2010-04-25

"多面体と宇宙の謎に迫った幾何学者" Siobhan Roberts 著

本書は、古典幾何学者ドナルド・コクセター(ハロルド・スコット・マクドナルド・コクセター)の伝記小説である。ただ、専門情報が乏しいところに少々退屈してしまい、ほとんど斜め読みしてしまった。終始コクセターの著書が紹介され、そちらの方に興味を奪われるので、著作の宣伝書といった方がいい。是非!彼の古典を読んでみたいが、今では入手が難しそうだ。

20世紀初頭、数学界では代数学が台頭し、ヒルベルトで代表される形式主義が優勢であった。記号と数式、あるいは上添え字と下添え字が乱舞し、図形が圧倒的に欠乏した時代である。その極派がブルバキ派であろう。伝説によるとニコラ・ブルバキは、「ユークリッドをぶっ潰せ!三角形に死を!」などと叫んだという。視覚に囚われると、主観性と誤謬に引きずり込まれると考えるのも分からなくはない。数学者たちは、誤謬の入り込む余地をなくし、完全な理性のみで推論しようとしてきた。だが、やがて論理性や理性の限界と対峙することになる。論理性の弱点から目を背ければ、論理至上主義に陥り、逆に宗教じみた傾向を示す。
ユークリッド幾何学に限界が示されると、純粋幾何学を非論理的で退屈するものと蔑む風潮が現れた。当時の科学者の回想では、教育の場で純粋幾何学を教える機会を失ったと嘆く意見も聞く。直観や視覚的発想は幾何学で最も重要視される思考方法であるが、数学界から蔑まれた。こうした時代に、あえて逆行し古典数学に挑んだのがドナルド・コクセターだという。彼を「現代のユークリッド」と呼び、20世紀最高の古典幾何学者と讃える人も少なくないようだ。コクセターは、ユークリッドを引き継いでプラトン立体に立ち返り、正多胞体をn次元にまで拡張したという。そして、幾何学をブルバキ派からの迫害から救っただけでなく、ブルバキ派にその成果を認めさせたという。
アリストテレス曰く、「人間が心にイメージを描かずに思考することはできない。」
本書は、視覚的直観と形式的思考を調和させることの重要性を説いている。幾何学が、代数的解析と結びついて進化したのは事実である。ただ、目の前に図形がないことと、頭の中に図形がないこととは大きな違いがあろう。数式を解くことと、数式から哲学的意義を見出すことにも大きな違いがある。ドライな数式に、芸術的な感性が結びついてこそ、数学に意義を見出すことができる。数学者の発想力や想像力には、論理思考だけでは説明のできない狂人じみたものがある。
アンリ・ポアンカレ曰く、「論理は、これこれの道を行けば確実に障害物がないことを教えてくれる。だが、求める目的地に至る道を教えてはくれない。それには遠くから目的地を見通す必要がある。その方法を教えてくれるのは直観だ。直観がない幾何学者は、文法は知り尽くしているがアイデアをまったく持っていない作家のようなものだ。」

あらゆる学問が、古典を疎かにする時代を経験し、そしてまた、古典が見直されるプロセスを経験してきた。科学や技術の分野においても、ほとんどの人々は流行を追いかけるであろう。凡庸な人間ほど、いつも流行を追いかけていないと不安でしょうがないのかもしれない。新しい言語が流行れば、啓蒙運動が盛んになり、新しい技術が流行れば、そこに多くの人々が群がり雇用を創出する。自己啓発する理由のほとんどは、生活手段のためであり、ひいては自分の居場所を求めるためであろう。ただ、こうした傾向が悪いわけでもなかろう。技術分野では、それなりに流行を追いかけていなければ、視野を狭めてしまう。凡庸未満の酔っ払いは流行を追いかけるのさえ大変だ。流行にあえて逆行することは勇気のいることである。フリーマン・ダイソンは、科学の分野でクルト・ゲーデルのような流行とは無縁の人物が活躍する余地を残すべきだと主張したという。
20年ほど前、デジタル技術が流行った時には、アナログ技術は廃れると言われたものだが、今では逆に重宝されている。究極の自由を求めながら幸せになれるのは、ひたすら興味に没頭できる環境が備わった時であろうか。だが、興味だけで専門を選んでいては生計が成り立たない。才能があるからこそ、マイペースで学問ができるのだろう。そこには、名誉や評判に惑わされることなく、ひたすら自らの興味に邁進する執念や頑固さがある。
純粋数学とは不思議な世界で、そこに目的なんてものはない。ひたすら美しい理論や真理を探求するだけ。結果的に何に使われようが知ったこっちゃない!つまり、ひたすら純粋精神を探求する世界である。ただし、難問を解くことによって名声を得ようとか、賞金をものにしようといった野心もつきまとうのだが。発見された理論は、偶然にも応用分野で活躍する場が与えられる。まさか素数の発見者が、暗号アルゴリズムに使われるとは思わなかっただろう。だが、どんな優れた知識でも、薬となる場合もあれば、毒となる場合もある。多くの科学者が純粋な知識を政治的に悪用されて苦悩してきたことであろう。肩の凝る世間体に巻き込まれたり、片意地を張っていては、純粋な精神を解放することはできない。純粋な精神を探求できる場とは、凡庸な酔っ払いの憧れでもあるが、到底真似ることはできない。自由とは、天才にのみ与えられた特権なのかもしれない。
アル中ハイマー曰く、「凡庸な酔っ払いは自由が欲しいと大声で訴える。純粋な天才は静かに自由を謳歌する。」

多くの人が数学に興味を持ち始めるのは、三角形や円といった幾何学の美であろう。数学入門でユークリッド空間は欠かせない。古典幾何学には、図形を眺めるだけでシンプルでエレガントな説得力がある。三角形の五心やオイラー線などを語りだしたら話題は尽きない。モーリーの定理を眺めているだけで崇高な気分になる。
かつて、アル中ハイマーにも三角関数に憑かれた時代があった。三角関数の直交性を利用した情報圧縮は、デジタル技術の基本でもある。なんといっても、幾何学の本質は対称性と直交性の美であろう。複素平面は、そこに直交性が見出せるからこそ、解析学で強力な道具となる。
ところが、大学初頭教育でε-δ論法に出会うと、数学の興味が一気に冷める。多くの微分方程式が解けないという背景は、不等式による間接的なアプローチを編み出した。それほど難しい概念ではなく、関数の連続性を調べるには便利である。だが、なんだ!このへんてこなギリシャ文字の羅列は!そこには空間的なおもしろさもなければ、実用性もイメージできない。この殺虫効果の強い落ちこぼれスプレーを浴びると最後、数式の消化不良に陥り、奇怪な不等式のゲップを吐く。数学を暗記科目と感じるようになったら不幸だ。早々能力の限界に見切りをつけ逃避した方がよかろう。そして、現在、数学に挫折したことが仕事の幅を狭めているとは、なんとも皮肉だ。

1. コクセターの著作
コクセターの定義に、次のようなものがあるという。
「Every monotonic sequence of points has a limit.」(すべての単調な点列は極限を持っている)
「正多胞体」は当時のベストセラーで、20世紀で最も引用された幾何学の教科書だそうな。現代に書かれたユークリッドの続編という評判もあるという。これは、プラトン立体、および正多胞体の研究と分類を、n次元にまで拡張したものだそうな。そして、四次元を想像するのに、公理的方法、代数的方法、直観的方法の三つの方法を提起しているという。
「幾何学入門」は二番目の代表作だそうな。その中に次のような節があるという。
「オイラーは晩年の17年間、目が見えなかったが、当時の数学で彼が見落としたものは何もない。」
更に「射影幾何学」と「幾何学再入門」が発刊されたという。後者はS.L.グレイツァーとの共著。

2. 対称性と多胞体
人間が社会秩序や美的感覚などに自然法則を見出そうとする時、その拠り所とする概念が対称性であろう。宇宙原理の本質が矛盾性と複雑系であったとしても、対称性の原理が衰えることはない。たいていの数学の魅力には、なんらかの対称性が存在する。古典幾何学は、定理を証明することよりも、美しい幾何構造を見つけることを目的とする。コクセターは「ミスター多胞体」の異名を持つという。ちなみに、多胞体(ポリトープ)とは、2次元でいえば多角形、3次元でいえば多面体といったものの総称。多角形はポリゴン、多面体はポリヘドロン。ポリヘドロンは「多くの座席」という意味があるらしい。人が座ることのできる有名な多面体にプラトン立体がある。ユークリッドはプラトン立体が5つしか存在しないことを証明した。その基本構築には、三つの正多角形である正三角形、正方形、正五角形しか使えない。凸状の立体を形成するには、頂点の集まる多角形の角度の合計が360度未満でなければならないからである。そして、4面体、立方体、8面体、12面体、20面体を見出す。更にコクセターは、多胞体を無限次元まで拡張したという。
ちなみに、正多胞体を記述するシュレーフリ記号で知られるルートヴィヒ・シュレーフリは、四次元空間には凸の正多胞体が6つしかないことを証明したという。それは、個々の胞が4面体で各辺に三つの4面体が集まる単体つまり5胞体、8個の立方体から構成され各辺に三つの立方体が集まる8胞体つまり4次元立方体、16個の4面体から構成される16胞体、8面体から構成される24胞体、12面体から構成される120胞体、4面体から構成される600胞体だという。

3. 古典幾何学の歴史
幾何学を意味するgeometryは、ギリシャ語の地球(geo)と測定(metria)をつなげた「測地」に由来する。宇宙、銀河系、太陽系、地球、そして、分子や原子構造など、幾何学的構造が万物の根幹にある。社会構造や社会組織に幾何学を見出すこともあれば、コンピュータ構造が社会構造や人体構造をヒントに組み立てられることもある。数学は何かを発明する学問ではない。何か真理めいたものを発見する学問である。プラトン立体は、発明されたわけではなく発見されたのであって、そこから著作「国家」が誕生するという奇妙な結びつきがある。
偉大な遺跡や美術品には幾何学的構造があり、そこに威厳や壮大さを感じるのも、真理めいたものを感じるからであろう。昔々、幾何学は古代エジプト人やバビロニア人にとって実用的な道具であった。ピュタゴラス学派は、数学が霊魂を浄化し、純粋に精神と神を結びつける宗教に高めた。その思想をプラトンが引き継ぎ、「神は永遠に幾何学する」と語った。
数学者たちは、論理的厳密性と絶対的純粋性から真理を見出し、人間の絶対的理性の構築を目指した。そして、すべての表面を正多角形で構成される正多面体を崇め、元素モデルや宇宙モデルとしてきた。あらゆる自然構造にプラトン立体が発見できるはずだと信じたのである。
ユークリッドの「原論」が数学のバイブルになってから二千年以上が経つ。哲学者カントは、ユークリッドの幾何学体系をア・プリオリと語った。まさしく数学は哲学であると言えよう。ただユークリッドの原論が純粋とはいえ、平行線公理と呼ばれる第五公準は、他の公準に比べて歯切れが悪い。人類史上、最も純粋で厳密と言われる書物でさえ曖昧さを曝け出し、そのために批難の対象ともなる。だからといって、ユークリッドを蔑むことにはならない。結果的に、非ユークリッド幾何学の誕生する余地を残していたと言えなくもない。非ユークリッド幾何学の可能性を指摘し、双曲幾何学を提唱したヤノーシュ・ボヤイは、亡くなるまで世間から認知されなかったという。おそらく、あの世でボヤイているに違いない。

4. 万華鏡とコクセター図形
万華鏡を使った対称性を探求する方法は、あらゆる次元の正多胞体の研究に拡張することができるという。次元が高くなるにつれて鏡を足していけばいいわけだが、四次元以上の万華鏡を物理的につくることはできない。しかし、数学者はn次元の住人であり、無限次元までも手なずける。
コクセターは、万華鏡が無限次元に至る高次元の多胞体を生成する仕組みを一般化したという。彼が発明したコクセター図形は、群について語る時のモールス符号にも似た言語だという。確かに、図形というよりは符号である。接点と接線を強調しながら数字を埋め込んだような、ネット接続図のような。なるほど、多面体構造の重要な特徴といえば、頂点と頂点、あるいは面と面との接続情報というわけか。四次元を二次元に投影するような一種の速記法に見える。

5. 群論とコクセター群
対称性に関する研究は群論として体系づけられる。コクセター群は群論の世界を探索するための道具だという。コクセター群はコクセター図形の代数的表現のようだ。例えば、20面体の図形は、三つの鏡をもつ鏡像として、乗算表で示すがごとくx,y,zで記述する。
ちなみに、群論の四つの法則とは、こんな感じかなぁ。
(1) 単位元がある。回転や反転などの操作を一切しない状態。
(2) 結合法則が成り立つ。対称変換を順番に実行した時、適用する順番が同じであれば同じ結果が得られる。例えば、正方形はどれだけ回転しても結合法則を示す。
(3) 逆元法則が成り立つ。逆の対称性が存在する。
(4) 閉包法則が成り立つ。対称性を実行すると、その結果もまた群に含まれる対称性を示す。
こうした性質を図形に適用すると、まさしくプラトン立体や万華鏡の研究となろう。コクセター群は群論の応用というわけか。鏡の向こう側から覗いた自分を見つめ直すような、あるいは、複数の鏡を対象として繰り返し覗き込むような。鏡の中に映った鏡を覗くと、そこには鏡があって、その鏡の中にも鏡が映っていて....そして、無限に鏡に映った写像を覗いていくと、無限の正多胞体なるものが見えてくるといった感じか?対称性の中にある対称性、その中の対称性、そのまた中にある対称性...数学者の想像力は狂気じみている。
ちなみに、今!鏡の向こうの赤い顔をした住人が、気持ち良さそうに延々と語りかけてくる。彼を黙らす方法は、自分が酔い潰れるしかない。

6. フィボナッチと葉序
パイナップルは、コクセターが好んだ葉序の現象を示すという。葉序とは葉の配列である。黄金比のパターンはひまわりやヒナギクにも見られる。松笠を水につけると、つぼみが閉じて、葉序のパターンが浮き上がる。フィボナッチ数列は、レオナルド・フィボナッチ(ピサのレオナルド)にちなんで名付けられた。ちなみに、ボ・ナッチは「親切な奴」の意味で、フィ・ボ・ナッチは「親切な奴の息子」という意味があるという。フィボナッチ数列は、個々の数が前の二つの和に等しいという特徴がある。黄金比(1.618...)は、任意の数を前の数で割ることによって得られる。
ケプラーは次のように語ったという。
「なぜすべての樹木や潅木、あるいは少なくともその大半が五方向に広がるパターンに従い、五弁の花を咲かせるのか、不思議に思うことがある。リンゴや梨の木では、この花の後で実る果実も、五つの部分に分かれている。...果実の内部には種を宿した五つの区画がある...。」
コクセターは、葉序が普遍的な法則ではなく、「不思議に支配的な傾向に過ぎない」と述べたという。

2010-04-18

"フラットランド" Edwin A. Abbott 著

古本屋を散歩していると、前々から目をつけていた古典に出会った。本書は、1884年に出版されたサイエンス・ファンタジー、いや!数学ファンタジーである。
「フラットランド」は、アボットが生きたヴィクトリア朝時代の社会風刺として名高く、しばしば科学書や数学書で引用される。そこには、数学を用いた社会学とでも言おうか、哲学的にも意義深い異色の世界がある。
発表当初、この作品はそれほど脚光を浴びたわけではなかったそうな。エドウィン・アボット・アボットは、校長、牧師、シェイクスピア研究家、古典学者として知られ、熱心な教育者だったという。彼の思想は英国教会の中でも広教会派で、カトリックやプロテスタントあるいは神秘主義とも一線を画していたという。よって、この作品は、思想を啓蒙するために数学的に考察した、おまけのような寓話的な存在だったのかもしれない。それが後に、理系の人間を中心に好評を博すところに歴史のおもしろさがある。

本書は、「次元とは何を意味するのか?」という疑問を哲学的に提示する。そして、科学や数学の意義を考えずにはいられない。かつて人類は地球を表面的な大地としてしか認識できなかった。古代ギリシャ時代に天動説が登場すると、地球を宇宙空間に存在する一球体として捉えるようになった。だが、それは天体観測で裏付けられた知識であって、人類の認識レベルが進化したわけではない。現在でさえ、地球が球体であることを実際に観た人間はごくわずかであり、大昔のように球体的な認識がなくても日常生活に不都合があるわけでもない。
ところで、人間の空間認識は、人間の持つ価値観に通ずるものを感じる。プラトン時代からの古代哲学がいまだに通用するのは、人間の価値観が大して進化していない証でもあろう。ただ、科学の進歩が人間中心主義を徐々に放棄させ、少し謙虚にさせているかもしれない。次元が加われば、物体の姿を違ったように見せる。同じ物体であっても、観測者が認識できる次元の違いによって、見える姿にも制約を受ける。一次元では、点が移動すると2つの端点を持つ線分を認識でき、二次元では、線分が平行移動して4つの端点を持つ正方形を認識でき、三次元では、正方形が平行移動して8つの端点を持つ立方体を認識できる。更に、四次元では立方体が平行移動して16の端点を持つ神聖な物体が認識できるはず。ここに、2,4,8,16,...の幾何階級を辿ることによってアナロジーが膨らむ。
数学者は物体の幾何学的正体を解析するために、微積分という次元を仮想的に変化させる道具を編み出した。では、人間が日常生活で認識している物事は、その正体のどのレベルの次元まで見えているのだろうか?人間の空間における次元認識とは、知識や精神能力の進化段階と解釈することもできそうだ。幾何学的限界は認識能力の限界を示しているようにも思えるから。人間の価値観とは、低い認識能力から別の次元を開眼しながら認識能力を高める過程と言えるかもしれない。
ただ、次元の低い世界の住人だからといって、別の次元を認識できないとも言えない。何かの機能に制約を受けることによって、別の機能が異常に発達することもある。物理現象を直接感じるのではなく、間接情報として投影することによって、鋭敏な感覚を身に付ける例は多い。サヴァン症候群は、左脳が障害を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、ある方面の能力が異常に高められ、平均以上のIQを持つと聞く。また、視覚機能を奪われた人が、その機能を聴覚で補う場合もある。むしろ、恵まれた環境にある人の方が、認識能力が遅れるのかもしれない。狂気のないところに偉大な哲学思想も生まれないのだろう。

本書は、フラットランド(二次元世界)にスペースランド(三次元世界)の住人が現れて、次元を福音するという物語である。時空を超えた未来からやってきた使者は、優れた師に映るだろう。あらゆる知識や認識を先行させていれば、神の代理人と崇めるかもしれない。突然変異のように進んだ思想や哲学を持った人間が出現すれば、宗教や信仰の創始者ともなる。
だが、人間は、自分の想像力や理解力を超えた考えを、なかなか受け入れることができない。新しい価値観は、歴史の中で試行錯誤されながら見出されてきた。人間は、時間に支配された三次元空間に幽閉されている。過去と未来に挟まれながら、もがき続けている。現在という瞬間だけで得られる絶対的な価値観を見出すこともできず、過去の亡霊に憑かれながら社会を構築するしかない。四次元世界の住人は、こうした光景を滑稽に眺めているかもしれない。その先には地獄があるよ!と囁きながら嘲笑っているかもしれない。大昔の伝統的な価値観が否定されるように、現在の価値観も未来人によって嘲笑われるのだろう。人間が三次元空間から脱することができないとすれば、精神の領域だけでも高次の世界へ向かうしかあるまい。それが、真理という次元なのかは知らん!

数学者はあらゆる次元を表記し、無限さえも手なずける。まるで妖術師や魔術師であるかのように。だが、数式によって仮想空間をドライに記述したところで、それを精神と結びつけるにはかなり時間がかかる。いつの時代でも数学は哲学的認識よりも先行しているように映る。いや!どこかで追い越したのかも。
しかし、人間の空間認識は、精神を突然変異させて急激に価値観を進化させるかもしれない。そして、地球環境でしか住めない人間が遺伝子の突然変異によって、宇宙を動き回ることのできる体を獲得した時、多次元認識へ改宗される日がやってくるのかもしれない。空間における次元認識とは、まさしく精神のうちにある次元にほかならないであろう。

1. フラットランドの社会
フラットランドには様々な図形が住むという。社会的身分は図形の辺の数で決まり、辺の数が多いほど地位は高い。最下層には婦人の線分がある。その上の階層には、兵士や下層労働者の二等辺三角形があり、底辺が短いほど線分に近いので婦人と区別がつかない。角度が尖っているほど、知識や身分も低級というわけだ。中産階級には正三角形があり、紳士階級は正方形と正五角形からなる。その上の階層には、貴族階級の正六角形から始まり、名誉を得れば多角形の称号が得られる。そして、辺の長さが短く円と見分けがつかなくなると聖職者の階層となり、円が最高位にある。こうした階級は子孫に受け継がれ、運がよければ辺を一つ増やして上の階級へ出世できる。しかし、下の階級ほど、図形に対する辺の占める割合が強調されるので、なかなか辺を増やすことができない。鋭角な二等辺三角形がどんなに努力したところで、底辺が少し伸びるだけのこと。ただ、多角形の称号を得た者同士であれば、それほど辺の差も目立たないので婚姻関係も結びやすい。つまり、貧乏人はいつまでたっても貧乏のまま、無知はいつまでたっても無知のまま、けして下流階級から逃れることのできない社会秩序が維持されている。扇動されて鋭角な二等辺三角形が群集として団結しても、互いの鋭い角で傷つけあって自滅する。これがフラットランドの自然法則というわけか。
こうした社会構成を眺めるだけでも、ヴィクトリア朝時代の価値観や女性の社会的地位への痛烈な風刺が込められることが分かる。下流階級は、読み書きも教わらず計算知識がないので、角度を測ることもできない。円階級は、下流階級の人々を、愛やら、正義やら、憐れみといった美しい言葉で操る。感情的な概念をでっちあげて精神的に押さえ込むために。ひたすら瞑想を重んじる宗教的教えは、個人の意志を捨てさせ政治的に利用するのに格好の対象となる。なるほど、政治団体が宗教的に洗脳されれば、票田パワーが炸裂するわけだ。
現在ですら、聖書以外を悪書とするキリスト教的な神秘主義が蔓延る地域がある。政治家は、平等や正義や美しい社会や友愛といった言葉がお好きだ。数学的な真理を封じ込め、やたらと感情的な物言いで扇動する。
ところで、フラットランドの住人が、互いの姿の二次元図形を見渡すことができるのだろうか?それは、投影という物理的現象を使って間接的に情報を得ることができるという。三角形であれば、実際にぶつかってみれば、その角度も分かる。鋭角であればそれだけ危険。線分であれば突き刺さりもする。しかも、婦人である線分はうまい具合に寄り添って姿を隠すことができる。なるほど、ホットな女性は、しばしば影から忍び寄り、おいらの心を突き刺すわけだ!

2. 不規則図形
フラットランドの住人は、ほとんど正則図形で成り立つ。不規則な図形は犯罪者や障害者として扱われ社会の厄介者とされる。ただ、辺の数が少なければ長さの不均衡も目立つが、辺の数が多い上流階級になると、その不均衡さも目立たない。したがって、政治家のような不規則図形が蔓延ることになろう。支配者階級は、多角形の利益のために不規則図形に過酷な生活を強いる。ある確率の低いところで天才が生まれるならば、その逆にある確率の低いところで障害者が生まれる。大昔の社会では、障害が認められた子供が抹殺された時代があった。フラットランドでも、赤ん坊の角度が0.5度ずれているだけで、あっさりと殺されるという。不規則図形の家族たちは、医学的に苦しむことなく慈悲深く抹消すると考えるそうな。それが生まれつきでなくても、衝突を繰り返すことによって変形する場合もある。正則社会を維持するためにも、変形した不規則図形は隔離される。
ところで、線分には奇形がないので、男性階級にしか奇形は現れないことになるではないか。なるほど、犯罪や破廉恥な行為は、すべて多角形に欠陥があるから生じるのであって、上流階級ほど陰湿で巧妙な犯罪が行われるというわけか。

3. フラットランドで退廃した芸術的要素
フラットランドには、色彩めいた芸術的要素が何一つない。しかし、太古には色彩芸術を実践した時代があったという。色で区別できるならば、辺で区別する意味が無くなる。多くの人々が色彩文化にかぶれた結果、下流階級の人々は多角形の階級とあまり違いがないと思うようになる。そして、平等の権利を主張し、貴族的な独占的社会に反抗したという。数少ない天才の存在は、文化のかぶれ者たちによって凡庸化し、純粋であり続けるのは色彩のない婦人と聖職者のみとなる。そこで、婦人や聖職者にも同等に色を塗るべきだという風潮が生まれる。これは、婦人を色彩革命に引き入れるために巧妙に仕組まれたもので、いわば人気取りの選挙運動のようなもの。あらゆる住人が色彩に汚染された結果、知性は腐敗し純粋な認識能力を退化させたという。知的な学問は急速に衰え、幾何学や力学の研究などが疎かになる。階級の区別がつかなくなると、下等な連中が聖職者を名乗って主張を肩代わりするといった社会現象が起こる。こうして、貴族制度の転覆を目論んだが、色彩暴動は武力行使によって鎮圧された。もはや文明の発達は、野蛮に取って代わったというのか?それとも、芸術的な思惑は純粋数学によって駆逐されたというのか?

4. 三次元からの訪問者
物語の主人公はスクエアさん。つまり、正方形(square)。そこに、スペースランドからエイリアンのスフィアさんが訪れる。つまり、球体(sphere)。とはいっても、フラットランドとスペースランドは別空間ではない。単に住人の認識範囲の違いがあるだけ。フラットランドの住人からは、球体は円にしか見えない。球体が近づいてくると、一つの明るい点から始まり、徐々に大きくなっていき、やがて小さくなって、点となって消滅する。フラットランドでは、円は聖職者の最高位にあり、しかも不可解に大きさを自在に変化させるため、崇高なものに神秘性が加わって見える。
では、三次元目は、どの方向にあるのか?それはスフィアさんが来た方向で、フラットランドの住人からは見えない方向。認識できない次元は、住人が知覚できるすべての方向と直交しているわけだ。突然!姿を現す様子は、時間を超えた宇宙旅行をしているようにも見えるだろう。その得たいの知れない存在から発せられる声は、まるで霊界からの呼びかけのように、悪魔の囁きにも神の囁きにも聞こえるだろう。

5. 次元の福音
スフィアさんは、球体を説明するために、ラインランド(一次元の世界)を持ち出す。すべての多角形が高さという次元を失えば、すべて線分に見える。そこに、円が近づくと、明るい点から始まって、自在に長さを変える線分が見えるはず。ラインランドでは、空間とは長さである。相手を隔てるものは長さしかない。その位置関係も左右しかない。フラットランドの住人がラインランドに入って移動すれば、ラインランドの住人はそれが消えたり、現れたりするのが見えるだけ。まさしく、空間を瞬間移動しているように見えるだろう。つまり、時間とは、その空間の住人にとって、一つ上の次元を示していることになりそうだ。
スクエアさんは、同じアナロジー的考察から四次元の可能性も想像する。しかし、スフィアさんは、四次元なんて想像もつかないと、かたくなに言い張る。なんで?二次元世界の住人に柔軟な思考を押しつけるくせに、自分の住む世界より高次なものを想像するとなると、思考が硬直するのか?なるほど、高貴な人間ほど自らの次元に高慢となり、意地っ張りになるのかもしれない。
こうして見ていると、階級認識なんてものに意味があるのか?と疑問を持たざるを得ない。人間は、次元認識を進化させることで、階級認識を無にすることができるかもしれない。いや!階級認識を高度化させて、もっと巧妙な手口を考案するだろう。

6. 数学と次元
幾何学で、ピタゴラスの定理を四次元に拡張するという考えは自然であろう。ユークリッド空間から始まった幾何学は、今では平行線公理でも説明できない非ユークリッド幾何学へと進化した。この幾何学は、三角形の内角の和がニ直角であるという常識すら通用しない。人間の住む空間は、膨張宇宙説が有力で、曲率がわずかに正の非ユークリッド空間とされる。
しかし、空間概念を進化させたのは幾何学よりも代数学と言った方がいいだろう。中でも、オイラーやガウスらが持ち出した複素平面による解析学の貢献は大きい。また、ベクトルや行列の概念を使っても、なんの違和感もなくn次元を表記することができる。代数学の道具は、幾何学に持ち込まれ数学者の想像力を膨らませてきた。リーマンは曲がった空間を表記し、後のアインシュタインに影響を与えた。そして、相対性理論は第四の次元を時間で固定する。だが、数学者たちは、柔軟な発想から次元の性質を時間だけに固定するのを嫌うようだ。時代が進むと、超ひも理論を支持する素粒子物理学者たちは、Dブレーンという10次元宇宙論を持ち出した。ビッグバンという現象は、退屈で安定したブレインに、別次元から突然現れたブレインが衝突した結果なのかもしれない。
ところで、10次元という数字には、なんとなく崇高な香りがする。ちなみに、鏡の向こうには、「十の時が流れる」という名を持つ赤い顔をした住人がいるという。彼はテトラクテュスの申し子か?もしかしたら、崇めなければならない酔っ払いかもしれない。

2010-04-16

カート屋さんが閉店

行付けのカート屋さんが、4/18をもって閉店することになった。そりゃ挨拶に行かなければなるまい。ということで、4/14、昔の職場仲間とその奥さんを誘ってドライブに出かけた。
奥さんが病気療養中と聞いていたので、蕎麦会席をメインにすることにした。ほとんど復活されているようで安堵したが、少し疲れさせたかもしれない。とても明るく楽しい方で、こちらも調子に乗ってしまう。カートに乗る!と言いだした時には、さすがに旦那が気持ちをなだめていた。見た目以上に衝撃があるし、初心者でも突っ込んで怪我する場合もあるからなぁ。
ちなみに、旦那のオープンカーは、今月納車されたばかりだそうな。どうりで、おいらを乗せたがるわけだ。車好きらしい派手さ!前を走っている車は、接近すると避けていく。地味なおいらは助手席に乗っていて恥ずかしかった。ただ、いつもカートの疲れで腕がアンダーステアになるのだが、お抱え運転手がいるのは楽でええ!

1. 江戸東京そば「源」
カート屋さんへ行く途中、筑紫野IC近くに、せいろ蕎麦のお店がある。この店は博多のバーテンダーに教えてもらった。口コミでしか伝わらない隠れ家のような存在でいつも道に迷うのだが、案の定、今回も道順を間違えた。車高の低いオープンカーが、駐車場の傾斜に耐えられず、外に駐車させてもらう。
数年前に2度ほど食事をしたことがあるのだが、会席を利用するのは初めて。一軒家を料理屋風に改造した様子で、家庭的な雰囲気が味わえるのがいい。お座敷からは、日本庭園風に見える落ち着いた景色が広がる。秋は紅葉が綺麗だろう。
会席は、奥座敷を三人で占有。まず、わさびを自分でおろす。新鮮な粘っこさが、とろけるように、そばつゆと馴染む。料理の順番は、焼き味噌、そばクレープ、玉子焼き、せいろそば、そば米雑炊、最後にデザートのそば豆腐。焼き味噌は味の濃さがいかにも関東風。玉子焼きは軟らかさと色彩が絶妙。どうやったら、こんな上品な味にできるのだろう?おいらの玉子焼きと比べるべくもないが。コシのある蕎麦は絶品!更にそば米雑炊を初めて経験して感動!そば豆腐は、口に含んだ瞬間、羊羹風の甘みがあるかと思いきや、上品な大人向けの味わい。これで一人2500円。
心残りは運転のために酒が飲めなかったことである。酒蔵めぐりも企画したいのだが、どこかに、酒の銘柄に興味があって、体がアルコールをまったく受け付けない都合のいい運転手はいないかなぁ?
一つ残念だったのが、デジカメを持参するのを忘れて、この雰囲気を撮れなかったことだ。

2. チームアウトバーン
10年近くお世話になったカート屋さんとの別れは惜しい。
過去にも一時休止したことがあるので復活を期待したが、今回は本格的にコースも壊すそうだ。ちょうど、トラックで一部のマシンを運び出す光景に出合ったのは、なんとも寂しい。これほど設備が整っているカート場も珍しいだろう。お気に入りは、周回毎にラップタイムが表示される電光掲示板。コースレイアウトも豊富で、毎月変更される。
開店当時は、縁石の盛り上がりが鋭く、乗り上げると車体が跳ね返されシャーシが変形したりして、いつもメカニックがフレームを金槌で叩いていた。縁石の改修工事が何度かなされ、丈夫なマシンに変更されるなど、コストもかかっているだろう。縁石が滑らかになってからは、縁石の内側にタイヤを引っかけるようにズルをしながらコーナーリングしたり...
店にはシルバーライセンスとゴールドライセンスが設けられ、それぞれの規定タイムをクリアしないとパワーのあるマシンにランクアップできない。規定タイムは、普通に走ればなんなく出せるタイムである。だが、無理に頑張ったり力が入り過ぎると、微妙に難しい値に設定していて、初心者はコンマ何秒の壁にぶつかるようにできている。職場仲間とタイムクリアのために躍起になっていたのを思い出す。次の段階になると、ラップタイムがネットに掲載されるので、ベスト3のタイムを叩きださないと気が済まない。仕事をサボって、タイムアタックすることもあった。テクを磨くために、わざわざ雨天に出かけたこともあった。ウェットコンディションでパワーのあるマシンを追い回すのが快感なのだ。スタッフのお姉さんとタイムを競ったりもした。メカニックの方々には、車の奥深さを教えてもらった。ライン取り、ブレーキングの意味など、いろいろと議論したものだ。
そんな思い出をかみしめながら走行するつもりだったが、ステアリングを握るとついタイムアタックしてしまうのは習性であろうか。
これまた、一つ残念だったのが、デジカメでオレンジヘルメットが颯爽と走る勇士を残せなかったことだ。

土日は思いっきり混むだろうと思って平日に行ったが、寒さのせいもあってコースは貸し切り状態だった。夕方になると少しギャラリーが集まりはじめていたが、スタッフを囲んで雑談に夢中のようだ。
スタッフのみなさんお疲れ様でした!

2010-04-11

"フェルメール全点踏破の旅" 朽木ゆり子 著

時代は、宗教改革の影響でカトリックとプロテスタントが反目し合う中世ヨーロッパ。伝統的には、カトリック的な聖像崇拝をテーマにした美術品が多かった。しかし、この時代に堕落した庶民を題材とするプロテスタント的な禁欲や倹約をテーマにした作品が多く現れる。こうした流れは、美術品が政界や教会などのエリート階級だけのものという意識が庶民層に広がり、ようやく市民権を獲得したと解釈することもできよう。
西洋の美術品は、宗教観や歴史的背景を理解しないと味わえないというのが一般的な認識ではないだろうか。キリスト教的象徴、あるいは寓意や暗喩といったものは極めて慣習的なものなので、日本人には理解の難しいところがある。
ところが、だ。フェルメールとなると、日本人にも人気を博す不思議な世界がある。鑑賞者に思想を強いるところがまったくなく、教説的なものも感じない。専門的には優れた技法もあるのだろうが、語りかけてくる物語が自然に想像できるのがいい。電子メールや携帯電話に追われた毎日を忘れさせてくれるような、時間の止まった無限の安らぎを与えるような世界である。日常生活を題材にしたドキュメンタリー的な様相を見せるところに、親しみを感じるのかもしれない。いや、一見日常的でありながら、非現実性が混在する訳の分からないところに、癒しの空間を与えてくれるのかもしれない。これは明らかに宗教の崇高さとは違う。謎めいた崇高さとでも言おうか。したがって、これぞ純粋芸術!という気がする。
しかし、本書を読むと、実はそうでもないらしい。フェルメールにも宗教的要素が多分に含まれているそうな。ただ、既存の宗教というよりは、宗教を超越した独自の信仰と言った方がいいかもしれない。鑑賞者の心を動かす作品には、芸術家の信仰や哲学が顕になる。日常的な題材を象徴的な美にまで高める能力、これこそ芸術家の真骨頂であろうか。

言うまでもないが、ヨハネス・フェルメールはオランダの画家である。17世紀頃のオランダといえば、ミュンスター条約でオランダ王国が独立を勝ち取った時代。16世紀、スペイン王ハプスブルク家のカルロス1世(神聖ローマ皇帝で言えばカール5世)は、徹底的にカトリック化を進め、イベリア半島からユダヤ人や異教徒を追放した。植民地ネーデルランドは、カルヴァン思想が広まり、迫害を逃れた人々が集まる地でもあった。フェリペ2世の時代には、ネーデルランドにも弾圧や処刑の手が伸びる。そして、ユトレヒト同盟はネーデルランド連邦共和国(オランダ)の独立を宣言する。カルヴァン派は、聖像崇拝を否定し、カトリック美術の中心だった聖人画や聖母子像を禁止した。カトリック教国では、最大のパトロンは教会であり大部分はキリスト教をテーマとしていたが、宗教改革で教会の祭壇や聖画のほどんどが破壊された。そして、顧客は教会から裕福な商人となる。裕福な階級が貴族ではなく商人というところがオランダらしい。オランダ東インド会社といった重商主義が優勢になり、裕福な商人が台頭した時代である。
市民は親しみやすい作品を好み、宗教画から独立した風景画、静物画、風俗画といったジャンルで細分化したという。こうしてオランダ芸術の黄金期を迎える。だが、英蘭戦争やルイ14世の侵略で芸術も衰退し、生活苦に悩む画家が溢れた。フェルメールは、辛うじて黄金期の終焉間近を生きた画家である。したがって、フェルメールもカトリック系の宗教画から離れやすい環境にあったのだろう。だからといって、プロテスタント的な誇張もなく、まったくの自然体で、それほど大きなテーマが隠されているようには感じない。ちなみに、哲学者スピノザもこの時代と重なる。

フェルメールの絵は、わずか37点しかないという。本書は、その少なさ故に、世界中の美術館に散在する作品を訪ねる至福の旅が成立するという。専門家の間では、34点に関しては本人の筆によるものだと大筋で合意しているという。そして、「フルートを持つ女」と「聖女プラクセデス」の2点は、本人のものではないと大筋で合意しているという。ただ、あくまでも大筋であって、本人の作品であると主張する専門家もいるようだ。逆に、「赤い帽子の女」は真作性に疑問を持つ学者も少なくないらしい。「ダイアナとニンフたち」も、少数の専門家は本人のものではないと指摘しているという。したがって、真作は34点というのが、国際標準なのだそうな。
そこへ、2004年「ヴァージナルの前に座る若い女」が新たに真作として認定されたという。これが、「ヴァージナルの前に座る女」と似ていて紛らわしいので、本書は区別するために「若い」という形容を付している。ただ、その認定にも疑いを持つ学者もいるらしいが。
こうした、真作、非真作論争が絶えないという謎めいたところに、この画家の魅力があるのかもしれない。43年間の人生でわずか50枚程度の絵しか残さなかった寡作な画家である。偉大な芸術家が描けば、その意図を深く考えずにはいられない。そこで、無理やりな解釈を持ち込めば、作品にも箔がつく。だが、本当に芸術家に深い意図があったのだろうか?単に気まぐれで、その風景を描きたくなることだってあるだろう。依頼主から、好みを指定されただけかもしれない。あまり難しく、哲学や歴史の意味を気にせずに味わえるのがフェルメールの世界だと思っていたが...学者たちの想像力は、そう簡単に片付けることを許さないようだ。
画中画は、絵の中に描かれる絵であるが、ここにも共通認識のようなものがあるらしい。例えば、海の絵が描かれると、恋愛の状態を意味するという。海が荒れていれば希望はないが、海が穏やかだと恋愛も順風満帆といった具合に。フェルメールは、初期の作品で物語やメッセージ性を意図的に排除したという。だが、後期の作品では、画中画や小道具を多く登場させているという。

フェルメールの絵には様々な来歴があるようだ。一世紀にも渡って個人所有で美術関係者に知られなかったものから、盗難や略奪を繰り返すという暗い面を持ち合わせる。中にはフェルメール自身が個人的に思い入れがあって贈呈したものもあるだろう。もしかしたら、まだ個人所有の中に埋もれている作品があるかもしれない。贋作も多いことだろう。なんと、ダリの中にも贋作があり、フェルメールの絵があまりに少ないのを嘆いて「レースを編む女」を複製したという。
また、権力者による略奪や、多くの富豪が買いあさったことも想像に易い。ヒトラーは、ムッソリーニと会談した時、フィレンツェのウフィツィ美術館を訪ねてルネッサンス美術に感銘を受けたという。そして、「ヒトラー美術館」ことリンツ美術館を充実させるためには、ドイツの所蔵品だけでは不十分と見るや、ウィーンから名画を略奪した。その過程でフェルメールの作品も手に入れようとしたとされる。オーストリアはヒトラーの祖国で、ウィーンは彼が画家を目指した地でもある。ヒトラーは美術学校の入学を拒否されたことに恨みを持っていたのだろうか?彼はハプスブルク家の退廃や東方文化との融合を嫌悪し、印象派あるいは表現主義や抽象芸術を堕落と見なしたという。ウィーンには収集家やパトロンにユダヤ人が多かったこともあり、財産や美術コレクションを奪い尽くす。
当時、新興国アメリカでは、富を蓄積する過程においてフェルメールの絵が大きな役割を果たしたという。大富豪がヨーロッパ中から買いあさった結果、三分の一はアメリカの美術館に残っているらしい。したがって、フェルメールの絵を追いかけるだけで、ヨーロッパ各地にアメリカを加えた旅が成立するわけだ。なるほど、本書は、旅行ガイドのような様相を見せる。そして、一枚ずつ観て回る巡礼の旅へと導かれる。

1. 「真珠の首飾り」
少女が鏡に向かっている眼差しからは、なんとなく希望に満ちたものを感じる。室内を満たす金色の光は、夕日からの照り返しか?朝日が差し込んでいるのか?重々しい質感がある。白いはずの壁に黄金のグラデーションがあるところに崇高さが表れる。ここに宗教的な象徴はないのだが、宗教色がないとも言い切れない。フェルメールの妻はカトリック教徒で、結婚時、カトリックに改宗したとする説があるという。よって、この作品には、キリスト教的な観点から伝えるという解釈もあるらしい。

2. 「紳士とワインを飲む女」
二人の男女が描かれ、その横の椅子に楽器が置いてあることから、二人の間に愛があることが暗示されるという。音楽を表すモチーフには、愛の小道具として使われることが多いらしい。
また、窓のステンドグラスに描かれる青い服を着た女性像には、節度を擬人化した寓意が隠されるという。したがって、この作品は飲酒と性愛に溺れることに自制を説いたものだそうな。ただ、二人の男女に溺れるような見苦しい姿があるわけではないのだが...

3. 「取り持ち女」
奇妙なタイトルである。売春婦斡旋屋の女が、客と売春婦を取り持つという意味だそうな。なるほど、金を持って女性の胸をもんでいる男と、後ろには異様な雰囲気の黒頭巾の女が描かれる。なんでこんな絵を描いたんだろう?
これは初期に描かれた絵で、市場のニーズに合わせて風俗画家へ転身を図ろうとしたものだという。プロテスタント的な観点からは慎むべき題材であるが、その規範を示す作品という解釈もあるらしい。流行に関心を持ちながら、その滑稽な姿を揶揄する風刺的な意味があるのかもしれない。いや!あまり性的にいやらしそうには見えないので、単に金のない画家が売春婦に憧れたと解釈できなくもない。

4. 「窓辺で手紙を読む女」
本書は、この絵が大きな転換点になったのではないかと推察している。そこには、部屋に光が差し込む中で、女性が一人佇んでいる定番の構図がある。ソフトで平明な光が導入され、そのグラデーションには、なんとなく崇高さを感じるのも定番である。読んでいる手紙が、ラブレターという解釈もあるらしいが?右に描かれるカーテンが、鑑賞者と距離感を保ち奇妙な奥行きを与え、その距離感が手の届かない女性の存在を印象付けるという。
しかし、ラブレターのように明るい印象はなく、むしろ不幸な報せのような気がしてならない。夫が戦死した悲しみか、あるいは家族の死か、その絶望を距離感で表しているような。奥行きと立体的な暗い空間には、なんとなく重苦しさを感じる。こうした遠近法的な工夫が、崇高さを与えるのかもしれない。

5. 「絵画芸術」
ハプスブルク家のコレクションにピッタリと嵌りそうな作品だが、長い間個人の所有物だったという。この絵の主役は寓意だという。描かれる女性は、歴史の女神クリオ。菩提樹の冠をかぶり、名声を意味するトランペットを持ち、歴史を象徴する分厚い本を持っている。したがって、手前で背を見せる人物は、歴史画を描く画家ということになる。
歴史画とは、聖書、神話、そして歴史上の物語や寓意などを描いたもので、当時は最高位だったという。歴史画を描くということは、歴史や聖書に独自の解釈や構想を示すことで、自らの知識や哲学を世に知らしめる行為であったという。壁にかかる地図は、オランダがハプスブルク家の支配下にあった時代のもので、地図のまん中にある大きなひび割れは、ネーデルランド北部7州が南北に分裂していた様子を表すという。シャンデリアの上部には、双頭の竜の彫刻があり、これはハプスブルク家のシンボル。画家の着ている衣裳は高級そうに見え、テーブルに広げてある本は知識を表しているという。つまり、この絵のテーマは、歴史を題材にする画家という職業の崇高さを賛えることにあるという。

6. 「真珠の耳飾りの少女」
フェルメールの絵でもっとも有名で、もっとも人気のある作品だという。少女の投げかける視線は親密なものがあり、なんとなく少女への憧れのような恋愛感情が表れる。彼が描く人物のモデルは、フェルメール家の人々や女中や本人の自画像と推察されるものや、パトロンの妻や娘たちとされるという。専門家によっては、モデルなどいないと信じる人もいるらしい。いずれも想像に過ぎないようだが、金持ちたちが家族の肖像画を依頼することは想像に易い。そこに、威厳をや美化を追加するように要求もされよう。
ところで、トローニーという風俗画のカテゴリーがあるという。不特定の人物の半身像といったものだそうな。肖像画よりも大げさに表現し、肖像画の範疇を超えるといったところだろうか。肖像画は依頼主の要求に応えるが、トローニーは画家の想像力を解放し、買い手も不特定多数に向けられる。もともと、トローニーには宗教的や神秘的や寓話的な意味合いがあったという。トローニーにもモデルが必要で、身近な人物から思考をはじめて想像を膨らませるのだろう。まさに「真珠の耳飾りの少女」はトローニーだという。

7. 「デルフト眺望」
これがフェルメールを有名にした絵だそうな。美術評論家テオフィール・トレが書いた有名な論文が引き金になったという。トレは、19世紀的な観点から17世紀のオランダの絵を眺め、17世紀の都市景観画の中に、この絵に似たスタイルがないと指摘したという。
風景を近距離から描いたものではないにもかかわらず、近くから眺めているような親密さを感じるのも不思議である。フェルメールが残した数少ない風景画だけあって、その意義にも想像が膨らむようだ。

8. 「ダイアナとニンフたち」
ニンフたちの中で左に背中を見せた半裸体の女性が描かれる。これがフェルメールが描いた唯一の女性の半裸体だという。この絵には、月の女神ダイアナというキリスト教的な比喩がたくさん隠されているらしい。金属製の水盤は純潔のしるし、足をふく動作はマグダラのマリアがキリストの足に涙を流したり、キリストが弟子の足をふく動作と重なるという。そして、キリスト教的な純潔と忠節が描かれているそうな。
ただ、それほど重要なテーマがありながら、日常的な風景に見えるところに不思議な魔力がある。また、ニンフたちの表情がなんとなく見えるのに対して、中央のダイアナだけ表情が見えないことがこの作品の評価を曖昧にしている原因だという。

9. 「マルタとマリアの家のキリスト」
フェルメールが描いたもっとも大きな絵だそうな。絵のサイズにもそれなりに役割があって、宗教画が大きいのはそこに威厳や雄大さを求めているのだろう。ちなみに、フェルメールの絵は、初期の宗教画は大型だが、二、三の例外を除いてだいたいが小型だという。
この物語は、新約聖書のルカ伝のもので、キリストがマルタとマリアの家を訪れる場面である。忙しくもてなす姉マルタが、キリストの御言を聞くために座り込んで動かないマリアをなじると、キリストがマルタに「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、なくてはならないものは一つである。マリアはそれを選んだのだ。」と諭したもの。キリスト教的には、マルタのもてなしよりも、マリアの御言を聞く霊感的な行為の方が大切にされるという。そして、一般的にはマリアとキリストを中心に描き、マルタは脇役に位置付けるものらしい。
ところが、フェルメールはマルタを中心に描いている。そこで、マルタのように懸命に働く姿を美徳としたプロテスタント的な意味合いが強いという解釈も成り立つわけか。

10. 「天秤を持つ女」
この絵の画中画には「最後の審判」が描かれるという。なるほど、栄光のキリスト像の下で地獄に喘ぐ人々が描かれる。となれば、女の影で見えない場所には、天使ミカエルが死者の魂を天秤にかける姿があるはず。「最後の審判」の図では、ミカエルが人間の魂を天秤で量り、重い方の人間を生前の行いが善であったとして天国へ送ることになっている。
しかし、この絵には、その部分を女性の姿で隠して天秤を持っている。ここに意味ありなところがあるという。つまり、描かれる女性はミカエルに代わって何かを量っていると解釈できるそうな。
では、何を量っているのか?その曖昧さが多くの解釈を生む。精神には、あらゆるバランスが重要だとでも言っているような。あるいは、女性が熱中している姿には、精神のバランスをとることの難しさを訴えているような...

2010-04-04

パソコン(x64)買っちゃった!

ものは、DELL Studio XPS8100 (Core i7-860 2.8GHz + Win7)...
メーカ品のデスクトップPCを買うのは二十年振りであろうか。10万円代で、そこそこ性能のあるマシンを得ようとすれば自作するしかないと思ってきたが、この値段でこのスペックならメーカ品も悪くない。ちなみに、MSのOSではWin2kが最も安定していると思っているが、どんどん迫害されていく。次は64bitだと思っていたところ、DELLさんが妙なキャンペーンをやっている。期限付きで16万円以上買うと2万円off!ということで、オプションを調整して15万円以内に抑えた。しかし、似たようなキャンペーンをいつもやってるみたいやなぁ。
銀行振込で手数料を覚悟していたが、コンビニ決済できるのがいい。いまどき当たり前か?
新しいものを導入するとなると、理屈は大して変わらないだろうという感覚が先行し、だんだん億劫になってくる...なーんて発言すると、「もう年ですねぇ!」とからかわれる。「感覚の抽象レベルが上がった」と言ってほしいなぁ。

1. マシンは快適!
まず、接続する...
あれ?DVIポートが二つある。仕様では一つだと思っていたが、 nVidia GeForce GTS 240が二つ持っているのかぁ。マルチディスプレイはなかなか快適!その代わりアナログRGBがない。いらんいらん!しかし、ディスプレイのアナログRGB側に、わざわざVGA/DVI変換コネクタが繋がったまま梱包されている。そのように繋げって誘導しているようなもんやんけ!出荷検査の名残か?ということで直で繋ぐ。
HDMIもあるなぁ。さっそく、テレビに繋ごうとするとケーブルが届かん!長いやつを調達せねば...
さて、起動してみる...
第一声、思いっきり静か!マシンが静かなことが、これほど快適とは知らなんだ。HDDのインジケータも小さくて、電源が入っているのか疑いたくなる。ケースを一度も開けてないのも不思議な感じだ。中身が仕様通りかは知らん!小人でも入ってんじゃねーか?ホットなお姉さん系が入っているなら、パフォーマンスが悪くて、少々拗ねられてもOKよ!
次に感動するのは、速い!速い!i7の4コアは、Hyper Threadingとかいうやつで8コアに見えるんだぁ。L3キャッシュも8MBある。慣れ親しんできたFSBは、QPI機構とやらに変わって高速になるようだ。おまけに、ターボブーストがある。こいつは化け物か?なんとなくヘネパタを読み返したくなる。ところで、パタヘネと呼ぶ人も多いが、どちらが一般的なんだろう?
メモリ6GBも、すげー時代だ!640KB超えの問題でEMSが登場した時代が懐かしい。とはいえ、なーんにもしてないのにOSが1GBも喰うのは、いかがなものか。
ちょいと、画像処理回路のシミュレーション時間を計測してみよう。電源オプションはハイパフォーマンスに設定して...わぁお!10倍速い。こりゃ「シミュレーションが一晩かかるので飲み屋からログを監視してます!」なーんて言い訳ができなくなるなぁ。5,6個のCPUが、80%近辺で一斉に稼働すると、なかなか爽快!クロックアップも眺めがいい。ブーストメータは3.4GHzを示す。ターボ限界値は、通常の2.8GHz(133MHzの21倍)に対して、3.467GHz(133MHzの26倍)のようだ。あまり仕事をしていない時は、1.2GHz(133MHzの9倍)までクロックダウンする。
しかし、この速さにも2、3日で慣れてしまうのは虚しい。すぐに贅沢に慣らされるのは、人間の悲しい性であろうか。

2. キーボードの哲学
このセットで不満なのは日本語キーボードしか選択できなかったことぐらいか。ノートは選べるのに。どこかにオプションが隠れているのか?どうせ交換するから関係ないのだが...
我が家にはUSBキーボードがない。10以上愛用してきたPlathome FKB8579をPS2/USB変換するという手もあるが、そろそろヘタってきた。今でも気に入っているので追加購入したいが、販売中止は残念!
ということで、憧れのPFU Happy Hacking Pro2を購入。キーボードで2万円は、ちと高い!しかも、カーソルキーがないのが、ちと不安!だが、キー感触と指の動きは、長時間叩くのにストレスとなるので、こだわってみるのも悪くない。なるほど、さすがに噂通りの感触だ。叩く音も心地よく精神衛生に良い。キーの感触を調べるために、シフトキーならシステムに影響を与えないだろうと思って5回連続で押すと、なんと!「固定キーを有効にする」などと言ってきやがる。ほぉ、Win2kも。恐るべし!Windows....
右小指がFnキーに奪われるが、小指の動きが鈍いから困ったものだ。一説によると、小指をよく運動させると、脳を活性化させてボケ防止にもなるんだとか。それでも、ブログ記事の一つも書けば、だいたい慣れてくる。思ったよりカーソルキーがないことも気にならない。逆に、home, end, PgUp, PgDnにも自然に指が伸びるようになり、ブラインドタッチが加速する。とはいっても、無刻印版を買う勇気は生涯持てないだろう。
装備としては、USBが2ポートあるのはありがたいが、フラッシュメモリを差すと電源供給量が不足と警告される。だが、マシン上部には、いい感じで2ポートあるから気にならない。
ところで、このキーボードには、なんとなく哲学を感じる。それはキーの抽象化である。そう、哲学的思考の源泉には、抽象化の概念がある。コンパクトなキーボードは、腕の位置を固定させ、指のストロークを短くし、無駄な動きを省く。机上スペースもすっきり。だからといって、無暗に省略すればいいというものではない。精神がフロー状態になった時、キーを探すような行為が生じるということは、集中力の妨げにもなろう。レーシングドライバが、アクセル/ブレーキペダルにこだわり、バケットシートを装着するのと同じ理屈だ。キータッチの軽いアンダーステアは、思い切って踏み込めるというわけだ。熟成させたマシンが手足になって、はじめて精神を存分に解放できる。

3. Win7で愚痴る!
パソコンを入手して、まずやること言えば、OSのまっさらインストール。余計なドライバが入っているのが気に食わない。そして、2、3度はやり直す羽目になる。完全フォーマットしないと気が済まない質だが、そんな時代でもないのかもしれない。ということで、今回は面倒なことを省くことにした。使うOSで一度もインストール経験がないのは初めてだろう。今後は知らんが...
さて、環境設定だ...
  • なんだ!この貧弱なスタートメニューは...クラシックメニューはお亡くなりになったらしい。これだけで小一時間も悩んでしまったではないか。使い方を強要するような宗教的な発想は勘弁願いたい。ということで、Vista Start Menuを導入。
    尚、最新版は、StartMenu 7 に変更された模様。...(2012-7-1)
  • デスクトップのアイコン配列も鬱陶しい。それを調整するための[デザインの詳細設定]を探し出すだけで放浪してしまう。なんで[ウィンドウの色]の中にあるんだ?デザインの中に色があるのが普通じゃねぇか、と思うのは酔っ払いの感覚か?
  • Windows Explorerとかいうファイルマネージャもどきは、defaultでファイルメニューがないのに戸惑ってしまう。代わりに[整理]とかいう訳の分からんものがある。大量にファイル操作するには、視覚性よりも操作性を重視したい。この点はWin3.1時代のシンプルさで充分だと思っている。ただ、圧縮ファイルの中身がシームレスに覗けるのは良い機能かもしれない。一瞬、実体を見つけるのに戸惑ったが。
  • フォルダの共有では、従来の共有アイコンがなくなり、共有状態を詳細ウィンドウに表示しやがる。表示スペースの無駄だ!マニュアルでアイコン変更か?なんともしまらねぇ。共有しない方に鍵マークを付けることはできるのかぁ。アイコンから鍵マークを消すには、右クリックで一旦共有してマークを消し、次にプロパティで共有解除すればええんだけど...本筋じゃないよなぁ。他にやり方があるんだろう。もしかして、同じ共有なしでも、鍵マークの有無でセキュリティ上の意味合いか違うのか?右クリックから簡単に共有状態を変更できるのも、プロパティでせっかく設定したものがチャラにされそうで怖い。セキュリティがうるさい割りには、仕様がバラバラでねぇかい?
  • IME2007も奇妙なことになっている。IME2000にあった[直接入力時にツールバーを隠す]という機能がなくなったようだ。[アクティブでないときに透明]ってのはあるが、アクティブの意味が...そもそも、直接入力が言語システムに関係あるのか?なーるほど!入力後の文字列でも一発で再変換できるというわけか。言語システムを補助的な位置付けにしている人間には、お節介な機能である。技術系の人間で鬱陶しいと思っている人も少なくないだろう。せめて隠す設定がほしい!キー設定には、[IMEオン/オフ]というメソッドが用意されるが、別のキーに割り当てる気にもなれん。ちなみに、XPあたりからの仕様でIME2002では、それだけのためにフリーソフトがあるようだ。また、学習が足らないせいか?変換精度が悪過ぎる。
全般的にかゆい所に手が届きにくいという思想は相変わらずのようだが、Win7は更に深く眠ったところにあるようだ。属性を直観的に辿り難いということは思想的におかしくねぇか?一般的にトラブルが生じないように設計すると、こうなるのだろうか?やっぱり、Win2kの方がマシのように思える。
機能が増えるのと、思想が複雑化するのとでは意味が違う。安易な自動化と同期化は、利便性をもたらす以上に、人間の操作ミスとの区別を曖昧にし、むしろ混乱を招くであろう。MS製品を買うのは10年振りだが、奇妙な宗教化が進んではいないか?ノートPCでは、Ubuntuを検討したい。
しかーし、この程度の愚痴が可愛いものだと知るのに、大して時間はかからないのであった。なぜなら、後述するOffice2007が、かるーく吹き飛ばしてくれるのだから。

4. アプリは、ほぼ問題なく稼働
Program Filesが、x86と区別されるのは管理しやすいかもしれない。32bit版は、x86互換モードでインストールして、ほぼ大丈夫。
ただ、思いっきり古い二つのアプリで癖のある不具合があった。いずれも、Win7の基本I/Fとうまく通信できていない模様。一つは、アプリを終了してもプロセスが残るものがあるが、しっかりとプロセスを切ってやれば問題なさそう。二つは、ファイル保存画面でファイル名が反映されないものがあるが、対策パッチで解決した。
おっと!気を抜いていたら、いつのまにかCnsMinが入ってしまった。JWord 1.x系の仕業か。こんな勝手に入ってくる奴は、腕によりをかけて抹殺する。それが仕事人の勤めなのさ!
さて、ブラウザを設定しようとすると...なんでIE8は、64bit版と32bit版があるんだ?アイコンには、わざわざ64ビットと明示され、おまけに32bit版がdefaultだ。64bit版はベータ版ってことか、いや!これを使うと、ろくなことにならないという警告に違いない。
ついでに、Chromeを入れてみよう。なるほど、軽い!pdfをよく見るので、クィックビューはいいかもしれない。ただ、Bloggerユーザが言うのもなんだが、gさんのサービスは初期の品質がいつもグルグルだからなぁ。と思いきや、これなら使えるかも。プラグイン系がIEと違うが、いずれjava系も必要だろう。ということで、しばらくChromeを試すことにした。
こうしてみると、64bit版のアプリが少ないのが、ちと寂しい!
とりあえず、Avast5 + Windowsファイアウォール + Windows Defender + POPFileで運用してみることにした。Avastの重さを感じないのがいい。ちなみに、数年前から愛用しているPOPFileのベイズ・アルゴリズムには一発で惚れた。だって、嫌な奴からのメールをspamと認識するんだもん。ファイアウォールも、Cygwin系でいくつか弾いてくれたから一応効いてそうだ。ただ、ポート毎というよりは実行ファイル毎に設定するようだが、一見分かり易いようで、よく分からん。ポートの多くが[任意]に設定されているのも恐ろしいような気がする。[ホームネットワーク]に設定すると、ほとんど通してくれるのかなぁ?んー、酔っ払いには難しい。

5. Office2007で大爆発!
何を血迷ったかオプションに追加してしまった。Office2000を持っているが迫害されつつある。貸借対照表をExcelで管理しているので簡単には捨てられない。Office2007の評判の悪さは知っている。わざわざOffice2003に戻したという話も聞く。しかし、たかが表計算やワープロで、そんなに使い勝手が変わるわけないだろう。皆さん大げさなんだからと思っていた。
さて、Excelを起動すると...なんじゃこりゃ!
Win7の思想の悪さなんて一遍に吹っ飛んだ!なるほど、Win7の引き立て役というわけか。前々からExcelとWordが同じ会社の製品とは思えないと感じてはいたが、Windows系とOffice系が同じ会社の製品とはとても思えない。昔は、Excelの評判は良く、むしろWordの評判が悪かった。日本語ワープロは日本製じゃないとダメかとも言われた。とうとうExcelが悪評を超えたというわけか。
ノートPCの小さい画面だと爆発しているだろう。クイックメニューのセンスの悪さは、他のアプリとの釣り合いがとれん!バージョン情報を見るだけで放浪してしまったではないか。おまけに、2007形式で保存すると拡張子が変わる。機能アップしたからであろうが、互換形式でしか使う気がせん!リンクさせるといちいちセキュリティセンターが騒ぐのに戸惑ったが、信頼できる場所を指定してやれば問題ないので、この思想は使えるかもしれない。それにしても、OSレベルでセキュリティ思想があって、アプリレベルでもあるとうことは、マルチユーザ同士で信用ならんということか?いや、アプリ製作者がOSを信じられないに違いない。
これだけ改宗運動の激しいアプリを見たことがない。ヘビーユーザほど戸惑うだろう。アクションを起こす度に悩まされるのは、ロールプレイングゲームをやってる気分だ。なるほど、乗り換え抵抗感を緩和し、自由競争を促進するとは、MSさんもなかなか味な事をなさる。ご厚意に甘えて、OpenOffice.orgを真面目に検討せねばなるまい。
一方、Wordは少しだけ許せるかもしれない。育ててきた目次の自動生成の仕掛けが、そのまま移植できそうだから。
更に驚くことに、Win7の起動時にデスクトップガジェットが時々立ち上がらない現象があって、不安定なOSだなぁと思っていたら、その原因も2007絡みのようだ。アクションセンターが騒ぐので何事かと思えば、パッチ情報には...
「KB974164: IME2007修正プログラム(2009/8/25)...2007 Office systemの日本語版がインストールされているコンピューター上では、Windowsを再起動すると、Sidebar.exeプロセスが応答を停止する場合があります。」
まさしくこれだ!なんで言語システムとOfficeとデスクトップガジェットが関係あるの?Sidebarの動きを邪魔しているんだとしたら、マルウェアじゃねぇか?こりゃ呪われてるわ!
2007は鬼門の数字といわけか。ラッキーセブンに辿り着くには厄払いが2000回必要かもしれない。ちなみに、厄数2007を因数分解すると、3^2 * 223 となる。3月22日に納品され、23日にセッティングしたのが祟られたのか?

ところで、精神が強烈な愚痴の呪縛に嵌ると、くだらない愚痴にまで波及するから困ったものだ。
ドキュメントは、何を使って作成しようが自由である。pdfで配ればいいのだから。しかし、プログラムに食わせるデータをExcelマクロで作成するのは勘弁してくれ!移植性が悪くてしょうがない。それだけのためにOfficeを買わされた業者は気の毒である。アプリやOSに依存するような仕事のやり方は、なるべく避けようぜ!ツール依存のスクリプトも、なるべく避けようぜ!ツールが高価だからWin版でないと入手しずらいというのは分かる。うちも貧乏業者だから同じだ。フリーで固めても、そこそこの環境が構築できるし。だとしても、Unixエミュレートが難しいわけではないだろう。なにもDOSスクリプトが悪いと言っているのではない。移植性を問題にしているだけだ。その人にとって効率性を見出せるならば、どんな言語を使おうが自由なんだけどさぁ~。
また、ツールの使い手が近くにいるのは便利である。ただ、存在感をそれのみでアピールするのはいかがなものか。人間の存在価値は思考力や想像力で高めたいものである。チェッ!悪酔いしちまったぜ!

6. Media Playerで年を感じる
最も時代から取り残されたことを実感させられたのが、これかもしれない。音声出力の光端子(S/PDIF)が標準装備されるのはありがたい。いまどき当たり前か?nVidiaのドライバは、なんで32bit版が入ってんだ?ということで64bit版に変更。DVDを再生しながら多少作業してもコマ落ちしない...Codec側に仕掛けがあるのかなぁ?
こりゃええわ!でも、ちょっと足回りが気になる。サウンドカードにこだわってもよかったか。ビデオカードにもこだわるべきだったか。しまった!Officeの値段でそれぞれグレードアップできた。ここでも祟るか厄数2007...
アルバムに登録しておけば、いちいちCDを棚から取り出さなくていい。利便性は肉体を衰えさせるのか。取り込みの速さもええ!煙草1本吸っている間にCD5、6枚はいける。「コピーガード規定を了承するか?」と聞かれるが、データを移植する気はないので素直に従う。ただ、他のマシンで再生すると、どんな仕掛けが待ち構えているのか気になる。なるほど、ライセンスが要求されるのかぁ。んー...これ以上は沈黙!
パソコンでマルチメディアなんて、いまいち気が乗らなかったが、マシンがこれだけ静かだと意識が変わりそうだ。むかーし、聞いていたCDをひっぱりまわしていると、古い記憶が蘇る。なにしろ、アンプは山水、スピーカはDIATONE...システムはバラで...なんて言ってた世代である。新人時代、職場には真空管アンプを自作したと自慢する先輩がごろごろしていた。今では、TRiOのアンプKA990はいまだ現役だ!なーんて話をしていると、どこの国のメーカですか?と聞かれる始末。電子部品がへたってきて熱が入らないと調子が悪いが、なんとか誤魔化し誤魔化し25年になる。だが、このエンブレムは捨てられん。ナカミチのデッキは、もう死んでるだろう。当時、ブランド名がなくなるという噂を嗅ぎつけると、価格が暴落するタイミングを狙って徹夜で並んだものだ。新しいものを導入すると、古き時代が蘇るとは...精神とは奇妙なものである。

2010-04-01

「勝ち逃げの死神」と呼ばれた雀士

オケラのアル中は、ドスの利いた声でつぶやいた。
「一人勝ちするのは悪い奴!これが、ハコテンの美学というものさ!」

鏡の向こうの住人に、「勝ち逃げの死神」と呼ばれた伝説の雀士がいるという。いつも赤い顔しながら「ああ気持ちええ!」とつぶやくのだそうな。滅多に出会うことができないのだが、今日四月一日、偶然そこを通りかかった。桜祭りに招かれて夜の社交場へ向かうところらしい。そこで、ドサクサに紛れてインタビューを試みた。その、しつこく!まったり!とした言葉を、脂っこく!記述してみよう。

勝ちたいという欲望が、負けたくないという恐怖を掻き立てる。欲望と恐怖は人間の持つ本能であり、そこから逃れることはできない。本能が故に、相手との距離をはかり、間合いはかり、そこに駆け引きが生まれる。恐怖心とは、防衛本能であり、それすら呑み込む力、それが相手に無気味さを与える。つまり、勝負とは、恐怖心のやりとりに他ならない。
となれば、恐怖心を凌駕する方法は、精神を無心、無我の境地に置くしかあるまい。そして、本能のままに、その瞬間を楽しむ快感と喜びを養うことが肝要となる。自分の能力を信じ、迷いを払拭できれば、自らの行動に恐怖を感じることはない。いや!純粋な恐怖を感じることができると言った方がいい。純粋な恐怖は、脂ぎった欲望の裏にある恐怖とは異次元にある。勝負に集中する純粋な精神に、脂ぎった欲望の入り込む余地などないのだ。無意識無想となれば相手に隙を与えない。その狂気こそ無気味の正体である。
博奕打とは、楽をしながら金儲けをする人種である。そのために、情報収集に努め、敵を知り、己の技を磨く奇妙な人種でもある。怠惰を求めるが故に、勤勉に辿りつくというわけさ!

1. 博奕の法則
人間は、理は避けられても、偶然は避けられない。となると、偶然をも味方にすれば無敵となる。合理性は、個人の経験によって育まれる。すなわち、合理性とは、個人の持つ哲学的思考である。相手にとっての不合理性は、こちらにとっては合理性となる。勝負を仕掛けるならば、相手の合理性では計れない領域に誘い込むことだ。相手の思考回路を狂わせるとは、神経戦で精神の風上に立つということである。なんの得もない、ただ無意味に勝負に人生を委ねる。その理不尽こそ博奕の本性!そこには、怠惰を求めて匠を究める精神がある。そうした境地に辿り着いた時、初めて人生の博奕が打てる。
しかし、人間は金が絡むと性格が豹変する。レートが上がれば、勝負の流れを冷静に見極めることができなくなる。すると、精神は、確率論では計り知れない領域へと踏み込む。挙句の果てに、流れを悪くし、自ら蟻地獄へと誘ざなう。博奕とは、賭けるものがあるかないかで、決定的に勝負の性格が変わるゲームである。勝てば賞金が得られるのと、負ければ財産を失うのとでは、プレッシャーの質がまったく違うのだ。失うものがなければ、勝負は単純な能力で決する。だが、失うものが大きければ、純粋な能力を超越した能力が要求される。いくら、相手の手の内が読めても、自分の読みが信じられなくては、既に勝負を降りたことになる。そこには、怯えという防衛本能との葛藤がある。怯えは、精神の論理において最高位にある。怯えに支配された精神は、制御不能に陥る。ここには「負け犬の原理」が働く。つまり、自分の能力に命運を委ねる器量があるかが問われるわけだ。
人間は危機に直面すると、本性を顕にする。人間に完璧な精神力は求められない。完璧な駆け引きなどありえない。もし、完璧な自信に裏付けられる勝負勘があったとしても、それが完璧であるが故に崩れ始めると脆い。もちろん、自らの過信は問題外。強気とは、意地や頑固などではない。それは「強がり」というもので、怯えの裏返しにある。強気の本質とは、流れを読む冷静な判断力である。そこに、博奕のセンスが問われる。
博奕の根底には、人間が生涯に渡って対峙する恐怖心との戦いがある。守るものが大きいほど思い切った行動力が発揮できない。したがって、人生は博奕の最高位にある。

2. 麻雀の原理
麻雀は、先に和了(アガ)ることを競うゲームではない。いかに相手を降ろすかというゲームである。自らのイメージを増幅させた者が勝機を掴む。弱い奴の臭いを嗅ぎつければ、ハイエナのように群がってくる。麻雀とは、神経戦を楽しむゲームである。したがって、打ち筋には人生観が現れる。
打ち筋には、重要な情報とノイズが混在する。その中から重要な情報を嗅ぎ分ける能力と同時に、わずかな偽装情報を絶妙のタイミングで混入させる能力が要求される。これが麻雀のセンスである。勝負の流れを、牌が語りかけてくれる。それに耳を澄まさなければ、はかない誘惑に負け、迷いを見切れず、つい目先の点棒を拾いにいく。麻雀の論理は、一旦流れを失うと、身勝手な合理性に支配され、考えれば考えるほど相手の術中に陥るようにできている。悪い流れで突っ張れば、吸い込まれるように振り込む。これが「絶好のカモの原理」である。
そこで、流れを変える勝負術が必要となる。勝負術で最も重要な前提がブラフだ。それも、単なるブラフでは通用しない。自らの身を削ずるほどの演出がなければ迫力が出ない。まったく採算の合わない愚かな行為に相手は惑わされる。気迫が疑惑を呼び、疑惑が妄想を呼び、妄想が恐怖を呼ぶ。人間は、自分の価値観を完全に超越した不合理性に恐怖を感じる。一度でも場の気配を支配してしまえば、虚もまた実となる。すると、優位な立場にある人間には、安全に打とうとする誘惑が忍び寄る。この誘惑こそ流れを変える好機。一旦流れを呼び込んだら、怒涛のごとく押し潰すのみ。少しでも弱みを見せた相手には、二度と歯向かえないように完膚なきまで叩きのめす。勝負付けは、その場できっちりと済ませておくことが肝要。それで、次の勝負から精神の風上に立つことができる。これが勝負の鉄則である。
麻雀の基本構造は、確率で構成されるように見える。それも間違いではない。だが、賭けるものがあれば心理的要因で構成され、相手の精神を徹底的に捻じ伏せるゲームへと変貌する。牌を狙い撃ちする戦いは、心を狙い撃ちする戦いへと豹変するのだ。そこで、必要となるのが牌の嗅覚と精神の腕力。これは一種の度胸比べにも似た心理があるが、微妙に違う。最終的に、天に身を委ねる度胸を持ち続けられるかが問われる。一度でも精神のバランスを失えば、脆くも崩れ落ちる。
それは、「単騎待ちの原理」が証明している。単に和了(アガ)ることに合理性を問うならば、多面待ちに構えるはず。なのに、わざわざ単騎待ちに構えるのはなぜか?それは、相手に待ちを読ませないための駆け引きである。多くても九連宝燈の九面待ちか、国士無双の十三面待ちだが、単騎待ちは現物以外はすべて当たり牌の可能性がある。スジや牌種による読みは、まったく通用しない。待ちが読めないということは、それだけで相手に恐怖心を植え付ける。恐怖心のやりとりという意味では、これほど合理的な待ちはないというわけだ。
ここには、確率では計り知れない可能性を匂わせば、精神の風上に立てる原理がある。相手の思考を操作するところに麻雀の本質がある。麻雀の原理は、上手い奴が勝つのではない!強い奴が勝つ!

3. 勝ち逃げの法則
振り込めば楽になるという精神こそ肝要だ。死ねば助かるという気持ちが失せた時、勝ちの気配が死んでいく。そして、ただ助かろうとする。これは、博奕で負けが込んだ人間が、最後に陥る思考回路である。こうなると、自ら積み上げてきた合理性はすべて失われる。怯えは、まず、気のはやりや焦りという形で姿を現す。やがて、牌の語りかけが聞こえなくなり、手変わりの気配も見えなくなり、ついには精神のバランスを崩す。勝ち急ぎの気配を見せれば、後は相手のミスをじっと待てばいい。流れが見えれば、見えない振りをするのは簡単であるが、流れが見えなければ、見える振りをするのは難しい。集中力の持続こそ、博奕の生命線。安全に打とうとすると、防御一辺倒となり、完璧に読み切ろうとする迫力が薄れる。おまけに、希望と期待が追い打つをかける。希望ってやつは、危機が迫ると、願望となり、やがて祈りへと変貌する。希望とは弱さであり、期待とはご都合主義に陥ることを意味する。希望や期待は、幻想という形で精神に忍び寄り、精神が錯乱したら、後は地獄へまっしぐら。
相手が恐れるのは、こちらの狂気!だから、先制攻撃で脅しをかけてくる。その反面、脅しがきかなくなると崩れるのも早い。読みが当たったり、シナリオ通りに仕掛けがうまくいっても、その手柄を自慢しては全てが台無しとなる。あくまでも偶然性を装い白痴に振舞う。派手な手を地味に見せる。巧みな技を凡庸に見せる。
迷うから精神の起伏が現れる。迷いとは欲である。和(アガ)りたいという欲、裏をかきたいという欲、勝ちたいという欲、これすべて私欲。私欲の前では目が曇るのみ。欲が大きければ、それに反して、自己矛盾に陥り、自らの退路を狭める。目先の欲を捨て、無我の境地へ到達する集中力をまとわなければ、自我を克服できない。どうせ死ぬなら、強気に打って死ねばいい。常にその揺るぎない精神状態を保つことが鍵となる。これは、「どうにでもなれ!」といった心理に似ているが、無謀とはまるっきり質が違う。博奕の基本精神は、いかに泥酔者の精神が持続できるか、ここに集約される。
認めたくないが、人間は必ず老いる時が来るように、いつかは落ち目が来る。それを冷静に見極めることが肝要。それが引き際ってやつだ。自分の能力が信じられなくなったら、場から降りればいい。そして、伝説の雀士は何かを悟ったかのように雀卓から去ったのあった。これが「勝ち逃げの法則」である。

4. 博奕と市場原理
博奕の法則には、一種の経済学がある。あぶく銭に人生を委ねる点では市場原理に似ている。合理性の根拠を群集心理に求めながら統計学に熱中する。いまや、株式売買でプロとアマチュアの差別化も難しい。ネットが進化した現在では、トレーディングルームを自宅に構築することは容易い。情報格差において、インサイダー情報でもない限り、プロとアマチュアは急速に接近している。
では、どこに違いがあるのか?それは市場への参加を強いられるかどうかの違いである。プロは、他人の資産を運用するために、期限付で成果を出し続けなければならない。株価の上昇局面か下降局面かなど関係なく、常に成果が求められる。だが、経済情勢の複雑化の中で、常に儲かるように仕組むのは至難の業だ。だから、必至に逆ポジションといったテクニックを駆使する。安定した運営を試みるならば、資本力は大きい方がいい。そして、無暗に資金集めに熱中する。だが、資本力が巨大化し過ぎると制御不能に陥り、一旦、負債を抱え始めると後戻りできなくなる。ノーベル賞級のプロ集団でさえ、大規模な破綻は避けられない。逆に言えば、自己資金のみで運営するアマチュア投機家は、彼らよりも精神の風上に立っていると言えよう。リスク局面では静観していればいいのだから。十年に一度の絶好期に市場に参加すればいいぐらいの気持ちでやれば、気楽なものだ。この原理は、博奕の法則に基づいている。あぶく銭を稼ぐための心理構造は、いずれも基本原理は同じである。