2025-06-22

"消費社会の神話と構造" Jean Baudrillard 著

産業革命によってもたらされた生産社会。これに触発されて出現した消費社会。おかげで、人々の生活は豊かになった。
だが、事の発端は古代に遡る。貨幣の発明によって生み出された交換社会。おかげで、交換の対象となるものすべてに価値が見い出され、揉め事も命の代償までも貨幣で精算されるようになった。こうした価値の合理化は、人間どもをより利便性の高い代替物へと走らせ、仮想的な価値を肥大化させていく。仮想化社会の到来である。仮想化とは、愚像化の類いか。
そもそも精神ってやつが、ふわふわした得たいの知れない存在で、同類項というわけか。そりゃ、精神に支配された知的生命体が仮想価値に群がるのも無理もない。
おまけに、人よりも所有した気分になり、優越感にも浸り、生産過剰でも、消費過剰でも、なお満たされない。それで誇大妄想を膨らませてりゃ、世話ない...

ジャン・ボードリヤールは、提言する。
人間の消費という意識が、単に物に向かうだけでなく、集団社会における能動的様式であることを。それは、文化の上に成り立つ体系的活動であり、包括的反応であることを...
尚、今村仁司、塚原史訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

「消費はひとつの神話である。現代社会が自らについてもつ言葉、われわれの社会が自らを語る語り口、それが消費だ。」

現代社会には大量のモノと情報が氾濫し、主役を演じるは広告塔と報道屋。これを影で操る者が社会を牛耳る。影とは誰か。集団的な意志がそう仕向けているのか。つまり、意志なき意志が...
集団性が悪魔じみているのは、悪魔が実際に存在することではなく、そう信じ込ませることにある。消費社会での主な消費は、必然的な消費ではなく、ステータスとしての消費。かつて貴族階級の特権だった見栄や外聞の類いが大衆化すると、人々は流行に乗り遅れまいと強迫観念に取り憑かれる。貧困で喘いでいる人々ですらスマホなどの電子機器が必需品とされ、人とのつながりを強制された挙げ句に息苦しくなる。自由意志なんてものは、もはや幻想か...

無論ジャーナリストや広告業者ばかりを悪者にはできない。誰の言葉だったか、大衆は欺瞞することが容易なのではなく、騙されることを喜ぶ!ってのは本当らしい。お茶の間という安全地帯で、ジャーナリズムが悲壮感を煽る殺人、戦争、細菌感染などの不幸事を映画のように鑑賞する。これが人間の性(さが)か...

豊かな社会と言いながら、なにゆえ自殺が減らない。幸福であることが当たり前!いや、幸福でなければならない!そう思い込むことで自己を追い詰める。多くのモノは場違いに存在するために、その豊富さが逆に欠乏を感じさせる。消費社会の大きな代償は、消費活動そのものに蔓延する不安感ということか。これも、マルクスの言う疎外の類いか。
消費の熱狂の渦で、常に前のめりの姿勢を崩さない経済学者と理想を掲げてやまない福祉論者の狼狽ぶりは、いつの時代も教訓となろう...

「消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。モノの使用はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造させる価値ははるかに大きなものとなる。それゆえ破壊は根本的に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない。消費は自らを乗り越えて破壊に変容しようとする強い傾向をもっている。そして、この点においてこそ、消費は意味あるものとなる...」

2025-06-15

"les objets singuliers - 建築と哲学" Jean Baudrillard & Jean Nouvel 著

のどかな春風に誘われ、アンティークな古本屋を散歩していると、哲学者と建築家がなにやら談義を始めた様子。春風駘蕩たるとは、こういうのを言うのであろうか...

哲学とは、真理を探求する学問、いわば理想を求める世界。建築とは、現実に照らした技術、いわば妥協を生きる世界。互いに相い容れぬ世界にも見える。が、哲学のない技術は危険である。
哲学者ジャン・ボードリヤールは、建築家ジャン・ヌーヴェルに問い掛ける。「建築にとって真実は存在するだろうか...」と。それが不毛な問答であったとしても、大切なのは問い続けること。そして両者は、美学において共通項を見いだすのであった。創造の美学に、破壊の美学に、普遍の美学に、消滅の美学に...
尚、塚原史訳版(鹿島出版会)を手に取る。

「対話を無からはじめるわけにはいかない。というのも、論理的には、無とはむしろ到達点であろうから...」
... ジャン・ボードリヤール

近代化は、生産社会をはじめ、何もかもラディカルに進展させてきた。建築界も例に漏れず。この流れに反発するかのように、近代からの脱却を目指すポストモダニズムとが錯綜する。だが、真にラディカルなのは、無であるという。空白こそが...

建築は、それを彩る空間をともなって、はじめて成り立つ。いかにして空間を組織し、その空間を満たすか。数学的に言えば、充填問題とすることもできよう。真の空白から、すなわち、無から有を成す... これを考える機会に恵まれることこそが建築の醍醐味というものか。
それは、水平方向や垂直方向といった幾何学的な問題だけではない。自然空間や精神空間に及ぶ随伴の問題でもある。建築の創造物は、単独では存在できない。その意味で自由はない。建築家も、芸術家のような自由はない。建築基準法を無視するわけにはいかないし、様々な様式に制約されるのだから...

実際、そこにポツリと出現しては、景観を損なうオブジェが乱立する。不整合でアンバランスな存在として。歴史的な街並みや伝統的な様式から外れ、それ自体は肯定も否定もせず、ただそこに立ち並び、もはや異物!
その有り様を本書は「特異性」と表現する。それは、芸術的な独創性とは違うという。では、数学的な特異点のようなものか。生物学的な突然変異のようなものか...

大衆化の危険は、建築ばかりか、広範な文化に及ぶ。誰でも出来の悪い文章は書ける。この点でテキスト化は危険な行為となる。建築家だって大袈裟な装飾を施しては、自らの幻想に耽っているケースも少なくない。それは、自己陶酔ってやつか。
この幻想はバーチャルとは違うらしい。バーチャルは、むしろハイバーリアリティで、心理空間の可視化だという。物質的なフォルムに位置づけるだけでなく、非物質的なものを介して感知できるような空間認識を呼び覚ますことこそ、建築の真髄というものか...

「解放は、自由とはおなじものではあり得ない。... 解放されて、実現された自由を生きていると信じたとき、それは罠にすぎない。目の前には、可能性の実現という幻想があるだけだ...」

一方で、特異性に反発するかのような現象がある。オブジェはオリジナル性を失い、複製に次ぐ複製のオンパレード。モデルハウスも、その類い。建築ばかりか、あらゆる文化が記号化され、高度なデータ処理によってクローン化されていく。もはや、幻想を見いだすことすらできない。建築家が意図するオブジェが、自らを成り立たせる空間だけでなく、周辺をも巻き沿いにしていく...

「運命の皮肉だろうか、あなたの喜ぶ表現によれば、宿命的なもののアイロニーだろうか、私は東京湾の対岸数キロの海面だけによって隔てられた場所に、向かい合うようにして、非物質化された巨大タワーを建設することになった。このビルから、私は地平線に私の格子の配置と、数学的で人為的な私の日没を観るだろう!」
... ジャン・ヌーヴェル

2025-06-08

"バッハ - 神はわが王なり" Paul du Bouchet 著

バッハに目覚める...
そう思えるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたりであろうか。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ... 目覚めも悪くなる。
ルター派教義のエヴァンゲリストが音符で福音を刻めば、聖トマス教会の高くて広々とした天井空間が威光を放ち、臨場感あふれる音響効果を演出する。卓越した知性が、神との対話の場を求めるのか。対位法とは、神との対話術であったか...
尚、高野優訳、樋口隆一監修版(創元社)を手に取る。

「神の言葉を除けば、ただ音楽だけが称賛されるに値する。... 悲しみに沈む者を慰める時、喜びに溢れる者を恐れさせる時、絶望した人々に勇気を与え、高慢な人々を打ち砕く時、恋人たちの気持ちを静め、憎みあう者たちの心をやわらげる時... 音楽以上に効果を発揮するものがあろうか...」
... マルティン・ルター「音楽礼賛」より

宗教音楽といえば、通常、教会で定められた規則に従い、典礼で演奏される音楽のことを言うのであろう。しかし、バッハの宗教音楽は違う。そんな枠組みを超越した何かがある。神と語り合うのに、神聖も世俗もあるまい。
但し、神の声を聞くには、資格がいるらしい...

「聖と俗の飽くなき共存。バッハの音楽の魅力の根源は、まさにこの矛盾にあるのかも知れない。」
... 樋口隆一

時は、西洋音楽界がイタリアオペラを中心とした時代、ルネサンス音楽からバロック音楽へ...
バロックといえば、建築や彫刻の世界で、複雑で矛盾に満ちた人間の情念を総合的に表現しようとして生まれた様式。建築物では曲線を多用し、過剰とも思える装飾を施す。
こうした傾向が音楽の世界にも波及し、当時、音楽後進国だったドイツにおいて、情熱的なイタリア様式と合理的なフランス様式とを統合する形で花開く。
バッハは、この潮流に乗って、ポリフォニーの伝統を集大成した。しかしながら、当時の聴衆は、かなり困惑した様子。カルチャーショックか!
飾りっ気が多く、複雑な構造に、技巧過剰、主声部がどこにあるのかも分からない... といった批判に晒される。
バッハの性格は、宗教書を読み耽る深い精神の中にあり、人々と温和に接するも、こと音楽となると妥協を許さず、あたり構わず怒りを爆発させる側面があったという。斬新な手法を見せつければ、音楽家の中にも敵が多い。
だとしても、演奏家には珍しく、教育家としても優れた資質を持ち、鍵盤楽器の運指法を伝授する。21世紀ともなれば、YouTube などで実演が観覧できるものの、理想的な指運びが困難を克服できるかという問題は、いつの時代にもまとわりつく。
そして、バッハに還れ!と標語めいたものが、未だに語り継がれる。

「ベートヴェンのソナタは新約聖書である。そして、バッハの平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書である。」
... 指揮者ハンス・フォン・ビューロー

バッハが綴る音符配列に、数学の法則を見る...
協和音と不協和音の融合に多声部が複雑に絡み合うという、一見矛盾した構造が調和に満ちたポリフォニーを奏でる。作品には長調と短調が入り乱れ、進行形と反行形が共存しながら、ときおり鏡像のごとく回転し、音符列を長く拡大するかと思えば、音符列を短く縮小して魅せ... まるでユークリッド幾何学。こうした図形操作に、カノンからフーガに至る流れを観る。
そして、シェーンベルクが体系化した十二音技法を巧みに操り、独創的な平均律を編み出す。平均律クラヴィーア曲集には、バッハ自身がこのような表題を付したという...

「平均律クラヴィーア曲集。すなわち、長 3 度(ド、レ、ミ)と短 3 度(レ、ミ、ファ)をともに含む、すべての全音と半音による前奏曲とフーガ。学習を望むすべての若い音楽家に、そしてすでに熟練した技術を持つ音楽家の楽しみのために...」

2025-06-01

"マタイ受難曲" 礒山雅 著

クラシック音楽に目覚めたのは、小学生の頃であったか。ドヴォルザークに始まり、ベートーヴェンに、チャイコフスキーに、モーツァルトに、ショパンに嵌った記憶がかすかに蘇る。
しかしながら、バッハとなると、ずっと敬遠してきたところがある。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ...
ヤツは、ルター派教義のエヴァンゲリストか。音符で綴る福音主義者か。説教臭が漂ってやがる。
それでも、バッハに癒やされるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたり。巨匠が奏でる音空間には、音楽を超えた何かがある。信仰を超越した何かがある。卓越した知性が神との対話へと誘ない、救済を超えた何かが...
本書は、マタイ福音書の受難物語を通して、バッハが思い描いたであろう情景を物語ってくれる。

「深沈とした管楽曲の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる悲痛な合唱... マタイ受難曲といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれのマタイに対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜならマタイ受難曲の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど大胆なものだから...」

大合唱が終わると、福音書記者が口を開く...
時は、ユダヤ教の大祭、過越祭の二日前、イエスは受難を預言する。信仰厚い女が香油を注ぐ。香油は涙となり、受難曲は懺悔と悔悛へと流れゆく。人間は、罪を背負う定めにあるのか...
十二人の弟子の中に裏切り者が...
ユダの密告。過越の聖なる食事が、最後の晩餐に。パンとぶどう酒は、キリストの身体と血に還元される。晩餐の後の讃美歌、続いてオリーブ山での弟子たちとの語りをコラールで綴る。ゲッセマネの園では、受難を前にしたイエスの深い人間的苦悩を歌う。苦悩の原因はわれわれ自身の中に...

「第10番目のヘ短調は、温和で落ち着いていると同時に、深く重苦しく、なにかしら絶望と関係があるような死ぬほどの心の不安をあらわすように思える。加えてこの調には、並外れて人の心を動かす力がある。ヘ短調は、暗く救いようのないメランコリーをみごとに表現し、ときおり、聴き手に恐怖心や戦慄を感じさせる...」

ついにナザレのイエス、群衆に捕らわる。ユダよ!あなたは接吻で人を裏切るのか...
大祭司邸での審問では、沈黙するイエスにツバを吐きかけ、顔面を殴り。おまけに、ペトロの否認!イエス?そんな人は知らぬ。だが、主を否認したことを悔いる。涙は傷ついた心の血!
そして、イエスの死刑宣告。ペトロの嘆きに憐れみのアリアを歌い、ユダの自殺に憐れみのアリアが続く...
悔い改め、懺悔すれば、すべてチャラ!これがキリスト教の教えか。そして、復活を見据えずにはいられない。

イエスはというと...
他人を助けて自分自身が救えないとなれば、その無力さが死に値するというのか。いや、穢れた人間社会から解放され、自由の身になれたのやもしれぬ。血まみれた十字架を前に、己の愚かさを思い知る人間ども。日蝕まがいの闇があたりを覆う。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです...

「主の怒りは燃え上がり、大地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。... 本当にこの方は、神の子だったのだ。」

愛とはなにか。周知のものでありながら、疑いなく実感できるものでありながら、その真なるものを知らぬ。自己を愛せぬ者に他人を愛せるのか。他人を愛せぬ者に自己を愛せるのか。自己を知らねば、盲目であり続けるほかはない。永遠に...
人間ってやつは、己の身体を墓とし、己の心で墓標を刻む、そんな存在なのやもしれん。ここに、INRI を掲げた十字架像とともに受難曲の完成を見る...

"IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM"
(ナザレのイエス、ユダヤ人の王)