思考を試みるには、なんらかの題材がいる。それをどこに求めようか?丸谷氏は「考えるためには本を読め」と勧める。
そもそも思考の前提には、生きるということがあろう。本を読むということは、生き方を学ぶ、すなわち哲学をするということになろうか。しかしながら、面白くなければ読む気も起こらないし、せっかくの知識も身にならない。やはり、本を読む最大のコツは、その本を面白がるということになりそうか。
読書の面白いところは、なんと言っても... 自分の知らない世界を味わうこと。すなわち好奇心。他人の考え方や物事の道理を知ること。これも好奇心。洒落たフレーズに出会えれば、格言集が蓄積できる。同じ題材でも、著者が違うだけで違った光景を魅せてくれる。... 好奇心旺盛な人にとって、読書は幸せな空間となろう。
とはいっても、嫌いな本もあれば、理解できない本も多い。どんなに良書であっても、どんなに評判が良くても、理解できなければ時間の無駄となる。本を選ぶには、知識の前提や受け入れる度量が必要である。自分のモノの見方や考え方を把握していなければ、本を選ぶことすらできない。なんらかの興味があるから、その本を選ぶことができる。本選びとは、似た者同士の集いとすることができそうか。
一方で、「必読書百選」といった類いの宣伝文句を見かける。なんとなく読まないと具合が悪そうな気にさせやがる。本選びのアウトソーシングか?本を選ぶのも大変な労力であり、ありがたい存在ではある。だが、面白くないと思ったら断固として止める!そういう度胸を決めることが大切だと助言してくれる。そもそも読書スタイルは百人百様、あえて世間とは逆を行く。これぞ逆バリ人生、いや、天邪鬼人生!
思考の検証では、一旦、受け入れた思考を否定してみることも肝要であろう。ならば、ついでに自己存在までも否定してみはどうか?但し、危険なので心してやるように。
「大事なのは本を読むことではなく、考えること。まず考えれば、何を読めばいいかだってわかるんです。」
誰の文句かは知らんが「書を捨てよ、町へ出よう」というのがある。これは読書論として有益だそうな。暇な時に考え、考えた挙句、これを読まなければと思えば、面白さが見えてくるという。
「まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。」
考える上で、まず大事なのは問いかけだという。対話式の自問自答は有効な方法であろう。
「良い問いは良い答にまさる」
ところで、思考の制御ほど手強いものはないように思える。なにしろ、集中力ってやつは気まぐれだ。机に向かえば、それなりに思考する方向へ誘導することはできる。だが、仕事上で難題が発生し思考力のフル稼働を必要とするような場面で、どうしても集中できないこともあれば、気分が乗らないこともある。思考の段階で最も理想的な精神状態と言えば、フロー状態であろうか。雑念が完全に消え、時間の意識すらなくなるような。無我の境地ともなれば、時空を超えた快楽へ導かれる。
また奇妙なことに、着想が湧いて出る瞬間ってやつは、思考から解放された場面でよく出会う。トイレで思考する人もいるようだが、おいらの場合は風呂場か寝所が多い。徹夜した挙句、気分転換に近くのサウナでマッサージしてもらっていると、突然解決策が浮かびメモに走ることもしばしば。そういえば、アルキメデスは浴場でユーリカ!と叫んで素っ裸で飛び出したという武勇伝がある。開放感において、フル思考とフルチンは相性が良さそうだ。
1. アマチュアリズム礼讃
イギリスにはアマチュアリズムの伝統があるという。アマチュアといっても単なる素人とは意味が違い、職業的文学者の心掛けとしてアマチュアリズムを大切にするということ。凝り固まった視点を遠ざけるという意味もあろう。知識や定石が思考を硬直させることはよくある。吉田健一は、こう書いたという。
「イギリスの学者は日本の学者と違って、たとえば折口信夫のように、学問ができて、しかも文学がわかるという人がいっぱいいるのである。」
これが本当の学者というものだという。そして、ほとんどの日本人はもっぱら内容だけで本を読もうとすると指摘している。文体を味わうようになれば、文明の程度もぐっと上がるであろうと。ん~...高度過ぎる。何度読み返しても、酔っ払いには文体なんて見えてこんよ。
2. 思考力と文章力
読書には三つの効用があるという。情報が得られること、考え方が学べること、書き方が学べること。前者二つは分かるとしても、「思考のレッスン」で書き方とはこれいかに?人は物事を考える時、意識的にせよ、無意識的にせよ、文章の形で考えるという。
しかし、この見解には、ちと抵抗がある。思考の始まりは、思いつきや気まぐれなところがあり、絵画のスケッチのようなものを思い浮かべたりする。論理的というより幾何学的と言おうか、形や形状や模様のようなもので考えるところがある。とはいえ、それを具体化しようとすると、記述に頼ることになるのだけど。記述は独自の絵図や図式であってもいいが、論理性においては、やはり言語形式と相性がいい。そしていつも、ボキャ貧小僧は思考と合致した言葉を見つけられず、もがき苦しむのよ。文章力がないから、思考を保存する時、精密さを欠き、大雑把になり、論理が乱暴になり、感情論に走る。なるほど、文章力と思考力は両輪というわけか。実に頭の痛いご指摘である。
言語の主な機能は情報伝達、すなわちコミュニケーションにある。ならば、コミュニケーションを放棄すれば、文章に幽閉されることなく、精神を完全に解放することができるだろうか?真の意味で自由を謳歌することができるだろうか?俗世間との交信を断たない限り、真の思考は悟れないのかもしれない。
また、丸谷氏の著書「文章読本」にも感服させられたが、実はそこには書かなかった心得がたくさんあるという。自分が必ずしも守っていない心得まで、書くわけはいかないでしょうと。文章の書き方は人それぞれ、ある程度の筆者ならば、心得なんか守らなくてもどんどん書けるという。思考した瞬間をそのまま表現できる能力があれば、精神が文章形式なんぞに幽閉されることもないのだろう。
さらに、「文章の最低の資格は、最後まで読ませることである」、「言うべきことを持って書こう」などと助言してくれる。ん~... 俗世間の酔っ払いは書く場を失うではないか。
3. 文字文化と口承文化
プラトンは、著書「国家」の中で「理想国家からは詩人は追放されなければならない」と主張しているという。詩人といってもホメロス型の吟遊詩人のことで、今日の詩人とはニュアンスが違うようだ。つまり、文字文化ではなく、口承文化を否定しているらしい。きちんと記述を残せ!ということか。ソクラテスが記述を残さなかったのは、言葉の持つ暴走性に気づいて、ひたすら解決策を対話に求めたという説がある。情報化社会における言葉の暴力を目の当たりにすれば、文字文化に絶望しても仕方があるまい。プラトンが多くの対話篇を書に残したのは、あえて師匠に挑戦した結果であろうか?
4. 日本語の特性
記述する言語の特性をよく把握した上で、文章を書こうとするのは当たり前であろう。だが、これが至難の業。
日本語では長いセンテンスが向かないという。一つの理由は、否定詞が最後にくること。最後まで読まないと明確にならないから、長文だと不安になりがち。言語は文化や慣習から派生した形式であり、先送りの原理はこのあたりに現れているのだろうか?その点、西洋語は否定詞が前にくるので、長いセンテンスが楽に書けるという。重要な結論が前にあるから整理しやすいと。そこで、日本語では、「そして」、「それなのに」、「運悪く」といった接続詞が巧みな役割をし、最後まで結論が見えない点を補っているという。例えば...「せっかくのお招きではございますが、当日は...」と言えば、最初から断る雰囲気が漂う。結論めいた方向性を文章全体で匂わせるわけか。空気を読むといった感覚は、こうした言語特性からきているのかもしれない。
もう一つの理由は、英語の関係代名詞、関係副詞といった関係詞を持たない点だという。人称代名詞もあまり使わないし、時制も曖昧で、全般的に曖昧な特性を持っている。論理的否定ではなく、雰囲気的否定とでも言おうか。この曖昧さこそが、芸術心や遊び心をもたらす。
また、日本語は敬語表現がやたらと多く、しばしば不愉快にさせるという。西洋語にだって敬語はあるが、その違いは昔の政治家の態度によく表れているらしい。日本人は挨拶が長くて内容がなく、アメリカ人は挨拶なしでストレートに用件に入るという。今はどうか知らんが。西洋的な感覚では、時間を無駄に使わせることの方が失礼だとされる。合理性の視点をちょいと変えるだけで、言語の合理性も随分と変わるものである。
2013-02-24
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