2025-09-21

"動物のことば" Nikolaas Tinbergen 著

原題 "Social Behaviour in Animals - With Special Reference to Vertebrates."
これに「動物のことば」との邦題を与えた翻訳センスはなかなか...
尚、渡辺宗孝、日高敏隆、宇野弘之訳版(みすず書房)を手に取る。

動物の社会的行動は、なんらかのシグナルを発する。シグナルは受け手と送り手が互いに反応しあうことで成立し、人間社会では、ことばが重要な役割を担う。
生物学の一分野に「動物行動学」というのがある。本来の生物学的な生理的、生態的な行動から少しばかり距離を置き、社会科学的な観点から集団行動に着目する。いわば、動物のコミュニケーションに。動物にとってのことばとは...

ところで、こいつは本当に動物を物語ったものであろうか...
社会構造の発達において、様々な協同形態を外観しながら、「機能、仕組み、進化」という三点から考察を加えていく。その過程で孤立性と社会性が入り乱れ、捕食者に対して防衛姿勢や威嚇行動が生じ、同種間で求愛行動や調節作用が生じる。昆虫社会に高度化した隷属国家を見、動物社会に社交化した大衆国家を見、まるで人間社会!

但し、人間社会の場合、敵は捕食者ではなく、むしろ同種!
知能の発達に伴い、縄張り意識が強まり、所有の概念を巧妙化させ、なにかと衝突が生じる。そればかりか、考え方や生き方の違いをより意識させ、同種といえども差別せずにはいられない。様々な人が入り乱れれば、それだけ敵も増えるというわけだ。
ことばを解せないということが、いかに平和であるか。どうりで、文句を垂れないペットに愛着を深めていく。動物と人間の違いとは、敵と同種の区別の仕方、その意識の違い、それだけのことやもしれん...

社会的とは、互いに反応しあって、何らかの秩序が保たれる状態を言うらしい。一番単純な協同は同じことをすること。餌を漁るのも、移動するのも、眠るのも... 動物にも社会構成がある証拠は、いくらでも見つかる。短時間の性的つながり以上に発達していない動物もいれば、社交場に群れては統率者が現れたり、長ったらしい儀式めいたものが生じたり、説き伏せや甘えといった行動まで見て取れる。
そして、昆虫国家に高度に統制された分業社会を見る。

「分業はミツバチの社会こそその極致であろう。卵を生むのは女王ばかり、また雄は処女の女王に授精する他に役目はない。その他のすべての仕事は働蜂、すなわち不妊症の雌がひきうける。働蜂には巣室を作るもの、幼虫の世話をするもの、また巣を守り侵入者を追い払うもの、飛び出して蜜や花粉を集めるもの、その他さまざまなものがいる。云々... 雄の求愛行為が刺激となって雌も協同動作をなし、雌雄は交尾器の合致ばかりでなく、実際の交尾動作においてもよく合致する。いろいろな動物においてこの協同がなされるその方法たるや、まさに無数...」

多くの動物は、リリーサーの機能を持っているという。色合い、鳴き声、匂い、仕草のパターンといったものが触発要因となる。他種の動物を誘い込む動物もいれば、逆に誘いを回避する動物もいる。姿形をカムフラージュすれば、まるで兵士戦術。
一方、人間はというと、化け物に扮す。お化粧もその類いか...

求愛行動にも、大きな役割がある。まず雄雌一匹ずつが出会い、両者の間で時間的な調整が行われ、互いに身体に触れても嫌がることなく、さまざまな共有が生まれる。そして何よりも、種間の交雑を防ぐことが重要となる。配偶行動にしても、交尾だけでなく、先立つ長い予備行動が含まれている。
そして、多くの動物は家族よりも大きな群れをつくる。集団でいると何かと御利益があり、一番の利点は捕食者からの防衛であろう。個体間の合図による信号系は、集団間においても機能する。
競争や闘争にも、それなりに役割があるらしい。個体間だけでなく集団間においても適当に距離を置き、有害な密集を防ぐといった、種族にとって大きな効用をもたらす。

また、動物の行動パターンに「つつきの順位」というものがあるそうな。それは、直線的で直接的な順位付けをいうらしい。本能的な意識とも言えそうだが、こうしたものが闘争の機会を減らす要因になるという。例えば、自分より優位にある個体を避けることを早く学習することが長生きの秘訣というわけだ。
人間の意識にも様々な順位が見て取れ、優劣関係と絡む。家柄や出生の優劣、経済的優劣、能力の優劣、男女の優劣など。こうした優劣の間で階級闘争が生じる。生殖闘争は自由や平等といった感覚を遠ざけるようだ...

「つつきの順位を決める行動にはかなり興味深い面がある。ローレンツはコクマルガラスで次のようなことを見出した。すなわち、下位にある雌がずっと上位の雄と婚約すると、この雌はすぐ雄と同列にまで昇進し、この雄よりも下位にある個体はすべて、たとえ以前この雌よりも上位にあった個体でも、この雌を避ける。」

2025-09-14

"文学とは何か" Jean-Paul Sartre 著

書くとはどういうことか... 何ゆえ書くのか... 誰のために... 誰しも理由があろう。ある者は逃避のために... ある者は征服のために... それでいったい何から逃避しようというのか、何を征服しようというのか。サルトルは、素朴な問い掛けによって彼自身が悶々とする世界に読者を引きずり込む。文学とは、牢獄への道連れか...
尚、加藤周一、白井健三郎、海老坂武訳版(人文書院)を手に取る。

「われわれは瞞着の時代に生きている。社会構造に帰因する根本的瞞着があり、二次的な瞞着がある。社会秩序はこんにち、無秩序がそうであるのと同じように、もろもろの意識の瞞着の上にやすらっている。」

ある登山家は言った。そこに山があるから... と。そこに筆があるから、そこに紙があるから、あるいは、読者がいるから、希望を求めて、単なる独り善がり.. と、いくらでも理由はつけられる。しかも、作家は一人では作品を完成しえない。作家には読者が必要なのだ。作家の主観性を読者の客観性で補い、双方とも高みに登ろうと、まるで登山家気取り。そして、書く芸術を偏見なしに観賞することの難しさを思い知る。

「私は自由から生れ、自由を目的とする感情を高邁とよぶ。かくして読書とは、高邁な心の行使である。作者が読者から要求するものは、抽象的な自由の適用ではなく、読者の全人格をそっくり贈与することである。その情念、その偏見、その共感、その性的欲望、その価値の尺度を贈与することである。ただその人格は高邁な心でおのれを与え、自由はこの人格のあらゆる部分に浸透して、その感受性のもっとも暗いかたまりさえも変形する。活動性はよりよく対象をつくりだすために受動的となるので、受動性は逆に行為となる。読書をする人間は、そうして、自己を最高のところまでたかめる。」

文才は、退屈な日常までも物語にしちまう。幸せな人間に、こんな芸当ができるはずもない。不幸の自覚もなさそうだ。自分の不運を愛し、自分の不遇に酔い、自分の傷を舐めるように書く。狂人ゆえに書かずにはいられないのか。我が道を狂信的なまでに追求せずにはいられないのか。だから幸せだというのか...
書くということは、啖呵にすぎないのやもしれん。具現化した文体と抽象化した思考の狭間で、現実社会と個人的ヴィジョンを対峙させ、自己の中で直感と論理がせめぎ合う。その過程で人間の限界をつきつけられ、時には理性を崩壊させ、時には狂気にすがり、死に救われることも。作家とは、病める人間を言うのか。読者を巻き添えに...

読者は読者でより大きな刺激を求め、この退屈病は如何ともし難い。喜劇よりも悲劇に感動を求め、楽観よりも苦悩を欲し、仕舞には人類を救え!とふっかける。
作家の理性に限界を知るや、批判の態度に活路を見いだす。だが、批判自体は肯定的な解決をもたらさない。そればかりか、くだらぬ非難の応酬に、誹謗中傷を喰らわす。
芸術には抽象化によって高尚さを装う技術があるが、作家もまた批判から逃れるために対象を曖昧にし、自己を曖昧にする技法を旺盛にしていく。かくして作家は、イデオロギーに蝕まれ、ドグマに毒され、偏狭に埋もれる読者を救えるだろうか...

「純粋の文学とは、かくのごときものである。即ち客観性の形をとって胸中を打ち明ける主観性、奇妙なしかけで沈黙と同じ意味をもつ言説、自分自身に意義を唱える思想、狂気の仮面にすぎない理性、おのれは歴史の一契機でしかないということをほのめかしている永遠、内幕を曝け出すことによって突如永遠の人間を指し示す歴史の一契機、たえざる教育、だが教える人々の明白な意志に反しておこなわれる教育...」

2025-09-07

"第三身分とは何か" Emmanuel-Joseph Sieyès 著

フランス革命前夜、エマニュエル=ジョゼフ・シィエスは聖職者や貴族が保持する特権身分を批判し、国民議会の設立を唱える。歴史を動かした書というものがあるが、本書もその一つに数えられるそうな...
尚、稲本洋之助、伊藤洋一、川出良枝、松本英実訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書の構想は単純なもので、三つの論考によって組み立てられる。
  • 第三身分とは何か... 全てである。
  • 第三身分は、これまで何であったか... 無であった。
  • 第三身分は何を要求しているのか... 何がしかのものになることを。

フランスには、もともと三部会というものがあり、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成される。王権と教皇権の争いのさなか、国王が国民の支持を得て優位に立とうと開催したものだが、絶対王政の時代ともに廃れていった。ルソーの社会契約論は知識人に広く知られていたものの、当時はまだ国民相互間の契約ではなく、支配者との服従契約という意味合いが強かったようである。
シィエスは、こうした世情に苦言を呈し、モンテスキュー風に法の下での平等を強調する。そして、国民主権、代議制、憲法制定議会と通常議会の区別といった概念を論じる。彼が提唱するものは、現在では民主主義の基本原理として自明とされるものだが、これらを実践するとなると、未だ...

「モラルに関しては、簡素で自然な手段に代わりうるものはない。しかし、人は無益な試みに時間を費やせば費やすほど、やり直すという考えを恐れるようになる。もう一度はじめからやり直しやりとげるよりも、時にはことのなりゆきに任せ浅薄な策を弄する方がよいとでも言うかのように。このようなやり方をいくら繰り返しても、一向に進歩はない!」

本書は、革命前夜のパンフレットらしく、急進的な発言が目につく。第三身分こそ国民であるべき、いや、国民ならば第三身分であるべき。したがって、特権身分は国民ではない。聖職者特権であぐらをかく輩と、国王にへつらって租税を免れる貴族どもは、もはや有害!奴らを国民議会から排除せよ!と...
21世紀の現在でも、よく耳にするのが、政治家は庶民生活がわかっていない... というもの。それを言うなら、庶民だって政治家という人種をわかっちゃいない。わかりたいとも思わんが。既得権益に守られた輩が蔓延る世情もまた、あまり代わり映えしない。民主主義への道はまだまだ遠いということか。いや、人類が背負うには重過ぎるのやもしれん...

「人間は、一般に、自分より上位にある者全てを自分と平等にしようと強く願う。そこでは、人は、学者として振る舞う。ところが、同じ原理が彼らより下位にある者によって主張されるのに気づくや、この平等という言葉は、彼らにとって忌まわしいものとなる。」

国民の側にしても、何か要求したいのだが、何を要求すべきかが分からない。そもそも、国民がどうあるべきを分かっていない。それは、経済活動における消費者心理にも見受けられる。新商品は企業が提案するもので、これに満足するか、難癖をつけるか、多くの消費者はオススメと評判に動かされる。こうした構図は、政治とて同じ。どんな政策を望むかより、提案された政策に賛同するか、拒否するか、そういう形でしか自分の意思が確認できない。
そう、「何がしかのものになることを...」望むのである。あえて言うなら、最低限の人権ということになろうか。第三身分、すなわち、真の国民がこれまで無であったのなら、これを有に変えるには、かなりの意識改革が必要なようである...

「上位二身分にも、第三身分の権利回復が、利益となることは確かである。公の自由の保障は真の力が存するところにしか存在しえないということに、目をつぶってはならない。われわれは、人民とともに、かつ、人民によってでなければ、自由たりえないのである。」