2018-03-25

"宇宙を復号(デコード)する" Charles Seife 著

宇宙の基本教義の一つに... エネルギーは創造されも、破壊されもしない... というのがある。熱力学の法則は... 熱量は無からは創造できない。系を撹乱することなく、仕事をすることはできない。永久機関を組み立てることなど不可能だ... と告げる。どうやら宇宙に存在しうるエネルギーの総量は一定のようである。
では、エネルギーとは何か?今日、エネルギーは物理法則を根底から支える物理量として君臨しているが、そもそもは力の源として、得体の知れないものとして捉えられてきた。アリストテレスの運動論以来、力の作用をめぐる議論は迷走を続け、インペトゥス、モーメント、トルク、フォースなど様々な用語が乱立してきたのである。アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーという具体的な物理量と結びついた。
さらに、著者チャールズ・サイフェは、この物理量の抽象化を試みる。「情報」という概念によって。彼に言わせると、相対性理論も量子力学も情報の理論だという。
相対性理論は、核心において情報をいかに速く伝送するかの理論... といえばその通りだろう。その限界は光速によって定められる。
量子力学は、観測系が関わると物質から真の情報が引き出せないことを告げ、真空状態であっても、量子のゆらぎによって粒子と反粒子の対消滅を繰り返し、情報の痕跡らしきものを残すと言っている。
なるほど、どちらもシャノンの理論より先に現れたものの、しっかりと情報理論が絡んでやがる。情報ってやつは、掴みどころのない抽象的な存在ではなく、シャノンのおかげで具体的に数値化でき、物理量として計測できる。だからこそコンピュータ工学の礎をなす。インターネットで体現される情報エネルギーの威力は凄まじい。そして、復号(デコード)とは、情報をいかに解釈するか、ということになる。こうしてみると、あらゆる学問、あらゆる知識が、情報の手先に見えてくる...

また、エネルギーの絶対的な法則に、エントロピーってやつがある。覆水盆に返らず... 喰ったラーメンは胃袋の中... 空けちまったボトルにおとといおいで... といった類いは、すべてこの法則の支配下にある。おまけに、時間の矢という一方向性が、人間の認識能力を記憶の時間軸に幽閉しやがる。
そして、情報理論にも情報エントロピーってやつがあるが、本書はこれをさらに抽象化した観点から、量子力学が唱えるデコヒーレンスを持ち出す。生きている、かつ、死んでいるといった重ね合わせ状態で存在することが、なぜ量子にはできて、猫にはできないのか?というシュレーディンガーの謎掛けも、デコヒーレンスが理解の助けになると...
物質が宇宙の隅々にまで行き渡ろうとしているとしたら、情報もまた宇宙の隅々にまで伝わろうとしているのだろう。無毛定理は、ブラックホール理論の基本教義の一つとしてある。この暗黒の天体はすべてを飲み尽くし、毛もないというわけだが、それは何を意味しているのだろうか?巨大な情報貯蔵庫なのか?ブラックホールは、究極のコンピュータになろうとしているのか?いや、悪魔が、限りない重力を元手にあらゆる情報を収集しようと目論んでいるかもしれない。人間が、楽してすべての知を得ようとするように。
ただ、人間が収集する情報は冗長性に満ちているが、おそらくブラックホールには冗長性なんて概念の欠片もないだろう。そして、ブラックホールの死とともに、すべての情報は解放されるのか?人間の死によって、自由意思が完全に解放されるように。なるほど、馬鹿は死ななきゃ治らない!とは、この原理であったか...

「論理的で一貫性(コヒーレント)のある不条理を棄てて、非論理的で一貫性のない不条理を受け入れるというのは、いったいどんな解放なんだい。」
... ジェイムズ・ジョイス「若き芸術家の肖像」より。

本書は、「情報」という概念について考え直す機会を与えてくれるが、さらに、「観測」という概念についても改めて考えさせられる。ハイゼンベルグの不確定性原理は、観測者が相補的な二つの属性を同時に正確に測定することは不可能だと言っている。これは、情報への制約だ。では、観測者とは誰か?なにも人間のような知的生命体である必要はあるまい。
量子力学は、「ゆらぎ」という概念を唱える。反物質は物質に触れた途端に消滅し、その質量はエネルギーとなって、束の間の存在という痕跡を残す。何かに触れるということは、何かと関係するってことだ。それは、何か情報を伝えたことを意味するのか?なるほど、存在とは、情報の痕跡を残すことであったか...
ところで、自己存在を強烈に印象づける力の類いに重力ってやつがある。まさに人間の命は重さにかかっており、それが自意識の源ともなれば誰もが血眼。ただ、人間は明確な重さの尺度を持ち合わせていない。自意識が強くなるほど、なんでもいいから何かと関わりたくてしょうがない。それは、自己との関わりでも構わない。孤独愛好家は独り言で充分に心を満たす。自己啓発や自己実現もまた自己観測の類いで、自己情報の収集を意味する。まるで観測依存症!
これほど情報を欲するのは、物質の性癖か?何かに絡まずにはいられないのは、「量子のからみ」の影響か?ついでに、なんでもワイドショー化してしまうのも、物質の性癖か?人間ってやつは、夢想、瞑想、妄想を続けてもなお飽き足らず、仮想空間をさまようことのできる情報的存在というわけか。そして、いつも心はゆらいでいる。自己存在を自己否定によって抹殺するのも、存在のゆらぎってやつか...

1. エントロピーと情報理論の相性
ボルツマンの墓碑には、あの公式が刻まれる。そう、エントロピー S の公式だ。

  S = k log W

W は、存在しうる状態の数。k は、ボルツマン定数。
ボルツマンは、躁と鬱の状態を繰り返す双極性障害に苦しみ、自ら命を絶ったと伝えられる。それは、自ら存在のゆらぎ、すなわち対消滅を体現したのであろうか...
一方、シャノンが提示した公式がこれ。

  S = - ΣPi log Pi

Piは、送られた情報量の中に、あるメッセージが含まれる確率。
二つの方程式は、そっくり。情報量に生起確率が絡むと、エントロピーになるってか。あらゆる物理現象、あらゆる人生、あらゆる運命は、確率論に支配されている。すべての物質の存在や状態は確率的に表せる。おそらく反物質も。アインシュタインは「エントロピーはすべての科学の第一法則」と言ったが、どうやら本当らしい。
とりうる状態 W = 1 の状況下では、エントロピーは永遠に S = 0 のままとなり、確率が存在するということが、あらゆる変化や進化に柔軟性を与えることを表している。男が生まれるのも、女が生まれるのも、はたまた天才が生まれ出るのも、障碍者が生まれ出るのも、遺伝子の組換え確率であり、運命論を信じるか、決定論を信じるかも、自由意思の選択確率だ。犯罪も、戦争も、災害も... 人間の気まぐれにも困ったものだが、神の気まぐれには往生する。
また、シャノンは、情報量にマイナス符号を与えているので、負のエントロピーやネゲントロピーとも言われる。情報もまたエネルギーのように... 創造されも、破壊されもしない... ということか。
ちなみに、シャノンはこの関数を「インフォメーション」と呼ぶことを考えたが、あまりにも使い古された用語なので、「不確実性」と呼ぶことにしたそうな。そして、フォン・ノイマンと意見交換をしたところ、彼はもっといい考えを思いついたという。
「エントロピーと呼ぶのがいい。理由は二つある。第一に、きみの不確実性関数は統計力学ではその名前で用いられてきたのだから、名前はもうある。第二に、こちらのほうがもっと重要だが、エントロピーとは何なのか、だれも知らないから、論争ではいつもきみが有利だ。」

2. 対数の妙技
エントロピーと情報理論の公式は、どちらも対数を基調にしている。対数で定義される方程式は、底を省略して記述されることが多く、本質的な現象を掴むには、むしろ底は曖昧な方がいい。対数は、単なる指数関数の逆関数という以上に、抽象化した思考方法を与えてくれる。エントロピーの公式こそ、底にネイピア数 e を選んだがためにボルツマン定数に存在感を与えているが、実は、底に何を選ぼうが大した問題ではない。
例えば、コンピュータ工学では、ブール代数という古典的な論理法を用いる。それは、真か偽かという二値を問うもので、そのまま 0 と 1 の値に対応し、トランジスタの on/off 制御に用いられる。そして、とりうる状態が N 通りあれば、log N のビット数があれば事足りる。これは底に 2 を選んだ場合で、情報理論の基礎をなす。チューリングマシンの消費量は、ビットの浪費で決まるという見方もできるわけだ。
ちょいと眺め方を変えると、2進法であれば N はそのまま桁数となるが、底に整数 n を選べば n 進法の桁数とほぼ等しくなり、モジュロ演算とすこぶる相性がいいことが見て取れる。ここが対数の凄いところ。
したがって、年齢表記に、かつて2進法とすこぶる相性のいい16進法を用いていたが、最近はモジュロ演算で若返りを図る。何を除数に選ぶかは精神の状態数で決まり、不安定状態が多いほど精神エントロピーも増大するという寸法よ...

3. 重ね合わせと絡み合い
「重ね合わせ」ってやつは、ぞっとする現象だ。一つの電子の経路に対して干渉縞ができるということは、電子の伝達に波動性があることを意味する。だがそれは、粒子という観点から伝達経路が一つではないことを意味する。しかも、スピンが逆ときた。情報の観点から言えば、0 と 1 が同時に伝わった状態である。これは、ハイゼンベルグの行列理論で数学的に説明がつく。そりゃ、猫も悩む。俺は生きているのか?それとも死んでいるのか?と...
波とは、統計的な情報である。個人が粒子性だとしたら、人間社会という集団が波動性であり、互いに相容れないのも道理かもしれない。一人で生きていれば間違いなく責任は自分にあるが、集団の中にいれば責任の所在も曖昧。存在しているか、存在していないかも曖昧。実に、曖昧とは心地よいものだ。
「量子のからみ」ってやつも、実に薄気味悪い作用だ。光速よりも速く情報が伝わるとすれば、時間は無ということか。テレポーテーションといえば、SFの世界では瞬間移動を思わせるが、量子の世界では物質ではなく情報をテレポートさせる。
テレポーテーションが過激な解釈だというなら、平行宇宙だって過激さでは負けてない。多宇宙の重ね合わせ... 宇宙の分裂... 選択肢の同時進行... 互いに因果関係がなく、同時に存在する世界とは?EPR対(スピン共鳴)は、それを体現しているというのか?
情報が光速を超えられないとすれば、独立した世界にならざるをえないが、そもそも「相対性理論」という名で、光速という絶対速度を規定するところが奇妙である。
しかしながら、因果関係がないとすれば、それは複写でもなければ、移動でもなく、完全な独立事象となる。単なるそっくりさんか?自分のそっくりさんは世界に三人いると言われるが、これだけ人口が溢れていれば驚くほどでもない。仮に、夢と現実が同時進行したところで、どちらが本当の自分なのかは、どうせ分かりゃしない。夢に酔うか、酒に酔うか、結局は同じこと。
そして、その正体が瞬間的な意思疎通だとしたら、しかも科学的に実証できるとすれば、気味の悪い遠隔操作が可能となる。そりゃ、政治野心家どもが量子コンピュータの研究に慌てて予算をつけるのも無理はない。おまけに、自分の方が遠隔操作されていることに気づかなければ幸せだ...

4. エントロピーとデコヒーレンス
微視的な世界と巨視的な世界とでは、なぜこうも異なる振る舞いをするのか?そこにどんな境界条件があるというのか?デコヒーレンスとは、量子が観測者になったような状態で、環境あるいは他の量子と絡んだ途端に、どちらかの状態に落ち着くというのか?どうやら、デコヒーレンスが猫を殺すらしい。
猫は生まれた時から環境に触れ、他となんらかの関係を持っているので、量子のような純粋な存在ではありえない... などといえば、プラトンの唱えたイデア論にも通ずる。物質とは、もはや原型をとどめていない状態ということか?そうなると、量子コンピュータに用いられるキュービット(量子ビット)ってやつは、デコヒーレンスを喰らうとどちらかの状態に安定して、もはや量子情報ではなくなるのではないか?物質の世界にどっぷりと居座る人間には、もはや検証できないシステムということか?
キュービットのデコヒーレンスで系のエントロピーは増大するという。どれだけ増大するかは、k log 2 といった形をとる。キュービットならシュレーディンガーの猫の状態を記述できるが、それがデコヒーレンスによって検証できないことになる。
検証できないシステムの意義とは、なんであろう?なぁーに心配はいらない。巷でもてはやされている AI だって、勝手に答えを出してくれる。計算過程なんぞどうでもいい。人間はブラックボックスの出力する答えを鵜呑みにすればいいのだ。なんと便利な世の中だろう。ん?それは宗教と何が違うのだろうか?デコヒーレンスは、エントロピーよりも強力な信者を生みそうだ。
古来人類は、意識とは何かを定義することに苦慮してきた。シュレーディンガーは、「生命とは何か」という本を書き、エントロピーの観点から考察している。人間の脳は、意識と無意識の境界をさまよい、思考が具体的な形として現れた時、これを閃きと言ったりする。ある考えが凝結し、意識の前面に現れた瞬間に意識となる。こうした精神状態も、デコヒーレンスとの境界面をさまよっていることになるのだろうか?
あらゆる苦悩は、自己を意識することから始まる。何かに集中している時、完全に時間の概念がぶっとび、ある種のトランス状態となって快感となり、崇高な気分になれることが度々ある。無意識、無心、無想、無我といった境地こそ、至福のひとときを与えてくれるのだ。量子論研究者の中には、意識の正体をこのように見ている人もいるらしい。
「人間の思考は、初め前意識で重ね合わせ状態にあり、それから重ね合わせが崩れ、波動関数が収縮するとともに意識に現れる...」

2018-03-18

"ハイイロガンの動物行動学" Konrad Zacharias Lorenz 著

エソロジー(= 動物行動学)の権威者コンラート・ローレンツ博士。彼に言わせると、ハイイロガンのつがいは、生涯貞節な夫婦として添い遂げるものらしい。だが同時に、移り気の早い衝動を合わせ持ち、つい不倫までやっちまう。オスもメスも愛に狂うのだとか...
博士は、人間と交流するに最も相応しい動物は、犬の次にハイイロガンだと断言し、相似アナロジーを愉快に物語ってくれる。ハイイロガンは、コンタクトコールとディスタントコールを発して自己主張する。接触したいという表現声と、置き去りにしないでという表現動作を繰り返すことによって。動物の抽象化の能力は、人間よりもはるかに劣り、因果関係を見出すような思考能力が欠如している。それだけに慣習の奴隷となる。では、人間は?なるほど、エソロジーとは、人間学であったか...
「ハイイロガンもまた、人間にしかすぎないんじゃないの...」

研究者がひとたび研究対象を選択すれば、生涯の大部分を費やすほどのものとなる。彼らが取り憑かれる動機とは、いかなるものであろう。その対象に興味があることは間違いあるまい。だが、それだけだろうか。生涯をかけても決定的な成果が得られるのは、ごく稀。研究分野とは、そうしたものだ。問題を解決する度に新たな問題が生じ、研究の成果は、世代を超えた系統として眺めることになる。
そして、成果よりも動機の方にこそ、人類の叡智と呼べるものがあるのだろう。個人の手柄なんぞどうてもいい。趣味が使命に昇華した動機は、押し付けがましい義務などとは格が違う。自然科学者ならば、やがて使命感のようなものを芽生えさせるであろう。天職に巡り会えれば、この上ない幸せ。その動機は、すこぶる単純な自由精神から発し、愛好家魂に支えられている。
ところが、一旦、専門家という地位を獲得すると、権威主義に埋没してしまう。専門領域を聖域とばかりに。これも、ある種の縄張り意識であろうか。となると、「専門家」という人種の定義も微妙となる...
「一人の研究者の生涯にわたる関心が沸き起こってきた深層の原因を探ることは、楽しいだけでなく、ことのほか啓発的な試みでもある。とりわけ有益なのは、研究対象を選んだ理由を見いだすことである。」

人間の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつくだろう。行動は繰り返されることによって慣習化し、儀式化し、社会常識となっていく。しかも、無意識に。いや、盲目的に。それは動物でも同じようである。つまり、行動の根底には、種を維持するための本能が働くということ。この本能の最たるものに、繁殖という行動がある。しかしながら、個体の繁殖率を高めることが、必ずしも種全体の利益になるわけではない。過剰繁殖となれば、自然淘汰より熾烈な種内淘汰が始まる。自殺という現象は、他の動物ではあまり見かけない。高い社会性を持つ動物や、人間と関わったがために、引き起こされる事例は多く見かけるけど。人間社会とは、愚かな種内淘汰の特別な事例なのかは知らん...

1. 刷り込み
「刷り込み」とは、一般的に行動が特定の対象に結びつけられる獲得過程であると理解されている。だが、この定義は誤解されやすく、しばしば学習過程の一つとして、教育の場に持ち込まれる。しつけの一環として...
対して、動物行動学で言うところの「刷り込み」とは、もっと動物の根源的な、種の根源的なものから発しているようである。人間で言うところの生得的な、さらに認識論的に、アプリオリな... と言えば、ちと大袈裟であろうか。少なくとも、他の学習過程とは大きく違うようである。
第一の特徴は、報酬や強化を必要とせず、特定の刺激状況と絆を固定するには、単に受け身で接するだけで充分だということ。
第二の特徴は、その不可逆性で、一旦獲得すると取り消すことが極めて難しいこと。
第三の特徴は、数時間しか継続しない極めて狭い発達段階に限定されること。
そして最も注目すべき特徴は、非常に説明の難しいことだけど、刺激を出すのが個体ではなく、種にかかわるということ。
例えば、マガモの刷り込み過程では、数時間に限定されるそうな。孵化したばかりの雛が、はじめて目にしたものを母親と思い込む。それが博士であれば、いつまでも博士について回る。まるで「トムとジェリー」の一話を観ているようである。取り消しが効かないとなると、他の学習過程とは完全に区別される。鉄は熱いうちに打て!と言うが、本当らしい...
そういえば、刷り込みのような根源的な現象からは遠ざかるが、小学校時代、子供の教育は小学校低学年までが勝負!と熱心に教育論を語ってくれた担任の女性教師がいた。一年生の時は何度ビンタを食らったことか。ちょっとでもズルをしたり、誤魔化そうとするだけで猛烈に叱られ、当時、恐怖心しかなかったような気がする。
ところが、上級生になると優しく諭す穏便な教師に変貌していた。諭すというより暗示にかけると言った方がいい。あまり幼い時期に叩けば虐待となる。間違いをした時に徹底的に叱る!そのようなことのできる時期は、意外と短いようである。人間に自尊心があれば、動物にも自尊心があるということであろうか...

2. エソグラム
ローレンツ博士は、行動システムの目録やレパートリーを「エソグラム」と呼び、それぞれの動物行動は厳密にプログラムされているという。しかも、きわめて早期に成熟すると。動物種の解発機構を理解するには、まずは本能運動の体系を理解することだという。哺乳類、特に霊長類のような高度に発達した哺乳類では、道具的な学習、すなわち、オペラント条件づけによって獲得された行動様式が非常に大きな役割を果たす。それはあまりにも多種多様で、行動様式の目録を作成するなどとても望めそうにない。
しかし、ハイイロガンの行動様式となると、はるかに単純な構造で好運な状況にあるという。エソグラムの意義は、まずもって種の特異的な本能運動を観察すること。ほとんどの本能運動には、「生得的解発機構(AAM)」があるという。動物種には、生得的な行動様式のシステム特性があると。しかも、刺激への欲求メカニズムは、種の維持機能から比較的簡単に認めることができるという。
本能運動は長く抑制されると、徐々に落ち着きがなくなっていき、やがて爆発する。本能運動とは、なかなか手ごわい用語だが、とりあえず、内因性の刺激欲求と中枢性のメカニズムの協調の結果とでもしておこうか。
ただし、特有な自発性を持ち、外部からの刺激作用がなくても本能運動は現れるものらしい。心理学で言うところのゲシュタルト知覚は、人間にとっての生得的な生理的装置であり、それによって刺激データの連鎖、あるいは、規則的な連なりを認知することができる。これが自発的なのか、無意識的なのかは微妙である。ただ、いびつな社会でゲシュタルト崩壊が生じるのは、比較的簡単に説明がつきそうか。要するに、ある種の防衛本能が働いているということだろう。
ところで、種の維持機能とは、自由精神の原型のようなものであろうか。プラトンは、人間精神の純粋な形である「イデア」なるものの存在を説いた。ゲーテは、植物の特徴的な器官をすべて持つ「原植物」なるものの存在を主張した。
しかしながら、そのような原型的な存在は、現世に見つけられそうにない。遺伝的に残された形質、あるいは、遺伝的にプロブラムされた運動様式の欠片を見つけることができるとしても。進化の道は、非遺伝的な変化をともなう外部環境に左右される。
もし仮に、人間精神の純粋な形を見い出そうとすれば、それは自然界の動物に見ることができるだろう。人間社会では報酬を与えてくれる者がボスとなり、構成要素の一員として飼われる。人間はみな、パブロフの犬よ。人間社会には、生まれるとすぐに国籍や自治体といった集団社会に組み込まれるという奇跡的なシステムがある。無意識に帰属意識が植え付けられ、地元出身というだけで支持したり、妙に仲間意識を煽ったりと、もはや帰属意識に縋らなければ生きてはいけない。アリストテレスの唱えた生まれつき奴隷説も、あながち否定できまい。自律的な本能運動の動機づけには、本当に自発性があるのだろうか。自ら隷属を望むなら、それも自発性ということになるのだろう...

2018-03-11

"文明化した人間の八つの大罪" Konrad Zacharias Lorenz 著

学問でよく見かける態度に、専門家が自身の専門分野に苦言を呈すというものがある。ある種の批判哲学と言おうか。そもそも学問とは、客観性を保とうとする立場であって、その方向性には常に検証の目が配られる。おのずと自分自身の思考にも懐疑的な立場をとることになり、自虐的でもある。本書もその類いの一つ、科学者が語る科学への苦言の書である。
深刻な集団的攻撃性をもたらす文化的要素の一つに、イデオロギーってやつがある。世間では、すぐに利己的な態度に目くじらを立てるが、しばしば利他的な態度にも害となるケースがある。流行の知識は大衆を惑わし、流行の学問は、宗教以上に悪影響をもたらす危険性を孕んでいる。
「科学者はたった一つのイデオロギーしかもつことができません。そしてそのイデオロギーとは、イデオロギーをもたないということなのです!」

科学や技術が人間社会を豊かにしてきたのは確かだ。しかし、いくら文明を発達させようとも、人間もまた自然に依存した動物の一員であることに変わりはない。人間社会で、自然体でいるには肩が凝る。グローバリズムによって世界は広がっているというのに、一人の人間が生きる空間はますます息苦しくなる。孤独愛好家を増殖させるのは、本能が退化しているからであろうか。それとも、自然回帰にノスタルジアのようなものを感じるからであろうか。やはり地上の動物には、共通した行動パターンが遺伝子に刷り込まれているらしい。古代ローマの言葉に、"Homo homini lupus.(人間は人間にとって狼である。)"というのがあるが、これは怖ろしく真のようである...

動物行動学の権威で知られるコンラート・ローレンツ博士は、八つの大罪を提示し、近代社会に警鐘を鳴らす。八つとは... 人口過剰、自然な生活空間の荒廃、人間どうしの競争、虚弱化による感性や情熱の萎縮、遺伝的な衰弱、伝統の崩壊、教化されやすさの増殖、そして核兵器。中でも悪の根源を人口過剰とし、他の大罪はその派生的現象としている。その意味では、「七つの大罪」と題した方が、芸術的にも信仰的にも語呂がよさそうな気もしなくはないが、悪徳の原型としての枢要罪という観点から、「八つの大罪」の方が語呂がいいのかもしれん...
また、核兵器の項は記述が非常に短く、むしろ楽観視している。現象がひきおこす危険性に比べれば避けやすいというのである。科学者の発言としては少々意外だが、まだ人間の意志の働く範疇といえば、そうかもしれない。
しかしながら、理性もまた精神現象の一つである。核のボタンを押すことのできる人間は限られた権力者であって、彼らの衝動にかかっている。それでも、具体的な手段にすぎず、抽象度では格下という見方はできそうか...
「えせ民主主義的な教義は七番目までの人間性喪失の過程を促進している。この教義は人間の社会的な行動や道徳的な行為が系統発生で進化した神経系や感覚器の体制によってきまるのではなくて、もっぱら人間の個体発生の途中でそのときそのときの文化的環境をつうじてえられた『条件づけ』によって左右される。」

1. エソロジー(= 動物行動学)とは、どんな学問?
ローレンツ博士は、「行動を比較研究する科学」と定義している。生物学や生態学を動物だけでなく人間の行動にも適用するというもので、すぐに人間行動学という用語を思い浮かべるが、ここでは生態系の構造主義のようなものを感じる。
というのも、内分秘腺の構造をサブシステムとして捉え、衝動のメカニズムを分析する上で重要な位置づけを与えている。本能に理性が結びつくメカニズムにしても、知識を獲得する過程にしても、パターンマッチングや学習能力、あるいは洞察力が生得的な行動様式として DNA 二重螺旋構造の鎖に自然に組み込まれ、自律した衝動と化すといった具合に。知能もまた、系統発生的に生じた行動プログラムというのである。
また、客観よりも客観性、普遍よりも普遍性により価値を求めるあたりは、確率論的ですらある。確かに、進化の過程で重要な役割を果たす突然変異や遺伝子の再編成、あるいは自然淘汰といった現象も確率に支配されている。
ただ、こうした議論は真新しい科学ではなく、ダーウィン以来の生物学の方法を行動の研究に適用したにすぎない。行動とは、生物的、生理的な現象のこと。エソロジーとは、行動という現象に重きを置く学問というわけか。
したがって、この学問は、まず行動を観察するところから始まる。とはいえ、科学とは観察からはじまるもの。つくづく思うのだが、「科学」という用語も奇妙である。「科」を「学ぶ」と書けば、すべての学科を含むニュアンスを与える。学問の意義は、主観性の強すぎる人間精神に客観性の視点を与えることによってバランスさせ、知の世界を広げようという試み、ということができよう。それには、まず現象を観察し、現在の状態を的確に把握するという思考を働かせる。その意味で、科学的な要素を含まない学問があろうか。実際、社会科学、人文科学、人間科学、精神科学、心理科学など、多くの分野と結びついている。人間を知ろうと思えば、人間観察が鍵となる。なるほど、真新しい学問ではなさそうである。
過去の人物の偉大さを知るのに、その人物の記述を読んだだけではなかなか知り得ないものがあるが、影響を受けた人たちを通じて、その偉大さが伝わってくるということはよくある。この一冊も、その類いと言えよう。本書の場合、その偉大な人物とは、チャールズ・ダーウィンである...

2. 人口論
日本社会では、少子化問題が大きく取り沙汰される。なぜ大問題なのか?その動機は極めて単純で、経済が枯渇しているから。おまけに、大人たちの世代の面倒を見る将来的な世代が枯渇しそうだから。寿命が延びれば新たな世代層が生まれ、相対的に若年層が減少するのは当たり前。そして、絶対数においても減少の兆しがある。少しでも人口減少に転じれば、社会の破滅、ひいては民族滅亡にまで不安を増長させる。これは、もうパブロフ的反応である。そのくせ待機児童の問題を抱え、すべては大人たちの都合で問題を複雑化させる。
仮に経済が堅調で、かつ将来への憂いが解消されれば、老後の面倒を見てくれるはずの子供は、むしろ鬱陶しい存在とされるだろう。それとも、楢山節考のような棄老伝説までも、視野に入れなければならんのか...
世界に目を向ければ、子供の数を制限する政策は見かけても、寿命を制限する政策までは見かけない。大人どもには、もともと人口が多すぎるという発想はないのか?一億もの人口を抱える先進国は、広大な領土を持つアメリカを除けば、日本ぐらいなもの。自然に人口制限がかかっているとしたら、むしろ喜ばしい現象ではないのか?
人口問題については、過去にも偉大な提言がある。マルサスの人口論がそれである。この問題を凌駕したのは、あの産業革命だ。人類は、偉大な技術力をもって多くの人口を養えるほどの豊かな社会を築き、急激な人口増殖によって産業を拡大してきた。近代経済は、贅沢な物量によって拡大してきたのである。増幅回路のシステム設計は技術的には単純で、正のフィードバックをかけ続ければいい。人類が発明した資本主義とは、まさに資本の循環によって自然増殖をもたらすシステムである。実際、政策立案者は、いまだに消費を煽る以外に方策がないと見える。
そして再び、マルサスのように問い掛けなければなるまい。どこまで人口増加を容認できるのか?と。人間の都合による土地改良や品種改良は、どこまで容認できるのか?と。地球環境を本気で保護しようとすれば、人類の方が地球から去っていくしかないのかもしれん。体質改良を図って火星や月にでも移住するしか。経済問題を凌駕する方策が、本当に人口増加しかないとすれば...
「正のフィードバックの回路はふつうは個々の生物体にはみつからない。総体としての生命だけが、この無軌道を許しながら今日までみかけ上罰せられずにいる。有機的な生命は、たいへん珍しい性質をそなえたダムのように、浪費しつつある宇宙のエネルギーの流れの中に自分を組み入れ、負のエントロピーを食べ、エネルギーをもぎとってはそのエネルギーで成長する。そして自分の成長によって形を整え、ますます多くのエネルギーをもぎとる。すでにとりこんだエネルギーが多ければエネルギーをそれだけ速くもぎとれる。だからといっていまだに過剰増殖やカタストローフに至らないのは、非生物界の無情な力である確率の法則が、生物の増殖を制限しているからである。」

3. 報酬と罰の二重原理
文明人は、近代化した環境支配によって仕方なく、快と不快の経済市況に身を委ねてきたという。しかも、その進化の方向は、不快を触発する刺激には敏感になり、快を触発する刺激には鈍感になる方向にあると。人間は、不快に対する不寛容さをまし、快の誘引力も低下しているというのである。真の快楽を知らず、目先の現象に惑わされる傾向にあるというわけか。
奇妙なことに、生産者の商業戦略がインスタントな喜びを奨励すれば、これに負けじと、消費者もお得な分割払いに飛びつき、互いに生産と消費の奴隷と化す。現代人はますます利便性と自動化に邁進し、快と不快の生理的メカニズムの虜になっていく。ネット社会には、けしからん!と息巻く理性の検閲官どもが溢れ、エイプリルフールをささやかに催す喜びまでも奪われていく。理性ってやつが、ストレス解消の手っ取り早い手段となっているのである。実存の厳しさを知らない時代は、勇敢さを追求する必要はなくなった。あらゆる欲望はインスタント化し、愛の形もチンして終わり。愛が崇高だって?ご冗談でしょう。神の前で誓った結婚ですら、老後の不安解消のための救済処置として機能しているではないか。人を愛すのはいいが、人から愛されたいという衝動は少しばかり大きすぎる。面倒臭がり屋には辛い時代である。
では、文明社会とは、生物学的には病理的な現象であろうか?どうやらそうらしい。人間自身も、人間社会が自然から逸脱した状態であることは薄々気づいている。その証拠に、「自然」という用語に対して「人工」という用語を対立させる。
「古典的なパブロフ型条件反応を形成する能力のあるすべての生物では、この過程は相互的作用をもつ二つのタイプの刺激によって影響を受ける。そのひとつは、すでに生じている行動を強める強化刺激であり、もうひとつはすでに生じている行動を弱めたりまったく抑制したりする消去刺激である。人間の場合には第一のタイプの刺激のはたらきは快感と結びつき、第二のタイプの刺激のはたらきは不快感と結びついている。そして、高等動物の場合にはこれは要するに報酬と罰であるといったとしても、けっしてそれほど擬人化したことにはならない。」

4. 行動主義への反駁
本書は、行動主義派の反駁の書ともなっている。行動主義心理学者の大部分は、行動には生まれつきの要素は一つもない、と主張していたそうな。そして、このドグマは、あらゆる空論家たちの確信を強めるのに役立ったが、宗派間の教義を和解させるには役立たないと吐き捨て、こんな挑戦的なフレーズを叩きつける。
「人間は誰でも等しく成長する権利があるということは、疑いようのない倫理的な真理である。けれどもこの真理は、あらゆる人間がもともと等価であるという偽りに歪曲されやすい。行動主義の教義は、さらに一歩先をいっている。同じ外的条件のもとで成長すれば誰もが平等になれるし、しかもこうした条件さえ理想的なら誰でもまったく理想的な人間になれる、というのである。そこで人間は、いかなる遺伝的な性質も、とりわけ社会的な行動や社会的な欲求を決定するいかなる遺伝的性質ももっているはずがない、もっとうまくいえば、もっている必要がないということになる。」

2018-03-04

"ソロモンの指環" Konrad Zacharias Lorenz 著

悪霊までも支配したと伝えられる叡智の持ち主、ソロモン王。彼には「魔法の指環の助けをかりて動物と話をした...」という伝説がある。どうやら、旧約聖書にある「けものや鳥や這うものや魚たちの話をした」という一節を、「... と話をした」と読み違えたことに発するらしい。
だがここに、指環の力なんぞに頼らなくても、動物たちとの会話を謳歌したオヤジがいる。古代の王様のように、ありとあらゆる動物と語り合えたわけではないにしても。そのオヤジとは、動物行動学の権威で知られるコンラート・ローレンツ博士だ。彼は遺伝的に引き出される解発因としての動物たちの行動や意識を観察し、その実体験を物語ってくれる。副題に「動物行動学入門」とあるが、むしろ「人間行動学入門」したほうがいい。そして、その延長上に人口論が見えてくる...
「この眼で美をみたものは死の手にゆだねられることはないけれども、自然の美しさを一度でもみつめたことのあるものは、もはやこの自然から逃れることはできない。そのような人間は、詩人か自然科学者のいずれかになるほかはない。もしほんとうに眼をもっていたならば、とうぜん自然科学者になるだろう。」

「動物の話を書くためには、生きている動物たちにあたたかい、偽りのない感覚をもっていなくてはならない。」
そんな資格を持った人間なんているのだろうか?動物について語ると称して、動物については何も知らない。それどころか、人間という動物についても。そして、信仰の捌け口を宗教や哲学に求めるほかはない...
ところで、自分が人間だと思える時って、どんな時だろう。なぜ、自分は人間だと信じることができるのだろう。周りが人間だらけで、単なる同族だと思っているだけのことだろうか。他の動物よりも知能が優れているという差別意識がそうさせるのだろうか。
好物のミミズを博士の口元へ運ぶ鳥は、博士を同族と見ているようだ。生まれたばかりの赤ん坊の鳥は、はじめて眼にした博士を母親だと思い込んでいるようだ。人間と付き合っているうちに、動物たちの方が人間だと思い込んでいるのかもしれない。このようなエピソードは、「トムとジェリー」の一話を眺めているようで、鬱陶しい社会に慣らされた身には和ましい。
無に帰する恐怖は生あるものの本能。動物たちは息巻く... オレの平和を乱すヤツは誰だ!と。縄張り意識、所有の概念、居場所への執着... こうした情念が無意識に働くのは、動物でも同じようである。人間ってやつは、この意識をより強烈にさせ、自分の人生にまで意義を求めてやまない。惰性的な慣習を義務だと主張しては異口同音に身を委ね、それで安眠安住できるという寸法よ。およそ人間ほどしぶとい動物はいない。どんな劣悪な環境に追い込まれようとも、けして希望を捨てない。いや、捨てきれないのだ。おそらく人類滅亡に瀕しても...
エゴイズムのない人間はいない。いや、エゴイズムは動物の本能というべきか。だが同時に、高等とされる動物には、集団生活の中で自然に育まれる節制の原理が働く。種の保存原理と言うべきものが。本書には、モラルの起源を見ている思いである。そして、ダーウィンの「種の起源説」が一層輝いて見えてくる。自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化する必要がある、というのが真意だと思う...

1. 逆檻の原理
動物愛好家というのは、概して動物の良い面から書こうとするものだが、ローレンツ博士は正反対の試みを突きつけ、まずもって動物たちへの忿懣から書き下ろす。なんでも擬人化してしまう動物好きは、自分が話すことを動物が理解していると主張して譲らない。それどころか、ペットに家族の一員としての絆を強要する。博士は、こうした人間側の思いを真っ向から否定にかかる。動物園で満足して暮らしている動物には、ばかにセンチメンタルな同情を寄せるくせに、本当に辛い思いをしている動物の気持ちには気づかないものだと。檻の中では、動物たちの背中がしょんぼりと見え、いかに精神的にかたわであるか。それは、満員電車の中でぎくしゃくしているサラリーマンを観察しているようでもある。
動物を飼いたいという願望は、太古から人間の心に住み着いている。それは、文明を獲得した知的生命体が、自然という失われた楽園に抱く郷愁のようなものであろうか。人間と動物とではあまりに世界観が違いすぎる。互いに理解しようなどとは無理な話。人間同士ですら互いに理解できないというのに。神の前で誓った人間愛ですら当てにならないというのに、なにが動物愛だ。ペットを選ぶにしても、自分の世話が及ぶ範囲、すなわち、飼い主の寛容さの程度で決まる。まずは、そこから認めようというわけである。
だからといって、ネズミを放し飼いにし、こいつが家中を走り回り、あちこちをかじっていく様を見守ることができようか。洗濯物のボタンを片っ端から食いちぎるオウムを、笑顔で観ていることができようか。家の中で飼い慣らすことのできないという性質を持つハイイロガンが、毎晩寝室に入り込んでは共に夜を過ごし、朝になると窓から自由に飛び立っていく光景を黙認できようか。
このような馬鹿げた苦心談は必要不可欠なのか?と問えば、どうやらそうらしい。ちなみに、モラリストとして知られるモンテーニュはうまいことを言った... 結婚は鳥カゴに似ている。外にいる鳥は必死に入ろうとし、中にいる鳥は必死に逃げ出そうとする...と。
「大型インコ類は、ただ利口なだけではなく、精神的にも肉体的にも異常なほど活発なのである。おそらく大型のカラス類とともに、囚人の感じる倦怠の苦しみを知っている唯一の鳥だろう。しかしこの真にあわれむべき動物をあわれむ人はだれもいない。無理解にも、愛情深い女主人は、その鳥がひょいひょい頭をさげるのを、おじぎをしているのだと思っている。とんでもない。これはもともとは鳥がカゴから逃げ出す出口をさがし、なんとかして飛びだそうというはかない望みで、もがきまわった行動がすっかり身についてしまったものなのだ。こういう不幸な鳥を自由にしてやってみたまえ。数週間、いや数ヶ月間、鳥は飛びたとうともしないだろう。」

2. アクアリウムは一つの世界
アクアリウムは、地球上におけるのと同じく、動物と植物が一つの生物学的な平衡の下で生活している。植物は動物が吐き出す炭酸ガスで息をし、動物は植物が吐き出す酸素を吸って息をする。植物は自分の身体を作るために炭酸ガスを費やすばかりか、呼吸に使うよりも多量の酸素を吐き出す。生産性という意味では動物よりもはるかに優れている。静寂しきった身体だからこそできる芸当か。
一方で動物は、無駄な動きばかりするものだから、酸素を思いっきり費やす。あり余った酸素を前に、先祖の動物たちは、それを使い切ろうと浪費癖がついたようである。おまけに、その浪費遺伝子を、最も忠実に受け継いだのが人間か。
植物は、静寂で無駄口をたたかず、平穏で寛容だ。なにしろ生物の排泄物や死骸までも、バクテリアに分解されて生じた物質と同化させ、再び物質の大循環系に組み入れるのだから。この循環の平衡がちょっとでも乱れると、たちまち悪循環に陥る。水槽の中に、これ以上の動物は不要だと分かっていても、もう一匹魚を入れてみたいという衝動に駆られる。そして酸素欠乏が生じ、アクアリウムというちっぽけな世界を破壊してしまうのである。腐ってゆく動物の死骸には莫大なバクテリアが増殖し始め、水は濁り、溶存酸素量は急激に減少し、動物たちが追うように死んでゆく。この悪循環は容赦なく進行し、ついに植物までも殉死へ。アクアリウムは、もはや悪臭を放つドクロの肉汁と化す。
アクアリウム愛好家は、エアーポンプで人工的に空気を水中に送り込み、この危険を防ごうとする。だがそれでは、アクアリウムの真の魅力は損なわれる。実は、ちょっと餌を与えるぐらいで、生物学的に特に世話をする必要はないという。平衡状態が保てれば、掃除してやる必要もないという。枯れた植物の組織や動物の排出物が底に溜まっても、砂にしみこんで肥料となっていくので、気にすることはないと。まさにアクアリウムとは、自然界の自由意志を体現する場。人間にとって汚物の沈積物があるにもかかわらず、水は高山の湖のように澄み切り、臭いもない。その魅力は、ちっぽけな世界が自立し、自律し、そして、自活しているところにある。この世界を手に入れるには、かなりの謙虚さと自制心が必要だ。うっかり世話をしては駄目!それが善意からのものであっても...
とはいっても、ある程度思い通りに支配できる世界でもある。水槽の大きさ、中に住まわせる生き物、好みの水草など、ある程度の選択肢が許される。ただそれには、多くの経験と生物学的な勘が要る。底にしく砂、水槽の大きさや置き場所、湿度や光の条件、中に入れる動物や植物の種類と数など。この自然モデルの構築は、まさに神にでもなった気分。これこそが究極の管理技術やもしれん。
騒々しい人間社会に嫌気がさせば、癒やさる空間として、激しく動き回る生き物よりも熱帯魚のような静かな魚類を選びたい。世界を完結できるという意味では、まさに人口論を体現する場と言えよう。自然界をそのままを再現しようと思えば、池から水網一つで掬ってくるのが一番だと助言してくれる。
しかしながら、水槽の世界にも、恐ろしい肉食系がいる。掬ってきた生き物の中には、たいていゲンゴロウの幼虫が一匹や二匹混ざっている。こいつは相対的に、大きさ、貪欲さ、獲物を殺す狡猾さの面で、虎、ライオン、狼、シャチ、サメ、狩人バチのような名うての捕食動物のものの数ではないらしい。ゲンゴロウの幼虫は、体の外で消化する数少ない動物の一つ。獲物に注入する分泌物は獲物の内臓を溶かして液体状にしてしまい、幼虫は鉗子の中の菅を通して吸い込む。水草に隠れて待ち伏せし、少しでも動く物体ならなんでも盲目的に襲いかかる。アクアリウムのような狭い空間に大きなゲンゴロウの幼虫がニ、三匹もいると、二、三日足らずで食べ尽くしてしまう。それからは、もっぱら共食いだ。大抵の動物は、餓死しそうになっても、同族までは喰おうとはしないものだが...
そういえば、かつて人食い人種というのがいたと聞く。大飢饉に襲われれば、屍体を貪るような異常行動も記録される。家畜同然に扱われた奴隷が、その対象にされたということも考えられる。人間ってやつは、飢えると何をしでかすか分からない。理性に縋ったところで、これほど脆く崩壊しやすいものはない。ゲンゴロウってやつが、人間種に見えてくるのは気のせいであろうか...

3. オオカミ系とジャッカル系
思い浮かべる忠誠な動物といえば、犬だ。忠犬から権力者の犬など、良い意味でも悪い意味でも代名詞のように使われ、無駄な死を「犬死に」なんて言ったりもする。哲学界に目を向ければ、犬は乞食の代名詞のようにも言われ、必要最低限のものしか欲しないという意味で「犬儒学派」というのもある。ちなみに、一目置かれるディオゲネスも、この一派とされるが、おいらは子猫ちゃん派だ!
さて、ペットとしての犬の歴史は長いそうな。新旧石器時代の境目ごろ、最初の家畜としてトルフシュピッツ犬が現れたという。ジャッカルの血をひいた半家畜化された犬で、狩人のキャンプについてまわり、人間の食べかすを漁る。サーベルタイガーやホラグマなどの猛獣が近づいたら凄まじい声で吠えてくれるので、番犬としての役割が与えられたとか。人間と犬の古い結びつきは、両者の自発的な意志によって、なんの強制もなく契約されたようである。人間が犬を忠実で恭順な友と呼ぶのも、その所以であろうか。他の動物が囚われの身という経緯で家畜になったのとは違うようだ。
野生犬が一人の主人に抱く愛着は、群れのリーダーに抱く愛着がごとく。犬がたった一人の主人に強い結びつきを誓うのは、やはり謎である。そして、人間自身もまた、犬に見習って人間の犬になるのかは知らん。
一方、猫は違うらしい。とても家畜とは言えないし、これほど自由に振る舞っているヤツも珍しい。そして、男性諸君が子猫ちゃんの犬となっていくのは、やはり謎である。
ところで、犬の系統によっても忠誠の誓い方が違うようである。ジャッカル系とオオカミ系とでは、気質の本質的な違いが見られるそうな。ジャッカルはもともと定住性の動物で、たまたまその場所に住み着いて群れをなしているらしい。
対して、獲物を求めて徘徊してまわるオオカミの群れは、がっちり組んだ、まったく排他的な社会を形成するという。仲間同士で死んでも守ろうとする意志、妥協のない排他性と勇敢な集団性は、なんといってもオオカミの特性である。
ジャッカル系は、誰とでも仲良しになりすぎで、誰が綱をひっぱっても喜んでついていく。オオカミ系は、一度忠誠を誓ったら永久にその人の犬となり、知らない人には尻尾すら振らない。
「二君に仕えぬというオオカミ系のイヌの忠誠さを味わった人は、もはやジャッカル系のイヌを飼っても幸せにはなれない。」
しかしながら、欠点も大きい。もし何かの理由でオオカミ系の犬を手放すことになると、完全に心理的平衡を失うという。モラルが崩壊し、鳥小屋を襲い、悪事に悪事を重ね、そこらじゅうをうろつきまわり、野良犬のレベルにまで転落するのだとか。ゲシュタルト崩壊ってやつは、忠誠心の強いデリケートな感覚にこそ起こりやすいようである。
さらに、オオカミの血の濃い犬ほど、その並外れた忠実さと愛着の深さにもかかわらず、けっして従順ではないという。野性的な自立性は保たれているということか。オオカミ系の犬は、大型ネコ族の性質を多く持っているという。それは、死ぬまで君の友、だが、けっして奴隷にはならないという性質である。あなたなしでは生きていけないわ... なんて台詞を吐きながら、しっかりと自分というものを持ってやがるし、気まぐれな行動も多い。どうりで犬族の男どもは、子猫ちゃんの性質に隷属するわけだ...
ジャッカル系の犬はまるで違い、古くから家畜化されたために、子供っぽいところが残っているという。声をかければ喜んで近寄ってきて、ほとんど本能的に言うことをきくのも、幼稚な忠誠である。主人だけでなく誰にでもなつき、いわば万人の犬であって、すぐに盗まれる。
だからといって、忠誠心を求めてオオカミ系の犬をペットにしようとしても、調教済みのものを飼っても無駄だ。一人の調教師に忠実なはずだから。そこで、双方の長所を受け継ぐために、品種改良を試みるのが人間ってやつだ。オオカミ系とジャッカル系を無理やり交尾させ、自然界にあふれる多様性を人間の都合で変質させてしまう。
そして、自然から逸脱した多種多様な品種に溢れ、もはや純血な生態系を見つけるのも難しいときた。孤独を信念に持つオオカミなら辛うじて森に生息するが、人間に近すぎたジャッカルはとうに絶滅しちまったとさ...

4. 勝者の社会的抑制
「カラスは仲間の目玉をえぐらない。」という諺があるそうな。ハシボソガラスやワタリガラスは同族の仲間の目玉をつつかないし、懐つけば飼い主の目玉もつつかないらしい。博士が飼っているワタリガラスのロアを腕にとまらせ、わざと顔をくちばしに近づけ、下向きに曲がった恐ろしい先端すれすれに目玉を差し出したことがあるという。すると、ロアは実に感激的なことをやったとか。神経質というか、なかば苦しそうな態勢から、くちばしを眼から遠ざけるように振る舞ったと。これは信頼なのか?あるいは服従なのか?
とはいえ、カラスはやはり猛獣だ。くちばしに目玉を近づけるなど自殺行為。人間同士でも、被害妄想者にいきなり射殺されるかもしれない。カラスにも衝動というものがあろうに。同類虐殺の防止本能といった動物学法則でもあるのか?
一方で、動物界で最も高等とされる人間は人間を虐殺する。そればかりか民族レベルで抹殺にかかる。友愛や博愛を唱える修道士でさえ異教徒を相手にすれば、人格を変貌させる。こうした行為は動物界では見られないが、少なくとも同じ人間の種だとは思っていないからやれる行為だろう。
それでも救いはある。絶望の中で死を覚悟してもなお必死に抵抗する者が、敗北を認めた途端に敵対心を消失させることが、しばしば見られる。ホメロスが描いた古代ギリシアの戦士たちは、降伏時に、兜と槍を捨てて跪き、首を垂れた。負けを認めた武士は、潔く首を差し出した。すると、殺しやすい姿勢を無防備に見せることによって、却って相手を殺しにくくしてしまうという不思議な心理が働く。同情心のようなものが。こうした心理が働くのは、なにも人間界だけのものではないらしい。動物界でも、情けを乞う方の個体は、攻撃者に向かって身体の最も弱い部分を差し出すという。敵が殺そうとして襲いかかる時に狙う部分を。鳥の場合は、多くの場合が後頭部を差し出すのだとか。社会的動物の服従の態度は、すべて同じ原理に基づいているという...