2013-08-25

"法律(上/下)" プラトン 著

著作「国家」では、国の在り方についての理念が論じられた。ここでは、法や制度についての立法の在り方が論じられる。理論を裏付けるものは実践である。人間精神や人間社会ってやつは、試行実験によってのみ育まれるであろう。まずは具体的に行動を起こすことだ。真理への道は険しく、たとえ永遠に到達できないと認めつつも...
著作「法律」は、「第七書簡」、「第八書簡」と並んで、最晩年の作品と推測されるそうな。プラトンは、これを未定稿のまま残し、書きながら死んでいったという。いつも気の抜けない彼の対話篇だが、この作品に関しては時折あくびの出る場面がある。理念を語る時はその抽象論争が読み物として面白いが、法律の条文を語るとなるとやや退屈気味。対話というより儀式じみた国会討論に近いような。歳をとると形式じみたり、理屈っぽくなるのかは知らんが、なんとなく説教じみて聞こえる。法を実践的に記述するということは、犯罪の種類を具体的に記述することになり、当然ながら罰則にまで踏み込むことになる。そんなものは、当事者でもない限り退屈するものよ。そして、いかにもダーティハリーが吐きそうな台詞をつぶやくのであった。ドスの利いた声で... 法律なんてものは、都合が悪くなった奴が利用するためにあるのさ!

プラトンはあくまで対話篇にこだわる。それは、哲学問答こそが真理へ導く手段として、最も近道だと考えたからであろう。だが、論議が精神に及ぶと、芸術的あるいは直感的にならざるをえない。
さて、最も人間味のある感情とやらを、論理で記述することは可能であろうか?それは主観を客観で記述することを意味し、ひいては、人類の普遍的な価値観とはいかなるものかを問うことになろう。集団生活を営むには、共通観念のようなものが必要である。それは誰もが納得できるもので、古くは掟と呼ばれた。共同社会の秩序は、生命、身体、財産の保護が前提され、掟はこれらの権利を保証するとともに、掟を破った者への処罰によって実践されてきた。だが、そこに感情が癒着すると、偏見に満ちた魔女狩りの類いが生じ、法廷はたちまち集団リンチの場と化す。多数決の原理とは脆いもので、冷静な眼を持つ者が圧倒的多数でなければ簡単に崩壊する。
そして、いつの時代も、立法者や法の番人には、いかなる人物がその任に就くべきか?が問われてきた。古くは、より経験を積んだ長老がその役割を演じ、今では、学問に精進した、より知性や理性の認められた者が選ばれることになっている。ちなみに、ギリシャ語では、法律をノモス、知性をヌゥスと呼ぶそうな。音律が近いのは偶然ではあるまい。
法律は論理的弱点を慢性的に抱えているため、条文の解釈では裁判官にある程度の自由裁量を認めざるを得ない。しかし、立法とその解釈の双方において、暴走を抑止する手段を人格だけに頼ることができようか。法律には、犯罪を規定するだけでは不十分で、権力を制限する作用が求められる。人間が主観の奴隷であり続けるならば、社会における客観性の実践では、第三者の眼に頼るぐらいであろうか。
本書が、法に携わる立場を、立法者、司る者、執行する者で論じられるあたりは、三権分立らしき構想を垣間見ることができる。とはいえ、警察力のような強制や脅迫を導入したところで、それらの職務が能動的な動機によらなければ作用しないだろう。そこで、プラトンはまずもって、「己に克つ!」という動機を掲げる。そして、法律の目的は、善き国家建設のための四つの徳「思慮(知恵)、勇気、節制、正義」を実践することにあるとしている。多数の不正者が結束し、少数の正しい者を暴力的に隷属させるとしたら、その国家は己に負けた悪しき国家ということになる。プラトンの主張する政治の術とは、民衆一人一人を高めようとする施策ということになろうか。それでも、国粋主義的な発言も目立つが、そのあたりは時代感覚の違いとして眺めている。

ところで、この対話篇には珍しくソクラテスが登場しない。何の文献か忘れたが、ソクラテスが記述を残さなかったのは言葉の持つ暴走性に気づいていたから、という説を読んだことがある。後世、欠席裁判を強いられるのを嫌ったのかもしれない。だが、実践を追求するには、理想観念だけでは足りない。実際、師ソクラテスは正義の下で死刑判決を喰らった。国家の狂気を阻むものがあるとすれば、それは何であろうか?知性や理性といった個人の能力よりも、揺るぎのない掟に縋るしかないということか?泣いて馬謖を斬る!とはそういうことであろう。理念から実践への飛躍によって、ついに師からの脱却を宣言したのか?
しかしながら、実践にもすぐさま限界が訪れる。細かく長ったらしく規定したところで、法の網をかいくぐる輩は後を絶たない。政治家どもが極めて黒っぽい灰色の領域を徘徊するのは、法律の限界実験でもしているのだろう。そして、法律書はますます膨大となり、理性を失った歴史を刻んでいく。
では、最後の砦となりうるものとは何であろうか?数学を愛したプラトンもまた、神を持ち出さずにはいられない。人間のこしらえるものが完全であるはずがないのだから、常に検証を怠らず、時代に適合した修正を加えていかなければならないと唱えている。しかし、法律がゼウスをはじめとする神々の手によって導かれると言ってしまえば、それを宗教レベルにまで崇める輩が現れ、人間には修正することすらできない!ということになる。ただ救いは、プラトンの言う神々とは、宗教が唱える神とかなり印象が違うところである。少なくとも一神教ではないので、他の神々を否定するようなことはしない。神の定義は、人類の歴史の中で解釈を歪められてきた。ヘシオドスは、人間を神からの距離で五つの種族で分類した。黄金の種族、銀の種族、青銅の種族、英雄の種族、鉄の種族と。ヘシオドス時代以降の人間どもは、最も神から遠い鉄の種族とされる。そんな種族に神の姿が見えるはずもないし、神の存在や考えを勝手に規定すること自体が身の程知らずということになる。そこで、「神々」を「真理の数々」あるいは「多様な真理」と置き換えて読むと、見事な宇宙論が映し出される。そう、真理の探求を怠るな... 法の支配が真理の支配となるまで... と。

1. 望ましい国制とは
物語は、クレテ島のある地域にペロボネソス地方から入植者を集めて国家を建設するとしたら... という議論から始まる。そして、国家建設の過程をシミュレーションすると、最も重要なのはいかに法を定めるか... という展開になる。プラトンは「国家」で、国の在り様を四つに分類し、クレテとスパルタのものを最も高貴とし、次いで民主制、寡占制、独裁制の順に評した。その見解は、登場人物に顕れている。アテナイからの客人に、クレテ人のクレイニアスとラケダイモン(スパルタ)人のメギロスを招くという構成。
スパルタは、民主制を基本としながら君主的な面を持ち合わせていて、終身の王制が健在でありながら、王の権力までも支配する法律があるという。王が率先して法律に従わなければ、民衆から慕われないという風習があるようだ。
「法律が支配者の主人になり、支配者が法律の下僕となっているような国家」
映画「300(スリーハンドレッド)」によると、国王の自由に動かせる軍隊が、親衛隊の300人のみと法で制限されている。長老会と民会という二段階の決定機関に、監督権と司法権を有するエフォロイが選出されるといった分権制も確立されている。
一方、クレテは、祭祀が洞穴や山頂など野外で行われ、民衆の中に掟が慣習として浸透している。古代ギリシアでありがちな、アクロポリスといった神殿を中心に崇めるのではなく、法律は誰もが目にできる公共広場に刻まれ、法を慣習として根付かせようという風潮があるようだ。
プラトンは、国王までも支配する絶対的な法の存在と、法を尊重する慣習の面から、両国の国家モデルを持ち出す。尚、クレテとスパルタの二つの国制は、ドーリア人の共通の伝統の上に立ち、兄弟の法を持つとされ、当時は評判の良いものとされていたそうな。
しかしながら、戦争に重点を置き過ぎるために、共同食事や体育制度を偏重させていると批判している。勇気の徳は必要だが、それを崇め過ぎるのも危険だとわけか。
「戦争に関する事柄を目的として平和の事柄を立法するより、むしろ平和を目的として、戦争に関する事柄を立法するのでないかぎりは...」
そして、国家モデルの議論は、民主制と独裁制の混合制に及ぶ。それは、アテナイの民主制が過度の自由であることと、ペルシアの独裁制が過度の僭主であることへの批判から始まり、土地所有や共同生活の風習はスパルタのものから、官職などの選出方法はアテナイのものから借用するといった形で展開し、更に、アテナイの裁判制度から三段階の審議法を導入していく。
「国全体が均質で釣り合いがとれているということは、徳にとって、極端よりもはるかに勝っている。」
おそらく、真の君主による独裁制であれば、限りなく民主制に近い状況になるのだろう。君主の下では多種多様な民衆の価値観が尊重されるだろうし、そんな君主を選択できる民衆も節度を持った自由を実践するだろうから。支配する側も支配される側も、共に意識を高めなければならないというわけか。そりゃ、社会が悪い!政治が悪い!あいつが悪い!などと何もかも他人のせいにすれば楽よ。

2. 法律の役割と教育の位置づけ
「総じて、不正を憎んで正義を愛するようにする、あるいは少なくとも正義を憎まないようにする何らかの手だてがあるなら、そのようにやってもよい。」
誰もが正義を愛するならば、法律なんて必要ないのかもしれない。だが、正義観念が多様だから困ったことになる。法律が間違っている、あるいは弱点を抱えていると分かっていても、それを執行することが正義だとするならば、少なくとも正義を憎まないように配慮する必要がある。まさにそれが法律のなすべき仕事だという。
恐怖心を与えて破廉恥や不正や快楽と戦わせるという意識は受動的ではあるが、現実に法律はそういう効果を持っている。人間は誰しも、ちょっと悪人なのだろう。そして、法律の閾値を越えた悪人も少数ながらいる。そして、法律は犯罪や罰則を規定することが中心になる。同じ罪でも、故意か過失かで大きな違いが生じる。偶然殺人を犯した者を、計画殺人と同じには扱えない。動機までも盛り込めば、法律は大量の退屈品となろう。
本書も、法律が長ったらしくなっても驚くにあたらないという。とはいえ、いくら法で厳しく規定したところで、いくら立派な条文で記述したところで、それが慣習とならなければ、精神の内に正義の観念は生じないだろう。成文法が慣習法となりうるか?という議論は現在でも盛んに行われる。そもそも、言葉にできない慣習とういうものがある。わざわざ条文にするまでもない常識というやつが。だが、常識から酷く逸脱する事例が現れれば、記述を必要とする。常識なんてものは時代とともに変化するもので、条文は無限化するようにできているのか?
「何ら不正を行なわない人間はたしかに尊敬に値するが、不正を行なう者に不正行為を許さない者は、前者よりも倍以上に尊敬に値する。」
そこで、意識改革の手段として、法律で規定する教育の在り方にも及ぶ。義務教育の意義のようなものが。教材に対しての批判も展開されるが、いつの時代も教育者が制作するものは奇妙なものが多いということのようだ。養育と教育は、法律で厳しく規制するよりも、称賛や非難によって導くことが肝要で、勧告による方が適当であるとしている。しかしながら、道徳は教えられるものなのか?と問うたのはプラトン自身ではなかったか...

3. 平等と公平
古代ギリシアには「平等は友情を生む」という諺があるそうな。だが、平等には二種類あり、その二つはまったく正反対の性格を持つという。そして、栄誉や財産を簡単に人数割りするのは簡単に導入できるが、尺度や重みといった評価がなければ、真の平等は実践できないとしている。個人に備わった能力、善悪の価値の違いがあることを、評価せねば。不当な格差があるならば、不当な平等もあることを、指摘している。幸運を必要とする平等は、できるだけ避けるべし。二つの平等は、均衡させる必要があると... そうなると、法律でできることと言えば、最低基準を規定することぐらいか。
また、経済の観点から世襲の弊害を論じているあたりは、なかなか!よほどの修行を積まないと、既得権益に固執する意識を排除することはできまい。世襲化や官僚化が人間社会の本質であるならば、イデアなどという原型を保つこともできまい。そこで、財産階級を四つに定め、土地の分配や所有財産の制限と、それぞれの階級に責任を分配している。しかも、階級が固定化されることは平等に反するとし、その防御装置として税制、すなわち所得税の配分や相続税が検討される。階級毎に、土地の分配や所有財産の制限を設け、責任の重さを課し、能力によって階級間を自然移動できる仕掛けが必要というわけである。平等と公平は似て非なるもの。結果的に、個人の財産は公共財産とされるわけだが、共産主義的な搾取とはまったく異質である。
さらに、男女平等の教育改革が唱えられる。こちらは、現代感覚からすると、ちと抵抗があるが。女性が自分の家庭の幸せしか顧みないことを嘆き、国家のことを考えさせるために教育が必要であるとしている。だが、社会的地位までも平等にせよという意味ではなさそうである。男だけを法律で監視し女には欲求を剥き出しにさせているために、息子の命を尊び過ぎ、侵略に対しては国の誇りを放棄して、隷属することを望むという。そして、男女の区別なく、馬術や武術の訓練をするべきだとしている。おまけに、政治指導者ともなると妻を共有し、すべてを国家に捧げよ!とまで言っている。それこそ徳の偏重であろうに...

4. 神学論と「夜明けの会議」
第10巻には神学論が展開され、歴史的にも貴重なものらしい。不敬罪の刑罰が規定されるが、まさに師ソクラテスが不敬罪に問われた。その悔しが滲み出ている。
人に仕えたことのない者は、称賛に値する主人にはなれないという。そして、立派に支配することよりも立派に仕えることを誇りにすべきであって、法律に仕えることは神々への奉仕のつもりで仕えよと。ただ、仕えるべき主人もいれば、仕えるべきでない主人もいることを付け加えておこう。
また、無神論の誤った考え方を三つ挙げている。一つは、神々が存在しないと考えること。二つは、神々は存在するが人間には無関心であると考えること。三つは、犠牲や祈願によって神々の機嫌がとれると考えること。プラトンは、こうした考え方を反駁する上で、魂が物質より先んずる存在であるとしている。魂を自然物とし、自然に適った産物こそが優越するというわけか。そして、神々が人間に無関心でないことを論じ、その配慮は全宇宙にまで及ぶとしている。そもそもの本書の目的は、この不敬罪に対する法律を、主目的に位置づけているようだ。
しかし、唯物論的な自然主義のような考え方が、科学的思考を発展させてきたのも確かだし、魂が自然物かどうかは別にして、その魂がこしらえる法律は、どう見たって人工物にしか見えんよ。人間もまた自然物と言えば、そうなんだけど。神が自然物なら悪魔も自然物ってか?百歩譲って善のイデアが魂の自然の姿だとして、魂が善のイデアに回帰しなければ、法律をこしらえることもできないというのか?あるいは、学問によって善のイデアへ導かれた者だけが、立法者たる資格があるとでもいうのか?ついでに、能動的な節制者こそが、自然の魂の持ち主とでもいうのか?んー...そうかもしれん。
では、そんな立法者の資格を持つ者は、この世にどれだけいるというのか?私がこの世を良くしてあげよう!といった類いの人間ではなさそうだが。おいらのような無神論者であっても、絶対的な存在のようなものが、なんとなくあるような気がする。神と呼ぶよりは、真理や宇宙法則と言った方がよさそうである。神の存在を人間の都合に合わせようとするから、擬人化してしまう。信じる者は救われる!なんてやるから思考を停止させる。能動的な動機によって自ら善へ到達することを、神と呼ぶかは知らんが、プラトンはそう言っているように映る。
本書の最終的なテーマは、立法が神聖なものとなりうるか?ということを問うているのだろう。この立法する神的な会議、すなわち、最高の役人たちからなる会議を、「夜明け前の会議」と呼んで締めくくる。ただし、この世に夜明けが来るのかは知らん。

2013-08-18

"国家(上/下)" プラトン 著

プラトンの対話篇を読んでいると、いつも思うことがある。それは、独創的な記述とはどういうものか?といったことである。自ら編み出した思考プロセスだと自信を持っていても、古典を読む度に似たような思考に出会う。一瞬がっかりさせられるものの、その出会いが妙に心地良く、たまらない...
あらゆる学問において、偉大な哲学書群を基に分析を進めながら、いかにも進化を遂げているかのように見せる。しかし、いくら体系化やら形式化やらを強調したところで、数学のそれとは比べものにならない。むしろ、分かりやすく整理されている、うまくまとめられている、と言った方がよさそうか。なるほど、学術とは、学問の見栄えの術というわけか。
その点、プラトンは極めて文学的で物語風であるために、冗長的ではあるけれども、見事なほど思考プロセスを体現してくれる。そう、考え方ってやつだ。精神の動きを記述するという意味で、現代の書にこれほどのものを見出すことができようか。なんといっても哲学論議の醍醐味は、対話の論理的展開にある。言葉の論理に、徐々に追い詰められ、仕舞いには口が封じられ、いつの間にか最初の立場と反対のことを主張していたりする。隙のない論理から導かれる結論であれば、たとえ自己否定に陥っても、心地よくなれるという寸法よ。真理とは、自我を泥酔させ、自ら身を滅ぼす純米酒のごときものであろうか。自虐的楽観主義でもなけば、哲学なんてやってられんよ。

今日、独創的な着想を編み出した者よりも、それを利用して経済的に成功した者がもてはやされる。かつて発明こそが花形であったが、いまや商業戦略の裏方に回る。ただ、過程より結果が評価されるのは、昔から変わらない。人々は長期的な視野よりも目先の成果を求め、そうした成功事例に群がる。人間ってやつは、よほど面倒臭がり屋らしい。論文や報告書の類いでは、簡潔な結果説明が体系化や形式化と呼ばれ、高等な学術に位置づけられる。しかし、ヒューリスティックな方法で苦し紛れに編み出した記述を、真理と混同してしまうのでは本末転倒。いつの時代にも、惚れ惚れするような思考プロセスを残し、人柱となってきた研究者たちがいる。科学者や数学者たちは、こういう存在の大切さを知っているのだろう。彼らの中にプラトン贔屓が多いのもうなずける。それは、ガリレオの対話篇などに脈々と受け継がれる。
ところで、人間の本来の姿とは、どういうものであろうか?デカルト風に言えば、思惟することにありそうか。だとすると、知識の抽象度を高めることは、本質により近いものを思考するための布石となろう。利便性によって余計な作業を機械化し、自動化することで、人間のやるべき事に傾注することができる。ネット社会ともなれば、情報検索の利便性が思考の手助けをしてくれる。どんな学問であれ、大概の専門用語の解説が検索にひっかかり、学問分野の隔たりを狭めてくれる。
その一方で、回りくどい解説を嫌い、分かりやすさを崇める傾向がある。おまけに、自ら思考するよりも、誰かが思考した結果を検索する方がずっと効率的だ。すると人物評価の基準も変わってくる。とろとろ思考する人よりも、さっさと検索する人の方が価値が高いことに。猿真似をし、それを加工し、編集することの方がずっと優位に立てる社会とは、これいかに?思惟するという地位は、仮想の空間において下層へ追いやられていく。
もし、人間が本来の姿を見失おうとしているとしたら、人間精神は本当に進化しているのだろうか?ある学術研究によると人類の進化は五千年前にとっくに終焉したという見解もあるが、あながち嘘とは言いきれまい。実際、あらゆる精神思考は、プラトンやアリストテレスの時代に遡れば、大方説明がつきそうだし、多少の修正を加えるにしても、少なくとも思考の材料は大方揃っている。それは、どういう時代かと言えば... 記述が残されるようになった時代というだけのことかもしれん。ソクラテスが記述を残さなかったのは、言葉の持つ暴走性に気づいたからだという説がある。言葉が永遠に残されれば、後世の人々によって都合よく解釈され、欠席裁判を強いられる。プラトンが記述にこだわったのは、師匠への挑戦であったのか?思考プロセスを残せば、誤謬を犯すことはあるまいと。しかし、だ!記述を残してもなお、愚かな歴史は繰り返される。この有様をどう説明するのか?プラトン君!

1. ポリーテイア(国家)
ポリーテイアとは、ポリスの在り方、組織、制度、政体といった意味だそうな。プラトンは哲学者を愛智者とした。ひたすら知を愛し、自問に耽ること、これこそが真の幸福に導く道であると。しかし、師ソクラテスが国家の名において処刑されると、安穏と哲学をやっていればいいというものではないことを悟る。師の説いた「善く生きる」という正義の徳の実現には、人間の魂の在り方だけでは足らぬというのか?
狂気した国家の下では個人の幸福すら望めないとなれば、国家の原理を問わねばなるまい。ただ、善を語れば、悪を語るのは必定。民主制の在り方を問うには、自然発生的に生じる独裁制、すなわち独裁者としての人間の資質を問うことになる。どんなに優れた君主であれ、金と権力の前では盲目となるか、あるいは、君主であり続けても寿命には逆らえず、いずれ世襲制に染まる。善のイデアから生じるあらゆるものが、官僚化するのか、悪魔化するのかは知らんが、ひたすら知を愛し、自問して精神を検証し続けなければ原型を保つことすらできない。
そこで、プラトンは、国家の持つべき性質に「知恵、勇気、節制、正義」の四つの徳を導く。これらの徳が善のイデアから導かれるという思考プロセスは今更ではあるが。本書で注目したいのは、精神の動機では特に節制を重視し、正義を実践することが最高位に置かれることである。節制をわきまえた国家こそが真の繁栄をもたらすとするあたりは、プラトン流の中庸の原理とでも言おうか。そして、正義こそが人間を幸福にするものと結論づけている。正義をなすには、誰もが納得できる論理的説得が必要であり、法の原理はすべてここに帰着する。また節制は、法の罰則や警察の監視といった政治的強制から生じるものではなく、あくまでも能動的に生じるもの。ただし、過度な節制が卑屈となりやすいことを付け加えておこうか。
プラトンは、統治者に真理を探求する哲学者を据えることを提案している。したがって、本書は国家論というよりは、哲人統治論、あるいは論理的正義論とした方がよさそうか。だが、既に弁論術が盛んで大衆を動かす技術として君臨する時代、権力欲しさに論理武装して哲人になりすます者もいれば、正義が巧みな大演説によって評価される。ましてや、狂気した民主国家ではヒトラーだって選出された。節制という徳は、目立ちたがり屋と相反する資質でもある。名誉を、大勢の人から支持されたいと焦がれることだと勘違いするような人物では無理な話か。プラトンも、社会風潮の力の大きさを認めているし、そんな環境下で真の哲学的資質が育ちにくいことも認めている。それでも、哲人統治は不可能ではないとし、具体的な教育プランまでも提示してくれる。国家建設の根幹は国民性を問うことにあり、その要は教育にあるというわけだ。しかし、人間に何か教えることができるのか?と疑問を投げかけたのはプラトン自身ではないか。まぁ、その問答はメノン君に任せるとして、ここでは一つ付け加えておこう。当時、プラトンの「国家」を読んだのは、一部の有識者や政治的指導者に限られていたことだろう。こうして一介の酔っ払いが読んでいるということは、学問の庶民化が進んでいることを意味している。プラトンは、民主制を機能させる上で国民全体が政治的意識を持たなければならないと説いているのだから、現代社会にその意志が受け継がれていると解釈できなくもない... とすれば、ちと強引であろうか...

2. 正義の実践
神は正義の人を見ておられる、というのは本当だろうか?実際、善き人に不運をもたらし、悪しき人に幸運をもたらす。実は、神は誰も見ていないということはないだろうか?自分でこしらえておきながら、失敗作には興味がない芸術家のように。人間の正義もさることながら、神の正義もあてにはできんようだ。
さて、政治の実践には、誰の利益になるか?という思惑が常に入り込む。国益のため!とは、政治屋のお好きな台詞だ。政治の実践が正義によって成り立つとすれば、正義もまたそれを実践する者の思惑によって成り立つことになる。しかも具体的に定義できなければ、実践の場では役に立たない。正義の実践は、妥協の中で模索され、不正が合法的に行われる。だから、個人の正義を発揮して脱税行為に及ぶのかは知らん。
どんな政治体制においても、優遇される人がいるということは、冷遇、酷遇される人がいるということを意味する。単純に愛智者を正義の人とすることも危険だ。悪行には悪知恵が入り込むのだから。法律家が法廷向きの正義の主張の仕方を教え、説得術や弁論術の教師も大盛況となれば、人間が不正よりも正義を選択するなど、どこに保証があるのか?法廷で勝利を重ねる弁護士の報酬が上がるとなると、どういう職業に就けば、不正を非難できる立場になれるというのか?正義の人が名誉を受けるということは、社会に正義の人が少ないということか?法の下では正義がなされるのは当然だ!と人々は考える。だが、人の判断も間違えば、法の判断も間違える。正義は必ずしも善から生じるものではない。
また、正義の人は節度ある発言しかしないものらしい。
「もし正義とは何かをほんとうに知りたいのなら、質問するほうにばかりまわって、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。」
一見正しそうな発言を集団が後押しすると、本当に正しい意見を抹殺し議論の柔軟性を失う恐れがある。賛成と叫ぶだけでも、そこそこの配慮が必要であろう。余計なことを喋るぐらいなら沈黙することか。こんなブログなんぞで、勝手気ままに発言すること自体が、無理性の上に、正義の欠片もない証であろうか...

3. 国の在り様
国制には、四つの種類があるという。まず、最も賞賛されるクレタやスパルタ風の国制、次に賞賛される寡頭制いわば貴族制。だが、いずれも多くの悪を孕んでいるとしている。これらを修正して、次に生じるのが民主制、さらに国家病として最悪なのが僭主独裁制であるとしている。他にも、世襲王権制や金で買われる王制などがあるが、いずれも四つの形態の中間に位置づけている。そして、人間の性格の種類も、ちょうど国制の種類と同じ数だけあるという。国制の在り方も、住人の性格によって生じるのが自然というわけか。
今日、民主制が崇められる傾向にあり、独裁制で慣れた住人に無理やり押し付けて、却って治安を悪化させる事例も多い。民主制を機能させる上でも市民性が鍵であることを、この時代にあって既に指摘されているのには驚かされる。人間には多種多様な性格と価値観が生じ、なによりも自由を求める性質があるように思える。となれば、人間社会には民主制が最も相性が良さそうに映る。だが、独裁制であっても、真の君主による統治であれば、おそらく民主制に近い体制になるだろう。君主であれば発言の自由を尊重するだろうから。もちろん、市民の側にも自由の概念を充分に理解した意識が求められる。そうした君主の時代が、プラトン以前の記録のない時代に存在したのだろうか?しかし、どんな君主にも寿命があり、継承されるうちに原型を留めることはできない。おそらく、どんな官僚的組織も、発足当初は美しく、希望に満ちた組織であったに違いない。既得権益の原理といったものは、欲望の基本原理としてある。
プラトンは、欲望の原理を権力欲と金銭欲に分け、国家の厄介事はこれらの欲が同時に結びついた時に生じるとしている。だから、支配階級に権力を与えて金銭を封じ、生産業者や商人に富を求める欲を認め、けして権力を与えてはならないと。ただし、過激な発言も目立つ。国家の下で財産を共有すべし!とするだけではなく、子供や妻までも共有すべし!と。プラトンの財産共有制は、多様性を否定しているではないか?共産主義的搾取を印象づける。おそらく偏重した所有意識が民衆を惑わすと考えたのだろうけど、そりゃ、弟子のアリストテレスに思いっきり批判されるわ。
それはさておき、民主制にも多くの弱点が含まれる。多種多様の価値観を認めるが故に、正義の判定基準として手っ取り早い多数決という手段が用いられるが、こいつが善にも悪にも作用する。したがって、国家建設の根幹は、絶対的多数として君臨する国民性を磨くことにほかならないというわけか。アイスキュロスの言葉を借りれば、こういうことだという。
「善き人と思われることではなく、善き人であることを望む。」
言うは易く、行うは難し!そりゃ、美、正、善といったものが具体的に定義できれば苦労せんよ。

4. 経済理論と教育理論
文明社会は交換の法則によってもたらされるという。互いの利益を尊重し、助け合いによって成り立つと。分相応以上に贅沢が満喫できるのも、交換社会の賜物である。そして、国家建設に役に立つ者とそうでない者を分類しながら、農業にせよ、手芸にせよ、仕事のために知恵と能力を持ちながらも、国家のことを気づかう人間でなければならないと説いている。人間は自分の愛するものを自然に気づかう。その精神が、国家に向けられた時、共同体が強固なものになると。国家に最善を気づかうとは、どうやら他人を思いやることらしい。奇妙な思考に憑かれて、偏重したナショナリズムに邁進しないよう注意したい。
また、富は、理をわきまえる者にとって最大の効用を持つとしている。
「人物が立派でも、貧乏していたら、老年はあまりらくではないし、また、人物が立派でなければ、金持ちになったからとて、安心自足することはけっしてないだろう。」
さて、ここで面白いことに気づく...
まず、「国家に役立つ」というところを「生産に役立つ」と置き換えたらどうだろう。なんと、アダム・スミスの「国富論」ではないか。
また、私有財産の議論は興味深い。金儲けをする人たちが優遇される社会ではなく、私有財産という概念を否定するあたりは、国家建設ではなによりも主権が優先されるということを語っているようにも思える。支配者たちは、金銀財宝、土地や大邸宅を所有し、およそ世間で幸福とされる条件を満たしている。にもかかわらず、国家の仕事となると見張り役として座っているだけで、国に喰わせてもらう立場ではないかと嘆いている。政治のできることと言えば、国全体ができるだけ幸福になるように仕向けるぐらいなものだとしている。これは、功利主義の掲げる「最大多数の最大幸福」の原理ではないか。
さらに、国家には様々な仕事があり、それらを三つの種族に区別している。金儲けを仕事とする種族、国家建設の補助役となる種族、守護者の種族。いわば、経済人、公務員、政府といったところか。彼らが本来の仕事に専念することこそ、正義にほかならいという。しかしながら、どんな種族にも欲望的部分と理知的部分が共存し、いかに一つの国としてまとめるかが問われる。理知的部分を担う仕事が、欲望的部分を担う仕事を監督指導するような社会システムを事例として挙げ、監督指導としての政府の役割が論じられている。ケインズは自由経済に対する政府介入の必要性を唱えたが、まさにそれではないか。
またさらに、国家の在り方を教育循環と結びつけている。
「国家のあり方というものは、いったんうまく動きはじめると、いわば循環的に成長しつづけて行くものだ。」
それは、教育と養育が維持されるからであって、自然的素質を国内に作り出し、優れた自然的素質が更なる教育と養育を高めていくからだとしている。教育を高めるとは、いわば教育への投資による経済循環を促進すること。ちっぽけな善が自己増殖して社会風潮を覆う可能性を示せば、資本の自己増殖の原理を教育論で語っているようにも映る。ただし、一旦逆に作用をはじめると、怠惰の自然増殖にもなることを付け加えておこう。
...こうした原理を、農夫の生活風景や結婚などの庶民的な生活を題材にしながら語られる様子は、ミクロ経済学的な視点で国家を論じている。プラトンは国家の基本原理を通じて、スミスやベンサムよりも二千年も先駆け、しかも経済理論を教育理論に置き換えて語っている、と解釈するのは行き過ぎであろうか...

5. 太陽、線分、洞窟の比喩
プラトンの太陽、線分、洞窟を用いた比喩は、歴史的に貴重な記述だそうな。ただ、あまりにも数学的なので、アリストテレスあたりが、数学のやりすぎ!と言いたくなるのも分かる。プラトン哲学には「万物の根源(アルケー)は数である」というピュタゴラスの思想が継承されている。
さて、非常に理解の難しいところではあるが、アル中ハイマー流に好き勝手に記述してみよう。
...
進化論的に言えば、あらゆる感覚器官は光合成のような化学反応を基本とし、太陽のもたらす光を拠り所にして発達してきた。何事も知るという行為には、まず見るということがある。美的感覚の多くは、視覚からの情報によってもたらされるが、視覚が適用できない場合は、他の感覚機能が研ぎ澄まされる。そして、知らぬ者を「盲人」と言ったり、希望の代名詞に「光がさす」と言ったりする。伝統的な宗教が光を重要な概念に位置づけてきたのも道理である。
プラトンは、見ることによって知られる可視界に対して、思惟によって知られる可知界が形成されるとしている。そして、光の直線性を線分で表現し、思惟する種族を別の線分で区別する。だが、それぞれの思惟する方向性は、一つの線分上に閉ざされている。三角形のような三つの線分は、本来の思考に対して角度を持つわけで、視点がずれているとでも言っているのか?おまけに、平行線などという永遠に思考が交わらないものもある。それはさておき、知性的思惟を直接知、悟性的思惟を間接知とし、それぞれを線分に割り当てると、平行線原理によって、自己の思惟を投影することもできる。なるほど、精神空間が幾何学空間にあるというのは本当かもしれない。それがユークリッド空間かは知らんが...
また、洞窟のような暗闇においては、人々は光明のある方向へ群がるという。太陽の光が照らせば、その方向は眩しくて見えないが、影の方向ならば、はっきりと形を見ることができる。だから、目が眩んで見定められないものよりも、目の前で見えるものを信じるというのか?つまり、群衆の中にあっては、真理と逆方向を見ているとでも?眩しい光ほど見定めるのは苦痛だし、真理を見定めることの難しさがここにあるというわけか。
さらに、目の混乱には二通りあるという。光から闇へ移された時に起こる混乱と、闇から光へ移された時に起こる混乱とが。魂にもこれとまったく同じことが起こり、見定めることができず、まごまごしている魂を見ても笑うな!と励ましてくれる。無知から知を得たとしても、新たな無知が見える。思惟するとは、無知と知を永遠に繰り返すことかもしれん。
しかしながら、人間には、自分よりも知らない者を馬鹿にする性質がある。障害者の身体の不自由さには寛容でいられるのに、政治屋どもの精神の不自由さにムカつくのはなぜか?それは、障害者が自分の欠陥を認めているのに対して、政治屋が自分の欠陥を認めないばかりか、人を蔑むからであろう。人が盲目であることを自覚することは極めて難しい。それは、自己存在を否定することにもなるのだから。視力のいい精神の持ち主とは、自己存在を否定してもなお、居心地のよい場所を知っているというのか?そうかもしれん...

6. げせない詩人批判
本書には、プラトンらしくない点が一つある。国家から詩人を追放しようと言わんばかりの意地悪な論調は、どうもげせない。詩人というのは、ホメロス風の吟遊詩人のことを指しているようだが、芸術に対して無理解というわけではなさそうである。実際、音楽や芸術や体育といったものを尊重している記述がある。音楽や芸術のしかるべき教育を受けた者は、欠陥のあるものや、美しくないものや、自然に生じていないものを、鋭敏かつ正当に感知でき、理に適っているかを見極めることができるとしている。なによりも哲学が文学的であり、この対話篇が見事な芸術作品として仕上がっているではないか。
となると、当時の吟遊詩人の社会的役割を想像せずにはいられない。おそらく哲学はあまり重視されず、叙事詩や抒情詩の方が圧倒的に影響力があったのだろう。詩人が、国制や国法が神々によって制定されたと唄えば、人間がそれを修正することは身の程知らずということになる。そんな迷信が民衆を惑わすとしたら。当時の吟遊詩人が、ホメロスの作風から酷く逸脱していったということであろうか?だとすると、数学を愛したプラトンの論調は納得できる。この解釈も、ちと強引であろうか...

2013-08-11

"国富論(上/下)" Adam Smith 著

正直言って、経済学は最も嫌いな学問に属す。しかし、独立するからには無視できない。株式会社というものを理解するには株式市場に参加するのが手っ取り早いと考えたりもしたが、学問の本線ではなさそうである。結局、値動きに惑わされ、夜な夜なファンダメンタルズに執着する始末。人間が金の前で盲目になるというのは本当らしい。十年以上経験して、ようやく長期投資が安定軌道に乗り、ストレスがなくなった。いや、鈍感になったのかもしれん。本当に必要なのは会計学や簿記の方であるが...
経済学に触れるなら、いつかはアダム・スミスという意識がどこかにある。正式名「国の豊かさの本質と原因についての研究」には、ユークリッドの「原論」やニュートンの「プリンキピア」と同じ香りがする、と言えばちと大袈裟か。スミス自身は経済学の父と呼ばれるものの、道徳哲学者として名声を博していたようである。
さて、「国富論」には多くの翻訳版があって、どれを選ぶかが悩ましい。立ち読みしていると、山岡洋一訳(日本経済新聞社出版社)の冒頭説明になんとなく惹かれる。
「既訳のある古典を翻訳する際には、既訳を参照し継承するのが翻訳者の使命である。」
そこには、竹内健二訳(改造文庫,1931 - 33年, 東京大学出版会,1969年)、気賀勘重訳(岩波文庫, 1926年)、大内兵衛訳(岩波文庫, 1940 - 44年)に学ぶ点が多い、とある。そして、原語と訳語を一対一で対応させていないという。アダム・スミスが用語を多様な意味で使っていることは、広く知られているそうな。一つの用語を多義的に用いたり、一つの概念をいくつもの同義語で表したりするのは、哲学書にありがちな趣向(酒肴)である。真理を探求すれば、言語の限界に挑むことになる。「国富論」もその例に漏れない。
また、歴史書としもなかなか。イングランドやオランダなど国力算出では、ウィリアム・ペティの「政治算術」を彷彿させる。金融業や手形の発達過程を考察するところは見物で、過剰な紙幣流通がリスクを高めることが既に指摘される。七年戦争で軍需景気に見舞われると、商業利益率が上昇し、企業家たちは無理してでも事業を拡大しようという誘惑に駆られる。特に、イングランド銀行とスコットランド銀行が手形を乱発し、逆振出の手口が横行する様子は、マネーサプライが増殖する仕掛けに通ずるものがある。尚、期待していた「神の見えざる手」という用語が見当たらない...

一般的に経済学の歴史は、たかだか二百年余りとされる。しかし、経済循環、すなわち交換に関する法則は、貨幣が発明された時代から模索されてきたはず。古代の記録には、高利貸しの存在や、都市国家の財政破綻を企てる貨幣偽造などの記述が残される。貨幣の発明以来、価値評価は仮想化へと邁進してきた。個人の能力は賃金で査定され、債権は現物価値を代替し、利息は将来価値を表し、あらゆる価値が貨幣換算される。人の命ですら。おまけに、電子マネーの登場で貨幣自体が曖昧な存在となった。実体価値と仮想価値の間に価格差が生じるということは、そこに金儲けの機会が訪れることを意味し、ここにサヤ取りの原理が生じる。
18世紀になって、経済学がようやく学問の地位を獲得したのは、歴史の偶然であろうか?大航海時代に発見された航路を武器に植民地貿易が盛んになると、商人の政治的圧力が増していく。商人が各国を往来するようになれば、どの地域でどんな品目の生産が有利であるかを知ることができる。情報力が国富にとって重要な位置づけとなり、商人活動が国の諜報機関として機能する。総合商社のような形態が生じたのも、この頃であろうか。ちなみに、総合商社の情報力が日本の高度成長時代を支えてきた。今は知らんが...
重商主義が旺盛な時代、商人の利益が最優先され、そこに宗教道徳が強く結びつくと、保護貿易どころか流通で不利とされる品目が全面禁止されたり、金利が厳しく制限される。その結果、密輸業者や闇金融が繁盛する。政府が介入すると様々な価格が歪められるのは、今も同じか。
「国王や閣僚が民間人の家計を監視し、贅沢禁止法や贅沢品輸入の禁止によって民間人の支出を抑制しようとするのは、まったく不適切だし厚顔無恥である。国王と閣僚はつねに例外なく、社会のなかで最大の浪費家である。」
政府が経済に強く関与する時代、スミスは長期的な安定価値を見出す方法として自由貿易を唱える。価値は自然の秩序によって創出されるもので、人間の道徳観や宗教観などで決定できるものではないと。そして、国富とは、金銀や貨幣の収集量で決まるものではなく、あくまでも労働生産にあることを強調し、生産に役立つ労働者数とそうでない労働者数の比率から持論を展開する。
「どの国でも、その国の国民が年間に行う労働こそが、生活の必需品として、生活を豊かにする利便品として、国民が年間に消費するもののすべてを生み出す源泉である。」
労働に価値を求めるあたりは、マルクスに影響を与えることになる。
また、政策では、消費者の利益が無視され、生産者の利益ばかりが優先されると批判し、政府の役割についても論じている。それは、国防や司法の観点から主権と公平を唱え、公共事業の在り方では教育に主眼を置き、市場を通じて供給できない公共財の供給のみに専念すべきであるというもの。これが税金を搾取する正当性というものか。
さて、国富論が自由放任主義の礎になっているのは確か。経済人がよく口にする人間の行動原理に、利益の最大化や最大効用を求めるといったものがあるが、それは本当だろうか?そこそこ幸せであればいい!というのが多くの人々の本音ではあるまいか?実際、スミスも国富のために生産効率や資本投下効率を最大限高めることを唱えている。だが、ここで主張する自由放任と、現在の金融屋たちが主張する自由放任では、かなり乖離があるように映る。そもそも金融屋とは、価値の乖離を煽るのがお好きな人種か。金融工学にしても、価値の真理を探求すると称しながらサヤ取りの研究にご執心のようだし、ノーベル賞級の経済学者たちが国際的金融危機を招くようでは、学問になりきれていないと批判されても仕方があるまい。あの世でスミスは、経済学者と呼ばれることに抵抗を感じているに違いない。

ところで、市場が不完全であることは明らかだが、これほど簡単に経済危機を引き起こすものであろうか?人間の多様な価値観の集合体とは、ここまで信用ならぬものであろうか?あるいは、市場参加者が経済人の価値観に偏っているからであろうか?
スミスの時代、貿易商人は政府の後ろ盾によって資本を右から左に移動させるだけで膨大な差益を獲得した。では、現在は?金融屋たちは価値評価が不可能なほど複雑なデリバティブ商品を編み出し、合法的にサヤ取りを仕掛ける。一方で、金融屋の投機行為が経済を破壊するとはいえ、公的資金の注入による回復力は恐ろしく速い。なるほど、金融屋の無責任性向と政府の搾取性向を観察すれば、国家の経済力を計測できるという寸法か。これを国富と言うかは知らんが...
人間社会の秩序は、経済人と政治屋の欲望の相殺によって維持されるものであろうか?スミスの唱える「自然価格の原理」は、そんなものではなさそうである。ちなみに、ケインズは「一般理論」の冒頭で、それを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい...といった趣旨を語っていた。市場原理に人間の普遍的価値観を求めるならば、様々な価値観の持ち主が市場に参入する必要があろう。しかしながら、証券取引所が怪物の棲家に映る人も少なくないようだ。理性者には禁断の領域であろうか?実は、市場の根本的な矛盾はこのあたりにあるのではなかろうか。いや、人は皆、金の前では盲目になるだけのことよ。

1. 分業と資本蓄積
スミスが国富論で分業の概念を持ちだしたのは、有名だそうな。未開の社会では、分業はなく、交換はめったに行われず、自分の必要とするものを自分で獲得するという。近代社会では、生産において専門の細分化を促進し、社会の総生産の下で役割分担がなされる。ただ、他の生産に対して依存度を高め、自立性を失う弱点を浮き彫りにさせる。本当に社会は高度化しているのだろうか?実際には、精神的自立と生産的依存の双方が求められるのだろう。
さて、分業は市場の大きさによって制約されるという。貨幣の役割は、商品交換を円滑にして市場を拡大させることであり、生産性を高めることにある。だが、分業が交換を前提とすれば、交換比率、すなわち価格決定の問題が生じる。かつて、労働力こそ生産性であったが、生産に資本が使用されるようになると、労働者も資本の一部に成り下がる。おまけに、土地がすべて私有財産になると、地主に地代を支払う仕組みができ、自己資本を投じる企業家に利益をもたらす。労働者はますます生産のための部品となり、単純労働がロボットに置き換われば、生産に寄与する機会までも失われていく。
生産競争が激化すると、企業努力によって分業効率を高め、やがて独占が生じるという懸念がある。しかし、スミスは、生産は増大の一途を辿るわけではなく、需要の制約が市場の拡大を自然に抑制すると反論している。費用が安くなれば、商品が安くなり、消費者にとってありがたい事だから、OKってか。だとしても、低価格競争が激化すれば、労働賃金も下がり、市場の制約によってパイの争奪戦となろう。その挙句に、やはり独占が生じることになるのだけど...
分業の概念で最も注目したいのは、資本蓄積との関係を論じているところである。分業社会では、個人の欲望の大部分は、生産物と交換することによって入手するという。生産がもたれ合いで行われるとすれば、互いの生産計画が重要となる。生産財が予定どおりに仕入れることができなければ、計画が破綻し、生産効率はむしろ低下するだろう。労働生産物が完成するまで交換できないのであれば、絶えず交換できる資材を蓄積しておかなければ日々の生活が成り立たない。なるほど、資本蓄積が進んで、はじめて分業が可能になるというわけか。

2. 生産的労働と非生産的労働
生産的労働という概念は、生産過程において生じるものだが、資本蓄積によって生じるということは言えるかもしれない。では、非生産的労働とは、資本と交換されないものを言うのか?賃金労働者が自己の価値を補填するだけでなく、新たな価値を生み出さない限り、非生産的ということか?命令に従うだけなら奴隷と同じで、そんな労働は消費と同じということか?生産性に対して能動的か受動的か、という見方はできるかもしれない。それでも、非生産的労働が不要ということにならない。消費があるから生産があるのであって、いわば両輪を成しているのだから。スミスが問題視しているのは、その割合である。
また、貯蓄率の上昇が経済成長率を高めるとしている。しかし、あまりにも貯蓄率が高いと、どうだろうか?貯蓄は生産性に向かって、すなわち資本投下されてはじめて意味がある。まさに今、日本経済の閉塞感の要因となっている。資金過剰に陥るのでは、むしろ弊害となろう。生産的な使い道が分からず、無理やり資金を使えば、それこそ浪費の山。貯蓄率、成長率、利潤率、利率、人口など経済的要素が過剰になると、ろくな事にはならないようである。それは、土地や地球資源が限られ、自然環境の修復能力に限りがある、というのが根本にあるからであろうか?一方で、人間の富に対する欲望に限りがないというのは、自然学的にもアンバランスに映る。

3. 農業と工業の優位性
資本投下は、農業、工業、国内商業、国際貿易の順にあるべきだとし、これが豊かさへの自然の道筋だという。実際には、逆順の事例がわんさとあるが...
農業人口の多い国では、鷹揚さ、率直さ、人付き合いの良さが、自然に国民性の一部にあり、商工業人口の多い国では、偏狭さ、計算高さ、利己心、人付き合いを嫌う性格が、自然に国民性の一部にあるという。ただ、人付き合いの良さが、逆に異端的な着想を毛嫌いし、村八分にする冷徹な面も露わにする。対して、余計な人付き合いの排除が、くだらない感情論を排除しようという考えにもなる。どちらも一長一短で、どちらが健全とも言えないし、好みの問題でもあろう。こうした性格の違いが、都市部と農村部の対立として見られる。重農主義が倹約と節約を本分とし、その精神は消費や贅沢と相反する。自由と平等のどちらを優先するかと言えば、重商主義は自由を、重農主義は平等を選択する傾向にあろうか。
それはさておき、せっかく資本による生産効率が国富につながるとしながら、工業生産よりも農業生産の方が優位だとするのは合点がいかない。確かに、人間が生きるための根幹に食糧がある。そこで、農業を産業基盤に持ちながら、工業が発展することが望ましいとしている点は、妙に説得力がある。ただその要因で、農業では労働者だけでなく家畜も労働に寄与し、自然までも働くとしているのも奇妙で、宗教的ですらある。なによりも天候は気まぐれだし、自然災害に弱い。家畜や土地を労働資本に含めるならば、工業においても機械設備や生産技術も労働資本に含めるべきであろう。帝国主義が発達する背景では国力を軍事力で換算し、工業力こそが国力という見方がなされたであろうに。付加価値の高さでは、工業製品が圧倒してきたはず。
では、農業の生産効率が工業と同等であれば、どうだろうか?それこそ食糧を基盤にする農業に優位性があるかもしれない。ただ、人間の喰う量には限りがあるが、贅沢品に求める付加価値には限りがない。人間は仮想空間にまで利便性を追い求める。ならば、食糧を仮想空間に置けばどうだろうか?食った気になれれば、無限の幸福を感じることができるかもしれない。やはり、幸福とは幻想であったか。経済学が実体から目を背け、仮想価値に邁進するのも道理というものか...

4. 金融業の発達と手形の乱発
銀行が過剰な貨幣発行を抑制すると、事業者は望むだけの信用供与ができなくなり、手形の振出しと逆振出しという巧みな方法を編み出したという。

例えば...
エディンバラの商人AがロンドンのBを支払人とし、期間二ヶ月の手形を振り出す。BはAに何の債務もない。それでも、Aの手形を引き受けることに同意し、支払い期日前にAを支払人として同じ金額に利子と手数料を上乗せして、同じく期間二ヶ月の手形を振り出すことを条件にする。Bは最初の二ヶ月期間が終わる前にAを支払い人とし、やはり期間二ヶ月の手形を振り出す。AはBを支払人にした手形を満期二ヶ月前にエディンバラの銀行にもっていき、割り引いてスコットランドの銀行紙幣を受け取る。BはAを支払人にした手形を満期二ヶ月前にイングランド銀行にもっていき、割り引いてスコットランドの銀行紙幣を受け取る。
... こうして、次から次に満期前に手形を乱発することによって利子と手数料を上乗せしていき、増殖させるという仕掛け。まさに流通マジック!だが、ここには乗数理論の原理が含まれている。

危険度を察知した銀行家たちは自己防衛に走るのは当然で、信用ある大銀行ですら貸し渋るようになる。互いに喧騒と窮迫。スコットランド銀行は破綻し、その窮状を解消することを目的に掲げた銀行が設立されたという。いつのまにか、ぐるぐる回った融通手形が互いの依存リスクを高め、次々に銀行群を巻き込んでいく様子は、リーマンショックで演じた投資銀行家たちの姿と重なる。金融危機は、まさに信用崩壊によってもたらされてきた。
「銀行家がある金額以下の額面で銀行券や持参人払い手形を発行することを禁止され、発行した銀行券について提示されしだい、ただちに無条件に支払いを行うよう義務づけられていれば、銀行業務のその他の面で完全な自由が認められていても、公共の安全を損なうことはない。」
イングランド銀行は、ヨーロッパ最大の紙幣発行銀行という歴史的な役割を担っていることにも言及される。そして、銀行の役割は、資本を収集することではなく、資本を生産性に向かわせることにあると指摘している。かつては、企業家たちが発端になっていたことを、現在では、金融屋自ら複雑な金融商品を開発して価値を欺瞞する。金融業界は、本来の責務である価値評価の技術を発達させるのではなく、価値を欺瞞する巧妙な技術を発達させている。

5. 銀行の役割と自由放任主義
国内取引は、事業者間の取引と事業者と消費者間の取引に分けられるとしている。それぞれ、卸売りと小売りとされるところか。小売りは、少額の通貨が使われるので回転が速く、消費者は現金で支払うので事業者は現金を用意しておく必要がない。当面、支払い用に保有しておかなければならない事業者の現金は、商品の仕入れ先である他の事業者との取引に使われる。したがって、銀行の役割は卸売り取引で大きくなるという。ますます銀行の信用力が重要視されるわけだ。分業が進み、価値の交換が盛んになれば、銀行業務は拡大していく。そこで、当時イングランドとスコットランドで銀行が急増していることに警鐘をならす人が多かったようだ。本書は、その批判に対して、公共の安全が危うくなるどころか、資本が強化されると反論している。
「自由競争によって、どの銀行も競争相手に顧客を奪われないように、顧客を大切にしなければならなくなる。一般的にいって、ある種の事業、ある部門の労働が社会に利益をもたらすものであれば、競争が自由に行われ、広範囲に行われるほど、社会にとっての利益が大きくなる。」
このあたりは、自由放任主義の源流がよく表れている。確かに、情報や評価の透明性が正常に機能すれば、スミスの言うように公共の安全を損なうことはないかもしれない。だが、正確性を検証する前に集団行動が生じ、業界ごと風潮に流される危険性がある。人間の欠点は、集団によって相殺される場合もあれば、、相乗効果によって増幅される場合もある。しかも、集団性が一旦暴走を始めると、悪魔と化す。誰かが目の前で儲けていると、乗り遅れまいという心理が働く。これが嫉妬の原理からくるのかは知らん。
しかし、本書がこうした欠点を露呈するのも、今までに金融危機を経験してきたからであって、少なくとも信用力に着目している点は評価すべきであろう。ただし、現在の信用取引は人質取引であって、真の意味で信用が機能しているのかは疑問だが...

6. 国家の経費と教育
主権の経費には、防衛費、司法費、公共施設と公共機関の経費、そして、主権者の権威を支えるための経費があるという。
「主権者の第一の義務は他国の暴力と侵略から自国を守ることであり、この義務を果たすには軍事力が不可欠である。」
防衛の原則は、自衛権と人権との関係から生じる。軍事力は工業や技術と関係が深く、近年まで国力は軍事力で計測されてきた。
「主権者の第二の義務は、社会の他の構成員による不正と抑圧から、社会のすべての構成員を可能な限り守る義務、つまり、厳正な司法制度を確立する義務。」
個人の財産を守る権利を執行するのが司法だとすると、財産がなければ司法制度も必要ないか。搾取国家では事実上、司法も機能しないだろう。いや、身体や名誉を傷つける行為から守る必要はある。名誉や身体も財産であるからして。自衛、司法、公共、権威のいずれの費用も、正義の下で機能しなければ、税を搾取する正当な理由は見当たらない。
さて、経費の議論で注目したいのは、第三の義務とされる公共サービスでは、特に教育機関が強調される点である。いつの時代でも、教育レベルの高い国に知識人や能力者が世界中から集まり、国を栄えさせてきた。おそらく、皮相的な企業誘致よりも、こちらの方が本質的であろう。技術力のある国には、優れた教育機関があり、知識の宝庫があり、そこに優秀な起業家の卵が集まる。プラトンのアカデメイアしかり、イギリスのケンブリッジやオックスフォードしかり、現在はアメリカの大学群が注目される。平均年収の観点からMBA取得が注目され、スタンフォード、ハーバード、ウォートンといった名をよく耳にする。外国人が集まるということは、魅力ある教育がなされている証であろう。だが同時に、外国人ばかりを育てるという懸念があるかもしれない。それでも、母校に親しみや恩を感じるだろうから、国に対する印象もよくなるだろうし、なによりも国内への刺激が大きい。そして、国家の枠組みが曖昧になっていく。国益は、なにも軍事力や経済力だけで決まるものではあるまい。もっと多彩な能力によって決まるはず。とりあえず、一つの要因に寛容力を挙げておこうか。政府の脂ぎった思惑があまり入り込まない方が、国益になりやすいようである。これがスミスの言う自然性の原理なのかは分からんが...

2013-08-04

"正義論" John Rawls 著

なんとも照れ臭くなるような題材ではあるが、あのサンデル教授が褒めちぎるものだから。800ページの分厚さは、なかなかの白熱ぶり。確かにうまく整理されているが、これを体系化と言うかは知らん。もっともジョン・ロールズ自身は、ここに示す見解に独創性がないことを認めている。謙遜もあろうが...
「ロック、ルソー、カントに代表される社会契約の伝統的理論を一般化し、抽象度の程度を高めること、私が企ててきたのはこれである。」
それにしても、この値段に目を疑う。7,875円?!正義とは高くつくものらしい。

ロールズは、カントやアリストテレスの伝統哲学から、正義観念の一般化と普遍化を試み、「公正としての正義」を提唱する。それは、原初状態に立ち返った自然権的価値観、すなわち、人間のあるべき姿から派生する権威的道徳性を探求するものである。
「正義は、社会の諸制度がまずもって発揮すべき効能である。」
注目したいのは、功利主義とカント道徳が矛盾しない事を指摘し、特にカントの解釈で共感できる点が多いところである。
社会全体がまとまって整合的な見解に収まった時、はじめて正義の構想は正当化されるであろう。多数決の原理を民主主義の象徴のように崇める風潮もあるが、「最大多数の最大幸福」を唱えたところで、たとえ一人でも目の前で飢えている人を放置するような社会がまともだとは思えない。すべての人が衝動的な欲望に駆られるわけではあるまい。快楽を善とする快楽主義のある一方で、善を幸福とする幸福主義もあろうし、合理性において善を欲求する効用原理もあろう。確かに、社会全体の福祉集計量が増加することは望ましい。だが、貧困救済のために、より貧困層を犠牲にするのでは、GDPで定義されるような経済モデルは意義を失う。マクロ経済学で扱われる効用原理は、言うなれば利得の総和を最大化しようとする目論見であり、平均値の底上げでしかない。現実に、目の前で災難に遭っている人を平気で見捨てる社会がある。正義の最も単純なモデルは、おそらくこのあたりから生じるのであろう。
カント曰く、「正義の諸原理は、道徳原理を公共的憲章として掲げる倫理上の共和国にほかならない。」

ところで、正義なんて言葉を聞かされると、こそばゆい!そう感じるのは、精神が腐っている証であろうか。正義は、善や倫理の概念と似て非なるもの。ここが曲者とされるところであろう。善や倫理は思想や哲学に属すもので、いわば精神の宇宙にある。一方、正義は善や倫理を実践する場に登場する。精神の宇宙は、理性や知性によって支えられ、理想郷を夢想することだってできる。だが、実践の場では妥協を模索することになり、理性や知性の限界を述べることに他ならない。言うまでもなく、人間の理性や知性は不完全であり続け、ソクラテス流の無知との対峙が宿命づけられる。正義が良心と結びつけば、善や倫理と相性よく映る。しかしながら、良心ってやつは自己愛とすこぶる相性がいい。正義が自己肯定を強烈に主張すれば、自分自身までも欺瞞し、悪魔の手先となる。そう、正義の暴走は、弾圧や迫害の類いと同じぐらい恐ろしいのだ。正義が善や倫理を実践するための道具であるからには、悪用されることもある。歴史を紐解けば、侵略戦争ですら正義の下で正当化されてきた。講和を唱えようものなら非国民とされる時代もあった。政治の世界では、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演じることは稀である。思想観念がはるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物、すなわち黒幕のような人物が決定的な仕事をしてきた。歴史の事象は理性と責任から生じるのではなく、いかがわしい性格や不十分な悟性によって運営されてきた。どんなに優れた政策で、それを認めたとしても、政治家自身が関与できなければ抵抗勢力に成り下がる。政治は、しばしば嫉妬を体現する場と化し、正義は政治家の面子に取って代わる。
さらに、正義の実践は多数決の原理と相性がいい。善や倫理は個人の価値観に支配され、多様化しているというのに。そこで、社会秩序を実践する場において、一般的な原理が必要となる。正義観念が普遍性によって構築されるならば、ロールズの言うように安定した共通価値観を編み出すことができるだろう。すなわち、人類愛という抽象レベルにおいて。だが、人間は多数派に属することで安住したいという性向がある。おそらく人間の普遍性なるものを具体的に提示できる者は、ほんの一握りの天才だけであろう。庶民化した正義は、しばしば集団性の悪魔の餌食とされる。冤罪で報道屋に袋叩きにされる事例は後を絶たず、ネット社会では相変わらず炎上騒ぎが盛んで、被害者の側が退場させられる始末。こうした社会現象はソフィストの時代から変わらず、多数派工作を企てる巧みな手法が開発されてきた。現在でも、義務や責任をそっちのけで、権利主張の技法ばかりが取り沙汰される。正義の発達が手段に目を奪われれば、本質的な精神観念が疎かになる。なるほど、煩悩を知らねば、悟りは得られまい。自由とは制約において成り立つ概念であり、平等とは格差において成り立つ概念である。いずれも中庸の原理において機能する。
...などと言ってしまえば、孔子やアリストテレスの時代にまで引き戻される。おっと、いつのまにか人間退化論を語っている。自己存在に罪を認めるような人でなければ、理性なんてものは獲得できないのかもしれん。どうりで無理性な酔っ払いには、正義はこそばゆい!

1. 原初状態と正義の二原理
人間社会の原初状態という考え方は古くからある。すなわち、人間は生まれながらにして善か悪かという議論にまで遡る。プラトンは、善のイデアという純粋理性的な精神の原型から、正義こそが幸福に至るものだとの考えを示した。アリストテレスは、正義に関する共通の理解を分かち合うことによってポリスが形成されるとした。そして、社会正義の立場から最善を選択するという考え方は功利主義に受け継がれ、ジェレミ・ベンサムは「諸利害を人為的に一致させること」と考え、アダム・スミスは「神の見えざる手」の仕業とした。
ロールズは、伝統的な功利主義が、あまりに市場原理と強く結びついたために、真の功利主義が見失われたと指摘している。確かに、功利主義的に論じられる社会原理は、あまりにも効用関数に頼りすぎている感がある。本来、原初状態における選好では普遍的な原理が働き、それが正義へ昇華されるということらしい。言うまでもなく、公正としての正義の場ではエゴイズムは拒絶される。「公正としての正義」における共通の理解が、立憲デモクラシーの基底ということになろうか。啓発する人々の集まりによってポリスが形成された時、はじめて民主主義が機能するということになろうか。
ロールズは、正義の二原理「最大限の平等な自由という原理」「公正な機会均等の原理と格差原理」を提唱する。
平等な自由とは、競合する自由において正義に優先順位があるということで、弱肉強食を容認するわけではない。だが現実には、権利の要求が乱雑し、公正に査定することは不可能に見える。しかも、選挙の道具とされる。
格差原理とは、能力主義に通じるもので格差を否定するわけではなく、とんでもない高収入を得られる人々が存在しうるのは、最下層の人々にも恩恵がある場合に限られるということ。しかしながら、機会均等という用語もまた選挙の道具とされる。
そう、正義は選挙の道具とされる運命にあり、大声で叫んだ者の勝ちというわけだ。結局、政治ってやつは、善の増強よりも、不正義の抑制として企てられることになる。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないのか?一旦脂ぎった欲望を知ってしまうと、大人たちはこうも浅ましくなるものなのか?大人たちが、子供心を取り戻すことこそ、不可能である。これはモンスター化の法則と言って、カオス理論の骨格をなしている... と誰に聞いたかは記憶にない。

2. カント的解釈
ロールズは、カントを解釈するというよりも、「公正としての正義」の観点から解釈を試みる立場を表明している。そして、この観点に立ってこそ、カントの深遠な二元論が見えてくるという。それは、必然性と偶然性、形式と実質、理性と欲求、本体と現象である。一般性や普遍性は崇められる傾向にあるが、実はこうした議論は思考を深化させるのではなく、むしろ薄弱な道徳論を構築することになるという。そして、カントの学説を一般性や普遍性といった観念に限定して論じることが、つまらぬものにしていると指摘している。
「カントの主な達成目標は、自由とは私たちが自分自身に与える法に従って行為することであるというルソーの着想を深化、正当化するところにある。そして、そこから導き出されたのは、厳格な命令の道徳ではなく、相互尊重と自己肯定感の倫理である。」
カントの道徳原理は、理性的、合理的選択の対象から始まっているという。その意味では、ある種の功利主義的な考えという解釈も成り立ちそうか。カントの自律の観念には、相互に利害関係を持たない公平無私という動機付けが想定されている。道徳立法が合意されるのも、この自律から発したものであろう。確かに、道徳原理が法となりうるには、その原理が公共的でなければならない。本来的に、人間には正しく行為したいという欲求があるのかもしれない。正しく行為できないのは、他人の行為に対する嫉妬からくるのかは知らんが。
ロールズは、選択の自由を持ちながら理性的に振る舞うことができるのは、それが精神の持ち主だからであり、人間特有の性質だとしている。不正行為を恥じるのは、なにも世間体に対してだけでなく、自然的本性を損なうからという思いもあろう。人間には、本性的に自己実現性というものを持っているように思える。あるいは、自然に獲得していくのかは分からんが。罪悪感もまた、法に対して生じるだけではないだろう。自尊心を傷つけるとは、そういうことかもしれない。神が見ておられるから不正ができない、という動機付けもあるが、本来的な道徳心は第三者に縋ることではあるまい。精神が能動的に働かなければ、違う神を信じるというだけで憎しみ合うことになろう。

3. アリストテレス的原理
アリストテレスによると、人間は包括的な原理に従うという高階の欲求を有し、より包括的で長期的な思案を選好する、ことになる。自ら実現する能力は先天的か、もしくは訓練によるものだが、獲得した能力の行使を楽しむ傾向がある。楽しみは、実現されるほど、より高みに昇ろうとするだろう。そして、究極の人間目的へと昇華させるのかは知らんが、これが学問の意義ではあろう。そもそも学問は、高収入を得るためだとか、高い地位を得るためだとか、そうした脂ぎった欲望で行うものではあるまい。最初の動機はそうだとしてもだ。一方で、大人になると読書すらやらなくなるという嘆きを耳にする。挙句に、政治学では政治的な駆け引きばかりを学ぶと。
「合理的な個人はつねに、自らの計画が最終的にどのような結果になろうとも、自分を決して非難する必要がないように行為すべきである。」
そう心掛けていても、やはり自己批判をせずにはいられない。だから、人生は面白いのかもしれん。行動が完璧であれば、退屈病に蝕まれノイローゼになるだろう。すると、理性者は自然に精神病を抱えているということか?自然本性的な存在とは、精神病患者のことか?
アリストテレス曰く、「人は知ることを欲する。」
思考がシンプルな方向に向かうとは限らない。将棋のようなゲームを好むのは、それが複雑で奥深いからである。科学や数学では単純な思考が崇高とされるが、実は、複雑なものを法則性に当てはめようとする思考過程そのものを崇めている、ということはないだろうか?だって、学者たちは見るからに単純というものにあまり興味を示さないではないか。実は、人間は複雑系を求めているということはないだろうか?実は、退屈しのぎこそ真理ということはないだろうか?そして、正義の構築もまた退屈病の餌食にされているということはないだろうか?少なくとも、真理の探求が退屈病の処方薬となることは間違いなさそうである。
ついでに、合理的な人生設計は、善の原理に収束するというのは本当だろうか?アリストテレスから二千年以上にもなるのに、いまだ善なるものが見えてこないのはどういうわけか?実は、人間の価値観はとうに限界に達し、無知であることが人間の普遍性ということはないだろうか?仮に無知から解放されれば、朝っぱらから酒をやる人間失格な生活も改められるだろうか?「正義論」を読むだけでは改められそうにない。

4. 快楽主義的正義
快楽に真理が結びつくと、強烈な武器になる可能性があるらしい。アリストテレスは、こう述べたという。
「善い人は、必要ならば友だちのために命を捨てる。なぜなら、長期間の穏やかな喜びよりも短期間の強烈な快楽のほうを、また多年にわたる退屈な暮らしよりも一年で終了する気高い生活のほうを選好するからである。」
快楽主義もちょいと視点を変えるだけで、随分と様変わりするものである。快楽主義から人間目的という観点で自我の統一性を見出すことはできるかもしれない。真理の探求そのものが、快楽となるであろうから。
アリストテレス的原理に従えば、秩序だった社会に参加することが、卓越した善をもたらすという。人間は本質的に卓越性を求めるというのだ。悪徳をなすのは、卓越性への嫉妬で、自己肯定性からくる社会への反発であると。自分が社会の中心になれるという条件下では、どんな悪徳者でも喜んで善をなすというのか?逆に言えば、自分が主役になれなければ、どんな善も破壊するというのか?悪魔ってやつは、神への嫉妬から生じるとでもいうのか?そうかもしれん。
さっそく、快楽に酔うハーレム主義者は、悪魔を目の前から葬り去ろうと、あぶく銭を一晩でゴージャスに使い果たした。これぞ快楽主義的正義というものか?そして、翌日から地獄を見ることに。んー... 正義ってやつは手強い!