2020-11-29

"翻訳困りっ話" 柳瀬尚紀 著

小雨降りしきる中、虚ろな気分で古本屋を散歩していると、ちょいと気の利いた題目に出逢った。ん~... 翻訳家の方々には、いつもお世話になっております!

海外の小説や詩を味わおうとすれば、語学力の乏しいおいらには翻訳家の存在が欠かせない。期待するのは、語の翻訳もそうだけど、むしろ、文化の翻訳、心の翻訳である。芸術作品ともなると意訳はつきものだが、その案配が難しい。作者がさりげなく演出した行間までも読ませるように翻訳するのは至難の業。言葉で補足するのでは芸がない。原文から離れてダラダラ文章になるのでは、作品を壊してしまう。美しい文調に、語学的な説明は無用だ。
センスのいい翻訳家に出逢えるのは、読者のみならず、原作者にとっても幸せであろう。シェイクスピアの作品ともなると翻訳家が群がり、腕を競い合う。異なる翻訳家で味わうのも一献!原作者と翻訳家が同時代を生きていれば、うまい翻訳文を原本の改訂版に盛り込むといったケースもある。そうなると、共同制作者。原酒に酔い痴れれば、モルトもブレンデッドも自在に味わえるという寸法よ。
時には、日本語にない日本語を編み出し、日本語の在り方までも問い掛けてくる。翻訳語に酔い痴れれば、日本語が翻訳語に毒されていくは必定。おいらは、純粋な日本語なんぞ知らんよ。

やはり、言語は手ごわい。なにしろ精神の投影なのだから。言語システムを、方程式のように置き換えることは不可能。なにしろ精神ほど得体の知れない存在はないのだから。母国語ですら語彙の解釈を巡っては、人それぞれ。客観性を帯びた専門用語ですら、微妙にニュアンスが違ったり、時代とともに変化したりする。それで会話やコミュニケーションが成り立つのだから、人間社会は摩訶不思議。いや、成り立っていると信じ込んでいるだけのことかもしれん。翻訳家は、人間の多様性を相手取る厄介な仕事の一つ。文学というより、心理学や精神医学の領域に近い。まさに、困りっぱなし!の世界というわけか。
しかし、困ったものである。人の困っているのを見ると愉快になるのだから...

著者は「翻訳恥書きっ話」というタイトルも提案している。ん~... こいつも捨てがたい。
翻訳文は、厳しい評論や批判に晒される。それも当然だろう。下手な翻訳は作品を壊す。くだらん作品なら見捨てればいいが、名作を壊されてはかなわん。
翻訳家は、対象の外国語はもちろん、母国語のセンスが大いに問われる。言語システムを超越した普遍的な、メタ言語的な感覚も必要であろう。ゲーテやタゴールのような美しい旋律を奏でる文体には、翻訳語にも乗り移る何かかがあると見える。
ところで、言葉センスを曝け出して生きてゆく仕事とは、いかなるものであろう。口は災いの元というが、一旦言葉にすれば恥がつきまとう。太宰小説ではないが... 恥の多い生涯を送って来ました... となりそうな。まさに、恥かきっぱなし!の世界というわけか。よほどの言葉好きでもないと、やってられんだろう。実際、本書は言葉遊びのオンパレード。言葉遊びの基本は、語呂合わせであり、なんといっても駄洒落だ。笑いネタに困れば、駄洒落をかます。西洋語の語呂合わせを日本語に翻訳するとなると、よほどの駄洒落センスが問われる。アリス物語ともなると、語呂合わせも芸術の域!翻訳者の仕掛けに、おいらはイチコロよ...

おびただしい活字の氾濫する昨今、言葉との戯れ方にも凝ってみたい。こういう試みを「文字遊びの四重奏」というそうな。「も」じあそびに「じ」たばたと「あ」がいたり、「そ」そられたり、「び」っくりしたり...
しかし、だ。これが困りっぱなしの文章か!翻訳家が駄洒落にご執心とくれば、やはり困ったちゃん。読み物だから面白いけど、会話で使えばドン引き!トートロジックな駄洒落じゃ、言い訳もできん。
「正気の沙汰か」に「将棋の沙汰か」を当てれば、「啓蒙的な」に「軽妄的な」翻訳談義を当てつける。
「翻訳は駒落ちで指してもらわなければ歯が立たないような相手なら、対局を断るのが礼儀というものだ。大駒は近づけて受けよ、大作は近づいて受けよ、大作でないにしろ厄介な作品ならば、自分がその作品にどの程度近づくことができるかを見極めてから、注文を受けるべきだ。そうしないから、桂馬の高飛び歩のえじきというようなみじめなことになる。本人はいいつもりでも、作品がみじめだ。」

ドナルド・バーセルミの小説 "The Dead Father" に、「死父」という日本語にない用語を当てたことには自画自賛。翻訳とは、辞書では足りない言葉を探す仕事といわけか。暗示にかかりやすいおいらは、即、ToDo リストに追加しちまう。
「翻訳困立破無氏」の草稿もなかなか。
「翻訳」という性と、「困立破無(こまりっぱなし)」という名を持つ人物は、劇団「翻訳の世界」所属の道化厄者で、十二ヶ月で逝っちまったとさ...
「氏は生活がプロである人間を尊敬し、生活がプロであるべき人間がプロらしからなぬ仕業をすることに腹を立て、プロでない人間がプロであるがごとき顔をすることに唾さえひっかけなかった。」

猫とじゃれながら洒落た筆を走らせ、私生活までも見えてきそうな書きっぷり。困りっぱなしも、一皮むけると自己陶酔というわけか。しかし、読者の方は、自己に酔うだけでは足りない。君に酔ってんだよ、とピロートークでもかますか。そして、自己陶酔に浸る。
ん... 実にくだらん!でも、おもしろい!だから言葉遊びなのだ。くだらないことに目くじらを立てていては、遊びは成立しない。脇をくすぐる領域で、くだらん人生、くだらん笑いで、愉快にゆきたいもんだ...
ちなみに、あるバーテンダーが能書きを垂れていた... 「酒に落ちる」と書いて「お洒落」... と。棒が一本足らんよ。

「卒業証書は社会には保証の幻を、証書所有者には権利の幻を与えます。証書所有者は公式に知識があると見なされます。そして、いっときの、全く便宜にすぎない学識を証明するこの書類を一生大事に持ちつづけます。他方、法に基づいて卒業証書所有者なるこの人間は、世間は自分に負い目があると信じるようにしむけられます。例えば、原著者のものを読む代わりに、要約、便覧、奇妙奇天烈な学識の錠剤の使用、すっかり出来上がった問題と解答の集成、抜萃その他かずかずの嫌悪すべきものが持って来られるのが見られるようになったのは、卒業証書を考えればこそです。その結果、こういう贋造された教養に属するものは、もう一つも、発達してゆく精神の生命に援助を与えることも、適合することもできないのです。」
... ヴァレリー「知力の決算書」(寺田透訳)より

2020-11-22

WUuu... の呪い、WMP 蜂に刺され、ご愁傷様です!

やっと縁が切れた... とホットできるヤツがいる...
ソフトウェアってやつは、愛着があって使い続ける分にはいいが、仕方なく惰性的に使っているものもある。ある種の依存症だ。しかも、標準という地位にあぐらをかき、デスクトップ内で奇妙な権威を持ち続ける。
例えば、Edge は最初から眼中にないにしても、IE は未だ縁が切れないでいる。金融系サイトでは、IE + Java でないと、まともに閲覧できないページもあるし... おいらのデスクトップは、亡霊どもの安住の地か!
そんな腐れ縁も、WUuu... の呪いが、断ち切るきっかけになってくれるとは... 恨まれっ子も捨てたもんじゃない。
ちなみに、WUuu... とは、Windows Update の略で、重低音でうなるように発声する。うぅぅ~...

1. 今回、縁が切れたのは、WMP(Windows Media Player)...
SM 教の大型アップデートってやつは、なにかしら不具合に遭遇するものだが、それが当たり前の感覚になりつつあるのも怖い。
言い出したら切りがないが、音楽関連の設定がチャラにされる程度のことは毎度のこと。なにかとトラブルの元になる "高速スタートアップ" を無効にしていると、最近、シャットダウン後の起動で、特定のアプリケーションが一度目のネットワーク接続で失敗するといった現象も見かける。だからといって、このオプションを有効にすれば、それはそれで... はぁ~、この業界で推奨やオススメの類いは当てにならん。
そして先日、Version 20H2 を適用。いわゆる、Windows10 October 2020 Update ってヤツを...
すると、WMP の視覚エフェクトが、2曲目以降動作しなくなった。
環境は、WMP12 + XTHREE(スキン) + FRUITY(プラグイン)。
スキンも、プラグインも、外部から持ってきているので、これらが悪さをしているかと思いきや、標準装備されるヤツもことごとくアウト!WMP 本体を再インストールしても、やはりアウト!
XTHREE + FRUITY の組み合わせがお気に入りで使い続けてきたが、そろそろ潮時か。ダークモードにもなりきれず、おいてけぼり感は拭えないし...
だからといって、新手の "Groove ミュージック" に乗り換える気にはなれん。

2. 前々から目をつけていた MusicBee を試すと、これがなかなか!
音質も良くなり、我が家の非力なスピーカでも、それなりに聴ける。
初対面では、設定項目が多くて圧倒されてしまうが、すぐに、このぐらいのカスタマイズ性は欲しいと思えるようになる。噛めば噛むほど味がでてきそうな... おいらは惚れっぽい自己陶酔者なのだ。
ざっと、外観すると...

  • タブの状態がしばしば変わるのが、どうもなぁ... と思いきや、タブ毎にナビゲーションロックができて安心。
  • パネル構成は、なかなかの充実ぶり。但し、グラフィカルな要素が、ちと寂しい。FRUITY 並みの VU メータを求めるのは酷か。
  • 再生装置に対して、"ハードウェアの同期のために起動時に無音を再生する" という設定があり、なかなかの気の配りよう。
  • デバイス I/F は、DirectSound, WASAPI(Shared/Exclusive), ASIO, Winamp がエントリ。
  • コーデックは、MP3, AAC, Ogg(Vorbis), Opus, Musepack, FLAC, ALAC, WavPack, TAK, WMA がエントリ。
  • スキンは、xml, xmlc(Javaベースコンパイラ)形式。

そして、ちょいとヴィンテージ風にアレンジしてみた。
ちなみに、最前面でスピーカをパコパコさせて音波を踊らせているが、それはデスクトップツール "Rainmeter" とのコラボ...




3. ついでに、楽曲ファイルの階層構造を見直す...
まず、おいらは、実空間が仮想空間と掛け離れていると不安でしょうがないネアンデルタール人なのだ。
タグが物理構造とあまりに一致していないと、音楽ソフトを乗り換える時に苦労する。リッピング時に念頭には置いていたが、WMP に頼ってずぼらになり、グチャグチャ気味。MusicBee ではあまり問題にならないが、自動車の音楽システムが古いこともあり、階層構造は整理しておいた方がいいだろう。SD カードで持ち歩いたり、愛ある電話にも移植性を高めておきたいし...
だからといって、物理イメージとタグの柔軟性をガチガチに一致させるのは手間もかかるし、現実的ではない。
そこで、物理的な階層構造はジャンル別にアルバムを割り当て、この二つにタグを一致させる、という方針で。他のタグはプレイリストか再生中トラックで閲覧できればいい。
例えば、モーツァルトの楽曲はアルバム毎に "..\Music\Classic\Mozart Works" というディレクトリ下に格納し、気分に応じて曲ごとにプレイリストへエントリする、といった具合。
おいらの場合、ジャンルとアルバムが整理されていれば十分だし、この程度の編集なら大して手間もかからない。MusicBee は、タグ編集もやりやすいし...
ところで、ディレクトリという名は死語になりつつあるのだろうか。dir コマンドはまだ生きているけど。フォルダという名で抽象化するのもいいが、ネアンデルタール人はファイルとディレクトリで種別する方が落ち着く。Unix ライクな土壌では、カレントディレクトリの名は未だ健在だし...

2020-11-15

"迷い鳥たち" Rabindranath Tagore 著

ひと月ほど前、「ギーターンジャリ」(渡辺照宏訳版, 岩波文庫)には、見事にしてやられた。今宵、翻訳者を変えての挑戦に、これまたイチコロよ。
尚、内山眞理子訳版(未知谷)を手に取る。

恥ずかしながら、おいらが詩を読めるようになったのは、半世紀も生きてからのこと。詩ってやつは、理解するというより、感じるものなのだろう。何事も素直に感じとるには、子供心に看取られた純真さがいる。脂ぎった大人には酷だ。中原中也ではないが、まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
素直に味わうには、感覚を研ぎ澄まさなければ。感覚のままに受け取るには、感情を解き放たなければ。それは、受動的でありながら能動的という矛盾の覚醒か。自由精神とは、矛盾を謳歌することか。いや、M の覚醒よ...

詩を本当に味わいたければ原語で読むべし!とは、よく耳にする。しかし、タゴールをベンガル語で触れるのは、生涯叶わぬであろう。語学力の乏しい酔いどれごときには。
それにしても原文には、オーラのようなものが放たれているのだろうか。翻訳語にも乗り移る何かがありそうな。これが、普遍性というものか。詩にうんざり、愛にはもっとうんざり、そんな天の邪鬼な心をねじ伏せてきやがる。

原題 "Stray Birds"... ん~、迷える子羊より響きがいい...
まったく人間ってやつは、迷える存在でしかない。善を知るために、悪をも知らねばならぬとは。相対的な認識能力しか持ち合わせなければ、対極を知覚して中庸を模索するしかあるまい。生と死、永劫と刹那、光と闇、暁と黄昏、大いなる存在とちっぽけな存在... こうしたコントラストを甘美な調べに乗せて。言葉遊びの相対性理論とでも言おうか。
澄んだ目で見つめる森羅万象は、愛にも悲しみにも溢れ、あるときは、大自然の神秘な讃歌を奏で、またあるときは、宇宙と静かに会話し、またまたあるときは、人間社会を痛烈に皮肉って魅せる。ささやかな箴言の凝縮、自己表現を極限まで簡素化する芸。これが、詩というものか。迷える存在だからこそ、対称性に看取られた小宇宙に魅せられるのやもしれん...
「歌は無限を大空に感じとり、絵画は無限を大地に感じとり、詩は無限を大空と大地に感じとる。なぜなら詩の言葉は歩みゆく意味をもち、空翔る音楽をもつのだから...」

騒々しく活字が飛びかう昨今、沈黙の奏でる調べに癒やされようとは。そして、言葉拾いに翻弄される。脂ぎった魂はどうしても皮肉の利いた言葉を拾ってしまう。詩とは、読者の心を映し出すものなのか。
その日の気分によっても、拾えるものが違う。マールをやりながら読めば、心の中にわずかに残った粕を搾って、箴言らしきものが拾えるやもしれん...

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海よ、あなたの言葉はどのような言葉ですか... 永遠の問い、という言葉です
空よ、あなたの答えはどのような言葉ですか... 永遠の沈黙、という言葉です

水のなかの魚は沈黙し、地上の動物は騒がしい、空を飛ぶ鳥はうたっている、そして人間は、海の沈黙と、地上の騒がしさと、空の音楽をそのうちにもっている。

生はあたえられたものであるがゆえに、あたえることによって、それを得るにあたいする。

謙虚さにおいて偉大であるとき、偉大者にもっとも近づく。

完全者は、不完全者への愛のために、美でもって自身を装う。

悪は敗北する余裕をもつことができないが、正しきことはそれができる。

子どもは、どの子も、神はまだ人間に失望していないというメッセージをたずさえて生まれてくる。

草はその仲間を地中にさがしもとめる。木はその孤独を大空にさがしもとめる。

死において多は一になる。生において一は多になる。神が死ぬときに宗教は一つになるだろう。

芸術家は大自然の愛人である、それゆえにその奴隷であり、その主人である。

闇のなかで唯一者は一様にあらわれるが、光のなかでは多様にあらわれる。

花をつんでおこうと集めてまわらずに、ただ歩いてゆきなさい、そうすれば花は、行くさきざきで咲いていることでしょう。

真理はその装いのなかで、さまざまな事実をとても窮屈だと知る。いっぽう物語において、真理はゆったりとふるまう...

器のなかの水は光るが、海の水は暗い。ちいさな真理は明瞭な言葉をもつが、大いなる真理は大いなる沈黙をもつ。

ペット犬は、世界がまるごと、じぶんのその地位をねらう陰謀ではないかと疑っている。

賞賛はわたしを恥ずかしく思わせる、なぜならひそかにそれをほしがるわたしがいるから...

人びとは残酷だ。しかし、人は優しい。

真理の流れは幾多の誤謬の水路を通りぬけてすすむ。

人間は動物であるとき動物よりも悪い。

神は限りあるものに、人間は限りなきものに、愛の口づけをする。

神の沈黙は人間の想念を成熟させて言葉にみのらせる。

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2020-11-08

"ガンディーとタゴール" 森本達雄 著

タゴールの詩集「ギーターンジャリ」に魅せられ、ガンディーの告白「獄中からの手紙」を突きつけれると、今度は、翻訳者の視点から描いたものに触れてみたい。この惚れっぽい衝動ときたら...

暗い受難の時代というのは、偉大な人物を輩出するものらしい。英国帝国主義の植民地支配に抵抗したセポイの反乱が鎮圧されてから、インドとパキスタンの分離独立に至る激動の時代に、二つの巨星が舞い降りた。片や仏陀の再来と言われ、片や古代サンスクリット語の大詩人カーリダーサに比肩するとされ、それぞれに国民大衆から「マハートマ(偉大な魂)」と敬われ、「グルデブ(尊師、先生)」と慕われた。
ただ、この二人の人物像は、国民的英雄といった印象とは大分違う。二つの卓越した人格が、肉体から離脱したような存在とでも言おうか。偉大なのは人物ではなく、人格と言うべきか。まさに人間離れした。普遍的な人間とは、こういう人物を言うのかもしれん...

しかしながら、どうしても腑に落ちないことがある。これほどの人格者が二人揃って、なにゆえ政治運動なんぞに執心したのか?彼らの使命感や義務感は、いったいどこからくるのか?時代がそうさせたといえば、そうだろうが、それだけだろうか。
同胞が過酷な迫害を受けた時代、二人は真理の探求に生きた。受難の時代に哲学をやると、政治へと向かわせるのか。思考は疑問を持つことに始まる。時代の在り方に疑問を持てば、社会の在り方を問い、政治の在り方を問うことに。プラトンは、哲学者による統治という国家の理想像を描いて魅せたが、これに通ずるものがある。
とはいえ、真理を探求する世界と政治の脂ぎった世界とでは、あまりにも真逆。政治は妥協の世界で、理想主義がしばしば混乱を招いてきた。真理ってやつは、よほど手ごわいと見える。俗世間から距離を置き、精神空間を遠近法で眺めないと、なかなか姿が見えてこない。はっきりと見えなければ、凡人は都合よく解釈するし、この凡人未満の天の邪鬼ときたら、そんなものが本当に存在するのかと疑いもする。
真理の探求者が、普遍原理に反する事に関わることは苦痛でしかあるまい。それでも、優れた才能の持ち主ゆえに、逃れられないことがある。両者とも、意に反してまで政治運動にかかわったようには見えないけど。有能な人材ほど苦難を背負うものなのかもしれん...

馬の耳に念仏というが、聞く耳を持たぬ者を説いても、人の心は動かない。それは、ガンディーも言っていること。考え方や生き方を強制することも暴力であると。良心に訴えるというが、個々は善人でも、集団化すると悪魔に変貌するのが人間社会。そんな性質とどう向き合うか。
残念ながら、ガンディーの唱える非暴力不服従運動は、凡人には高尚すぎる。現実的な解は、毒をもって毒を制すの原理に縋るしかなさそうだ。まともな政治哲学を持つには、人類はまだまだ若すぎると見える。なにも直接、国民大衆に接することはあるまい。諷刺の効いた芸術作品を通して、訴えるのも一つの手。多少なりと聞く耳を持つから作品を手に取るのだろうし、ましてや、まったく興味のないものに触れようとはしないだろう。
そこで、タゴールの方はまだ馴染める。やがて政治の世界から身を引き、文学の世界で生きるのだから。文学部門でアジア人初のノーベル賞に輝いたことも、国民に勇気と誇りを与えたことだろう。アインシュタインのような自然科学者とも親交を深め、まさに自然哲学に没頭したと見える。
生き方は違っていても、思想哲学ではガンディーとタゴールはよく似ている。タゴールが言葉の奏でる美を通して真理を探求した人なら、ガンディーは行動を通して真理を探求した人。ともに、狭い了見での国家主義に警鐘を鳴らし、帝国主義を批判した。
二人は親交もあり、「マハートマ」の称号を与えたのがタゴールだったとされる。自己を高めるライバル意識のようなものが、互いに引きつけ合ったのであろうか。ルネサンス時代に多くの万能者を輩出したように。類は友を呼ぶというが、天才が集まると偉大さを纏い、凡人が集まると魔性を帯びるのかは知らんが...

1. 行動の人... ガンディー
「あなたのメッセージは?」と報道陣に聞かれると、「マイ・ライフ、わたしの全生涯がメッセージです。」と答えたそうな。ガンディーにとって、行動そのものが言葉というわけか。彼が起こした非暴力不服従運動は、思想的には真新しいものではないが、集団行動となると、人類史上、未曾有の試みかもしれない。
ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。理想が高すぎて、受け入れる側の度量を超えると、抑圧的にも感じる。ガンディーには、そうしたところがあまりない。彼は、完全な菜食主義者だったというが、それを強要したりもしない。
「他人に魚を食うなと強要する人は、魚を食する者よりいっそう大きな暴力を犯しているのです。漁師も、魚の行商人も、それを買って食する者も、おそらく彼らの行為に含まれている暴力に気づいていないのです。たとえ気づいていても、彼らはそれを不可避とみなしているかもしれません。けれども、他を強要する者は、故意に暴力をふるうという罪を犯しているのです。強制こそ非人間的です。」
行動の人という意味では、まさに政治家らしい政治家。押し付けがましいところがないという意味では、実に政治家らしくない政治家。
しかし、だ。凡人が崇高な思想を慕って集団化すると、しばしば抑圧的な思想に変貌してしまう。一人の偉人の目よりも、集団の目の方がずっと力強い。ましてや寛容さには、凡人はその上にあぐらをかく。
したがって、こうした思想を慕う人には、自立が求められる。ガンディーも、必然的に自立を要請している。ガンディーが唱えた「サティヤーグラハ」という思想は、南アフリカ共和国で試験的に実践し、インド独立運動で展開された。だがそれは、単なる非暴力を要請しているわけではなく、自立が前提されている。
「スワデーシー」という国産品愛用の呼びかけも、民族の職業的自立を唱えてのこと。しかし、凡人がこれを実践すると、海外製品ボイコットという形でナショナリズムを煽ることに。敵愾心を持つのは、自立心のなさゆえか...
「無所有」という積極的な欲望の浄化を唱えているのも、自然との共存の中での自立を説いている。衣食住のすべては、なんらかの形で自然の恩恵を受けている。もし、必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、住む家のない人の土地を奪っていることに。もし、必要以上のご馳走にありつき、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人の食べ物を奪っていることに。そう考えると、必要以上の所有は悪となる。人の幸せは、何かの犠牲の上に成り立っていると考えれば、これ以上の幸せを求めなくなる。
しかし、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と違うところ。そして、自己満足に終わる。幸せすぎても、不幸すぎても、人間は残酷になるらしい。
ん~... やはり、ガンディーの生き方は高尚すぎる。少なくとも、21世紀の人類には...
だからといって、理想主義で片付ける気にはなれない。遠く紀元前五世紀にブッダガヤの菩提樹の下で大悟成道した行動も、二千年前にゴルゴダの丘で沈黙のままに十字架刑を受け入れた行動も、今尚、時空を超えて語りかけてくれるのだから...

2. 美を奏でた人... タゴール
ガンディーが政治家としての使命感に目覚めた人とするなら、タゴールは教育家としての使命感に目覚めた人と言えよう。国家教育から距離を置き、自ら学校を設立。後に、タゴール国際大学と呼ばれることに。ガンディーもアーシュラム(修道場)を建設し、出身階級のいかんを問わず、学問する人を広く受け入れた。二人とも不可触民制の排除を誓う。カーストのような過酷な階級制度の下では、まず学問の下での平等が唱えられる。
それは世界各地でも見られる光景で、自己啓発を促すことが主眼となっている。機会平等とはそういうことであろう。つまり、学問するということは、自立を要請しているわけである。
インドの場合、農村を疲弊させた要因に、東インド会社が導入した「ザミーンダーリー制度」という地租徴収制度が挙げられる。地主が徴税者となり、徴税権は富裕な商人の間で売買され、伝統的な農村の社会秩序が破壊された。地主の没落とともに、農民は小作人に。そこに高利貸しや悪徳商人たちが禿鷹のように群がる。農民はまったく労働意欲を失い、卑屈な自己蔑視を募らせる。
タゴールは、自立心を取り戻すために、文字の読めない農民にも口ずさむことのできる言葉を編み出した。彼の詩は、無名の時代から、政治集会や祭りで愛唱され、田畑を耕す仕事歌として歌われたという。無知では依存症を増殖させる。学問の道は、民族自立の道というわけか...
それにしても、詩集「ギーターンジャリ」には救われる。邦訳版に触れたけど、それでも救われる。詩は原語で味わうものと言われるけど、やはり救われる。原文が自然な美しさをまとうと、翻訳文にも乗り移るのだろうか。タゴール自身が、わざわざベンガル語の詩集を英語訳版で刊行したのも、西洋人にはタゴール・ソングが理解できないと見たのか。しかも、定形詩を散文詩に変えて。それで、ノーベル文学賞をとっちまうんだから。誰だかは知らんが、ある詩人はこんなことを言ったという...
「子供はみんな詩人になる素質をもっている。ただ、大人になってもそれを失わない人が詩人と呼ばれる。」
真の芸術家とは、子供心を失わないものらしい。大人になると、言葉の意味や理解が先行して、言葉の奏でる美しさ、言葉の抑揚や響きといったものを、耳を通して味わおうとしない。
おいらの場合、詩を読む機会がほとんどなかった。中原中也のような人を知ったのも、半世紀も生きてからのこと。この歳になって、ようやく耳から言葉の調べが聞こえるようになろうとは... まったく、汚れちまった悲しみ... といった心境である。
「言葉を教えることの主な目的は、意味を説明することではなく、心の扉をたたくことだ。そのように戸をたたく音で、心のなかに何が呼び覚まされたかを説明するよう求められても、子供はたぶん、なにかとてもばかげた返事をするだろう。なぜなら、心のなかで起こっていることは、言葉で表現できるものなどより、はるかに大きいからである...」

3. ともに見た死生観
俗世間では、手段が目的化することがよくある。苦行の世界にも苦行主義が蔓延り、苦行そのものが目的となって極端な難行へとエスカレートさせていく。こうなると、苦行も滑稽芸!精神を解放するための苦行が束縛へと向かえば、それは自立心の喪失にほかなるまい。
ガンディーとタゴールの哲学には、自立、自己啓発、自己省察といった言葉が目に留まる。その先に二人が見たものは、そこに共通の死生観が伺える。
インド伝統の哲学に、人間の魂にはアートマン、すなわち、宇宙的な真理であるブラフマン(梵)が宿るとする宇宙観がある。真理の下では、民族の肌色、言語、習慣の違いも単なる表現の違いに過ぎない、と考えるのも道理。
さらに、道理を求めれば、死を思わずにはいられない。宇宙論の下では、死は終焉ではなくなり、死すらも生の延長として受け入れられる。死が訪れなかったら、人生はいつまでたっても未完のまま...

「おお、死よ、わたしの死よ、生を最後に完成させるものよ、来ておくれ、わたしに囁きかけておくれ!
来る日も、来る日も、わたしは おまえを待ちうけてきた...
おまえのため 人生の喜びにも痛みにも わたしは じっと耐えてきた。
わたしの存在 所有 望み 愛... すべてが、秘かな深みで たえずおまえに向かって流れていた。
最後にひとたびおまえが目くばせすれば、わたしの生命は 永遠におまえのもになるだろう...」

... 「ギタンジャリ」より

2020-11-01

初体験!国勢調査員... デジタル後進国のお祭りか!

なんであれ、初体験ってやつはワクワクさせるものがある。が、こいつは例外中のド例外!不合理、非効率、理不尽、ピント外れ... このバカバカしさは、まったく形容しきれない。
そして先週、ようやく集計作業が片付き、今、前高市総務大臣の任命辞令書を燃やしたところ...

春の終わり頃、やる人がいないから、どうしてもやってくれ!と頼まれた。おいらは個人事業主で職場も自宅ということもあり、あのおじさんはいつも家にいるから暇!と思われているようだ。町内会の役員もやらされているし。巷には、仕事といえば通勤するものだと杓子定規でしか考えられない連中が、あまりに多い。
最初の説明会では、 質疑応答の段になると苦情や経験談で荒れ狂う。なんだ!この殺気立った会合は?お国の権威主義で地方に揉め事をつくるのは、ご勘弁願いたい!
とにかく、国際調査員ってやつは、仕事を持っている人にはできない。おかげで、一ヶ月間、仕事を中断する羽目に。まったく、コロナ禍ならぬ、国勢調査禍よ!

1. 縦割り行政の産物か...
国税庁が、還付申請では面倒くささを強要しながら漏れなく徴収とくれば、地方自治体も負けじと住民税を漏れなく徴収ときた。彼らは、所得や資産の個人情報、住民票などでしっかりとしたデータベースをお持ちのようだ。なのに、総務省ときたら...
「個人情報は保護されます!」って何を根拠に?調査員が全国で 60 万人もいれば、中には... 実際、国勢調査バッグがネットオークションに出品され、高値がついた。何に使うかは知らんが...
少子化問題などの政策決定に使う情報と銘打つなら、他の省庁や地方自治体から、世帯構成などの数字を拾うだけで済むはず。なにゆえ個人名まで知りたがるのか?仕事状況なら、所属する企業や勤務先から拾い上げればいいし、アパートなら、どんな人が住んでいるか大家さんが知っている。大家さんも知らないような状況なら、一般人が訪問したぐらいで実態が分かるはずもない。
封筒の表紙には、「国勢調査には回答の義務があります!」とある。義務ってなんだ?統計法を盾にした強迫観念か?見事な国家への不信感を増殖させるイベント!おまけに、こんなものを野放しにする大手メディアの大本営ぶり...
行政改革で何をやるかより、やめるべきことをきちんとやめるだけでも、かなりの改革ができるであろうに。調査員たちは口を揃えて言う。税金の無駄遣い!と...
そういえば、つい最近、NHK の受信料制度で総務省の有識者会議が、「テレビ設置の届け出を義務化する」やら、「未契約者の居住情報の照会を可能にする」やらと提言したことが報じられた。個人情報に対する意識は、かなりズレてそう...

2. この国にデータベース化という戦略はないのか...
まず、データ収集のやり方からして問題!
インターネット回答がオススメ!って大々的に宣伝しているが、調査員は、コンピュータが振った地域番号と世帯番号を各世帯毎に手作業で割り振っている。グルグルマップ風の担当区地図に世帯番号を書き込み、その番号を世帯一覧表に書き写し、世帯代表者と男女構成を聞き取って書き加え、回答結果と擦り合わせて修正する。なんだこの手間は?こういう作業こそ、電子化するべきでは...
そして、本部から回答状況が報告され、未回答世帯の催促に奔走する。
総務省には、根本的なデータベース化という戦略がないのか。住基ネットはすでに形骸化し、マイナンバーカードも同じ道を辿るのかは知らんが、脱ハンコ!などと言っている場合か。上っ面のデジタル化で「やってます感」を演出するのは、いい加減にしてもらいたい。
我が国は、モノ作りに対する姿勢では、繊細なこだわりや美学を見せるのに、情報に対する体質となると、太平洋戦争時代からあまり変わっていないと見える。
情報活用の仕方を知らない連中が、無闇に情報を集めることほど滑稽で危険なことはない。スパイ天国と揶揄されても仕方あるまい...

3. 調査員が怒られ役なのは仕方がないにしても...
みなさんボランティア精神でやっているのに、この仕打ちはなんだ!
少しばかり手当が出るとはいえ、逆に、お金を払ってでも代わってもらいたい。一般人に「国家公務員として自覚して行動して下さい!」などと臨時で身分を与えて責任を押し付ける。国家公務員の身分証を見せるのは、むしろ逆効果。つまり、国が信用されていないってことだ。
防犯グッズまでも支給される。痴漢防止用の爆音ブザーがなるヤツ。こんなものが必要な作業なのか?
市営住宅などを担当している方とも親しく情報交換させてもらっているが、こちらからは声もかけられない状況。オートロックのマンションも対応が大変そう。管理会社に相談しても、所詮、所有者の雇われ人。勝手に入れないから、一軒一軒チャイムを鳴らして手渡している。
おいらの担当区でも、十回ぐらい訪問してやっと会えた人が何人かいる。結構、いい人だったりするのだけど...
夕方に訪問しても留守だから夜に訪問すると、「こんな遅い時間に来やがって!」と怒鳴られる程度のことは当たり前。
特に、女性調査員はなめられるようだ。夜な夜な涙を浮かべて国勢調査バッグをもって歩いているおばさんに声をかけると、こちらは頷くだけで何も言えなかった。お互いに愚痴を言い合うだけでも救われるのだけど。仮に、ガッチリした体格で、ヤクザ風の国勢調査員が訪問したら、同じ態度でいられるのか?防犯グッズには、そうした用心棒グッズを配布した方がよかろう...
世間体では良い人でも、誰も見ていなければ豹変する人は少なくない。日本社会は、まったく村社会だということを改めて認識させられた。知ってたけど。いや、村八分社会か。知ってたけど...
配布も大変だが、回収はもっと、ずっと、はるかに大変!
あからさまに居留守を使っている人も珍しくない。高年の調査員ともなると、インターネット回答の仕組みなんて分かるわけがないと思われ、却っていい口実にされる。実は、インターネットで回答すれば、リアルタイムで丸見えなんだけど...
おいらの担当地区は一戸建てが多く、行儀のいい人ばかりで、比較的苦労は少なかったが、それでも回答意志のまったくない人は、どの地区にもいる。調査項目には、「回答意志の有無」というのも加えてもらいたい。意志のない人を動かそうとは思わないし、堂々と意志がないことを表明させればいい。そういう人ほど、回答意思はあるようなことを匂わせて言い訳めいたことを言うのだろうけど...
何回訪問してダメなら通知のビラを配り、さらに、至急通知と調査票の再配布などと、手順作りをやってる場合ではない。ボランティアだって、そんなことに付き合っている暇はない!中には、やったことにしている調査員もいるのでは?実際、そんな誘惑にも駆られる。真面目にやる人ほど馬鹿を見るのが人間社会というものか。知ってたけど...

4. インターネット回答でもトラブルあり...
インターネットで回答したという方でも結果に反映されていないケースがあった。最後の送信まで到達していなくても、完了したと思っているかもしれない。実際、送信ボタンで画面が固まったというユーザ報告もある。
せめて、ログインした時間ぐらいの履歴情報は欲しい。でないと、説得できない。いい人だったので再ログインをお願いし、それで完了してくれた。
そもそも、行政機関のサイトを信用していない人が多い現状がある。どんなに使いやすくても完璧なシステムなんてありえないし、回答完結の情報だけではあまりにショボい。せっかくの電子化、システムに有用な履歴情報を組み込むことぐらいは、そう難しくはあるまい...

5. 回答期限延長で、さらに荒れ狂う...
当初、回答期限は 10/7 であったが、回答率が低いということで、10/20 まで延長された。それで、期限延長の知らせが調査員にまったくないとは、どういうわけか?テレビや新聞で宣伝されているとはいえ。おいらはネットで知ったが、他の調査員に教えてもオオカミ少年扱い。いくらなんでも本部から連絡があるだろう、って。そりゃそうだろう。おいらも、総務省のサイトを疑ったぐらいだ。回答期限も正確に知らないのは、国勢調査員を名乗る詐欺か!と罵倒もされる。前から鉄砲で撃たれ、後ろからも撃たれている気分。回答意志のある人は、たいてい期限を守るか、少し遅れるぐらいなもの。むしろ、回答意志のない人に口実を与えている。
さらに、10/7 時点の回答状況確認表が 10/9 の金曜日に郵送されてきたが、郵送回答があまりに少ない。しかも、まさか!この人が回答してない?という名が、ずらりと挙がってきていない。インターネット回答は即反映されていて、ほとんどの人がインターネットで回答したことになっている。
回答率の最初の速報が、50%台。8日の時点で約 68%。よそは大変だなぁ... と眺めていたが、他人事ではなかった。
調査員は土日が勝負!
さっそく翌日から訪問して当たりをつけてみたところ、感触ではポスト投函から 5日ぐらいのディレイがありそうだった。最初の締切 10/7 から 5日ほど遡ると、10/2 になるが、それが本当だとすれば、まったく使い物にならないレベル。いや、むしろ混乱させる情報だ。おかげで、調査員たちは怒られまくり。
さっそく月曜日に本部へ赴き最新情報を要求したら、各担当区の指導員がネットからアクセスできる QR コードを持っていることを知り、これに救われた。本部の方々は地方公務員で、総務省からの命令でやっているだけであろうから、文句を言うのも気の毒。せめて現場の状況報告を上げるよう文書でお願いして、おしまい...

6. そして、帰結...
人生は短い!興味のないことに付き合っている暇はない。
そもそも、おいらは人間嫌い!調査資料の整理も終わったことだし、人間関係の整理でもやるかぁ...