2019-08-25

"インテリジェンス 機密から政策へ" Mark M. Lowenthal 著

原題 "Intelligence: From Secrets to Policy"... こいつは、インテリジェンスの標準的な教科書だそうな。しかし、応用力の試される世界、マニュアル人間ではとても生きては行けまい。「インテリジェンス」という用語が国家レベルで論じられ、政治と結びついて発展してきたことは、本書が如実に物語っている。
とはいえ、その思考原理となると、政治的な側面よりマネジメントの側面が強く、社会科学や行動経済学、ひいては心理学に踏み込まずにはいられない。この領域では、経済学あたりで言われる「合理的行動」などといったモデルは、まったく当てにできない。無論ハウツー本ではない。読者を優秀な分析官に育てるものでもなければ、スパイに仕立てるものでもない。国家安全保障政策の策定において、インテリジェンスが果たす役割、その長所と弱点についての理解を手助けすること、そして、学生諸君や素人にも、そうした視点を持ってもらうことを目的としている。
著者マーク・M・ローエンタールは、CIA の分析部門の長を勤めた経歴を持ち、引退後、コロンビア大学やジョンズ・ホプキンス大学で教鞭を執ったという。この分野が講義として成り立つのも、アメリカの大学教育の奥行きを感じずにはいられない。ちなみに、翻訳者茂田宏氏は、こう書いている。
「人間の行動を説明する上で、観念論と唯物論の二つがあるが、私は人を動かすものは情報であるとの情報論というものがあってもいいのではないかとさえ考えている。」

本書の貫く姿勢に、こう告げられる。
「インテリジェンスは政策決定者を支援することを唯一の目的とする。」
インテリジェンスは、あくまでも政策を目的とし、政策に従属し、情報の収集や分析、諜報や防諜、秘密工作といった行為もまた政策目標と結びついてはじめて機能するというわけである。結びついていなければ、税金の浪費ってか。政策決定者の存在そのものが、社会の浪費とならぬことを願うばかり。
インテリジェンス機関には、少なくとも四つの存在理由があるという。戦略的奇襲攻撃を回避すること、専門的知見を長期に渡り提供すること、政策プロセスを支援すること、および情報、ニーズ、方法についての機密を維持すること。
かつて、「友好的なインテリジェンス機関などというものはない。友好国のインテリジェンス機関があるのみ...」と発言したのは誰であったか。インテリジェンス機関は、通常の政治機関とは明らかに違う性格を持っている。それは、機密性であり、民主主義と相容れないところ。スパイ活動、盗聴、秘密工作といった行為は、理想の国家像からはかけ離れており、暗殺までも正当化されかねない。表向き政治家たちは、開かれた政治というものをスローガンに掲げ、「秘密工作」といった用語を嫌って「特別政治活動」などと呼ぶ。
しかし、理想の人間像を掲げるならば、警察は不要となろう。人間の本性には悪魔性が潜む。個人が自己の悪魔性を抑制しても、集団化すると抑えきれない。おまけに、人間は寂しがり屋ときた。しかも、集団思考に操られてもなお自分で思考しているつもりでいる。これに対抗して、警察機能を強化したとしても、拡大解釈のうちに裁判機能まで行使してしまう。そして、国家にも抑止力が必要という議論が成り立つ。
もちろん、インテリジェンス活動も合法的であることが前提とされる。人間ってやつは、現実を見ず、理想郷ばかり追いかけていると、却って卑しくなるものらしい。人間社会に、万能な装置なんぞ存在しない。インテリジェンスとは、悪魔との和解... という見方もできそうか。もちろん行き過ぎた事例も多く見かけるが、民主主義の砦を影で支えてきたのは確かであろう...
「秘密工作には、概念上も実際上も、多くの論点がある。最も基本的なものは、そのような政策オプションの正統性であるが、この種の多くの疑問と同様、正しい解はない。主要な意見は、二つに分かれる。理想主義者と実用主義者である。理想主義者は、他の国家の内政への国家の秘密裏の干渉は、受け入れられる国際行動規範に違反すると主張する。第三のオプションという考え方自体が正統ではないというものである。実用主義者は理想主義者の議論を受け入れつつも、自国の利益のために、時として秘密工作が必要であり正統である場合があると主張する。数世紀にわたる歴史的な慣行を見ると、実用主義者に軍配が上がる。理想主義者は、歴史的記録は秘密の干渉を正統化するものではないと応じるだろう。」

1. 真理は人間を解放するか...
CIA本部の旧入口に入ると、左手の大理石の壁にこう刻まれるという。

「そして、あなたがたは真理を知るであろう。そして真理はあなたがたを解放するだろう。」
... ヨハネによる福音書第8章第32節

結構な言葉だ。しかし、実際に行われていることへの誇張で、誤解を招く元となる。政治は、正直者には向くまい。純粋な者には向くまい。ユートピアを夢想する者には向くまい。それは、皮肉に満ちた世界。それは、人間の本性を相手取る世界。凡庸な酔いどれには、知らぬが仏!という事柄があまりに多すぎる。
「インテリジェンスの単純さ...
映画『さよならゲーム』では、マネージャーは不運な選手たちに、彼らがプレイするべきゲームの単純さを説明しようとする。ボールを投げる!ボールを打つ!ボールを受ける!インテリジェンスにも似たような見かけ上の単純さがある。質問をする!情報を集める!質問に答える!両方のケースにおいて、細部に悪魔が多数潜んでいる。」

2. シギントとイミントの違い...
インテリジェンス関連の書に触れると、ヒューミントについては人的インテリジェンスとしての位置づけが分かるものの、シギントとイミントの違いがうまく飲み込めない。信号インテリジェンスと画像インテリジェンスの違いが。合わせてテキント、すなわち技術インテリジェンスとされるが、双方ともテクノロジーに支えられており、実際の区別は微妙であろう。そこで本書は、ちと皮肉まじりな指標を提示してくれる。
「シギント対イミント...
ある国家安全保障庁長官が画像インテリジェンス(イミント)と信号インテリジェンス(シギント)との違いを指摘したことがある。曰く、『イミントは何が起こったかを示すが、シギントは今後何が起こるかを示す』。その表現は誇大であり皮肉まじりではあるが、この発言は二つの収集方法の重要な違いを示している。」

3. インテリジェンスのユーモア?
分析官たちは、ちょいと暇な時に風変わりな収集方法について議論するという。最も有名なのがピツィント(PIZZINT)ってやつ。すなわち、ピザ・インテリジェンスである。ワシントン滞在の敵国の政府関係者が、CIA、国防省、ホワイトハウスに夜遅く向かうピザの配達トラックの数から、危機発生を探知するというもの。他にも、こんなものがあるそうな...

  • ラヴィント(LAVINT) : トイレ(lavatory)で聞かれるような情報インテリジェンス
  • ルーミント(RUMINT) : 噂(rumor)インテリジェンス
  • レヴィント(REVINT) : お告げ(revelation)インテリジェンス
  • ディヴィント(DIVINT) : 神から授かった(divine)インテリジェンス

そういえば、戦国武将の情報戦でも似たようなものがある。川中島の戦いで、上杉軍は炊事の煙量で武田軍の動きを察知したと言われる。いつもより煙の量が多いことで。
本書は、ユーモアとして紹介されるが、ユーモアでは片付けられないものを感じる。競争相手の分析では、高官の人間性までも分析され、異性関係やペットまでも、その対象となる。情報戦が高度化すればするほど、何がヒントになるか分からない...

4. 言語的な余談、oversight...
oversight には、二つの定義があるという。一つは、監督、注意深い配慮といった意味で。二つは、見過ごし、見落とし、無考慮といった意味で。インテリジェンスの監視では、議会や行政府は前者を実行し、後者を避けようとする。
一つの言葉でも、二つの異なる解釈が成り立つことはよくある。しかも、真逆な。情報がどんなに優れ、どんなに客観性が担保されようとも、分析・解釈の段階では主観性に満ちている。そして、分析結果が真逆となることもしばしば。人間の思考が介在するということは、そういうことだ。
インテリジェンスは、有用でありながら危険な側面が共存する。それゆえに監督責任がよく問われる。旧ソ連や中国では、国内情報と対外情報が一つの情報機関によって担われ、それが秘密警察的な機能を持つ事例が紹介される。米英などの民主主義国家では、こうしたことを排除するために、国内情報と対外情報を峻別する。
また、民主主義国家では、インテリジェンスの監督責任は行政府と立法府が共同で担う傾向にある。米国の場合、立法府が広範に監督権限を持つ点で、やや特異なようである。産業界などのリーダーたちが何かと公聴会に引き出されるのを目にするが、これも正義を崇拝する慣習からくるのだろうか。いつも説明責任を背負わされているリーダたちの給料がべらぼうに高いのも、その責務の裏付けであろうか。ただし、正義の暴走は、悪魔よりもタチが悪い...

2019-08-18

"インテリジェンスの歴史 水晶玉を覗こうとする者たち" 北岡元 著

なにゆえ歴史を振り返るのか。それは未来への布石。いや、過去をほじくり返して、ぼやいているだけか。過去から学ぶには、現在との関連性を見い出さなければ...
人間ってやつは、時間の連続性の中に身を置かないと、心が落ち着かないと見える。特に、予測不能な事態に直面すれば。そして、昔は良かった... などと老人病を発病させるのである。
古代ローマの歴史家クルティウス・ルフスは、「歴史は繰り返す...」との言葉を残した。カール・マルクスは、これを若干着色して「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として...」とした。歴史ならぬ言葉は繰り返される。戒めの言葉として。いや、皮肉の言葉として...
レオポルト・フォン・ランケは、「人類のもっとも幸福な時代は、歴史の本では空白のページである...」との言葉を残した。沈黙の時代こそが最も幸福な時代だとすれば、人類にとって絶望的である。そして今、記憶媒体の大容量化が進むばかりか、仮想化に邁進し、ますます騒がしい世となった。情報は、どこから飛んでくるかまったく予測がつかない。銃弾のごとく...
「予測する者は占い師ではない。彼らは教育者である。予測する者は将来を予言しようとするのではなく、代替シナリオを示すことにより高まる不確実性に対処すべきである。予測が役に立つためには、最もありそうな将来への経路の性質と可能性を述べるだけでなく、仮にその経路からはずれたらどうなるかを調査し、そのような領域に踏み込んだことを示す看板を識別しなければならない。予測とは分かっているものを要約し、それ以外の不確実なものを体系化する手段である。」

予測とは、知への予習。復習も大切だが、事前準備がより肝要である。頭のいい奴と仕事をする時は、特にそうだ。会議の場で情報を得るのでは遅い。事前に情報を検討していないと議論すらできない。読書するにしても、心の準備がなければ、それを受け入れる度量がなければ、目の前の幸せにも気づけない。
不確実な状況下ともなれば、心の平穏を保つことも難しくなり、情報や知識が不足しては苛立ちが隠せず、つい先に攻撃を仕掛けてしまう。クラウゼヴィッツは、「人間の恐怖心が、情報の虚言や虚偽の助長に力を貸す。」と言ったという。
そこで、あらゆる戦略において防御の兵法が役に立つ。孫子の兵法は、戦わずして勝つ!を信念とする。武士道の奥義は、相手に剣を抜かせないことにある。隙をおおっぴらにしながら、実は隙を見せない姿勢。それは、あらゆる事態に対して事前に備える姿勢である。先手必勝とは、先に攻撃を仕掛けるのではなく、先に備えるという意味で必勝となる。そして、この酔いどれ天の邪鬼ときたら、インテリジェンスとは、知の予習、ひいては人生の予習と解し、水晶玉と睨めっこするのであった。相手の意図ばかりか自我までも覗こうと..

「わしが教えようとしても、ことが現実となって現れないうちは、お前は、自分に認識できないことを何一つ習う気がしないのだ。」
... ワーグナー「ヴァルキューレ」より。神々の長ヴォータンが妻フリッカを諭そうとして

1. インテリジェンスの歴史紀行へ...
本書ではまず、かつて神の御手に委ねられた将来像の予測を、古代中国の思想家が人間の手に握らせるのを見る。古代ギリシアでは、巫女が神がかって未来の姿を告げていたが、それを人間の仕業としたのが、孫子であったとさ。
次に、情報伝達の時間差が情報に優先順位を与えていた時代から、技術革新によって時間差が縮小され、リアルタイムな活用範囲が拡がっていく様を見る。ここでは、時間差の影響の小さいものをベーシック・インフォメーションと呼び、時間差の影響の大きいものをカレント・インフォメーションと呼んで区別している。前者は、地理、人口統計、産業力といったもので、後者は、政策、戦略、作戦といったもの。ころころ変わる情報ほどリアルタイム性が要求されるのは、現在とて同じ。情報伝達の遅い時代にはベーシック・インフォメーションしか当てにできなかったが、リアルタイム性の確保された時代になると、カレント・インフォメーションの利用価値が高まり、ベイズ原理やデルファイ法も登場する。時間差ゼロは、いわばカレント・インフォメーションの理想郷というわけだ。
また、データの関連性と時間的変化を相手取りながら情報を組み立てていくプロセスは、ソフトウェア開発の現場を見る思い。時間構造の階層化にデータ構造を重ねていく様は、まさに抽象化のプロセス。
ついでに、相手の意図を探るために、こっそりと邸宅に侵入して信書を覗き見するような行為は、通信傍受や暗号解読といった形へ。相手の行動パターンを知る上で、人間性までも観察し、飼っているペットや趣味にまで及ぶ。敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず...というのは本当らしい。
さらに、戦争の変質と情報量の増大を背景に、インテリジェンス業務が組織化、官僚化していく様を見る。戦争の変質とは、かつて国王や宮廷のものだった戦争から、国民と一体化した総力戦への移行である。
こうして、「インテリジェンス」という用語が、国家安全保障の概念と深く結びついてきた経緯を物語ってくれる。軍から移植されてきたインテリジェンスというものを...
しかしながら、インテリジェンスの歴史は、失敗の歴史でもある。フリードリヒ大王は、「敗北はやむを得ないが、断じて奇襲されてはならない。」と言ったとか。ナポレオンは、「指導者はうち破られる権利を有するが、驚かされる権利は決して有しない。」と言ったとか。インテリジェンス研究家マーク・ローウェンソールは、「米国のインテリジェンス・コミュニティーの形成を促したのは、冷戦ではなく、真珠湾である。」と言ったとか。
いまや、技術の進歩によってあらゆる情報が入手可能となり、インテリジェンスの質は向上し、あらゆる方面の頭脳が結集される中で防衛組織が整備される。それでも、同時多発テロは起こった。大統領やその補佐官たちが、その危険性を知っていたにもかかわらず。
本書は、インテリジェンス業務の「途方もなさ」というものをテーマに掲げている。知的好奇心を掻き立てられるミステリーへのいざない、とでも言おうか。もはや、社会科学、行動経済学、心理学の領域。これはもう、情報の不確実性というよりは、人間そのものの不確実性と言うべきであろう...

「サプライズは、敵が見えないまま起こるのではない。敵が見えているにもかかわらず、起こるのである。」
... 1994年、ジェフリー・オリーリー米国空軍少佐の言葉より

2. 官僚制のメリット
混沌とした時代には柔軟性が求められ、官僚化の弊害がよく指摘される。おいらも、アレルギー反応を示す言葉だ。官僚化への警鐘は、CIA にも向けられる。より古くに確立されたインテリジェンス組織と張り合う、もう一つのインテリジェンス組織に成り下がる、と...
しかしながら、官僚制はすべて駄目!潰してしまえばうまくいく!といった類いのものではない。米国フーヴァー研究所のインテリジェンス研究員ブルース・バーコウィッツは、こう指摘しているという。
「伝統的なインテリジェンス組織は、実は古典的な官僚組織の変形にすぎない。官僚制は三つの明確な特徴を有している。すなわち分業、階層性に基づく構造と指揮命令系統および作業手順の標準化である。これは多くの組織において、規則の中に明文化されている。官僚制には毀誉褒貶があるが(中略)それは必ずしも悪いものではない。実際官僚制は、人類のマネジメントの歴史上で最も偉大な発明かもしれないのだ。それに先立つ組織に比べれば、官僚制はより効率的で、説明責任も果たしやすい。また官僚制は専門化することができ、かつコミュニケーションと統制のラインが明確になっている。」
冷戦時代、官僚的なインテリジェンス組織はソ連の脅威を監視する上で充分に機能したという。ソ連自体が強固な官僚制に立脚していたからである。だが、冷戦終結後に脅威が多様化し、拡散した時代には不向き。官僚的組織は、他部署と情報交換をする機会を管理し、制限してしまう。与えられた業務に集中しなければ批判を受け、他人の縄張りに目を向ければさらに批判を受ける。優秀な官僚ほど命令の上下関係は絶対的で、正式に与えられた命令の範囲を越えたがらないらしい。我が国では、忖度という言葉が飛び交っているようだけど...
一方、官僚制を完全に破壊してしまうと命令系統が機能しなくなり、インテリジェンス組織そのものが成り立たなくなるという。大量の情報を秩序と専門性をもって分析し、インテリジェンスを機能させるためには最低限の官僚制は必要というのである。そこで、「官僚制を弱める」とうい議論になる。
さらに、文化論に及ぶと、なんとなく馴染みのある光景が見えてくる。インテリジェンスの失敗は、システム構造にあるのではなく、もっと根深い文化的なところにあるというわけだが、企業でも組織図などの構造だけをいじるようなことをよく見かける。名刺の肩書がころころ変わったり...
ところで、官僚という言葉を忌み嫌うおいらでも、日常を振り返ってみると、やはり官僚的なところが多分にある。日々のルーチンワークの中に。当たり前のように義務としている仕事は、本当に義務と呼べるほどのものなのか?と自問してみると、懐疑的にならざるをえない。それでも、惰性的にやってしまうのが習慣ってやつだ。常に習慣を見直そうと心懸けているものの、いや、そのつもりでいるものの、結局は先延ばしで、やっぱりやってしまう。行動パターンが安定しているというのは平静を保つ上でも重要な要素となるが、あまりワンパターン化すると、今度は退屈病を患ってしまう。そこで、良い習慣を!という議論になるのだけど...

3. 相手の意図は重視されるべきか...
もちろん重視されるべきであろう。分かればの話だが。相手とは敵のことだが、そもそも相手の意図は重要か?という議論がある。意図を重視する側は、相手の意図が分からなければ、実際にどれほど脅威なのか分からないと主張する。意図のみが真の脅威を測ることを可能にすると。意図を軽視する側は、相手にある程度の敵意があり、かつ軍事力の情報があれば十分と主張する。最悪のシナリオを想定していればいいと。
ただ、この議論には大前提がある。例えば、冷戦時代、米国はソ連の軍事力をほぼ把握していた。そして、多少なりとも敵意があったことも事実。相手国の情報が正確に把握できていなければ、感情論に訴えるしかない。そして、悲劇を増大させた歴史をわんさと見てきた。
いくら人間の意図を知るのに限界があるとはいえ、相手の脅威は意図と能力によって構成されるであろう。国王の一言で戦争がおっぱじめらる時代は、国王の意図を知ればいい。それでも、人の意図を知ることの難しさがつきまとう。人の意志を相手取るということは、気まぐれを相手取るようなもの。しかも現在は、政治指導者一人の意図で何かが変わるわけでもない。どうせ分からないのであれば、最悪のシナリオを想定する方が現実的かもしれない。そして、エージェントを送って、相手をこちらの意図に誘導する方が手っ取り早い、という考えも成り立つ。世論ぐるみで誘導すれば。ちなみに、CIA の予測はよく当たるらしい...

4. 参謀制度とナポレオン
インテリジェンス組織の起源は、参謀制度にあるようである。参謀制度といえば、プロイセンのものが有名である。だが、その起源を遡るとプロイセンとフランスの制度が混じり合っているという。
まず、フリードリヒ大王の時代に組織化の傾向が見られる。大王が視野に入れたのは、兵站と作戦の両方であったが、組織化という意味では兵站の方が中心だったようである。作戦面では、天性の戦略家ゆえに組織なんて不要ってか。
その後、ナポレオンが本格的な参謀制度を導入し、ナポレオンに敗北したプロイセンが発展させ、普仏戦争でプロイセンが勝利すると、今度はフランスが模倣するという流れ。
一方、英国で本格的な組織化のきっかけになったのは、ボーア戦争だという。ボーア戦争は、地理を熟知する現地人を相手にゲリラ戦の様相を呈し、インテリジェンス上では大失態を演じてしまう。戦争省軍事作戦局の防諜を担当する第五課(MO5)は、世界屈指の MI5 へ。Operation から Intelligence への移行か。
総力戦に突入した第一次大戦では、防諜から諜報をしかける動きへと発展していく。米国は、プロイセンを模倣したフランスの体制を、第一次世界大戦中に模倣したという。
ところで、ナポレオンの参謀本部は興味深いものがある。彼の軍事的成功は、ひとえに天才的才能というイメージがある。戦略や謀略の面では、シュテファン・ツヴァイクの描いた警務大臣ジョゼフ・フーシェの影がつきまとい、秘密警察という組織も、彼に発しているような印象さえある。
しかし、参謀本部を明確に組織し、情報を組織的に収集、分析し、インテリジェンスを機能させていたのは、おそらくナポレオンが初めてではなかろうかというのである。
まず、ナポレオンにして「スパイの皇帝」と呼ばしめたカール・シュルマイスターという人物を紹介してくれる。彼は、フランス語、ドイツ語、ハンガリー語に堪能で、変装にも長け、彼の組織はプロイセンやロシアにスパイを送り込んだという。ウルムの戦いで、オーストリア軍のマック将軍を不運に陥れたと目される人物である。
また、ルイ・ベルティエ元帥の参謀部はあまり知られてない。ただし、この参謀部がどの程度のものであったのかは議論が分かれるようである。例えば、軍事史家ゲルリッツは、ナポレオンは自分で作戦計画を起草したので、ペルティエ元帥は命令の文書化と伝達を行う皇帝付き副官団長にすぎなかったという厳しい評価を下しているとか。歴史家ダグラス・ポーチは、当時の水準では実に精巧なシステムで、ナポレオンの三つの総司令部の一つで、私的な軍事キャビネットを備え、用兵、人事、インテリジェンスの三部門に分かれていたと評しているとか。
いずれにせよ、ナポレオンの先見性に注目したい。兵站と作戦の両面のインテリジェンスを、戦略と戦術の両レベルで組織していたというのだから。ここで、ナポレオンの金言が一段と輝く。「交戦し、しかる後はひたすら待ち、観察せよ」と...
しかし、これだけ分析を重視したにもかかわらず、ロシア遠征まで手を広げ、強行し、没落の一途を辿った。どんなに冷静沈着な情報と分析をともなったところで、野望には勝てないと見える。インテリジェンスの世界は、やはりミステリー!いや、人間そのものがミステリーなのやもしれん...

2019-08-11

"インテリジェンス入門 利益を実現する知識の創造" 北岡元 著

インテリジェンス... この用語は、国家戦略と結びついて広まってきた経緯がある。情報活動というよりは諜報活動との結びつきが強く、きわめて政治色の強いイメージ。つい、盗聴や暗殺といった物騒なものを想像してしまう。しかしながら、ここには血沸き肉躍るスパイのエピソードなんぞ、とんと見当たらない。実は、そういうものを期待して本書を手に取ったのだけど...
だからといって期待外れに程遠く、目から鱗が落ちる思い。我が家の辞書を引くと、「知性、知能、理解力...」とある。確かに「諜報」という意味も含まれるが、それではあまりに視野が狭い。本書は、「判断や行動に直結する知識」と定義している。もっと言えば、その知識から創造しうるもの、といったところか。
人間の行動パターンには、自分の利益を守り、それを増進する、という動機がつきまとう。利益とは、なにも金銭欲や権力欲に発するとは限るまい。そういうものが、政治との結びつきが強いのは確かだけど。
ここでは、まず「自らの利益を自覚する」を根底の動機に据える。言い換えれば、自己を観察すること、自分自身をしっかりと知ること。インテリジェンスは、強い者よりも弱い者にとって強みとなりそうである。劣っていると自覚するからこそ、考え、工夫する。目先の儲けよりも、潜在的に得られる何かがあるかもしれない、と。目先の勝ち負けよりも、将来的に得られる大きなものがあるかもしれない、と。
まだ気づいていない利益、そういうものを見抜く目を持ちたいものである。情報とは、現実を写したもの。まずは観ること。そして、自己啓発、自己実現、自己投資の側面から読んでみる。なるほど、インテリジェンスとは、人生戦略と深く結びつく用語であったか...

1. 要求ありき...
まず、インテリジェンスを必要とし、利用する側に、カスタマ(顧客)とリクワイアメント(要求)の存在がある。一方、その要求に答えて情報を収集し、加工、統合、分析、評価、解釈のプロセスを経て、インテリジェンスを生産し、配布する側がある。これを「情報サイド」と呼んでいる。
要求ってやつは、状況に応じて刻々と変化するもので、その都度、両者の調整が必要となる。技術屋の世界でも、要求仕様が変化しなかったケースを経験したことがない。依頼元自身が要求を理解していないケースも珍しくなく、調整しているうちに相互理解を深めていくといったプロセスを踏む。そこで、プロトタイプといった方法が有効であるが、インテリジェンスの現場でも同じような形で試行錯誤を続けるようである。こうしたプロセスを「インテリジェンス・サイクル」と呼んでいる。
個人で完結するなら、カスタマと情報サイドの双方において一人二役を演じることになる。国家機関でも、企業でも、同じ組織内で構成すれば、一人二役と言えなくもないが、たいていは部署が違う。人員不足で一人二役を演じる部署もあろうけど...
もちろん、こうした思考構図は真新しいものではないし、ましてや政治の専有物でもない。ただ具体事例となると、国家安全保障や企業戦略の側面から解説され、CIA や MI5 といった組織を見かける。それも、著者が外交官という経歴の持ち主ということもあろうが、こうした構図を体系的に利用してきた最古の現場となると、やはり国家防衛の場ということになろうか。なぁーに、問題はない。国家防衛の原理は、自己防衛の原理にも応用できるし...
ちなみに、政府情報機関におけるインテリジェンスの意識は、その国の文化や歴史とも深く関係するようである。第二次大戦以前では、アメリカが戦時にのみ重要視したのに対して、イギリスは平時でも重要視してきた点で、その深みと徹底さが伺える。そして日本はというと... 伝統的に情報に疎いという噂は、どうやら嘘ではなさそうだ。
さて、思考の原理には、自問の原理が働く。疑問を持てなければ、思考を働かせることも叶わないし、要求も見いだせない。要求が見いだせなければ、工夫も見いだせない。そして、疑問のレベルが問われるのである。技術とは、こうした工夫の連続状態を言うのであろう。そして、インテリジェンスもまた、ある種の思考技術だと解している。有機体のごとくうごめくものだと...

2. 継続ありき...
本書は、伝統的な三分類法を紹介してくれる。ヒュミント(HUMINT: Human intelligence, 人的情報)、シギント(SIGINT: Signals intelligence, 信号情報)、イミント(IMINT: Imagery intelligence, 画像情報)の三つ。シギントとイミントが技術的手段なので、合わせてテキント(TECHINT:Technical intelligence)とも呼ばれる。
今日、情報の収集方法では、人を介したり、コンピューティングやネットワークを介したりと情報源も多様化し、直接的であったり間接的であったりと階層化も進み、複雑きわまりない融合物として捉える必要がある。
また、平面的に図式化した CIA の古典モデルを紹介してくれる。基本的なステップは、リクワイアメントの伝達、計画、指示、インフォメーションの収集、加工、統合、分析、評価、解釈、そしてインテリジェンスの生産、配布といった流れ。だが現実は、単純な平面図式では表現しきれない。
そこで本書は、立体的で螺旋的なモデルを提示してくれる。cia.gov あたりで見かけたような。ステップ毎に生じる変化に応じて、伝達1, 収集1, 配布1, 伝達2, 収集2, 配布2, 伝達3, ... てな具合に。こまめに生産、配布するとなると、まるでソフトウェアのアップデート。インテリジェンスは、継続的なプロセスだという。本書は、"CI(Competitive Intelligence)" というあまり馴染みのない用語を紹介してくれる。
「CI とは、SCIP(Society of Competitive Intelligence Professionals)によって、『それに基づいて、企業が行動や判断できるようになる程度にまで分析されたインフォメーション』と定義されているが、重要なのは、米国の政府情報組織が過去に培ってきたインテリジェンス関連の手法を企業に適用している点である。」
それは、Xerox, IBM, Motorolra などの大企業ばかりでなく、中小企業にも浸透しているという。マーケティングリサーチにおいて、CI 導入前は、市場状況をある時間で区切ってスナップショットしていたらしいが、導入後は、リアルタイムにアップデートしていく連続的な解析プロセスになったとか。インテリジェンス・サイクルもまた一回転で終わるのではなく、継続的な回転が求められるというわけである。
ただ、こうした思考プロセスは、どんな戦略論にもあてはまるだろう。孫子の兵法でおしまい!というわけにはいかない。クラウゼヴィッツ論でおしまい!というわけにはいかない。どんな優れた理論でも再検証を繰り返し、常に違った視点を養わなければ。やはり知識ってやつは、日常の連続体を言うのであろう。そりゃ、学生時代にいくら勉強しても、社会人になって勉強しなければ、すぐに馬鹿になる。知識を得たいという欲望は、自己の早期警戒機能を磨こうとする意欲... という見方もできよう。
賢い人間と仕事をしていると、やはり疲れる。おいらのような能力のない人間が対等に付き合おうと思えば、知識の予習は絶対に欠かせない。そして、人生観のアップデート呪縛は、うまく習慣づけるとワクワク気分にさせてくれる。人間ってやつは、死ぬ瞬間までアップデートを続けるしかなさそうだ...

3. 組織ありき?... いや、弊害?
インテリジェンス・サイクルは、必然的に柔軟性を備えることになり、当然ながら「常識」なんて言葉は忌み嫌われる。とはいえ、インテリジェンスを謳った組織であっても、やはり官僚化、硬直化の波を避けるのは難しい。どこの国でも政府絡みの組織では、カスタマが権威主義者ということがよくあり、情報サイドの方も高度な教育を受けているだけにプライドが高い傾向にある。
本書は、「ストーブパイプス」という用語を紹介してくれる。ストーブの煙突の複数形で、それぞれの煙突の間で相互連絡がないという意味。事例では、ヒュミントを担当する CIA、シギントを担当する NSA(国家安全保障局)、イミントを担当するNGA(国家地球空間情報局)の間で、連絡が悪くなりがちな状況を挙げている。ちなみに、おいらの好きな海外ドラマ「NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班」では、CIA との縄張り争いがすこぶる激しく、おもろい。
また、「最小公分母(ローウェスト・コモン・デノミネータ)」という用語を紹介してくれる。数学では、最小公倍数という用語を使うが、分母の方に重きを置いている点に注目したい。分母の最小公倍数とでも言おうか。プロジェクトマネージャを経験すれば、チームの活力に共通意識が重要であることを知っているだろう。この意識の知的レベルが低下すると、チームそのものの存続が危ぶまれる。志が高く優秀な人材ほど逃げていくからだ。インテリジェンスの世界でも、同じことが起こるようである。問題解決に向かう意識が全員一致であれば、それに越したことはないが、やはり個人差が生じる。底辺を見捨てるわけにはいかず、意識教育が必要となる。コンセンサスと知的レベルの高さは両立できるか?この問題はかなり手強い!
「カスタマーを取り巻く現実を分析すればするほど、情報サイドの人間の視野は拡がって、特定の政策や企業戦略・戦術はむしろ相対化されてしまい、それらのいずれかをサポートするような立場からは、ほど遠くなっていく。インテリジェンスを担当するものに必要とされる視野とはこのようなものなのだ。このようにあらゆる特定の政策や企業戦略・戦術を相対化できるほどに、カスタマーの利益を理解できるような人材を育成することが、最も重要なのである。」

2019-08-04

"現代音楽の創造者たち" Hans Heinz Stuckenschmidt 著

ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、アルノルト・シェーンベルクに作曲を学び、音楽批評家として活躍した。ストラヴィンスキーの「春の祭典」が受け入れられなかった時代、音楽家の生産物はますます自由主義と表現主義の混合物という印象を与えていく。音響学の対象となるものすべてが手段と化し、いわばなんでもあり。愛の行為や、酔っ払った聖職者や、幻覚に惑わされるファウスト博士や... 様々な場面で擬音や雑音が用いられ、ジャズの断片までも利用される。精神活動のあらゆる様相を表現するために、複雑なリズム、ポリフォニー、不協和音といったものを融合させ、一つの有機体として浮かび上がらせるのである。音楽は、神への奉仕か、それとも悪魔の技か。シュトゥッケンシュミットは、自由な無調性から電気音楽に至る新たな音楽の時代の勇敢な擁護者を演じてくれる。
「わたしのパンテオンには、多くの神々のための席がある...」

世の中の大きな流れの影では、小さな反抗が育まれる。その小さな力が蓄積された時、新たな風潮が出現する。突然変異のごとく。創造と破壊のサイクル、これが歴史というものか。どうやら人類は飽きっぽいと見える。きまって世紀末に、懐疑的で退廃的な傾向が見て取れるのも気のせいか。だが、その新たな風潮も混乱期を経て、同じ志を持つ者の共鳴を呼び、ある様式に収束していく。ルネサンスの時代にも、古典回帰という思潮の下に多くの万能人を出現させた。
しかしながら、そこに辿り着くまでの過程は十人十色。それは、個々が我流で自由を体現しているからであろう。
世間では、自然主義が勢いづいても逆に超国家主義を旺盛にさせ、ダーウィンの徒が勢いづいても神秘主義者は衰えを知らないというのに、ここに紹介される20人もの音楽家たちは実に多彩、多様に自由を謳歌している。象徴派あり、高踏派あり、印象派あり、古典派あり、主観主義あり、構成主義あり、ロマン主義の残党までいる。人そのものが形式だと言わんばかりに...
正しい反論は、その対象を正しく理解してこそ可能となる。新しい事を始めるという行為が、古いものを熟慮した結果なのか、その行為が盲目的で偶像的な破壊行為に及んでいないか、などと問えば、あるワグナー崇拝者は反ワグナー党に鞍替えし、あるシェーンベルク学徒は反シェーンベルク論をあげつらう。それも人の形式に束縛されず、自己形式を追求した結果であろう。自由とは、能力の解放!才なくば、永遠に呪縛をさまよう、というわけか...

ところで、本書で用いられる「電気音楽」という表現は、いつしか「電子音楽」と呼ばれるようになった。その流れは、電子工学との相性の良さを告げている。もっと言えば、数学との相性である。音響学の数学的な研究は、古代から受け継がれてきた。ピュタゴラス音律などがそれである。オクターブ内に12音を均等配置すれば、その組み合わせは単純に、12! = 479,001,600 通り。音楽家たちは、これらのパターンから、不協和音のみならず、雑音までも芸術の枠組みで語り始めた。数学には素数という崇められる存在があるが、小節にもプリミティブな音列が存在するのだろうか...
どんな学問分野であれ探求が進めば、いずれタブーを冒す。動は反動を呼ぶ!これが物理法則というもの。新たな方法論を編み出せば、伝統を汚すとの批判を受ける。だが、新たな試みによってのみしか古典の理解を深めることはできまい。電子音楽には音楽の解放という意義深いものがあり、けしてバッハやモーツァルトを古臭いと蔑むことにはならない。そして今宵の BGM は、「大ト短調交響曲」でいこう...
「あたらしい音の全交響曲は、工業的世界のなかで現われ、われわれの一生を通じて、日々の意識の一部をなしている。もっぱら音をあつかっている一個の人間が、以上のあたらしい音によって、昔とかわらずにいるはずはあるまい。そこで、現代音楽の演奏会を聞いたあとでは、一体、たいていの作曲家は、つんぼなのか、それとも数百年以来、オーケストラが作り出してきた音で満足しているほど想像力が貧弱なのかと、考えないわけにゆかない。」