2011-07-31

"ローマ建国史(上)" リーウィウス 著

リウィウスのローマ建国伝説は142巻にも及ぶという。しかし、その多くは失われ、岩波さんの「ローマ建国史(上/中/下)」は、現存部分の1巻から5巻にあたるという。本書は更に絞り込まれて、1, 2巻だけ。上巻が刊行されたのが2007年、全3冊が出揃ったら購入しようと待ち構えていたところ、完成することなく翻訳者鈴木一州氏は亡くなられたそうな。残念!とりあえず、上巻だけでも読んでおくとしよう。
それにしても、リウィウスの記録の中で、共和政時代が集中的に失われる理由が分からん。陰謀やスキャンダルが暴露され、政治的な意図で闇に葬られたのだろうか?などと想像してしまうのは、後にタキトゥスがローマ帝国時代の腐敗を暴露しているからである。おまけに、タキトゥスの記述も三分の一ほど失われている。これらは単なる偶然であろうか?
「ローマ建国史」は、歴史の欠片の中の中途半端な作品、まさしく未完成の大作と言えよう。本書の最大の功績は、人生を完成させることは不可能だということを知らしめたことであろうか。

最初、用語に少々違和感があって混乱してしまう。慣れればどうってことはないのだけど...
執政官(コーンスル)は「執政委員」、独裁官(ディクタートル)は「独裁委員」と記される。特に気になるのが、パトレースやパトリキィーを「父たち」としているところであろうか。長老のようなイメージを示しているのだろうが、元老院から上流階級や貴族階級まで、すべてひっくるめているようで悩ましい。一方、「平民トリブーヌス」は、平民と権力者の仲介役でありながら、権力寄りからだんだん平民寄りになっていき、護民官に近づく感じがうまいこと表れている。
...こんな具合に、ちょっと想像力を働かさないと解釈が難しいのだが、それはそれで思考が試せておもろい。
ローマ建国史は、あまりに太古ゆえに、ギリシャ神話の延長から始まる。神話が歴史書に変わりつつある時代とでも言おうか。そもそも、ギリシャ神話やローマ神話が事実を基に大袈裟に演出した物語なのかもしれない。まず、トロイア戦争で敗走したトロイア人の末裔がイタリアに流れ着き、そこを居住地とする。その子孫の娘を神マルス(ギリシャ神話の軍神アレースにあたる)が犯し、できた子供が伝説の初代ローマ王ロームルスとなる。よって、古代ローマ人は強姦の神マルスを父と呼ぶ。ローマ帝国の腐敗はこの時すでに運命づけられていたのかもしれない。

本書は、紀元前8世紀から始まる七代に渡る王政時代と、それに続く共和政時代の初期、紀元前5世紀頃までを物語る。
初代王ロームルスは尊厳的な人物とされるだけあって、国家安泰のために周辺地域の人々を寛大に受け入れ、元老院などの制度を創設した。当初から、王位に就くためには元老院の承認を必要とする政治システムを考案していたのである。戦で勢力を拡大すれば、次の王は平穏な統治を行い、精神の支えとなる神霊的な制度を整備し、秩序を維持するための階級制度を設ける。また、常に外敵に曝され、それを撃退するたびに植民市に加え、人口が増加していく。戦で苦しむ時期が長く続くと、民衆は平和を求める。戦をするにしても、儀礼的なものがなければ民衆も納得しなくなる。こうした思想的流れは共和政を予感させる。王位が継承されていくうちに横暴な振る舞いが目立つようになると、やがて元老院は機能しなくなり、政治に収賄や陰謀が結びつく。紀元前5世紀の入り口になると、腐敗した王政は終焉を迎える。
世襲制の弊害に気づいた有力者たちは、革命を起こして王族を追放。そして、二人の執政官による共和政が始まる。その任期は一年に制限された。再選はあるものの...一族がその地位を独占した時期があるものの...絶対的君主が存在しなければ、秩序を維持するために裁断を下すための新たな基準が必要となる。リウィウスは、自由を実践するには厳格な法が必要だとしている。
平穏な時代では、二人の執政官のパワーバランスの下で統治されるが、国家的危機を迎えれば強力な指導力の必要性を認め、執政官の一人を独裁官に任命するシステムを編み出す。また、平民を虐げれば暴動を起こし、権力者も平民を無視できなくなる。そして、平民を救済するための護民官や平民会といったシステムが整備されていく。
...こうして眺めていると、王政や共和政の反省から権力均衡の必要性に目覚めていった様子がうかがえる。法治国家とは、その根幹に権力をいかに制限するかという仕組みにかかっているというわけか。現在においても、情報の透明性が強調されるのは、権力不均衡に対する疑いの目としてであろう。民主主義の起源は、権力者の権限が制限され、任期が規定された執政官の時代にあるというのは、言い過ぎだろうか?
また、必要とされる政治家の性質は、平時と非常時でまるっきり違うことも浮き彫りにする。現在においても、経済危機や国難に直面すれば即座に対応できる強烈な指導者を求める。だが、同時に傲慢さも兼ね備えていて鬱陶しい。世論は、政治家にどんな功績があろうとも腐敗を嫌うもので、移り気も早い。となれば、時代に合った政治家がその役割を終えた時に速やかに去るのが、これまた政治家の使命であろう。だが、脂ぎった輩ほど政界の去り方を知らずに暗躍する。
本書には、政治家や法律や政治システムの役割、あるいは社会制度の源泉のようなものが語られている。そして、既にこの時代にあって、自由と平等の意味を必死に模索しているように映る。「すべての道はローマに通ず」とはよく言ったものだ。

1. ローマ人の子孫トロイア人
アカイア人はトロイア市占領後トロイア人を赦さなかったが、アェネーアース(アイネイアース)とアンテーノルの2人だけは友好関係の誼と、講和とヘレナ返還を主張したことから命を救われたという。
アンテーノルは、ハドリア(アドリア)海の入江に着き、アルペース山地(アルプス)との間のエウガネイー人を追い出して、その地に落ち着いた。
一方、アェネーアースは、マケドニアに逃れた後、シキリア島(シチリア)を経由してイタリア半島に渡る。そして、現地のラティーヌス王の客友となり、王の娘ラーウィーニアと結婚する。彼は新たな都市を建て、妻の名にちなんでラーウィーニウム(ラティウム)と名付けた。これがラテン人の起源とされる。この地でアェネーアースの息子アスカニウスが誕生する。
ところが、ルトゥリー人を率いるトゥルヌス王は以前からラーウィーニアと婚約していた。そして、アェネーアースと敵対する。ルトゥリー人が戦を仕掛けてくると、それを撃退するが、ラティーヌス王は戦死する。撃退されたトゥルヌス王は、エトルーリア人を率いるメゼンティウス王の勢力下に入る。エトルーリア人は、アルーペス山地からシキリア地峡に至るまで、全イタリアを支配する軍勢を率いていた。アェネーアースはエトールシア人を撃退して勢力を拡大するが戦死し、少年アスカニウスが王位を継承する。彼は、既に栄えた都市ラーウィーニウムを母親か継母かに残し、アルバ山の麓に新たな都市を建て、アルバ・ロンガと名付けたという。

2. アルバ王族と都市ローマの誕生
アスカニウスの後は、その息子シルウィウスが継承する。後は、その息子アェネーアース・シルウィウス、またその息子ラティーヌス・シルウィウスと「シルウィウス」の添え字が使われ、アルバ、アテュス、カピュス、カペトゥス、ティベリーヌス(ティベリス河の語源)、アグリッパ、ロームルス(アルディウス)、アウェンティーヌス、プロカと続く。そして、プロカの息子ヌミトルとアムーリウスで継承を争う。
弟アムーリウスは兄ヌミトルを退けヌミトルの息子を殺害する。なぜヌミトル自身の命が助けられたのかは分からん。ヌミトルの娘レア・シルウィアは、ウェスタ女神の女祭司となり純潔の掟に服す。しかし、掟は破られ、彼女は神マルスに犯されて双子を産む。ローマ建国の双子ロームルスとレムスである。素性不明の子を神の責任にして弁明したのかは知らんが、女祭司レア・シルウィアは投獄される。アムーリウス王は、双子をティベリス河に流すように命じる。河に流された双子は牝狼の乳を飲み生き延びる。それをファウストゥルスが拾い、妻ラーレンティアに預けて育てさせた。
双子が成年になると、野獣のように盗賊を襲い、分捕った物を牧人に分け与える。この頃、パラーティウム山(パラティヌス)でルペルカーリア祭の原形の祭りがあったという。リュカェウス山のパーン(後のローマの神イヌウス)を崇める若者たちが、裸体で戯れて走るのだそうな。この行事でレムスが捕まりアムーリウス王に引き渡される。当初からファウストゥルスには、双子が王の子孫という予感があったという。この機会に真相をロームルスに明かす。そして、アムーリウス王への策謀を張りめぐらし、ロームルスたちは王を討ち取る。
ロームルスは祖父ヌミトルに育ってきたいきさつを明かし、アルバ市の支配権をヌミトルに委ねた。ロームルスとレムスは、自分たちが捨てられ、育てられた土地に都市を建設したいと熱望する。だが、二人が主張する建設の場所が違う。ロームルスはパラーティウム山だと言い、レムスはアウェンティーヌス山だと言う。双子なので年齢から序列をつけることができない。そこで、神々の鳥の予兆で決定することにした。先にレムスの前に鳥の予兆が到来するが、すぐさまロームルスの前に2倍の鳥が現れた。早いが勝ちか?多いが勝ちか?と言い争っているうちに殺傷に至りレムスが死ぬ。ロームルスは単独の支配権を手中にし、新都市にローマと名付けたという。

3. 初代王ロームルス
ロームルスは100名からなる元老院を創設する。元老院議員は元来氏族の長だという。その尊称がパトレースで、その子孫を意味するパトリキイーは、長老の末裔という意味だそうな。また、広大な土地を養うために、素性不明な者から身分卑しい者まで多くの人々を受け入れたという。自由人と奴隷を区別しなかったために、新境地に夢を描いて来る者が群れをなしてやってくる。しかし、女性が少なく民族が絶えようとしていた。ロームルスと元老院は各都市に使節を送り親善と通婚を求めるが、ローマ人の誇りの高さが近隣の都市を蔑み、交渉はうまくいかない。また、近隣国は新興国の急成長を望まない。
ついにロームルスは怒り、実力行使にでる。馬のネプトゥーヌスを祭る催しをコーンスアーリア祭と呼んで、最寄りのカェニーナ人、クルストゥメリア人、アンテムナェ人を集める。また、サビーニー人を招待して、子供や妻を連れて大勢でやってくると、ローマの若者たちが乙女を奪う。乙女の親たちは悲痛な思いで逃げ去る。
憤慨した肉親たちは、サビーニー王ティトゥス・タティウスのもとへ集まった。カェニーナ人、クルストゥメリア人、アンテムナェ人はローマを攻めるが、あえなく撃退され植民市とされる。
だが、サビーニー人は簡単にはいかない。ローマの砦を守るスプリウス・タルペイユスの娘タルペイヤを籠絡して、武装兵を引き入れさせた。ローマ軍は砦を奪還すべく進軍する。そして、サビーニー勢のメッティウス・クルティウスと、ローマ勢のホスティウス・ホスティーリウスが対峙。地形不利のローマ軍が一時退却するが、反撃に出てサビーニー勢を撃退する。拉致された女性たちは非道の血に見兼ねて、サビーニー側の父親たちやローマ側の夫たちに戦を止めるように訴え、通婚やむなしと説得する。そして、和解が成立し、サビーニー人も共同体ローマに組み込まれた。サビーニー人の古市クレースは、ロームルスとティトゥス・タティウスの二人の王で共同統治された。
ところで、ロームルスはあっけない最期を遂げる。査察のため軍隊をカプラ沼畔の野に呼集した時、突然嵐が起こり、轟然たる雷鳴とともに厚い雲に囲まれ、そのまま地上から消え去る。王を失った市民たちは動揺する。そこに元老院から一目置かれるプロクルス・ユリウスが、朝方ロームルスが天空から舞い降りて自分に告げたことを語る。ローマが世界の首長であることと、その栄光を子孫に伝えよと。そして、再び天空へ去ったと。すると、ロームルスの不死が信じられ、市民の信頼を得たという。これは暗殺か?
「これを告げる人物がいかに厚い信頼を得たか、また、平民と兵士の間でロームルスの不死が信じられ、彼らのロームルス追慕がどれほど宥められたか、驚くばかりだった。」
んー!実に微妙な言い回しだ。

4. ヌマ・ポンピリウス
サビーニー人の町クレースに住むヌマ・ポンピリウスは、その公正と敬虔が知れ渡り、神の法と人の法に通じていたという。彼の学芸の師が知られていないので、サモス島のピュタゴラスという誤った説もあったそうな。サビーニー人ということで元老院が拒むかと思えば、ヌマに優る人物が見当たらず全員一致でローマ王に決議したという。ヌマは都市を法と道義を以て建て直す。そして、ヤーヌス神殿を戦争と平和のシンボルとし、扉が開いていると戦争中で、閉じていると平和を意味することにした。ちなみに、ヌマの治世後は、二度扉が閉ざされただけだそうな。一度目は第一次ポエニ戦争が終わった時、二度目はアクティウム海戦で最高指揮官カエサル・アウグストゥス(オクタウィアヌス)が勝利した時。
物知らずの民衆に秩序を講じるには、畏敬の念を与えなければならないという。それも神秘的な方策が効果的だと。まず、神聖なる暦を改正した。一年を月の運行に合わせて12か月とし、各月を30日とする。太陽の一巡で完結する一年に11日不足する分を、閏月を挿入して調整する。次に、神々の祀るための祭司職を創設した。当時は祭式をすべて王が行っていたが、王が戦地に赴いた時に神事がなおざりにならないように、主神ユッピテル(ジュピター)やマルス神やクィリーヌス神のために専属祭司を設けた。これで民衆は日常的に神事を行うことができ、人間行動に神意が宿ると教え、法則と刑罰の恐怖の代わりに信義と契約の心を広めたという。王も自ら進んで身を正した。彼の最大の業績は、在位期間を通して平和が維持されたことだという。ロームルスは戦争によって都市を拡大し、ヌマは平和によって都市を発展させたのだった。

5. トゥッルス・ホスティーリウス
ヌマの死後、元老院はサビーニー人との合戦で名高いホスティーリウスの孫トゥッルス・ホスティーリウスを王に決議した。この王はロームルスよりも勇猛で、民衆は閑暇のために衰弱すると考え、戦を起こす機会を随所に求めたという。その頃、ちょうどローマとアルバでいざこざがあった。アルバ市はガーイウス・クルイリウスが支配していた。ただ、どちらもトロイア人の末裔で、ラーウィーニウム市からアルバ市が分かれ、ローマ人はアルバ王族の子孫である。なんでもいいから戦の口実がほしかったのである。この戦でアルバ王クルイリウスが戦死。アルバ人はメッティウス・フーフェーティウスを指導者に選ぶ。両軍が対峙している時、それぞれの軍に三つ子の兄弟がいたという。ホラーティウス三兄弟とクーリアーティウス三兄弟。どちらがローマ人かアルバ人かの定説がないらしいが、ホラーティウスがローマ人というのが有力だという。この兄弟同士の決闘で勝敗を決し、平和裡に処理するという盟約が結ばれる。そして、ローマが勝利する。だが、わずか3兄弟に都市の運命を委ねたメッティウス・フーフェーティウスの決断に市民は憤慨した。とはいっても、ローマ人と公然と戦うほどの戦力がない。そこで、ローマの植民市フィーデーナェ人とウェイイー人をそそのかして、アルバ市も続くと言って離反させる。しかし、両軍は撃退され、盟約を破った罪をメッティウスにかぶせて処刑された。結局、トゥッルス王にアルバ市を破壊する口実を与えた結果となる。王はアルバ人の重要な氏族を元老院に迎える。その中に、ガイウス・ユリウス・カエサルを輩出した名門ユーリウス氏族も含まれるらしい。
トゥッルスは勢いに乗ってサビーニー人に戦を仕掛ける。だが、サビーニー人はロームルス時代に結んだ休戦協定に忠実だった。トゥッルスがサビーニー領内に侵入すると変異が起こる。アルバ山から天の声が降りてきたかのように石が降り、風が吹き荒れ、疫病が流行る。だが、戦好きの王は懲りない。民衆は、ヌマ王治下の平穏な状態に回帰することを望んでいた。トゥッルスはヌマの記録を紐解き、ユッピテル・エーリキウス神のために定められた秘密の犠牲祭儀を見出すと、その執行に没頭したという。だが、祭儀の非違に怒ったユッピテル神に雷で撃たれ焼け死ぬ。

6. アンクス・マルキウス
次にアンクス・マルキウス王が承認された。彼はヌマ・ポンピリウスの孫で、公的祭祀はヌマ時代の制定に戻すのが良いと考えた。近隣都市も祖父の流儀と秩序に復帰することを期待する。しかし、トゥッルス時代に盟約を結ばされたラティウム人はローマ領域に侵入してきた。ヌマの血筋だから、温厚で拒否できないだろうと高を括ったのである。アンクス王は中庸を得ていて、ヌマとロームルスの双方の才覚を持ち合わせていた。今は、ヌマ王よりもトゥッルス王にふさわしい時期だと判断した。ただ、戦をするにしても何らかの儀礼に従う。大義名分がなければ市民は戦に同意しないだろうと考えたのだろう。やがて勢力は海に達し、ティベリス河口にオスティア市が建設され、その辺りに塩田がつくられた。
この時代、野望に満ちた巨富のルクモーという人物がローマに移り住んだという。彼の父はコリントゥス人で、タルクィニイー市に住み着いたが、外来者の血筋はなかなか名誉を得ることができなかった。上流階級の女性タナクィルを妻に迎えたが、妻はエトルーリア人から夫がよそ者扱いされて蔑まれるのに我慢ならず、夫を説得してローマへ移住したのだった。夫婦が二輪車でローマへ移動中、翼を広げた鷹がゆっくりと舞い降りて帽子を奪う。そして、けたたましく鳴きながら上空に飛び、再び舞い降りて帽子を元の頭に戻し、天高く飛び去ったという。これを妻タナクィルは予兆が遣わされたと信じ、歓喜したといわれる。ここから夫婦は野望に目覚める。
ルクモーは、ローマではルーキウス・タルクィニウス・プリースクスと名乗る。新参者と莫大な富がローマ人の目を引く。彼も、できるだけの多くの人と丁重に付き合い、その評判は王宮にまで届く。そして、短期間で王の親密な友人となり、王の遺言で王の子供たちの後見人に指名される。

7. タルクィニウス・プリースクス
アンクス王が亡くなると、王の息子たちは成年に近かった。タルクィニウス(ルクモー)は焦って、王選出の民会を早く開催するよう元老院に迫る。その直前に王の息子たちを狩りに出し、あちこちを説きまわって王権を求めた。ローマで平民の心を惹きつけるための弁論を行ったのは、タルクィニウスが最初だったという。元老院はタルクィニウス・プリースクスを王に決議した。
最初の戦では、ラティウム人のアピオラェの町を奪い、大量の戦利品を持ち帰って豪華かつ周到に競技を催した。これが後に恒例行事となってローマの競技や大競技になったという。次に、石造りの防壁で都市を囲もうとしたが、サビーニー人がその着工を妨害した。当初、勝敗が定まらず両軍とも多大な損害を被ったが、やがてローマが勝利する。このあたりから、国王の死と陰謀が明るみになっていく。後にタルクィニウスは先王の息子たちによって暗殺されるのだった。

8. セルウィウス・トゥッリウス
タルクィニウス王の時代、王宮に不可解な変異があったという。睡眠中の少年セルウィウス・トゥッリウスの頭から大勢の見る前で炎が昇った。この少年は卑しい境遇であったが、王の妻タナクィルが育てていた。以来、王家の光と信じて実子として教育し、王の娘婿とした。
一方、アンクスの息子2人は、後見人のタルクィニウスの策謀のために王権から排除されたことに憤慨していた。タルクィニウスの後、奴隷の子が王位に就くとなれば余計に激怒する。そして、タルクィニウス暗殺が企てられ、牧人の屈強な二人が王宮に忍び入り、斧を王の頭に投げつけて殺した。
しかし、妻タナクィルが策謀を図り王の無事を装って、養子セルウィウスに王の衣服をまとわせた。やがて王宮に悲しみが広まり大声で泣く者がいれば、事態は明らかになる。セルウィウスは精強の護衛隊で身を固め、元老院議員の同意を得ただけで王位に就いた。ローマで初めて人民の決議を経ずに王となったという。この王は、公的立場よりも私的立場で地位を固める。アンクスの子らがタルクィニウスに敵意を抱いたように、タルクィニウスの子らが自分に敵意を抱かせないように娘を娶らせる。それでも、反目の運命は変えられなかったのだが。
当面の安定状態を保つためには外敵に向わせるのがいい。都合のいいことにウェイイー人との休戦条約が期限切れとなり、戦を仕掛けて王の武勇を知らしめる。次に、平和の事業が着手された。地位と財産による序列を明確にし、諸身分を創設する。そして、市民登録を制定して、貨幣の所有に応じて義務が課せられた。百人隊や軍隊の構成も所有に応じて、所持する武器でランク付けし、投票権にも重みがつけられた。未登録者に対する法も提案し、逮捕と死刑の威嚇で市民登録を促進する。人口が増加すれば市域も拡張しなければならない。セルウィウスは、周辺の丘を加えて土塁と溝と市壁で市域を囲み、ポーメーリウムを前面に出す。ポーメーリウムとは、聖なる境界線のようなものらしい。
ところで、既に王位に就いているとはいえ、民会決議を得ていないという噂は絶えない。そこで、敵から獲得した土地を個人に配分して、あらかじめ民衆の支持を得た上で、決議にかけ正式な王を宣言する。しかし、前王タルクィニウスの息子ルーキウス・タルクィニウスが反発して野心を燃やす。傲慢なルーキウスには、アッルーンス・タルクィニウスという温和な性格の弟がいた。2人には、セルウィウス王の娘2人のトゥッリアが嫁いでいた。この姉妹も正反対の性格。弟に嫁いだ方のトゥッリアは気性の激しい女性で、夫の甲斐性なしに悩み兄ルーキウスに心を寄せる。気性の激しい二人が結び付くと謀略が始まる。ルーキウスと妹トゥッリアは葬儀を営んで結婚したとあるが、アッルーンスと姉トゥッリアは殺害されたようだ。ルーキウスは新妻の激情に徴発され、元老院を召集してセルウィウス非難を展開する。そこにかけつけたセルウィウスは唖然となる。ルーキウスの方が年齢も体力も剛健であるので、セルウィウスの体を放り投げ半死半生の目に会わせる。王の側近たちも逃げ去り、王自身は逃げる途中、追跡者に殺された。

9. タルクィニウス・スペルブス
そのままルーキウス・タルクィニウスが王位に就く。その振る舞いから傲慢(スペルブス)の添え名がついて、タルクィニウス・スペルブスと呼ばれる。娘婿でありながら前王の埋葬を禁じたり、前王支持者たちを皆殺しにする。おまけに、人民の決議もなく元老院の承諾もなく王位に就いた。この王は、威圧以外に権威を主張するものがなく、恐怖で支配するしかない。市民の身分に関わる訴訟の審理を、王が一人で担い、疑わしい者は死刑、追放、財産没収とやりたい放題。こうなると、元老院はまったく機能しない。
国内で味方を期待できないとなると異邦の力を味方にして、特にラティウム人の上流階級と婚姻関係を結ぶ。トゥースクルム市のオクターウィウス・マーミリウスはラティウム人の主導的な人物で、ウリクセースと女神キルケーの末裔。そのマーミリウスに娘を嫁がせる。ちなみに、ウリクセースとは、南イタリアのギリシャ方言でオデュッセウスのことらしい。オクターウィウスって、後のアウグストゥスの血筋と関係あるのか?よく分からん。
スペルブス王は傲慢だが、戦にかけては先王たちに匹敵したという。ガビイー市を強引に攻めた時に手を焼き、戦を放棄したかのように装い計略を用いる。王の末子セクストゥスをガビイー市に派遣し、父親の無慈悲を訴えて逃れてきたことにする。ガビイー人は彼を丁重に受け入れ、次第に信用されたセクストゥスは指揮官に選ばれる。しかも、戦利品を気前よく分配して大いに人気を博した。機が熟すとスペルブス王の軍を招き入れ、ガビイー人の多くは殺害されるか亡命を強いられた。
アルデア市を包囲した時、セクストゥスの陣中で酒盛りをする。その時、めいめいが妻の自慢話を大袈裟に語る。そして、ルーキウス・タルクィニウス・コッラーティーヌスが、自分の妻ルクレーティアが最高であると主張すると、一同でコッラーティア市へ見物に行く。ルクレーティアを見たセクストゥスは情欲を燃やし、コッラーティーヌスの留守をうかがって強姦する。妻ルクレーティアは、その事を知らせようとアルデア市にいる夫を呼び寄せる。夫コッラーティーヌスは、友人のルーキウス・ユーニウス・ブルートゥスと共にやってきた。ブルートゥスは、王の姉妹タルクィニアの息子で、王家に兄弟を殺されて憎悪を抱いていた。彼らが復讐を誓うと、ルクレーティアは短剣で自刃する。ブルートゥスは、前王セルウィウスの殺害などスペルブス王の非道を訴えて大衆を動かし、王族の追放が決議される。戦の途中だった王は異例の事態に愕然とし、鎮圧のためにローマに戻るが、市門は閉ざされ追放が宣告された。スペルブスは、エトルーリア人のカェレ市へ亡命し、息子たちもそれを追った。セクストゥスは、自分の王国と信じてガビイー市へ向かったが、数々の殺害と財産強奪によって恨まれていたので、その場で殺された。

10. 共和政の始まりと「ウァレリウス法」
初代執政委員には、ルーキウス・ユーニウス・ブルートゥスとルーキウス・タルクィニウス・コッラーティーヌスが選ばれた。王家タルクィニウスを贔屓する若者たちは、まだローマ市内にいて王政復古の火種は残っている。ルーキウス・タルクィニウス・コッラーティーヌスも、タルクィニウスの名が入っている王家の関係者で、王家に対する不満を抑えるために解任される。その後任にプーブリウス・ウァレリウスが執政委員となる。
追放されたタルクィニウス一族はローマに使節を送り没収された財産の返還を求めるが、それは表向きのことで、実は王家を市内に迎え入れる策謀が企てられる。最初に計画に加担したのはウィテッリウス兄弟とアクィーリウス兄弟。ウィテッリウス兄弟の姉妹が、執政委員ブルートゥスに嫁いでおり、その息子ティトゥスとティベリウスが一味に取り込まれる。この陰謀は見破られ一味は逮捕される。執政委員は、王家に加担した叛逆者たちを処刑した。ブルートゥスの息子たちも加担したとして父に処刑される。
次に、タルクィニウス一族はエトルーリアの諸市をまわって援助を懇請し、ウェイイー人とタルクィニイー人を口説いてローマを攻撃する。ちなみに、タルクィニイー人の名は、タルクィニウスと血縁があるらしい。この戦でブルートゥスは戦死。彼は貞節の凌辱に対して報復したのだから、ローマ人の妻たちは特に悼んだという。
執政委員プーブリウス・ウァレリウスは、ブルートゥスに代わる補充選挙を行わなかったので、王権の野望があると噂される。だが、ウァレリウス法が、民衆の気持ちを逆転させた。とりわけ、公職者に対抗して人民に訴える人民提訴の法と、王権獲得を企む者の身柄と財産を神のものとする法が、民衆の意に適ったという。そして、人民の友(プーブリコラ)の添え名が生まれ、プーブリウス・ウァレリウス・プーブリコラと呼ばれる。

11. ポルセンナ王と王政復古の根絶
タルクィニウス一族はクルーシウム市のラルス・ポルセンナ王のもとへ逃れ、助言、懇願、警告などで王を口説く。ポルセンナ王も、ローマに王家が存在し、それがエトルーリア人であることが栄誉と考えた。当時のポルセンナ王の力は、これほど大きな恐怖を元老院に与えたことはないほど強かったという。ローマ市民が不安に屈してポルセンナ王を迎い入れ、あるいは、隷属を代償にしても講和を受諾するのではないかと、元老院を恐れさせた。それゆえに、元老院は市民の機嫌取りに躍起になる。関税や公課は富裕者から徴収して、平民は免除するなど。
防衛戦では、ホラーティウス・コクレスが、ローマ市の防波堤となって、敵の押し寄せる橋を守る。まるで三国志に登場する張飛が長坂橋で大喝するように。ポルセンナ王は出端を挫かれ、攻略から攻囲へと作戦を転じた。機会をうかがってはティベリス河を渡って掠奪したりと持久戦模様。だが、ローマ人はいまだかつて攻囲されたことがない。屈辱に我慢ならない名門のガーイウス・ムーキウスは、一人でティベリス河を渡ると言いだした。そして、衣服に剣を忍ばせ密かに出発しポルセンナ王に近づく。だが、王の顔を知らず闇雲に行動して、書き役を殺す。護衛兵に捕えられたムーキウスはローマ市民の誇りを示し、続々と闇討ちが企てられるだろうと、逆にポルセンナ王を脅す。そのあまりの武勇に恐れ、ムーキウスは放免された。彼は右腕を負傷し使えなくなったので、左手(スカェウォラ)の添え名がついて、ガーイウス・ムーキウス・スカェウォラと呼ばれる。
ポルセンナ王は刺客の幻想に怯えローマに講和使節を送った。講和の条件にタルクィニウス一族の王位復帰を含んだが、承諾されるはずがない。ポルセンナ王もそれが分かっていたが、タルクィニウス一族への義理立てがあった。ウェイイー人の領域の返還で講和は成立し、ポルセンナ王はローマ領域から撤退した。タルクィニウス一族の王位復帰については、永久に交渉を断つために、逆にローマから元老院議員の重要な面々を派遣した。ポルセンナ王も、タルクィニウス一族に援助を期待させるように欺くことはやめることにした。これで、タルクィニウス一族の帰国の望みが完全に断たれ、亡命のためトゥースクルム市の娘婿オクターウィウス・マーミリウスのもとへ去った。これでポルセンナ王とローマの信頼は高まったという。

12. 平民トリブーヌス
平民トリブーヌスは、平民と公職者の間の仲介役のようなものであるが、当初は権力者寄りだったようだ。だが、耐え難い生活格差は政情不安の原因となる。平民を虐げれば暴動を起こし、執政委員や元老院も無視はできない。外敵に向かうには、市民の一致団結は欠かせないのだから。そして、元老院は平民との仲介役に平民出身者を選んだり、市民協調をめぐって交渉するようになる。
紀元前494年、平民トリブーヌスは、まずガーイウス・リキニウスとルーキウス・アルビニウスが任じられ、この二人が同僚三名を任じたという。その一人は発議者のシキニウスで、他の二名は伝えが一致しないという。

13. スプリウス・カッシウスの土地法とファビウス一族
紀元前486年、ヘルニキー人に勝利し同盟が結ばれた。執政委員スプリウス・カッシウスは、獲得した土地の半分をラティウム人に、あとの半分を平民に分配しようとした。これに貴族たちの意を受けた、もう一人の執政委員プロクルス・ウェルギーニウスが抵抗する。土地の分配者に、同盟者が含まれることに不満を抱いたからだ。同盟者に分け与えることには平民も反対する。本書は、土地法で政情が激動なく審議された例がないと語る。カッシウスは任期を終えると査問にかけられる。その査問委員が、カェソー・ファビウスとルーキウス・ウァレリウス。
紀元前485年、カッシウスは執政委員セルウィウス・コルネーリウスとクィーントゥス・ファビウスの時に処刑された。更に、ウォルスキー人とアェクィー人に勝利した時の戦利品を兵士に与えず、クィーントゥス・ファビウスが欺いて売却し、代金を公庫に入れた。平民のカッシウスへの恨みはファビウス一族へと移る。次の年はカェソー・ファビウスが執政委員、その次の年はマルクス・ファビウス...と、再選されたり返り咲いたりで、しばらくファビウス一族が続く。その間、外敵からの攻撃があり、勝利しながら人気を取り戻す。
しかし、ウェイイー人とエトルーリア人の攻撃で、ファビウス一族がカルメンターリス門(カピトリヌスの丘の南西隅)から出撃すると悲劇が待っていた。エトルーリア人に包囲され、ファビウス一族は最後の一人まで戦い306名が全滅。未成年の1名が母市に残されただけで、しばらくローマ史から姿を消すことになる。

14. プーブリウス法
紀元前472年、平民の公職者はトリブス民会で選出すべしという法案が提出される。この法案をめぐって平民と貴族が対立する。このあたりから、平民トリブーヌスが護民官というイメージに近づいていく。

2011-07-24

"ある明治人の記録 - 会津人柴五郎の遺書" 石光真人 編著

明治維新は、日本史でも珍しい革命的出来事として英雄的に語られることが多い。しかし、それは本当に英雄伝説だったのか?少なくとも民衆が蜂起した革命ではなく、武士階級によるクーデター的な様相を見せた。歴史の裁定は勝者に優しく敗者に厳しい。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは、まさにこの時代を象徴する言葉である。
本書は、柴五郎自身が死の三年前に著者石光真人に校訂を依頼した少年期の記録だという。
「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路(やそじ)を越えたり。」
会津戦争で祖母、母、姉妹が自刃。降伏後、下北半島の僻地に移封され、公表をはばかるほどの悲惨な飢餓生活を送った。その無念さから、華やかな維新の歴史から抹殺された暗黒の史実を蘇らせる。そう、これは敗者が語った物語である。

列強国による植民地争奪戦のさなか、露、英、仏、米と相次いで軍艦が来航し開国を迫る。阿片戦争で清国が英国に敗れれば、もはや鎖国によって国家の安泰をはかることは難しい。そこに大飢饉や百姓一揆が追い打ちをかけ世情不安が広がると、下級武士たちの生活は圧迫され浪人騒動が頻発した。開国に踏み切っても、薩長の浪士たちは尊王攘夷を叫んで外国人に狼藉をはたらく。京都には各地から倒幕派が集まり、テロ事件を巻き起こすなどで治安を乱す。幕府の要職にあった会津藩は、京都守護職の任にあたり、幕府への不満を一手に引き受ける形となった。公武合体論を唱えるには京都が重要な地となるわけだが、武家側が幕府であろうが薩長であろうが、挙国一致とならなければ意味がない。各藩が伝統に固執しているとなれば、もはや廃藩は避けられない。そして、公武合体か、各藩連合の連邦制か、絶対君主制か、などの論議を尽くす間もなく武力革命に突入する。ただ、国家新体制と国家軍の創設の必要性は、幕府側も認めていた。だから、十五代将軍徳川慶喜は大政奉還を奏上して江戸城を無血開城し、会津藩も藩主松平容保(かたもり)をはじめ要職を辞して故郷に謹慎したのだろう。大政奉還がなれば討幕の大義名分も失われるはず。にもかかわらず、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らの策議により明治幼帝を擁し、慶喜公殺害と会津討伐の密勅が薩長両藩に下されたという。ましてや鎌倉時代から続いた封建制を一気に近代化しようというのだから、流血をともなうのもやむを得ない。
しかし、だ。無血開城で戦意喪失の相手ですら、朝敵の汚名を着せて徹底的に叩きのめす必要があったのか?それを言うと、徳川家だって難癖をつけては目障りな大名家を潰してきた経緯がある。恨みを持っていた連中がここぞとばかりに襲いかかるのは世の常であろう。また、徳川家が自ら幕府を放棄すれば、朝廷との関係を保ちながら再び実権を握ることができると目論んだことだろう。そして、革命のための流血というよりは、脂ぎった政権闘争の様相を見せる。それでも、革新派の中に、佐久間象山、吉田松陰、横井小楠、坂本龍馬といった錚々たる人物がいたことは見逃せない。彼らの視野は広く、見識も高い。だが、維新とほぼ同時に処刑や暗殺で姿を消したのは偶然であろうか?残るべき人物が残らず、残るべからず人物が残るのが、政界の力学というものか。
本書は、維新の評価はその成果に比して過大であり、残酷であったことを物語る。そして、倒幕派が外国人を殺傷するような行為が、尊王攘夷の真意を捻じ曲げたと回想している。ただし、会津藩側からの思い入れが強く、感情的なところもある。薩摩の芋侍め!とか、西南戦争で自刃した西郷隆盛には、ざまあみろ!のような記述も目立つ。それでも、維新を一方的な英雄伝説として崇めるのは乱暴ではないだろうか。日本の近代化の原点がこの時代にある以上、その分析を怠ることはできない。明治維新から始まった近代化は、いったいなんだったのか?本書は、それを問いかけているような気がする。

この時代に触れると、ある疑問が蘇る。
明治政府は、天皇を神格化し、日本国を神の国と崇めたのはなぜか?薩長をはじめとする幕末の志士たちは、欧米諸国に視察団として派遣されている。実際に、自由や平等のイデオロギー論争、あるいは議会や憲法などの政治体制を見聞したはず。にもかかわらず、その本質を無視して、国家元首と宗教的思想を結び付けたのはなぜか?彼らの視察はなんだったのか?民衆の精神を根底から支えているキリスト教の存在を、日本流に解釈した結果であろうか?大統領や国王が神様というわけではないが、天皇を宗教以上に崇める結果となった。多くの藩が乱立する中で手っ取り早く国家を団結させるためには、象徴的存在があると便利だ。廃藩置県を実施するためにもよい口実か。その意味で、維新当時の政治家たちの眼力は鋭い。そして、大日本国憲法は天皇と軍部を統帥権で結び付けた。となれば、天皇がよほどの指導力を発揮しない限り、軍部が神の代行となって暴走するのは避けられまい。それは、太平洋戦争という悲劇を経験したから言えることかもしれないが。いずれにせよ、天皇はしばしば政治利用されてきた。現在ですら、政治利用を企む政治屋どもがいるほどだ。
日本史を紐解けば、軍事面に無知な公家が武力を統制しようとして悲劇を招いた例は少なくない。治安維持が政治の最も重要な役割となれば、武力を束ねる幕府の力が強力となり、公家はお飾りとなってきた。その流れから、軍部が政治を主導する時期を経験することになったとも言えるかもしれない。シビリアンコントロールでは、軍隊の暴走を抑止すると同時に、軍事の素人が軍略に口を出すという矛盾を抱えている。太平洋戦争時の軍部の暴走は、統帥権の微妙な位置づけが素人の口出しを封じたと言えるかもしれない。そして、神の国と崇めた時点から、徹底的な敗北を喫するまで戦争を続ける運命にあったのではないか。つまり、既に維新時代にそのレールが敷かれていたのではないか。...などと発言すれば批難もされようが、アル中ハイマーな泥酔者にはそう思えてならない。

本書は、当時の中国観も披露してくれる。
柴五郎は、1900年北清事変(義和団の乱)で、その沈着な行動により世界から称賛された人物だそうな。歴史ではあまり知られていないようだが。そして、日本軍が中国の民主化を阻み、人民を中国共産党に売ったと回想される。当時の日本軍が、イデオロギー的な世界情勢をまったく分析せず、ただ大陸の夢を追いかけていたというわけか。国内経済が逼迫すれば、国内の不満から逃れるために対外政策に打って出るというのは、歴史事象として珍しいことではない。ただ、太平洋戦争時、戦後の世界が共産主義と自由主義の対立構図になることを想定した政治家がどれだけいただろうか?いたとしても排除されただろうけど。そんな分析もなく大東亜共栄圏を掲げたところでなんの説得力もない。思想哲学なるものを持たず、勢いだけで邁進するからヒトラーと手を結ぶことになる。米英だってスターリンと手を結んだではないかと言えば、似たようなものかもしれないが...
21世紀の今、中国共産党は自ら招いた経済矛盾に喘いでいる(放射能で喘ぐ国よりはましかもね)。急激な経済成長にブレーキをかけながら軟着陸させようと必死だ。インフレ抑制のための度重なる銀行準備金の引き上げと、その副作用。そして、情報統制で人民を洗脳しようと必死な様子がうかがえる。どこの国もインフレを恐れている。だが、先進国では贅沢を控え目にすればなんとか生活できる。一方、新興国はいまだ格差問題を抱えており、途上地域を置き去りにしたままのインフレは、飢えに直結する。格差に対する不満は暴動のきっかけとなろう。そして、自らの保身のために対外政策に執着するしかあるまい。となると、日本は標的にされやすいわけだが、GDP2位にもなった大国にいまだODAを送り続ける日本政府の態度をどう説明するのか?経済戦略において隣の巨大市場が大きな魅力であることは分かる。だが、現状では常に政治的リスクがつきまとう。企業戦略においても思想哲学なるものを踏まえておかないと、思わぬしっぺ返しをくらうだろう。その点、中国人の企業家たちは資産が簡単にチャラにされる可能性があることをよく心得ているようだ。さすが!

1. 会津戦争
会津戦争は、戊辰戦争の一局面。薩長の浪士は、江戸をはじめ各地で放火殺人を行い、世の中を不安に陥れたという。徳川の威信を傷つけ、会津討伐の気運も高まる。会津城内では、幼き姉妹が薙刀の稽古に励む。そして、東西南北に青竜隊、白虎隊、朱雀隊、玄武隊を編成。それぞれ東西南北の神の名をとっているそうな。
1868年、会津戦争が勃発した時、幼い柴五郎は面川沢の山荘にいたという。会津城下へ戻ろうにも炎の海、山荘には難民が溢れる。やがて、祖母、母、姉妹の自刃の知らせが入る。武家の習わしとはいえ、幼い妹までも懐剣で自害。城下を焼き払い、一族郎党皆殺し、しかも、民衆は財を奪われ強殺強姦。これが伝統的な戦の習いではあるのだが...
会津の百姓や町民は薩長軍を歓迎し、これに協力したと説く者もいるが、それは誤りであると指摘している。そして、民衆に加えた薩長軍の暴虐の数々は全東北に及んだが、その記録が故意に抹殺されたことは不満に堪えないと語る。

2. 地獄の流刑地
徳川慶喜と松平容保は罪を許される。佐幕派の南部藩から処罰として陸奥国を三郡に割き、これを斗南(となみ)藩として旧会津藩に与えられた。23万石から3万石となるが、痩地なので実質7千石だったという。それでも、藩士一同感泣して受け入れる。徳川家が数々の大名家を潰してきたことを考えれば、恩赦はありがたいことであろう。
しかし、乞食小屋にて窮乏の極致。おまけに辛い長い冬。犬の肉を食う境遇。常食はオシメ粥をすする。ちなみに、オシメ粥とは方言で、海岸に流れ着いた昆布やワカメなどを集めて干し、棒で叩いて木屑のように細かく裂いて、これを粥に炊くそうな。下駄も草履も持たず裸足なので、家に入る時はいつも桶で足を洗う。吹雪の季節は氷点下15度を降る。
「薩長の下郎武士どもに、会津の乞食藩士どもが下北で餓死したと笑われるぞ!」と父から叱責される12歳の少年期を、祖母、母、姉妹とともに自害した方がましだったと回想している。
「過去もなく未来もなく、ただ寒く飢えたる現在のみに生くること、いかに辛きことなりしか、あすの死を待ちて今日を生くるは、かえって楽ならん、死は生の最後の段階なるぞと教えられしことたびたびあり、まことにその通りなり。死を前にして初めて生を知るものなりとも説かれたり、まことにその通りなるべし。今は救いの死をさえ得る能わず」

3. わが生涯最良の日
乞食生活にも、ようやく光がさす。廃藩置県が実施された頃、藩政府の選抜により青森県庁の給仕として遣わし、大参事野田豁通(ひろみち)の世話になることが決まる。少年13歳。
野田は、熊本細川藩物産方頭取石光真民の末弟で、勘定方出仕の野田家に入籍、実学派の横井小楠の門下で、後に陸軍に入り初代陸軍経理局長、男爵を賜る。かつての敵軍の将だが、義侠無私の人で後進をよく養い、討幕派と佐幕派をまったく差別しない人物だったという。彼との出会いが、柴五郎の将来を決定付ける。野田は、陸軍会計一等軍吏に就任した時、陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)を受験することを勧める。そして、合格した日を「わが生涯最良の日」と呼び、ここでフランス式教育を受けたという。

4. 維新の回顧録
1873年、皇城炎上。維新にあたり各藩は思惑を剥き出しにする。薩長土肥連合の藩閥政府は征韓論で割れる。この頃、仕官学校の教育方針は、フランス式からドイツ式へと変更され、軍服もドイツ式になったという。右大臣岩倉具視、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通ら48名が条約改正、欧米視察で留守中に新政府反対の口火を切ったのが旧薩摩藩主島津久光。
「皇統も共和政治の悪弊に陥らせられ、ついには洋夷の属国と成らせらるべき形勢」として、大久保利通、西郷隆盛の罷免を直訴。各藩主や重臣らも若輩らの暴走を危ぶむ。そして、西郷隆盛や板垣退助らの征韓論は、岩倉具視らの欧米諸国との関係を配慮する慎重派に敗れた。
西郷隆盛は参議を辞し薩摩に帰郷するが、続々と不穏な動きが現れる。江藤新平の佐賀の乱、秋月の乱、萩の乱などの士族の騒動が続く。自由民権運動と言えば聞こえがいいが、結局は士族民権を主張したに過ぎない。ただ、時代の流れとして、その段階も必要であろう。フランス革命がブルジャワジーによる権力抗争で終わり、真の共和政を獲得するまでに相当な時間がかかったように。
更に、西郷隆盛が第二の維新を目論んだかどうかは知らんが、西南戦争が始まる。大久保利通と西郷隆盛は征韓論を境に訣別し、10年に渡る西南戦争の末に西郷は自刃した。内務卿大久保も暗殺される。ともに会津の元凶が世を去って、ようやく維新の動揺が収まる。
本書は、強引な明治維新で、議会や国軍の創設、廃藩置県など近代国家としての形式は整えたが、未熟でひ弱な新体制を生んだと回想している。世界史では、革命といわれる血の変革が成功すると、すぐさま新政権で内部分裂が生じる。フランス革命しかり、ロシア革命しかり、中国の文化革命しかり。明治維新も例外ではなかったようだ。

5. 近代化と富国強兵
西洋の植民地政策に刺激され富国強兵で邁進すると、軍拡気運を高めるがゆえに軍界に志を持つ者が少なくなり、素質の低い者が混ざると指摘している。そして、日露戦争までは日本軍は立派であったという。ロシア軍クロパトキン将軍の回想録には、世界に稀にみる軍隊だと賞揚しているという。捕虜の扱いでも国際法を尊重して、むしろ日本軍の負傷兵や遺族の扱いの方が卑屈であったとか。その厚遇で、日本に帰化した外国人が相当数にのぼるそうな。だが、その後、徳川太平3百年がそうであったように、優れた指導者が育たなかったと指摘している。
現在でも、日露戦争までの態度を讃える意見は多い。乃木将軍とステッセル将軍は握手して、ともに勇敢さを称えたと伝えられるし、ルース・ベネディクトは著書「菊と刀」で、日露戦争の写真を見ても、どちらが戦勝国なのか区別がつかないと語っていた。だが、新渡戸稲造は、著書「武士道」の中で、武士道は徳川泰平の世に既に廃れていたと語っていた。
本書は、日本の近代化を「宗教を破壊して天皇信仰を唱えただけでは、市民としての生活信条は育たなかった。」と回想している。それにしても、対米戦争を決意した連中に米国留学経験者が多かったのはなぜか?単なる語学留学だったのか?今でも英語かぶれすればそれだけで賢いとされるけど。

6. 柴五郎の中国観
北京籠城でのキリスト教徒中国人への姿勢や、占領した北京市内での警察業務への姿勢は、会津の心情から発しているという。諸外国が清国を侵略していくと、宗教に救いを求めキリスト教徒が増えていったという。義和団は攘夷求国を目的として決起した集団であり、それが会津人と重なって映ったのかもしれない。
「北京籠城が日本軍の勇敢な働きで解かれたが、その後の各軍によって警備区域が定められた。日本担当区は柴五郎中佐が警務衙門長として軍政を受け持ったが、軍紀厳正で中国人民を厚く保護したので、他の区域から日本区域に移住してくるものが多かった。」
この功績で列強国に称賛されたそうな。そして、この頃の中国政策の方向を維持していれば、民主的中国と良好な関係を保てたと指摘している。当時、大陸進出を夢見る軍部にあって、中国に好意的な人物は邪魔な存在だったに違いない。柴五郎は、北京籠城の功績を英国大使に譲ったという。その謙虚な態度が、日英同盟の足掛かりになったという説もあるそうな。だが、米英が日本を盾にしながら対ロシア政策をとっていたこともあるだろう。
また、太平洋戦争をイデオロギー闘争の前哨戦といった観点から捉えているようだ。それは、中国共産党に栄光を与え人民を売ったのは、愚劣な日本軍の中国政策にあると指摘しているところからもうかがえる。重慶にあった蒋介石には、「日本人は百年先のことはもちろん、十年先のことさえ考える能力を持たない」と笑われたとか。んー、今の政府に言ってやれ!
柴五郎は、太平洋戦争は最初から負けると断言していたという。

2011-07-17

"名画で読み解く ブルボン王朝12の物語" 中野京子 著

名画で読み解く...シリーズ第二弾。ハプスブルク家編では著者の歴史センスに感服した。キレは相変わらずだが、なぜか?インパクトがいまいち。650年対250年では泥沼の熟成度も違うのか?いや、エリザベート級の美女が見当たらないだけのことかもしれん。

隣り合ったハプスブルク家とブルボン家は、事あるごとに戦争を続けてきた。ところが、マリー・アントワネットの婚姻をきっかけに蜜月となる。いや、水面下の陰謀合戦に移行したと言った方がいい。ブルボン家の印象としては、太陽王ルイ14世がひと際輝いている。その栄華に全ヨーロッパの王侯たちが憧れ、フリードリヒ大王やマリア・テレジアまでもがフランスかぶれになる始末。その分、ルイ15世以降はその他大勢という印象が残る。そして、ルイ14世の晩年あたりからフランス風の倦怠感が蔓延し、ヴェルサイユ宮殿には口先だけで出世した凡人で溢れていく。宮廷では、仮装舞踏会、芝居、トランプ賭博などの遊戯に明け暮れ、王妃は宝石や衣装で浪費し国家財政を危うくしていく。その間、ロベスピエールなどの共和政と自称する恐怖政治や、王家に野望を抱いたボナパルト家が割り込み、ブルボン家の歴史は、真の共和政を獲得するまでのお膳立ての役割を担っていたことが見えてくる。君主政とはいえ議会が存在するからには、選挙で王党派が激減することもある。すると、選挙制度を都合よく改変し、議会を解散してしまうような強引な政策がまかり通る。議会が機能しなければ、民衆は暴徒化する。
本書は、アンリ4世に始まり、ルイ13世、14世、15世、16世、18世、シャルル10世の七代を通して、王家の腐敗から共和政へと傾いていく様子を物語る。そして、ハプスブルク家が、自ら血縁を濃縮して徐々に腐っていったのに対して、ブルボン家は革命によってギロチンの切れ味のごとく滅亡していくのであった。血みどろと華麗の共存する絶対王政の物語。これぞ歴史の醍醐味というものか。ちなみに、ドイツ語では、「歴史」と「物語」を同じ単語「Geschichte」で表すそうな。

祖先を遡れば、ハプスブルク家がスイスの片田舎の一豪族に過ぎなかったのに対して、ブルボン家も似たようなもの。権力を握る家柄というものは、激動期に偶然と幸運から転がり込んだりするもので、新興企業や新産業が創出される様子と似ている。
スペイン王朝は、両大国に接しながら、ハプスブルク家、ブルボン家、ボナパルト家で持ち回りをされてきた。ちなみに、現在のスペインは立憲君主制で、国王フアン・カルロス1世はブルボン家の遠い血筋にあたるそうな。どこの国家でも、王家や権力者の血筋が純粋に守られてきたのかは疑わしい。あのルイ14世でさえも???流産や夭逝が当たり前の時代では、王位継承は国家を揺るがす重大問題となる。国家安泰のためには、様々な企てが画策されてきたことだろう。秘密婚や不倫が陰謀と複雑に絡み、産まれるまでの算段では完璧な演出がなされたに違いない。そして、真相を知る者は突然死を迎える運命にある。ましてや歴史文献として残されるはずもない。
ちなみに、秀頼が秀吉の実子というのは本当なのか?などとおおっぴらに言える者はいなかっただろう。腹の中の子が本当に自分の子なのか?それはDNA鑑定でもしない限り、男には信じることぐらいしかできない。

フランスという国は革命の好きなお国柄と言おうか...日本人には理解しがたい流血革命の歴史...自由と平等を獲得することの難しさを浮き彫りにする。それは、ドラクロワの作品「民衆を導く自由の女神」に描かれる三色旗に象徴される。その背景には、根深い宗教対立がある。フランスではカトリック系の勢力が強く、イギリスではローマ教会から離脱しイングランド国教会があるので、両国は宗教対立の火種を常に抱えている。アンリ4世が「ナントの勅令」で宥和政策をとれば、一時政治情勢は安定するが、「ナントの勅令」が廃止されると、プロテスタントは厳しく弾圧され大量の亡命者を出す。亡命者には優秀な技術者や富裕な商業者が多く、プロイセンなど近隣諸国を富ませる結果となる。宗教弾圧に喘ぎながら民衆は自由と平等に目覚めていき、そこに王朝の腐敗が重なって、革命の気運を高めていく。
フランスが君主政を終焉させ完全に共和政へ移行したのは、ルイ・ボナパルト(ナポレオン3世)の後で1870年頃ということになろうか。マルクスがナポレオンを演じた道化師と蔑んだ男の失脚は、ほんの150年前のことだ。明治維新が1868年頃だから、日本の近代化とフランスの民主化プロセスがほぼ重なる。ただ、日本では民主主義はまだ始まっていないという意見もよく聞かれる。いまだ自由と平等を手探りしている段階なのかもしれない。人間が考案した制度が完璧であるはずがない。にもかかわらず、民主主義の実践的な手段となっている選挙制度に疑問を抱く者は少数派だ。一票の格差では違憲判決も見られるが、いまだ見直される雰囲気がないのはなぜか?安全志向が強すぎるから、自己改革もできないのか?この国では、民主主義を獲得するまでの肝心なプロセスを省いてきたのかもしれない。将来に渡って日本では絶対に流血革命が起こらない!とは言いきれんが...

1. ブルボン王朝の始まり
1559年、ヴァロワ朝のアンリ2世が馬上槍試合の事故で命を落とす。これはノストラダムスが予言したという。そして、長年軽んじられ惨めな思いをしてきた王妃カトリーヌ・ド・メディシスが表舞台に躍り出る。王の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエは追放され、カトリーヌの息子3人が次々にフランス王となる。まず15歳の長男フランソワ2世が王位を継承するが、虚弱で在位わずか一年で病死。続いて10歳の弟シャルル9世が継承。この時期に宗教内乱へ突入し、ユグノー戦争勃発、そして「聖バルテルミーの虐殺」。バルテルミーの祝日に、一発の銃声が引き金となって群衆がプロテスタントたちに襲いかかり、3千人もの犠牲者の血がセーヌ川を赤く染めたという。その首謀者がカトリーヌという噂や、黒幕がフェリペ2世という説など、真相は闇の中。その二年後、シャルル9世は結核で死亡。これまた子がいなかったので弟アンリ3世が継承。彼は女に興味がなかったという。
母カトリーヌが死去すると、宗教戦争は3人のアンリの王権争いの様相を呈す。ヴァロワ朝のアンリ3世、名門貴族キーズ家のアンリ、ブルボン家のアンリによる「三アンリの戦い」。当初、同じカトリックのアンリ3世とキーズ公が結託して、プロテスタントのブルボン家のアンリを圧倒していたという。だが、国民の人気はキーズ公に集まり、アンリ3世に暗殺される。アンリ3世もまたドミニコ会修道士と謁見した時、キーズ公の暗殺で使った血まみれの短剣を見せられ、そのまま襲われて死亡。漁夫の利を得たのがブルボン家のアンリで、国王アンリ4世を名乗る。
当初、アンリ4世は国民の5分の1のプロテスタントからしか支持されず、パリ入城すらできなかったという。そして、しらみつぶしにカトリック系の領主たちを弾圧していく。ただ、スペインにはカトリックの牙城であるフェリペ2世がいて、隣国にプロテスタントの国ができたことを許すはずがない。フランスはイギリスの援軍を得てスペインを撃退。しかし、アンリ4世は改宗しないと国が収まらないことを悟り、カトリックを宣言して大貴族を買収する。
ところで、ブルボン家の先祖は、古いカペー王朝の傍流にあたるという。その名称はブルボン・ラルシャンボーの町に由来。後に、王位を剥奪されたルイ16世は「ムッシュ・カペー」や「ルイ・カペー」と呼ばれ馬鹿にされることになるが、それはカペー王朝の始祖がどこの馬の骨か分からないというところからきているらしい。ただ、ヴァロワ朝ではブルボン家の当主は筆頭親王だったというから、世継ぎがなければアンリ4世が継承しても問題はないということのようだ。

2. アンリ4世と陰謀の悪臭
アンリ4世は、カトリーヌ・ド・メディシスの娘マルグリットと結婚。王妃マルゴと呼ばれる女性だ。マルグリットはキーズ家のアンリを愛していたが政略結婚させられたという。王は色事に明け暮れ、仮面夫婦だったという。また、姑カトリーヌを嫌っていたらしい。アンリ4世の母がカトリーヌに毒殺されたという噂もあったとか。国王夫婦には長年の別居で子ができない。アンリ4世は世継ぎ問題を解決するために、既に自分の子を3人産んでいる愛人ガブリエル・デストレを王妃にしたいと考えた。だが、妻に離婚を拒否される。そうこうしているうちにガブリエルが突然死。結局、高額な年金を保障して離婚は成立。カトリックでは基本的に離婚が認められないはずだが、ローマ教皇が認めた。というより、もともとこの結婚が無効だったということにしている。宗教の解釈はなんでもありか。
そして、アンリ4世はメディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚。宗教内乱で国庫が空っぽ状態だったので、大富豪メディチ家からの持参金を当てにした政略結婚である。マリーが、派手にマルセイユに到着すると、そこにはアンリ4世の姿はなく愛人と小旅行中だったとか。王妃の太めの外見と、大金にものを言わせる態度が気に入らなかったという。また、マリーはフィレンツェのルネサンス文化に親しんでいたので、フランス文化を低俗と見ていたらしい。莫大な年金が前妻に払われるのも気に入らない。不仲とはいえ世継ぎを産めば勝ち、長男はルイ13世、長女はスペインのフェリペ4世の王妃、次女はサヴォア公妃、三女はチャールズ1世の王妃となる。
結婚10年目、アンリ4世は留守中の統治権を王妃に委ねるため、サン・ドニ聖堂でマリーの戴冠式を挙行した。これはマリーの強い要望によるものだという。しかも、翌日にアンリ4世は暗殺された。享年56歳。首謀者はカトリック信者とされるが、陰謀の香りがしないわけがない。

3. ヘンリエッタ・マリアとチャールズ1世
イングランドのステュアート朝二代目チャールズ1世に嫁いだのが、アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリア。ハプスブルク家の牽制のための政略結婚であるが、宗教上の問題を抱えていた。イングランドは、ヘンリー8世の時代にローマ教会から離脱し、イングランド国教会の下にある。カトリック総本山を認めない国が、カトリック国から妃をむかえれば揉めるのは必定。フランス側は、結婚の条件としてカトリック擁護を約束させた。ヘンリエッタは、それを盾にセント・ジェームズ宮殿内に華麗なカトリック礼拝堂を建築させ、国民の不満を煽る。ただ、政治問題は別にして夫婦仲は良好だったそうな。生涯チャールズ1世は愛妾を持たず妻一筋だったという。先代のジェームズ1世は、スペイン戦争や宗教内乱などで財政を悪化させたまま、チャールズ1世に引き継いだ。そこに、クロムウェル率いるピューリタン革命が襲う。国王軍は敗れ、チャールズ1世は裁判にかけられ斬首。ヘンリエッタは故国フランスに逃れる。イングランド国王の斬首はフランス革命よりも150年も先んじている。しかし、国王の手に触れて病気を治してもらうといった風習も残っていて、クロムウェルと民衆も乖離していたので、チャールズ1世は「殉教王」として人気が急上昇したという。共和制を樹立したクロムウェルが9年後に病死すると、すぐさま王政復古が叫ばれ、チャールズ2世が戴冠している。チャールズ1世は、妥協を許さず、逆らう議会を頭から抑えつけようとして墓穴を掘ったという。アンリ4世のように、統治優先で都合よく改宗したり、エリザベス1世のように曖昧な態度のできない人物だったそうな。

4. ルイ13世とルイ14世の誕生秘話
8歳の息子ルイ13世が継承すると、母マリー・ド・メディシスが摂政となる。そして、スペイン路線をとり二重結婚を推進する。長女エリザベートをスペイン王フェリペ4世へ嫁がせ、ルイ13世にはフェリペ4世の姉アンヌ・ドートリッシュを王妃に迎える。とはいっても、4人とも7歳から10歳の幼な子。ちなみに、「ドートリッシュ」「オーストリアのアンヌ」という意味だそうな。スペイン王女とはいえ、オーストリア・ハプスブルク家の血筋というわけだ。アンヌは美女であったが、二度の流産でルイ13世と疎遠になったという。ルイ13世は同性愛者だったとか。王妃には他の男が寄ってくるわけだが、デュマの小説「三銃士」には、有名な恋愛物語があるそうな。イギリスの皇太子、後のチャールズ1世が、ヘンリエッタ・マリアと婚姻話が進行中に非公式でパリを訪れた時、側近のバッキンガム公が一目惚れして愛の告白をしたという。ちなみに、イギリス一のハンサムだったとか。その後も激しく迫り、庭園での密会やベットに侵入など、様々な証言が残されているという。
さて、母マリーはというと、ルイ13世が成人しても政権を譲ろうとしないので親子で不和となる。そして母をブロワ城へ追放。その後二人は和解するが、マリーはルイ13世が信頼を置く宰相リシュリューの失脚を画策する。結局、面倒な母をコンピエーニュ城に軟禁。マリーは城を脱出して各地を放浪し、ケルンでひっそりと死んだという。
宰相のリシュリュー枢機卿は独裁的な実力者で、私利私欲に走らないルイ13世の時代では欠かせない存在だという。リシュリューは、富国強兵や反プロテスタント政策をとる。何よりも重視したのはハプスブルク家の牽制で、三十年戦争ではあえてプロテスタントを支援する。そして、ハプスブルク家と二十年もの戦争を続けることになる。
その頃、ローマ教皇の特使が派遣されリシュリューの信任を得た。この人物こそジュール・マザラン。フランスに帰化して枢機卿となり、後に宰相後継者となる。やがて、マザランとアンヌが惹かれあう。実は、マザランとアンヌは秘密結婚までしていたという有力な証言があるという。えぇっ?ということはあの太陽王の血筋は???などと地雷を踏むことになるから闇に葬られるわけか?アンヌが最後に流産して17年目に突然懐妊が報じられる。まるで豊臣家の展開ではないか。二年後、さらに二人目を産む。後のオルレアン公フィリップである。まもなくリシュリューが病死すると、すぐにルイ13世が結核で逝去。ルイ14世が王位を継承して、アンヌが摂政となる。アンヌ・ドートリッシュは、姑マリー・ド・メディシスとは違って、ルイ14世が成人するとすぐに政治から身を引き、慈善事業と祈りの日々を送ったという。その引き際は見事だったそうな。

5. 太陽王の輝きと暑苦しい照り返し
アンヌ・ドートリッシュが40歳近くに産んだ奇蹟の子は、フランスをあらゆる面で第一位の地位に押し上げた。海軍はスペインやイギリスを凌ぐ。リゴー作「ルイ14世」の肖像画は、右腕を王笏で支え左肘を突き出し、右足に体重を載せ左足を前に出す、お馴染みのポーズ。身長160センチそこそこで背の低いことがコンプレックス。大袈裟な鬘と派手なハイヒールで誤魔化す滑稽な太陽王。バレエで鍛えた脚線美。すでに63歳にして歯抜け状態は、口を閉じていれば分からないという。成人するまでマザランが宰相として補佐し、クロムウェルと同盟してスペインを撃退するなど、現実路線で帝王学を伝授される。ルイ14世はとうてい教養人とは呼べる人ではなく、「本など読めて何になる!」と言い放ったという。戦争好きで、ネーデルランド戦争、オランダ戦争、アウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争を仕掛ける。ただ、軍事の才能がなかったというのが定評だそうな。
最晩年は、戦争をやり過ぎたことを後悔し、したたかな外交政策で小国を味方につけたりと政治力を発揮したという。王の全能性を広く知らしめることで国内の求心力を図り、国外へも強烈にアピールするなど、宣伝の才能は長けていたそうな。バレエを奨励し自らも踊る。アポロンに扮して宮廷舞台で踊ったことから、「太陽王」と呼ばれるようになったという。
しかし、晩年の太陽王の人気凋落ぶりは甚だしい。亡くなると民衆は歓声をあげ、葬列を見送る人の数もまばらだったという。その在位期間はフランス最長で5歳で戴冠してから72年間。ただ、戦争好きで財政破綻ともなれば、照りやまぬ太陽は暑苦しい。息子グラン・ドーファンは継承することなく49歳で病死。その子プチ・ドーファンも29歳で死去。その弟は、スペイン王フェリペ5世となる。そして、プチ・ドーファンの子、つまり曾孫のルイ15世が王位を継承する。長すぎる政権は、宮廷を硬直化させマンネリ感が漂う。王が亡くなった途端に王宮のオーラは失われ、下水設備は不完全で非衛生的、庭園の水も濁りがちで悪臭を放つ始末。太陽が照らさなければ、栄華は偶像化するだけ。ルイ14世は、ナントの勅令を廃止し、官職からユグノーを締め出した。神聖ローマ帝国などの周辺国は、アウクスブルク同盟を結成してフランスと対抗する。この時期にフランスから逃亡した亡命プロテスタントの数は約20万とも言われるそうな。ルイ14世は、5歳の曾孫に「戦争をしすぎるな」と遺言したという。

6. マリア・テレサとスペイン・ブルボン王朝の始まり
ルイ14世はマザランの姪マリー・マンチーニと恋仲になる。だが、階級の下との結婚など論外で、マリーはイタリアへ嫁がされ仲を引き裂かれる。そして、スペイン王女マリア・テレサを王妃に迎える。ブルボン家とスペイン・ハプスブルク家との婚姻は戦後処理のピレネー条約の和解条項で、莫大な持参金付きの王女をもらい、生まれた子にはスペイン王位継承権は与えないと契約する。マリア・テレサは、父がフェリペ4世、母がルイ13世の妹なので、ルイ14世とはいとこ関係。垢ぬけないファッションセンスに、容姿もぱっとせず、落ち目となりつつあるスペイン出身ということで、もの笑いにされる。ルイ14世は、律儀に遊び、律儀に戦争をし、律儀に王妃の寝室に通う。この時代、恋愛結婚の不可能な王侯貴族にとって妻を愛することは下品という奇妙な風潮があったという。形だけを維持するのが相手への思いやりということらしい。王には愛人が数え切れないほどいる。その寵姫たちは、弟オルレアン公フィリップの妻ヘンリエッタ、毒殺されたとの噂のフォンタンジュ公爵夫人、4人の子をもうけたルイーズ・ド・ラヴァリエール、7人の子をもうけたモンテスパン侯爵夫人、マントノン侯爵夫人...こりゃハーレムじゃ!マリア・テレサも王家出身なので王の女癖は諦めていたようだ。彼女が44歳で亡くなった時、ルイ14世は「彼女が余に迷惑をかけるのはこれが初めてだ」ともらしたという。
その後、故国スペインでは、王カルロス2世が世継ぎを遺さずに亡くなる。ルイ14世は、マリア・テレサは賠償金のために巨額な持参金を持って来るはずだったが、約束が果たされていないことを理由に介入する。そして、スペイン・ハプスブルク家との間に、スペイン継承戦争が勃発。以降、スペイン王はオーストリア人からフランス人になり、オーストリア・ハプスブルク家はスペインとの関係を断たれる。ルイ14世の孫アンジュー公フィリップが、フェリペ5世としてスペイン王となる。ルイ14世は、「良きスペインであれ。されどフランス人たることを忘れるな」と言って孫を送り出したという。

7. ポンパドゥール公爵夫人と美王ルイ15世
公式寵姫ポンパドゥールは、ルイ15世の時代では欠かせない美貌と才覚のキャリアウーマンで、政治を牛耳ったという。おまけに、ルイ15世が政治に関心がないときた。夫が公爵でもないのに公爵夫人とはこれいかに?王が特別にポンパドゥールの領地と公爵の位を与えたそうな。平民出身の寵姫で、しかも政治に口を出すとなれば、王妃や王太子からは敵視される。だが、隙あらば引きずり落とそうとする輩には反撃を許さず、領地へ追い返す。宮廷こそが全世界と思い込む貴族連中には、田舎に流されることを恐れ、次第に寵姫にひれ伏す。
彼女は、フリードリヒ大王を3方面から囲んだ「ペチコート作戦」の一人。オーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアと、ロシアのエリザヴェータ女帝と、ポンパドゥールの3人。長年、敵国同士だったフランスとオーストリアはこの時期に友好関係に入り、後にマリー・アントワネットが嫁ぐ布石となる。フリードリヒ大王を憎むマリア・テレジアの戦争は、フランスとロシアを味方にして七年戦争となる。そして、フリードリヒ大王の敗北寸前で奇跡が起こる。エリザヴェータ女帝が急死すると、大王ファンのピョートル3世はプロイセン側へつき、オーストリアとフランスは敗北。大王に味方したイギリスは、フランス領のアメリカ、インドを奪取。戦争の敗北は、ここぞとばかりにポンパドゥールを非難の的にする。公式寵姫というシステムは、政治責任を押し付けるのにもってこいというわけか。栄華と権力の裏腹には、落ち度がなくても咎人の汚名を全て引き受けるほどの覚悟がいる。
一方、ルイ15世は美王と呼ばれ、群がる女性も多ったという。裕福で美貌でなんでも手に入るとなれば、倦怠感に苛まされ、生きる意欲も薄れるだろう。国政は臣下に委ね、深刻な退屈人生。堅苦しいルイ14世に飽き飽きしていた貴族連中にとっては、遊び呆ける王の方がありがたい。ポンパドゥールに惹かれたのも、上手く遊んでくれたからだという。ポンパドゥールが死ぬと若い女をあさりまくり、女狂いになったとか。ルイ15世は天然痘で死去したが、それも年若い赤毛の百姓娘と関係して感染したと噂されたという。

8. フランス革命の餌食となったルイ16世
ルイ15世の孫が王太子となったのは10歳。美王ルイ15世とは違って見映えが悪くおどおどした性格で、とても王の器ではない。三男なので王冠が回って来る可能性が低く期待もされていない。だが、出来の良い長男は病死。次男も夭逝。王位を継承するはずの父も36歳で病死。王位のプレッシャーからか、引きこもるようになったという。ルイ16世といえば、その王妃はマリー・アントワネット。ここで、ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が結びつく。ルイ16世の悪い評判は、浪費家マリー・アントワネットが追い打ちかける。おまけに、異国の妃の言いなり。急速に太りだしたおかげで貫禄はつくものの、寵姫を持たず政務を果たさない、騎士道精神もなければ戦場経験もない。彼は、フランス革命の恰好の餌食となって、「ルイ・カペー」と嘲笑わらわれながらギロチンへ送られた。

9. 百ドル札の顔ベンジャミン・フランクリン
独立宣言の起草に貢献したフランクリンは、理系の人間には嵐の中で凧を上げて雷が電気であることを証明した話の方が馴染みがあろう。彼は70歳の時、独立戦争の資金援助を請うために、フランスを訪れ直接ルイ16世と交渉したという。青年たちの間で「自由」や「独立」が話題になっていたところに、フランクリンのユーモアと率直な言動が人気を得た。そして、義勇軍として大勢が新大陸に渡ったという。その中に、後にフランス革命で活躍するラファイエットもいたという。
フランクリンは、条約締結後そのまま大使として残りパリ滞在は9年にも及ぶ。当初、ルイ16世は戦争に踏み切る気がなかった。そもそも絶対王政が自由主義国家を支援するのも奇妙である。だが、宿敵イギリスの弱体化は願ってもない。サラトガの戦いで貧弱なはずのアメリカがイギリスに勝利すると、側近たちから早く参戦した方が得だとせっつかれる。優柔不断な王は条約締結にサイン。イギリスもしたたかで、敗戦を覚悟すると、アメリカを自国製品の市場にした方が得策だとして方向転換し、密かにアメリカをフランスから引き離して単独講和を結ぶ。
対してフランスでは、戦争が国家財政を圧迫して王朝への信頼を失墜させ、革命の気運を高めることになる。この戦争で損をしたのはフランスというわけか。既にルイ14世の頃から財政は悪化方向にあり、その感覚が宮廷内で慢性化して、危機の境界が誰にも分からない状況にあったという。なんとなく現在のごく身近な某国の財政状況を語っているように見えるのは気のせいか...

10. マリア・ルイサとスペイン・ブルボン王朝のその後
ルイ14世の孫アンジュー公フィリップが17歳でフェリペ5世となって、スペイン・ブルボン王朝の開祖となる。彼は、いつまでたってもスペインに馴染めなかったという。宮廷内ではカタロニア語を禁じるほどに。華麗なヴェルサイユ宮殿生まれには、スペインは落ちぶれた片田舎に映るようだ。陰謀の渦巻く異国の宮廷で、神経は変調をきたす。41歳で退位して16歳の長男に王位を譲るものの、すぐさま息子が病死。ますます王冠が重くなり、鬱病で悩まされる人生。フェリペ5世が63歳で逝去すると息子フェルナンド6世が継承。その後、子供ができなかったので死去すると腹違いの弟カルロス3世が継承。
カルロス3世は歴代で最もまともで、マドリッドの都市整備などで国力をかなり回復させたという。長男は知的障害があったため、次男を王太子とする。後のカルロス4世だ。事あるごとに父はカルロス4世を馬鹿にしたという。それで本当に駄目人間にしてしまったのかは知らん。カルロス4世は従妹マリア・ルイサと結婚。後に「スペイン史上最悪の王妃」と異名をとる女性だ。
ところで、宮廷画家ゴヤの作品「カルロス4世家族像」の真ん中に描かれるマリア・ルイサの醜さは悪意でもあるのか?マリア・ルイサは舅のもとで公務をこなし、気に入られていたという。そのことが、ぼんくら王を軽蔑し鼻面で引き回すようになったとか。王妃は14人の子を産んだが、そのうち2人は愛人ゴドイの子と噂される。ゴドイは王妃の寵愛から宰相に成り上がる。王太子、後のフェルナンド7世は両親を嫌い、母の愛人が牛耳る宮廷で反対派を募る。間もなくナポレオンがスペインへの野望を露わにするが、その時ナポレオンを引きいれたのがこの王太子で、親を売ったわけだ。カルロス4世は、妻子と妻の愛人とともに亡命。マリア・ルイサは、イタリアでゴドイに看取られて死去。フェルナンド7世はナポレオンと会見するためにフランスへ赴くが、そのまま拘束される。結局、ナポレオンの兄ジョゼフがスペイン王となってホセ1世を名乗る。だが、民衆の間では反フランス運動が盛んになり、フェルナンド7世を返せ!と叫ぶ。フェルナンド7世もルイ14世の子孫なんだけど...
ナポレオンが失脚するとフェルナンド7世が返り咲き、異端審問を再開して裏切り者を処刑する。絶対王政への反対者を徹底的に弾圧して、ボナパルト家以上にスペインを血の海とする。ここまできて、民衆はようやくフェルナンド7世が悪魔だったことに気づくわけか。フェルナンド7世は息子が遺せず、3歳の娘イサベル2世に継承させた。そして、またもや王位継承問題となり女王は亡命。その後、イサベルの息子アルフォンソ12世が継承し、その息子13世へと続き、実権はフランコ独裁政権へと引き継がれる。ちなみに、現在のスペイン国王フアン・カルロス1世は、アルフォンソ13世の孫にあたるそうな。

11. 恐怖政治からナポレオンへ
1789年、国民議会は人権宣言を採択。あの「人間は生まれながらにして自由で、権利において平等である」と謳った17カ条。1792年、国民公会が招集され、共和制樹立。だが、民衆はパンの高騰に喘ぎ、各地で暴動が頻発した。そもそもフランス革命は、恐怖政治へとつながるわけだから民衆の勝利ではなかろう。新興資本家たる大ブルジョワジーが主体となった革命と言った方がいい。人権宣言とは、富裕層の人権だったのだ。
左のジャコバン派が右のジロンド派を追い詰める。だが、ジャコバン派では相変わらず内紛が続き、ロベスピエールがダントンやロベールを次々と粛清する。ジロンド派は、その内紛を突いてテルミドールのクーデターを起こすと、ロベスピエールはギロチンへ送られ、革命の方向はますます右へ右へ。そして、大ブルジョワジーは武力行使の必要性を痛感する。担がれたのは、北イタリアを制圧し英雄に祭り上がられたコルシカの軍司令官ナポレオン・ボナパルト。だが、第一統領から皇帝の称号を得ると、ロベスピエール以上の野望を剥き出しにする。どんな英雄も誇大妄想には勝てないということか。これに幻滅し公然と避難した人も少なくない。
まず、実母が息子の野望を見抜いて大反対し、戴冠式を欠席したという。スタンダールは「革命の子をやめ、ふつうの君主になりたかった」と非難したという。ベートーヴェンは「彼もだたの人間に過ぎなかった。これからは己の野心のため全人権を踏みにじり、専制君主となるだろう」と言い放ち、ナポレオンに献呈するはずの交響曲第3番は題名を「ボナパルト」から「英雄」へと変えた。戴冠式では、教皇ピウス7世がローマから呼びつけられながら戴冠の儀を行わせてもらえず、ナポレオン自身が自分に戴冠し、教皇の神権を否定するパフォーマンスをやってのけたという。ナポレオンが英雄で居続けられるのは戦争で勝利し続けること、それは本人が一番理解していたことだろう。そして、たった一度の敗戦で失脚。ロシア遠征の敗北でエルバ島へ流された。

12. ルイ18世とメデュース号事件
ナポレオン失脚後、戦後処理のウィーン会議で、ルイ16世の弟ルイ18世が帰還して王政復古する。しかし、ルイ18世は、昔の王政の権威と亡命貴族たちを復活させたために民衆から顰蹙をかい、1年も経たずエルバ島を脱出したナポレオンに復帰の機会を与える。ただ、ナポレオンが復帰するということは、戦争が続くことを意味する。民衆はそれを望んではいない。ワーテルローで敗戦すれば、たちまち百日天下も終わる。
再び王冠をかぶったルイ18世は、恐怖政治やナポレオン登場の背景から何も学ばず、相変わらず革命前の大貴族らを優遇した。そんな時、メデュース号事件が起こる。植民地セネガルに兵士や移住者を運ぶメデュース号の艦長が元亡命貴族で、その無能振りで暗礁させたあげく、自分らだけ救命ボートで脱出し、平民147人を筏に打ち捨てたという事件。病死、餓死、人肉を食すなど、生き残ったのはわずか10人だったという。事件は国際的スキャンダルとなる。その様子を描いたのが、ジェリコーの作品「メデューズ号の筏」

13. シャルル10世と諦めの悪い王党派
病死したルイ18世を継いだのは弟アルトワ伯で、シャルル10世を名乗る。とはいえ既に66歳。ランス大聖堂の戴冠式や聖別式などの華やかな王朝儀式を復活させ、亡命貴族の財産を補償したり、財産分与を防ぐための長子相続法を復活させる。亡命貴族や聖職者への優遇や国王への権力集中は、経済不況と重なって、民衆ばかりでなくブルジョワジーの不満も招く。シャルル10世は、戦争によって不満を紛らわそうとアルジェリアへ出兵。ちなみに、フランスのアルジェリア支配は、この時からド・ゴール大統領が独立を承認するまで続くことになる。この侵略戦争も民衆を宥めることはできす、選挙は反政府派が勝利する。
シャルル10世には思いこみがあったという。ルイ16世は軟弱な政策をとったばかりに革命を招き処刑されたと。シャルル10世は強腰を崩さず、王の権威を知らしめようとする。そして、緊急勅令を出す。なんと!選挙後にまだ召集もされていない下院を解散し、選挙法を改変して報道の自由を禁止したという。ルイ16世は英国史を研究して、チャールズ1世処刑の原因を強硬路線に見出したとして、その反対路線をとった。今度は、弟シャルル10世がルイ16世の反対路線をとったわけだが、双方の失敗は情勢が読めなかったことであろう。既に人権思想が高まっていたことを完全に無視すれば、三色旗が翻って七月革命が起こるのも仕方があるまい。
国民にとって恐怖政治へ回帰することが最も怖い。過去の革命の経験から、国民は革命後の秩序が重要だと認識していたという。第二のロベスピエール、第二のナポレオンの出現を阻止するためには王家は残しておく方がいい。ただし、絶対君主制を夢見るのは論外。では誰が王に相応しいか?ブルボン家の支流オルレアン公ルイ・フィリップに白羽の矢が立つ。ルイ14世の弟から始まる6代目で、ルイ・フィリップ1世を名乗る。シャルル10世は退位させられたが、処刑もされずに見くびられたという。もう王政復古に戻る心配がないほど、民衆やブルジャワジーたちは懲りていたということか。
シャルル10世は、息子夫婦とイギリスへ亡命、6年後にイタリアで死去。それでも、王党派は諦めきれずにシャルル10世の息子アングレーム公をルイ19世と呼んだという。アングレーム公は、ルイ16世とマリー・アントワネットとの間の娘マリー・テレーズと結婚していた。王党派は次にシャルル10世の弟ベリー公の息子シャンボール公をアンリ5世と呼んで夢にしがみつく。しかし、無力な貴族たちが亡命先で騒いだところで、負け犬の遠吠えでしかない。二人が子を残さずに世を去ると、ブルボン家は完全に滅亡。ルイ・フィリップもまた18年の在位中に保守反動化していき、とうとう民心から見放され二月革命で追放される。
これで王政は完全に終焉し、やっと本格的な共和政が到来した...かに見えた。いやまだ、ルイ・ナポレオンって奴が残っている。ナポレオン・ボナパルトの甥だ。

14. ドラクロワの作品「民衆を導く自由の女神」
この絵画は、歴史教科書などでお馴染みで、誰もが一度は目にしたことがあるだろう。このロマン主義を代表する傑作は、革命フランスの原点とも言うべきものがある。そもそも、なぜ胸をはだけた女性が市街戦の最前線にいるのか?実は、彼女は人間ではなく、人間の姿をした抽象概念だそうな。人間中心主義的思想であるのは間違いないのだろうが、宗教画の意味合いが強いのだろう。このあたりのセンスが西洋画の分かりにくいところである。擬人像「自由」は、従来フリジア帽(先端の垂れた円錐形の帽子)をかぶった女性として描かれるのが決まりだという。それは、ローマ時代に解放された奴隷が女神フェロニアの神殿でフリジア帽を与えられたところからくるらしい。この絵では、フリジア帽をかぶった上半身裸の女性が、左手に銃剣を握って、右手で三色旗を掲げている。これがフランス国旗となるのだが、青、白、赤のトリコロールカラーは、自由、平等、博愛を表す。つまり、ルイ18世が禁止した旗が振られているということらしい。なるほど、大ブルジャワジーのフランス革命から、ようやく民衆のフランス7月革命へ辿りついたことを描いているわけか。ちなみに、ドラクロワは富裕な外交官の家に生まれたが、本当の父親はタレーランという説もあるという。父親はブルボン王朝を支持し、息子はそれを否定したということか?

2011-07-10

"ジョゼフ・フーシェ" Stefan Zweig 著

「サン=クルーの風見」と呼ばれ、ナポレオンでさえ恐怖を抱かせた男ジョゼフ・フーシェとは何者か?政界のカメレオン、変節と転身の軽業師、裏切り専門の陰謀家、下劣な岡っ引き根性、浅ましい背徳漢...悪口を並び立てればきりがない。この感じの悪い人物の評伝は、14カ国で翻訳版が出版されたという。おいらが出会った伝記小説では、間違いなく上位にランクする一冊だ。
本書は、理想主義に偏り過ぎるのも恐ろしいが、極端な現実主義に陥るのも恐ろしいことを教えてくれる。あのラスプーチンが神秘主義で霊感的に支配したとすれば、フーシェは超現実主義で心理的論理で支配したといったところであろうか。そこには、メフィストフェレスのような悪魔的能力に対する尊敬の意がうかがえる。ナポレオンは、次のように述懐したという。
「余は一人だけ本当の完全無欠な裏切者を知っていた、フーシェだ!」
この男の行動の原理は、人間の恐怖心を利用することである。それは彼自身の恐怖心も含まれる。フーシェは人間の本性を最も理解していたと言えよう。
尚、著者シュテファン・ツワイクは、リットン・ストレイチーやアンドレ・モーロワと並ぶ世界的伝記作家だそうな。ユダヤ人としてウィーンに生まれ、ヒトラー時代にはイギリスに難を逃れ、アメリカを経てブラジルに亡命する。そして、真珠湾攻撃から3カ月も経たないうちにペトロポリスで自殺したという。その作品では「マリー・アントワネット」が広く知られる。これもいずれ挑戦してみたい。

表紙には「近世における最も完全なマキャヴェリスト」という触れ込みがある。だが、読んでいるうちにマキャヴェリズムの解釈が難しいことに気づかされる。前記事で「君主論」を扱った時は、確かにマキャヴェッリは、国家的危機に遭遇すればあらゆる手段を模索すべきだと語っていた。それを目的のためならなんでもありと拡大解釈すれば、こうなるのかなぁ。「君主論」の悪評を広めているのは、マキャヴェリストたちかもしれない。歴史的に影響を与えた思想というものは、例外なくご都合主義者たちによって歪んだ解釈を生む。マルクスは「私はマルクス主義者ではない!」と言ったとか言わなかったとか。
政治の歴史を紐解くと、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演じることは稀である。思想観念的なものがはるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物、すなわち黒幕のような人物が決定的な仕事をする。歴史的事象は理性と責任から生じるのではなく、疑念や不徳といった政治屋の思惑によって動かされてきた。すべては、いかがわしい性格と不十分な悟性によって運営されてきた。これが政治の矛盾であろうか。人間が悪魔へと進化するならば、「毒をもって毒を制す」という自己循環の原理からは逃れられないであろう。

ジョゼフ・フーシェという人物を良く言う人はいない。王党派であろうが共和党派であろうがボナパルト派であろうが。その人物像は、魔神と呼べるほどの無性格、無思想、泰然自若たる冷血性、そして猛烈な野心家ではあるが虚栄心は持たない。ただ、陰謀の情熱を測るならば、その強さは英雄伝説に匹敵するほどの凄まじいものがある。なにしろ、ナポレオンやロベスピエールのような大物を手玉に取ったのだから。
この人物を高く評価したのが作家バルザックで、次のように語ったという。
「あらゆる面貌のもとに見通すことのできない深さを蔵しているので、その行動の瞬間においては、とうていその真意を洞察し得ないが、一芝居すんだずっと後になって、ようやく合点のゆくといったような人物の一人」
本書は、「ナポレオンが有した唯一の名大臣」、「奇妙な天才」と評している。
その風見鶏的行動は超一流...僧院の教師を勤めていたはずが、フランス革命期には徹底した寺院の破壊者になる...急進的共産主義者で金持ちを敵としていたはずが、ボナパルト政権では大資産家となり、オトラント公爵を名乗って貴族づらをする...無神論者のはずが、王政復古に際しては熱心なキリスト教信者へと変貌する...といった具合。その変わり身の早さは主義主張の存在をまったく感じさせない。ちなみに、マキャヴェッリも共和制を唱えながら、メディチ家に媚を売ったことで裏切者呼ばわれして世を去った。
フーシェの行動はワンパターンで、謀略を尽くし都合が悪くなるとあっさりと共同者に責任を押し付けて、自分は助かるということの繰り返し。ただ、政界から追放されると、その都度善良な市民の田舎暮らしへと回帰する。その安穏な姿と政界を生きる陰謀家のギャップの大きさ。浪人生活は、狡猾な頭脳を休ませるための充電期間というわけか。浮き沈みの激しい波瀾万丈。その振幅の極端な大きさは、野望の大きさを示している。
政治屋としてのあくどさという意味では、どこの政界でも見られるタイプ。有利な政党を渡り歩く者や、大臣ポストに近いところをうろうろする者や、ひたすら選挙戦略を練っている者など、どう見ても主義主張など何もないような政治屋を見かける。というより、こういうタイプが多数派であろう。民衆運動が起これば、政党の旗を持って便乗する者など、その行為があまりにも露骨過ぎて見ている方が恥ずかしくなる。彼らは、その滑稽さにも気づいていないのだろう。脂ぎった野心は盲目にさせるようだ。そして、いつも「命をかけて!」と叫ぶ。まったく命を安っぽくしやがる連中だ。
しかし、フーシェの野心は桁違いだ。一旦、命をかければ本当に殺してしまう。血なまぐさい陰謀をちょっとした悪戯とでも考えているかのように。政界には、トップとして君臨したいという野心家もいれば、黒幕としてトップを操りたいという野心家もいる。フーシェは後者のタイプ。陰に潜れば責任を負うことはない。政治生命を延命するには実にうまいやり方だ。ただ、ナポレオンのように表立って君臨したいという欲望を見せる場面もある。できればそうしたいのだろうが、現実的には陰の人物としてとどまることを心得ていたのだろう。そして、政界からの去り方を知らなかったために、歴史から恨まれ役を与えられた。

政界を裏で牛耳るとなれば、単純に金の力ということになる。では、いかに金の集まる仕組みを作るか?これが、暗躍する政治屋の実力ということになろう。フーシェは、警務大臣に任命されると、あらゆる国家機密を押さえ、その実力の源泉を諜報力に求めた。そして、国内外を張り巡らす大規模な諜報システムを構築し、憲兵や保安部隊を自在に操った。いざとなれば売国行為ができるほどに。
王家やボナパルト家、あるいは閣僚の金銭問題から女性関係、業界との取引など、あらゆる情報を押さえているので、強迫や買収も思いのまま。彼が政界から追い出されるたびに、警務省の機密書類が紛失し、閣僚たちが怯える始末。ちなみに、ボナパルト家の諜報活動で最も活躍したのは、皇后ジョゼフィーヌだったという。現在でも、警視庁や特捜と深く関わる政治屋が、力を持ち続けているのは周知の通りである。情報を制する者が政界を制するというわけか。しかし、高度な情報化社会ともなれば、情報漏洩で簡単に暴露されるという危険性がつきまとう。となれば、正直者が優勢となるだろうか?いや、もっと巧妙化しているようだ。あくどい奴はますますあくどくなり、精神の泥酔者はますます泥酔する。これが格差社会というわけか。
一昔前は国対族が暗躍していた時代があったが、現在ではどうなんだろうか?政治体制によって、どこに力が及ぶかを想像すれば、どこに黒幕が暗躍するかが見えてくる。民主主義では多数決の原理が強烈なために、最も影響を与えるのは選挙ということになる。となれば、選対族なんてのが怪しいことになりそうだ。選挙で勝てそうな流れがあれば堂々と表に出てきて、負けそうな流れになれば目立たぬように引っ込む。そのしたたかさが、「俺の顔で選挙に勝てる!」なんて幻想を植え付ける。彼らはひたすら票田に群がるという特性を持っている。そして、派閥の勢力を拡大するためにチルドレン戦略がまかり通る。なるべく思考しない集団がありがたいというわけだ。政治には、政治理念なんてものはまったく関係しないのかもしれない。これが政界の力学というものであろうか。

1. 僧院生活
港町ナント出身のフーシェは、克己の厳しい訓練を10年に渡る僧院生活によって身に付ける。ちなみに、フランス革命の三大外交家、タレーラン、シェイエス、フーシェは、いずれも僧院出身だそうな。
政治情勢が激動期を迎えれば、精神論争や哲学論争、あるいは宗教に逃避する者が急増する。僧侶たちは知識階級と結び付いて社交クラブを結成する。北部の町アラスの「ロザティ」という社交クラブで、弁護士マクシミリアン・ロベスピエールと運命的な出会いをしたという。フーシェはロベスピエールの妹と婚約までしているが、破棄された。その理由は分からないらしい。何かわだかまりのようなものが残ったことは想像できるが...

2. 革命政府
フランス革命によって新たに選出された議員たちの中にナント市の代議士フーシェがいた。議会が混乱する中、席順だけでも秩序を保とうとする。ここには、ジャコバン党から、穏健派のジロンド党と急進派のモンターニュ党に分かれた構図がある。一番低い場所に陣取るのが、穏和で控え目、決議になると気のない連中で、マレー(沼沢)党と呼ばれる。暴れまわる急進的な猛者どもは、一番高い場所に陣取り、モンターニュ(山岳)党と呼ばれる。山岳か山賊かは知らんが、最後列の傍聴席に近い位置にあるのも、背後に民衆やプロレタリアがいるという象徴なのか?あるいは、そう自負していたのか?
フーシェは、とりあえず多数派で内閣の椅子を占めていたジロンド党に所属する。しかし、この日和見主義者への友人ロベスピエールの視線は厳しい。用心深いフーシェは、のらりくらりと態度を誤魔化す。ルイ16世はタンプル獄に囚われ、一介の市民として「ルイ・カペー」と馬鹿にされる。だが、いまだ危険な存在で、国民公会は助命か処刑かで揺れる。さすがにここでは曖昧な態度はとれない。投票前日まで穏健派が優勢なので、フーシェは助命に投票するつもりだったが、その晩、急進派がテロを画策して民衆暴動を扇動し、穏健派の代議士は暴力に巻き込まれる。そして、投票当日に急進派が優勢と見るや、フーシェはモンターニュ党に鞍替えする。
死刑に投票したことが、翌日報じられれば、穏健派の強いナント市民は憤慨するだろう。フーシェは、電光石火のごとく確固不動の信念として力強い声明を発し、機先を制す。ルイ16世の暴君ぶりを暴き、処刑やむなし!と、あたかも決断をしたかのように振る舞う能力は天才的だ。堂々たる声明で保守的な市民を黙らせた。そして、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットはギロチンへ送られた。

3. 恐怖政治と「リヨンの散弾乱殺者」
フランス革命史において、「リヨンの叛乱」は最も血なまぐさい殺伐な事件だったという。農業国フランスにあって、リヨンは第一の工業都市で社会階級の対立もパリより激しい。狂信的な人間愛を心棒すると逆に残忍な行為に及ぶもので、理想主義に憑かれるがゆえに余計に流血の惨事を招く。リヨンは公然と王党派に投じたが、プロレタリアの兵士は雪崩を打って侵入する。リヨンの陥落でフランス革命は最高潮となる。
革命政府は、リヨンの徹底的な弾圧と破壊を命じ、ロベスピエールの友人クートンを派遣する。しかし、クートンは、フランス最大の工業都市と美術記念碑までも破壊することは自殺行為と悟る。そして、リヨンを保護しようとしたが、その緩和処置は過激派に見透かされ、国民公会から責任を問われる。
後任として、コロー・デルボアとフーシェが派遣され、容赦なく徴発し財産を掠奪する。ただ、フーシェは、市民は誰もが臆病で、処刑の必要性の按配も心得ていたようだ。効果的に噂が拡がるような手段を講じる。フーシェは、自画自賛して次のように書き残したという。
「われわれがローヌ河に投げこんだ血だらけの死骸が両岸に沿うて流れてゆき、その河口たる嫌悪すべきツーロンにまで達し、臆病にして残虐なイギリス人の目の前に、恐怖の印象と民衆の全能の姿を示すことは必要である」
ちなみに、ツーロンは王党派を支援するイギリスとスペインによって占領されていた。ツーロンまで流すというのは地理的にも大袈裟であるが、共和国の復讐がいかに凄まじいかを印象づける一節である。
また、ロベスピエールやダントンでさえ、教会や私的財産を侵すのに慎重だったのに、フーシェは急進的社会主義者へと変貌し、ボルシェヴィズム的な案を提出しているという。本書は、フランスにおける最初の共産主義宣言は、実はカール・マルクスでもなければ、ゲオルク・ビューヒナーの「ヘッセンの飛脚」でもなく、フーシェが草案した「リヨンの訓令」であるとまで言っている。それは、革命精神に則ったあらゆる行為は許され、貧民層は富で獲得した支配者階級の財を奪うことができるという内容である。そこには、労働が社会を養っているからという理屈がある。共産主義的思考では、金持ちは不義にして富める者とされ、極悪人とされた。
フーシェは、国民公会が公認する無制限の権力に飽き足らず、教会のあらゆる機能を奪い取る。無神論的な説教で霊魂と不滅と神の存在を否定し、キリスト教の葬儀を廃止する。没収した教会や私的財産を議員連に送ったのは、フーシェが最初で拍手喝采を浴びたという。
ここには、「フーシェ = 恐怖政治」の構図がある。もしかして、テロリズムやテロルの語源は、この人物にあるのか...

4. ロベスピエールとの決戦
ロベスピエールがパリで最有力者になると、リヨンの残虐行為が国民公会で問われる。ロベスピエールと敵対していたダントンをギロチンにかけたのも、精神的指導者コンドルセが裁判を避けるために自ら毒を仰いだのも、すべてロベスピエールの策謀だという。国民公会は、ジロンド党員の席がぽっかり空いていた。ロベスピエールは右派を百名ばかり片づけたのだ。山岳派もロベスピエールに反対する者らが墓場へ送られた。
フーシェは、正直で一本気な同僚のコロー・デルボアに、残虐の全責任を転嫁して、さっさと逃げようとする。そして、いままでの功績を鼻にかけて挑戦的に情熱的に弁明する。だが、いまいち反応がない。ヤバいと見たフーシェは、その晩ロベスピエールの家を訪れて赦しを請う。ロベスピエールは、意見の違う者を容赦しない、反対者の降伏でさえも許さない、サン=ジュストやクートンのような思想的奴隷でなければ許せない人物である。こうなるとフーシェが助かる道はただ一つ、相手を殺すしかない。
ロベスピエールは堂々たる思想的な演説によって無神論者のフーシェを脅かす。この大演説に拍手は鳴りやまない。対して、フーシェは地下活動で画策し、いつのまにかジャコバン党の総裁に選ばれた。これにはロベスピエールも寝耳に水。かつてアラスの社交クラブで一緒に語った仲間が、巧みな策謀家に変貌していたことに気づいていなかった。いまや、ロベスピエールが演説しようとすれば、フーシェの許可がいるのだ。
ロベスピエールには一途な頑固さがある。そして、公然と弾劾を繰り返しフーシェに弁明を迫る。フーシェが弁明を避けると、党員たちは総裁の資格を奪い、ジャコバン党からも除名される。ギロチンの恐怖に憑かれるフーシェは、ロベスピエールの計画しているブラックリストをでっち上げ、「君もリストに載ってるよ!」と脅してまわる。代議士たちに微塵もやましいことのない者は数えるほどしかいない。ロベスピエールに反対したことがなくても、金銭問題や婦人問題、あるいは死刑宣告を受けた人間と交友があったとか、言い出したら切りがない。ちなみに、婦人問題は共和主義的清教徒では犯罪である。
うまいこと裏で糸を引きながら、ロベスピエールの陰謀事件ではフーシェの名は出てこない。決戦当日、国民公会では、議員たちは互いに目を合わせるが、なぜか?フーシェだけが欠席している。依然として、代議士たちは最も強力な権力者の攻撃を渋っていた。そこへ、一人がロベスピエールに反対を表明すると、それが伝播して臆病が団結へと変化する。フーシェは、そうした臆病な集団心理まで読んでいたのだろう。結局、ロベスピエールはサン=ジュスト、ジョルジュ・クートンらとギロチンへ送られることが決議された。

5. 警務大臣に就任
ロベスピエール失脚後の総裁政府(五総裁内閣)、統領政府(ナポレオンが第一統領となった政府)、そして、ナポレオン皇帝の時代に、フーシェは警務大臣を勤める。フーシェがこの要職に就くと、上役や大臣や政府を監視する。そして、たちまち職権外まで手を伸ばし、全国をくまなく監視する機関を組織した。どの政権においても秘書が買収され、あらゆるスキャンダルがフーシェの耳に入る。彼は、戦時でも平時でも、政治では諜報がすべてであることを熟知していた。もはやテロルよりも有効な手段を得たのだ。諜報機関を掌握すれば、あらゆる方面から金が転がり込んでくる。賭博場、娼家、銀行などから。
陰謀を助成するかと思えば妨害したりと自由自在。知っているということは、知らない振りもできるわけだ。権力の最高の秘訣は、密かに味わい小出しに使うものだという。

6. ボナパルト政権
共和国は堕落し、一人の独裁者にしか救済できない状況にまで追い込まれていた。エジプト遠征に赴いていたボナパルト軍が近々フランスに上陸することを知っていたのは、フーシェひとりだったという。ナポレオンが帰還すると大臣連は競って媚を売る。タレーランでさえ。だが、用心深いフーシェは、その成功をギリギリまで見極めてから閣僚に収まる。
ナポレオンが共和制の第一統領の地位では飽き足らず、いよいよ野望の本性を現すと、陰で振る舞う陰謀家の存在感が増す。汚い仕事はすべてフーシェにお任せ!権力者にしてみれば、自分は手を汚さずに済む実に都合のいい存在だ。専制君主たる皇帝になるためには議会を説得しなければならない。そして、買収や謀略が企てられる。政治の不徳を正すために蜂起したこの天才にして、地位に目が眩むと誇大妄想に憑かれる。強烈な野望で盲目した独裁者の周りには、思考の停止したイエスマンか、イエスマンを演じる策謀家しか集まらない。アンギアン公ルイ・アントワーヌを中立国から引き出して、処刑したのはフーシェにして「犯罪以上の失策」と言わしめた。
ところで、フーシェは貴族出身のタレーランと肌が合わない。二人の敵対関係はナポレオンにとって都合がよい。互いが競って怪しい動きを報告し合うから。しかし、スペイン遠征には二人は協力して反対する。愚かな兄ジョゼフが王冠が欲しいと言うもんだから、恰好のものが見当たらないので、国際法を犯してスペインから王座を取り上げた。これには誰もが不条理を感じる。ただ、皇帝に公然と抗議したのはタレーランで、フーシェは裏に回る。そして、タレーランだけが免職し、フーシェは助かった。
しかし、汚い話ばかりではない。国家危機ともなれば、フーシェは抜群の政治手腕を発揮する。ナポレオンがスペインで苦戦して留守をしている時、プロイセンとオーストリアが侵入してきた。閣僚連中が慌てふためく中、独断で国民軍を組織しフランスの危機を救う。閣僚たちが、その行動を命令違反としてナポレオンに進言すると、ナポレオンはむしろフーシェの行動を絶賛し閣僚たちを叱る。ナポレオンとフーシェは、互いの能力を認めていた。だが、心の底では互いに嫌っている。フーシェはその野望からナポレオンが邪魔で、ナポレオンはフーシェの謀略家としての危険性を十分に承知していた。
そして、ナポレオンがロシア遠征に失敗すると、フーシェを危険人物として恐れる。皇帝は他の王家とは違って、たった一度の敗戦が失脚の原因になるという政治基盤の脆さを知っていた。ナポレオンは、フーシェをパリから遠ざけようと画策する。そして、「イリリア」という架空の国の統治者に任命する。もし占領すれば君のもの!というわけだ。いかにもギリシャ神話に登場しそうな架空名としてふさわしいから笑える。フーシェはその謀略を知りながら渋々ドレスデンへ赴く。フランツ皇帝が攻めてきても、やる気なし。
ナポレオンはライプツィヒの会戦で大敗し、ついに支配権を失った。政変が革命的に起こる時は、火事場泥棒的な状況となる。フーシェは、パリに行くのに遅れをとり、結果的にナポレオンの策略が功を奏した。フーシェは、あらゆる有力者に媚びへつらい要職を得ようとするが失敗。彼にはプライドというものがないのか?
一旦ナポレオンはエルバ島に追放されるが、復帰して百日天下の時期に、懲りずにフーシェを登用する。嫌ってはいるが、ナポレオン自身を理解する一番の人物だと思っていたらしい。ナポレオンが皇帝に収まれば、戦争を繰り返すことを意味する。議会は、ナポレオンが自ら退位することを迫った。その先頭をきったのがラファイエット。民衆が平和を願いナポレオンが求心力を失うと、ついにフーシェが引導を渡す。

7. 王政復古と失脚
さて、次の総裁は誰か?ラファイエットは奸計で落伍させられるが、第一回の投票では、一位がカルノー、二位がフーシェ。よって、カルノーが臨時政府の上席を得た。ところが、フーシェは陋劣なトリックを使う。次に5名の委員会からなる組織によって、総裁を選出すべきだとカルノーに持ちかける。しかも、自分はカルノーに投票すると控え目を演じて。だが、2名を買収して、自分に投票して3対2で勝つ。大衆に人気のあったラファイエットに続いて、カルノーもしてやられた。とうとうフーシェは、絶対君主の座を手に入れた。ルイ18世から使者がくるわ、タレーランから慇懃な挨拶状がくるわ、ワーテルローの勝者ウェリントン公は隔意ない報告を送ってくるわ、いまや絶頂期を迎える。
あらゆる方面でいい顔をして、議会の前ではナポレオンの子息を、カルノーの前では共和制を、同盟軍の前ではオルレアン公を、推すように見せかける。だが、実のところ密かにルイ18世に舵をとる。誰もがどこへ向かっているか気づかせないように、実に見事だ。ただ、この時期には、これが最高の解決策だったという。王政復古のみが、外国の軍隊に蹂躙されているフランスに庇護を与え、摩擦を生じさせない方法であったと。誇りとプライドの高すぎるフランス国民を導くための現実的な施策だったということであろうか。フーシェは、重臣、民衆、軍隊、議会、元老院の反対を押し切った。政治的判断力で一流だったことは間違いないようだ。しかし、賢明な施策も一つ重要なものが欠けていたという。それは自己の利害を忘れる精神である。自分の利益を優先して政界から去る方法を知らないために、後に追放されることになる。
フーシェは、ナポレオンを失脚させて、見事にルイ18世の王政復古のお膳立てをした。しかし、ルイ16世とマリー・アントワネットの娘アングレーム公爵夫人マリー・テレーズはフーシェを絶対に赦さない。ルイ18世だって兄の恨みを忘れてはいない。しかし、よほど便利な男なのだろう。選挙対策や諜報活動で重宝した。
ルイ18世が戻ってくれば、タレーランが内閣首班格に就く。タレーランは晩餐で、自分が恐怖政治時代に国民公会の逮捕令を逃れてアメリカに亡命した頃の話をした。そして、アメリカ駐在大使になる気はないかと促す。フーシェは大臣職を取り上げられることに気づき、真っ蒼になる。ドレスデン宮廷の公使に任命すれば、この左遷を断るだろうと思われたが、大はずれ。例のごとく、権力にぶら下がるためならば、卑屈になりさがり、犬になって尻尾をふる。ナポレオンが最後まで権力を固辞しようとしたように、フーシェもまた最後の称号にしがみく。しかし、ルイ16世を死刑にしたナントの大逆人、リヨンの散弾乱殺者の事実が消されるわけではない。あらゆる特赦の恩典からも除外され、とうとうフランスから追放される。ドレスデンでは、ザクセン国王からも私人として滞在することも認められなかった。およそ権力を持たない権勢家、失脚した政治家、策の尽きた陰謀家ほど、この世で哀れな存在はない。

8. 晩年
追放当初は心配していなかったという。なんといってもロシア皇帝の知り合いで、ワーテルローの勝者ウェリントン公の親友で、オーストリア宰相メッテルニヒの友人だと思いこんでいるのだから。そして、何度も意中をほのめかすが、どこからも音沙汰はない。メッテルニヒでさえも、どうしても来たいならオーストリア領に来るのはいいよ!そこまで反対するほど心の狭い人間ではないよ!でも、ウィーンはダメよ!みたいなことを言われる始末。
かつて、全ヨーロッパを監視していた男が、いまや自分が監視されている。自ら考案した巧妙な諜報システムによって、かつての部下たちが手紙から会話までを盗聴する。どこへ行っても厄介者扱いされ、こそこそと逃げ回るはめに...かつて監視して排除した者たちの亡霊に追われるように。
56歳の老人フーシェには、26歳の若い夫人がいた。再婚時、ルイ18世に結婚証書に著名してもらうという栄誉をもらったこともあった。しかし、プラハへ移り住むと、夫人はチボードーという同じく国外追放された共和党員の息子と恋に落ちる。どの程度の恋愛かは分からないが、それが世間にもれると、オトラント公爵夫人と愛人、そして老齢な亭主という構図で、おもしろおかしく書きたてるのがジャーナリズムというものだ。かつて、警務大臣の下で沈黙させられていた新聞は、ここぞとばかりに唾を吐きかける。
彼が、最後の瞬間まで持ちこたえられたのは、政治の舞台へ復帰する希望だけだったという。偽名を使ってまで、「オトラント公爵に関する同時代の覚え書」というものを発表して、才能や性格を生き生きと描き、匿名の自画自賛の書を出したという。しかも、回想録を執筆中で、近々ルイ18世に献じられるとまで言いふらしたそうな。だが、世間からは忘れられ、ほとんど相手にされない。
見兼ねたメッテルニヒは1818年にトリエストに転地することを許し、1820年この地で死去。彼の死後4年、回想録が出版されるという噂が流れると、中には背筋の寒い思いをする権力者もいたことだろう。警務省で紛失した極秘書類の行方はいまだ不明なのだから。だが、ほとんど当てにならない代物だったという。最後まで沈黙を守り、すべての極秘情報を墓場まで持ち去った根っからの政治屋だったというわけか...

2011-07-03

"君主論" Niccolò Machiavelli 著

日本の政治が三流と言われて久しい。東日本震災後の政治のゴタゴタと報道のあり方は、太平洋戦争期と重なって映る人も少なくないだろう。戦時中は索敵の不徹底が悲劇を繰り返し、国民は終戦直後まで勝利を信じさせられてきた。そして今、三ヶ月前の原発報道は何だったのか?情報に対する姿勢はなんら変わっていない。いや、大本営の乱立はむしろ質ちが悪いか。
不思議なのは、政治が機能しなくても経済力はしっかりしていることだ。ほとんどの国で経済の整備は国家主導でなされるが、この国は邪魔をしている。鍛えられているということか?外国人からは、日本は国家や企業などの組織において現場がしっかりしているとよく指摘される。言い換えれば、リーダシップ論やマネジメント論といったものが根付かないと揶揄されているのだけど。
政策立案で現場主義や現実主義を唱えれば、それなりに良く聞こえてくる。だが、現場の分からない輩にまともな助言をしても無駄だ。余計なポストを設けたり、対策本部を乱立させたり、命令系統を複雑化することは絶対にやってはいけないこと。そんなことは、ちょいとマネジメント経験があれば分かるはず。とっとと現場に権限を委譲する方がいい。政治主導とは、余計な存在感を示すことなのか?こんな状況であっても、マキアヴェリストを称する者は少なくない。あの世でマキアヴェッリは呟いているだろう。「私はマキアヴェリストではない!」と...

「君主論」は、いろんな翻訳版があって目移りしてしまう。とりあえず一番安そうな講談社学術文庫版(佐々木毅氏訳)を手に取ってみた。本書は意外な面を見せる。というのも、その題目からして独裁論のようなものと勝手にイメージしていたからである。こんなことなら、もっと早く手にしてもよかった。
ここでは君主のあり方が論じられるのだが、君主という形態だけでなく政治全般のマネジメント能力について論じられているように映る。それは、幸運や偶然によって得た支配権や、実力で勝ち取った支配権など、様々な支配権の獲得方法を論じながら、いかに民衆を統治するかを重視しているからである。支配や征服のあり方を論じながら共和政を考察したり、はたまた世襲制や完全に新しい政権などの権力誕生の過程なども考察する。マキアヴェッリにとって君主権とは、君主政だろうが共和政だろうが、あまり区別がないようようだ。
また、モーゼを優秀な指導者の一人とするなど、政治的統治能力を宗教と区別なく扱っている。これには宗教家たちから攻撃されたことであろう。当時にしては勇気のいることであり、優れた点とも言えよう。したがって、「君主論」というよりは「統治論」と言った方がいい。ただ、独自の植民地論を展開したり、過激で独裁君主的な発言もちりばめられ、時折不愉快にさせられる。
「戦争を避けるために混乱を放置すべきではなく、戦争は避けられないのであるから、先に延ばせばかえって自らにとって不利になるだけのことである。」
この記述だけを平和主義者が拾い読みすれば、マキアヴェッリは批判の矢面に立たされるだろう。陰謀に関しては、「君主は批判を招くような事柄は他人に行わせ、恩恵を施すようなことは自ら行うということである。」と発言している。また、「人間は恩知らずで気が変わり易く、偽善的で自らを偽り、臆病で貪欲である。」といった人間悪魔論的な議論も展開される。だが、それはそれで胡椒が効いていていい。人間が善悪の双方で本質を抱えている限り、人間悪魔論的な考察を避けるわけにもいくまい。人間善人論的でくすぐったくなるような理想像ばかり並べ立てるよりは遥かに現実的である。
また、当時のイタリアが特殊な政治状況で病んでいたからこそ、「君主論」という題名を与えたのかもしれない。それは、最終章の題目が突然「イタリアを蛮族から解放すべし」という感情論で締めくくっていることからも伺える。

時代はルネサンス末期。国内で勢力拡大を目論むヴェネツィア人の野心が、フランス王国と通じるという売国行為のために権力バランスが崩壊し、教皇の権力を異常に拡大させてしまう。その一方で、カール5世率いる神聖ローマ帝国の圧力に曝される。非常に不安定な政情となれば、民衆は強力な指導力を発揮する英雄的政治家の登場を願うものだ。ただし、強力な指導力は民主主義と衝突するところがある。
いつの時代でも政権を維持するには、その時代の有力者たちを満足させなければならない。ローマ帝国時代では、民衆よりも兵士の方がはるかに強力であったために、兵士たちを喜ばせなければならなかった。貴族社会では貴族を喜ばせ、貴族が腐敗すれば君主もそれに加担するという始末。産業革命期では、資本階級を喜ばせた。では、民主主義では民衆を喜ばせるように政権運営がなされているだろうか?なるほど、一部の民間団体が既得権益を強化させて政治支援団体と化す。
となれば、問題は選挙制度であろうか。一つの選挙区の規模があまりにも小さいために地元との癒着を強める。そして、当選回数が多いほど党内で幅を利かせ重要なポストに就く。おまけに、チルドレン議員を増殖させて派閥を利かせる。得票数からすれば国会議員よりも知事の方が権威がありそうなものだが、国を背負うということで格付けは上だ。真の権威を与える意味でも、一つの選挙区の規模を大きくし、国会議員の数を大幅に減らすべきであろう。日本では、かつて民意が反映されて国家元首が決まった例があまりない。我が国に民主主義はないという意見が少なくないのもうなずけよう。

統治術という観点からすれば、それが君主政であろうが共和政であろうが、はたまた民主政であろうが、対象が民衆であることに変わりはない。今日の民主政治は、法律や政治手法といった手段ばかりに目を奪われ、根本的な政治への信頼は失われつつある。統治術の基本原則には、政治への信頼がある。たとえ独裁政権であっても、公明正大な権力運営がなされるのであれば問題はない。だが、歴史はそれはありえないことを十分過ぎるほど証明してきた。だからといって、平等を崇め過ぎれば合法的に搾取され、自由を崇め過ぎれば独占形態に辿り着く。君主が暴走することもあれば、民衆が暴走することもある。政治が暴走することもあれば、法が暴走することもある。宗教的な暴走もあれば、世襲的な暴走もある。どんな政治体制であっても、人間社会は常に暴走する危険性をはらむ。民主主義の暴走は、独裁政権と同じくらい危険であることを肝に銘ずるべきであろう。
あらゆる組織で政治的な要素が絡み、政治術には人間操縦術が秘められる。つまり、政治とは、マネジメント能力に他ならない。しかし、だ!真にマネジメント能力のある者は、民主政治には向かないのかもしれない...などと考えてしまう。
政治では欺瞞するのが巧みな者ほと優位となり、マネジメント能力よりも宣伝能力が問われる。現場を知らない人間がマネジメントをやれば、混乱を招くのは必定。彼らのできる事と言えば、「情報を出せ!」と脅すことぐらい。情報が集まったところで分析能力がないのに。好転した組織の影では、意思決定の権限を持つマネージャが穏やかな独裁者として振る舞っている。わざわざ善人を演じるような肩の凝ることを嫌い、無骨な態度で合理的に目的へ邁進する。企業体においてマネージャの地位に就く者は、民主的な投票で選出されるわけではなく、組織の上層部が独占的に意図する。真の実力者には、ある程度の独裁的裁量を容認する必要があろう。ただし、それを支えているのは、マネージャを含めたメンバー全員が共通の目的意識や哲学意識を持っているからであるが。
国会議員になる資格として、地方自治体や産業界などで実績を持った者でなければならないといった風潮を築き上げない限り、永遠に国政は現場と乖離し続けるであろう。つまり、選挙民の意識にも問題がある。こうした背景から、政界には真のマネジメント能力を持つ人材、あるいは組織が出現する可能性は極めて低いだろう。地位が人を作ると言うが、地位を得た者は視野が狭くなるというどこぞの調査報告も本当かもしれない。
「君主にとって必要なのは、信義の資質を有することではなく、それを持っているように見えることである。」

1. マキアヴェッリ
ルネサンス末期、フィレンツェで育ったマキアヴェッリは、イタリア政治の没落を身をもって体験した世代だという。1494年フランス王シャルル8世のイタリア侵攻によって、イタリア情勢は一変する。メディチ家に支配されていたフィレンツェは、共和政へと復帰し独立都市国家となる。その時、マキアヴェッリは書記官に登用され、教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアとの交渉や、フランス王国と神聖ローマ帝国との均衡などで働いたという。しかし、再びフィレンツェはメディチ家の支配に戻り、マキアヴェッリは一時追放される。「君主論」は、フィレンツェ郊外に隠棲していた1513年後半に書かれたものと推測されるという。
政界復帰を願ったマキアヴェッリは、メディチ家に接近する。だが、共和政の首謀者とみられ、教皇レオ10世(大ロレンツォの二男ジョヴァンニ・デ・メディチ)に警戒される。マキアヴェッリは、後任のジュリアーノ・デ・メディチ(大ロレンツォの三男)に「君主論」を献呈したかったという。結局ジュリアーノ・デ・メディチの死後、この作品は紆余曲折を経て、小ロレンツォ(ロレンツォ・デ・メディチ)に献呈される。
彼は、不本意ながら著作策動に力を注ぎ、「君主論」と並行してもう一つの主著「リウィウス論」(ティトゥス・リウィウスの初めの十巻についての論考)を執筆する。彼の生前で名声を最も高らしめたのが喜劇「マンドラゴラ」だという。「戦術論」は唯一生前に刊行された作品だそうな。
小ロレンツォと教皇レオ10世が相次いで死去すると、マキアヴェッリとメディチ家の関係は改善される。新たにフィレンツェを統治したジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の配慮で政界に復帰する道が開かれる。また、ジュリオ・デ・メディチに「フィレンツェ史」の執筆を依頼されたという。
ジュリオ・デ・メディチが教皇クレメンス7世になった頃、神聖ローマ皇帝カール5世がフランソワ1世を破り勢力を拡大する。反皇帝同盟の足並みは乱れ、教皇クレメンス7世も神聖ローマ皇帝とフランス王のどちらにつくか迫られる。イタリアは軍事的に崩壊し、教皇は囚われの身となって、あの悪名高い「ローマ略奪」が発生する。尚、本書では「ローマ劫掠」と表わされる。フィレンツェでも反メデイチ家蜂起が起こり、再び共和政へと戻る。マキアヴェッリは、メヂィチ家に接近したことで裏切り者呼ばわれされながら世を去ったという。だが、政治形態では共和政に対する情熱が最も強いようだ。それが恨みからきているのかは知らん。彼にとって最大の征服者は共和政ローマだったのかもしれない。

2. 君主の資質
少なくとも民主政治では、善人そうに見えなければ、あるいはそう見えるように演じられなければ、政治家にはなれない。残酷と慈悲、あるいは恐れさせるのと敬愛されるのとではどちらがいいか?と問えば、いずれも後者を評判としながら、前者を実行できる人物としている。
「優柔不断な君主は、現前の危険を回避しようとして多くの場合中立政策をとり、多くの場合滅亡する。」
慈悲といっても、お人良しや発泡美人では政治はできない。民衆の憎悪は、良い行いからも悪い行いからも生じる。誰かが汚名をかぶらなければならないというのも、政治の本質であろう。
本書は、「君主 = 有徳者」という一般的な議論を批判する。君主の資質では狡猾さが必要というわけだ。民主主義では、本音を隠し欺瞞するのが上手な者ほど有利となる。真に優れた人物は実直すぎて誤解されるところがある。また、あまりにも誠実な言葉を発言すると照れくさくもなり躊躇もしよう。善人はちょいワルオヤジを演出したりするものだ。
対して、悪人が悪態を見せることは滅多にない。政治能力よりも宣伝能力の高い人間が、マスコミとうまく付き合う。したがって、政治家向きの人間は、必然的に悪徳を身に付けることになりそうだ。政界とは、欺瞞することに抵抗のない脂ぎった欲望の強い人間でもなければ、自殺に追い込まれるような世界なのだろう。堂々と善人面ができるのも、政治家の能力ではあるのだが...彼らはいつも法律を盾に言い訳をするが、もはや理性が働かないことを宣言しているようなものだ。脂ぎった欲望に憑かれた連中を取り締まる方法は、法律しかないのかもしれない。なるほど、彼らはそれを十分過ぎるほど自覚しているから法律に頼るのか。

3. 独自の植民地論
新たな領土を獲得した場合、風俗慣習が似通っていてすんなりと権力が受け入れられる場合もあれば、その逆もある。言語、慣習、制度が違えば、当然ながら、その統治は困難を極める。植民の代わりに軍隊を駐留させる場合は費用がかさみ、新たな領土からの全収入を守備隊のために費やすことになる。その結果、領土の獲得はかえって損失をもたらし、多くの人々を傷つけることになる。
しかし、植民にした場合は、大して費用がかからず有益な方法だという。新しい住民に土地や家屋を与えれば、そのために奪われた人々だけは憤慨する。だが、少数派だから気兼ねすることはないという。おまけに貧しいから害をなすこともできないと。ここでは、文句の言えない少数派は、徹底的に財産を奪い取り、刃向かえば見せしめにできる...とった過激な発言がある。
「人間は些細な危害に対しては復讐するが、大きなそれに対しては復讐できないからである。それゆえ、人に危害を加える場合には、復讐を恐れなくて済むような仕方でしなければならない。」
人間は、寵愛されるか、抹殺されるかのどちらかでなければならないという。国家が少数派の犠牲によって成り立つというのも事実だけど...ちょっとムカつく!

4. 自由都市の征服方法
「実際のところ、自由な国制を享受していた都市に対する支配権を維持する最も安全な方法とは、それを破壊することにほかならない。そして自由な国制に慣れ親しんだ都市の支配者となった者がそれを破壊しない場合、自らがかえってこの都市によって破滅させられるのを待っているようなものである。」
んー!最も安全な方法は、最も危険な方法となろう...
征服された都市は、自由の名や過去の制度を口実にして、常に反乱を起こす機会を待つものだという。どんなに時間が経っても、どんなに恩恵を与えても、決して忘れ去られるものではないからだそうな。共和国には、多くの生命力と、支配者に対する憎悪の念が強く、復讐欲も強力で、自由の記憶を捨て去ることはできない。その好例として、フィレンツェに従属したピサが、百年後に反乱を起こした事件を持ち出している。
んー!ここまで分かっていながら、なぜ最も危険な方法を選択するのかは分からん。現代感覚では、少々読み辛いところであろうか。

5. ルイ12世の過ち
フランス王ルイ12世がイタリアにすんなり侵入できたのは、ヴェネツィア人の野心のお陰だという。ヴェネツィア人は、ロンバルディアの半分を獲得しようと企てる。ルイ12世は、ヴェネツィアと同盟してロンバルディアを獲得し、イタリア戦争でシャルル8世の失った名声を取り戻した。ジェノヴァは降伏し、フィレンツェは味方となり、イタリアの各地から味方となるべくフランス王と会見した。やがて、ヴェネツィアは自らの行動の軽率さに気づく。ルイ12世は全イタリアの3分の2を支配してしまったのだから。
しかし、ルイ12世は、その支配能力の欠如から教皇の権力とイスパニアの勢力を巨大化してしまったと指摘している。イタリアで味方になった多くは弱体で、教会やヴェネツィアを恐れ、ルイ12世に味方せざるを得なかった。彼がイタリアに安全と保護を与えたならば、すんなりとこの地を統治できたかもしれないが、ミラノに入ると反対のことを行う。教皇アレクサンデル6世にロマーニャを占領するように援助する。その行為が、教会に精神的権威に加えて世俗的権威までも与え、教会を強大ならしめたという。
「ルーアン枢機卿はイタリア人は戦争というものを理解していないといったので、私はフランス人には支配というものが分かっていないと応答した。」
そして、一つの過ちが次々に過ちを重ねることになったという。ナポリ王国では、ルイ12世に従属する王をそのままにしておくべきだったのに、それを退けてイスパニア王と分割し、ルイ12世を追い出すような能力の持ち主を王に据えてしまった。かくして、フランス王国は味方を失い自滅していったと分析している。
「領土獲得欲というものは、極めて自然で当然のものである。権力のある者が領土を獲得するのは称えられることでこそあれ、非難されるものではない。しかし、能力のない者が是が非でも獲得しようとするのは、誤りであり非難に値する。」

6. ヴァレンティーノ公ことチェーザレ・ボルジア
「君主論」のチェーザレ・ボルジアに関する記述は有名らしい。
本書は、チェーザレ・ボルジアを偶像とし、他力で君主に就いた例として持ち出している。チェーザレ・ボルジアは、父教皇アレクサンデル6世の幸運によって支配権を獲得し、父の不運によって地位を失ったという。マキアヴェッリは、チェーザレ・ボルジアから直接話を聞いたと証言している。「父の死が、自分を瀕死にするとは考えもしなかった」と。
ここでは、教皇の選挙で誤りを犯し、教皇ユリウス2世を誕生させたことを痛烈に批判する。後に、政治における教皇の影響力を巨大化することになるのだが、その元凶がこの人物にあったという。教皇アレクサンデル6世以前では、諸侯や弱小貴族たちでさえ、教皇の俗権を軽侮していたという。だが、ユリウス2世が登場すると、フランス王でさえも恐れさせ、ヴェネツィアを破滅させるほどにまで教皇の俗権を強力にしたと指摘している。そして、ユリウス2世の後、レオ10世では教皇の俗権を巨大化させたという。
ただ、教権と俗権の対立はもっと古くからあったはずで、その象徴的な事件がカノッサの屈辱であろう。聖職叙任権をめぐって対立したが、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世の前で跪いて決着した。その流れからすると、もともと11世紀あたりから教皇が権力を拡大する方向にあったと思われるが、教権の上に俗権までも手にしたのが、この時代ということになるのだろうか?このあたりの歴史の解釈は難しそうだ。ちなみに18世紀にもなれば、神聖ローマ帝国ですらヴォルテールに「神聖でもなくローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と揶揄されることになるのだが...

7. アレクサンドロス大王の支配
「アレクサンドロス大王が征服したダレイオス王国で、アレクサンドロスの死後でさえも、その後継者に対して反乱が生じなかったのはなぜか?」
アレクサンドロス大王は、短期間でアジアを征服し、多くの現地人を登用した。そして、征服するや否や亡くなった。その政治体制は、一人の君主とその従僕たちによって支配した。彼らは君主の恩恵と同意により大臣として統治を補佐する。また、各地の諸侯たちは伝統的な血統によって地位が保障され、君主と諸侯の共存によって統治した。進軍を続けるためには、あるいは、大国ペルシャの影響範囲を考えれば、文化の共存という寛容さが必要だったのだろう。現実的な方策である。
このような例は、当時のトルコ王国とフランス王国の違いに見られるという。全トルコ王国では、一人の君主によって支配され、すべての他の人々は従僕である。王国は行政区に分割され行政官が派遣されるが、君主の思いのまま更迭され転任される。
対して、フランス王国では、多くの古い家柄の諸侯がいて、諸侯たちは人民に主人と仰がれる。諸侯たちには特権があり、それを君主がむやみに奪うことはできない。それゆえに、トルコを征服することは難しいが、一旦征服すれば維持が容易いという。
トルコの民衆は、一人の王に隷従し、王に恩義を感じており、それを腐敗させることは難しい。だが、征服するのに恐れるのは王の血統だけとなれば、その血統を根絶してしまえば、別の主人を見つけることになるという。
一方、フランス王国を征服することは容易いが、維持するのが極めて難しいという。変革を望む者や不満分子がいつも現れ、諸侯の誰かを味方に引き入れれば、容易に侵入できる。だが、自由意志に富んだ連中を統治するのは難しい。ペルシア王ダレイオス3世の政治形態はトルコ王国に似ている。アレクサンドロス大王は、ダレイオス3世を殺してアケメネス朝を完全に滅亡した。アケメネス朝ペルシアがフランス王国のような政治形態であれば、これほど簡単に統治することはできなかっただろうという。