2025-06-08

"バッハ - 神はわが王なり" Paul du Bouchet 著

バッハに目覚める...
そう思えるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたりであろうか。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ... 目覚めも悪くなる。
ルター派教義のエヴァンゲリストが音符で福音を刻めば、聖トマス教会の高くて広々とした天井空間が威光を放ち、臨場感あふれる音響効果を演出する。卓越した知性が、神との対話の場を求めるのか。対位法とは、神との対話術であったか...
尚、高野優訳、樋口隆一監修版(創元社)を手に取る。

「神の言葉を除けば、ただ音楽だけが称賛されるに値する。... 悲しみに沈む者を慰める時、喜びに溢れる者を恐れさせる時、絶望した人々に勇気を与え、高慢な人々を打ち砕く時、恋人たちの気持ちを静め、憎みあう者たちの心をやわらげる時... 音楽以上に効果を発揮するものがあろうか...」
... マルティン・ルター「音楽礼賛」より

宗教音楽といえば、通常、教会で定められた規則に従い、典礼で演奏される音楽のことを言うのであろう。しかし、バッハの宗教音楽は違う。そんな枠組みを超越した何かがある。神と語り合うのに、神聖も世俗もあるまい。
但し、神の声を聞くには、資格がいるらしい...

「聖と俗の飽くなき共存。バッハの音楽の魅力の根源は、まさにこの矛盾にあるのかも知れない。」
... 樋口隆一

時は、西洋音楽界がイタリアオペラを中心とした時代、ルネサンス音楽からバロック音楽へ...
バロックといえば、建築や彫刻の世界で、複雑で矛盾に満ちた人間の情念を総合的に表現しようとして生まれた様式。建築物では曲線を多用し、過剰とも思える装飾を施す。
こうした傾向が音楽の世界にも波及し、当時、音楽後進国だったドイツにおいて、情熱的なイタリア様式と合理的なフランス様式とを統合する形で花開く。
バッハは、この潮流に乗って、ポリフォニーの伝統を集大成した。しかしながら、当時の聴衆は、かなり困惑した様子。カルチャーショックか!
飾りっ気が多く、複雑な構造に、技巧過剰、主声部がどこにあるのかも分からない... といった批判に晒される。
バッハの性格は、宗教書を読み耽る深い精神の中にあり、人々と温和に接するも、こと音楽となると妥協を許さず、あたり構わず怒りを爆発させる側面があったという。斬新な手法を見せつければ、音楽家の中にも敵が多い。
だとしても、演奏家には珍しく、教育家としても優れた資質を持ち、鍵盤楽器の運指法を伝授する。21世紀ともなれば、YouTube などで実演が観覧できるものの、理想的な指運びが困難を克服できるかという問題は、いつの時代にもまとわりつく。
そして、バッハに還れ!と標語めいたものが、未だに語り継がれる。

「ベートヴェンのソナタは新約聖書である。そして、バッハの平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書である。」
... 指揮者ハンス・フォン・ビューロー

バッハが綴る音符配列に、数学の法則を見る...
協和音と不協和音の融合に多声部が複雑に絡み合うという、一見矛盾した構造が調和に満ちたポリフォニーを奏でる。作品には長調と短調が入り乱れ、進行形と反行形が共存しながら、ときおり鏡像のごとく回転し、音符列を長く拡大するかと思えば、音符列を短く縮小して魅せ... まるでユークリッド幾何学。こうした図形操作に、カノンからフーガに至る流れを観る。
そして、シェーンベルクが体系化した十二音技法を巧みに操り、独創的な平均律を編み出す。平均律クラヴィーア曲集には、バッハ自身がこのような表題を付したという...

「平均律クラヴィーア曲集。すなわち、長 3 度(ド、レ、ミ)と短 3 度(レ、ミ、ファ)をともに含む、すべての全音と半音による前奏曲とフーガ。学習を望むすべての若い音楽家に、そしてすでに熟練した技術を持つ音楽家の楽しみのために...」

2025-06-01

"マタイ受難曲" 礒山雅 著

クラシック音楽に目覚めたのは、小学生の頃であったか。ドヴォルザークに始まり、ベートーヴェンに、チャイコフスキーに、モーツァルトに、ショパンに嵌った記憶がかすかに蘇る。
しかしながら、バッハとなると、ずっと敬遠してきたところがある。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ...
ヤツは、ルター派教義のエヴァンゲリストか。音符で綴る福音主義者か。説教臭が漂ってやがる。
それでも、バッハに癒やされるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたり。巨匠が奏でる音空間には、音楽を超えた何かがある。信仰を超越した何かがある。卓越した知性が神との対話へと誘ない、救済を超えた何かが...
本書は、マタイ福音書の受難物語を通して、バッハが思い描いたであろう情景を物語ってくれる。

「深沈とした管楽曲の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる悲痛な合唱... マタイ受難曲といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれのマタイに対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜならマタイ受難曲の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど大胆なものだから...」

大合唱が終わると、福音書記者が口を開く...
時は、ユダヤ教の大祭、過越祭の二日前、イエスは受難を預言する。信仰厚い女が香油を注ぐ。香油は涙となり、受難曲は懺悔と悔悛へと流れゆく。人間は、罪を背負う定めにあるのか...
十二人の弟子の中に裏切り者が...
ユダの密告。過越の聖なる食事が、最後の晩餐に。パンとぶどう酒は、キリストの身体と血に還元される。晩餐の後の讃美歌、続いてオリーブ山での弟子たちとの語りをコラールで綴る。ゲッセマネの園では、受難を前にしたイエスの深い人間的苦悩を歌う。苦悩の原因はわれわれ自身の中に...

「第10番目のヘ短調は、温和で落ち着いていると同時に、深く重苦しく、なにかしら絶望と関係があるような死ぬほどの心の不安をあらわすように思える。加えてこの調には、並外れて人の心を動かす力がある。ヘ短調は、暗く救いようのないメランコリーをみごとに表現し、ときおり、聴き手に恐怖心や戦慄を感じさせる...」

ついにナザレのイエス、群衆に捕らわる。ユダよ!あなたは接吻で人を裏切るのか...
大祭司邸での審問では、沈黙するイエスにツバを吐きかけ、顔面を殴り。おまけに、ペトロの否認!イエス?そんな人は知らぬ。だが、主を否認したことを悔いる。涙は傷ついた心の血!
そして、イエスの死刑宣告。ペトロの嘆きに憐れみのアリアを歌い、ユダの自殺に憐れみのアリアが続く...
悔い改め、懺悔すれば、すべてチャラ!これがキリスト教の教えか。そして、復活を見据えずにはいられない。

イエスはというと...
他人を助けて自分自身が救えないとなれば、その無力さが死に値するというのか。いや、穢れた人間社会から解放され、自由の身になれたのやもしれぬ。血まみれた十字架を前に、己の愚かさを思い知る人間ども。日蝕まがいの闇があたりを覆う。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです...

「主の怒りは燃え上がり、大地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。... 本当にこの方は、神の子だったのだ。」

愛とはなにか。周知のものでありながら、疑いなく実感できるものでありながら、その真なるものを知らぬ。自己を愛せぬ者に他人を愛せるのか。他人を愛せぬ者に自己を愛せるのか。自己を知らねば、盲目であり続けるほかはない。永遠に...
人間ってやつは、己の身体を墓とし、己の心で墓標を刻む、そんな存在なのやもしれん。ここに、INRI を掲げた十字架像とともに受難曲の完成を見る...

"IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM"
(ナザレのイエス、ユダヤ人の王)

2025-05-25

"統辞構造論" Noam Chomsky 著

言語学の革命と称される生成文法理論の誕生は、「統辞構造論」という一冊の小冊子によって告げられたという。それは、当時流行していた二つの理論の限界を示しつつ、これらに論理構造という視点を加味する形で展開されるとか...
尚、本書には「言語理論の論理構造 序論」も併録され、福井直樹、辻子美保子訳版(岩波文庫)を手に取る。

二つの理論とは、初歩的な生成文法としての形態音素論と、有限状態マルコフ過程に基づく形式文法である。そこには、「変換」という概念からのアプローチが披露され、語句の置換や代入、挿入や削除といった操作は、まるで代数学!
ノーム・チョムスキーの視点は、ソシュールの構造主義を踏襲しているのだろうか。言語システムを一つの集合体として捉え、それが有機体のごとくうごめくような。言語の運用と能力、そしてなによりも、その慣習に人間の姿を投射して魅せる。
あるいは、句構造のツリー分解、再帰的特性や巡回、語彙羅列や文脈依存、同義性と多義性、音素的弁別性と意味特性の結びつきなどの考察は、哲学と数理論理学の融合を思わせる。言語学は、いや、あらゆる学は、自然科学であるべし!と告げるかのように...

おそらく、自然言語には普遍法則なるものが存在するのだろう。文法構造には、完全に規定できる変換法則なるものがあるのだろうか。例外を認めれば、それに近いものはあるだろう。生得的に学習できる何かがが。帰納的に組み込まれた何かが...
言語には、数学で言うところの不完全性の問題を孕んでいるものの、各国語の文法は、VO型、SOV型、VSO型などで規定され、英語で言うところの WH 疑問文のような雛形もある。
そして、意味を与えることなく文法を与えることはできるのか、という疑問がわく...

元々、言語システムには変化の余地が組み込まれている。
語句や文体の使われ方は時代とともに変化し、誤用の方が庶民の圧倒的支持を得れば、それが主流となる。文法の正当性を組織化することは、国語辞典や文法事典などでは心もとない。この変化の余地は、言語が精神の投射装置として機能している以上、避けられまい。そもそも精神ってやつの実体が完全に解明できない限り、言語もまた完全な体系として説明することはできまい。そして、それは人類にとっての永遠のテーマの一つとなろう。己を知るというテーマとして...
こうした状況を尻目に、小説家たちは新たな表現様式を次々と編み出してくる。言語の競争原理としての表現のテクニックや派生のおかげで、言葉が豊かになるのも確か。これこそが言語の本質やもしれん...

そして、本書とは関係ないが、あるフレーズが頭に浮かぶ...

「文法は言語の規則とみなされている。だが、日本語をしゃべっている者がその文法を知っているだろうか。そもそも文法は、外国語や古典言語を学ぶための方法として見出されたものである。文法は規則ではなく、規則性なのだ。... 私は外国人のまちがいに対して、その文法的根拠を示せない。たんに、"そんなふうにはいわないからいわない"というだけである。その意味では、私は日本語の文法を知らないのである。私はたんに用法を知っているだけである。」
... 「定本 柄谷行人集、ネーションと美学」より...

2025-05-18

WinScreeny との戯れ!ジャンクコマンドに癒やされる...

気分転換に、WinScreeny...
それは、Cygwin 版 ScreenFetch といったところ。そう、unix 系でお馴染みのアスキーアートだ。CLI 環境が手放せずにいるネアンデルタール人の憩いの場!
人生とは、無駄をいかに楽しむか!ということであろうか。それで、無駄も無駄ではなくなるような...

さて、こいつの良いところは、なんといっても bash で書かれていること。おかげで、いかようにもカスタマイズできる。つまり、Cygwin である必要もないのだ。これぞ自由感!
我が環境では、二つほど warning が出力されるが、コードを見れば一目瞭然!勉強にもなって、ありがたや!ありがたや!
尚、GitHub からダウンロードできる。


 1. 出力は、こんな感じ...
● WinScreeny for Cygwin

#! /bin/bash
screeny
figlet -w 110 -f slant -c "CYGWIN x64"



● ScreenFetch for Roccky Linux(参考まで)

#! /bin/bash
screenfetch-dev
figlet -w 110 -f slant -c "Rock Linux 9"



2. 押さえておきたいワザは、二つ...
● 一つは、変数 "display" で宣言した項目数でループをかけて、detect*() 関数をアクティブ化。

  ...
#display=( Host Cpu OS Arch Shell Motherboard HDD Memory Uptime Resolution DE WM WMTheme Font )
display=( Host Cpu OS Arch Shell Motherboard HDD Memory Uptime Resolution DE WM WMTheme Font GPU Kernel )
  ...

detectHost () { ... }
detectCpu () { ... }
  ...
detectGPU () { ... }
detectKernel () { ... }
  ...

# Loops :>
for i in "${display[@]}"; do
  [[ "${display[*]}" =~ "$i" ]] && detect${i}
done
  ...
尚、GPU と Kernel を追加してカスタマイズ。

● 二つは、文字色と背景色をエスケープシーケンスのカラーコードで抽象化。

  ...
f=3 b=4
for j in f b; do
  for i in {0..7}; do
    printf -v $j$i %b "\e[${!j}${i}m"
  done
done
  ...

cat << EOF
    ...
  ${f1}OS: ${f3}${os} ${arch}
  ${f1}CPU: ${f3}${cpu}
    ...
EOF

# ---- 文字色変数 $f* ----
# $f0 =>  "\e[30m  :Black
# $f1 =>  "\e[31m  :Red
# $f2 =>  "\e[32m  :Green
# $f3 =>  "\e[33m  :Yellow
# $f4 =>  "\e[34m  :Blue
# $f5 =>  "\e[35m  :Magenta
# $f6 =>  "\e[36m  :Cyan
# $f7 =>  "\e[37m  :White

# ---- 背景色変数 $b* ----
# $b0 =>  "\e[40m  :Black
# $b1 =>  "\e[41m  :Red
# $b2 =>  "\e[42m  :Green
# $b3 =>  "\e[43m  :Yellow
# $b4 =>  "\e[44m  :Blue
# $b5 =>  "\e[45m  :Magenta
# $b6 =>  "\e[46m  :Cyan
# $b7 =>  "\e[47m  :White
尚、printf 文は、-v オプションで変数に直接代入できるんだぁ...

2025-05-11

xdotool との戯れ!Window ID の取得で、ちと悩むものの...

起動位置やウィンドウサイズを記憶してくれないアプリケーションがある。
gnome-terminal のように、--geometry オプションが使えるとありがたいが、できないアプリケーションもある。すべてのウィンドウ配置をコマンドラインで制御したいというのは、いまだ awk や sed が手放せずにいるネアンデルタール人の感覚か... 

ちなみに、nautilus や mutter では、痒いところに手が届かない。
ウィンドウのサイズは、nautilus から...
$ dconf-editor
org/gnome/nautilus/window-state に "initial-size" があり、自動で変化する模様。
ウィンドウの起動位置は、mutter から...
$ dconf-editor
org/gnome/mutter に "center-new-windows" の on/off しか見当たらない。

0. てなわけで、xdotool を試す...

$ sudo dnf install xdotool

尚、環境は...
OS: Rock Linux 9.5 (Blue Onyx)
Kernel: 5.14.0-503.38.1.el9_5.x86_64
Gnome Version: 40.4.0
Gnome 環境: スタンダード(X11ディスプレイサーバー)

1. 手順は、こんな感じ...
  1. Window ID を取得: xdotool search --name(or --class) "ウィンドウ名"
  2. Window ID を指定して移動: xdotool windowmove "Window ID" X Y
Window ID さえ取得できれば、なんとかなりそう...

2. 例えば、chrome では、素直にうまくいく。
$ xdotool search --neme chrome
39845892
$ xdotool windowmove 39845892 100 200

3. しかし例えば、baobab「ディスク使用量アナライザ」では、うまくいかない。
尚、baobab は、ウィンドウサイズは記憶してくれるが、起動位置は記憶してくれない。
$ xdotool search --name baobab
33554433
$ xdotool windowmove 33554433 100 200
これで反応なし!
xwininfo で確認すると、Window ID の取得に問題あり...

そして、こうやると、うまく取得できる。
$ xdotool selectwindow
=> 対象ウィンドウをクリック!
33554680
これは、xwininfo の取得値(16 進表記)と同じ。

さらに、こうやると、二つの値が得られる。
$ xdotool search --class baobab
33554433
33554680
欲しいのは、下の ID...

そして、こうやると、ビンゴ!
$ xdotool search --onlyvisible --class baobab
33554680
尚、"--class" を "--classname" としても結果は同じだが、違いは微妙か...

4. 結果、コードはこんな感じ... とりあえず、めでたし!めでたし!
#! /bin/bash
baobab /home/username &
sleep 1s
window_id=$(xdotool search --onlyvisible --class baobab)
xdotool windowmove $window_id 100 200

2025-05-04

セントからロッキーへ鞍替え!いや、本家回帰か...

ショッキングな CentOS 終了宣告で CentOS Stream 9 に乗り換え、一年が過ぎた。安定感はまあまあ...
騒ぐほどのことでもなかったかなぁ... と同じ感覚で Stream 10 へアップデートすると、なんじゃこりゃ!GUI の不安定感は、Fedora 並み!?
リモートで使う分には問題なさそう。いや、怪しいかも?せっかくのマルチモニタ環境が... サーバ系とは、そういうものなのかなぁ... メジャーバージョンのアップデートがトラウマになりそう!
うん~、こんなことで愚痴ってるようでは... 

ここは思い切って、Rocky Linux 9.5 へ鞍替え!コミュニティにはお世話になってきたし...
今、Fedora から CentOS へ鞍替えした頃の感覚が蘇る。CentOS の名に不安定感は似合わない。やはり、こちらが本家か!
うん~、こんなことが精神安定剤になろうとは...

ネアンデルタール人は、時代の流れに翻弄されるばかり...
人生とは、寄り道、脇き道、回り道... いずれも奥深い道!などと自らに言い訳しながら生きる道。この道を楽しめぬようでは、まだまだ...

2025-04-27

"最適性理論" Alan Prince & Paul Smolensky 著

「最適性理論」とは、1993年、アラン・プリンスとポール・スモレンスキーによって提唱された言語学の理論だそうな。それは、「人間言語の普遍性をすべての言語に共通の制約の集合によってとらえ、言語間の差異を制約の優先順位の違いとして説明する理論」だという。
本書は、この理論の創始者による著作で、言語システムに集合論的な視点を与えてくれる。そして、もっぱら音韻論と形態論に関心を向け、人間の発する音素の配列から音節の合理性を探求し、人間言語の普遍性なるものを解き明かそうとする。
尚、深澤はるか訳板(岩波書店)を手に取る。

カントールやラッセルらによって構築された集合論は、等号 "=" の概念を抽象化してきた。伝統的な等式の定義は、両辺を同じ数学的対象とし、相互に変換可能とすることで、純粋数学の根幹である証明の原理を支えている。
一方、集合論は要素の順序を問わない。そればかりか要素自体の値を問わず、同型写像として見なすこともでき、対応関係が成立すれば、なんでもあり!
等号の概念が曖昧になっていくと、コンピュータによる証明も曖昧になっていく。もともと数学的な構造を持つコンピュータが、数学を根本的に特徴づける抽象性をどこまで許容できるか...

副題には「生成文法における制約相互作用」とあり、生成 AI にも通ずるものがある。音調やリズムをともなって依存関係を強める音素もあれば、意味や構文をともなって依存関係を強める語句もある。この依存性が、制約相互作用というものであろうか。
音空間は精神空間に大きな影響を与える。詩も、音楽も、ソノリティの在り方に発する。普遍言語なるものが存在するとしたら、そこには音律をともなうらしい。
語り手と聞き手の間に暗黙のルールのようなものがなければ、情報伝達は成立しない。情報工学で言うところのプロトコルが、それだ。自然言語の世界では、そのようなルールはどういう形で生じるのであろうか。それは、人間の DNA に組み込まれているのであろうか。母音と子音の配列に、DNA 配列を見る思い。

人間が話す言葉を、音素の順列や配列として捉えれば、数学的に関数で記述することもできる。例えば、最適性理論における文法構造を、このような形式で記述して見せる。

  (a) Gen(Ink) → {Out1, Out2, ...}
  (b) H-eval(Outi, 1 ≤ i ≤ ∞) → Outreal
  
Gen 関数は、普遍文法の固定部分で生成源を表す。ここに原子的要素と、要素間の関係性が記述される。
H-eval 関数は、要素の相対的な調和度を評価し、これら要素に優先順序をつける。
要するに、原初的な人間原則から発する要素を抽出し、これら要素間の調和性を分析することになろうか。言語の原子的な要素群を、一つの集合体、いや、一つの有機体と見なし、この群を数学的に最適化するような... 最適性理論をある種の群論とするのは、ちと大袈裟であろうか...

まず、人間の発する周波数は、口腔の物理構造に制約される。これに口の動きの自然さ、発音の流れのしやすさなどが加わり、さらに聴覚に与える音調の優しさ、親しみやすさといった感覚までも加わる。
それで、音素の組合せや順序が規定できるのかは知らんが、少なくとも、不快な音列は詩には使えない。
しかも、人間の聴覚は進化し、時代によって音の感じ方も変化していく。こうした音調、音韻、音律に、感情や意味が結びつき、文法を形成していく。あるいは逆に、文法から音律が生じることも。言語システムを論じる上での記法は、アルファベットや五十音のような文字記号よりも、本書でも多用される発音記号の方が重要なのやもしれん...

さらに、CV 理論の考察から一つの理想像を提示し、これに多様性を加味して普遍則なるものを見い出そうとする。CV 理論は、音節の周縁となる子音(C)と音節の頂点となる母音(V)という二項型に分類していく解析法で、音節の合理性を問う鍵となるようだ。
そして、子音と母音との間、あるいは、頭子音と末子音との間の規則的な現象や例外的な現象を概観していく。
ただ、どんな規則にも、例外はつきもの。音節に限らず、ある語が接辞とセットになっているパターンも多く、複合語や合成語、あるいは慣用句や格言といった形で制約されることもある。例外にも、普遍則のようなものがあるのだろうか。いや、言語現象に限らず人間が携わるあらゆる現象には、常にイレギュラーなパターンが生じる。となれば、例外こそが普遍則であろうか。これを多様性というのかは知らんが...
ちなみに、プログラミング言語には、常に例外処理がつきまとう...

2025-04-20

"生成文法" 渡辺明 著

言語学といえば、意味や構文、音声や語彙といったものの特徴や性質を探求する学問。一般的には国語や文学の類型とされるのであろう。
だが、ここでは科学する眼を要請してくる。人文科学という用語もあるが、人間が人間自身を知るには欠かせない視点。言語とは、本来そうしたものやもしれん...

人間の言語能力は計り知れない。生まれ出た赤ん坊が環境に応じて徐々に母国語を会得しく様は、生得的な能力であろうか。DNA には、そのようなプロセスが初めから組み込まれているのだろうか。カントは、時間と空間のみをア・プリオリな認識能力とした。言語能力にもそれに匹敵するような原始的なものを感じる。
しかし、そんな純真な能力も、立派な大人になると、第二言語、第三言語... と学ぶのが難しくなっていく。高収入を得るため、社会的地位を得るため、あるいは、見栄えをよくするため、などと欲望が脂ぎってくると、そうなっちまうのか...

さて、本書は言語学の研究動向を、「原理とパラメータ」のアプローチから「統語演算」のメカニズムを通して、初学者向けに物語ってくれる。そして、「生成文法」の成り行きを眺めていると、句集合が有機体のごとくうごめいて見える。生成 AI にも通ずるような...

1. 生成文法とは、なんぞや...
それは、文法的な構造理論とでもしておこうか。チョムスキーに発するこの学術的動向は、人類共通の普遍文法の解明を目標にするという。
人間の言語能力を、言語の形式的特性を扱う能力と定義し、その形式的特性を司るのか文法ってやつ。文法は、意味と音声を結びつけるシステムとして機能し、音声も、意味も、単独で形式的特性を有し、それぞれ文法の一部を成す。この両者をつなぐ中核の部分を「統合演算」と言うそうな。
統合演算は、意味解釈を与える単語の並べ方、すなわち、どうすれば文法的な表現、あるいは非文法的な表現となるかを決定するシステムとして機能するという。要するに、語彙の順列、組合せの問題か。論理演算風に... 

2. 原理とパラメータとは、なんぞや...
原理は、人類共通の言語能力を土台とした法則的なもの。パラメータは、語彙や音韻など選択できる知識や経験値といったもの。こうした視点は、コンピュータのプログラミング構造を彷彿させる。
プログラム言語の文法は、順次処理、条件分岐、反復処理でだいたい説明がつく。そこで重要となる要素は、これらの処理にひっかけるデータだ。データという概念も抽象的でなかなか手ごわいのだけど...
原理とパラメータの関係は、このようなプログラムの処理とデータの関係にも類似している。組合せに用いるパラメータは、基本的には二者択一の形をとり、パラメータが n 個あれば、可能な文法システムは 2n パターン存在することに。こうした見方は、シャノンが提示した 2 を底とする対数で記述される情報理論の定理に通ずるものがある。

3. 統語演算とは、なんぞや...
それは、主として「句構造(phrase structure)」「変形(transformation)」のメカニズムから成り立つという。
句構造は、名詞句、動詞句、形容詞句などの集合体として存在し、これをツリー構造で図式化する様は、まるでデータの階層構造。
変形は、例えば、英語の疑問文では語順を入れ替えればいいし、日本語では、文の頭から疑問を思わせたり、否定を匂わせる構造がある。例えば、「誰も返事をしなかった」という表現は、「誰も返事をした」とは言わない。それでも、「誰もが返事をした」というように、「が」が挿入されるだけで事情は変わってくる。句構造は、こうした変形を通じて、語の間に支配関係や依存関係が生じる。
さらに、名詞句の代わりに文を埋め込めば、入れ子構造となり、無限の再帰構造にもできる。ネストが深くなれば、人間にとって分かりにくく複雑な文となるが、人工知能が理解する分には問題あるまい。

4. C-Command 条件とは、なんぞや...
一般的には、文の構造上の関係を「C-Command 条件」というもので定義できるという。その事例を、否定極性表現の認可条件といった形で紹介してくれる。データベースのスキーマ風に。
C-Command 条件は、代名詞が何を指しているかといった場合に効力を発揮するという。例えば、「太郎は自分自身を責めた」というような再帰代名詞で。
また、ツリー構造の中に、名詞、動詞、形容詞、前置詞などをひっくるめて横棒で図式化する事例を紹介してくれる。こうした句構造の一般化を「Xバー理論」というそうな...

2025-04-13

"音声科学原論" 藤村靖 著

言語学には、言語の主な形は音声で、テキストは副次的な現象とする見方があるらしい。だが、過去は言い伝えだけでなく、記述で多くが語られてきた。歴史は、記述で刻まれてこそ碑文となる。
一方で、アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。ポリス的とは、単に社会的という意味だけでなく、互いに善く生きるための共同体といった意味を含む。共同体を成すには、コミュニケーションとしての話し手と聞き手の関係が自然に営まれる。音声を介して...

記述と音声は、対照的な物理現象を成す。記述は言語記号の配列として離散的に存在し、音声は音波現象として連続的に存在する。とはいえ、その境界は微妙。記述は、発声をともなってリズムを奏で、楽譜のような役割を担うことも。
さらに音声は、口と喉の物理構造に依存し、唇や舌の調音運動を通して、声道という管楽器を演じる。双方の物理現象では、無にも意味を与える。口は災いの元と言うが、静かな物言いが説得力を発揮し、沈黙でさえも何かを語る。あのナザレの御仁が示してくれたように...
記述では、空白さえも何かを物語り、行間が読めなければ、書き手の意図も汲み取れない。多種多様な表現上のテクニックを尻目に、無にこそ無限の意味を与え、無限の解釈や無限の意図へといざなう...

さて、本書は音響工学の視点から、振幅と位相、音波の多重性と重ね合わせ、共鳴といった物理現象を通して、音声というものを物語ってくれる。
まず、発話者の心理的、生理的な性質から、音韻情報に含まれる、疑問、怒り、賞賛といった感情との結びつきに触れる。
次に、空気を動力とするアクチュエータを模した機械学的な観点から、母音と子音のスペクトル、フーリエの定理、フォルマント構造、インパルス応答、シラブル三角形といった電気工学的な見方を提示する。
音波の周波数スペクトルを追えば、フーリエ解析やフォルマント周波数といった観点が重要となる。インパルス応答は、線形システムでは有用な概念で、スピーカやデジタルフィルタの設計に欠かせない。シラブルは、自然に発音できる最小単位を言うらしい。

「音声の本質は単に静的な状態の連結という、いわゆる区分的な形で充分に捉えられるものではなく、動き、あるいは時間的変化が重要である。特に子音の性質を論ずるためには、動的な現象を充分に理解する必要がある。オェーマンは 1967 年に発表した論文で、母音の流れに乗った子音動作の局所的な擾乱という考え方を提唱して、観測された調音運動を定量的に説明することを試みた。後述の C/D モデルも、この流れを汲む考え方で、母音と子音とを基本的に別種の特性として記述するところにその特徴の一つがある。」

そして、C/D モデル(変換/分配モデル: Converter/Distributer model)という音声の実装モデルを紹介してくれる。それは、ある種の計算機モデルの様相を呈す。音声はコミュニケーション手段として大きな役割を担うが、情報理論の観点から伝達の効率性というものがある。言葉の交換を論じれば、できるだけ冗長性を省こうとする。
ただ、人間にとっての合理性には、物理的合理性と精神的合理性がある。舌、唇、口蓋、下顎をニュートン力学で論じれば、調音運動を動的な時間関数として記述できるが、音韻の波長や強度は、ストレスや高揚といった精神状態にも大きく左右される。精神の安住に配慮すれば、音声にもある程度のノイズが必要なのやもしれん。人生にも無駄ってやつが...

2025-04-06

"アブダクション" 米盛裕二 著

論理的思考の様式には、一般的に演繹法と帰納法の二つがある。
論理学者で科学哲学者のチャールズ・パースは、これに続く第三の思考法が存在することを提唱した。それが、"Abduction" ってやつだ。
邦訳では「仮説形成法」や「仮説的推論」といった語が当てられるそうだが、今では、そのまま「アブダクション」という用語が定着している。
また、パースは、しばしば "Retroduction" という用語を併用したという。邦訳すると「遡及推論」。つまり、「リトロダクション」とは、結果から原因へ遡及する推論を意味する。

こうした思考法は、記号学に基づいているらしい。記号とは何であろう。とりあえず、なんらかの意味合いを表す表現体とでもしておこうか。
人間の論理思考は、本質的に記号処理過程に発するという。それは、複雑で多様な世界を認識するためのプロセスであり、言語記号の優れた特性は、曖昧かつ不明瞭なものまでも把握でき、不明確で不確実な状況に応じて判断を下すために機能する。曖昧だからこそ思考は広がる。不明確だからこそ熟慮しようとする。

本書は、推論法を分析的推論と拡張的推論に分類し、演繹を前者に、帰納とアブダクションを後者に位置づけている。拡張性において、アブダクションを帰納より上としながら。アブダクションは、科学的発見や創造的思考において最も重要な役割を果たすという。仮説的推論法こそ、真理に近づく第一歩というわけか。かのニュートン卿は仮説を嫌ったと伝えられるが、仮説そのものを嫌ったというより、仮説を表明することを嫌ったのであろう...

「現実の人間の思考においては、諸概念の意味は類比やモデルやメタファーなどによって絶えず修正され拡張されているのであり、前提から結論にいたる合理的ステップは通常は非論証的で、つまり帰納的、仮説的、類推的思惟によって行われている。」

論理的思考の王道といえば、おそらく演繹法であろう。それは三段論法といったシンプルな手続きに見て取れる。だが、演繹的思考は問題そのものを生まない。いや、行き詰まった時に問題が生まれると言うべきか。
対して、帰納的思考は問題から始まる。それ故、より現実に沿った思考が展開できる。なにしろ現実世界は、問題だらけなのだから。しかも未解決のまま...

アブダクションは、さらに抽象度を深め、まったく無関係と思われる領域にまで視野を広げる。帰納の正当性は、自己修正的な思惟において示される。すべての思考が演繹できれば、人類の進化も覚束なかったであろう。
哲学の鬼門は、なんといっても矛盾である。これを無理やり解決して魅せるのが、弁証法ってやつだ。いや、解決した気分にさせてくれる。精神を獲得しちまった人間にとった気分は重要だ。存在意識を安定させ、自我を安泰せしめるのだから...

推論には、厳密な推論もあれば、厳密でない推論もある。論理学者は前者を相手取るが、人間精神は後者に意味を与えようとする。心理的にも、生理的にも。
そして、論理的思考は、心との調和を求めながら、矛盾との折り合いにおいて発展してきた。それは、妥協でもある。自己修正こそ進化の指針となろう...

「仮説は思想の感覚的要素を生み出す、そして帰納は思想の習慣的要素を生み出す... 帰納は規則を推論する。さて、規則の信念は習慣である。習慣がわれわれのうちに作用している規則であることは明らかである。したがって帰納は習慣形式の生理学的過程を表す論理式である... 仮説は心を統一し開放する情態的性質を生み出し、帰納は規則や習慣を形成する過程を表す。」