2007-08-26

"クラウゼヴィッツの戦略思考" ボストン・コンサルティング・グループ 訳

クラウゼヴィッツはプロイセン国の軍事学者でありナポレオン戦争を生きた人である。プロイセン国は戦争に負けるのだが、軍事論を古典的名著「戦争論」に記した。そういう意味では敗者から見た自己変革論である。こういう背景はアル中ハイマーの好むところである。
軍事論と言えば、東洋の孫子、西洋のクラウゼヴィッツと評される。アル中ハイマーは血気盛んな頃「孫子の兵法書」やら「戦争論」を読んだものである。
「戦争とは、他の手段をもってする政治の延長にほかならない。」
とは、有名な格言である。これは、「戦争論」が戦争を政治の道具と表したものと解釈されたため非難されてきた原因でもある。
本書は、よくありがちな戦争からビジネス論を学ぼうという主旨であるが、ハウツウものではない。「戦争論」は時代背景に照らし合わせて、まさしく現代と同じ激動の時代を生き抜くための意思決定論を磨くものであるとして、ボストン・コンサルティング・グループが独自に編集したものである。
しかし、アル中ハイマーにはそんなことはどうでもよい。単にクラウゼヴィッツの名前を見て懐かしさを覚え「戦争論」を読み返したかっただけなのである。ただ、「戦争論」はあまりにも重い。そこで手軽に本書を手にした。少々目的を異にするが、ついでに、マネジメントの勉強ができれば一石二鳥というものである。

おいらが「戦争論」を読んだのは、多分学生時代だから20年前のことである。当時は、ナポレオンの本も読んだことを記憶している。それもジョゼフィーヌへのラブレターばかりたっだような記憶しかない。困ったものである。
本書を読んで「戦争論」の印象が多少違っていた。本書の目的は、ビジネスとして活用できる部分を抜き出そうとしているところから、多少の印象が違っても不思議はない。そこには戦略に潜む不確定性をセットに考えなければならないことが語られる。戦争で起こる事象は、常に不確定であることは言うまでもない。自然現象を対象とした学問には理論の影響力は大きいが、人間の活動を対象とした理論には、しばしばいらいらさせられる。社会現象や経済現象がそれである。戦略を実行することは、人間を理解する必要があり、まさしく行動ファイナンスのようなことが記されている。

本書は、一般的に戦争からビジネス論を語られることを好まないと述べている。いきなり本書の主旨と矛盾から始まる。そもそもビジネスと戦争とは違う。企業間の競争を「戦い」と表現することがあるが、それはジャーナリスト特有の誇張であるという。確かに、ビジネスと戦争には共通する要素が多いが、それぞれの原動力は本質的に融和しえないものである。もたらす結果もまったく異なる。戦争の図式をビジネスにそのまま当てたいと思う人も多い。戦国武将をモデルにした指南書をよくみかけるのは、その証拠である。図式には必ず歪が生じる。それは互いに対応しない独自の要素が含まれるからである。
しかし、戦略というただ一点にのみに着目するのであるならば、戦争論の検討は意義深いと言い訳している。
そんなに長々と言い訳しなくても、アル中ハイマーならば、そこに哲学があるからと一言で片付けてしまう。手法や戦術は時代とともに廃れるが、哲学の時間軸は長い。時代の流行があっても人間の行動は、そんなに短い時間で傾向を変えるわけではない。もし急激な変革が起こっても、そこには物理法則のごとくエネルギーの蓄積がある。アル中ハイマーはのんびり屋なので哲学ぐらいゆっくりとした時間でないと悪酔いするのである。

戦略思考というからには、戦術と戦略の違いぐらいは触れておこう。
「戦争論」では、その違いをこのよう記している。戦術は、個々の戦闘を計画し指揮すること。戦略は、戦争を勝利するために戦闘を束ねること。戦術と戦略は区別しなければならないが、そこに一貫性がないと成り立たない。戦争を始める前には事前準備が欠かせない。とは当り前のように思われるかもしれない。しかし、戦争前に計画を練ることは大変危険であると主張する。戦場では、こちらからは制御できない敵の意思や偶然、過ちといった不確定性に支配されるからである。
ドイツの軍規にこのように記されているらしい。
「戦争指導は一種の芸術であり、科学的根拠を元に創造性を自由に発揮できる活動にほかならない。」
戦略は常に現場と共にあるのは言うまでもない。だからと言って、事前準備がいらないと言っているわけではない。戦略にはある程度融通が必要であると言っているのである。戦争では、戦略的意思決定の方が、戦術的意思決定よりも、はるかに強い意志を要する。戦術ではその瞬間の柔軟性が重要で、戦略では比較的ゆっくりと時間が流れる。よって、戦略では、疑念や反対意見をめぐらせたり、他者の意見に耳を傾けるゆとりがある。過去の失敗をふと思い出して後悔する時間すらある。そして、そのような想像や推測から自信も揺らぐ。こうした根拠のない恐怖にとらわれ、行動すべき時期を逸してしまう。
現在においても、不確定性を持った社会での戦略が失敗したからといって、その責任者を責めることができるだろうか?もちろん分析による原因究明は必要である。どんな成功者でも、失敗経験があるはずである。失敗経験がないと発言する者は、もともと不確定性の中に身を置いていないか、あるいは、失敗を自覚できないでいるかである。責任を逃れるために何もしないでいる者は一番の大罪人である。

おいらは、戦略論を議論する時、いつも疑問に思うことがある。
何のための戦略か?戦略の上の次元にある目的は何か?ビジネスであれば売上増加やシェア拡大は戦略目標である。収益性や株価上昇が高次の目的とは到底思えない。いったい何のためにビジネスをやっているのだろうか?何のために企業が存在するのか?
本書を読んでも、その答えが得られるものではない。その答えは一般的に得られるものではない。その場に応じて考えるものなので書物などに期待などしない。もし、そんな書物があるとしたら布教本であるに違いない。
疑問を高めていくと、人間は何のために存在するのか?などと宇宙に放り込まれる。
戦略論の高次の目的とは、一般に言われるビジョンということになるのだろう。社会貢献など、それらしいことを掲げる組織をよく見かける。しかし、そのビジョンはビジネス戦略の延長上にないと意味がない。本書では、戦争は何のために行うのかという高次の政治目的がなければならないと語る。「戦争論」では戦争は政治活動の手段であると語られるからである。
ビジネスにおける戦略で最も重要なのは継続だろう。高次の目的がはっきりしないと継続性も難しい。何事も継続するためには高次の目的が存在しないと難しいのである。

本書を読み終わって、どうも中途半端である。「戦争論」を理解したければ、地道に原書を読むべきである。それには相当な勇気が必要である。今、「戦争論」が目の前であざ笑うがごとく構えている。クラウゼヴィッツが、お前のような酔っ払いが読むには100年早いぜ!と言わんばかりに。
畜生!アル中ハイマーには焼酎を舐めながら傍観するしかない。

2007-08-19

"ヤバい経済学[増補改訂版]" Steven D. Levitt & Stephen J. Dubner 著

頭痛に悩まされて2週目である。酒とたばこも断って精神衛生にも悪い。医者に処方してもらった薬も痛みは無くなるが薬が切れると痛みは倍化する。ますます酷くなるようだ。もう我慢できない。酒を飲む。久しぶりに満足感でぐっすりと眠る。今朝は妙に頭がすっきりだ。痛みは軽減した。酒は百薬の長とはよく言ったものだ。その分異常に肩が重い。誰かが乗っかっているようだ。いや、本当に誰かが乗っかっているに違いない。きっと綺麗なお姉さんだ。妙に気持ちいい疲労感だからである。つまり、頭痛の正体は綺麗なお姉さんを肩車していたのだ。
これから得られる教訓は何だろうか?現象からは本質を見抜くことが難しいということである。本書は、そうしたネタである。

「ヤバい経済学」はずっとマークしていた本である。いまいち踏み込めなかったのはタイトルがダサい。サブタイトルに「悪がき教授が世の裏側を探検する」とある。なんとなく陰謀めいておもしろそうでもある。そこそこ人気もあるようだ。そうこうしているうちに、ちょうど「増補改訂版」が発行された。宣伝文句に「おまけが100ページ以上追加」となっている。アル中ハイマーはバーゲンに弱い。ついショッピングカートをクリックしてしまうのである。

本書の第一印象は経済学の本ではない。様々な社会現象の相関関係と因果関係について分析している。その分野は、犯罪、教育、スポーツ、政治、ギャング、出会い系、子育て、犬のうんこまで飛び出す。著者自身が本書にはテーマがない、この研究を雑学とギリギリのところだと言っているぐらいである。最初アル中ハイマーは社会学だという印象を持っていた。ここで「経済」を我が家の辞書で調べてみると、意外と多くのことが書かれている。その中で目を引いたのが、「人間の生活に必要な物を生産・分配・消費する行為についての一切の社会的関係。」とある。社会的関係?んー。もうちょっと視野を広げる必要がありそうだ。
本書は、ここで扱う経済学の定義を説明している。
経済学はインセンティブに人々がどう反応するかを統計的に測る学問である。こうした手段を社会現象に応用してもいいだろうということである。そもそも経済学とは、決まった対象があるわけではなく方法論の集まりであるという。なるほど、個人の欲求と社会規範の衝突から生まれる行動パターンの分析であると捉えられる。アダム・スミスは、利己的な人間が自分の利害と社会の道徳とを区別できるのはなぜか?ということを問題意識していたらしい。
本書のフレーズに
「道徳が望む世のあり方についての学問だとすると、経済学は実際の世のあり方について学ぶ学問である。」
とある。やはり経済学の真髄がここにありそうだ。
アル中ハイマーにしてみれば、自然科学や数学は哲学で、社会学は心理学を束ねたもので、経済学だって一種の統計学だと思っているぐらいで、無理にボーダーラインを引くこともないだろう。
混ぜ合わせてシェイクすれば美味いカクテルができるかもしれない。どんな世界も混ぜ合わせる分量しだいで味はどうにでもなるのだ。ということで、アル中ハイマーは本書を名酒事典に分類するのである。

本書は、人間の行動には、経済的インセンティブ、社会的インセンティブ、道徳的インセンティブが働くという。経済学者は、相関関係を調べても、そこから因果関係までを分析しきれていないと批判している。確かに、人間の行動原理に、あまりにも経済的インセンティブを強調し過ぎるきらいは感じる。本書は、こうした表面的な分析から踏み込んで様々な社会現象から因果関係を暴こうする。

1. 犯罪の減少
中でも大きく取り上げているのは全米における犯罪者の大幅減少に対する考察である。いままで増加傾向にあった犯罪件数が1990年を境に大幅に減り始めた。アル中ハイマーは、好景気が社会不安を解消すると思っていた。本書も、一般的にはそう思うだろうと、いかにも見透かされたように語る。それも一理あるのだが、経済的な犯罪の減少という傾向は無く、どんな犯罪も減少傾向にあることと、その減少幅からして決定的な説明がつかないという。では、警察力の強化はどうか?これも十分効果はあるが、同じく減少幅からして説明不足である。そもそも、警察力を強化するということは、犯罪が増えている時なので、厳密な測定は難しい。刑の強化も、もちろん意味はあるだろう。ただ、死刑制度は、実質執行される確率が低いためあまり抑止力は働いていないという。また、人口の高齢化により犯罪率が減るというのもあるだろう。人間はまるくなるのである。「文明の衝突」の著者サミュエル・ハンチントンが同じようなことを言っていたのを思い出す。若年層人口が20%以上を占めると社会的に不安定になるといった話である。しかし、実際は若年層の絶対数が減ったのではなく、医療技術の進歩などで寿命が延びているのである。
では、その真相は何か?それは中絶の合法化である。親から望まれて生まれたのではない人間の犯罪率に着目している。1990年代は、法律の施行から、ちょうど生まれてくるはずだった人間がティーンエイジャーになる頃である。つまり、犯罪率の最も高い年代にさしかかる頃である。これは、ルーマニアの独裁者チャウシェスクが中絶禁止をした時の話と対比している。チャウシェスクは、国力アップのために人口を増やす政策を取った。そして、中絶を許可していれば、生まれてこなかったはずの子供達の反乱によって失脚することになる。アル中ハイマーは、この結論には妙に納得させられる。しかし、学者やメディアから道徳的な理由で思いっきり攻撃された様も語られる。それも想像はつくのである。

なんの本だったか忘れたが、他でも読んだ昔話も登場するのでメモっておこう。
「あるとき王様は、国中で疫病が一番よく起きる地方にはお医者さんも一番たくさんいると聞きました。王様がどうしたかって?すぐさま医者をみんな撃ち殺せとお触れを出しましたとさ。」

2. 選挙へ行く心理
投票には、時間や労力がかかるだけで生産的なものはない。国民の義務を果たしたという漠然とした感覚がなんとなくあるぐらいである。どこの国も民主主義が安定すると投票率が下がる傾向にあるようだ。その中でスイスの例はおもしろい。スイス人は投票が大好きらしい。それでも長い期間で見ると投票率が下がる傾向のようだ。そこで、郵送での投票という新しい方法を導入した。投票用紙が郵送されてくるので、それに書き込んで返送すればよい。投票所へ行く手間を無くせば投票率が上がるという考えであるが、投票率はおうおうにして下がっていった。最近ではインターネット投票という案もよく耳にする。インターネット投票にすると手間がかからず投票率が上がると主張する評論家も多い。おいらもインターネット投票の方がありがたい。しかし、スイスの例は投票コストが下がっても投票率には影響しないことを示唆している。投票する人は社会的インセンティブが働いているだけなのかもしれない。
一部の大学の経済学部では、経済学者は投票所にいるのを見られると恥ずかしいという説があるらしい。合理的な人間ならば、一票が選挙結果に与える影響を考えると無駄な行為であると判断しそうである。では社会的インセンティブへ誘導する手段はあるのだろうか?三十路も過ぎれば、だいたいが凝り固まった概念に支配されて考え方を変えるのは難しい。向上心でもあれば突然目覚めたりする可能性はある。概念が固まる前となると教育がものを言いそうだ。宗教色の強い集団は奇妙なインセンティブが働くのか?団結力も強い。そのおかげで自由意志を持った人々は余計に一票の無力感に襲われる。社会風潮で誘導することはできないだろうか?少なくとも、金バッチの選挙戦術とそれを扇動するステレオタイプでは逆効果であるのは間違いない。

3. 完璧な子育て
子育てでは親馬鹿のアルゴリズムを暴いてくれる。優秀な子供ができる相関関係とは、家に本がたくさんあるとか、初産が30歳以上だとか、経済的地位が高いとか、様々な条件を考察している。例えば、本がたくさんある家には優秀な子が多いが、親が毎日本を読んでやったり、美術館に連れて行ったりといった行為は無駄であるなどである。つまるところ親自身の教育や知識レベルが重要であって子育ての段階では手遅れであることが語られる。親がどんな人生を歩んできたかが問題であるというのが真相のようだ。ちなみに、アル中ハイマーの親が読書している姿を見かけたことはかつてない。英才教育に頼る人は、自分自身を誤魔化しているということかもしれない。むしろ親が自分自身を堂々とさらけ出して、ぐうたらであるならば反面教師にもなりうるかもしれない。何事も誤魔化しと卑怯が一番ひどいのである。優れた親と優れた環境が完璧な子育てにつながるとは限らないと思うのだが。また、遺伝子の影響もあるだろうということは容易に想像できる。産みの親と育ての親では、どちらの影響が強いのだろうか?もし遺伝子に支配されるとしたら、うちの家系を見ているだけでぐれるしかないではないか。ここでアル中ハイマーは科学的にある可能性を提起する。生物遺伝子の突然変異である。

本書の仮説は、専門家に思いっきり批判された様も語ってくれる。もちろん支持者も多い。著者は、現実の世界で人々がどんな行動をとるかについて筋の通った考え方を持つことを求めている。本書を読んで得られる効果は何だろう?お金が儲かったりするのだろうか?著者は多分ダメだろうと言っている。ただ、今までの通念を疑ってかかるようにはなるだろう。物事を見かけの現象から少し離れたところで分析できればありがたい。しかし、アル中ハイマーには無理である。それもこれもDNAのせいである。そして、甲高い声で叫ぶのだ。「こんな酔っ払いに誰がした。遺伝子の馬鹿やろう!」

2007-08-12

"アメリカ経済終わりの始まり" 松藤民輔 著

アマゾンを放浪していると、お薦め品の中に本書があった。タイトルからして経済界の陰謀めいた話を期待しつつ衝動買いするのである。その実体は、投資理論と資産運用論を語った経済学書であるが、アメリカ経済の悲観論や政治陰謀などリズミカルに読める部分も多くストレス解消によい。もしかしたら、ちょうどサブプライム問題とマッチしているかもしれない。ただし、日本経済の底力については信じたい面もあるが、やや評価し過ぎのように感じる。本題である投資理論の部分は、概念的には分かりやすく書いているが、実践となるとアル中ハイマーは途方に暮れるしかない。資産運用の考え方は参考にできそうだ。

冒頭から「種の起源」のダーウィンの言葉から始まる。
「生物史の中で勝ち残ったものは、頭のいい生物でもなければ、強い生物でもなかった。それは変化に順応する生物だった。」
個人でも企業でも国家であろうと、自己変革を忘れたものに未来はないと語られる。そして、いまやアメリカで残る世界産業はIT業界を除いて金融業だけであると続く。金融業は雇用に貢献もしなければ、資金はボーダーレスで世界を動き回る国籍がない業種である。国内経済がどうなろうと関係ない業種であると語られる。

1. 金の役割
本書は、いずれ金が世界の基軸通貨として役割を果たすと主張している。今更、金本位とはなんだ?本書のいまいちわからないところである。ただ、今後アメリカ市場の暴落とBRICsの破綻を予想している点は興味がわく。アメリカ市場が暴落すれば、その市場規模からして受け皿となりうるのが日本市場だという。しばらくは、アメリカ市場に追従するだろうが、数年で日本経済の底力が発揮されるという。確かにアメリカの市場規模からして簡単に受け皿になりうる市場は限られる。暴落すれば、短期的なドル暴騰となりうるだろうが、やがて下落に転じる。その結果、ドル暴落後の世界基軸通貨が金になるというのである。
ユーロじゃないのか?本書のように日本経済の底力を信じるならば、円じゃないのか?アメリカの市場規模で暴落すれば、どこの通貨も信用できない事態になっているかもしれない。それで貨幣価値が無くなるというのは一理ある。
本書は、もはや米国債は紙切れ同然であると述べている。日本政府は相変わらず買いつづけている。日銀はFRB同様会計監査を必要としないのはよく聞く話であるが、国債にしても時価でなく取得価格で計算してよいことになっているらしい。アメリカの戦費は米国債から賄っているのは周知のとおりである。日本が米国債を買うのを止めれば世界平和が訪れるかもしれない。

2. ゼロ金利政策の意味
日銀のゼロ金利政策は、円が世界の基軸通貨になったことを意味するという考察はおもしろい。NYダウの上昇、不動産価格の上昇、短期金利が上昇しても長期金利が低いままで推移、これ全て、日本の資金がアメリカに流出した結果である。つまり、日本のゼロ金利のおかげでアメリカ経済が崩壊しないで済んでいるという。アメリカ人の慢性的な消費体質は債務超過の傾向がある。これは日本人の貯蓄体質と対比してよく言われるが、もはや債務超過は国家財政にまでおよび、いつ金融恐慌が起こっても不思議ではない。
金利は信用度のモノサシであり、歴史的に見ても格付の高い国ほど金利は低い。金利が低くても資金調達ができるからである。市場税を無くし自由営業を許すとは、織田信長の楽市楽座であると語られる。

3. BRICs
中国の最大のリスクは共産党政府であろう。民主化が進めば、かつての日本の高度成長など凌駕できるかもしれないが、急激な方針転換は経済混乱を招く。資金の流れだけならば、物理法則に従い逆流することもあるだろう。しかし、技術の流出は悩みの種である。政府により簡単に接収されかねない。本書では、この点を一国の指導者が3000億円も蓄財する国家とはどんな国か?と語られる。この金額を聞いただけで、隠された政治腐敗、ビジネス腐敗が想像できるだろう。中国に限ったことではないが、大金持ちがいるということは、地べたに這いずり回るその他大勢がいるということだ。
ここで、LTCMについて少し触れているところに目が留まった。アル中ハイマーは興味を持ったことがある。ノーベル経済学賞2人を擁したドリームチームが破綻した話である。コンピュータがはじき出した破綻確率300万から800万分の1を信じて、ロシアへ投資した結果である。ちなみに、歴史的に世界で借金を踏み倒したのは、ロシアと中国の清だけだと述べている。へー!もっと多いかと思っていた。

4. アメリカの凋落
アメリカ凋落の原因は、90年代にものづくり精神が失われた結果であり、アメリカによる世界の一極集中はもう崩れており日本に移転し始めていると語っている。工学専攻の優秀な学生がメーカに就職するよりも、金融業界に流れる傾向がある。アル中ハイマーは、アメリカ凋落については否定はしないが、日本が受け皿になるとは疑問に思う。ものづくりの精神が失われつつあるのは、日本でも似たようなものである。人材派遣業の発達がそれである。堂々と人材派遣を看板にしている会社のみならず、エンジニア会社と称していても実体は人材派遣業というのはよく見かける。しかも、どういう基準で審査されているかわからないが、そこに出資している金融機関がある。アル中ハイマーが関わっている業界では、技術者を大量リストラしている企業も少なくない。しかし、人材不足という矛盾を抱える。これを補うために人材派遣業を利用する。現場は見かけの経費節減を余儀なく強いられる。中間管理職は大変である。技術蓄積も人材育成も難しい状況にあり、レベル、質ともに低下傾向にある。最終的にシステムとして仕上げる意欲が低下し、奇妙な分業体質ができてしまう。

5. 日本のエネルギー効率
天然資源をほとんど持たない日本は、原油価格の高騰は深刻であると主張する経済学者も少なくない。アル中ハイマーも素人ながらそのように思う。しかし、本書は、日本ほどエネルギー効率が優秀な国はないという。原油価格が200ドルになったとしても国家として生き残れるのは日本だけだという。天然資源を持たないから、エネルギー効率を上げようとする努力は伝統的になされてきたのかもしれない。あらゆる規制に日本企業は立ち向かってきた。これも政治に足を引っ張られたことにより、自然と鍛えられた底力なのかもしれない。エネルギー対策は、まともな国家戦略と噛み合えば恐ろしい底力を見せるかもしれない。しかし、そんなに楽観できるとは思えない。

6. 陰謀説
アメリカの戦略は、各地でいかに平和的に緊張感のあるまま保持したいかということだろう。そうすることでアメリカの相対価値が高める。テポドン発射も、日本にミサイル防衛システムを買わせるためである。アメリカは日本が独自の資源外交を展開した田中角栄をロッキード事件で失脚させたという話にも触れる。
9.11テロ事件では、アメリカ自作自演であるかも?と勘ぐる。ワールド・トレード・センターの52、53階には、米国債のメイン取引会社があったらしい。投資銀行のコンピュータシステムも吹っ飛んで米国債の残高と持高が一瞬にして消えた。デリバティブには米国債を使う。つまり、膨大なデリバティブ損失を隠蔽したのではないかという疑いである。9.11陰謀説については、10年ぐらい先に鋭い考察が発表されることだろう。

7. 日本人の投資行動
ここ数年、マスコミや証券業関係の宣伝は、日本人に積極的なリスクへの挑戦を呼びかけている。しかし、本書は、むしろリスクを取らず預貯金に邁進してきた日本人の投資行動を高く評価している。同感である。なんでも周りの動きに惑わされてしまう日本人の風習からしてリスク投資を続けていれば、とっくに破産していた家庭は多いだろう。日本の企業でさえも伝統的に高値を掴まされ続けているのである。
まったくその通りと思わされる例がアル中ハイマーの目の前にもある。
母親は預貯金が習慣である。貧乏の悲しい性である。これは団塊世代の前の世代の特質だろうか?いくつかの金融機関に資産を長期で眠らせていた。それも20年や40年の単位である。最近でこそ金利が低いので回収する方向であるが、元本からして複利による優位性をまざまざと実証している。逆に、支出する時は大胆である。食品などを買う時はバーゲンでないと手を出さないが一気に買い占める。消費行動も極めて計画的である。いつも馬鹿だと思っている母親だが、預入金利と貸出金利のバランスを無意識に実践しているのだ。まさか、右肩上がりの経済が破綻することを予測していたわけではないだろう。金利の有利な時期を有効活用しようと考えたとは到底思えない。物がない時代を生きたのだろうが、だからといって、この世代が節約主義ということにはならない。その対極にいるのがギャンブラー父である。せっかくの利息を父親はサラ金で喰い潰した。そのせいで母親の行動はいつも隠密である。この影響からか?おいらも金利の動きにはうるさい。車を買うにしてもローンなど絶対に組まない。ただ10年以上前、固定資産の購入には税制面の配慮が足らず失敗した。そういえば、昔、パソコンの購入にボーナス分割払いしている奴がいた。半年もしないうちに性能アップしたマシンが半額で売り出されていた。案外、投資活動の真髄とはこうしたものかもしれない。というのもアル中ハイマーは、ある光景と照らしあわしている。数々の金融商品の金利を天秤にかけ、これにより物理法則のように資金が流れ、一旦バブルが崩壊すると、途端に大バーゲンセールされた企業体に海外投資家が群がるような光景である。

最後に本書は資産運営の考え方にも触れている。
将来、金利が6%から8%に上昇するまでに、それなりの資産を蓄え管理できるよう準備しておきたいと促している。これはアル中ハイマーの考えと似ている。ただ、ターゲット金利は5%である。

2007-08-05

"新しい金融論" Joseph E. Stiglitz & Bruce Greenwald 著

今日は二日酔いで朝から気持ちが良い。財布の中身はすっからかん。何軒はしごしたかは記憶がない。ただクラブ活動が楽しかったことは、なんとなく覚えている。恋愛論を闘わせたような気がする。男と女の関係は信用の駆け引きということらしい。いや、金の切れ目が縁の切れ目である。
本書は、金の世界に信用をブレンドしたようなネタである。

金融論と言えば、金利や為替レート、支払準備率など貨幣量をめぐった議論が多い。ここ数年、経済学の書物を見ていると「信用」というキーワードを目にするようになった。経済の活性化とは流通量で決まる。その中で行われる取引は信用無しでは成り立たない。ド素人のアル中ハイマーにはごく自然のように思えるのだが、これが新しいパラダイムなのだそうだ。こうしていくつかの本を放浪しているうちに本書にたどり着いた。

本書を取り上げた理由は、信用の役割を取り入れた理論をネタに、著者の一人 J.E.スティグリッツが2001年にノーベル賞をとっていることである。つまり、この著者が言い出しっぺだと思ったからである。
アル中ハイマーにはノーベル賞の経済学部門というのは胡散臭いイメージがある。これもLTCMの影響だろう。その場の状況を一定の原理に無理やり当てはめるかのように、効用関数やら生産関数やらを持ち出して、いかにも立派そうに見えるからである。これでは、たかだが酔っ払いごときがノーベルさんに対して失礼である。本書によって少し頭をほぐしてくれることを期待するのである。

それにしても2001年とは歴史が浅い。停滞していた経済学がようやく進化し始めた時代なのだろうか?本書は、一般的なエコノミストの主張や経済政策に対して批判する立場をとっている。こうした態度は、アル中ハイマーのような天の邪鬼にはストレス解消におもしろく読めるのである。
四半世紀前にマクロ経済で訓練を受けたエコノミスト達は、信用という変数に注意を怠ってきたという。恐ろしいことに現在の経済界を牛耳っている世代である。今日でも、多くのマクロ経済学の教科書で「倒産」という用語が登場しないと指摘している。笑えると共に、ド素人でも勉強するにはいい時代に生きているかもしれない。

本書は、金融政策の効果について疑問を呈している。
そもそも金融政策とは、直接銀行に働きかけ経済全体への波及効果を期待するものである。財務省短期証券の金利や貸出制約の調整により起こるメカニズムである。本書は、そのような効果を全面否定するものではない。むしろ、従来の経済学が指摘する効果は、経済が正常な時は効果を生むと言っている。しかし、金融政策を必要とする場面は、経済危機や激しいインフレに直面している時である。
金融理論の伝統的考え方には、経済の誘導はひとえにマネーサプライの操作であり、マネーサプライと名目所得との間には単純な関係がある。つまり、マネーサプライを増減にGDPも比例するというものである。
アル中ハイマーも一般教養で、特定の金利である財務省短期証券金利や公定歩合の調整は金融政策として有効であると習ったものだ。
本書は、経済の異常時には、マネーサプライと信用との関係、あるいは財務省短期証券金利と貸出金利の関係は弱くなると指摘している。そして、貨幣量を調整するような金融政策の有効性は著しく低下することを警告している。本書を読んでいると、規制政策と規制緩和政策のバランスが必要に思えてくる。
多くのエコノミストは金融の量的緩和政策を強化することがデフレ脱却の有効政策であると主張する。酔っ払いは、マスコミが主張する「規制緩和」や「自由化」という言葉になんとなく踊らされてしまう。

アル中ハイマーは金融庁の存在に疑問を抱いている。
日銀があるのになぜ独立した金融庁という機関が存在するのだろう?マクロ経済を担うのが日銀だとすれば、金融機関を監視する役割が金融庁と認識している。しかし、本書は、マクロ経済に対する金融政策は、銀行業システムに与える影響とその振る舞を一緒に考慮しなければならないと主張している。
ということは、マクロ経済と銀行業の監視が独立した機関で管理されている日本のシステムはヤバイ?本書の指摘が鋭いと感じるのは、ノーベル賞の重みかもしれない。

ここで、アル中ハイマーは単純な疑問にもぶつかる。
なぜ銀行は破綻するのだろう?
世界中で、政府は経済の他のセクターにもまして金融機関を規制している。銀行システムの破綻は社会不安や経済の混乱を起こすからである。よって、必然的に政府の費用により銀行救済がなされる。本書は、こうした状況は、不適切な貸出慣行が根源であるという。まったく簡単な答である。世間は過度なリスク負担をもたらし、詐欺的行動へと発展もするだろう。最終的に国民を犠牲にした銀行による略奪となる。
では、なぜ銀行は過度に危険な貸出を行うのだろうか?
ハイテク業界のベンチャー系への出資額など信じられないことを時々見かける。はたして事業内容を明確に審査しているのだろうか?この疑問への回答も、本書はあっさりと片付ける。銀行が被る私的費用が、社会的費用よりも小さいというのが、その答えである。これは、税金で生きている官僚全てにあてはまることである。銀行は官僚なのか?銀行が破綻すると国が破綻するぞ!と脅迫しているようなものである。銀行の純資産が臨界水準を下回ると、銀行はリスク回避型からリスク愛好型に変貌するのだそうだ。自己資本比率規制は、リスク回避姿勢を保つために多少は役立つのだろうが、実際には、社会的リスクが私的リスクを上回るようなことを完全に防ぐことはできないという。このような市民をアル中にさせる経済システムを考えた連中はある意味天才である。

本書は過去の金融政策についても考察している。
特に、東アジア危機に対する考察はおもしろい。
1970年代から1980年代の東アジア各国は急激な経済成長を果たしたが1990年代に破綻する。これは、発展時には外国からの資金が洪水のように流入し、その反動で突然巨額の流出が起こった結果による経済失速である。これが金融危機へと向かう。
その時の米国財務省やIMF、また多くの外部アドバイザーの東アジアにおける助言には驚かされる。自己資本の乏しい銀行を速やかに閉鎖するように誘導し、インドネシアでは16の銀行閉鎖と、その後の銀行閉鎖の予定を公表し、更に預金者の保護もなされないと発表したという。言うまでもなく取付騒ぎが起こる。こうした助言をタイも忠実に受け入れた。一方、韓国とマレーシアは無視した。当然だろう!
IMFは半導体産業が抱える過剰設備などの資産を売却すべきであると主張したが、韓国はこれを無視し景気回復の原動力にしている。
日本についても少し触れている。
本書の著者達は、企業再生に公的資金を使うべきではないと論じたという。しかし、米国財務省の高官には日本政府に供与されるファンド(宮沢イニシアティブ)の相当部分を再生資金のファイナンスのために確保すべきだと強く主張する人たちがいた。皮肉にも、ごの議論が再生を遅らせることになった。その原因は、外部資金に期待して、債権者、特に外国からの債権者による対応の遅れを助長したという。高官たちは、なぜ外国の貸し手による救済策が広範に実行されないかの理由を考えられないと断言している。ただ、アル中ハイマーには高官らを誘導している世界的な陰謀説が頭をよぎる。ただの推理小説の読み過ぎである。
ここで、おもろい昔の格言をメモっておこう。
「銀行家とは、資金を必要としない人たちに貸したがる連中のことを言う。」
どこかの中央官庁主導で行われる公共事業や第三セクタの類である。ちなみに某元市長は引退して次の選挙に出馬せず中央官庁へ行ってしまった。これを「天上り」というのだろうか?

本書は最後に「本書の論じてきた理論は完璧とは程遠い。」と謙遜して締めくくる。新しいシステムを生み出すよりも、維持し続けようとするシステムを改革する方がはるかに難しい。官僚機構の改革が進まないのは、既存のシステムで満足できる立場の人々がいるからである。経済学理論が停滞するのは従来の経済学を否定されては困る人々がいるからであろう。本書は、従来理論に刺激を与えたという意味で価値あるものなのだろう。
いつもシングルモルトを飲みつけていても、たまにはブレンデットを飲みたくなる。
それでも全く違和感がなく気持ちええ。これが熟成された世界というものである。