2019-03-24

"近世数学史談" 高木貞治 著

歴史は、正確な記録をもって史実となす。それは、読み物としては無味乾燥なものとなろう。しかし、だ。史論となると別だ。史論は各人各様でなければ。ましてや史談となると。そして、客観論を主体とする数学の権威が、ガウス、アーベル、ガロアらを思いっきり主観で語ると宣言すれば、見過すわけにはいかない...
「回顧は、老人の追想談になるのが普通で、それは通例不確かなものであることが世間の定評であるようであります。それは当然不確かになるべきものだと考えられます。遭遇というか閲歴というか、つまり現在の事だって本当には分らない。それは当然主観的である。しかも過去は一たび去って永久に消滅してしまう。そうしてそれを回想する主観そのものも年とともに易(かわ)って行くのであるから、まあ大して当てになるものではない。これは一般にそうだろうが、今私の場合は確かにそうなのだから、むしろ始めから、自己中心に、主観的に、過去を回顧すると、明言して置くのが安全であろう。」

なにをもって近代数学の起点とするか。その一つに、微積分法の発見をもって、という見方がある。だが、理論なんてものは、突然湧いて出るものではない。ニュートンやライプニッツといった偉大な先駆者もいれば、アルキメデスを挙げる呑気な見方もある。18世紀になると、ベルヌーイ家、オイラー、ラグランジュ、ラプラスらの時代がやってきて、微積分法を拡充させた。
しかしながら、ここではガウスに屈する。それは、正十七角形の作図法というセンセーションな発見に始まったとさ。
正多角形の中で、三角形、五角形、十五角形、あるいは、辺数を倍にしていく図形ならば、それが作図可能なことは、酔いどれ天の邪鬼でもなんとなく分かる。だが、十七角形となると、そこに芸術を見る思い。なにしろ、ガウスの円周等分論が後ろ盾になっているのだから。すなわち、xn - 1 = 0 において n =17 の時、この方程式が平方根によって解き得ることに基づいている。円周等分の理論は二千年来の快挙、いまだ人類はコンパスと定規に取り憑かれているようだ。どうやら神はフリーハンドがお嫌いと見える。いったい神は人間に何を描かせようというのか...

ところで、方程式をめぐる物語は、整数論、積分論、楕円関数論へと導かれるが、その影に解析学を感じるのは気のせいであろうか。おいらは数学屋ではない。数学屋にボトルの差し入れで計算をお願いする技術屋で、要するに数学の落ちこぼれ。数学屋を理想派とするなら技術屋は現実派、いわば実装屋である。実装屋にとって、方程式の解を丹念に正確に導くよりも、手っ取り早く近似値を得る方がずっと現実的である。特に、あの忌々しい微分方程式ってヤツは...
微分方程式を一つの抽象として捉えることはできよう。微分方程式の理論一般がそうであるように、ある設定のもとで解の存在が問われる。そこで、無限級数の総和が収束するというだけで、ささやかな光明となる。永遠に足し算をやって、なぜ発散しないのか?そこに魔術を感じずにはいられない。ゼータ関数なんて、まさにオイラーマジック。収束することを保証さえしてくれれば、上位項を適当に選ぶだけで近似値が得られ、テイラー展開やマクローリン展開といった方法論が存在感を増す。すべての現象を、たとえ近似とはいえ解析可能になれば、数学は真に偉大な学問となろう。アーベルやガロアらは、無限の数の羅列に宇宙征服の夢でも描いていたのだろうか...

1. ガウスの美学
ガウスは常に研究の成果が完成されたる芸術的作品の如き形式を具えることを努めた... と伝えられる。数学の定理に神を見ようとすれば、不完全では神に失礼だ。完成された芸術のみを発表するという美学。計算狂ガウスにして、そうならしめたのか。彼は検証を急がない。結論を急がない。この姿勢は、アーベルやヤコービとは大分違うようである。
ヤコービは、「ガウス流の厳格主義!そんな暇があるものか」と言い放ったとか。そのために、ガウスは自ら論争の種をまく。
例えば、最小二乗法の先発権をめぐってルジャンドルとの間に生じた一悶着。ガウス本人が気にかけなくても、ガウスを崇拝する弟子たちが黙っちゃいない。
また、関数論の起源をいつとするか?と問えば、1825年、コーシーの複素積分に関する論文をもって、とするのが一般的なようである。留数という語も、コーシーに発していると認識している。コーシーは、フランスのガウスとも評される人物。しかし、ガウスは既にこのアイデアを自家用として秘蔵していたという。1851年にようやく到達した関数論の基本定理とされるコーシーの積分定理が、40年前にガウスによって明確に述べられていることが書簡の中に見つかったとか。ガウスには、関数論の歴史的発見に、それほどの価値を見い出せなかったと見える。
「ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ!それが標語である。それは凡ての実質的なる学問に於て必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修業にのみ通用するのである。自然科学に於ても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹をする。しかし論理は当たり前なのだから、演繹のみから新しい物は何も出て来ないのが当り前であろう。若しも学問が演繹のみにたよるならば、その学問は小さな環の上を永遠に週期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論に捉われないで、帰納の一途に精進すべきではあるまいか。」

2. Notation でなく、Notion に由って...
数学は、しばしば無味乾燥な表記法とみなされる。だが、高度な抽象論を求めれば、表記よりも概念を上位とみなすであろう。形而上学のごとく。おいらは、数学は哲学である!と考えている。微分方程式を前にして袋小路に陥る時は、だいたい記号の群れに囚われている。解が明らかになるということは、記号で明確に表記できるということ。それゆえ記号に囚われる。だから数学で落ちこぼれ、いまや数学屋に媚びを売るしかない。本書は、そんな嘆きをディリクレ小伝で励ましてくれる。
「偶然の事情に由って -- 多くは伝来上 -- 或る問題にからまっている夾雑物を洗い落として、問題の本質を直視することが、しばしば進歩の鍵である。その一例がここにもある。成るべく計算を厭うて、概念その物を議論の基礎にすることがヂリクレの長所としてたたえられる。計算は盲目で行き当たりばったりである。思想は目明きで目標を直視する。『盲目の計算の極小を以って、目明きの極大へと、問題を追いつめるのがヂリクレの流儀で、それこそ本当のヂリクレの原則(Dirichlet's Principle)と言うものであろう』とは、ミンコフスキの巧まい洒落(の拙い直訳)である。ヂリクレに限るのではない、既にオイラーであったか、ガウスであったかに関して、『Notation(記号)でなくnotion(概念)に由って』という格言を前に引いたが、これも同じ意味である。優れた数学者は決して形式屋(Formelmensch)ではない。」

3. 割りを食ったかルジャンドル?
G.(ガウス)との比較で、三人の L. が槍玉に挙げられる。既に老大家となったラグランジュ、ラプラス、ルジャンドルの中で、特に、割りを食っている感のあるルジャンドル。整数論、幾何学原理、楕円関数といった仕事のやり方で、ことごとく対照的に描かれる。とはいえ...
「このような対照に於て、我々は成心を以って L. を抑えて G. を揚げるのではない。気紛れな『歴史』が稀に見せてくれる面白い芝居が、ここに演ぜられたのである。新しい時代は新しい人物に由って興るが、ルジャンドルは恰も過ぎ行く時代を代表するような位置にいて、新旧分岐の場面を鮮かにする役をしたのである。」

2019-03-17

"コペルニクス・天球回転論" Nicolaus Copernicus 著

プトレマイオスの大著に遭遇すれば、こいつに向かう衝動は抑えられない。
ニコラウス・コペルニクス... 彼は、中世まで支配的だったアリストテレス=プトレマイオス流の地球中心説を真っ向から反対する宇宙論を唱えた。それは、地球の地位、ひいては地球に住む人間の地位を1ランク下げるものとなる。地球の不動から太陽の不動へ視点が移れば、次は太陽の不動に疑いの目が向けられる。彼の太陽中心説は、科学革命の引き金となった。
しかしながら、自転や公転の証拠がまだ発見されていない時代である。自転の証拠としてはフーコーの振り子が、公転の証拠としてはベッセルの年周視差やブラッドリーの光行差などが挙げられるが、いずれも18世紀以降のお話。これは16世紀の物語で、天文学はまだ自然哲学の域を脱していない。地球の地位を下げるとなれば、神に看取られた人間を崇める宗教だって黙っちゃいない。コペルニクス革命は、まさに思想革命であった。彼が健全な懐疑心を目覚めさせようという意図でやったかは知らんが...
尚、本書には、コペルニクスの主著「天球回転論」から第一巻と、太陽中心説の構想を記した未刊論文「コメンタリオルス」が掲載され、高橋憲一(みすず書房)訳版を手に取る。


 トルニの人ニコラウス・コペルニクスの「天球回転論」全6巻

「好学なる読者よ。新たに生まれ、刊行されたばかりの本書において、古今の観測によって改良され、斬新かつ驚嘆すべき諸仮説によって用意された恒星運動ならびに惑星運動が手に入る。加えて、きわめて便利な天文表も手に入り、それによって、いかなる時における運動も全く容易に計算できるようになる。だから、買って、読んで、お楽しみあれ。」

 幾何学ノ素養ナキ者、入ルベカラズ!


天空を眺めれば、四角い天体なんぞとんと見かけない。すべてが球形で円運動をしているとすれば、おそらく宇宙も球形だろう... ぐらいの想像はやる。人間が空想する世界は、真円や真球が収まりがよく、角が立たない事が心を落ち着かせると見える。
ただどんな形にせよ、宇宙が形をもっているということは、その空間は有限であることを告げている。そして、中心点はどこか?という議論になるが、母なる大地が運動しているなんて考えたくもない。地震で揺れるだけで恐れおののく人間にとっては、平らでどっしりとした存在であってほしい。想像の域とはいえ、古代人たちは大地が丸いというだけでもよく受け入れたものである。
神の支配に宇宙法則を重ねて見るは、まさに宗教原理。プラトンは、宇宙が数学に支配されているという思想を持っていたと伝えられる。一様円運動の原理を初めて唱えたのは、ピュタゴラス学派だという説もある。プラトンはアカデメイアの門下生に問うた... どのような秩序立った一様円運動を仮定すれば、惑星運動の現象は救われうるだろうか... と。これに一つの答えを与えたのが、エウドクソスの同心天球説である。以来、ヒッパルコスの周転円説などを経て、プトレマイオスの体系が構築された。
そして今、天動説と地動説では、どちらが優れているかと問えば、地動説だと断言できる。なぜなら、小学校で習ったから。自分で確かめたわけでもなければ、確かめる術すら知らず、偉い人が言うことだから間違いないだろう... ぐらいなもの。酔いどれ天の邪鬼にとっての知識とは、そんなものよ。惑星という名は、そこの住人が惑わされ続けるからこそ、そう呼ぶに相応しい...

プトレマイオスは、すでに宇宙の中心が地球ではないことに気づいていた形跡がある。本人が自覚できず、けして認めない事柄であっても、心のずっとずっと奥底の無意識の領域で薄々認めているということが、人間にはよくある。そして、コペルニクスがやったことは、実はプトレマイオスの再表現ではなかったのか、と解すのはちと行き過ぎであろうか...
天動説に憑かれたプトレマイオスは、恒星連中の運動に明確な説明を与えたが、天空をさまよう連中を説明するのに苦慮した。順行したり、逆行したりする星々を。planet はギリシア語の PLANETES(さまよう者)を語源に持つ。彼が持ち出した離心円とエカントという概念は、さまよう連中の中心は地球から少しずれていることを主張しており、これは同心天球説の改良版と言っていい。
だからといって、大地が動いていることまでは認められない。宇宙の中心はあくまでも地球であり、さまよう連中が異常であり、アノマリなのである。
しかし、宇宙を創造した完全なる神が、アノマリな連中をこしらえるだろうか。やはり宇宙は運動論に矛盾しないように構成されている必要がある。そして、アノマリな観測データを救済しようとあらゆる仮説を試みる、これこそが科学の使命というものか。コペルニクスが天空モデルに託した「7つの要請」「34個の円」には、そんなものを感じる...

1. 7つの要請
コペルニクスの地動説構想を初めて記した自筆原稿は残っていないそうな。多くの書簡からその構想を見つけることができ、その写本が次々と受け継がれる中で一つの小論(コメンタリオルス)として伝えられるらしい。コメンタリオルスには、天界運動モデルに7つの要請がなされる。

  • 要請1. あらゆる天球ないし球の単一の中心は存在しないこと。
  • 要請2. 地球の中心は宇宙の中心ではなく、重さと月の天球の中心にすぎないこと。
  • 要請3. すべての天球は、あたかもすべてのものの真中に存在するかのような太陽の周りをめぐり、それゆえ、宇宙の中心は太陽の近くに存在すること。
  • 要請4. [太陽・地球の距離]対[天空の高さ]の比は、[地球半径]対[太陽の距離]の比よりも小さく、したがって、天球の頂きに比べれば、感覚不可能なほど小さい。
  • 要請5. 天空に現れる運動は何であれ、それは天空の側にではなく地球の側に由来すること。したがって、近隣の諸元素とともに地球全体は、その両極を不変にしたまま、日周回転で回転しており、天空と究極天は不動のままである。
  • 要請6. 太陽に関する諸運動として我々に現象するものは何であれ、それは太陽が機因となっているのではなく、地球および我々の天球(我々はあたかも或る他の1つの星によるかのように、太陽の周りをそれによって回転している)が機因となっていること。かくして地球は複数の運動によって運ばれていること。
  • 要請7. 諸惑星において逆行と順行が現われるのは、諸惑星の側にではなく、むしろ地球の側に由来していること。したがって、天界における数多くの変則的な現象に対しては、地球の1つの運動で十分である。

2. コペルニクスの34個の円
コメンタリオルスでは、天界運動モデルをこう結論づけている。
「かくして、水星は全部で7つの円でめぐっている。金星は5つ。地球は3つ。その周りを月が4つ。最後に、火星・木星・土星はそれぞれ5つ。したがって、以上の次第であるから、全部で34個の円で十分であり、それらによって宇宙の全構造および星々の輪舞全体が説明されることになる。」

34個の輪舞とは、こんな感じ...

・水星
[経度運動] 5つ : 1つの天球、2つの周転円、軌道半径を変えるトゥースィーの対円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞

・金星
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞

・地球
[経度運動] 3つ : 年周回転、日周回転、地軸の輪舞

・月
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 1つ : 交点の移動

・火星、木星、土星
[経度運動] 3つ x3 : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ x3 : 軌道面を振動させるトゥースィーの対円

2019-03-10

"アルマゲスト" プトレマイオス 著

地球は丸い... そんなの当たり前。地動説... そんなの常識。そんなことは小学生にも指摘されそう...
しかし、だ。自分の力でどれだけ裏を取ってきたのか?と問えば、誰かに貰い受けた知識に過ぎない。世間から馬鹿にされないために知ったか振りをし、虚栄を張っているだけのこと。誰かが創作した地球や宇宙の写真を見せつけられ、単に信じてきたとすれば、それは宗教と何が違うのだろう。そして、Xplanet, Stellarium, Celestia といった天体ソフトウェアを眺めながら、プトレマイオス大先生に癒やされようとは...
どんなに優れた知識を与えられても、この酔いどれ天の邪鬼はアリストテレスの世界でしか生きられない。真空では、すべての物体は同時に落下する... なんてガリレオ大先生に教わってもピンとこない。重いヤツの方が速く落ちる... とする方が、やはり収まりがいい。その証拠に、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じようと躍起になっているし、アルコール濃度の重い方が沈むのも速い...
尚、藪内清(恒星社)訳版を手に取る。

クラウディオス・プトレマイオス。このギリシアの天文学者は、二世紀頃、アレキサンドリアで活躍したようである。
"Almagest" という書名は、プトレマイオス自身が名付けたものではないらしい。元々の書名は判明しておらず、現存するギリシア語写本によると、「数学的集成」やら「天文学大集成」やらと書かれているそうな。
後のアラビア語の翻訳時に "kitāb al-majisṭī" という名が与えられ、さらにラテン語の翻訳時に、現在のアラビア風の表題になったとか。
それは、「最大の書」や「偉大な知識」といった意味で、歴史的にはユークリッドの「原論」に通ずるものがある。「原論」は、ユークリッド自身が定理を組み立てたというよりは、古代ギリシア数学の知識をまとめあげた業績が評価される。「アルマゲスト」も、プトレマイオスの独創性も含まれようが、古代ギリシア天文学の知識をまとめあげたという感が強い。本書には、先人ヒッパルコスの名がちりばめられる。
時代は、ローマの支配下にあってギリシア学問の伝統が衰え始め、知の中心はアラビアへ移行しつつあった。この大著は、イスラム世界からヨーロッパへ逆輸入する形で出現し、アラビア語写本からラテン語写本を経て伝えられてきた。
そして、コペルニクス大先生の大著が台頭してくると、だんだん見棄てられていく。おそらく「原論」を読む人が多少なりともいても、「アルマゲスト」を読もうとする人はごく少数派であろう。
しかしながら、宇宙に幻想を抱き続ける衝動は、古代人も現代人も変わらない。どんなに優れた観測データで裏付けされ、どんなに明らかな証拠をつきつけられても、人間の精神宇宙までは変えられない。宇宙空間がどんなに解明されたとしても、精神空間の正体は知らないままでいるし、コペルニクス大先生の教えで地球中心説から解き放たれても、自己中心説からは逃れられないのである。

もし仮に、天空に惑星が存在せず、恒星だけで構成されているとしたら、天動説は不滅だったかもしれない。惑星とは惑う星と書く。planet の語源はギリシア語の "ΠΛΑΝΗΤΕΣ(PLANETES)" に発し、「さまよう者」という意味合いがある。天空で円運動をする恒星たちは互いに安定した位置を保ち、そこに星座を描く。だが、それらの位置をさまよう星たちがいる。星座という規律から外れた異端児たちが。古代神話で語り継がれる神々、マーキュリー、ヴィーナス、マーズ、ジュピター、サターンってやつは、どうやら惑わせる存在らしい。
本書には、「アノマリ」という用語がちりばめられる。つまり、記述の多くは変則性を語っているわけだ。ここで主役を演じるのは、太陽の重力に幽閉された星々。空を眺めて、最も目立つものが太陽、次に月、そして惑星諸君。太陽の道筋に黄道十二宮を見いだして形而上学的な意味を与え、そこに神を見ようとする。古代ギリシア人は、太陽の影を落とすグノーモンという図形に取り憑かれ、直角三角形を崇めた。火星、水星、木星、金星、土星の五惑星の軌道にもそれぞれに個性があり、プトレマイオスはそれぞれに詳細なアノマリ表を提示する。ここに内惑星と外惑星の傾向が見てとれるとはいえ、あまりに個性があり、あまりに複雑。彼は、理論体系を構築することに惑わされるあまり、距離といった概念にあまり関心がなかったと見える。
プトレマイオスの体系で、何よりも崇められる概念が真円であり、楕円軌道は真円の多重構造で無理やり当て嵌める。この思考方法で、惑星運動の順行と逆行という摩訶不思議な現象にも、とりあえず説明がつく。大きな円である従円とその円周上を動く点を中心点とした周転円という見事な古典モデル。そして、円に内接する辺の考察に没頭し、ここにプトレマイオスの定理(トレミーの定理)を垣間見る。その執念には凄まじいものがあり、その緻密さに感動すら覚える。プトレマイオスは真円に神を見ようとしたのか。楕円の作図法は、知っていれば単純だが、これを最初に考えた人は、実は最も偉大な幾何学者かもしれない。
ちなみに、こうした作図法を近似法として眺めれば、コンピュータゲームに登場するキャラクタを表現する方法などに似ている。複雑な物体を表現する時、楕円を重ねて境界線を作ったりと。真円だけで構成できれば、処理速度も上がるだろう...

さらに、地球を中心点に置くと、惑星の軌道が微妙にずれるので、その補正に「離心円」"Equant(エカント)" という概念を導入している。離心円とは、地球からちょっと離れた点を中心点とする円周上を太陽が運動するとし、エカントとは、その中心点から地球と反対の位置にある点のこと。離心円という概念を考案したのはヒッパルコスであろうか。エカントの導入は、地球を絶対的な地位から少し脱落させていると言えよう。どうやらプトレマイオスにして地球は中心ではないらしい。
自ら輝ける恒星は神に看取られているのかは知らん。他の光でしか輝くことのできない惑星や衛星は悪魔に看取られているのかは知らん。太陽、地球、月の大きさと距離が、ちょうど皆既日食が起こるように絶妙に配置したのは誰か?などと製造責任を問う気もない。ただ、人間ってやつが天空に翻弄されてきた存在で、これからもそうあり続けるであろうことは確かなようである。
また、物理量の観点から眺めると、人間が自己存在を最も認識できる量が重力であることを感じさせる。重力に支配された思考回路では、宙に浮いた存在を想像しにくい。そこで、天空の星々を固定するために支えているものは?と問うた時、アリストテレスはエーテルなるものを提唱した。星々を構成するものが、四元素、すなわち、火、空気、水、土であるならば、宇宙空間を構成するものは第五元素のエーテルで、空間はこいつに満たされているというわけである。プトレマイオスも、このエーテル説を継承している。
だが、歴史はエーテルの存在を否定した。そして今、最先端科学は真空中にも何かが存在することを告げている。巷を騒がせているダークマターやら、ダークエネルギーやらは、実はエーテルのことですか?プトレマイオス大先生!?

2019-03-03

"インフレーション宇宙論" 佐藤勝彦 著

おいらが美少年と呼ばれていた中高生時代、ブルーバックス教に嵌っていた記憶がかすかに蘇る。なんといっても分かった気にさせてくれるのがいい。そして今、行き詰まった設計作業を尻目に、初心者向けの宇宙論で気分転換といこう...

宇宙創生を記述する有力な仮説と目される「インフレーション理論」は、1980年代のはじめ、佐藤勝彦氏とアラン・グース氏によって提唱された。数学的に表現するならば「指数関数的膨張モデル」といった具合になるが、インフレーションの名はグースの命名センスによるものらしい。
この理論の前にも有力視された宇宙モデルがあった。「ビッグバン理論」がそれである。しかしながら、平坦性問題や地平線問題、あるいはモノポールの発生となると説明がつかない。宇宙の創生モデルを構築するには、どうしても特異点が避けられないのである。
ここで言う特異点とは、密度の無限大や温度の無限大などで物理法則が破綻することを意味する。宇宙が膨張しているということは、時間を逆に辿ると、空間がどんどん小さくなり、エネルギー密度がどんどん高くなり、宇宙の始まりを点とした場合、ついにはエネルギー密度が無限大になってしまう。
つまりは、物理法則を超越した概念を必要とし、キリスト教の言う、神の一撃!ってやつに縋るしかない。もちろん科学者の立場としては許しがたいことだ。
本書は、ビッグバン理論で説明できない難題に対して、「超大統一理論」が重要な鍵になることを物語ってくれる。物理学には、もともと四つの力を記述する理論がある。質量を持つものの間で働く重力、電荷を持つものの間で働く電磁気力、クォークの結合や原子核を形成する強い力、中性子のベータ崩壊などを引き起こす弱い力と。これらの力の性質があまりにも違いすぎれば、統一理論にも段階が生じる。電磁気力と弱い力は、電弱統一理論としてすでに完成。あとは、これに強い力を加えた大統一理論、さらに、重力を加えた超統一理論を待つばかり...
注目したいのは、宇宙の進化の過程において、生物の進化と同じように、物理法則が枝分かれしていったという説である。現在、観測される加速膨張は、「第2のインフレーション」と呼ばれている。
まず、宇宙の始まりが点だとすれば、その点はどこから来たのか。それはトンネル効果で説明される。トンネル効果とは、電子が本来通過できないはずのところ、すなわちポテンシャル障壁を、ある確率で通過してしまう現象である。どこか別の空間から、電子が突然わいて出たってか。となると、一つを意味するユニバースという宇宙像も、マルチバースへと想像が膨らむ。ブラックホールが別空間の入口で、ブラックホールの数だけ宇宙があるってか。
次に、点から次元へ拡大していったとすれば、人間の認識能力が「三次元 + 時間」に幽閉されるのは、宇宙年齢からすると、かなり初期の段階で DNA の分子構造が形成されたということであろうか。そして、人類の住む宇宙の次元はさらに多様化し、物理法則も多様化していくのだろうか。超ひも理論は、10次元や11次元を唱えれば宇宙が説明できるとか言っている。
ただ、法則までもがあまりに多様化してしまえば、それは法則と呼べるものなのだろうか。いずれ、人間社会のように法則も役に立たなくなるってか。人間の認識能力が、ある物理法則の系に幽閉されていることは、幸せな空間を生きているということかもしれない。宇宙の未来像がいくらでも想像できるのだから。少なくとも、光速が絶対的な物理量として君臨している間は。そして、人間の目で真の光が見えた時、宇宙の正体を見るであろう。そこで神を見るのか、悪魔を見るのかは知らんが...

ところで、物理学には、なんだか分からないけど、あると便利な概念が数多ある。数学が編み出したマイナスやゼロといった概念は、もともとは仮想的な量であった。計算する上で、実に都合にいい便宜上の存在だったのである。やがて、マイナスは家計の赤字などと結びつき、ゼロは財産の果敢なさなどと結びついて、すっかり実感できる物理量となった。日常生活では自然数だけで十分であったはずが、引き算や割り算をやれば整数や有理数が必要となり、実数がなければ建築物も建てられない。演算によって系が閉じられないという現象が数の概念を拡げていき、物理量に拡大解釈をもたらしてきたのである。
人間が認識する上で最も存在感を示す量といえば、時間と空間であろう。こいつらときたら、自己存在を強烈に意識させやがる。カントはアプリオリと呼んで特別な量として論じ、物理学ではセットにして時空という量で扱う。古代人は星々を眺めながら自己認識を中心に、人類の住む宇宙とはどんな存在か?そこに存在する天体や生命体はどうやって誕生したのか?宇宙の誕生と終焉はいつか?などと問い、様々な宇宙モデルを描いてきた。近代物理学はこの伝統を受け継ぎ、今なお宇宙モデルをあれこれ想像しているところである。だからといって、物質界で説明ができないとなれば反物質なるものを登場させ、まったく何も存在しないはずの真空にも僅かなエネルギーがあると主張しては宇宙を膨張させ、おまけに、虚時間を想定しては宇宙創生前の時間までも扱えってしまうとは。プラスの現象にはマイナスの概念を仮定して相殺してしまえば、エネルギー保存則に矛盾せず説明できるという寸法よ。観測結果に合わせて概念を生み出しているとすれば、それは科学なのだろうか...

1. 真空の正体
力の統一理論では、「真空の相転移」という概念があるそうな。相転移とは、水が氷になるように、物質の性質(相)がある条件で突然変わること。生命の進化では、突然変異といったものがあるが、真空ではこれに相当するものらしい。宇宙の初期段階において、温度が急激に下がったことで真空の相転移が起こり、空間自体の性質が変化したという。
すると、真空での力の伝わり方も変わっていく。そのような相転移が次々に起こり、重力が枝分かれし、強い力が枝分かれし、電磁気力と弱い力が枝分かれしていったとか。
例えば、水は温度が下がると氷になる。水の状態では、分子はどの方向にも自由に動き回ることができるが、氷の状態では、格子状の結晶となって方向性を持つようになる。こうした相転移で対称性の破れが生じると、「潜熱」という熱エネルギーが生じる。こうした現象が、インフレーション理論では鍵になるという。相転移の事例として、超電導を紹介してくれる。
ところで、真空とは、特別な空間のようである。真空とは、まったく空っぽな状態を言うはずだが、量子力学ではそうは考えない。粒子と反粒子がペアで存在し、普段は相殺してエネルギー的には何も無いような状態である。
例えば、電子には陽電子がセットになって対生成と対消滅を繰り返し、ゆらぎとなって現れるといった具合。おまけに、こんな法則を持ち出されては...
「真空のエネルギーは不思議なことに、宇宙がどんなに大きく膨張しても、密度が小さくなることがないのです。」
真空のエネルギー密度が小さくならないとするならば、空間が広がると、真空中のポテンシャルエネルギーは増大してしまうではないか。宇宙ってやつは、真空にこそ最大の潜在的な熱エネルギーを溜め込んでいるというのか。そして、それが無から明るみになった時、宇宙が真の正体を現すというのか。通常は、無の状態で沈黙が守られていて、滅多に正体をお見せすることはないようだけど。真空に潜むダークマターってやつは、神か?それとも悪魔か?いまや真空の定義を再定義しなくては...
「宇宙は、真空のエネルギーが高い状態で誕生しました。その直後、10のマイナス44乗秒後に、最初の相転移によって重力がほかの三つの力と枝分かれをします。いわゆるインフレーションは、そのあと10のマイナス36乗秒後頃、強い力が残りの二つの力と枝分かれをする相転移のときに起こりました。真空のエネルギーによって急激な加速膨張が起こり、10のマイナス35乗秒からマイナス34乗秒というほんのわずかな時間で、宇宙は急激に大きくなりました。その規模は、10の43乗倍とされています。」

2. 人間原理
宇宙法則を知れば知るほど、「人間原理」なんてものを想像せずにはいられない。そう、人間都合のデザイン論である。
古代の戦争では、皆既日食という現象が歴史を変えてきた。月の大きさと距離、太陽の大きさと距離、これらの絶妙な配置がなければ、皆既日食なんて怪奇な現象は起こらない。月の軌道のおかげで地軸の傾きを安定させ、季節の周期を安定させ、生命の誕生する可能性を示唆する。地球の絶妙な大きさと重力が生命体のバランス維持に寄与する。こうした偶然性は何を意味するのか?誰かが意図したのか?
おまけに、宇宙法則には、様々な物理定数が介在する。光速、重力定数、プランク定数、ボルツマン定数... これらの数値を眺めていると、人間が誕生するように調整されているかのように思えてくる。電磁気力の強度法則をちょいと変えるだけでも、生命は発生しないだろう。α粒子の結合力をちょいと弱めるだけでも、トリプルアルファ反応のような核融合は起こらないだろう。
物理法則には、人間が宇宙の観測者という特別な存在であると信じるに事欠かない。宗教は、神は人間を創造するように宇宙を設計なされた... と唱えるが、科学も負けじと、なかなかの宗教ぶりを発揮する。人間が生きるには、信念や信仰を必要とする。知的生命体に概して備わる性癖なのかは知らんが。精神という能力を獲得し、かつそれを実感でき、しかもその正体を知らないとなれば、それも致し方あるまい。すべての現象をいかようにも解釈できるおめでたい存在となれば、やはり神の仕業か。そして今、巷を騒がせているダークエネルギーは、人間にとって都合のよい量なのだろうか。おそらく究極の物理法則が編み出された時、その方程式の中に定数といった数値は現れないのであろう...
「もしも、宇宙の創生から進化までがすべて物理学の法則にもとづいて決められているならば、宇宙創造において神が自分の意図で何かを選択する余地はない。しかし、もしも神が物理学を超えたものであるならば、神に選択の余地はある。」

3. ポテンシャルエネルギーって...
ところで、学生時代から、なんとなく腑に落ちない物理量がある。ポテンシャルエネルギーってなんだ?人間にも潜在的な能力があるようだ。まだ覚醒していないだけで...
人間が自己存在を最も認識できる物理量といえば、重力であろう。重力を前提としたポテンシャルエネルギーは、位置エネルギーと呼ばれる。物体は高い位置にあるほど、落下した場合に生じる力が大きい。ただ、落下しなければ、何も生じない。
では、真空のポテンシャルエネルギーってなんだ?どこに落下するというのか?それがブラックホールなのか?ブラックホールに出会わなければ、エネルギーは眠ったままなのか?そのまだ目覚めていない物質が、巷を騒がせているダークマターってやつなのか?もし仮に、真空中に膨張すれば働くであろうエネルギーが潜在的に存在するとすれば、それは真空と呼べるものなのか?もはや、真空という用語を再定義しなければ... などと言えば、エーテル説に回帰し、潜在力とともに地獄にでも落ちるさ...