2023-02-26

"マーカス・チャウンの太陽系図鑑" Marcus Chown 著

こういうのが書棚の片隅に一冊でもあると、部屋全体の収まりがいい...
天空には、なにやら懐かしいものがある。地上は、どこも息苦しい。日々忙殺に追われ、目線はいつも下を向き、空を見上げる余裕なんてあるもんか。
しかし、だ。途方もなく広大な宇宙の片隅に浮かぶちっぽけな天体の上で、なに悩むことがあろう。薄っぺらな大気層を隔てた向こう側には、想像を絶する世界が拡がるというのに...
脂ぎった大人が、童心に返るのは難しい。そんな輩には、こんな一冊でもないと救われんよ。そして今、プラネタリウムソフト "Stellarium" を操作しながら、この太陽系図鑑に目を細めている...
尚、糸川洋訳版(オライリー・ジャパン)を手に取る。

人類の地図への思いは、とどまることを知らない。それは、いまだ人間が人間自身を知らずにいるってことか。自分自身を知るために、まず自分の棲家、生きている地盤、己の立ち位置を確認せずにはいられない。
大航海時代には、冒険家たちがおおよその陸地の輪郭を掴み、その白地図を地理学者たちが埋め尽くしてきた。宇宙時代が幕を開けると、宇宙飛行士たちがおおよその天体の軌道に身を委ね、その背後に潜む重力図を科学者たちが埋めにかかった。
ここではマーカス・チャウンが、探査機や天体望遠鏡などが撮影した画像で、太陽系の正体を暴きにかかる。X線、紫外線、赤外線、電波とあらゆる波長を駆使して...

太陽系とは、太陽の重力の影響下にある天体の集合。質量でいえば、太陽の誕生時に余ったほんのわずかな廃材を太陽に足したもので、その歴史は、45億5千万年前に遡る。つまり、質量の 99.8% は太陽そのものというわけだ。廃材とは単なる燃えカスか、あるいは、自ら輝けないヤツら。
しかしながら、興味深さの度合いでいえば、質量比は無視され、むしろ廃材の存在感が大きくなる。なぜかって?そりゃ、地球が廃材の方にあるから。
そして、人間社会を地球の重力の影響下にある地球系とするなら、この集合物の存在意識もまた廃材の方に向けられる。体重計の上でいくら軽い存在を演じようとも...

地球が中心とされた時代、星々は天球上に固定され、恒常的な運動を繰り返すものとされた。これが、恒星と呼ばれる所以である。
だが、中には軌道が定まらず、行ったり来たりとその場を惑う星がある。これが、太陽系図鑑で主役を演じる惑星どもだ。"planet" の語源は、ギリシア語の「さまよう者」や「放浪者」といった意味に由来する。
太陽を中心とすれば、地球から見た惑星が、このような動きをするのは当たり前。いや、本当に当たり前なのか。実は、本当にさまよっているのでは。少なくとも、惑星どもの周りを回っている衛星の重力に引っ張られ、ゆらぎながら動いている。
摩訶不思議なことに、この惑う星どもは、ある平面に沿った帯上で公転している。類は友を呼ぶ... と言うが、揃いも揃って、近似される一つの平面上に存在するとは。同一円盤状で、LP レコードのように何かを奏でようってか?
古代人たちは、この夜空を横切る狭い帯に点在する星々を線で結び、黄道十二星座ってやつをこしらえた。黄道とは、天球上を太陽が一年かけてゆっくりと移動する道筋だ。太陽系の天体が太陽を中心に円盤状に配置されていることから、惑星どもは黄道近辺で見えるという理屈である。言い換えれば、黄道近辺にしか、惑う奴らがいないってことになるが、それは何を意味するのだろう。
最も近くにある月は、肉眼で見える最もでかい天体だが、こいつときたら、さらにまったく違う動きをしやがる。しかも、月が黄道を横切ると、どんでもない現象が。昼を闇に葬る皆既日食を古代人たちは凶兆として恐れ、現代人は天体ショーとして和む。黄道には魔物が棲むのか...

太陽系を内側から外観すると、まず四つの岩石質の惑星に出くわす。水星、金星、地球、火星が、それである。続いて、四つの巨大ガス惑星に遭遇する。木星、土星、天王星、海王星が、それである。
これら二つの種族の間を、小惑星と呼ばれる岩石質の破片の大群が周回し、巨大ガス惑星の外側を「カイパーベルト」と呼ばれる氷を主成分とする破片の大群が周回している。
さらに、はるか遠くの外縁には「オールトの雲」と呼ばれる領域があり、そこには氷を主成分とする一兆個もの彗星が存在するとされている。太陽系の果てに、彗星の貯蔵庫があるってか。
ただ、これらすべてが同一円盤状に配置されているとすれば、地球にとって衝突の脅威となる彗星は黄道面からやってくることになる。いや近年、仮想的な面「空黄道面」ってのも見かける。彗星がやってくる軌道は、この二つの面に集中しているらしい。太陽系の果てにも、魔物が棲むのか...

しかし、人間ってやつは、見えない存在、認知できない存在、理解できない存在... こうしたものを魔物のせいにする性癖がある。そこに重力源があるはずだと信じつつも。暗黒物質や暗黒エネルギーも、その類いであろうか...
ちなみに、科学界には二つの魔物が棲むと言われている。ラプラスの悪魔に、マクスウェルの悪魔に...

古くから知られる木星は、大きさ、質量ともに太陽系最大の惑星で、古代神話では主神ジュピターとして崇められる。ここに神の棲家があるかは知らんが、生命の棲家は見当たらない。
有史以来、怪しい暗赤色で手招きしてきた火星には、かつて海が存在したかも... 水があれば生命が存在したかも... と興味が絶えない。古い過去に火星は分厚い大気を持っていたとされるが、今はない。重力が弱いから失ったのか、なにかの衝突で吹き飛ばされたのか。岩石に浸透したのか。
火星人というキャラクターは古くから想像され、小説にも描かれてきた。そんな懐かしい記憶が遺伝子に組み込まれ、地球人は火星から移住してきたという説も見かける。火星は、化石燃料を使い切った地球の成れの果てか...
土星は、木星に次いで二番目にでかく、土星の環は、それそのものが天体ショーとなる。その美しさと存在感は、十分すぎるほどだが、ここにも生命の棲家は見当たらない。

宇宙への思いは、地球外の知的生命体の存在を予感させてきた。彼らとの遭遇は科学者たちの夢である。
しかし、その確率は、おそらく途轍もなく低くかろう。長い宇宙の歴史から見ても、人類が存続する期間はわずかであろうし、他の知的生命体と同時期に存在することも難しかろう。ただ、生命の痕跡に遭遇する確率は、もう少し高いはずだ。
地球は、いずれ絶滅するだろう。科学では、生命が存在するには水が欠かせないとされている。それが本当なら、どこかに生命さえいてくれれば、人類の移住計画も可能ならしめる。
ボイジャー探査機に搭載されたレコード盤は、地球外の知的生命体に届くかもしれない。その時、人類が存続していればいいが、その前に地球が存続しているかも怪しい。あるいは、どこかの惑星に移住した元地球人が、このレコード盤を回収しているやもしれん。タイムカプセルってやつは夢があっていい。童心に返れそうな、そんな思いをこの図鑑に託す...

2023-02-19

"ファスト & スロー(上/下) - あなたの意思はどのように決まるか?" Daniel Kahneman 著

原題 "Thinking, Fast and Slow"
人間の思考回路には、直感や感情を担う「システム 1」と、熟考を担う「システム 2」があるという。システム 1 は、手っ取り早く、これといった努力なしに無意識的に作動する。対して、システム 2 は、意識的に努力してようやく作動し始め、その重要な役割として、システム 1 の判断や決定をモニタする機能が備わり、必要に応じて修正したり、停止したりする。
尤も、そのようなシステムが脳の中に存在するはずもなく、脳の機能を比喩的に表現しているだけのこと。これに近い思考の区別に主観と客観ってやつがあるが、二つのシステムは、どちらも主観の領域にあり、システム 2 は、若干の客観性を持ち合わせている。どちらも人間味あふれた特徴を有し、システム 1 は気まぐれ!システム 2 は怠け者!
これを長所とするか、短所とするかは、己次第だが、どちらの特徴も意思決定において足枷せとなる性癖となる。自分の信念や願望を疑うことは、控えめに言っても難しい。好調の時ですら難しい。それを最も必要とする時は、さらに難しくなる。高度な認知能力を有する知的生命体にとって、認知バイアスとの葛藤は宿命やもしれん。
ちなみに、笑顔をつくってみると気分が明るくなるのは、本当らしい...

さて、この読書体験を主導しているのは、どちらのシステムであろう。こいつを読むのに、認知能力を極限まで働かせること請け合い。
読み手として、この書をどう解するか。その手腕を見極めるために自己を分析し、自己を語ることができるのは、システム 2 である。自己主張の強いおいらのことだ、システム 2 は、いつでも思考を制御できると自信満々で、自分こそが主役だと思い込んでいることだろう。
しかしながら、本書の主役は、システム 1 だと告げている。これは、自我意識の主導権をめぐって、二つの架空のキャラクターが織りなす物語である。
尚、村井章子訳版(早川書房)を手に取る。

本書は、「システム 1」と「システム 2」の二項対立に加え、さらに二つの対立構図を配置している。

一つは、「エコン」「ヒューマン」
行動経済学者リチャード・セイラーは、経済学者が定義する合理的経済人をエコン類(Econs)と呼び、ヒューマンと区別して揶揄したそうな。エコンは、完璧な計算能力と意志決定能力を持っているが、ヒューマンは、錯覚し、欺瞞し、間違いを犯し、自信過剰で意志が弱い。エコンこそが理想高すぎの架空の人間像というわけである。
但し、エコンのような理想モデルを仮定すると、理論は組み立てやすい。

二つは、「経験する自己」「記憶する自己」
経験する自己とは、現在経験している状態の評価を、そのまま総合的な自己評価とすり替える自己である。結婚や恋愛、あるいは仕事などで充実している時は、なんでもうまくいきそうで、人生は素晴らしいと思えるものだが、それらが一転して、破綻したり、貧困に陥ったりすると、不遇な人生を呪ったり、絶望したりする。
一方、記憶する自己とは、エピソードやストーリーの要点や印象を記憶し、その記憶を元に判断や決定をする自己である。時間を置いて冷静に自己を見つめる目は、後者で養われる。

こうした見方を表現する経済学用語に「効用」ってやつがある。経済学者は、この用語に二つの意味を与えてきたという。
一つは、ジェレミ・ベンサムが提起した快楽や苦痛の経験を尺度とする効用で、本書はこれを「経験効用」と呼ぶ。
二つは、好ましさや望ましさといった意味合いで、冷静になってあとから感じるような効用で、本書はこれを「決定効用」と呼ぶ。
例えば、期待効用理論では、決定効用を支配すべく合理性を論じる。二つの効用は、経済主体が合理的あるという前提において一致するが、長い間、経済学者は不一致の状況を想定してこなかった。
尚、効用については、著作「ダニエル・カーネマン心理と経済を語る」で、これを主題に論じられている(前記事)。

自己が経験している瞬間、瞬間に、快楽や苦痛に振り回されるとしたら、自己を冷静に語れるのは、その状況を記憶している自己ということになる。
しかしながら、記憶がまともに残るとは限らない。自己防衛本能が、自己の都合のよい形で記憶することもあれば、トラウマとなって神経症やヒステリーを引き起こす要因となったり、記憶そのものを抹殺することもある。
本書は、記憶の心象現象として、特に「持続時間の無視」「ピーク・エンドの法則」に注目している。
人間の脳は、物事を抽象化し、コンパクトに記憶する習性がある。記憶容量の効率化を図るためかは知らんが。たいてい快楽は長く感じたいし、苦痛は短く済ませたいものだが、快楽も、苦痛も、最も強く感じた瞬間が記憶に残りやすい。恐怖やショックなどはインパクトの瞬間が記憶に刻まれ、時間感覚を麻痺させることもある。あるいは、平凡な出来事には、平均的な印象が、その総和の代用となることもある。終わりよければすべてよし... というが、まさにピーク・エンドの法則を物語っている。ステレオタイプとして印象づけられるのもその類いか。人種や国籍、世代や地域、職業や専門、性別や血液型など、あらゆる属性が自分の世界観で決定づけてしまう傾向がある。この多様化の時代に... 
とはいえ、意思決定のために、多種多様なパターンすべてを観察している時間はない。人生は短いのだ。
自己欺瞞を自己が見抜くには、よほどの修行がいる。心理操作によって記憶をすり替え、記憶を再構築することも可能だ。嘘だと分かっていても、それを続けていくと、やがて本当だと信じ込んでしまうこともある。社会風潮や情報流布などの外的要因で、ニセの記憶を摺り込まれることもしばしば。高度な情報化社会ともなれば、尚更。記憶とは、人に操作されるものであり、また、自ら操作できるものでもあるらしい。しかも、無意識に...

「経験と記憶を混同するのは、強力な認知的錯覚である。これは一種の置き換えであり、すでに終わった経験も壊れることがありうる、と私たちに信じ込ませる。経験する自己には発言権がない。だから記憶する自己はときにまちがいを犯すが、しかし経験したことを記録し取捨選択して意志決定を行う唯一の存在である。よって、過去から学んだことは将来の記憶の質を最大限に高めるために使われ、必ずしも将来の経験の質を高めるとは限らない。記憶する自己は独裁者である。」

人間の思考は、慣れ親しんだ考えに吸い寄せられる傾向があり、それで安心を買う。「認知容易性」ってやつか。
本書をどう解するかという問題にしても、最初から自分の考えで偏重しながら読み進めているかもしれない。認知バイアスを論じた書を認知バイアスによって解するとは、ソクラテスの時代から問われてきた「無知を知る」という難題にも似たり。自分の思考を知るということは、そういうことなのであろう。今の自分の行動は、本当に自分の意思に従っているだろうか。自我ほど手に負えないヤツはない。しかも、せっかくヤル気になっているところに、ややこしいことを問い掛けてきやがる。無論、おいらにだって意思はある。ただ、暗示にかかりやすい...

「リバタリアン・パターナリズムでは、市民が自分たちの長期的利益に資する意思決定ができるよう、国をはじめとする行政機関や制度が市民をナッジすることを認める。ナッジとは、そっと押すとか、促す、誘導する、といった意味合いである。年金制度への加入をデフォルトの選択肢にしておくことなどは、ナッジの一例である。チェック欄にマークを入れるだけで簡単に非加入を選べる場合、自動加入方式が個人の自由を侵害するとは主張できまい。」

本書は、日常生活があらゆる認知バイアスにしてやられていることを再認識させてくれる。
企業家の経営哲学に魅了されれば、その経営手法までよく見えたり... ハロー効果の類いか。
気の合わないお偉さんの言葉が、発言前から馬鹿げていると嘲笑ったり... プライミング効果の類いか。
確率という魔の数値を提示されるだけで、行動意欲を掻き立てられたり... フレーミング効果の類か、あるいは、アンカリング効果の類いか。
普段、利益に対して保守的なはずなのに、ちょいと損失を出すとギャンブル的な行為に走ったり... プロスペクト理論の類いか。
... などなど、まったく心理学用語に翻弄されっぱなし!

また、「モーゼの錯覚」と呼ばれる問題を紹介してくれる。「モーゼは何組の動物を方舟に乗せたか?」こんなことを話の流れで問われれば、違和感はない。だが、ちょいと考えると、モーゼは誰も方舟に乗せてはいないし、主語をノアにするべきだと気づく。モーゼとノアは、旧約聖書の登場人物として結びつけられる。脳内の連想記憶メカニズムとは、こんなもんか...
おまけに、説得力のある文章術まで助言してくれる。原則は、認知負担をできるだけ減らし、視認性を高めること。難解な言葉を避け、文章をシンプルに覚えやすくする。フォントにも配慮して。格言風に仕立てると、洞察に富んだ文章を装うことができるんだとか...

さらに、資本主義経済のメカニズムにも言及され、その原動力の一つに楽観的な起業家精神を挙げている。楽観主義はごくありふれた傾向ではあるが、企業家たちのリスクテイクこそが経済循環を活性化させているのは確かであろう。
但し、論語は告げている。過ぎたるは猶及ばざるが如し... と。
そこで、保守的な戦略として、損失に利得の二倍の重みをつけるという見方は、心理的に頷ける。
そして、リスクポリシーは告げる。トレーダーのように行動し、みみっちく勝って負けを抑えよ!と。だが、このポリシーを麻雀で実践すると、ビッグに放縦することになる。
こうした構図は、自信満々のコンサルタントに高い報酬を支払うのと何が違うのだろう。資本主義経済で合理的に行動することが、いかに難しいことか...

「計画の錯誤は、数ある楽観バイアスの一つにすぎない。私たちの大半は、世界を実際よりも安全で親切な場所だとみなし、自分の能力を実際よりも高いと思い、自分の立てた目標を実際以上に達成可能だと考えている。また自分は将来を適切に予測できると過大評価し、その結果として楽観的な自信過剰に陥っている。意思決定におよぼす影響としては、この楽観バイアスは認知バイアスの中でも最も顕著なものと言えるだろう。楽観バイアスは好ましくもあるが危険でもある。」

2023-02-12

"ダニエル・カーネマン心理と経済を語る" Daniel Kahneman 著

専門用語ってやつは、その表現の仕方に違和感を覚えるものを見かける。語彙が乏しいから、そんな風に見えちまうのだろうが、特に経済学には、それが多く感じられる。
おまけに、そのニュアンスまでも専門家の間で白黒つけられ、ちょいと違った風に用いようものならアホウ呼ばわれ。疑問すら持てないとすれば、どちらが。同じ阿呆なら踊らにゃ損々!
経済学ときたら、日常用語までも専門用語のように扱う。そこで、用語の定義から始める専門書に出会えば、それだけで敬するところがある。本書も、そうした一冊。門外漢の読者への気遣いもあろうけど...
そして、本書に収録される二つの論文に、おいらはイチコロよ!
尚、友野典男監訳、山内あゆ子訳版(楽工社)を手に取る。

「効用はどんな時も最大化されるものであると仮定すると、欲求の性質について驚くべき推論をしてしまうことになる。それは、人間はいついかなる時にも合理的な選択をするはずだという考え方につながる。こうした方法論はいろいろと使い勝手があるし、経済学者にとっては紛れもなく魅力的ではある。だがこれは、いまだに実証されていない危うい土台に立ったものだ。このコラムでは、検証可能な効用最大化仮説の一つについて論じて行くことにしよう... それは間違いだ、ということが分かる。」
... リチャード・セイラーとの共著論文「効用最大化と経験効用」より

「昔から経済学者は、人が示す好み(顕示選好と言う)についての研究を好んで行ってきた。つまり、好きだ嫌いだと口に出して言った意思や、主観的な報告ではなくて、人が実際に選んだ物事や決定を観察するということだ。しかし人間はよく、自分自身の幸せに単純にはつながらない選択を行っている。一貫性のない選択をすることもしょっちゅうだし、経験から学ばず、取引を嫌がり、他人と比べて自分はどうだということに満足の基準を置き、その他ありとあらゆるところで合理的な経済主体の標準モデルから外れている。」
... アラン・B・クルーガーとの共著論文「主観的な満足の測定に関する進展」より

心理学者ダニエル・カーネマンは、自らの考えが「プロスペクト理論」に至った様子を物語ってくれる。それは、不確実な状況下での意思決定モデルに関するもので、この研究によって彼はノーベル経済学賞を受賞した。心理学者がノーベル経済学賞とは、なんとも奇妙な取り合わせだが、この学問もようやく人間を見るようになったというわけか。
カーネマンは、人間の経済行動を心理学的に考察したことで、行動経済学の創始者の一人とされる。「行動経済学」という用語にも、ちと違和感があるが、そもそも人間の行動分析に、心理的な視点を欠いていたことが異様であったと見るべきであろう。
本書には「効用」という用語が散りばめられ、この用語にもずっと違和感を持ってきた。効用の最大化ってなんだ?欲望の最大化ってことか?しかも、これが満たされると、経済的均衡状態になるってか?経済人モデルが狼なら、経済学者も狼ってかぁ...

本書の考察で、鍵となる心理学的な性質を三つ挙げておこう。そして、これらがそのまま効用の担い手となる。

一つは、状態よりも変化に意識が向くという性質。
伝統的な経済学では、富の水準を効用の担い手としてきた。対して、現状に対する変化という視点を与えたのが、経済学者ハリー・マーコウィッツだったという。だた、この段階ではまだ思考のスケッチにすぎず、このアイデアを根本から詳述したものがプロスペクト理論ということらしい。
例えば、心理的には、年収一千万円といった絶対値よりも、年収二割増、四割増といった相対値に反応しやすい。さらに、二割減、四割減となれば、目くじらを立てるは必定。効用を満足度で計測するなら、絶対的な水準よりも、現状に対する変化に反応しやすい。売上や利益についても、似たような反応を示すであろうし、目標を掲げる時も相対的な割合で表現することが多い。効用の最大化、あるいは、満足の最大化という視点は、現実の人間感覚をあまり反映していないようである。

二つは、直感は知覚メカニズムに似ているという性質。
知覚は、見たまんまの分かりやすさという利点もあるが、錯覚や錯視の類いを誘発させるという欠点もある。こうした性質において、直感と知覚のメカニズムが類似しているという。
迷った時、手っ取り早く答えを出さなければならない場合、直感が頼りになる。確かに、人間の直感は高度なこともやってのけるが、系統だった認識バイアスにかかりやすいし、知覚のように惑わされやすい。経験を積めば、直感を直観に昇華させることもできようが、そうなる前に非合理的な行動を誘発する。
ちなみに、直感的にある程度正しい答えを得るような手法を「ヒューリスティック」と言うが、これは心理学的な用語らしい。コンピュータ科学でも見かける用語で、最適化の問題で正解率と睨めっこしながら発見的な手法が用いられる。
「メタヒューリスティクス」なんて用語も見かけるし、直感も科学的に計測することが可能になった時代ではある。

三つは、利得よりも損失に意識が向きやすいという性質。
たった一つの否定的な感情のために、エピソード全体が色付けされる傾向にあるという。人は普段、肯定的な感情で落ち着いているが、否定的な感情が一つ紛れ込めば、それは重大な意味を持つことになると。
例えば、人を評価する時、気に入らない短所が一つあれば、長所が見えなくなることがある。周りが得をして自分だけが得をできなかった場合では、大損した気分にもなる。
概して人は、肯定的な感情より否定的な感情の方に反応しやすい。古い諺に、隣の芝は青い... というのがあるが、これもその類いであろう。

本書は、これら三つの性質を踏まえて、効用の測定に「U指数(経済不快指数)」というものを提案している。経済指標に、GDP や景気動向指数などに加えてみてはどうかと。
尚、U は、unpleasant(不快)、あるいは、undesirable(望ましくない)の意。
従来の経済学の指標を正の指標とすれば、これは負の指標ということなろうか。
「効用」という用語には、二つの意味があるという。
一つは、主観的な好ましさを示すもので、本書は「決定効用」と呼んでいる。
二つは、結果と結びついた快楽体験に基づくもので、本書は「経験効用」と呼んでいる。
後者は、功利主義で知られるジェレミ・ベンサムが提起したものらしく、アルフレッド・マーシャルに至るまで「快楽の流れ」という概念だったという。それ以降は、前者の意味でも解されるようになったようである。
「しかも、幸福とは瞬間的な経験効用の経時的な総和であるとまで定義されている。」
そういえば現在でも、世界幸福度ランクングといった指標がしばしば報じられる。上位の順位はどうでもいいとしても、下位の順位はそこそこ妥当かも...

そもそも、人は自分の好みが分かっているだろうか。無意識の領域は、ことのほかでかい。実は、何に満足できるかも、よく分かっていないのでは。企業の提案や政府の経済政策に乗っかっているだけで、それに文句を垂れているだけでは。効用を肯定的な部分で計測するよりも、否定的な部分で計測する方が合理的という見方はできるかもしれない。
そういえばアンケートの類いで、とても満足、満足、普通、あまり満足でない、まったく満足できない... といったものによく出くわす。どうでもいいから相手にしなかったり、あまりの不満のためにアンケートに協力しないという選択肢もあろうし、文句を言わずにはいられないこともあろう。大した不満がなければリップサービスも飛び交う。こうしたアンケートは、真相を反映することが難しいように思えるが、企業はやたらと、こういうデータに群がる。
ネットでは口コミやレビューを参考にすることはあるが、ちょいと不満かちょいと満足の具体的な意見が役に立ちそうな気がする。あまり極端なものはフィルタをかけて...
人間の心理は、満足すればすぐに忘れたり、不満への怨念がいつまでも残ったりする。殴った方は忘れても、殴られた方はなかなか忘れないものだ。満足度が低い方が本音が出やすい!ってことはあるかもしれない。
ちなみに、おいらがプロマネをやる時、チームの精神状態を計測するために、メンバーが愚痴を言いやすいように心掛けている。愚痴を言うのは、道徳的な観点から悪いとされるが、おいらはそうは思わない。愚痴の質こそ問題にすべきであろう。愚痴が冗談で言える間はチームの健康状態を良好と見るが、愚痴が言えないばかりか冗談も出なくなると、かなり深刻と見る。この際、褒め言葉はまったく参考にならないし、ましてや世辞なんぞ...

「幸福な家庭は皆似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の様を異にしている。」
... トルストイ「アンナ・カレーニナ」より

最後に、共同研究者への追悼文に印象深いものがあるので、抜粋しておこう...

「大きな影響力のある人が亡くなるということは、その人一人がこの世からいなくなるというだけでは済みません。その人に影響を受けた一人ひとりの中で、何かが死んでしまうのです。
  ...
エイモスほど自由な人を私は他に知りません。彼があれほど自由でいられたのは、彼が同時に誰よりも規律ある人だったからなのです。
  ...
われわれ二人の間では、相手の言おうとしていることを、言った本人よりも聞いている方がより深く理解してしまうという摩訶不思議なことが、何度も、何度も起きました。昔ながらの情報理論の法則に反して、われわれの間では、受け手の側が送られた情報よりも多くを受け取ってしまうということが普通だったのです。もしこんなことが起きないのなら、共同研究がどんなに素晴らしいものかを知ることもできないだろうと思います。」
... エイモス・トヴェルスキー追悼より

2023-02-05

"アルゴリズム思考術 - 問題解決の最強ツール" Brian Christian & Tom Griffiths 著

人が合理的に生きることは難しい。独りでいる分にはそうでもなく、賢明な人も大勢いて、少しばかり楽観的な見方もできるが、集団化しちまうと、途轍もなく悲観的にならざるをえない。そもそも人類が合理的な存在ならば、これほどの爆発的な人口増殖を招かなかったであろうし、地球環境をこれほど侵食することもなかったであろう。合理的に生きるためには客観的な視点も必要だが、それは人間の本能に逆らった側面がある。だからこそ、客観的な視点に惹かれ、合理的な生き方に焦がれるのやもしれん。
しかし、多様化社会では合理性もまた多様化が進み、経済合理性にばかり目を奪われていては、輪をかけてカオスな非合理性に見舞われる。
本書は、そんな非合理的な人間社会を合理的に生きるための指針として、「アルゴリズム思考術」なるものを伝授してくれる。
尚、田沢恭子訳版(早川書房)を手に取る。

アルゴリズムとは、イスラム帝国の数学者アル=フワーリズミーの名に由来する代数的解法を言うが、現在ではもっと広い意味で解され、本書は「問題解決に用いられる有限な一連の手順」と定義している。
それは、きわめて形式的で、機械的で、コンピュータとの相性も良く、こんなものが人間社会のあらゆる問題に有効だとすれば、人間そのものがマシンのような存在だと言っているようなもの。実際、そうなんだろう。AI の登場で、それも現実味を帯びてきたし...
コンピュータそのものは数学的な構造をしており、その振る舞いは、どんなプログラミング言語を用いるにせよ、順次処理、条件分岐、反復処理でだいたい説明がつく。そこで重要となる要素は、これらの処理にひっかけるデータである。データという概念も抽象的で、なかなか手ごわいのだけど...
そして、人間の行動パターンも、これらの振る舞いにだいたい当てはめることができよう。例えば、人がいつも悩まされる「選択」という行為は条件分岐にあたり、問題解決のための意思決定はまさにこれである。その選択肢は、悩みにひっかけるデータにかかっており、認識能力や経験値などで決まる。
尚、選択肢をあまり広げると目移りして、ネストが深くなるからご用心!

「チューリングマシン」の名を掲げるアラン・チューリングは、機械か人間かの判定方法を考案した。人間である条件とはなんであろう。世間では、人間には心があると言われる。
「心」ってなんだ?辞書を引くと、「人間の理性、知性、感情、意志などの働きの元になるもの、または、その働きそのもの...」とある。言葉で定義すれば、こんな表現になるのだろう。しかし、定義できるからといって理解したことにはなるまい。人間は心というものを知っているのだろうか。人間は、本当に人間自身を知っているのだろうか...
心は、人と人とのコミュニケーションにおいて感じ取ることができる。ならば、人とコンピュータとのコミュニケーションにおいて心を感じ取ることができれば、コンピュータも心を持ちうるということになるかもしれない。そして、コンピュータの物理構造から心の正体も見えてくるかもしれない。コンピュータが、人間とは何かを教えてくれるってか。最も人間味に欠け、最も人間らしくない奴が...
おいらの心は、あの SF 作家風の言葉をつぶやいてやがる... 発達し過ぎたコンピュータ科学は、悪魔とまったく見分けがつかん!

さて、いつも長過ぎる前戯はこのぐらいにして...
本書は、日々出くわす問題にコンピュータアルゴリズムを適用するという観点から、効率的な思考法を提示してくれる。そればかりか、合理的な人生哲学を暗示しているような...
ソート理論には整理整頓の哲学を魅せられ、キャッシュ理論には忘却の哲学が刻まれ、スケジューリングには人生で何を優先すべきかを考えよ!と諭される有り様。
人生は短い!完璧な答えを求めて彷徨うより、いくらか妥協して前に進む方が有意義なことが多い。それは、客観的な妥協、あるいは、合理的な妥協とでも言おうか。合理的な人生は、妥協の哲学に看取られているようである...

「完璧は善の敵である。」... ヴォルテール

1. 37% ルールで行動のタイミングをはかる...
最適停止問題では、やめるタイミングを教えてくれる。
その代表例に、秘書問題がある。秘書を一人雇うのに、どれだけの面接を繰り返せば、最良の人が雇えるか。採用はその場で即座に決め、不採用にした応募者は、もう採用できないこととする。
そして、面接回数の指標に、「37% ルール」ってやつを紹介してくれる。
例えば、100人の応募者の中から選ぶとすると、最初の 37 人は検討のみとし、能力や人格など観察して採用基準を定める。以降の応募者からその基準に則って採用すれば、最良の秘書を雇う確率が最大になるという寸法よ。
37% とは、具体的には、1/e で、e はネイピア数。サンプル数が多いほど精度が上がる。
ネイピア数とは自然対数の底であり、こいつを確率論に持ち込むと、数字の魔術にしてやられる。確率論こそが、合理的な妥協というわけか...
そういえば、これに近い考えを、おいらもやっている。本を買う時は、最初の 1/3 を立ち読みして決めたり、アマゾンを放浪する時は、リストアップした中から 1/3 に絞り、さらに 1/3 に絞り、これを繰り返して 照準を絞るといった具合に...
もっといい物が見つかる... という思いのために、先送りして後悔することはよくある。もっといい人に出会えるかも... という心理は、結婚相談所でも働くらしいが、理想高すぎ!と説教をくらうのがオチ。
ちなみに、初恋は実らないもの... と言うが、このルールに従うらしい。
そして、早々に判断してしまうと、情報カスケードの落とし穴に出くわす。ネット社会では集団極性化という現象もあり、サイバーカスケードという用語も見かける。ハードウェアにも接続方法の有効な手段としてカスケード接続ってやつがあり、電力網のトラブルでもカスケード障害ってやつがある。
人間心理には連鎖的につながることを好む性癖があり、巷では、心地よく響く「絆」という言葉が乱用される。それで早々に繋がっちまうと、後悔先に立たずってか。いや、みんなで落ちれば怖くない...

2. ギッティンズ指数を悲観的に見るか、楽観的に見るか...
実行タイミングを最適なものにするには、探索と活用のトレードオフに悩まされる。どこまで探索し、いつ活用に移るか。
最も単純なアルゴリズムでは、「勝てばキープ、負ければスィッチ」という考え方がある。うまくいけばやり方を変えない... というのは良さそうだが、うまくいかなければやり方を変える... というのは、あまりにせっかちな。どんなにいいレストランでも、たまには外れの料理もあろうに...
そこで、「ギッティンズ指数」というものを紹介してくれる。経済学者は、未来より現在に価値があるという見方を「割引」と呼ぶそうな。未来に期待しない現実主義者というわけか。先物では信用取引などと呼称しながら、現物を人質にしてやがるし。なるほど、信用ならぬ取引というわけか...
さて、ギッティンズ指数では、幾何級数的に割引関数を想定する。未来を割引く関数ってのも、未来に希望が持てないようで、悲観主義にも見えてくる。当初、統計学者ギッティンズは「動的配分指数」と呼んだそうだけど...
探索しながら良いタイミングで活用するという問題は、例えば「多腕バンディット問題」に見られる。それは、最も良いアームを候補の中から順次に探す問題で、アームという奇妙な名はスロットマシン、すなわちバンディットマシンの比喩からきている。
そして、「利得が幾何級数的に割引されていく多腕バンディット問題は完全に解決できる。」という。
未来を割引くという考えが馴染まなければ、後悔に着目するという見方もある。そこで、後悔を最小化する「信頼上限アルゴリズム」というものを紹介してくれる。後悔を最小化できると考えられれば、楽観主義にも見えてくる。見方をちょいと裏返しただけで、悲観主義も、楽観主義も、気分の問題か。どちらもうまく扱えば、視界良好!どちらも扱いを間違えれば、ドツボ!

3.コペルニクスの原理で大胆に...
地球は宇宙の中心ではない。太陽しかり、銀河系しかり。これが、コペルニクスの宇宙観である。では、自分の立ち位置は、宇宙のどのあたりにあるのだろう。とりあえず、中心と端っこの中間の 50% あたりとする。コペルニクスの原理を確率論に適用すると、こうなるらしい。
確率論には、最尤推定ってやつもある。50% とするのも、あまりに安直だが、尤もらしい確率というのも、なかなかの安直ぶり。しかし、こうした大雑把な予測が、生きる上で意外と役に立つ。すべての人間が平等というのを信じれば、平均値を頼りにする最も平凡な戦略もありだ。
宝くじのように期待値が算出できれば、もうちょっとましな見方もできよう。ただ、当たる確率は売り場で違う!と主張するマニアもいるが、あながち嘘とは言えまい。こうした数値を、ベイズの法則でいうところの無情報事前分布として眺める手もある。
ベイズの法則は、条件付き確率と事前確率で組み立てられるが、本書は「事前に持った信念と観察された証拠をどう結びつけるか」という視点を与えてくれる。
しばしば人間は、行動せねばならぬ時、大胆さが求められるものだ。そして、十分に努力した結果なのだから... と自分に納得させ、自分に言い訳できることも、生きる上では必要であろう。それは、諦めの境地とは違う。運命論に身を委ねるのとも違う...

4. ランダム戦略で偶然任せに...
人間が当てずっぽうにやれば、神頼み!となるが、コンピュータがやると、ことのほか重要な役割を持つ概念がある。ランダム性ってやつが、それだ。
計算機工学では、論理的に解くのが絶望的なほど複雑な問題でも、乱数を用いて近似解を得るというアプローチがある。乱択アルゴリズムの代表といえば、モナコのカジノに因んだ名で知られる「モンテカルロ法」がある。量子力学のシミュレーションモデルなどで見かけるやつだ。
乱数は、難題に対する最後の砦となりうる。例えば、複雑な入力パターンを持つブラックボックスをテストする場合、とりあえず入力条件の組み合わせに乱数を放り込んで、手っ取り早く検証モデルのプロトタイプを作っちまうという手は、なかなか有効である。
但し、コンピュータアルゴリズムで生成する乱数は、何らかの手順を踏んで生成するのだから、疑似乱数にならざるをえない。真の乱数を生成するには、量子現象に基づいた物理デバイスでも持ち出さないとできないだろう。
そんなデバイスからデータを呼び出す特別な関数を実装した CPU があれば、不確定性原理に看取られた世界へアクセスできそうだ。
とはいえ、アルゴリズムで生成された疑似乱数には再現性があり、検証プロセスのような用途では、むしろ都合がいい。再現性のない現象を検証するのは、途轍もなく厄介である。だから、ランダムではなく、ランダム性なのだ。
つまり、人間の都合のよい程度にランダムであることが、現実社会を生きるための指針となる。偶然に身を委ねるとはいえ、あまりに想定外の偶然は困る。
本書は、乱択アルゴリズムの例に「ミラー = ラビン素数判定法」ってやつを紹介してくれる。素数の判定は、今日ではインターネットの暗号システムで核となっている技術で、この判定法を用いれば、任意の精度で巨大な数でも、すばやく素数かどうかをが見分けられるという。しかし、「おそらく素数」「ほぼ確実に素数」などと表現されれば、これは本当に数学であろうか。こんなものが実用的だということは、それだけ暗号解読が途轍もなく困難であるかを示しているのだけど...
人間社会というカオスの中を生きていくには、完全な確信を得るよりも、確率的に、近似的に、偶然的に、だいたいの確信にすばやく近づくことの方が幸せなのかもしれん。どうせ確信もまた、ある種の思い込みだ。科学がどんなに進歩しようとも、迷信に惑わされる人類の性癖は治りそうもない...