2016-05-29

"富嶽百景・走れメロス 他八篇" 太宰治 著

おいらは、「走れメロス」を一度も読んだことがない。なのに、これほど筋書きを知っている小説があろうか。それは、待つという行為に焦点を合わせたもの。作品そのものより、こんな逸話の方を知っているとは、なんとも奇妙である。

... 太宰は執筆のため熱海の宿を借りた。金を使い果たしたことを妻に伝えると、壇がお金を持ってきてくれた。その日のうちに、二人は酒を飲んで金を使い果たしてしまう。ミイラ取りがミイラになったとさ。太宰は宿代が払えず、金を借りに単身東京へ帰るが、何日待っても戻ってこない。しびれを切らした壇が東京へ帰ると、なんと太宰は借金を言い出せずに、井伏の家で将棋をさしていたという。怒った壇は、太宰から思いがけぬ言葉を耳にする...
「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。
 この言葉は弱々しかったが、強い反撃の響きを持っていたことを今でもはっきりと覚えている。」
... 檀一雄「小説 太宰治」より

「走れメロス」は、明るい友情物語として親しまれている。だが、それは太宰の本意であったのか。信頼されているから裏切れないとすれば、信頼されていなければ裏切れるというのか。ここには、ある種の見返りの原理が働いている。太宰にとって、正義だの、誠実だの、友情だの、権威だの、名誉だの... すべて通俗で嘘っぱちだったのか。そして、崇高な世界観も、自然な芸術も、彼自身の文体も... だから、虚無な自我を抹殺せずにはいられなかったのか...
太宰は、百四十近い短編を残し、四十で死んだ。小説でも書いていなければ、やってられない人生とは、いかなるものか。自我を肥大化させた結果なのか。理想が高すぎるが故の結末か。芸術家だから余計に感じるのかもしれない。凡人は目の前の幸せにすら気づかないでいる。醜い自我を曝け出さなければ、自惚れ屋でなければ、狂うほどのものがなければ、小説なんて書けやしまい。出来の悪い子ほど可愛いというが、出来の悪い自我ほど可愛いものはない。可愛がるからこそ、出来が悪いのかもしれんが...

本書には「魚服記」、「ロマネスク」、「満願」、「富嶽百景」、「女生徒」、「八十八夜」、「駈け込み訴え」、「走れメロス」、「きりぎりす」、「東京八景」の戦前の十作品が収録される(岩波文庫)。どの作品も比喩や暗示が効いていて、なんとも煮え切らない、いや、見事な思わせぶり。そして、やがて辿り着く人間失格を予感させる。漠然とした不安とは、文学への殉教であったか...

1. 魚服記
本州北端の梵珠山脈に、馬禿山というのがあるそうな。麓を流れる滝では、夏の末から秋にかけてよく紅葉し、人々で賑わうという。父と娘が、この地に移り住んできたのは、娘スワが十三の時。二人は炭小屋に住む。父は滝壺のわきに小さな茶店を開き、店番はスワの役目。黄昏時に父が迎えに来ると、いつもの平凡な会話をする。「なんぼ売れた... なんも...」
ある日、スワは滝壺の傍に佇み、昔、父親が話したことを思い出す。それは、三郎と八郎という木こりの兄弟の物語。弟の八郎が魚をたくさんとって帰ると、兄の三郎が帰らぬうちに一匹食べ、二匹三匹と食べてはやめられず、全部食ってしまう。そして、喉が渇いて井戸の水をすっかり飲み干すと、体中に鱗が吹き出て、大蛇になってしまった。三郎が帰ってきて「八郎やぁ」と呼ぶと、大蛇が涙をこぼして「三郎やぁ」と答えたとさ。
さて、この日も父が迎えに来ると、「なんぼ売れた」と聞く。だが、スワは答えない。まことに木こりの兄弟の会話のごとく、虚しさを感じるのだった。そして帰り道...
スワは父に聞く、「お父(ど)。おめえ、なにしに生きでるば。」
父は肩をすぼめて答える、「わからねじゃ。」
スワは厳しい顔で言う、「くたばったほうあ、いいんだに。」
父は、ぶちのめそうと思ったが、こらえて受け流した、「そだべな、そだべな。」
スワは、その返事が馬鹿くさくて怒鳴る、「あほう、あほう。」
盆が過ぎて茶店をたたむと、父は炭を背負って村へ売りに出かけ、スワは一人残って茸を採りに行く。父は、炭や茸がいい値で売れると、決まって酒臭い息をして帰ってくる。この日は、木枯らしのために朝から山が荒れていた。父は早暁から村へ降りていき、スワは一日中小屋へ籠もっていた。夜になり、うとうと眠っていると、白いものが舞い込む。初雪である。疼痛!身体がしびれるほど重い。おまけにあの臭い息。
スワは「あほう。」と叫んで外へ出た。吹雪の中、滝に吸い込まれるように歩き、低い声で「お父(ど)!」と言って飛び込んだ。気がつくと辺りは薄暗く、滝の響きが頭の上でかすかに感じられる。ここは水底、スワは大蛇になってしまったのだと思った。「うれしいな!もう小屋へ帰らなくていい」と言うと、口ひげが大きく動く。スワは大蛇ではなく、鮒になって泳ぎまわっていた。そして、滝壺へ吸い込まれていく。太宰の運命となる入水自殺を暗示するかにように...

2. ロマネスク
三つの物語の共演...
「私たち三人は兄弟だ。きょうここで会ったからには、死ぬとも離れるでない。いまにきっと私たちの天下が来るのだ。私は芸術家だ。仙術太郎氏の半生と喧嘩次郎兵衛氏の半生とそれから僭越ながら私の半生と三つの生きかたの模範を世人に書いて送ってやろう。かまうものか。うその三郎のうその火炎はこのへんからその極点に達した。私たちは芸術家だ。王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらにおいて木の葉のごとく軽い。」

一つ目の物語「仙術太郎」
津軽の庄屋、鍬型惣助は、幼い息子の太郎の発する言葉から、預言者としての能力を信じる。親馬鹿か。太郎は、仙術の本に没頭する。蔵の中で一年修行し、ようやくネズミと鷲と蛇になる術を覚えた。とはいえ、単にその姿になるだけのことで別段面白くもない。惣助はもはや我が子に絶望していた。それでも負け惜しみに、出来過ぎた子なのじゃよ!
太郎は、津軽一番の男になりたいと念じ、十日目に成就する。だが、鏡を覗いて驚く。色が抜けるように白く、頬はしもぶくれで、もち肌、目は細く、口ひげがたらりと生えている。それは天平時代の仏像の顔であって、しかも股間の逸物まで古風にだらりとふやけている。仙術の本が古すぎたのだ。古風な二枚目は現代の間抜け面、これでは女にモテない。おまけに、仙術の法力を失って元に戻れない。太郎は絶望し、村から出て行く。あらゆる欲望が無欲の境地へ導き、ついに、人間であることを飽きさせるものであろうか...
「太郎の仙術の奥義は、ふところ手して柱か塀によりかかってぼんやり立ったままで、おもしろくない、おもしろくない、おもしろくない、おもしろくないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむことにあったという。」

二つ目の物語「喧嘩次郎兵衛」
醸造業を営む鹿間屋逸平の長男は世事に鈍く、己の思想に自信が持てず、父の言うとおりに生きた。次男の次郎兵衛は兄と違い、是々非々の態度を示す傾向があり、商人根性を嫌った。それだから、ならず者と評判される。次郎兵衛は、二十二歳の時、喧嘩上手になってやると意気込む。馬鹿な目にあった時は、理屈も糞もない。ただ力が正義!
まず、喧嘩は度胸。次郎兵衛は、度胸を酒でこしらえる。次に、ものの言いよう。喧嘩の前には気のきいたセリフが欲しいと日夜訓練。そして、いよいよ喧嘩の修行に励む。彼は武器を嫌った。卑怯だから。殴る時の拳を研究した挙句、殴り方にもコツがあることを発見する。また、自分の身体を隅々まで殴ってみて、眉間と鳩尾(みぞおち)が急所であることを知る。男の急所を狙うのは、やはり卑怯。
父は、次郎兵衛が何かしらの修行をしていることに気づき、大物になったように感じ、火消し頭の名誉職を継がせた。しかし、名誉が与えられると、皆から慕われ喧嘩の機会が減る。やけくそで背中に刺青をすると、ならず者にまで敬われ、完全に喧嘩の望みが絶たれる。
ある日、妻の酌で酒を飲みながら、俺は喧嘩に強いんだぞ!とじゃれてみせ、妻を殺してしまった。次郎兵衛は、牢獄で念仏ともつかぬ歌を、憐れなふしで口ずさむ。
「岩にささやく 頬をあからめつつ おれは強いのだよ 岩は答えなかった」
人間ってやつは、自分の能力を誰かに認めてもらいたくてしょうがいないもの、つまらぬ見栄のために墓穴を掘る...

三つ目の物語「うその三郎」
宗教学者の原宮黄村の息子、三郎は父の蔵書を次々に売却し、六冊目に見つかり折檻された。泣く泣く悔悟を誓うが、これが嘘の始まり。
三郎は、隣家の愛犬を殺した。ある夜、犬はけたたましく吠え、父は三郎に見に行ってこい!と命じる。犬がじゃれつき、甘ったれた様子に憎悪を抱いて、石を投げつけると、頭に命中して死んだ。そして、犬は病気で明日死ぬかもしれません、と報告した。
三郎は、遊び仲間を橋から突き落として殺した。理由はない。拳銃を持てば、ぶっ放したくなる発作と似た気分に襲われた。そして、友人が川に落ちたと叫んで泣きじゃくり、人々の同情を引く。葬儀にも平然と参列した。
人に嘘をつき、己に嘘をつき、犯罪ですら美化し、とうとう嘘の塊と化す。「人間万事嘘は誠」
父、黄村が死んだ。遺言には、こう書かれていた。
「わしはうそつきだ。偽善者だ。... わしは失敗したが、この子は成功させたかったが、この子も失敗しそうである。」
三郎は、ハッとする。見透かされたか。三郎の罪は、幼き頃の人殺しから始まった。父の罪は、己の信じきれない宗教を人に信じさせたことにあった。重苦しい現実を少しでも涼しくしようと、人は嘘をつく。適量を越えると、さらに濃度の高い嘘をつく。まるで麻薬だ。嘘の技術は切磋琢磨され、やがて引け目を感じることもなくなり、自我の中で真実の光を放つ。もはや、無意識無感動の痴呆の態度に救いを求めるしかない。しかし、これも嘘だ。嘘のない人生なんてあるものか...

3. 満願
恐ろしく短い、超短編小説... 小説「ロマネスク」を書いていた頃のエピソード。
ある夜、酔って自転車に乗り、怪我をした。傷は浅いが、出血が酷く、慌ててお医者さんに駆けつける。町医者も同じくらい酔っていて、ふらふらと診察室に現れたので、互いに大笑いする。その夜から、二人は意気投合。
医者の家では、五種類の新聞をとっていて、毎朝、読ませてもらうために散歩で立ち寄る。その時刻に、薬を取りに来る若い女性。医者は、「奥さん、もうすこしの辛抱ですよ!」と大声で叱咤する。旦那さんは三年前に肺を悪くしたが、だんだん良くなっている様子。
そして八月の終わり、奥さんが白いパラソルをくるくる回して歩き、その姿が一段と美しく見える。すると、医者の奥さんがささやく。
「今朝、おゆるしが出たのよ!」
おゆるしとは、なんだ?夫婦生活のことか。
「あれは、お医者の奥さんのさしがねかもしれない。」
あれとはなんだ?医者の奥さんも欲求不満を愚痴って、早くおゆるしを出してあげなさいよ!ってか。執筆で苦慮するもやもやさを、性欲のもやもやと重ねたような物語であった...

4. 富嶽百景
御坂峠の頂上には天下茶屋という小さな茶店があるそうな。昭和十三年の初秋、思いを新たにする覚悟で甲州へ旅に出た。井伏鱒二が初夏の頃から、この二階に籠って仕事をしていることを、知っていたからである。この方面からの眺めは富士三景の一つに数えられるが、あまり好きではないという。それどころか軽蔑していると。
「富士には月見草がよく似合う... 富士なんか、あんな俗な山、見たくもない、高尚な虚無の心...」
井伏が帰京すると、今度は太宰が九月から十一月まで、御坂の茶屋の二階で仕事をした。富士三景とへたばるほどの対話。どうも俗だねぇ。お富士さん...
太宰は、世間を恐れていたのか?それとも人間を恐れていたのか?富士はみんなが崇める存在、だから反発しているのか。心を癒やすために他の山に登っても、甲州のどの山からも富士が見え、却って気が重くなる。
しかしながら、さんざんコケにした富士を、いつの間にか心のつぶやきの相手にしている。お富士さんに化かされ、妥協し、頼みの相手とし... 弄ばれているのは、いったいどっちだ。
「世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、いわば、新しさというもの、私はそれらについて、まだぐずぐず、思い悩み、誇張ではなしに、身もだえしていた。」
十一月になると、外套を着た若い娘二人が訪れた。シャッターを切ってくださいな!都会風の女性から頼まれて、狼狽する。だが、レンズを覗くと、二人をレンズから追放して、こっそり富士山だけを撮った。現像したら驚くだろうなぁ... 次の日、山を降りた。冗談でもやってなきゃ、生きちゃおられん...

5. 女生徒
女性の独白体は、太宰文学のお家芸とう評判を聞いた。なるほど、文体のリズムはお見事!
主人公は、お茶ノ水のある女学校に通う少女。彼女にとって朝は、かくれんぼの時、押入れの中で隠れていて、突然、襖をあけられ、みぃつけた!と大声で言われるような、ちょっと照れくさい感じ。いや、もっとやりきれない虚無な世界。悲観的で、後悔するばかりの毎日。
父の死を考えると不思議に思えてくる。死んでいなくなるということは、どういうことか。平凡な日常で哲学するものの、苦労知らずでポカンと生きていれば、感受性の処理がおぼつかない。
大人たちは、もっともらしいことを言う。宗教家は信仰の大切さを説き、政治家は正義を声高に唱え、作家は気取った言葉を用い、教育家はいつも恩、恩、恩...
批判しても責任は持たない。本当の意味の自覚、自愛、自重がない。本当の意味の謙遜がない。みんな同じことを言っているだけ。独創性に乏しく、模倣があるだけ。上品ぶっても気品がない。しかし、そんな大人たちの態度が、自分にそっくりなことに気づいていく。
「自然になりたい。すなおになりたい。... 本なんか読むのやめてしまえ。観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。」
感傷に浸っても、自己愛を慰めているだけ。本当の自由は、いったいどこにあるの?過去、現在、未来を重ねながら、心の準備が整わないまま大人になっていく。素直に生きる難しさと、卑屈に生きる現実。こうしたものをひっくるめて、漠然とした不安として描かれる。情緒不安定で自省的な心を、懐かしんで書いているような...

6. 八十八夜
作家の笠井さんは、信州へ旅に出た。痴呆症のごとく。分かっているのは、一寸先は闇だということだけ。人生とは、それが望むものでないとしても、前に進むしかない。認識能力がエントロピーに支配されている以上、油断は禁物。必死に生きていくか、必死に死んでいくか、他に選択肢はない。いや、もう一つだけある。死んでいるかのように生きること。卑屈に、静かに狂気を謳歌すること。まるで死神よ。
「非良心的な、その場限りの作品を、だらだら書いて、枚数の駈けひきばかりして生きて来た。芸術の上の良心なんて、結局は、虚栄の別名さ。浅はかな、つめたい、むごい、エゴイズムさ。生活のための仕事にだけ、愛情があるのだ。陋巷の、つつましく、なつかしい愛情があるのだ。」
過去をすべて捨て去ることができたら、幸せになれるだろうか。しかし、笠井さんは、過去を捨て去ったわけではない。
去年の秋、諏訪の温泉で下手な仕事をまとめるためにお世話になった女中さんが忘れられない。秘かに期待を膨らませるアバンチュール!旅館に着くと、女中の声がさわやかに響く。浴場で泳いだ。バックストロークまで敢行した。そして、酒をくらった。ベロンベロン!女中さんが寝床を敷いてくれたが、ゲロを吐いた。すぐに敷布を換えてくれた。もう紳士ではありえない。これもロマンス?
翌朝、女中さんと顔を合わし、いたたまれない。羞恥や後悔などそんな生ぬるいものではない。死んだふりをしたい。だが、女中さんは爽やかに応じてくれた。玄関では、女将をはじめ女中さんたちが、笑みでお見送り。その中を、逃げるように旅館を去っていく。
「世界の果てに、蹴込まれて、こんどこそは、いわば仕事の重大を、明確に知らされた様子である。どうにかして自身に活路を与えたかった。暗黒王。平気になれ。まっすぐに帰宅した。お金は、半分以上も、残っていた。要するに、いい旅行であった。皮肉でない。笠井さんは、いい作品を書くかもしれぬ。」

7. 駈け込み訴え
キリストへの思いを、イスカリオテのユダに代弁させる。ただ愛が欲しいと...
あなたは、いつも優しく、いつも正しく、いつも貧しい者の味方で、いつも輝くばかりに美しかった。だが、先に逝ってしまわれた。無責任だ!無報酬の純粋な愛を受け入れよ、薄情な主よ!
宗教で何が救われるというのか?あなたに殉ずる他に何が出来るというのか?俗界は、人間には危険過ぎる。弱い卑屈な心が肥大化すると、もう手がつけられない。自我に対してですら復讐の鬼と化す。天国へ来い!ペテロも来い、ヤコブも来い、ヨハネも来い、みんな来い!俗世から足を洗おう。足だけ洗えば、みんな汚れのない清い身体になれる。
「ペテロに何ができますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんてばかげたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、ばかな奴らだ。」

8. 走れメロス
「メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」

(M: メロス, D: ディオニス王)
M: 市を暴君の手から救うのだ。
D: おまえがか?しかたのないやつじゃ。おまえなどには、わしの孤独の心が分からぬ。
M: 人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる。
D: 疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ。... わしだって、平和を望んでいるのだが。
M: なんのための平和だ。自分の地位を守るためか。罪のない人を殺して、何が平和だ。
D: 口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹わたの奥底が見え透いてならぬ。
D: 三日目には日没までに帰って来い。遅れたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっと遅れて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。はは。命が大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、分かっているぞ。

ディオニス王の台詞の方が、説得力を感じるのは、おいらの心が歪んでいる証であろうか。おっと!今度は、メロスの台詞に説得力を感じている。
「正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。」

そして、ついにディオニス王の台詞で赤面してしまう。いや、こそばゆい。
「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

9. きりぎりす
この作品でも女性の独白体を魅せつける。三行半とは、建前では夫から妻への離婚状とされるが、実はこれが真髄か!貧乏暮らしの時代、夫は天使のような存在であった。しかし、夫が名声を得ると、妻はぞんざいに...
「孤高だなんて、あなたは、お取り巻きのかたのお追従の中でだけ生きているのにお気がつかれないのですか。あなたは、家へおいでになるお客様たちに先生と呼ばれて、だれかれの絵を、片端からやっつけて、いかにも自分と同じ道を歩むものはだれもないような事をおっしゃいますが、もしほんとうにそうお思いなら、そんなにやたらに、ひとの悪口をおっしゃってお客様たちの同意を得る事など、いらないと思います。あなたは、お客様たちから、その場かぎりの御賛成でも得たいのです。なんで孤高な事がありましょう。」
妻が一人で寝ていると、背中の下でコオロギが賢明に鳴いている。泣いているのは妻か。いや、夫か。
「この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。」

10. 東京八景
「東京八景。私は、その短編を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理においても、この年齢は、すでに中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しいかなそれを否定できない。覚えておくがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、だれにも媚びずに書きたかった。」
作家にとって書きたいものを書くということは、意外と難しいものらしい。注文がこなければ、書きたいものも書けない。恐ろしいことは、書きたいものがなくなること。さらに恐ろしいことは、何も書けなくなること。
この作品は、太宰治の経歴が一望できる。パビナール注射の副作用から悪癖を覚えて中毒になり、人間失格へまっしぐら。
しかしながら、文学作品としては、らしくない。淡々と綴られる様子にちょっと拍子抜け。主人公が自分自身では思うように書けないのか?誰かに置き換え、仮面をかぶらないと、面白く書けないのか?いや、トリを飾る作品として期待が大き過ぎたのかもしれん。いやいや、ここまで読み進めて、ついに読者の方が精神破綻を起こしちまったのかもしれん...

2016-05-22

"ロマの血脈(上/下)" James Rollins 著

ようやくシグマフォースシリーズ第四作に突入。だが、このシリーズは十作を超え、もうついていけない。シリーズ物ってやつは、映画にせよ、小説にせよ、三、四作目あたりで精彩を欠いたり、飽きが来たりで、読者のモチベーションが減衰していく。しかし、ロリンズ小説は違う。毎度ながら、歴史と科学を融合させる手腕にイチコロよ!おまけに、静と動、分析と行動、知識とアクションを絶妙に織り交ぜ、歴史の可能性ってやつをプンプン匂わせてやがる。
ただ奇妙なことに、動の領域に文章のオアシスを感じる。静の領域はあまりに知識が溢れ、何度も読み返し、疲れ果てる。無限の知識の中に放り込まれると、アクションの方に安らぎを覚え、静脈と動脈が逆流するかのような感覚に見舞われるのだ。かなりの気合と体力を要するのも、ロリンズ小説の魅力!さて、次の挑戦は何年先になることやら...

本書は、およそ結びつきそうにない二つの血統を題材にしている。それは、古代ギリシアの聖地デルポイの巫女ピュティアと、不思議な占い能力を持つロマ種族である。これらを軸に、歴史的には、ロマの起源、インドのカースト制度、ハラッパー遺跡を絡め、科学的には、人間の予知能力と脳の可塑性、自閉症の中で稀に現れるサヴァン症候群、さらに特殊能力に関する米露の極秘プロジェクトを絡める。
また、地球上で最も汚染された地域の一つに数えられるチェリャビンスク地方や、チェルノブイリ原発事故に関して旧ソ連政府が隠蔽してきた衝撃的な事実は、福島第一原発事故を目の当たりにした我が国としても見逃せない。
ところで、ナノテクノロジーとは驚異的な技術だ。子供たちが持つ特殊能力を増幅させ、大人どもがそれを操ろうというのだから。生まれたばかりの赤ちゃんにマイクロチップを埋め込む外科手術が、法律で定められる時代も近いかもしれない。もし特殊能力を自由自在に制御できるとしたら、そこに野望の持ち主が群がるは必定。歴史を振り返れば、あらゆる独裁者は独善的な平和のために社会を破壊してきた。現存する社会秩序を一度チャラにし、新たな秩序とモラルを再構築しようと目論んできたのである。目的のためには手段を選ばず!の改バージョン、平和のためにはあらゆる犠牲を惜しまず!こうした論理は、愛国心や民族優越主義がいびつな形で肥大化した時に生じる。どんな残虐行為も、劣等人種、あるいは人間以下と見做さない限り、やれるものではない。世界征服の野望に憑かれた輩が、独善的な民族不要説を唱えるならば、まさに自らの種族を抹殺することになろう...

ジェームズ・ロリンズは、この物語が生まれたきっかけに、テンプル・グランディンの言葉を挙げている。
「もし何らかの力で自閉症がはるか昔に地球上から姿を消していたとしたら、人間は今でも洞窟に住み、火のまわりに座って過ごしていることでしょう。」
オリバー・サックスの著作「火星の人類学者」でも紹介されるアスペルガー型自閉症の女性動物学者で、TED.com から彼女のプレゼンテーションを拝見した。本書の自閉症に関する記述は、個人的に共感を覚える。というのも、おいらにはごく身近に重度の知的障害者がいる。この手の症状は自閉症を誘発することが多く、意思伝達能力と社会適応能力の低さから、自己の殻に籠もることが身を守る手段となる。その結果、言語能力や発話能力の遅れや阻害、動作の繰り返しやチック、一つの行動に対する執念などが見られる。だからといって無理やり取り合おうとすると、今度は人格を否定することになり、機能不全に陥ってパニックを起こす。
尚、自閉症の原因については、未だ解明されていないという。自閉症ゲノムプロジェクトと米国立衛生研究所の共同研究によると、ある複数の遺伝子と環境的な要因により発祥するというところまでは分かってきたらしいが...
もっとも本物語に登場するのはサヴァン症候群であり、その中でも世界で数十人しかいないと言われる天才的サヴァンである。超人的な能力を発揮するほど、精神的ストレスとなって自ら寿命を削るとすれば、それは幸せであろうか?狂気を自覚できる能力を持っていれば尚更だ。一方で、世俗的欲望は自覚意識を麻痺させてくれる。人間社会が狂気しても、みんなで自覚できないとすれば、それは幸せであろう...

1. あらすじ
グレイ・ピアース隊長の眼前でホームレス風の男が射殺された。男の名は、MIT の神経学者アーチボルド・ポーク。みすぼらしい姿は、致死量の放射線を浴びていたからである。彼はデルポイの神殿が描かれた硬貨を手に握っていた。放射線の反応する方向を測定器で追っていくと、ポークの娘エリザベスと出会う。狙撃者は特殊能力を持つ少女を連れていたが、目を離した隙に行方不明となる。なんの運命か、その少女をロマの男ルカがグレイの所へ連れてきた。彼女はタージ・マハルの絵を描く。グレイはエリザベスとルカと共に、ポークの足取りを追ってインドへ向かった。
一方、ウラル山脈では、一人の記憶喪失の男が不思議な能力を持つ三人の子供から、僕たちを救い出して!との依頼を受ける。その頃、ニコライ・ソロコフ上院議員とサヴィーナ・マートフ少将は、チェルノブイリ原発を利用したロシア再興計画を進行中。計画に加担させられていたのは、不思議な能力を持つオメガクラスの子供たちで、その能力を増幅させる人体実験には、シグマの存在を疎ましく思うアメリカのグループも関与していた。
グレイたちはポークの同僚ハイデン・マスターソンから情報を得て、パンジャブ地方でギリシアの神殿の遺跡を発見。そして、デルポイの巫女から現代へ繋がる血統の謎を解明するが、ロシア兵に捕らえられてしまう。
三人の子供と行動を共にする記憶喪失の男も、カラチャイ湖の放射線に怯えながら追っ手の巨大猛獣と戦っていた。廃炉となったチェルノブイリ原発四号炉を「新しい石棺」で密閉する式典が進むにつれ、ニコライとサヴィーナによる二つ作戦... 各国首脳を抹殺する「ウラヌス作戦」と、地球の生態系を壊滅させる「サターン作戦」... の開始が迫る。この二つは、第二次大戦でソ連軍が用いた作戦名で、セットで成功させることにより勝利を確定づけたことで知られる。
デルポイの巫女の預言が意味するものとは... 世界は燃えてしまう!人類の運命は、グレイたちでも記憶喪失の男でもなく、意外にも一人の少年の手に委ねられていた...

2. デルポイの神託と巫女ピュティア
デルポイの神託はギリシア神話のオイディプス伝説で描かれ、人々の運命を左右してきた。神殿の入口には、三つの格言「汝自身を知れ」「過剰の中の無」「誓約と破滅は紙一重」が刻まれていたされる。
巫女は霧に包まれながらトランス状態に陥り、依頼者が訊ねる未来について答えた。彼女の神託は古代世界において絶大な影響力を持ち、王や征服者ですら服従し、何千人もの奴隷が解放され、西洋民主主義の種がまかれたとされる。二千年近くに渡って厳重な警護の下に置かれた女性たちは、パルナッソスの山腹にあるアポロン神殿の内部で生活し、預言者として選ばれた一人に「ピュティア」の名が与えられ、その地位は代々受け継がれてきたという。ピュティアの信奉者には、プラトン、ソフォクレス、アリストテレス、プルタルコス、オウィディウスなど錚々たる人物が名を連ね、初期のキリスト教徒たちでさえも彼女を崇拝したという。ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂天井画に、キリストの再臨を預言するピュティアの姿を大きく描いている。
また、2001年に、新たな事実が明らかになったそうな。考古学者と地質学者のチームが、パルナッソス山の直下に奇妙な配列のテクトニック・プレートを発見したという。プレートの隙間から炭化水素ガスが放出され、ガスに含まれるエタンには高揚感と幻覚をもたらす作用があるとか。ピュティアが霧に包まれてトランス状態に陥ったのは、このガスを吸引したためであろうか?
しかしながら、キリスト教の台頭でデルポイの神託は衰退し、テオドシウス皇帝はキリスト教をローマ帝国の国教に定めた。
さて、本物語は、398年、ローマ軍がデルポイの神殿を滅亡させる場面から始まる。洞窟の至聖所には神聖なオムパロスがある。それは、「世界のへそ」と呼ばれるもの。そこに、神がかった能力を持つ少女が連れられてきた。百人隊長は少女の引き渡しを要求するが、最後のピュティアとなる巫女は少女をかばって殺される。百人隊長は洞窟内をくまなく探したが、少女の姿はどこにもなかったとさ...

3. ショヴィハニと直観力
死の天使ことヨーゼフ・メンゲレが、双子の子供に特別な関心を寄せていたという話は有名である。アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で人体実験をやった奴だ。本物語でも、双子の子供に焦点をあて、薄気味悪さを醸し出す。そして、古いジプシーの言葉で「ショヴィハニ」と呼ばれる天賦の才を持つ双子の兄弟が鍵を握る。世界征服を目論む野心家にとって、遠隔透視や予知能力は極めて利用価値が高く、人の心を読む「エンパシー」と呼ばれる能力は利用価値が低いように映るらしい。だが、心を読む能力を極限にまで高めれば、人の心を盗むことだってできる。
ところで、直観の正体とは何であろう?先天的能力とも、後天的能力とも言われるが、おそらくその両方であろう。難題を前にすれば、突然閃いたように理解できる瞬間があったり、解決策が突然夢の中で浮かんだりする。インドを舞台にしているのは、どうやらヨガの行者が持つ驚くべき能力について、生理学的な根拠があるらしい。
例えば、手足や皮膚の血流を調節することで何日も極寒に耐えることができたり、基礎代謝率を下げることで何ヶ月も断食を続けられたり、皮膚の血流を制御することによって人間の意思までも制御できるというもの。心頭を滅却すれば火もまた涼し!とも言うが、もっと科学的なレベルにおいてである。
本来、直観とは、身に迫る危機に対して高められる能力のような気がする。天才的サヴァンの人たちは、知的障害を抱えながらも限られた分野で驚異的な才能を持つ。ずば抜けた計算能力や記憶力、機械操作力、空間認識力、臭覚・味覚・聴覚の識別能力、音楽や絵画の才能など。彼らもまた、何かから自分の身を守ろうとして能力を研ぎ澄ますかのように...
さて、人間は未来を見ることが可能であろうか?本書は、超心理学の研究者ディーン・ラディンが行った実験を紹介してくれる。画面上に様々な写真を映し出す。目を背けたくなるような写真と、心和むような写真を、無作為に混ぜて。数分後には、被験者は目を背けたくなる写真が映し出される前に、たじろぐようになったという。約三秒前に予測できるようになったというわけだ。実験は、賭け事をする人にも行われたという。トランプで良いカードが出る時にはプラスの反応を示し、悪いカードが出る時にはマイナスの反応を示す。すると、その反応がカードをめくる数秒前に現れたという。
原因は分からないが、権威ある学者によると、ごく普通の人でも短時間であれば未来を見ることができるらしい。麻雀では、一発ツモやドラがのるといった匂いを感じることがあるが、これも予知能力であろうか。もっともおいらは、牌の流れ!を読もうとする...

4. 脳の可塑性とヘッブの法則
人間の脳は、三百億個の神経細胞からできていると言われる。各神経細胞は複数のシナプスで結合され、大規模な神経回路が形成される。その数は、十の百万乗の単位。
ちなみに、全宇宙に存在する原子の総数は、十の八十乗ぐらいと言われている。
脳への情報伝達は、電気信号によってもたらされる。ものを見る時は目で見ているのではなく、脳で認識して見ている。耳が聞こえなくなった人が、人工内耳によって聴力を取り戻すことができるのも同じ理屈である。新しい言語能力を獲得する場合でも、言語特有の周波数から言葉を認識できる神経回路が形成される。
したがって、脳の内部に電極を挿入すれば、なんらかの意思制御ができるというのはもっともらしい。電気信号の入力によっては、五感以上の知覚能力を覚醒させる可能性だってある。脳が電気信号の集まりで、しかも新たな信号に対する適応能力を持っているために、外部から電気回路を接続することによって、新たな認識能力を持つこともありうる。人間は生まれつきサイボーグ!というわけだ。
2006年のブラウン大学の実験によると、体が麻痺した患者の脳に微小電極を接続したマイクロチップを埋め込み、その患者は四日間の練習を積んだ後、体を一切動かすことなく頭で考えるだけで、ディスプレイ上のカーソルを動かしたり、電子メールを開いたり、テレビのチャンネルを切り替えたり、ロボットアームを動かしたりできるようになったという。ハーバード大学がラットに行った実験によると、TMSジェネレータ(経頭蓋磁気刺激装置)は、神経細胞の成長を促進することが解明されたという。発育途上の子供の方が、その影響を受けやすい。だが奇妙なことに、学習と記憶に関する領域だけ成長したそうな。
また、神経学には「ヘッブの法則」というものがある。「発火する神経細胞同士は結びつきを強める」というもので、脳のある部分を刺激し続けると、その部分がどんどん強化されていく。外部からの磁気的な刺激によって、神経細胞のスイッチを入れたり切ったりできるとすれば、その能力を操ろうと考える輩が必ず現れる。まさか!メンゲレはこんな実験をやっていたのか?
「我々の行っている実験の内容が、外部の人間に漏れてはならない。そんなことになれば、ナチを断罪したニュルンベルク裁判ですら、交通違反を扱ったのではないかと思われるような事態が起こる。」
尚、誘発された記憶喪失については、主にプロプラノロールを使用して、選択された記憶を薬により消去する技術が実用化されているそうな...

5. スターゲイト計画と科学者の倫理
スターゲイト計画とは、冷戦時代のプロジェクトで、軍事作戦に遠隔透視能力を応用するというやつだ。公式には、アメリカの第二のシンクタンクであるスタンフォード研究所が管轄していた。後に、ステルス技術の開発に関与する機関である。
1973年、スタンフォード研究所は、CIAから委嘱を受けたという。精神力だけで、はるか離れた地点にある物体や活動を監視し、情報を収集することが目的である。非現実的といえばそうかもしれない。だが、どんなにバカバカしい研究でも、敵国が成果を出している可能性があれば、遅れをとるわけにはいかない。CIAの報告書によると、1971年ソ連の計画は突如として最高レベルの機密扱いになったという。実際は、それほど成功例はなかったらしい。だから、1995年に幕引きしたことになっている。それでも、遠隔透視の実験では、15% の有用な結果が得られたという。確率的な値をはるかに上回る数値だ。
例えば、ニューヨーク在住のアーティスト・インゴ・スワンという人は、緯度と経度の座標を与えるだけで、その場所にある建物の形状を詳細に説明することができたという。そのヒット率は 85% 近いとか。顕著な成功例で最も有名なのが、誘拐されたジェームズ・ドジャー准将の救出に関する事例がある。ある遠隔透視者が、准将の監禁された町を言い当てたという。また別の透視者は、監禁されている建物の様子を詳細に描写し、鎖でつながれているベッドの位置まで特定したとか。
さて、本物語では、スターゲイト計画は密かに継続され、しかも、ベルリンの崩壊とともに資金ぶりに行き詰まったロシアが、アメリカの組織「ジェイソンズ」に資金援助を求めたという展開を見せる。ジェイソンズとは、冷戦時代に創設された科学部門のシンクタンクで、著名な科学者たちで構成される実在する組織。
科学者は、政治や軍部の干渉を嫌う傾向がある。それはどこの国でも同じであろう。国家の枠組みを超えた地球レベルの倫理観を唱えるケースもある。人類として踏み入れてはならない境界を侵そうものなら、いくら敵国同士でも互いに協力を求める可能性だってある。本物語は、その科学者たちの良心の呵責とやらに期待するのだが...

6. ロマとカースト
ヨーロッパに移住したジプシーは、当初エジプト出身と言われ、「エイジプトイ」や「ジプシャンズ」と呼ばれ、それが語源とされる。だが、近年の言語学研究によると、ロマ語は古代インドのサンスクリット語が起源だと判明したそうな。ロマはインドの北西部パンジャブ地方を起源とする種族で、すべてのジプシーを含んでいるわけではなさそうだ。ヨーロッパで長い間苦難の時代を強いられてきたが、なぜ移住してきたかは不明だという。
ロマの祖先がインドを脱出したのは、10世紀頃。ちょうど厳格なカースト制度が導入される時代と重なり、歴史学者の間にはカースト間の摩擦が原因ではないかとする説もある。カースト制度の枠組みから外れた最下層の人々は不可触賤民とされ、その中に、泥棒、音楽家、不名誉除隊の軍人のほか、魔術師も含まれていたという。
では、カーストといった差別意識はどこから来ているのか?ヒンドゥー教の言い伝えによると、すべてのヴァルナ、すなわち身分は、インド神話に登場する原人プルシャから誕生したとされるそうな。聖職者や教師などが属するバラモンはプルシャの口から、王族や武士は腕から、商人は腿から、労働者は足から生まれたという。それぞれの階級の中でも上下関係があり、そのほとんどは二千年前の「マヌ法典」によって定められ、しかも、何をやって良いか何をやったら悪いかなど細かく規定されているという。
しかし、五番目のヴァルナである不可触賤民だけはプルシャから生まれたのではないとされ、社会の枠組みから外れた。彼らは、その汚らわしさゆえに普通の人々とは交流できないとされ、動物の皮、血、糞尿、人間の死体の処理を職業としてきた。上位カーストの人々の家や寺院に入ることも禁じられ、同じ食器を使って食事することも認められておらず、上位カーストの人の体の影が触れることすら許されないという。規則を破れば、袋叩きに遭い、強姦され、殺害されるとか。アチュート(アウト・カースト)として生まれれば、死ぬまでアチュートというわけだ。
経済学者アマルティア・センが問題提起した「喪われた女性たち」は国際的に反響を呼んだ。嫁焼き!... 毎年10万人を超える若い女性が焼き殺され、その多くは家庭内暴力だとも聞く。もちろんインドの法律はそうした差別を禁止しているが、実質的にあまり変わっていないらしい。特に地方では差別が根強く残り、現在でも人口の 15% が不可触賤民に分類されるという。慣習とは、恐ろしいものだ!
さて、本物語では、不可触賤民の中に不思議な能力を持つ家系があるとしている。それが「ショヴィハニ」というわけだ。そして、ロマ種族はこの血筋を他には明かさず、近親交配によって維持しようとしたために、遺伝的異常が数多く発生したという。その遺伝子異常の好転した場合が、天才的サヴァンというわけか...

7. タージ・マハルと愛の象徴の恐怖
タージ・マハルは、三百年以上前にムガール帝国の皇帝シャー・ジャハーンにより、最愛の妃が永遠の眠りに就く場所として建設した霊廟である。人々の間では、不滅の愛の象徴とされる。王妃は、旦那から四つの約束を取りつけたという。一つは、自分のために大きな墓を建てること。二つは、皇帝が再婚すること。三つは、皇帝が子供たちを大切にすること。四つは、毎年命日に墓参りをすること。皇帝は約束を守り続け、最愛の妃とともにタージ・マハルに埋葬されたという。
しかし、愛の物語の裏には、必ず血塗られた歴史がある。言い伝えによると、霊廟の完成後、皇帝は建設に携わった職人の手をすべて切り落としたそうな。これに匹敵する壮麗な建築物を二度と造らせないために...

8. 核の遺産
1986年、チェルノブイリ原発の四号炉が爆発した事故では、放射線の影響で十万人以上が死亡し、七百万人が被曝したとされる。その多くが子供たちで、いまだ癌や遺伝子異常の報告が絶えない。さらに近年、悲劇の第二波が訪れた。被曝した子供たちが子供を産む年齢となり、先天性欠損の事例が三割増加したという。1993年にモルドバで生まれた赤ん坊は、二つの頭、二つの心臓、二つの脊髄を持ちながら、手足は二本ずつ。脳が頭蓋骨の外にある状態で生まれた子供など。
しかしながら、もともと核で汚染されてきた地域で、原発事故だけの影響とは言いがたい。ウラル山脈にある旧ソ連時代のプルトニウム工場も、ウラン鉱山で働く囚人の住居として使用された地下都市も実在し、ほとんどの囚人は刑期を終えずに命を落としたという。プリピャチで、厚さ12メートルの巨大な鋼鉄製のシェルターで古い石棺を密閉する計画も事実だとか。
チェリャビンスク地方は、地球上で最も汚染された地域の一つとして数えられる。カラチャイ湖の汚染された湖水は周辺のアサノフ湿地へ漏れ出て、そこに断層が存在するのも事実だそうな。ノルウェーの地球物理学者の調査によると、大地震などが発生して湖底の断層に影響を与えた場合、北極海は死の海と化し、北米や北部ヨーロッパにまで汚染が広がると予想されているという。
2013年、チェリャビンスク州に隕石が落下したと大々的に報じられた。重さ10トンと見られる隕石が。科学者が予想する事態ともなれば、サヴィーナ少将が人工的に作り出そうとした事態が、偶発的に起こる可能性はある。福島第一原発事故を目の当たりにすれば、他人ごとではない...

2016-05-15

"ユダの覚醒(上/下)" James Rollins 著

久しぶりに推理モノ... 久しぶりにジェームズ・ロリンズ... 歴史と科学を絡める手腕は相変わらず!事実とフィクションの按配が絶妙で、その境界を心地よくさまよわせてくれる。下手な歴史書よりも、下手な科学書よりも奥ゆかしい。
本書は、「マギの聖骨」、「ナチの亡霊」に続く、シグマフォースシリーズ第三作。ただ、このシリーズは十作を超え、もうついていけない。学生時分なら、間違いなく追尾していたであろう。社会人になると、このジャンルを読む機会がぐんと減った。一度手をつけると、一気に読み干さないと気が済まない。二、三日寝なくとも。まるで麻薬よ!そろそろ隠遁して本性を解放したい、と思う今日このごろであった...

今回のテーマは、歴史的にマルコ・ポーロの東方見聞録、科学的に遺伝子工学を題材にしながら、現在にも通ずる環境破壊や科学の暴走を暗示している。
驚いたのは、人間の DNA のうち、実際に機能しているのは 3% に過ぎないとのことである。残り 97% はジャンクDNAと見なされ、なんの意味もないのだそうな。ただ、その一部はウイルスの遺伝子コードと酷似しているという。現在の通説では、将来起こりうる病気から保護する役割を担っているとされるとか。
実のところ人間は、眠っている DNA から何かを覚醒させようとしている、ということはないだろうか?2015年、科学者はヒトの胚の遺伝子を編集し始めたと大々的に報じられ、今日、遺伝子工学のモラルハザードが問題視される。ついに、パンドラの匣を開けるか?人間の欲は計り知れず、病気だけでなくあらゆる方面で優位に立とうとする。なにしろ差別の好きな生き物なのだから。そして、遺伝子の格付けが始まる。価格競争も激化し、オークションも登場するだろう。長寿遺伝子、スポーツ遺伝子、学者遺伝子... 人々は流行遺伝子に群がるだろう。人間社会は、このまま人間の遺伝子組換えを許し、危険なバイオテクノロジーの道を進むのだろうか?いや、すでに人間が越えてはならぬ領域に足を踏み入れているやもしれん...
ところで、人間は、かつて人食い人種だったのだろうか?人間ってやつは、飢えると何をしでかすか分からない。理性に縋ったところで、これほど脆く崩壊しやすいものもない。大飢饉に襲われれば、屍体を貪るような異常行動も見られる。家畜同然に扱われた奴隷が、その対象にされたということも考えられなくはない。いずれにせよ、最新の遺伝子研究によると、人肉を食した場合にだけ感染の可能性がある病気に対抗するための特定の遺伝子が、すでに人体に組み込まれているそうな。
尚、飽くことのない食欲を伴うプラダー・ウィリー症候群という恐ろしい遺伝子異常は、食人とは一切関係ないとのことである。

物語の謎解きは、地理的にも、歴史的にも、アジアとヨーロッパの接点をなすイスタンブールから始まる。鍵をマルコ・ポーロのイタリアへの帰路に求め、時代を遡る。問題は、インド洋のクリスマス島で発生した疫病。科学者は、古代ウイルスの菌株が存在することを指摘する。各種の疫病を引き起こす原因となるバクテリアの祖先、その名は「ユダの菌株」。テロリストの手に落ちれば、生物兵器ともなる代物だ。昨今の世界情勢では、知識こそが真の武器となる。石油などの天然資源よりも、どんな最新兵器よりも。DARPA(米国国防省高等研究企画庁)の諜報機関シグマフォースとしては見逃せない。
ところで、こんなものがマルコ・ポーロと、どう結びつくというのか?彼は、自分の旅路について、語ろうとしなかったことが一つだけあったという。また、彼の遺体は埋葬されたサン・ロレンツォ教会から忽然と姿を消し、行方不明のままだとか。東方見聞録にも記されなかった事実とは?
推理小説の醍醐味は、緻密に組み立てられた論理性に支えられているが、さらに歴史の可能性ってやつを匂わせてやがる。それは、歴史や科学、はたまた考古学といった学問研究が、暗号解読のような推理思考と相性がいい証拠であろう...

1. あらすじ
独立記念日、グレイ・ピアース隊長のもとに、かつて闘ったギルドの女工作員セイチャンが助けを求めてきた。彼女は組織のある計画に反発し、抜け出してきたという。その計画とは、マルコ・ポーロの謎にまつわるもの。
ギルドとは、各国の諜報機関が目を光らせるテロリスト集団。最新の科学技術の捜索と奪取を目的とする点で、シグマとライバル関係にある。ギルドのスパイは、各国政府や諜報機関、主要なシンクタンク、国際的な調査機関の内部にも潜り込んでいると噂される。かつてシグマも痛い目に合っており、ペインター・クロウ司令官はセイチャンを警戒する。
グレイは、ギルドの襲撃を受け、両親を人質にとられた。手がかりは、セイチャンが持っていたオベリスクの中に隠されていたアグレー修道士の十字架と「天使の文字」。アグレー修道士とは、マルコ・ポーロの聴罪司祭。グレイは、セイチャンとヴァチカンの考古学者ヴィゴーの協力のもと、「東方見聞録」から削除された章の調査に当たる。
一方、シグマのモンク・コッカリスとリサ・カミングズは、クリスマス島で発生した奇病を調査するため向かった先で、ギルドの襲撃を受けた。捕まったリサは、巨大クルーズ船に設けられた研究施設で病原菌「ユダの菌株」の解明に迫られる。こいつが生物兵器として用をなすには、解毒剤も必要というわけだ。リサは、発症した患者の中で、ただひとり生き残った女性スーザンに解明のヒントがあると確信する。
突如発生した人肉を欲するようになる奇病と、東方見聞録から削除された章が、どう結びつくのか?グレイたち歴史調査隊が「天使の文字」を解読しつつある中、リサたち科学調査隊は遺伝子工学から謎に迫り、歴史と科学の道筋はある場所で結びつく。ある場所とは、かつてマルコ・ポーロが訪れながらも秘密にしてきたというアンコール遺跡であった...

2. マルコ・ポーロの旅... すべての謎はここに始まる
1271年、17歳の青年マルコ・ポーロはアジアへ旅立ち、フビライ・ハンの宮殿を訪れた。彼は父親と叔父とともに賓客として20年間を中国で過ごす。そして、1295年、ヴェネツィアへ帰還。
フビライ・ハンは、マルコ・ポーロが帰国する際、14隻の船と600人の随行者を提供した。それは、ペルシアに嫁ぐコカチン王女を送り届けるための護衛である。
しかし、2年間の航海で帰国したのは、2隻と18人の随行者だけ。他の者たちの行方は謎である。ポーロは死に際して、「私が目にしたことの半分しか話していない。」との言葉を遺したと伝えられる。東方見聞録にも遠回しにしか触れられていない。
また、コカチン王女との恋の噂が残されているそうな。王女の髪飾りを死ぬまで大切に保管していたことから。
埋葬後の遺体がサン・ロレンツォ教会から姿を消し、いまだに所在が判明していないというのも事実だそうな。
そもそも、マルコ・ポーロの目的は何だったのか?ポーロ、父、叔父の3人は、法王グレゴリウス10世の命で派遣されたヴァチカンの最初のスパイとする説がある。強力なモンゴル帝国を偵察するための。そして、極秘の旅行記が機密公文書館に隠されているというのである。ヴァチカンの記録文書によると、2名のドミニコ会修道士が同行したが、数日後に2名とも帰国したと記されるという。
だが、旅行者に一人ずつ修道士が同行するのが当時の慣習であったと主張する人もいる。では、もう一人の修道士とは誰か?ポーロは自分の聴罪司祭を何かの理由で残してきたというのか?本物語では、アグレー修道士は法王グレゴリウス10世の甥に当たるとしているが、実在したかは知らん。
また、ペルシア湾の入り口にあるホルムズ島にはコカチン王女の墓があるらしい。おまけに、棺には二つの遺体が添い寝しているとか...

3. 東方見聞録... この原典は存在しない
何度も写本を重ねており、それらの複製版や翻訳版を比較すると、記述の食い違いが随所に見られるそうな。あまりにも食い違いが多いので、マルコ・ポーロという人物が実在したのか?という疑問すら投げかける研究者もいるとか。この旅行記は、フランスの作家ルスティケロが物語として書き留めたが、創作ではないか?という疑惑まであるらしい。
実際、中国の記述では、重大な欠陥があると批判されている。お茶を飲む習慣や、纏足の習慣や、箸の使用についても一切触れられず、万里の長城の記述もまったくないという。
一方で、正しい記述も数多くある。磁器の独特な製法や石炭の燃焼法、さらに世界で初めて使用された紙幣についても記されているという。
ただ、ルスティケロは、序文で東南アジアの島々で何らかの悲劇が起こったことを匂わせているとか。
分かっていることは、一行はインドネシアで5ヶ月もさまよった末、無事に脱出できたのは、ごく一部であったこと。多くの歴史学者は、船団に疫病が発生したか、海賊の襲撃に遭遇したのではないか、と推測しているようである。しかし、そんな重要な出来事があれば、むしろ記述を残しそうなもので、死の床に就いた時ですら話すことを拒んだとされる。
さて、東方見聞録の初版はフランス語で書かれたが、本物語では、彼の存命中にイタリア語で出版する動きがあったとしている。それを後押しをしたのが、あのダンテとしているから面白い。その失われた章というのがこれ。
「第六十ニ章 語られることのなかった旅路、および禁じられた地図」
そこには、密林の奥地での出来事が記される。石段や広場に散乱する死体に大型アリが無数にたかる。生きている者ですら、死体と同じく四肢の皮膚は腐食し肉が剥き出しになっている。膿んだみみず腫れや出来物で全身が覆われた者や、腹部が異様に膨張した者や、目が見えない者や、全身を掻き毟る者や、切断された手や脚を手にした者たちが野獣のように向かってきたという。人が人を食らう衝撃にただ佇むのみ。まさに「死の都」の様子が記述されていたというのである。そして、最後に遺された言葉が、これだ。
「これを読む者よ、心して覚悟を決めよ。地獄への門は、あの都に開かれた。その門が閉ざされたのか否か、私にはわからない。」

4. 天使の文字... 人類の誕生以前に遡る文字!?
天使の文字とは、ヨハネス・トリテミウスとハインリッヒ・アグリッパの二人が考案したもの。彼らによると、これらの文字を研究することによって天使との交信が可能になるという。それは古代ヘブライ文字に基づいており、同様にユダヤ教のカバラの信奉者たちは、ヘブライ文字の形や曲線を研究することで、内なる知識への道が開かれると信じている。トリテミウスは、自分の考案した天使の文字がヘブライ文字の最も純粋な最終形だと主張したという。彼の著作「ステガノグラフィア」は、オカルトを扱った書だと見なされ、禁書目録に記載された。
しかし実は、天使研究と暗号解読を複雑に絡ませながら論じた書だったのか?恐ろしい真理を伝えるためには、天使の文字で記述して封じ込めることこそが、俗人の目に触れさせずに、危険を回避する最良の方法というわけか。では、トリテミウスが瞑想によって辿り着いた内なる知識とは?
本物語では、天使の文字が羅列される模様が、DNAの二重螺旋構造に似ているとしている。実際、DNAコードのパターンと、人間の言語の中に見られるパターンを比較するという科学研究がある。統計学で用いられる「ジップの法則」によると、すべての言語には繰り返し使用される単語に特定のパターンがあるとされる。単語の出現頻度の順位と出現率との関係をグラフにすると、一直線を示すというものだ。その関係は、世界中の言語で共通だという。英語も、ロシア語も、中国語も... そして、DNAコードもまったく同じパターンを示すという。言語記号が魂の投影だとすれば、そこには人間の目的という潜在意識でも記述されているのだろうか?死を恐れるがために生に執着し、そこに意義を求めずにはいられない。遺伝子はそのようにプログラムされているのだろうか?
尚、現代科学では、遺伝子コードに言語が隠されているとされるが、どんな内容が記されているかは明らかになっていない。

5. 黒死病の襲来
ペストが最初に襲ったのは、黒海沿岸に位置するカッファの町であったという。強大なモンゴル帝国のタタール族が、ジェノヴァ人の商人や貿易商の住むこの町を包囲した。やがてモンゴル軍の兵士たちに、燃えるような傷みを伴う腫れ物と激しい出血という疫病が蔓延し始めた。長引く包囲に業を煮やし、疫病で死んだ兵士の死体を投石器で城壁内へ投げ込み、たちまち疫病は広まったという。
1347年、ジェノヴァ人は12隻のガレー船でイタリアのメッシーナ港へと逃げ帰った。この時、黒死病がヨーロッパの地に足を踏み入れたと言われる。
また、17世紀に黒死病が席巻した時、イングランドのイーム村では、他の地域と比べて非常に高い生存率を示したという。その理由は、村人の多くが「デルタ32」という突然変異した遺伝子を保有していたからだとか。小さな村では村人同志の結婚が普通で、村人のほとんどがその遺伝子を受け継いでいた。
尚、中世に鼠径腺ペストが突然ゴビ砂漠で発生し、世界人口の三分の一を死に至らしめた原因は、未だ明らかになっていない。そればかりか、ここ百年を振り返っても、SARS や鳥インフルエンザなど数多くの疫病がアジアを起源として世界的に流行しているが、その原因も完全に解明されたわけではない。
さて、本物語では、14世紀に黒死病がヨーロッパを席巻した後に、ポーロ家の子孫が秘密の書をローマ法王に寄贈したらしい事実が浮かび上がる。しかも、この時期にポーロ家の記録がすべて消され、マルコ・ポーロの遺体までもがサン・ロレンツォ教会から姿を消したとか。何かの陰謀の力が、ポーロ家の痕跡を抹殺にかかったのか?

6. シアノバクテリア... こいつを殺人鬼に変貌させるもの
「乳海」と呼ばれるインド洋における乳白色の発光現象がある。それは、赤潮とはちょっと違うようだ。赤潮は藻類が大量発生したもので、光は発光性バクテリアが原因だという。また、世界各地で、乳白色に輝く藻が大量発生するケースは珍しくないとか。海には、古代の変性菌、毒クラゲ、ファイヤーウィードなどが蘇りつつあり、藻類が大量発生した箇所からは有毒ガスが検出されているとのこと。ファイアーウィードとは、藻類とシアノバクテリアの合いの子のような生物で、毒性を放出するという。
シアノバクテリアは、バクテリアの中でも最古の種類の一つに数えられ、世界最古の化石の中にも発見されているそうな。四十億年前から生存する地球で最初に生まれた生命体の一つで、植物のように光合成を行い、太陽の光から食糧を生成することもできるという。しかも環境への適合性が極めて高く、地上のあらゆる場所に生息するとか。海水中にも、淡水中にも、土壌中にも、岩石の中にも。ただ、シアノバクテリアそのものに害はない。
例えば、致死性の高いものに炭疽菌がある。学名「バシラス・アンスラシス」と呼ばれ、反芻動物に感染する事例がほとんど。ウシ、ヤギ、ヒツジなど、人間に感染する場合もある。だが、バラシス属は世界各地の土壌に存在し、まったく無害だという。
セレウス菌も良性の一つで、世界中の庭に生息している。
遺伝子構造がほとんど同じでありながら、一方が殺傷力を持ち、もう一方がほとんど無害となるのは、プラスミドという二つの遺伝子コードの環だけにあるという。プラスミドとは、染色体 DNA から独立した環状の DNA のことで、自由に浮遊するこの遺伝子コードを持つバクテリアは珍しいとのこと。
では、このプラスミドは、どこからやってきたのか?プラスミドの進化上の起源は、謎だそうな。最新の理論ではウィルス起源説が有力視されているという。それは、バクテリオファージとかいうバクテリアだけに感染するウィルスが起源ではないかという説。ペスト菌もまた同じプロセスで、プラスミドによって毒性が倍増された変質バクテリアということであろうか?
さらに、人間の体内にある細胞は 10% だけで、残りの 90% がバクテリアから成るという事実も見逃せない。現代科学は、恐竜の絶滅を完全に説明できたわけではあるまい。
さて、本物語では、クリスマス島に生息する陸生のアカガニの異常行動によって問題が発覚する。この大型カニは、毎年、産卵期に数百万匹もの数で海に向かって大移動することで知られる。その爪は、車のタイヤをパンクさせるほど強力。こいつらが凶暴になって人間を襲う。しかも、時期に関係なく、どこかを目指してやがる。カニの神経系を操っているものとは?ただ不思議なことに、こいつらには二つのタイプのウイルスが共存するという。それは、トランス型とシス型と呼ばれるもので、前者がバクテリアを凶暴化させ、後者が治癒効果を持つのだとか...

7. ユダの菌株... 三つの宿主に寄生する!?
吸虫類の多くは、三つの宿主に寄生する。ヒト肝吸虫の産んだ卵は糞便として体外に排出され、下水を流れ、巻貝などの腹足類の体内に入る。卵からかえった幼虫は、貝の体外に出て、次の宿主を探す。幼虫は魚に飲まれ、その捕獲された魚を人間が食べる。人体に入った幼虫は肝臓まで移動し、成虫のヒト肝吸虫となり、あとは肝臓内で幸せな生涯を過ごす。
では、ユダの菌株も似たような生涯を送るというのか?槍形吸虫も、牛、腹足類、蟻の三つの宿主に寄生するという。注目すべきは、蟻に住み着いた時で、槍形吸虫は蟻の神経中枢を支配し、行動パターンまでも変えてしまうとか。ユダの菌株が、なんからの方法で人間に寄生し、その中枢神経を支配しようとしているというのか?生物界の掟は、これだ。
「悪影響を与えることだけしか考えていない有機体は存在しない... どんな生命体も、生き延びて、繁殖して、繁栄することを望む。」

8. アンコール遺跡
アンコールの歴史は、各寺院に彫られたレリーフの研究を継ぎはぎにした程度にしか分かっていないという。住民の運命も不明のまま。古代クメール文明がタイに侵略されて消滅したのは事実だが、多くの研究者はそれは二次的な影響に過ぎないと考えているという。実際、侵略したタイ人が、この地に留まっていない。クメール族が仏教のより穏健な宗派へと改宗した結果、軍事力が弱まったとする説もあれば、国を支えていた広大な灌漑設備と運河がシルトの堆積などで老朽化したために衰えたとする説もある。さらには、この地域が定期的な疫病の発生に悩まされていたとする歴史的証拠も見つかっているそうな。
さて、本物語では、グレイの一行とリサの一行が、アンコール・トムで自然に引き合うように合流し、その本山であるバイヨン寺院に迫る。人類が誰も住んでいなかった地域へ足を踏み入れた時、病原菌が世界にばらまかれた事例はいくらでもある。黄熱病、マラリア、眠り病... AIDS だってそうだ。それまで動物にしか感染しなかったものが。クメール族がこの地域を開拓した時、何かが住民の間に放たれたのだろうか?

9. 乳海攪拌
ヒンドゥー教の天地創造神話に「乳海攪拌」というのがある。これを表す彫刻には、二つの勢力が描かれる。神々と阿修羅の一団で、互いに大蛇の両端を持って綱引きをしている。蛇神ヴァスキを綱の代わりにして、大いなる魔法の山を回転させようと。山を回転させると、海は白く泡立ち始め、泡の中から「アムリタ」と呼ばれる不死の霊薬が生成されたとさ。山の下にいる巨大亀はヴィシュヌ神の化身で、山が沈まないによう支えながら神と阿修羅に手を貸している。蛇神ヴァスキは、引っ張られた挙句に気分が悪くなり、強い毒を吐く。そのせいで神々と阿修羅も具合が悪くなるが、ヴィシュヌ神が毒を飲み干してくれたおかげで命は救われた。さらに攪拌を続行すると、不死の霊薬だけでなく、「アプサラ」と呼ばれる天女も誕生したとさ。めでたしめでたし!
そういえばギリシア神話でも、美女神アプロディテは不死の肉から白い泡が湧き立って誕生したとされる。もっともこちらは男根から泡立つのだけど、なんとなく重なって映る。
古代人が自然現象を科学的に説明できるわけもなく、神話ってやつは暗喩めいたところがある。海で遭難しやすい地域には、怪物伝説が多く伝えられる。
さて、本物語では、乳海攪拌に乳白色の発光現象を重ねている。海の中で泡立ちながら、光る物質とは何か?バイヨン寺院の地下の洞窟にある池には大量のバクテリアが眠っており、まさにパンドラの匣が開かれようとしていた。
しかしながら、毒性を持つはずのバクテリアが、ある人物にだけ神から授かった薬となる。一度ウイルスに感染した身体に免疫ができ、さらに二度目の感染によって悪玉菌を善玉菌に変貌させるだけでなく、ウイルスを完全に退治してしまうということは、ありえそうな話である。どんな自然現象も、どんな科学技術も、神にも、悪魔にもなる。いずれも人間の解釈というだけのことかもしれん...

2016-05-08

blogspot ドメインの HTTPS 化!

2016年4月末より、blogspot ドメインが、常時 HTTPS バージョンになるとのアナウンスがあった。既存のリンクやブックマークにも引き継がれるとのこと。どんな方法で引き継がれることやら...

  旧: http://drunkard-diogenes.blogspot.com/
  新: https://drunkard-diogenes.blogspot.com/

gさんブログ(Blogger)には、もともと [HTTPS の使用] という設定項目があるのだが、メリットをあまり感じないし、むしろ検索エンジンやリンクなどで別物に判定されると困る。
しかし最近は、他のサイトを見ても区別なく引っかかるようだし、時の流れから HTTPS にしてもいいのかなぁ... と、ぼんやり考えていた。gさんにしては珍しくタイムリーな仕様変更である。

具体的には、[HTTPS 使用][HTTPS リダイレクト] に変更された。まぁ、現実的な解であろう。さっそくリダイレクトをオンにしてみると、検索エンジンも、リンクも、素直に飛んでくれる。めでたしめでたし!
ただし、はてなブックマーク数など外部の統計情報は継承されない。今のところ、んんー...
また、HTTPS 非対応の古いコンテンツが混在すると表示が崩れる。例えば、google map の古い埋め込みコードなど。

ちなみに、リダイレクトをオフにすると、http://xxx からの訪問者は暗号化されない HTTP 接続で閲覧し、https://xxx からの訪問者は暗号化された HTTPS 接続で閲覧することになる。二つあるというのも、んんー...

んんー... どちらも一長一短で、ちと悩ましい。とりあえず、gさんの思惑に乗せられてみるかぁ... ドMだし...

2016-05-01

"音と文明 音の環境学ことはじめ" 大橋力 著

音の環境といえば、マリー・シェーファーが提唱した概念「サウンドスケープ」を思い浮かべる。それは、視覚の景観(Landsacpe)に対比して、聴覚の景観(Soundscape)を当てた語で、音の風景といった意味。この概念の元となったのが、ジョン・ケージの作品「4分33秒」だそうな。そう、無音に音楽性を追求した、あの実験だ。演奏者はピアノを前にして、4分33秒間なにもせず退場する。ケージの企ては、不審に思った聴衆が発するざわめきや抗議などの雑音を、聴衆自身に音空間として聴かせようというもの。音楽にあらざれば音にあらず!と言わんばかりの常識を覆そうとしたわけだ。究極の偶然性から生じる音環境、とでも言おうか。なぜ、4分33秒なのか?すなわち、273秒に絶対零度が暗示されるとの説もあるが、真相は知らない...

音の環境学は、明確な音楽や音声だけでなく、雑音や騒音も差別なく研究対象とする。いや、むしろ環境雑音からのアプローチと言うべきか。形の上では音楽に見えても、音楽として作用しない人工物があれば、音楽に見えなくても、音楽として作用する天然物がある。幾何学は、二等辺三角形や長方形など純粋な図形の研究から始まったが、自然界は、綺麗に整った直角や直線ではなく、微妙な角度や曲線に支配されている。音環境もまた整然とした音楽だけでなく、雑音の方にも真理が隠されているかもしれない。
こうした観点に立脚するのは、人間社会に人工音があまりにも溢れていることへの反発でもあろう。街には BGM が溢れ、互いに喧嘩してやがる。都会で生活するためには、多くの雑音が脳に届かぬよう鈍感さを養う必要がある。狭い音域に慣らされれば了見までも狭くなるのか、耳の寛容さを失い、本来、雑音でないものまで雑音と感じるようになる。
注目したいのは、「必須音」という概念を持ち出している点である。物質の世界にビタミンのような必須栄養素があるように、音の世界にも生きるために欠かせない音素があるというわけだ。人間ってやつは、沈黙に耐えられない存在のようである。だから、神の沈黙に焦がれるのだろうか...
尚、著者大橋力は科学者でありながら、山城祥二という音楽家としての顔を持ち、芸能山城組から発表された「輪廻交響楽」の作曲エピソードも紹介してくれる。

ところで、音楽とはなんであろう...
ライプニッツは「音楽とは魂が自ら教えることを知らずに行う算術の実践。」と語ったとか。ルソーは「音楽とは耳に快いやり方で音を組み立てる技。」と定義したとか。そして、音の環境学から導かれた帰結を、こう語ってくれる。
「音楽とは、マクロな時間領域では遺伝子と文化によりコード化された特異的に持続する情報構造をとり、ミクロな時間領域では連続して変容する非定常な情報構造をとり、脳の聴覚系および報酬系を活性化する効果をもった人工的な音のシステムである。」
ちと「人工的」という言葉がひっかかるものの、孔子風に言えば... 人の心を開くものが楽で、そうでないものがただの音... ということになろうか。

芸術音楽が作曲によって支えられるとすれば、作曲家の意図を忠実に再現する仕掛けが必要となる。楽譜ってやつだ。それは、ある種の言語記号によって表記される情報伝達機構である。古代ギリシアでピュタゴラス音律が、古代中国で三分損益法が発明されて以来、音楽は論理的操作によって組み立てられてきた。言語記号というからには極めて離散的で、デジタル情報に幽閉された世界ということになる。だからこそ、シャノンの通信モデルが輝きを放つ。その陰で、絶対音感の持ち主は十二平均律の呪いという暗示にかかる。
しかしながら、人間の精神ってやつは、離散空間に幽閉されることを拒むように見える。実際、同じ楽譜を用いても、演奏者によって奏でるものが違えば、その日の演奏者の気分によっても違い、音楽には無限の再現性が秘められている。楽譜では表せない音楽がある... とでも言おうか。
デジタル信号の優位は正確な復元性と再現性にあり、アナログ信号の優位は周波数区分における無限性と柔軟性にあり、どちらが人工的で、どちらが自然的かは自ずと見えてくる。デジタル化は現実世界の近似に過ぎないということが。
とはいえ、デジタルの合理性が、アナログ感覚を覚醒させることがある。CDが登場した時代、アナログレコードの方が音色が優しい、などと感想をもらすと馬鹿にされたものだ。そして今、可聴域をはるかに凌駕するハイレゾ音源が巷を騒がしている。デジタル信号の性能は時代の技術に依存し、さらに近似の分解能を高めながら、より現実世界に近づこうとする。その過程で人間精神はいつも、合理性と感覚性、言語性と非言語性、客観性と主観性といった振り子の中で揺れ動く。これらの対照性が、相乗効果として機能すれば進化し、相殺すれば退化する。これが進化論の掟であろうか。ただ、永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する。人間とは、永遠に現実が見えない存在ということか...

1. 視覚系と聴覚系
視覚系が、見たまんま!という正確性があるのに対して、聴覚系は想像豊かな感覚性を研ぎ澄ます。指向性においても、視覚系が視野に限定されるのに対して、聴覚系は上下左右、360度のパノラマが広がり、生物学的に身の回りの空間感知能力、すなわち危険探知能力で優れている。伝播距離では音波は光波に劣るものの、クジラやイルカは地球の裏側まで音波で交信するとも言われる。
視覚系が、主体性や自己決定性が強い傾向にあることは、目を閉じるという行為である程度説明できるだろう。一方、聴覚系は、分析的で、受動的で、睡眠中といえどもレーダーのようにモニタし続ける。それだけに無意識性が強く、耳鳴りがしたり、幻聴が聴こえたりと精神状態を映し出しやすい。神経科医オリバー・サックスは、著作「音楽嗜好症」の中で脳神経障害における音楽の役割を情熱的に語っていた。環境をあるがままにモニタするという点においては、五感の中で聴覚は優れた装備と言えるだろう。ただし、睡眠学習ってやつが、どれほど効果があるのかは知らん...

2. 自己組織ノイズキャンセラー
人体は、空気よりも弾性波をよく伝えるという。医師が聴診器をあてたり、胸に手をあてて叩く仕草は、気休めぐらいにしか見えないが、体内で起こっている相当な情報量が得られると聞く。実際、体内には呼吸、鼓動、血流など内分泌系や神経系に凄まじい音や振動が溢れている。これらの反響音は、なぜか耳から聴こえてこない。身体全体が聴覚に対して、巧妙に相殺されたエコーキャンセラーやノイズキャンセラーとして機能しているということか。聴覚系には、SN比を高める能力があるらしい。
ただ、体調を崩したり、緊張が高まったりすると、奇妙な沈黙の中から鼓動や血流の音が聞こえてくる。体内で起こっている異常に対しては、何か聴こえてくるものらしい。都合のよいものばかり聞こえる耳という装備も馬鹿にはできん。健康体とは、外部音に惑わされやすい状態ということか...
さて、ノイズキャンセラーのアルゴリズムには、自己矛盾性を抱えている。まず、何をノイズと判断するか?例えば、映像信号の制御では、極度に連続性から逸脱した成分を検出したり、また、その検出結果を増幅して、それ自体をフィルタ特性としてフィードバックをかけてノイズを除去したり... むかーし、そんな DSP を設計していたのを思い出す。音声信号の制御においても、似たような発想が必要であろう。自分の声を録音して聞くと、体内から聴こえる声とまったく違うことに気づく。音楽演奏の時、自分自身が奏でる音や声の状態を演奏と同時並行して認識し、精密に制御することがいかに困難であるか。そのために、フォールドバック用スピーカやモニタ用ヘッドホンなどの機器が重宝される。音に限らず環境分析で、その環境下にある観測者自身の認識能力を含めた観測が必要となるのは、自明であろう。

3. 言語脳と非言語脳
言語機能は、生物界における比類なき思考と伝達の装置であり、偉大な文明の源泉である。おかげで、論理的、科学的、客観的思考を発達させ、精神を迷信や妄想から解放させてきた。だが、さらなる自由を求めようとすると、言語機能だけでは不十分だ。古典的な考えでは、左脳を優位脳、右脳を劣位脳と区別し、現在でも言語機能は左脳が司るとするのが常識とされる。そう単純ではあるまいが...
自分自身に何かを問いかければ、左脳の声は言語としてはっきりと捉えられても、右脳の声は聞こえにくい。表面上、人体は左右対称性を保っているかに見えるが、心臓や胃などの臓器の配置、あるいは右利きや左利きなど、内面では対称性が保たれない。なぜ、このような偏りが生じるのだろうか?
物理学には「対称性の破れ」という概念がある。安定したゆらぎの系が、ある臨界点において方向性を決定するというものだ。ある臓器が進化して大きくなると、他の臓器が左か右に押しやられる。脳内においても、ある日突然、連続した音から記号性のような存在を感じ、離散情報として認識できるようになったのだろうか?あるいは、言葉を編み出したのは、脳内の沈黙に飽き飽きした結果であろうか?心臓が右にある人がいれば、言語機能が右脳に発達する人もいる。こうした均衡の破れは、おそらく進化の過程では必然なのだろう。そこに、なんらかの意志が関与しているのかは知らん...
そして、脳の情報処理能力が感覚的な思考から解放され、論理的に、抽象的に思考することができるようになった。英語耳をつくるという発想も、英語の発する周波数帯を言語として認識しようという試みである。
一方、言語脳を発達させると同時に、非言語脳も独特の発達を続ける。感覚性は極めて主観的な領域にあり、直観や直感を研ぎ澄ます。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、もともとある感覚性の能力をより高度に発達させるために、論理性を獲得する必要があったのかもしれない。人間とは、主観と客観の双方を研ぎ澄ますことで、合理性を獲得しようとする存在と言えよう。思考原理が偏っているからこそ、脳内で調和という安住の地を求める。アリストテレスは語った... 狂気の要素のない偉大な天才は、未だかつて存在したことがない... と。
現代社会では、あらゆる価値が経済的に評価され、言語にも経済性というものが確実にある。人々は端的で分かりやすい言葉に群がり、自ら思考することを放棄させる。音の環境学とは、言語脳をもてはやす現代風潮に対して、非言語脳を存分に解放し、文明の病理から救い出そうという試みであったか...

4. ハイパーソニック・エフェクト
周波数解析で有効な数学の道具に、フーリエ変換やウェーブレット変換があるが、環境音のような多元的で多重的で連続的に変化する波形構造を分析するには、あまりうまくいかないらしい。そもそも自然界に「ドレミ」なんぞの概念はなく、十二平均律のような周波数比で分割した音律は人間の都合に過ぎない。
そこで、「MEスペクトルアレイ法」なるものを開発したという。音高、音価、音強、音色の属性について可視化する道具だとか。さらに、脳波(α波、β波、θ波)の生理実験と照合したデータを紹介してくれる。MRI(核磁気共鳴画像法)やPET(陽電子放射断層法)を用いて、脳の各部分における血流量を断層画像化し、脳内の神経活動の度合いを調べる、といったことを。β波は認知活動にともない増大するとされ、無意識との境界を探るのに有効なようである。神経活性物質βエンドルフィン、ドーパミン、ノルアドレナリンなどを指標として。
トランス状態に陥れば、日常ではありえない快感パターンに移行し、特に演奏者に顕著に現れるという。それは音に限らず、仕事などで周囲の音が耳に入らないほど集中した時、しばしば快感として訪れるのと似たような現象であろうか。集団に依存する人間は、世間や風潮に洗脳されている存在であることに変わりはない。無意識とは、可聴域外の、もっと言えば、知覚圏外の能力ということか。精神空間がユークリッド空間にあるかは知らんが、視覚系で説明できるようなものではなく、はるかに多元的なもののような気がする。次元的には音空間は精神空間と相性がいいのかもしれない。「ハイパーソニック・エフェクト」とは、異次元空間に耳を澄ました結果生じる生理現象のようなものであろうか...

5. 遺伝子に書かれた必須音
本書は、ホモ・サピエンスとして最も素朴な普遍性の高い環境音を、アフリカのムブティ人が生きる森林生態系や、モンスーン・アジアに広くみられる生態系に求めている。
現代社会は、聴覚だけでなく、視覚においても、夜が明るすぎるという問題がある。現代人は、暗闇での視力を思いっきり低下させてきた。真の暗闇を知らないから、仮想的な暗闇を求めるのだろうか。真の無音を知らないから、幻想的な無音無意識をさまようのだろうか...
都会の生活では、騒音レベルに目くじらを立てる。一般的な騒音計は、可聴域 20Hz から 20kHz の中で、63Hz から 8kHz まで(精密用で 16kHz)しか対象にしていない。騒音レベルでは、50dB から 60dB あたりを指標とする。IEC(国際電気基準会議)の基準では。
しかし、本書が提唱する「必須音」のレベルは、可聴域上限をはるかに超えた 100kHz 前後、理論的には 130kHz から 150kHz としている。しかも、常にスペクトルの形が変容を続ける非定常なゆらぎに満ちた熱帯雨林型の「ハイパーソニック・サウンド」でなければならないという。音圧レベルにおいても、50dBA から 70dBA ぐらいが良いと。
日常では、ちとうるさいレベルだが、自然音ならば、むしろ心地よい。ヘリコプターや自動車の暴走音に腹が立っても、木々のざわめき、小川のせせらぎ、滝の音、風の吹き抜け音、鳥のさえずり、秋虫の声には腹も立たない。尚、真夏のくそ暑い日に、朝っぱらからアブラゼミの集団が合唱をはじめやがるのには、鬱陶しくてかなわんが...
同じくらいうるさくても、自然音に無音のようなものを感じるのは、音環境と自分自身の身体が同化しているということであろうか。体内音が気にならないのと同じように。あるいは、そこに安らぎを感じるのは、ある種の音楽のように感じているのだろうか。
「ムブティ人たちの対話や音楽は、森の自然環境音と一体化して、天然物のような精緻さと天国的な美しさの横溢したひびきを聴かせてくれる。」
会話にも、音環境に同化した言語現象がある。詩や歌に、それとなく心地よいリズムや音調を感じ取り、それが名言として伝えられる。同じ言葉でも、静寂に知的に語ればなんとなく凄いことを言っているように聞こえるし、喋り方で人間性が判断されることもしばしば。意見や説得でも、心地よい声調で語られると、素直に聞き入れたりする。
したがって、ベッドではピロートークが絶対に欠かせない。ちなみに、ウッドロー・ワイヤットはこう言った... 男は目で恋に落ち、女は耳で恋に落ちる... と。

6. LP - CD 論争と輪廻交響楽
本書に「ハイレゾ」という用語は見当たらないが、PCM方式に対するDSD方式について言及される。AD変換手法の∑⊿方式を換骨奪胎して、性能向上と信号処理手続きの簡素化を両立させた技術だという。復号化には簡素なローパスフィルタでも実現できるエレガントな方式で、マルチビット方式の宿命である量子化情報の切り捨ても少ないと。
少し補足すると... DSD方式は、PCM方式の量子化ビット数を増やす方向とは逆に、素直に 1bit のままでサンプリング周波数の方を上げる。パラレル転送に対して、シリアル転送といったイメージであるが、そう単純ではない。設計上、PCM方式では、ビット数が増えるほど高周波成分の量子化ノイズが大きくなり、この特性から生じる信号の歪みは避けられない。
しかしながら、密度の切り捨てが、合理的な場合と非合理的な場合があろう。音源が忠実に再現されたとしても、鑑賞者の心が歪んでいれば、音源もまた歪んでいる方が心地よいかもしれない。実際、純粋な音よりも擬似的な音を好む場合がある。サラウンドやサウンドエフェクトといったシステムは、楽器の奏でる純粋な音よりも、空間に広がる擬似的な迫力を満喫しようというものである。
さて、LP と CD との音質差に重大な関連があることは、広く知られている。LP には、可聴領域の上限をはるかに超える高周波成分が含まれている。JVC が開発した「CD-4」という LP をメディアとした4チャンネル・サラウンド記録方式があるという。30kHz をキャリアとし、プラスマイナス 15kHz の帯域で、周波数変調方式によるマトリック信号を記録しておき、再生時には可聴域に記録された2チャンネルのステレオ信号とマトリックス信号との演算によって、4チャンネル分のサラウンド信号を復元する、というものだとか。
これを実現するために、可聴域上限をはるかに上回る 45kHz 以上の高周波数域にまで優れた記録、再生性能が求められる。「輪廻交響楽」も、こうした技術で誕生したものらしいが、CDで販売されていれば、その効果も薄れそうだ。CD のサンプリング周波数は、44.1kHz を採用し、理論的に 22kHz 以上をカットするのだから。そして、LP - CD 論争をこう振り返っている。
「LP支持派は非言語脳の活性が優位な魂をもつ人びと、CD支持派は言語脳の活性に支配された近代的精神をもつ人びとが大勢を占めていたといえよう。」