書くとはどういうことか... 何ゆえ書くのか... 誰のために... 誰しも理由があろう。ある者は逃避のために... ある者は征服のために... それでいったい何から逃避しようというのか、何を征服しようというのか。サルトルは、素朴な問い掛けによって彼自身が悶々とする世界に読者を引きずり込む。文学とは、牢獄への道連れか...
尚、加藤周一、白井健三郎、海老坂武訳版(人文書院)を手に取る。
「われわれは瞞着の時代に生きている。社会構造に帰因する根本的瞞着があり、二次的な瞞着がある。社会秩序はこんにち、無秩序がそうであるのと同じように、もろもろの意識の瞞着の上にやすらっている。」
ある登山家は言った。そこに山があるから... と。そこに筆があるから、そこに紙があるから、あるいは、読者がいるから、希望を求めて、単なる独り善がり.. と、いくらでも理由はつけられる。しかも、作家は一人では作品を完成しえない。作家には読者が必要なのだ。作家の主観性を読者の客観性で補い、双方とも高みに登ろうと、まるで登山家気取り。そして、書く芸術を偏見なしに観賞することの難しさを思い知る。
「私は自由から生れ、自由を目的とする感情を高邁とよぶ。かくして読書とは、高邁な心の行使である。作者が読者から要求するものは、抽象的な自由の適用ではなく、読者の全人格をそっくり贈与することである。その情念、その偏見、その共感、その性的欲望、その価値の尺度を贈与することである。ただその人格は高邁な心でおのれを与え、自由はこの人格のあらゆる部分に浸透して、その感受性のもっとも暗いかたまりさえも変形する。活動性はよりよく対象をつくりだすために受動的となるので、受動性は逆に行為となる。読書をする人間は、そうして、自己を最高のところまでたかめる。」
文才は、退屈な日常までも物語にしちまう。幸せな人間に、こんな芸当ができるはずもない。不幸の自覚もなさそうだ。自分の不運を愛し、自分の不遇に酔い、自分の傷を舐めるように書く。狂人ゆえに書かずにはいられないのか。我が道を狂信的なまでに追求せずにはいられないのか。だから幸せだというのか...
書くということは、啖呵にすぎないのやもしれん。具現化した文体と抽象化した思考の狭間で、現実社会と個人的ヴィジョンを対峙させ、自己の中で直感と論理がせめぎ合う。その過程で人間の限界をつきつけられ、時には理性を崩壊させ、時には狂気にすがり、死に救われることも。作家とは、病める人間を言うのか。読者を巻き添えに...
読者は読者でより大きな刺激を求め、この退屈病は如何ともし難い。喜劇よりも悲劇に感動を求め、楽観よりも苦悩を欲し、仕舞には人類を救え!とふっかける。
作家の理性に限界を知るや、批判の態度に活路を見いだす。だが、批判自体は肯定的な解決をもたらさない。そればかりか、くだらぬ非難の応酬に、誹謗中傷を喰らわす。
芸術には抽象化によって高尚さを装う技術があるが、作家もまた批判から逃れるために対象を曖昧にし、自己を曖昧にする技法を旺盛にしていく。かくして作家は、イデオロギーに蝕まれ、ドグマに毒され、偏狭に埋もれる読者を救えるだろうか...
「純粋の文学とは、かくのごときものである。即ち客観性の形をとって胸中を打ち明ける主観性、奇妙なしかけで沈黙と同じ意味をもつ言説、自分自身に意義を唱える思想、狂気の仮面にすぎない理性、おのれは歴史の一契機でしかないということをほのめかしている永遠、内幕を曝け出すことによって突如永遠の人間を指し示す歴史の一契機、たえざる教育、だが教える人々の明白な意志に反しておこなわれる教育...」
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