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2018-12-30

"舟を編む" 三浦しをん 著

映画で観たのは何年前であろうか。映像には見たまんまの分かりやすさがある。とはいえ、原作も読んでみたい。やはり原作はいい。文字は作家の哲学を露わにする。そして、このフレーズに出会いたいがために...
「私は十代から板前修業の道に入りましたが、馬締と会ってようやく、言葉の重要性に気づきました。馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです。... おいしい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力とは、そういうことなのだと、辞書づくりに没頭する馬締を見て気づかされました...」

主人公は、真面目と渾名されそうな馬締(まじめ)君。考えることが得意でも、何を考えたかを人に説明するのが苦手。心を開いて会話しているつもりでも、どうもうまくいかない。それが辛くて本を読むようになったとさ...
学校で本を読んでいれば、迂闊に話しかけられずに済む。辞書は知識を伝えるための道具、なによりも正確さを旨とする。言葉好きで人間嫌いにとっての辞書づくりは、都合のいい世間との媒体物となる。人は不安でしょうがないから必死に努力する。人とどう付き合っていいか分からないから必死にアプローチする。不器用だからこそ、真面目にならざるをえない。言葉にまつわる不安と希望を実感できるからこそ、言葉のいっぱい詰まった辞書に惹かれる。何かに本気で心を傾けたら、様々なやり方を試し、自ずと目標値が高まっていくだろう。物事の本質を見る目を養おうと思えば、ちょっと不器用なくらいの方が多くの機会に恵まれるのやもしれん...
「どんなに少しずつでも進みつづければ、いつかは光が見える。玄奘三蔵がはるばる天竺まで旅をし、持ち帰った大部の経典を中国語訳するという偉業を成し遂げたように。禅海和尚がこつこつと岩を掘り抜き、三十年かけて断崖にトンネルを通したように。辞書もまた、言葉の集積した書物であるという意味だけでなく、長年にわたる不屈の精神のみが真の希望をもたらすと体現する書物であるがゆえに、ひとの叡智の結晶と呼ばれるにふさわしい。」

辞書の主役は、なんといっても語釈。万人に受け入れられる語釈となると、客観性が重視される。
しかしながら、語釈とは語の解釈。それは編む者の解釈であり、すなわち主観である。辞書の個性は、まさに語釈に現れる。誰にでも受け入れられる説明文というやつは、味気ないものばかり。おまけに、形式張っていて、分かったようで分からぬ文章のオンパレード。監修者や執筆者一覧ではネームバリューがものをいい、辞書編纂者は批判を恐れて縮こまる。
そういえば、好きな辞書なんて考えたことがない。どれも似たようなものだろうとの思い込みがある。知識の核は自由精神によって支えられ、柔軟性によって担保される。知識の宝庫である辞書には、もっと自由で柔軟な物の言い方を提供してもらいたい。まずは、辞書を権威主義から解放しよう。
辞書はチームワークの結晶だという。人間の多様性は計り知れない。編纂チームには、キモい奴がいても、チャラい奴がいても、ダサい奴がいても構わないし、女子高生が引くようなオヤジギャグが登場しても構わない。語釈といえば、酔いどれ天の邪鬼ときたら、ついアンブローズ・ビアスばりの悪魔の辞典を思い浮かべてしまう。
ちなみに、「ぬめり感」とは... 「情けが深いが去り際のきれいな女」みたいな紙の質感を言うそうな。
「指に吸いつくようにページがめくれているでしょう!にもかかわらず、紙同士がくっついて、複数のページが同時にめくれてしまう、ということがない。これが、ぬめり感なのです!これこそが、辞書に使用される紙が目指すべき境地です。辞書は、ただでさえ分厚い書物です。ページをめくるひとに無用なストレスを与えるようではいけません。」

もちろん万能な辞書はない。万能な言語はない。言語が人間精神を体現するものだとすれば、人間精神を科学的に完全に解明できない限り、完全な言語システムを構築することはできまい。辞書は完成してからが本番。より精度と確度を上げ、改訂に改訂を重ね、次の世代を生き延びようとする。永遠に持続する満足などありはしない。言葉ってやつは、捉えても、捉えても、まるで実体が見えてこない。言葉の終わりなき運動は、無限宇宙を体現するがごとき...
「辞書は言葉の海を渡る舟だ...
ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう...
海を渡るにふさわしい舟を編む...」

2018-12-23

"ほろ酔い文学事典 - 作家が描いた酒の情景" 重金敦之 著

なにゆえ、腐った飲み物に... なにゆえ、腐らせる技術に... 著作権先進国の原産へのこだわりときたら... しかも、長く置くほど味わい深いときた。人間の魂も腐ったぐらいの方が味がでるのやもしれん...
こいつに酔うの簡単だ。しかし、ほろ酔うとなると侮れない。上品に格調高く酔うには修行がいる。作家どもは、自ら仕掛けた文章で自己陶酔に浸る。この世界では、酒と女について書けるようになったら一人前らしい。美酒に酔うのも、美女に酔うのも、同じ道というわけか。ただ、どちらに身を委ねるにしも危険がつきまとう。酔うのも溺れるのも紙一重。薬草系のリキュールでも身を滅ぼすことがあり、アブサンともなれば人間失格へまっしぐら。酒はよく口説きの道具とされるが、どちらが道具にされているのやら...
もはや清酒で心を清めても無駄だ。蒸留して不純物を取り除いても無駄だ。文壇では高貴な感受性を持った連中が、グラス越しにエクスタシーを語り合ってやがる。言葉を巧みに操る達人ともなれば、ぶらっと酔いどれ紀行の中に、下品きわまりない隠語をさりげなく盛り込むのもお手の物。どうやら文学の原酒は官能小説にありそうだ。
ちなみに、あるバーテンダーが能書きを垂れていた... 「酒に落ちる」と書いて「お洒落」と... 棒が一本足らんよ。

「どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにして置く事だ。死んでからああ残念だと墓場の影から悔やんでも追付かない。思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れてぴちゃぴちゃやって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。人間は何の酔興でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。」
... 漱石「吾輩は猫である」より

1. 食事の序曲
アペリティフにまつわるイベントは各地で見られる。フランス農水省は、2004年から6月の第一木曜日を「アペリティフの日」と定めたそうな。ワインを世界各地に広めようと。京都市では、2012年に「乾杯は清酒で」という条例が制定されたという。日本文化を促進しようと。鹿児島や宮崎や熊本の町でも、焼酎での乾杯を推進する条例があると聞く。焼酎も忘れてもらっちゃ困るとばかりに。
日本のサラリーマン文化には、とりあえずビール!という慣習がある。「とりあえず」という枕詞は、食前酒の地位を確立している証拠。それにしても、接待ビールのお酌は苦い!
ちなみに、酔いどれ天の邪鬼は、食前酒から純米系か、モルト系に走る。アルコール許容量が小さいので、最初から全力投球せざるをえない。前戯も、本ちゃんも、後戯も、いつもヘロヘロよ。そして、ピロートークに走るのさ...

2. 政界にまつわる隠語
酒といえば、アングラなイメージがあり、どこの国でも法律で厳しく規制される。禁酒法の時代には密輸が横行し、戦後の日本では闇市で売買された。高度成長時代には、洋酒を「舶来品」などと呼んで高級なイメージを与えていたが、おいらの世代には、気取っているようで嫌味に聞こえる。今ではジャパニーズ・ウイスキーにも高級なものを見かけ、若い人たちに舶来品なんて言葉は通じないだろう。
さて、1964年、自民党総裁選挙を巡ってのお話...
三選を目指す池田勇人と対抗馬の佐藤栄作は、事実上の一騎打ち。激しい選挙運動のさなか、実弾(現金)が乱れ飛び、様々な隠語が生まれたという。うまいことを言って二派から金を貰うのが「ニッカ」、三派から頂くのが「サントリー」、調子よく各派から貰うのが「オールドパー」と言うそうな。オールド(old)とオール(all)を混同したのか、あるいは、洒落たのかは知らん。パーは白票やチャラを意味するという説もある。もらうだけもらって、いざ投票となると洞ヶ峠を決め込むという寸法よ。オールドパーは当時の最高級ウィスキー、まさに舶来品である。政界を生き抜くには、勝ち馬に乗るのが最も賢明という構図は、いつの時代も変わらない。こと政界においては、人間の腐らせ方は難しいと見える...

2018-12-16

"新板 バブルの物語 - 人々はなぜ「熱狂」を繰り返すのか" John Kenneth Galbraith 著

原題 "A Short History Of Financial Euphoria."
Euphoria... こいつをどう訳すかは微妙。その名は楽曲やプログラミング言語にも見かけ、なにやら薬物の香りがする。どうやら幸福感のようなものを表す語のようである。幸福感ってやつは、ある種の熱狂であり、その最高峰に自己陶酔がある。自己陶酔ってやつは、自惚れの最高位にあり、おまけに現実逃避からくる健忘症を患い、財産を失うほどのこっぴどい損害を受けながらも、そのとき培った警戒感は二十年もすればすっかり忘れられるときた。それどころか、バブルで大敗を喫しても、リベンジとばかりに次の機会を虎視眈々と狙ってやがる。金融の機会に恵まれると自らの才能に酔いしれ、自我を肥大化させてしまう。金が人を狂わせるのか、そもそも人が狂っているのか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... とはよく言ったものである。
尚、鈴木哲太郎訳版(ダイヤモンド社)を手に取る...
「私はこの小著を警告の書とするよう特に配慮した。頭脳に極度の変調をきたすほどの陶酔的熱病(ユーフォリア)は繰り返し起こる現象であり、それにとりつかれた個人、企業、経済界全体を危険にさらすものだ。のみならず、本書で述べるとおり、予防の働きをする規制は明らかな形では全く存在しないのであって、個人的、公的な警戒心を強く持つこと以外に予防策はありえないのである。」

初版は1991年、日本経済がまさに泡となろうとしていた時代。この時の副題は「暴落の前に天才がいる」としている。長らく絶版となり、この復刻版では「人々はなぜ熱狂を繰り返すのか」としているものの、前の副題も捨てがたい。金融危機の前触れに登場するノーベル賞級のスターたち。彼らの金儲けの方法が公的機関のお墨付きとなると、誰もが群がる。人間社会では、それがどんなに良い事であっても、同じことをする人が多過ぎると何かと問題が起こるものである。
ジョン・ケネス・ガルブレイスは、市場原理主義や規制緩和政策に批判的な立場をとり、経済学公認の立場から距離を置く。宗教でいうなら、既存の教会とは一線を画す立場。彼は、経済学を心理学的な、社会学的な側面から観察して魅せる。まさに本書は、代替価値をめぐる心理学の書と言えよう...
「あらゆる投機的エピソードには、金融の手段または投機機会について一見新奇で大いに儲かりそうなことを発見して得意になるという面が常にある。そうした発見をする個人や機関は、大衆よりもすばらしく先へ進んでいるものと見なされる。そして、やや遅れて他の人々もそれなりの思いで追随するようになると、先駆者の洞察が正しかったことが確証されるというわけだ。何か類まれな新奇なものがここにあるという認識が、投機へ参加する人のエゴを満足させ、また同時に金儲けにつながると期待される。そして、少なくとも暫くの間は、儲けることができる。」

人間が心理的に虜になる原理とは...
本書には、「てこ」という用語がちりばめられる。それは、レバレッジの源泉だ。経済学用語には、違和感のあるものが多い。他人が提供した資本でも、法的に返済義務が発生しなければ、「自己資本」という名の元に繰り入れてしまうような業界。「信用」という言葉と「空売り」という言葉が同義となる業界では、あらゆるカラクリがレバレッジの温床となる。「てこの原理」といえば、物理学では小さな力で大きな力を与えようというものだが、こと金融界においては、無を有に装う原理として働く。アルキメデスはあの世で呟いているだろう。一緒にすな!と...
交換の利便性とやらが面倒くさがり屋の性癖をくすぐると、価値の仮想化が始まった。価値の尺度として登場した貨幣の歴史は古く、大量生産を目論む紙幣から便利すぎるほど便利な電子マネーに至るまで、仮想通貨の出現には限りがないと見える。
いまや金融のプロにも予測不可能なほどに複雑化し、餌食となる交換財は、証券であれ、美術品であれ、土地であれ、住宅であれ、ゴルフ場であれ、人が群がるモノならなんでもあり。かつてはチューリップまでも...
人間ってやつは、自分だけ損することは絶対に許せないにしても、みんなで損する分には諦めがつくものらしい。それでいて、誰かが儲けていると聞くと、それに乗れ遅れまいと躍起になり、狼が狼を呼ぶ。
新たな投機法を次から次に編み出す天才たちの出現は後を絶たない。彼らは大衆に投機の機会を与え、しばらくはみんなで儲けることができるゆえに、金融のスターなのである。これに疑問や異論を唱えようものなら、高名なアナリストたちに非難されるのが常で、金融界の既得利益を擁護することに...
投機のブームは後を絶たず、また、それを正当化する言い訳もまた後を絶たない。それは、いつもレバレッジによって価値尺度を複雑化することから始まり、これに公認の格付会社がお墨付きを与え、そこに大衆が群がってたちまち価値の欺瞞が増殖し、ついに誰にも制御できなくなるところまで行ってしまうという構図。そして、賢明な人々がブームから少しずつ離脱を始め、世間が気づいた時には既にパニックに陥っているという寸法よ。
但し、この価値の欺瞞は、大衆の後ろ盾によって生じた結果であるということを強調しておこう。陶酔的熱狂に浸っていると、自分の意思を正当化して、目の前の利益が既得のもののように錯覚してしまう。大衆の幻想が絶対的な価値にまで押し上げてしまうのである。そんな状況で警戒心を持つチャンスは、そうはない。高度な金融テクニックを編み出した天才たちは、なにも最初から欺瞞しようと企んでいたわけではあるまい。それでもいつも非難の的とされる運命にあり、これに便乗して儲けようと企んだ大衆の軽信や貪欲が非難されることはない。ヒトラーは言った、「私を選んだのは大衆だ!」と。金にまつわる特徴的な構図はいつも同じで、そこには群衆心理学が透けて見える。それにしても、ジャンクボンドの歴史は長い。レベレッジってやつは、いわば虚栄心を担保にしているようなものか...

「あらゆる人は、最も幸福なときに最もだまされやすいものだ。」... ウォルター・バジョット

1. チューリップ狂!... 希少価値の虜
投機の歴史は、少なくともフィレンツェやヴェネツィアが栄えた時代に遡るようである。当時から、活発な証券市場が存在し、現在の価値だけでなく、将来の予想に基づいて価値の取引がなされていたとか。すでにサヤ取りの原理が見て取れる。ただ、近代的な株式市場となると、17世紀初頭のアムステルダムに現れたという。
歴史に名をとどめる投機の大爆発としての最初のものは、やはり、1630年代のチューリップ狂であろうか。コンスタンティノープルからアントワープに着いた球根の所有と栽培は、大きな名声を獲得する。美しく、色も多種多様。最も凝った品種を所有して展示することが、金持ちのステータスとなる。チューリップ価格の上昇が始まると、貴族、市民、農民、職人、水夫、従僕、女中までもが群がり、希少価値の概念が大衆を幻想へと導く。小さな球根が巨額の貸付の「てこ」となり、財産を担保に借金してまで...
但し、チューリップを別の対象物に置き換えるだけで、後の投機エピソードはほぼ語り尽くせるだろう。

2. 金融の天才登場!... スコットランド人ジョン・ロー
フランス王国は、太陽王の絶え間ない戦争と贅沢のおかげで財政難に陥り、汚職が蔓延る。これに輪をかけて、ルイ15世の摂政オルレアン候フィリップ2世は放縦極まりない男ときた。フランスに渡ったジョン・ローが考えだした計画は、フランス政府の債務をルイジアナの金で支払うというもの。彼は銀行設立の権利を得て、ロワイアル銀行を設立。これが中央銀行となり、銀行券を発行する機能まで与えられる。その収入源は貿易特権のあるミシシッピ会社で、表向きはフランス領ルイジアナに存在するとされた金鉱である。だが、その資金は金鉱探査にあてられることはなく、政府の負債の返済にあてられたとさ。近年、よく耳にする金融破綻の構図がここに...

3. サウスシー・バブル!... 株式会社という仮面
1711年、ロバート・ハーレーが設立したサウスシー会社。イギリスは、スペイン継承戦争で生じた政府債務が滞り、サウスシー会社は設立免許と引き換えに、負債を引き受けたという。これにジョン・ブラントが加わる。彼は代書屋で、法律文書の複写の達人だったとか。会計監査のカラクリ技術の発見か。彼らにはアメリカ大陸東岸との貿易独占権が与えられ、後に西岸やスペイン領までも追加されたとか。さらに、南アメリカのブラジルを除く領域がサウスシー会社の商圏と主張したという。当然ながらスペインも黙ってない。貿易独占権がイギリス政府のお墨付きとなれば、ロンドン市場に投機の機会を与え、株式の存在感が急激に増大する。
ちなみに、あのニュートンは「私は物体の運動を測定することはできるが、人間の愚行を測定することはできない。」と言ったものの、この大科学者にして自分自身の愚行も測定することができなかったようである。

4. 華麗なる「てこ」のショーの始まり!... 世界恐慌
歴史的に最もインパクトのあったのは、やはり1929年のものであろう。陶酔的熱病のエピソードに共通するあらゆる要素が明白に備わっていたという点で、これほど勉強になる題材はあるまい。天才ともてはやされた連中が続出し、「てこ」の驚異が再発見され、楽観論の上に楽観論が積み重なって株価は青天井。暴落に転ずるや、天才と目された人々は精神的にも、道徳的にも酷い欠陥が明るみになり、誹謗中傷、投獄、自殺...
しかし、この陶酔的機運が最初に現れたのはウォール街ではなく、フロリダであったという。その火付け役は不動産ブーム。魅力的な温暖な風土が一役買う。ニューヨークやシカゴのゴミゴミした大都市とは違い、開放感のある気候が地価の高騰を招くのである。そこに猛烈な二つのハリケーンが到来し、ニューヨーク市場は反落。これに同情した救済の手が、資金貸付ブームを焚きつける。ゴールドマン・サックスの華麗なる「てこ」のショーの始まり...
まだ恐慌を知らない資本主義は、株価は永遠に上昇するものと考えられていた。当時、最も著名で革新的な経済学者と目されていたアーヴィング・フィッシャーもまた、投機の衝動に負けてしまう。
とはいえ、ガルブレイスは、ケインズの登場で、これほど大規模なダメージを受ける時代は来ないかもしれない、とも言っている。ある程度の抑制を期待している点では彼もまた楽観的ではあるが、リーマンショックを経験することに。やはり、陶酔的熱病を規制によってなくしてしまうことは、事実上不可能なようである...
「金融上の記憶というものは、せいぜいのところ二十年しか続かないと想定すべきだ...」

5. アメリカ人と日本人の性向
アメリカには、西部開拓史から受け継がれる投機ブームの歴史がある。大陸横断鉄道の夢を乗せた鉄道株ブームがそれだ。行き過ぎた鉄道融資で倒産する会社に、大銀行が連鎖反応を起こす現象は、既に経験済み。ガルブレイスは、アメリカ人は投機痴呆症にかかりやすいと指摘している。神から特別な金融的洞察力を賦与されたかのように信じる傾向が強いと。
対して、日本人はアメリカ人に比べて興奮の度合いが小さいという。自分の才能を過信したり、冒険にはやる度合いが少ないようだと。言い換えれば、金融的な発想力が乏しいとも言える。日本では、グループ会社や系列会社でなくても、ダメージを受けた会社に同情的な融資を施して救済することがよく見られる。そのために、「日本株式会社」などと揶揄される。ガルプレイスは、そうした寛容的な態度が情報隠蔽の体質を呼び込み、自己回復能力の阻害になることを指摘している。もっといえば、官僚的な体質に陥りやすいってことだ。
情報が明るみになりやすいアメリカの企業体質の方が、確かにダメージは大きいのだけど、自己回復能力が優れているという見方もできる。実際、この指摘のすぐ後に東京市場でバブルが崩壊して失われた20年を経験し、おまけに、リーマンショックでは震源地よりも大きな後遺症を抱えている...

2018-12-09

"マネー その歴史と展開" John Kenneth Galbraith 著

「ゆたかな社会」、「不確実性の時代」に続いて三冊目... 経済学において歴史の観点を重要視し、思想史や哲学史に照らし合わせて魅せたジョン・ケネス・ガルブレイス。彼に言わせると、こうした見方は正統派経済学では邪道とされるらしい。ましてや、お金の歴史となると...
ケインズは、「一般理論」の序文で、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい、といったことを綴り、素人読者を励ましてくれた。お金は万人にとって身近な問題。経済学の専門家よりは、むしろスーパーの買い物客の方が実践的な知恵をもっているかもしれない。ガルブレイスも、これに通ずるようなことを書いてくれる。もっと皮肉った形で...
「本書のような書物に読者がどのような心構えで近づいてほしいかについて一言しておかねばならない。貨幣にかんする多くの議論には坊主くさい呪文がたっぷりと塗りこめられている。そのうちのいくつかは意図的なものである。貨幣について語り、それについて教え、それによって生計を立てている人びとは、医者、あるいは祈祷師がやっているのと同じように、彼らは神秘的なものと特権的な結びつきがある。つまり彼らは普通の人間には決してそなわっていない洞察力をもっているという信頼の念を世間に流布させることによって、威信、尊厳および金銭的収入を得ているのだ。それは、職業として役に立ち、個人的には金もうけになることであるけれども、このようなやり方もまた一つの定着した形の欺瞞行為である。貨幣にかんする事柄で、通常の好奇心、勤勉さ、および知性をもっている人が理解できないようなことは、いっさいない。同様に、以下のページにかかれていることでも、理解を超えるような事柄は何もないはずである... 経済学の他の分野のいかなるものにも増して、貨幣の研究は、真実を明らかにするためではなく、真実を偽装し、あるいは真実を回避するために、複雑さが利用される分野なのだ...」

第一次大戦は、金を軸に打ち立てられた通貨機構がいかに脆いものであるかを示した。1920年代は、金融政策が抑制手段としていかに役に立たないかを示した。金融政策の行き詰まりを市場が察知すると、たちまち相場が崩壊。財政政策のみが有効であり得た時代にヒトラーの第三帝国が出現した。財政政策は、貨幣を借り入れる機会を直接設けて支出を保証し、いかに生産や雇用を拡大し、不況を克服するのに有効であるかを示した。これが、ケインズの教えであろうか...
ニューディール政策もまたケインズ革命に先駆けた実証例であったかどうかは別にして、第二次大戦がアメリカ経済の躍進に寄与した。だが、財政政策は万能薬ではなかったし、インフレを阻止しえなかった。これが、戦争の教訓であろうか...
尚、TBSブリタニカ版(都留重人監訳)を手に取る。

人間ってやつは、お金を前にすると近視眼になる。お金が人を狂わせるのか、そもそも人が狂っているのか。経済学がお金の流れを追いかける研究分野であるからには、金融工学やファイナンス理論を旺盛にしていくのも、その性癖の顕れか。資本主義という貨幣を自然増殖させる奇跡的なシステムを支えているのは、投資という行動原理である。
しかしながら、投資の哲学的意義なんぞを問うても上の空。浪費家は主張するだろう... 金は天下の回り物... と。金融屋は主張するだろう... 金融商品を買おうという客で溢れているのに売らない理由がどこにあろうか... と。それを尻目に投機屋はサヤ取りに明け暮れ、元の鞘に収まるのかは知らん。
貨幣流通の最大の役割は、金欲の平等化であろうか。人類は価値の概念に弄ばれてきた。価値の尺度を探し求め、その挙げ句に貨幣を発明し、価値の概念を自由に解放してしまったがために仮想化へとまっしぐら。パンドラの箱を開けちまったか。精神ってやつが得たいの知れない実体だけに、仮想的な存在とすこぶる相性がいいと見える。つまり人間は、この長い歴史経験をもってしても、真の価値を知らずにいるということか。いや、まだまだ経験が浅く、経済哲学を身にまとうには若すぎるというのか。いまや仮想化の波は現金を抹殺にかかる。時代はリアル貨幣の最期を迎えようとしているのか。あるいは、一連の金融危機によって、紙幣や硬貨を絶滅の危機から救おうとしているのか。お金はお構いなしに自由に振る舞い、人間は永遠にお金の奴隷というわけか。金に目がくらみ、金で遊んでいるつもりが、金に弄ばれ、堕ちていく。天国と地獄の区別もつかんと。いま、テンポのいい文脈に乗せられて、ラジオからあの懐かしい ABBA の曲が流れてくる。Money... Money... Money...

1. お金は手に余る...
貨幣は、国家の信用度を裏付ける存在として君臨してきた。では、貨幣の信用は、どこから発しているのか?造幣局は、なにゆえ信用に足るのか?その後ろ盾となる国家は、どれほど信用できるというのか?それは、単に慣習がそうさせるのか?
お金ってやつは、ますます神秘性をまとい、人類を迷信へと駆り立てる。貨幣が仮想的な存在であることを最初に世に知らしめたのは、おそらく貨幣偽造であろう。贋金で敵国の財力を削ごうとする策謀は、古代の記録にある。贋金の歴史は、賢い人間のことだから、おそらく貨幣の発明とともに始まったのだろう。犬のディオゲネスとあだ名された犬儒学派の哲学者は、価値の本質を問い、貨幣の真の意味を問うて偽造に及んだがために、国外追放をくらった。この御仁がお金の犬になったのかは知らんが、彼の武勇伝に陶酔する酔いどれ天の邪鬼が子猫ちゃんの犬であることは確かだ。
やがて科学の時代が到来し、それでもなお、仮説を嫌ったニュートンまでもが錬金術に嵌った。お金が人を変えるのか。人の本性を露わにするだけなのか...
人間には、お金は手に余る。自由に泳がせておくのが一番。そう考えてお金の哲学に奔走したアダム・スミスは、後に経済学者と呼ばれたことを、あの世で迷惑しているかもしれない。
とはいえ、彼に始まる経済学が、宗教心が旺盛で迷信の強烈な時代に、価値の概念に若干の客観性を与えた功績は大きい。お金が暴走を始め、国家の信用度が下落すれば、ただちに何らかの対策を講じなければと権力者は焦る。そのためには、まずお金の正体を知らねば。だが、その正体が一向に見えてこず、イデオロギー論争にすり替えられてきた。経済政策とは、対立的なイデオロギー選択の問題とも言えよう。しかも、持つ者と持たざる者の闘争という形で。そして、経済学の歴史とは、金融政策と財政政策の綱引きの歴史であったか...
金本位制の理念は、貨幣を通じてのグローバリズムの試みであった。だが、何を本位にしたところで... 現代でもその名残をとどめ、貨幣の信用度に疑いが広まると、すぐさま鉱山物へお金が流れる。変動相場制は、金融政策に強烈な存在感を与えた。だが、市場はしばしば政策立案の思惑とは真逆の反応を示す。やはり人間には、お金は手に余る...
「公開市場政策、公定歩合、再割引率という概念ほどに神秘性に包まれたものは、実はないくらいである。これは、経済学者や銀行家が、その他市民のうちのもっとも物識りとみなされる人たちでさえが自分の理解を超えると考えるような知識に対して、特別の理解をもっていることを誇りとしてきたからにほかならない。公開市場政策というのは... 中央銀行が証券類を売却することであって、こうした操作は、商業銀行または普通銀行から貸付用の資金源である現金ないしは準備金を吸上げることになる。公定歩合と再割引率とは同じことで、これは、一般の銀行が中央銀行からの借入れによって苦痛なしにその現金ポジションを取りもどすことを妨げる効果をもつ。これだけのことなのだ。こうした手法が前世紀を通じて発展してきた背景に照していうならば、そのいずれもが、状況に対するきわめて単純で自明でさえあるような対応策にほかならず、それが神秘的であるなどとは、とうてい言えそうもない。」

2. 歴史をお金の目で眺めると...
歴史をお金の面から観察すると、人間社会の醜態が見えてくる。奴隷解放運動として名高い南北戦争の真の目的とは。自由精神を信条としたルネサンスのもたらした真の結果とは。インフレ要因となるものすべてを毛嫌いするのは、経済学の伝統のようである。
南北戦争においては、リンカーンが発行した「グリーンバック紙幣」に対して歴史家の評価は厳しい。その考察では南部と北部の産業格差が浮き彫りになるが、農業経済と工業経済の対立構図は現代の構造的問題と同じ。そして、政府紙幣が、金が金を生み出すシステムを助長してきたという見方もできそうか。
ルネサンスにおいては、通商の復活が見て取れる。まず、造幣局の次に銀行が出現した。銀行業はローマ時代にはっきりとした形で存在したそうだが、中世に高利貸しに対して宗教的な反発が生じて衰退したらしい。ルネサンス時代、宗教的な配慮よりも金銭上の利益の方がまさっていく。自由精神は金儲けの欲望までも解放してしまったか。当時のヴェニスやジェノヴァの銀行は、現代の商業銀行の先駆者として認められているという。偉大さにおいては、どんな銀行家よりも、ロスチャイルド家や JP モルガンでさえも、メディチ家に及ぶべくもないと。
お金を自然増殖させるシステムでは、銀行券が大きな役割を果たす。なにしろ利息が自然発生するのだから。ガルブレイスは、銀行の基本的な問題を、こう書いている。
「銀行業の性質上 100% の用意のない貴金属を求めて預金者や銀行券保持者が殺到してくるような可能性に対し、どのようにして貸付を制限するべきか、その他の予防手段を講ずるべきか...」
まさに、自己資本比率の問題ではないか。おいらが経済学に抱き続けた懐疑的な概念の一つ。それは、金融危機の主役を演じてきたレバレッジの問題に通ずるものだ。どこまでの範囲を自己資本と定義するか、という問題もあるが、返済義務が法的に発生しなければ、すべて自分のものと考えるのが金融屋の感覚のようである。いずれにせよ、BIS規制ですら 8% 程度という低水準を知って、ド素人感覚で唖然としたのは昔のこと。いつ信用不安が広がり、いつ金融危機が起こっても不思議ではない、資本主義ってやつは実に紙一重で機能している、というのは歴史的観点からも本当のようである。資本主義は、お金を自然増殖し続けなければ持たない、自転車操業状態というわけだ。
しかしながら、これは資本主義だけの問題とは言い難い。お金にかかわる人間社会そのものの問題なのだろう...

3. 価値尺度と市場原理
人の価値観は極めて主観的に決定され、これを客観的に解決することは絶望的である。そこで市場原理は、価値の尺度を統計的に解決する方法論として、欲望の群れを相殺する形で機能させようとする。中には、金銭的な欲望よりも優先すべき欲望を知っている者もいるだろうし、金銭的な欲望しか知らない者でも、誰かが儲ける方法を編み出せば、その裏をかいて儲ける方法を編み出し、その無限循環を突いて価値が均衡する、といった具合に。ここに、自由放任主義の原点がある。
つまり、欲望の多様性こそが鍵というわけだが、市場参加者の価値観は偏りすぎるほどに偏っている。人間の価値観は、市場に参加した途端に一様性へ向かわせるのか。やはり金に対する人間の態度は本能的なもののようである。
さらに価値尺度の偽装は巧妙化し、「信用格付」なんて概念まで登場した。価値のない債権に最高格付を与える格付会社の出現が、数多の金融危機を招いてきた。おまけに、こいつは公的機関のお墨付きときた。価値の変動を餌にサヤ取り技術を進化させ、その技術が価値の変動を煽る。価格の安定を問題とする経済学は、その変動に魅せられて本来の目的を見失ってしまったか...

4. 財政政策とケインズ信仰
一世紀以上も経済学を支配してきた「セイの法則」は、総供給と総需要が常に一致するという考えを中心に据える。失業は一時的な失敗現象で、放っておけば、いずれ完全雇用に落ち着くとする楽観的な考えである。この宗教的信仰に終止符を打ったのがケインズで、彼は深刻な失業状態でも均衡しうることを示した。身体が血液循環を頼みとするように、経済は資本循環を頼みとする。浪費家の自転車操業では、資本主義はすぐに息切れする。いくら貯蓄しても、それがまっとうな投資に向かわなければ、やはり息切れする。その投資刺激を市場原理に任せるだけでは不十分とする考えは、いまでは広く受け入れられている。
ただ、ケインズが論じたのは不均衡状態である。ケインズ体系の実証例として、よく持ち出されるものにヒトラーの経済政策がある。一貫して公共支出のための大規模な借入れを主体とし、アウトバーン、鉄道、運河などの建設、そして軍備拡張で、大失業問題をあっさりと解決してしまった。しかし、ガルブレイスの見方はちと違う。当時の超ハイパーインフレが、他に方法がないという事態にまで追い込まれていたからであって、ましてや第三帝国の面々が書物に親しむような連中ではなく、彼らの頭に金融政策という概念すらなく、偶然にも財政政策を実施したに過ぎないと。その証拠に、後の数年でナチス経済を絶滅させてしまったと。
金融政策が支配的な時代に、財政政策の重要性を指摘したのがケインズである。ケインズ体系の中心に、経済の生産物に対する総需要が経済の総生産を決定するという考えがある。まさに数学者らしく、産出量の水準と雇用の水準の関係において、かつて独立変数であったものを従属変数にしてみせた。ニューディール政策にしても、ファラオ時代のピラミッド建設にしても、公共事業の経済効果が絶大であることは確かである。クラウゼヴィッツ風に、戦争もまた政治や経済の手段だとすれば、第二次大戦後のアメリカがそれを実証してみせた。戦争ってやつは、見事に人手不足を体現してやがる。大不況で遊んでいた施設や労働者を、すべて戦備物資の生産に向けることができたのである。実は、第二次大戦こそがニューディール政策の根幹だったのでは、と解するのは行き過ぎであろうか。
しかしながら、ここにケインズの弱点が同居する。まず、何をもって不均衡とするか。はたして、完全雇用状態はありうるか。平時であれば、どんなに好況であっても不況で喘ぐ人々が少なからずいるし、好調の産業もあれば、衰退していく産業もある。労働賃金はベースアップすると下げにくい。支出が増大すると削減しにくい。欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようである。
ケインズの理論は、財政政策を裁量的に実施する... と言えば聞こえがいい。だがそれは、誰の裁量?いつ誰が発動する?予算はすべて消化しないと翌年度の予算が確保できないとなれば、官僚的思考に陥ってしまい、投資はたちまち浪費の餌食。箱モノづくりをちらつかせて地元の土建屋を喜ばせ、それが票につながるとなれば、政治屋はケインズがお好き...

2018-12-02

"不確実性の時代" John Kenneth Galbraith 著

世界を不確実にしているものとは何であろう。それは人間が関与するからにほかなるまい。神は嘲笑っているだろう。目の前に迫る危機にも気づかず、ひたすら邁進する人間どもを。だが、時間の矢に幽閉された精神の持ち主にできることは、それしかない。信仰や迷信に縋り続けるしか...
スミスの唱えた「見えざる手」は、いつのまにか「神の御手」に昇華させ、無慈悲な自由競争を旺盛にさせてきた。自由放任主義が行き詰まると、マルクスやケインズに攻撃され、今度は政府に希望を託した。経済学者が呪文のように唱えてきた、見えざる手、自由放任主義、金本位制、労働価値説、社会ダーウィン主義、マルクス主義、ケインズ革命... いずれも自足を満たせずにいる。経済思想ってやつは、常に移ろいやすく、しかも極端に触れ、おまけに過去の思想はゾンビのように蘇り、中庸の哲学とは無縁と見える。
優秀な政策立案者が施してきた経済政策にしても、しばしば的を外し、むしろ逆効果を生む。おせっかいな政府よ、なにゆえ、こうも社会をいじりたがる。おかげで、収奪的で適切さを欠く国家の手に委ねるより、見えざる手に委ねる方がまだまし、という考えはしぶとく残る。
異端者として登場したケインズは正統派の預言者となった。だがそれも、特別なケースにおける処方箋であった。よく見かける景気政策に、金持ちを優遇すると貧乏人が牽引される、といったものがある。だが、貧乏人が潤う前に景気は後退し、格差を助長してしまう。これが経済サイクルというものか。神は自責の念にかられているだろう。かくも多くの貧しき者をつくり給うたことを。だから、貧しき者を愛すというのか。なるほど、神の存在意義を強調するためにも、世界は不確実なままにしておくのがいい。そうでなければ、宗教の存在感も目立たなくなるだろう...
「一般理論は... 聖書や資本論と同様、それは、おそろしく曖昧であり、また聖書やマルクスの場合のように、その曖昧さが改宗者を獲得するのに非常に役立った。私は、あえて逆説を楽しもうとしているのではない。読書というのは、多くの努力を重ねたうえで理解に達した時には、その信念に強く執着するようになるものなのだ。」

ジョン・ケネス・ガルブレイスは、著作「ゆたかな社会」の中で、有閑階級の何が悪い... というようなことを書いた。経済学を学ぶと自己中心的になるという説を聞いたことがあるが、その大前提に自分だけは損をしない方法論という見方がある。保守的な意味では良い面もあるが、経済政策では露骨に国益を正当化してしまう。ただ、利己心にも称える言葉がある。教化された利己心... 啓発された利己心... といった形容の仕方で。まさにガルブレイスは、本格的な自己啓発、自己実現、そして自己投資の時代が到来したと言っているように映る。この酔いどれ天の邪鬼の解釈に、ちと行き過ぎ感は否めないにしても、生産や消費を煽る経済理論に行き詰まり感があるのは確かである。
ここでは、経済学界から逃避するかのように、テレビ界に救いを求める。原題 "THE AGE OF UNCERTAINTY." は、BBC 放送の連続番組の台本を作るために書き下ろした原稿を一冊にまとめたものだそうな。経済思想史を重要視している点に感銘を受けるが、なぜか経済学では異端とされるらしい。飽き飽きした学者連と議論するよりも、不特定多数の聴衆に訴えた方が合理的というわけか...
「経済学の分野で筆がたつということは、怪しまれるもとである。しかも、それには十分の根拠がある。名文は、人を説得する力をもっているし、また、頭脳が明晰でなければ、良い文章は書けぬ。自分自身が理解していないことを、うまく表現するということはできない。だから、わかりやすい文章というのは、一種の脅威とみなされる。つまり、頭の悪さを文章の難解さで隠す数多くの学者にとっては、何かおそろしく打撃を与えるもののように感じられるのだ。ケインズは、その気になれば、名文の書ける人だった。このことが、彼が疑いの目でみられた理由の一斑をなしていたのである。」

ところで、ガルブレイスの文脈は、独特の歯切れのよい名文だという。特徴的な分かりやすさを具えているとか。「ガルブレイスは、薬の処方を、読みそうもないラテン語で書く代りに、明快な英語で綴る医者みたいで、経済学者の常套手段である難渋さの陰にかくれるようなことをしないのは、ずるい」と言われたくらいだそうな。しかも、なぜか好んで男女間の交渉を皮肉をこめて話題にすることが多いという。女性とのかかわり合いを、予想もしない箇所に品を落とさぬよう持ち込むのがガルプレイス流なんだとか。この書は、彼の武勇伝だったのか。そのあたりは軽く読み流してしまったではないか。そういうことは先に教えといてくれないと。暗示にかかりやすい酔いどれ天の邪鬼は、この分厚い大作を最初から読み返さずにはいられないのであった...
尚、TBSブリタニカ版(都留重人監訳)を手に取る。

1. 主義や思想よりも既得利益か...
日常の政治議論では、その人が右か左か、リベラルか保守か、自由主義か社会主義か、といったことを気にかける。議論する側も、聴衆の側も。ただ、既得利益に対する態度は、どんな主義であれ、どんな思想であれ、あまり変わりがない。本書は、思想が既得利益にまさる場合もあるにはあるが、思想が既得利益の申し子である場合も極めて多いと指摘している。
産業革命や技術革新で経済思想の様相も随分と変わった。古代から盛んだった利息と高利貸しといった経済活動は生産へと向かい、食うための生産から付加価値を求める生産へと移行してきた。そしてさらに、人生にとって意義ある生産へと向かうのかは知らんが、金融屋の行動パターンは相も変わらずサヤ取りにご執心と見える。資本家と労働者の関係にしても、かつての地主と小作人、もっと古い飼い主と奴隷を言い換えただけで、労働市場が拡大するとともに、その仲立ちをする奴隷商人も多忙と見える。持つ者と持たざる者が生じるのは、人間社会の掟であろうか。人間と人間の間に所有関係が生じるのも、既得利益の賜物であろうか...

2. 労働運動の首謀者は...
「労働者の国家」とは、なんと心地のよい響きであろう。だが、マルクス的な労働運動にしても、階級の存在が前提される。植民地に、ブルジョアジーもプロレタリアートもあるまい。結局、既得利益や既得権益にしがみつくのであれば、労働者の間にも階級が生じる。階級闘争を煽るためには階級の存在が不可欠。資本主義の理念は平等社会を助長しない。
だからといって、平等主義に邁進すれば、個人の努力や創造力を損ない、文化を一様で単調なものとする。教育や芸術を活発にするには金持ちも必要。野心を罰っすれば、投資意欲を失わせ、リスクを冒す企業家を腰抜けにする。
政府のできることといえば、必要最低限の生活保障以外に何があろう。だが、これにも既得利益や既得権益が蔓延り、下手すると社会保障制度はタカリ屋を助長させる。階級ってやつは、貧乏人の世界にも生じ、人の不幸を見て救われるのである。それは、差別好きな人間の性癖であろう。
革命をもたらす思想は、大衆からは発しない。最も不満を持ち、最も反抗する者からは発しない。資本主義を恐慌から救った思想も、実務家や銀行家、あるいは株式所有者からは発しない。思想ってやつは知識人から生まれるのであって、これに踊らされる庶民という構図は変わらないようである。労働者の解放は実にいい。だが、それが自己の解放でなければ、いったい何を解放したというのか...

2018-11-25

"ゆたかな社会" John Kenneth Galbraith 著

身長 2 メートルを超える経済学の巨人ジョン・ケネス・ガルブレイス。この書の立ち位置が異端とはとても思えないが、彼自身はそう言っている。不確実な世界を論じれば、時代的な欠点が含まれるのも仕方があるまい。人間社会を問うた学問において、すべての現象を完全に説明できた学派は、いまだかつて存在しないのだから。ただ、異端と聞くと天の邪鬼の性癖がうずく。
ガルブレイスは、経済学的思考に疑問を投げかける。労働に明け暮れた古典的な生活から脱皮し、人生を謳歌する生活へ転換されつつある時代に、なにゆえ所得を最大限にするような議論を続けるのか?と。財貨はますます豊富になり、緊要性が低下しているというのに。彼は、ゆたかさの指標を誤れば、ゆたかさ自体を脅かすと警告する。いまや人生の意義を求めるような進歩の設計ができていると。それは教育であり、教育のあり方である。
とはいえ、人間社会には、働かざる者食うべからず... という風潮がいまだ根強い。経済的なゆたかさとは、金の使い道を心得ているということであろうか。それは、自己投資、自己啓発、そして自己実現への道。投資が経済循環の原動力であるという考えは変わらないにしても、従来の物的資本から真の意味での人的資本へ比重を移すべきだというわけである。どうやら経済学理論の陳腐化は、ゆたかさの度合いに比例するらしい...
尚、鈴木哲太郎訳版(岩波現代文庫)を手に取る。
「私はあえていうが、ここで述べた思想は、むしろ専門外の読者にとって、もっともで合理的と思われるのではなかろうか。
... しかし通念体系の高級な上層部では、このような目標は極度に望ましくないと思われるであろう。専門的な経済学者のうち高名だが鈍感な人たちまでもがこの反対論に加わっているのは遺憾なことである。」

原書の初版が刊行されたのは、1958年。いくつか改訂を繰り返し、本書は四十周年記念版に当たる。ガルブレイスの「ゆたかさ」という経済指標の考えには、執念のようなものを感じる。経済学が本格的に稼働を始めたスミス、リカード、マルサス、ミルの時代、価値の指標はもっぱらい生産に向けられ、それは貧困モデルから出発した一学科であった。人類の歴史を紐解けば、その大部分は貧困の歴史である。大衆が富を獲得するようになったのは、封建社会から解放され、資本主義や自由主義が生起する近代社会になってからのこと。
貧困や困窮をテーマにすれば、陰気な学問とあだ名される。リカードが貧乏は避けえない現象と論じれば、マルサスは喰える人間の数を論じ、やはり暗いイメージがつきまとう。マルクスの目には、政府はブルジョアジーの手先にでも見えたか。労働者を産業予備軍のごとく言い放ち、階級闘争を煽る。マルクス主義者の宗教性は常軌を逸しており、反対論者は誤っているばかりでなく罪人扱い、異端者は道徳的にも否定される。
ただ、ガルブレイスのマルクスの見方は少々違うようである。マルクスは、マルクス主義者にも、反マルクス主義者にも誤解されているという。当時のイメージは、経済学者の代表であるリカードは冷血な株屋の傍観者、対して、マルクスは熱血漢の正義漢。つまりは、労働者の代表である。失業率の増減、すなわち産業予備軍の存在が、経営に柔軟性を与え、企業体を安定化させるのは確かである。マルクスは、社会階級、経済行動、国家の本質、帝国主義、戦争などを体系化し、経済学というより社会科学として確立した。その業績はあまりにも偉大すぎて、マルクス主義者はこれを信仰するしかなかったということであろうか。
マルクスという人物は、この酔いどれ天の邪鬼にとっても、なんとなく気になる存在ではある。これほど影響力を持った偉人はいないと、世間が言うものだから。ただ、「資本論」という大作にはいまいち踏み込めないでいる。「資本論」の序説に当たる「経済学批判」に触れた時はなかなかのものだと感じ入ったものだが、「共産党宣言」に触れた途端に距離を置きたくなる。万国のプロレタリア団結せよ!... などと叫ばれた日にゃ。これも、ガルブレイスの指摘する誤解であろうか...

一方で、陰気とは言えない事例も多々見られる。スミスが大著「諸国民の富の性質と原因に関する研究」と題したのは、彼が富に希望を持つ楽観主義者という見方もできよう。陰気な部類とされるリカードにしても、おいらが「比較優位論」に出会った時は、まるで経済学の相対性理論と、この明るい説に感服したものである。なにしろ、自由貿易の力学が単純な国力差だけでは機能しないことを示し、弱小国にも得意分野があれば生き残れる希望を与えているのだから。
そして現在、生産量の指標に多少の改善がなされたものの、消費量や需要量などの指数と絡めて議論される。政治家のお好きなケインズ的財政政策は、生産物に対する総需要が経済の総生産を決定するという考えが中心にある。政策立案者は相も変わらず、設備投資や物価指数、あるいは公共投資といった計測可能な指標に目を向けるばかりか、消費を煽る方策しか打ち出せないでいる。反対論者は反対論者で、インフレ論やマネタリズムの金融政策を旺盛にしていく。そりや、「生産こそ社会の進歩の公認の尺度」と皮肉られても仕方があるまい...

しかしながら、経済学という学問は、測定不可能な目線で存在しうるのだろうか?個人的には、経済学は社会学に属す一学科として捉え、その意義の一つは社会学に数学的な視点を与えることだと思っている。だが実際の経済学は、社会学からますます乖離していくように映る。
そこで、ガルブレイスは「ゆたかさ」という指標を提案してくれるが、数値的な度合いや段階的なレベルまでは踏み込んでいない。
また、生産過程で生じる不平等や既得利益、貨幣への幻想や社会への不安、さらには社会保障から安全保障に至るまで、依存効果の観点から論じている。依存効果とは、「欲望は欲望を満足させる過程に依存する」というもの。
こうした見方は行動経済学の領域にあるが、人間の依存症は生産や消費に絡む問題だけでなく、むしろ生理的な問題であろう。人生の意義を求めて知識に執着すれば、やはり知識依存症となる。おそらく哲学者という人種は真理依存症なのであろう。金銭依存症や権威依存症よりはましか。
人間の満足には二つある。他人がどうであろうと自分自身が欲する絶対的な満足と、何かを得ることで他人よりも優越できる相対的な満足。人間ってやつは、なにかを心の拠り所にし、なにかに依存しなければ生きてはいけない存在である。
したがって、ゆたかな社会とは、より高度な依存社会ということになりそうだ。ガルブレイスは、社会がゆたかになれば余裕ができ、ゆたかさの恩恵にあずかれない人々も救われると楽観視していたのか、現実はそうではなかったことを嘆く。現実社会は欲望が欲望を呼ぶ世界で、依然として何百万、何千万もの飢えた人々がいる。ゆたかな社会だから福祉が拡大するという仮説は妥当しない。実際、助成金の類いはタカリ屋を蔓延らせる。
それでもなお、「ゆたかさ」という指標に希望を持ち続けたのは、陰気な学問を陽気な学問へ変えようとしたのだろうか。現在、この路線を継承するかのように、「幸福度」といった尺度があるにはあるが、科学的な信憑性も疑わしいし、却って政治利用されてもかなわん。そうした指標は改善の余地が大いにあるにせよ、現時点で経済学の主流に取り込まれていないことは、まだしも健全かもしれない。
とはいえ、ゆたかさの度合いによって貨幣の存在感は変わるだろうし、何に価値を求めるかの多様性はますます広がるだろう。ゆたか過ぎても、貧困過ぎても、どちらも不幸な社会になりそうだ。前者は問題が分かっていないから誤った解決策しか施せないでいるし、後者は問題が分かっていても手の施しようがない。ゆたかさの温床が人口減少へ向かわせるのか。ロボットや AI が肩代わりすれば、労働人口を必要としなくなる。それは、人間不要論の布石か... などと言えば、経済学に失望し、陰気な学問に引き戻される。救いは、ガルブレイスが四十周年という記念碑的行為に対して語ってくれる。やはり学問は陽気でなくっちゃ...
「長い年月が経ったあとで自分の書いたものを再検討することは、決して不愉快な仕事ではない。人は自分自身の労作の同情的な批判者である。正しいとわかったことから得られる喜びは、間違っていたと判明したことについての後悔より、常に大きい。」

2018-11-18

"推測と反駁 - 科学的知識の発展" Karl R. Popper 著

先日、知的自伝「果てしなき探求」では、いかにして批判的合理主義に至ったか、その思考プロセスを味わわせてくれた。ここでは、「過誤から学びうる」という命題を提起してくれる。世間でよく言われる「失敗から学ぶ」という試行錯誤法の応用例といったところか。それは、正しく問うことの難しさを暗示している。
人はみな、何かに依存しなければ生きてはいけない。ならば、何に依存して生きていくか。知識依存というのも悪くない。過誤を正すことによって真の知識を獲得する、という考えは一つのテーゼを示している。
しかしながら、過誤を自認することは至難の業。まずは過誤かどうかを判定するために検証してみることだ。検証するために反証してみることだ。反証に耐えうるなら、真の知識が見えてくるかもしれない。
いま、この検証と反証の試みを、表題の「推測と反駁」に対応させながら読み進める。とはいえ、真の知識とはなんぞや。自分にとって都合のよい範疇でしか、物事を知ろうとしないではないか。酔いどれ天の邪鬼に寛容さは皆無。知識主義を称するなら、なにゆえ権威や名誉に縋る。なにゆえ人目を気にする。まずは他の依存症から治療せねば。自省の道は険しい... 自立の道は険しい... 自由の道は険しい...

「経験とは、誰しもが自己の過誤に与える名称である。」... オスカー・ワイルド

ここに批判ネタとされる人たちは、それだけ偉大であることの証であろう。批判するに値するということである。プラトンも、アリストテレスも、ベーコンも、デカルトも、ライプニッツも、ロックも、バークリーも、ヒュームも、ミルも... カントには心酔しながらも彼とて免れない。カール・ポパーは主観を嫌っているようで、直観までも批判対象とする。帰納法も、直観も、信じないと豪語しているのである。思考する状態そのものが直観的であるような気もするが、とにかく非合理的な思考要素をすべて排除にかかる。
ポパー自身は、経験主義者でかつ合理主義者であることを表明している。にもかかわらず、その双方にも批判の目を向ける。「推測」「反駁」も、その原動力は批判に発するというわけである。だから、否定主義者などとあだ名される。いや、皮肉屋か。主題の「過誤」こそが経験的なのだから、確かに経験主義者ということになろう。
カントは、最も純粋なレベルの認識として、時間と空間をアプリオリという概念で論じた。ただ、それ以外にも先験的な認識というものが働くように感じるし、すべての認識を経験的で説明できるかは疑わしい。思考を試している状態が経験的といえば、そんな気もするが、突然の閃きもその思考過程に生じるのだから、経験的ということになりそうな気もしなくはない。すると、直観も経験的ということになるのだろうか。どうやら酔いどれ天の邪鬼の頭の中では、「経験」という用語にも疑いを持ち始めたようである。
また、合理主義といっても、精神的な合理性、肉体的な合理性、物理的な合理性など、視点をちょいと変えるだけで様々な合理性が見て取れる。実際、芸術家の合理性と政治家の合理性は真逆に映る。ここで言う合理性とは、道理に適っているか、ということが問われるが、その「道理」という用語の解釈がなかなか手強い。どうやら酔いどれ天の邪鬼の頭の中では、「合理性」という用語にも疑いを持ち始めたようである。ひょっとして、合理性とは解釈のことか。しかも都合よく。
いずれにせよ、最も純粋な認識論の領域において、批判を免れない哲学的論考などありえようか。そして、懐疑論は自己にも向けられることに。自己否定に陥ってもなお愉快になれるとしたら、いよいよド M の覚醒か。
反駁を喰らったからといって、それを失敗と評するようでは知識の高まりは望めまい。コペルニクスを偉大とするなら、プトレマイオスも偉大とせねばなるまい。アインシュタインも偉大だし、ニュートンも間違いなく偉大だ。過去の理論が科学的に否定されたとしても、その思考プロセスには敬意を払いたい。科学者や哲学者の目標は真理の発見であり、到達しえない限り永遠に近似を試みる。これぞ、ポパーの学問態度と言えよう。
「誤った合理主義は、巨大な機械とユートピア的な社会的世界との創造という考えに心を奪われている。ベーコンの『知識は力なり』とプラトンの『賢者の支配』という考えは、この態度... 根本的には、自分の卓越した知的天分を根拠にして権力を要求する態度... の別様の表現なのである。これと対照的に、真の合理主義者は、自分がいかにわずかしか知っていないか、ということを常に自覚しているであろう。そして、どんな批判的能力や理性をもっているにせよ、自分は他の人たちとの知的交流のおかげをこうむっているのだ、という単純な事実を意識しているであろう。それゆえ真の合理主義者は、人間を根本的に平等なものとみなし、人間の理性をば人間を結びつける絆だと考える傾向があるであろう。かれにとって理性とは、権力と暴力の道具の正反対のものである。すなわち、理性を、権力と暴力とを制御しうる手段とみなすのである。」

それにしても、マルクス嫌いとヴィトゲンシュタイン嫌いは本物のようである。マルクス主義批判においては、ポパーの故郷オーストリアにヒトラーが侵攻し、共産主義と国家社会主義が激しく対立した時代、社会民主主義は無力な空想家であり、マルクス主義に縋ったところで、これに幻滅した反マルクス主義がファシズムへ傾倒していく様を嘆く。ヴィトゲンシュタイン批判においては、有意味性の意義をめぐって激しく論争し、同時代を生きたことが余計に災いしたと見える。
ポパー論考の帰結を... 理論であろうが、自己であろうが、それを進化させる方法は、極限まで検証して反証し続けること... と解すれば、天の邪鬼な性癖にも通ずるものがある。
ちなみに、健全な懐疑心と啓発された利己心こそが知の原動力... を信条とする酔いどれ天の邪鬼は行動をともなわず、ただ好き嫌いで論ずるのみ。なので人間嫌いからは免れない。
「人間理性の能力、真理を判別する人間の能力に対する不信は、ほとんど例外なく人間不信に結びついている。だから、歴史的には、認識論上のペシミズムは人間堕落説と結びついていて、人間をその愚行や邪悪から救済するために、強力な社会的伝統を確立したり、強い権威を防禦したりすることを要求するようになる。」

1. 歴史法則主義批判
ポパーは、マルクス主義を「歴史法則主義」と呼び、これを科学的論考の立場から批判する。彼は社会科学を否定しているわけではない。科学的だからすべての現象を予測できるとする考えに反対しているのである。もっと言えば、社会科学の目的を歴史の予言を行うこととし、その予言は政治を合理的に行うために必要である、という考えに反対している。
さすが合理主義者を称するだけあって、科学という用語に対して、非常に敏感と見える。科学的なあらゆる分野で、よく見かける用語に「客観性」ってやつがある。理論や主張は、この用語によって確からしさを装うことができるので、政治屋や報道屋までも濫用する。だが、客観性は学問分野によっても程度があり、数学の純粋性は他を寄せつけない。つまり、科学にも程度があるってことだ。
カオスの世界では、熱力学の第二法則が警告している。完全な効率性を実現することは不可能だ!と。こと人間社会では、真理の近似性は確率論的ですらある。人間社会は、善意に満ちていない。人道に満ちていない。それでも、そこそこ善は機能する。統計的に。確率的に。だから、世間は楽天的でいられるのだろう。
しかしながら、功利主義の最大幸福の原理が、容易に慈恵的独裁のための言い訳にされる現実をどう説明するか。政治屋が政(まつりごと)を崩壊させ、金融屋が世界規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が国家を危機に晒し、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。この現実を、どう説明するか。社会科学における合理主義的アプローチは、自らの合理主義と懐疑主義の妥協をめぐってのものとなろう...
「陰謀によってなしとげられた結果が、めざされた結果と通常ははなはだ異なるのはなぜか。陰謀があってもなくても、これは社会生活において普通に起こることだからである。そしてこの指摘によって、理論社会科学の主要課題を定式化する機会が与えられる。すなわち理論社会科学の主要課題は、意図した人間的諸行為の意図せぬ社会的反響効果を明らかにすることである。」

2. 本質主義批判
あらゆる学問において、言葉の意味、とりわけ定義が重要だとする考えがある。ポパーはこれを「本質主義」と呼んで批判する。定義は完全ではありえないと。いや、言語システムは完全ではないと言った方がいい。だから、それほど目くじらを立てるな!というわけである。定義や用語の誤りが有害になることを心得ておかなければ、誤謬を肥大化させてしまうとの警告か。もっと柔軟に、それほど力まずに、様々な学問分野に触れ、多くの大著を読み漁ってみては... と誘っているようにも映る。
そもそも、人間をどう定義できるというのか?とりあえず言えることは、人間は動物である、ってことぐらい。では、それ以上のものとは?動物と区別できるものとは?言語の獲得か?技術の獲得か?
では、最先端技術の人型ロボットとの違いは?カント風に言えば、人間の尊厳は不可侵、といったことになろう。だが、人間の尊厳は人間自身で守るしかない。人間の存在そのものが自己言及の罠に嵌っているではないか。技術と知識の高度な発達が、人間性を失わせるのかは知らん...
また、あらゆる学問において用語が慣習化している。客観性を帯びているはずの専門用語でさえ、所属する組織や学派によって微妙にニュアンスが違ったりで、極めて文化的な側面を持つ。そのために、用語を知らない、あるいは間違った使い方をしている、などと罵り合い、本質的な議論を遠ざけてしまう。本質主義によって本質を見失うようでは本末転倒。経済学用語を学ぶと自己中心的になりやすいという説を聞いたことがあるが、その大前提に、経済学とは自分は損をしない方法論、という見方がある。
なるほど、定義や用語は権威主義に陥りやすい。専門用語が常識化すれば、その用語の解釈にすら疑問を持てなくなるだろう...

3. 有意味性批判
どのようにして、理論は科学的と呼ばれる地位を獲得できるだろうか。ここに、科学と疑似科学の境界をめぐる議論がある。ポパーは、考えうるいかなる事にも反駁できないような理論は、科学的な理論とはいえないとしている。反駁不可能というのは理論の長所とされがちだが、むしろ欠点だという。占星術のようなものは、反駁に値しない。そして、検証に耐えうるかがひたすら問われる。
さらに、科学と形而上学の境界設定をめぐる議論がある。形而上学は反駁不可能な領域にあり、科学とは距離を置く。だからといって無意味ということにはならない。彼は形而上学を否定しているわけではない。形而の上に位置づける、この大層な学問の意味性を問うことに懐疑的なようである。
そもそも真理に意味性が問えるのだろうか?意味性の検証って可能なのだろうか?そこで、ヴィトゲンシュタインの有意味性の基準を批判する形で論じている。ヴィトゲンシュタインの言葉「およそ語られうることは明晰に語られうる。論じえないことについては人は沈黙せねばならない。」ってやつには前々から惚れ惚れする。ただ、有意味性の基準で語られうるかと問えば、少々懐疑的にならざるをえない。意味性には言語限界説との結びつきもある。実際、無意味な言葉が精神安定剤になったりする。とはいえ、同じ時代を生きたがために、烈しい論争者に仕立て上げられるとは。やはり人間は近い者に対して感情的になりやすいと見える。遠い古代の死者たちには寛容であっても...

4. 弁証法批判
ポパーの立ち位置は批判的合理主義ということになろうが、反証主義とも言えそうである。反証的方法論に立脚する知的体系は、自然科学以外にも適応できうるようなことを語ってくれるのだから。反証や検証は、弁証法において要となる論考。にもかかわらず、ヘーゲルの弁証法を痛烈に批判し、「強化された独断論(ドグマティズム)」とまで言い放つ。彼はヘーゲル哲学を「同一性哲学」と呼ぶ。それは理性と現実との同一性を唱えたものだとか。現実と理想の区別もつかなず、もはや夢想とでも言いたげな。理性を理想像に位置づければ、合理的な観点が失われそうである。もはや世界は精神と同化してしまったというのか...
一方、カントの論考は「いかにして科学は可能であるか」という問いに発しているという。その思考法は、プラトンやアリストテレスにも見出すことができる。尤も、まだ科学が自然哲学と呼ばれていた時代ではあるが。へーゲルにも同じ出発点を見出すことができそうだが、カントの暴走した姿として捉えている。そして、マルクスとの強い結びつきから歴史的方法論を批判している。
純粋理性からの理論構築は、宇宙を観念と、いや精神と同一視するところまでいってしまったのだろうか。真理の近似値は、確率論的ですらある。では、歴史はこの確率を上げる方向にあるのだろうか。歴史を理解する上での弁証法は、より高次の疑問へと発展させているだろうか...
「マルクスの社会学は、ヘーゲルから、社会学の方法は歴史的でなければならず、社会学は歴史学と同様に社会的発展の理論にならなければならないという考えだけでなく、この発展は弁証法的に説明されなければならないという見解をも取り入れた。ヘーゲルにとって、歴史は観念の歴史であった。マルクスは観念論を見落としたが、歴史的発展の起動的な諸力は弁証法的な『矛盾』、『否定』、『否定の否定』であるというヘーゲルの学説を保存した。」
ポパーは、ヘーゲルには激しくても、弁証法的論考そのものを否定しているわけではない。あらゆる仕方を用いて疑問を呈し、けして独断的にならないという謙虚な態度こそ、科学的思考法ということであろう...
「弁証法の全発展は、哲学的体系構築に内在する危険に対する警告として受け取られるべきである。哲学はいかなる種類の科学的体系の基礎ともされてはならず、哲学者はその要求においてもっとずっと慎ましやかであるべきである、ということをわれわれはこの弁証法の全発展を見て思い起すべきである。科学者がきわめて有効に成し遂げることのできる課題の一つは、科学の批判的方法の研究である。」

2018-11-11

"果てしなき探求 - 知的自伝(上/下)" Karl R. Popper 著

批判哲学とは、こういうものを言うのであろうか...
偉大な哲学は、その偉大さゆえに批判に晒され、欠点を指摘され... それでも回帰する。時にはネオ化し、狂信化し... それでも回帰する。さらに再解釈を試み、再評価され... やはり回帰する。古典回帰は永劫回帰のごとく...
一分の隙もない哲学は存在しない。一分の隙もない論考はありえない。哲学論考は言葉を用いて仕掛けるが、完全な言語システムなんぞ存在しないのである。もし仮に、人間が編み出した言語で人間精神を完全に言い表せるとすれば、人間が人間精神を完全に解明できたことを意味する。だが、そんなことは不可能だ。人間は自分自身の意識の正体すら知らないでいる。精神ってやつが単なる電子の集合体なのか?魂ってやつが素粒子の無数の塊なのか?あるいは形而上の何かなのか?具体的に答えたければ、宗教にでも縋ることだ。結局、人間の能力では誤認識を免れない。あとは、どう解釈して生きるか。どう自己満足感に浸るか。そして、後知恵によって自我をいかに脚色するか...
認識論には根本的な難題がある。無知を知るという問題が、それである。哲学の流行は盲目へといざない、ドグマ的な信条を無批判に受け入れさせる。そして、無知を知った時、その反動がより一層懐疑主義に走らせる。批判プロセスもまた時間の関数。いつの日か、確信と懐疑が調和できる時が来るだろうか。ここに、天の邪鬼な性癖に言い訳を与えてくれそうな書に出会えたことを感謝したい...

「人間の合理性は、原則に関しては不問に付しておくということにではなく、決して不問に付さないことにあり、定評のある原理にすがりつくことにではなく、何事も疑問の余地なしとみなさないことにある。」
... ギルバート・ライル

カール・ライムント・ポパーは、批判的合理主義の立場をとる。いや、批判というより常に検証の目を向けると言った方がいい。いやいや、検証というより反証の目を持ち続けると言うべきか。そして、偉人たちはことごとく彼の餌食に。プラトンしかり、アリストテレスしかり、ヘーゲルしかり、マルクスしかり。ポパー自身は非正統的カント主義者と考えた時期もあると告白しているが、そのカントしかり。
死人に対しては柔らかな論評でも、生きている者同士となると論争は激烈に。反論者がいるからそうなるのか。ウィトゲンシュタインしかり、ボーアしかり、シュレーディンガーしかり、アインシュタインには共感できるところが多かったようだけど。
どんなに偉大な哲学者も、どんなに偉大な思想家も、批判対象からは免れない。無論ポパーとて例外ではない。本書は、批判に至る思考プロセスを披露してくれるが、これを辿ると、哲学的思考や科学的思考の歴史を概観できる。人類の叡智とは、世代を超えた批判プロセスにあり!と言わんばかりに...

弁証法的方法論は、ヘーゲルやマルクスをはじめ実に多くの哲学者や思想家、あるいは科学者が建設的に採用している。そのやり方は極めて単純だ。一つの考えに別の考えを対立させ、発想をより高度な段階へ導くといった具合に。
対立すれば、そこに批判が生じ、批判が批判を呼び、より高度な批判へと昇華させる。批判のメタ論考化とでも言おうか。言葉と言葉を戦わせれば、より高度な言葉を求める。メタ言語化とでも言おうか。現在のビジネス会議でよく用いられるブレインストーミングもその類いで、異なるアイデアを戦わせながら、よりよいアイデアへ導くプロセスを重視する。
弁証法には、リズミカルな三拍子がある。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼがそれだ。正!反!合!だが、どんなにメタ化を推し進めても、結局はアンチノミーに呑まれる。だから、負けじと飲まずにはいられない。プラトンに酔い、アリストテレスに酔い、カントに酔い、ショーペンハウアーに酔い、キェルケゴールとともに狂えれば、それで愉快になれる。敬意をもった批判でなければ、こうはいくまい。
疑問を感じなくなれば、思考は停止状態に陥る。とはいえ、健全な疑問を持ち続けることは至難の業。下手すると屁理屈屋に成り下がる。だとしても、思考の弁証法的交換をやれば、前より賢くなったような気分になれる。まったく魔術的な方法論である。
ところで、ベートーヴェンやモーツァルトまでも批判できる境地とは、どういうものを言うのであろう。少なくとも批判できるだけの自分なりの定説がいる。酔ったままなら、感化されたまま。自分なりの対位法を見つけられなければ、定旋律に縛られたまま。そして、ポパーに酔えば、ポパー哲学という定旋律に縛られたまま。自己実現や自己発見なんぞ到底おぼつかない。それでもいい。永遠に縛られたままでも悪くない。おいらは、M だし...

1. 演繹的方法論 vs. 帰納的方法論
ポパーは自ら演繹主義を表明し、科学的問題はすべて演繹的方法によって解決できると豪語している。帰納的方法を演繹的方法に置き換えることに成功したとまで主張しているのである。ここに真の科学とエセ科学の境界を見出し、マルクスの科学的社会主義や、フロイトやアードラーの精神分析学を批判している。ポパーに対する主な批判は、この帰納的思考における言及であろう。この酔いどれ天の邪鬼でさえ、ちと反論したくなる。
それはともかく、演繹法と帰納法のどちらが王道かと問えば、おそらく前者であろう。普遍言明と単称言明を対立させれば、前者の方が圧倒的に説得力がある。帰納法は一つの反証によって崩れる脆さを含んでいるが、演繹法による帰結は反証の余地を与えない。そこで、ポパーは反証可能性を問うことに注力しているが、その反証を重ねていく方法論が、逆に帰納法的に映るのは気のせいであろうか。帰納法といえば、ユークリッド原論に記される数学的なものを想像してしまうが、哲学で言う帰納的思考とは違うものなのだろうか。マルクス主義批判には惚れ惚れするけど...
実際、人間社会では帰納法的思考の役立つケースが多すぎるほどに多い。言わば、確率論的な解決策である。その意味で、帰納法は準定理といった位置づけになろうか。情報化社会では、ほぼ確実、ほぼ正解というのが結構役に立つ。検索アルゴリズムでは、完全な答えを求めるよりも、80% ぐらいの満足度で結果を出す速度が優先される。現代人は多忙なのだ。すべての問題をポパーが言うように演繹的に解決できるならば、それに越したことはない。だが、それは非現実的。やはり邪道なしでは、王道の輝きも弱まる...

2. 形而上学的プログラムとしてのダーウィン主義
形而上学は、ほとんどトートロジカルなもので、いわば言葉遊びのところがある。主な議論の対象が、精神という得体の知れない代物となれば、多様な表現法が可能となり、同義語、類語、反復語が乱立する。
ポパーは、量子力学の主観主義的な理論に反対する。量子力学は統計的に解釈される傾向にあり、ハイゼンベルクの不確定原理も統計学的である。統計的な解釈とは、ある状態として存在する可能性を確率論的に解釈するということ。ボーアの理論に対しては、理解の一切の放棄であり、探求の放棄であるとして皮肉る。
「ボーアは、見方によれば、量子力学は理解可能でないと、つまり古典力学だけが理解可能であり、量子力学が部分的にしか、しかも古典力学を介してしか、理解できないという事実を、われわれは甘受しなければならない、と主張していたのである。」
シュレーディンガーの「生命体は負のエントロピーを食べている」という主張に対しては、負のエントロピーを糧にしているのは生命体だけの特徴ではないと反論する。スティームエンジンも、石油ボイラーも、自動巻き時計も、動力源はすべて環境から秩序を吸い取っていると。シュレーディンガーの著作「生命とは何か」が偉大な書であることを認めつつも...
しかしながら、ポパーは形而上学的な論考を馬鹿にしているわけではない。いや、むしろ楽しむかのように「形而上学的プログラム」と題して、科学理論の一つとしてテスト可能な枠組みを提示している。その一つに、ダーウィン主義をあげている。ダーウィン主義はテスト可能な理論ではないが、その枠組の一つと捉え、いや、それ以上のものがあると捉え...
「状況理論としてのダーウィン主義は次のように理解できる。限られた可変性をそなえた存在物(エンティティ)のいる、限られた不変性をもった世界(枠組)があるとする。このような場合、もろもろの存在物のうちのあるもの(枠組の諸条件に適合するもの)は存続しうるが、他のもの(諸条件と衝突するもの)は排除されるであろう。これに加えて、生命あるいは、より特殊的には、自己増殖的だがそれにもかかわらず可変的な物体がありうる特殊な枠組 -- 一連の、おそらくは稀で、きわめて独特な諸条件 -- が存在すると仮定する。そうすると、試行と誤り排除の考えあるいはダーウィン主義の考えがただ単に適用できるようになるだけでなく、ほとんど論理的に必然的になる状況が与えられる。そのことは、その枠組か生命の発生が必然的であるということを意味しない。」
発生が必然的でないとすれば、確率論的ということ、統計的だということになりそうだが...
ダーウィン理論は、常に起こるのではなく、むしろ非常に特殊なケースにおいて適用されるということ。おそらく比較的安定した原子核は不安定なものよりも多量になる傾向があるのだろう。同じことは化学的化合物にもいえそうである。ダーウィン主義がほとんど普遍的に受け入れられたのは、最初の非有神論的理論であったからだという...

3. 言語論と本質主義
言葉の意味、とりわけ定義が重要だとする考えは、学問をする者の多くが同意するだろう。これをポパーは「本質主義」と呼んでいる。
しかしながら、この本質主義への反発が、ポパー自身の知的発展を決定的なものにしたと回想している。言葉の真の意味について悩んだり、議論したりすることが、危険と意識するようになったというのである。しかも、15歳ぐらいで。彼は若くして、言語の柔軟性というものに気づいていたようである。
それぞれの分野で用いられる専門用語は、客観的な意思疎通を目指して編み出される。にもかかわらず、その専門用語でさえ所属する組織によって使い方が違ったり、使い手によって微妙にニュアンスが違ったりする。ポパーは言葉の意味についての問題を本気になって力んでしまっては、逆に本質を見失うと助言してくれる。言語システムを不完全なものと素直に受け入れ、あらゆる大著を肩の力を抜いて読もうよ、ってな具合に...
「もろもろの文字は、言葉を明確に表現するうえで、単なる技術的または実用的な役割しか演じていない。... 言葉もまた、理論を明確に表現するうえで、単に技術的または実用的な役割を演じるだけである。」
そして、別宮貞徳が指摘した翻訳についての言及を見つけた。実は、この文句に出会いたくて、この書を手に取ったのである...
「なんかの翻訳をやったり、翻訳について考えたことのあるものなら誰でも、文法的に正確でほとんど文字通りの翻訳といったものはない、ということを知っている。すべてのすぐれた翻訳は原典の解釈である。重要な原文のすぐれた翻訳はすべて理論的再構成でなければならないとまでさえ私はいいたい。したがって、それはかなりの注釈を含みさえするであろう。すべてのすぐれた翻訳は忠実であると同時にかつまた自由でなければならない。ついでながらいっておくと、純粋に理論的な著述の一篇の翻訳を企てる場合には美的配慮は重要ではないと考えるのは誤りである。理論の内容は伝えているがある種の内的均整美を表現できていない翻訳がまったく不十分なものでありうるということを知るには、ニュートンとかアインシュタインのような理論を考えてみさえすればいい...」

2018-11-04

"フロイトの使命" Erich Seligmann Fromm 著

アリストテレスは、師プラトンを友と呼んだが、彼以上に真実を友とした。ここでは、フロイトを超えようとした新フロイト派の雄が、師の精神分析を試みる...
成功することで破滅するタイプの人間が、確かにいる。精神分析学の創始者ジークムント・フロイト。この偉大な精神分析医にして、自らの精神分析には疎いと見える。真理と理性への尋常ではない情熱がゆえに、権威主義とその偏狭ぶりを露わにし、自己中心的な依存と誇りの葛藤に苛む。彼は孤独であった。孤独に悩み、孤独への妥協を許さず、孤独へ向かう勇気を誇りとし、矛盾の蔓延する超自我の中をさまよう。
エーリッヒ・フロムは、自我ってやつがいかに手に負えないヤツかを物語る。とはいえ、学説から見出される誤謬を批判していると、一緒に最も価値ある部分までも放棄してしまう危険がある。ヒトラー主義やスターリン主義へ傾倒していく時代、フロイトは合理主義者としての最後の砦のような存在で、ラテン語の格言 "Sapere aude.(知ることを恐れるな!)" を体現したような人物だったと評している...

フロイトとは、どんな人物だったのか?彼の批判者たちが噂するような官能的で無教養な退廃的ウィーン人だったのか?それとも、彼の後継者たちが信じるような偉大な教師で、反対者にも親切に接した人物だったのか?一人の人間分析において、世間の悪口や名声はあまり当てにならないとしても、彼がある公式に出会ったことは事実である。それは快楽原理と呼ばれる。
「快楽は積極的な悦びよりはむしろ、不快さや苦痛の緊張からの解放である。」
一つの人物像としては、アインシュタインとの共著「ヒトはなぜ戦争をするのか?」の中で垣間見ることができよう。二人は互いに平和主義者として共感し、人間が喜んで戦争に参加する心理について書簡を交わしている。それは、死の本能に根ざしていること... 文明が進化するにつれ、破壊的傾向が超自我の形で内在化すること... 自由主義者も、社会主義者も、愛国心を旺盛にさせるのは、自我を集団の中に埋もれさせることによって、個人の重荷を軽減させようとしていること... といったことである。
「フロイトの、本能を理性によって支配するという基本的な理想が、自分の宿命を方向づけることは普通の人間の力では不可能である、という深い不信の念と結びついているのを知る。これこそフロイトの生涯の悲劇の一つである。ヒトラーの勝利の一年前、彼は民主主義の可能性に絶望し、唯一の希望として勇気のある、自分の欲望をおさえる選民達の独裁を主張した。精神分析を受けた選民のみが、無智の大衆を指導し、支配できるということが、その希望ではなかったろうか...」

理性の力を信じる点では、フロイトは啓蒙時代の子供であったという。しかしながら、大きな子供ほど手に負えないものはない。母や妻への母性愛への強い依存と女性蔑視との対立や、友人や弟子への依存と強い独立意識との対立から、二重人格性を覗かせる。
女性を男性より下位に置きたいという欲求は、強迫的ですらあったという。女権解放問題ではジョン・スチュアート・ミルを批判し、馬鹿げた人間性のない男と言い放ったとか。偏見に満ちたヨーロッパの伝統精神に反対しながらも、女性問題となると伝統的な考えに固執する。
蔑視感情は、師や同僚や弟子にも向けられる。理論上の反対意見を提出する人たちとは、ことごとく絶好状態へ。精神分析学という構想を与えた良き指導者ブロイエル、親友フリース、さらに、弟子のユング、アドラー、ランク、フェレンツィらも離れていく。ユングには「私の息子であととり」と発言したこともあったとか。フロイトの性格における受容的な依存症と誇り高き独立像との葛藤は、凄まじいものがあったようである。

また、自らの英雄列伝をナポレオンやハンニバルと重ね、さらにはモーゼとの同一性を唱えたという。
「モーゼが賤しいユダヤ人から生まれなかったように、ちょうど私もユダヤ人ではなくて、王族の子孫である。」
彼の名からしてユダヤ系であることは想像に易いが、ここに父親への反発心を覗かせる。母親の子供への愛は父親のものとは違う。父の愛は子供の行為に応じて与えられるが、母の愛は無条件に与えられる。そして、自分の血筋を呪ったのかは知らんが、晩年のモーゼ研究に執念を見せる。モーゼがヘブライ人ではなく、エジプト人であったことを証明しようと...
この思慮深い男が、権力を振りかざした野蛮人がユダヤ人の抹殺を図った時代に、なにゆえユダヤ人の英雄伝を抹殺にかかったのか。合理主義の極致を示しながら、自ら合理主義に致命的な一撃を喰らわそうとは...
正統フロイト理論と正統マルキシズム理論との間には、奇妙な関連性があるという。フロイト派は、個人的な無意識を見て社会的な無意識を見ようとしなかったが、マルクス派は反対に、社会行動における無意識的要因を鋭く意識しながら、個人的な動機を評価する点で甚だ盲目であったと。
フロイトは、人間としての自分を自慢しなかったが、自らのもつ使命には誇り高かったという。その権威的な支配欲は、けして虚栄心や利己心と無縁とは言えまい。彼は、自己統制的人間になることを強すぎるほどに求め、無意識の領域までも理性によって統制できると信じていたが、それも自己満足に過ぎなかったということか。自ら課した使命に憑かれ、自らの使命に溺れていく独りよがりの末路は、ある種のナルシシズムを思わせる。
「個人の無意識を理解するためには、自分の属する社会の批判的分析が前提であり、欠くことのできないものである。フロイト派の精神分析学が自由主義的中産階級の態度を捨てて、社会一般に目を向けることができなかったという事実は、その狭さと、個人の無意識を理解するという特殊な領域に結局とどまってしまった一つの理由なのである。」

2018-10-28

"自由からの逃走" Erich Seligmann Fromm 著

自由とは、実に厄介な代物だ。いざ自由を与えられても、凡人には何をしていいか分からない。大人どもは、いつも文句を垂れる。具体的に示せ!と...
誰かに当たる性癖は依存症の表れ。政治家に当たってはお前のやり方が悪いと弾劾し、道徳家に当たっては空想論もいい加減にしろと糾弾し、教育家に当たってはお前のしつけが悪いと誹謗中傷を喰らわせ、小説家にいたっては人類を救え!などとふっかける。
巷にはハウツー本が溢れ、ノウハウセミナーはいつも大盛況ときた。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで、まさにマニュアル人生。才能豊かな連中ときたら、哲学者の語る曖昧な言葉を金言にできると見える。何をヒントにするかは、自由と言わんばかりに...
一方、移り気の激しい大衆は右往左往するばかり。洪水のごとく押し寄せる流行りの知識に消化不良を起こし、要求するばかり。もっと分かりやすくしろ!と...
これほど無意識の領域が広大だというのに、なにゆえ自由なんてものが信じられるのか。これほど気まぐれな奴隷に成り下がっているというのに...
本当の自由なんぞ、この世にありはしない。あるのは自由感だけだ。あるのは自己満足感だけだ。人生に意味や目的があるのかは知らん。それを求めてやまないのは自己に意味があると信じ、存在感を噛み締めたいだけだ。真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。正義感に操られては非難癖がつき、倫理観に憑かれては意地悪癖がつき、理性や知性までもストレス解消の手先となる。自由に生きるよりも、人のせいにし、社会のせいにし、神のせいにしながら生きる方がはるかに楽ってものよ。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼が、自由が欲しい!と大声で叫んでいる間も、天才どもは静かに自由を謳歌してやがる。どう足掻いても奴隷に成り下がるのであれば、そこから逃げるほかはない。人生はまさに逃亡劇...

「もし私が、私のために存在しているのでないとすれば、だれが私のために存在するのであろうか。もし私が、ただ私のためにだけ存在するのであれば、私とはなにものであろうか。もしいまを尊ばないならば... いつというときがあろうか。」
... 「タルムード」、第一篇「ミシュナ」より

フロイト左派で知られる心理学者エーリッヒ・フロムは、社会的過程から人間の情動を読み取ろうとする。生を授かり終焉するまでの間、人とのつながりを完全に拒絶することができないのは、いわば人間社会の掟。すでにアリストテレスが定義しているではないか... 人間は生まれつき社会的な生き物である... と。
完全に自給自足のできる存在といえば、やはり神か。寂しさなんぞ恐れず、孤独を存分に謳歌できるから、沈黙のままでいられるのか。共同できないものが獣だとすれば、人間を共同できる存在とし、神と獣の中間に位置づけて慰める。そして、集団の中に最も深刻な孤独を発見する羽目になろうとは...
注目したいのは、ファシズム的服従とデモクラシー的抵抗、サディズム的傾向とマゾヒズム的傾向を対立させながらも、根源的な衝動は同じところに発しているとしている点である。本書の初版は、1941年刊行、ヨーロッパがナチズムに席巻された時代。フロムは、個人の自由が脅かされる過程を、権威主義や全体主義の政治的圧力だけでなく、自由に対する恐れと自由からの逃避という衝動を絡めながら考察して魅せる。
自由が耐え難い重荷になるか?と問えば、それは十分にありうる。個人の自由が他人の自由の脅威となるか?と問えば、それも十分にありうる。自由意志の根源を哲学的に問えば、自律と自立が要請され、ひいては孤立と孤独に引きずり込まれる。孤立と孤独ほど人間を不安に陥れる効果的な道具はあるまい。自由意志は能力主義と相性がよさそうに見えるが、自由は能力によって制限され、能力の欠乏が無力感を助長し、不安に陥れる。この不安は服従へいざなうのである。画一化された集団の中に自我を埋没させれば、不安から逃れられる。自発的な服従も、盲信的な服従も、やはり自由感に発しているようだ。大衆は酔う!国家という幻影に... 自由という暗示に... そして、酔っている自己に酔う...

ところで、自己ってなんだ?交通事故の類いか?自由意志の正体は、自由電子の集合体なのかは知らん。気まぐれが自由電子の衝突確率で決定づけられるとすれば、やはりそうなのか。天才たちは、何を衝突させているのだろう。人は欲望と抑圧を衝突させる。抑圧の中に自由を発見し、禁断の中に衝動を見出すのである。その証拠に、愛ってやつは、自我の叛逆のうちに失楽園を夢想し、成就した瞬間に興醒める。障害が大きいほど燃えるというが、不倫ってやつはよほど燃えるらしい...

1. 人間性と社会性
本書は、愛や憎しみ、権力への欲望や服従、官能的な享楽や恐怖、創造的な情熱や不安など、個性を彩る衝動までも社会的過程の産物だとしている。社会は、抑圧的な機能を持つと同時に、創造的な機能を持っているというのである。
あらゆる創造物が相対的な意識から生み出され、あらゆる価値観が善悪美醜のごとく対称性にうちに見出される。外界を観なければ内界を知ることもできず、内界を熟慮しなければ外界を判断することもできない。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命である。人間性というものが、生物学的に説明のつく確固たる概念なのかは知らんが、一人の人間の内に一つの力学が働いているのは確かである。それは、欲望と抑圧の力学である。これが、極めて経験的で、文化的で、社会的な過程において育まれたものといえば、そうであろう。
しかしながら、断言されると、酔いどれ天の邪鬼は条件反射的に反発してしまう。確信と懐疑の力学が働くのである。もっといえば、理性の根源はどこからくるのか?と問えば、直感的な、いや直観的な部分もありそうな気がするし、先験的な何かに発している部分もありそうな気がする。孤立しても自制心は働くであろうし...

2. ファシズムとデモクラシー
ファシズムは、結束主義といえば聞こえはいいが、個人を犠牲にして国家権力に服従する傾向が強すぎるほどに強い。民主主義社会における個人の堕落ぶりを声高に宣伝すれば、個人の自由というものに疑問を持ち、国家に犠牲を捧げる意志こそが美徳に見えてくる。デモクラシーにしても、個人の人権尊重といえば聞こえはいいが、画一的な価値観に飲み込まれるという意味では、服従という見方もできる。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合の良いものはない。ゲッペルス文学博士は小説の中で、こう書いているという...
「民衆は上品に支配されること以外なにものぞまない。」
結局、大衆は全体主義国家の奴隷になるか、民主主義国家に広く行き渡る画一化の奴隷になるか、二つの選択肢しかないというわけか。政治理論ではファシズムとデモクラシーは対極に位置づけられるが、集団的意志に身を委ねるという意味では同じ服従なのかもしれない。
そして現在、グローバリズムへ邁進するほどナショナリズムを旺盛にさせるが、これも類似に見えてくる。不安が服従を助長させ、服従が不安を増幅させ、敵意と反感を旺盛にする。そして、集団や組織や制度に文句を垂れる。文句を垂れるということは、依存していることであり、縋っているということか。現代人がますます批判的になっていくのも、その表れであろうか。近代合理主義は、いつも自由を叫びながら、自ら自由を束縛してきたのかもしれない。無意識という非合理主義に翻弄されて...

3.サディズムとマゾヒズム
「権威主義的性格の本質は、サディズム的衝動とマゾヒズム的衝動との同時的存在として述べてきた。サディズムは他人にたいして、多かれ少なかれ破壊性と混同した絶対的な支配力をめざすものと理解され、マゾヒズムは自己を一つの圧倒的に強い力のうちに解消し、その力の強さと栄光に参加することをめざすものと理解される。サディズム的傾向もマゾヒズム的傾向もともに、孤立した個人が独り立ちできない無能力と、この孤独を克服するために共棲的関係を求める要求とから生ずる。」
権威主義や官僚主義の下では、サディズムとマゾヒズムは、すこぶる相性がいいらしい。
サディズムは、思いのままになる者を愛し、思いのままにならぬ者を虐待する。この場合の愛し方は、命令して従わせることで、支配欲との結びつきが強い。そのために画一的な集団性を欲し、独立心を忌み嫌う。しかも虐待の対象までも必要とするのである。
マゾヒズムは、信頼する者や崇拝する者に特に愛されようと望み、思いのままになろうとする。そのために集団の中での自己の立ち位置を強く意識し、出世欲との結びつきが強い。
支配する側は、崇められる存在でなければならず、そのために偽りの自己を演出し、支配される側もまた、お気に入りになろうと偽りの自己を演出する。どちらの苦悩にも、自己喪失、あるいは二重人格性の傾向が見て取れる。どちらも人間の弱さを露出させ、集団依存性が強く、虚栄心との結びつきが強い。
指導や教育の場で、叱って伸ばすか、褒めて伸ばすか、という議論をよく見かけるが、叱ったり褒めたりする側も、叱られたり褒められたりする側も、ある種の快感を覚えるであろう。支配する側も、支配される側も、愛の奴隷というわけか...
とはいえ、人間であれば、どちらかの傾向にあるだろう。ちなみに、おいらは、M だと断言できる。だって、神から恵まれる自由を信条としながらも、小悪魔から恵まれる甘いわな(= なわ)に縛って欲しい...

2018-10-21

バアやモニタとにらめっこしましょ、あっぷっぷ...

とうとう婆やが、要介護認定を受けた。腰の圧迫骨折で(要介護 4)。ベッドから一人で起きられない上にトイレが近く、夜中に3回、4回お呼びがかかる。たまらず一ヶ月余り入院させたものの...

要介護認定を受けてからは、ケアマネジャーさんと福祉用具屋さんが機転をきかせてくれて、すぐに、レンタル用の歩行器や手すりやトイレフレームなど5点ほど持ち込んでいただいた。
今まで婆やのベッドの隣に布団を敷いて寝ていたが、福祉用具のおかげで一人でトイレにも行けるようになった。しばらくは見守る必要はあるが、とにかくポータブル排泄処理器の類いは却下!風呂はさすがに一人では入れないが、介護用シャワーチェアを購入して安心感がある。住宅改修補助で玄関に手すりを付け、自動車の乗り降りも見守るだけで済むようになった。
ついでに、爺やも痴呆症で要支援認定を受けたことだし、この際、じじばばセットでデイサービスを利用することに...

それにしても、彼らの仕事のフットワークには、学ぶべきものがある。初対面の日にいきなり用具が一式揃っている。それだけ経験も積んできたのだろうけど、仕事は与えられるものなどと思っている人には、とても勤まりそうにない。
その分、お役所仕事のとろさが目立つ。窓口の方は、手続きに時間がかかる状況を説明してくれて、すぐにでも手続きをした方がいいと丁寧に勧めてくれた。実際、介護認定に一ヶ月ちょっとかかったが、これはまだ早い方で、二、三ヶ月ぐらいかかることも珍しくないそうな。
つい先月、一人暮らしの老人が骨折し、認定が下りないまま民間業者が手を出せず、家族も遠くに住んでいるということで、町内の民生委員さんが苦慮している姿を見かけたところである...

巷では、介護離職の問題をよく耳にする。確かに、仕事と介護の両立は大変だ。身近にも、介護をしながらサラリーマンをやっている方がいらっしゃるが、よくやっているものだと感心するばかり。
おいらの場合、個人事業主なので働く時間はある程度自由がきくし、ネットワークも整備されているので、それほど深刻ではない。職場が自宅とはいえ、日帰り出張もできないようでは辛いのだけど、それも解消されつつある。ここ四、五ヶ月は地獄のような日々であったが、仕事仲間の理解も得られて非常にありがたい。いまや介護システムの構築で状況を楽しんでいる次第である。Web 会議システムを構築するような感覚で、温度センサやバイタルモニタを検討したりと...

1. リビングを介護ルームに...
将来を見据えて、トイレに近いリビングを本格的に介護ルームにすることにした。まず必要な機能は、ナースコールや双方向通話に、介護モニタといったところであろうか。とりあえず、こんなオモチャを揃えてみる...




・ANBOCHUANG ワイヤレス IP カメラ       : 暗視撮影付(左上)
・REVEX ワイヤレスチャイム iCall LCW100 : 呼出ベル(左下)
・REVEX ワイヤレストーク ZS200MR        : 双方向通話(右下)
・モニタは、ちと贅沢に Surface Pro3 にその役割を与える(中央)

動体検知や人体検知の機能も欲しい。このカメラにも一応動体検知の機能はあるが、精度がいまいち。安上がりで済ませたから、こんなもんだろう。
また、カメラの台数を増やすよりも、音パターン検知がかなり有効になりそうだ。例えば、トイレまでの動作パターンが固定される... 歩行器のブレーキロック解除、ペンギン歩きがはじまり、自動トイレの便蓋が開き、しばらくして流れる音、そして、歩行器を使ってベッドまで戻ってくる... といった具合に。このパターンから外れると、警告音を鳴らすような機能があると... などと考え、マイクで集音してプログラムを作成してみた。当初はいけそうな感じだったが、完成に近づくと、どんどん一人歩きをはじめ、どんどんパターンが複雑化していく。予想外の場所で音がしたり、いつもと違う音がしたり。回復傾向にあるのは喜ばしいことだが、もはや音で行動を判断することできずテスト不能。使い物にならん!要するにモニタ不要ってことだ。
...まぁ、こんな感じで遊んでますよ!って苦労ネタを提供したら、仕事仲間に笑われてもうた...

2. 無線カメラとあっぷっぷ...
無線環境で、いつも悩ましいのが電波状況である。この際、パフォーマンスアップのためにアクセスポイントも見直すことに...
機器は、NEC Aterm WG300HP から BUFFALO WSR-2533DHPL へグレードアップ。どうせ、APモード(ブリッジ)でしか使用しないので、機能はなるべくシンプルなものを選択する。
ANBOCHUANG のカメラは、ほんの少し電波が弱まるとすこぶる反応が鈍く、コネクションがしばしば切断される。また、2.4Ghz のみの対応で、5GHz でないのが、ちと寂しい。前の機器に戻しても電波状況はほとんど変わらず、最初は使い物にならないかとブルーになりかけたが、配置を工夫しているうちに、まぁまぁ使えるようになった。
ただ、Surface Pro3 とカメラの両方を無線接続すると、数時間ぐらいでコネクションが切断する。IPカメラ + タブレット端末 + アクセスポイントの相性の問題であろうか。両方を有線接続するとすこぶる安定するが、それではあまりにみっともない。どちらかを有線にすると安定するようだ。とはいっても、カメラを有線にするのでは現実的ではないし、タブレット端末を有線にするのもスマートではない。あるいは、たまの切断は我慢するか。いや、ここはスマートではないやり方でいこう。
てなわけで、Surface Pro3 を BUFFALO LUA4-U3-AGT USB3.0 Gigabit LAN アダプタを経由して有線接続する。Average で 2Mbps 強を確保するような電波状況であれば、切断することはなさそう。だが、ちょっとでも Average が下がると切断する。例えば、ドアを締めたりするだけで。1階と2階を隔てる防音材や断熱材など構造的なものも影響しているのかもしれない。設置場所はかなりシビア!そして、距離と配置の工夫でなんとかなった。
中継機を設置してみる手もあるが、こいつだけのために投資する気にはなれないし、実は、Surface も怪しい。というのも、巷を騒がせている Win10 October Update で WiFi だけでなく有線も非常に不安定になった。WUuu... の呪いか!ドライバを再インストールすると機嫌が直ったようだが...
尚、切断監視のためトラフィックを常にグラフ表示している(TCP Mnonitor Plus)。特に深夜は、静止画も動画も区別がつかないので...
カメラに搭載される暗視機能は、深夜のモニタでは欠かせない。録画もできる。また、パン + チルト機能でかなり首を振ってくれるし、天井から床までかなり見渡せる。天井から吊り下げるとより効果があるだろう。画質も、1080P、200万画素でまあまあ。設置で苦労したとはいえ、これだけ満たして五千円ほどだから、あまり文句は言えまい...

2018-10-14

"続 誤訳 迷訳 欠陥翻訳" 別宮貞徳 著

日本文学を味わうようになったのは、恥ずかしながら三十を過ぎてから。学生時代の国語の成績は学年最下位で、以来すっかり文学嫌いに。ゲーテやニーチェの作品に救われたといった次第である。
つまり、生涯で読書の対象としてきたものは、ほとんど翻訳語だったことになる。まともな日本語に触れる機会が少なければ、この酔いどれ天の邪鬼の言葉は翻訳語に随分と毒されていることだろう。それにも気づかなければ幸せというものか...
ちなみに、福原麟太郎氏は、かつてこう語ったそうな。
「今は日本訳が原文よりもはるかによくわかり、よく内容を伝え、文章の調子までも写しているから、昔のような心配はいらないのだが、私などは相変わらず翻訳を読まない。これはわるいくせであるとこのごろは思うようになった。翻訳を読む方が、私などの語学力でおぼろ気に原意をたどるよりは、はるかに明確にイメージが読みとれるのである。それに翻訳の方が読む速力は早いし、利点はいろいろあるのだが、いまだに実は私は、そのわるいくせにわざわいされている。」

本編に釣られて続編に突入... 姑チェックはさらに冴え渡る。具体例が豊富で、辞書代わりにもなってありがたい。いつも悩ましい時制や冠詞の扱い、なじまない仮定法の言い回しなど、自然な日本語に変換して魅せてくれる。時には冗長的に、時にはコンパクトに、実に自由度が高い。マークシート式の大学受験問題に至っては、英語力がなくても答えが導ける技まで教えてくれる。そもそも誤った答えは日本語がおかしいというわけだが、それは運転免許の学科試験に通ずるものがある。おいらは翻訳業に携わっているわけではなく、翻訳文を人に披露することがほとんどない立場とはいえ、うまいことやるなぁ... と見とれてしまい、むしろ日本語の勉強になる。
ちなみに、大英帝国時代の外交官アーネスト・サトウは明治維新の回想録の中で、日本語には定冠詞という概念がないことをいいことに、閣老連が責任逃れの曖昧な表現に終始する様を愚痴っていた。

人類が編み出した最強の武器は、おそらく言語であろう。いくら破壊力を誇る核兵器で武装したところで、正義を語れなければ戦争もおっぱじめられない。どんな学問分野であれ、言葉で理論展開される以上、言葉のあり方について無神経ではいられないはずだ。しかし、あまり神経を尖らせば、言語の本質である柔軟性を損なってしまう。言語は、微妙に変化する余地を残すから進化する。言語が精神の投影だとすれば、精神という実体を完全に解明できていない状況で、言語を完璧な法則に乗っ取らせるわけにはいくまい。
国語の乱れということが、よく指摘される。現代人にとって、大和言葉はもはや外国語という感覚。いわゆる日本語英語が、言葉を乱しているところもあろう。リベンジやリスペクトなどは流行語のように使われるが、外国の方によく指摘されるのは、"revenge" は挑発的なニュアンスが強いので、I'll try again... ぐらいにした方がええよ、といった具合。彼らに言わせれば、日本語を乱しているだけでなく、英語までも乱しているというわけである。さすが極東の僻地まで勉強しに来ているだけあって、英語への翻訳の仕方にも神経質と見える。
やはり言語は一筋縄ではいかない。言語の翻訳は、いわば文化の翻訳、いや精神の翻訳。直訳も一つの手段ではあろうが、かなり世界を狭めてしまう。英語の先生ほど英語の存在感を強調するがあまり、英語かぶれな日本語になるのかは知らんが...

しかしながら、本書の議論が、経済学関連の書をめぐってある学者との論争に及ぶと... あなたの勝ちです!あなたの負けです!といった論調に、一気に幻滅。理路整然としているだけに余計に見苦しい。お互い言葉を大切にする立場にありながら、互いに感情的に煽る言葉は、なんとも滑稽である。議論が勝ち負けに及んでしまっては... そして、つくづく思うのである。大人にはなりたくない!と。そういうおいら自身が脂ぎった大人なのである。不快に思うなら、そんな本は捨てちまえばいいのだが、そうはいかない。貧乏性だから尚更だ。この気分を救ってくれたのが、村上陽一郎氏が対談で問いかける言葉である。
「たしかにこなれた日本語、熟した日本語とは言えないかもしれないけれども、外国語の中にある、例えば抽象名詞が主語になって動詞をとるような、日本語にない文脈がでてきたとき、それをできるだけ外国語の文脈に近い形で訳すことによって、そういうふうに連中はものを考えているということを、読者にわからせているというように考えるわけにはいかないでしょうか...」

ちなみに、経済学関連の書をめぐる論争とは、日本語の持つ論理性についてのもの。一方が、日本語には論理性が乏しく、西洋語の論理性を日本語で表現すれば、不自然にならざるを得ないと主張すれば、いや、日本語にだって論理的に表現できる方法はいくらでもあると応じる。そこで、西洋語的論理性と日本語的論理性の対立構図が生まれるわけだが、ネタにされる学者の言い分も分からなくはない。
ただ、あまりに不自然な日本語の言い回しに別宮先生は怒り心頭で、翻訳という仕事に対して何も考えず、哲学がないとまで断じる。
実際、専門用語に違和感のある翻訳語をあてて、その業界で常識化していることはよくあるし、やたら言い回しの難しい文章や、権威ぶった難解な文章にもよく出くわす。その都度、原文が難しいのだろうと想像してしまうが、実はそうでもないらしい。
いずれにせよ、どんな言語にも得手不得手の領域がある。完全な論理性を構築することは、人間の能力ではほぼ不可能であろう...

ここでは、この対立構図をアル中ハイマー流にもう少し発展させてみよう。いや、思いっきり脱線させてみよう...
西洋語と日本語の論理的性格の違いという議論は、言語学でもよく見かける。
さて、論理的思考法には、演繹法と帰納法がある。演繹法は、基本となる大前提から小前提に向かって法則性を導いていくアプローチで、三段論法がその代表。帰納法は、多くの事象から共通点を見出して法則性を導いていくアプローチ。ビジネス戦略では、トップダウンとボトムアップという言い方をするが、それぞれこれに似たアプローチをとる。数学的な論理展開という観点からは、おそらく演繹法が王道ということになるだろうが、現実世界を描写するには、帰納法の方が役立つ場面も多い。その意味では、理想論と現実論という見方もできそうか。
そういえば、ある外国の方が、西洋人の思考は演繹法的で日本人の思考は帰納法的で、その性格が修辞法にも現れる、と言っていた。これに呼応して、個がひたすら論理を組み立てていくか、周りを気にしながら論理を組み立てていくかの違い、と指摘した人もいる。
さらに面白いことに、これらの思考法の違いに、一神教と多神教を結びつけた意見もある。一神教では、神が絶対的な存在だから、ここを大前提として出発して行動が規定されていくのだとか。多神教では、神々が周りの神の機嫌を伺いながら、行動が規定されていくのだとか。そして、西洋的思考はキリスト教のような一神教から発し、東洋的思考は多神教的性格が強いというのである。
なるほど... と感心しながらも、ユークリッドの「原論」には既に帰納法が記述されているけど、と反論したものである。古代ギリシア時代の信仰を一神教とするか、多神教とするかは意見の分かれるところ。ゼウスを主神とした階層構造を持ち出せば一神教と言えなくもないが、この雷オヤジの女たらしぶりときたら、女神連だけでは飽き足らず人間にまで手を出す始末。やはり神にも欠点があり、それぞれの神に得意技があるとする方が収まりがいい。だからルネサンスは、カトリックの抑圧的な一人の神に嫌気がさし、神々の自由ぶりに憧れて古典回帰に走ったのであろうし、それに、この不完全な人間社会を創造してしまったことを、一人の神に責任を負わせるのもどうかと...

まぁ、時々、学術研究都市のサロンで、こんな冗談話で盛り上がっているわけですが、偉い先生方の真面目な論争に、低俗な話題を持ち出してごめんなさい!

2018-10-07

"誤訳 迷訳 欠陥翻訳" 別宮貞徳 著

容赦ない姑チェック!
批判文学は、おもろいけど口が悪い。建設的な意味がなければ、単なる悪趣味。同病相憐れむ... と言うが、同業者相憐れむということもあろう。自分の属する専門分野だからこそ情熱に満ち、つい辛口にもなる。少々の毒舌は、論争のレトリックとして不可欠。そして、教え子に指摘される...
「先生、やってますね... 何を?... 欠陥翻訳ですよ。あたるをさいわい斬りまくるって感じじゃないですか...」

日本は「翻訳天国」とよく言われるそうな。ここでは「翻訳者天国」と言い換えて誤訳より悪訳の方がよほど罪が重いとし、悪訳者を野放しにするな!というのである。商品には欠陥商品がつきもの。販売業者にはお役所が目を光らせ、問題があれば大きく報じられ回収される。だが、翻訳品には監視の目が甘いという。一般読者に欠陥かどうかを判断するのは難しく、ほとんど鵜呑み。ライバル品も限られ、権威主義にも陥りやすい。ネット社会では、誤訳の指摘をよく見かけるけど...
何をもって欠陥とするか、その基準も難しい。一般商品ならば、安全性、耐久性、不具合など消費者はすぐに見分けがつくが、翻訳品をわざわざ原書と見比べる読者はあまりいない。誤訳があったとしても、翻訳者自身が気づかないこともあれば、一方では、これは正しいとされたり、これは名訳だと賞賛されることもある。
消費者を闇討ちするようなことはやめるべきだ!と言われても、闇討ちされていることに気づかなければ幸せ。分かりにくい文章ぐらいはすぐに捨て去るのが、まっとうな態度かもしれない。それが、翻訳者への親切なのかもしれない。
しかし、そうはいかない。せっかく金を出して手にしたのに。おいらは貧乏性ときた。どんなに分かりやすい翻訳であっても、どんなに見事な翻訳であっても、どんなに美しい翻訳であっても、どうせ読解力がないので都合よく解釈するし、多少の誤訳に気づいたとしても、面倒なので読み流す有り様。
そして、気づかされる。読書感想文めいたことをブログネタにしているが、本当に理解して書いているだろうか、と。こうした行為も、著者や翻訳者の意図を正確に汲み取っているかと問えば、やはり翻訳なのであり、自己陶酔文を量産する始末。実際、飲みながら書いているし、あぁ~、気持ちええ... 酔いどれ天の邪鬼の場合、翻訳者のせいばかりにはできない...

1. 誤訳は翻訳の宿命!
人の発する言葉には生活感が滲み出、論理的に意図された言葉であっても、文化的背景との結びつきが強すぎるほどに強い。それは、いわば文化の翻訳であり、精神の翻訳である。
もし仮に、完全な翻訳が可能だとすれば、人間は自ら編み出した言語システムを完全に解析できたことになり、この手段をもって言い尽くそうとする精神という実体をも完全に解明できたことを意味する。そもそも完全な意思伝達なんてものが可能なのだろうか。別宮先生も、誤訳を完全に免れることは不可能だと言っている。翻訳者だって人間、うっかり間違えることだってあろう。先生自身も、学生や読者に間違いを指摘されたり、穴があったら入りたいようなヘマをしでかすと告白している。
翻訳しすぎて、おかしなことになることもしばしば。無理に翻訳せず、原語のままの方がいいと思ったり、映画を観ていると、この字幕はないだろうと思ったり。機械翻訳が役立つ場合もあるにはあるが、やはり言語の本質は柔軟性であろう。それは、自由精神を体現する場だということ。
そして、正確は明晰につながらない... 細心にかつ大胆に... などの助言をしてくれるが、言うは易く行うは難し!
ちなみに、ケネディ大統領が狙撃された事件では、同乗していたジャクリーン夫人が "No!" と叫んだそうな。誰かは知らんが、これを「いいえ、ちがいます」と訳して、お笑いになったとさ...

「なんかの翻訳をやったり、翻訳について考えたことのあるものなら誰でも、文法的に正確でほとんど文字通りの翻訳といったものはない、ということを知っている。すべてのすぐれた翻訳は原典の解釈である。... すべてのすぐれた翻訳は忠実であると同時にかつまた自由でなければならない。」
... カール・ポパー「果てしなき探求 - 知的自伝」より

2. まずは日本語力
直訳すれば、それなりの内容は想像ができる。しかし、文学の真髄は精神の描写であり、これを完璧に意訳しようとすれば、方程式のごとく文法法則のみで置き換えることは不可能であろう。決まり文句ならともかく。
ゲーテの詩的な文章を直訳で味わえるとは、とても思えない。原文の側も、伝えるシチュエーションによっては文面を滅茶苦茶にしたり、わざわざチンプンカンプンにしたりする。登場人物が泥酔者ならば、まともな言葉を発するはずもないし。
笑いのポイントには国民性や民族性が露われ、綴りや発音が駄洒落じみていたりと、文法を崩すテクニックまでも魅せつける。
このようなニュアンス的なものをどう翻訳するか... などと想像するだけで芸達者ぶりが透けてくる。翻訳は言葉の芸!翻訳者は言葉の職人!そして、外国語の理解力はもちろんだが、なによりも日本語力が問われる。
「翻訳は日本語が書けなければだめということは、昔から名翻訳家は名文章家であるという事実を見ればわかる。二葉亭四迷、坪内逍遥、森鴎外... みな作家として名をなしている。今でもそうだ。すぐれた翻訳者は、必ずしも作家ではなくとも、例外なく文章の達人である。」

3. 外国文の化け物
権威主義のはびこるところに、奇妙な訳語が伝統となって棲み着く。当時の偉い学者が最初に用いた訳語が、厄介になることも。様々な分野の学術書に触れてみると、特に、経済学にその傾向が強いように感じてきたが、やはりそうらしい...

「私はよく... 一流雑誌に経済学者の論文などが載っているのを見かけますが、ああ云うものを読んで理解する読者が何人いるであろうかと、いつも疑問に打たれます。それもそのはず、彼等の文章は読者に外国語の素養のあることを前提として書かれたものでありまして、体裁は日本文でありますけれども、実は外国文の化け物であります。そうして化け物であるだけに、分らなさ加減は外国文以上でありまして、ああ云うのこそ悪文の標本と云うべきであります。実際、翻訳文と云うものは外国語の素養のない者に必要なのでありますが、我が国の翻訳文は、多少とも外国語の素養のない者には分りにくい。ところが多くの人々はこの事実に気が付かないで、化け物的文章でも立派に用が足せるものと思っている、考えるとまことに滑稽であります。」
... 谷崎潤一郎「文章読本」より

2018-09-30

"ユートピア" Thomas More 著

理想も、現実も、ちょいと距離を置くのがいい。どちらもすぐに暴走するのだから。自由社会の暴走の激しさときたら... いや、管理社会の暴走だって負けちゃいない。何かを犠牲にしなければ、繁栄できない世界。貪欲と競争が豊かさをもたらす世界。これが人間社会である。ユートピアとは、「どこにも無い」という意味のトマス・モアが編み出した造語で、しばしば非現実を皮肉る代名詞とされる。共産主義という言葉が登場するのは、まだずっと先のことで、彼に共産主義のレッテルを貼るのはちと酷であろう。
ルターにしても、モアにしても、良心の自由と宗教の権威とが対立し、ローマ教皇のもつ二重性に疑問を持たざるをえなかった時代を生きた。イタリアという一国家の君主が、同時に全ヨーロッパの精神的主権者であるという現実を。
そして、理性と信仰の調和を信じ、国家と宗教の和解を信じたものの、モアは斬首刑に処せられる。この事件は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と称される。本書は死の抗議書と言うべきか...
尚、平井正穂版(岩波文庫)を手に取る。
「吠える六頭女怪(スキュラ)だの、狂乱の半人半鳥女怪(セリーノ)だの、人を啖う人喰巨人(リーストリゴン)だの、こういった途方もない怪物くらい、容易に見つかるものはない。ところがこれに反して、公明正大な法律によって治められている国民となると、これくらい世にも珍しく、また見つけるのに困難なものはない...」

ここに描かれる理想郷は、理性的で、合理的な人々の集まり。住民たちの職業は、最低限の衣食住を確保するためのものと、技術によって知識を高めるものばかり。農業、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、大工職以外にこれといったものは見当たらない。怠けることを知らず、無用な仕事や知識に手を出すこともない。わずかな時間に合理的に生産し、余暇を有意義に過ごそうと。知識伝導のための技術として印刷術と製紙術にのみ敬意を払い、人間性を高めるための意思を持続させようと。人口が溢れれば、それだけ仕事を用意しなければならないが、土地空間に適した人口制限も自然に働く。
「学問的素養に富んだユートピアの知識人たちは、生活を豊かにし幸福にするのに少しでも役に立ちそうな工夫を考え出す点においてはまさに天才的である。」

ここでは、なによりも自由精神が重んじられる。それは、自立と自律をともなう自由である。この理想郷を去りたければ、誰も引き止めはしない。だが、この理想郷を侵害する者には容赦しない。戦争で得られる名誉ほど不名誉なものはないと考える一方で、自存自衛のための防衛意識が極めて高い。俗世間の目には触れさせてはならぬシャングリ・ラを彷彿させるような...
「思うにこの国は、単に世界中で最善の国家であるばかりでなく、真に共和国(コモン・ウェルス)もしくは共栄国(パブリック・ウィール)の名に値する唯一の国家であろう。」

このような自立した世界においても、役人は必要なのであろうか。首長は必要なのであろうか。行政は、政(まつりごと)を円滑に行えるよう指導する立場。指導する立場には自ずと上下関係が生じ、権威が寄生する。権威は人を変える。命令する立場であるがゆえに。しかも、一度獲得した地位を絶対に手放そうとしないのが人間の性癖。そして官僚的腐敗を助長する。権威が存在するところには、必ず法が必要というわけか。権威に結びつく権力を制限するための...
ユートピアといえども、法律は必要らしい。では、人間社会における最低限の法律とはなんであろう。ここには私有財産という概念がない。あるのは、すべて共有財産との考え。
しかしながら、共有を崇めると... 私のモノは私のモノ。あなたのモノも私のモノ... となるのが、これまた人間の性癖。こと政治の世界では、共有の概念は官僚的腐敗とすこぶる相性がいいときた。自由と平等はしばしば対立し、下手をすると平等は人間の能力差までも否定する。
共和国、共栄圏、公共繁栄といった言葉は古くから賛美されてきた。だが、人が本当に求めているのは自己繁栄であって、公共の利益は自分が犠牲にならない程度に求めるに過ぎない。自己が他に優越し、自分の属す集団が他の集団に優越し、それで自己満足が得られるのは、いわば人間の本質である。こうした性癖を完全に放棄すれば、それは人間なのであろうか?
では、所有の概念をどう処理するか?誰のモノにするか?この世のすべては、神からの借りモノとでもするか。すると、神に起因する宗教も必要となる。神の存在を持ち出せば、神の代弁者と名乗る者が現れ、魔術や呪文の類いが蔓延る。結局、人間の解釈によって人間の支配する世界となり、神に捧げるはずのものが、強者に生贄を捧げることに。
人間社会には、パラドックスが溢れる。一人の人間の中でさえ利己主義と利他主義が共存する。最も知識に優れた政策立案者が編み出した策定が、しばしば逆効果になるのも道理である。理想郷といえでも、やはり法律は必要なものらしい...
「あらゆる種類の動物が餓鬼のように貪欲になるのは、実に欠乏に対する心配であり、特に人間においては虚栄心である。」

2018-09-23

"ビヒモス - ナチズムの構造と実際" Franz Leopold Neumann 著

さらにさらに流れ弾...
生涯で一度は読んでみたいと考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、海の怪物に手をつけたがために、陸の怪物にも看取られてしまう。そして今、トマス・ホッブズからフランツ・レオポルド・ノイマンという流れ弾まで喰らっちまった。乱読とは、自由精神の体現だ!などと言っている場合ではない。それは、単に感化されやすいってことだ...

バビロニアに起源をもつ終末論には、二つの怪物があると聞く。海を支配するリヴァイアサンと陸を支配するビヒモス。前者は雌、後者は雄とされ、こと悪魔の世界では対で存在することが収まりをよくする。黙示録によると、恐怖の支配をもたらす怪物どもは世界の終末直前に現れ、神に亡ぼされることになっている。他説では、同士討ちになるというのもあるが、いずれにせよ亡びることに。かくして正義と公明の意志の日がやってくるとさ。ところが、海と陸に住む動物たちはそれぞれに恐怖の大王を主と崇め、王国再興を祝う饗宴で双方の肉を喰っちまう。
この伝説は、ユダヤの終末論、ヨブ記、予言書、聖書外典などで言及され、実に多くの解釈を呼び、しばしば政治状態の比喩とされてきた。聖アウグスティヌスはビヒモスの肉にサタンを見たという。ホッブズは、イギリス革命で暴走する大衆の意志をリヴァイアサンと重ね、議会が迷走するアナーキーな様相をビヒモスと重ねて魅せた。そして、ノイマンは、国民社会主義をビヒモスと呼ぶに相応しいと語る...

注目したいのは、これが書かれた時期である。1942年、ロンドンで出版。1944年、「大ドイツ帝国」を加筆。既に原稿は、ドイツのソ連侵攻時には書き上げられていたという。
著者の名からユダヤ系であることは想像に易い。ノイマンは早々アメリカへ亡命する。ヒトラーが経済政策をあっさりと片付け、ドイツ民族の誇りを取り戻してくれたと大衆が熱狂している最中、彼はナチズムの本性を暴いて見せる。政治哲学なき政治、経済理論なき経済と。それは、単なる民族意識を支柱とする文化的体系で、政治、経済、軍事の方面で、これを売り物にしているというのである。不安を煽って安心を提供する手口、これがセールス心理学の鉄則だ。ゲーリングの結合企業群が雇用を支配し、ゲッペルス文学博士の巧みな言葉でプロパガンダの威力を見せつけ、ヒムラーの魔術的思想が不気味さを植え付け、大衆を受動的な生贄にする。経済政策は単なる金持ち批判に発し、政治体制は単なる共和国批判に発し、感情論を煽る。それゆえ、ここには政治哲学も、経済理論も存在しないというのである。現在でも、これほどの考察はなかなか見当たらない。やはり人生の醍醐味は、寄り道、道草、回り道、そして流れ弾の方にあったか...
ちなみに、ノイマンはソ連の諜報員でアメリカで活動していたという説もあるが、真相は知らん...

1. 国民社会主義と国家社会主義という訳語
ナチズムを語るなら「国家社会主義」とする方がよさそうな気がするが、本書はあえて「国民社会主義」という訳語をあてている。それは、アドルフ・ワグナーたちが持ち出した言葉との混同を避けるためだそうな。
また、他にも意図があるようである。ナチズムがイタリアのファシズムと一緒くたに語られるのをよく見かけるが、そのような通念から「国家社会主義」という用語が出回ったところもある。ノイマンは、イタリアの国家至上主義とは異なるナチズム観を強調している。
尚、岡本友孝、小野英祐、加藤栄一訳版(みすず書房)を手に取る。

2. 全体主義的独占資本主義
ヒトラーが利用した経済システムは、ワイマール共和国の産物だったという。独裁政権下で原動力となるカルテルやトラストなどの形態は、ワイマール共和国の下ですでに完成していたと。ドイツ人労働者は企業の巨大化を望む傾向にあるとしているが、大会社に就職したいといった意識はどこの国でも見られる。経済不安となれば尚更だ。こうした独占形態は、自由主義や民主主義とすこぶる相性が悪い。ワイマール共和国の失敗は、共和国という名を掲げながら、経済政策では逆のことをやっていたということか。これは社会主義的な政策でもなければ、共産主義的でもなく、あくまでも資本主義の暴走した形態であり、俗に言う帝国主義なのである。
さらに、資本拡張の動機に、民族主義を結びつけたところがナチズム的である。ゲルマン系民族には、逞しい身体を誇りにするという意識が伝統的にあるという。これに、北欧系の美しさと優秀さを結びつけたのがナチス式アーリアン学説である。
タキトゥスの著作「ゲルマーニア」によれば、アングロサクソンもゲルマン系。優越主義とは、劣等的な存在を定義して初めて成り立つ原理で、人間ってやつは、なにかと格付けがお好きときた。ヴェルサイユ条約以降、叩きのめされてきた民族の誇りをくすぐり、愛国心を刺激するのが大衆を煽る絶好の方法となる。
「大ドイツ帝国」とは、その根底に第一等人種を盟主とするヒエラルキー構想があり、いわば「大東亜共栄圏」とも似ている。ヒトラーの政策は、民族主義とのセット、いや民族主義そのものであって、経済政策と呼べる代物ではないということか。アウトバーン建設や大規模な公共投資は、ケインズ理論の実践と評されることもあるが、本書にはケインズの名は見当たらない。というより、超ハイパーインフレの中でやれる経済政策は、これくらいしかなかったということかもしれない。そして、資本家による独占形態を、党直属の企業を経由して国家による独占形態に変えていく。
全権委任法の成立において、出席議員の必要票数を獲得したことは事実である。だがそれは、多数の共産党や社会民主党の議員が正当な理由もなく逮捕されていた中での出来事。こと政治の世界では、合法的に見せることが合法的となる。ヒトラーはカップ一揆やミュンヘン一揆で悟る。国家権力につくには革命的な方法では不可能であることを。それは、国家機構の助けによってのみ可能せしめることを。そして、すべての権力を合法的に手中に収めたヒトラーは、ワイマール共和国の制度的な民主主義を、儀式的で魔術的な大衆主義に変えてしまう。
政治理論が通用しないとなれば、それは国家なのか?本書は、こう呼ぶことを提案している。「全体主義的独占資本主義」と。なんとも形容矛盾な用語である。「国家資本主義」なんて言葉もよく見かけるが、こと政治体制においては矛盾の方に真理があるのかも。現在でも、経済政策がうまくいけば、大衆は政治家の多少の失態に目をつぶる。逆に、経済政策で失敗すれば、どんなに優れた言葉を発信しても陳腐となる。はたして政治権力が怪物なのか。大衆が怪物なのか。いや人間がそのものが怪物なのか...

3. 反セム族主義
大ドイツ帝国を実現するための最初の課題は、民族団結のための共通の目標をつくること。共通の敵をつくって愛国心を煽るやり方は現在でも見られる政治の常套手段で、優越意識を高めるためにまず格付けをやる。ドイツ人の次は、ウクライナ人、ゴラール人、白系ロシア人で、彼らは特別待遇を受けたという。その次がポーランド人で、その次、つまり最下層がユダヤ人。強制収容所へ送られる順番は、ユダヤ人の後に、ポーランド人、チェコ人、オランダ人、フランス人、そして、反ナチのドイツ人と続く。平和主義者も、保守主義者も、社会主義者も、カトリック教徒も、新教徒も、自由思想家も、あるいは被占領民族もお構いなし。イデオロギー破壊という意味では、見事な平等主義だ。民族に格付けがなされれば、劣等人種からの略奪が合法的となり、純血を守るというスローガンを正当化させる。
労働者寄りの経済政策において最初に標的にされるのは、決まって富裕層。職が奪われていると触れ回り、資本階級で幅を利かせるユダヤ系企業が攻撃対象となる。アーリアン化による独占形態は、銀行業において特に顕著であったという。
国民社会主義の人口政策は、必要な数だけの北欧人種の繁殖を確保するために立法化される。最もうす気味悪いのは、肉体的、生物学的に好ましくないとされた人々の生殖を阻止する立法措置である。SS 隊員の結婚には特別な許可がいる。当時から、ヒムラーは露骨な人種差別論狂信者として知られていたようである。
「国民社会主義は、ユダヤ人の絶滅を唱導した最初の反セム族運動である。しかしこの目標は、『ドイツ人の血の純化』と呼ばれる、より広範な計画の一部分にすぎない。」
反セム族主義は、共通の敵をつくる点において三つの効果をあげたという。
第一に、階級闘争にとって変わる。資本階級への不満を民族闘争にすり替えたこと。
第二に、東部への領土膨張を正当化する。ドイツ人の住む領土は、すべて第一等民族としての主権があると。
第三に、キリスト教批判を抽象化する。反キリスト教の潮流には二つの立場がある。一つは、それがキリスト教的であるがゆえに拒否。二つは、十分にキリスト教的でないがゆえに拒否。
反キリスト教的イデオロギーにおいて、最も強力な感化力を持っていた人物はニーチェだという。ただ、ニーチェは反セム族主義なんぞではないし、それはノイマンも擁護している。哲学思想で都合よく利用された立場は、スコラ神学におけるアリストテレスと似ている。
「反セム族主義は、損なわれた自尊からくる腹立たしさの捌け口をつくり、また新旧中産階級と地主貴族との政治的同盟を可能した。」

4. ゲルマン的モンロー主義
モンロー主義は、アメリカ帝国主義のイデオロギー的基礎である。互いの主権を尊重して相互干渉しない... と言えば聞こえはいいが、お前のやることに口を出さないから、俺のやることにも口を出すな!... という姿勢である。
これをゲルマン風に解釈すると... ドイツ人が住む領土には、すべて第一等民族としての主権がある。さらに拡大解釈すると... ドイツ人が移住した場所はすべて「大ドイツ帝国」の領土となる。そして、世界は一つという大国家思想は、民族を階層化することにすり替えられ、人種差別をも正当化させる。現在でも、市民を多く送り込んで議会を乗っ取ろうとする動きは見られるものの、スケールが違う。地政学を民族主義で解釈すると、こうなるのか。これが「人種的モンロー主義」ってやつなのか。
ノイマンは、国民社会主義が民族のアウタルキーを目指して、外国市場を放棄するなどと信じるのは馬鹿げている、と指摘する。それは、国際法の根本原理である国家主権を人種主権に置き換えただけのこと。これを、プロレタリアート的人種帝国主義と呼ぶのでは説得力に欠ける。本書は、「大ドイツ帝国 = ゲルマン的モンロー主義」という形で論じている。
「この帝国主義的な趨勢はいかなる国際法によっても拘束されず、また、どんな正当化も必要としない。帝国が存在する。そしてその事実が、十分な正当化なのである。」

2018-09-16

"ビヒモス" Thomas Hobbes 著

生涯で一度は読んでみたいと考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、その一つに手を付けたがために、流れ弾に当たってしまった作品も数多ある。酔いどれ天の邪鬼には、寄り道、道草、回り道の類いがたまらないときた。そして、リヴァイアサンという海の怪物が、ビヒモスという陸の怪物へといざなうのである。人間社会という怪物は、神ではなく悪魔に看取られているらしい...
尚、山田園子訳版(岩波文庫)を手に取る。

「リヴァイアサン」は、民主制を唱える群衆が暴徒化する様を一つの人格として描いた作品であった。群衆化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになる。この集団的意志が怪物というわけである。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると何かと問題が起こる。リヴァイアサンとは、コモン - ウェルスの代名詞というわけである。
そこでホッブズは、主権者の下で社会契約によって統制された集団的人格を要請する。教会を痛烈に批判し、集団社会を怪物のように描けば、無神論者とも、異端者とも、絶対王政主義者とも呼ばれ、世間を敵に回すことに...

一方、「ビヒモス」は、イギリス革命によって主権や秩序が崩壊していく様を回想したもので、トマス・ホッブズ最晩年の作品。ここでは議会が迷走し、はっきりとした形としての怪物が見えてこない。無形化してしまったアナーキーな様、集団的意志を失った様、これが怪物というわけか。人間社会ってやつは、どっちに転んでも怪物になるものらしい...
ここでは、ホッブズが怪物を描くに至った歴史観を垣間見ることができ、「リヴァイアサン」の弁明書と見ることもできよう。
物語は、世代の異なる二人の対話形式で展開される。若き法学徒が質問役となり、老いた異端論者が回答役となり。異端者を焚刑処理できないことの論証まで加えているのは、自分自身に向けられる処刑妄想でもあったのだろうか。
教育で導こうとする方法論ではプラトンの対話形式に見て取れるが、ホッブズの叙述姿勢はとても公平とは言えない。もともとイングランド国教会はローマ教会から分裂した異端の立場にあり、国制では王政と議会の共存する混合君主制を敷いている。ホッブズの宗教論もこの立場を継承して、教皇派聖職者をキリストに従わない輩とし、スコラ神学者をアリストテレス的ですらないとし、プロテスタントの方がまだましだと主張する。だが統治論となると、議会派を嫌悪してチャールズ1世を支持するが、それは伝統的な混合君主制を支持するのでもなければ、議会制民主主義を擁護するものでもなく、ひたすら王を絶対主権者とみなし、王への服従を民衆に求めるのである。世襲の正当性を六百年続いたということだけを根拠に、それで契約を結べというのでは、あまりに薄弱な論拠!
「君主の職務遂行に絶対必要なものは、臣民の服従」と訴え、それはその通りだろう。しかしそれは、主語を「君主」から「法」に置き換えれば、民主制も、貴族制も、君主制も同じこと。おまけに、王を賛美し、王の敗北を素直に認めない記述に、ややうんざり...
それでも、宗教家批判には頷ける点が多く、船舶税をめぐって民衆を煽る議員や有識者たちの様子にも、近年、国民投票で EU 離脱を表明するに至った経緯と重なって映る。スペイン無敵艦隊を破ったとはいえ、まだ制海権を掌握するまでには至っておらず、海岸線に憂いを残していた時代。常に扇動者は言う、税負担を軽くしてやる!と。これに乗せられる無知な怪物という構図は、いつの時代も変わらない...

1. 民衆蜂起の要因
ホッブズは、内戦の原因を七つ列挙している。
第一の堕落者は聖職者、特に長老派。神の代理人と称し、教会の統治権を神から委ねられたと主張する輩。
第二に、ローマ教皇によって統治されるべきとする教皇主義者。
第三に、宗教の自由を求める人々。
第四に、古代ギリシア・ローマ共和国時代の書物を読んで知識をまとった人々が、君主制を批判したこと。
第五に、オランダ商業の繁栄を称賛した人々。宗主国スペインに反逆して自由を勝ち取った栄光を讃えて。
第六に、財産を浪費した怠惰な人々。
最後に、義務に無知な人々。義務とは、王への服従義務のことで、この根拠を擁護する気にはなれない。ただ、民衆蜂起では、必ずと言っていいほど、おこぼれにあずかろうとする輩が出現する。名声を得ようとする者や一旗揚げようとする者など。穏健派は急進派に抹殺される運命にある。
ホッブズが穏健派だったかは知らん。単に絶対君主制支持者だったかもしれないし、その性格は「リヴァイアサン」よりも「ビヒモス」の方が鮮明になってくる。それでも無神論者という批判は当たらないだろう。ある種の群衆論として眺めれば、歴史的背景が傍観できる。
「場所と同様、時間にも高低差があるとしたら、時間の頂上は1640年から60年の間にある、と私は確信している。悪魔の山から見下ろすかのように、この時間の頂上から世の中を見下ろし、とくにイングランドの人間の行動を観察すれば、この世で見ることができる限りのありとあらゆる不正と愚行を、一望の下におさめられるだろう。不正や愚行が人間の偽善や自己欺瞞からどうやって生み出されたのか... 偽善とは不正に不正を、自己欺瞞とは愚行に愚行を重ねることだ。」

2. 世俗的権威の暴走
内戦勃発までにはややこしい経緯があるが、その動機は単純だ。教皇派から異端と呼ばれたイングランド人。ローマ教会では異端は最高の罪であり、迫害対象となる。領土から異端者をすべて追放しろ!と命じ、従わない王を退位させる。教養ある者が聖書を読めば、様々な解釈が生まれ、教会権力に少しでも疑問を呈する者はすべて異端とされる。アカデメイア派、逍遙学派、エピクロス派、ストア派などが異端とされた。アリストテレスを都合よく解釈するスコラ神学者は、もはやアリストテレス的ですらない。
神の言葉を解釈する資格を持つ者とは、どういう人物を言うのか。主権者の分別は、勝手な解釈を広める連中を罰することにあるのか。当時の有名大学が、スコラ派に毒されていた光景を物語る。
「聖書がギリシア語やラテン語で封じ込まれ、説教者が聖書から引き出したことだけを人民に教えるところでは、起こるべくして起こる。」
さて、教皇が世俗的権威を獲得したのは、いつ頃であろうか。ホッブズは、その起源を4、5世紀頃の北方民族の大移動から掘り起こす。怒涛のごとくローマ帝国を襲えば、ローマ市民は教会に救いを求める。教皇は教会権力の装いの下で、君主の世俗的権利を侵害し始め、8世紀から11世紀の教皇レオ3世からインノケンティウス3世の間に教皇権力が最高潮になったという。レオ3世は教会権力を取り戻したカールを大帝にし、以来、教皇が皇帝をあつかましく作りあげるようになったと。
教皇がキリストの代理人だとすれば、皇帝よりも上の存在というわけである。誰のおかげで国を統治できるのか?それが王にとって戒めになるなら、良い慣習かもしれない。
しかしながら、教皇や教会もまた暴走する。教皇は権力を強めるために信仰箇条を追加する。
「聖職者の結婚は不当。」
王は世継ぎがなければ世襲が続かないので、正統な後継者を広く知らしめるために正式な王妃が必要である。それは、王には聖職者になる資格がないことを意味する。聖職者の結婚禁止は、教皇グレゴリウス7世とイングランド王ウィリアム1世の時代に導入されたとか。
さらに、こう定めた。
「司祭への口頭告解が救いに不可欠。」
人々は、世を去る前に告解と赦免がないと救われず、司祭から赦免をもらえれば永遠に破滅しないというわけである。こうした信仰箇条が教会を通じて浸透していくと、人々は王よりも聖職者を恐れる。
そして、イングランド王エドワード3世までの間に、第二の謀略がはじまったという。宗教を一学問とし、アリストテレスの形而上学や論理学に基づく道徳的かつ自然学的な議論によってローマ教会を擁護する。大学が設置され始めたのがカール大帝の頃で、大量のスコラ神学の書物が出回るようになったとか。アリストテレスにとっても迷惑な話であろう...

3. 混合君主制の意義
君主制と民主制は相容れない政体なのであろうか。国王という称号が権威として残るケースがある。イングランドの制定法には、伝統的な憲章として「マグナ・カルタ」がある。君主制を前提としながら、国王の令状を不正取得する主権乱用者から人民を守るための法である。ここでいう君主制とは、人民を守る立場を堅守することであって、僭主制とはまったく相容れない。国王が権力を乱用するのが君主制の欠点であり、狡猾な議員が無知な大衆を扇動するのが民主制の欠点。国王と議会が並列に配置されれば、一方が暴走した時に他方が監視役となって機能しそうなものだが、そうはならないのが人間社会のカオスなところ。となれば、どちらかが大人になって権力を放棄し、権威を残すという形が落とし所になろうか。
イギリス革命では、クロムウェルが政権を掌握し、彼自身が主権者になる可能性もあっただろうし、国王が滅亡する可能性もあっただろう。だが、国王制は残った。一時的に王が処刑されたとしても、滅亡には至らなかった。なぜ、クロムウェルは王の称号を拒んだのか?そこまで厚かましくはなれなかったというのか?その後、民衆は世襲君主の復活を歓迎することに。
似たような歴史現象が、我が国にもある。天皇制がそれである。幾度となく成立した幕府は、天皇家を抹殺することができるほどの権力を掌握したが、滅亡には至らなかった。同等に争った武家には完全抹殺を図ったというのに。天皇の権威に後ろめたさのようなものがあるのか?それは気分の問題か?
いずれにせよ、どの党派にも、どの宗派にも属さないという権威が必要な場合がある。国家的危機に直面した時、中立的な権威こそが庶民を代表できる資格を持ち得る。それは、権力を放棄した大人の権威となろう...

2018-09-09

"リヴァイアサン (全四冊)" Thomas Hobbes 著

生涯で一度は読んでみたい... そう考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある。こいつも、その一つ。いくら有名な書とはいえ、イメージが先走り、いまいち気分が乗らない。面倒くさがり屋の心が奥底でつぶやいているのだ。本当に評判どおりのものなのか?と。骨を折ってまで読む価値があるのか?と...
それでも実際に触れてみると、イメージを超えた何かに出会えるかもしれない。期待感とは、見返りを求めることか。それは、宗教と何が違うのだろう。人間そのものが信仰的な存在というわけか。人間ってやつは、何をやるにしても信念や信条なるものの後ろ盾を求めてやまない。つまりは思い込みってやつだ。宗教は、信じる者は救われると説き、信じない者を抹殺にかかる。これに対抗するかのように、信仰の告白は自由を告げる。科学は、疑うことで救われる道を開いてくれた。その意味で、科学もまた相当な宗教といえよう...

「リヴァイアサン」とは、旧約聖書に出てくる海の怪物。トマス・ホッブズは、この怪物になぞらえ政治哲学を著した。それは、自然哲学や形而上学の域を超え、物理学、天文学、幾何学、さらには、修辞学、詩学、音楽... と実に多岐に渡って論じられる。
まず、人間個々の本性を暴きながら、人間社会の自然状態を探る。そのアプローチはロックやルソーに受け継がれるが、今日でも自然状態というものに対する見解や解釈は多く見られる。人間の多様性とは、それほど手強い相手ということだ。そもそも政治という形態は、人間の自然な姿なのだろうか?
ホッブスは、人工的産物だと吐き捨て、戦争状態こそ人間の自然状態であるとし、あの「万人の万人に対する闘争」という言葉が導き出される。この部分だけを読めば、彼が絶対主義者という見方もできなくはないが、全体像を眺めれば、そのような印象は薄れていく。その印象を完全に拭いきれるわけではないにしても...
ちなみに、ホッブズは絶対主権を主張したことで絶対王政主義者とみなされ、痛烈な教会批判をしたことで無神論者とされた。

哲学書の扱いが難しいところは、部分的に言葉を引用しては正反対の印象を与えかねないということ。大作であれば尚更である。
この作品は、イギリス革命の真っ只中に書かれた。ピューリタンの暴動を目の当たりにすれば、権利の主張とは暴動なのか?と嘆き、絶対王政を懐かしむのも無理はあるまい。改革というものは血を流すもの、いわば歴史の必然なのかもしれない。
フランス革命では、ブルボン王朝の絶対王権を倒した直後の共和制が恐怖政治と化すと、ナポレオンの呼び水となった。明治維新でも、血なまぐさい暗殺が横行すると、幕府の方がましという風潮があった。ヒトラーに至ってはワイマール共和国の合法的産物である。
かのアリストテレスは、君主制、貴族制、民主制の三つの政治体制を唱え、中でも民主制は最悪だというような愚痴を遺した。民主国家アテナイの凋落ぶりを目の当たりにし、その救世主を、自ら家庭教師を務めたアレキサンダー大王に託したのかは知らんよ...

一方、ホッブズは唱える。政治体制はあくまでも手段であって、民意をいかに政治に反映させるかが本質であると...
本書には、「コモン - ウェルス」という用語がちりばめられる。直訳すると「公衆の財産」ということになるが、この目的は、君主制であろうが、貴族制であろうが、民主制であろうが同じというわけである。ローマ帝国は君主制を敷きながら、元老院を置いて民衆的統治を行った。本当に君主が存在するならば、君主制も悪くない。だが歴史を振り返れば、君主はみな僭主と化した。一人の君主がいたとしても、その後継者は僭主となり、長続きしないばかりか、どんどん泥沼化していき、王朝そのものを終焉させるしか手がなくなる。
対して、民主制は一時的には暴走しても、自己再生する力がかすかに残されている。国家元首がころころ変わっても、政治権力を抑制できる柔軟性こそが民主主義の原理としてある。したがって、民主主義は崇めるほどのものではなく、歴史的経験から比較的ましであったということ。それも、改良に改良を加えてきた民主制によって...
但し、ホッブズがそういう意図で書いたかどうかまでは知らんよ。評判どおりの絶対君主制支持者だったかもしれないし、それは陸の怪物「ビヒモス」がより鮮明にしてくれるだろう...
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 集団的意志という怪物
「リヴァイアサン... すなわち、教会的および市民的国家の質料、形相、および力」
リヴァイアサンとは、集団的意志とでも言おうか。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると、何かと問題が起こる。集団化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになり、善人の集団が悪魔化する現象も、そう珍しいことではない。生物界は、弱肉強食の法則を与えても同族の抹殺までには至らないが、人間社会は、同族間の競争の原理によって機能している。やはり怪物か!
伝統的な倫理的問題に、人間は生まれつき善人か、悪人か、という論争があるが、ホッブズは後者側であろうか。ただ、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、善悪のどちらかだけを認識することは不可能であろうし、悪人ほど善人ぶるのが上手いというのも道理である。宗教的な理性の渦巻く時代、ホッブズにしても、マキャヴェッリにしても、人間の醜態という視点から政治倫理を問うた意味は大きい。さて、ここに理性の人工的完成を見ることができるだろうか。そりゃ無理な話よ...
「各人が各人を敵に争う戦争状態こそ人間の自然状態であり、国家とは、平和維持のために絶対主権をもって君臨すべく創出されたいわば人工的人間にほかならない。」

2. コモン - ウェルスと正義
ホッブズは、自然権に生まれながらの平等と自由を唱えながらも、競争からくる争論への愛好や安楽への愛好からくる社会的服従といった性癖を暴き、自惚れからくる虚しい企てや有能という自負からくる野心といった行動パターンを分析する。称賛への愛好から生じる徳性への愛好などは見返りを求める性向で、親切心からくる信任や無知からくる慣習への執着などの見方は、まさに悪魔じみている。ホッブズは告げる。平等から不信が生じ、不信から戦争が生じると。人間は、無知な平和愛好家であり続けるというわけか...
「余暇は哲学の母であり、コモン - ウェルスは、平和と余暇の母である。」
平和主義で最も重視されるのが、正義の概念である。それは、軍事力をも凌駕する力の概念。では、正義とはなんぞや?正義は、自然状態なのか?ホッブスに限らず、正義は理性に反しないというのが一般的な見解であろうが、それは本当だろうか?
歴史を振り返れば、正義を掲げる政治指導者ほど胡散臭いものはない。国家間の争いでは双方の国民が正義を掲げ、外交の場では正義が交換財となる。これを世間では現実主義と呼ぶ。あらゆる論争で打ち負かした方が正義となれば、報道屋はいつも正義漢ぶり、弁論技術をどんどん旺盛にさせる。それは、ソフィストの時代と何が違うのだろう...
「正義と所有権は、コモン - ウェルスの設立とともにはじまる。」

3. 社会契約と国家
「社会契約論」といえばルソーの書として有名だが、社会契約という概念そのもは既に古代ギリシア時代に見て取れる。そこで問われるのが、契約の対象は神か?教会か?それとも国家か?
社会と契約するには、法がその役割を果たす。では、法を作り出す主体は誰か?本書は、生存権を自然権として論じているが、それを保障する法もまた自然法から逸脱した人工物として君臨している。国家という形態は、何をもって正当化できるだろうか?それは、自己存在に対する安全保障が担保されなければなるまい。
本書には、防衛権という言葉は登場しないが、国家権力の絶対性を論じ、他の存在権をも侵さないということを含めて自由の概念を生起させている。イギリス革命の争点の一つに、国家主権が国王にあるか、議会にあるか、というのがあるが、内乱に乗じて教皇主義の復権を目論む連中が見てとれる。ホッブズは教会権威をも国家権力の下に置くべきだとして、法王は全世界の主ではないと釘を刺す。
となれば、宗教の自由を唱えているように見えてもよさそうなものだが、キリスト教の絶対性は堅守していると見える。前半の二冊で人間論と国家論を唱えておきながら、後半の二冊では激烈な教会批判に費やされ、スコラ神学者への攻撃も凄まじい。科学的な視点を加えれば、奇蹟を起こす預言者も減少し、聖書が彼らの地位に取って代わる。しかも、これだけ聖書の言葉が多く引用されれば、説教嫌いな天の邪鬼は、ちとうんざり...
競争原理に対して、ロックは生産の概念を導入することで緩和し、ルソーは歯止めとなる理性の存在を強調したが、ホッブズはあまりにも正面から立ち向かったがために、主権と人権との対立を激烈にしたと見える。いずれにせよ、宗教も、哲学も、なにかの手段に過ぎない。
ちなみに、明治政府の文部省は、この書に「主権論」の邦題を与えたというから、その意図も垣間見る思いである...

2018-09-02

"遥かなる未踏峰(上/下)" Jeffrey H. Archer 著

古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。
ジェフリー・アーチャー... 学生時代に追尾していた作家の一人だが、社会人になってすっかりご無沙汰。何冊か再読したものの...
推理小説には魔物が住むという。一度手をつけると、つい一気読みしてしまい、朝日が眩しい。おまけに、おいらの読書スタイルの基本が、このジャンルときた。恐々、表紙をめくってみると...
「この作品は実話に触発されたものである。」
こいつが、ジョージ・マロリーを綴った物語だということがすぐに分かる。彼が、そこに山があるから... と答えたかどうかは知らん。確実に言えることは、なぜ読むのか?と聞かれれば、そこに本があるから... と答えるってことだけだ。推理モノに歴史が絡むと、もう衝動を抑えられない...

歴史ってやつは、一つの偉業に対して一人の英雄を欲する。だが、どんな偉業にも、そこに到達するために捧げられてきた生贄たちがいる。ニュートン力学は、なにもニュートンだけの偉業ではあるまい。そこに至るまでの叡智の積み重ねがあったはずだ。ゲーデルはこんなことを言った... 不完全性定理は自分が発見しなくても誰かが発見しただろう... と。この主張はおそらく正しい。真理の概念は必然であり、概念の方が歴史の中を散歩している。人類がずっと努力を続け、その意志を伝承する人々がいる限り、幸運に恵まれる瞬間がある。それが誰の偉業かって?そんなことは報道屋や政治屋に任せておけばいい。興味があるのは、成功からよりも失敗からの方が多くを学べるってことだ...

アーチャーは、登山家マロリーを人類初のチョモランマ征服者として描こうとする。だがそこに、確実な証拠は見当たらない。そもそも、生還できなかったのに登頂と言えるのか。それでも偉大な試みである。イギリスは、スペイン無敵艦隊を破り、さらに産業革命の勢いで世界を席巻し、偉大な戦争と呼んでは愛国心旺盛な時代に、国家の誇りを賭けて挑んだ北極点と南極点の到達で遅れをとってしまった。地球上で残された地点は世界最高峰!国王陛下の民の一人が、栄誉を勝ち得んがために...
アーチャーは、こうした時代背景に、西部戦線の暗い影や、資本主義とマルクス主義の対立といった光景をさりげなく盛り込む。物語では、南極探検家ロバート・スコット大佐の講演会にマロリーが出席する場面がある。スコット隊は犬ゾリにこだわったが、アムンゼン隊はエンジン付ソリも投入するってさ...
「われわれの目的は昔から変わることなく、自然の力に対する人間の能力を、機械の助けに頼らずに試すことにある...」
マロリーは酸素ボンベの投入をめぐって隊員と口論になる。だが、彼自身が投入を拒否したことで頂上を目前に撤退。
「おまえの手縫いの登山靴だって人工的な補助具だろう...」
そして再挑戦では、酸素ボンベが必要だということを悟ったのだった。
ちなみに、スコット大佐の英雄伝は、シュテファン・ツヴァイクが「人類の星の時間」の中で描いている。到達の栄誉はアムンゼン隊に譲ったが、後の科学的情報はスコット大佐の記録によるところが多く、彼は真の研究者であったと。
だが国家の威信を背負い、スコット隊は全滅した。そして、マロリーも。これがジョンブル魂というものか...

マロリーの遺体が捜索隊に発見されるまで、70年以上もの月日が経っていた。物語は、マロリーが残した妻への手紙をちりばめて構成される。最愛のルースへ... 手紙には、SNS ではけして味わえない重みがある。そして、1924年6月7日を最後に... 君の写真を地球で一番高い地点に置いてくるつもりだ!
なにゆえ最愛の妻を残して、狂気へ向かうのか?なにが使命感を焚きつけるのか?男ってやつは、いくつになってもお山の大将を夢見ている、実にしょうのない生き物である。これが冒険家の心理。おまけに、男ってやつは、愛する女の最初の男でありたいと儚い夢を描いている。そして、最初の登頂者となる夢を描き...
マロリーは失敗の汚点を残したままでは死ねない。再び狂気へ向かわせるのも冒険家の本能か。山は一度征服すれば永遠の恋人となるのかは知らんが、恋は成就した瞬間から堕落をはじめる。到達できなければ、永遠に理想像のまま。小悪魔に魂を売るなら可愛いものだが、チョモランマという山の女神は悪魔よりもタチが悪い。深い霧の中、サロメのように七枚のヴェールを一枚づつ脱ぎ、七つの煉獄山が露わになった時、はじめて人間の能力を思い知らされる...

・田舎の教会墓地で詠まれた悲歌(エレジー)...
 どれほど地位を自慢しようとも、どれほど力を誇示しようとも、
 また、どれほどの美と富を与えられようとも、
 死は免れ得ない。
 栄光の径(みち)は墓場へつづくのみである。
 ... トマス・グレイ

2018-08-26

"ケルトの封印(上/下)" James Rollins 著

原題 "The Doomesday Key"
鍵となる言葉は、"Domesday Book(土地台帳)" と "Doomesday Book(終末の日の書)"...
11世紀、イングランド国王ウィリアムは、王国全域の調査を実施するよう勅命を下したそうな。調査結果は「ドゥームズデイ・ブック」と呼ばれる一冊の長大な書物に編纂され、中世の人々の生活を記録した最も詳細な書物の一つとされる。この壮大な記録は民衆の税金を適切に定めるのが目的... 少なくとも、表向きはそういうことになっている。ただそれにしては、あまりに詳細すぎる。しかも、編纂に当たった学者は一人だけで、難解なラテン語で記されたという。極秘にせねばならぬ事情でもあったのか?台帳には意味ありげな単語がちりばめられる。"vastare(荒廃した)" と...
土地の荒廃は、なにも戦争や略奪で起こるとは限らない。鍵となる土地は、アイルランドとイングランドの間に位置する島。かつてケルト人が所有していた異教徒の聖地。ここに呪われた地でもあるのか?"Domesday" に "o" の一字が加わって "Doomesday"... 単なる土地の記録が「最後の審判」と結びついて伝えられてきたとさ...

ロリンズ小説の魅力は、なんといっても歴史と科学を調和させる手腕。おまけに、知識としての事実と小説としての空想の狭間をさ迷わせ(さま酔わせ)、世界各地を駆け巡るダイナミックさ。歴史は過去の知識を掘り起こす立場にあり、科学は最新の知識を発展させる立場にあり、時間と空間を超えた知識こそ真理へ導くと言わんばかりに。いや、ここでは調和というより対決と言うべきか。古代人と現代人の。何事にも人為的な手が加わると、自然界ではありえない害虫どもが活動を始める。ホモ・サピエンスという種もその類いなのやもしれん...
歴史的事実では、ドゥームズデイ・ブックを支柱に、ケルト伝説、聖マラキの予言、ストーンサークル、黒い聖母などを絡め、科学的事実では、遺伝子組み換え作物、マルサスの人口論、蜂群崩壊症候群などを持ち出し、これらの知識を辿りながら、オスロ港の端に位置して処刑の歴史を持つアーケシュフース城、イングランドからスコットランドを望むバードジー島、北極圏ノルウェー領にあるスヴァールバル世界種子貯蔵庫、ナポレオンが刑務所に転用したクレルヴォー修道院といった地域を駆け巡る。
前提知識が絶対に欠かせないのもこのシリーズの特徴で、それだけで脳みそをグチャグチャにされちまう。それが、前戯好きな M にはたまらん...

特に注目したい地域は、観光地でも有名なホークスヘッド村だ。この周辺に広がるイングランドの湖水地方は、地下の泥炭が何世紀にもわたって燃え続けているという。豊かなピート香を放つスコッチウィスキーの製造に欠かせない特性なのである。ここでは癒やしの村として登場し、のどかな風景を綴った文章に癒やされる。そして、徹夜で一気読みしながら、ピート香こそ抑え気味だが、優雅な香味を放つグレンリベット18年を一本空けちまう。暗闇をさまよって黒い聖母を読破し、その達成感に浸りながら、眩しい朝日を浴びて飲むブラックコーヒーもまた格別...

尚、本書はΣフォース・シリーズ第五作。シリーズゼロから数えると六作目で、邦訳版では最初の作品が五番目に刊行されたという事情から、1, 2, 3, 4, 0, 5 の順にシリーズ番号が振られる。やや苦し紛れ感があるものの。このシリーズは十作を超え、まだまだ続きそうな勢い。おまけに、外伝シリーズまで始まった。惚れっぽい追い手は、いつまでも背中を追い続けるだろう。どんなに離されようとも。永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。その絶望感が快感に変わった時、M 性を覚醒させる。これを微分学の美学という...

1. あらすじ
サン・ピエトロ大聖堂の神父、マリ共和国の赤十字難民キャンプの大学生、プリンストン大学の教授、この三人の殺人事件には共通点があったとさ。彼らは何を調査し、何を知ったのか?そこに残される円環と十字のマーク、そして渦巻模様。この謎に様々な野望が群がり、Σフォースとテロ集団ギルドとの争奪戦が展開される。
鍵の在り処は、聖マラキの生涯と黒い聖母伝説が手がかり。だが、すでに破壊の種子が世界規模で拡散しつつあった。「ドゥームズデイの鍵」とは... それは人類救済の鍵なのか?それとも破滅の鍵なのか?お望みのものを手に入れれば、他の人間が代償を払う。これがスパイの世界の掟だが、信仰の世界も生贄を捧げるのが掟...
ところで、十字マークといえば、キリスト教で象徴的なものだが、紀元前のはるか昔から信仰されてきた。十字は直角を表し、これと真円を崇める伝統をピュタゴラス教団が受け継いだ。美しい形は、人間の魂を癒やしてくれる。彼らは定規とコンパスだけで描ける図形の虜となった。God(神) と Geometry(幾何学)は相性がいいと見える。そして、ギルド(Guild)の頭文字も G とくれば、悪魔との相性も良さそうだ。
この象徴が十字架の磔刑と結びついたのは偶然で、一段と崇高な存在にしたのか。あるいは、意図的に重ねたのか。いずれにせよ、国教に定め、しかも、四つの福音だけ公認すれば、排除の原理が働く。ローマの呪いか。あのナザレの大工のせがれは、あの世で呟いているだろう。わしはカトリック教会なんぞ知らんよ!と...

2. 人口抑制
この物語は、一つの問題を提起している。それは、マルサスが「人口論」でも唱えた人口抑制という問題である。量子力学は告げる... あらゆる物理現象は、臨界点に達した途端にまったく違った局面へ移行する。その存在すら危ぶまれるほどの... と。このまま人口増殖が続けば、いずれ食料供給量の臨界点に達し、人類の 90% が餓死の危機に追い込まれる、と予測する研究報告もある。マルサスの理論を克服したのは産業革命であったが、技術力によって、さらなる人口増殖を促進してしまったとも言える。青天井となった性向が暴走を止められないのは、金融危機が示してきた。
しかしながら、人口抑制はデリケートな問題であり、人口増加を抑制するための提言が極端に走っている面があることも否めない。強制的な産児制限、不妊手術、子供を作らない家庭に報奨金を支払うといった類いである。そうした政策が現実味を帯びる日が来ないよう願いたいものだが、差別好きな種は必要な人間と不要な人間で線引する。古代都市国家スパルタでは、未熟児や奇形児が廃棄された。優生学との境界も曖昧で、他族を劣等種族とみなすカルト集団もあれば、民族優越説なんぞを唱えはじめると、ヒトラーの最終的解決を想起させる。そして、正義をまとって異教徒の抹殺が使命となる。これはもう人間という種の性癖である。
本物語では、暗躍する民間企業が、石油化学製品から遺伝子組み換え種子産業へ鞍替えした目的を、世界規模で食糧の安定供給を目指す!と宣言しながら...
「石油を支配すると国家を支配できる。だが、食糧を支配すれば世界中の人々を支配することができる。」
ところで、化学兵器もどきの戦術は、古代エジプト時代からあったらしい。疫病を流行らせて民族レベルで抹殺しようといった類いの。井戸などに毒を仕込むのも古くからあるやり方。敵対国家の混乱を目的とした通貨偽造の歴史も古く、この手の発想で古代人と現代人との違いは技術と巧妙さぐらいであろう。人類のずる賢さという性癖は、エントロピーに逆らえないと見える...

3. 蜂群崩壊症候群
2006年から2008年頃、ミツバチの大量失踪事件が発生したと報道された。飼育されていた三分の一ものミツバチが何の前触れもなく姿を消したとか。「いないいない病」なんて俗語を耳にしたような記憶がかすかにある。ナッツ類、アボガド、キュウリ、大豆、カボチャなどの受粉に影響を与え、食料供給にも深刻な問題を与える。様々な憶測を呼び、地球温暖化や環境汚染が原因とする説もあれば、遺伝子組み換え作物が原因とする説もあり、宇宙人の仕業という説まである。
しかし、原因はすこぶる単純なものらしい。フランス政府がイミダクロプリドとフィプロニルという二つの農薬を禁止したところ、数年でミツバチが戻ってきたという。マスコミは、この成功例を報道しないらしい。ニュース価値がないんだってさ...
本物語では、暗躍する民間企業がこの現象を利用して、食糧供給量を制御しようとする。遺伝子組換え作物の種子が風で飛ばされ、他の畑や種苗会社の農場などに紛れ込むと、新種の害虫を誕生させる。ミツバチの個体数を制御するだけで、食糧供給量が制御できるという寸法よ。そして、トウモロコシを遺伝子操作するだけで...

4.スヴァールバル世界種子貯蔵庫
食糧の安定供給は、今日の重要課題の一つ。百年前、アメリカで栽培されたリンゴの品種は七千種以上あったが、現在では三百種にまで減少したという。七百種近くあった豆も、わずか三十種になったとか。実に、世界の生物多様性の 75% が、一世紀の間に消えてしまったというのである。絶滅種を救う!これがスヴァールバル世界種子貯蔵庫の主な目的で、世界中の種子がここに収容される。世界の種子銀行だ!地球最後の日のための種子貯蔵庫として、別名「ドゥームズデイ貯蔵庫」と呼ばれるそうな。種子版のノアの方舟か!
スヴァールバル諸島は、ノルウェーの北岸と北極の中間に位置する極寒の地にある。まさに人間の目の届かない場所に人間が建設したのだったが...
尚、本物語では、ホッキョクグマが警備に一役買っているが、それも事実だそうな...

5.聖マラキの予言
12世紀、アイルランドのカトリック司祭メル・メドック、後の聖マラキは、ローマへの巡礼中に幻覚を見たそうな。それは、世界の終末に至るまでのローマ法王に関するもの。112名のローマ法王についての暗号めいた予言は記録され、ヴァチカン公文書館に所蔵されたが、後に行方不明となり、16世紀に再発見されたという。その経緯から、偽物と見る歴史家もいるらしい。
いずれにせよ、予言は無気味なまでに的中しているそうな。例えば、ウルバヌス8世は「百合と薔薇」と形容されているとか... 彼は赤い百合を紋章とするフィレンツェ生まれ。パウロ6世は「花の中の花」... 彼の紋章は三輪の百合の花。ヨハネ・パウロ1世は「月の半分の」... 彼の法王在位期間は、半月から次の半月までのわずか一ヶ月。ヨハネ・パウロ2世は「太陽の労働によって」... 日食の比喩として一般的に使用される表現で、彼は日食の起きた日に生まれた。2013年に退位したベネディクト16世は「オリーブの栄光」... 名前の由来となったベネディクト会はオリーブの枝がシンボル。
そして何よりも気がかりは、法王ベネディクト16世が予言に記された111番目の法王だということである。つまり、次の法王のもとで世界は終末を迎えるということか...
「聖なるローマ教会への最後の迫害の中で、ローマびとペトロが法王の座に就く。彼は数多くの苦難の中で信者たちを導くであろう。その後、七つの丘の都は崩壞し、恐ろしい審判が人々のもとにくだされるであろう。」
2013年3月、アルゼンチン生まれのフランシスコが新たな法王に選出された。史上初のアメリカ大陸出身の法王誕生である。彼が、「ローマびとペトロ」なのか?ただし、最後の法王だけは番号が振られていないらしい。なので、111番目から最後までの間には、名前の挙げられていない法王が何人もいるのではないか、と楽観視する歴史学者も少なくない。そもそもローマ教会の運命で世界の運命を決めてもらいたくないものである。世界の宗教は実に多様性に満ちているのだから...

6. ケルト伝説
「荒廃した」と記される地域の一つに、アイルランドとイングランドの間に位置する荒れ果てた島があるという。古代ケルト人の聖地であったバードジー島。ただ、ケルト人よりも先に定住した民族がある。ストーンサークルといえば、最も有名なのはストーンヘンジだが、イングランド各地に点在する遺跡で、この島にも巨大な石が環状に並べられるという。宇宙人の仕業という説もあるが、ケルト人でなくても、そこに神が宿ると信じるだろう。
アイルランド神話によると、ケルト人が最初にアイルランドへやってきた時、すでにフォモール族という巨人族がおったとさ。ノアによって呪われたハムの子孫とも言われる。ケルト人とフォモール族は領有をめぐって何百年にも渡って争ったそうな。フォモール族は武器には長けていないものの、疫病を感染させる技術を持っていて、侵略者に「痩せ衰える死」を与えたとか。
フォモール族の女王は病を癒やす大いなる力を持っていて、疫病を治すことができたという。ケルト人がアイルランドを征服することになるが、女王の癒やしの力は崇拝され、この周辺を聖地としたらしい。アーサー王伝説にしても、アヴァロンをバードジー島が起源と信じている人も多いようである。ちなみに、アヴァロンはアーサー王の剣エクスカリバーが作られた場所で、地上の楽園とされる。
しかしながら、ケルト人もまたローマ人に征服される運命にある。この島は二万人の聖人が埋葬されることでも知られるそうな。まさに巡礼の島か!ローマ人もここを聖地としたのか?文化ってやつは、完全に抹殺したようでも、実は自然に組み込まれて生き残る性質を持っている。寄生虫のように。
「ドゥームズデイの鍵」とは、疫病を発生させる毒薬か?それとも、疫病の治療薬か?いや、その両方か?

7. 黒い聖母伝説
黒い肌で表現した像や絵画が、ヨーロッパ各地に点在するという。ポーランドのチェンストホヴァの黒い聖母、スイスの隠者の聖母、メキシコのグアダルーペの聖母など...
黒い聖母の作品には不思議な力が宿ると主張する学者もいれば、肌が黒いのはロウソクのすすが積もったり、木製の像や古い大理石が年代とともに変色しただけという学者もいる。カトリック教会は、こうした像や絵画の持つ意味や不思議な力に関しては、一切言及しないとの立場をとっているという。
本物語では、フォモール族の女王の肌が黒かったことから、黒い聖母伝説とのつながりを示唆する。肌の黒い巨人族は、古代エジプトの種族という説もあるという。フォモール族は、農業技術をケルト人に伝えているとか。ナイル川流域で培った技術を。
イングランドの各地に点在するストーンサークルを作ったのも、古代エジプト人ではないかと主張する歴史学者もいるようだ。アイルランドのタラにある新石器時代の埋葬地から、釉薬を使用した陶製のビーズで装飾を施した遺体が発見されているという。ツタンカーメンの墓から発見されたものとほぼ同じものだとか。イングランドのハル近郊には、紀元前1400年頃と推定されるエジプト様式の大きな船も発見されているとか。ヴァイキングなどの海洋民族がイギリス諸島を訪れるはるか昔に。ケルト人は、エジプトの女神イシスを崇拝したということか?

2018-08-19

"ランケとブルクハルト" Friedrich Meinecke 著

前記事「世界史的諸考察」の余韻に浸りながら古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。ドイツ史学界といえば、まずレオポルト・フォン・ランケの名を思い浮かべるが、その正統的な継承では、ヤーコプ・ブルクハルトに続いてフリードリヒ・マイネッケという流れがあるらしい。実は学生時代、ランケの「世界史」が未完に終わったことを知り、せめて選集ぐらいはと思い大学の図書館を漁ったものの、全巻見つけられず頓挫したまま。こうして断片の作品を漁ってお茶を濁し続け、もう三十年が過ぎた。
当時、ルネサンス時代の万能人たちに惹かれ、ランケの復古主義的な香りにも誘われたように記憶している。どんな分野であれ、創始者というのはそれなりに崇められるもので、ランケにもそのような地位を感じたものである。ところが、ブルクハルトに出会って風がちと変わり、天の邪鬼な惚れっぽい性癖がマイネッケへと導くのであった...
尚、中山治一, 岸田達也訳版(創文社)を手に取る。

歴史家が歴史学者になりきることは難しい。ナショナリズムを旺盛にする点では他の学問を寄せ付けないほど。当事者となれば尚更だ。とはいえ、学問の本質は客観的な視点を与えることであり、そうでなければ存在意義すら疑われる。宗教的な解釈の強すぎる時代、最初に実証主義的な立場を表明したランケの功績は大きい。
しかしながら、この大家をもってしても、まだまだ神の摂理に縋っていたようである。マイネッケは、ランケが提唱した「世界史の規則的な継続発展」という概念は信頼に足るか?と疑問を投げかける。ランケとブルクハルトの政治権力に対する態度は真逆である。ランケにとって権力は神の摂理が支配するもの、ブルクハルトにとって権力は悪、それも必要悪と見たようである。
古来、人間は生まれつき善か、生まれつき悪か、という論争があるが、ランケとブルクハルトの対置はその伝統を引き継いでいるかのようである。一人が、歴史にとって人間は何を意味するのか?と問えば、もう一人が、人間にとって歴史は何を意味するのかと問う。多神教の時代、人間にとって神は何を意味するのか?と問うたならば、一神教の時代にも同じことを問わねばなるまい。
歴史とは、ランケにとって神聖物だったのか、ブルクハルトにとって人類の恥部だったのか。両者とも歴史学者としての権威を獲得しているものの、プロイセン風ドイツ育ちと、中立国スイス育ちという地理的背景が、情熱的な語り手と冷めた目線の語り手とに分ける...

では、マイネッケはというと、ランケとブルクハルトを相互補完する立場を表明し、中道を模索する。あまりにも人間的なものを洞察した点では、ブルクハルトに軍配を上げ、国家、民族、制度といった客観的に考察すべき形成物に対して超人間的なものを要請した点では、ランケに軍配を上げる。
ブルクハルトの「人間的なもの」というのは、人間の本性、すなわち醜態にも深い洞察を与えたという意味で、はるかに現実的である。歴史とは、現実の連続であり、そこから目を背けるわけにはいかない。
だからといって、ランケも捨てたもんじゃない。ランケの「超人間的なもの」というのは、ニーチェが唱えた超人や永劫回帰にも通ずるものがある。
ただ、全般的には現実主義者持ちで、ブルクハルト評価の裏にランケ批判が見てとれる。真理が一つかは知らん。一つである必要があるのかも知らん。ただ、真理への道は多様性に満ちているのは確かなようである...

1. 歴史の距離感
歴史に法則性のようなものを感じても、そこに明確な法則があるのかは知らん。科学的に言えば、法則と法則性ではまったく次元が違う。どうしても説明のつかない法則性に対して神の意志を持ち出せば、それは宗教と何が違うのだろう。
歴史は不完全性に満ち満ちている。なにゆえ完全者が、なにゆえ万能者が、こんなものをこしらえたのか。しかも、繰り返し繰り返し。すべての出来事は必然だというのか。社会に蔓る悪は、善を認識させるための特効薬とでもいうのか。まったく神の忍耐強さには頭が下がる。すべてを神のせいにすれば、そりゃ楽よ。そして、いつか成熟した人間社会が実現されると儚い希望を抱き続ける。
しかしながら、人間の悪魔じみた性癖こそ歴史の本性であった。おそらくこれからも。集団性が暴走を始めると、もう手がつけられない。感情論が加熱すると、自分の主張がねじ曲がっていることにも気づかない。
だから、余計に優越感に浸ろうと懸命になる。学問ですら流行に走り、偏見を増殖させる。ヘーゲル的な歴史哲学にも危険性はあろうが、集団的な歴史観の危険性の方がはるかに大きいように思えてならない。
したがって、歴史学者の使命は、まずもって集団社会から距離を置くことになろう。ただ遠くからとはいえ、あまりに悪徳を眺め過ぎると、厭世観を肥大化させてしまう。集団性との距離感はなかなか手強い。ランケも、ブルクハルトも、歴史の理想像というものを描いたに違いない。そして、マイネッケも。人間社会が神の合目的に適っているかという観点では、ランケは楽観主義者で、ブルクハルトは悲観主義者である。
マイネッケはというと、二つの大戦というさらなる絶望を体験することになる。彼は、歴史考察の危険性を軍国主義、ナショナリズム、資本主義という三要素の結びつき方によって論じる。それぞれの要素が単独で非難されるべきものではなく、三者の運命的な出会いによって深淵に突き落とされたと。その態度は、必死に歴史との距離をはかろうとするかのように映る。ランケと距離をはかり... ブルクハルトと距離をはかり... 自己と距離をはかり...
「まず、軍国主義は国民皆兵制の導入によってはかりしれない物理的な力を獲得し、さらにそれは、ナショナリズムの興隆とあいまって、本来は弱小国の防衛手段であったはずの国民皆兵制を攻撃的手段へと転化し、西洋にとって戦争の危険となった。そしてこれらのものの上に、さらに資本主義的大工業による強力な技術的戦争手段の生産ということがくわわる。これらの諸要素の結合は、権力手段の拡大をひきおこし、これは権力政治に屈強の手段をあたえることになって、ここに国家理性の危機が生まれる。」

2.君主制と人民主権
十九世紀の生命要素として、ランケは、第一に君主制と人民主権という二つの原理の対立を強調し、第二に物質力の無限の展開を指摘する。
ついで、ブルクハルトは、フランス啓蒙思想とイギリス産業革命の結びつきという側面から、大衆の欲望が増大していく様を指摘する。しかも、その欲望を満たすべく国家の力が大衆の要求に応じて、ますます強大にならざるをえないと。
フランス革命からビスマルクに至る革命の時代、ランケとブルクハルトは両者とも力づくの行動を毛嫌いする保守派であり、ナショナリズムを旺盛にさせる近代国家の出現に戸惑ったと見える。フランス革命の論調では、ブルクハルトはランケよりもいっそう強く拒絶する。
それでもマイネッケは、近代民主主義の頑強な敵手とされるブルクハルトが、ランケより内面的に近く感じられると評している。
歴史事象の根底を懐疑的に捉えているのはブルクハルトの方であろう。ビスマルクの論調では、ランケは不快な現象と捉え、なかなか受け入れられなかったと見えるが、ブルクハルトは、ビスマルクが出現しなくても、大衆マキャベリズムへの流れは逆らえないと見ている。
そして、こう問わずにはいられない。かつての理想主義者たちが唱えたように、共和国化したからといって戦争は減ったか?と。悲劇を予言する眼光はまさにカッサンドラのごとく。案の定、大衆はナチス政権を許すことに...
「ブルクハルトは、あたかも鋭敏な地震計のように、大衆運動の中に潜伏していた最悪の可能性、すなわち極悪の人間どもが大衆の指導者としてあらわれてくることを感知する。」

3. 政治権力と文化
ランケも、ブルクハルトも、政治権力と文化の関係を論じたという。その違いは、神聖で高尚なものと捉えたか、俗物で劣等なものと捉えたか。
こうしてみると、文化の定義もなかなか手強い。まず自発的な活動であるということは言えそうか。それが普遍的であるかどうか、しかも、精神の発展を伴っているかどうか、などと線引きすれば、哲学的になり、やはり文化ということになる。だからといって、それ以外にも、充分に文化的なものを見つけることができる。隷属しているからといって、即座に文化的ではないとも言えまい。好んで隷属する場合もあれば、隷属していることに気づかない場合もある。人間の本性すべてが文化的要素になりうるはずだ。
ブルクハルトは、権力を握るための活動も、物質的な目的のための活動も、文化と見做す。悪徳までも。
歴史物語は、政治の側面から伝えられることが圧倒的に多く、支配者の系列や政変を論ずることで時代変化を追う傾向がある。平和で安定した時代の歴史は、退屈なものだ。それゆえ、政治というものが、高等な分野という印象を与える。
しかしながら、政治の世界ほど人間の醜態を曝け出すものはあるまい。支配欲、権力欲、名声欲、独占欲、金銭欲、物欲... あらゆる脂ぎった欲望を網羅し、まずワイドショーのネタで困ることはない。政治の役割が国民の幸福を実現することにあるとすれば、政治家に求められる最も重要な素養は、政策とその実行力ということになる。人格や高潔さなどは二の次。実際、民主主義の根幹をなす選挙では消去法が機能する。最も道徳的であるべき業界が法律のストレステストを繰り返すのは、自ら条文を検証しているとでもいうのか。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。二人の巨匠でなくても、政治的分析よりも文化的分析の方がはるかに高等に見えてくる。ただ、ランケの「世界史」は、文化的なアプローチを重要視すると宣言しながら、そうはなりきれなかったと見える...

2018-08-12

"世界史的諸考察" Jacob Burckhardt 著

歴史をつくる!
この言葉には、なにやら魅力的な響きがあり、英雄伝説を想起せずにはいられない。だが、英雄を必要とする社会は病んでいる証。悪に反発して善が生起し、善に退屈して悪が蔓延り、精神の最も病んだ時代に救世主あらわる。これが歴史というものか...
かのアレキサンダー大王は本当に偉大だったのだろうか。フリードリヒ大王やナポレオンはどうか。ウェルギリウスの登場は必然だったのだろうか。バッハやラファエロはどうか。そして、ツァラトゥストラの人格までも再評価してみたくなる。
歴史上の人物といえば、政治的な偉大さが優先されがち。だが、なによりも格別な存在は精神を征服した者である。宗教の創始者たちの扱いは他を寄せ付けない。それが反駁の形をとろうが、無神論を唱えようが、異教徒ですら意識せずにはいられない。
歴史の評価は、古くなるほど神格化し、現代に近づくほど移ろいやすい。現代の天才は古代の天才ほど神がかっている必要はないし、現代の芸術家はルネサンス期の芸術家ほど万能である必要もない。実際、劣っていそうだ。科学が進歩し、知識が広まれば、有識者たちも昔ほど知的である必要はない。実際、最も騒ぎおる。時代を経験するほど知性や理性が凡庸化していくとすれば、いよいよ平等の時代の到来か。
あらゆる歴史事象は、それぞれに転換点を示してきた。変化のない平凡な時代に歴史はつくられない。そして、いつの時代にも歴史はつくられてきた。人間社会は揉め事に事欠かない。こと政治においては、人間のワイドショー好きな性癖を隠しようがない...

大家ランケに学び、ニーチェとも交流したことで知られるヤーコプ・ブルクハルト。彼は反歴史哲学の立場を表明し、体系的なものを断念すると宣言する。それが、ヘーゲルに対するものであることは想像に易い。ヘーゲルの歴史哲学に対しては、偉大な試みに感謝すべきとしながらも、歴史と哲学は根本的に相い容れないと皮肉る。
「歴史哲学は一つの半人半馬(ケンタウル)で、形容詞において矛盾を犯すものといえる。なぜならば歴史とはすべての並列を許すことで、それは非哲学であり、哲学は序列をつけることで、それは非歴史だからである。」
ルソーの契約説に対しては、建設されるべき国家について説くことは、荒唐無稽!と言い放つ。確かに、それは空想的な理想主義かもしれない。歴史学は、現象を淡々と観察する立場であって、最善の場合でも、目的を不十分に、副次的に要求するだけ... だとか。哲学は普遍的な立場をとろうとする限りでは、歴史学よりも上にありそうか。こと人間社会においては、理想と現実が一致することはごく稀で、人類はいつも現実に翻弄されてきたし、理想論ってやつは仮説的な補助手段に過ぎないといえば、そうかもしれない。ましてや偉大な精神の歴史を、理性の向かうべき道としたところで詮無きこと。
しかしながら、哲学だって、過去の精神をないがしろにしては、偉大な精神を構築することは不可能である。ある学術研究によると、人類の進化は五千年前にとっくに終焉したという報告もあるが、あながち否定はできまい。古代エジプトのメネス王国のような考古学的伝承は、壮大な前史があったことを暗示している。
「最も傷ましく歎かわしいのはエジプトの精神発達史が不可能だという事実である。それを人は精々仮定的な形式で例えば伝奇小説(ロマン)として与え得るに過ぎない。やがてギリシア人において自然科学にとっての全くの自由の時代が来た。ただ彼等がそのためにしたところは比較的少なかった。なぜならば国家と思弁と彫塑的芸術が彼等の精力を先取りしてしまったからである。」

歴史家が客観性を保つ立場であることは疑いようがない。だが、これが最大の難題!人間のあらゆる解釈や思考が主観によって導かれ、歴史家たちの見解が歴史をつくってきたとも言えよう。ブルクハルトは、この... 歴史家が歴史をつくった... という見解を拒絶するかのように、従来の歴史評価に疑問を呈す。
学問をやる以上、懐疑論がつきまとうのは健全であろう。過去の思考に疑いを持ち、自己の思考に疑いを持ち、そして、どこまで懐疑的でいいか、そのバランス感覚が求められる。その意味で酔いどれ天の邪鬼の眼には弁証法的にすら見え、けしてヘーゲルと相い容れないようには見えないのであった。ここに、歴史哲学体系を真っ向から批判し、それでいて実に、歴史哲学的な性格を帯びた博大な書に出会えたことを感謝したい...
尚、藤田健治訳版(岩波文庫)を手に取る。
「極めて疑わしい、また疑わしさを免れないのは、教会の首長達の偉大さである。グレゴリウス七世とか聖ベルナルドゥスとかインノケンティウス三世とか、恐らくはさらに一層後期の人々のそれであろう。」

1. 三すくみ論
ブルクハルトは、歴史の考察を国家、宗教、文化の三つの関係から迫る。互いの規制関係として。国家は政治と密接にかかわり、宗教は教会と密接にかかわり、政治と教会の緊張関係が権力の均衡を保ち、政治と教会が手を結べば文化が監視役となる。時には、文学や哲学が国家を讃美したり、美術や音楽が教会に奉仕したり。二つが手を結んで規制を企てれば、一つが反抗して自由精神を目覚めさせるといった構図である。数学には三角形を崇めてきた歴史があり、人間ってやつは、三角関係がお好きと見える。
政治の在り方を問うたアリストテレスは、最善なのは君主制で、次に貴族制で、最悪なのは民主制というようなことを書いた。だが、真の君主はどこにも見当たらず、ことごとく僭主と化す。有識者や有徳者の集団ですら権力を握るとそうなる。人間の自尊心は、少しばかり大きすぎるようだ。自己肯定が少しばかり強すぎるようだ。やはり人間社会は、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。
そして今日、様々な政治体制が試されてきた中で、民主制が比較的マシとされる。政体の移行段階では無政府状態が出現し、政権交代のたびに無党派層を増殖させる。もはやアリストテレスが唱えた三つの政体では不十分、無政府状態も普遍の代表に加えねば。最も聖なる原理、そう、あの三位一体論は、こと人間世界では三すくみ論と化す...
ちなみに、ランケはこう言ったという。
「主権在民ということほど影響を及ぼした政治的理念は一つとして存在しない。折々は退けられ単に一般の見解を規定するに止まりながら、やがてまたふたたび突発的にあらわれ出て公然と認められ、決して実現されないがしかもいつも人の心に食い込んで行く点で、それは近代世界の永遠に醗酵する酵母である。」

2. 自己を克服できなければ、他人を征服にかかる...
宗教の偉大さは、人間の欠陥を超感性的な力で補足する試み。精神を無限の宇宙に引き入れ、崇高さをもって教化する。それ故、あらゆる道徳が宗教によって裏付けられれば、宗教戦争は最も恐ろしく、残酷なものとなる。宗教もまた応急処置的な手段の一つと心得ておかねば。もはや、あらゆる宗派から距離を置く無宗教という立場も普遍の代表に加えねば...
あらゆる闘争には、盲目的な美化がつきもの。国家も、宗教も、文化も、盲目的に礼賛されやすい。愛国心ってやつは、しばしば他民族に対する傲慢の形で現れ、政治ジャーナリズムが集団性の牙を剥く。自己を克服できなければ、他人を征服にかかる。これが人間の本性と心得ておかねば...
「国家は個人の利己の排除によって生じたのではなくて、国家はこの排除そのものでありその調整そのものであり、従ってそこでは最大限に多数の利害や利己が永続的に勘定が合い、遂には国家の存続が自己の生存と完全にからみ合うようになる。ついで国家がもたらし得る最高のものはよき国民連の義務感、すなわち祖国愛である。
...
もし国家が社会だけがなし得、またなすことを許される倫理的なものを直接実現しようと意図するならば、それは一つの堕落であり、術学的官僚主義的な不遜に外ならない。」

2018-08-05

"音楽における偉大さ" Alfred Einstein 著

もし、大バッハがいなかったら... 歴史は誰かにその代役を与えたであろう。バッハもまた誰かの代役を演じただけなのかもしれん。偉大さとは、偶然の出会いの積み重ね。もし、この出会いがなかったら... もし、この人物が生まれてこなかったら... つい、そんな安っぽい運命論を想像してしまう。ゲーデルは晩年、こんなことをつぶやいた... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見するだろう... と。この発言はおそらく正しい。真理の概念は必然的であり、概念の方が歴史の道を散歩している。人間とは、それを見つけ出すだけの存在であろうか...

本書は、"a controversial book" と呼ばれたそうな。褒めてくれそうな人には褒められ、非難を浴びせそうな人には非難されそうな。誰が偉大で誰が偉大でないか... そんな議論はほとんど主観的、いや独断的、好みや影響された人物を贔屓してしまう。
百年もすれば歴史の評価も変わる。バッハが登場すると、シュッツの輝きは弱まり、文献学に名を残すのみ。偉大さとは、実にはかない!尤も彼らは、自分が偉大だと思って生きたわけではあるまい。純粋に音楽の真理を探求した結果であろう。
ここに語られる、時代に逆らった者と時代とともに歩んだ者、早く生まれ過ぎた者と遅く生まれ過ぎた者、彼らは互いに影響しあい、互いに影響されて生きた。偉大さとは、まさに相乗効果が生み出した産物といえよう。人類の遺産を見つけ出す手助けをしてくれるアルフレート・アインシュタインという文才に出会えたことは、凡庸な音楽好きには大きな喜びである...

バッハやヘンデルにしても、モーツアルトやベートヴェンにしても、ヴァーグナーやブラームスにしても、ショパンやシューベルトにしても、ベルリオーズやヴェルディにしても... 彼らはもはや人間ではない。人間精神を徹底的に研究し、完全に人間を真似ることのできた半神半人だ。音譜は物理周波数を与えるだけの数学的な記号に過ぎないが、この手段をもって普遍的な言語体系を構築している。言語ってやつが、精神活動を通してしか実存し得ないことを、見事に体現している。
音響芸術は、言語芸術に対して翻訳が無用な分、優位にあるように思える。声楽曲では、多少なりと翻訳が必要なものの。芸術作品ってやつは、崇高な地位にあればあるほど解釈が難しい。これに人工言語による翻訳の苦難が加わると、翻訳者の技術力によって作品の景色ががらりと変わる。詩は散文よりも、叙事詩は長編小説よりも、音調的である分、より永遠的になる。こと音楽においては形式なしでは無に等しく、偉大な作曲家たちは方言を語ったわけではなく、最も純粋な言語、すなわち最も純粋な形式を語ったということになろうか。それを普遍性と呼んでも、それほど大袈裟ではあるまい。
おまけに、この記念碑的な連中ときたら、驚異的な多産性を魅せつける。シンフォニーの群れ... コンチェルトの群れ... オペラの群れ... ピアノ曲の群れ... それぞれが一つの物語を語り、これらの群れが集まって一つの宇宙を創造する。ケッヘル番号や BWV のおびただしい数。モーツアルトやシューベルトのような早世の人物ですら膨大な群れを所蔵している。真理への執念がそうさせるのか。大量生産は偉大さから遠ざかりそうなものだけど...
天才たちの生涯を通しての内的強制は、超自然的で悪魔じみており、デモーニッシュといった言葉ではとても表現しきれない。ヴァーグナーを多血質と呼んだり、ショパンを憂鬱質と呼んだりするのは、それほど間違ってはいないだろう。どんなに人間性を非難されようとも、どんなに人格を貶されようとも、作品の方が音楽家から幽体離脱をはかり、独り歩きをはじめる。もはや、この音楽家は、イタリア的とか、フランス的とか、ドイツ的とか、そうした帰属意識に根ざした議論は無用だ。彼らは、普遍性の世界に身を委ね、超国民性を発揮する。西洋の形式でありながら、東洋の文化にも訴えるものが大きい。思いっきり信仰的でありながら、宗教という枠組みをはるかに超越している。凡人は自己が征服できなければ、他人を征服にかかるが、天才は自己の征服に忙しく、他人にかまっている暇などないと見える。ましてや世間にかまっている暇など。普遍性とは、多様性に存分に寛大で、よほど心地よいものと見える。
そして、かつてのバッハ嫌いは、いまやバッハの虜に... かつてのモーツアルト好きは、いまやモーツアルト狂になっちまったとさ...

1. 完全性なるもの
芸術に完全性なるものが存在するのだろうか。天才たちには完成形なるものが見えるのだろうか。あるいは、彼らもまた妥協の世界を生きているのだろうか。凡人と同じく自己満足の世界を生きているのだろうか。対位法は、すでに完成しているのだろうか。少なくとも、彼らは作品群の中に一つの宇宙を描く。完全な宇宙というものが存在するのかは知らん。もし存在するとして、どれほどの意義を持つのかも知らん。人間は不完全な人生を送る運命を背負う。人生の BGM となる未完成曲を心の中で奏で、我が人生、未完なり!と叫びながら...
永遠に無知であることが、それを自覚できることが、人生を退屈させないで済む。宗教だって、永遠に盲目でいることが幸せだと言っているではないか。シューベルトの遺産「未完成交響曲」が完成しなかったことは、そこに大きな意義が唱えられていそうだ。人類の叡智とは、偉大な未完成を相続する幸せを世代に渡って謳歌するってことだろうか...
「一芸術家の偉大さは、一つの内的世界の建設であり、この内的世界を外的世界に媒介する能力である。両者は不可分なものであって、そのいずれも他のものなしには考えられない。最も強烈な感情と最も生き生きした想像力も、それが公表されなければ、人類にとって無価値である。最も偉大な形式的才能も、それが一つの宇宙を形成することのできる創造力に仕えるのでなければ、無価値である。」

2. 永持ちな万能性
偉大さの条件とされるものに、独創性ってやつがある。世間は、オリジナル性を声高に主張しては、コピーものを俗悪のごとく言う。
では、独創性とはなんであろう。人間という存在に、まったくゼロから何かを創造する力があるというのか。
本書には「永持ち」という言葉がちりばめられる。永持ちする偉大さと、その偉大さに出くわす幸福は、適切な時期にやってくるものらしい。
しかも、偉大な相続遺産なしには不可能なようだ。ルネサンス期の万能人たちは、偉大な作品を徹底的に模倣し続けた。ラファエロにしても、シェイクスピアにしても、偉大な遺産に魅せられ、それを継承しながら独創性を発揮するに至り、ゲーテは独創的な作家で終わらず、芸術的な大家となった。彼らの模倣は、猿真似とはまったく異質で、世間で言われるコピーものとは異次元にある。何事も早すぎても、遅すぎても、うまくいかない。自己の中で何かが覚醒させるまで、じっと待つしかない。真理のエネルギーが蓄積して自然に爆発するのを。その覚醒される瞬間を見逃さぬよう、常に準備を怠るな!独創性の源泉は継続性にあり!というわけか。
とはいえ、凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼は、そのような幸福な出会いに気づかないばかりか、報われることを期待しすぎるものだから意志も永持ちしない...
「真実の偉大さには万能性が不可欠である。それは二重の意味における万能性であって、すべての、あるいは少なくとも多くの音楽諸分野の支配の意味においての万能性か、あるいはある分野の専門家としても新しい世界像を提出し、以後働き続け生み続けるような内面生活の持続的な豊富化を提出するという意味における万能性か、いずれかである。」

「かくして生けるものは
 結果から生ずる結果によって新しい力を得る。
 なぜなら、心、この恒常なるもの
 それのみが、人間を持久するものにするのだ。」
... ゲーテ

2018-07-29

"モーツァルト その人間と作品" Alfred Einstein 著

アインシュタインの名でもアルフレートの方。あの物理学者アルベルトの親戚という説もあるらしいが、真相は知らない。この音楽学者はモーツァルトと結びついて伝えられるそうな。シュヴァイツァーがバッハと結びついて伝えられるように。彼の著作「音楽と音楽家」を読んだ時、モーツァルトに関する記述がおざなりな印象を与えていたが、実はそうではなく、別格に取り上げていることを知って本書を手に取る。おまけに、A5判に 5cm と厚い。表題 "MOZART" の印字も風格を帯び、翻訳者浅井真男氏も熱くなると見える...

モーツァルトほど多種多様な作品を遺せば、どのように整理すればいいか悩ましい。時系列に並べてみるのも、彼の心変わりが追え、学術的にも合理性に適っていそうである。実際、ケッヘル番号には広大なモニュメントが刻まれる。それでも、彼の全生涯に渡る前進や後退、あるいは空白のすべてが保存されているわけではないし、叙述があまりにも伝記的なものに規定されてしまう恐れがある。
そこで本書は、ジャンル別の考察を試みる。とはいえ、この方法でも別の危険を冒すことになろう。声楽曲が器楽曲に影響されたり、その逆もあったりで、同質のものがジャンルの壁で引き離されるかもしれない。シンフォニーと室内楽曲を区別しても若干混乱をきたすし、室内楽曲と野外楽曲を分断しても同じこと。
ただ、これほどジャンル別の完成度が高いと、その危険性も低いということのようである。おまけに、クラシックのド素人には馴染みやすい構成で、本書がモーツァルトの作品目録になってくれる。
そもそも、モーツァルト自身にジャンルという意識があったのだろうか?いや、明確に意識していた形跡があるらしい。というより、意外にも形式主義的な側面を覗かせる。彼にとってアリアはアリアであり、ソナタはソナタであり、それぞれに彼なりの法則を見い出し、それを決して打ち破ることはなかったという。音楽精神では自由を信条としながら、音楽形式では伝統を保持していたということか。革命家らしく形にこだわらない独創性を備えているようで、実のところ、彼の中の形式主義が一般的な音楽論では計れなかっただけのことかもしれん...
「モーツァルトのような偉大な人間は、すべての偉大な人間と同じく、われわれが一般に肉体と精神、動物と神の混合物と名づけることができるような、人間という異常な種類の生物の高められた実例であり、見本である。この見本が偉大であればあるほど、二元性はますます明らかに現れ、二つの反対力のあいだの闘争はますますきわだち、調停はますます立派になり、調和、つまり不協和音の和音のなかへの解決は、ますます輝かしくなる。」

ところで、読書には BGM が絶対に欠かせない。仕事でもそうだ。BGM に用いるものでは、おそらくモーツァルトが一番多い。昔は、四大シンフォニー(K.504, 543, 550, 551)をよく用いていたが、今では声楽曲でも、協奏曲でも、なんでもあり。BGM ってやつは、あまり好きな曲でも困る。脇役の方に気を取られては本末転倒。あくまでも控え目な存在でなければ。
ところが、モーツァルトときたら、音楽を中心に置こうが、円周上に置こうが、同心円上でうまく調和してくれる。ただ、気分によって、モーツァルトが合わない日もあるにはある。そんな日は、チャイコフスキーでもショパンでも選択肢はいくらでもある。
もちろん今宵の BGM は、モーツァルトだ!と、いきたいところだが、モーツァルトについてこれほど熱く語られる書を前に、どちらが主役なんだか。まるで BGM の共食い!てなわけで、今宵の BGM は、ブランデーといこう...

1. 救世主モーツァルト
アルフレートの著作「音楽と音楽家」には、バッハやヘンデルが世を去った十八世紀中頃、音楽界がガラントなものと学問的なものとに分裂し、かつてない危機に見舞われたと綴られていた。本書には、その分裂的危機を融合した救世主が描かれる。そして、この記述がどの場面かを想像せずにはいられない...
「プラーハ=シンフォニーの緩徐楽章のなかには、モーツァルトがその生涯の終わりに到達した、ガラントと学問的との驚嘆すべき融合を示す一つの例が含まれている。そこではすでに提示部のなかにウニソノの動機が現われる。これはただちにヴァイオリンと低音のあいだのカノン的な対話によって進行し、他の弦楽器とホルンの単純な和声的充填をも伴っている。しかし展開部においてこのカノンは、それ自体も半音階をもっていっそう際立って来るばかりでなく、充填も、ことに第二ヴァイオリンにおいていっそう激しくなる。」

2. 偉大な模倣者
モーツァルトほどの人物でも、ベートヴェンのような主題を案出していないと非難を受けたようである。それも、楽曲のほとんどが注文依頼によって創作されたという経緯がある。
この世のあらゆる偉人たちが、過去の偉業に敬意を表して模倣者であったことも忘れてはなるまい。ラファエロしかり、シェイクスピアしかり、これぞ人類の叡智。モーツァルトの場合、それが父レーオポルトであり、シューベルトであり、ハイドンとアードルガッサーであり、ヘンデルであり、そしてバッハであったとさ。対位法で絶頂に導いたのも、大バッハを知ってからのようである。
バッハを研究する機会を与えたのは、音楽ディレッタントのファン・スヴィーテン男爵と出会ったことだという。彼はフリードリッヒ大王の近くにあって、大王がファン・スヴィーテンの興味をバッハへ向けさせ、さらにモーツァルトへ伝授されたという流れ。偉大な歴史事象には、しばしば偶然がともなう。導き、導かれる者同士というのは、どこか共感できるものがあると見える。
「平均律クラヴィーア曲集」と「フーガの技法」を知ったモーツァルトは、さらに超自然的な内的強制に目覚めていく。何かに取り憑かれたかのように悪魔じみていき、もはや注文作曲家の域を超えていた。モーツァルトにとって、間違った音は世界秩序の毀損であった。バッハがそうであったように。ゲーテがメフィストフェレスに執心したように、偉大な芸術家は自分の作品に取り憑かれ、自己の模倣者となっていく。「魔笛」(K.620)が訴えるものも、やはりメフィストのような存在であろうか...
「彼の倫理的な危険について言われたことは、あらゆる想像力豊かな人間、なかんずく劇的天才にあてはまる。ゲーテも、自分のなかにはあらゆる犯罪を犯す素質がある、と言った。無道者シェイクスピアの物語は真実ではなく、それ自体としてあまりにも無邪気ではあるが、とにかくうまく作られている。なぜなら、巨大な想像力と暗示敏感症を持つ人々が、彼らの危険な性向を芸術に変容させ、マクベス夫人、メフィスト、ドン・ジョヴァンニのような形姿を創造するのである。」

3. 芸術の犠牲者となったザルツブルク人
モーツァルトは、どこにも安住できなかったという。彼が生まれたザルツブルクにも、彼が死んだウィーンにも。旅こそ、彼の生涯のほとんどを占めている。
ところで、ザルツブルク人というのは、当時のドイツにおいて、真面目さ、賢明、合理的などの点で、あまり評判がよくなかったそうな。反対に、肉体的享楽に極度に耽溺するが、精神的享楽を嫌い、粗野的と見られていたという。南ドイツの道化喜劇の中で、滑稽な主人公に与えられるあらゆる性質の代表者であったとか。
モーツァルト自身も、そんな故郷を幼き頃から愚弄していたという。周りには、ミュンヘンがあり、ウィーンがあり、ヴェネツィアがあり、その三角網の中心にザルツブルクがある。彼は救いを求めて、あらゆる方向に旅をする。
また、この天才児は、父レーオポルトに温室植物のように育てられたという。芸術家としては成熟していても、人間としては子供のまま。いや、永遠に子供だったのか。彼は純真すぎた。あまりにも激しすぎた。私生活においては中庸というものがまるでない。音楽では、これほどの調和を見せておきながら。
旅先では後見人を必要とし、いつも母親が同行したという。地位獲得における失敗の連続、女性関係における失敗の連続。天才とは、ある種の障碍的な要素なのか。モーツァルトの最も相応しい居場所は、歴史の世界、すなわち死後の世界だったのやもしれん...
「このかぎりで、われわれは言うことができよう、人間モーツァルトは彼の芸術の地上的な器だったと... のみならず人間モーツァルトは音楽家モーツァルトの犠牲だったとさえ。しかし自分の芸術に取り憑かれた偉大な芸術家は誰でも、個人としてはその芸術の犠牲である。」

4. 控え目な万能者
音楽家の得意な楽器、あるいは、贔屓の楽器があれば、それを神格化する作風となるのも道理である。ベートーヴェンの場合はピアノに明確な意思が込められるが、モーツァルトもやはりピアノであろうか。ただ、ベートーヴェンほどの明確さは見えない。多彩な技術や自己の意思を控え目にするのが、モーツァルト流というわけか。モーツァルトは、マンハイムのヴァイオリニスト、フレンツルについてこう記したという。
「... 彼はむずかしいものを演奏する。しかし聴き手はそれがむずかしいことに気づかないで、自分もすぐに真似ができるように思う。これこそ真の技術である...」
まさに、この言葉を自分の中で実践しようと、対位法という技術を出来る限り隠そうとする。骨の折れる仕事は作曲家自身が引き受け、その努力を聴衆には気づかれないように楽しませてくれる。こうした控えめを信条とした調和の作風が、主役に置いても、BGM に置いても、違和感のないものにしているのやもしれん...
「声楽作曲家としてのモーツァルトと器楽作曲家としてのモーツァルトといずれが偉大であったか、『フィガロの結婚』(K.492)や『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)と、ハ長調シンフォニー(K.551)やハ短調ピアノコンチェルト(K.491)やハ長調弦楽五重奏曲(K.515)とはどちらが上位にあるか、という問題を自分に提出してみると、モーツァルトの万能性ということが明白になる。」

5. カトリックを超越したカトリック者
モーツァルトがフリーメイソンであったことは広く知られる。フリーメイソンには、カトリックとプロテスタントの双方から非難されてきた歴史があるが、キリスト教的であることは同じ。ルターにしたって、最初からプロテスタントを唱えていたわけではあるまい。カトリックが集団暴走を始めれば、一旦福音に立ち返り、教会が暴走すれば、そこから距離を置く。国に苦言を呈す者だって愛国心が足らないと非難を受けるが、国を愛するからこそ政権や支配者を批判するのではないか。国に忠誠を誓うとは、権力者に忠誠を誓うことではない。ましてや独裁者に。
カトリック教会に懐疑的だからといって、プロテスタントの急進的な態度に接すれば、これまた懐疑的となる。十分にカトリック的でもなければ、十分にイエス的でもないと。フリーメイソンとは、真のキリスト教徒の避難場所だったのだろうか。
モーツァルトの世界観は、普遍的で超国民的であったという。彼には、国に属すということにあまり興味がなかったと見える。憎悪や嫉妬で歪んだ愛国心なんぞ、どこ吹く風よ!ひたすらアリアとの和解を求め、自我との和解を求め。モーツァルトは、他ならぬモーツァルトであったのだろう。彼の無頓着な態度は、宗教観に限らず芸術観においてもよく現れている。モーツァルトは、カトリックよりもカトリック的だったのやもしれん...
ちなみに、リヒャルト・ヴァーグナーは、こんな記述を遺したそうな。
「素朴な、真の霊感をうけた芸術家は有頂天の無分別さで自分の芸術作品に飛びこむが、これが完成し、現実となって自分のまえに姿を現わすときにはじめて、自分の経験から本当の反省の力をかちうる。そしてこの反省の力が一般には彼を錯覚から守るのだが、特別な場合、つまり彼が再び霊感を受けて芸術作品へと駆り立てられるのを感ずる場合には、反省の力は彼を支配する力を再び全く失ってしまうのである。オペラ作曲家としての経歴に関してモーツァルトの性格を最もよく現わしているのは、彼が仕事にとりかかる時ののんきな無選択ぶりである。彼はオペラの基礎となっている美学的疑惑に思いを致すことなどは思いもよらないので、むしろ最大の無頓着さをもって自分に与えられたあらゆるオペラのテクストの作曲に取りかかったのである。そればかりでなく、このテクストが、純粋な音楽家としての自分にとってありがたいものであるかどうかにさえ無頓着であった。あちこちに保存されている彼の美学上の覚書や意見を全部とりまとめてみても、彼の反省のすべてが、あの有名な自分の鼻の定義以上に達しえないことはたしかである。」

2018-07-22

"自伝と書簡" Albrecht Dürer 著

先週、馬車旅の車窓を彩る絵画を BGM に「ネーデルラント旅日記」を嗜んだ。今宵、旅の余韻に浸って、虎の子のフィーヌブルゴーニュをやっている。本書は、その姉妹編に位置づけられる遺文集で、ここでも肖像画や風景画、あるいは宗教画が足りない言葉を補っている。飾らない文面の数々、尤も文学作品としての意図は微塵も感じられない。言葉ってやつは、余計なことを喋らない方が重みを与えるものらしい。酔いどれ天の邪鬼には、到底到達しえない境地か。ここには、ルネサンス画家の福音が刻まれる...

アルブレヒト・デューラーは五十を過ぎて、自伝という自画像で何を語ろうというのか。1498年の自画像では派手な服装をまとい、やや斜めにポーズをとる。その歳の充実ぶりを誇らしげに語るように。
とはいえ、若き日に残した尊厳ある容貌が、年老いた自己を慰めるためのものとなっては惨め。過去の栄光に縋るなんぞ御免!後世、自画像に宗教批判のレッテルを貼られてはかなわん。絵画に人類を救え!などとふっかけられてもかなわん。製造者責任を問うなら、鑑賞者責任も問いたい。そんな愚痴も聞こえてきそうな...

ところで、この手の古書を読むと、いつも思うことがある。五百年も前のものを現代語に訳す翻訳者のセンスというものを。当時の光景を完全に再現することは、ほぼ不可能だろう。ましてや外国語だ。翻訳者前川誠郎氏は、デューラーの旅への思いを感じ取るために、この原文を読者に音読してみることを勧めてくれる。

"Dornoch wurd ich gen Polonia reiten vnder kunst willen jn heimlicher perspectiua, dy mich einer leren will. Do wurt ich vngefer jn 8 oder 10 dagen awff sein gen Fenedig wider zw reitten, Dornoch will ich mit dem negsten potten kumen. O wy wirt mich noch der sunen friren. Hy pin jch ein her, doheim ein schmarotzer."

O wy ... からはほとんど鼻歌だとか。デューラーは九月下旬のヴェネツィア書簡で、あと一ヶ月ほどしたらと帰国を仄めかす。だが、なかなか腰を上げる気にはなれず、ニュルンベルクへ帰郷したのは翌年の二月。イタリア・ルネサンスの虜になったか。「ネーデルラント旅日記」にしても、目的が皇帝カルロス5世への請願であったにせよ、芸術家の性癖は隠しようがない。本能の赴くままに...
しかしながら、この自由人の晩年は、宗教改革の機運が高まり、新旧諸派の抗争や農民戦争を経て、17世紀には三十年戦争に至り、欧州が荒廃していく暗い時代の幕開け。自由精神を信条とするルネサンスが呼び水となったことは否めない...

1. 自伝的な点鬼簿
本書には、まず家譜と覚書が綴られる。そのきっかけは、岳父ハンス・フライの死だったという。すべての人間模様をキリスト降臨祭の元で語る点鬼簿は、神に祝福された家系を強く意識していたことが伝わる。戦慄的な臨終記では、自分自身が父の臨終に立ち会うに値しなかったとぼやき、家族の肖像画で物語を補う。
ところで、画家がしばしば企てる鳥瞰図という形式は、自分の作品に天からの祝福を求めてのことか...

2. ピルクハイマー宛とヤーコプ・ヘラー宛の対照的な書簡
ピルクハイマー宛書簡では、ヴェネツィア滞在費を賄うなど、大才を認めて援助を惜しまなかった彼への感謝の念は、気が狂いそうなほどに... と綴り、その息遣いが伝わる。
しかしながら、ヴェネツィア書簡で見せる人間性とは逆に、ヤーコプ・ヘラー宛書簡では絵画製作の経緯を時日を追って綴り、狡猾な商人ぶりを披露する。芸術家だって一人の人間、裏の顔のない人間なんて皆無。別段違和感なし...

3. 年金関係書簡
1512年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、ニュルンベルク行幸を機に、自己の治績を記念する製作を依嘱したという。「凱旋(トリウンフ)」と総称される厖大な版画作品は、木版画192枚を貼り合わせる「凱旋門」と137枚の「凱旋車」からなるとか。「凱旋門」は、1517年末に完成したそうだが、「凱旋車」は未完に終わったという。
マクシミリアン1世は、画家への報酬をニュルンベルク市税の免除という形で市側に負担を求めたが、市参事会がこれを拒否。デューラーは要人に書簡し、皇帝の説得工作をすすめる。皇帝マクシミリアン1世は、ニュルンベルク市からの年金支給は、国庫の上納金から差し引くよう指示する特権状を発行した。
だが、これもまた延滞し、新皇帝カルロス5世に嘆願することに。それが、「ネーデルラント旅日記」へとつながる。

4. 数学への招待状と理論書への招待
ほとんどおまけにような存在だが、ヨーハン・チェルッテ宛の書簡が興味深い。なにしろ幾何学の命題へ招待しているのだから。
ちなみに、デューラーは、ガスパール・モンジュの画法幾何学にも影響を与えたという話を何かで読んだ覚えがある。あのケプラーの充填問題でも、彼の功績を挙げる人もいる。当時から数学者としても知られていたようで、ユークリッドの幾何学原理をドイツ語に訳したいという人のためのコメントも見られる。
また、著作「人体均衡論」の刊行は、デューラーの死後であったが、出版に至る非難への葛藤が見て取れる。人間五十を過ぎると、理論家になりがち。いや、屁理屈屋になりがち。ただ、デューラーが唱えているのは理論と実践の両方である。そして、理論の書を書いた動機を語ってくれる。
「双方に通じた人、則ち学問を学ぶとともに自ら作品を製作する人たちだけが、彼らの望む完全な目標に到達することができる...」

2018-07-15

"ネーデルラント旅日記" Albrecht Dürer 著

1520年夏、五十に差しかかろうとする画家は、妻を伴ってニュルンベルクから遠くネーデルラントへ長旅に出たそうな。年金支給が滞り、神聖ローマ皇帝へ請願するためだという。ちょうど新皇帝となったカルロス5世が、アーヘンで戴冠式を行うことになっていたのである。
しかしながら、アーヘンを通り過ぎてアントウェルペンまで足を伸ばし、ここを滞在拠点として文字通りネーデルラントをめぐる大旅行記を展開する。一年もの月日をかけて。
人間五十になれば、理論的になる。人の生き死にに意味を求め、屁理屈にもなる。そして、哲学は暇人の学問となる。デューラーは自分探しの旅を求めたのやもしれん...

とはいえ、とはいえ...
こいつは、ほとんど収支報告書ではないか。飛脚にいくら払ったとか、賭けでいくら負けたとか、食事代、洗濯代、入湯代、理髪代... なんとケチ臭いことを。プロテスタントらしく、借方と貸方で構成される西洋式バランスシートの源泉を見る思いである。そういえば、マックス・ヴェーバーはプロテスタンティズムの禁欲精神が資本主義を開花させたと論じたが、それに通ずるものがある。
文学作品として眺めると、嘆願状を起草してくれたデジデリウス・エラスムスの登場や、マルティン・ルターの逮捕劇が盛り込まれるものの、どうも物足らない。いや、余計なことを語らないから、文章に重みが出るのやもしれん...
尚、エラスムスは、ルターに影響を与えた人物ではあるが、論争相手としても知られる。カトリック教会批判という立場は共有するものの、中道派エラスムス、改革派ルター、急進派カルヴァンといった位置づけであろうか。
ルターが破門されると福音主義が加速し、逮捕されたことが広まれば宗教改革の機運を高めていく。ゴリアテとは、人間社会という巨大生物を言うのか。実は、この逮捕劇はルターを匿ったザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公の書いた芝居であったが、デューラーはそれを知らない。そして、エラスムスへ哀悼文を書き、万事を放擲して蹶起するよう懇願するのである。

帳簿にして帳簿文学たらしめるものとは、なんであろう。やり残したことがあれば、人生の収支はいつも赤字。未練という名の赤字を背負い...
さすが、アルブレヒト・デューラー!馬車旅の車窓にはスケッチ風の風景画がよく合う。アントウェルペン港やアーヘン大聖堂がブランデーのごとく演出され、文字を補う静止画群が動画を十分に物語っているではないか。明暗画法が人生の明と暗を見事に物語っているではないか。年金暮らしとなれば節約を強いられ、教会や修道院、諸侯や市の要人、画家仲間から援助を受け、肖像画を描いてパンを得る。ドイツ・ルネサンスの代表的な人物ともなれば、大きな栄誉と寵遇を受けるのも自然の流れ。それは、寄付金で作られた聖道の旅であったというわけか...
そういえば、デューラーは、ガスパール・モンジュの画法幾何学にも影響を与えたという話を何かで読んだ覚えがある。偉人の産物には収集家が群がり、切り売りされる運命にある。ラファエロのものは、死後すべて散逸した。しかし、晩年の作品群で彩る旅行記として遺されれば、それを免れるのかも...

2018-07-08

鞄作りの心(HERZ)に魅せられて...

HERZ はドイツ語でハート(心)...
クビをなが~くして待っていた HERZ の鞄が届いた。ここに辿り着くのに半年もかかってしまう。何を買うにせよ慎重すぎるほどに考え込むのは、酔いどれ天の邪鬼の悪い癖だ。いや、考えている時間がたまらない。東京本店と博多店の工房を見学させてもらい、同じ技術屋として職人魂を共感せずにはいられない。恋は成就した瞬間に冷めるというが、こいつはそうはならないだろう...
ところで、心といえば、行付けの寿司屋の大将が意味ありげな笑みを浮かべて、心をにぎります... なんて気色の悪いことを言うもんだから、そのイメージがどうにも頭にこびりついて離れない。ここではドスの利いた声で、心をえぐります... とでも言っておこうか...




ENJOY THE AGING...
店内に年季の入った鞄が展示され、その重厚感がなかなか。新品と並べて、三年後にはこうなりますよ!ってな具合に。そして、古びた方が欲しいと思ってしまう始末。長く使えば愛着もわき、共に過ごしてきた時が刻まれる。経年変化を楽しむのも、コンセプトの一つというわけである。自然な仕上がりで、自然な変色感を味わう趣向(酒肴)。
ただ、余計な施しをしていない分、アフターケアがちと気になる。当初、革が固い感じがしたが、一週間もすれば馴染んでくる。箱から取り出す時に少し爪でひっかいてしまい、いきなりブルーになったが、その傷もオイルで馴染ませていくうちに、違和感がなくなっている。雨に濡れるとシミになりそうで慌てて拭いたりもしたが、そこまで神経質になる必要はなさそうか。傷やシミをあえて隠さず、模様のように自然に同化させていく感じであろうか。メンテナンスの頻度は、二ヶ月に一度くらいでいいとのことだが、手に入れてまだ一ヶ月だというのに毎週磨いている有り様。二、三度オイルを塗ると微妙に変化しはじめ、ええ感じ...
革の色は、キャメル、チョコ、ブラック、グリーン、レッドがラインナップ。変色具合は色によっても差がでるが、キャメルが一番変化に富んでいそうである。レッドは、ちと派手かなぁ... と思っていたが、実物の変色具合はなかなか。ブラックは、あまり変化が目立たないが、それでもいい味がでている。
尚、ロゴ入りのコップ置きをおまけしてもらった(写真中央下)。黒革の変色具合いをお確かめてください... と。

そして、ビジネスに新たな相棒が二つ加わった...
一つは、ダレスタイプのセカンドバック(写真右: キャメル)。
コンパクトで取っ手のついたものは、ありそうでなかなか見つからない。夜の社交場で絶対に欠かせない相棒だ。
二つは、グラッドストン風ボストンバッグ(写真左: チョコ)。
レトロなトランクケースが欲しかったのだが、こちらの方がイメージに合う。使い勝手は少々犠牲にしてもよかったのだが、そんなに悪くない。二本のベルトが面倒臭そうに見えたが、実は差し込み式金具になっていて簡単に外せる。あとは、タブレット端末用にインナーバッグも欲しい(レッド or グリーンで検討中)... といったところであろうか。実は、着物で出かけることが多いので、和服に合う出張用の鞄が欲しかったのである。大割鞄のパンタフレームが、まだファスナーのない19世紀の旅を思わせる。さっそくノスタルジックな出張計画を練るとしよう。いざ温泉へ!

2018-07-01

"確信する脳 - 「知っている」とはどういうことか" Robert A. Burton 著

神経科医ロバート・バートンは、大胆な仮説を提示する。
「確信とは、それがどう感じられようとも、意識的な選択ではなく、思考プロセスですらない。確信や、それに類似した『自分が知っている内容を知っている(knowing what we know)』という心の状態は、愛や怒りと同じように、理性とは別に働く、不随意的な脳のメカニズムから生じる。」

"knowing what we know..." というフレーズは、絶対に分かっている!という強いニュアンスを与える。確信の根底には、意志の力では変えられない神経学的要素があるというのである。人間ってヤツは本性的に頑固者らしい。経験を積み、歳を重ねていくごとに頑固オヤジとなっていくのは自然な姿というわけか。考えを新たにするということは、過去の考えを捨てること、すなわち、自分の過去を否定することになり、感情的になるのも道理である。
知っている事をどのように知っているのか?と自問すれば、確かに、論理的な思考よりも感覚的な思いの方が強いような気がする。感覚であるなら、錯覚や誤謬が生じる。感覚であるなら、意識的に操作することも難しい。思い込みってやつは、誰にでもある。学問は、そうした感覚を排除しようとするところに意義を求める。
そこで「客観性」という用語が重視されるが、こいつがなかなか手強い。そもそも思考している心理状態が極めて主観的であり、既に自己矛盾を孕んでいる。
実際、人間社会には感情論が溢れ、原理主義も花盛り、創造説や民族優越説などに盲信する人々が少なからずいる。政治家や有識者にしたって、客観的に語ると宣言してそうだったためしがなく、自己主張に説得力を与えようと数字を提示して客観性を演出する。ちなみに、ベンジャミン・ディズレーリはこんな言葉を残した... 嘘には三種類ある。嘘、大嘘、そして統計である... と。
人間の思考は主観に支配されているからこそ、客観性に焦がれるのか。同じく、「柔軟性」という用語にも、人々は焦がれる。そして、「頑固」という言葉には、「信念」という用語を当てて自己を欺く。
「知識の最も重要な産物は無知である。」... 理論物理学者デイビッド・グロス

本書は、確信と知識の対決の物語である。そして、ニューラルネットワークや深層心理学などでよく見かける「入力 - 隠れ層 - 出力」という思考モデルを提示する。
鍵を握るのは中間層。一般的な思考分析では、時系列や因果関係などの経路を追うが、それは結果論であって、実際の思考過程は並列的である。意図的に思考を促すことはできても、本当に求めているレベルでアイデアが出現する瞬間は無意識的である。逆に、手が付かない心理状態によく襲われ、酔いどれ天の邪鬼の思考回路は極めて気まぐれときた。なかなか仕事に集中できず、夜な夜な掃除を始めることだって珍しくない。こうして文章を書いている瞬間も、手が勝手にキーボードを叩いている。むしろ思考分析は、既に生じた思考を成熟させていく過程で重要となろう。思考するとは、脳が時間を再編成している過程を言うのであろうか...
理性も、知性も、人間の考えるという行為はどれも同格で、すべてが感覚的で生理的と言えばそうかもしれない。確信!とは、どういうことか?そんなものは幻想か?信じたいという単なる願望か?思い込みの強いという生理的な本性を踏まえた上で、確信の力を削ぐことができれば、嫌いな分野や他の学問にも多少なりと耳を傾けることができるやもしれん...
「無知ではなく、無知に無知なことが、知識の死である。」... アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド

1. 既知感 "feeling of knowing..."
本書には、「既知感」という用語が散りばめられるが、翻訳者岩坂彰氏が訳語として選んだ造語だそうな。この語には、既視感との類似性を感じさせる。知識のデジャブか。いや、感覚や情動のデジャブか。岩坂氏はこう書いている。
「翻訳に起因する弱点を超えた強さが、本書には確かに感じられる。それは、私の神経系の隠れ層の委員会で、理論面への不満票よりも、著者の真摯な問題意識への共感票が多かったからだろう。」
合理性には、人間を超えたレベルでの合理性と、個人における精神的な合理性とがある。物事を知っている!と感覚的に捉えることが、いかに安心感を与えてくれることか。逆に、知らない!ということが、いかに不安にさせることか。
人がモノを知っている時、それは知識と呼ばれる。何かを知っていると自覚できる状態とは、知識と既知感が合わさった状態で、知識と既知感は別物というわけか。実際、知識を持っていても、それに気づかないことがあれば、知識を持っていなくても、知っていると思い込むことがある。既知感なしに知識を有する場合の例では、盲視現象を挙げている。
生きていく上で、確実に判断できるものがなくても、時には確信して行動することも必要であろう。不確実性に不快感を覚えても、これに耐えることを学ぶことも...
とはいえ、無意識の領域に、自己の本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的である。無意識の自己に、どう自己責任を押し付けようというのか。意識的思考は、認知の氷山の一角なのかも。
神経心理学では、情動知能(EQ: Emotional Intelligence Quotient)という用語をよく耳にする。心の知能指数と呼ばれるやつだ。この指標が、どれほどの客観性を担保できるのかは知らない。
ただ、思考の性質が、理性ではなく感覚で認知するとすれば、おそらく理性も感覚で認知するのだろうが、心のどこかに歯止めとなる感覚が必要となる。そして、心のモニタシステムもまた感覚ということになろう。自分の限界を認知できることも自己の能力ではあるが、この能力もまた感覚ということになろう。知識を身にまとうだけでは不十分だということか...
「無神論を唱えるある知人に、実はかつてペンテコステ派の再生運動(情緒的、神秘的、超自然的な宗教経験を重視するキリスト教内部の宗教運動)のメンバーだったと、こっそり打ち明けられたことがある。彼の再生運動と無神論的な思考とが、同じような遺伝的要因から生じて、どのように正反対の結論に至ったかは、さほど想像力を働かせなくとも理解できる。」

2. 確信という依存症
本書は、人間の本能には、信仰感、目的感、意味感が必要だという。世間では、正確性よりも正確感が重んじられる。人生の意味や目的が本当に必要なのではない。意味感や目的感に浸りたいだけだ。真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。本当に自己存在に意義を求めているのではない。存在感を噛み締めたいだけだ。正義感に燃えては批判癖がつき、高い倫理観を求めては意地悪癖がつき、理性や知性までもストレス解消の手先となる。人間ってやつは、まったく感覚依存症ときた。おまけに、これらの感覚は、いつも見返りをねだってやがる。
思考が感覚に支配されるからには、そこには必ずバイアスがかかる。自己存在を正当化しようという意志のバイアスが。このバイアスが無意識の領域から発しているとすれば、やはり制御不能ということか。確信するという心理状態は、これらの感覚を後ろ盾にしなければ、ありえないということか。
本当の自由なんぞ、この世にありはしない。あるのは自由感だけだ。あるのは自己満足感だけだ。そして、この感覚が精神的合理性となり、これに客観性がほんの少し加わった時、確信という強い心理状態へ導かれる。確信への自問は、自我を相手取るだけに手強い...
「自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に見て依存症と似たところがあるのではないだろうか。遺伝的な要因も含めて。自分が正しいことを何としても証明してみせようと頑張る人を端から見ると、追求している問題よりも最終的な答えから多くの快感を得ているように思える。彼らは、複雑な社会問題にも、映画や小説のはっきりしない結末にも、これですべて決まり、という解決策を求める。常に決定的な結論を求めるあまり、最悪の依存症患者にも劣らないほど強迫的に追い立てられているように見えることも少なくない。おそらく、実際そうなのだろう。知ったかぶりという性格特性も、快い既知感への依存症とみることはできないだろうか。」

3. プラセボ効果とコタール症候群
プラセボ効果は、手術をしたことにしたり、効かない薬を与えたりで、治ったと思い込ませる偽りの治療法である。実際、絶望的な病状に対して何も施していないのに、患者は完全に治ったと信じて劇的に回復させる事例もあると聞く。すべては気の持ちよう... と言うが、そこまで確信できる根拠とは。信じる者は救われる!というのもあながち嘘ではなさそうだ。ちなみに、「信者」と書いて「儲かる!」となる。
コタール症候群は、何も現実的に感じられない死人も同然といった精神状態に陥る、ある種の否定妄想である。自分を死人も同然と定義付け、死んだ人間を治療しても意味がないとして、あらゆる治療を拒否する。心臓の鼓動を感じても、それだけでは生きた証にならないというわけである。そして、ある患者の言葉がなんとも印象的である。
「死んでいるということのほうが、生きていることを示すどんな反証よりも、現実的に感じられる...」