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2026-06-07

"マキャベリの名言" 矢島みゆき 編訳

「君主論」に触れたのは十五年ほど前。そして、共和国に焦点を当てた「フィレンツェ史」やディスコルシこと「ローマ史論」にも触れてみたが、未だ消化不良!マキャベリの政治思想に少しでも近づけるよう名言集を手に取るも...

名言の効用とはなんであろう。行動指針の一つに、言葉で説明できるか、ということがある。言葉は動機を明確にし、やるべきことも明らかにし、名言はそれを後押ししてくれる。

「言葉で表現できる行動をせよ!」

おいらは、完全に一貫性を持った著述家を知らない。どんな著述家も、どこか多面性を具えている。偉大な著述家ともなれば抽象レベルが高く、それゆえ勝手な解釈や誤った解釈を招き入れる。
だとしても、彼らの著作はそんなものまで呑み込んじまうから、そりゃ、飲まずにいられない。まぁ、理解からは程遠くても、偉人の言葉というものは生きてゆく上で励みとなる。凡人ばかりか、凡人未満にも... 愉快!愉快!

「ともかく現在に生きよ。過去の豊かさから学ぶことを忘れず...」

こと政治の世界では、理想郷を掲げると、逆の形が出現する。憎悪ってやつは、悪行からだけでなく、善行からも生じる。どんなに優れた政体を打ち立てようとも、どんなに高尚なイデオロギーを掲げようとも...

「ダンテは言う、過去の歴史を学ぶことこそが科学であると。また、学んだ歴史について人と語り合うことも科学である。」

古くプラトンは著作「国家」の中で政治指導者に哲学者を据えた理想像を描き、マキャベリは著作「君主論」の中で政治に必要な力量と決断力を持つ君主像をちらつかせた。
しかし、どんなに優れた政治指導者が出現しても、これに続く者は愚人ども...

古くアリストテレスは、最高の政体は君主政で次が貴族政、そして最悪な政体が民主政と愚痴めいたことを弟子たちに漏らした。マキャヴェッリもまた、「フィレンツェ史」や「ローマ史論」を通して共和国の欠点を炙り出した。
現実に、君主はすぐさま僭主に成り下がり、貴族は贈賄の類いにまみれ、民衆とて移り気が激しく暴徒の群れと化す。人間が人間を統治するには、善だけでは不十分!善も悪も人間の本質であり、やはり社会には法というものが必要なようだ。統治する側にも、統治される側にも...

「時の経過がもたらす各種の恵みを楽しむと良い。時はあらゆる種類の出来事をもたらしてくれる。悪に似た善や善ともまごう悪を...」

どんなに善良に生まれつこうが、どんなに優れた教育を受けようが、人はやすやすと堕落しちまう。自らの野心に踊らされ、他人の悪徳に誘われ、やすやすと悪事に手を染める。人間とは、そうしたものだということを心得ておく必要がありそうだ。偉人たちから何を学ぶか。それは、善行だけでなく悪行からも...

「卓越した人物は、どのような環境に置かれても常に変わらない。運命が彼らを高い地位に就かせたり、あるいは虐げさせたりすることがあっても毅然として変わらず、常に不屈の心を持ち続けることができる。」

2026-05-31

"ローマ史論(全三巻)" Niccolò Machiavelli 著

「ディスコルシ」こと「ローマ史論」...
ニッコロ・マキャヴェッリは、歴史家リウィウスの大作「ローマ建国史」から最初の十巻に着目し、政治論を論じて魅せる。「君主論」と補い合うように...

古くプラトンは、著作「国家」の中で政治指導者に哲人を据えた理想像を描いた。だが、どんなに優れた政治指導者であろうと、これに続く者は愚人ども...
マキャヴェッリは、著作「君主論」の中で政治に必要な力量と決断力を持つ君主像を描いた。だが、どんなに優れた政体を思い描こうと、どんなに高尚なイデオロギーを掲げようと、結局は現実に引き戻される。
あとできることと言えば、なんであろう。「すべての道はローマに通ず...」というが、やはり原点に立ち返ることか。共和国の原点、ここにあり!と...
尚、大岩誠訳版(岩波文庫)を手に取る。

「平等の存するところ、君主国にはなり得ぬ。それの存せぬところ、共和国とはなり得ぬ。」

人間が編み出した政体は、大まかに三つ。君主政、貴族政、民主政が、それである。だが、それぞれに深刻な欠点を抱え、僭主政、寡頭政、衆愚政となるも紙一重。
古代ローマの場合、その起源は王国に始まり、やがて共和国となり、強大な帝国へと発展していったが、その基盤となると、最初期から共和国になるまでにほぼ確立されていたという。

まず、偉大な精神は、始祖ロームルスに始まる伝説の王たちによって築かれる。その支柱に据えられたのが、自由精神。マキャヴェッリは主張する。「ひとつの都が存続するには、自由人の力によらなければならない。」と...
賢君が二代続けば、精神的影響は大きい。三代続けば尚更。古代ローマの場合、七代続いて共和国へ導いた。その過程で、創立者たちの叡智が伝統精神として法に刻まれ、法の精神を育んでいく...

次に、国家の在り方は、三つの要素で力関係を均衡させていく。統領、元老院、護民官がそれである。統領は君主とその取り巻き連中。元老院は貴族や上流階級で構成されて国家の最高機関となり、いわば統領のお目付け役。護民官は平民の代表で、国の隅々にまで政治機構を浸透させる役割がある。
この時点で平民の意向がどれほど反映されるかという問題は残るにせよ、後に護民官を選出する平民会が大きな存在感を持つことになる。こうした三要素を具えた政体は、君主制、貴族制、民主制の混合物という見方もできよう。ここに分権の起源を見る思い...

更に、宗教が絡む。帝国の時代にはキリスト教が国教とされ、教会の権威が加われば政治の主導権はいずこへ。政教分離の思想は、こうした有り様からも見い出せよう...

そもそも国家とは何か、本当に必要なのか。そして、その形が、なぜ共和国なのか...
自由精神こそ鍵というわけだが、政治指導者を選ぶ自由は民衆にあるか。政体を選ぶ自由は民衆にあるか。自由は妥協との折り合いの中で成り立つ。それが正当かは、ただ信じるのみ。自由とは、信仰の類いか。少なくとも、自由は自己抑制との釣り合いにおいて行使される。善には制約があるが、悪にはそれがない。

国家には、当たり前のように付随する法というものがある。そもそも法とは何か、本当に必要なのか...
法は悪に対するものとなり、法の下での正義は駆け引きの道具となる。せめて復讐心が伝染せぬよう願うばかり。結局、毒をもって毒を制す!の原理に縋るほかはないのか...
こと政治の力学では、高貴な理想を掲げるほど泥沼にハマる!恐怖、憎悪、嫉妬といった情念は、人間の本質であり、これを避けることはできない。確かに、人間は聖人になりきることはできないが、悪魔になりきることもなかなか難しい。それがせめてもの救いか...

政体は時代とともに変化していく。変化こそ不変!ゆえに、何事も改善は必要であろう。それでも、基本精神を見失うな!というのが、マキャヴェッリの立場。確かに、古代ローマのそれは理想に程遠い。三千年を経た 21 世紀の今でも...
そもそも理想がどんなものか、そんなものが本当にあるのか、ますます分からんよ... マキャヴェッリ先生!

「政治や歴史上の数多の事例を取り扱ったひとたちの挙って説明することに従うと、国家を建設し国宝を制定するものとしては、何よりも先に、人間はすべて悪人で、思う通りに振る舞う機会があればすかさず其の非道ぶりを発揮して私欲を満たそうと身構えていることを常に考えている必要がある。」

2026-05-24

"フィレンツェ史(上/下)" Niccolò Machiavelli 著

権力者といえば... 悪の権化、冷徹で狡猾な独裁者... といったダーティーなイメージがつきまとう。だが、共和国精神の根付いた地域では、人間的な面を併せ持つ政治指導者を言うらしい。とりわけフィレンツェの地には、共和制ローマから脈々と受け継がれる伝統精神なるものがあるとか。
ニッコロ・マキャヴェッリは、「君主論」で政治的な力量を備えた人物を論じて魅せた。本書では、フィレンツェ共和国の発祥から、その黄金時代に君主的存在となったロレンツォ・デ・メディチの死までを物語ってくれる。いわゆる「偉大なるロレンツォ」を「君主論」に、ある面で重ね、ある面で反するかのように...
ここでは「すべての道はローマに通ず...」という格言を引いて、「それはフィレンツェを経て...」と付け加えておこう。
尚、齊藤寛海訳版(岩波文庫)を手に取る。

アリストテレスは、最高の政体は君主制で次が貴族制、そして最悪が民主制と愚痴めいたことを弟子たちに漏らした。しかし、君主は野心のために僭主に成り下がり、貴族もまた贈賄の類いにまみれ寡頭化し、民衆とて移り気が激しく暴徒の群れと化す。それでも、比較的ましなのが民主制ということになろうか。
人間の集団性はことのほか手ごわい。権力ってやつは、一部に集中したり、肥大すると、社会の弊害になるものらしい。それは、人間の本質であろうか...

マキャヴェッリは、フィレンツェ史を通して共和国の長所と短所を炙り出し、あるいは、共和国にあるべき君主像をちらつかせ、いずれ出現する近代国家の礎となる権力分立や政教分離といった政治思想へ導くかのように物語る。彼もまた、アリストテレスのように共和国の行く末を案じていたのであろうか。
権力ってやつは、強すぎても、弱すぎても、腐敗するものらしい。しかも、腐敗の伝染力は極めて強い。どんなに優れた政体を取り入れようと、どんなに高尚なイデオロギーを思い描こうと、すぐさま現実に引き戻される。

概して、共和国には破滅を運命づけられた大家があるらしい。メディチ家もそうした家の一つだったのか。絶え間なく繰り広げられる権力抗争の裏で、憎悪、敵意、対立から党派が生まれ、処刑、追放、静粛の横行。貪欲と野心でのし上がる者ども。力ある者が力なき者を足蹴りし、才ある者が才なき者の鼻面を引き回す。これが人の世か...
支配者の命令したいという欲望と民衆の隷従したくないという願望が衝突し、少しでも権力を手中にすると、自己顕示欲を膨らませ、権威主義に陥る。
現代、民主主義や自由主義の対極に権威主義や全体主義が配置される。だが、独裁者を生み出すのは、民衆だ!
自由主義者は全体主義を忌み嫌い、全体主義者は個人を生かすためと称して民衆の結束を強いる。結束が維持できなければ、自由が悪魔と結託し、個人を抹殺にかかる。実は、自由主義と全体主義は表裏一体なのかも...

政治指導者が、いつも市民を監視していなければならないとすれば、なんと滑稽な社会であろう。自由とは、権限を持つ側の論理か、それとも与えられる側の論理か。平等とは、それを主張する者の論理か、それとも発言すら許されない者の論理か。そして、正義とは誰の論理か。
極端なことを言えば、基本的人権以外に権利は必要なのか。どんな聖人君主が命令を下そうとも、それを行うものは愚人。愚人の行動には、模範的な規定と、具体的な条文が必要なようだ。おかげで、法の条文は増すばかり。エントロピーのごとく。これに教皇の権威と戒律が加われば、エントロピーの勢いは増すばかり。政治と宗教の力学原理は、すこぶる似ている。やはり分離した方がよさそうだ...

自由ってやつは、奪うものでもなければ、与えるものでもあるまい。巷には自己責任論が渦巻き、自由主義に内包される責任に耐えられなくなると、権威主義に傾倒していく。民主主義や自由主義にとっての最大の脅威は、権威主義でも全体主義でもなく、それ自身にあるのかも。敵が己自身にあるとすれば、これに対抗できるものは... 基本的人権とは?法のあるべき姿とは?人間足らしめるものとは?と、その原点を問い続ける他はあるまい...

「国々は、大多数の場合、それぞれが変遷していく過程で、秩序のある状態から秩序のない状態へ、それからまた新たに、秩序のない状態から秩序のある状態へと移行する。なぜなら、この世のことに対して、自然は静止することを許さないからである。国々は、最終的な完全さに達したら、もうそれ以上は上昇することがなく、下降するしかない。同様に、下降するとなると、無秩序のせいで最低の状態にまで達するが、必然的にそれ以上は下降することができず、上昇することになる。
  ...(略)...
武勇は平穏を生み出し、平穏は無為を、無為は無秩序を、無秩序は破滅を生み出し、同様に、破滅からは秩序が、秩序からは武勇が、武勇からは栄光と幸運が生まれるのである。
  ...(略)...
だから、分別のある人は、教養は武力の後にやってくること、国家や都市では最初は哲人ではなく、武人が生まれるのを観察することになる。」

2025-09-07

"第三身分とは何か" Emmanuel-Joseph Sieyès 著

フランス革命前夜、エマニュエル=ジョゼフ・シィエスは聖職者や貴族が保持する特権身分を批判し、国民議会の設立を唱える。歴史を動かした書というものがあるが、本書もその一つに数えられるそうな...
尚、稲本洋之助、伊藤洋一、川出良枝、松本英実訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書の構想は単純なもので、三つの論考によって組み立てられる。
  • 第三身分とは何か... 全てである。
  • 第三身分は、これまで何であったか... 無であった。
  • 第三身分は何を要求しているのか... 何がしかのものになることを。

フランスには、もともと三部会というものがあり、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成される。王権と教皇権の争いのさなか、国王が国民の支持を得て優位に立とうと開催したものだが、絶対王政の時代ともに廃れていった。ルソーの社会契約論は知識人に広く知られていたものの、当時はまだ国民相互間の契約ではなく、支配者との服従契約という意味合いが強かったようである。
シィエスは、こうした世情に苦言を呈し、モンテスキュー風に法の下での平等を強調する。そして、国民主権、代議制、憲法制定議会と通常議会の区別といった概念を論じる。彼が提唱するものは、現在では民主主義の基本原理として自明とされるものだが、これらを実践するとなると、未だ...

「モラルに関しては、簡素で自然な手段に代わりうるものはない。しかし、人は無益な試みに時間を費やせば費やすほど、やり直すという考えを恐れるようになる。もう一度はじめからやり直しやりとげるよりも、時にはことのなりゆきに任せ浅薄な策を弄する方がよいとでも言うかのように。このようなやり方をいくら繰り返しても、一向に進歩はない!」

本書は、革命前夜のパンフレットらしく、急進的な発言が目につく。第三身分こそ国民であるべき、いや、国民ならば第三身分であるべき。したがって、特権身分は国民ではない。聖職者特権であぐらをかく輩と、国王にへつらって租税を免れる貴族どもは、もはや有害!奴らを国民議会から排除せよ!と...
21世紀の現在でも、よく耳にするのが、政治家は庶民生活がわかっていない... というもの。それを言うなら、庶民だって政治家という人種をわかっちゃいない。わかりたいとも思わんが。既得権益に守られた輩が蔓延る世情もまた、あまり代わり映えしない。民主主義への道はまだまだ遠いということか。いや、人類が背負うには重過ぎるのやもしれん...

「人間は、一般に、自分より上位にある者全てを自分と平等にしようと強く願う。そこでは、人は、学者として振る舞う。ところが、同じ原理が彼らより下位にある者によって主張されるのに気づくや、この平等という言葉は、彼らにとって忌まわしいものとなる。」

国民の側にしても、何か要求したいのだが、何を要求すべきかが分からない。そもそも、国民がどうあるべきを分かっていない。それは、経済活動における消費者心理にも見受けられる。新商品は企業が提案するもので、これに満足するか、難癖をつけるか、多くの消費者はオススメと評判に動かされる。こうした構図は、政治とて同じ。どんな政策を望むかより、提案された政策に賛同するか、拒否するか、そういう形でしか自分の意思が確認できない。
そう、「何がしかのものになることを...」望むのである。あえて言うなら、最低限の人権ということになろうか。第三身分、すなわち、真の国民がこれまで無であったのなら、これを有に変えるには、かなりの意識改革が必要なようである...

「上位二身分にも、第三身分の権利回復が、利益となることは確かである。公の自由の保障は真の力が存するところにしか存在しえないということに、目をつぶってはならない。われわれは、人民とともに、かつ、人民によってでなければ、自由たりえないのである。」

2023-07-30

"市民政府論" John Locke 著

右と左に二極化する現代社会において、右往左往する大衆を前に、自由主義や民主主義の在り方を問う。多数派に委ねられる民主政治は、市民の大多数が愚かだと、愚かな政治家どもがのさばり、衆愚政治と化す。アリストテレスは民主制を最悪な政治システムと酷評したが、それも頷けよう。それでも、君主がことごとく僭主となることを顧みれば、独裁制よりはマシか...
市民社会を支える上で、いまや欠かせない自由主義と民主主義は双子の兄弟のようなもの。その根底に立ち返ろうとすれば、避けては通れない人物がいる。そう、人間悟性論を著したジョン・ロックだ。彼の著作では、「完訳 統治二論」加藤節訳版(岩波文庫)に触れたことがある。再読も考えたが、できれば軽く流したいし、どうせなら翻訳者も変えてみたい。そこで、統治二論の第二編(後編)に位置づけられる「市民政府論」というわけである。軽くは流せないけど...
尚、角田安正訳版((光文社古典新訳文庫)を手にとる。

古くから哲学者たちは、人間の本質に根ざした共同体の在り方を思い描く上で、人間の自然状態というものを問うてきた。それは、基本的人権と深くかかわる設問である。ロックは主張する。人は生まれながらにして「生命、自由、財産」を守る権利があると。これらの権利はどんな権力にも制限されるものではないと...
中でも、最も厄介なのが、自由ってやつだ。こいつを野放しにすれば、獣が群れる弱肉強食の社会となり、人権なんぞは虚構に成り下がる。ロックは補足する。「生まれつき理性をそなえているからこそ、生まれつき自由なのである。」と...
しかし、理性なんてものは、最初から備わっているわけではあるまい。共同体の中で、その生活経験から身につけていくものであろう。となると、共同体が先か、理性が先か、といった鶏と卵のような関係を問うことに...
人間の自然状態に、理性は本当に備わっているのだろうか。ただ、これを前提にしないと、人間の尊厳が失われる。いや、経験を積むと、誰もが自然に身につけられるもの、とすることはできそうか...

自然状態には、自然法なるものが暗黙に機能するようである。それは、理性の叫びか、良心の叫びか。耳を傾ければ、理性の声が聞こえてくる。何人も、他人の生命や健康、自由や財産を侵害してはならない、と。それは、自分自身の生命や健康、自由や財産が侵害されることを嫌ってのこと。
人間が単独で生きてゆけるなら、自然法だけで十分であろう。だが、共同体の中で生き、その規模が大きくなるほど、ルールとその成文化が必要となる。価値観の違う人が集まれば、尚更。
人間ってやつは、 何事も明文化しないと落ち着かない、確固たる根拠がないと落ち着かない、いつも共通意識を確認し合っていないと不安でしょうがない、何事も言葉にしないと不安でしょうがない... そんな存在だ。
そこで、実定法なるものが必要となる。とはいえ、締まりのない大量の条文が形骸化していることは周知の通り。どんな法律も、自然法に適っていなければ、機能しないというわけか...

「地上のいかなる権力にも縛られず、人間の意志や立法権の支配を受けず、自然法以外に人間の従うべき準則が存在しない... これが人間の本来の自由である。それに対して、社会における人間の自由というものがある。そのような自由は、国内で同意にもとづいて制定される立法権力に制約される。」

では、国家の正当性はどこからくるのだろう。国家法が後ろ盾になっているにしても、その国家法は自然法に適っているだろうか。たいていの人は、この世に産まれ落ちると、どこぞの国家に自動的に所属させられるという、いわば奇跡的なシステムに組み込まれている。物心ついた頃には、疑問すら持てないほどに。これを自然状態と言えるだろうか。
現在の国家は、その多くが 18 世紀から 19 世紀頃に出現した「近代国家」と呼ばれる枠組みを継承している。既にプラトンの時代には国家論が唱えられ、現在の枠組みは歴史がまだまだ浅いということになる。古来、哲学者たちが論じてきた自然状態からも、かなり乖離しているのやもしれん。自然法の面影も薄れているようだ。
現代人は、所有権を保持するために実に多くの法律を編み出してきたし、さらに、その数を増やそうとしている。共同体の目的は、自らの所有権を保全することなのか。
少なくとも、ロックが唱えた「生命、自由、財産」が保障されなければ、国家ってやつは、その存在意義すら失う。そして、国家を支える「社会契約説」とやらが浮かび上がってくる...

「人間はみな、本来的に自由で平等である。そして、独立している。同意もしていないのにこの状態を追われるとか、他者の政治的権力に服従させられるとかいったことは、あり得ない。本来そなわっているはずの自由を投げ出し、わが身を市民社会のきずなに結びつける方法は一つしかない。それは、ほかの人々との合意にもとづいて共同体を結成することによる。共同体を結成する目的は、自分の所有物(生命、自由、財産)をしっかりと享有し、外敵に襲われないよう安全性を高めるなど、お互いに快適で安全で平和な生活を営むことにある。」

多くの国家は、立法権を国民の代表機関である議会に委ねる。我が国の憲法でも、第四十一条に「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」と謳われる。そこで、ロックは主張する。立法部は常設する必要がないと。いや、常設するとむしろ弊害になると。
人間ってやつは、とかく権力を握りたがる性癖を持っている。最高権力を常設すれば、その地位に就こうと躍起になるばかりか、一旦獲得しちまえば、法律を改竄してでも権力にしがみつこうとする。立法権は国家の最高権力では収まらず、ひとたび共同体から委託されると、それを引き受けた者にとって神聖なものとなる。それだけに、立法権は恐ろしい。この権力を一部の人間が独占すると、さらに恐ろしい。人間社会には、神になりたがる奴らで溢れている。専制政治の最大の弱点は、こういうところに露わとなるであろう...

2022-06-12

"法の原理 人間の本性と政治体(コモンウェルス)" Thomas Hobbes 著

トマス・ホッブズは、権威主義や絶対君主制の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。政治体制は、アリストテレスがやったように君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、どれも根本原理は同じはず。つまりは、人間の本性に則ったシステムでなければ機能しないってことだ。ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼なら、民衆も狼ってか...
歴史を振り返れば、君主制は専制政治や独裁政治へ、貴族制は寡頭政治へ、民主制は衆愚政治へと変容してきた。ただ言えることは、民主制は貴族制よりマシだった、君主制より遥かにマシだったということぐらい。いまだ人類は、崇めるほどの政治体制を手に入れられずにいる。ならば、政治体制を問うより、統治そのものの在り方を問う方が合理的やもしれん。それは、人間とは何かを問うことになろう...
尚、田中浩, 重森臣広, 新井明訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書には、「自由」という言葉が散りばめられる。それは、人間が人間たるに最も必要な要素ということらしい。アリストテレスは、民主制の原理を自由精神に求めたが、ホッブズもこれを継承していると思われる。
但し、自由には制約がある。他人の自由を侵害しない程度に自由。この限りにおいて、平等と両立しうる。
そのための指針として、本書では自由精神と自然状態の考察に半分以上が割かれる。理性が命じる自然法が生起する様、あるいは、自然的人格によって生じる信約といったものを政治的人格に対応づけながら。自由といっても、個人の抱く自由は実に多種多様で、一筋縄ではいかない。だからこそ、人間の本性から論ずるべき、というわけか...
そして、その自然法から導かれ、それを補完するための市民法の在り方を考察する様を、前記事で触れた「市民論」の姉妹書として眺めている。コモンウェルスの成員相互の安全だけでなく、共通の敵に対する安全保障までも視野にいれるあたりは、やがて訪れる近代国家への布石か。いや、怪物リヴァイアサンへの布石か...

法の原理を問うにしても、対象のほとんどは愚人であり、戒律というより刑罰によって機能する側面が大きい。そもそも法とは、命令であり、自由とは対極にある。
それでも、市民法が自然法に適って制定されていれば、自由と矛盾しないばかりか、うまく適合できるという。自然法とは、道徳哲学を総括したようなものか。
本書は、自然法を聖書の言葉で確証しているが、宗教に頼るところに法の限界を見る。自由は自発的な情念に発するが、宗教は自発性としばしば対立するばかりか、盲信を歓迎する。
古来、知識は宗教と反目し、迫害の対象とされてきた。異端書とされたグノーシス文書、コンスタンティノープルで焼かれた多くの書物、知の女性ヒュパティアの虐殺など、枚挙にいとまがない。キリスト教の迫害を受けなければ、科学の進歩は千年早まったとも言われる。ホッブズは、異端審問にかけられたガリレオとも交流があったようで、当時、公にされなかったらしい。繰り返される記憶と知識の抹殺。これも人間の定めというものか...

ホッブズは、人間の弱さを指摘しながら、自発的に生きることを奨励する。評判に頼るのは、成功を遂げても自分自身の力によるものではない、と。術策や虚偽に頼るのは他人の無知に依拠している証である、と。怒りっぽいのも、祖先を自慢するのも自律性に欠ける、と。自分より劣った人と反目したり争うことも、戦争を終わらせる力が欠如している、と。つまりは、これらは自分の意志で生きていない証というわけである。
民主制を機能させるための重要な要素に、統治者の説明能力というものがある。ただ、雄弁とは、話を信じ込ませる能力にほかならず、宗教と似たところがある。現在でも、プレゼンテーションなどとスマートに呼ばれ、絶大な評価を受ける。自分の意志で生きていれば言葉に惑わされることもなかろうが、よほどの修行がいる。扇動者にとって、意志を持たない者が意志を持ったつもりで同意している状態ほど、都合のよいものはない。

ホッブズは断じる、「民主政は、実際には演説者から成る貴族政である」と。そして、統治者の力を強力なものにせよ!権力を集中させよ!承認された統治者の行為が罰せられることもない!と。このあたりの言葉を拾えば、絶対君主制の支持者と言われても仕方があるまい。
しかしながら、統治の正当性においては、国家は人民の合意によって構成されることを大前提とし、人民の生命の安全を保障することを最重要事項に掲げている。「統治の信約は、強制力が与えられていなければ安全を保障できない...」と。「安全の保障がなければ、いかなる私的権利も譲渡できない...」と。「民衆の福祉は至高の法という一語に尽きる。そしてこの言葉の意味するところは、民衆の生命の保存というだけではなく、一般的には民衆の便益と福利であると理解されるべき...」と。
結局、法の制定においては、政治体制を見るより、人間を見よ!ということか。これぞ、法の合理性というものか...

ところで、伝統的に哲学者たちが唱えてきたものに、徳治主義ってやつがある。そりゃ、清廉潔白で公明正大な統治者が居れば、それに越したことはない。この世にそんな人物が居たとしても、それを引き継ぐ者は愚人。理想郷は現実世界を歪め、却って厄介となる。
人間社会は、実に多くのパラドックスに看取られている。政治屋が不公平な社会制度を乱発すれば、金融屋が世界規模の経済危機に陥れる。愛国主義者が敵国をでっち上げれば、平和主義者もまた戦争や紛争を黙認する。教育屋は教養を偏重させ、友愛者は愛を安っぽくさせ、有識者は知識を振りかざし、理性者までも批判の言葉を浴びせかけ、大衆はというと誹謗中傷の嵐に煽られる。言葉ってやつは、学問を可能ならしめるが、その効用は、相互の情念を扇動することも、鎮静することもできる。
また、人間ってやつは、大きな権力を手にすると、必ずと言っていいほど傲慢になる。しかも当人が、それに気づかない。こうした性質は、人間らしさでもある。
感情を持ち、情念を持つことが、長所であり短所あるからには、理性や知性では解決できない領域がある。その領域では、理性や知性は却って論争の道具とされる。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとっては、長所と短所、善と悪、正と邪といったものが、協調し、調和してこそ精神的合理性が得られるというもの。人間にとって自己評価ほど当てにならないものはないが、だからといって、それを怠るわけにもいくまい。この行為のみが自省へと導くであろうから...

2022-06-05

"市民論" Thomas Hobbes 著

人間どもは、人間にとって神か、それとも悪魔か...
人と人とが交流すると、互いに共感し合い、共同体なるものが形成される。だが同時に、互いに似た者同士が集まると、種族と種族とを比べ、国家と国家とを比べ、そこに優越主義が棲み着き、たちまち狼に変貌する。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体には、何かと比べなければ意識すら働かせることができないのだから、それも致し方あるまい。
それにしても、人間どもの帰属意識は如何ともし難い。どんな善人でも、協調意識を煽り、同族意識を煽り、これに宗教心が絡むと、寄ってたかって自由と平等を奪い合い、残虐行為ですら平然とやってのける。どんな賢者でも、感情を理性と思い違いし、憎悪を判断力と履き違える。孤独を必要以上に恐れ、集団の中で自己存在を肥大化させる人間どもの性癖は、如何ともし難い。
そして、人間どもとは距離を置く方が合理的に見えてきますが、いかがでしょう... ホッブズ先生!

アリストテレスは、「人間はポリス的動物である」と定義した。ポリスとは、自由市民が形成する共同体のようなもの。この集団社会で問われるべきは、自由市民に適った法の在り方と、それが自由市民たちによって制定されるプロセスである。自由市民というからには、奴隷ではない。単なる奴隷の管理人でもない。自由ってやつは、なかなか手ごわい。誰もが権利として主張するだけに、余計に手ごわい。卓越した個人によって、ようやく見えてくる観念だけに、さらに手ごわい。市民全体に卓越性を求めるとは、アリストテレスも酷なことを...

トマス・ホッブズは、もう少し現実的に、自由、命令権、宗教という観点から「市民論」とやらを語ってくれる。それは、共同体の在り方を問うているようなもの。自由権の観点から、自然状態や自然法、あるいは契約の役割を論じ、命令権の観点から、国家の条件や自己存在とその防衛、あるいは、権力や権利が生じる原理を論じ、これらの正当性を、宗教、すなわち、キリスト教の教義に求めている。
まず、人間というものを問い、次に市民というものを問い、最後にキリスト教徒としてなすべき務めが叙述される。権利や正義の由来は、キリスト教の本質に基づいていると...
尚、本田裕志訳版(京都大学学術出版会)を手に取る。

ホッブズは、絶対君主権の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。確かに、権力者に強い力を与えよ... 権力を分割すべてきではない... といった記述を散見する。臣民はその権利によって暴君を殺すことができる... という誤謬から、どれだけの善人だった王の命を奪ったことかと嘆き、君主権の正当性をキリスト教の法に求め、証明までやってのける。やや強引に...
ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼とはよく言われることだが、ホッブズの眼には民衆も狼に映ったことだろう。
まず、人間社会には名誉や体面をめぐる争いがあり、内紛や戦争の種には憎悪や嫉妬が絡む。すべては、自己存在とその防衛に動機づけられる情念。理性があれば欠陥も見えてくるが、欠陥は非難の種となり、理性者の猛攻撃を受ける。彼らは、本当に理性者なのか。理性は抑圧とも相性がよく、強制執行にもつながる。
となれば、理性こそが揉め事の種か。いや、それだけではあるまい。知性もまた、相手を蔑む情念を駆り立てる。進化するためには疑問をもつことも必要だが、疑問を持てば不満も生じる。
となれば、無知の方がましか。いや、無知は無知で扇動の種となる。結局、どんな情念をもってしても、人間は揉め事がお好き!群がる習性は如何ともし難い...

「人間の心を苦悩によってさいなむことの最たるものは、あらゆる事物の不足、もしくは生存と品位を保つために必要な事物の欠乏である。そして、富というものは勤労によって調達され倹約によって守られなければならない、ということを知らぬ者はないにもかかわらず、窮乏した人々はみな、まるで私財をすり減らしたのは国の取り立てのせいであるかのように、自分の怠惰と贅沢から国家の統治へと過失を転嫁するのが常である。」

しかしながら、キリスト教の法は自然法であり、市民社会で平和を保つには自然法だけでは不十分である。無論ホッブズもそれを心得ているから、法の制定とその運営を論じている。ただ、市民論のようなものを語れば、共和制の機能性を唱えることになり、晩年は、王党派から裏切り者呼ばわれもしたようである。
国家形態は、君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、権力と権利の在り方を問えば、どれも大して変わらない。仮に公明正大な君主がいれば、まったく問題なし。むしろ、民主制より機能するだろう。だが、権力ってやつは、一旦手に入れちまうと人を狂わせるもので、君主はことごとく僭主と化す。たった一人の君主でも不十分、周りが追従できる体制でなければ。となれば、理想高過ぎ感は否めない。
自然法は、民衆の合意事項ではなく理性の命令であり、なによりも自己に命令する。したがって、悪魔とは約定しないだろうし、啓示がなければ神とも約定しないだろう。こと集団社会では、理想が高すぎると暴走するもので、毒を以て毒を制すの原理が最も機能しやすい。これが権力分立の本音であろう...

道徳哲学者たちは、法の原理を倫理や道徳と結びつけて唱えてきた。自発的で自然な行為として、理性のないところに法の実践なし!と。
しかしながら、現実の法律は罰則によって機能している。自発的というよりは、受動的で、強制的で、威圧的ですらある。これに巻き込まれて、義務までも半強迫観念となる。
奴隷にも二種類あるらしい。信用されて多少の自由を享受する奴隷と、獄舎や足枷に縛られて労働を強いられる奴隷と。前者は主人に対して義務を負い、後者は義務なんぞ負う必要がないばかりか、義務なんて概念すら生じないだろう。自由市民はというと、やはり前者で、義務を負って自然法を遵守する立場。では、主人は誰だ?
自然法ってやつは、道徳法則のようなもので、これを機能させるには自分自身の持つ理性に頼ることになる。ただ、理性ってやつは脆い。実に脆い。自分の理性に自信を持った時点で、すでに理性は暴走を始めている。
しかも、理性は言葉と結びついて機能するだけに、言葉の道具にされやすい。似た用語に正義ってやつもあるが、これも扇動者の言葉の道具として悪名高い。ネット社会ともなれば、こうした言葉は気晴らしの道具とされ、言葉の嵐が吹き荒れる。
結局、神の言葉に縋るしかないってことか。しかし、神の言葉を耳にするには、資格がいるらしい。というより、神という概念を編み出したのは、人間の弱さの証しであろう...

「自然状態、すなわち統治することもされることもない人々の状態がそうであるような絶対的自由の状態とは、無政府状態であり敵対的状態であること、そのような状態を避けるための規制が自然の法であること、国家は最高命令権なしには存在することができないこと、最高命令権を保持している人々には、端的に、言いかえれば神の命令に反しないすべてのことに関して、服従しなければならないこと、これらのことは本書のここまでの部分において、合理的根拠と聖書の証言によって立証された。市民の義務の完全な認識のために欠けていることは、神の法ないし命令とは何かを知るという、この一事である。」

2021-10-31

"権力論(上/下)" Guglielmo Ferrero 著

権力とは何か...
それは、恐怖の連鎖であったとさ。恐怖心が暴力を呼び、暴力がより一層の恐怖心を植え付ける。まさに恐怖心の自己増殖システム!
「人間は、最大の恐怖心を有する最高の生物である。恐怖こそ現世宇宙の魂である。... 権力とは、人間が恐怖から逃れようとして自ら惹起した恐怖の最高の表現である。... 命令、脅迫、強制、これこそ人類が創造し、服従してきた権力の本質である。」


権力は、正統性が担保されてはじめて機能する。では、正統性の根拠とはなんであろう。グリエルモ・フェレーロは、正統性の原理を恐怖という心理学を絡めながら論じて魅せる。
尚、伊手健一訳版(竹内書店)を手に取る。
「正統性原理こそ、国家の見えざる精神!その主な仕事は... 革命精神と戦い、かつそれを閉じ込めること... であることが、この魔力の原因である。独裁者の恐怖は、正統性原理の、この魔力の一例にすぎない。独裁者は正統性原理を侵すことにより、権力を獲得したが故に、自己の権力を恐れるようになる。」


フェレーロは、古代史の研究家として知られるそうな。そんな人物をして近代を論じさせた背景とは...
彼が生きた時代は、ウィーン体制の崩壊を招いた1848年革命、いわゆる「諸国民の春」の余韻冷めやらぬ時代。国民国家や民族的アイデンティティといった概念が各地で育まれ、近代国家の成立を見る。王侯や貴族のものであった権力が、フランス革命によって庶民の手に渡るかと思いきや、すぐに恐怖政治と化し、ナポレオンの呼び水となり、さらにナポレオン追放後、ウィーン体制が確立してヨーロッパに新たな国際秩序をもたらした。フランスは、権力の正統性を唱えたタレーランの元で王政復古を果たすものの、権力の所在については問題の先送り。
結局、この新たな秩序の時代に、フランス革命の機運で蒔かれた種が芽を出すことに。民族主義や自由主義といった芽が。そして世界は、自由主義、社会主義、共産主義などが乱立するイデオロギーの時代を迎える。フェレーロの故郷イタリアではムッソリーニ率いるファシズムが台頭。フェレーロ自身はというと、反ファシズムを表明してパリへ亡命する。「権力論」は、デモクラシーの先駆者によって書かれた本というわけか...


フェレーロは、四つの正統性原理を挙げる。「貴族・君主制原理、世襲制原理、選挙制原理、民主制原理」である。実際は、これらの原理が混在し、前者の二つは適合しやすく、後者の二つはすこぶる相性がいい。一見、世襲制原理と民主制原理は矛盾しそうだが、国民議会には世襲議員で溢れている。カトリック教会でも選挙制は採用されているし、ヒトラーは選挙で堂々と躍進した。
となると、こう問わずにはいられない。政治は、国民の意思を代弁しているか?と。そもそも国民とは誰か?なるほど、支配階級も国民というわけか。
政治体制を正統性の観点から眺めると、君主制も、貴族制も、民主制も、大した違いはなさそうに映る。アリストテレスは、民主制が最悪の政体というようなことを漏らした。アテナイ都市国家の実情を嘆いての言葉であろう。だが、君主はことごとく僭主であり続け、真の君主は滅多に見かけない。貴族にしても、真の国家精神を体現する者はごく僅か。実践的な体制となると、結局、民主制に落ち着く。民主主義にしても、崇めるほどのものでもあるまい。社会主義や共産主義、マルクス主義よりもはるかにマシだけど。つまりは、消去法...


ただ注意を払うべきは、民主制が醜態を晒し、弱体化した場面では、危険な独裁者が出現するということ。それは、歴史が物語っている。フェレーロは、この時代にあって既に独裁者の時代を予見している。共和制が醜態を晒し、恐怖政治を目の当たりにすれば、ナポレオンの登場は必然であったように思える。
では、ファシズムの出現もまた民主主義の過程で必然であったのか?そして、ヒトラーはその最終章であったのか?そう楽観もしてられまい...
「正統政治、すなわち、良き政治とは、なさねばならぬことをなし、かつ、それを十分に果たし、そして公共善の完遂に成功している政治である。政治の正統性は、その有効性により確認される。」


民主制は完成を見ないであろう。そして、衰退するのにも時間がかかるであろう。不完全なままの方が人類には適合しそうだ。君主制は、一応の完成を見た。ルイ14世の栄華をもって。そして、完成した瞬間から崩壊の道を辿った。ローマ帝国の衰退に時間がかかったのは、その根底に共和制を受け継いでいたからかもしれん。皇帝と元老院の共存によって。
絶対的な権力の持ち主と言えども、市民の意思を無視していては祭り事が為せない。少数の支配層と大多数の従属者という構図は、君主制も、貴族制も、民主制も同じ。ただ違うのは、民主制は人民に選ばれた人間が統治権を得ること。つまり、人民の承認を得ること。これが正統性の第一歩。
とはいえ、選挙という手段が目的化すれば、やはり同じこと。実際、現在の議会においても世襲議員が溢れ、巷では上級国民などという言葉が飛び交う。
そもそも、人間が人間を支配するところに無理がある。人間ってやつは、自己が支配できなければ、他人の支配にかかる。だからといって、神に委ねたところで、神の代弁者と自称する者の暴走を許すことに。神の声を聞く資格のある人間が、この世にいるのかは知らん。となれば、毒を以て毒を制すの原理に縋るほかはあるまい。これが、権力分立の原理というものか...


ところで、正統性とは気分の問題か。人の行動を誘発する時、最も有効な手段に不安を煽ることがある。あらゆる商売戦略で用いられる心理戦術だ。お得感を強調して、今買わないと損しますよ!流行に乗り遅れますよ!などと脅す。みんなで損する分には慰めにもなるが、自分だけ損することは絶対に許せない。だから、流行りの思考回路に埋もれてしまう。
従属者や隷属者が大多数であれば、それだけで正統性めいたものが浮かび上がる。やはり正統性とは、気分の問題か。それも集団心理を利用した...
正統性とよく似た用語に「正義」ってヤツがある。政治屋や愛国主義者どものお好きな。この言葉ほど胡散臭く、濫用されてきたものはない。きまって彼らは、これに義務と責任を結びつけて、自己宣伝狂を患わせる。正義が権威の後ろ盾になるのも確かで、それだけで正義の御旗を掲げる理由になる。正統性が気分の問題なのではなく、正義が気分の問題なのか。
いずれにせよ、国家への忠誠を政権への忠誠と混同するわけにはいかない。勝てば官軍負ければ賊軍!これが近代国家方式というわけか...

2021-04-11

"過去と未来の間 - 政治思想への 8 試論" Hannah Arendt 著

おいらは、政治ってやつが嫌いだ!大っ嫌いだ!真理の探求者が、なにゆえこんなものを...
西洋の歴史には、ソクラテスの時代から受け継がれてきた「政治哲学」というものがある。プラトンは哲学者が統治する国家を理想像として描き、アリストテレスは倫理上の観点から政治学という学問分野を創設した。東洋史にも、諸子百家の面々が名を連ね、孔子や孟子といった偉大な哲学者たちが政治を論じてきた経緯がある。
しかしながら、如何ともしがたい理論と現実のギャップ。統治する側がどんなに賢人であろうと、統治される側の圧倒的多数は愚人。やがて、マキャヴェッリやホッブズが唱えた近代的な政治理論に取って代わり、いまや、ロックやモンテスキューが唱えた権力分立論で落ち着いている。
いつの時代も、政治は倫理や道徳の限界をつきつける。毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないってことを。その証拠に、21世紀の現代でも、何か揉めるごとに第三者会議を設置しては、民衆の非難を避けようと躍起だ。とかく善意の第三者ってやつが、一番の曲者だったりするのだが...
人間というちっぽけな存在は、無限の過去と無限の未来の間に薄っすらと立ち現れるのみ。過去と未来が交差する場でしか、真理と現実が干渉する場でしか、その存在意義を見いだせないでいる...


とはいえ、人間の本性を観察するのに、これほどうってつけの場もあるまい。政治のキーワードとなる自由と正義、権威と理性、責任と義務といったものが、いかに利用され、いかに有効な動機となりうるか。言葉の本当の意味なんてどうでもいい。言葉で威厳をまとうことができれば、それで十分。それゆえ、政治屋ってやつは、集団が形成されるあらゆるところに出没するのであって、その性質は政治家の専売特許ではない。こいつを観察するには、集団から距離を置く必要があろりそうだ。
ここでは、ハンナ・アーレントが八つの遠近法を提示してくれる。「伝統と近代」、「歴史と概念」、「権威とは何か」、「自由とは何か」、「教育の危機」、「文化の危機」、「真理と政治」、「宇宙空間の征服と人間の身の丈」という試論をもって...

彼女は、古代ギリシアから受け継がれる形而上学の枠組みから人間の存在と人間の条件を問い、アリストテレスが定義した「人間はポリス的動物である」という切り口からコミュニケーションのあり方、教育のあり方を現実世界に照らしながら、政治と哲学の狭間でもがき続ける。「政治哲学」とは、なんと矛盾に満ちた用語であろう... と。
尚、引田隆也、齋藤純一訳版(みすず書房)を手に取る。

「プラトンが理解していたような政治哲学のこうした失敗は、西洋の哲学や形而上学の歴史の端緒から存在する。また、ヘーゲルや歴史哲学が哲学に課した務め、すなわち近代世界を今日あるものに作り上げた出来事や歴史的現実を概念的に理解し把握する役目を、やはり哲学が果たせないのが明らかになったときにも、実存主義は生じなかった。だが、古来の形而上学の問いが無意味であること、つまり近代人の精神や思考の伝統をもってしては、直面しているアポリアに解答を与えるのはもとより、適切で有意味な問いを掲げることすらできぬ世界に住んでいるのに近代人が気づいたとき、事態は絶望的となった。」


本書には、真理と政治の矛盾はもちろん、権威主義に対する険悪な態度も目につく。ハンナは、ナチズムが旺盛な時代を生きたユダヤ人女性。大衆社会が暴力と結びつく光景を目の当たりにし、権威の根源というものを考えずにはいられなかったのだろう。権威がもたらす秩序は、ある種のヒエラルキーをなす。ピラミッドのメッセージは、権威の象徴であったのかは知らんが...
権威は服従を要求し、暴力もまた服従を要求する。しかし、権威は威圧と相反し、暴力は威圧と相性がいい。権威ってやつは威厳をまとうものであって、強制力が発揮されると、たちまち喪失してしまう。権威は権威主義とも、似ても似つかない。伝統的な慣習や宗教が権威主義に昇華した形態もあるが、権威主義という用語にはたいてい悪い意味が込められる。特に、自由主義社会では...
しかしながら、自由主義ってやつは、その名にもかかわらず、自由の概念を政治の領域から締め出すことに一役買ってきた。政治の存在理由を問えば、多くの人は答えるであろう。民衆の自由のため!と。
だが政治では、なによりも生命の維持とその利害の保全が優先される。生命が危機にさらされる局面では、すべての行為は必然性の支配下におかれ、自由の制限こそが政治の意味となる。最大限に自由を尊重するなら、政治は安全保障に制限されるべきで、小さな政府が望ましいが、経済が不安定な局面では、社会福祉の充実を求め、民衆は大きな政府を望む。いつの時代も、民衆は強力な指導力を持った政治家の出現を望んできた。だがそれは、自由とは矛盾する。
では、真理は自由の方にあるのか、制限の方にあるのか。歴史を振り返れば、どんなに残虐な独裁者であっても、民衆の自由意志を完全に無視することはできなかった。自由に制限があるように、圧政にも制限があるのだろう。
自由主義と保守主義は、世論が激しく対立する中で生まれた。両者は、理論的にも、イデオロギー的にも、対立する相手がいなくなれば、互いに存在意義までも失ってしまう。サディズムとマゾヒズムも、そんな関係なのであろう...

「真理を語ることを職業とする者に驚くほど顕著な暴政的傾向は、性格的な欠陥というよりも、むしろ常日頃から一種の強迫の下で生活しているための緊張から惹き起こされるのであろう。」


人は、真理に魅了されるのではなく、真理めいたものに魅惑される。真理ってやつは、愚人には見えぬものなのか。人は嘘をつく。自らの行為を正当化するために。嘘を語る者が行為の人なら、真理を語る者は行為の人でないというのか。神は愚人には冷たい。真理ってやつをなかなか見せてくれやしない。芸術家も愚人には冷たい。何かが見えるまで高みに登ってこいとそそのかしておきながら、平気で挫折感を喰らわす。いまやプレゼン能力が問われ、やってます感を演出することが支持率につながる政治の世界。真理が無力だとすれば、真理はいったいどんなリアリティを持つというのか...

「政治哲学は、政治に対する哲学者の態度を示す。すなわち政治哲学の伝統は、哲学者がいったんは政治に背を向けながらも、自らの尺度を人間の事柄に押しつけようと政治に立ち戻ったとき始まった。その終焉は、哲学者が政治のうちに哲学を実現しようと哲学に背を向けたとき到来した。これこそマルクスの企てであった...」

2019-09-29

"職業としての政治" Max Weber 著

「職業としての政治」は、1919年、ミュンヘンのある学生団体(自由学生同盟)のために行った公開講演をまとめたものだそうな。第一次大戦の敗北でドイツ全土が騒然たる革命の空気に包まれる中、帝政の崩壊とともに政治の意味するものも変貌していく。各地でレーテ運動が活発化し、どこよりも知識人革命の色彩を帯びていたのがミュンヘンだったという。プロイセンを中心としたドイツ帝国の中でも、ちょいと距離を置く南ドイツのバイエルンの首都。後に、ヒトラーの血なまぐさい運動を誘発した地でもある。
マックス・ヴェーバーにして、やりきれない気分に駆り立てたものとは... 敗戦の事実をあたかも神の審判のように捉える、知識階級の自虐的で独り善がりなロマンティシズムに苛立ったと見える。芸術界に波及したナショナル・ロマンティシズムが、いよいよ政治の世界で目覚める時が。愛は盲目と言うが、冷静な愛国心を身にまとうには修行がいる。ここでは、ヴェーバーのナショナリスト的な側面を垣間見る...
他にも、ヴェーバーが学生諸君に奮起を促した講演では「職業としての学問」という作品があると聞く。無論、こちらに向かう衝動も抑えられそうにない。実際、目の前に控えてやがるし...
尚、ここでは、脇圭平訳版(岩波文庫)を手に取る。

政治とは何か。国家とは何か。ヴェーバーは、そんな素朴な疑問を投げかける。彼は、国家を「正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体」と定義し、政治を権力の配分、維持、変動に対する利害関心としている。
「政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である...」

「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている。... トロツキーはブレスト=リトフスクでこう喝破したが、この言葉は実際正しい。」
国家の正当性は国民主権を守ることに発し、統治権もまた正当性が担保されなければ、ただの暴力ということになる。
とはいえ、権利とは相手との関係から生じるもの。それが集団と集団の間であれ、個人と個人の間であれ、なんでもかんでも権利を主張すれば、当然ながら衝突することになり、権利にも相対的な制限が必要となる。この制限が、一般論で倫理や道徳と結びつけられるところ。有識者たちは、政治と倫理を結びつけて熱弁をふるう。
また、正当性が担保されるからといって安心もできない。正当性ってやつは、実に多種多様な解釈を招き入れるもので、一筋縄ではいかない。一般的な基準としては、法が役目を果たすことになるが、条文の解釈もまちまちときた。よって、政治行動の正当性は、歴史に委ねられるところがある。
しかしながら、政治行動とは現実の今を生きることであって、のんびりと過去を考察している場合ではない。本書は、政治に倫理を結びつけたユートピア志向への警鐘という見方はできるだろう。要するに、政治はあくまで政治であって、倫理ではない!ってことだ。ヴェーバーの問題提起は、有識者に対して、特に理性人には挑発的なものとなろう。
「政治に関与する者は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手を結ぶ...」

1. 政治心理学
「政治とは何か。これは非常い広い概念で、およそ自主的におこなわれる指導行為なら、すべてその中に含まれる。現にわれわれは、銀行の為替政策とか、国立銀行の手形割引政策だとか、ストライキの際の労組の政策がどうだ、などと言っているし、都市や農村の教育政策、ある団体の理事会の指導政策、いやそればかりか、利口な細君の亭主操縦政策などといった、そんな言い方もできる。」
政治は、なにも政治家の専売特許ではない。人間、二人寄れば争いが起き、三人集まれば派閥ができる... なんて言うが、人間関係あるところに政治的な思惑が生じ、集団あるところに政治屋が蔓延る。これはもう人間社会の掟である。
アリストテレスが... 人間をポリス的動物... と定義したのは実にうまい。ポリス的とは、社会を育むこと、集団生活を営むこと。つまり、人間はみな寂しがり屋ってことだ。
そして、共存は競争を生み、自己の優位性を強調しようと躍起になる。これは、ある種の自己防衛本能の顕れである。人間は、自己存在を確認するために、本能的に世話好きなところがある。自分だけが良い目に会ったり、自分だけが良い事を知っていると思えば、誰かに喋らずにはいられない。宗教心は、押し付けがましいところから始まり、それが使命感へと肥大化させる。教育や指導の動機にも似たところがあり、良く言えば、啓蒙家の資質である。ただし、啓蒙とは恐ろしいもので、使命感によって他人を陶酔させようとしながら、自己陶酔に浸るところがある。
したがって、政治行動の末期症状に、自己陶酔や自己暗示といった心理現象を見て取れる。ヒトラーが自滅したのは、歴史の偶然だけで片付けてよいものやら。民族主義と深く結びついた国家社会主義を掲げる以上、戦争は避けられなかったはずである。これはもうイデオロギー特有の必然性であろう...
「権力追求がひたすら仕事に仕えるのでなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職業の神聖な精神に対する冒瀆が始まる。」

2. 国家と帰属意識
職業政治家の行動と動機を考察する上で、国家の概念を抜きには語れまい。ナポレオン戦争後、ヨーロッパに秩序を回復させたウィーン体制。これを崩壊させた十九世紀の革命機運、いわゆる「諸国民の春」から近代国家が続々と出現した。
つまり、現在の国家の枠組みが成立して、せいぜい二百年ぐらい。ハプスブルク家の六百五十年やロマノフ王朝の三百年と比べれば、まだまだ若い部類だ。世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる... とは誰の言葉であったか、なかなか的を得ていそうだ。
近代国家の特徴として、かつて国家間の紛争が領土問題に発していたのに対し、これに民族意識としてのアイデンティティが火種として加わったことが挙げられよう。どちらも帰属意識に発することに変わりはない。二百年の歴史を伝統と呼べるほどのものかは別にして、帰属意識として定着すれば、伝統意識を強烈に植え付ける。政治を実践する者にとって、帰属意識の扱いはデリケートな問題となろう。その根底に自己存在という意識があり、まさに国家の概念はここに発する。こうした意識が自己防衛本能を刺激し、集団意識となって国家安全保障の概念と結びついてきた。
ただし、こいつは自己陶酔の根源となる意識でもあり、しばしば愛国心という名で集団的自我を肥大させる。人間ってやつは、本能的に臆病である。臆病でなければ、これほどの文明は発達しなかったであろう。臆病ゆえに恐怖心を煽ることが、政治戦略では絶大な効果を得る。順風満帆な社会では、政治の存在感は極めて薄い。それが政治家にとって幸か不幸か...

3. 権力と虚栄心
政治を行う者は、その必然性から権力を求める。ヒュームの言葉に... 政治的企画室というのは、権力を握ると、これほど有害なものはないし、権力を持たなければ、これほど滑稽なものもない...いうのがあるが、実にうまい。
権力を、高慢な目的や利己的な目的のための手段として追求するか、優越感を満喫するために追求するか、あるいは使命感のために追求するか、そんなことは知らんよ。目的がどうであれ、政治家を目指すならば、支持者を募る必要がある。少なくとも民主主義社会ではそうだ。大衆からどう見られるか、これは政治家としての重要な資質の一つである。そもそも虚栄心のない人間がいるだろうか。評論家や学者の場合、それが鼻持ちならぬものであっても害は少なくて済むが、政治家の場合、虚栄心の満足が権力と直結するだけに見過ごすわけにはいかない。
政治行動の原動力が権力であるならば、この権力が正当性に裏付けられた暴力であるならば、これに相応しい特別な倫理観を要求せねばなるまい。ヴェーバーは、政治家の特に重要な資質として、情熱、責任感、判断力の三つを挙げている。しかも、この三つを貫く心に、悪魔的な信奉者となることまで要求している。情熱とは権力を味わう充実感、責任感とは政治哲学の信念、判断力とは冷静で客観的な視点で、それぞれのバランスをとることが政治家の資質ということになる。だが、一人の人間の内でさえ、心情倫理と責任倫理を和解させるには、よほどの修行がいる。そして、不倶戴天の敵が卑俗な虚栄心というわけだ...
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。... どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても、それにもかからず!と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への天職を持つ。」

4. 服従と人間装置
権力の正当性を語るならば、服従の正当性も語らねばなるまい。服従の正当性の根拠を問い詰めていけば、三つの純粋型に突き当たる。一つは、永遠の過去が持つ権威、習慣によって神聖化されるような「伝統的支配」の類い。二つは、天与の資質や英雄の啓示など個人に帰依するような「カリスマ的支配」の類い。三つは、法の命令が義務となるような「合法的支配」の類い。三つ目の服従が最も客観的と言えようが、実際は単独の純粋型を見ることは稀で、三つが複雑に絡み合った形で現れる。そして、心理学的に、無意識の服従という型も加えておこうか...
「暴力によって、この地上に絶対的正義を打ち立てようとする者は、部下という人間装置を必要とする。」
服従の原理は、部下や追従者という人間装置なしでは機能しまい。そこには、必ずと言っていいほど見返りの原理が働く。しかも、たいていは復讐、権力、戦利品、俸禄といった欲望の正当化にすぎない。
そもそも人間には、本能的に見返りを求める性癖があり、神の前ですら願い事を唱える。そりゃ、神も沈黙するしかあるまい。なぁーに心配はいらない。代わりに宗教が願い事を叶える、と約束してくれる。死後の世界で...
大衆は、心地よく服従する状態を求めているかに見える。だから、人のせいにし、組織のせいにし、社会のせいにし、それで安穏と生きていられる。いとも簡単に平凡きわまるサラリーマンに堕落してしまうのは、それを心底望んでいるからではあるまいか。服従とは、依存症の政治的状態を言うのやもしれん...

2019-09-22

"実利論 古代インドの帝王学(上/下)" カウティリヤ 著

ナンダ朝を倒し、マウリア朝を建国したチャンドラグプタ大王。彼には、カウティリヤという名宰相がおったそうな。ちょうど中国でいうところの諸葛亮のような知謀家が...
カウティリヤの書として伝えられる大著「アルタシャーストラ(Kauṭilīya-Arthaśāstra)」は、サンスクリット語で「実利の学」という意味。それは、紀元前四世紀のものとされる。ただ、後世に改版を重ねてきたという説もあり、その成立時期については未だ論争が続いているようである。
実際、本書には、学匠や偉人たち、あるいは、従来の諸説に対して、「それは正しくない、とカウティリヤは言う...」 という反論のフレーズがちりばめられ、カウティリヤ自身が書いたというよりは、カウティリヤの言葉をまとめた感が強い。古代の書ともなると、高名な偉人や聖人の名を当てて権威づけることが大いに考えられるわけだが、この際、成立時期や真の著者が誰かなんぞどうでもいい。既に古代インドでは、現代にも通ずる実践的な政治哲学、いや政治技術が語られていたということだ。マックス・ヴェーバーは、著作「職業としての政治」の中で、こう書いているという。
「インドの倫理では、政治の固有法則にもっぱら従うどころか、これをとことんまで強調した - まったく仮借ない - 統治技術の見方が可能となった。本当にラディカルな『マキャヴェリズム』 - 通俗的な意味での - はインドの文献の中では、カウティリヤの『実利論』に典型的に現われている。これに比べればマキャヴェリの『君主論』などたわいのないものである。」

古代インドでは、ダルマ(法)、アルタ(実利)、カーマ(享楽)が人間の三大目的と考えられていたという。カウティリヤは、アルタを中心に据え、他の二つをアルタに従属させる。そして、学問を、哲学、ヴェーダ学、経済学、政治学の四種に定め、その中で哲学を支柱に据える。
「哲学はヴェーダ学における法(善)と非法(悪)とを、経済学における実利と実利に反することとを、政治学における正しい政策と悪しき政策とを、そしてそれらの三学問の強さと弱さを、論理によって追求しつつ、世間の人々を益するものである。それは災禍と繁栄における判断力を確立し、智慧と言葉と行動とを通達せしめる... 
哲学は常に、一切の学問の灯明であり、一切の行動の手段であり、一切の法の拠り所である...」

本書は、こうした学問態度から、国益を徹底的に追求する思考法を披露してくれる。ここで特徴づけられる総合的な目線と合理的な視点は、国家論、王道論、外交論、軍事論、そして諜報論にまで及び、細目に渡って論じられる。
こんな具合に...
城砦都市を建設し、地方を植民して国造りをなす。商工農林に各省庁を設置し、官吏を登用し、中央と地方の行政に漏れなく国家体制を敷く。度量衡を定め、出入国者を監視し、酒類から遊女に至るまで統制下に置く。消費税や遊興税の類いを制度化し、違反者から罰金を徴収して国庫を潤す。同時に、国王は官吏の行動に目を光らせるばかりか、身内や後継者にも監視の目が向けられ、王自ら、民法、民事訴訟法、刑法など、あらゆる裁きの責任者となる。
かくして王道は刑罰権の行使と同義語に...

カウティリヤにとって、アナーキーこそ最も警戒するところ。抽象的な理想主義なんぞくそくらえ!と言わんばかりに、現実の国家元首像を書きまくる。君主といえども欲にまつわる人間の弱さをあぶりだし、王たる者がいかに人間の本性を巧みに利用すべきかを説く。もはや、理想王は策士の権化か...
しかしながら、とことん人間の醜態を暴きながらも、大前提とされる王者の資質が語られる。公明正大で共同体の秩序維持に務めるために、社会福祉のための法を定めるために、弱肉強食の弊を除くために、確固とした王権が必要だと説く。王は国民の安寧を守るために、常に精励努力して実利の実現を追求する。弱者の保護は王の義務であり、そのための秩序や揺るぎない権力が必要である、という論理。
そして、王たる者は、感情を抑え、誘惑を斥け、遊興に耽ず、行動の一切を挙げて国民の守護という最高の義務を自ら課す。最高位にある王は、唯一自己制御可能な特別な存在でなければならないというわけである。ここに、修身斉家治国平天下といった儒教的な政治観が、古代インドにも定着していた様子が伺える。
「しかし、王杖を全く用いぬ場合は、魚の法則(弱肉強食)を生じさせる。即ち、王杖を執る者が存在しない時には、強者が弱者を食らうのである。王杖に保護されれば、弱者も力を得る...
王の幸福は臣民の幸福にあり、王の利益は臣民の利益にある。王にとって、自分自身に好ましいことが利益ではなく、臣民の好ましいことが利益である...
臣民を法により守る王が自己の義務を遂行することは、彼を天国に導く。王が保護せず不正な刑罰を科する場合は、逆の結果となる。」

人間の本務は自己の義務に生きること。では、義務とはなんぞや。
仮に、王のために... とした場合、王は義務に足る人物かが問われる。世襲によって正統性が担保された君主は、たいてい僭主となることは、歴史が示してきた。真の君主が登場しても長続きしないことを。それは独裁制というイデオロギーの持つ特質、いや、人間の本質であろう。
仮に、国家のために... とした場合、国家は義務に足る体制を備えているかが問われる。それが民主制だとしても、政治的にも、経済的にも、施策がうまくいかなくなれば、国家権力は独裁色を強めていく。それでも独裁制よりは、ましか
これは、もう人間の本性の領域。そして、カウティリヤの言葉は、君主よ!しっかりしろ!と励ましているようにも映る...

ところで、本書には、やたらとスパイの話題が登場する。権謀術数では、暗殺や毒薬、怪しげな秘法まで伝授してくれる。男社会では女スパイの活躍の場が広がる、というのは古今東西で共通しているらしい。遊女館を情報アジトとして活用し、遊女長官という役職まで。ただ、「遊女」の定義が現代感覚とは、ちと違うようで、歌、器楽、吟誦、演劇、文学、絵画、琵琶、笛、太鼓、読心術、会話術、マッサージなど、様々な技能や知識を持つ女性とされる。
こいつは、スパイマニュアルか?それでいて、王道の徳目を説く?... ん~、もはや矛盾を通り越して支離滅裂!だが、政治とは、もともと矛盾した世界。いや、人間社会そのものが支離滅裂な世界。だから、実利論として成立するのである。
統治とは、人間を統制すること。それはすなわち、人を動かすこと。政治技術とは人を動かす術であり、そこには脂ぎった処世術も絡んでくる。様々な欲望から共通の利益を見出し、これを実現していくとなれば、功利主義的な思考も見て取れる。
また、国家間の問題はすべて領土に発するとし、必然的に隣国は敵とみなされるが、自己存在を脅かす存在として最も身近な存在こそ人間社会に内在する根深い病魔であろう。
この実利の学には、一古典の生命力を感じずにはいられない...

2019-08-25

"インテリジェンス 機密から政策へ" Mark M. Lowenthal 著

原題 "Intelligence: From Secrets to Policy"... こいつは、インテリジェンスの標準的な教科書だそうな。しかし、応用力の試される世界、マニュアル人間ではとても生きては行けまい。「インテリジェンス」という用語が国家レベルで論じられ、政治と結びついて発展してきたことは、本書が如実に物語っている。
とはいえ、その思考原理となると、政治的な側面よりマネジメントの側面が強く、社会科学や行動経済学、ひいては心理学に踏み込まずにはいられない。この領域では、経済学あたりで言われる「合理的行動」などといったモデルは、まったく当てにできない。無論ハウツー本ではない。読者を優秀な分析官に育てるものでもなければ、スパイに仕立てるものでもない。国家安全保障政策の策定において、インテリジェンスが果たす役割、その長所と弱点についての理解を手助けすること、そして、学生諸君や素人にも、そうした視点を持ってもらうことを目的としている。
著者マーク・M・ローエンタールは、CIA の分析部門の長を勤めた経歴を持ち、引退後、コロンビア大学やジョンズ・ホプキンス大学で教鞭を執ったという。この分野が講義として成り立つのも、アメリカの大学教育の奥行きを感じずにはいられない。ちなみに、翻訳者茂田宏氏は、こう書いている。
「人間の行動を説明する上で、観念論と唯物論の二つがあるが、私は人を動かすものは情報であるとの情報論というものがあってもいいのではないかとさえ考えている。」

本書の貫く姿勢に、こう告げられる。
「インテリジェンスは政策決定者を支援することを唯一の目的とする。」
インテリジェンスは、あくまでも政策を目的とし、政策に従属し、情報の収集や分析、諜報や防諜、秘密工作といった行為もまた政策目標と結びついてはじめて機能するというわけである。結びついていなければ、税金の浪費ってか。政策決定者の存在そのものが、社会の浪費とならぬことを願うばかり。
インテリジェンス機関には、少なくとも四つの存在理由があるという。戦略的奇襲攻撃を回避すること、専門的知見を長期に渡り提供すること、政策プロセスを支援すること、および情報、ニーズ、方法についての機密を維持すること。
かつて、「友好的なインテリジェンス機関などというものはない。友好国のインテリジェンス機関があるのみ...」と発言したのは誰であったか。インテリジェンス機関は、通常の政治機関とは明らかに違う性格を持っている。それは、機密性であり、民主主義と相容れないところ。スパイ活動、盗聴、秘密工作といった行為は、理想の国家像からはかけ離れており、暗殺までも正当化されかねない。表向き政治家たちは、開かれた政治というものをスローガンに掲げ、「秘密工作」といった用語を嫌って「特別政治活動」などと呼ぶ。
しかし、理想の人間像を掲げるならば、警察は不要となろう。人間の本性には悪魔性が潜む。個人が自己の悪魔性を抑制しても、集団化すると抑えきれない。おまけに、人間は寂しがり屋ときた。しかも、集団思考に操られてもなお自分で思考しているつもりでいる。これに対抗して、警察機能を強化したとしても、拡大解釈のうちに裁判機能まで行使してしまう。そして、国家にも抑止力が必要という議論が成り立つ。
もちろん、インテリジェンス活動も合法的であることが前提とされる。人間ってやつは、現実を見ず、理想郷ばかり追いかけていると、却って卑しくなるものらしい。人間社会に、万能な装置なんぞ存在しない。インテリジェンスとは、悪魔との和解... という見方もできそうか。もちろん行き過ぎた事例も多く見かけるが、民主主義の砦を影で支えてきたのは確かであろう...
「秘密工作には、概念上も実際上も、多くの論点がある。最も基本的なものは、そのような政策オプションの正統性であるが、この種の多くの疑問と同様、正しい解はない。主要な意見は、二つに分かれる。理想主義者と実用主義者である。理想主義者は、他の国家の内政への国家の秘密裏の干渉は、受け入れられる国際行動規範に違反すると主張する。第三のオプションという考え方自体が正統ではないというものである。実用主義者は理想主義者の議論を受け入れつつも、自国の利益のために、時として秘密工作が必要であり正統である場合があると主張する。数世紀にわたる歴史的な慣行を見ると、実用主義者に軍配が上がる。理想主義者は、歴史的記録は秘密の干渉を正統化するものではないと応じるだろう。」

1. 真理は人間を解放するか...
CIA本部の旧入口に入ると、左手の大理石の壁にこう刻まれるという。

「そして、あなたがたは真理を知るであろう。そして真理はあなたがたを解放するだろう。」
... ヨハネによる福音書第8章第32節

結構な言葉だ。しかし、実際に行われていることへの誇張で、誤解を招く元となる。政治は、正直者には向くまい。純粋な者には向くまい。ユートピアを夢想する者には向くまい。それは、皮肉に満ちた世界。それは、人間の本性を相手取る世界。凡庸な酔いどれには、知らぬが仏!という事柄があまりに多すぎる。
「インテリジェンスの単純さ...
映画『さよならゲーム』では、マネージャーは不運な選手たちに、彼らがプレイするべきゲームの単純さを説明しようとする。ボールを投げる!ボールを打つ!ボールを受ける!インテリジェンスにも似たような見かけ上の単純さがある。質問をする!情報を集める!質問に答える!両方のケースにおいて、細部に悪魔が多数潜んでいる。」

2. シギントとイミントの違い...
インテリジェンス関連の書に触れると、ヒューミントについては人的インテリジェンスとしての位置づけが分かるものの、シギントとイミントの違いがうまく飲み込めない。信号インテリジェンスと画像インテリジェンスの違いが。合わせてテキント、すなわち技術インテリジェンスとされるが、双方ともテクノロジーに支えられており、実際の区別は微妙であろう。そこで本書は、ちと皮肉まじりな指標を提示してくれる。
「シギント対イミント...
ある国家安全保障庁長官が画像インテリジェンス(イミント)と信号インテリジェンス(シギント)との違いを指摘したことがある。曰く、『イミントは何が起こったかを示すが、シギントは今後何が起こるかを示す』。その表現は誇大であり皮肉まじりではあるが、この発言は二つの収集方法の重要な違いを示している。」

3. インテリジェンスのユーモア?
分析官たちは、ちょいと暇な時に風変わりな収集方法について議論するという。最も有名なのがピツィント(PIZZINT)ってやつ。すなわち、ピザ・インテリジェンスである。ワシントン滞在の敵国の政府関係者が、CIA、国防省、ホワイトハウスに夜遅く向かうピザの配達トラックの数から、危機発生を探知するというもの。他にも、こんなものがあるそうな...

  • ラヴィント(LAVINT) : トイレ(lavatory)で聞かれるような情報インテリジェンス
  • ルーミント(RUMINT) : 噂(rumor)インテリジェンス
  • レヴィント(REVINT) : お告げ(revelation)インテリジェンス
  • ディヴィント(DIVINT) : 神から授かった(divine)インテリジェンス

そういえば、戦国武将の情報戦でも似たようなものがある。川中島の戦いで、上杉軍は炊事の煙量で武田軍の動きを察知したと言われる。いつもより煙の量が多いことで。
本書は、ユーモアとして紹介されるが、ユーモアでは片付けられないものを感じる。競争相手の分析では、高官の人間性までも分析され、異性関係やペットまでも、その対象となる。情報戦が高度化すればするほど、何がヒントになるか分からない...

4. 言語的な余談、oversight...
oversight には、二つの定義があるという。一つは、監督、注意深い配慮といった意味で。二つは、見過ごし、見落とし、無考慮といった意味で。インテリジェンスの監視では、議会や行政府は前者を実行し、後者を避けようとする。
一つの言葉でも、二つの異なる解釈が成り立つことはよくある。しかも、真逆な。情報がどんなに優れ、どんなに客観性が担保されようとも、分析・解釈の段階では主観性に満ちている。そして、分析結果が真逆となることもしばしば。人間の思考が介在するということは、そういうことだ。
インテリジェンスは、有用でありながら危険な側面が共存する。それゆえに監督責任がよく問われる。旧ソ連や中国では、国内情報と対外情報が一つの情報機関によって担われ、それが秘密警察的な機能を持つ事例が紹介される。米英などの民主主義国家では、こうしたことを排除するために、国内情報と対外情報を峻別する。
また、民主主義国家では、インテリジェンスの監督責任は行政府と立法府が共同で担う傾向にある。米国の場合、立法府が広範に監督権限を持つ点で、やや特異なようである。産業界などのリーダーたちが何かと公聴会に引き出されるのを目にするが、これも正義を崇拝する慣習からくるのだろうか。いつも説明責任を背負わされているリーダたちの給料がべらぼうに高いのも、その責務の裏付けであろうか。ただし、正義の暴走は、悪魔よりもタチが悪い...

2018-09-30

"ユートピア" Thomas More 著

理想も、現実も、ちょいと距離を置くのがいい。どちらもすぐに暴走するのだから。自由社会の暴走の激しさときたら... いや、管理社会の暴走だって負けちゃいない。何かを犠牲にしなければ、繁栄できない世界。貪欲と競争が豊かさをもたらす世界。これが人間社会である。ユートピアとは、「どこにも無い」という意味のトマス・モアが編み出した造語で、しばしば非現実を皮肉る代名詞とされる。共産主義という言葉が登場するのは、まだずっと先のことで、彼に共産主義のレッテルを貼るのはちと酷であろう。
ルターにしても、モアにしても、良心の自由と宗教の権威とが対立し、ローマ教皇のもつ二重性に疑問を持たざるをえなかった時代を生きた。イタリアという一国家の君主が、同時に全ヨーロッパの精神的主権者であるという現実を。
そして、理性と信仰の調和を信じ、国家と宗教の和解を信じたものの、モアは斬首刑に処せられる。この事件は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と称される。本書は死の抗議書と言うべきか...
尚、平井正穂版(岩波文庫)を手に取る。
「吠える六頭女怪(スキュラ)だの、狂乱の半人半鳥女怪(セリーノ)だの、人を啖う人喰巨人(リーストリゴン)だの、こういった途方もない怪物くらい、容易に見つかるものはない。ところがこれに反して、公明正大な法律によって治められている国民となると、これくらい世にも珍しく、また見つけるのに困難なものはない...」

ここに描かれる理想郷は、理性的で、合理的な人々の集まり。住民たちの職業は、最低限の衣食住を確保するためのものと、技術によって知識を高めるものばかり。農業、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、大工職以外にこれといったものは見当たらない。怠けることを知らず、無用な仕事や知識に手を出すこともない。わずかな時間に合理的に生産し、余暇を有意義に過ごそうと。知識伝導のための技術として印刷術と製紙術にのみ敬意を払い、人間性を高めるための意思を持続させようと。人口が溢れれば、それだけ仕事を用意しなければならないが、土地空間に適した人口制限も自然に働く。
「学問的素養に富んだユートピアの知識人たちは、生活を豊かにし幸福にするのに少しでも役に立ちそうな工夫を考え出す点においてはまさに天才的である。」

ここでは、なによりも自由精神が重んじられる。それは、自立と自律をともなう自由である。この理想郷を去りたければ、誰も引き止めはしない。だが、この理想郷を侵害する者には容赦しない。戦争で得られる名誉ほど不名誉なものはないと考える一方で、自存自衛のための防衛意識が極めて高い。俗世間の目には触れさせてはならぬシャングリ・ラを彷彿させるような...
「思うにこの国は、単に世界中で最善の国家であるばかりでなく、真に共和国(コモン・ウェルス)もしくは共栄国(パブリック・ウィール)の名に値する唯一の国家であろう。」

このような自立した世界においても、役人は必要なのであろうか。首長は必要なのであろうか。行政は、政(まつりごと)を円滑に行えるよう指導する立場。指導する立場には自ずと上下関係が生じ、権威が寄生する。権威は人を変える。命令する立場であるがゆえに。しかも、一度獲得した地位を絶対に手放そうとしないのが人間の性癖。そして官僚的腐敗を助長する。権威が存在するところには、必ず法が必要というわけか。権威に結びつく権力を制限するための...
ユートピアといえども、法律は必要らしい。では、人間社会における最低限の法律とはなんであろう。ここには私有財産という概念がない。あるのは、すべて共有財産との考え。
しかしながら、共有を崇めると... 私のモノは私のモノ。あなたのモノも私のモノ... となるのが、これまた人間の性癖。こと政治の世界では、共有の概念は官僚的腐敗とすこぶる相性がいいときた。自由と平等はしばしば対立し、下手をすると平等は人間の能力差までも否定する。
共和国、共栄圏、公共繁栄といった言葉は古くから賛美されてきた。だが、人が本当に求めているのは自己繁栄であって、公共の利益は自分が犠牲にならない程度に求めるに過ぎない。自己が他に優越し、自分の属す集団が他の集団に優越し、それで自己満足が得られるのは、いわば人間の本質である。こうした性癖を完全に放棄すれば、それは人間なのであろうか?
では、所有の概念をどう処理するか?誰のモノにするか?この世のすべては、神からの借りモノとでもするか。すると、神に起因する宗教も必要となる。神の存在を持ち出せば、神の代弁者と名乗る者が現れ、魔術や呪文の類いが蔓延る。結局、人間の解釈によって人間の支配する世界となり、神に捧げるはずのものが、強者に生贄を捧げることに。
人間社会には、パラドックスが溢れる。一人の人間の中でさえ利己主義と利他主義が共存する。最も知識に優れた政策立案者が編み出した策定が、しばしば逆効果になるのも道理である。理想郷といえでも、やはり法律は必要なものらしい...
「あらゆる種類の動物が餓鬼のように貪欲になるのは、実に欠乏に対する心配であり、特に人間においては虚栄心である。」

2018-09-23

"ビヒモス - ナチズムの構造と実際" Franz Leopold Neumann 著

さらにさらに流れ弾...
生涯で一度は読んでみたいと考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、海の怪物に手をつけたがために、陸の怪物にも看取られてしまう。そして今、トマス・ホッブズからフランツ・レオポルド・ノイマンという流れ弾まで喰らっちまった。乱読とは、自由精神の体現だ!などと言っている場合ではない。それは、単に感化されやすいってことだ...

バビロニアに起源をもつ終末論には、二つの怪物があると聞く。海を支配するリヴァイアサンと陸を支配するビヒモス。前者は雌、後者は雄とされ、こと悪魔の世界では対で存在することが収まりをよくする。黙示録によると、恐怖の支配をもたらす怪物どもは世界の終末直前に現れ、神に亡ぼされることになっている。他説では、同士討ちになるというのもあるが、いずれにせよ亡びることに。かくして正義と公明の意志の日がやってくるとさ。ところが、海と陸に住む動物たちはそれぞれに恐怖の大王を主と崇め、王国再興を祝う饗宴で双方の肉を喰っちまう。
この伝説は、ユダヤの終末論、ヨブ記、予言書、聖書外典などで言及され、実に多くの解釈を呼び、しばしば政治状態の比喩とされてきた。聖アウグスティヌスはビヒモスの肉にサタンを見たという。ホッブズは、イギリス革命で暴走する大衆の意志をリヴァイアサンと重ね、議会が迷走するアナーキーな様相をビヒモスと重ねて魅せた。そして、ノイマンは、国民社会主義をビヒモスと呼ぶに相応しいと語る...

注目したいのは、これが書かれた時期である。1942年、ロンドンで出版。1944年、「大ドイツ帝国」を加筆。既に原稿は、ドイツのソ連侵攻時には書き上げられていたという。
著者の名からユダヤ系であることは想像に易い。ノイマンは早々アメリカへ亡命する。ヒトラーが経済政策をあっさりと片付け、ドイツ民族の誇りを取り戻してくれたと大衆が熱狂している最中、彼はナチズムの本性を暴いて見せる。政治哲学なき政治、経済理論なき経済と。それは、単なる民族意識を支柱とする文化的体系で、政治、経済、軍事の方面で、これを売り物にしているというのである。不安を煽って安心を提供する手口、これがセールス心理学の鉄則だ。ゲーリングの結合企業群が雇用を支配し、ゲッペルス文学博士の巧みな言葉でプロパガンダの威力を見せつけ、ヒムラーの魔術的思想が不気味さを植え付け、大衆を受動的な生贄にする。経済政策は単なる金持ち批判に発し、政治体制は単なる共和国批判に発し、感情論を煽る。それゆえ、ここには政治哲学も、経済理論も存在しないというのである。現在でも、これほどの考察はなかなか見当たらない。やはり人生の醍醐味は、寄り道、道草、回り道、そして流れ弾の方にあったか...
ちなみに、ノイマンはソ連の諜報員でアメリカで活動していたという説もあるが、真相は知らん...

1. 国民社会主義と国家社会主義という訳語
ナチズムを語るなら「国家社会主義」とする方がよさそうな気がするが、本書はあえて「国民社会主義」という訳語をあてている。それは、アドルフ・ワグナーたちが持ち出した言葉との混同を避けるためだそうな。
また、他にも意図があるようである。ナチズムがイタリアのファシズムと一緒くたに語られるのをよく見かけるが、そのような通念から「国家社会主義」という用語が出回ったところもある。ノイマンは、イタリアの国家至上主義とは異なるナチズム観を強調している。
尚、岡本友孝、小野英祐、加藤栄一訳版(みすず書房)を手に取る。

2. 全体主義的独占資本主義
ヒトラーが利用した経済システムは、ワイマール共和国の産物だったという。独裁政権下で原動力となるカルテルやトラストなどの形態は、ワイマール共和国の下ですでに完成していたと。ドイツ人労働者は企業の巨大化を望む傾向にあるとしているが、大会社に就職したいといった意識はどこの国でも見られる。経済不安となれば尚更だ。こうした独占形態は、自由主義や民主主義とすこぶる相性が悪い。ワイマール共和国の失敗は、共和国という名を掲げながら、経済政策では逆のことをやっていたということか。これは社会主義的な政策でもなければ、共産主義的でもなく、あくまでも資本主義の暴走した形態であり、俗に言う帝国主義なのである。
さらに、資本拡張の動機に、民族主義を結びつけたところがナチズム的である。ゲルマン系民族には、逞しい身体を誇りにするという意識が伝統的にあるという。これに、北欧系の美しさと優秀さを結びつけたのがナチス式アーリアン学説である。
タキトゥスの著作「ゲルマーニア」によれば、アングロサクソンもゲルマン系。優越主義とは、劣等的な存在を定義して初めて成り立つ原理で、人間ってやつは、なにかと格付けがお好きときた。ヴェルサイユ条約以降、叩きのめされてきた民族の誇りをくすぐり、愛国心を刺激するのが大衆を煽る絶好の方法となる。
「大ドイツ帝国」とは、その根底に第一等人種を盟主とするヒエラルキー構想があり、いわば「大東亜共栄圏」とも似ている。ヒトラーの政策は、民族主義とのセット、いや民族主義そのものであって、経済政策と呼べる代物ではないということか。アウトバーン建設や大規模な公共投資は、ケインズ理論の実践と評されることもあるが、本書にはケインズの名は見当たらない。というより、超ハイパーインフレの中でやれる経済政策は、これくらいしかなかったということかもしれない。そして、資本家による独占形態を、党直属の企業を経由して国家による独占形態に変えていく。
全権委任法の成立において、出席議員の必要票数を獲得したことは事実である。だがそれは、多数の共産党や社会民主党の議員が正当な理由もなく逮捕されていた中での出来事。こと政治の世界では、合法的に見せることが合法的となる。ヒトラーはカップ一揆やミュンヘン一揆で悟る。国家権力につくには革命的な方法では不可能であることを。それは、国家機構の助けによってのみ可能せしめることを。そして、すべての権力を合法的に手中に収めたヒトラーは、ワイマール共和国の制度的な民主主義を、儀式的で魔術的な大衆主義に変えてしまう。
政治理論が通用しないとなれば、それは国家なのか?本書は、こう呼ぶことを提案している。「全体主義的独占資本主義」と。なんとも形容矛盾な用語である。「国家資本主義」なんて言葉もよく見かけるが、こと政治体制においては矛盾の方に真理があるのかも。現在でも、経済政策がうまくいけば、大衆は政治家の多少の失態に目をつぶる。逆に、経済政策で失敗すれば、どんなに優れた言葉を発信しても陳腐となる。はたして政治権力が怪物なのか。大衆が怪物なのか。いや人間がそのものが怪物なのか...

3. 反セム族主義
大ドイツ帝国を実現するための最初の課題は、民族団結のための共通の目標をつくること。共通の敵をつくって愛国心を煽るやり方は現在でも見られる政治の常套手段で、優越意識を高めるためにまず格付けをやる。ドイツ人の次は、ウクライナ人、ゴラール人、白系ロシア人で、彼らは特別待遇を受けたという。その次がポーランド人で、その次、つまり最下層がユダヤ人。強制収容所へ送られる順番は、ユダヤ人の後に、ポーランド人、チェコ人、オランダ人、フランス人、そして、反ナチのドイツ人と続く。平和主義者も、保守主義者も、社会主義者も、カトリック教徒も、新教徒も、自由思想家も、あるいは被占領民族もお構いなし。イデオロギー破壊という意味では、見事な平等主義だ。民族に格付けがなされれば、劣等人種からの略奪が合法的となり、純血を守るというスローガンを正当化させる。
労働者寄りの経済政策において最初に標的にされるのは、決まって富裕層。職が奪われていると触れ回り、資本階級で幅を利かせるユダヤ系企業が攻撃対象となる。アーリアン化による独占形態は、銀行業において特に顕著であったという。
国民社会主義の人口政策は、必要な数だけの北欧人種の繁殖を確保するために立法化される。最もうす気味悪いのは、肉体的、生物学的に好ましくないとされた人々の生殖を阻止する立法措置である。SS 隊員の結婚には特別な許可がいる。当時から、ヒムラーは露骨な人種差別論狂信者として知られていたようである。
「国民社会主義は、ユダヤ人の絶滅を唱導した最初の反セム族運動である。しかしこの目標は、『ドイツ人の血の純化』と呼ばれる、より広範な計画の一部分にすぎない。」
反セム族主義は、共通の敵をつくる点において三つの効果をあげたという。
第一に、階級闘争にとって変わる。資本階級への不満を民族闘争にすり替えたこと。
第二に、東部への領土膨張を正当化する。ドイツ人の住む領土は、すべて第一等民族としての主権があると。
第三に、キリスト教批判を抽象化する。反キリスト教の潮流には二つの立場がある。一つは、それがキリスト教的であるがゆえに拒否。二つは、十分にキリスト教的でないがゆえに拒否。
反キリスト教的イデオロギーにおいて、最も強力な感化力を持っていた人物はニーチェだという。ただ、ニーチェは反セム族主義なんぞではないし、それはノイマンも擁護している。哲学思想で都合よく利用された立場は、スコラ神学におけるアリストテレスと似ている。
「反セム族主義は、損なわれた自尊からくる腹立たしさの捌け口をつくり、また新旧中産階級と地主貴族との政治的同盟を可能した。」

4. ゲルマン的モンロー主義
モンロー主義は、アメリカ帝国主義のイデオロギー的基礎である。互いの主権を尊重して相互干渉しない... と言えば聞こえはいいが、お前のやることに口を出さないから、俺のやることにも口を出すな!... という姿勢である。
これをゲルマン風に解釈すると... ドイツ人が住む領土には、すべて第一等民族としての主権がある。さらに拡大解釈すると... ドイツ人が移住した場所はすべて「大ドイツ帝国」の領土となる。そして、世界は一つという大国家思想は、民族を階層化することにすり替えられ、人種差別をも正当化させる。現在でも、市民を多く送り込んで議会を乗っ取ろうとする動きは見られるものの、スケールが違う。地政学を民族主義で解釈すると、こうなるのか。これが「人種的モンロー主義」ってやつなのか。
ノイマンは、国民社会主義が民族のアウタルキーを目指して、外国市場を放棄するなどと信じるのは馬鹿げている、と指摘する。それは、国際法の根本原理である国家主権を人種主権に置き換えただけのこと。これを、プロレタリアート的人種帝国主義と呼ぶのでは説得力に欠ける。本書は、「大ドイツ帝国 = ゲルマン的モンロー主義」という形で論じている。
「この帝国主義的な趨勢はいかなる国際法によっても拘束されず、また、どんな正当化も必要としない。帝国が存在する。そしてその事実が、十分な正当化なのである。」

2018-09-16

"ビヒモス" Thomas Hobbes 著

生涯で一度は読んでみたいと考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、その一つに手を付けたがために、流れ弾に当たってしまった作品も数多ある。酔いどれ天の邪鬼には、寄り道、道草、回り道の類いがたまらないときた。そして、リヴァイアサンという海の怪物が、ビヒモスという陸の怪物へといざなうのである。人間社会という怪物は、神ではなく悪魔に看取られているらしい...
尚、山田園子訳版(岩波文庫)を手に取る。

「リヴァイアサン」は、民主制を唱える群衆が暴徒化する様を一つの人格として描いた作品であった。群衆化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになる。この集団的意志が怪物というわけである。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると何かと問題が起こる。リヴァイアサンとは、コモン - ウェルスの代名詞というわけである。
そこでホッブズは、主権者の下で社会契約によって統制された集団的人格を要請する。教会を痛烈に批判し、集団社会を怪物のように描けば、無神論者とも、異端者とも、絶対王政主義者とも呼ばれ、世間を敵に回すことに...

一方、「ビヒモス」は、イギリス革命によって主権や秩序が崩壊していく様を回想したもので、トマス・ホッブズ最晩年の作品。ここでは議会が迷走し、はっきりとした形としての怪物が見えてこない。無形化してしまったアナーキーな様、集団的意志を失った様、これが怪物というわけか。人間社会ってやつは、どっちに転んでも怪物になるものらしい...
ここでは、ホッブズが怪物を描くに至った歴史観を垣間見ることができ、「リヴァイアサン」の弁明書と見ることもできよう。
物語は、世代の異なる二人の対話形式で展開される。若き法学徒が質問役となり、老いた異端論者が回答役となり。異端者を焚刑処理できないことの論証まで加えているのは、自分自身に向けられる処刑妄想でもあったのだろうか。
教育で導こうとする方法論ではプラトンの対話形式に見て取れるが、ホッブズの叙述姿勢はとても公平とは言えない。もともとイングランド国教会はローマ教会から分裂した異端の立場にあり、国制では王政と議会の共存する混合君主制を敷いている。ホッブズの宗教論もこの立場を継承して、教皇派聖職者をキリストに従わない輩とし、スコラ神学者をアリストテレス的ですらないとし、プロテスタントの方がまだましだと主張する。だが統治論となると、議会派を嫌悪してチャールズ1世を支持するが、それは伝統的な混合君主制を支持するのでもなければ、議会制民主主義を擁護するものでもなく、ひたすら王を絶対主権者とみなし、王への服従を民衆に求めるのである。世襲の正当性を六百年続いたということだけを根拠に、それで契約を結べというのでは、あまりに薄弱な論拠!
「君主の職務遂行に絶対必要なものは、臣民の服従」と訴え、それはその通りだろう。しかしそれは、主語を「君主」から「法」に置き換えれば、民主制も、貴族制も、君主制も同じこと。おまけに、王を賛美し、王の敗北を素直に認めない記述に、ややうんざり...
それでも、宗教家批判には頷ける点が多く、船舶税をめぐって民衆を煽る議員や有識者たちの様子にも、近年、国民投票で EU 離脱を表明するに至った経緯と重なって映る。スペイン無敵艦隊を破ったとはいえ、まだ制海権を掌握するまでには至っておらず、海岸線に憂いを残していた時代。常に扇動者は言う、税負担を軽くしてやる!と。これに乗せられる無知な怪物という構図は、いつの時代も変わらない...

1. 民衆蜂起の要因
ホッブズは、内戦の原因を七つ列挙している。
第一の堕落者は聖職者、特に長老派。神の代理人と称し、教会の統治権を神から委ねられたと主張する輩。
第二に、ローマ教皇によって統治されるべきとする教皇主義者。
第三に、宗教の自由を求める人々。
第四に、古代ギリシア・ローマ共和国時代の書物を読んで知識をまとった人々が、君主制を批判したこと。
第五に、オランダ商業の繁栄を称賛した人々。宗主国スペインに反逆して自由を勝ち取った栄光を讃えて。
第六に、財産を浪費した怠惰な人々。
最後に、義務に無知な人々。義務とは、王への服従義務のことで、この根拠を擁護する気にはなれない。ただ、民衆蜂起では、必ずと言っていいほど、おこぼれにあずかろうとする輩が出現する。名声を得ようとする者や一旗揚げようとする者など。穏健派は急進派に抹殺される運命にある。
ホッブズが穏健派だったかは知らん。単に絶対君主制支持者だったかもしれないし、その性格は「リヴァイアサン」よりも「ビヒモス」の方が鮮明になってくる。それでも無神論者という批判は当たらないだろう。ある種の群衆論として眺めれば、歴史的背景が傍観できる。
「場所と同様、時間にも高低差があるとしたら、時間の頂上は1640年から60年の間にある、と私は確信している。悪魔の山から見下ろすかのように、この時間の頂上から世の中を見下ろし、とくにイングランドの人間の行動を観察すれば、この世で見ることができる限りのありとあらゆる不正と愚行を、一望の下におさめられるだろう。不正や愚行が人間の偽善や自己欺瞞からどうやって生み出されたのか... 偽善とは不正に不正を、自己欺瞞とは愚行に愚行を重ねることだ。」

2. 世俗的権威の暴走
内戦勃発までにはややこしい経緯があるが、その動機は単純だ。教皇派から異端と呼ばれたイングランド人。ローマ教会では異端は最高の罪であり、迫害対象となる。領土から異端者をすべて追放しろ!と命じ、従わない王を退位させる。教養ある者が聖書を読めば、様々な解釈が生まれ、教会権力に少しでも疑問を呈する者はすべて異端とされる。アカデメイア派、逍遙学派、エピクロス派、ストア派などが異端とされた。アリストテレスを都合よく解釈するスコラ神学者は、もはやアリストテレス的ですらない。
神の言葉を解釈する資格を持つ者とは、どういう人物を言うのか。主権者の分別は、勝手な解釈を広める連中を罰することにあるのか。当時の有名大学が、スコラ派に毒されていた光景を物語る。
「聖書がギリシア語やラテン語で封じ込まれ、説教者が聖書から引き出したことだけを人民に教えるところでは、起こるべくして起こる。」
さて、教皇が世俗的権威を獲得したのは、いつ頃であろうか。ホッブズは、その起源を4、5世紀頃の北方民族の大移動から掘り起こす。怒涛のごとくローマ帝国を襲えば、ローマ市民は教会に救いを求める。教皇は教会権力の装いの下で、君主の世俗的権利を侵害し始め、8世紀から11世紀の教皇レオ3世からインノケンティウス3世の間に教皇権力が最高潮になったという。レオ3世は教会権力を取り戻したカールを大帝にし、以来、教皇が皇帝をあつかましく作りあげるようになったと。
教皇がキリストの代理人だとすれば、皇帝よりも上の存在というわけである。誰のおかげで国を統治できるのか?それが王にとって戒めになるなら、良い慣習かもしれない。
しかしながら、教皇や教会もまた暴走する。教皇は権力を強めるために信仰箇条を追加する。
「聖職者の結婚は不当。」
王は世継ぎがなければ世襲が続かないので、正統な後継者を広く知らしめるために正式な王妃が必要である。それは、王には聖職者になる資格がないことを意味する。聖職者の結婚禁止は、教皇グレゴリウス7世とイングランド王ウィリアム1世の時代に導入されたとか。
さらに、こう定めた。
「司祭への口頭告解が救いに不可欠。」
人々は、世を去る前に告解と赦免がないと救われず、司祭から赦免をもらえれば永遠に破滅しないというわけである。こうした信仰箇条が教会を通じて浸透していくと、人々は王よりも聖職者を恐れる。
そして、イングランド王エドワード3世までの間に、第二の謀略がはじまったという。宗教を一学問とし、アリストテレスの形而上学や論理学に基づく道徳的かつ自然学的な議論によってローマ教会を擁護する。大学が設置され始めたのがカール大帝の頃で、大量のスコラ神学の書物が出回るようになったとか。アリストテレスにとっても迷惑な話であろう...

3. 混合君主制の意義
君主制と民主制は相容れない政体なのであろうか。国王という称号が権威として残るケースがある。イングランドの制定法には、伝統的な憲章として「マグナ・カルタ」がある。君主制を前提としながら、国王の令状を不正取得する主権乱用者から人民を守るための法である。ここでいう君主制とは、人民を守る立場を堅守することであって、僭主制とはまったく相容れない。国王が権力を乱用するのが君主制の欠点であり、狡猾な議員が無知な大衆を扇動するのが民主制の欠点。国王と議会が並列に配置されれば、一方が暴走した時に他方が監視役となって機能しそうなものだが、そうはならないのが人間社会のカオスなところ。となれば、どちらかが大人になって権力を放棄し、権威を残すという形が落とし所になろうか。
イギリス革命では、クロムウェルが政権を掌握し、彼自身が主権者になる可能性もあっただろうし、国王が滅亡する可能性もあっただろう。だが、国王制は残った。一時的に王が処刑されたとしても、滅亡には至らなかった。なぜ、クロムウェルは王の称号を拒んだのか?そこまで厚かましくはなれなかったというのか?その後、民衆は世襲君主の復活を歓迎することに。
似たような歴史現象が、我が国にもある。天皇制がそれである。幾度となく成立した幕府は、天皇家を抹殺することができるほどの権力を掌握したが、滅亡には至らなかった。同等に争った武家には完全抹殺を図ったというのに。天皇の権威に後ろめたさのようなものがあるのか?それは気分の問題か?
いずれにせよ、どの党派にも、どの宗派にも属さないという権威が必要な場合がある。国家的危機に直面した時、中立的な権威こそが庶民を代表できる資格を持ち得る。それは、権力を放棄した大人の権威となろう...

2018-09-09

"リヴァイアサン (全四冊)" Thomas Hobbes 著

生涯で一度は読んでみたい... そう考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある。こいつも、その一つ。いくら有名な書とはいえ、イメージが先走り、いまいち気分が乗らない。面倒くさがり屋の心が奥底でつぶやいているのだ。本当に評判どおりのものなのか?と。骨を折ってまで読む価値があるのか?と...
それでも実際に触れてみると、イメージを超えた何かに出会えるかもしれない。期待感とは、見返りを求めることか。それは、宗教と何が違うのだろう。人間そのものが信仰的な存在というわけか。人間ってやつは、何をやるにしても信念や信条なるものの後ろ盾を求めてやまない。つまりは思い込みってやつだ。宗教は、信じる者は救われると説き、信じない者を抹殺にかかる。これに対抗するかのように、信仰の告白は自由を告げる。科学は、疑うことで救われる道を開いてくれた。その意味で、科学もまた相当な宗教といえよう...

「リヴァイアサン」とは、旧約聖書に出てくる海の怪物。トマス・ホッブズは、この怪物になぞらえ政治哲学を著した。それは、自然哲学や形而上学の域を超え、物理学、天文学、幾何学、さらには、修辞学、詩学、音楽... と実に多岐に渡って論じられる。
まず、人間個々の本性を暴きながら、人間社会の自然状態を探る。そのアプローチはロックやルソーに受け継がれるが、今日でも自然状態というものに対する見解や解釈は多く見られる。人間の多様性とは、それほど手強い相手ということだ。そもそも政治という形態は、人間の自然な姿なのだろうか?
ホッブスは、人工的産物だと吐き捨て、戦争状態こそ人間の自然状態であるとし、あの「万人の万人に対する闘争」という言葉が導き出される。この部分だけを読めば、彼が絶対主義者という見方もできなくはないが、全体像を眺めれば、そのような印象は薄れていく。その印象を完全に拭いきれるわけではないにしても...
ちなみに、ホッブズは絶対主権を主張したことで絶対王政主義者とみなされ、痛烈な教会批判をしたことで無神論者とされた。

哲学書の扱いが難しいところは、部分的に言葉を引用しては正反対の印象を与えかねないということ。大作であれば尚更である。
この作品は、イギリス革命の真っ只中に書かれた。ピューリタンの暴動を目の当たりにすれば、権利の主張とは暴動なのか?と嘆き、絶対王政を懐かしむのも無理はあるまい。改革というものは血を流すもの、いわば歴史の必然なのかもしれない。
フランス革命では、ブルボン王朝の絶対王権を倒した直後の共和制が恐怖政治と化すと、ナポレオンの呼び水となった。明治維新でも、血なまぐさい暗殺が横行すると、幕府の方がましという風潮があった。ヒトラーに至ってはワイマール共和国の合法的産物である。
かのアリストテレスは、君主制、貴族制、民主制の三つの政治体制を唱え、中でも民主制は最悪だというような愚痴を遺した。民主国家アテナイの凋落ぶりを目の当たりにし、その救世主を、自ら家庭教師を務めたアレキサンダー大王に託したのかは知らんよ...

一方、ホッブズは唱える。政治体制はあくまでも手段であって、民意をいかに政治に反映させるかが本質であると...
本書には、「コモン - ウェルス」という用語がちりばめられる。直訳すると「公衆の財産」ということになるが、この目的は、君主制であろうが、貴族制であろうが、民主制であろうが同じというわけである。ローマ帝国は君主制を敷きながら、元老院を置いて民衆的統治を行った。本当に君主が存在するならば、君主制も悪くない。だが歴史を振り返れば、君主はみな僭主と化した。一人の君主がいたとしても、その後継者は僭主となり、長続きしないばかりか、どんどん泥沼化していき、王朝そのものを終焉させるしか手がなくなる。
対して、民主制は一時的には暴走しても、自己再生する力がかすかに残されている。国家元首がころころ変わっても、政治権力を抑制できる柔軟性こそが民主主義の原理としてある。したがって、民主主義は崇めるほどのものではなく、歴史的経験から比較的ましであったということ。それも、改良に改良を加えてきた民主制によって...
但し、ホッブズがそういう意図で書いたかどうかまでは知らんよ。評判どおりの絶対君主制支持者だったかもしれないし、それは陸の怪物「ビヒモス」がより鮮明にしてくれるだろう...
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 集団的意志という怪物
「リヴァイアサン... すなわち、教会的および市民的国家の質料、形相、および力」
リヴァイアサンとは、集団的意志とでも言おうか。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると、何かと問題が起こる。集団化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになり、善人の集団が悪魔化する現象も、そう珍しいことではない。生物界は、弱肉強食の法則を与えても同族の抹殺までには至らないが、人間社会は、同族間の競争の原理によって機能している。やはり怪物か!
伝統的な倫理的問題に、人間は生まれつき善人か、悪人か、という論争があるが、ホッブズは後者側であろうか。ただ、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、善悪のどちらかだけを認識することは不可能であろうし、悪人ほど善人ぶるのが上手いというのも道理である。宗教的な理性の渦巻く時代、ホッブズにしても、マキャヴェッリにしても、人間の醜態という視点から政治倫理を問うた意味は大きい。さて、ここに理性の人工的完成を見ることができるだろうか。そりゃ無理な話よ...
「各人が各人を敵に争う戦争状態こそ人間の自然状態であり、国家とは、平和維持のために絶対主権をもって君臨すべく創出されたいわば人工的人間にほかならない。」

2. コモン - ウェルスと正義
ホッブズは、自然権に生まれながらの平等と自由を唱えながらも、競争からくる争論への愛好や安楽への愛好からくる社会的服従といった性癖を暴き、自惚れからくる虚しい企てや有能という自負からくる野心といった行動パターンを分析する。称賛への愛好から生じる徳性への愛好などは見返りを求める性向で、親切心からくる信任や無知からくる慣習への執着などの見方は、まさに悪魔じみている。ホッブズは告げる。平等から不信が生じ、不信から戦争が生じると。人間は、無知な平和愛好家であり続けるというわけか...
「余暇は哲学の母であり、コモン - ウェルスは、平和と余暇の母である。」
平和主義で最も重視されるのが、正義の概念である。それは、軍事力をも凌駕する力の概念。では、正義とはなんぞや?正義は、自然状態なのか?ホッブスに限らず、正義は理性に反しないというのが一般的な見解であろうが、それは本当だろうか?
歴史を振り返れば、正義を掲げる政治指導者ほど胡散臭いものはない。国家間の争いでは双方の国民が正義を掲げ、外交の場では正義が交換財となる。これを世間では現実主義と呼ぶ。あらゆる論争で打ち負かした方が正義となれば、報道屋はいつも正義漢ぶり、弁論技術をどんどん旺盛にさせる。それは、ソフィストの時代と何が違うのだろう...
「正義と所有権は、コモン - ウェルスの設立とともにはじまる。」

3. 社会契約と国家
「社会契約論」といえばルソーの書として有名だが、社会契約という概念そのもは既に古代ギリシア時代に見て取れる。そこで問われるのが、契約の対象は神か?教会か?それとも国家か?
社会と契約するには、法がその役割を果たす。では、法を作り出す主体は誰か?本書は、生存権を自然権として論じているが、それを保障する法もまた自然法から逸脱した人工物として君臨している。国家という形態は、何をもって正当化できるだろうか?それは、自己存在に対する安全保障が担保されなければなるまい。
本書には、防衛権という言葉は登場しないが、国家権力の絶対性を論じ、他の存在権をも侵さないということを含めて自由の概念を生起させている。イギリス革命の争点の一つに、国家主権が国王にあるか、議会にあるか、というのがあるが、内乱に乗じて教皇主義の復権を目論む連中が見てとれる。ホッブズは教会権威をも国家権力の下に置くべきだとして、法王は全世界の主ではないと釘を刺す。
となれば、宗教の自由を唱えているように見えてもよさそうなものだが、キリスト教の絶対性は堅守していると見える。前半の二冊で人間論と国家論を唱えておきながら、後半の二冊では激烈な教会批判に費やされ、スコラ神学者への攻撃も凄まじい。科学的な視点を加えれば、奇蹟を起こす預言者も減少し、聖書が彼らの地位に取って代わる。しかも、これだけ聖書の言葉が多く引用されれば、説教嫌いな天の邪鬼は、ちとうんざり...
競争原理に対して、ロックは生産の概念を導入することで緩和し、ルソーは歯止めとなる理性の存在を強調したが、ホッブズはあまりにも正面から立ち向かったがために、主権と人権との対立を激烈にしたと見える。いずれにせよ、宗教も、哲学も、なにかの手段に過ぎない。
ちなみに、明治政府の文部省は、この書に「主権論」の邦題を与えたというから、その意図も垣間見る思いである...

2017-07-30

"選挙のパラドクス - なぜあの人が選ばれるのか?" William Poundstone 著

政治の在り方を問うたアリストテレスは、最善なのは君主制で、次に貴族制で、最悪なのは民主制というようなことを書いた。しかし、真の君主はどこにも見当たらず、ことごとく僭主と化す。有識者や有徳者の集団ですら権力を握ると、そうなるものらしい。今日、様々な政治体制が試されてきた中で、民主制が比較的マシとされる。そして、その実践法の代表とされるのが選挙だ。これに勝利した者だけが決定を下した事に正当性を与え、行政を機能させうる。
だが、貧困国では、西洋式民主主義を押すつける時に真っ先に導入され、腐敗選挙や恐怖選挙が横行する始末。ある経済学者はデモクラシーならぬデモクレイジーと呼んだ。民主主義は世界で一定の地位を獲得し、崇める人も少なくない。ならば、選挙の在り方について、あまり問われることがないのはなぜだろう。そりゃ、現行制度で当選した者が、わざわざ制度を見直そうなどとは思わないだろう。では、政治ショーを煽る報道屋はどうか。他の選挙方法では結果はこうなります!といったシミュレーションを公開してみるのも一つの手。選挙方法をちょいと変えただけで勝敗が逆転するとしたら、当選者の正当性はどうやって担保されるだろうか。選挙運動の不正もさることながら、選挙制度そのものの監視は誰の手に委ねるべきだろうか。
... などと問えば、民主主義ほど矛盾に満ちたものはなく、論理学を重んじたアリストテレスの主張も分からなくはない。一貫性という観点だけで言えば、独裁制の方がスッキリするだろう。腐敗体制か恐怖体制かは別にして...

ほとんどの選挙方法に「相対多数投票」が用いられ、無条件で多数決が崇められる。そうした感覚は、義務教育から馴染んできたこともあろう。候補者の戦略は、ひたすら過半数を目指すのみ。選挙に慣れない社会では最も分かりやすい方法だが、民主主義が成熟した社会ですらその意識は強い。
さらに、同じ相対多数投票であっても、境界条件が違えば意味するものも違ってくる。例えば、都道府県知事は、地域全体の直接選挙であるため単純に得票数で勝敗を決する。では、総理大臣はどうか?国会議員は地方選挙区で選出され、政党の中で有力となる人物は当選回数がものを言う。ならば、一国の元首が、地元の影響力が強い者ほどなりやすいということになりはしないか。相対多数の原理に深刻な欠陥があると納得させることは、それほど難しいことではなさそうだ。おまけに、選挙の勝者は常に好まれて選ばれるのではなく、しばしば消去法によって選ばれる。つまり、こういうことだ。
「相対多数から好かれる政治家は、大多数から嫌われる...」

本書は、相対多数より優れた方法として「コンドルセ投票」、「ボルダ式得点法」、「即時決選投票」を検討し、最有力な方法はインターネットでよく見かける「範囲投票」だと結論づけている。
しかしながら、どの方法をとっても、「不可能性定理」ってやつがつきまとう。ノーベル賞経済学者ケネス・アローが唱えた社会選択理論における法則である。やはりここにも、ナッシュ均衡が...
アロー風に言えば、そもそも合理的な民主制は不可能、いや、完全な合理的政治システムは不可能ということになろうか。政治コンサルタントとは、この不可能性につけこんで金儲けをする高度な知識集団ということことか。
「今日のコンサルタントを定義するものは、電子メディア、科学的世論調査、ゲーム理論を応用した戦略、そして最後に、徹底的にダーティなエートスだ。」
選挙戦略では、相手のスキャンダルに乗じたり、ネガティブキャンペーンを仕掛けるだけでは能がない。一騎打ちで勝算がなければ、わざわざスポイラー候補を立てて票割れのための生け贄を捧げたり、時にはメフィストフェレスとも手を組む。選挙で清廉潔白を競っても無駄だ。政治家の資質は清廉潔白などではなく、そう見せることが肝要なのだ。そして、あのマキァヴェッリの言葉が聞こえてくる... 盲人の国では片目の男が王様だ!

1. 非単調性と非推移性
本書は、「非単調性」という論理学用語が持ち出す。投票者が候補者の評価を上げようと高位にランク付けすれば、後押しできる。これが単調性で、その反対が非単調性である。単純な相対多数投票や優先順位付き連記投票では、政局に関係しそうにない票が集まり過ぎたために敗北を喫したり、支持者の一部が投票しなかったおかげで勝利したり、といった奇妙なことが起こる。
有力候補者が二人に絞られ、残りはマイナー候補者ばかりといった構図では問題はない。問題となるのは、有力候補者が三人以上の時だ。第一勢力が過半数に満たない場合、少数派であるはずの第三勢力がキャスティング・ボードを握ることもある。はたまた、アイツだけは勘弁してくれ!といった人が当選することもあれば、凡庸な首長が誕生したりもする。「スポイラー効果」のような現象は、有力者の票を喰ってしまうのだ。その場合、三番手の票が割れ、候補者が消去されていく順番が重要となり、党首指名選挙などでは決選投票が導入される。一方、知事選や代議士の選挙区には一人区があり、候補者が乱立すれば事実上の無効票も増える傾向にある。数学は二体問題を極めて単純化してくれるが、三体問題となると、たちまち難題にしてしまうのである。
また、本書は「非推移性」という概念を持ち出す。A が B よりも金持ちで、B が C よりも金持ちならば、A は C よりも金持ちとなる。これが推移性で、これが成り立たないものが非推移性である。A は B を愛し、B は C を愛しているが、A が C を愛しているかは知らんよ。
これらの概念は、勝敗逆転のパラドクスをよく表わしており、アローの「不可能性定理」の核となる。

2. ボルダ方式とコンドルセ方式
「ボルダ式得点法」は、最も好ましい者から最も好ましくない者までランク付けをする。例えば、投票用紙に記載された名前とともに番号をふり、集計の際は各候補毎に数字を合計していく。ポイント形式でもいい。このやり方は、相対多数よりも投票者の意思をより明確にする。絶対にアイツは嫌だという意思まで。ランク付け投票は、是認投票、あるいは、否定投票という形をとりうる。ただ、ライバル陣営は対抗馬に最低点をお見舞いするだろうし、この方式でも票の重みに歪が生じる。
一方、「コンドルセ投票」は、候補者が二人の場合を理想とし、あらゆるケースで一騎打ちさせるというやり方。最も正当な勝者は、すべての候補者を正面から打ち破り、最後まで立っているボクサーというわけだ。ただ、決選投票を毎回やるには手間がかかり、コストもかかる。
そこで、投票用紙には、候補者の二人の組み合わせがすべて記載され、どちらを好むかを問うようにする。これはこれで、投票用紙がややこしくなりそう。A よりも B を好む集団、B よりも C を好む集団、あるいは、C よりも A を好む集団が混戦すると勝敗は微妙だ。これを「コンドルセ循環」と呼んでいて、ジャンケンで言うところの、あいこの状態である。このような状態では誰が勝っても小差であり、すべての陣営が正当性を主張するような状況が想定される。世論はちょっとしたきっかけでどちらにも転ぶし、選挙後に不正があったと煽るのは政治屋や報道屋の常套手段だ。
ちなみに、ルイス・キャロルこと数学者チャールズ・ドジソンも、この二つの方式を自力で考えついたそうな。彼の著作「不思議の国のアリス」には数々のパラドクスが描かれ、その中にコーカス・レースが登場する。党大会レースってやつだ。まず、ネズミの無味乾燥な演説で、みんなのびしょ濡れになった身体を乾かそうとする。そして、盛り上がってきた聴衆が好きな時に走り始め、突然、ドードー鳥が終了宣言してレースはおしまい。つまり、多数派原則を、全員で勝手に盛り上げ、全員で勝利した気分になれるという不条理な競争として描いているわけだ。
多数派の循環論法が、しばしばコンドルセ循環と重なり、アロ-のパラドックスを生むという原理を再現している。その一方で、冷めた目で眺めるアリスのような存在が、結果に幻滅し、選挙の意味を疑い、無党派層を拡大させていく...

3. 中位投票者定理
一般投票者は、一人一票の権利が与えられるだけでなんとなく平等性を感じ、自分の票が無効となる可能性に気づくことはないだろう。知らぬが仏ってか。天の邪鬼なおいらは、しばしば無効票を投じる。そこそこ支持している場合でも、勝ちすぎることを懸念してわざと対抗馬に投じたり、どちらも支持できない場合はあえて第三勢力に投じたり。つまり、本書で問題とされる典型的な不正直者なのだ。選挙に行かないという選択肢もあろうが、それは選挙権の放棄を意味しかねない。白票に何か意味を持たせることはできないか?などと考えたりもするのだが...
本書は、「中位投票者定理」という概念を紹介してくれる。候補者の政治観を直線上に並べた時、中位的な立場が存在し、そこに最適点を見出そうとする考えである。購買心理に、製品ラインナップで真ん中のものが選ばれやすいというのがあるが、これと似ている。中位を制するものが勝利するという戦略は、ランク付けするような選挙方式では機能しそうである。
ちなみに、おいらは、売れ筋とは逆ポジションをとる天の邪鬼だ。例えば、最高裁判所裁判官国民審査のような記入しなければ自動的に信任される方式を、どうやって正当化できるだろう。最初からバイアスがかかっているとは、論理的にも、倫理的にも、欠陥どころではあるまい。おまけに、半世紀以上も放置されたままときた。分からないから記入しないという人が圧倒的に多い中、すべてに☓印を書くという行為も、それになりに道理に適っていよう。とはいえ、それはそれで票の重みを歪めていることになり、ここに中位の原理はまったく機能しそうにない。結局、ネットで公開される判決事例を参考にすることになるが...

4. 即時決選投票
ランク付け方式の変形で、「即時決選投票」あるいは「優先順位付連記投票」と呼ばれる方法を紹介してくれる。
まず、ボルダ方式と同じように、投票者はすべての候補者にランク付けをやり、各候補者にそれぞれの票を山に重ねていく。一位にランク付けされた投票用紙がそれぞれの山に含まれ、第一の投票で過半数をとれば、その者が勝利する。そうでない場合は、最も高さの低い山に注目する。つまり、最下位の候補者だ。この候補者は消去され、その低い山の票が残りの山へ再分配される。ここで再び過半数をとる者がいれば、その者が勝利する。こうして、候補者の消去と投票用紙の再分配を下位の方から繰り返していく。
これならば、上位二名の候補者の票が最後まで再分配されることはなく、ボルダ方式よりもよさそうである。ただし、嫌がらせ票が上位候補者に集まりやすいという前提で。ライバル陣営の投票者は、第三勢力や、その他大勢の党派、あるいは無党派層を装うこともできよう。
そして、消去される可能性の高い候補者に注目して、再分配される票をターゲットとすればどうだろう。メインの票が疎かになれば本末転倒だが、数学的に集団行動の最適化はできそうだし、この方式の弱点も見えてくる。優勢が 45% から 55% ぐらいであれば、勝敗は集団的投票行動にかかっているということだ。少なくとも数学的には...

5. 範囲投票
本書は、投票者を最も満足させる方法は「範囲投票」だとしている。それは、"hot or not.com" の評価方式である。インターネットに青年男女のプロフィールが公開され、1点から10点でホット度を投票する。合コンやパーティーで、ちょいと気になる異性に点数をつけたりする行為は、なにもネット社会に始まったことではないが、写真を公開するのは勇気がいる。そして、自分の点数を見て自虐に陥っても平気だ。Mだし...
この方式は、Amazon や YouTube などでも見かける。インターネットでは評価する集団が特定されることはなく、実に多様な集団が参加してくる。
しかしながら、範囲投票が最もよく機能するのは、同一集団が全候補を採点する場合だという。まさに選挙がその条件を満たす。スポイラーや票割れの問題も見事に解決し、驚くべきは、インチキがあった場合ですら上手く機能するという。ほんまかいな?投票数が多くなればなるほど、作為的な票は誤差に飲み込まれるということらしい。それは、どんな方式でも言えることで、正直者が多いほど機能しやすい。ただ、口コミ情報はあまり当てにならんけど...

6. 二大政党制と比例代表制
一名選出選挙のためのシステムには、有権者間の矛盾を解消するような、全員にとって最も合理的な代表者が求められる。対して、比例代表は、有権者の多様性を議会という縮小された規模で再現しようというもので、各政党に獲得票の比率に応じた議席数を割り当てる。比例代表の問題は、一名選出選挙の問題とは様々な点で正反対となる。
比例代表の一般的なシステムは、単記移譲式投票で、優先順位投票が用いられる。一定割合の票を得た候補者が当選するが、当選確定者の余分な票は、それぞれの順位にしたがって他の候補者へ移譲される。
したがって、少数派の意見を尊重しすぎるために、勝敗が逆転してしまうことがある。社会の多様性を勝者にどのように割り当てるかは、選挙制度の難題中の難題と言えよう。
ちなみに、比例代表制の反対派は、必ずヒトラーの事例を持ち出すという。過激派の躍進を許したヴァイマル共和国は、比例代表を採用した。もし比例代表でなかったら、ヒトラー率いる第三勢力の躍進はなかったというのが、反対派の主張らしい。ヒトラーの暴走を許したのは議会が全権委任法を可決させたことにある。議会を無力化した手腕は、鮮やかというか、えげつない。では、二大政党制だったら、こんなことは起こらないと言えるのか?
一方で、アメリカの二大政党制を、政権交代可能な制度として理想に掲げる政治家を見かける。比例代表が人間社会の多様性を反映する手段だとすれば、人種的にも、文化的にも、多様なアメリカ社会に適合していそうだけど。二大政党制がマイノリティを排除する方向に働き、無理やり二体問題に押し留めているとしたら、どうだろう。かつてアメリカでも比例代表制を採用していた時代があるという。廃止してしまった経緯があるだけに、復活させるのが難しいという事情もある。それでも近年、比例代表制を訴える動きがあるとも聞く。
二大政党制は、むしろ単一民族社会である日本の方が適合しやすいのかもしれない。ただ、いくら単一民族であっても、人間の多様性は一筋縄ではいかない。二大政党制と比例代表制の在り方は、人間の普遍性と多様性の共存を問うているように見える。いずれにせよ、カオスの世界で一つの方法論を崇めるのは危険である。おそらく学者は最良のセールスマンにはなれないだろう。どんな選挙制度を導入したところで、必ず批判を浴びせかけるのだから。自問を奨励し、自己をも含む批判哲学が、学問を進化させてきたのも事実。学者は、どんな現象でも単純化しようする。それが悪いわけではない。本当に単純化できるのなら...

7. ベイズ後悔
「ベイズ後悔」という統計学用語を紹介してくれる。その名はベイズ統計に由来し、範囲投票の優秀さを唱えるウォーレン・D・スミスが唱えた基準だという。その定義には、こうある。
「人間の不幸のうち、回避可能だったと予測される不幸」
ベイズ後悔がゼロとなるような選挙方法が理想というわけである。彼のコンピュータ・シミュレーションによると、最良な結果を得たのが「範囲投票」だという。パラメータには、投票者の正直度、無知度、作為度、恣意度、策謀度などが持ち込まれる。多くの投票者は、マスコミが報じる世論調査にも耳を傾けるだろうし、マスコミの思惑にも乗せられるだろう。満足できない選挙結果に遭遇すれば、正直者の行為より戦略的な行為の方が、後悔度は大きいかもしれない。
スミスのシミュレーションは、他のことも示したという。正直者が多い場合、即時決選投票は相対多数投票よりもはるかによく機能すること。コンドルセ方式が改善されること。全員が正直者だったら、ボルダ方式は、即時決選投票、コンドルセ方式よりも、はるかに凌ぐ結果になったこと。それでも、範囲投票を凌ぐものとはならないらしい。

8. 功利投票
社会学や経済学において、数値による点数評価は長い歴史がある。一つは、ボルダやコンドルセからアローへと至る流れ。もう一つは、功利主義から広まった流れ。
ジェレミー・ベンサムも啓蒙時代のリベラル派で、コンドルセと同じ種類の個人的自由を擁護したという。社会にとっての最良の選択は、全員にとっての最大の幸福を導くものだとする考えである。数学的には、全市民の幸福を合計して、最良の方式を判定する。
「功利投票」とは、各候補に対して感じる幸福を、投票者が数値で記入していくもの。原理的には範囲投票と同じで、投票のルールは必然的に範囲を規定することになる。

2016-07-10

"フラー制限戦争指導論" J. F. C. Fuller 著

英国陸軍少将ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは、機甲部隊を中心に据えた機動戦略を提唱したことで知られる。しかし、伝統的な将校たちの反発を受けて頓挫。イギリス人の理論がドイツ人によって実践されるとは、なんと皮肉であろう。そう、グデーリアンの電撃戦である。
ナポレオン戦争と二つの大戦は、非戦闘員に多大な犠牲を強いてきた。もはや近代戦争は、消耗戦、総力戦の様相を呈す。無差別爆撃を戦略爆撃と呼ぶことに抵抗を感じる人は少なくないだろう。「制限」というからには、敗北主義のイメージを与えかねない。案の定、攻撃性旺盛な連中から批判を受けてきた。
フラーは、攻撃こそ最大の防御!を信条とする連中を、クラウゼヴィッツを皮相的にしか解釈できない輩だと吐き捨て、戦争のもつ政治的な意義を再定義しようとする。備えこそ最大の防御!というわけだ。真の軍人精神にはスポーツマンシップに通ずるものがある。格闘性の激しい競技ほど自制と厳格なルールが求められるように。敵対心を煽って無謀な行為を勇敢と履き違えるような旧式軍人は、いまや無用だ。

「制限戦争」という言葉には、全世界から戦争をなくすことは可能であろうか?という普遍的な問いが暗示されている。偏重した善は悪魔にも匹敵する。博愛を唱える修道士が、最も残虐な行為に及ぶのも道理というものか。そして、あらゆる行為を正当化するために、正義と大義が道具とされてきた。犯罪心理を考慮しない有識者どもが唱える道徳論ほど陳腐なものはあるまい。
哲学や科学は普遍性を追求する世界であり、いわば理想を求める世界。そのために現実から目を背けがち。一方、政治や経済は現実を直視し、実益を求める世界。そのために目先の利益に目を奪われがち。理想主義には、誰にとって理想かという問題を抱え、その対極にテロリズムを置くことができよう。現実主義には、哲学なき利益に執心し、その対極に弱肉強食を置くことができよう。どちらも排他的思考を旺盛にさせる。クラウゼヴィッツが言うように「戦争は一つの政治的手段」とするならば、人間精神に内在する悪魔性からも目を背けるわけにはいかない。力とペテンは、平和時には悪徳とされるが、戦時には美徳とされるのだ。戦争を根絶することができれば、世界は本当に平和になるだろうか...
「原始人の最も危険な敵は自分の属している人種の敵であった。今日でも、人間が人間の唯一の敵である。そして人が人を攻撃するのは50万年前と全く同じである。戦争と狩猟は昔からアピールする。これは本能的に、どんな子供でも鉄砲が好きで、大人が殺害にスリルを感じるゆえんである。」

そもそも、何のために戦争をやるのか?それは、集団的な自己存在の強調、集団的な自我の肥大化と見ることはできる。民族優越主義もその現れ。本書は、「戦争の真の目的は平和であり、勝利ではない。」と唱える。そして、敵を撃滅して一方的に意志を強制することの愚かさを説いている。平和こそが政治を支配する第一の観念であるとすれば、勝利は平和を達成する一手段に過ぎないことになり、無制限戦争の意味は自ずと失うであろう。
しかしながら、戦争をやる理由がイデオロギーや宗教の対立である場合、国家や民族の根絶までも獰猛に欲する。実際、二つの大戦では無差別攻撃が正当化された。民主主義といっても実に多様な形態があり、自国の民主主義を平和愛好の唯一の手段として崇めるのは危険である。平和にしても様々な解釈があり、真の国際調和を意味する場合もあれば、国際的不和や緊張関係によって殺し合いを抑制するという場合もあり、後者の方が現実的であることが多い。
「冷戦」という言葉は、戦闘状態の継続を意味していたが、ある種の平和状態と見ることもできよう。その証拠に、冷戦構造が終結して平和が訪れたかと言えば、むしろ危険を増している。核兵器といった大量破壊兵器が大規模な戦争を抑止しているとはいえ、新たなゲリラ戦術が生まれ、従来型兵器への依存度は変わらない。本書には、「小銃が歩兵を生み出し、歩兵が民主主義を作った」という記述がある。ネット社会では情報の民主化が進み、国家はサイバー攻撃に晒されている。これもある種のゲリラ戦だ。戦闘様式は、技術進歩にともなって合理化するどころか、より複雑化している。
平和の概念を支える原則の一つに、世界人権宣言などが掲げる「すべての人間は平等」という理想があるにはある。それは政教分離によって支えられる原則であるが、法律でいかに定めようとも完全に政教分離を果たした国家はない。おそらく、人間社会から信仰心を根絶することは不可能であろう。無神論者だって、宗教が唱える神を信じないだけで、宇宙論的な独自の神を構築する。無宗教家だって、既存の宗教が唱える教義に納得できないだけで、自己の中に論理的な信仰を構築する。精神の持ち主が、自己存在に何らかの意義を求めるのは自然であり、生きた証ってやつを求める。
もし、このような思考傾向が相手を煙たいと感じさせ、紛争の根源的な要因であるとすれば、無制限戦争をいかに回避するか、ということに注力することの方が現実的な解となろう。現実を生きるということは、妥協を生きることであり、和平条約の類いがすべて妥協の産物である。

1. 絶対君主の戦争様式
本書は、制限戦争の起源を18世紀の絶対君主の時代に求めている。宗教戦争は三十年戦争で頂点に達し、飢えた人民の大群を産み出した。人口は激減し、人肉食いもあったという。そして、一般市民が傭兵たちの恐ろしい野蛮行為の犠牲になった。絶対君主は、この宗教戦争の廃墟の中から生まれたという。
15世紀頃の専制君主に対して、ルイ14世の処世上の身分は神の摂政としての絶対的地位を確保し、全ヨーロッパの模範となった。その傾向は、軍事面において顕著だったようである。15世紀の専制君主の権力が傭兵に依存したのに対し、17、18世紀の絶対君主は常備軍に権力の基礎を置いたという。常備軍の成立はシャルル7世による親衛隊の編成に遡るが、範となるのは1643年、大コンデ率いるフランス軍がロクロワの戦いでスペインを破った時だとか。常備軍の規模は国力と関係する。国民経済が破壊された状況で常備軍を養うことはできないのだから。そして、ここに制限軍事力という概念が生まれたという。常備軍の意義は、なんといっても非戦闘員との明確な区別にある。
フリードリヒ大王の時代には強制的な徴兵と厳格な規律が、戦術を密集陣形による作戦に限定する主因になったという。この時代の戦争は恐ろしく犠牲者が少なかったとか。戦争は形式的なものとなり、しばしば限定的な戦闘で済んだという。敵の領内に侵入し、相手を右往左往させるだけでも大成功だったと。殺し合いというより脅し合いか、罵り合い。制限戦争で立案される作戦は、疲弊戦が基本原則であったという。だから、スペイン継承戦争あたりまで惰性的な戦争が続いたのであろうか?歴史家ガリエルモ・フェレーロは、合理的で無感動な戦争様式について、こう記したという。
「制限戦争は、18世紀の最も崇高な実績の一つであった。それは、温室植物の種類に属し、したがって貴族的かつ良質の文明の中にだけしか繁茂し得ないものであった。われわれはもはやそれを繁茂させることができない。それは、フランス革命の結果失ってしまった素晴らしいものの一つである。」

2. 国民戦争の原動力
本書は、絶対君主時代の制限戦争を終焉させ、破壊と殺戮の野蛮な形に逆戻りした転換期がフランス革命だとしている。つまり、絶対大衆主義が絶対君主を追放し、大衆の熱狂が国民戦争を覚醒させたというのである。そして、古臭くなった制限戦争と未発達の無制限戦争の二つの形態が初めてぶつかったのは、1792年のヴァルミーの戦いだとしている。
とはいえ、フランス革命は周辺諸国で歓迎された。オーストリア支配から解放されることを熱望した民衆には、自由の観念が輝いて映ったことだろう。
「原始部族は武装した遊牧民の集団であり、各々が戦士であった。部族全員が戦争に従事するので、戦争は総力戦である。しかし人類が野蛮時代に代って農業文明の時代を迎えると、ごく少数の例外を除き、人々は狩りや遊牧の生活をすてるようになった。以来、非戦闘員である食物生産者と戦士との間に差別が生れたのである。古代の都市国家においては、十分な資格を有する市民のみが市民軍に入隊できた。封建時代には、騎士とその家族達が召集の主体となったが、それは全人口のごく一部分にすぎなかった。そして、絶対君主の時代には、一般市民はまったく戦争の域外に立った。この区別がいまや廃止され、武装した遊牧民の集団に復帰することになった。ただし、今度は国家的立場においてである。」
やがて、国家軍を増強するために徴兵制が合法的に組み込まれていく。国民の熱狂を一旦冷静にさせるための手段として法律の存在意義が増すものの、政治家は法律の解釈を捻じ曲げて熱狂を煽動してきた。いわば、論理学の盲点をついて。国民を煽動するには感情論に訴えるのが手っ取り早い。ナポレオンは、国民を奮起させるために敵国を完全に打倒しなければならなかった。民意が戦争を支持すれば当然の帰結。そのことを証明して見せたのが宣伝省を重視したヒトラーである。大日本帝国では、大衆に神の国と思い込ませた。国民啓蒙の原則は、現在とて変わらない。民族優越性をちょいとくすぐれば国民をヒステリクックにさせる。宗教戦争が異教徒への憎悪から生じる衝動だとすれば、国民戦争は周辺国への憎悪から生じる衝動である。自己の内に真の誇りがあるとすれば、相手を罵るようなネガティブキャンペーンに執心するだろうか?民主主義の原動力は、友愛にもまして憎悪にあることを心得ておくべきであろう...
「民主主義の原動力は他人を愛することではない。それは外部のすべてのもの、部族、徒党、党派、あるいは国民に対する憎悪である。このような一般意志は総力戦を予言する。そして憎悪こそが最も権力のある新兵募集官なのである。」

3. クラウゼヴィッツの理論
クラウゼヴィッツの格言には、暴力を容認したものも多く見かける。「敵の打倒こそが唯一の実体である。」といった類いである。本書は、クラウゼヴィッツの原則を三つ挙げている。一つは、 敵軍の征服と撃滅。二つは、 敵軍の侵略活動を可能ならしめる物的要素の奪取。三つは、世論の獲得。こうした言葉が、暴力至上主義の弟子たちを誤った方向へ導いたと指摘している。
とはいえ、戦争が政治の手段である以上、軍人にも政治的な視野が求められる。太平洋戦争時代の日本帝国軍人と違って、今日の軍人には外交的感覚にも敏感でなければならない。政治は社会の利害を代表し、戦争は無政府国家でない限り、政治から生まれる。軍事的観点は政治的観点に従属するが、その逆はありえない。クラウゼヴィッツの理論には、これが大前提されるはずである。
本書は、クラウゼヴィッツの欠点は、戦争の真の目的は平和であって勝利ではないことを、理解させられなかったことだと指摘している。つまり、政治の一手段であるならば、征服や撃滅などとは表現しなかっただろうと。だがそれは、戦闘員に向けられた表現であって、まさか非戦闘員に向けられるとまでは考えていなかったのではないか。どんなに優れた哲学書であっても、解釈する者によって正反対の結論が見いだされることはよくある。法律の解釈ですら、いくらでも戦争を正当化することはできるのだから。ルソーが言うように... 人間は高尚な野蛮人!というのは本当かもしれん...
一方で、クラウゼヴィッツこそが、大衆に対する戦争の衝撃的効果の重要性を早くから認識していた人物で、戦争と政治の関係を唱えたことで軍事理論に一大貢献をもたらしたと評している。確かに、世論の後押しがなければ政治は動かないし、ましてや国民戦争などありえないだろう...

4. マルクスの弁証法
産業革命によって兵器の近代化をもたらし、戦争を総力戦とさせたのも確かだ。大量殺戮の始まりである。そして、巨大な産業都市の出現、人口密度の増加、生産性の合理性をもたらし、戦争論もまた人口論と結びつく。
南北戦争は、産業革命の影響を受けた最初の大戦争だという。それは驚くほど近代的戦争だったそうな。木製の迫撃砲、翼付手榴弾、ロケット、各種仕掛装置などが駆使され、ガトリング砲やスペンサー銃が登場し、さらに、魚雷、地雷、機雷、野戦通信、電光通信、手旗信号が試されたという。
しかしながら、それよりも本質的な影響を、マルクスの主張した階級闘争に求めている。階級間のいがみ合いは、国王や君主の時代、あるいは封建時代にもあった。ただ、産業革命が資本家階級と労働者階級をより明確に区別し、階級単位で団結する傾向を強めたということである。社会主義者たちは、プロレタリアートという恒久的賃金労働者を出現させたと主張する。マルクスはヘーゲル哲学の影響を受けながらも、ヘーゲル弁証法を逆転させる立場だったという。それは、マルクス自身もそう語ったとか。
まず、マルクスの自明の理とするもの、それは物質世界こそを基礎とし、唯一の実存とし、そこから社会構造や社会的意識を捉える。この史的唯物論は、生産関係を巡っての階級闘争という位置づけ。資本主義は、金持ちはますます金持ちとなり、貧乏人はますます貧乏人になる、という矛盾を抱えている。この矛盾を克服した時、生産効率を最大限にまで発展させることができると考えるのも悪くない。
しかし、だ。資本主義を否定したところで、資本家でもない、労働者でもない、全く新しい階級の出現を予期することはできたであろうか?つまり、官僚階級による搾取構造である。クラウゼヴィッツ主義は戦争を手段として敵国政府の転覆を狙ったが、マルクス主義は革命を手段として自国政府の転覆を狙った。前者が戦時における戦争論だとすれば、後者は平時における戦争論とすることはできるかもしれない。
尚、マルクス弁証法における階級矛盾をピーター・ドラッガーは、こう指摘したという。
「恐らく、現代における最大の誤謬はこれといった特色も、社会性もなく、各個ばらばらな集まりである大衆を金科玉条のように讃美する神話の存在である。たしかに、大衆というのは社会的腐敗や階級的害毒の結果生まれたものである。...
大衆の危険性は彼らが反抗するという点にあるのではない。反抗なるものは、これを単なる抗議とみれば、社会生活における参加の一形態であるといえるからである。危険性はまさに大衆の参加能力の欠如にある。...
彼らは社会的地位も機能もないので、社会というものは、悪魔のような、不合理かつ不可解な脅威以外なにものでもない。...
どのような合法的政府も、彼らには専制独裁政府に思える。したがって、彼らは常に非理性的行動に訴えるか、ないしは専制独裁者が変革を約束しさえすれば、その専制独裁者にさえ従おうとする。...
彼らは既成の社会秩序さえ変革してくれるなら、どんなことでもうのみにできる。換言すれば、大衆は常に、権力のために権力を求める煽動政治家や独裁者のえじきになることになっている。力さえあれば、大衆を簡単に隷属的で、否定的な地位につけることができる。...
大衆の動きさえも制止できないような微力な社会なら、そんな社会は消滅してしまう。」

5. イデオロギー戦争
第一次大戦の主目的は、産業上、商業上のものであったが、交戦国は戦争の性格についての観念を持たずに参戦し、完全な膠着状態に陥って、やっと産業と科学に訴えたという。結局この戦争は、海上封鎖によるドイツ国民の飢えと、ロシアとドイツの双方における革命によって終結した。
では、第二次大戦の性格は、どういったものであろうか。資本主義が世界大恐慌によって弱点を露呈すると、自由主義は堕落したと見做され、共産主義やファシズムが勢いづく。そこに、経済的救世主として登場したのは、ニューディール政策を掲げたルーズベルトと、国家社会主義を掲げたヒトラー。戦争の目的は、道徳的闘争や経済的闘争の領域に一層深く拡大されていく。
本書は、ソ連のアキレス腱は、第一線にあるのではなく、内部戦線にあるとしている。その統計的証拠として、ソ連国民の半数が非ロシア系の人民であることを指摘し、しかも、その多くは民族意識が強く、モスクワ支配に反抗的であると。レーニンですらこう語ったという。
「世界中で、ロシアほど多くの人民が圧政を受けているところはない。大ロシア人は全人口の 43% を占めるに過ぎない。すなわち半分以下なのである。残りの人民は他国民だとしてロシア国民としての諸権利を有していない。ロシアの人口1億7千万人の内、約1億人は圧政に虐げられ、いかなる権利も有していない。」
スターリンの圧政は、どのツァーリよりも比較にならぬほど残虐なものであった。巨大ロシアを分裂させるには、ヒトラーが解放者として国境を超え、集団農業化に終止符を打つだけでよかった。これこそがスターリンが最も恐れた戦略であろう。当初、ドイツ側に走ったソ連兵も多かったようである。ウクライナではドイツ軍を解放軍とみなし、一般人民に迎えられたという記録もある。グデーリアンは、白ロシア人が食糧を運んでくれたと回想している。
しかし、親衛隊が乗り込んでくると状況は一変。ヒトラーはスラブ民族を人間以下の存在として抹殺にかかったために、巨大ロシアを団結させてしまった。領土を拡大しても秩序が保てず、レジスタンスやゲリラを旺盛にし、内外に敵をつくることに。
「ソ連の弱点はわれわれの強みである。ソ連の強みはわれわれがその弱点について無知なことである。」
このことは、大陸進出を目指した大日本帝国陸軍にも同じことが言える。中国は蒋介石の国民党と毛沢東の共産党で対立していたが、力づくで侵略したために双方を結束させてしまった。すでに世界はイデオロギー戦争の時代へと移行していたにもかかわらず、当時の日本軍人が国際感覚に敏感であったとは考えにくい。それは、太平洋戦争末期、対米英との仲介役をソ連に打診したという外交的な感覚の鈍さに見て取れる。
とはいえ、ルーズベルトでさえイデオロギーに対して、ぼんやりとした認識しか持っていなかったと指摘している。ルーズベルトは、チャーチルは根っからの帝国主義者でスターリンは違うと見ていて、対日戦争でスターリンの力が必要だと考えていたという。原爆開発も途上でアメリカの優位性が明確でなかったために、親スターリン派を演じていただけかもしれないが。チャーチルにしてみれば、ヒトラーよりはまし、ぐらいなものだろう。地理的な位置が反対だったら、どちらと手を結んでいたことやら...

2016-07-03

"リデルハート戦略論(上/下)" B. H. Liddell-Hart 著

真の平和論を語れるのは、知性ある軍人のなせる業であろうか... 平和を望むなら戦争を理解せよ!人間を理解するためには、己の内にある悪魔性を知れ!自己にとっって、憎悪、嫉妬、復讐の類いほど手に余るものはない。しかし、これが人間の本質である。
愛国心は悪人の最後の隠れ家である... とは、サミュエル・ジョンソンの言葉だ。愛国心そのものが悪いわけではない。だが、情愛ほど暴走しやすいのも確か。犯罪心理学では、平和愛好家の隠された好戦性というものが指摘される。穏健な人ほど一旦ブチ切れると、一層暴力的になる。不必要な危険を招き入れるのは、無防備な平和論者の方であろう。
近現代の軍人には、ますます国際的視野が要求され、時には狡猾さも必要である。そして、戦略なき政策は危険となり、哲学なき戦略は戦争へと導くであろう。
近年、イスラム国の脅威を世界への挑戦と捉える欧米諸国から見れば、今まで敵であったアサド政権は、敵の敵。もし復縁すれば、第二次大戦でアメリカとソ連が同盟し、対日戦線で中国国民党と共産党とが手を握った構図と似ている。これも政治的合理性ではあるが、ロシアがアサド政権を軸にIS対抗策を打ち出したことによって混迷度を増すことに。
一方で、伝統的に外交感覚に乏しい日本は、無策を続ける。失策を続けるよりはましか。
金を失うのは小さく、名誉を失うのは大きい。しかし、勇気を失うことは全てを失う... とは、チャーチルの言葉だ。
「道義的義務感を尊重しない国ほど物質的な力 - 罰を受けずに挑戦するにはあまりにも強すぎる実力を抑止する力 - をより尊重する傾向がある。同じように、弱い者いじめ型や強盗型の人間は、自力で立ち向かってくる人間に対しては攻撃をためらうということは個人について共通する経験である。そのためらい方は平和型の人間が、自分よりも強い攻撃者と取り組み合うのをためらうよりもはるかに強い。」

B. H. リデルハートの「間接的アプローチ理論」は、クラウゼヴィッツの「戦争論」と並び称される。ここには、人間的要因の支配する世界における生命の法則らしきものが綴られる。それは、真理の追求のみが真の戦略を与え、長期的な人生戦略につながるということである。
攻撃は最大の防御なり!... という格言をよく耳にする。しかし本書は、これを見事に反証して見せる。戦争の花形は確かに攻勢にあるが、戦略の本質はむしろ防勢にあるということを。
過去一世紀を振り返っても、軍事ドクトリンの規範では、敵の主力を叩け!というのが本筋とされてきた。しかし、間接的アプローチでは、主力を遠回しに攻撃する戦略が重視される。短期決戦で済むのであれば、主力を直接叩く方が合理的であるが、長期戦になるほど直接的アプローチは犠牲が大きい。ましてや殺戮など余計な行為であり、なによりも愚かである。
直接的アプローチが簡単にどんでん返しを喰らうのに対して、間接的アプローチは戦略を重厚なものとさせ、一度流れをつかむと容易には押し返されない。備えが十分であれば、仕掛けるよりも仕掛けさせる方が優位となろう。
リデルハートは、戦略に対して、より抽象度の高い「大戦略」という用語を持ち出す。戦術が戦略の下位で適用されるように、戦略もまた大戦略の下位で適用される。
「戦争遂行者は戦略家以上の人物でなければならない。その人物は指導者と哲学者を結びつけたような人物でなければならない。戦略というものは、その主体が敵を欺騙する術と関係しているので、それ自体が道徳に対立するものであるのに対して、大戦略は道徳と両立する傾向を持っている。」

人間同士の敵対ほど相対性理論を体現するものはあるまい。矛盾とは、盾と矛の関係。優れた作戦は、相対的に愚かな統帥に対して通用し、上手をいく統帥には通用しない。どんなに愚かな作戦でも、相手がもっと愚かであれば成功する、ただそれだけのこと。歴史的成功とは、まさに相対的関係において生じるのであって、絶対的な戦略などありえない。
したがって、軍事行動には、常にギャンブル性がつきまとう。石橋を叩いても渡らない!とまで言われた家康とて、関ヶ原で万万勝てるとは思っていなかったはず。戦は、なるほどやってみなきゃ分からん。
クラウゼヴィッツは言った... 「政治目標が最終目的であり、戦争はその目的に到達するための一つの手段である。」と... ならば、自国の軍事力を過信して賭けをやる政治家ほど、公共物を私物化した状態があろうか。クラウゼヴィッツはこうも言った... 「あらゆる軍事行動には、知性の力とその効果が行き渡っているべきもの。」と... 知性ある者が、どうして国民の命を犠牲にしてまで賭けにでることができようか。戦争を始める者は、よもや負けるとは思っていないだろう。一旦始めてしまえば後戻りできない。戦争状態では人間の最も野蛮な面を曝け出し、憎悪の念は拭えない。仲間が殺される現場で、どうして敵に寛容でいられよう。味方や一般市民を誤爆、誤射することだってある。犠牲者を最小限にするよう周到に計画された戦争であっても、しばしば泥沼化する。そうなれば、直接行動に目が奪われる。戦局が思わしくなければ尚更。そして、政治家は必ず戦争の正当性を精神論に訴え、愛国心を煽る。合言葉は決まって... 正義だ!戦争に踏み切る前は慎重だった世論もまた徐々に真実を見失い、ちょっとでも苦言を呈すと非国民!と罵声を浴びせる。言論の自由は迫害され、敵の文化までも全面否定し、敵を知り己を知れば百戦殆うからず!という黄金律までも忘却の彼方...
こうした傾向は、悪化したプロジェクトで、納期は絶対死守!などと従業員を鼓舞するマネージャの言動、あるいは、株式市場で業績悪化のためにトレンドに逆らってまで資金投入を続ける行動などと似ており、いわば敗者の心理状態にある。人間のギャンブル性は依存症とも相性がよく、負け始めるとますます止められなくなる。相手を撃滅させることにしか打開策を見出だせない戦略家は、消費を煽ることしか経済対策を打ち出せない政治家にも似たり。そして、どんな戦争でも、どうやって終わらせるか?が大問題となり、第三者が尻拭いをさせられる。
したがって、戦略の定義には責任の範囲を明確にすることも含まれ、勝とうが負けようが戦後処理の方がはるかに重要となる。戦争に勝っても人は死ぬ。いったい誰が勝ったのやら...

1. 孫子の黄金律
本書は、紀元前5世紀から20世紀までの戦争を分析し、間接的アプローチの戦略的使用がいかに有効であったかを物語る。古代や中世の統帥たちが戦略的に意図していたかは別にして、結果的に間接的アプローチによって成功したこと。そして、近代戦争では総力戦と化し、補給戦略などの間接的アプローチの重要性が増し、より長期的な戦略が求められるようになったこと。その反面、突撃や主力決戦といった直接的アプローチが、いかに国力を消耗させ、自滅へと導いてきたかということ。
さらに、核兵器をはじめ爆撃用兵器の大型化にともなって戦術的に融通が利かなくなり、柔軟性の高いゲリラ型戦略の進展を助長したこと... 現代では、更に巧妙なサイバー攻撃が用いられる。
戦略の極致は、いかなる激しい戦闘もなしで、最小限のコストで事態を決着させることにある。その事例では... カエサルのイレルダ作戦、クロムウェルのプレストン作戦、ナポレオンのウルム作戦、モルトケのマクマオン軍の包囲(セダンの戦い)、アレンビーのサマリア丘陵地帯におけるオスマン帝国包囲(メギッドの戦い)、グデーリアンの電撃戦... などが議論の対象となる。
そして、「孫子の兵法」から実に多くの言葉が引用される。どんなに技術や戦術が進化しようとも、二千年以上前から人間の心理的原理は変わっていないということか。人間の行動を抽象化、パターン化しようとすれば、極限状態にある戦争ほど良いモデルはあるまい...

「あらゆる戦争は欺瞞のうえに成り立っている。したがって攻撃が可能なときには、それが不可能なように敵に思わせなければならない。」

「長期戦で利益を得た国は一つもない。戦争の悪について熟知している者だけが、戦争で利益を得る方法をよく理解している。」

「最高の戦争のやり方は、戦わずして敵の抵抗を排除することになる。」

2. 戦略とは...
戦術と戦略を分類して議論する場合、責任範囲を明確にすることと深くかかわる。しかしながら、リデルハートは、戦術と戦略をカテゴリーで分けることは議論するには便利だが、けして分離できないとしてる。両者は相互に影響し合うだけでなく、一方が他方と一体化する場合もあるからである。
クラウゼヴィッツは、戦略をこう定義している。
「戦争の目的を達成する手段として戦闘を用いるための術である。」
この定義の欠点は、戦略が政策の分野に、あるいは、より高度な戦争指導の分野に踏み込んでいることだと指摘している。政府の責任までも軍事指導者が負うべきではないと。そして、もう一つの欠点は、戦略の意味を、純粋な戦闘の使用に局限している点だという。そのために、目的と手段を混同する考えがドイツ統帥部に蔓延していったと。特に、誤解の種となったクラウゼヴィッツの言葉に、これを挙げている。
「戦略の唯一の目標は戦闘であり、勝利は血をもって贖うものである。」
戦略家が戦略と戦術を混同してしまっては、血に飢えた狼となるは必定。忌まわしい戦争の時代に戦いで死ねるのは、軍人にとって幸せではあろうけど...
クラウゼヴィッツの書は抽象度が高いために、言葉の表面だけを追えば多分に誤解されやすい。そもそも哲学書にはそういう性格があり、記述によって精神の領域に踏み込もうとすれば、言葉の限界にぶつかる。真に言葉の意味を理解するには、全体構成から立体的に読み解く必要がある。
したがって、哲学的思考に疎い者が読むと、作者の意図とはまったく正反対の結論さえ導き出すことがある。実に多くの哲学者や思想家が、後世のほとんど言いがかりのような批判に曝されるのも道理である。
さて、戦略と政治の役割については、もう少し明確な区別が欲しい。フリードリヒ大王やナポレオンのように、戦略と政治の二つの機能が一人の人物の中に統一されている場合、両者を区別しないことは大した問題にならなかった。だが近現代では、シビリアンコントロールが主流であり、専制君主的な軍人兼政治家は稀である。かつて戦時下の戦争指導者や軍部は政策の領域まで口を出し、その権限までも要求した。現在の民主主義国家でも、政治家が軍事的手段に干渉する傾向がある。モルトケは、クラウゼヴィッツよりも明確かつ賢明に戦略を定義づけたという。
「戦略とは、見通しうる目的の達成のために、将帥にその処理を委任された諸手段の実際的適用である。」
軍の司令官は、あくまでも政府の雇用者というわけだ。さらに、リデルハートは戦略を再定義している。
「戦略とは政策上の諸目的を達成するために軍事的手段を分配し、適用する術である。」

3. 大戦略とは...
政治目的と軍事目的を明確に区別せよ!とはよく耳にする。だが実際は、この二つを完全に分離することは難しい。国家は、政策遂行のために戦争をするのであって、戦争のために戦争をするのではない。ただ、軍事目的は政治目的における一つの枝葉に過ぎない、ということは心得ておくべきだろう。
本書は、軍事目的は政治目的によって支配されるべきで、政策は軍事的に不可能なことを要求しないことを基本条件としている。戦争指導の方針を示す政策、すなわち、戦略目的を支配するものをより高次な基本的政策とするならば、大戦略は政策と同じ意味を持つことになる。
ではなぜ、わざわざこんな言葉を用いるのだろうか?より差し迫った意味が欲しいようである。少なくとも福祉や社会制度などとは区別すべきである。
例えば、資源を政治目的とする場合、これを確保する基本政策が戦争を手段とした大戦略ということになる。国家の経済資源や人的資源の開発を図ることも、国力としての軍事力と関係し、産業間の資源配分も含まれる。近年、軍事費の有り方は、よく対GDP比で議論される。
また、国民の意欲を涵養するための精神的資源は、戦力の保持と同様に重要だ。戦略で見通すことのできる範囲は戦争に限られるが、大戦略の視野は戦争を超越して戦後の平和にまで及び、安全保障政策まで踏み込む。そして、目的と手段は釣り合っているか?が問われる。目的と手段が混同されるだけでなく、目的が立派すぎて手段がおぼつかないこともあれば、手段が目的を無視して独り歩きをはじめることもある。技術偏重も、理想主義も、平和主義も、過剰となれば危険となろう...

4. ナポレオン方式
適応力は、生命におけるのと同様、戦争においても生存を支配する法則だという。戦争は、環境に対する人間闘争の集中された形態に他ならない。
戦争の原則は一言で言えば「集中」であるとしている。より厳密に言えば「弱点に対する力の集中」であり、相対的には敵軍の分散に依存することを意味する。逆説的ではあるが、自軍を分散することによって敵軍が分散せざるを得ない状況を作り、その隙に自軍を集中させて優位に立つ。したがって布陣では、分散と集中の連続した形態をとる機動力が要となる。基本的な誤りは、自軍の集中のために敵に集中する時間を与えること。
ナポレオンは、戦略的にも戦術的にも「速度による質量の倍加」をもたらしたという。当初は、やはり天才戦略家であったか。彼は、18世紀の二人の優れた軍事研究家ブールセとギベールの理論を継承している。それは、作戦計画が枝分かれを持ち、一つは失敗がありえないほど確実な作戦とすることや、師団編成という概念をもたらしたことである。それまでの陸軍戦略は、フリードリヒ大王をはじめ国家軍の単位で行動を起こしていたが、ナポレオンは師団構成という形で進化させた。
しかしながら、ロシア遠征では、45万もの大軍のために、ほとんど一直線の配備をとることになる。巨象は動きが鈍く事実上の虚像となるは、自然の結果。
おまけに、ロシア軍の自国を焦土化する巧妙な退避戦略が、機動の欠点を際立たせた。もっともロシアの広大な領土が前提条件にあるわけで、うまく誘い込まれたのである。伸びきった補給線が、やがて臨界点に達するのは自明の理。勝ち続けているという幻想が、軍人のプライドをくすぐり、さらに進軍を続けようという誘惑に駆られる。
それは企業戦略でも同じで、ちょっと儲け過ぎると拡販路線をとってリスクを自ら拡大してしまう。上昇トレンドの勢いに乗せられて必要以上にレバレッジをかければ、他人資本がまるで自己資本のように見えてくるものである。はたして領土が本当に自分のものになっているのやら?と疑問すら感じなくなるのだ。そして、軍事資本が無制限に投入できると思い込み、悲劇をさらに拡大させる。まさに負の連鎖。
「人材の銀行にいわば白地式小切手口座を所有することという点で、ナポレオン戦争と第一次大戦は、きわめて類似した結果を示したことは奇妙なことである。いずれの場合もその結果が激しい火砲射撃の方式と関連していることも奇妙なことである。その意味は、惜しみない資源の投入は浪費を生む、ということであろう。これは、奇襲や機動を手段とする兵力の節用という考え方とは正反対のものである。」

5. 第一次大戦
独仏国境線は意外と短く、わずか150マイル余り。だが、ベルギーやルクセンブルクを含めると機動性の余地が出てくる。フランスの当初の計画は、大規模の要塞群によって防勢をとり、反撃を喰らわすというもの。そのために、アルザス - ロレーヌの国境線に沿って要塞が創設され、ドイツ軍を誘い込むためにトルエー・ドゥ・シャルメ峡谷のような間隙を残したという。
しかし、ドイツの「シュリーフェン計画」によってフランスの思惑は外れる。それは、主力をベルギーから迂回させて、右翼の側面から奇襲するというもの。フランス軍統帥部は、ドイツ軍がベルギーへ侵入を開始した時でさえ、マース川以東の狭い正面に限定されると予測したという。奇襲が成功するのは、相手側の楽観主義によるところが大きい。
一方で、せっかく奇襲に成功しつつある中で、用心深さのために躊躇する事例もまた多い。シュリーフェン計画もまた、参謀総長モルトケ(大モルトケよりも若い小モルトケ)が台無しにしてしまう。フランスの攻勢につられて右翼を後回しにし、主力を正面に布陣させてしまったのだ。主力を右翼に転移させれば、敵の主力が集結する左翼が弱体化するものの、右翼にとどまる兵力が大きいほど、背後攻撃が一層決定的になる。正面攻撃を避けて、犠牲を小さくするとうのが、当初の計画である。
本書は、失敗要因の一つに鉄道の発達を指摘している。鉄道という固定化された交通線に軍隊が依存したために、攻勢も防勢も兵力を集中させる傾向があると。鉄道に依存した融通の利かない配備については、日露戦争のシベリア鉄道に依存したロシア軍についても言及される。日露両軍が、その目標に固執したがために正面衝突を繰り返し、互いに犠牲を拡大したという。西部戦線では、独仏の初期戦略の失敗によって、続く四年間を塹壕戦という膠着状態に陥れた。戦車が登場し、最初こそ恐れさせたが、動きが鈍く恰好の標的となった。おかげで戦車の評価が下がり、次の戦争で電撃戦の奇襲性を助長させたという見方もできる。
ところで、西部戦線の膠着状態は、他の戦線から見れば、ドイツ軍の主力を釘付けにしているという見方もできる。当時、海軍大臣だったウィンストン・チャーチルは、こう語ったという。
「連合を組んでいる敵の諸軍は一体のものとして見るべきである。現代の戦いでは距離と機動力に関する概念が大きく変わっており、ある別の戦域で敵軍に与える打撃は、古典的戦争での敵翼側への攻撃に匹敵する。」
イギリス首相ロイド・ジョージもまた、敵の裏口へ通ずるバルカン半島へ主力部隊を転用すべきと主張したという。しかし、イギリス軍はバルカン半島へ兵力を小出しにして、使い果たしてしまう。
そして、本当の意味で第一大戦に決着をつけたのは、海軍力による海上封鎖だったと結論づけている。戦闘による大出血や勝利が不可能と知った精神的ダメージも大きいが、それ以上に国民の飢餓が深刻だったという。戦争を終わらせるために、皮肉にも革命に頼ることになった。しかも、ロシアとドイツの双方で...

6. ヒトラー方式
ヒトラーは、初期戦略で慎重に計画し、経済的効果、精神的効果を狙っている。平和愛好家たちは、ヒトラーの企図を予測することが緩慢だったために暴走を許した。「我が闘争」という著作まで準備し、意思を明確にしているにもかかわらず。人間ってやつは、自分の目で見ているがために、逆に何が真実かを見逃しやすい。秘密はしばしば公然と見せつけられているにもかかわらず、不都合なものには目を背ける傾向がある。これこそが深層心理を巧みについたヒトラーの秘匿の術だったのかもしれない。
そして、資本主義者と社会主義者を巧妙に衝突させた隙に、ワイマール憲法の弱点に乗じて独裁者となった。これほど大々的に宣伝活動を煽動の道具にした政治家は、かつていなかった。見事な間接的アプローチである。
「民主主義諸国の政府が、ヒトラーが次に進む道の予測に失敗した方法ほど、後世の歴史家にとって奇妙に思われることはないだろう。ヒトラーほど大きな野心を抱いた人物にして、自分の目標達成のための全般的手順と具体的方策の両面にわたり、あれほど明らかにあらかじめ暴露してみせた者は他には全くいないからである。」
ドイツの軍事的教義に対して、ヒトラーがいかに斬新的であったかは、ルーデンドルフとの比較から考察される。ルーデンドルフは、ミュンヘン一揆でヒトラーと共にベルリンへ行進した仲間。彼にとってのクラウゼヴィッツ理論の欠陥は、犠牲という代償を無視して無制限の暴力行動へ突進しすぎるという点ではなく、その突進が不十分であったこと。そして、「国家の軍隊化それ自体を目的としない限り、戦争とは目的を持たない手段になる。」と考えたそうな。ルーデンドルフが戦争の下に政策が位置づけられるのに対して、ヒトラーは、戦争を政治の手段の一つとした点で、クラウゼヴィッツに近い。
とはいえ、戦略と政策の二つの機能を兼ね備える総統の地位を獲得し、アレクサンドロス大王やカエサル、あるいはフリードリヒ二大王やナポレオンと同じような利点を享受することになる。

7. 第二次大戦
ジークフリート線は、フランス軍に対する威嚇もあろうが、それ以上に、第一次大戦で傷つけられた国民の誇りを取り戻すための戦略と見ることはできよう。当初、ドイツ軍統帥部でシュリーフェン計画の踏襲が検討されていたことは、グデーリアンの著書でも回想されている。第一次大戦の反省から、この計画が忠実に実行されていれば、十分に戦果が望めるという考えである。
しかし、ヒトラーには硬直化した陸軍司令部が気に入らなかったと見える。そこで、「マンシュタイン計画」が検討される。マジノ線を正面から突破するためには、アルデンヌの森がルートとなり、この方面では装甲部隊の展開が困難に見えるが、マンシュタインはそれは可能であるとの結論を出した。この計画を決定づけたのは、歴史的にはメヘレン事件によって情報漏れを恐れたということになっているが、わざと漏洩させたとの見解も耳にする。
それはともかく、ヒトラーが長期戦を危惧していたことは間違いあるまい。長期戦となれば中立国が連合国側につくだろうし、連合国の軍備拡張が追いついてくることも予測できる。さらに、アメリカの参戦も考えていただろう。それは、第一次大戦で検証済みである。
したがって、第一次大戦のような初期戦略の失敗は許されない。グデーリアンの電撃戦は、要地を正面突破したという意味では直接的アプローチではあるが、航空部隊と装甲師団の連携した三次元攻撃という意味では意外性をもつ間接的アプローチであった。そして、マジノ線をあっさりと無力化した。
しかし、とどめの段階で、最後の脱出港ダンケルクへの突進を中止したのは様々な憶測を呼ぶ。ルドルフ・ヘスの不可解なイギリスへの飛行など、ヒトラーがイギリスとの講和を望んでいたという可能性である。
確かに対イギリス戦争は困難な問題ではあるが、見方によっては単純である。イギリスはヒトラーが大きなミスを犯すまで持ちこたえなければならなかった。対ナポレオンでもそうであったように。ナポレオン戦争と二つの大戦では、イギリスの海上封鎖が機能した。それは、ドイツ側にも同じことが言えたはずである。実際、イギリスの物資力は植民地やアメリカの支援に頼っていたのだから。ブリテンの戦いで空爆目標を空軍要地からロンドンなど都市に変更しなかったら、あるいは、Uボート戦略でもっと潜水艦生産を集中させていたら...
ヒトラーは、空軍と機械化部隊を連携させる斬新な方式を編み出しておきながら、戦局が膠着状態に陥ると、ついに東部戦線で古典的な方法に頼るという重大なミスを犯す。ヒトラーが軽蔑したドイツ軍司令部以上に硬直化した思考に陥ってしまったのだ。ヒトラーとドイツ軍統帥部では侵攻計画を異にする。ヒトラーは、レニングラードを主目標とし、バルト海側を安全にしてフィンランドど提携し、また、経済的要因としてのウクライナの農業資源と、ドニエプル川下流の工業地帯を奪取したいと考えたという。この二つの目標は、地理的に両極端にある。グデーリアンは首都モスクワまで二百マイルに迫ると、再びソ連の兵力が結集する時間を与えないことの重要性を唱えたが、聞き入れられず一時期解任された。マンシュタインも解任された。やがて冬将軍が到来し、広大なロシア領をさまようことに。
本書は、ポーランドを防衛ラインとすれば、地理的に兵力集中の観点からドイツ軍は優位を保っていたと指摘している。ロシア領土内に深く踏み入るほど、部隊の大展開が必要となって優位性を失う。それは、ナポレオン戦争でも二つの大戦でも同じ。歴史は繰り返される... とは、よく言ったものである。

8. 戦後処理のための戦争
ドイツ軍の東部戦線の有り様は、大日本帝国陸軍が中国大陸に侵攻し、泥沼化していった状況と酷似している。さらに、マッカーサーの奪還戦略では迂回方式が採用された。「飛石作戦」によって島々の守備隊を孤立させ、自然の抑留地として取り残されたのである。軍部は「満蒙は日本の生命線」と主張しながら、シーレーンの崩壊によって真の生命線が絶たれた。この点は、ヒトラーがスターリングラードにこだわった思考回路と似ている。
また、本書では言及されないが...
大戦略の観点から、ノルマンディー上陸後、自由主義国と共産主義国との間で、既に戦後処理の主導権争いが意識されていたことは想像に易い。ヤルタ会談はその前哨戦だ。ヨーロッパではベルリンへ向かっての進軍競争が展開された。連合国は、勝ち戦と分かっていながら無謀な作戦をとっている。マーケット・ガーデン作戦もその一つ。この時期には豊富な物量に支えられ、戦局に大きな影響を与えないとはいえ、出さなくてもいい犠牲を出した。ヨーロッパ戦線では、クリスマスまでに終わる!といった楽観的動機で無駄な犠牲を出した事例は実に多い。
日本においても、アメリカは占領政策で主導権を握りたかったはず。本土決戦で長引けば、ソ連が北海道分割占領を要求してくることも十分に予測できる。その方策としての原爆投下の是非は別にして、ソ連の対日参戦のタイミングと重なるのは偶然ではあるまい。米英にとって、戦後の世界における共産主義化に懸念があったことは確かであろう。イデオロギー戦争ともなれば、クラウゼヴィッツの唱えた政治の一手段を超越し、もはや平和のための戦争ではなく、戦争のための戦争となっていくのかは知らん...

2015-04-26

"マハン海上権力史論" Alfred Thayer Mahan 著

マッキンダーのハートランド理論は、ランドパワーの脅威に対抗すべく海洋国家の役割を論じた。その根拠というべきシーパワー理論の始祖、米海軍アルフレッド・T・マハンは、海軍戦略を語るに欠かせない人物として知られる。マハンの海上権益指向が、二つの大戦後、アメリカを世界の警察官を自認させるに至らしめたと言ってもいいかもしれない。大日本帝国海軍にも、その思想観念で大きな影響を与えた。日露戦争当時、東郷平八郎連合艦隊司令長官の先任参謀秋山真之は、アメリカ留学中にマハンに師事し、彼の著書「海上権力史論」と「海軍戦略」は海軍将校の必読書とされたとか。司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」に登場する人物である。
海軍の伝統には、滅敵ではなく屈敵にあるという理念があり、その根拠とされるマハンの記述には、主力戦艦を撃滅すべきといった文面を見つけることができる。そのために、大艦巨砲主義や艦隊決戦思想の元凶がマハンにあると主張する軍事評論家もいる。確かに、軍事技術は進歩する。だが、主力が戦艦から空母に変わっただけのことで、主要目標が主力であることに変わりはない。原則に問題があったのではなく、適応に問題があったと言うべきであろう。
「戦争における諸条件の多くは兵器の進歩とともに時代から時代へと変っていくが、その間にも不変で、したがって普遍的に適用されるため一般原則といってもよいようなある種の教訓があることを歴史は教えている。」

ところで、「シーパワー」という用語も、なかなか手強い。直訳すると「海洋力」となろうが、単純に海軍力や制海権で定義できるような代物ではなさそうである。本書は二つの要素を挙げている。一つは管海能力、すなわち平時における海上管理と政治的支配海域。二つは制海能力、すなわち戦時における戦略上の勢力確保。「シーレーン」という用語も、その双方で用いられる。なるほど、自国防衛に留まらず、漁業権益の確保、海底油田や海底鉱物資源地帯の確保、経済水域の確保、あるいは、海洋調査能力なども含まれ、むしろ戦時よりも平時、軍事的要件よりも経済的要件の方が重視されるべきかもしれない。
「通商こそ真に強力な海軍の基礎であることは、何度強調してもし過ぎることはない。」

注目したいのは、17世紀の英蘭戦争から1783年のヴェルサイユ条約(アメリカ独立戦争の講和条約)に渡って繰り広げられたイギリス、フランス、オランダ、スペインの抗争物語を、シーパワーの観点から語ってくれることである。それは... 広大な植民地を保有するスペインと、海運力で世界貿易を牛耳るオランダがいかに衰退していったか。フランスが目の前にぶら下がっている海外発展の芽を、いかに自ら摘んでいったか。そして、イギリスがいかに七つの海を支配するに至ったか... の歴史物語である。
海洋国では、陸軍は敵の領土の制圧を目指し、海軍はそれを監視するというシビリアンコントロール的な立場がある。つまり、軍人としての眼よりも、極めて政治的な眼を養う必要があるということだ。陸軍的思考が目先の勢いに取り憑かれ、海軍的思考が貿易や外交的な視点に立つという傾向は、多くの国で伝統的にあるようだ。日本のある海軍士官はこんなことを漏らしたとか... 日本は自国民優越説だけを世論に植え付け欧米の歴史を軽んじた。敵と戦うのに相手の思考パターンを知らないでは、ねぇ...
国民世論も陸軍的思考に惑わされやすい。情報社会ともなれば、その傾向も逆転するかもしれないが。陸軍的思考と海軍的思考の対比は、愛国心的傾向とグローバリズム的傾向に通ずるものがある。商業や貿易の発達は、極めて自由精神との相性がいい。オランダの名目は連邦国であったが、事実上の共和国。1602年に設立した東インド会社は、ポルトガルから取り上げた領土を足がかりにアジアに一つの帝国を築いた。これに先んじて、1600年、イギリスは東インド会社を設立していたため、一つの懸念であったのは確かであろう。イギリスはまだ君主制であったが、清教徒革命や名誉革命を経て、議会と王族で互いに折り合いをつけていく。
一方、フランスはルイ14世による最高潮の栄華を誇っていた。イギリス国民はオランダの自由精神に好意的であるのに対し、イギリス国王はルイ14世の大陸の勢いに目を奪われる。政治外交の場では、陸軍力よりも海軍力の方が優勢となり、海洋力のバランスが国力の指標となりつつある時代。しかし、ヨーロッパの王侯たちは、そのことに気づいていない。気づいていたのは、商業国オランダと海洋民を多数抱えるイギリス国民だったようである。
本書は、シーパワーの一般条件に「地理的位置、自然的構造、領土の大きさ、人口、国民性、政府の性格」の六つを挙げ、さらに、「生産、通商、海運、植民地」という要素を加えて議論する。特に、国民性と政府の性格、すなわち民主主義や資本主義とシーパワーの相性を語っている点に注目したい。民主主義の精神は、自由にこそ価値を求めること、そして、資本主義の精神はリスクを覚悟しながらも冒険心を絶やさぬこと、といったところであろうか...
「国民の精神が十分に吹き込まれた国民の真の一般的性向を意識している政府が聡明な指導を行った場合に、最も輝かしい成功を収めている。」

1. 距離という概念
技術の進歩により、戦術に本質的な違いが生じるのも事実だが、距離の概念は本質的に変わらないだろう。人と人との関係、国と国との関係... 関係というからには、そこに距離の概念がつきまとう。それは、けして長さで測れるものではない。集団性ってやつは、近づきすぎれば一緒に狂気する。しかも、そのことに気づかない。人の心は不朽の原則よりも、目の前の現象に強く印象づけられるものだ。しばしば歴史から学び得ないのは、現象に目を奪われて感情論を掻き立てるからであって、人類や生命体の普遍性といった視点から観察しようとはしないからであろう。人間社会において民族優位説の類いは、永遠に廃れそうにない。軍事的な衝突は、まさに距離の関係から生じる。兵器の進化で射程距離がいくら延長されても、双方の相対的な位置関係が重要であることに変わりはない。
軍事技術の進歩によって、地理的優位性も変化していき、戦略的要地も変わっていく。しかしながら、地球の大きさは変わらない。となると、技術によって距離の概念を破綻させ、すべての関係までも破綻させるのだろうか?戦争をやれば、どちらかが勝つ。だが、戦争に勝っても人は死ぬ。いったい誰が勝っているのやら?勝利にのぼせ上がり、精神までも破綻させる。人類の歴史は、敗者の歴史なのかもしれん...

2. イギリスとフランスの明暗
1648年、三十年戦争の講和条約「ヴェストファーレン条約」で、オランダ連邦のスペインからの独立が正式に認めれるが、既に事実上の独立を果たしていたようである。神聖ローマ帝国はオーストリアとスペインで分裂状態にあり、スペインの弱体化が目立ち始める。イギリスはオランダの貿易と海洋支配を欲し、フランスはスペイン領ネーデルラントを欲す。英仏連合が、オランダを脅かし陸上からの攻撃に脆弱性を曝け出す。
本書jは、オランダは人口が少なく、商業的な合理的国民性が結束力を欠き、戦争準備には適さないと指摘している。オランダの弱体化は、宗教的な分裂も大きな要因であろう。ユトレヒト同盟で南北で分裂した経緯もある。
イギリスはというと、まだ君主制ではあったが、国王の指導力は低下。ヨーロッパ大陸はルイ14世を中心に回っており、フランスがシーパワーを強化するには絶好の舞台が整っていた。
しかし、ルイ14世は、二つの重大な誤りを犯したという。スペインが弱体化したとはいえ、ポルトガルの領有権を放棄したわけではない。そこで、イギリスとの政略結婚を推進した結果、イギリスにポルトガル領インドのボンベイとジブラルタル海峡のタンジールを割譲し、地中海に招き入れる。
一方で、フランスはチャールズ二世から英仏海峡を臨むダンケルクを割譲させるが、後にクロムウェルに奪取される。オランダの弱体化にともない、その貿易拠点をフランスが手中にする機会がありながら、ルイ14世は本国領土に目を奪われる。ルイ14世が、いかに大陸戦争にこだわっていたかを示す行動に、シシリーで起こった対スペイン反乱を紹介してくれる。言うまでもなく地中海権益の要地で、ここを抑えればエジプト征服の足がかりになり、スエズ運河という大通商路を獲得できる。だが、閣僚たちのそうした提案も聞き入れず、ルイ14世には海上の地図が頭に描けなかったと見える。そんなフランスに対して、イギリスは距離を置き、血を流さずにオランダの植民地を得る。結局、フランスの脅威に対して、王侯たちが同盟を結び、全ヨーロッパを敵に回すことに。アウグスブルグ同盟などは、その一例である。北方の新教徒国やオランダ、スウェーデン、ブランデンブルグが、フランスの新教徒に対する迫害に憤慨して結束。さらに、ドイツ皇帝、スペイン王、スウェーデン王、ドイツ諸侯も秘密協定を結び、フランス包囲網が宗教面と政治面で成立。外交も、軍事戦略も、イギリスの方が一枚も二枚も上手だったというわけだ。1783年の平和条約「ヴェルサイユ条約」については、こう論評を加えている。
「来たるべきいかなる戦争においても、それらの取り決めが恒久性を持つか否かは、全面的にシーパワーの均衡に、海洋の帝国にかかるであろう。」

3. 目的と目標
目的と目標、あるいは、戦略と戦術を明確に分けて考えずに、失敗する事例は実に多い。フランス軍は、目先の華々しい征服に価値を求め、商船の拿捕や敵艦の捕獲といった地味な戦果には興味がないと見える。国民的偏見やプライドが邪魔をし、目先の行軍に目を奪われ、商業的、通商的な視野が欠ける。海の向こうの生産物よりも、国産ワインの方がはるかに価値が高いというわけか...
世論は奇襲のような派手な作戦に目を奪われがちで、観客は堅実なプレーよりもファインプレーを喜ぶ。目の前の領地を制圧する力は陸軍、物資補給という裏方任務は海軍、そして、偵察、索敵の地味な活動は空軍とされる時代。だが来たる近代戦争は、価値は逆転し、生産力、工業力、輸送力、諜報力など総力戦と化す。あの有名な海軍提督ラモット・ピケは、こう書いているという。
「イギリス人を征服する最も確実な方法は、彼らを通商において攻撃することである。」
通商破壊を軽んじたのは、日本海軍とて同じか。潜水艦攻撃では、輸送船を狙うという地味な戦果よりも、戦艦を狙って実益を得ようとした。もっとも戦闘員でない輸送船を攻撃するのは、卑怯という考え方もあるが...
「いかなる目的のために始められた戦争においても、その欲する場所を直接攻撃することは、軍事的見地からすれば、それを獲得する最善な方法でないかも知れない。したがって軍事作戦が指向される目的物は交戦国の政府が獲得しようと思っている目的以外のものであるかも知れない。それには目標という特定の名前がつけられている。」

4. 海軍史の教訓
18世紀、イギリスが圧倒的に優勢であったツーロン海戦で退かざるをえなかった状況について、こう回想している。
「近代の海軍史において、ツーロン海戦以上に顕著な警告をすべての時代の士官に与えるものはない。著者の判断によればこの海戦の教訓は、自らの職業についての知識のみならず、戦争が必要とするものの情緒を自分につけることを怠ったものは、不名誉な失敗をしでかす危険があるということである。
普通の人は卑怯者ではない。しかし危急の間に直感的に適当な行動をとりうるような特にすぐれた才能を生まれながらにして授けられているものもいない。多少の差はあれ、それは経験によるか又は反省によって得られるものである。もし経験と反省の両者を欠いておれば、何をなすべきかがわからず、又は自分自身の徹底的な献身と指揮が必要とされていることを理解することができない。そのいずれかのために決断を下すことができないであろう。」