らせる。</div><div>そして、その技術は、デジタルメディアからネットワーク共有という道筋を開き、さらに自己を見つめる機会を与え、孤独愛好家を増殖させる一因ともなる。まさに現代の縮図だ!</div><div><br /></div><div>本書は、ジャズ喫茶の変遷を物語る上で、日本文化研究者エクハート・デルシュミットの論文を引き合いに出す。</div><div><ul style="text-align: left;"><li>50年代は「学校」... ジャズを勉強する場。マスターが教師となって。</li><li>60年代は「寺」... オーディオ装置が整い、店内を暗くし、大音量でレコードをかけ、禁欲的な瞑想の場と化す。</li><li>70年代は「スーパー」... フージョンやロックが流行り、客離れ対策として店内を明るくし、流行音楽をかけるようになる。</li><li>80年代は「博物館」... ウォークマンや CD が発明されると、わざわざジャズ喫茶で音楽を聴くまでもなく、古い LP やジャケットなど過去を保管する場へ。</li></ul></div><div><br /></div><div>モラさんは、このデルシュミット論を元にジャズ喫茶興亡記を論じている。特に、ジャズ喫茶とダンスホールとの関係、あるいは、学生運動や反体制精神との繋がりは興味深い。</div><div>そして、ジャズ喫茶の出現から盛衰の歴史を辿ると、概ね三つの要素で説明できるという。三つの要素とは、<b>「欠如」</b>、<b>「距離感」</b>、<b>「希少性」</b>であり、これを<b>「3K原則」</b>と呼ぶ。</div><div>欠如とは、一流のライブやジャズ専用のラジオ放送局がなかったこと。</div><div>距離感とは、ジャズの本場アメリカからあまりに遠いこと。それは、地理的な要素だけでなく、文化的にも、精神的にも。</div><div>希少性とは、生演奏の代替物となる高音質のオーディオシステムが一般人には手が届かなかったこと、あるいは、輸入盤のレコードの入手が難しかったこと。</div><div>そして、この 3K が満たされるとともに、ジャズ喫茶は衰退していったとさ...</div><div><br /></div><div>それにしても、こうしてジャズ喫茶の興亡記を眺めるだけで、戦後の日本社会が外観できようとは。ジャズ喫茶というちっぽけな文化にも、それだけの多面性が備わっていたということであろう。ジャズ喫茶の衰退に、その時代を生きた人間を重ねると、過去の遺物を美化し、懐古したくもなろう。しかし、時間は無常だ!</div><div><br /></div><div><b>「結局、私自身がジャズ喫茶とともに歳をとり、周りのオヤジ客にすっかり溶け込む年齢に達してきたわけである。この歳になると、余生よりもすでに生きてきた年月の方が長いという自覚と喪失感が、突然迫ってくることがあるのは、私だけではないだろう。そのせいか、ジャズ喫茶を含め青春時代を振り返るとき、甘美な懐古感に浸かりたくなることは自然な衝動なのかもしれない。あるいは、ジャズ喫茶が消滅していくこと自体が、まるで自分の死期を暗示しているかのように感じる、と言ったら大袈裟だろうか...」</b></div><div><br /></div><div>ところで、こんなに熱く語ってくれるフーテンのモラさんには大変申し訳ないが、本書の中で最も感服する文章はジャズ喫茶論とはまったく関係のないところに見つける。それは冒頭にあるこの文章で、おいらが美青年だった頃の記憶が蘇る。やっぱり、日本人よりも日本人っぽい文章を書くお人だ!</div><div><br /></div><div><b>「電車が新宿に近づき、おもしろそうな町だから降りてみようじゃないか、と思った瞬間、車両のドアが開き、そのまま人ごみに飲み込まれ流されてしまう。流れに逆らっても身動きできそうにない。魚群のなかの一匹の小魚に化けたと想像する青年は、即座に状況を分析し、対策を講じる... 周りの魚と一定の距離を保ちながら同じ速度で進めば、きっと大丈夫だろう... と。それから、考えることを一切放棄し、流れに身を任せる。徐々に流れと一体化してくると、するすると前進できることに気づき、奇妙な陶酔感さえ覚えはじめる。だが改札口から吐き出されると、突然、魚群も一気に解散してしまう。また陸に足がついたようだ、とふと我に返る。」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-33660805065736568192023-10-29T00:00:00.000+09:002023-10-29T00:00:24.820+09:00"日本の居酒屋文化 - 赤提灯の魅力を探る" Michael S. Molasky 著<div>居酒屋というと、大勢でワイワイやってるイメージ。こっちときたら騒がしいのが大の苦手で、独りでチビチビやりたいもんだから、どうも馴染めない。</div><div>高度な情報化社会では、静かに呑み歩くのも難しい。食べログや口コミといったサイトで評判が広まり、それで常連客が逃げ出すようでは、せっかくの隠れ家も台無し!</div><div>大衆酒場ですら赤提灯をぶら下げている所もあって、カテゴリも当てにならない。</div><div>しかし、ここで言う居酒屋は、独りでぶらりと立ち寄れるような、それこそカウンタでチビチビやるイメージ。カウンタとは、もてなす側ともてなされる側とを隔て、駆け引きする場、勝負する場... というのが、おいらの持論である。バーしかり、小料理屋しかり、寿司屋しかり... 癒しの場で緊張感を煽ってどうする。もう三十年になろうか、和装女将がもてなしてくれる小料理屋風の呑み屋に通い詰めた記憶が蘇る。いろいろと社会勉強させてもらったっけ。口説き文句は大失敗に終わったけど...</div><div><br /></div><div><b>「地元に根付いた個人経営の赤提灯こそ日本の呑み屋文化の核心だと思っている...</b></div><div><b>居酒屋は味と価格だけではない、五感をもって満喫する場所である、というのが私の持論である。さらに、居酒屋は『味』よりも『人』である、と確信している...」</b></div><div><br /></div><div>こう主張するマイク・モラスキーさんって、どちらの御出身?</div><div>アメリカ中西部生まれのれっきとしたガイジンさん!なので、ネイティブライターのような洗練された文章は書けない... 編集作業では細かい修正で余分な手間を取らせてしまった... などと謙遜しているが、どうしてどうして!</div><div>いま、日本人よりも日本人っぽい日本文化論に出会えた喜びに浸っている。やはり文化を論じる場合、ちょいと距離を置く方がよさそうだ。</div><div>四十年もの居酒屋体験談。自ら<b>「居酒屋愛好家」</b>、あるいは<b>「赤提灯依存症」</b>と称し、北海道から沖縄まで、角打ちから割烹まで... 角打ちの真髄に至っては<b>「最低の価格、最小限のもてなし、最大限の癒し。」</b>と...</div><div>彼は何を求め、そこへ足を運ぶのか。おそらくこの書も、鯵のさしみや〆鯖を肴に、日本酒をチビチビやりながら書いたに違いない。こっちも負けじと、純米酒をやらずに読むわけにはいかない...</div><div><br /></div><div>本書は、<b>「地の味わい」</b>、<b>「場の味わい」</b>、そして<b>「人間味」</b>という三つの観点から居酒屋探訪記を物語ってくれる。経験を積んだ居酒屋からは、貫禄を感じさせられることがあるという。</div><div><b>「貫禄」</b>という言葉を国語辞典通りに、身に備わった風格や威厳... とするのでは足りない。それでも大まかな共通点が見受けられる。店主にせよ、店自体にせよ、気取らず、飾らないところ、あるいは、自分自身や店に自信を持ち、自然に醸し出す雰囲気があるところ。そして、店の味わいを守るためには、客に好かれなくてもええ!という覚悟をもって営業方針を貫いているところ。要するに、淡々と仕事をし、店を大事にしているだけだが、こういうシンプルな動機に人生哲学を魅せてくれるのも、居酒屋の魅力としておこうか...</div><div><br /></div><div><b>「小ぢんまりしたローカルな居酒屋であればあるほど、多面的な機能を秘めているように思う。だからこそ常連客にとって、行きつけの居酒屋はまるで『聖地』のように感じられ、それゆえに、彼らはその店独自の雰囲気が壊されないように、侵入してくる一見客をしばらくは番犬のごとき注意深さで『見張っている』わけだ。」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-75245592726152889192023-10-22T00:00:00.000+09:002023-10-22T00:00:15.326+09:00"ソネット集" William Shakespeare 作<div>シェイクスピアをまともに読んだのは、五十を過ぎてからのこと。ちょいと言い訳するなら、初めてのシェイクスピア体験は義務教育の文化祭あたり。学生時代は劇場にも何度か足を運び、モチーフにした映画も多く、直接触れずとも、これほど筋書きを知っている作家も珍しい。</div><div>ゲーテは、カントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。シェイクスピアという作家は、まさにそんな存在である。</div><div>筋書きを知っていれば、小説を読むのも億劫になるが、媒体が違えば、違った光景を魅せてくれること疑いなし。なんとなく体裁が悪いと思いつつ、四大悲劇に手を出せば、ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベス物語に至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。おいらは暗示にかかりやすいときた。そして、「ソネット集」には、人間とは、こうも滑稽な生き物なのか... と。</div><div>ここまで来るのに、半世紀も生きねばならなかったとは... 怠惰な詩神よ。真実をなおざりに、沈黙の言い訳はよせ!</div><div>尚、高松雄一訳版(岩波文庫)を手に取る。</div><div><br /></div><div>ソネットとは、ルネサンス期イタリアに発する十四行詩のこと。この形式がイギリスに渡ると、ひときわ異彩を放つソネット文学が生まれた。シェイクスピアの「ソネット集」がそれである。</div><div>但し、この作品について知られている事実は、ごくわずかだという。詩作した人物がシェイクスピアであることは間違いなさそうだが、刊行となるとトマス・ソープなる人物が浮かび上がる。しかも、校正の状態などから推して、シェイクスピア自身は目を通していないようだとか。なかなかの謎めいた作品である。</div><div>詠われる人物にしても、美貌の男子に、黒い女(ダーク・レディ)とくれば、シェイクスピア自身の愛の遍歴か。黒い女とただならぬ関係を歌えば、小悪魔か、高級娼婦か。美男子への愛を熱く歌えば、同性愛説も囁かれる。登場人物の身分や実名を追えば、謎が謎を呼び、興味が興味をそそり、想像が想像を掻き立てる。作者がシェイクスピアというだけで文学史上の問題となり、専門家の間で様々な説が飛び交う。</div><div><br /></div><div>しかしながら、天邪鬼な読み手には、そんなことはどうでもええ。背後に潜む事実関係なんぞに興味はない。目の前の字句を素直に追うだけだ。</div><div>とはいえ、その解釈となると、やはり天邪鬼。愛の讃美歌が、どこか皮肉まじりに響く。文壇では神と悪魔の相性はすこぶる良いと見え、慰安と絶望が交差し、天国と地獄が表裏一体で仕掛けてきやがる。</div><div>天使は悪魔のごとく真実を覆い隠し、股ぐらから梅毒を撒き散らす。愉快!愉快!</div><div>のぼせ上がった美貌への愛に無慈悲を喰らわせ、黒衣裳をまとって愛の喪に服す。愉快!愉快!</div><div>かくして愛は道化に成り果て、犬にでも喰わせちまえ!これで犬儒学派に鞍替えよ。シェイクスピア文学は、こうでなくっちゃ!</div><div><br /></div><div>シェイクスピア自身も、あの世で専門家たちの論争を尻目に、単に思いついた言葉を形式的に整えてみただけよ!って笑い飛ばしているやもしれん。詩人は文章を整えるだけでいい。それで学識は優雅な美しさを飾りたて、粗野な無知を知識と同じ高さに引き上げてくれる。愛の十字架を背負う者に慰めはいらぬ。醜い姿になる前に、ご自分を蒸留しちまいな!ってか。</div><div>さらに、愛の讃美歌を拾うと...</div><div><br /></div><div><b>「愛がつくる最良の習慣は、信じあうふりをすることだ!」</b></div><div><br /></div><div><b>「盲目の愚か者、愛の神よ、私の眼に何をしたのだ。この眼は見てはいるのに見ているものが解っていない。美とは何か知っているし、どこにあるかも見ているのに、最低のものをこよなく優れていると思い込む。私の心も、眼も、まこと真実なるものを見あやまり、いまはこの迷妄の苦しみに憑かれて生きているのだ。」</b></div><div><br /></div><div><b>「愛していなくとも、愛していると言うがいい。いらだちやすい病人でも、死期が近づくと、医者からは良くなりますという言葉しか聞こうとしなくなる。もし私が絶望すれば、狂乱におちいり、狂乱の最中におまえを悪しざまに言うかもしれない。すべてをねじまげる当世の堕落ははなはだしいから、狂った男の中傷でも、狂った聞き手が信じてくれよう。」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-51185443388342931522023-10-15T00:07:00.002+09:002023-10-15T12:48:40.349+09:00"君あり、故に我あり - 依存の宣言" Satish Kumar 著<div>サティシュ・クマールは、9 歳にジャイナ教の修行僧となり、18 歳に内なる心の声に従って僧を辞めたという。内なる心の声とは、ガンジー思想への目覚めであろうか。</div><div>彼は、無一文でインドから欧米に渡り、8000 マイルもの平和巡礼を行ったことでも知られる。核保有国の政治指導者に<b>「平和のお茶」</b>を届けたのである。その途中、フランスでは牢獄に放り込まれ、アメリカでは銃を突きつけられ...</div><div>この行動は、バートランド・ラッセルに触発されたものらしい。ラッセルの非暴力運動は合理主義と両立させ、人道主義をも超越しているという。日本でも平和行進に参加し、東京から広島まで 45 日かけて歩いたそうな...</div><div><br /></div><div>本書はジャイナ教で彩られている。そして、インドの賢人ヴィノーバ・バーヴェ、自由の預言者ジッドゥ・クリシュナムルティ、数学者で合理主義者バートランド・ラッセル、解放者マーチン・ルーサー・キング、環境経済学者 E.F.シューマッハーと過ごした喜びを物語ってくれる...</div><div>尚、尾関修, 尾関沢人訳版(講談社学術文庫)を手に取る。</div><div><br /></div><div><b>「この本は心の旅である。私はこの本の中で、多種多様でしかも相互に関連するネットワークとして世界を理解するに至ったインスピレーションの源泉を辿っている...」</b></div><div><br /></div><div>サンスクリットの格言に<b>「ソーハム(彼は我なり)」</b>というのがあるそうな。サティシュは、これを<b>「君あり、故に我あり」</b>と解し、デカルトの言葉<b>「我思う、故に我あり」</b>に対抗して魅せる。</div><div>そして、西洋の世界観を近世からグローバリゼーションに至る流れを追い、その源泉にデカルト哲学を見る。それは、分割と分離といった二元論的世界観である。我思う... ことにより自己を意識し、故に我あり... と、他との差異で自己を確認する。自己存在を強調し、そのために自己肯定感に苛むとすれば、まさに現代病がそれだ。</div><div><br /></div><div>本来、多様性を受け入れるはずのグローバリズムは、少数派を次々に飲み込み、価値観を一本化しようとしてきた。すると、これに反発して対極的な価値観が勢いづき、世界は二極化していく。その過程で、対極にあるはずの個人主義と利己主義が結びつき、これに愛国主義が相まって、経済的生産競争や軍備拡張競争を激化させる。</div><div>超エリートの政策立案者たちは、いまだ消費を煽る以外に方策が見つけられないでいる。生産と消費に邁進すれば、環境破壊や自然破壊へ突き進むは必定。資本主義と共産主義は、互いにい対立するかに見えるが、自己の利益を優先し、国益を追求する点では同じ。資本主義は資本を喰い潰し、共産主義は個人を喰い潰す。そして、文明人は地球資源を喰い潰し、いったいどこへゆこうとしているのか...</div><div><br /></div><div><b>「我々が個人的恐れを精神的に克服できないなら、外部の敵を恐れるように仕向けることは政府や軍事指導者にとってはやさしいことだ。彼らは毎日、敵について語りかける。彼らは恐怖を作り出し、我々をその中に置こうとする。我々は、恐怖に支配されてしまう。隣人を恐れ、ヒンズー教徒を恐れ、イスラム教徒を恐れ、キリスト教徒を恐れ、外国を恐れるようになる。さまざまなグループに分断され、誰かを恐れるようになる。自分の妻や夫、子供すら恐れるようになる...」</b></div><div><br /></div><div>しかし、だ。こうした問題すべてを、デカルトのせいにするわけにもいくまい。信仰的に思考するスコラ哲学から脱皮し、主体を客体化して科学的な思考を試みた点は評価できるし、また、それが必要な時代でもあった。それは、サティシュも認めている。彼が主張せんとしていることは、そろそろ新たな世界観へ脱皮する時代が来たのでは... そろそろ人間中心主義から脱皮しては... ということである。</div><div>主義主張の対立、イデオロギーの対立、そして何より宗教の対立は、もっと古くからあり、こうした対立構図は、むしろ人間の本質と見るべきであろう。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体は、他との対比や対立から自己を認識するほかはない。デカルトだってあの世でぼやいているに違いない。すべては自己責任で!と... </div><div>しかしながら、自己責任ってやつは、これを実践しようとすると、なかなかの難物。巷では、この用語は、お前が悪い!という意味で使われている。自立という概念にしても、人間には高尚すぎるのやもしれん。</div><div>ならば、もっと謙虚に何かに依存しなければ生きられない、とした方が現実的やもしれん。少なくとも地球上を棲家とする生命体は、地球環境に依存している。人類は、自然に依存しなければ生きられないってことだ。</div><div>アリストテレスが定義したように、人間がポリス的動物である、というのが本当なら、ポリス、すなわち社会にも依存するほかはあるまい。但し、ポリスとは単に社会を営むだけでなく、最高善を求める共同体という高尚な意味も含まれており、現実社会はそんな大層なものではあるまい。</div><div>サティシュは、完全なる依存を宣言する。自己を知らずして自立もあるまい。自己を見つめずして自律も叶うまい。自立や自律ってやつは、必要な依存を受け入れてこそ成り立つ概念やもしれん。自己責任!などと片意地はらんと、もっと自然体に...</div><div><br /></div><div><b>「ガンジーにとって知識とは、謙虚さと真実を学ぶための手段だった。ガンジーは『知識は力なり』という考えを捨て去った。知識は奉仕のための道具である、とガンジーは考えた。傲慢さをもたらす知識は真の知識ではないのだ。」</b></div><div><br /></div><div>また、平和宗教を論じる上で、イスラム教の思想家マウラーナー・ワヒドゥディン・カーンとの対話は、なかなかの見モノ!</div><div>宗教が、しばしば暴力の根源となってきたのも事実。考え方や信条が異なり、信仰が異なるのは、いわば人間の本質であり、これらの差異が対立や紛争を生む。</div><div>サティシュは問う。イスラム教の真髄とは何か?と。それは、理論や哲学ではなく、生き方であると。そして、状況が平和である時に、平和な気持ちでいるだけでは不十分だとし、<b>「いかなるときも怒らないようにしなさい!」</b>と説く。</div><div>イスラムとは、「平和に」という意味があるそうな。ならば、ジハード、すなわち、聖戦という概念はどう説明できるというのか?ジハードの意味は無惨なまでに誤解されているという。しかも、学殖があり、理性ある人々が、その意味を歪めていると。非暴力思想の根底には、怒りの克服があるらしい...</div><div><br /></div><div>ジャイナ教について言えば、ジャイナとは、勝利を意味するそうな。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラとは、偉大なる戦士を意味するとか。だが、その言葉に反し、ジャイナ教ほど非暴力と平和に重きを置く宗教はないという。では、誰に対する勝利か?それは、自己に打ち勝つことであり、自我の克服であると...</div><div>これと同様、イスラムの教祖マホメットも偉大な将軍だったそうな。ジハードは、戦いを意味するのではなく、葛藤を意味するんだとか。最大の葛藤は、自我と戦い、怒りに勝ち、自尊心を克服すること。そして、不公正や強者による弱者の搾取と闘わなければならないという。しかも、非暴力的に。これが本来のジハードだそうな。それ故、マウラーナー・ワヒドゥディンは、こう唱える。</div><div><b>「良きイスラム教徒であるためには、我々は同胞のイスラム教徒だけでなく、ヒンズー教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、その他すべての人々を愛する必要がある。困難なことかもしれないが、そのようなビジョンがなければ宗教にはなんの意味もない。」</b></div><div><br /></div><div>うん~... 仏陀も、他人を傷つけることは自分自身を傷つけること!と説いた。イエスも、汝の敵を愛せよ!もう一方の頬をも向けなさい!と説いた。</div><div>しかしながら、どんな高尚な思想を唱えようと、どんなに高い理想を掲げようと、人間ってやつは言葉でいかようにも操れる。未だ人類は、すべての真理を言い表せるほどの言語システムを獲得できていない。愚人は、なにかと言葉を欲する。具体的な言葉を欲する。そして、言葉は厄介となる。だから、あのナザレの大工のせがれは、沈黙のうちに十字架刑を受け入れたのであろう。民衆が沈黙で悟れるほど賢くないとはいえ。その意図の理解に、数千年の歳月がかかろうとも...</div><div><br /></div><div><b>「ヒンズー教徒の非二元論の信念は、ジャイナ教徒の非絶対論に相当するものである。非二元論は時として、現実の単一性と理解されてきた。しかし、ゴーパールジー(サティシュの師)は次のように信じていた。... 非二元論は、自己か他者か、ということより、宇宙の多面的な性格を表している。多様性とは分裂や断絶ではなく、言葉では完全に言い表すことの不可能な、相互に関連した全体のことなのだ。人が何かを話すとき、真実の一側面について語ることはできても、真実全体を語ることはできない。だから我々は、少なくとも言葉や心によって、全体的で絶対的な理解を完全に手に入れることは不可能だ、ということを認めるべきなのだよ。言葉は真実の一側面に近づくことくらいしかできない。その向こうには、ただ沈黙があるのみだ...」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-22969273487049878282023-10-08T00:00:00.000+09:002023-10-08T00:00:18.412+09:00"エリザベスとエセックス" Lytton Strachey 著<div>リットン・ストレイチーは、"Portraits in Miniature (邦題: てのひらの肖像画)"と題し、18 篇ものささやかな人物像を通して、イギリスの一時代を炙り出した(前記事)。</div><div>この伝記作家は、自分自身が生きたヴィクトリア朝の時代を呪い、過去の時代に思いを馳せたのか。ここでは、歳の差の恋愛物語を通して、エリザベス朝の時代を物語ってくれる。</div><div>生涯独身を通し、聖母マリアのごとく処女として崇められた女王エリザベス一世。スペイン無敵艦隊に大勝利した英雄。だが、彼女とて一人の女であった。いつまでも女であった。しかも平凡な。愛人の噂も絶えず...</div><div>53 歳にして、20 歳にも満たないエセックス伯爵と出会ったことは不幸だったのか。熟年の恋は始末が悪い。人間ってやつは、自由よりも束縛にこそ真の自由を見るのやもしれん。そして、禁断にこそ真の恋を...</div><div>尚、福田逸訳版(中央公論社)を手に取る。</div><div><br /></div><div><b>「エリザベス朝の人々に見られる一貫性の欠如は、人間に許される限界を遥かに越えている... 狡猾かと思えば純真、繊細かと思えば残忍、そして敬虔かと思えば好色、かかる存在に筋の通った説明を与えるなど一体可能であろうか... それはバロックの時代であった。そして、恐らく彼らの内部構造と外部装飾とのずれこそ、エリザベス朝人の神秘の原因を最も端的に物語るものなのだ... まさにバロック的人物と言える存在が、他でもない、エリザベスその人である。」</b></div><div><br /></div><div>エリザベスの治世は、二つに分けられるという。スペイン無敵艦隊を撃破するまでの三十年と、その後の十五年。前者は、いわば準備段階で、その結果、イングランドは統一国家となり、後に大英帝国となって七つの海を支配することになる。</div><div>エリザベス女王は、精神の支柱にイングランド国教会を据え、民衆に国家という概念を植え付けた。そして、スペインの横暴を撥ねつけ、ローマの圧力にも屈せず、イングランドを帝国へと導いた。</div><div>だが、こうした功績は英雄的な資質の為せるわざではなかったという。激動の時代を生き抜くには、何よりも政治的手腕と慎重さが肝要で、むしろ、のらりくらりとかわした結果であったと...</div><div><br /></div><div><b>「変化に富むがゆゑに自然は麗し」</b>... これは、エリザベスが好んだ格言だそうな。彼女自身の振る舞いも自然に劣らず変化に富む。ある時は気の荒い貴婦人、ある時は厳しい顔つきの実務家、ルネサンスの教養に溢れ、六カ国語をこなし、優れた音楽家で舞踏も得意、会話はユーモアのみならず気品と機知に溢れ、確かな社交感覚の持ち主とくれば、こうした変幻自在な振る舞いが、外交手腕と結びついて、激動の時代を生き延びたという見方もできる。</div><div>ストレイチーは、この女王の多芸ぶりと優柔不断ぶりを、エセックス伯爵という一人の男を通して物語る。この若き男子も、熟女の寵愛の受け方をよく心得ている。人に支配されるのを好まず、最高権力者である女王の寵愛という特権を掌握し、軍隊の後ろ盾に支えられ、またそのことを十分に承知していればこそ、国家にとって危険な人物となる。宮廷内では警戒心が広がる。数々の戦場で無能ぶりを曝け出し、名誉挽回でアイルランド総督に任命されるも、アイルランド叛乱の鎮圧に失敗して失脚。ついにはクーデターを起こし、反逆罪。かくして女王の寵臣は、首斬り役人の斧によってその首を斬り落とされたのだった... 享年 34 歳。</div><div>真実を悟った老婆は、すでに67歳。どちらが弄び、どちらが弄ばれたのか。互いの引力が運命を弄んだのやもしれん...</div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4442814227824942299.post-91600307460641271992023-10-01T00:00:00.000+09:002023-10-01T00:00:37.092+09:00"てのひらの肖像画" Lytton Strachey 著<div>イギリスの本屋には、伝記コーナーがしっかりと設けられているそうな。古本屋ともなると、年季の入った、それこそ歴史を感じさせる区画を演出しているらしい。昔から伝記が読み物として親しまれてきたお国柄というわけか...</div><div>一人の人物を語るということは、その人物が生きた時代を語るということ。人類の歴史を個人の歴史の集合体として眺めれば、まさに本書がそれを体現してくれる...</div><div>尚、中野康司訳版(みすず書房)を手に取る。</div><div><br /></div><div><b>「過去に関する事実を、芸術の力を借りずにただ集めただけでは、それは単なる事実の寄せ集めにすぎない。もちろんそういうものが役に立つこともあるが、それは断じて歴史ではない。すなわち、バターと卵と香草を寄せ集めてもオムレツにならないのと同じである。」</b></div><div><br /></div><div>原題 "Portraits in Miniature"</div><div>これに「てのひらの肖像画」という邦題を与えた翻訳センスもなかなか。ここで言う肖像画とは、単なる人物像ではない。スナップ写真のような静止画でもない。もっと連続的で動的な... ある人物を遠近法で眺めながら、自分自身に返ってくる何かを感じるような...</div><div>リットン・ストレイチーは、18 篇ものささやかな人物像を連結して、16 世紀から 19 世紀頃のイギリスの社会風潮を炙り出す。彼は、遠い昔に思いを馳せ、彼自身が生きたヴィクトリア朝の時代を呪ったか。18 世紀頃の文才には柔和に美点を持ち上げ、19 世紀頃の文才には辛辣な批評を喰らわす。</div><div>例えば、デイヴィッド・ヒュームには、中世の神学的思考を一掃し、理性を純粋に発揮して公平無私の精神を実践したと、神わざのごとく称賛し、エドワード・ギボンには、節度ある理性と調和という天性の資質の持ち主として憧憬する。</div><div>一方、トーマス・カーライルには、度の過ぎる道徳癖によって自らの芸術的才能をぶちこわしたと手厳しい上に、カーライルに私淑したジェイムズ・アントニー・フルードに至っては、偏狭なプロテスタンティズムに幼稚な倫理観と切り捨てる。</div><div><br /></div><div><b>「盲目はつねに悲劇を招くが、巨大な力を暴走に変え、高邁な夢を妄想に変え、巌のごとき自信を当惑と悔恨と苦悩に変えてしまう盲目は、まことに悲惨かつ哀れである。」</b></div><div><br /></div><div>ヴィクトリア朝の時代といえば、産業革命によって国家経済を進展させ、帝国主義へ邁進していく時代。文学や芸術までもが、やがて訪れる偏狭な愛国主義へ傾倒していく。ストレイチーは、そんな兆しでも感じ取ったのだろうか。<b>「文体は精神を映す鏡」</b>としながら、雄弁家の文体には<b>「もはや繊細さや洗練を期待しても無駄!」</b>と言い放つ。芸術精神の持ち主だからこそ、時代の変化に感じ入るものがあるのやもしれん。特に、世界が狂気へ向かう時は...</div><div><br /></div><div><b>「この世にはもはやかつての面影はなかった。何かがおかしくなっていた。あの騒乱と、あの改革と、それからまた改革の改革。まともに相手にする必要はなさそうだ。居眠りをしていたほうがよさそうだ。」</b></div><div><br /></div><div>また、6 人のイギリスの歴史家を論じながら、歴史学のあるべき姿についても断片的に暗示している。6 人とは、ヒューム、ギボン、マコーリー、カーライル、フルード、クレイトン。</div><div>まず、歴史家の素質には、三つあるという。一つは、事実を吸収する能力。二つは、吸収した事実を叙述する能力。そして三つは、視点である。だが、三つ目を備える歴史家は、なかなかいないと苦言を呈す。</div><div><b>「歴史はなによりも物語」</b>という。だが、書き手が語り手となり、歴史家が雄弁家となれば、それは悲劇の時代か。雄弁家の困ったところは、聴衆を自由にさせないことだ。歴史家が道徳を説く必要もあるまいが、雄弁家は道徳や倫理に血眼になる。まるで聖職者!</div><div>歴史書が道徳臭を漂わせれば、トゥキュディデスの神秘的な智慧やタキトゥスの迫力に思いを馳せる。主題を本当に理解している歴史家は、そうはいないという。それでも仕事を成し遂げられるのはなぜか。自分自身を知り、自分自身の限界を知り、その上で自己の中に調和を保ち続ける能力。これこそが、歴史家の資質というものか。客観的な立場を保つには、批判的な視点が欠かせない。ストレイチーは、ギボンを内面的調和を保つ名人!と称賛する...</div><div><br /></div><div><b>「明確な視点をもつということは、対象に共感を抱くということではない。むしろ逆だと言ってよい。不思議なことに、偉大な歴史家は自分の題材と敵同士みたいに睨み合っている場合がじつに多い。たとえば、洗練された冷笑家のギボンは『ローマ帝国衰亡史』において、野蛮と迷信の叙述に二十年を費やした...」</b></div>アル中ハイマーhttp://www.blogger.com/profile/09665003408261151197noreply@blogger.com0