2014-10-26

"MAKERS" Chris Anderson 著

Do it yourself !... とは、起業家には不可欠な精神であろう。
財務処理から流通手配や営業交渉まで、それがたとえ苦手な仕事であっても、すべて自分でこなさなければならない。いくら頼りになる相談役や事務屋が側にいても、すべての責任は自分に降りかかる。そんな面倒なことを背負い込んでまで、独立を望むのはなぜか?それは、本当の自由を欲するからであろう。少なくとも、おいらの場合はそうだ。
しかしながら、自由ってやつも、なかなか手強い!自由の範囲を広げようとすればするほど、依存度を高め、ますます責任や義務が増していく。勢いに乗って事業を拡大すれば、維持するための資金が増大する。銀行やベンチャーキャピタルからの融資を受け入れれば、今度は間接的に支配される。もはや事業は誰のものやら。自由を求めて集まってきた従業員たちは、窮屈さを感じて逃げ出す。ベンチャーと称する企業で、創業時のメンバーが大勢残っているケースをあまり見かけない。こんなはずじゃなかった!と呟いている経営者も少なくあるまい。金儲けが目的ならば、あえてそれを望んでいるのかもしれんが...

DIY の根源的な動機は、日曜大工のような気軽さから発する。基本は、仕事が好きであること、仕事を楽しむこと。そうでなければ探究心は失われ、作る喜びがなければプロフェッショナル感を味わうこともできない。趣味をビジネスにできればなおいい...
しかしながら、20世紀型ビジネスモデルでは、製造手段そのものは企業によって支配され、作り手のものではなかった。いつの時代も経済の根幹を支えているものは、やはり生産力。人間が生きるということは消費を意味し、いくら流通業やサービス業が成長したところで、生産物がなければ成り立たない。にもかかわらず、今日の社会は、価値を変動させてサヤ取りに執心する金融屋や、情報を煽って目立ちたがる報道屋によって支配されている。
本書は、国力を維持するものは本質的な生産力であるとし、デスクトップと工作機械が仮想空間上で結びついた時、企業が独占してきた製造手段が庶民化し、メイカーたちによる真の生産社会が形成されるとしている。これが、21世紀の新産業革命というわけか。産業革命とは、単なる技術革新ではなく、社会的な意識改革までも引き起こすことを言うのであろう。DIY から発するカスタム製造やデザイン思想が、はたまた製造技術のオープン化が、はたして真の民主主義をもたらすであろうか...
ちなみに、コリイ・ドクトロウのSF小説に「メイカーズ(Makers)」という作品があるそうな。そこにはこう描かれるという。
「ゼネラル・エレクトリック、ゼネラル・ミルズ、ゼネラルモーターズといった社名の企業はもう終わっている。富を全員で分け合う時代がやってきた。頭のいいクリエイティブな人たちが、それこそごまんと存在するちっぽけなビジネスチャンスを発見し、そこでうまく儲けることになる。」

すべてのデジタルデザインはソフトウェアが牽引してきた。それは、ひとえに柔軟性にあると言っていい。今日、オープンソースを利用した開発手法が当たり前のように用いられるが、オープン思想は、なにもソフトウェアにだけ特権を与えるものではあるまい。
著者クリス・アンダーソンは、ロングテールの概念や、ビット世界における無料経済モデル(Freemium)を世に知らしめ、名を馳せた。彼自身、オープンハードウェア企業と称す3Dロボティックスを立ち上げ、本書に紹介される3Dプリンタやラピッドプロトタイピング技術などの話題も見逃せない。そして、オープンプラットフォーム上に作られたメイカー企業は、最初からキャッシュフローを生み出すとしている。これは、モノ作りの側から語った経済論!おまけに、技術屋魂をくすぐりやがる。サラリーマン技術者ではなく、アマチュア発明家になれ!と言わんばかりに...
「起業家を目指すメイカーたちにはみな、ヒーローがいる。情熱と工具だけを元手に、やりはじめたら決して諦めなかった人たちだ。彼らは本物のビジネスを築くまで、作りづづけ、建てつづけ、リスクを取りつづけた。自宅の作業台から始まって市場を見つけるまでの道のりや、人の手によるもの作りの物語は、いまとなんら変わることがない。」

1. ビット世界 vs. アトム世界
ビット対アトムの概念は、MITメディアラボの創設者ニコラス・ネグロポンテの提唱から始まる。言い換えれば、ソフトウェア対ハードウェア、情報技術対それ以外、仮想空間対実体空間といった構図だが、そう単純ではない。モノ作りが、企業の隷属から解放されれば、あらゆる概念を変えるであろう。有用な技術に検索や口コミを通して噂を嗅ぎつけた人々が集まってくれば、セールスマンを必要とせず、営業の概念を変える。個人融資で成り立つサイトも多く、スポンサーの概念を変える。新たな三次元製造技術が、ラピッドプロトタイピングを促進し、工場の概念を変える。モノの生産がアイデアの生産へとシフトしていき、生産力の概念は大量生産から創造力や想像力へとより重みを増す。人件費の効率から製造拠点を置くという考えも、製品を提供するための流通効率という考えに移行するだろう。わざわざ通勤する必要もなくなり、職場の概念も変わる。雇用の概念も変わるだろう。企業の従業員名簿に名を連ねることもなく、仕事を受けることができる。失業の概念も変わるだろう。収入がなくても、意欲的な仕事を見つけることは可能である。仕事の動機を生き甲斐に求めるならば、収入目的は優先順位を徐々に下げ、もっと多様化するだろう。そして、発明家の概念は、起業家と結びついていく。自由とは、すべてをなるべく自分でやるってことかもしれん...
「面白いのは、そうした高度の細分化が、かならずしも利益を最大化するための戦略ではないことだ。むしろ、意義の最適化、といった方がいいかもしれない。アダム・デビッドソンはニューヨークタイムズマガジンで、これを中流階級以上の基本的欲求が必要以上に満たされた、豊かな国家がたどる自然の進化だと書いている。」

2. 21世紀型の産業革命
18世紀頃、産業革命に登場した発明家や起業家たちの多くは、裕福な特権階級出身者であった。蒸気機関で名を残したジェームズ・ワットしかり、これをビジネスにしたマシュー・ボールトンしかり。産業革命と言えば希望に満ちた言葉に聞こえるが、発明や起業で必要な遊び心はエリートや富裕層の特権であった。だが、悲観的なマルサスの人口論を凌駕するほどの莫大な富を庶民にもたらすと、人口増加を爆発させ、経済活動を民主化させる。特権階級が牽引役となって富を分散させたのだ。産業革命とは、単なる工業化の恩恵ではない。
「本質的には、産業革命とは、寿命や生活水準、居住地域と人口分布などの、あらゆることに変化を及ぼし、人々の生産性を激的に拡大する一連のテクノロジーを指すのものだ。」
そして今、知識を自由に共有できる時代がやってきた。有名大学の講義はWebで公開され、オープンソース事業には自由に参加でき、意欲さえあればどんどん知識が吸収できる。従来の博士号といった肩書に縋る連中ほど、実践的な知識をあまり持ち合わせないようだ。
インターネット技術は、ビット世界のイノベーションを牽引してきた。だが、無重力経済(weightless economy)、すなわち、情報、サービス、知的財産といった無形ビジネスが話題となりやすい。この流れを21世紀型の産業革命に育てるには、アトム世界にまで広げる必要があろう。
本書は、この新たなパラダイムシフトを「メイカームーヴメント」と呼んでいる。草の根から始まるモノ作りの民主化とでもしておこうか。実際、コンピュータ工学の知識がなくても、ちょいとかじれば誰でもプログラミングできる時代となった。とはいえ、プログラミング技術が庶民化すれば品質の劣る作品が大量生産され、必ずしも良いとは言えないけど。
また、モノ作りの目的からコミュニティは自然に生まれる。格調高い意識の集まりが自然な秩序を生み出し、フラットな人間関係を形成する。誰でも共有できるということは、もちろん悪用のリスクもある。だが、意識のコミュニティを破壊する人がいれば、すぐに退場させられるだろうし、破壊屋が多数派となれば、真のメイカーは去っていくだろう。罵り合いのコミュニティに生産性はなく、志ある者が留まることはあるまい。実際、コミュニティも二極化する傾向にあるようだ。共通意識と哲学的意識がしっかり根付けば、人間ってやつは、意外とうまく民主主義を機能させるのかもしれん。
ただし、オープンモデルは万能ではないことに留意したい。自動車のように人の命にかかわる製品では、製造責任の所在を明確にしておく必要がある。大企業の存在意義とは、まさにここにあろう。従来型の製造モデルを、単に古いから悪いと決めつけない方がいい。

3. モノのロングテールと人材のロングテール
大企業の存続には大量生産が欠かせないが、ニッチ市場に目を向ければ、気楽に構えることができる。ニッチ商品は、たいてい大企業のニーズからではなく、庶民ののニーズから生まれる。大量生産から生まれた商品に飽きると、自分だけのものが欲しくなったりするものだ。まさに日曜大工の感覚でビジネスをやるわけで、そこには遊び心やアイデアが溢れている。ちっぽけな要求を集約して、チリも積もれば... ってやるのが商品におけるロングテールの原理だが、メイカー精神の観点からすると、むしろ人材のロングテールの方が本質かもしれない。
それにしても、あらゆるテクノロジーでコモディティ化が進むのはなぜか?情報が溢れ、生活様式が多様化しているというのに。他社サービスからの移行を促すために、乗り換えリスクを回避するためか?いや、選択肢を奪うことで諦めさせ、最大収益を狙うってか?まさに経済人の価値観だ。依存症を高めることで商売が成り立つとすれば、まるでコモディティ宗教!使いやすい、分かりやすいだけの製品では、深い味わいを求める少数派を満足させることはできまい。ユーザを飼い馴らすには、絶好の戦略ではあるけど。
一方、情熱家の作る作品には、手作り感があって、要求の高い専門性を具えている事が多い。効率的な大量生産品の方が莫大な利益をもたらすが、民主主義の成熟した姿は多様性の方にあるような気がする。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、それらが共存するためには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。
電子機器の発達は、半導体技術の成長とともに、ムーアの法則に従って指数関数的に加速してきた。半導体は原子制御の世界であり、まだまだ発達の余地がある。量子力学と結びつけば、無限の発展も夢ではなさそうだ。しかし、すべての産業がムーアの法則に従っているわけではない。農業や食糧生産など人間が直接生きることにつながる領域ほど、この法則は成り立たない。寿命が延びたといっても、せいぜい100年ちょい。なによりも人間精神が、進化しているのか?退化しているのか?テクノロジーの進化には、置いてけぼりの精神で相殺し、進化のエネルギー保存則は健在のようだ...

4. デスクトップ工房の「四種の神器」
本書は、テクノロジーの変革ツールを四つ紹介してくれる。3Dプリンタ、CNC装置、レーザーカッター、3Dスキャナがそれだ。
3Dプリンタには、溶融プラスチックを積み上げてオブジェクトを作る方式もあれば、液体または粉末の樹脂にレーザーを照射して固めて、原料容器の中からオブジェクトを浮かび上がらせる方式もあるという。ガラス、鉄、ブロンズ、金、チタン、ケーキ飾りの糖衣など、様々な素材が使えるとか。足場の上に幹細胞を吹き出すことで、生きた細胞から人の組織を作ることにも成功していると聞く。
CNC装置は、3Dプリンタが足し算方式で層を積み上げていくのに対し、引き算方式でドリルを使って削り出すという。この方式で、最小限の材料で最大限の強度がその場で計算されるとか。思い描いたものが、そのまま実物として目の前に現れるとは、なんとも恐ろしい世界だ!こうした技術にバイオテクノロジーが結びつくと、原子を自己組織化して食べ物や飲み物に変えることもできそうか。DNAの複製も?原子構造を維持しながら、複製することも理屈では可能であろう。三次元の仮想空間に臭いや味などの五感までも取り込まれ、もともと仮想空間の得意とする第六感や霊感が結びつくと、人類は五感以上の知覚を獲得するのだろうか?いや、相殺されて五感を麻痺させるだけのことかもしれん。人体をスキャンすれば、人間だって製造できそうか。クローンとは違う視点だが、はたしてそれは人間なのだろうか?
ビット世界をアトム世界に変換きるということは、その逆変換も可能になるかもしれない。リアリティキャプチャってやつだ。社会現象までもキャプチャできれば、政治的に利用される可能性だってある。市場はもともとコンピューティングで動いており、過去の経済現象をキャプチャして再現することも難しくない。ということは、金融工学はリアリティキャプチャの最先端を行っているのか?なるほど、価値を仮想的に煽りながら金融危機を再現してやがる。

5. オープンオーガニゼーション
1937年、経済学者ロナルド・コースは、こう言ったという。
「企業は、時間や手間や面倒や間違いなどの取引コストを最小にするために存在する。」
一見もっともらく聞こえる。同じ目的を持ち、役割分担や意思疎通の手段さえ確立できれば仕事がやりやすい、という発想だ。そして、隣の机にいるヤツに仕事を頼むことを、効率性とみなす。対して、サン・マイクロシステムズの共同創業者ビル・ジョイは、こう言ったという。
「いちばん優秀な奴らはたいていよそにいる。」
取引コストの最小化を優先すると、最も優秀な人材とは一緒に仕事ができないというのか?だから、会社が雇った人間としか仕事ができないってか。これを「ビル・ジョイの法則」と呼ぶそうな。なるほど、優秀なエンジニアは外部の人材とのつながりが広い。オープンコミュニティは、企業と違って法的責任とリスクがなく、自由と平等が保たれやすい。彼らには、役職や肩書なんてどうでもいいのだろう。そういえば、巷で仕事は何をしていますか?と尋ねると、会社名を答える人がいると聞く。会社の看板に縋って仕事をする人には、あまり近づきたくない。
もちろんコミュニティだって万能ではないし、ボランティア精神だけで経済が成り立つはずもない。ただ、人材を探すのに組織内にこだわる必要はないし、組織に忠誠を誓い一箇所に集まって仕事をやる必要もないってことだ。
オープンソース化で、無料の研究開発システムを手に入れることだって可能である。製造工程でコストのかかる一つにテストがある。実際、セキュリティソフトや検索ソフトなどのエンジン部分を無料公開することで、ユーザが無意識にテストに参加させられる。高度でテストの難しいソフトほど、マニアが使いこなす傾向があり、苛酷なストレステストにかけられる。大儲けしている企業ですら、製品の品質はボランティアたちの情熱によって支えられているのが現状だ。各自の経験から互いにサポートし合い、ユーザコミュニティを形成し、開発者もユーザとして参加する。効率的な使い方や、不具合を回避する助言は、提供されるマニュアルよりも役立ち、企業の思惑が入り込まない純粋な情報が得られる。有効なサイトには自然に翻訳者が募り、多国語でサポートされる。これこそ民主主義の姿であろう...

6. メイカービジネスの資金調達
高い志を持った愛好家が集まるだけではビジネスは成り立たない。どんな事業にもスタートアップの壁が立ちはだかり、その最初の問題は資金調達であろう。
本書は、裏ベンチャーキャピタルってやつを紹介してくれる。設立時に資金を必要とするのは、商品開発、設備、部品購入、製造などの費用のためで、通常は商品を販売しないと回収できない。そこで、キックスターという企業は、起業家が抱える三つの問題を解決してくれるという。
  • 一つは、売上を予約時に受け取れれば、必要な時に資金を調達できること。
  • 二つは、顧客をファンのコミュニティに変えてくれること。プロジェクトに資金を出すことは、ただの商品予約以上の意味があるという。デザインの生まれる過程で、ファンからアドバイスやコメントがもらえるのは大きい。口コミで評判が広まれば宣伝効果も得られる。ある種のマーケティング戦略というわけだ。
  • 三つは、市場調査を提供すること。初期段階から資金注入の効果が分析できるのは大きい。新会社にとって、これが最も重要かもしれない。
このような資金調達モデルは、寄付金や投資の概念までも変え、「クラウドファンディング」と呼ばれる。実際、気に入ったプロジェクトを見つけて投資したいと考えている人は少なくない。いずれコミュニティ銀行なんてものが登場するかもしれない。杓子定規な株式市場に投資するよりも魅力がありそうだ。ただ、どんな投資システムでも、儲けが保障されると勘違いする人も珍しくなく、巷では見返りがないとすぐに訴えるケースも見かける。
また、エッツィーという最大のメイカー市場を紹介してくれる。手作り品が取引され、高給な芸術品からかぎ針編みなどの小物まで出品されるとか。キックスターと違って、資金調達やモノ作りを助けたりはしないが、ここをきっかけに起業する人も多いという。
従来の企業組織的なものの見方に固執すれば、自然のコミュニティを見失う。モノ作りの背後にある人々の存在を忘れがちとなれば、売上至上主義となり、倫理に反し、持続可能な事業とはならないだろう。創業時の哲学を忘れ、なんのために会社を起こしたのかも分からなくなるケースは、けして珍しいことではない...

2014-10-19

"FREE" Chris Anderson 著

なぜ、最も人気のあるコンテンツを無料にしても商売が成り立つのか?あらゆる価値が貨幣換算される時代では、フリーとは無を意味するはず。フリーを巡っての論争は、間違った状態とするか、自明な結果とするかで二分されてきた。無から有を生み出す概念だけに、誤解されやすく、恐れられもする。だが、いまやフリーは当たり前と考える方が優勢であろうか。著作「ロングテール」で名を馳せたクリス・アンダーソンは、この得体の知れない概念の正体を暴こうとする。そして、二元論に陥ることなく、 読了後にはどちらにも与しないことを願っていると語る。
フリー経済では無料のものが有料よりも価値の高い場合が生じる。それは、貨幣に頼らない価値判断を促しているのだろうか?真の価値で経済循環を促そうとしているとしたら、それは良い風潮かもしれない。生活様式や価値観が多様化する中で、仕事の価値を収入でしか測れないのでは、あまりにも寂しい。オープンソースの世界には、技術を磨くために無料奉仕で仕事をする人たちがいる。ネット社会には、見返りを求めずプロ顔負けの情報を提供する人たちがいる。彼らの創作意欲を動機づけるものが、お金でないとすればなんであろうか。彼らなりに自由を謳歌することであろうか。フリーとは、貨幣経済では無駄を意味しても、精神哲学では自由を意味する。彼らは無駄の意義をよく知っているのだろう。贈与の心理学は、無駄をめぐる倫理観において顕著となる。自己啓発された利己主義ほど力強い動機はあるまい...

今まさに、無の概念を後ろ盾にしたビジネスモデルが社会を席巻しつつある。ソフトウェア業界では、OS, ブラウザ, SNS, 辞書サービス, クラウドサービスなどが無料化され、各種開発ツールまでもオープンソースで提供される。ハードウェア業界もまたその恩恵を受けながら、デスクトップ上の設計やシミュレーション手法によって開発コストを抑え、ますます無へ近づこうとしている。
プロとアマチュアの境界も曖昧になり、むしろ取り組む姿勢、すなわち能動性と受動性でバンドギャップを広げるかに映る。製造工程までもロボット化が進めば、人間から見出せる価値はアイデアを創造する力だけということか。いや、ネット社会にはアイデアまでも溢れ、ちょいとググれば済む話。ほんの一部の頭脳があれば、人間社会は成り立つというのか?その他大勢は、商品同様、人間性においてもコモディティ化が進むというのか?最後の砦は人件費ぐらいなもの、そして人間の価値までも無へ帰するのかは知らん...

とはいえ、フリーは古くからあるマーケティング手法である。95% の製品を売るために、5% を無料で提供するオマケという発想によって。
ところが、コンピューティング上の仮想社会、いわゆるビット世界ではフリーの概念を逆転させる。5% の製品を売るために、95% を無料で提供する「フリーミアム(Freemium)」という発想によって。尚、Freemiumとは、Free(無料)とPremium(割増)を組み合わせた造語で、ベンチャーキャピタリストのフレッド・ウィルソンが広めた。多くのユーザが無料でサービスを謳歌し、グレードの高いサービスを有料にして賄うという意味では、不幸に遭遇した人を金持ちが施す仕組みにも映る。
こうした仕組みを可能にするのは、二つの経済的要素がある。それは、経済学で言うところの限界費用をゼロにすることができること、そして、想像もつかないほどの大規模な市場が潜在的に存在することだ。テクノロジーはムーアの法則に従い、情報処理能力、記憶容量、通信帯域幅の限界費用を限りなくゼロに近づけてきた。市場においては、コンピューティングは1人1台に留まらず、無人機器や無人施設にまで拡大し、もはや人間の数では測れない。製造、販売、流通などあらゆる中間コストがゼロになれば、消費者にとってこれほど嬉しいことはあるまい。仮想店舗の構築にコストがかからないから、ロングテールの概念が成り立つ。電子決済では、1円払うのも百万円払うのも手間は同じで、コンテンツのダウンロードが1円でも商売が成り立つ。取引の基点サーバが海外にあれば、税金の概念までも変える。そして、フリーはユーザを惹きつける最良の価格となった。
一方で、消費者もまた、なんらかの仕事をやっているわけで、生産者でもあることを忘れてはなるまい。結局、キャッシュフローを生み出さなければビジネスは成り立たない、という経済常識は変わらないようだ。
それでもなお、お金のかかるべきでないところがフリーになるとすれば、どうであろう。従来型の経済循環は、必要以上にお金を回そうとしてきた。実際、政治家が打ち出す景気刺激策は、消費を煽るぐらいしか能がない。賃金が下がることに労働者が激しく抵抗すれば、相対的に貨幣価値を下げることになる。労働資本のように硬直性の高い価値と、為替のように柔軟性の高い価値を共存させるには、経済全体としてインフレ方向に振れざるをえない。
その一方で、ネット社会はデフレ側にバイアスをかけるという見方がある。余計なキャッシュフローを抑制するという意味では、そうかもしれない。経済界はデフレを悪魔のように言うが、それは本当だろうか?景気を煽るために無理やり消費者物価指数を高めようとする政策が、はたして理に適っているのだろうか?フリー経済は、インフレやデフレの概念までも変えようとしているのかもしれん...

1. フリーの形態
フリーといってもその形態は無数にある。ただ基本的な思考では、内部相互補助というものが働くようである。要するに、他の収益でカバーすることである。
例えば、DVDを買うと2枚目はタダとか、クラブの入場料は女性を無料にするとか... いつも男性諸君は倍返しを喰らうのよ。生命保険は、健康な者が不健康な者をカバーする仕組みで、したがって健康者をいかに募るかがビジネスの鍵となる。フリーとは、こうしたマーケティング戦略を大げさにしたものらしい。
本書は、四つのフリー形態を提示してくれる...
  • 一つは、直接的内部相互補助。消費者の気を引いて、いかに他のモノを買ってみようと思わせるか。
  • 二つは、三者間市場。まず二者が無料で交換することで市場を形成し、三者が追従することで参加のための費用を負担させる。メディア戦略は、この構図が基本であろうか。広告主を基盤にするテレビやラジオの発展型が、google の戦略と言えよう。インプレッションモデルでは、視聴者やリスナの閲覧回数に対して支払われる。他にも、クリック単価(CPC)や成果報酬(CPA)という概念が生まれ、サイト訪問者が有料顧客となった場合にのみ広告料を払うといったモデルが登場した。リードジェネレーション広告では、無料コンテンツに興味を示した見込み客(リード)の氏名やメールアドレスなどの情報に広告主がお金を払う。
  • 三つは、フリーミアム。本書で最も重要視される戦略で、基本版を無料で広め、プレミアム版を有料にする。アプリケーションとOSの関係もこれに属す。OSを無料で配布して有料のアプリケーションで儲けるか、あるいはその逆も。典型的なオンラインサービスには、5%ルールというものがあるという。5%程度の有料ユーザが、無料ユーザを支えていると。
  • 四つは、非貨幣市場。対価を期待せず、提供するものはすべて。それは、喜びや満足感、あるいは知性や感性など、自己存在を確認できるものすべてに価値が生じるといったところか。
さらに、フリーミアムにおける四種類の戦術を提示している...
  • 一つは、期間制限。30日間無料で使用できるアプリなど。
  • 二つは、機能制限。有料でフル機能装備など。
  • 三つは、人数制限。一定数を無料に、それ以上は有料にするなど。
  • 四つは、顧客のタイプによる制限。小規模で創業まもない企業は無料で提供するとか、ビジネスとアカデミックで料金を分けるとか。
いずれの形態も、通信業界やソフトウェア業界でよく見かける価格モデルだ。

2. ペニーギャップ
フリーは気分がええけど、ちと良すぎるところがある。フリーならば多少の品質の悪さに目をつぶることができても、有料なのにフリーよりも品質の悪いものが出回る。最新版を買い続けたところで、機能アップばかり謳いながら、品質ではむしろ劣化しているケースも珍しくない。
ソフトウェア開発で、最もコストのかかる要件の一つにテストがある。ウィルス対策ソフトなどでは、基本エンジンを無料公開すれば、マニアたちが厳しいストレステストをやってくれる。彼らの情報をフィードバックしながら、GUIを整えプラスアルファの機能を盛り込めば、精度の高い製品が安価で提供できる。
フリーは、価格が安いというだけの意味ではなく、そこには別の市場が生まれる。需要供給曲線は、有料市場からフリー市場に移行した瞬間、線形性を失う。ブラックホールかアトラクターに陥ったかのように。ペンシルヴェニア大学のカーティク・ホサナガー教授は、こう語ったという。
「価格がゼロにおける需要は、価格が非常に低いときの需要の数十倍以上になります。ゼロになった途端に、需要は非線形的な伸びを示すのです。」
これが、ペニーギャップってやつか。需要の価格弾力性は、価格を下げれば需要が増すなんて単純なものではない。現実に、たった1円を払わせることが、いかに難しいことか。フリーモデルでは、心理的効果が大きな意味を持つ。
「値段ゼロは単なる価格ではない。ゼロは感情のホットボタン、つまり引き金であり、不合理な興奮の源なのだ。」
行動経済学は、フリーに対する複雑な反応を、社会的意思決定と金銭的意思決定に分けて説明する。無料なものは、使い捨てという心理が働くのも確かだ。あまり注意を払わないことも、フリーの弊害となろう。
しかし、たとえ無料でも資源として存在するならば、大事に使おうという社会的意識が働くかもしれない。そこになんらかの価値を見出すことができれば、粗末にはしないだろう。経済的合理性とは反するかもしれんが。
ちなみに、「economics」の語源は、古代ギリシア語の「oikos(家族)」と「nomos(習慣、法律)」に由来するという。家庭のルールという意味だそうな。家族の絆まで貨幣で測られるのでは敵わん!

3. 潤沢な社会
「潤沢な情報は無料になりたがる。稀少な情報は高価になりたがある。」
フリーになりたがる、という意志と、フリーであるべきだ、という結果では言葉の響きが違う。経済理論では、価格は市場が決定することになっている。
では、無料であるべきか有料であるべきかなんて、市場が決めることができるのか?潤沢となった商品の価値は他へと移り、新たな稀少を求めてそこにお金を落とす。潤沢さに価値を求めるか、それとも、相対的に見いだされる新たな稀少に価値を求めるか、はたまた、その両方か、価値に対する考え方はますます多様化するであろう。人間ってやつは、贅沢に馴らされると、次の刺激を求めてやまない。社会学者ハーバート・サイモンは、こう書いたという。
「情報が豊富な世界においては、潤沢な情報によってあるものが消費され、欠乏するようになる。そのあるものとは、情報を受け取った者の関心である。つまり、潤沢な情報は関心の欠如をつくり出すのだ。」
さて、フリー経済では、無料と有料が極端に乖離しながら、共存できるという奇妙な現象がある。その典型的な事例は、TEDカンファレンスに見ることができよう。参加者にはベラボウに高いチケットを販売しておながら、Web閲覧者には無料公開される。VIPたちにとって、ライブで味わえる幸福感はなによりも代えがたいのであろう。その一方で、一介の貧乏泥酔者でも鑑賞できるのはありがたい。これは、ある種の民主主義の形体を提示している。
「デジタル市場ではフリーはほとんどの場合で選択肢として存在することだ。企業がそうしなくても、誰かが無料にする方法を見つける。複製をつくる限界コストがゼロに近いときに、フリーをじゃまする障壁はほとんどが心理的ものになる。つまり、法律を犯すことの恐れ、公平感、自分の時間に対する価値観、お金を払う習慣の有無、無料版を軽視する傾向の有無などだ。デジタル世界の製作者のほとんどは、遅かれ早かれフリーと競いあうことになるだろう。」

4. フリー経済の参入障壁
従来型の経済モデルで潤ってきた企業にとって、フリーへの参入障壁は大きい。「死ぬ瞬間」の著者で、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは、「悲嘆の五段階」という説を唱えたそうな。
本書は、この説にマイクロソフトの事例を重なる。海賊版が多く出回るようになり、不正コピーを撲滅しようとすれば、却ってコストがかかり、ついにはユーザが逃げ出す。一方で、GNUが登場すると、フリーウェアに秩序を与え、特別なライセンス形式がオープンソースの概念を定着させる。なぜマイクロソフトは、Linux を無視してきたのか?
  • 第1段階、否認。いずれ消える、とるに足らないと考える。フリーウェアがマニア仕様であった時代、一般に普及するとは思わない。
  • 第2段階、怒り。Linux がライバルになることが明確になると、今度は敵意を見せ、経済性を攻撃する。真のコストはソフトウェア価格ではなく、サポートなどの維持費にあると主張。Linux を導入すれば専門家にお金を払うことになり、無料は表面上に過ぎないと警告した。
  • 第3段階、取引。マイクロソフトのやり方に怒りを覚えた民主家ユーザたちがいた。彼らは、Linux をはじめ、Apache HTTP Server, MySQL, Perl, Python などのオープンソースを使い続け、その勢力は拡大していった。マイクロソフトの非難戦略は、墓穴を掘る羽目に。
  • 第4段階、抑鬱。オープンソースが使っているライセンスは、GPL。マイクロソフトの戦略と真逆な発想だ。フリーライセンスから、自社製品にウィルスをまき散らす可能性を恐れ、現実からに目を背ける。
  • 第5段階、受容。市場は、三つのモデルに居場所を与えた。すべて無料、フリーウェアに有料サポート、昔ながらのすべて有料...
小口ユーザほど予算がないのでオープンソースを選択する傾向があり、大企業ほどリスクを恐れて金を払う。だからといっって、マイクロソフトのサーバに信頼が置けるのか?そこで、サポート付きの有料 Linux(redhat あたり)を選択する手もある。フリーと相性がいいのは、既存企業よりも新参企業の方であろう。そして、ユーザに愛着を持たせることが、最良の戦略となろうか...

5. クルーノー理論とベルトラン競争
1838年、数学者アントワーヌ・クルーノーは、経済学で傑作とされる「富の理論の数学的原理に関する研究」を出版したという。それは、企業競争を数学的にモデル化したものだそうな。製品競争の中で生産量が増えれば値崩れを起こすので、価格をなるべく高く維持するために、作り過ぎないように生産量を自主的に規制するというもの。生産者側から語った古そうな論理だが、現在でも影響力があるらしい。
1883年、数学者ジョセフ・ベルトランが、クルーノー理論の再評価を試みたという。当初ベルトランも、クルーノーに批判的だったとか。ところが、クルーノーモデルの主要変数を生産高ではなく、価格にして計算してみたところ、整然とした理論になったという。結論はこうだ。企業は生産量を制限し、価格を上げて利益を増すよりも、価格を下げて市場シェアを増やす道をとりやすい。実際、企業は製造コストのギリギリまで安くしようとし、価格を下げるほど需要は増える傾向がある。ベルトランの時代、競争市場はそれほど多いわけでもなく、製品の多様性もなく、価格操作もなかったという。
当時、二人の理論は、経済学モデルを無理やり数学の方程式に持ち込んだとして一蹴されたようである。そして20世紀、競争市場が激化すると二人の数学モデルが再評価されることに...
潤沢な市場では、生産量を増やすのは簡単なので、価格は限界費用まで下がりやすい。実際、ソフトウェアの限界費用はほぼゼロ。それでも、Windows や office を高額で売り続けられるのはどういうわけか?ユーザが多ければ、他の人も使わされることになる。実際、依頼元から excel + VBA の形式でデータが提供されれば、下請けは泣く泣く office を買う。
しかしながら、マイクロソフトが独占してきた市場が、ネット社会によって無料経済を解放してきたのも確かだ。グーグルの万能振りが巨大化すると、独占に至るまでに他の競争相手を創出する。SNSの世界でも、Twitter や Facebook が、そのまま独占しそうな勢いだったが、後続を許している。収穫逓減の法則は、伝統的に生産者側の原理を語っているが、デジタル市場では消費者側の重みが大きい。価格競争で勝てば市場が支配できるかといえば、そうでもない。これは民主主義にとって良い傾向であろう。オンライン市場では、独占の原理よりも多様化の原理の方を求めているように映る...

6. 贈与経済と注目経済
贈与経済ってやつは、非常に分かりにくい。ブログは無料で、通常は広告もなく、誰かが訪問する度に何らかの価値が交換されている。PageRank などの発想は、恐ろしく単純で、恐ろしく機能しやがる。まるで一種の通貨のごとく。リンクを張るだけでページの評判や信用を広め、おかげで仕事を受けることもできれば、評判がお金に変わることもある。
オンラインは、コストが安いという利点以上に流動性の効果が大きい。YouTubeは、千人に一人が動画をアップロードすれば成り立つ。一方で、スパムメールは百万通に一人が反応すれば成り立つ。ちなみに、雑誌業界では、定期購読を勧めるダイレクトメールの返事が、2%以下なら失敗とされるらしい。
簡単に価値が創出できるということは、同時に犯罪リスクをともなう。不正コピーを巡って著作権訴訟をやりあうのは日常茶飯事。真の著作元そっちのけで、というより真の著作者が誰かも分からないにもかかわらず、大声で主張した者の勝ち。風評流布や流言蜚語の類いは冗長されやすく、犯罪の限界効用もゼロとなる。タダより高いものはない!という原理は、やはり働くようだ...
「お金を払わないために時間をかけることは、最低賃金以下で働いていることを意味する。」
また、単に注目されたいという動機でフリー経済に参入する人も多い。基本的な動機が自己存在の確認のための注目度にあるとすれば、フリー経済が民主主義を高度に発達させるかは別の問題か。注目経済について経済学者ゲオルク・フランクは、こう語ったという。
「私が他人に払う注目の価値が、私が他人から受ける注目の量によって決まるとすれば、そこには個々人の注目が社会的株価のように評価される会計システムが生まれる。社会的欲求が活発にやりとりされるのはこの流通市場だ。注目資本の株式取引こそ、虚栄の市(バニティ・フェア)を正しく体現したものにほかならない。」

2014-10-12

"ビジネスは人なり 投資は価値なり" Roger Lowenstein 著

これは、ウォーレン・バフェットの半生を綴った物語である。彼は、金融危機が生じれば政府ですら泣きつくという構図があるほど有名な投資家で、支配下の投資持株会社バークシャー・ハサウェイは世界最大を誇る。その投資人生は、コロンビア大学で教鞭をとるベンジャミン・グレアムとの出会いに始まる。バフェットは、グレアムの唱えたバリュー投資論を信望し、彼の著書「賢明なる投資家」を最高の書と語る。
「グレアムを知らずに投資するのは、マルクスを知らない共産主義者のようなもので、マーケットの原理を知らないのと同じことだ。」
世界恐慌を経験してもなお、ウォールストリートにはテクニカルアナリストが台頭し、近代金融工学はボラティリティばかりを追いかけ、変動率をリスクと同一視する。このようなファンダメンタルズを軽視する戦略は、グレアムやバフェットには気違い沙汰に映ることだろう。バフェットが「オマハの賢人」と称されるのも、あえてウォールストリートに身を置くことを避け、独自性を保ってきたことにある。群衆心理や自己欲望に惑わされやすいカネの世界では、その震源地から距離を置くことこそ肝要。偉大な人物とは、孤高の精神を持ち続けることができる人を言うのであろう...
「歴史に名を残す投資家の中でも、バフェットのビジネスを見る目は抜きんでていた。石油王のジョン・ロックフェラー、慈善家で鉄鋼王のアンドリュー・カーネギー、小売業で有名なサム・ウォルトン、ソフトウェアおたくのビル・ゲイツの共通点は、たった一つの発明や技術革新で財をなしたことである。バフェットはビジネスを研究し、株を選ぶ純粋な投資で財をなした。」

注目したいのは、バフェットの投資論がグレアムのものから発展させていることにある。グレアムの投資論は、1929年に生じた世界恐慌の反省に基いており、極めて保守的な行動原理が唱えられる。元本割れなどもってのほか!と。その基本戦略は、ファンダメンタルズ分析とそこから導かれる割安株の概念、そしてリスク回避のための分散投資にある。
一方、バフェットは、長期戦略とファンダメンタルズ主義の基本理念は同じであるにせよ、割安株の概念を成長株の概念に昇華させ、分散投資の限界から集中投資の効果を唱えている。グレアムが唱える割安株の概念は、財務報告を基準とするのであって、ある種の数値主義とすることができよう。対してバフェットは、経営者の人格、企業哲学、ブランド力など、財務報告に表れない将来性こそ評価すべきだとしている。目に見えぬ価値をいかに評価するか、これこそが投資家の責務と言わんばかりに...
「これはたぶん私の偏見だろうが、集団の中から飛び抜けた投資実績はうまれてこない... ウォールストリートの横並び意識は、いまも昔も変わらないであろう。平均は安全で、平均から外れたものは危険という安易な考えは、いまでもはびこっている。」
分散投資にも大きな障壁がある。そもそも満遍なく業界や企業を十分に分析するなど不可能だ。50ぐらいの優良銘柄を揃えることが理想ではあろうが、選別に時間がかかり過ぎる。ポートフォリオに多様性を持たせると、理論上は、一つの銘柄が下落しても影響を最小限に抑えることができるが、逆に上がった時も利益を分散させてしまう。金融危機ともなれば、市場は連鎖反応を引き起こし、むしろリスクを高めるだろう。不十分な分析で数十銘柄に分散させるぐらいなら、十分に熟知した二つ三つの銘柄に集中させる方が、精神的ストレスからも解放される。グレアム贔屓のおいらでも、この点はバフェットの方が現実的に映る。そして、一般投資家は情報の非対称性を背負うことにも留意したい。
バフェットの投資哲学には、単なる相場師にならない意志を強く感じる。将来性を買うからには、元本割れも覚悟の上か。実際、バフェットに理想とする株式の所有期間を尋ねると、永遠!と答えたそうな。金融屋には信じられないであろう。欲望に憑かれた業界、褒美で釣らなければ動かぬ集団は、脆い!人生には常に運と命(めい)の二つが付きまとい、春夏秋冬の訪れはなにびとにも避けられない。流れを拒めば、自ら不運を掴むことになろう。冬が来てもなお平静でいられるか、ここに人の価値が問われる。試練とは、ある種の運試し、というわけか...

1. マクロ的視野と大局観
バフェットは、マクロ経済的な観点から社会問題をとらえ、心配事のすべては人口問題に始まるとしている。彼は、常に核戦争のリスクと過剰人口を懸念していたとか。広島の原爆投下から、キューバ危機、国粋主義に至る思想に興味を持ち、戦争を避ける方法について研究し、世界が終焉を迎える確率まで計算していたそうな。数学者バートランド・ラッセルの著書にも執心だったという。ちなみに、ラッセルは平和運動家としても知られる。
バフェットの懸念は、マルサス的人口論から発するもので、おそらく地球資源や環境問題といったものも含むのであろう。実際、人口過剰が食糧危機や環境破壊をもたらす。バフェットの財団は、家族計画、性教育、産児制度、中絶問題などに巨額の寄付を提供している。
しかし、地元にあまり寄付をしないことが、ケチ!で有名。それは、ミクロ的な発想があまりないからだそうな。国会議員ともなれば、やたらと地元にハコモノを作っては自分の名前を掲げたがるもので、銅像まで作らせようと目論む者までいる。だが、オマハには、バフェット公園やバフェット美術館などの類いは見当たらないらしい。
また、黒人が多い地域で、居住区も仕事も厳密に分けられる風習があるという。オマハのロータリークラブを退会したのも、会員の人種差別やエリート意識に反発してのこと。金持ちになれば、それが自己満足で終わるような考えを批判している。バフェットの巨額な資産や収入は、究極的には社会のためにならなければならないと考えたそうな。キリスト教圏の国々でしばしば感心させられるのは、貧困への施しや養子縁組を受け入れたりする文化が盛んなことである。日本には少ない傾向である。その分、際立った億万長者も少なく、高度成長時代に一億総中流の意識が植え付けられ、極端な貧困が少ないこともあろうが。
バフェットは、大金持ちになったからといってジェット機を購入するなどという考えを批判したという。とはいえ、やっぱり買っている。社内用とはどういう意味かは知らんが、確かにオマハからウォールストリートは遠い...

2. バフェットの投資哲学
「バフェットがビジネスを評価する際に常に自分に問いかけてきたのは、資本、人材、経験などが十分にあるとして、その企業と競争したらどうなるだろうということだった。」
投資家として大成功を収めれば、株価の価値を見抜くにはどうすればいいか?と多くの人々から聞かれるだろう。そこで、よく債権に例えて説明したという。債権価格は利子から生まれる将来のキャッシュフローに等しく、それを現在価値に割り引いたもので、株価も同じように考えることができる。要するに、株の利率をいかに見積もるか、である。その方法を簡単にまとめると...
  • マクロ経済や経済予測も、他人の株価予測も気にする必要はない。長期的な企業の価値の分析に集中し、将来の収益を予測するべき。
  • 事情に詳しい業界に集中するべきで、どの業界にも必ず原理や法則がある。ちなみに、バフェットの場合は小売りチェーンが多く、時流のテクノロジー株を毛嫌いしている。
  • 株主から預かった資本を自分の財産と同様に考え大切に使用する経営者を見つけるべき。
  • 証券会社の分析ではなく、自ら生のデータを細部にわたって分析するべき。しかし細部にとらわれるのもよくない。自分を信じるようバフェットは強調する。
ただし、投資家としての目利きは抜群でも、経営手腕では劣ることを自覚している。バフェットの口癖がこれ!
「万能選手になる必要はないが、どこに限界があるかは知る必要がある。」
限界を知るということは、限界を試してきたということでもあろう。チャレンジ精神が旺盛でも、これを持続することは難しいし、偉大な投資家が偉大な経営者になれるとは限らない。言葉は単純だが、なかなか辿り着ける境地ではなさそうだ...

3. 敵対的買収と際限なき中毒
1980年代... それまでお堅いイメージの投資銀行が、突然、非難の的となる。投資は、投機と買収へと変貌していった。赤いサスペンダーをした若くて金を操る優秀な連中が、M&A市場を戦場に見立て、大企業の経営者たちを恐れさせる光景は、映画「ウォール街」を彷彿させる。日本でもバブルに突入し、M&Aが流行した。
こうした流れでいつも問われるのが、「企業は誰のものか?」である。株主のものと考えるのが、経済人の主流であろう。敵対的買収に成功した者ほど、そう考えるようである。実際、商法でもそう規定されているし。そこで、ちょいと質問の角度を変えてみると...
「企業は誰によって成り立っているか?」と問い直せば、それは従業員であり管理者であろう。では、「企業は誰のために存在するのか?」と問い直せば、それは顧客であり社会的意義であろう。「経営責任を負うのは誰か?」と問えば、それは経営陣となる。これだけ立場の違う人間が複雑に絡めば、企業が私物化できるような代物ではないことは明らかだ。いくら商法で規定しようとも、法律なんてものは都合が悪くなった者が言い訳に使うためにあるだけのこと...
巨大な投資銀行ソロモン・ブラザーズもまた、敵対的買収の対象となり、バフェットに救済を求めた。減収を記録しながら、株主には一銭も配当しないばかりか、経営陣のボーナスだけは毎年支給される体質にうんざり!人間ってやつは、高待遇漬け、高収入漬けに麻痺するもの。そんな時に、不正入札事件が発覚し、信用は地に落ちる。バフェットといえども、あれだけ再建に苦労しながら株を売却するのは投資家としては当然だが、やはり行動はドライか...
1987年のブラックマンデーに至るまで、強気相場の根拠にキャッシュフローが株価を支えている、などという馬鹿げた理屈がまかり通る。PER20倍という歴史的な高値水準を、バフェットは危険水域と考え行動を控える。しかしながら、当時の日本市場では、PERが60倍ってのは当たり前のようにあって、アメリカの経済学者からも不思議とされた。これを根拠に高値水準が正当化されるのも奇妙な話だが、おそらく高度成長時代の名残であろう。そして、バブルが弾けると、日本の市場原理が特別ではなかったことに気づかされる。
ちなみに、現在ではこれと似た感覚に国債の対GDP比がある。200%超えはかつて経験したことのない水準だが、日本は本当に特有なのか?日本市場は、本当に機能しているのか?アル中ハイマーにはとんと分からん。
ブラックマンデーが過ぎ去ってもなお、新たなLBO(レバレッジド・バイアウト)のブームが次々とやってくる。LTCMの崩壊劇しかり、リーマショックしかり... 市場が好調の局面では、欲望が恐怖を押しのける。投資銀行は、マーチャントバンキングを標榜し、LBOの仲介だけでなく自己責任と称して企業を買収するようになる...

4. プロとアマの意識の逆転
バフェットは、投機的意識がプロとアマチュアで逆転したと指摘している。かつてプロは常に冷静に行動し、アマチュアは熱くなって失敗すると言われた。近年、市場はケインズが揶揄した美人コンテストと化し、バフェットの市場観察もケインズの恐慌論を基盤にしているように映る。
金融屋たちは、会社の業績や経営方針といったものに興味がなく、レバレッジ率を高めて儲けを最大化しようと目論む。つまり、他人の資金を当てにするってことだ。プロの資金運用会社は、他人の資金を運用しながら、定期的に実績を示さなけばならない。市場が強気局面でも弱気局面でも。弱気局面では、空売りの技術が必要となり、必然的に信用取引を駆使することになる。信用取引は担保や借金によって成り立つ仕組みであり、返済期限に追われる。担保にした債権や株式の市場評価が下落すれば、保証金を見せなければならない。そのプレッシャーは半端ではあるまい。
一方、アマチュアは無理に信用取引に手を出さずとも、十年や二十年のスパンで構えることができる。行動の柔軟性においては、はるかに有利な立場にあり、精神的にも風上に立てる。もちろんアマチュアだってレバレッジ率を高めれば、リスクは拡大する。それも自己責任の問題であって、自分の財布と相談しながら行動すればいいだけのこと。プロの場合は、組織ぐるみとなって自己責任の範疇をはるかに超え、実際、巨額な公的資金が注入されてきた。バフェットは寓話を持ちだす。
「石油の試掘業者が天国の入り口で、鉱区の空きはないことを告げられた。聖ペテロから一言だけ発言する許可を与えられた彼は、地獄で石油が出たぞ!と叫んだ。天国の石油堀り達は、先を競って地獄に向かった。そして、その試掘業者は天国への入場を許された。ところが、当人は、いえ結構です!本当に石油が出るかもしれないから彼らと一緒に行きます!といった。」

2014-10-05

"完訳 統治二論" John Locke 著

ジョン・ロックといえば、個人的には哲学者の印象が強い。「悟性論」の影響であろう。だが、政治や経済の書では、政治学者と紹介されることが多く、本書にもそんな香りがする。似たような印象に、アダム・スミスのものがある。世間では経済学者と呼ばれるが、「国富論」に触れてみると、そんな狭量な人物でないことが伺える。彼らには、政治学や経済学といった枠組みで人間社会を観察しようなどという意識はなさそうである。
ロックは、人間本性的な集団性から「自然状態」を探り、本来人間が保持すべきもの、所有すべきものを考察する。そして、自然に適った自由と平等の権利が、すべての人間に等しく与えられると主張する。言い換えると、自然に適っていなければ、自由も平等も制限されるということだ。したがって、政治における最重要課題は、法律が誰もが納得できる自然法となりうるか、これが問われることになる。
ひとりの人間が生まれると、血筋でつながった家族という集団単位を形成し、家族同士の結びつきから集団性の意識を育む。集団社会が形成されると、そこにまつりごとが生まれ、代表会が生まれ、首長が生まれ、さらに法が生まれる。誰一人として、生まれる地も、生まれる国も、両親も、自由に選ぶことができない。つまり、人間社会とは、生まれながらにして、どこぞの政治組織に隷属させられる奇跡的なシステムとすることができよう。はたして政治は自然の産物なのか?あるいは政治を自然な存在にし得るか?これが統治論の問い掛けであろう...

「完訳...」と命名されるのは、岩波文庫の「市民政府論」(鵜飼信成訳)が後編だけを掲載したのに対し、本書が全訳版(加藤節訳)ということである。
「前篇では、サー・ロバート・フィルマーおよびその追随者たちの誤った諸原理と論拠が摘発され、打倒される。後篇は、政治的統治の真の起源と範囲と目的とに関する一論稿である。」
統治二論の背景には、王権神授説との宗教的世界観をめぐっての対立が見て取れる。フィルマーは、君主を人間を超越した絶対的存在とし、民衆に服従する宗教的義務を唱えたらしい。対してロックは、君主とて人間であり、人間の自然性を考察しながら宇宙論的義務を見出す、といったところであろうか。そして、政治権力の起源を人民の合意、すなわち社会契約に求めている。
「人間の自由および自分自身の意志に従って行動する自由は、人間が理性をもっているということにもとづくのであって、この理性が、人間に自分自身を支配すべき法を教え、また、人間にどの程度まで自らの意志の自由が許されているかを知らせてくれるのである。」
この書が、ルソーの「社会契約論」の引き金となり、アメリカ独立宣言やフランス革命に影響を与え、その余波が遠く日本国憲法にまで及ぶことは、言うまでもあるまい。また、所有権の起源を労働に求めるあたりは、ある種の労働価値説を唱えており、アダム・スミスやデヴィッド・リカードを経てマルクスに受け継がれているのも確かであろう...

ところで、本書は、翻訳において、ちょっとした特徴を見せてくれる。「文庫版への序」の中で、所有権が身体や人格に及ぶ場合、「固有権(プロパティ)」という訳語を当てると宣言される。所有にもいろいろあるが、政治学や経済学が対象としがちなのは、財産、資産、土地、貨幣、住宅といったものである。ロックの所有は、生命や健康、あるいは自由や平等までも含め、普遍的人権のようなものを唱えている。その権利を得るための責任と義務とは何かを問い、政治の役割を相互保存の保障において問うている。なるほど...
ただ、偉大な哲学書には、一つの用語を多義的に用いたり、一つの概念にいくつもの同義語を当てたりするところがある。真理を探求しようとすれば言語の限界にぶちあたり、必然的に読者の理解力に委ねることになろう。それゆえに難解な書となりがちだが、おかげで思考に柔軟性を与えてくれる。実は多くの哲学者が、この柔軟性を意図しているのではなかろうか。そうせざるを得ないのかもしれんが...
完璧に精神を言い当てるような言語など存在しえないだろうし、もし存在するとすれば、人間は完全に精神の正体を知ったことになる。なんでも特別な用語に当てはめて定義しようとするのが学術界の常套手段であるが、却って奇妙なニュアンスを与えることがある。経済学における「信用」という用語など、その典型であろう。
実際、「固有権」という用語には、民族的な帰属意識やアイデンティティのようなものを感じる。自然状態というより社会状態に近いような。そうしたニュアンスを含めてもあまり違和感はないし、文脈を辿ると、基本的人権や自己保存の保障といった意味合いを強く感じる。固有といっても、私有と共有でも捉え方が違う。まぁ、好みの問題かもしれん。酔いどれ読者は翻訳者の苦労を解せず、さらりと読み流すのであった...

1. 統治二論の背景
ロック自身は、ピューリタンの家庭に生まれ、敬虔なキリスト教徒だったようである。神の目的から自然権を見出すという思惑は変わらないにしても、宗教的な神というより、宇宙論的な神を唱えているように映る。
ただ、第一論には、フィルマーの主著「パトリアーカ」への痛烈な批判が込められ、ちと感情的で、らしくない面も目立つ。自然な統治がなされない場合、すなわち暴力や征服の類いに対して、断固として抵抗する権利や革命の正当性を唱えるあたりは、ピューリタンらしいといえばそうなんだけど...
統治二論の成立には、イングランドの王位継承問題が複雑に絡んでいる。17世紀、オランダからの思想流入で、イングランド国教会はカトリック派とカルヴァン派の板挟みにあった。カトリック化を進めるチャールズ2世からジェームズ2世の継承の流れに対抗したのは、ロックのパトロンであったシャフツベリ伯爵(アントニー・アシュリー = クーパー)だが、反逆罪に問われオランダへ亡命。統治二論には、シャフツベリ伯爵を擁護することが意図されているそうな。その後、名誉革命によってプロテスタントの盟主であったオランダ総督ウィリアム3世が即位。本書の冒頭には、ウィリアム国王の正当性が綴られる。いかに人民の支持を受けた統治であるかを。
国王継承問題において、血筋などではなく民意の優位性を唱えることは、この時代には難しかったことだろう。革命後も、カトリック最強国フランスの軍事介入が続き、ロックもまたオランダへ亡命。イギリス人ロックの政治哲学が、フランスで活躍するルソーやモンテスキューに受け継がれるのも、歴史の皮肉を感じずにはいられない...

2. アダムの権原とイヴの幻影
正統な後継者を統治者の血筋に求めてきたのは、ほとんどの国や民族の慣例に見られる。直系、嫡子、正妻の子など。近代民主主義ですら世襲制が色濃く残る。そんな性向に理由付けするのも、詮無きことかもしれん...
キリスト教的な理由付けでは、アリストテレスの思想解釈がある。フィルマーは、アリストテレスの政治学に関する「考察」の序文に、こう書いているという。
「世界で最初の統治は、全人類の父における王的なそれであった。アダムは、子孫を殖やして地を満たし、それを服従させよと神に命じられ、また、全被造物への統治権を与えられることによって、全世界の王となった。彼の子孫の誰一人として、彼の認可あるいは許可を受けるか、彼から継承するしかない限り、何物をも所有する権利をもたなかった。」
父親の権力と、それに無条件に服従することの正当性は、人類創造に由来するというわけか。まぁ、百歩譲ってそうだとしよう。では、アダムの子孫は王家だけなのか?祝福されるべき人間は国王だけなのか?すべてが神の意志で誕生するとすれば、人民にこそ権利が認められるはずだが。そして、すべての動物、植物にも、同じく主権を与えることになるはずだが。親が子を保護するのは生物的本能であって、神が父親に子供を支配する権力を与えるなどとするから、おかしなことになる。父の祖先が絶対的な権威となれば、慣習は絶対となり、子孫は盲従するしかない。そして、反省の基準は服従の度合いで計られ、責任や義務もまた服従で理由付けられることになるではないか?
ロックは答えてくれる。「アダムが創造されたということ... それは全能の神の手から直接生を享けたということ以外のことを意味しない」と。あの世でアリストテレスも、迷惑がっているに違いない...
ところで、イヴの影が薄いのはなぜか?子を産むのは女性であり、主役はこちらのはず。ヘシオドスの神統記にも、カオスから生まれた原初神の一つに大地の神ガイアを置き、彼女が多くの神を産む母神としている。今日の男女の社会的優劣は、どこから生じるのだろうか?腕力か?それとも精子の持ち主か?自然界はそうでもなさそうである。無数の働き蜂に囲まれる女王蜂は複数の雄と交わり、カマキリの雄は雌に喰われる。なんと不条理な!
神の世界では、主神ゼウスがあらゆる女神の寝所に化けては進入し、子を孕ませる性癖がある。雷オヤジにも困ったものよ!人間の世界では、このだらしない遺伝子が女性に寛容力を養わせ、その隙に男性優位社会をこしらえたのかは知らん。女が子を産むという物理的優位性に対して、男は権威やら名声やらの幻覚的優位性に縋っているだけのことか。いや、野郎どもは、黒幕に操られる女性優位社会で踊らされているだけのことかもしれん。実際、三行半という言葉は愛想をつかすという意味で使われるし。ちなみに、ソロモン王の箴言に、こんなものがあるそうな。
「我が子よ汝の父の誡命を守り、汝の母の法を棄てるなかれ」
父が威張りくさっている間に、母が法となって裁くとすれば、アダムは永遠にイヴの幻影に怯えることになろう...

3. 自然状態と陪審制
ロックもルソーも、政治権力の正当性を導くために人間の「自然状態」を考察すべきだという立場は同じである。ただ、自然状態そのものの捉え方は、違いを見せる。ルソーの自然人は、理性や知性もなければ、徳も不徳もない、純真な情念にしか支配されない未開人とした。一方、ロックの自然人は、やや理性的観念を持ち自分を律することはできるものの、その情念は非常に不安定で、第三者の目を必要とするといったところであろうか。ただし、第三者とは、自然に適った法であって、宗教的戒律ではない。
「人それぞれが、他人の許可を求めたり、他人の意志に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが適当と思うままに自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全な自由の状態である。」
集団社会において、自由と平等の権利がすべての人間に等しく与えられるとするならば、必然的に自由と平等の範囲が制限されることになろう。統治の正当性を合理的に説明しようとすれば、統治の手段として用いられる法律が自然法に適っているかを問うことになるのも道理である。
また、抵抗や革命の正当性のようなものが語られる。
「すべての人間は自然法の侵犯者を処罰する権利をもち、自然法の執行者となるのである。」
ただ、この文章だけ切り出してみると、陪審制の理念のようなものを感じるから奇妙である。民衆の自然的な意思が裁くという意味では同じで、民意を尊重することが真の政治だとすれば、陪審制こそ象徴的なシステムと言えよう。だが、民意もまた宗教論や感情論と結びつきやすいだけに、魔女狩りの類いに変貌しやすい。
ところで、日本の裁判員制度は、哲学的な議論がなされているだろうか?裁判制度を国民の意識に適合させようというなら、それもよかろう。だが、国民は本当に自然法の在り方を学んだ上で、あるいは議論した上で参加をうながされているだろうか?そうした議論が慣習化されていれば、ある程度機能するだろうが、手段にとらわれやすい国民性は否めない...

4. 立法権と父親の権力
「立法権力とは、共同体とその成員とを保全するために政治的共同体の力がどのように用いられるべきかを方向づける権利をもつものである。」
政治の目的は固有権の平和かつ安全を享受すること、そのために、まずもって立法権を樹立することが必要だとしている。個人の安全保障に関する契約というわけだ。最高権力といえども、個人の同意なしで所有物を奪うことに正当性を感じない。となれば、最高権力を支える立法者は、よほどの人間性を具えた人物でなければ務まるまい。立法権力に他の権力が従属するというロックの立場は、ルソーに受け継がれる。日本国憲法第41条においても、国会を国権の最高機関とし、唯一の立法機関に位置づけられるが、このことが、国会議員を他の誰よりも格上に位置づけられるならば本末転倒。この点において、モンテスキューの分権論は修正版と言えようか。
また、国家の権力に父親の権力を重ねながら、その正当性を議論している。親子は無条件に血縁で結ばれ、そこに保護のための責任や義務が生じる。では、国家と個人の関係はどうだろうか?基本的人権の保障がなければ、税金を徴収する正当性もあるまい...
「父親の権力は、未成年のために子供が自分の固有権を処理できない場合にのみ存在し、政治権力は、人々が自分自身で処分できる固有権を持つ場合に、そして、専制権力は、まったく固有権をもたない人々に対して存在するのである。」