2007-07-29

"世論(上/下)" Walter Lippmann 著

今日は選挙である。所詮参議院であるが既に期日前投票に行っている。
アル中ハイマーにもまだ社会的インセンティブが働くようだ。
投票を済ませたからには朝からベロンちゃんである。
アル中ハイマーには既に道徳的インセンティブは働かないようだ。
ブログの記事もそれらしいものを選びたい。と思っているとちょうど良い本を見つけた。既に読んだ本を読み返すのも経費の節約になる。
アル中ハイマーの経済的インセンティブは健在のようだ。
本書は本棚奥深く眠っていた。読んだ記憶が薄っすらとある。ちょうど読み返したいと思っていた名著である。読んだのは社会人になったばかりの頃だ。
現在16進数で20代だから。。。なーんだ!5年ぐらい前のことかあ!尚、年齢表記にはアルファベットを要する。

本書の冒頭には、執筆した動機は第一次大戦後の混乱を解明することにあったとある。いかにも、アル中ハイマーが喰いつきそうな台詞である。「世論」は1922年に刊行された歴史的な名著古典と言われるだけあって当時の洞察力には感心させられる。分類すると社会学になるのだろうが、心理学の面かもら考察され、時には歴史を感じ、哲学にも通ずる。何よりも凄いところは、現代に照らし合わせてもまったく違和感がない。世論を動かす情報のあり方や民主主義の特性などがよく描かれている。リップマンが将来予測をしていたかどうかはわからないが、今生きていたら自画自賛していたことだろう。本書のように昔から名著として読まれつづけているものは真理を語っているからであろう。古典に親しむのもなかなかおもしろい。有名な本だけに、著名なジャーナリストや社会学者、政治家が読んだことだろう。その結果できたものが、今の情報社会であり政治社会ということかあ。なんとも皮肉に思えて酔っ払いには理解できない世界である。本書の内容を記事にまとめるのは至難の業である。重たい本だからである。しかし、記事にしてみると意外とシンプルになってしまった。そもそもアル中ハイマーに重たいものを記憶できようはずもない。
では、少し酔いが覚めたところで気まぐれで章立ててみよう。

1. 擬似環境
本書は、人の行動と心理のメカニズムを「擬似環境」という言葉で関連付けている。それは、事実から乖離したイメージ環境のようなものを作り上げるということである。世界の出来事などは、情報の時間差もあれば、発信者の主観が入り込むなどの要因から擬似環境が生じる。人の行動は、この擬似環境に影響を受けるが、現実との乖離が大きいほど矛盾が生じる。人間が物事をイメージする際、見て定義するのではなく、定義してから見ると語られるあたりは、説得力のある考察だと感心する。人間は、体験から虚構な世界を作りあげる性質があるのだろう。おいらのような馬鹿には、まず情報を解読する前に下準備が必要である。即座に反応できないからである。その時点ですでに虚構の世界をさまよっている。人間は単純な性質を好む。ほとんどの事柄について自己分析した結果、単純にモデル化してしまいがちである。

2. ステレオオタイプ
人間がイメージをつくる際、ある種の固定概念によってイメージが左右されることはよくあることだ。こうした状況を社会学ではステレオタイプと呼ぶ。多くの人々が、同じ考えや態度や見方を共有している状態になり、ある種の紋切型態度をとってしまう。この固定概念が擬似環境と結びついて、都合の良い情報を取り入れたり偏見が生じるといった、世論が加速する状態を生み出す。世論はステレオタイプに初めから汚染されているものと考える必要がありそうだ。しかし、ステレオタイプは政治情報の乏しい一般人にとって時間を節約してくれる役目もある。盲目とは、時間を節約して気楽に酔っ払えることを意味している。本書は、このような特性を古い世代の経済学者によって無邪気に規格化されてきたと、当時の経済神話を語ってくれる。また、歴史上の考察もおもしろい。歴史上の善悪を語ったものに、過去を客観的に考察しているものはほとんどないと述べている。民族間で起きた揉め事が感情的に言い伝えられるのは、時間観をご都合主義にしている典型であろう。当時の出来事を今の道徳観で裁定することはよく見かける。もしアル中ハイマーに、歴史上の条件がそのまま降りかかったとしたら、果たして当時の人間の行為を批判できるような行動を取れるだろうか?仮に最新鋭の道徳観で武装していたとしてもである。

3. 民主主義
本書は、当時の民主主義のあり方や風潮を語ってくれる。当時は、人々が公共の事柄について有効な意見をもっていなければならないという夢物語のような社会が弁じられていた様が語られる。民主主義者たちは、報道界こそ、こうした補完機能を持つものだと信じていたようだが今と変わっていない。
著者曰く。
「私は主張したい。政治とふつう呼ばれているものにおいても、あるいは産業と呼ばれるものにおいても、選出基盤のいかんによらず、決定を下すべき人々に、見えない諸事実をはっきり認識させることのできる独立した専門組織がなければ、代議制に基づく統治形態がうまく機能することは不可能である。」
当時のジャーナリズムは、適切な世論作りには不完全であり、むしろ健全性が損なわれていると攻撃している。果たしてマスコミが第三者機関になりうるだろうか?現在もまた、自己主張を煽り、正義の味方を気取るマスコミや評論家連中がいるように感じるのは、きっとアル中ハイマーが世の中に悪酔いしているからに違いない。

4. 結び
著者は、本書の結びの章で、世論の発生がいかに政治や社会を正常化する方向に結び付けられるか、数々の問題に対する結びとして最後に何を語るべきか、について悩んだ様を語ってくれる。アル中ハイマーも、これほどの重たい本の結末をどう処理するか期待していたところである。いろいろとネタを用意していたようだが、結局「理性」に訴えるしかない。と片付けている。最も単純で最も難しい結論に達しているように思える。確かに、真の政治家や指導者というものが判別できれば、理性という言葉には説得力がある。しかし、その判別は所詮無理であろう。本書も政治に理性を求めるのは不可能であると悲観的見解を述べている。と同時に、希望を持つべきであると励ましているかのようにも思える。思ったより簡単に片付けられているのは拍子抜けである。しかし、これだけ重たい文献に対して、「理性」の一言をぶつけるあたりは、逆に本書の価値を高めているように思える。生物遺伝子は突然変異するものである。現在が悲観的だからといっても、もしかしたら人間が突然変異し楽観的な結論に達するかもしれない。コクのあるスコッチも酒樽で長く眠っている間に熟成される。社会だって熟成されて突然変異する可能性だってないとは言えない。

最後に、題目「世論」について、酔っ払いの見解も語らずにはいられない。そもそも世論はどうやって発生するのだろう。人間は、あらゆるものに興味を持つ。退屈しない生活を求めるのである。意外性があってはじめてニュースの価値が上がる。よって、世論が盛り上がるのも、その変化に富んだものに向けられ、慣れ親しむと廃れてしまう。世論が維持される期間は極めて短いのである。政治家やマスコミが正義感たっぷりに主張する時、例外なく主語に「国民は」という言葉を添える。まあ、国民という言葉は幅広いし、議員や、マスコミも国民であることに間違いはない。ここで、ジャーナリズムの本質について語っていると思われる個所があったので付け加えておく。
「ニュースのはたらきは、一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきは、そこに隠される諸事実に光をあて、相互に関連付け、人々がそれを拠り所にして行動できるような現実の世界を描き出すことである。これらが一体化した時、世論の力が発揮される。」
健全な世論の形成はありうるだろうか?一つは子供の頃からの教育にかかっている。ということは、大人では変化できないということか。いつのまにか本書と同じ悲観論に達している。
ということで結論は、世論は擬似環境に左右されつつ、あっちの店が良いか、こっちの店が良いか揺れ動く。千鳥足でさまよった挙句、虚しく帰路につく。目が覚めると記憶が辿れない。そこには、携帯番号付きの妙な名刺が目の前に散りばめられている。こうして擬似環境は忘れられていく運命にある。

2007-07-23

"Fedora7で作る最強の自宅サーバー" 福田和宏 著

いつのまにか名前がfedora coreからfedoraになっている。
extraパッケージがcoreと一体化したからのようだ。アップデートするのも面倒だけど、LiveCDとかいうのにつられて買ってしまった。インストールしなくてもCDで起動して遊べるからおもしろい。でも飽きちゃった。どうせインストールするからどうでもええのである。

では、!さっそくインストール!
ありゃ!GUIで任意のポートのセキュリティレベルが反映されないぞ!
まあー!コマンドでやりゃええんだけど。
おおー!バグジラに情報が載っている。
ほおー!セットアップ時の設定は反映されるんだ。
ほんで!これをインストール後に動かすには。これで良さそうだ!
なんか!SELinuxの思想が変わってそうだなあ。
んんー!今のところKernel Panicが出ない。機嫌はよさそうだ。
ちなみに、おいらの頭はいつもKernel Panic !!!である。

本書は入門書でとても丁寧に書いてくれるので、アル中ハイマー病にはうれしいのである。ただ、ほとんど読んでいない。いままでの設定で動かないはずもなく、困った時にはきっと活躍するだろう。
さあ、サーバテストをしよう。やはり夜の社交場から覗かないとテストとは呼べないのである。

2007-07-22

"あやつられた龍馬" 加治将一 著

本書は「石の扉」に続いてフリーメーソンの物語である。
著者は、幕末の志士達とフリーメーソンの関わりを示した歴史書のつもりかもしれないが、アル中ハイマーには推理小説ばりでなかなかおもしろい。そこには、坂本龍馬がなぜ暗殺されたか?仕組んだ奴は誰か?その状況証拠を順に暴いていく。
龍馬といえば幕末時代。日本の大改革の時代として語られる文献も多い。ただ、アル中ハイマーはこの時代にいまいち興味がもてない。昔読んだ本の影響だろう。無理に美化された印象があり説得力を欠くからである。政治の泥臭い部分をさらけ出して歴史のこくが出るというものである。本書は、そうした印象を違った角度から見直させてくれるのでアル中ハイマーには意義深い。

物語は、龍馬暗殺事件で一般的に語られる歴史に矛盾を呈するところから始まる。龍馬には二階奥の部屋に陣取り刺客対策をしているなど危機管理意識があった。にも関わらず抵抗した形跡がないなど不自然なところが多い。周囲の証言も矛盾だらけだという。これは、誰も真相が語れない大きな力が存在するのではないかと示唆している。
そして、龍馬の行動を追っていく。龍馬の脱藩は特殊任務であり諜報活動であったことが語られる。武士の世界では、脱藩は重大犯罪であり罪は家族にまで及ぶ。しかし、土佐藩からはお咎めなし。藩内にも自由に出入りできた。これはいかにも奇妙である。また、龍馬のような下級武士が、いきなり歴史の表舞台に現れること自体が疑問であるという。幕末の志士に歴史のロマンを感じたり憧れを描いている人は衝撃を受けるかもしれない。ただ、明治維新のような時代に数々の陰謀が取り巻いてもなんら不思議はないのである。

時代背景は、幕末の志士達は欧州列強から国を守ろうとした。自由貿易で近代文化を取り入れる必要があり開国へと走った。英国もまた自由貿易により影響力を増したかった。英国から見れば、幕末の志士達は反体制テロリストにでも見えたことだろう。武士の魂を葬り東洋の島国を転覆させようなどと考えていただろう。いずれにせよ、双方とも攘夷派を一掃しようと考え利害関係は一致していた。これは一般的な歴史が示している通りである。数々の歴史本では、幕末の志士達は西欧の自由や平等という価値観に憧れたことが語られるが、フリーメーソンが持つ神秘性となんとなくつながりそうだ。また、同じ島国でもある世界最強の大英帝国に学びたいと憧れたりもしただろう。大英帝国こそ大日本帝国の産みの親かもしれない。
では、その黒幕とは?「石の扉」でも取り上げたトーマス・グラバーである。幕末の志士達が英国へ留学できたのもグラバーの支援による密航であると語られる。

幕末当時活躍した藩と言えば、薩摩藩と長州藩だろう。おいらは、幕末の大改革に、なぜ遠く離れた薩摩藩が主役になれたのかという疑問を持っていた。江戸時代の藩の収入は石高で決まる。貿易でも収入を得ていた薩摩藩は自由貿易の大切さを知っている。外国と密かに交流していたからには情報の優位性もあったであろう。薩摩藩と言えば、西郷隆盛が主役で、島津斉彬、大久保利通などとつづくが、大阪実業界トップにも君臨した五代友厚の扱いは地元では低いらしい。本書では、五代がグラバーの秘密工作員だったという仮説を述べている。グラバー邸は、倒幕の志士たちの隠れ家となっており、五代もその一人であるという。実は幕府と倒幕派には秘密ルートがあったこと、倒幕派でも武闘改革派と無血改革派があり、これら全てがグラバーで結びつく様子が語られていく。

五代の活躍に生麦事件の処理を紹介している。
薩摩藩の大名行列に英国人が通りかかったところを藩士が無礼打ちした事件である。この代償に軍船を明渡した疑いがある。西洋の近代兵器と戦ったところで勝ち目がないと見て、頑固な薩摩藩の意地を立てて密かに英国と取引したものである。
長州藩については下関事件を取り上げている。
歴史では、和平交渉が決裂し英仏米蘭の連合艦隊に一斉砲撃したことになっている。しかし、実は和平交渉は儀式であり英国側の真意は攘夷派撲滅の口実がほしかっただけだったという。平和を求めたが蹴られたという既成事実を完璧に演出したのである。これは欧米の伝統的手法なのか?酔いがまわってきたせいか真珠湾とイラクを思い重ねてしまう。

やはり外交手法については、日本は伝統的に遊ばれているようだ。日本の政治が三流と言われる原因は外交交渉だけではないだろうが、民主主義の世界では、政治的に優位に運ぶためには要望だけでは戦術にならない。無理やりにでも何らかの正当と思わせる理由が必要である。それが議会を動かす力であり他国への説得力である。理由付けを作る諜報活動も民主主義が生み出した高等技術と言えるだろう。現に英国は幕府側の人間ともうまく情報交換していたらしい。表向きは中立の立場をとっていたが諜報活動に余念がない。結果的に幕府側は英国の術中に嵌った。さすが最先端の民主主義国家である。英国政府は、誇り高き武士に気づかれなぬよう、あくまでも秘密裏に事を起こしている。本書は、明治維新を起こさせたグラバーとアーネスト・サトウの英国諜報ラインを暴いた感じである。各藩を倒幕派に走らせた駐日英国公使ハリー・パークスの巧みな倒幕工作と合わせて語られる。日本中を軍艦で脅し回って、残ったのは会津、長岡、南部、二本松などいずれも内陸で英国軍艦を目撃できない所か、海に面していても英国軍艦が立ち寄れない小港をかかえる藩である。歴史は英国の武力に屈した感がある。

いよいよ、龍馬暗殺事件の結末に迫る。
本書は、薩長同盟における坂本龍馬の影響がどれほどあったのか?疑問を投げる。そもそも脱藩した下級武士がそれほどの仲介ができるのか?やはり黒幕はグラバーということになる。
歴史では、坂本龍馬と中岡慎太郎の2人は京都近江屋に滞在中、京都見廻組に襲撃されたことになっている。免許皆伝の凄腕の二人が反撃の間を与えずに暗殺されている。龍馬に至っては拳銃を撃つ暇も与えていない。また、隊長がやられたというのに事件直後陸援隊も海援隊も騒いでいない。本書は改革派が分裂していた仮説を持ち出す。無血改革派と武闘改革派の対立である。目的が一致しても方法論をめぐって対立することはよくある。
まあ、そんな内輪揉めはいいとして肝心の2人を暗殺した奴は誰やねん?
なにー!ジェフリー・アーチャーばりじゃん!
なぜそう思ったかって?たまたま「ケインとアベル」を観ただけのことで特に意味はない。

本書は、幕末の志士の誰がフリーメーソンだったかという証拠はないが、フリーメーソンによって影響されたのは確かであると語られる。いったい明治維新とは日本人にとってなんだったのか?「君が代」の元曲でさえ英国人の作曲であるとしめくくっている。
日本は大英帝国にあやつられて近代化した様子が語られているのだが、見解はもう一つあるだろう。日本が大英帝国を逆利用したとは取れないだろうか。この時代、西欧のご都合主義で、植民地化が進む中国人は正直者で、自立を目指した日本人は信用ならないというのを昔本で読んだのを思い出す。
W.リップマンは書籍「世論」の中で、陽気なアイルランド人、論理的なフランス人、規律正しいドイツ人、無知なスラブ人、正直な中国人、信用ならない日本人、などの固定概念を持っていると記している。
本書を読んで日英同盟までの歴史は描かれた筋書きのように思える。英語が国際語となったのは第二次大戦で米英が勝ったからと言う人も多いだろうが、キリスト教の宣教活動とフリーメーソンの役割は大きいだろう。本書で語られる数々の仮説が全ての矛盾を解明しているとは到底思えない。ただ、一般的に語られる歴史よりも説得力を感じるのは、アル中ハイマーがただの酔っ払いだからかもしれない。

2007-07-15

"石の扉" 加治将一 著

立ち読みをしていると、なんとなく懐かしいキーワードにぶつかった。フリーメーソンである。フリーメーソン、ユダヤ、世界大金融といえば、陰謀めいたものを感じて一昔前に興味を持ったことがある。
本書は陰謀説とは少し離れて柔らかい感じがする。フリーメーソン紹介書といったところだろう。冒頭から事実に基づくとある。信憑性があるかどうかは意見が分かれそうだが、読み物としてはなかなかおもしろい。記事にするからには買ってしまうのだ。

フリーメーソンは、世界最古にして最大の秘密結社である。
思想は、自由、救済、真理、平等、友愛。思想信条を一つにすることもなく強制もない。宇宙には人間の及ばないなにか至高なるものがあって、それを神と呼び、その存在を信じている。どこの宗教の信者も問わない。守るべき戒律はない。
アル中ハイマーは、なんとなく高度な理性と秩序に支配された世界であるという印象を持っている。宗教の香りもするが、宗教は愛も育てるが憎しみも育てるので簡単には説明がつかない。
なぜ、秘密組織が何百年も続いているのか?なぜフリーメーソンが世界を動かしていると噂されるのか?世界に400万人のメンバーを有し共通の掟を持っている。そんな大人数で何をやっているのか?
世界征服、ユダヤの陰謀、カルト教団、更には宇宙人の侵略などいろいろと噂される中で、本書はこれらの陰謀めいた話を否定する。フリーメーソンというだけで暗号やサインで互いに分かち合えれば、世界各国で要人を紹介してもらったり、VIP待遇もあるというから興味を持たざるをえない。さっそく、酔っ払い気分で勝手に章立ててまとめてみることにしよう。なぜかって、そこに泡立ちの良いビールがあるから。

1. その語源
フリーは自由。メーソンは石工。欧州の街並みは、城、教会、家などの建物から、道路、橋、水道というインフラまで石造りで埋め尽くされる。石こそ国家の要であり、石工は重要な位置付けにあった。城などは国家の最新鋭防衛システムであり、石工のマスター(親方)は国防の重要人物である。石工のマスターを束ねるグランドマスターは国防長官といったところだろう。あの荘厳なゴシック建築を見れば圧倒される。石工も馬鹿にはできないのである。言い伝えによると、初代グランドマスターは世界一栄華を極めていたイスラエルの王、ソロモン王だったらしい。ただし、史実上の裏づけがなくメーソンの経典に書いてるだけである。こうした話から、ユダヤ教を崇拝し、ユダヤ陰謀説などとこじつけられる材料とされるのだろう。いずれにせよ、ユダヤ教、キリスト教の影響を受けているのは確かなようだ。また、フリーは自由と訳すよりは、免除と訳すべきらしい。税金の免除など、数々の特権が与えられたという意味で捉えるべきのようだ。よって、フリーメーソンとは、上級資格をもった石工という意味である。

2. その原形
国家事業として建設を行う場合、石工職人を募る必要がある。この時、資格制度があれば職人の区分けが容易い。これがフリーメーソンの原形であるという。職人の区別は階級で管理される。この資格を売買する輩もいたので極刑で管理されていたようだ。この管理体制、階級体制がピラミッド型になっている。こうしたことから、ピラミッドはフリーメーソンが建設したと主張する人もいるようだが決定的証拠はない。本書もピラミッド建設にフリーメーソンが関わっているという仮説を支持している。そもそもフリーメーソンの性格からして証拠が残されている方がおかしいという。
しかし、統制が確立している組織とは、だいたいがピラミッド型の管理体制になっていると思うのはアル中ハイマーだけだろうか?
ピラミッドは王の墓ではなく公共事業であったという考えはほぼ定着している。では何のために?本書は、何かの儀式を行うための館だったのではないかという仮説をたてている。フリーメーソンのロッジは世界中に散らばっているが、エジプトゆかりの名前を冠したものが多く見られるらしい。なんとなく古代エジプトとの関わりはありそうだ。

3. 十字軍との関わり
素人目に見ても、宗教との関わりがありそうなことは薄々感じる。イスラム教もキリスト教も古代エジプトのイシス信仰を受け継いでいるので関わりがあるだろう。本書でも、イスラム教対キリスト教の構図として十字軍を取り上げている。騎士団は12世紀以降のヨーロッパで発生した強固な結社であり、背景はいずれも反イスラムである。三大騎士団と言えば、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団。テンプル騎士団は、なぜ秘密結社という形態にこだわったのか?彼らの儀式や集会の秘密性。これは独特な世界観を植え付ける心理的作用があるという。武士でも似た面があるが、騎士としての気品の高さだろうか。人間は、あらゆる面で他人より高貴であると思いたいのだろう。ブランド志向や、社会的地位を求めるなどはその典型である。高貴と言われる世界には必ず儀式が存在する。天皇家に見られる儀式も、日常からは遮断されているがゆえに気品が保たれていると言っていいかもしれない。気品とは一般人との差別意識ということか?差別化の度合いは一般社会との乖離度に比例すると述べている。例えば、ゲリラや犯罪組織など、儀式が反道徳的であればあるほど仲間の結束も固い。ロッジを創ることは、餓鬼の頃、仲間で秘密の隠れ家などを作って遊んだ感覚と似ている。本書は、フリーメーソンとテンプル騎士団の共通性について語り、深い関わりを持っていたのではないかという仮説を立てている。十字軍は、ユダヤ人勢力も目障りであった。イスラム教だけでなく、その矛先は旧約聖書を掲げるユダヤ教にも向けられた。ゆえに、ユダヤ人は秘密裏に集会を行い、フリーメーソンという隠蓑を使って差別主義をかわしたという仮説も立てている。

4. 明治維新との関わり
本書は、坂本竜馬の雄大にしてトリッキーな行動はいったいどこから生まれたのか?と疑問を投げる。幕末から明治にかけて活躍した西郷隆盛、高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎、五代友厚、岩崎弥太郎らを追っていくと同一人物に辿り着くというのである。ちなみに勝海舟ではない。竜馬が日本初の商社を長崎に設立したことにしても小曾根英四郎の援助があったからで竜馬の人間性をかったとものの本では片付けられるが本書はそうはいかない。竜馬が長崎に滞在した期間から会社設立までの期間が異常に短いこと、竜馬の知名度からして行動のスケールが大きすぎることから、黒幕の存在を指摘する。長崎といえばグラバー邸。明治維新最大の黒幕はトーマス・グラバー。グラバーの封建社会打倒という理念から利害関係が一致したので竜馬を利用したと語られる。著者は、グラバーの生地はスコットランドで、彼はフリーメーソンであると確信していると熱く語る。このあたりは、一生懸命証拠立てして解明しようとしている苦労が伝わるので推理小説のように読める。ちなみに、黒船で来航したペリーもフリーメーソン。終戦のミズーリ艦で調印した時、ペリーが掲げた星条旗を持ち込んだのも、マッカーサーがフリーメーソンだからであると述べている。日本の首相にも。。。あらゆるところにフリーメーソンはいる。プロスポーツ界にも多い。

5. 1ドル札
1ドル札にピラミッドが描かれている。他国の文化遺産がなぜ米国の紙幣に使われるのか?これぞフリーメーソンの象徴なのだという。これは「全能の目」という章で語られているが、その解釈はおもしろい。1ドル札にラテン語でつづられた以下の文章。
「NOVUS ORDO SECLORUM」 新しい世紀の秩序!
「ANNUIT COEPTIS」 我々の計画に同意せよ!
という意味らしい。この2つの文章がピラミッドを囲んで円を描くように配列されている。そこにダビテの星を描くと、ちょうど星の5つの頂点にM,A,S,O,N (メーソン)が重なる。へー!
本書は、アメリカ合衆国、EUも総じてメーソン国家で、フィリピン、ブラジル、アルゼンチンもそうだと言っている。スウェーデンに至っては王室とメーソンがダブっているとまで言っている。歴代の米国大統領にフリーメーソンが多い。ナポレオンもフリーメーソンだったのではないかという歴史家がいる。

本書は全般的にフリーメーソンの行儀の良いところを取り上げている。しかし、これだけの人数がいる以上は、行儀の悪い面もあるはずである。その一つを紹介してくれる。P2事件(プロパガンダ2)。これはイタリア映画「法王の銀行家」で公開されているらしい。複雑に絡み合った陰謀を銀行家を通して描いているのだそうだ。おいらは観ていない。
集団には、その理念がどんなにすばらしくても一部で傲慢な連中が育つ。エリートと称して思い上がって世界金融を支配しようと思っても不思議ではない。時々、フリーメーソンと世界金融の支配を重ねて論じるものを見かける。本書でも、秘密主義で自分達をエリートと思い上がり傲慢になる危険性を述べているが、世界征服など物理的に不可能だと言っている。確かにそうかもしれない。ただ、物理的に不可能だからといって抑止力にはならない。思い上がれば可能性を肯定するだろう。これはフリーメーソンだからというのではなく、秘密主義を共有しエリート集団であると自己認識したときに傲慢さが生まれる。これは人間の真理だろう。こうしたタイプの人間は、特に政治家や官僚など地位のある所に多いように思える。俺が世話してるんだ!俺が金出してるんだ!人間とはそのように変貌するものだ。
特にアル中ハイマーは秘密の会合で有頂天になりやすい。フリーメーソンの理念を見習うべきである。さっそく秘密の場所に行って酒を酌み交わし情報交換をするとしよう。
ただ、その場所をロッジとは言わない。クラブと言っている。
ちょうど案内状が届いている。そこには暗号文で「浴衣祭り」と書いてある。

2007-07-08

"獄中からの手紙" ローザ・ルクセンブルク 著

本棚を整理していると、読んだ覚えのない本をたくさん見つけた。前記事ではその中から「絞首台からのレポート」ユリウス・フチーク著を取り上げたが、本書もその中の一つである。見つけた場所からして、同じく20年ぐらい前に読んだのだろう。本書は100ページ超と薄く、手紙であるため手軽に読める。
そのためか自宅でありながら、つい立ち読みしてしまう。アル中ハイマーには、立ち読みの方が緊張感があって気分が出るようだ。ついでに、カウンタがあって美しいお姉さんから凝視でもされたらもっと集中できるのだが。

ローザ・ルクセンブルクは、マルクス主義の政治革命家で、本書は、投獄中、リープクネヒトの妻となった友人宛てに書いた手紙集である。
そう言えば学生時代、マルクス主義やら独裁者の思想などの本ばかり読んでいた時期があった。あまりにも暇だったのだろう。ただ、この頃読んだ本の内容はほとんど覚えていない。当時は、アル中ハイマーには政治思想など理解できないと諦めたものである。
しかし、本書は政治色を微塵も感じさせない。ローザは、政治犯として投獄され、いずれ虐殺される運命にある。そうした暗い人生を加味して読んでも、獄中で書かれたものとは信じられないほどの穏やかさがある。自然の風景が語られ、詩の朗読があり、思い出が語られ、時折、囚われの身の心境を覗かせる。読書しているというよりは、風景画を鑑賞しているかのようだ。人間は自分の運命を悟ると、その瞬間を大切にするだろうか。風景を描写する表現力に文学的な価値がありそうなのは、おいらのようなド素人にでもなんとなく伝わる。
ただ、アル中ハイマーにはこの作品の論評ができない。到底およびもしない高度な文学的領域であるように思えるからだ。当時は難し過ぎて記憶できなかったのかもしれない。そもそも本当に読んだのかも疑わしい。今、スコッチを味わいながら当時を思い出そうとしている。そして、だんだんいい感じになってきた。あー気持ちええ!えーっと!今、何してたんだっけ?そうだF1を観るんだった。

2007-07-01

"絞首台からのレポート" ユリウス・フチーク 著

久しぶりに本棚を整理していると、読んだ覚えのない本をたくさん見つけた。本書もその一つである。見つけた場所からして、多分20年ぐらい前に読んだのだろう。一度読んだ本を読み返すなど専門書でもない限り絶対にやらなかったことであるが、気まぐれはよくある。読んだ本を思い出せないとは、なんのための読書かわからない。時々昔の本を読み返してみることにしよう。その時期感じた感覚とは違う発見があるかもしれない。なかなかおもしろそうだ。このような気分になれたのもブログ効果かもしれない。自分の書いたブログも後に読み返せる日がくるのを楽しみにするのである。

著者フチークはチェコのジャーナリストで、ナチス占領下のプラハで政治犯とて捕らえられた。彼は、すさまじい拷問に耐え目前の死に向かいつつも抵抗の記録を書き遺した。本書は、歴史的には政治文書として評価されてきたようだが、アル中ハイマーにはなかなかの文学作品である。まるで詩のようなさわりが、あちこちにちりばめられている。そして、個人の描写が勝っていて政治色などあまり感じられない。
前書きに、ゲシュタポが使っていた屋内拘禁室を「映画館」と、誰が名づけたかわからないが、その中で、著者は「私の生涯の映画を百回も観た」と表現している。アル中ハイマーは、人間の生涯とは映画を観るようなものと語られる、この表現が好きである。
これほどの書物を、一度は読んでいるはずなのに覚えていないとは、アル中ハイマー病に犯されているとはいえショックを受けるのである。

アル中ハイマーは、チェコという国に昔から少々興味があり、一度訪れてみたいと思っている。チェコの作曲家ドボルザークの交響曲「新世界より」は、小学生の頃始めて買ってもらったレコードである。また、リディツェ村の話を知ったのが中学生の頃である。ナチス占領下、ラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の代償として、リディツェ村の住民を老若男女問わず殺害され村の存在そのもが抹殺される。そして、戦後リディツェと名のる町があちこちに登場する。ハイドリッヒ襲撃事件については本書でも一瞬だけ触れられる。

本書は、まず尋問に抵抗して拷問されている様を描写する。
まだ自分が死ねないことを母親に丈夫に産んでくれたことを嘆いたり、逆に、限りなく遠いところから愛撫のように気持ちよく、やさしい落ち着いた声が聞こえてくる。など、もうろうとした意識、幻想的な感覚といった、夢でも見ているかのような生々しい表現が続く。また、自分自身の危機に対する描写だけではない。周りの人間が死んでいく様も描いている。自分の人生が無駄ではなかったことを自身で励ますかのように、そして、その終わりを台無しにするようなことはしたくないという誇りと意地を張る様子が語られる。

アル中ハイマーには文学的センスが全くないので文章テクニックはわからないが、本書はいたるところに文学的表現がちりばめられ心を穏やかにしてくれる。その例を一つ紹介しよう。下記は拷問に耐えぬいて、やや気力が戻った時の様子を表現している。ちょっと長いが気に入ったのでそのまま引用する。
「復活とはいささか奇妙な現象である。名状しがたいほど奇妙な現象である。よく眠ったあとの晴れた日、世界は魅力的である。ところが、復活の日には、まるでその日がかつて一度もなかったほどよく晴れわたり、またかつて一度もなかったほどよく眠ったような感じがするものである。あなたは人生の舞台をよく知っているような気がしているかもしれない。ところが復活というのは、まるで照明係りがすべての照明灯に明るいレンズをはめ、あなたの目の前に完全照明の舞台を一度に現出させたようなものである。あなたは自分で目がよく見える、と思っているかもしれない。ところが、復活はまるであなたが望遠鏡を当て、同時にその上に顕微鏡を重ねたようなものである。復活とは春さながらの現象で、ごくありふれた環境にも、思いもかけぬ魅力がひそんでいることを春さながらに見せてくれるのである。」

戦時中の囚人の気持ちとはどういうものなのだろうか?そこには、ゲシュタポに逮捕された時点で死を覚悟しているとあるが、希望と絶望の繰り返しの様がうかがえる。ファシズムの死と自分の死のどちらが先か?こうした忍耐競争が世界中で問われたことだろう。また、ファシズムが死ぬまでに、まだ何十万という人の犠牲が必要であることも覚悟しなければならない時代である。そもそも彼らが捕まった理由など何もない。ハイドリッヒ襲撃事件に触れているところで、おもしろいことに、事件が起きる二日前に検挙された人々の罪状が、ハイドリッヒ暗殺に荷担したというのである。処刑するのに理由はいらない。殺す人間のことなど調べる手間が無駄である。目的は民族の抹殺である。そうした時代にあっても人間は希望的観測がつきまとう。戦争の終わる時期について、バラ色の観測が毎週のように生まれる様が語られる。人々はそれを信じる。ここで、もう一つ文章表現に目が留まった。
「人生は短い。それでいてここではあなたは、その人生の一日一日がはやく、よりはやく、この上もなくはやく過ぎ去ることを強く願っているのである。あなたの寿命を刻一刻ちぢめている。生きて帰らぬ時、とらえがたい時が、ここではあなたの味方なのである。なんと奇妙なことだろう。」
本書は人間観察についても鋭い。それは囚人仲間はもちろん、看守から刑務所長に及ぶ。信念を持ちつづける者。裏切る者。ドイツ人看守の間の友情を、互いに監視しあい、互いに密告しあう緊張感のあるものとして描いている。密告により地位を確立する者もいるが、その密告の信憑性など一体誰が調べるものか。陰謀は渦巻く。

本書を読んでいる時、途中で数々の疑問がわいてくる。
死への恐怖から、正気を取り戻すために、記録を遺したのかもしれない。
迫りくる死に向かって遺せる文章とは?
拷問に耐えられず裏切る者もいる。それなのに政治的信念とは何か?
自分自身が死んでいるのか?生きているのか?わからない局面の心理とは?
かすかな痛みと喉の渇きのようなものが、生きていることを実感できる状態とは?そのような極限状態で、抵抗しつづけるとは?
誇りを持ち続けるということは?
しかし、アル中ハイマーはいつのまにか答えを出すことを放棄している。せっかくの文学作品に理屈などいらない。いつのまにか、そうした心持で読んでいる。

本書が世に出回ることができたのは、監房に紙と鉛筆を持ち込み、書いている間ずっと見張りをし、原稿を獄外へ持ち出した看守がいるからである。本書では、その看守の様も語られる。最初、ドイツ人看守が紙と鉛筆を持ってきた時は、話がうま過ぎて信用できなかったとある。その看守は、ドイツ人と名乗っているが実はチェコ人であった。後書きには、この原稿がゲシュタポの家宅捜索から逃れた様を解説してくれる。

それにしても、昔読んでいるはずの本の記憶が全くないというのは幸せにしてくれることもある。自分の本棚が新鮮に見えるのである。今、更におもしろそうな本が埋もれていないか探している。宝はアマゾンの中だけにあるのではない。灯台もと暗しである。本棚を眺めているだけで一杯やれるとは、のどかな一日である。