2015-06-28

"孤独な散歩者の夢想" Jean-Jacques Rousseau 著

自己弁明の書「告白」の余韻が残る中、ついでに自己愛惜の書にも触れてみる...
ルソーは、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールら啓蒙思想の主流派と対立し、教育論「エミール」が禁書に指定され、スイスへ亡命。そして、かつての友人らの批判と、公衆からの迫害に反論し、自伝書「告白」を執筆した。病的なほどの自己弁明のために朗読会を催して失敗するなど、晩年のルソーはかなりまいっていたようである。
「こうしてわたしは地上でたったひとりになってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいない。自分自身のほかにはともに語る相手もいない。だれよりも人と親しみやすい、人なつこい人間でありながら、万人一致の申合せで人間仲間から追い出されてしまった。」
ルソーは思い出を考察し、自己の性格を改めて確認しようと試みる。「夢想」は、「告白」に続く付録であると語り、異常な興奮と激情のうちに綴られる。この書には、かつてのような周到な計画が見られない。そして、完成を見ることなく、パリ郊外エルムノンヴィルで世を去る。
尚、翻訳版がいろいろある中で、今野一雄訳版(岩波文庫)を手にとる。

世間では、不信心者、無神論者、気違い、過激派など、まるで怪物のような言われよう。「永久平和論」の編者が不和を鼓吹し、「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の作者が不信心者で、「新エロイーズ」の著者が狼で、「エミール」の論者が過激派というのか。必死に反論したところで、罵詈、誹謗、嘲笑、汚辱の雨は強まるばかり。個人は死んでも集団は滅びず、憎悪の情念は長く伝えられ、悪霊とともに不滅だ。
ならば対抗策はただ一つ、俗世間から距離を置くこと。 寒山拾得のごとく。忙殺の日々に、自己と語り合う時間などなかなか訪れるものではない。死までにそのような機会が訪れるのは、幸せなのかもしれない。不遇な運命がそうさせるのか。強い感受性がそうさせるのか。おまけに、孤独の試練が憐憫のある人物像に仕立て上げる。はたしてルソーは、自己を不動の境地へ導けたのだろうか?あのデルフォイの信託、汝自らを知れ!これほどの難題があろうか。孤独とは、完全な自己中心の世界。究極の自己満足の世界へようこそ!

人はみな、自己を救済できる領域を確保しながら生きている。魂の最後の砦が孤独ってやつか。不幸な思い出には、存分に言い訳し、曲げて解釈することができる。妄想の完全解放だ。人間ってやつは、自己中心的な性質を持っている。そうでなければ、自己存在の意義も薄れるだろう。それを抑制しようとするから、理性のような観念が薄っすらと浮かび上がる。おそらく自己中心的な性質を完全に排除すれば、善悪の区別もできなくなるだろう。集団生活で忌み嫌われる孤独ってやつが、真の安らぎをもたらしてくれる。孤独を恐れる者ほど、激情を爆発させやすい。ルソーは、ようやくその事に気づいたのか。幸福でありたいと願う者を、他の者が本当に不幸にすることはできまい。無我の境地を誰に妨げることができよう。
アテナイの賢人ソロンは老年になって、しばしばこんな句を唱えたという。
「わたしはたえず学びつつ老いていく。」

1. 自尊心について
ルソーは、もともと自尊心が弱く、社交界や文筆界を生きていくうちに次第に強くなったという。「人間不平等起源論」では、自己愛と自尊心を区別し、自己愛は自己存在との関係から自然に生じる観念で、自尊心こそ人間社会が生み出した悪徳の元凶だとしていた。本書でも、人を常に不幸にするものは自尊心だとしている。自尊心によって語られる理性は騒がしく、攻撃的で寛容性など微塵もないと。憎悪と敵意は愚かな自尊心によって生じると。
「自己に対する尊敬は誇りをもつ魂の最大の動因である。自尊心はいろんな幻想を描いてみせ、姿を変えておのれを自己に対する尊敬ととりちがえさせる。しかし、やがてそのごまかしが明らかとなり、自尊心が隠れていられなくなれば、もうそれを恐れることはないので、その息の根をとめるのはむずかしいが、少なくともそれは容易に押さえられる。」

2. 真実を語る義務
「告白」を書いたときほど、自分が生まれつき嘘に対して嫌悪を抱いているかを感じたことはないという。社交界の人物を実名で綴れば暴露本と化し、ヤジ馬どもが群がる。哲学書というより、芸能雑誌の類いか。真実ならば何を語ってもいいというのか?正義は、むしろ沈黙の方にあるのでは?ルソーも悩んだことだろう。その結果、臆病な性格を押し殺し、却って攻撃的になろうとは...
現在でも、普通の人は隠し事など持つはずがない!などと発言する有識者どもがいる。彼らはマスコミ天国でも唱えているのか?きっとそういう御仁は、自宅の映像をネットに公開されても、怒ったりはしないだろう。人生とは、恥の中を生きるようなもの。すべての基準は、理性に委ねられる。真偽と善悪をどう結びつけるか。偉大な文学作品とて、嘘で固められているではないか。馬鹿正直というものもある。誤謬と無知とでは、どちらが悪か?罪になる嘘があれば、罪にならない嘘がある。語るべき真実があれば、沈黙すべき真実がある。人間とは、おめでたい存在だ。自己欺瞞にも気づかないのだから。道徳本能など当てにできるか!公平無私など糞食らえ!
... などとルソーが思ったかは知らんよ。

3. 老年の意義
知らぬが仏という苦々しい経験がある。知らぬ方が望ましいという知識が確かにある。逆境は偉大な教師だが、あまりにも授業料が高い。しかも、老年で悟るには辛い。自我を研究しても、知った時にはもう遅い。だからといって、未成熟なままで、告白などという遠大な計画に挑んでも、精神を歪ませるだけ。人生とは、後悔で締めくくられるものなのかもしれん。いや、懺悔か。人間とは、知識と誤謬の狭間を彷徨う存在でしかないのかもしれん。
せめて平穏を取り戻し、死へ向かう心の準備を整えたい。これが老年の意義であろうか。社会の喧騒は、静かな瞑想など与えてくれない。欲望の騒がしい魂では、自己陶酔に浸ることもできない。詭弁の巧みな連中に、いつまで翻弄されているのか。雄弁者どもの哲学は、他人のための哲学。だから、熱心に布教しようとする。しかしながら、自我が飢えているのは、自分のための哲学だ。哲学するに、自己疑念や自己不信との全面戦争は避けられない。ルソーは、自らを励ます。
「形而上学的な小細工に、いつまでも惑わされるな!」
自分を賢いと思ったところで、実は虚しい妄想に支配されたお人好し、夢想に耽るだけの犠牲者、殉教者。自己回想では、知性や理性は無力となり、健全な懐疑心と啓発された利己心こそが試される。

4. 孤島を求めて
この領域だけ、本書全体のオアシスのような存在だ。孤独な旅行者を演出するには絶好の光景。無人島なら、なおいい...
ルソーは、休息で訪れたビエーヌ湖上のサン・ピエール島の追憶を語る。これほど深い愛惜の念に浸れる場所は他にないらしく、スイスでもあまり知られていないそうな。島には一棟の家があるだけで、管理人が家族らと住んでいる。孤独な牢獄においてさえ快い夢想が訪れ、神にでもなったかのような自己充足に浸る。抽象的で単調な夢想を味わうばかりか、魅惑的な映像までも瞼の内側に映し出す。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれは自由が欲しい!と大声で叫ぶが、想像力に富んだ天才は自由を静かに謳歌できるものらしい...
「現実に官能を刺激するすべてのものを寄せ集めて思いのままに空想を楽しむことができる夢想者にとっては、たしかにすばらしい機会だったのだ。長あいだの快い夢想からさめ、緑の草、花や小鳥に取り巻かれている自分を見、清く澄んだひろい湖水を縁どる幻のような岸べに遠く目を漂わせて、そうした愛すべきもののいっさいを自分の創作に同化させるのだった。」

5. 義務の重荷
「告白」では、5人の子供をことごとく孤児院に入れたことを弁明した。呑込みの悪い子には癇癪を起こす性癖があり、教育者たる資格はないと。このことが、世間から親の責任を放棄したと非難される。
だが、ルソーは、「エロイーズ」や「エミール」が子供嫌いの作品か?と世に問う。そして、義務と激情が衝突すると、義務が勝利することは稀だったと反省する。憤慨した自尊心は、不服な理性と一緒になり、嫌悪と抵抗を感じるだけであったと。魂を高揚させる逆境があれば、それを圧殺してしまう逆境がある。魂のうちに少しでも悪質な酵母があれば、逆境はそれを激しく発酵させて狂躁病に陥れる。ルソーを苦しめていたのは、これだという。
本当に、それだけであろうか?自己の魂が純粋な良心だけに支配されている、などと思い込むこと事態が危険である。人は誰でも傲慢な心を持っている。自分の道徳観や倫理観に自信を持つと、ろくなことはない。彼は、自由で、無名で、孤独であったなら、善いことばかりしていただろうと言っているが、これこそ傲慢ではないのか?人より劣っていることが許せないのか。子供じみた純粋さが悪いとは思わない。しかし、大人ってやつは、知恵を蓄えていくうちに狡猾になるばかりか、それすら気づかないもの。
さらに、あまりにも純粋な心の持ち主であるために、集団生活に向かず、義務の重荷に耐えられないという。不羈独立を好む天性は屈従を極端に嫌い、自由に行動する時には善良だが、束縛を感じる時には反抗的になると。
ルソーは世間を嘆く。活動的で騒々しく、野心に満ち、他人が自由であることを妬み、自分ですら自由を欲せず、ただ自分の意志を実行できさえすればいいという者で溢れていると。そして、自分自身を純粋な気まぐれの実行者であるとし、これを弁明しようとは思わないどころか、極めて道理に適っているという。
しかし、最も嫉妬と憎悪を抱いているのはルソー自身に映る。いや、彼自身もそれを悟っているのだろう。自由人は不自由人に妬まれるもの。特に、文筆の世界ではそうなのだろう。実際、言論の自由を訴える連中が自由な発言を迫害する。迫害も自由というわけか。自由人とは、なんと儚いことか...
「自分の性向に従うということ、気の向いたときに善行の楽しさを味わうということは徳とは言えないので、徳というものは義務が命じたときに自分の性向にうちかって、命じられたことを行うことにあり、これこそわたしが世間一般のだれよりもできなかったことなのである。」

2015-06-21

"告白(上/中/下)" Jean-Jacques Rousseau 著

「わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣する者はないと思う、仕事をくわだてる。自分とおなじ人間仲間に、ひとりの人間をその自然のままの真実において見せてやりたい。そして、その人間というのは、わたしである。」

古来、著述家たちは自叙伝の類いに挑戦してきた。ローマ帝国時代には、アウレリウスの「自省録」やアウグスティヌスの「告白」、ルネサンス期には彫刻家チェッリーニの「自伝」など、枚挙に遑がない。紀元前に遡ると、司馬遷の「史記」の末尾に「太史公自序」というのが添えられるそうな。
しかしながら、自分自身を冷静に綴ることは不可能なほど難しい。人生とは、臆病を隠しながら恥の中を生きるようなもの。どんな醜態にもやはり弁明はつきもので、美化、正当化の誘惑からは逃れられない。
そこで、ルソーは「かつて例のなかった... 」と豪語する。ちと大袈裟に映るが、文学界の評価はそうでもないらしい。恥も外聞も捨て、すべてを曝け出す近代的告白では、ルソーが開祖という評価もあるようだ。ゲーテ、トルストイ、ミル、ジッドにも優れた自叙伝文学があり、これらすべてルソーの影響下にあるとか。トルストイは、こう語ったという。「ルソーと福音書はわたしの一生に、大きく有益な影響をあたえた二つのもの。」
そもそも幸福な人間に哲学書や小説など書けやしまい。ましてや自叙伝となると。自分の不幸を舐めるように愛し、絶望感に浸る自我に溺れ、仕舞いには精神を破綻させることも厭わない。自我という空間に第三者の自我が現れ、検閲官となって自己を審判にかける。自叙伝とは、ある種の人体実験ある。精神分析学にとって意義がありそうな。この偉大な人物といえども、自我の責任追及に憂鬱症を重くさせていく。それでもなお衝動に駆られるのはなぜか?真理とやらは、それほど心地良いものなのか?いや、人生の未練を断ち切れないだけのことかもしれん...
尚、桑原武夫訳版(岩波文庫)を手にとる。

ルソーは、「マルゼルブへの手紙」(前記事「エミール」に付録)で陰謀説を綴り、「告白」の執筆を決意する。ルソーが引き篭もると、ヴォルテール、ダランベール、ディドロらが彼の心境を代弁する。ルソーにはそれが悪意に映る。ディドロ、お前もか!多少の皮肉や嫉妬もあろうが、本当に陰謀と呼べるほどのものなのか?単なる被害妄想では?自意識過剰の裏返しでは?
とはいえ、「エミール」の黙殺については陰謀説を否定できない。実際、禁書にされた。「人間不平等起源論」は反響があったものの、出版を妨げるものはなかったという。フランス政府が公刊を認めた「社会契約論」の大胆な議論にしても、「エミール」の中にことごとく現れる。なのに、なぜ「エミール」だけが?狙われたのは、ルソーという人間にあったと回想している。
だからといって、この告白で名誉を回復することはできまい。なにしろ、女友達を必要とする性癖や、夫人たちと愛人関係を結ぶマダムキラーぶりを披露しているのだから。ルソー自身、気違いじみた恋をする中年の色男と称している。社交界の色事が実名で記されれば、暴露本と化すは必定。おまけに、理解の遅い子供に癇癪を起こす性癖があることを告白し、自分の子供を教育する資格すらないと弁明しながら、5人の子供をことごとく孤児院へ入れる。
また、社交界の礼儀作法に気後れすれば、取るに足らない態度で大胆に振る舞い、我流を通すことで高貴に見せることができると、羞恥心を克服するテクニックを語る。論理的な物言いで攻撃するのも、社交界で威厳を保つテクニックというわけだ。
いくら「告白」が真実を語る使命を帯びているとはいえ、男として、父として無責任ぶりをぶちまければ、道徳家たちの猛烈な攻撃を受ける。自我が刻々と変化する様、多様性や寛容性との矛盾、まるで支離滅裂な精神分裂症の描写。彼がどんな使命に駆られたかは知らん。恥を歴史とともに残すことが、著名人の使命とでも言うのか...

一方で、ルソー自身は臆病な人間と評している。なによりも束縛を嫌い、強すぎる自由への欲望が無力感にさせると。人は誰しも臆病、だからこそ精神肉体ともに強くなろうと努力する。また、自由への渇望は自然学者に必要な資質である。そして、利己心を生み出すだけの皮相的な秩序にうんざりし、「社会契約論」ならぬ「社会険悪論」を展開する。孤独を愛したところで、今度は「自己険悪論」がつきまとい、見事なほど人間臭さを滲み出す。臭すぎるほどに...
これでルソーという人物が好きになるかは別だが、ただ一つ感服できるものがある。それは、自分自身の欠点を惜しみなく曝け出し、正面から対峙する勇気だ。人間の最も醜い情念は、虚栄心、嫉妬心、羞恥心の類いであろうか。ルソーはこれらの情念と葛藤し、ひいては自尊心に全面戦争を仕掛ける。美徳や道徳を教えることは簡単だが、問題は人間の醜い部分をどうやって教えるか?有識者や有徳者どもは、けしからん!といつも憤慨し、すぐに禁止用語やタブーに逃れる。本当の教育者とは、馬鹿を曝け出し、素直に醜い部分を曝け出せる者を言うのかもしれん。やっちまったことを、なかったことにはできない。覆水盆に返らず。喰ったラーメンは胃袋の中。エントロピーは神のごとく振る舞う。... 間違えない人間はいない。大切なのは、その後どうするか。後悔なんてものは、何もしないで嘆いている奴の言い訳でしかない!... ということか。

1. 青年期
1712年、ルソーは病弱な子として生まれ、母親は産んですぐに亡くなる。父親は、卑劣な軍人との喧嘩でジュネーブから逃亡し、ルソーは叔父に後見され、ランベルシェ牧師に預けられる。彫刻師に弟子入りするが、抑圧を感じて出奔。子供の身で、郷里、親戚、生計の元をいっさい捨てて。
そして、ある夫人からトリノに改宗者のための救済院があると勧められ、一旦そこに落ち着く。教化しようという企みは滑稽なほどで、カトリック教に対する嫌悪さえ抱いたという。その様子は、「エミール」の中の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」で語った内容とほぼ同じ。
「新教徒は一般にカトリック信者よりよく教育されている。これは多分こうだと思う。一方の教義は議論を要求し、他方のは服従を求めるから。カトリック信者はあたえられる決定を、そのまま受け入れなければならぬ。新教信者は自分で決定することをまなばねばならない。」
改宗させるためには、前の宗教よりも優れた論理的争点を見出す必要がある。そして、聖典を読み尽くす。道理の感じられないところに罰則を用いれば、嫌悪感しか持てない。したがって、論理的な宗教議論を持ち込めば、概して無宗教者を創出することになる。そこに救いの僧侶との出会い。サヴォワの助任司祭のモデルは、ゲーム師とガチエ師という二人の尊敬する僧侶を結びつけたものだという。
「ごく小さな義務をかかさず果たして行くには、英雄的な行為をするに劣らぬ力がいる。名誉や幸福をうるにも、そのほうが役に立つ。そして、ときたま世間をあっといわせるより、いつも人に敬愛されているほうがどのくらいまさっているかもしれない、そういうことを悟らせてくれた。」
社交界デビューを果たすと、空想と官能の生活、享楽と欲望、そして大人という人種を知る。
「庶民階級のあいだでは、偉大な感情などというものは時たましかあらわれないが、自然の感情が率直にものをいうことが多い。上流の身分ではそういう声はまったくおし殺され、感情の仮面の下にいつも利害か虚栄心がものを言っているだけだ。」
そういうルソー自身が、社交界の夫人たちに溺れていく。中でも、最も大きな存在はヴァランス夫人。幼い頃から、坊や!ママン!(母さん)と呼び合う仲で後に愛人となる。母親を知らないルソーは、母性愛に飢えていたのか。定住せず、放浪生活を続け、ママンの住むシャンベリを度々訪れる。ニヨンに住む父親にも会いに行くが、再婚し、親の愛情は既に冷めている。放浪と不安定な生活のうちに成人した境遇から、「エミール」という理想像を描いたのだろうか...
1731年、ようやく国王に奉仕する土地測量の事業に雇われ、ママンの家に落ち着く。1740年から一年間、リヨンのマブリ家(哲学者コンディヤックの兄の家)に滞在し、家庭教師を務める。ルソーは、生徒の呑込みが悪いと悪魔になるという。すぐに癇癪を起こし、教育者に向かないタイプであると。それでも「エミール」を書いたのは、自省録のつもりであろうか...

2. 教育論とプラトン批判
合理的な健全な教育を受けた子供が、この世にあるとしたら、それはルソー少年だと豪語している。平民出身だが、風変わりな風習を持つ家庭に生まれ、正しい品行や名誉の手本を受けたと。父親は享楽家だったが、正しい心の持ち主で信仰心は厚かったという。宗教はあまり早く教えると危険とされるが、ジャン=ジャック・ルソーのような子供がいれば、七歳で神の話をしても何の危険もないことを保証すると言っている。
しかし、父親の側に立つと態度が一変する。義務の中で最も快い親の勤めを容赦なく踏みにじる堕落した心の持ち主であると。実際、子供5人を産ませては、すぐ孤児院に入れた。泣いて拒む妻を押し切って。冷酷無情な人間が自分の子を育てるよりも、教育を社会福祉に託す方がまっとうな人間になれると信じていた。だから、国家の一員として育てる道を選んだというのである。その弁明にプラトン批判を展開している。確かに、プラトン著「国家」には、子供は国家のために存在するといった文面を見つけることができ、国家教育の重要性を唱えている。現在でも、子供は社会で育てるべきだと主張する有識者たちがいる。だからといって、親が子供を育てる義務を放棄していいということにはならない。生活苦であったわけでもない。
「約束したのは告白であって、自己正当化ではない。だからこの話はこのへんで止める。わたしはただ真実をのべるべきであって、公平であるべきは読者のほうなのだ。それ以上のことを読者にもとめまい。」

3. 女道と独学道
父親失格の一方で、学問への情熱を語っている。
「かりそめにも学問が本当にすきな人であれば、それと取り組んでまず感じるのは、多くの学問がたがいにひきつけあい、助けあい、照らしあい、そして一つの学問は他の学問なしではすまされぬ、という相互の関連性である。もちろん、人間の精神はあらゆる学問をきわめることはできず、つねになにか一つを専門に選ばなければならないが、他の学問についてもなんらかの理解がなければ、往々にして専門の分野にも暗くなる。」
やはり独学は楽しい。自分のペースで好きなように寄り道できる。愛人と学べるなら最高!目的はただ一つ、自由を謳歌することだ。ましてや知性や理性を会得しようなどという野心はない。馬鹿は死んでも治らんよ。この道が天国行きか、地獄行きかも知らん。そして、世間知らずで終わるだろう。知りたくもないが。独学の苦労は、ルソーの時代とは比べ物にならないだろう。情報化社会では、食欲旺盛なだけ知識が手軽に入手できる。快楽人として、享楽人として、欲情と好奇心を存分に解放できる道はますます開けている。もちろん女性への欲情も修行のうちだ。
... などと綴れば、人道にも劣るというルソー批判は、おいら自身に向けられる。そういえば、恋愛すると頭が悪くなる、と夜の社交場のお嬢がもらしていた...

4. 音楽論
1742年、パリで音楽を学び、新たな記譜法を提案している。最大の長所は、移調と音部記号をやめてしまうことだという。曲のはじめにある頭文字の一つを変えさえすれば、同じ楽譜を何調にでも記譜できるという発想である。この方法論に批判的な連中を「パリのヘボな音楽家たち」と呼び、アカデミーに「現代音楽論」という著作で考えを世に問うた。この抽象化の発想は、数学的、プログラミング的ですらある。しかし、ラモーが明確な弱点を指摘した。これには反論の余地がないという。
「あなたの記号は、音の長短を簡単明快に決定していること、また音程を明瞭にあらわして、単音程をいつも複音程の中で示していることなど、すべて普通の音符ではできない点で、大変すぐれています。しかしこの記号は、頭の働きを要求する点がいけない。頭はいつも演奏の速度についてゆけるとはかぎりませんから。」
数字を拾い読みしなければならない記譜法は、ちらっと見るだけでは役に立たないというわけか。楽譜というものは、感覚的に相対的に眺めるところがある。

5. 逃亡生活
「沈黙と忍耐の二年後に、わたしは決心をひるがえして、ふたたびペンをとる。読者よ、わたしをしてやむなくそこにいたらしめた理由について、批判はひかえていただきたい。読んだあとでこそ批判はゆるされる。」
知人はかなりたくさんいるが、特別な友人はディドロとグリムの二人だけという。社交界で活躍する二人への嫉妬が、被害妄想を膨らませたのか?それとも、疑心暗鬼か?あるいは、病がそうさせたのか?
「不幸な者が勇気を出すと、卑屈な人間はおこるが、高潔な人は喜ぶものである。」
病で苦しんでいる時は、不機嫌になりやすい。ルソーほどの人物とて例外ではない。40歳を過ぎて持病の尿閉症が激しくなり、早死を覚悟した様子が語られる。それでも、66歳まで生きているが...
1762年、フランスへの愛着を持ちながら、この地を去らねばならない。不平等論がジュネーブ議会で反感を買い、エミールがパリの神学界で猛烈に批判を受ける。平穏に暮らすことを許されないという点では、フランスもジュネーブも同じ。不信心者、無神論者、気違い、過激派と呼ばれ、逮捕状は全ヨーロッパへ及ぶ。プロイセンに行けば、少なくとも宗教的に迫害されることはないが、フリードリヒが嫌いらしい。もともとカルヴァン派であったが、カトリックへ改宗したという事実もある。それでも心変わりしてフリードリヒ大王に敬意を払い、プロイセンへ。しかし、プロテスタントの僧侶たちは、支配欲のために宗教改革の全原則を忘却しきっている、と非難する。
当時、パリにいたデイヴィッド・ヒュームはイギリスに来るのがよいと勧める。だが、ルソーは生まれつきイギリス嫌いだという。やはり偏見が多いのはルソーの方では...

6. 自己評論
ルソー自身を、隠遁と田舎暮らしに向いた人間だとしている。そして、トゥーレーヌ州のことを思い浮かべ、美しい詩を紹介してくれる。

"La terra molle lieta e dilettosa. Simile a se l'habitator produce."
(土地は愛すべく、こころよく、ゆたかで、住民はその土地に似せてつくられている)

トルクァート・タッソの「解放されたエルサレム」の中にある詩句で、実際トゥーレーヌ州のことを歌ったものだそうな。本書には、このような素晴らしい文学的要素が存分に鏤められている。一方で、よくも照れずに、こんな自己評論が書けるものだ。読まされる側が照れる。
「わたしの過失や弱点にもかかわらず、またどんな束縛にも耐えられぬ性質にもかかわらず、そのかなたに、正しく善良で、悪意も憎しみも嫉妬心もなく、みずからのあやまちをみとめるにやぶさかでないばかりか、他人のあやまちもすぐに忘れる一人の人間を、ひとはいつでも見出すだろうと確信する。自分の幸福のすべてをひとを愛するやさしい信念のうちに求め、万事誠実をむねとする一人の人間がここにいる。この誠実は、軽はずみであきれるほど無私無欲なのだ。」
ヒュームは、百科全書派のルソーに対する非難を鵜呑みにしたわけではあるまい。だから、イギリスへ迎えようとしたのだろう。真偽を確かめようとしたのかもしれないが。ルソーが、こうしたヒュームの態度を怪しげに思ったのは確かなようである。というより、近づいてくる者すべてが怪しく見えたのかもしれない。
「頭の上の天井には眼があり、まわりの壁には耳がある。いじわるで油断もスキもないスパイや見張りにかこまれている。」
やがて、ヒュームもまた敵の一派と見なし、裏切り者と呼ぶ。そして、死期を悟り、偽名でフランスへ戻る。なんだかんだ言って、やはりフランス贔屓か。イギリス滞在中でもそうだが、召使とのトラブルが絶えなかったようだ。門番が病死した時、毒殺の容疑をかけられるのを恐れて、解剖を要求したという逸話もあるとか。友人が大病になった時、毒を盛られたと疑われるのを極端に恐れていたという逸話もあるとか。
本書には、かなり精神がまいっていた文面が読み取れる。同時に「告白」の完成に異様な執念を感じる。執筆だけでは不十分で、朗読会を開催している。出版できないかもしれないので。だが、圧迫を招いて墓穴を掘ったという。この言葉が、愛に飢えた老男の遠吠えのように聞こえる...
「真理のために受難するということほど偉大で美しいことを知らない。わたしは、殉教者の栄光がうらやましい。」

2015-06-14

"エミール(上/中/下)" Jean-Jacques Rousseau 著

おいらは、教育論ってやつが嫌いだ!説教じみていて、こそばゆい。素直に耳を傾けられないのは、心が歪んでいる証であろう。しかしながら、こいつが禁書に指定されたというだけで、天の邪鬼には読む理由となる。
本書には「マルゼルブへの手紙」が付録され、ルソーは憂鬱症で精神破綻を起こしていた頃の心境を告白しながら、自らスケッチ風の自画像を描いている。惚れっぽい酔いどれは、彼の自伝書「告白」へ向かう衝動を抑えられそうにない...
尚、今野一雄訳版(岩波文庫)を手にとる。

プラトンは、徳は教えられるものなのか?と問うた。徳が知識で説明できるならば教えられるだろうし、徳の持ち主に弟子入りすれば教育によって導けるはず。だが、有徳者や有識者と呼ばれる者の子供ですら犯罪をやる。どんなに優れた教育を大勢に受けさせても、同じ人間性が形成されるわけではない。人間の個性とは、それほど多様性に富んだ手強い存在だ。
教育の場では理論よりも実践が重んじられ、理想像を語り尽くしてもなんの解決にならないどころか、却って有害になることもある。そもそも教育とは、大人が子供を教えるといった類いのものなのか。偏差値といった成績の数値化によって得意科目がなんであるか、などと子供に暗示をかけているだけということもあろう。好きな先生と嫌いな先生というだけで、興味のある分野が変わるということもあろう。むしろ大人の方が、子供から学ぶことが多いのではないか。教育の場は、医療の場と似ている。神経学者オリバー・サックスはこう語った... 病とは、医師が患者を治してあげるといったものではない... と。
教育に限らず、先生と呼ばれる分野は、どうしても権威主義に陥りやすい。義務教育で無理強いされた文学作品にずっと拒否反応を示し、ようやく読めるようになったのは悲しいかな三十路を過ぎてから。おそらく作家の名を知らなければ手軽に本屋で立ち読みをし、もっと早く文豪に出会うことができたであろうに。
しかしながら、子供には大人の権威を必要とする時期がある。まず、神学や哲学をいつ導入するかという問題がある。特に宗教を教えるタイミングは難しく、むしろ好奇心が自然に生じることを期待した方がいい。救いを得るために神を信じなさい!これほど筋の通らない教理があろうか。だから、大人になっても子供じみた神の他に、神というものを想像できない。数理学者レイモンド・スマリヤンはこう語った... 私は子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい!... と。
宗教は盲目的に神の権威を教えるだけに、自分で思考する力を放棄させかねない。そして、神の代弁者を狂信する。哲学は論理学と相性がいいだけに、巧みな言い訳をする術を会得しかねない。そして、屁理屈屋となる。真理探求者の資質は、建設的な懐疑心と啓発された利己心に支えられている。だが、懐疑心も利己心も、一旦暴走を始めると手に負えない。
大人たちは、子供の気持ちが理解できると思い込んでいる。それもそのはず、自分自身にも子供の時期があったのだから。だが、知識が精神を歪ませ、もはや知識を知らない頃の自分を思い出せない。十代と五十代では、もはや人格が違う。金銭や地位で人間の価値が評価される社会に慣らされれば、それ以外の価値が何の役に立つのか!と大人たちはもっともらしい事を言う。いくら自然的な良心に訴えたところで、巧みに利用する法律の方が遥かに絶大な力を持つ事は、誰でも心得ている。真に有用を体得した人間が、どれだけいるというのか?知識ってやつは、受容できる心構えがあって初めて有用となる。受け入れる度量のない子供に道徳観や倫理観を押し付けることは、人間が人間でなくなることを期待するようなものだ。そして迷信、偏見、誤謬へ導き、自分を賢いと信じ、人を見下すような権威主義に陥り、人権はとるに足らないものとなる。大人だって大きな子供でしかない。R-18 指定すべきは、大人たちが声高に唱える理性や知性の方かもしれん...

ところで、おいらには恩師と呼べる先生が二人いる。
一人は、小学校一、二年生と五、六年生の時に担任だった女性教師。一年生の時は何度ビンタを食らったことか。ちょっとでもズルをしたり、誤魔化そうとするだけで猛烈に叱られ、当時、恐怖心しかなかったような気がする。おまけに、母親と同年代で妙に気が合ってやがる。今時こんな教育をしたら、体罰問題で失職するだろう。ところが、上級生になると、優しく諭す態度に変貌していた。諭すというより暗示すると言った方がいい。鬼から穏やかに間違いを匂わされると、余計に応える。やがて妙に通じ合い、ある日、優しくなったのはなぜですか?と尋ねたことがある。すると、子供の教育は小学校低学年までが勝負!と熱心に教育論を語ってくれた。あまり幼い子を叩くと、それこそ虐待になる。間違いを犯した時に徹底的に叱る!そのようなことのできる時期は、意外と短いのかもしれん。教師に自尊心があれば、子供にも自尊心があるということだ。
もう一人は、中学校三年生の時に担任だった理科の男性教師。やたらと「節度」という言葉を口にしていた。哲学的に重々しく語るわけではなく、はしゃぎ過ぎたり、天狗になったりなど、子供っぽい態度を具体的に注意する。当時は大して気にもかけなかった言葉だが、もしかしたら哲学用語の「中庸」という意味で使っていたのかもしれない、と思うようになったのは大学生の頃。ちなみに、中庸の原理を唱えない偉大な哲学者を、おいらは知らない。
さて、積極的に学ぶという意志を起こさせるにはどうすればいいか?教育とは、これに尽きるような気がする。教師は、そのきっかけをつくることだけに専念すればいいのでは。自発的な好奇心こそが自由精神の源、弟子には常に積極的に学んでいるという意識を植え付けたい。専門的で高度な知識を学びたければ、書籍という良い教師がある。酒の味を知らぬ者が、プラトンの「饗宴」を読んだところで得られるものはあるまい...

1. ルソーの批判対象
本書は、エミールという平凡な人物の誕生から結婚まで、自然という偉大な教師に従って、いかに導くかを提示した物語である。そして、子供の発達状況に応じた教育をすべきだというテーゼを持ち込む。哲学者と教育者の違いは、哲学者はいつも正論を語ろうとするが、教育者は必要な時に少しずつ語る、といったところであろうか。お喋りでは、教育者は勤まらない。エミールの教育法が段階的に、しかも具体的に提示されるだけに、自分の子をすっかりこの通りに育てようとする親もいると聞く。だが、それはルソーの本意ではあるまい。教育哲学が教育論の奴隷になっては本末転倒、そこまで期待しては宗教教育となんら変わりはない。
「ああ、徳よ、素朴な者の崇高な学問、これを知るにはそれほどの労苦と道具が必要なのだろうか。その法則はすべての人の心のうちにきざみこまれているのではないか。だから、それを学ぶには、自分をかえりみ、情念をしずめて、良心の声にかたむけるだけでいいのではあるまいか。これこそほんとうの哲学だ。わたしたち平凡な人間はこういうことで満足することにしよう。」
ルソーは、人間は生まれつき善で、人間社会こそが人間を堕落させるとし、自然礼賛と人為排斥の教育論を展開する。そして、ロックやホッブスの自然状態を教育の場に持ち込むことを批判している。子供の感情的な情念に訴えるには、論理学的過ぎるきらいがあるのは否めない。
あるいは、女性にも男性の仕事や訓練をさせよとしたプラトンの国家論を批判している。女性にしかできない授乳や妊娠という仕事があり、自然的な平等主義に対して人為的な平等主義を否定している。
確かにプラトンやロックを批判しているが、結局は同じ哲学に帰するように映る。
また、ルソーは、法が自然的な存在であると主張したモンテスキュー思想を批判したことでも知られる。「法の精神」も同様に、教会や司祭の権威が自然的でないと批判したがために、禁書目録に加えられた。
いずれも、ルソーの批判対象はどうも腑に落ちない。愛情表現の裏返しとして、わざと悪く言う人はいる。称賛しているからこそ批判対象にもできる、という見方もできるかもしれない。そもそも精神を完璧に語れる者などいるはずもなく、どんなに偉大な哲学書でも、言葉の揚げ足を取ろうと思えばいくらでもできる。ルソーの性格までは知らんが、もしかして皮肉屋か?皮肉や愚痴ほど本音が出やすいものはあるまい。ちなみに、おいらは愚痴屋である。チームには、常に愚痴の言える空気を漂わせておきたい。しかも笑って言えるうちに...

2. 教育の矛盾
「世間の教育は二つの相反する目的を追求して、どちらの目的にも達することができないのだ。それは、いつも他人のことを考えているように見せかけながら、自分のことのほかにはけっして考えない二重の人間をつくるほかに能がない。ところが、そういう見せかけは、すべての人に共通のものだから、だれもだませない。すべてはむだな心づかいということになる。」
ルソーは、公共教育と家庭教育の双方の思惑から矛盾を生み出し、中途半端な教育を生み出し、人間形成もまた中途半端に終わると指摘している。ただ、教育にもいろいろな形があり、教師や教科書によって教えられるものとは限るまい。思慮分別や判断力ってやつは、極めて経験的で、学習的で、反面教師という形で実践されることもある。自然的な教育を掲げたところで、いつの時代も人間は自然を解せないでいる。そりゃ、公共教育で自然的な最低基準を示すことができれば、それに越したことはないが...
また、社会が知恵と称するものは、卑屈な偏見に過ぎないと指摘している。習慣というものは、屈従と拘束に過ぎないと。確かに、社会人は奴隷状態を生き、その中で死んでいく存在でしかない。むしろ教育論の対象は、純真な子供心を思い出させる大人の側にあるのかもしれん。まず、第一の義務は自分に対する義務、それは自分を欺かないことであろうか...
「人間の運命はいつも苦しんでいることにある。自分をまもろうとする心づかいにも苦労がともなう。子どものころ肉体的な苦しみしか知らなかった人は幸せだ。肉体の苦しみはほかの苦しみにくらべればはるかに残酷でも、そのために生きることを断念するようなことはめったにない。痛風を苦にして自殺する人はいない。絶望に追い込むのは心の苦しみ以外にはないといっていい。わたしたちは子どもの状態をあわれむが、あわれむべきはむしろわたしたちの状態だ。わたしたちのもっとも大きな苦しみの原因はわたしたち自身のうちにある。」

3. 言葉の欺瞞
言葉は人を欺く。語彙の数よりも観念の幅の方が重要か。言葉を知れば泣く必要がなくなり、これは自然の進歩である。だが、泣く行為が喋る行為に代替されるだけで、精神が成長しているとは言えまい。そして、泣くという抽象的な行為よりも、喋るという具体的で合理的な行為を知った結果、苛立った相手を叩いたり、殴ったりするよりも、より高度な言葉で陰湿に攻撃する方がダメージは大きい、ということを知るに至る。自分に欠けているものを探すのは、自然の欲望であろう。そして、知識の源となる言葉を求め、精神の成長を図ろうとする。問題は、何が欠けているかを見失うことだ。酔いどれには、人間らしい生き方が一向に見えてこない。やはり惨めな存在か。人間が創りだしたものは、愚劣と矛盾だらけ。歳を重ねるごとに命を惜しみ、ますます自己保存に執着する。人間五十年と言うが、五十を過ぎてもまだ生きたとは言えないとしたら、実際に死ぬことは辛い。執着するものすべては人間が創りだしたものだ。人生の長さほど不確定なものはない。子供の学ぶ貴重な時間を奪っているのは大人の方かもしれん...
「子供の語彙はできるだけ少なくするがいい。観念よりも多くの言葉を知っているというのは、考えられることよりも多くのことが喋られるというのは、非常に大きな不都合である。都会の人に比べて一般に農民がいっそう正しい精神の持ち主である理由の一つは、彼らの語彙が限られていることにあると思う。」
大人は子供に嘘をついてはならないと説教を垂れる。だが、現実を嘘で塗りたぐっているのは大人どもだ。本音と建前は、教育なんぞで学ぶものではなく、自力で獲得するもの。つまり、大人を反面教師にした結果である。イジメは悪いことだと教えても、メディアが集中砲火を浴びせかければ、なんの説得力もない。国会という最高権威の会議でヤジが飛び交えば、生徒会でも真似をする。しかも正義漢ぶって。大人は子供に義務を押し付けるが、大人自身が義務から逃避している。高度な道徳の持ち主とされる政治家ですら、説明責任を果たせないでいる。大人たちは子供を導くために、競争心、嫉妬心、自尊心、羞恥心、虚栄心、恐怖心といったものを利用するが、これらは同時に精神を腐敗させる情念である。人間の精神力は、自然の事象に対してじっと耐えることができても、人間の悪意に対しては我慢できないものだ。尚、この言葉は、ジャンク長文を書き続けるアル中ハイマーには実に耳が痛い!
「一般的にいって、わずかなことしか知らない人は多くのことを語り、多くのことを知っている人はわずかなことしか語らない。無知な人間は自分が知っていることをなんでも重要なことだと思い、だれにでもそれを話す、これはわかりきったことだ。」

4. 幸福論
同情は快い。悩んでいる人の位置に自分を置き、しかもその人のように自分は苦しんでいないことを確認できるのだから。羨望の念は苦い。幸福な人を見ることは、自分の不幸を確認することだから。すべては人と人の関係から生じる情念に支配されている。ならば、本当の幸福は孤独の方にあるのでは。だが、真の孤独を味わえるのは、恋愛や友情を謳歌した者であろう。人間関係を謳歌できる者もまた、孤独を知らねばなるまい。結局、同時に知ることになるとすれば、孤独もまた人間関係の中にある。双方を味わうことでしか知り得ないのは、相対的な認識能力しか持ちえない者の宿命か。
ルソーは、幸福に関する三つの格率を提示している。

第一の格率「人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。」

第二の格率「人はただ自分もまぬがれないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。不幸を知っていればこそ不幸なかたをお助けしたいと思う。」

第三の格率「他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。」

5. サヴォワの助任司祭の信仰告白
第四篇には「サヴォワの助任司祭の信仰告白」と題する章があり、ルソー研究には欠かせないものだそうな。どうやら彼自身の体験談のようである...
30年前、イタリアのある町で窮乏に陥った青年が、馬鹿げたことをしでかして逃亡者になったとさ。もともとはカルヴァン派であったが、パンにありつくためにカトリックに鞍替えし、改宗者のための救護院に入る。そして、議論によって導く教育を強制され、経験のない者を盲目という教理によって閉じ込められる。少しでも疑念を抱けば断罪され、盲目の中で共犯者が大量生産される。
「宗教は利害をかくす仮面にすぎず、神聖な儀式は偽善をかくすものになっているにすぎないと青年は見ていた。微妙なむなしい議論のうちに天国と地獄がことばあそびの褒美になっているのをみていた。」
そんな中、一人の誠実な聖職者が逃亡を手助けしてくれたという。サヴォワ生まれの貧しい助任司祭で、彼もまた若い頃の過ちのために国外へ逃亡した経験がある。聖職者は、恩恵を売りつけたり、説教することもなく、いつも青年の能力に応じて物事を語ったという。
「知力の低下がある程度に達すると魂は生命を奪われる。そして内面の声は食うことだけを考えている者にはどうしても聞こえない。不幸な青年があと一歩で精神的に破滅しようとしているのを救ってやるために、聖職者はまず青年に自尊心と自分自身にたいする尊敬の念をめざめさせようとした。」
人間は、単純な存在か、複合的な存在かは知らん。ただ、神秘があるだけといえば、そうかもしれん。真理という得たいの知れないものを、存在するかどうかも分からないものを、探求することで心地良さを感じるのだから。だが、虚偽で固められた哲学の信仰は、盲目に崇める宗教となんら変わりはない。知識は自ら知性へ導くものであるはずが、いつの間にか議論によって相手を説き伏せようとする道具に成り下がる。神を信じる人々の中から無神論者が生じ、無神論者の中から神を信じる者が現れるのも道理であろう。深い無知の状態こそが人間状態というものであろうか。哲学をやること自体が、堕落への道なのかもしれん。人は混沌の中を生き、裕福でもなお自殺しよる。動物たちが幸福そうに見え、精神を獲得した王者が惨めだとはこれいかに?人間と動物の違いは、人為的な奴隷か、自然的な奴隷かの違いか。人間は自然よりも下等な人間社会の奴隷に成り下がる。
では、人間社会で持ち上げられる義務とは何か?盲目的に秩序を維持することか?自然の秩序を都合よく解釈しては社会の秩序に置き換える。社会風刺の映画や小説の活況ぶりが、それを示している。善人が幸福になり、悪人が不幸になる社会ならば、皮肉や風刺といった文化は生じないだろう。正義は、いつも政治の手段に成り下がる。
「神というものはないなら、悪人だけが正しい推論をしているのであって、善人は愚か者にすぎない。」
おそらく神は聡明なのだろう。ただし、どんな風に聡明なのかは知る由もない。おそらく神は正しいのだろう。ただし、どんな風に正しいかは知る由もない。大人になればなるほど、良心を誤魔化す術を会得し、しかも道徳的な判断と大層な看板を掲げる。人間は生まれつき善だとしても、どうせ堕落するならば、生まれつき悪だとしても結果は同じなのでは?ルソー先生!いや、生まれつき悪だとすれば、逆に善へ変貌するかもしれない。いやいや、この方面でエントロピーの法則は絶大のようだ...

6. マルゼルブへの手紙
マルゼルブという人物は、名門の出で、図書局長官の職にあり、進歩的な思想家に好意を寄せていたという。「エミール」の出版にも便宜をはかったとか。
ルソーは憂鬱症だったとも言われている。引き篭もると、その態度がキザと見られ、哲人気取りの犠牲になって惨めな状態にあると評判されたという。その反論が手紙に綴られ、特に友人たちが言いふらしていることを残念に思っている様子がうかがえる。これは、ある種の精神破綻であろうか。哲学者なら誰でも孤独愛好家となる資質を持っているだろう。それは虚栄心との戦い、自己嫌悪との戦いである。一度名声を獲得すると、不幸な人間と思われることが、それほど辛いのか?それほど悔しいのか?ルソーほどの人物でも、尊敬を得たいという願望は心の底のどこかに残っているようだ。そんなことが虚しいことだと自己を説得したところで、完全に捨て去るにはよほどの精神修行が必要であろう。
引き篭もりの原因は、手の付けられないほと強い自由な精神にあると告白する。地位や財産や名声までも無意味とする精神にあると。自由な精神は、傲慢な心からきているのではなく、むしろ怠惰な性質からきていると。社会生活のほんのちょっとした義務にさえ耐えられないと。評判に惑わされている自分自身が情けないのかもしれん...
また、ルソーは、エミールの本文中で読書家を批判している。
「書物の悪用は学問を殺す。人々は、読んだことは知っているのだと思い、自分はそれを学ぶ必要はないと思い込んでいる。あまりたくさん読むことは、なまいきな無学者をつくるのに役立つにすぎない。文学が栄えたすべての時代のなかで、現代ほど書物が読まれていた時代はないし、現代ほど人々がものを知らなかった時代もない。」
彼自身が、日々読書を重ねてきた。読書を嫌悪するのは、真の読書家の宿命であろうか。そして、社会嫌いになり、人間嫌いになり、自己嫌悪に陥るのは、哲学者の宿命であろうか。それでもなお、その衝動が抑えられないのは、真理に身を捧げることがいかに心地良いものかを物語っている。宗教は、精神を病んだ人の心の隙間に巧みに忍び寄る。真理は、健全な精神の持ち主までも虜にする。やはり人間は、慢性的に依存症を抱えているようだ...

2015-06-07

"人間復興の経済" Ernst Friedrich Schumacher 著

「自明の理はいとも容易に忘れられる。既存の経済秩序も、それを再建するために進められる多すぎるほどの企ても、自明の理を無視すれば倒壊する。つまり、一般民衆は魂を持っているので、物質的な富がどんなに増えても、彼らの自尊心を侮辱し、自由を傷つけるような所業を償えるものではないという真理を無視すれば、失敗に帰するのである。経済の組織を正当に評価するには、放縦な人間の本性から繰り返される暴動によって、産業が麻痺しないように、純経済的でない判断の基準をも満足させる必要があるという事実を認容しなければならない。」
... R. H. トーニー

原題 "Small is Beautiful." には、「あたかも人間を重視するかのような経済学の研究」という皮肉な副題がつけられる。経済学者エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーは、手段に邁進する生産経済を批判する。経済学の問題は、哲学に帰するはずだと。実際、現代の経済政策は、消費を煽ることを基調としている。これは、巨大主義と物質主義のはびこる近代社会への挑戦であろうか...
「ケインジアンのご信託はしごく明白である。御用心!道徳的な配慮は全然無関係であるだけでなく、実際には障害である。不公正は有益であっても、公正は有益ではないのだから、公正の時代はまだきていない。天国への道は悪しき意図によって舗装されている。」

本書は、特に資源エネルギーの破壊的消費を問題視している。実際、エネルギー問題は常に環境問題と結びつき、これを安全に解決できる手段を、人類はいまだ見出せないでいる。科学や技術は、発明したのではなく、法則を発見したに過ぎないというわけか。地球は誰のものか?と子供が問えば、それはみんなのもの!と大人は答える。だが、天然資源で儲けているのは、一部の大人どもだ。土地も、化石燃料も、すべて所得や資本で計算される。自然資源を浪費する自滅的な活動を、自然界は不合理と呼び、経済界は合理的と呼ぶ。マルクスでさえ有用な資本をすべて労働と結びつけ、あらゆる資本を人間の価値として捉えた。人間が生きるということは、食料資源やエネルギー資源を消費することを意味する。そもそも、自然に対して多大なリスクをかけなければ、これだけの人口を支えることは不可能である。
しかしながら、経済体制と社会制度の維持といった側面からしか人口論は語られない。少子化問題ですら、大人たち自身の老後の面倒を見てもらうために、たくさん子供をつくりましょう!という有り様。どんな自然の生物にも数の限界というものがあり、過度になれば自己消滅してきた。人類が自然と折り合いをつけるならば、地球上の適切な人口というものがありそうなものだが...

「文明人はほとんどいつも、一時的に環境の主人になることができた。一番やっかいな問題は、一時的に主人であるにすぎないのに、永久にそうだという幻想を抱くことである。自然の法則を十分理解できないのに、自分自身を世界の主人であると考える。」
... トム・デールとパーノン・ギル・カーターの著作「地表と文明」より

1. 平和論
「平和のもっとも健全な基礎は全世界的な繁栄であるというのが、近代の支配的な信仰である。富めるものは常に貧しいものよりいっそう平和的であるという歴史上の証拠を探し求めても無駄であろう。しかも彼らは貧しい者に対して安全だと感ずることは決してなく、彼らの侵略性はこうした不安に根ざしている。」
富めるものが、戦争に行く理由がどこにあろう。すべての人々が豊かになれば、事情は変わるかもしれない。だが人間は、決定的な悲しい性(さが)の持ち主である。自意識過剰な上に嫉妬深く、ライバルを蹴落とさずにはいられない。自分が幸せに生きるだけでは満足できず、困窮に瀕すれば内乱に没頭し、少し余裕ができれば戦争をやりたがる。
富とは、相対的な価値でしかない。無限に求める者がいる一方で、国が豊かになり、GDPが高くなっても自殺者は減らない。はたして、全世界が繁栄することは可能なのか?自己抑制の物質主義は実現可能なのか?そして、それは平和への道なのか?泥酔者のおいらにはとんと分からん。ドロシー・L・セイヤーズは、「戦争は一つの審判」とし、こう語ったという。
「宇宙を支配する法とあまりにもひどく矛盾する思想によって社会生活が冒されているとき、そのような生活は突然戦争に襲われるものだ。戦争を不条理な災厄と決して考えるな。戦争は、思想と生活様式が耐えがたい状況をもたらすときに起こるものである。」
ここでいう戦争には、金融危機やデフォルトの類いも含めておこう...

2. 中道の経済学
ガンジーは、こう言ったという。
「地球はすべての人間の必要を満たすのに十分なものを提供するが、すべての人間の貪欲を満たすほどのものは提供しない。」
今日、草食系人種が経済社会に閉塞感をもたらすという意見を耳にする。だが、みんながみんな肉食系となって自然資本を浪費すれば、人口を維持することも難しい。若年層の失業問題を抱えている中で、自発的に仕事を放棄する者も必要であろう。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。市場は個人主義と無責任を制度化したものかは知らんが、アダム・スミスは完全な自由放任主義を支持したわけではあるまい。
今日、成功と呼ばれるものは、本当に成功しているのだろうか?世間では、勝ち組と負け組で区別されるが、それは合理的な分別であろうか?自己を優越したいがために、そのような枠組みをこしらえるだけではないのか。真の成功者は、自ら優越する立場を必要とはしないだろう。そんな感覚すら持ち合わせないのかもしれない。貪欲と嫉妬に駆り立てられる者は、物事を立体的に、総合的に捉える力を失い、成功の概念までも見失うだろう。
「物質主義者は主として財に関心を持つのに対して、仏教徒は主として解脱に関心を持つ。しかし、仏教は中道主義であり、このため物質的福祉に決して敵対するわけではない。解脱の道に立ちはだかるのは富ではなく、富への執着であり、愉快な事柄を愉しむことではなく、それを渇望することである。したがって、仏教経済学の基調は簡素化と非暴力である。」

3. 技術の節度
アインシュタインは、こう言ったという。
「ほとんどすべての科学者は経済的に完全に依存しており、社会的責任感を持っている科学者は非常に少ないので、彼らは研究の方向を決定することはできない。」
ほとんどの人は、世論に基づいて仕事をしている。世論に依拠する政治家は、経済主義の拘束から解放されない。逆に言えば、どんなに野心的でスキャンダラスな人物であっても、おまけに危険な思想の持ち主であっても、経済政策さえうまくやれば黙認される。それを監視すべく世論もまた、最も危険な集団性の問題を抱えている。巨大化と官僚化の原理に、権威主義が絡むと、ろくなことはない。人間社会は一旦悪循環を始めると破滅までいくものらしい。
さて今日、技術思想を支えているムーアの法則には、本当に限界がないのだろうか?トランジスタの集積化にもそろそろ息切れを感じなくはないが、度々直面する問題を新技術が解決してきた。そして、量子コンピュータが更なる加速をもたらすであろうか?
そもそも、人間は電子を完全に制御できているわけではない。電流や電圧はあくまでも統計的な物理量であって、個々の電子を制御しているわけではなく、極めて確率論的だということだ。ある条件下で多数決的にスイッチング制御するという意味では、民主主義的ですらある。
したがって、明確な条件下でなければ論理的な機能を果たせず、曖昧な条件が少しでも紛れ込むと簡単に暴走を始める。人間自体が量子で構成された存在なのに、はたして量子を個々に制御できるのか?という自己矛盾を孕んでいるわけで、ごく少数派でマクスウェルの悪魔君に支配されているだけのことかもしれん...
「自然はつねに、いつどこで止まるべきかを知っている。自然の成長より大きな神秘は、自然的成長の停止の神秘である。すべての自然的事象には、規模、速度あるいは激しさにも尺度というものがある。その結果、自然の体系(人間はその一部であるが)は自己均衡、自己調整、自己浄化の傾向を持っている。技術にはそれがない。いや、技術の特殊化によって支配された人間にはそれがないと言うべきかもしれない。」

4. 沈黙思考
「思慮分別の真髄は、善いことをなすのには現実に関する知識が前提となるというものである。物事とその状況がいかなるものであるのかを知るものだけが、善いことをなしうる。思慮分別の真髄は、いわゆる善意ないし十分な考えだけでは決して満たされはしない。」
客観性は、人間の利己心を一次的に抑制する「沈黙思考」による以外には成就できないという。しかしながら、完全な思慮分別を獲得することは不可能であろう。大声で主張する者が優位な立場になれるのが人間社会というもの。沈黙が真の力となった時、人間社会が成熟した証ということかもしれん...
「正義は真理にかかわり、堅忍不抜は善にかかわり、克己は美にかかわる。そして思慮分別はこれら三つのすべてにかかわる。」

5. 知性論
教育が専門化によって没落するという考えは、誤解だという。専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。間違っているのは、専門化ではなく、問題に対する理解の深さが欠けていることだという。つまり、形而上学的な観点が欠けていると。
今日では、政治も、経済も、科学も、技術も、あらゆる分野で手段を講ずることに没頭する。哲学的な問題はすべて解決済みと言わんばかりに。知識が豊富だからとって、知性が磨かれるわけではない。むしろ知識は、人を馬鹿にするための道具となるばかりか、危険な存在にも十分になりうる。実際、有識者たちですらいつも憤慨しているではないか。知識が豊富でも精神は平静ではいられない。有識者がこの有り様では、利己心に憑かれたおいらには、知性や理性なんぞ永遠に無縁だし、道徳なんてものは自己を欺くためのまやかしであり続けるだろう。
「知ることは悲しいことである。それをもっともよく知るものは、宿命的な真実を深く悲しまなければならぬ。知識になる木は人生の木ではない。」

6. 貧困問題
「ガンジーが言ったように、世界の貧困は大量生産によってではなく、大衆による生産によってのみ救われる。」
社会が豊かになってもなお、大量失業と都市への大量移住に歯止めがきかない。有識者たちは、社会福祉が充実していないからだと主張するが、支援殺しにしてはいないか?堕落へ導いてはいないか?豊かな者はいっそう豊かになり、貧しい者はいっそう貧しくなる。こうした状況は規模こそ違えど貧困国とて同じようで、貧困国への援助は、官僚化や腐敗化の餌となっている。貧困国における開発の問題は、経済学の問題というより、むしろ教育や政治の問題であるとの意見をよく耳にする。本書も、その例に漏れない。知識も、技術も、受け入れる度量と心構えがいる。最新技術を導入したところで、効果は上がらないし、むしろ中間的な技術が必要だと主張している。
「すべての思考の出発点は貧困であり、人間をみじめにし、堕落させ、はずかしめる貧困の度合である。この貧困の度合がどこまで及んでいるのかを認識し、理解するのが、われわれの最初の仕事である。ここでもまた、野蛮な物質主義の哲学は、物質的機会だけをみて、非物質的要素を看過しがちである。貧困の原因の中で、物質的要素つまり自然の富の不足、資本の不足あるいは社会資本の不足などはまったく二次的なものである。極貧の第一の原因は非物質的なものであり、教育、組織そして訓練の欠如の中にある。」