2010-08-29

"マネジメント 基本と原則" Peter F. Drucker 著

暑い日が続くと、ヤル気が萎えて漠然と本棚を眺める。そして、なんとなく読み返したくなる本に目が留まる。毎年この時期はそんな気分になるようだ...
本書に出会ったのは、10年ほど前であろうか。ドラッカーを凌駕できるほどのマネジメント本を見つけるのは難しい。これは、マネジメント手法について体系的に語ったものでもなければ、何らかの結論を出すものでもない。単に問題を提起したものに過ぎない。しかし、それ以上に何ができようか。人々は安易に結論に飛び突く習性がある。世間はよほど忙しいのであろう。だが、具体的な方法を明記したもので役立つものは、あまりない。
カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに。」

マネジメントという言葉が脚光を浴びだしたのは、20年ぐらい前であろうか。いまや、企業戦略のみならず、軍事戦略、政府機関、行政機関といったあらゆる組織、はたまた自己管理といった広範囲で、最重要とも言うべき位置にある。マネジメントは、人間のかかわる所に必ず存在すると言ってもいいだろう。それは、極めて社会学的な領域にある証である。しかし、社会が複雑系を彷徨するように、人類はいまだ具体的で体系化したマネジメント手法が見つけられないでいる。それでも、基本的な原理や思考の方向性があってもいい。まさしく本書は、その哲学的思考なるものの指針を示してくれる。そして、その基本と原則は、企業、政府機関、NPOなどのおかれた国、文化、状況に応じて適用しなければならないと語る。
「基本と原則に反するものは、例外なく破綻する。」
その根本的な目的は、思考停止に陥らないため、あるいは、革新的な検証を怠らないためといったところであろうか。変化には必ずリスクがともない、人間はそれを恐れる。だが、停滞することもまたリスクをともなう。もはや安住できる場所は墓場にしかない。

「マネジメントの意義とは何か?」仕事をしながら、ずーっと考えさせられてきたような気がする。本書には、「われわれの事業は何か?何であるべきか?」といった言葉があちこちに鏤められる。マネジメントとは、根本目的を自問し続けるということであろうか。そんなことは、マネージャの肩書きがなくても、末端の担当者も考えている。誰でも各々の立場で意思決定を行いながら行動しているのだから。ただ、組織にとって、統一的な意思を定義しておかなければ、総合的に効率的な生産性を求めることはできない。
現代社会が、組織社会であることは間違いない。組織を通じて働き、組織に生計を賄ってもらい、ますます組織への依存度を高めるであろう。その一方で、ベンチャー企業を立ち上げたり、「組織などクソくらえ!」と叫ぶ連中がいる。おいらもその一人だ!そこには、思考の硬直化を恐れた官僚的風潮への反発がある。だが、いくら独立心旺盛でも、どこかに属さなければ生きてはいけない。
では、組織の目的とは何か?それは、人間を建設的な方向へ導くことであろうか。生きる喜びを与えるといったことであろうか。組織が衰退する最初の兆候は、ヤル気のある有能な人材に訴えるものを失うことであろう。マネジメントが機能していない組織はあっても、マネジメントのない組織はありえない。自己実現のため、自己形成のため、ここにマネジメントの正当性なるものがあるような気がする。本書は、マネジメントの権限の基盤となりうるものは、理念的原理であると語る。知識労働者の動機付けは、ボランティアのそれに似ているような気がする。尚、ボランティアとはタダ働きのことではない。

「マネージャの仕事とは何か?」専門家は、高度な専門用語がお好きだ!だが、マネジメントは人に理解させてはじめて機能する。そうでなければ、単なるコンサルで終わる。ちなみに、コンサルとは混乱する猿のことらしい。
専門知識を統率しながら実践するところに、マネジメントの醍醐味がある。現実ばかりに目を奪われるのではなく、将来像をも視野に入れて、総合的な調和が求められる。
現実には、マネージャは多くの雑用に追われる。管理を必要としない優秀な人材よりも管理を必要とする人材との対話に時間を費やし、統計分析用の情報収集や、顧客の相談、上司への説明などに時間が費やされる。だが、チームを機能させるためには必要である。なにも、目標を設定するだけが、マネージャの仕事ではないのだから。その意味で、マネージャの仕事とは、人間精神という極めて難しい資源を相手取った仕事と言えよう。だが、凝った管理手法を駆使したり、ツールを導入したりと、やたらと形式的な方法に頼るマネージャを見かける。心理科学にでも憑かれたように。
確かに、管理の労力にも効率性があるはず。だが、形式的な管理で人間精神を相手にできるのか?そもそも管理が必要なのか?チームの目標を設定し、哲学的な共通意識を根付かせれば、特に管理など必要ないように思える。メンバーの感情や好き嫌いに気を使うような組織は、それだけでストレスとなる。優れた組織は、目標へ向かうための議論は旺盛でも、人間関係に気を遣うことはあまりない。管理は、仕事の情報管理ぐらいにして、なるべく単純に生きたいものである。

1. 「企業 = 営利組織ではない」
経済人に「企業とは何か?」と問えば、「営利組織である」と答えるであろう。収入が生活の手段であることに疑いはない。だが、利潤動機だけで組織されることに何の意味があるのか?経済学的に言えば、「利潤とは、物を安く買って高く売ること」に過ぎない。目的は自己形成にあるのであって、売上はその手段に過ぎない。
本書は、利潤動機が利益そのものの意義ですら間違って神話化すると指摘している。そして、企業の本質、機能、目的に対する誤解を招き、利益と社会貢献は矛盾するという通念さえ生まれるという。確かに、利潤動機と利益をごっちゃにしているケースをよく見かける。マーケティングは顧客の欲求から始まる。企業は新しい生活様式を提案して新製品を提供する。しかし現実には、無理やり民衆の欲求を煽りながら強迫観念を植え付け、押し売りのような商売戦略が蔓延る。知識は、正しく適応された時に初めて生産性を上げ、悪用された時に最も社会の害となる。
「最近の企業人は、利益について弁解ばかりしている。だが、利潤動機や利潤極大化などのナンセンスを言っているかぎり、利益を正当化することはできない。社会及び経済にとって必要不可欠なものとしての利益については、弁解など無用である。企業人が罪を感じ弁解を感じるべきは、経済活動や社会活動の遂行が困難になることであり、利益を生むことができなくなることである。」

2. 「真摯さ」という資質
「真摯さ」と言うと、なんとなく照れくさくなる。いや、胡散臭い。政治屋が弁明のためによく使う言葉だから。本書は、マネージャの根本的な資質は「真摯さ」にあるという。愛想よく、人を助け、人付き合いをよくする、といったことが、資質として重視する風潮があるが、それだけで充分ではない。現実に、うまくいっている組織でも、手助けもせず、人付き合いの嫌いなボスがいる。とっつき難く、わがままなくせに、誰よりも人材を育成しているオヤジがいる。こういう人は、部下に一流の仕事を要求すると同時に、自らも一流の仕事を課す。仕事に対して、感情論に動かされることがなく、論理的な説明で合理的に評価しようとする。ドライにも見えるが、余計な雑念に振り回されない信念のようなものがある。これが「真摯さ」というわけだ。優しくて人が良く、それでいて保身的な管理者ほど厄介なものはない。仲良しグループを形成することが目的ではないのだから。
本書は、真摯さを絶対視して、初めてまともな組織になると強調する。そして、優秀なメネージャは、無知や無能、態度の悪さや頼りなさには寛大にいられるが、真摯さの欠如は決して赦さないという。
「真摯さ」を定義することは難しいが、失格な態度は定義できるという。
・真摯さよりも、頭の良さを重視すること。
・何が正しいかよりも、誰が正しいかに関心を持つこと。
・自らの仕事に高い基準を設定しないこと。
また、部下に脅威を感じさせる者を昇進させてはならないという。脅威を与える人間は人間として弱いから。確かに、知識もさしてなく仕事ぶりもお粗末で、判断力や行動力が欠けていても、無害なマネージャがいるにはいるが...
本書は、真摯さを欠くと、組織にとって最も重要な資源である人材を破壊し、組織の精神を堕落させるという。

3. プロフェッショナルの倫理
市場経済の暴走で、多くの場面で企業倫理が問われる。しかし、そのほとんどは倫理以前の問題であろう。責任が与えられるところには、権限が与えられるのと同時に義務が与えられるのは自然である。本書は、古代ギリシャの名医ヒポクラテスの言葉を引用する。それは、「知りながら害をなすな!」である。
プロだからといって、必ず良い結果が保証されるわけではない。せいぜい最善を尽くすことぐらいしかできない。良い結果を約束できるということは、既に経験済みか、仕事の質がそれほど高くないことを意味するだろう。プロたるものは自立性を持つ必要があるという。顧客に支配され、監督され、隷属してはならないという。マネジメントは、自分の知識や判断で意思決定するという意味では、私的な活動である。だが、私的な利害関係で動くものではなく、あくまでも公的な利害関係で動くことになる。これこそが、自立性というものか。言い換えれば、プロたるものは、自立した存在として、政治やイデオロギーに屈しないことと言えよう。業界で不評を買うとの理由から、適切な解決策を講じないマネージャこそ「知りながら害をなす」というわけか。しかし、政治屋や報道屋は、あらゆるタブーから目を背ける。まさしく「知りながら害をなす」の好例である。

4. 意思決定
問題の解決策は、人によって答えが違うのはなぜか?それは、問題認識に違いがあると指摘している。したがって、どのような認識の違いがあるかを明確にすることが、意思決定の第一歩になるという。間違った問題意識に対する答えほど有害なものはない。となれば、意思決定は見解から始めることになる。
本書は、異なる見解や意見を奨励し、同時に見解を出す者に対して、その妥当性を徹底的に考えることを求めなければならないという。そこに意見の対立があって結構!意見の対立を見ないということは、思考が不充分とも言える。そもそも、意思決定が必要なのかも吟味する必要があろう。意思決定で二股をかけるケースすら見かける。だいたい責任逃れの思惑が潜むのだが。
意思決定では、責任の所在を明確にしなければ機能しない。その意味で民主主義的ではないのかもしれない。民主主義をフル稼働させては、敏速な判断力が発揮できない。意思決定にはリスクをともない、それは判断力への挑戦であり、人間の防衛本能への真っ向勝負であろう。

5. 仕事と労働
仕事は生活費を得るための手段であるが、自己形成の延長上に仕事が位置しなければ意欲は持続できない。強制的で権威的なところに、効率的な生産性は期待できない。
労働人口は、肉体労働から知的労働へと移ってきた。人間は思考する生き物だから、自然の流れなのだろう。しかし現実には、機械設備と単純作業者とでコストの天秤にかけられ、臨時労働者に機械になるように強いる。部下を奴隷化するマネージャも少なくない。精神的に支配しようとしても馬鹿げているのだが。本人にその意図がなくても結果的に、企業間あるいは企業内の政治力学によって奴隷化するケースも珍しくない。
本書は、仕事と労働は違うものだと指摘している。仕事は客観的に存在するものであるが、労働は人間の本性であると。
「仕事が生産的に行われても、人が生き生きと働けなければ失敗である。」
近年、かつての終身雇用型体質を悪のように言う風潮がある。だが、一概に生涯に渡って職場が保証される仕組みが、革新精神を妨げるとも言い切れない。少なくとも、この社会体制が、世界二位の経済大国にまで押し上げた事実は認めなければなるまい。アメリカ型の競争社会が、救いがたい格差社会を招いていることも事実である。年功序列が機能すれば、年下の部下を育てる義務という責任を負うことになる。責任が存在するということは、そこに生き甲斐を見出すことができる。
一方で、居場所が保証された職場が自己啓発や向上心を怠る風潮を生み、無能者を忠実さだけで昇進させるという慣行がまかり通る。しかし、競争の原理が働いても、経済情勢が不安定となれば、意欲よりも所属することを優先して、結局は革新的精神の妨げになる。
となれば、終身雇用型自体が悪いのではなく、どんな体制や体質も長期化の過程で腐敗する原理が働くということになろう。いずれにせよ、いかに労働者に自由な精神と革新的な精神を持続できるかが鍵となりそうだ。

6. 社会的責任と権限
スローガンに「社会的責任」や「社会的貢献」などを謳っている企業は実に多い。にもかかわらず、無責任で貪欲な企業は多く、不況ともなれば手段を選ばずひたすら組織の存続だけを目論む。そして、人材の回転が激しい社風ができあがる。綺麗事だけで生き残れるものではないが、永続できるものでもない。
本書は、組織が社会に与える影響は、間違いなくマネジメントに責任があると指摘している。世間で騒がれる社会的責任というものは、世論の関心事と深くかかわる。では、世論の関心事でなければ、社会的責任は発生しないのか?企業に課せられる社会的責任には限界がある。企業に過剰な責任を負わせれば、産業を維持することも難しい。どこかで無責任的なところがなければ、人間は生きてはいけないだろう。責任を負う者が権限を要求するのは当然である。責任と権限が共存しなければ、意思決定はできないのだから。社会的責任を負うということは、社会的権限を要求することを意味する。しかし、権限が要求されるところに、必ず責任があるかは疑わしい。人間社会には、越権と無責任が共存する。本書は、企業が責任を要求された時は、必ず「権限を持っているか、持つべきか」を自問せよ!という。
「最大の無責任とは、能力を超えた課題に取り組み、あるいは社会的責任の名のもとに他から権限を奪うことによって、自らの特有の機能を遂行するための能力を損なうことである。」
権限を持つべきではないところに、あえて責任を持つということは、権力欲のなにものでもない。能力がないのに、安易に仕事を受けることも無責任であろう。だからといって、挑戦を避けていては革新的な精神は育たない。企業でも個人でも、能力の限界を見極めることは難しい。やってみなければ、自覚している以上の能力を引き出すこともできない。社会的責任と自己能力の限界の按配を見極めるところに、マネジメント能力があると言えよう。そして、能力と価値観の限界が、社会的責任の範囲を限定することになる。

7. トップマネジメントと組織構造
「完璧な組織構造などありえない。せいぜいできることは、問題を起さない組織をつくることである。」
組織の原則は、指揮系統を短くすることであるという。深い階層は、組織内の相互理解と協調性を困難にする。複雑な組織構造は、総合的な視野を奪い、視野の狭い管理職を大量生産することになる。組織構造は、あくまでも目標達成のための手段であるが、それ自体が目的化することはよくある。わざわざポストを設けるために、組織構造を細分化したりと。純粋に課題や成果に取り組む時間を奪い、組織そのものが問題となってそれに振り回されると悲劇だ。いや、喜劇だ。
本書は、組織構造の重要な位置付けにトップマネジメントをあげている。マネジメントには様々なレベルがあるが、トップマネジメントが通常のマネジメントよりもはるかに難しいことは、より長期的でより総合的な視野が求めれらるからである。責任の重さも半端ではない。となれば、組織の発展というよりは、組織の維持に重きが置かれるだろう。
ここで注目したいのは、トップマネジメントは大企業よりも小企業の方が重要であると論じていることである。企業戦略が優れていないと簡単に倒産に追い込まれるからである。トップマネジメントが独裁になってはならない。したがって、グループで構成されることになる。また、階級や権力から独立したものでなければならず、取締役会から独立した存在とすべきだという。取締役会には、成果をあげられないトップマネジメントのメンバーを退任させる権限がある。したがって、その関係には一定の緊張感が生じる。しかし、だいたい取締役会に問題が報告されるのは最後の最後で、どんな組織でも機能しないものだそうな。実際には、取締役会よりも株主の方が機能する場合が多いらしい。

8. イノベーション
どんな組織でも、イノベーションが重要であることが叫ばれる。だが、そのほとんどは、公的機関で見られるように、イノベーションではなく改善に過ぎないと指摘している。イノベーションのための組織づくりも、管理的な機能ばかりが重視される。イノベーションでは、市場に焦点を合わせるべきで、自己満足の技術開発に陥ってはならないという。イノベーションの機会を狙っても、現実には失敗するケースが多く、失敗のリスクを常に念頭に置くことが肝要である。現実に、市場調査という名目で作成された統計情報は政治的な思惑に偏った資料になりがちである。社会現象に対して、人間が完全に客観性を見出すことはできないのだから。
また、イノベーションを熟知した者は、社会変動や人口構造の変化に敏感で、市場の洞察力が優れているという。その戦略では、すべての既存のものは腐敗化すると仮定するという。そして、目標は高く設定する。一つの成功が多くの失敗を埋め合わせるほどに。ただし、夢を追いかけすぎないように!その按配が難しい。イノベーションでは、手を引く勇気も必要である。潮時を見極める眼力もマネジメント能力である。
「変化への抵抗の底にあるのは無知である。未知への不安である。しかし、変化は機会と見なすべきものである。変化を機会として捉えたとき、初めて不安は消える。...変化ではなく沈滞に対して抵抗する組織をつくることこそ、マネジメントにとって最大の課題である。」

9. 公的機関と予算型組織
今日の公的機関は、巨額な補助金を受けながらも膨大な赤字に喘ぎ、サービスも劣化する。多くの国で官僚主義への不満が高まっているが、公的機関を廃止することはできない。民衆は医療の拡充を望み、社会福祉の向上を求め、いずれも不要論とはならない。公的機関の議論で、あげられる一般的な要因は、企業のようにマネジメントしていない、人材がいない、あるいは目的や成果が具体的でない、といったものであろうか。確かに、公的機関には企業のような競争の原理が働かない。企業との一番の違いはコスト意識にあるだろう。
本書は、予算という仕組みが、成果や業績の意味を変えていると指摘している。公的機関では、予算の獲得に躍起になり、社会貢献が目論見に変貌し、なすべきことをしていない組織になると。予算型組織では、効率やコスト管理は美徳にはならない。少ない予算や、少ない人員で成果をあげれば、次年度の予算が削られるだけだ。予算を生み出すことが成果であり業績であると誤解する。企業のように将来に備えて留保するなどという発想がない。そして、巻き起こる批判を避けるために、民衆を騙し、自らを欺く体質ができる。成果をあげるためには優先順位の高い目標に資源を集中させる必要があるが、そうした試みもなされない。ついには、コスト削減に努力した役人ほど評価されずに葬り去られる。予算型組織では、自らの存在感を認めさせるために、無駄な予算を計上することになる。となれば、公的機関の成功は、失敗よりも害が大きいことになる。公的機関は独占的形態となる傾向がある。独占形態からは、効率も成果も期待できない。効率と成果を求めるならば、ある程度の競争が必要である。
では、公的機関に競争はありうるだろうか?一つの手段は、地方分権による行政の競争であろうか?隣の町でこんなサービスが受けられるとなれば、我が町にも!と民衆は騒ぐかもしれない。少なくとも、行政サービスの情報開示は必要であろう。
本書は、公的機関に必要なことは、企業の真似ではないと指摘している。もちろん成果を評価することを怠ってはならないだろうが、根本的に企業体とは性質が違う。となれば、どこに意義を求めるのか?病院は病院らしく、行政は行政らしく、政府は政府らしく、特有の使命を定義することといったところか。まさしく、一人一人が自己理性を発揮させるような、人間にとって最も運用の難しい組織となるだろう。

2010-08-22

"私の建築辞書" 石井和紘 著

実家の本棚になぜか?こんな本があった。しかも、著者のサイン入りで、親父の名前が記される。
20年ぐらい前に贈られたものらしい。おいらの地元北九州市で著者が建築文化賞を受賞した時のものであろうか?ただ、ページが綺麗なままで読んだ気配がない。これは失礼だ!代わって息子が読むことにしよう。

冒頭から、「部分礼讃」と題して、次のように始まる。
「建築という概念が、永い歴史を通じてでき上がって来て、さらに未来へ向けて変遷していくように、部分も実はそれと同じ大きな河の流れとなっている。部分の分類、その大項目から小項目への展開に永い歴史の時間が方法を形成した。それは部分の呼び名を通じて言語の中に組織化された。歴史を通じてつくり上げた名称は、その物語の内容からでき上がっている。だから例えば、名称としての「窓」と、機能的言語としての「開口部」では大きく違うのだ。窓という言葉がどれだけ多くのことを語ってきたろうか、そして窓という言葉にどれだけの思い入れが託されて来たろうか。それがまた逆に窓という名称に底辺を与えてきた。民族を越えて地球規模での底辺である。人間の頭脳の中には、多少の違いはあるが、地域的な言語よりももっと国際的なこのような建築言語が存在している。その建築言語は人間の頭脳の中で、一般言語の場合の辞書に相当するものに基づき、建築としての文章を成立させている。」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころだ!身近に、こんなに心を動かされる作品が埋もれていたとは...今宵は、間違いなく熟成スコッチが合う。

建築物とは、人に居場所を提供する一つの空間といったところであろうか。この幾何学的な構造は、公共の場や個人の住まいといった目的のための物理的機能を与える。建築家は、部分を組み合わせて構成力を発揮し、建築物として完成させる。だが、それだけではなかろう。
建築物は、精神に癒しの空間を与える手段でもあり、いわば精神の居場所を提供する。単純で機能的に見せるかと思えば、凝った装飾には心を動かす何かがある。一見機械的な配列にも、多くの詩的要素が組み込まれる。建築家とは、建築物を通して語る詩人なのか?静止した物体であるにもかかわらず、そこに物語を刻み、あたかも動画のような幻影を見せるところに芸術家の凄みがある。建築家は、建築物だけに留まらず、家具や装飾あるいは庭や門構えといった外郭部にも気を配り、芸術の総体として完成させる。精神の解放が現れるところに、芸術が宿るというわけか。
ガウディは、キリスト教精神の象徴としての建築物を完成させようとした。そして、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができると語った。

本書は、窓や屋根や壁などのプリミティブな建築要素が何を語っているのか?あるいは、建築物の構成、建築そのものが何を語っているのか?といった建築の総体を辞書形式で物語る。そして、周辺環境や自然環境との同化といった観点から、建築の意義のようなものを語ってくれる。
言うまでもないが、建築物は人工物である。それは、人間が存在するための合目的性を持った空間を提供する。一方で、海や山や川といった自然には、合目的な造形を超越したものがある。どんなに人工物で精神を凌駕しようと試みても、偉大な自然に敵うものではない。しかし不思議なことに、ピラミッドのような古代遺跡物には、人工的であるにもかかわらず、自然と同化した超自然美といったものがある。また、信仰など持っていなくても、和める宗教的建造物に出会うことがある。歴史的建造物に、なんとなく精神を安心させるようなものを感じるのはなぜか?人工物もまた、永い年月をかけて自然に帰するということか?ただ、建築物は一度建ったらその場に固定される。時代とともに周囲が変化すれば、もはや周囲と同化することも難しい。
科学の発達が、宗教への依存度を低くし、建築様式を変化させてきた。その過程で見られる生活様式の変化は、一種の合理性に基づいている。マンションのような高層ビルは、人口密度の高い都市部に現れた合理性である。だが、機能的合理性が、精神的合理性と合致するかは別である。精神の宿らない人工物はやがて淘汰されていくのかもしれない。歴史的建造物はそれを教えてくれているのかもしれない。

1. 怨恨としてのシステム
「システムは単体的で蠕動的であり、しかも粘液質である。意味は軽く、まといつく花粉である。花粉をまぶしたところで何になろう。システムの否定は自己否定と同義である。...
彼岸とは左へ左へと回り回って、遂に到達した対岸と考えるべきである。絶望の淵をはさんだ向こう側、夕陽をあびる懸崖の上にある。つまり、同時性として彼岸と此岸を同時に歩ける者には此岸しかあり得ないのであって、彼岸と此岸を同時に支配しつつ、一瞬その断崖に身を投げる発条(バネ)を持つ者だけが変質し得るのである。技術とはその奇跡である。その発条(バネ)に鈍色(にび)の怨恨が宿る。怨恨とは恐怖である。...
地べたが此岸だと思える者もまた、実はその意識を後生大事に抱いているに過ぎない。その無傷の発想をこそ恐れなければならない。認識が遂に彼岸か此岸かという分岐にとどまる時、それは内側へ内側へと折れ込むことによって恐怖を避けようとする人間主義となる。なぜ懸崖に立っているのかということよりも、ただただ手のひらと杖の間しか現実ではないのである。それは按配のデザインを生む。按配のデザインにおいて、システムは逆に単純となる。それは人間性、個の重視という名を借りて、逃げ場、見せかけとしての襞(ひだ)をつけたにすぎないし、閉ざされた体験への偏執であり、破り得ぬこだわりの妄想である。それは、組み合わせや寄せ集めによって、ぼかしまとめていく生け花の方法である。」
これは、システムを「按配を越えた怨恨」として語ったくだりである。本書には、こうした解釈の難しい文章が多いのだが、なぜか?癒される。おそらく文学的過ぎて、おいらの認識能力をはるかに超えた領域にあるのだろう。
ところで、「システムへの怨恨」とは何か?芸術的精神には、些細な部分にまでこだわりを見せるような、狂気に満ちた執念がある。精神が断崖まで追い詰められるにもかかわらず、単純化や合理性といった実践的な手段に逃避するしかない。実践への恨み、手段への恨み...結局、人間は妥協の中で生きるしかないということか。

2. 自然主義と芸術家のエゴイズム
芸術の世界では、よく自然主義という言葉が使われる。建築物もまた、自然と同化してこそ、その存在に重厚感を与える。だが、この言葉には、実に微妙な意味合いがある。いくら自然と言ったところで、芸術には人間の恣意的操作が加わるからだ。つまり、見えるものと描くものが違うことになる。芸術家にしか見えない領域もあるに違いない。哲学的に解釈すれば、素直に精神の感じるままに描くことができれば、それもまた自然主義ということになるのだろう。建築物に芸術が現れれば、そこには建築家の精神が宿る。自然との同化とは、精神との同化も含まれ、建築もまた芸術家のエゴからは逃れられない。エゴには、個人の実存を信じたいという願望が込められる。人間精神が自己矛盾に陥る根源は、エゴイズムにあるのかもしれない。
となると、芸術が精神を曝け出す場とすれば、エゴを前面に押し出してこそ、自然主義ということになりはしないか?人間社会ではあらゆる個人の不愉快なエゴが渦巻く一方で、芸術家たちのエゴは鑑賞者に自然観を与えてくれるから不思議である。エゴが自然と同化した時に違和感がなくなるのだろうか?

3. 空間への思い
昔、マンションに住んでいて、天井が低いというだけで発狂しそうになったことがある。今では、殺風景な広いベランダがお気に入りで、正面に見える山を眺めながら飲む酒が、これまたいい。サラリーマン時代には、仕事に集中するために有休をとって温泉旅館に籠ることもあった。おいらは、思考する場を結構気にする方かもしれない。なにしろ気分屋であるからして。
また、住まいへの思いは、なんとなく潜在的に持っているような気がする。自分の生まれた家を、知らない人も少なくないだろう。おいらは、どんな家に生まれたかを知らない。だが、そこで出会った人々や環境などを、なんとなくイメージする。単に写真から疑似的に思い浮かべるだけなのだが、奇妙にリアリティがあるから不思議だ。一般的にマイホームに夢を描く人も多いだろう。それは、拠り所にできる居場所のようなものを求めているのだろうか?あるいは、自己の存在を実感したいという願望であろうか?
芸術的な要素のある空間には、精神を創造性に富ませる効果があるように思える。ポール・ヴァレリーは、地中海周辺に住むことが芸術的精神を導く、といったことを語っていた。バルセロナに集中して作品を残したガウディは、その地が地中海に面していることを強調していた。彼らの精神には、地中海の自然美に憑かれた芸術家の思いを感じる。偉大な数学者や科学者たちが語る自然的な光景にも、住んできた環境への思いが感じられる。いや、天才たちには、平凡な光景も芸術の領域で認識できる才能があるだけのことかもしれない。建築家の精神は、ひとことで言えば、この空間への思いに尽きるのであろう。空間が精神と結びついた時、そこが精神の救済の場となろう。

4. 公的立場と見栄
建造物には、「見る」、「見られる」の関係があり、公共建造物には建築者と鑑賞者の間で一種の信頼関係があるという。建造物には見栄や外聞があり、公的な立場がある。個人の家には、他人の家と比較しながら自分の幸福を確認する役割もあれば、個性の主張の場でもある。六本木ヒルズに事務所を構えたいと願うのも経営者たちのステータスという見栄であろう、などと発言すると、酔っ払いの僻みにしか聞こえない。
歴史的な公的建造物には、その時代の征服者たちの権威、あるいは民衆の精神を征服しようとした見栄がうかがえる。所詮、公的立場とは、見栄に支えられた欲望に過ぎないのかもしれない。そして、芸術的立場とは、ひたすら私的立場を追求することになるのだろう。

2010-08-15

"ソシュールと言語学" 町田健 著

言葉のニュアンスというものは、個人や文化によって微妙に違うものである。にもかかわらず、だいたい意思疎通ができるのだから、人間の直感も捨てたもんじゃない。いや、意志疎通ができていると勝手に信じているだけのことかもしれん。
例えば、「体系化」という言葉は、学問分野によっても体系レベルがまったく違う。数学の体系化では、方程式に完全に嵌ることを要求する。対して、社会学など人間精神を相手取る分野での体系化は、せいぜいカテゴリーに分類するぐらいなもの。こうした認識の違いは、集団に属す文化的感覚の違いから生じるのだろうか?
人間の犯罪意識ほど、個人差のあるものはないだろう。どんな残虐な行為も宗教的観念から聖域と解釈する者もいれば、理性の持ち主と自負する者が法律スレスレならばなんでもありと解釈したりと、節操がない。天才たちに、自殺する例を多く見かけるのは、人間が生きること自体を罪と認めた結果なのかもしれない。
となれば、言語の体系化は、認識の体系化から組み立てなければならなるまい。つまり、精神の体系化である。しかし、それは人間の認識能力では、自己矛盾に陥り不可能であろう。こうした絶望的な事情であるにもかかわらず、めいめいが勝手な解釈を与え、議論を戦わせながら相手を罵りあえるのだから人間という存在はおもしろい。まるで自己の存在を固守するかのように。おまけに、人間自身が人間認識のアルゴリズムを明確に説明できないでいる。

スイスの言語学者ソシュールに始まる言語学を、「構造主義言語学」と呼ぶそうな。レヴィ=ストロースあたりにあやかった用語であろうが、物事を構造的に分析しようという試みは自然な分析方法に映る。なにも大袈裟な用語を持ち出さなくても、ソシュールの研究が色褪せることはないだろう。
言語学の構造分析では、単語と単語の関連性や文法を解析することになる。文に構造がなければ、共通認識を辿るのも難しくなり、言葉は伝達能力を極度に失うだろう。完璧とは言えないにしても、現実に翻訳が成り立っているのは、そこに文法という手掛かりがあるからである。言葉や文章を解析するには、品詞などの要素に分解して、要素の性質を調べる必要がある。文章構成を解析するには、階層的な関係や並列的な関係など、立体的な視点も必要となろう。したがって、人間が認識を合わせようとするところには、なんらかの構造的要素が存在するものと思われる。

素朴に「言葉の役割とは何か?」と問えば、それは伝達する手段ということになろう。では、何を伝達するのか?社会の出来事や人間の行動といった様々な現象の伝達であるが、中でも厄介なのが精神の内にあるものの伝達である。言葉で伝達するからには、ある程度の公的な立場で客観的に表わす必要がある。だが、精神の内にあるものは極めて情念的なので、完璧に表わすことは難しい。いまだ人間は、誰もが使える言語としての普遍的原理を見つけられないでいるのだから。したがって、言語学は非常に危機的な状況にある。それを言いだしたら、人間精神を相手取る学問は、すべて危機的状況にあると言わざるを得ないが。最も厳密性の高い数学ですら不完全性に見舞われながら自己矛盾と対峙しているし、人間認識を介在しない学問は人間社会には存在しないわけだが...
日本語にきわめて曖昧さが残るのは、単一民族という特徴から暗黙に通じる共通認識なるものがあるのだろう。多民族間の意思疎通という意味では、厳密性の強い西洋語の方が有効なのだろう。欧文で、やたらと人称代名詞を使ったり、未来形や過去形あるいは現在完了形や過去完了形といった時制をしつこく使うのも、厳密性の表れであろう。しかし、精神を微妙に表現するには、民族固有の言語を捨て去ることはできない。言語は社会慣習や民族文化と密接にかかわる極めて経験的なものであって、厳密性だけでは精神の内にある芸術性を表わすことは難しい。翻訳にしても、だいたいのニュアンスを伝えることができても、完璧に単語をあてがうことは難しい。多くの民族で似たような言葉が見つかっても、微妙にニュアンスが違ったりする。口の動かし方にも民族に違いが見られる。音素のLとRの周波数の違いは、日本人には舌を噛むか噛まないかぐらいの違いにしか認識できない。言葉の多様性を扱うことは、人間の多様性を扱うぐらい難しい問題である。
となると、これだけ複雑でありながら、「なぜ言葉は通じるのだろう?」という素朴な疑問がわいてくる。本書は、まさしくこの疑問と対峙する。著者は、言語学は数学のような抽象的概念ではなく、「現実の尊重」であると語る。これは、純粋科学というよりは経験科学の領域にある。数学の一般的な考察は、公理から出発して定理が演繹されることによって進化してきた。対して、言語学の考察は、まず現実から出発して、帰納法的方法で定理を発見していくことになろう。そして、どんな言語にでも当てはまる普遍的な言語法則や文法法則が見出せるのか?これが、言語学の抱える根本的な課題のようだ。
「西欧で流行している学説を、時代性を考慮せずに無批判に取り入れてもてはやすことの好きな日本人は、構造主義などもう古いと思ってしまいがちです。しかし、言語学という学問の本質にとって、構造主義が最もふさわしい方法を提供してくれる学説であることに疑いはありません。」

人間は、集団社会の中で自分たちだけが認識できるような合言葉で、互いの意識を認め合うところがある。仲間意識の誇張と言おうか、縄張り意識による自己存在の防衛意識とでも言おうか。人間には孤独を恐れる習性がある。流行語には、時代に遅れていないかの自己の存在位置を確認する役目がある。ある集団が他の集団よりも優れているという勝ち誇った共通意識を持とうとすれば、彼らにしか理解できない言葉で優越感にも浸る。人間は、他人よりも優勢であると認識したいがために、知識や言葉を身に付けようと努力するのかもしれない。
世界中で普遍的な共通認識が持てるような世界共通語なるものがあれば、意思疎通という意味では便利である。だが、意思疎通が曖昧だからこそ、精神の高まりを呼び起こし、そこに芸術性が生まれる。言語は、合理性の作用で今後も変化し続けるだろうが、歴史的背景を消し去ることはできない。あらゆる学問において人間にかかわる事象を科学的に解明しようとし、ことごとく人間精神の壁に阻まれてきた。言語学も同じ運命を辿るであろう。

1. 音声と意味
本書の特徴は、言葉の音声と、言葉の意味を関連付ける議論に終始するところであろうか。そういえば、とっさに言葉が思いつかない時に、とりあえず擬声語のようなものを発することがある。静かな様を「シーン」とか、鋭い様を「スパッ!」とか、非常に寒い様を「うぅー寒ぅ!」とか、身ぶりを付けながら。ちなみに、アル中ハイマーは、いちころな様を「もうメロメロ!」と呟くそうな。なるほど、人間が言葉を使う時、まず音に頼っているのかもしれない。いや、象形文字のように形をイメージする場合もある。いずれにせよ、言語は、聴覚や視覚といった人間の知覚能力から発達したと考えてよさそうだ。ただ、音声と意味が関連付けられるのも、慣習や文化などの経験的なものであって、動物の鳴き声を表わすにしても、民族によって様々な違いを見せる。
本書は、言葉が成立するための必要な要素は、単語の意味と、意味を表すための音だとしている。意味を表すための音を「聴覚映像」と呼ぶらしい。これは、音から意味をイメージする認識能力といったところだろうか。また、音声と意味は異質な要素であるにもかかわらず、そこに結びつきを求めること自体が不思議なことだ!とも語っている。音声は音波という物理的現象で説明できるが、意味は頭の中で解釈されるものであって、なんとも説明し難い。ソシュールは、音によって意味を伝達するという基本的な性質を出発点にして、言葉の仕組みを解明しようとしたという。音声から分析するにしても、人間の顎の形はある程度決まっており、発せられる音も限られる。音声を聞き取る耳にも周波数の限界がある。人間の持つ入出力装置の能力によって、ある程度言葉も決まる。
おまけに、同音異義語まである。「とうさん」の会社は「倒産」しちゃった。なので「当分」酒も飲めずに「糖分」控え目。なんのこっちゃ?
民族間で音に対する感情の違いが見られるにしても、現実には世界的にヒットする音楽がある。となれば、言葉の音声に普遍的な原理が見つけられないにしても、ある程度の共通した性質を見出すことはできるのだろう。ソシュールは、その普遍性に挑んだというから、その試みは壮大である。

2. 会話と共通認識
会話は、話し手と聞き手の役割分担があって、互いにその役割を交換することによって成立する。これは、言葉の共通認識があるからこそ、成り立つメカニズムである。
本書は、言葉から共通認識が得られるということは、そこに社会性があることを意味するという。もっと言うなら、社会性には暗黙の認識のようなものがあって、他文化を研究するとは、まさしくこの点を解明することであろう。言葉は一種の記号を示すが、それだけの機能にとどまらない。人間は、言葉によって自由に恣意する。したがって、言葉のニュアンスが違ってくるのも自然であり、人間が精神を獲得した時点から持つ自然な性質である。時代が変わるということは社会環境が変化することを意味し、時代とともに言葉に変化が見られるのも自然である。
厳密で客観性を持つはずの専門用語でさえ、組織文化の違いによって微妙にニュアンスの違いを見せる。ずっーと一つの組織に依存していると、組織文化に染まっていることすら気づかない。そして、当り前のように文化を押し付けて、言葉が通じないと馬鹿にすることもある。こっちが馬鹿だから仕方がないのだが。近年登場するネット関係の用語は、専門家ですら明確に説明することが難しい。客観性を帯びるはずの専門用語は、ますます曖昧になって雲の上に登っていくかのようだ。これがクラウド化の正体か?実体が見えないからこそ、集団心理を煽りやすく、安全性や利便性を強迫観念にまで押し上げやすい。そして、人間社会の実体は、ますます仮想化へと向かう。いや、そもそも実体なんてものは幻想だったのかもしれない。

3. 言葉の合理性と経済性
言葉が、伝達の手段であるならば、そこに一種の合理性が現れるだろう。口語体は、時代の変化に応じて合理性に基づいて変化してきた。明治から大正デモクラシーにかけて、急速に西洋化が進み、欧文かぶれの口語体が出現した。現在の日本語は、国際感覚が混入しながら合理的に育まれた結果と言えよう。しかし、人間の価値観には多様性があり、合理性にも多様性が現れる。どんなに、グローバリズムの波が押し寄せようとも、精神の合理性にはおよぶまい。
ところで、口語体には、できるだけ労力を使わずに単純に表現したり、効率的に表現するという傾向がある。あらゆる技術や手段は、利便性を求め、合理的に使えるように発明されてきた。人間の思考は楽をするために様々な工夫をするもので、言語の発達もその過程の一つと言えよう。人間の脳は、なるべく多くの情報量を効率良く合理的に処理したいという願望から進化している。日常生活やあらゆる学問で、用語の短縮形が見られるのも、一種の合理性である。熟年夫婦ともなれば、「あれ」やら「それ」といった代名詞で意思疎通ができるようだ。若年層の間では、合言葉のように独特の省略形が用いられる。ネット社会で使われる顔文字も、合理性から育まれたと言えよう。言葉が伝達の手段だけならば、経済性の原理だけで説明ができる。しかし、文学作品では、わざわざ回りくどい表現を使ったり、読みにくい表現を使うことで、精神の働きを呼び起こそうと仕掛けてくる。これも、精神を呼び起こすための合理性と捉えることもできるのだが。となれば、合理性にも多様性があり、合理性を単に情報量だけで判断することもできまい。

4. 表示部と内容部
構造主義的な立場からすると、文は記号であり、記号は表示部(音素列)と内容部(意味)が備わっているという。本書は、言語学にとって表示部と内容部をと独立させて分析することが重要だと語る。
だが、音素列は物理量として分析できるにしても、意味だけを分析するとはイメージし辛い。名詞であれば、その音素列が指すものは明らかであるが、既に意味を含んでいるような?文章はそれぞれ違った性質の単語が連結されて一体化して意味をめぐらすような性質がある。文章を分析するには、全体を見渡すような立体的な感覚も必要である。内容部を無視した表示部の分析って可能なのだろうか?現実に、要素として摘出できるのは、表示部だけのような気がする。本書も、内容部の存在は幻想のようでもあると語っている。そもそも、言葉は表示部で成り立つもので、意味を表わすための手段じゃないんだっけ?音素列と意味を独立させるとは、言語学が自己矛盾に陥っているようにも映るが...んー?よく分からん!ただ、疑問を持ったところで、ソシュールの著書を読む勇気は持てないような気がする。

2010-08-08

"文章読本" 丸谷才一 著

日本文学には、或る系譜がある。明治の文豪たちから受け継がれる「文章読本」という遺伝子である。それは谷崎潤一郎に始まり、川端康成や三島由紀夫らを経て、丸谷才一が挑んだ。
「文章読本」という言葉には、「文章を書くための入門書」といった意味が隠される。アル中ハイマーは、義務教育の時代に文章のセンスがまったくないことを徹底的に叩き込まれた。そういうわけで、文章を書くことは、ただ精神の解放の手段としか考えていない。うまく書こうなどという願望は、とっくに捨てたはずなのに、この言葉の響きに誘われるのは、どこかに諦めきれない心理が隠されているのだろうか?
この系譜は、だいたい書き手のためにあるのだが、三島版は「いかに読むか」という視点に立っている。それならば馴染めるかもしれないと思い、ずーっと前に読み記事にした。したがって、「いかに書くか」という視点に立った本を読むのは、これが初めてである。丸谷版はこの系譜の中でも正統派と評されるらしい。そして、丸谷氏は谷崎版が格段に力を持った傑作であると評している。惚れっぽい酔っ払いは、次に谷崎版に目を付けるのであった。

長い日本の文学史において、明治から昭和にかけて、これほど同じような本が多く書き下ろされたのも珍しいだろう。なぜ、この時代に集中して入門書とも言えるものが文学界を賑わしたのか?そこには、明治から大正デモクラシーに渡って、富国強兵の下で欧米文化が急速に流れ込んだために、日本語の伝統が急速に失われ、口語体が欧文かぶれになっていった様子がうかがえる。やたらと人称代名詞を使ったり、未来形と過去形をしつこく使ったりすると、古来の日本語の性質からひどく逸脱する。もともと日本語は曖昧な性格があり、法律の条文などに適さない側面がある。単一民族という特徴から暗黙に通じる認識なるものがあるのかもしれない。だから、多様な解釈の入り込む余地を与え、言葉遊びなどで見られる創造に富んだ芸術性が現れるとも言えるのだが。
厳密性という意味では、欧文の方が優れているのだろう。西洋哲学が厳密性と論理で組み立てるのに対して、日本風哲学には、自然的でどこか風狂的なところがある。日本人が、論理的思考が弱いと言われるのも、日本語ベースで思考するからかもしれない。そこで、和文と欧文が融合して、合理的に現代語が形成された結果が、現在の口語体ということになる。いまや伝統的日本語の原型がどこまで残っているのかも、現代人には分からないのだろう。ちなみに、アル中ハイマーには、西洋かぶれの翻訳調なのか、純粋な日本語なのかも区別できない。
森鴎外の随筆集を読んだ時も、前期の作品よりも後期の作品の方が、はるかに読みやすかった。現代調の口語体を提供できたのは、明治の文豪たちの貢献が大きい。50年前の文献を読むだけでも、旧仮名使いや旧漢字で悩まされることがある。これほど、古文と現代語で変化のある国語も珍しいのかもしれない。
ところで、本書の例文には、反軍的なものが目立つ。これは反社会思想の表れであろうか?それとも、口語体の未熟を、文明の成熟度と重ねているのだろうか?本書は、文章批判をしながら、文明批判をしているかのようでもある。

なんのために文章を書くのか?それは誰かに読ませるためであろう。その意味で、文章を書くことは公的な行為となる。サイトやブログにも運営者の公的な立場がある。とはいっても、それほど堅苦しく構えては文章も書き辛い。本ブログが対象とする読者は、十年後の自分である。当時の考え方を振り返るために。その意味で、極めて私的な行為だと捉えている。だが、十年後の自分は人格も変わっているだろうし、別人と捉えることもできるわけで、やはり公的な立場で書いているのかもしれん。少々大袈裟で芝居かかったところもあるのだから...
本書は優れた文章を書くための呪文を授けてくれる。「名文を読め!」、「ちょっと気取って書け!」、「馴染みの語彙を選べ!」と...中でも、文章上達の極意は、ただ一つ「名文を読め!」に尽きるという。そして、常に文章は伝統によって学び、個性の才能とは、伝統を学ぶ学び方の才能にほかならないという。どんな名文も、ことごとく過去の言葉づかいの合成であり、最良の様式が名文として収まると。思いもしない事を書けば、たちまち文章に力を失う。だからといって、思ったとおりに書けばいいというわけでもない。本書は文章の型に則ってなければならないと助言してくれるが、文法の勉強をしたことがないアル中ハイマーには辛い。言語と精神を直結させる文章を書くことは難しいが、自由な精神が介在しなければ創造性も見出せないだろう。文章を書くことは、言葉との戯れ、あるいは言葉の遊びとでも言おうか。文章とは、所詮言葉の羅列であるが、それは伝達性と論理性によって支えられる。
「つまり文才とはなんのことはない、言葉、言葉、言葉の取り合わせの才能にほかならないし、言葉の綾とは実は数多くの語の関係の巧妙適切な設定の仕方だといふことになる。」
文章で論理性を記述することは難しい。そこには言葉の綾が絡み、多くの解釈を生む。これこそが文学の醍醐味なのだろう。
「文章の調子にとつては個人個人の生理や体質よりももつとずつと大切なものがある。それは人間の思考といふ普遍的なもので、その普遍的なものに合致するやうに言葉をつらねるからこそ、文章は他人に理解してもらへ、つまり伝達が可能になるのである。」
本書は、言葉は語ることがある時に力強く流れるという。これも精神と文章の自然な関係というわけか。逆に言えば、書くに値するものがなければ、書くな!というわけか。

1. 谷崎版「文章読本」批評
本書は、谷崎版を絶賛しながらも、谷崎氏の論旨にことごとく同意するものではないという。それは、しばしば巨匠に見られる危険な野望や無謀な野心が表れ、浅はかな了見や用語の誤りもあるという。だが、そうした弱点も、うっかりと読み飛ばしてしまうほど巧みに演出されているらしい。これぞ文章の達人!というわけか。ほんの少し見せる弱点がむしろ現代日本語の課題を浮き彫りにし、安全な入門書というよりは危険性を宣言したものだという。
更に、谷崎版は少々異質で、自己批判の性格を帯びているそうな。谷崎氏の最大の過ちは、「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法に囚はれるな」と強調しながら、文法とは、日本語のことではなく英文法のことを指しているという。これは実にありがたい言葉であるが、極端な欧文脈の文章を書いてはならないと教えているのだそうな。英文直訳風に主語を置くな!英文直訳風に時制を用いるな!などというのは、実は自己批判であり、谷崎氏自身の文体の危機と、現代日本語の危機を重なて論じているということらしい。それでも、丸谷氏は、谷崎氏が欧文脈で書き続けたことを咎めてはいない。むしろ、その矛盾に生きたことこそ、偉大であると評している。日本語体の保守派と革新派の中にあって、谷崎氏はもっとも現実的に生きた小説家の一人だという。現実的な風俗に接してこそ、庶民層を鋭く抉る小説らしい小説が書けるというわけか。

2. 名文とは
本書は、どんなに美辞麗句を並べ立て、歯切れがよくても、伝達の機能を疎かにする文章は駄文以下だという。ここで言う伝達には、精神に訴えるという意味が含まれているようだ。
ところで、名文の定義は難しい。
「有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載ってゐようと、君が詰まらぬと思つたものは駄文にすぎない。」
読者が敬服し陶酔できれば、それが名文というわけか。とはいっても、名文を陶酔できるだけの精神に到達していなければ認識することすらできないが...
更に、「文章の呼吸」という捉えどころのない言葉を登場させる。辞書や教科書といった類いは、「文章の呼吸」を教えてくれないという。この言葉を説明するのは難しいが、口調や調子、あるいはメリハリとかいうものでは、いまいち狭すぎる感がある。それらのものの総体に論理とレタリックとを重ねたようなものと形容したところで、まだ物足りないが、「生気を帯びた実体」といった感じで説明される。いずれにせよ、その感覚は体で覚えるしかなさそうだ。名文には、作者の精神の充実を感じさせる。これが文章の本質なのかもしれない。
ただおもしろいことに、「名文を読め!」と言うからには「駄文を読むな!」と言いたくても言わない!と宣言している。駄文を判別する認識能力も、名文を嗅ぎ分ける能力と言っているのだろうか?そもそも読んでみないと、名文か駄文かも判断できないのだが...

3. 文章の論理性
文章を説得力のあるものにする要因として論理性がある。名文とは、論理性を前提にしながら、精神を覆いかぶせるような存在といったところだろうか。文章を書く時、論理的思考を働かせる。だが、書き出されたものが、必ずしも論理的とは言えない。わざと論理を壊すような、論理を絶妙に壊すための論理があるとでも言おうか。文学作品には、複雑なものを整然とした論理で語って頭に入りやすいものもあれば、単純なものに無駄を混入させてわざと理解し辛くするものもある。ストレートな表現で情熱的に語ったり、奥歯に物がはさまったように回りくどかったり、はたまた、ニヤけるようなユーモアで悪戯のような趣があったりと、芸術家たちは様々な趣向(酒肴)で仕掛けてくる。名文には、形式的な姿を見せてくれない。結局、論理と精神の按配は、芸術家のセンスに委ねられる。
ちなみに、著者の代表作「笹まくら」を読んだ時は、その文章構成に驚嘆した。それは、戦時中と戦後を何度も自在に往来する時系列の流れである。軍隊からの逃亡生活と、居場所のない戦後社会を対比しながら、本名と偽名が往来する。それも、なんの前触れもなく、突然瞬間移動しやがる。まさしく酔っ払いが気持ち良く時空を散歩するかのごとく。ここにも一種の論理性があるから、突然の時系列の変化にも違和感を感じることがないのだろう。

4. 言葉の伝統
文学作品は、文章を後世に残すことを視野に入れるという。となれば、新語を使うにも注意がいる。文学では、古くから伝わって、現在でも使われる語彙を選ぶのが有効であるという。ただ、どの時代にも流行語がある。言葉は社会環境に密着するので、時代の変化によって言葉の意味が微妙に変化していくのも自然であろう。人間が精神を獲得した時点で、言葉に対する恣意性を妨げることもできまい。歴史は劣悪な言葉を淘汰されるだろうが、残ったものがすべて上等とも言えない。たとえ優れた言葉であっても、ドサクサに紛れて葬られることもあろう。おまけに、カタカナで表される日本語英語のようなものが続々と誕生する。古い言葉だけでは、すぐに表現の限界に達する。新語と伝統語の混在、この按配にも作家の力量が現れる。
言語の伝統を引き継ぐ役割を担うものといえば、国語辞典がある。言語の世界は、辞典編纂者である国語学者の主観に委ねられるとも言える。だが、辞典が、柔軟性を硬直させ言葉の成長を妨げることもあろう。辞典で覚えただけの言葉では、生きた文章は書けまい。いつの時代でも、言葉の乱れを社会の乱れと重ねながら嘆く評論家がいる。
「言葉はもともと歴史的な存在であり、過去によつて刻印を打たれることではじめて機能が成立するものなのだから、然るべく言葉を選ぶには、その語の由来来歴から現代との関係に至るまでの総体をしつかりと感じ取ってゐなければならない」
本書は、言葉は意味を暗記するという知識の問題ではなく、伝統の感覚を身につけることが最高の教養だと説く。そして、伝統の感覚が欠落した名文家などあり得ないという。言葉から感じ取る幅が広ければ語義に詳しく、感じ取る度合が深ければ語感が鋭いというわけか。

5. イメージと論理
日本語には、漢字、平仮名、片仮名の様式があり、現代ではローマ字まで混ざる。おまけに、疑問符や感嘆符、顔文字までも。これほど、うまい具合に融合した文字文化を持つ国も珍しいだろう。
いつも悩ましいのが、漢字で表現するか、平仮名で表現するか、はたまた片仮名で表現するかである。漢字は要点を短く表現でき、仮名は読むリズムを与えるところがある。漢字には、知識に溢れ圧迫感を与えるようなものがあり、平仮名の丸っこい感じが、なんとなく安心感を与える。明治の文豪には、平仮名だけで表現して、わざわざ読み辛くするものも見かける。本書は、こうした平仮名の手法に、すらすら読めないところから「盲人の訥々たる語り口をぢかに聞くような気がする」と表現している。なんとなくこのフレーズには座布団一枚差し上げたい。
また、句読点の入れる箇所にも、しばしば悩まされる。それも、確立された様式がないからであろう。わざわざ読点を用いないような作品もあるから驚きだ。これは嫌がらせか?
本書は、文章には、論理も大切だが、いかに光景をイメージできるかが重要だという。現在では、webサイトを眺めているとレタリング効果が大きいことが分かる。タイトルを工夫するだけでも惹き付けるものがある。書き出しで、前景と後景のイメージを存分に表現できれば、それだけで世界に引き込むことができる。バーで飲む酒と、自宅で飲む酒の違いで、空間イメージがより一層五感を刺激するような...文章にそうした舞台設定のような効果がほしいが、こうしたセンスの持ち主は、羨ましいとしか言いようがない。
レタリング効果にしても、肝心なのはそこに潜む論理であろう。比喩的な表現を使ってイメージ効果を上げることができても、あるいは、情景の描写で色彩感覚や音調を用いても、優れた論理が根底になければ色褪せる。だからといって、論理だけの文章では味気がない。イメージは、論理との兼ね合いが絶妙な時に効果を発揮するのだろう。
本書は、近代文学ではイメージを軽視する傾向があると指摘している。政治演説にしても、社説にしても、色彩と綾に乏しく、人の心を酔わせることが滅多にないのは、イメージを軽視していることにあると。この時代に論理的な文章が急激に増加したのも、西洋文化の影響だろうか?イメージは、論理的とは言いにくいが、非論理的とも言えまい。具体性と漠然性の按配という意味では、イメージにも美的論理のようなものがありそうだ。

6. 形式化への批判
文章を追うと、どうしてもシーケンシャルに読みがちになる。そこで、緒論、本論、結論といった順番で記述することになる。学校教育では、起承転結なんて作法を習う。だが、本書は、形式的作法に疑問を投げかける。いや、むしろ好まないと言っている。確かに、文章の順を追って、それで理解できれば楽である。だが、芸術作品は、立体的に読まないと、解釈の難しいものが多い。というより、文章という手段で精神宇宙のようなものを表現するのが文学作品の意図するところであって、立体的な感覚を必要としない芸術なんてあり得ないのかもしれない。その立体感にも、様々な様式が見られる。前章の言い回しがそのまま結論でオチとして繋がったり、序章や本論などがバラバラに配置されていても絶妙にバランスされた立体的な体系を成していたり、いきなり結論を持ちかけたり、突然議論がさまよったりと。議論文であっても叙述的な書き出しに美を感じることもある。
となれば、分かりやすく書くことが一概にいいとも言えまい。わざと読み辛くしたり、難しく書くことによって、読者の思考を呼び込むこともできる。哲学的な書の多くは、こうした手法を多く用いているような気がする。結論をちりばめることによって、わざと意図をぼかしたり、奥深い解釈を誘うように、わざと矛盾するように構成したりと。そして、読者に立体的な感覚がなければ、作品を理解することも難しいということになる。こうした技法は、作家の絶妙なバランス感覚によって実現できるものであり、素人には手も足も出ない領域にある。
本書は、立体的な仕掛けだけではなく、「螺旋階段のような曲がりくねった調子」だと言っている。もちろん、起承転結で形式ばっていても、見事な芸術性を見せてくれる例もある。形式に無理やりはめ込んでしまえば、それなりの文章にはなるだろう。どんな仕事でも、形式化する思惑の一つに、能力差を目立たなくし最低限の品質を保つというのがある。だが、芸術性という意味では、むしろ形式化は妨げとなりそうだ。

7. ニーチェと外国語
「ニーチェは、文筆家は外国語を学んではいけない、母国語の感覚が鈍くなるからと教へたといふ。例によって厭になるくらゐ鋭い意見だ -- 別に従ふ必要はないし、従はないほうがいいけれども。」
ニーチェの念頭にあったのは多分フランス語で、ギリシャ語やラテン語は外国語に入っていないだろうという。そして、日本人には、ギリシャ・ラテン語が漢文に当たるぐらいに考えればいいという。
そういえば、比較言語学では、ヨーロッパの古典語は、ギリシャ語とラテン語、英語とドイツ語、ロシア語とアイルランド語といった具合に、先祖の分類がなされると聞いたことがある。英語とドイツ語には似たような語彙を見つけることができるし、ギリシャ語やラテン語に由来する語彙も多い。それに、フランス語やスペイン語やイタリア語やルーマニア語あたりも、ラテン語系じゃなかったっけか?ニーチェには、フランス文化が異質という感覚でもあるのか?いや!おフランスへの嫌味か?いずれにせよ、天才たちの抽象感覚を、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いに分かるはずもない。

2010-08-01

"アナバシス" クセノポン 著

「アナバシス」は、ペロポネソス戦争後の歴史叙述として、なんとなく興味を持っていた。著者クセノポンはソクラテスの弟子であるが、哲学者ではなく軍人である。
ちなみに、クセノポンは別のペンネームを使っていたという説もあるらしい。

時代は、紀元前4世紀。本書は、王位奪還を目指すペルシャ王子キュロスに味方したギリシャ軍が、ペルシャへ攻め上り、キュロスの死でバビロンを目前に敵中に取り残され、敵中突破してギリシャへ帰還するまでの従軍記録である。これは、著者自身の指揮官としての英雄伝と言った方がいいかもしれない。ただ、おもしろいことにクセノポンが書いたとされながら、著者自身を三人称で扱っている。第三者の考察として信憑性を強調しようとしたのだろうか?いや、そんな野心は感じられない。小アジアからアルバニアの山々を越えて撤退しなければならないギリシャ軍の虚しさを伝えながら、自分の立場を理想化しているわけではない。蛮族の方が正しいことも、他国の領土を略奪者の群れが進軍していることも、十分に心得ているかのように映る。そこには、植民地主義的な偽善をまったく感じさせない。淡々と略奪や侵害を描写しているだけだ。
また、ギリシャ軍が様々な兵科の使い方を敵軍から学んでいく様子もうかがえる。お馴染みの重装歩兵を主力とするギリシャ軍が、軽装備の投石兵や少数ながらも騎兵隊を備えていく。これには、後の戦術としても参考にできただろう。なるほど、アレキサンダー大王が愛読したと言われるわけだ。
本書には、たびたび兵士の説得や交渉における弁論が組み込まれる。論理的な思考を根幹とした民主的議論は、いかにもギリシャらしい。これには、歴史家トゥキュディデスの影を感じる。
作品の特徴としては、文章の綴り方に注目したい。あまりに淡々と綴られる様は、文章が絶えず変化し、要点を見出す箇所を見つけるのが難しい。目に見えるような細部や動作が次々と描写され、その移り変わりの早さが、読み終えた時に何を読んだのか忘れさせるような、心地よい疲労感を残す。これは、引用の難しい作品である。悪く言えば、ダラダラとしたアル中ハイマーの文章にも似ているのだが、ダイナミックな点で大きく違う。回想的でありながら臨場感を与えるところに、文学作品となりうるかの境目がありそうだ。

「アナバシス」という言葉には、「上り」という意味があるらしい。また、山登りや乗馬や、河を遡行するという時にも使われるそうな。本書では、弟キュロスが兄アルタクセルクセス2世から王位を奪還すること、あるいは、地方からバビロンへ攻め上ることを意味しているようだ。帰路にあたるところは、むしろ「下り」であるが、雪深いアルメニア山中の難行軍や、ティグリス(チグリス)河の遡行などで苦難を乗り越えるという意味も込められるのだろう。つまり、上りの「アナバシス」と下りの「カタバシス」を合わせ持った意味で使われているのかもしれない。
ところで、本書のお陰で新たに二つの疑問がわいてきた。一つは、ペルシャ王子キュロスとギリシャの間で親交があったこと、二つは、指揮官として従軍したソクラテスの死に関する記述である。これらには、改めて歴史の解釈の難しさを感じる。ソクラテスに関する記述はほんの一瞬で終わるのだが、彼自身が著述を残さなかったために歴史的には貴重なものらしい。

1. バビロンへ進軍(上り)
紀元前401年、アテナイがペロポネソス戦争で敗れた3年後。ペルシャ王ダレイオス2世には二子がいた。兄アルタクセルクセスと弟キュロス。ダレイオスは、自分の死期を悟ると二人を呼び寄せた。アルタクセルクセスはその場に居合わせたが、キュロスは西方の統治領であるカストロス平原(リュディアのサルディス付近の地名らしい)から駆けつける。そのまま、アルタクセルクセスが王位を継ぐ。
ここで、本書のキーとなるティッサペルネスという人物が登場する。キュロスはティッサペルネスを味方だと信じていたが、ティッサペルネスはアルタクセルクセスにキュロスの謀反の志を讒訴する。そして、キュロスびいきの母の嘆願により、特赦を乞い無事統治領へ返される。キュロスは王位を奪還すべく、ギリシャ軍や異民族を集結させる。ギリシャ軍の指揮官の一人に、あの有名な哲学者ソクラテスがいた。
この時、ティッサペルネスを排除するという口実を持ち出して、ペルシャ王を討伐する事は誰にも知らされていない。そして、サルディスからエウプラテス(ユーフラテス)河沿いにバビロンへと行軍する。バビロンへ近づくと、実はペルシャ王を討伐するのではないか、という噂が広まる。ギリシャ軍の中には偉大なペルシャ王への反抗を拒む者も少なくない。キュロスは、王位奪還の意志を表明して、給料の増額などで混成部隊を説得して進軍する。だが、キュロスはバビロンを目前にして戦死する。
ちなみに、本書ではティッサペルネスを陰謀の首謀者としているが、プルタルコスによると、キュロス本人が謀反を計画したという説もあるようだ。となれば、キュロスがティッサペルネスを味方だと信じていたというのは怪しいかもしれない。

2. 逃亡劇(下り)
そもそもペルシャ王を攻めるなどと大それたことを考えていなかったギリシャ軍は、ペルシャ軍と休戦協定を結ぶ。だが、これは偽りの協定で見事に陰謀に嵌ってしまう。ティッサペルネスは、ギリシャ軍の指揮官たちを自分の陣営に招き入れて、そのまま捕らられて処刑する。その中にソクラテスがいた。ギリシャ軍は、指揮官たちが全員捕らえられて指揮機能を失う。
ここから、指揮官の後任に選ばれたクセノポンが登場し、ギリシャ軍の逃亡劇が始まる。彼は、物資の欠乏したギリシャ軍を率いて、遠回りのティグリス(チグリス)河沿いを北上する。ティグリス河沿いには、物資の豊富な村が多いからである。そして、困難なアルメニア山中を抜けて、ティグリス河の遡行など、幾多の苦難を乗り越え故国を目指す。
黒海へ到達すると、そこから西方へ進路をとるわけだが、少し様相が変わる。クセノポンは、黒海沿岸と親交を深め、軍隊が定住できるような町を建設すれば、重要拠点にできると考える。シノペとヘラクレイアの間で海上交通網を構築すれば、後のペルシャ対策にも利用できるというわけだ。ちなみに、シノペは、おいらの好きなディオゲネスが通貨変造事件で追放になったとされる町である。
黒海で船団が準備できれば、ギリシャへの帰路もそう遠くはない。兵士たちも故郷への思いを募らせる。ヘラクレアまでくれば、ギリシャの入口ビザンチオン(現イスタンブール)まであとわずか。クセノポンは、ギリシャ人が友好的であると印象付けるためにも掠奪を禁止する。とはいっても、物資の不足した大軍が宿営するとなると、不埒な輩もいて、掠奪や土地を荒らしたりと揉め事が起こる。おまけに、逃亡中ともなれば、兵士への給料も滞る。現地を征服してしまえば、兵士への給料は一発で解決するが、そうもいかない。命の確保が保証されれば、次は金銭的な欲望へと目移りするのが人間の性というものか...ギリシャ軍が敵中を横断した距離は6000キロに及び、要した年月は上りと下りで一年と三ヶ月だったという。

3. キュロスとギリシャの関係(疑問1)
ギリシャ人の祖先は、ペルシャ王クセルクセスの侵攻を陸海軍ともに打ち破った経緯がある。その頃からギリシャとペルシャには深い怨恨があったことは推察できる。となれば、ギリシャ軍がペルシャ王子キュロスに味方することは奇妙に思える。にもかかわらず、本書はペルシャ王子キュロスの人間的魅力が強調される。キュロスは、以降のペルシア人の中でも最も王の風格を具え、統治者に相応しい人物だったと...幼少の頃から兄弟や子弟と共に教育されるが、すべての点で最も優れていて、最も謙虚で、馬術や武技にも優れていたという。条約や協定では、二枚舌を使うことを嫌い、諸都市からも信頼されていたという。他国であっても、キュロスほど多くの人々に愛された人物はいないとまで褒めちぎる。まるで、多くの都市がキュロスに味方するのも当然と言わんばかりに。普通に考えれば、正統継承者に従うところであろう。血筋からしても兄が継承者となるのが自然である。だが、ペルシャ王側からキュロスの陣営に走った者は多数に上り、キュロス側を去ったものは一人もいなかったと記している。ただ、キュロスは、スパルタ側に肩入れして、アテナイとの対立に積極的に協力した人物と目されていたとも記される。つまり、キュロスはアテナイの天敵とも言える。
当時のアテナイがペロポネソス戦争の敗戦の後遺症を負っていたのは想像に易い。それは、勝利したスパルタ側も含めて全ギリシャに戦争の傷を残していただろう。ギリシャ全土をもってしても、ペルシャの命令に逆らう国力はなかっただろう。言い換えれば、ペルシャの後継者争いが、ギリシャ本土を安泰にしたとも言えるかもしれない。キュロスは、父ダレイオス王から、リュディア、大プリュギア、カッパドキアの総督を任せられ、同時にカストロス平原の総司令官に任命されていた。ギリシャに近い領土において、キュロスとそれなりに交流があったことも想像できるのだが...
ギリシャ軍はキュロスの説得で、ペルシャ王を攻めることに一旦は合意している。しかし、キュロスが死ぬと、ペルシャ王へ逆らう気はないと、あっさりと休戦協定に応じている。こうしたことを踏まえて、キュロスの人物像を美化した記述は、ペルシャ王子キュロスに味方したことへの言い訳にも思える。つまり、この書は、ギリシャ民衆に向かっての弁解の書と考えるのは、行き過ぎた解釈であろうか?

4. ソクラテスの死(疑問2)
ソクラテスは、自分の考えを著述で残さなかったために、その言行を正確に伝えるものがないと言われる。プラトンは、ソクラテスの言葉から自分の考えを著述するが、クセノポンはそのまま著述したとされるので、ソクラテスの言行が正確に再現されるとも言われるらしい。
しかし、本書は、あまりにもあっさりと記述されるところに、むしろ混乱しそうな気がする。クセノポンが従軍したいのは、指揮官や兵士としてではなく、単に古い友人にキュロスに紹介してもらうためだという。ソクラテスは、デルポイへ赴いて神意をうかがうように忠告する。ソクラテスは、クセノポンの従軍に反対していたようだ。だが、神託があったというなら否定することもできない。
クセノポンは、プラトンと同年輩と推測されるらしいが、その交友関係は分からない。いずれにせよ、両者の人生観にソクラテスが大きな影響を与えたのは間違いないだろう。
ところで、ソクラテスの死については、矛盾しているような気がしてならない。プラトン著「ソクラテスの弁明」によると、国家の信じる神々を無視して新たな信仰を持ち出し、青年を腐敗させた罪で死刑宣告を受けたことになっている。つまり、ギリシャ人に裁かれて処刑されたのかと。しかし、本物語では、指揮官として従軍したソクラテスは、ティッサペルネスに捕まって処刑されたことになっている。享年30代半ば。捕まった指揮官全員が処刑されたかは定かではないが、ペルシャ王への反逆罪としてペルシャ側に裁かれたような印象を受ける。無理やり辻褄を合わせるならば、後にギリシャへ帰還できたとして、ペロポネソス戦争の敗北や、その後のペルシャに敗北したことに対して、軍人として戦争責任を負ったと解釈することもできるかもしれない。
プラトンのソクラテス伝は、彼を崇めるための行き過ぎた創作なのか?確かに、ソクラテス伝については、クセノポンは哲学者として理解が浅いと評される場合もあれば、プラトンは自分の考えが強すぎると評される場合もある。偉大な哲学者の死に相応しいという意味では、プラトン説に軍配が上がるのだろうが...