2020-07-26

"変身・断食芸人" Franz Kafka 著

小雨降りしきる中、虚ろな気分で古本屋を散歩していると、なんとも異様な文面で始まる物語に出逢った。
「ある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がづいた...」

カフカの小説に触れるのは、これが初めて。初体験ってやつは、なんであれゾクゾクさせるものがある。主人公がどんな夢を見ていたのかは知らん。おぞましい姿に変身する夢でも見ていたのか。そして、それが現実になってしまったのか...
夢ってやつは、見ている間は妙にリアリティがある。ふと冷静になり、それがありえないシチュエーションであったとしても。夢を見ている間は、現実との見分けもできない。ならば、いま目の前にある現実が、夢ではないと言い切れるだろうか...
尚、本書には、「変身」と「断食芸人」の二篇が収録され、山下肇/山下萬里訳版(岩波文庫)を手に取る。

そういえば、今のおいらは、どんな夢を見るだろう...
心理学では、夢が精神状態を投影しているとも言われる。日頃のストレスとも関係がありそうだ。ひと昔前は、排泄物に囲まれた夢... 昆虫が身体中を這い回る夢.... そんな光景にうなされたこともあった。もっと昔になると狙撃者に狙われたり... 学生時代にはゴジラ級の怪獣に追いかけられたり... そして現在となると、ホットなお姉様方にイジられる。ん~... M な性分は変えられそうにない。
ただ、それが現実になるとは、これっぽっちも考えていない。所詮、夢は夢。どこか安心して眺めている自我の眼がある。夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば外界との交渉を完全に断ってくれるが、中途半端な眠りは外界との関係をグチャグチャにする。眠りは生理学的には休養だが、心理学的には何を意味するのだろう。現実逃避か。永遠の眠りへの不安か。はたまた、熟睡は死への憧れか...
それにしても、どういうわけか?ホットなお姉様といいところになると、きまって目が覚めやがる。続きを見ようと二度寝すると、今度は熟睡し、朝方寝過ごして大慌て。最大目標であるハーレムの夢には、永遠に到達できそうにない。せっかくの夢の世界、どうせなら思いっきりエゴイズムを演出してもよさそうなものだけど。いや、まったく思い通りにならんから、リアリティがあるのやもしれん...

「変身」
変身物語の中の主人公は、外回りの営業マン。不規則で粗末な食事に、明けても暮れても、出張!出張!いつも違う人と接し、親しい人付き合いもできない。もう仕事にうんざり!... と、やるせないサラリーマンの愚痴のオンパレード。そして、目覚まし時計の音が苦痛になっていく...
そんな経験は誰にでもあろう。人間であることを放棄すれば、人間社会から課せられる義務から解放され、真の自由が獲得できるだろうか。自由なんてものは幻想だ... と言うなら、義務なんてものも幻想だ!と言いたい。バートランド・ラッセルは、こんなことを言った... 遠からず神経衰弱に陥る人の兆候の一つとして、自分の仕事がきわめて重要なものだという信念があげられる... と。
そして、不条理な夢が現実になった時、自己破滅型人間へと変身するのであった...

「断食芸人」
19世紀頃、断食興行というものがあったそうな。断食芸人はサーカスのような興行主と契約し、檻に入って、藁の上に座り、見世物となる。苦行層が静かに語る言葉には重みを感じるが、断食芸人の場合はどうであろう。自己宣伝屋か。山師か。人目に隠れて物を食べないよう見張り番までいる。早食い競争の逆パターンか。この、いとおしむべき殉難者を御照覧あれ...
時代とともに、断食芸の人気はすっかりガタ落ち。動物の檻と並ぶ断食芸人の檻には、観客が寄り付きもしない。誰も見ていないから、真の意味で断食行に集中できるってか。ふと見張り番が気づくと、断食芸人は藁に埋もれて息絶えている。最期の言葉は... 本当に美味いと思う食べ物が見つけられなかった... とさ。
断食芸人は、藁と一緒に葬られた。その檻には、なんでも美味そうに喰う豹が入れられた。観客は、生きる悦びに満ちた豹に群がる。
自由な風が吹く平穏無事な時代では苦行が見世物となり、抑圧に満ちた多事多難の時代では、自由が見世物になるってか...
「自由さえも、豹は全然恋しがっていないように見えた。必要なものは何でもあふれんばかりにそなえているこの高貴な肉体は、自由までも、つねに身につけているように思われた...」

2020-07-19

"贈与論 他二篇" Marcel Mauss 著

プレゼント... それは美しい心の表れであろうか。贈り物を頂くと、お返しをせねば... という気持ちにもなる。より良いものを、とばかりに。そして、お返しの、お返しの... 無限ループ。これがお付き合いというものか。それが世間体というものか。これからもよろしくお願いします!とな... よろしくってどういうことか。心のどこかで見返りを求めてはいないか。裏に潜む思惑。人の心は計り知れない。自分自身の心ですら...

1920年代、社会学者マルセル・モースは、贈与の心理学を通じて、交換から義務へ結びついていく経済原理を論じて魅せた。
副題に、「アルカイックな社会における交換の形態と理由」とある。未開人と呼ばれる民族の慣習に照らして現代人の原初的な心理を掘り起こす着眼は、後のレヴィ=ストロースの著作「構造人類学」にも通ずるものがある。実際、モースの影響を受けたらしい。
経済学には、価値の交換や物品の売買だけでは説明のつかない交換行為がある。原始的な物々交換だけでは説明のつかない心理状態がある。貨幣で換算される価値だけでは説明のつかない価値がある。もはや行動経済学の領域にあると思われるが、既にこの時代に...
尚、本書には「トラキア人における古代的な契約形態」と「ギフト、ギフト」の二篇が併収され、森山工訳版(岩波文庫)を手に取る。

"gift" という単語は、ゲルマン言語系の言葉で、元来「贈り物」「毒」という二つの意味があるそうな。ほぉ~... グルグル翻訳機にかけると、英語では「贈り物」、ドイツ語では「毒」と出る。ちなみに、タキトゥス著「ゲルマーニア」によると、アングロサクソン系もゲルマン種族と記される。
オランダ語では中性名詞と女性名詞があって、中性名詞は毒を指し、女性名詞は贈り物や持参財を指すという。別の言語系でも片方の意味が消滅している事例が多く、この言葉の意味がどのように派生してきたかは定かでないらしい。
とはいえ、この意味の両面性には、人の心の表と裏が透けて見える。そう、建前と本音ってやつが...

モースは、この心の二面性に、民族の集団性と原初的な慣習性を絡めて、「贈与 = 交換」という視点から論じる。ポリネシア、メラネシア、北アメリカ、ヒンドゥー世界など古今東西の贈与の風習を見て回り、その中でも、財産を蕩尽してしまう「ポトラッチ」という儀式に着目し、これを現代社会でいう義務という意識と重ねながら物語ってくれる。
確かに、集団社会では、慣習による強制めいた意識が働く。義務という意識も儀式のようなもの。個人と個人の間でも贈り物という交換行為は成立するものの、集団と集団の間によって、その行為は慣習に、さらに文化にまで高められる。
集団の中には、誰が誰にどんな贈り物をしたか、と眼を光らせている者もいる。贈り物を与える礼儀、受け取る礼儀、お返しをする礼儀... こうした行為は冠婚葬祭にも表れ、祝儀や香典にいくら包むかといった金額相場も生じる。町内の礼儀屋さんの相場どおりにやっていれば、無礼に当たらないという感覚も、集団性が編み出した心理学であり、ムラ社会ではより顕著となる。
地位の高い者が相手ともなると、贈り物の意味までも偏重させていく。より恩恵を受けるために... より立場を優位にするために... 贈り物にも格付けがなされ、まるで忠臣蔵の一場面。世間の眼が気になれば、礼儀正しい人に見られたい、誠実な人に見られたい。そして、贈り物は虚栄心を助長する。
事業で大成功を収めた経営者が、個人で慈善基金のための大規模な財団を設立したりするのも、儲けすぎたことへの後ろめたさのような心理が働くのかは知らんが、いずれにせよ余裕ある範疇での行為となる。いや、借金してまで貢物を捧げるケースも珍しくない。気前の良さを演じることが、ある種のステータスとなったり、神が相手ともなると、生贄を捧げたり。
一方で、真に心のこもった交換行為も多い。古くから互いの健闘を称えて兵士が武器を交換したり、近年ではスポーツ選手がユニホームやエールを交換したり。そして、贈り物という行為は、使命感や義務感にまで高められていく...

経済循環における交換原理には、自己優位性という心理学が働く。安く作って、高く売り、儲けを最大化するという目論見は、貨幣価値における自己優位性の模索である。だが、それだけではあるまい。むしろ、精神的な自己優位性こそが社会活動の原動力になっているように映る。
アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。ポリス的というのは、共同体の一員であることを強烈に意識すること。共同体の一員というのは、人間は一人では生きてはゆけないということ。つまりは、集団に依存するということ。集団社会の中で生きていく上で、人間は見返りの原理を放棄することはできまい。仮に、そんな天使のような小悪魔に出逢えたら、この酔いどれ天の邪鬼は我が身を生贄に捧げたい...

それにしても、慣習の力は偉大である。なによりも人間を隷属させる力がある。疑問を感じさせず、義務と思い込ませる。迷った時には過去に縋ればいい。判例とはそうしたもの。慣習は、義務という感覚を生起させる。それは、世間からの批判を逃れるための呪術か...
この呪術に集団意識が結びつくと、これほど恐ろしい心理状態もあるまい。人は誰もが集団の中で自己優位性を保とうと必死に生きている。それは、自己存在というものを意識できる精神の持ち主の宿命であろうか。集団の中の居場所を強烈に意識させ、そこに競争原理を与え、ヒエラルキーを生じさせる。能力で優位性を見いだせなければ、肩書や名声に縋るって寸法よ。そして、これらの心理状態の多くに贈与の心理学が見て取れる。贈与には、義務と霊的な力が宿るらしい...

2020-07-12

"「いき」の構造 他二篇" 九鬼周造 著

粋(いき)な言葉をかけられると、なんとなくニヤけたり、なんとなく癒やされたり、なんとなくやる気が出たりする。粋な計らい、粋なルックス、粋なしぐさ... こうしたものが人生にアクセントを与えてくれる。然らば、粋に生きたいものである。理性屋どもの憤慨とは真逆なちょいワル感を漂わせ... 
ただ、ちょいワルといえば、ちと野暮ったい感がある。辞書を引けば、粋の対義語には、まさに野暮という語が当てられる。しかしながら、野暮もうまく振る舞えば、時には粋となる。然らば、粋も野暮も、その双方の極意を会得したいものである...
尚、本書には、いき(粋)を表題にした作品に加え、風流と情緒を表題にした「風流に関する一考察」と「情緒の系図」の二篇が併収される。

さて、「いき」、「風流」、「情緒」といった用語で表される美意識とは、日本民族固有のものであろうか。
例えば、「粋な」という語を機械翻訳にかけると、それらしい用語がフランス語に見つかる。"chic" ってやつが。この語は、英語でもドイツ語でもそのまま借用される。日本語でも「シックな」という表現をよく見かけ、辞書には... 粋な様、あかぬけた様子... とある。
元来、"chic" の語源には、二説あるそうな。
一説によると、"chicane" の略で裁判沙汰を縺れさせる「繊巧な詭計」の心得のような意味合いがあるとか。
他説によると、"schick" が原形となった「巧妙」という意味合いで、ドイツ語の "schucken" や "geschickt" がフランスに逆輸入され、次第に趣味についての "elegant" と似た意味合いに変化していったとか。
したがって、"chic" には「繊巧」や「卓越」といった意味合いがあり、対して、「いき」には、これに上品な美意識といった、やや限定された意味合いがあるらしい。"chic" の方が抽象度がやや高そうか。あるいは、「いき」は美意識にまで高めたということか...
西洋哲学には倫理用語に溢れ、その背景にキリスト教的教示を感じるが、九鬼哲学には、「いき」、「風流」、「情緒」の他にも「わび」や「さび」といったくすぐったい用語に溢れている。春風駘蕩たる趣を帯びた粋な哲学!とでもしておこうか...

とはいえ、言葉とは、気候や風土に強く影響されるもので、同じ社会の住人ですら個々で微妙なニュアンスの違いを見せるし、専門用語ですら専門家の間で用い方が微妙に違ったりする。言葉とは、精神投影の一手段であるからして、これを完全に一対一で翻訳するなんてほぼ不可能であろう。ましてや各国語間で...
したがって、翻訳語には経験と慣習が根付く。実際、西洋語を邦訳した用語には違和感あるものが溢れており、最初に翻訳語を提示した偉い学者の影響力も強い。言葉には解釈がつきもの。客観的な言葉は数学の記号にしか見当たらないし、数学にしても不完全性に見舞われている。言語という現象は、歴史を有する文化固有の自己開示にほかなるまい。
しかしながら、人間精神の根っこには存在問題がある。すべての意識は存在を意識することに始まり、この普遍性から枝分かれして存在意識に多様性をもたらす。単純な宇宙法則から、様々な形の天体や多様な星団のあり方が出現するように。この書には、言語における普遍性と多様性の共存という問題が暗示されているようにも映る。
それにしても、言葉遊びは楽しい。多様性に満ち満ち、実に愉快!精神描写の域(いき)では尚更。なによりも言葉の力を感じ、生きる活力を与えてくれる...
「生きた哲学とは、現実を理解し得るものでなければならぬ。現実をありのままに把握することで、会得するべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。」

1.「いき(粋)」について
「いき」とは、すなわち美意識である。この意識について、九鬼は三つの徴表を挙げている。
一つは、「媚態」。形容するなら、艶めかしさ、艶っぽさ、色気といった表現で、異性を意識した情念である。
二つは、「意気」すなわち「意気地」。形容するなら、生粋、伊達、気立て、侠骨といった表現で、自由な気骨が後ろ盾になった情念である。
三つは、「諦め」。形容するなら、開き直り、覚悟、やけっぱちといった表現で、運命論で後押しされた因果応報とも背中合わせな無関心の情念である。
これら三つの情念を自己消滅させるものに、空虚、倦怠、絶望、自己嫌悪といった情念を配置し、双方で綱引きを始める。無関心に美徳を求めながら、媚態を求め、しかも意気地な自由を生きる... この矛盾感ときたら。無関心な自律的遊戯とでも言おうか。積極性と消極性の狭間であえぐ控え目の美学とでも言おうか。派手なようで地味であり、粋でありながら野暮を演じきる。肯定も否定もせず、善と悪の双方と距離を置き、身勝手なようで優しさもちらつかす。媚態は、まさにチラリズムの象徴。上品と下品の微妙な関係を保ちつつも、品格や気質を備える。そしてついに、矛盾は調和へ昇華するというのか...
自己抑制、自己反発、そして自己否定... この生殺し感は、武士道の理想像にも通ずる。剣の達人が、抜かずの剣を会得するような。いや、抜かせない剣を会得するような。「いき(粋)」とは、中庸の哲学を体現することであったか...

2.「風流」について
風流とは、いかなる状態を言うのであろう。九鬼は、三つの要件を挙げている。
第一の要件は、離俗である。それは、社会的日常から離れ、世俗を断つこと。風流人になるには、心を正しくして俗を離れるべし!
この道は、世間から離脱するという消極性だけでは成立しない。個人の充実を求める積極性をともなって成立する。これが第二の要件である。
第三の要件は、自然回帰である。風流人とは、一方に自然美を、他方に人生美を纏っているものらしい。
そして、対極にある享楽をも飲み込む。芸術精神は、まさに享楽の一面。価値観の逆転や価値観の破壊は、自己破滅型の人間を要請するかのようでもある。風流人とは、自然的自在人のことを言うのであろう...
「風流とは自然美を基調とする耽美的体験を『風』と『流』の社会形態との関聯において積極的に生きる人間実存にほかならぬものであるが、そういういわば芸術面における積極性にはあらかじめ道徳面における消極的破壊性が不可欠条件として先行している。風流とはまず最初に離俗した自在人としての生活態度であって『風の流れ』の高邁不羈を性格としている。」

3.「情緒」について
本書は、主要な情緒に「驚、欲、恐、怒、恋、寂、嬉、悲、愛、憎」の十種を系図に描く。
その中で、第一に、生存や存在に関する「驚」と「欲」を配置している。第二に、自己保存に関する「恐」と「怒」を。第三に、種族保存に関する「恋」と、その裏面の「寂」を。第四に、充実不充実の指標としての主観的感情「嬉」と「悲」を、客観的感情の「愛」と「憎」を配置... といった具合。
そして、それぞれの情緒に「快」と「不快」の感情が絡めてカオス化する。
こうした図式化には西洋哲学の流れを感じるが、第一のものに「驚」としている点には議論の余地がありそうである。デカルト風に言えば、情緒の第一のものに「思惟」を配置することになろうか。思惟とは、認識である。アリストテレス風に言えば、知覚の第一に認識めいたもの、すなわち形相なるものを配置することになろうか。
人間は、なにか存在めいたものを認識することによって、なにかを感じ始め、情緒めいたものを彷彿させる。その意味では、「驚」は知覚の一種で、認識の第一歩とすることができよう。驚くといっても、なにも本当に驚くわけではない。あっ、なんかある... ぐらいのニュアンスでも...
一方、スピノザは「驚」を情緒として扱わなかったという。つまりは、情報の入力段階であって、認識に至っていないというのである。確かに、条件反射的に、無意識的に驚くことがある。情緒という現象は、無意識から呼び覚ますところもあり、「驚」の扱いも微妙か。
対して、「欲」には明らかに意識がありそうだ。いや、そうとも言えまい。無意識の領域は、本人の意識より遥かに広大無辺なのだ。自律神経ってやつは、意識の領域にあるのだろうか。すべての情緒が無意識の領域にもあるとすれば、やはり「驚」も情緒の一種ということになりそうである。
ん~... すべての情念は、「驚」を介して「欲」の派生型とすることもできそうな気もする。いずれにせよ、「愛」の情緒が幻想の領域にあることは断言できそうか...

2020-07-05

"「ガロ」掲載作品 水木しげる漫画大全集" 水木しげる 著

巨匠水木しげるの作品と言えば、「ゲゲゲの鬼太郎」や「河童の三平」や「悪魔くん」ということになろうが、おいらは読んだことがない。テレビでも見たことがない。巷の評判で、タイトルを耳にするぐらいなもの。
この漫画家に興味を持ったのは、朝ドラ「ゲゲゲの女房」を観てからである。朝ドラにしても、こんなものに夢中になる母親たちを馬鹿にしてきた。15分ずつ小出しするようなものの、どこが面白いのか?と...
ところがある日、ケーブルテレビで一晩ぶっ通しでイッキ見をやっていて、なんとなく吸い込まれてしまった。ゲーテ哲学を重ねながら、好きなことをとことんやる漫画家魂!こいつぁ、まさに技術屋魂を物語っているではないか。おいらはゲーテ好きなエンジニアなので、暗示にかかりやすい。
そして、衝動のままに総集編 DVD を八千円ほどで購入したものの、観たいシーンがことごとくカットされていた。商売戦略か!?さらに衝動のままに、完全版 DVD-BOX 全巻を三万円超えで買う羽目に...

水木しげるといえば、太平洋戦争で左腕を切断したことでも知られる。おまけに貧乏神に取り憑かれ、どん底を這いずり回り、それでも笑い飛ばしながら生きていく... これがドラマの魅力である。
しかし、だ。これを総集編で成功物語としてまとめ上げてしまえば、どうも薄っぺらだ。そりゃ、大成功して安堵できるシーンも欲しいが、そんなものは一瞬でいい。おいらは大の前戯派なのだ。それに現実はそう甘くはない。だからといって、成功者だけが幸せというわけではあるまい。むしろ、成功者の方が余計な苦労を背負い込んでいるような気がする。好きなことをやって生きていくことのもどかしさ... これこそが、このドラマに見る哲学である。こうした見方も、酔いどれ失敗者の僻みであろうか...
「戦争では、みんなえらい目にあいましたなぁ。仲間も大勢死にました。死んだ者たちは無念だったと思います。みんな生きたかったんですから。死んだ人間が一番かわいそうです。だけん、自分は生きている人間には同情せんのです。自分も貧乏はしとりますが、好きな漫画を書いて生きとるんですから、少しもかわいそうなことありません。自分をかわいそうがるのは、つまらんことですよ。」
... 第14週「旅立ちの青い空」より

さて、月間漫画雑誌「ガロ」は、テレビドラマでは「ゼタ」という名で登場し、どうやら大人向けの皮肉の効いた作品が集められているらしい。
そして、これまた衝動のままに本書を手にとってみたが、こんなすげぇヤツが... 1964年刊行開始というから東京オリンピックと重なる。世間が高度成長時代を謳歌しているのを横目に、貧乏神に取り憑かれた漫画家魂が滲み出ており、ドラマのシーンと重ねながら読むとより味わい深い。というより、ドラマの方が、この掲載作品から引用したような感がある。
台詞の一つ一つに風刺が効いていて、原始本能を目覚めさせようと仕掛けてきやがる。人間ってやつは実にくだらない存在だけど、それを認めた上でくだらないことに打ち込み、無為に過ごす。これが、人間の本来の姿なのやもしれん。だからこそ、ユーモアは必需品となろう...
「人間は無意味なことをして、酔生夢死するように作られているんだ。有意義なことをしようとするから人生が苦界になるんだな。無意味こそ最高だよ。神の声だよ...」

肩書社会を皮肉るかと思えば、ペットの猫の飼い主が逆に猫を養うために飼いならされる。ゆりかごから墓場まで、という社会保障車のセールスマンが安心を売りに来れば、所得倍増計画にちなんで、分身の術で苦労を一方に押し付けて自分は楽をするという人格倍増計画を仕掛ける。どっちが本物で、どっちが分身かって?そんなことはどうでもええ。周りの人間だって、都合のいい方を本物とするだけのことよ...

ちなみに、錬金術とは、こういうものを言うらしい...
「錬金術とは、金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得ることにあるんだ。この世の中に、これは価値だと声を大にして叫ぶに値することがあるかね、すべてがまやかしじゃないか。」

ちなみに、文明の利器とは、こういうものを言うらしい...
「欲しがらせるだけで、ガマンするのが文明なんだよ!」
品物を欲しがらせ、欲望を刺激し、それで神経をすりへらし... 野蛮で無知な人種をこうした世界に誘い込むのが文明人ってか。満員電車で通勤!これも文明。勤め先で時間に縛られる!これも文明。国中のどの土地にも税金がかかる!これも文明。近代宗教が神の存在を知らしめたわけではない。原始の時代にも神がいた。しかも純真な神が...
子供から大人まで競争社会に慣らされれば、原始の時代に憧れ、魔の東京ジャングルから抜け出そうとする。未来のトウキョウは、都市の再開発、再々開発、再々々... いつも工事ばかりで騒音と公害に満ちているとさ...
とはいえ、未来を覗くにも勇気がいる。覚悟がいる。なによりも責任がいる。結婚相手まで見せられた日にゃ... 夢は現実と乖離するほど価値を増す。高度な文明社会を生きる人間が、高度な人間かは知らんよ...
「人間にとって未知は必需品なのだ!」

中でも傑作といえば、こいつかなぁ... 「妖怪マスコミ」
それは、電気掃除機のように作家や漫画家を吸い込む妖怪だとさ。養分を吸い取られた漫画家は、肛門の穴から出てくる。中には奇怪な漫画家もいて、食べられているかのように見せて逆にマスコミから養分を吸い取り、まるまる太って十年ぐらいして排出されるのもいる。それでも懲りずに巨大マスコミは、アリクイがありを喰うように作家や漫画家を貪るとさ...

「新講談 宮本武蔵」も捨てがたい!いや、全部捨てがたい...
武士の品位が高貴なものかは知らんが、品位ってやつは人を軽蔑する快感に浸る癖をつけるらしい。勤労を尊ぶあまり娯楽を蔑視し、大切な青春すら失ってしまった悔恨が仏像を刻ませておる。五輪書なるものを書いたがために、大衆は剣一筋に生きた変人につくりあげてしまったとさ...

付録される随筆「漫画講座」もなかなか...
「親切なる漫画の書き方」と題しているところにも皮肉まじりな。おそらくここは真面目な体験談なんだろうけど...
漫画家の道とは、カラッポの頭とカラッポの財布をもって、誰もがうちのめされてきた道だそうな。才能は最初からあるわけではない。労せずして充実した頭なんぞありえない。不遇な時期でも、いや、不遇だからこそ、古今東西の名作を読破するくらいの心がけがいるという...
ちなみに、池上遼一がアシスタント時代を振り返って... 仕事場には「無為に過ごす」と張り紙されていたそうな...