世間で忌み嫌われる孤独。孤独死ともなれば、最悪の結末のような言われよう。しかしながら、集団の中にこそ孤独がある。
人間の性格には誰でも、ナルシス的な側面もあれば、独善的な側面もある。結局は、自己存在に対する意識の持ちよう。こうした性格をいかに克服するか。しかも、自問の過程で...
芸術の創造性は、たった一人のひたむきな情熱によって生み出されてきた。寂しささを知らなければ、詩人にもなれまい。満たされた人間には、悲痛感慨な文体を編むこともできまい。
人間ってやつは、何かに依存し、影響し合わなければ生きてはゆけない。たいていの人は社会福祉制度にたかり、属す集団を頼みとし、集団意識に縋って生きている。
アリストテレスは、人間をポリス的な動物と定義した。ポリス的とは、単に社会的というだけでなく、互いに善く生きるための共同体といった意味を含むのであろう。だが、実際は依存意識がすこぶる強い。ならば、何に依存して生きてゆくか...
ディヴィッド・リースマンは、「自律性」を強調する。うん~... これが最も厄介な代物。孤独を克服できれば、孤独死ですら理想的な死となるやもしれん...
尚、 加藤秀俊訳版(みすず書房)を手に取る。
「人間の敵たりうるのは人間だけである。人間の行為や生活の意味を奪うことのできるのは、かれじしんだけなのだ。なぜなら、その意味の存在を確認し、自由という現実の事実として、それを認識できるのは、かれだけだからである。」
... シモーヌ・ド・ボーヴォワール
リースマンは、人間の性格を大まかに「内部指向型」と「他人指向型」に分類し、この二つの型に社会を特徴づける三つのタイプ「適応型、アノミー型、自律型」を絡めながら論ずる。
内部指向型の人間は、自分自身を人間以外の対象物との関係において考えるという。組織の中で、人との協力関係よりも、技術的、かつ知的なプロセスとして捉える傾向がある。
対して、他人指向型の人間は、仕事や組織を人との関係において考えるという。自我にはっきりとした核を持っていない。だから、自我からも逃避することができない。
世間体を気にする傾向が強いのは、他人指向型であろう。自律性においては、内部指向型の方が優位にも見える。だが、自己優越感は内部指向型の方が強く、客観的な視点から発する謙虚さでも優位とは言えない。
内部指向型は、農村部の伝統指向とも相性がいいらしい。頑固オヤジといった形容も当てはまりそうな。他人からの批判を恐れ、自己批判によって自己防衛する傾向もある。
他人指向型は、情報過多な大都市部に多いタイプだという。情報に敏感なのは、流行遅れを恐れてのことか。評判やカリスマ性に群がり、個人の思考が一本化して集約される傾向にある。人気投票的な消費行動を旺盛にし、ベストセラーに群がる傾向あり...
結局、自律を目指すのに、どちらの型が優位ということではなく、己を知るという問題を抱えたまま。そして、適応と自律を欠けばアノミーへ。自己を見失い、自己を破滅させるのは、型の問題ではなさそうだ...
「個人主義とは、ふたつのタイプの社会組織のあいだの過渡的な段階である。」
... W. I. タマス
また、本書に散りばめられる挑発的で皮肉じみた用語が目に付く。とりあえず、「内幕情報屋」、「メッセージの卸し問屋」、「まやかしの人格化」といったところを拾っておこう。
昔から蔓延る道徳屋は、内部指向型の傾向が強く、ネット社会でも理性の管理者となり、誹謗中傷で凶暴化する。
対して、内幕情報屋は、他人指向型の傾向が強いという。要人との人間関係から内部情報に詳しいだけで済む場合と、あわよくば間接的に要人を動かして社会を支配しようとする。そうした人間は、その種のサークルを作るという。記者クラブもその類いか。情報理論によると、メッセージにはノイズが交じることになっているが、現代風に「マスゴミ」という形容も当てはまる。
但し、超一流の扇動者は、けして嘘をつかない。些細なニュースを大袈裟に持ち上げ、重要なニュースをささやかに報じる。これが、世論を扇動できる報道原理か...
とはいえ、真実が必ずしも真実らしく見えるとは限らない。嘘の方が真実っぽく見えることも多々ある。現代社会では、真実っぽく見せる技術が重宝される。言葉を商品とすれば、コミュニケーション産業の小売業者となり、言葉を武器とすれば、特殊工作部隊の最前線を行く。
ネット検索ともなると能動的な活動だけに、自分の意志で考えていると思いがち。だが、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
では、マスコミを扇動しているのは誰か?広告屋か?それとも他に黒幕が?それこそ群衆自身なのやもしれん...
「現在にあっては人と同調しないこと、慣習の前にひざを屈しないことはそれ自体、ひとつの奉仕である。」
... J. S. ミル