2017-08-27

"神曲 天国篇" Dante Alighieri 著

「神曲」は、地獄篇の三十四歌、煉獄篇の三十三歌、天獄篇の三十三歌、その合計百歌から成る壮大な叙事詩である。この大作が、実に多くの芸術作品でモチーフにされ、様々な分野の書で引用されるのに出会う度に、いつか挑戦してみたいと思い... 思い続け... そして二十年が過ぎた。ようやく至高天に登りつめたという次第である。しかしながら、理性の世界は肩が凝る。酔いどれ天の邪鬼には、地獄の方が居心地が良さそう。天使と小悪魔の違いも、よう分からんし...

時は西暦1300年、大赦の年の復活祭。ダンテは一週間に渡って、地獄、煉獄、天国をめぐる旅をする。地獄と煉獄の案内人は、古代ローマの大詩人ウェルギリウス。ダンテは、この人物をライバル視したか。天国の案内人は、代わって久遠の女性ベアトリーチェ。かつてダンテが恋するも、他人の妻となって夭死した少女の聖霊で、いまだ未練があると見える。
そしてついに、天国の最高位「至高天」に達した時、新たな案内人が現れる。熱烈なマリア崇拝者として聞こえる老翁、聖ベルナールである。ダンテを救うために遣わされた案内人たちは、天界の女王たる聖母マリアの意志であったとさ...
地獄の深い谷を堕ちていくには、肉体の重みに身を委ね、煉獄の険しい山を登るには、肉体の罪がそのまま重石となる。そして、天国へ昇天するには、肉体をまとっていては重力に打ち勝てない。知への渇望が、身を軽くするのか。認識を司る五感を放棄すれば、苦痛を感じずに済むのか。脂ぎった欲望から脂肪分を落としきったら、自由になれるのか。天国では、魂どもがマリアを囲んで、バッハのカンタータ風にラブシーンまがいの唄で交わる。まるで女王蜂!どうりで女性はみな聖母に焦がれて、体重計の御前で存在の軽さを演じようと躍起なわけだ...
尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。

フィレンツェから永久追放を喰らったダンテの怨みは、天国に至ってもなお、おさまりそうにない。十三世紀、商業都市フィレンツェはヴェネツイアと並んで最も繁栄した都市国家の一つ。イタリアでは、「コムーネ」と呼ばれる共同体の間で抗争が続いていた。世界を支配すべき王者は誰か?それはローマ法王だとする法王党と、神聖ローマ帝国だとする皇帝党とに分裂し、法王党は、さらに白党と黒党とに分裂する。なぜ、正義の復讐が正義によって報復を受けるのか?ダンテは、こうした様を嘆いては、フィレンツェを呪い、ヴァチカンを呪うのである。おまけに、貨幣贋造などの悪徳商法が蔓延り、商売人魂に敏感なだけに憎しみも倍増。
しかしながら、目が開けられないほど眩い光景が眼前に広がれば、魂に安らぎをもたらす。地獄を見る資格とは、煉獄を見る資格とは、はたまた、天国を見る資格とは、どういう境地を言うのか。俗界の悪意から追放された者の特権だというのか。愛は障害があるほど燃える!というが、天国もまたそうなのか。愛が最高善だというなら、なにゆえ愛に溺れる者を罰する。ダンテは、人性と神性の境界をさまよい、実存の本質を探求し、形相なき存在への昇華を夢見る。それが、自由意志の本質だといわんばかりに。感動させる詩は、どこか神がかっている...

ダンテは、この大作に「喜劇」という名を与え、邦題では「神聖喜劇」の名を冠する。人生ってやつは、人が死んでも滑稽であり続け、人が笑ってもなお深刻であり続ける。理性は憎悪に姿を変えて魂を焼き尽くし、道徳は嫉妬に姿を変えて肉を焦がす。この悪臭から救う道は、もはや忘却しかない。いや、忘却よりも鈍感でいる方が遥かに楽だ。実際この世は、そこそこ鈍感でなければ生きては行けぬ。
人間の自尊心を満足させるには、眩しすぎる光を直視するよりも、盲目でいる方が遥かに楽だ。運命には、人に取り憑いて完全に支配する運命と、打開すべき自由意志を芽生えさせる運命とがある。仮に、天使と人間が相思相愛だとすれば、神の代弁者と称する者が、こうもたくさん現世にわいて出るものか。大きな銭を施して「おおきに」、程を越すから「ほどこし」言うんや。「信者」と書いて「儲かる」、そりゃ教祖様業もやめられまへんなぁ。皮肉屋バーナード・ショーは言った... 信仰を持つものが無神論者より幸せだという事実は、酔っ払いがしらふの人間より幸せなことに似ている... と。独り善がりな芸術家たちもまた、神への片思いは永遠に続くだろう。そして、人生は人間喜劇として完成を見るのである...

1. 地球中心主義とは
地獄の到達点が地球の核にあるならば、天国の到達点は、その真逆の天空に位置づけられる。プトレマイオス宇宙観の天動説をなぞるように。地球の核はただ一つの目標点で定められるが、天空にはあらゆる方向に星々が鏤められ、目標点が定まらない。おまけに、天体は運動してやがる。
ダンテは、天界を「月光天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天、原動天、至高天」の十天で構想し、この順番で昇天していく。最初の七つの身近な太陽系と、黄道十二宮の宿る恒星天までは具体的な星々で示されるものの、続く原動天と至高天の段位になると、もはやどこをさまよっているのやら?
ここでは、具体的な目標点を示してくれ!なんて野暮な質問はよそう。凡人は、具体的なやり方を他から求めてやまない。書店に行けばハウツーものが氾濫し、ネット社会ではたいていの知識がググれる。こうした面倒くさがり屋な性向を、俗界では合理性と呼ぶ。この世の合理性は、苦労して試行錯誤してやまぬ自由意志と相性が悪いのかは知らん。ダンテは、地獄で九つの悪徳を具体的にこらしめ、煉獄で七つの大罪を具体的に示した。地獄は具体論と相性がよく、天国は抽象論と相性がいいのか。そして、真理は抽象論の側にあるのか。
ここでは、天使が形相を表し、天球が形相と質料の両方を表し、地球が質料を表す。そして、形相もアリストテレスによって実体の仲間入り。神が存在し、人間が神の創造物だというなら、それでもいい。だが、本当に人間は神に看取られているのか?本当に神は製造者責任を負っているのか?昇天のための試練は、俗人の想像力ではついていけない。だから、地獄に近いほど具体的な対処法を提示するのか。地上では、政治屋どもが具体的な政策を示さなければ意味がない!と吐き捨てて政治哲学を疎かにし、宗教家どもが具体的な死の世界を提示しては暗示にかけ、小悪魔どもが具体的な肉欲を求める輩を餌食にし、これに酔いどれ天の邪鬼はイチコロよ!地球中心主義とは、欲望を具現化した様相を言うのかもしれん...

2. 天界の十天めぐり
月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、恒星は、天体運動を繰り返す。だが、神が住む第十の至高天には動きがないという。その中で回転している第九の原動天が、物質的宇宙の最外縁に位置し、すべての運動は、この原動天に由来するのだとか。原動天が、それぞれ聖なる天体に異なる性質を賦与し、下位の天に異なる性質が配られるという仕組みである。一つの魂から、それぞれ異なる性質を与えて五体に行き渡るように。
昇天するために、ダンテは現世から切り離される。真の実体が魂ならば、肉体はその属性に過ぎない。肉体は最下位の天から授かったもので、上位の天を目指すならば、それを失うことを恐れるな!というわけである。プラトン風に言えば... 至高天から降りたばかりの魂は限りなく純粋でイデア的な存在であり、下位の天に降りるほど歪み、もはや現世の魂は原型がどんなものだったかも分からない存在... といったところであろうか。原型をとどめていない魂ならば、真理を見るためには邪魔となり、そのまま十天をめぐる試練となる。天国に祝福されし者は、その至福以上に望むものはあるまい。では、何かを望んでやまない存在は、天国に祝福されていないというのか。少なくとも見返りを求めるようでは...

第一の天「月光天」...
いきなり太陽光を見るには眩しすぎるので、まずは月光から。幸いを得るために、神意のうちにとどまることが第一要件となる。最初に神が創り、次に自然が造る。実体とは、それ自体で存在を意識できるもの、すなわち、自分の罪を意識できるもの。ここには、誓願を立てたにもかかわらず、それを破ることを余儀なくされた人々の魂がいる。修道僧となってもなお、還俗した者たちの魂が...

第二の天「水星天」...
天地創造に際しての神が惜しみなく賜うた最大の贈り物は、神の意志に似つかわしいところの自由意志だという。それは、神と人間との間で交わされた契約に基づく、自発的な抑制である。そして、純粋な知識に飢え苦しむことが試練となる。ここには、名声に執着し、誉れを高めようと善行を働いた人々の魂がいる。正義の行為が怨みや妬みを買って...

第三の天「金星天」...
ここには、愛の虜となった人々の魂がいる。最上善が愛だとすれば、愛に溺れる者をなぜ罰するのか?ダンテは、意志的な愛と、自然的な愛を区別する。真理愛と欲望愛の違いとでも言おうか。
「剣を佩びるべく生まれついた人を無理強いに宗門に入れ、説教をするべく生まれついた人を国王に仕立てたりする。君らが道を踏みはずす原因はそこにあるのだ。」

第四の天「太陽天」...
神が子を生み、その両者から精霊が生じる三位一体の構図を太陽光に見る。直視するには眩しすぎる光だ。だから、人間の目に優しい日の出や日の入に神を拝むのかは知らん。ここには、盲目の魂を見開く智慧を求める人々の魂がいる。トマス・アクイナスが三段論法を用いて、真理を証そうとする。説教好きには、居心地のよさそうな場所だ。
ちなみに、彼はドミニコ会修道士で「神学大全」を著し、アリストテレス哲学をキリスト教の護教のために用いたスコラ哲学者。
「ああ、現世の人間の狂気の沙汰よ、なんという欠陥だらけの論理に左右されて地面をのたうちまわることか!ある者は法学を、ある者は医学を学び、ある者は僧職を狙い、またある者は詭弁を弄し、暴力をふるう。またある者は掠奪を事とし、ある者は俗務に専念し、ある者は肉欲の快楽にふけり、またある者は安逸の生活に溺れる...」

第五の天「火星天」...
ここには、信仰のために戦って死んだ者の魂が、十字の形に並んで光っている。十字軍の勇士たちである。ダンテの祖父の祖父に当たるカッチャグイダの魂もいる。彼は、イスラム教徒との聖戦で戦死し、殉教者となって、この天の平安へ到達したとさ。正義の復讐は、正義の報復を受ける。正義や聖戦といった言葉がもてはやされる社会は、ろくなもんじゃない...

第六の天「木星天」...
ここには、栄光に輝く賢王たちの魂がいる。彼らの正義心と慈悲心は、悪人どもですら敬服する。キリストを信仰する機会に恵まれなかった人々でも、神意に従えば、この天に達する機会が与えられるとさ...

第七の天「土星天」...
ここには、観想の生活のうちに一生を送った人々の魂がいる。自由な愛さえあれば、それで十分に永劫の摂理に従えるものらしい。愛とは信じることなのか。人間の肉体には、あまりにも誘惑が多い。善行をはじめたかと思えば、すぐに惑わされ、いつも良心は気まぐれときた。ひたすら神を信じ、信仰を重んじるには、清貧を聖貧に昇華させなければ。だが、無条件に信じるということは、信仰馬鹿にでもならないと難しい。なぁーに、心配はいらない。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、この道だ...

第八の天「恒星天」...
ここには、聖ピエトロ(ペトロ)らの魂がとどまる。聖ピエトロは、ダンテに問う。信仰とは何か?
「信仰とは望みの実体であって、まだ見えぬものの論証であります。これが信仰の本体であるかと思われます。」
なぜ、信仰を実体と捉え、ついで論証として理解できるのか?天上において見える深遠な事柄でも、下界ではまったく姿が隠れ、何一つ見えない。だから、下界ではその存在を、ひたすら信仰によって導くしかない。そして、その信仰が唯一の希望となる。それゆえ、信仰は実体の性格を帯びるとさ...
このような弁証法的な観点から、永遠の三位一体を信じると答えれば、聖ピエトロを満足させられる。ただ、彼らほどの聖人でも、これ以上の昇天は望めないらしい...

第九の天「原動天」...
中心部を固定し、それを取り巻くものを回転させる宇宙の性質は、この天を起点にするという。すべての事物はここから発し、神意もまたここから伝達されていく。物理学的な運動を示す時間の概念が、この天の鉢の中にあり、光と愛を内包する。時間もまた神の意志によって存在するというわけだ。ただ、この説明を聞いていると、酔いどれ天の邪鬼はブラックホールを想像してしまうのだけど...
原点に近いほど速度も大きく、第一の位階は、熾天使、智天使、王座の天使から成り、第二の位階は、統治、権威、権力の天使から成り、第三の位階は、主権の天使、大天使、天使から成る。この九階級に分かれた天使の群れが、九つの天球に対応する。すなわち、熾天使は原動天、智天使は恒星天、玉座の天使は土星天、統治の天使は木星天、権威の天使は火星天、権力の天使は太陽天、主権の天使は金星天、大天使は水星天、天使は月光天。
ダンテは、天使には記憶力がないとしている。天使は、神の姿に過去、現在、未来の万物を見ることができるから、記憶力を必要としないというのだ。なるほど、時間の概念を超越し、すべてを瞬時に見渡せるとすれば、記憶という概念も必要としない。
一方、人間ってやつは、時間の概念が崩壊した途端に、精神病を患わせる。おまけに、近代天文学では最も近い月は地球から遠ざかっているとされる。人間のツキも堕ちているようだ...

第十の天「至高天」...
ここでは、マリアの光明によって、新たな悟りの視力を得る。それは、忘却の奥義を会得した者だけが到達できる境地である。中央の光をとりまいて、天使の群れと祝福された人の群れが薔薇の花のように輪をなして広がる。まさに円形劇場。
案内人は、ベアトリーチェから聖ベルナールにバトンタッチ。ダンテは、ついに神を見る境地に達す。マリアの下に並ぶエバやベアトリーチェたち、彼女らと向かい合って座る洗礼者ヨハネと、その下に並ぶフランチェスコやベネディクトゥスら聖人たち。神は愛であり、愛をもってすべての円運動を規制する。神は、至高天においてさえ、愛に階級を与えるのか...

3. 呪われし詩人アンジョリエーレ
本書には、毒舌の利いたチェッコ・アンジョリエーレの詩が付録される。彼はダンテと詩で応酬を交わし、「呪われた詩人」というイメージを叩きつけたそうな。清新体の綺麗事や理想主義を打ち破る迫真の表現力は、まるで飲んだくれの悪態。こちらに心地よく反応するとは、やはり酔いどれ天の邪鬼には、天国よりも地獄の方がお似合いか...

「俺が火ならば、この世を焼いてやる、
俺が風ならば、この世を吹き荒らしてやる、
俺が水ならば、この世を水に漬けてやる、
俺が神様ならば、この世を地獄へ落としてやる。

俺が法王様ならば、キリスト教徒をみんな困らして、ひとつ大いに楽しんでやる、
俺が皇帝陛下ならば、なにをやる?すっぱりとみんなの首を斬ってやる。

俺が死ならば、親爺のうちへ行ってやる、
俺が命ならば、親爺のうちから逃げてやる、
お袋にも御同様、振舞ってみせてやる。

俺がチェッコならば、若い美人を取ってやる、
婆(ばばあ)は他人にくれてやる。」

そして次の詩は、ダンテがチェッコへ宛てた詩に対して書かれたものと推察されるそうな。

「ダンテよ、俺をお道化(どけ)の大将というなら、
おまえは槍をさげて俺の腰について来い。
俺が居候の名人というなら、お裾分けをくれてやる、
俺は脂身を喰らう、おまえは骨をしゃぶれ。
...
俺の言葉が過ぎるというが、おまえも一向に慎みが足らぬ。
俺が紳士気取りなら、おまえは学者の面(つら)をするじゃないか。
俺がローマ人を気取るというのなら、おまえはロンバルディーア人の面をするじゃないか。
...」

2017-08-20

"神曲 煉獄篇" Dante Alighieri 著

人生の道なかば、ダンテは古代ローマの大詩人ウェルギリウスの導きを得て、地獄、煉獄、天国をめぐる。そしてちょうど、24時間の地獄めぐりを終え、大海の島に出たところ。目前にそびえるは煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。山頂には永遠の淑女ベアトリーチェが待つ地上の楽園があり、二人はこれを目指して登り始める。
待ち受けるは七つの環道。それは、煉獄山を取り巻く幅が三身長ほどの道で、「七つの大罪」を克服するための道だ。ダンテは、これらの関門を乗り越えない限り、自分自身を救えないことを知っている。理性なんてものは、自分の罪を認められるような境地に達しなければ、けして身に纏えないということか。自分の理性に自信を持つようでは、けして!どうりで、酔いどれ天の邪鬼には縁がないわけだ...
尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。

地獄には希望なんてものがない。だが、煉獄には希望めいたものがある。だから、余計に地獄なのかもしれない。人間は、どんな罪でも自己の中で正当化でき、自己完結してしまう性癖の持ち主で、正義は常に自分にあると信じられる幸せな存在である。地獄では、その言い訳が俗悪人の愚痴で片付けられる。たとえ自分の罪を認めたとしても、誰も構っちゃくれない。
一方、煉獄では、言い訳を優しく包み込み、罪を認める手助けをしてくれる。地獄篇で、永劫の罪に苦しむ無残な魂を強く刻んでおきながら、煉獄篇となると、羞恥や後悔といった情念を控え目な誇りのうちに導いてくれるのだ。
そして、地上の楽園に到達すると、そよ風に頬をなぶられながら、爽やかに草原を逍遥する。それが、逍遥派として知られるリュケイオンの学徒たちのことを指すのかは知らんが、師のアリストテレスも、その師のプラトンも、身体を地獄篇に晒していた。ダンテは、煉獄に来てもなおフィレンツェを呪い続ける。神におべんちゃらを使ってなんになる!と言わんばかりに...

三位一体の神が司る無限の道を、人間の理性なんぞで行き尽くせるなどと信じるは、狂気の沙汰。本当に、マリアはイエスをお生みになる必要があったのか?わざわざ死後の世界に克服の場を用意しなくても、現世に体現されているではないか。道徳心を操ることに優れた者ほど悪徳が巧みで、正義で武装する者ほど叩けば埃が出る。
自由意志を解放したければ、まず何に隷属しているか、何に依存しているかを承知すること。それは、欲望にほかならない。なぜ悪徳を行なうかを承知すること。それは、欲望にほかならない。人間なんぞに欲望を完全に排除することなどできようか。それこそ人間ではなくなる。養分を取る必要のない煉獄の魂となってもなお、痩せ細るとはどういうわけか?五体を脱ぎ捨てても自由は得られない。だから人間なのだ。
有限界の存在が、無限界に魂を売るのは危険である。血を捧げるだけでは足りない。肉体の罪は焼き払えばいいが、魂の罪は永遠だ。七つの大罪は、身体の限界からくる可能智によって認識される。それは、高慢、嫉妬、憤怒、怠惰、貪欲、大食くらい、色欲の七つで、いずれも人間社会の都合で罪とされる。宇宙には、人間には認知できない罪が他にもたくさんあるのではないか。そして、人間の存在そのものが罪ということはないのか。
理性の世界ってのは、よほど退屈と見える。そうでなければ、神が人間を創造したことの説明がつかない。地獄篇は谷へ堕ちていく苦悩、煉獄篇は暗闇を登っていく苦悩、さらに天国篇にはどんな苦悩が待ち受けているというのか。閉所恐怖症から暗所恐怖症へ導き、さらに高所恐怖症へ導こうとでもいうのか。真の目的は... 天国へ行く結果ではなく、天国へ行くまでの過程を存分に味わうこと... これを人生の醍醐味とでもしなければ、泥酔者の魂は救えそうにない...

1. 宗教芸術と地獄絵図

天よりくだり、現身(うつそみ)のまま
正義の地獄と煉獄を見、
生還して神を観照し、
真理の光をわれらにあたえ、....

これは、ミケランジェロが書いたダンテを讃えるソネットの出だし。彼は、フィレンツェを追放され、流竄の半生を送った境遇に共感したようである。本物語には、ヴァザーリ著「ルネサンス画人伝」に描かれる面々が登場する。
ところで、宗教画には天国と地獄の双方が描かれるが、地獄を描くことは罪であろうか?教会だって地獄絵図を大々的に飾り、大聖堂のファザードにも悪徳の寓意を多く見かける。そんなところへわざわざお祈りに行くのは、なぜか?怖いもの見たさか?教会は、天国の入口か?それとも、地獄の三丁目か?
人間ってやつは、目の前の幸せにはなかなか気づかず、心配事や恐怖心に対して過度に反応する。喜びは一瞬のうちに忘れ、恐怖は死ぬまで持ち越し。そして、本当に地獄に憑かれ、地獄へ吸い込まれていくような人生を送る。はたして、すべてを忘却することが幸せへの一歩となるだろうか...
地獄が戒めの役割を果たすのも確かだ。理性は抑制と相性がよく、抑制は戒めの原理に縋る。こうした感覚は、M の証拠!宗教は、この深層心理をついて、何事にも受動的で、無条件に信じることを要請してくる。
もはや魂を救うには、天国を描くだけでは不十分ということか。そのために芸術家たちは、あえて罪を背負おうとするのか。地獄を描く資格とはいかなるものであろう。天国を描く資格とはいかなるものであろう。地獄を描く者は、宗教家にせよ、芸術家にせよ、筆力を存分に発揮し、鑑賞者を畏怖させる表現力に酔う。はたして、自己陶酔が自由意志への一歩となるだろうか...

2. 煉獄の門
ダンテの世界観によると、地獄の谷の真上にエルサレムが位置し、その東九十度にガンジス川、その西九十度にジブラルタルが位置する。煉獄の山はエルサレムの対蹠地にあって、ちょうど日の出が見える。そして、ジブラルタルを通る子午線の上で正午、エルサレムで日の入り、ガンジス河口で真夜中となる。
また、シオンの山と煉獄の山は、それぞれ北半球と南半球に属しているが、同一の視線を有しいてるという。
最初に待ち構えるは煉獄の番人、小カトー。ローマ共和政の自由を守って戦い、カエサルに敗れて自殺した男だ。ダンテは、彼を倫理的な理想人物として尊敬していたという。だから、自殺の罪を免れ、番人としたのか。カトーが威厳ある態度で二人の身の上を問いただすと、案内人ウェルギリウスは、ダンテが煉獄を見るに値する人物であることを示す。
煉獄の入口には三段の石段があり、最上段に天使が腰掛けている。
第一の石段は悔悛を表し、磨きあげられた白い大理石に自分の罪を告白するという。
第二の石段は濃い色をし、心の暗い影を表すという。
第三の石段は燃えさかる鮮血な色をし、悔悛者自身が惜しみなく吹き出す血を表すとも、十字架で磔になったキリストの血を表すとも言われ、解釈は様々なようである。
天使は、剣の先で P の字をダンテの額に刻んだ。罪はイタリア語で "Peccato"、いわば通行手形のようなもの。すべての罪を背負えば、七つの P の字が刻まれ、罪が浄められる毎に一字ずつ消されていく。
山腹には、謙遜の範を示す言葉が白い大理石に刻まれている。
「幸いなるかな、義を求め義に渇く者は...」
天使は、金と銀の鍵をまわして門を開いた。
「マタイ伝」第十六章十九節に「又われ天国の鍵を爾(なんじ)にあたへん」とあり、金の鍵は聖職者の権威を、銀の鍵は学問知性を表すそうな。
尚、「環道」と訳される語は、イタリア語では「girone(ジローネ)」というそうで、「めぐる」という意味がある。

3. 環道めぐり
復活祭の月曜日から火曜日にかけて、ダンテは七つの環道をめぐる。そして、高慢、嫉妬、憤怒、怠惰、貪欲、大食くらい、色欲の順に浄められていく。愛は障害があるほど燃える!というが、煉獄の環道もその類いか。罪は重い方が、悟れるものかもしれない。ダンテは、人間が抱く意識的な愛と自然的な愛を別格に扱っている。すべての悪徳が人間の意識に発するとしたら、それは自然に適った存在なのか?

第一の環道...
高慢を浄めるために、腰が曲げられている。アダムの肉をまとえば、肉体の重みで足取りが鈍り、さらに罪までも背負えば、その分の岩を背負う。歳を重ねていけば、やはり腰が曲がってくる。生きていくとは、罪を背負うことやもしれん...

第二の環道...
嫉妬を浄めるために、瞼が針金で縫いつけられる。見なくてもいいものを見るから嫉妬に身を焦がす。肝心なものを見る目は心眼だけで十分。愛は盲目に支配され、愛憎劇は嫉妬の渦巻く中にある。見返りを期待しては、裏切り者呼ばわれ。神の愛に、見返りは禁じ手だ。だが、なんでも神のせいにできれば、神も本望であろう。歳を重ねれば、やはり近くが見えにくくなる。目先のことに惑わされぬよう、自然の力が働いているようだ。
「およそ愛と呼ばれるものなら、それ自体でみな称賛に値すると主張する人の目には真理は隠れ、真相は映じていない...」

第三の環道...
憤怒を浄めるために、朦々たる煙の立ち込める中、ひたすらお祈りをしている。嫉妬の環道では、盲目と同じこととして瞼を縫いつけられたが、憤怒の環道では、目を開いていても何も見えていないのと同じこととして視界のない煙の中をさまよう。世の中が見えなければ、ひたすら祈るしか能がない。人間とは、そういう存在か。盲人の国では片目の男が王様だ!... とは、後のフィレンツェの要人マキャヴェッリの言葉だ。

第四の環道...
怠惰を浄めるために、同心円状をぐるぐる回っている。自然的な愛を怠って意識的な愛に溺れし者ども、誠意を欠いた者ども、不純な目的に目を奪われ悪に手を貸した者ども... 隣人を踏み台にし、知識はすべて他人から授かるばかりで、失敗すればすべて人のせいにできる実に都合のいい奴ら、不幸の理由を自分で知ろうともしない輩... 彼らは永遠に周り続け、自らの眠りを妨げる。それで、自己嫌悪に陥ることがなければ、幸せであろう...

第五の環道...
貪欲を浄めるために、腹這いになって涙を流している。すべての欲を地に伏せようと。ダンテの夢の中には、小悪魔セイレーンが現れる。貪欲、大食くらい、色欲という感覚的快楽の権化として。もはや欲望から逃れるために地に伏せているのやら、小悪魔にひれ伏すのやら...

第六の環道...
大食くらいを浄めるために、果実を目の前にしながら痩せ衰え、目が凹み、骨と皮の姿を晒す。貪欲と表裏をなす浪費の罪もまた、小悪魔系の誘惑か。目の前に好物があれば、やはり喰っちゃう...
「幸いなるかな、神の恵みに照らされし人々、その人々の嗜好はかつて過ぎたる望みの火を胸中に点じたることなく、その人々の飢餓はかつて度を失したることなし」

第七の環道...
色欲を浄めるために、肉体が猛火の中に投げ込まれる。一群の人々が「ソドムとゴモラ」と叫ぶと、別の一群が「パシパエ」と合言葉のように答える。好色多淫であった人々は、互いに駆け寄り、抱擁しあって慰めあう。
尚、「ソドムとゴモラ」は男色の罪を犯した人々で、「創世記」第十九章には、この二つのパレスチナの悪徳の町にエホバが天より硫黄と火を降らして、住民をことごとく滅ぼしたことが記されるそうな。これに答えて、職人ダイダロスがこしらえた人工の牝牛の中に入って、牡牛と望みを遂げた女パシパエの名を呼ぶのである。

4. 地上の楽園
「その愆(とが)をゆるされ、その罪を蔽(おほ)はれし者は幸いなり」
時は、復活祭の水曜日。七つの環道を登り尽くし、七つの大罪を克服した者たちを七人の天女が迎える。ハレルヤ!ハレルヤ!
ダンテは、天上の女性ベアトリーチェに身を捧げようと、必死に登りつめた。そして、ようやくの思いで自己の過ちを懺悔する。信仰、希望、愛、あるいは、正義、力、思慮、節制を寓意する天女たちとの戯れ。そして現世を呪うかのように、ローマ法王庁の腐敗堕落とアヴィニョン遷都もまた憤怒によって寓意が示される。神は、けして物事を直接見せようとはしない、まったくチラリズムのお好きなお方よ...
ところで、懺悔すれば天女たちが微笑み、これを拠り所にして地上の楽園を目指すとすれば、鏡の向こうで赤い顔をした紳士が通う夜の社交場と何が違うというのか?地獄では小悪魔に誘惑され、地上の楽園では天女にイチコロ!酔いどれ天の邪鬼には、小悪魔と天女の違いが分からん。
そして、救いは忘却の果てにあるというのか?浄めるとは、チャラにすることなのか?そもそも地獄から救われようと目論むことが、間違いの始まりである。人間の根っこは、プラトンが言ったような清浄無垢な存在なのかは知らんが、ただ確実に言えることは、生きているうちに悪徳を知り、悪徳を身に着け、悪徳をやっちまうってこと。ならば、辺獄(リンボ)を徘徊するプラトンやアリストテレスの方がましやもしれん。地獄の運命を受け入れた亡者たちの方がましやもしれん。自由とは、実に息苦しいものらしい...

2017-08-13

"神曲 地獄篇" Dante Alighieri 著

ダンテの大作がモチーフにされるのを見かける度に、いつか挑戦してみたいと思い... 思い続け... 二十年は過ぎたであろうか。美術や音楽の題材で見かけるだけでなく、科学書や数学書、あるいは哲学書でもよく引用され、こいつが文学史屈指の傑作であることは想像に易い。
しかしそれは、西洋ないしキリスト教圏における評判であって、イスラム世界では悪魔の書のごとく扱われよう。たとえ善良であっても、キリスト教の洗礼を受けなかったというだけで地獄へ落とされる。キリスト教がまだ成立していない時代の人々だって容赦しない。真理を追求した自然哲学者たちも、信仰心が薄いとして地獄の生贄に...
そこには、自然学を唱えたアリストテレスや世界市民思想を唱えたディオゲネス、あるいは、ユークリッドやプトレマイオスやヒポクラテス、さらには、道徳家のキケロやセネカの姿を見つけることができ、おまけに、ダンテの師ブルネット・ラティーノも徘徊している。
一方、ダンテ自身はというと、生前訪れた傍観者、最もずるい立場!この場所では、小難しい説教を垂れても無駄だ。暗黒界に幽閉された人々は、せめてダンテに愚痴や言い訳を聞いてもらえれば、本望というわけか。アーメン!
生きている間は生きている者同士で騒ぎ、死んだら死んだ者同士で静かに語り合い、生きている者どもに静寂を邪魔されたくないものだ。ジョン・スローンは言った... 死んだ人の悪口を言うのはよくない、生きているうちにせいぜいこきおろしておこう... と。
尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。

人生の道なかば、三十五歳のダンテは、古代ローマの大詩人ウェルギリウスの導きを得て、地獄、煉獄、天国をめぐる旅に出る。「神曲」は、地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部で構成され、まずは地獄めぐりから始めよう...
ダンテはフィレンツェ生まれだが、ここに登場するフィレンツェ市の要人たちへの仕打ちは凄まじい。というのも、彼は政変に巻き込まれて祖国から永久追放され、生涯に渡って放浪生活を送った。フィレンツェを呪ったのか。誰でも気軽にくぐれる門戸を開き、怖いもの見たさの衝動に駆られた者どもを誘惑しようってか。この物語は、復讐劇なのか。
ダンテが語る道徳観や倫理観は、極めて自己中心的である。いや、自己陶酔論と言うべきか。永劫の呵責を受けた亡者たちも負けじと、ことごとく自意識のオンパレード。だから、地獄なのかもしれない。暗黒界が盲目な者どもの世界だとすれば、それは現世と何が違うというのか。芥川龍之介は言った... 人生は地獄よりも地獄的である... と。

宗教の本質は、寛容さにある。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ預言者アブラハムに導かれた、いわば兄弟の徒で、アブラハムの宗教と呼ばれる。なのに、親兄弟による骨肉の争いは加熱の一方。エントロピーの力は偉大と見える。血が濃いほど、熱湯消毒が必要ってか。
宗教の不寛容さは、まず論理の整合性を求めるところに現れる。そうでなければ、庶民を説得できないのだから。だが、論理は緻密であればあるほど矛盾を露呈する。これを、いかに感情論で包み込んでしまうか、これが宗教テクニックだ。宗教上の真理は、知性や理性などではなく、もっぱら信仰によって導かれる。そして、人間が最も忌み嫌う死後の世界を、心地よい天国として具体的に提示し、信じる者は救われる!の原理に働きかける。
したがって、科学者や数学者、あるいは哲学者たちが、地獄に落とされるのも道理である。しかしながら、アブラハムの宗教から遠く離れた読者が眺めれば、妙に皮肉が効いていていい。ダンテ自身にそんな意図はなかっただろうが。芸術作品とは、そもそも独り善がりの産物であって、地獄の傍観者ダンテを傍観する酔いどれ天の邪鬼には、このスパイシーさがたまらない。マーク・トウェインは言った... 天国だの地獄だのについて、とやかく言いたくはないね。だって、どっちにも友だちがいるんだもん... と。

1. 「神曲」という邦題
「神曲」は、その成立時期からしてイタリア・ルネサンスの先駆け的存在で、キリスト教中心主義に古代ギリシア・ローマ文化を融合することによってルネサンスの道が開かれた。
ただ奇妙なことに、原題には「Commedia(喜劇)」という名が与えられている。アリストテレスの時代、悲劇や叙事詩は崇高で高尚な文学のジャンルに、喜劇は劣った人間を描写する俗的なジャンルとされ、ダンテの時代もその流れが受け継がれていたようである。
あえて、劣悪とされる「喜劇」と名付けたのはなぜか?ダンテによると、悲劇の発端は立派だが、結末は血生臭く恐ろしいもの... 対して、喜劇の初めは血生臭くても、終わりはめでたく楽しいもの... ということらしい。
ダンテは、字の読めるすべてのイタリア人に向けて、品のあるラテン語ではなく、トスカーナ方言で書き下ろしたという。喜劇という気楽さが気取らない文体とさせ、俗語的であるがためによく皮肉を効かせている。「幸いなるかな、貧しき者よ、神の国は汝らのものなり。(ルカ伝、第六章20節)」... とは、この精神であろうか。この文学的な意識転換がルネサンス革命の引き金になった... と解するのは、ちと大袈裟であろうか。あまりにも文学芸術として評判の高い作品だが、酔いどれ天の邪鬼には滑稽芸術に見える。
ちなみに、「神聖喜劇」は後世の命名によるもので、今日、一般的となっている「神曲」という名を与えたのは森鴎外だそうな。

2. プトレマイオス的な地獄観
キリスト教中心主義の世界観は、プトレマイオス的な宇宙観と対称的である。地球を中心に据えた天動説とは真逆に、地球の核に向かって地獄を掘り下げていく。地球は神の創造物で、天空に神が宿るとしたら、地球という天体の内部は悪魔の棲家というわけか。
なるほど、地表に地獄の門番たる小悪魔たちが蔓延るのも道理である。そして、いつも誘惑に負けるのよ。ダンテは、同心円状に地獄の十段を築き、最大の罪に「ユダの接吻」を配置する。最大の絶望をもたらすものが接吻だとすれば、小悪魔には気をつけろ!
サンドロ・ボッティチェリの「地獄の見取り図」には、右上に辺獄(リンボ)に位置する七つの城壁に囲まれた高貴な城が、地底近くに橋のかかった悪の濠が...




時は1300年春、復活祭の聖木曜日の夜半から聖金曜日の朝にかけてのこと。正道を踏み外したダンテは、暗い森の中に迷い込む。森から抜け出そうとすると、豹と獅子と牝狼とに妨げられる。森はダンテの罪深い生活の寓意で、三頭の獣はその罪の象徴だ。
絶望した彼の前に、詩人ウェルギリウスが現れる。天国にいるマリヤとベアトリーチェがダンテの難渋に同情して、ウェルギリウスに使いを依頼したという。ベアトリーチェとは、若くして死んだダンテの愛した少女。そして、ウェルギリウスの案内で地獄めぐりへと導かれる。
地獄の門へさしかかると、いずれの党派にも属さなかった人々の亡霊が、蜂や虻に刺され、逃げ回ている。三途(アケロン)の川にさしかかると、地獄の渡し守カロンの船が待っている。門には一人称で語かける言葉が刻まれる。

憂いの国に行かんとするものはわれをくぐれ。
 永劫の呵責に遭わんとするものはわれをくぐれ。
 破滅の人に伍せんとするものはわれをくぐれ。
正義は高き主を動かし、
 神威は、最上智は、
 原初の愛は、われを作る。
わが前に創られし物なし、
 ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり。
 われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ。

アリストテレスの「倫理学」における三つの性癖、すなわち、放縦、邪悪、狂おしい獣性が語られ、その中で、放縦の罪が最も軽いとされる。地球の中心へ向かうほど罪は重く、ウェルギリウスとダンテは地獄の下層界の町ディースへと導かれる。肉欲、貪食、浪費、義憤、異端、暴力、欺瞞、裏切り... これらの魂を呪う圏谷(たに)へ。アリストテレス風に言えば... 人間の技法は、およそ可能な限り自然の法に則っている... といったところであろうか。

3. 地獄めぐり
地獄めぐりは、聖金曜日の夕暮れから、聖土曜日の日没まで24時間のうちに行われる。さて、この酔いどれ天の邪鬼は、どの地獄の圏谷へ放り込まれることやら...

第一の圏谷...
ここは辺獄(リンボ)と呼ばれ、善良だがキリスト教の洗礼を受けなかった者の魂が堕とされる。キリスト教以前の人々、ホメロスやオウィディウス、ソクラテスやプラトンとて例外ではなく、リュケイオンの学徒(逍遙学派)たちも、その深遠の縁を逍遥する...

第二の圏谷...
入口には、罪業を糾弾するミノスが仁王立ちしている。セミラミス、ヘレナ、クレオパトラなど愛欲と肉欲のうちに埋もれた女たち。死後も二人一緒になったままで、パオロとフランチェスカの魂が徘徊している。13世紀のパオロとフランチェスカの愛の逸話は有名だが、ダンテは、これを不義として裁こうとしているのか。いや、パオロが美青年だったことが罪なのだろう。かつて美少年と呼ばれたおいらには分かるよ!

第三の圏谷...
大食らいだった連中が、冷たい雨に打たれ、肉体を浸す大地に悪臭が立ち込める。ケルベロスが、むしゃぶりついているのだ。大食らいは、大食らいによって処理されるのであった...

第四の圏谷...
貪欲な吝嗇家どもと金遣いの荒い浪費家どもが、円周状の道を重たい荷物を引きずりながらぐるぐる回っている。彼らは、出会い頭に罵り、殴り合い、いつもどこかで衝突している。荷物の重量は、欲望の重さ。同じ欲望に支配された連中は、同じ軌道から外れることができない。生前は欲望の重さに憑かれ、死後は欲望の重さで疲れ果てるとは、それは彼らにとって幸せであろうに...

第五の圏谷...
義憤の魂よ。憤怒の叫びは、亡魂になってもなお猛り狂う。これが彼らの性癖ならば、死後もそれが存分に発揮できて幸せであろうに...

第六の圏谷...
異端者たちが、墓穴から囁きかける。信じない者は盲目の徒として片付けられるが、異教の地獄に何を恐れようか!

第七の圏谷...
暴力を呪う三つの同心円が谷底に見える。他人、自己、神の円が。降り口には人身牛頭のミノタウロスが横たわり、咬みついてきたが、なんとか逃れる。
次に、半人半馬のケンタウロスの群れが現れる。彼らは野蛮の種族として知られるが、中でもケイロンは、アキレウスの育ての親で知性を持つことで知られる。ウェルギリウスが諭すと、ケイロンは同じ種族のネッソスに案内を命じる。

第一の円には、隣人の財産や身体に暴力を加えた者ども。暴君たちが、赤い血の川で熱湯責めにされている。あれが、アレクサンドロス大王か!あれが、シチリアに圧制をしいたディオニュシウスか!
第二の円には、自らの命を傷つけたり、自分の財産を蕩尽した者どもが、曲がりくねった樹木にされている。ダンテが、その枝を折ると、幹から血が吹き出す。これが自殺者の森か。蕩尽者も自己の抹殺者であることでは同じこと。
「激した魂が自らの手で命を絶って肉体から離れた時、ミノスは第七の圏谷(たに)へその魂を送り込む。」
第三の円には、神を冒涜した者ども。荒涼とした熱砂の上で神と自然に叛いた者たちが、火の雪を浴びている。おお神の復讐よ!恐るべき復讐よ!神とて不寛容さは、人間並か...

第八の圏谷...
十のマレボルジェ(悪の濠)に分けられ、十種類の欺瞞の罪が罰せられる。
「ここでは情を殺すことが情を生かすことになる。神の裁きにたいして憐憫の情を抱く者は、不逞の輩の最たるものだ。」

第一の濠では、女衒が鬼に鞭打たれる。
第二の濠では、糞尿の中に阿諛追従の徒が漬けられ、糞まみれの爪で我が身をひっかいている。
第三の濠では、聖職売買の徒が罰せられる。... おお魔術師シモンよ、おお哀れなシモンの徒よ!
第四の濠では、不遜にも未来を占った者どもが、胴の上に頭を後ろ前にされている。そのために、後ずさりしつつ進まなければならない。希望ある未来を提供したところで、過去は片時も休まず未来を抹殺し続ける。
第五の濠では、汚職収賄の徒が煮えたぎる瀝青(チヤン)の中に漬けられている。
第六の濠では、偽善者どもが、表は金ピカだが、裏は鉛の重たい外套をまとって、のろのろ徘徊している。
第七の濠では、盗賊どもが毒蛇に咬まれ、絡み合って苦しんでいる。邪悪が絡み合えば揉め事は絶えず、人間社会は蛇悪な存在というわけか。おまけに、蛇のように執念深い!
第八の濠では、権謀術策をこととした亡者どもが、一人ずつ炎にくるまれて焼かれている。
第九の濠では、中傷分裂をこととした連中が、応報の刑により、一刀両断されている。
第十の濠では、贋金造りや錬金術師どもが、疥癬にかかって身悶えする。腐敗した五体が放つ悪臭がたちのぼる惨状。

第九の圏谷...
ここは「コキュトス」と呼ばれる氷の沼、四つの同心円状で四種の裏切り者どもが罰せられる。現世とは、魂が氷河期の中で氷漬けされ、肉体だけが現世で生身のまま歩き回っているようなものか。
「どこを通るか気をつけろ。おまえの足の裏がみじめな憂い同胞(はらから)の顔を踏んづけないように気をつけろ!」

第一の円は、カインの国カイーナと呼ばれ、肉親を裏切ったものが堕ちる場所。旧約聖書「創世記」で弟アベルを殺したカインの名が与えられる。
第二の円は、アンテノーラと呼ばれ、トロイアを裏切った人物の名が与えられる。
第三の円は、トロメーアと呼ばれ、客人を裏切った者どもが堕ちる場所。「マカバイ前書」第十六章11-17節に登場する人物の名に由来するとも言われるそうな。
第四の円は、地獄の底にあたり、ユダの国ジュデッカと呼ばれ、恩人を裏切った者が全身を氷漬けにされている。最も重い刑に処せられるのが、イスカリオテのユダである。ダンテは、イエス逮捕時の「ユダの接吻」をどう裁こうというのか。ちなみに、後世にもイタリアのマフィアが裏切り者を処刑する際、この接吻を真似るという風習があると聞くし、ギャング映画のシーンでも見かける。

2017-08-06

"囚人のジレンマ - フォン・ノイマンとゲームの理論" William Poundstone 著

数学者アルバート・タッカーが考案した「囚人のジレンマ」は、非協力ゲームにおける、ある均衡状態をよく説明している。それは、合理的な個人の集まりであっても、互いに望ましくない選択をしてしまうというもの。しばしばナッシュ均衡の一例として取り上げられ、ゲーム理論の基礎概念を与えている。
ゲームの醍醐味といえば、際どい選択に迫られるスリリング。どんなに緻密に計算された戦略でも、想定外はつきもので、結局は直感が頼り。これを快感とするかストレスとするかは、プレイヤー次第だ。気まぐれや行き当たりばったりですら、合理的な行動として定義することができれば、数学は人間を凌駕するであろう。
そして、ゲーム理論が人間を研究対象とし、マッドサイエンスとなるのかは知らん...

本書は、ゲーム理論の発展にフォン・ノイマンの半生を重ねた物語である。フォン・ノイマンの功績といえば、プログラム内蔵方式と二進法の論理式で構成されるコンピュータの開発であろう。現在、コンピュータと名のつくものは全てノイマン型と呼ばれ、これ以外のアーキテクチャをおいらは知らない。彼はコンピュータの合理化を目指して人間の脳を研究した挙句、自己増殖するオートマトン理論へと導かれた。コンピュータ科学の巨匠アラン・チューリングもまた、暗号機「エニグマ」と対峙する中で、マシンに対抗できるものはマシンしかない!との信念から自らマシンを完成させた。
しかしながら、自己増殖や自己解決の道には、常に矛盾がつきまとう。その矛盾は、時には自己循環に陥れ、時には自己破壊を強いる。残念なことに、懸念もまた自己増殖するのだ。人間が自己言及を試みるものは、すべてこの罠にかかる。ゲーデルの不完全性定理は、すべての論理的問題が公理化によって解決できるわけではないと言っている。アインシュタインやゲーデルがいるプリンストン大学でフォン・ノイマンは伝説となった。これは、同僚たちが語ったジョークだそうな。
「フォン・ノイマンは人間ではない。人間について詳しく研究し、人間を完全に真似ることができた半神半人だ。」
そして、20世紀最大の天才は、20世紀最大の悲観主義者となり、物悲しい調子で人生を終える。矛盾とジレンマは、よほど相性がよいと見える。天才の人生とは、板挟みの物語であったか...

ナッシュ均衡のような状態を想定することは、それほど難しくはない。例えば、あらゆる外交交渉は、この均衡点の模索と言っていいだろう。フォン・ノイマンは、マンハッタン計画に参加し、ランド研究所にも関わり、核兵器開発に大きな役割を果たした人物の一人。崇高な科学ほど悲しい運命を強いられる。それは、まずもって人間を抹殺するための道具に応用されることだ。これに加担させられた科学者は、概して平和論を唱えることに。
本書は、軍拡競争における核の抑止力という視点からのジレンマを物語る。ここでの対立とは、正しさを競うゲームだ。正しさを争うことが正しいとするなら、既に循環論に陥っている。そのために優秀な政治コンサルタントを雇い、正義をも道具にする。自分が絶対に正しい!自分が正義だ!こうした言動は本当に信念と呼べるものなのか?あるいは政治家どもの性癖か?
今、ラジオから中島みゆきの歌が聴こえてくる... 正しさと正しさとが相容れないのは、いったい何故なんだぁ~ Nobody is Right... Nobody is Right... ♪

1. 協調性と利己性
囚人のジレンマに介在する人間心理は、協調と裏切りの駆け引き。利害関係の生じる場では、いつもメフィストフェレスが耳元で囁いてやがる。裏切れば楽になれると。騙すより騙される方がいい... とも言われるが、それは本当だろうか?非協調ゲームといえども、利害が一致すれば、しばしば協調ゲームと化す。だからといって、協調を正当化するには心許ない。お人好しが馬鹿を見るのは、いつの時代でも同じ。あなたを信じています... あなたは正直だから... なんて言葉を浴びせられれば、なんとなく負い目を感じる。やさしげな言葉が暗示にかけ、強迫観念に囚われ、ここに奇妙な仲間意識が現れる。そして、少しでも期待を外せば、裏切り者呼ばわれ...
他人に同情を寄せる度合いは、自己の幸福度によっても左右される。散々大儲けをし、散々競争相手を破滅に追い込んでおきながら、巨額な富を獲得した途端に慈善団体を設立するとは、どういうわけだ?過去への償いか?善人への憧れか?それとも、強欲に飽きたのか?徳を唱える修道士が最も残虐な行為に及ぶとは、どういうわけか?そうでもしないと、徳を知ることはできないというのか?
とはいえ、道義も捨てたもんじゃない。自分の命を犠牲にしてでも、相手を助ける方を選ぶかもしれないような状況は実に多い。子供の方が先が長いという理由や、愛する人のためにだったり、職務的な義務だったり。実際、それほど裕福でなくてもボランティアに励む人は多い。大災害を目の当たりにすれば尚更。おまけに、盗賊にだって仁義はある。
人間にとって利己性と協調性は、双方とも本性的なもの。進化論風に言えば、種の存続のためには互いに啀み合っても得るものはない。
一方で、種が形成する社会の中で優位性を確保するためには相手を出し抜こうとする。その場合、適者生存という用語は弱肉強食と混同される。種の危機の度合いによってもどちらが選択されるかが左右され、人類絶滅の危機ともなれば協調性が優勢となろう。つまり、共通の敵をどの範疇で見い出せるかにかかっている。概ね人間社会では、協調性は正しく、利己性は悪とされる。そのために協調を崇める人は多く、しばしば不平等条約や不条理な関係を強いられ、理不尽な義務までも背負わされる。イジメは、こうした類いの動機から発するのだろう。ならば、協調にも逃げ道があっていい。理性にも、義務にも、愛にも、逃げ道があっていい。そうでなければ息苦しい社会となろう。互いに監視の目を気にしながら生きるのは辛い。社会全体が協調し、ルールを完全に守っているという状態も異様だし、不気味ですらある。もちろん、裏切りの蔓延る社会も同様に厄介だ。双方とも人間の本質の何かを抹殺しようとしているようなものか...
そもそも人間は不合理な存在であり、理性そのものがジレンマにある。理性とは、抑制する力だ。自分の自由が暴走するのを食い止める力だ。理性者が自分の理性に自信を持つようなら、自ら神を名乗るようなもので、既に理性は暴走を始めている...

2. 公平原理とミニマックス定理
平等の原理の一つに、選択のためのルールの決定権を有する者が、最後に選択するというものがある。例えば、子供たちにケーキを切って分けるアルゴリズムで、切る者は残り物をとるというルールを加える。ここでは、すべての子供が一番大きいケーキを欲しがるという価値観を共有している。そして、ケーキを切るところはみんなが見ており、何等分されるかもみんな納得の上。ここには、公平性は情報公開という透明性が担保されるべきだ、という原則がある。ただ、こうした原理は、既にカントのような哲学者が唱えており、なにも数学を持ち出さなくても説明はできる。
現実世界では、もっと複雑な条件が加わる。胃袋の小さい子もいれば、近年、子供の糖尿病患者が増える傾向にあり、小さいケーキを欲する子もいるかもしれない。そして、余ったケーキを他の子供に分けるとなると、仲良し順ということにもなり、私が一番大切な友達だよね!なんて、見返りの世界へと突入する。公平であったはずのアルゴリズムも、恨みや妬みを買い、仲間割れを助長するかもしれない。人間の価値観は、数学では計り知れない多様性を孕んでいるもので、人間関係もまた実に醜いものを見せつけるものである。
結局、公平原理も妥協に応じるしかない。そこで、最悪を避けるという戦略が考えられる。それが「ミニマックス定理」だ。想定される最大の損失から最小の損失に食い止めようとする選択であり、これがゲーム理論の根幹をなす法則となる。この定理は、利害が完全に衝突する二人の間の正確に定義される対立には、必ず合理的な解があると言っている。双方が、これ以上のことは期待できないと納得できれば、それが合理的な解というわけだ。こうして見ると、ゲーム理論の処方は、極めて保守的だと言わざるをえない。ただ、妥協とはそういうもの。人間は、こうした合理性からは程遠い存在だというのか。そうかもしれん。特に、権威や名声を気にする人間は... フォン・ノイマンが悲観主義者となったのも分かるような気がする。

3. 攻撃は最大の防御!... これは本当に黄金律か?
神秘論者としても知られる偉大な数学者バートランド・ラッセルは、フォン・ノイマンと同じく、戦争と平和について多くの時間を割いたという。もともと帝国主義者だったらしいが、ボーア戦争の体験から平和主義者に変わったと自伝に書いているとか。彼は、ゲーム理論の専門家ではないが、「チキン・ジレンマ」という造語を編み出したという。核兵器による軍拡競争を詰った言葉だ。核のボタンを押すか押さないか、このギリギリの選択もまたチキンレース。
ラッセルは、「戦争のための戦争」という予防戦争論を唱えたという。予防と言えば聞こえはいいが、実は核戦争が起こる前に敵の核施設を破壊してしまえ!という発想である。攻撃は最大の防御!という戦略は古くから唱えられ、最も古い戦記物語でも奇襲攻撃の価値は論じられている。
しかしながら、孫子の兵法は、そうは言っていない。戦わずして勝つ!を信念とし、自国の防衛力を整え、相手に攻撃しても無駄だと思わせることが肝要だとしている。また、孔子は、政治とは、食、兵、信であるとした。兵がなくても食がなければ、人は生きられぬ。だが、信がなければ、食をめぐって争いとなる。ゆえに、優先順位は、信、食、兵の順になると。さらに、信の上に兵をなせば、安全保障の概念と結びつき、防御の姿勢となる。
こうした考えは、リデル・ハートや J.F.C.フラーのような戦略家、あるいは、ハインツ・グデーリアンのような将軍も唱えており、概して優れた軍人はこうした戦争哲学に落ち着くようである。
確かに、ガンマンなら早撃ちの方が圧倒的に有利だ。だが、相手が凄腕だと知っていたら、わざわざ喧嘩を仕掛けるだろうか。勇気と無謀は紙一重。防御姿勢は兵法で広く用いられる戦略であり、剣法にも、格闘術にも、見て取れる。隙をおおっ広げにしながら、実は隙が見いだせないという姿勢だ。武士道の王道は、相手に剣を抜かせないこと。先手必勝とは、先に備えるという意味で必勝となる。
人間ってやつは、どんなに平和ボケしていようと、不当な先制攻撃を受ければ、悪魔のように怒り狂い、悪魔のように戦える。正義に反する行為は、世界世論も黙ってはいない。逆に、正義を掲げられなければ、民衆を団結させ、導くことも叶わない。そのために、正義はあらゆる政治屋に利用されてきたし、今後も続くだろう。正義にもジレンマがつきまとう。
そして核の時代、本国を無力化するだけでは不十分である。核弾頭搭載の潜水艦は世界の海で暗躍しており、どこからでも反撃を喰らう可能性がある。そして、人間が人間を抹殺するリスクを高め、核は事実上使えない兵器となる。ならば、わざわざ持つまでもあるまい。開発にも維持にも膨大な費用はかかるし、経済的損失は大きい。むしろ、いつでも作れるとという技術力を見せつける方が合理的であろう。核兵器を保有しても国が貧しければ、いずれ息切れする。ただ人間ってやつは、追い詰められると、何をしでかすか分からない。理性的に振る舞っている政治指導者が、政権の危機に直面すれば本性を剥き出しにし、最低限の理性までも放棄しかねない。だからこそ、より冷静な防御態勢が重要となる。攻撃力を盲信し、防御力を疎かにして招いた悲劇は、既に経験済みだ。
人間は大きな誤ちをしでかさない限り、自分の理性に自信を持ち続け、誤ちを認めた時に哲学者となりうる。ではラッセルは、一度、世界が放射能化してしまえば、それに気づくとでも言うのか?これが予防戦争だというのか?人類共通の危機を目の当たりにすれば、利害関係を超えた根源的な哲学が必要となる。原子爆弾の登場が戦争の様相を変え、知識人の間で世界政府構想を加速させた。アインシュタインは原子力を管理するための世界組織の必要性を訴え、オッペンハイマーもこれを支持した。冷戦時代、最悪の悲劇は避けられたという意味では、ミニマックス定理が機能したのかもしれない。いや、運が良かっただけのことか...
「予防戦争の理論とは、『自分に向けられたら恐ろしいと思うことを相手に対して行なう、つまり相手より先に攻撃をする以外の方法はない』というものだ。しかしこれは、弱者や臆病者の発想である。ギャングの言い分だ。」

4. 社会のジレンマ
本書は、人間社会で生じるジレンマを四つに分類している。まず、ゲームとして成り立つ最も単純な形は、プレイヤーが二人いて、二つの選択肢がある時。その選択肢は、協調(C)と裏切り(D)で定義され、とりうる利得パターンは、2 x 2 の状態をとる。二人が協調した場合の利得を CC、二人とも裏切った場合の利得を DD、一方が裏切った場合、協調した側の利得を CD、裏切った側の利得を DCとする。すると、利得の大小関係によって、四つの基本パターンに分類できるという。

  DC > DD > CC > CD = 行き詰まりゲーム
  DC > CC > DD > CD = 囚人のジレンマ
  DC > CC > CD > DD = チキンゲーム
  CC > DC > DD > CD = シカ狩りゲーム

行き詰まれば、D が優勢となり、ただちに裏切りが蔓延する。囚人のジレンマとチキンゲームは、裏切った方が得をすることになるが、相手の出方次第では協調した方が得な場合もあり、互いに妥協点を模索して、左から二番目の状態に落ち着くかもしれない。シカ狩りでは、共に協調した方が得となろうが、相手が嫌いだったら、わざわざ狩りの邪魔をするかもしれない。チキンゲームでは、一度怯むと、臆病者の汚名をかぶせられることを恐れる。臆病者ほど相手に臆病者のレッテルを貼りたがるものだ。権威や名声を気にすればするほど、そうなるものらしい。そして、勝利の快感を味わうために、相手に議論を仕掛ける。
したがって、チキンゲームは弱虫同士で成り立つ論理ということになる。それで均衡点が見い出せるならば、そんなことは政治家たちに任せておけばいい。賢明な一般人は、政治そっちのけで、経済交流や文化交流で戦争リスクを相殺させている。
ルソーは「人間不平等起源論」の中で、人間の諸悪は社会から生まれたとした。社会とは、相手との関係から生じるもので、相手がいなければ嫌悪感もわかない。関係の生じない原始の時代には、そんな感情を持つこともなかったことだろう。人間社会では、何も悪いことをしていなくても、ただ幸せに生きている人だって、恨まれることがある。自分より幸せな人を妬んだり、人の失敗を喜んだり。
逆に、目の前の人々が不幸のどん底にあるのに、自分だけが幸せになっても素直には喜べないところがある。政策論争では、自分が手柄を立てられる立場ならば賛成し、他人が成功しそうならば抵抗勢力になって邪魔をしたりする。
ただ良心によって、協調の方にややバイアスがかかっているのも確かであろう。そうでなければ、人間社会がこれほど繁栄することはなかっただろう。利己的な人間であっても、いつも裏切るとは限らない。協調すれば物事がうまくいくからといって、単純に正当化できないところが、人間社会のややこしいところである。