2015-11-29

"確率の哲学的試論" Pierre-Simon Laplace 著

ピエール=シモン・ラプラス... 数学オンチのおいらは、この名を聞くだけで蕁麻疹がでる。ラプラス変換ってヤツのために。微積分における線形変換系のことで、回路方程式を解く上で欠かせない数学の道具であるが、酔いどれにできることといえば、作用子の変換表を鵜呑みにすることくらい。おかげで、アナログ回路設計という物理数学の世界から、デジタル回路設計という論理学の世界、いや屁理屈の世界へ逃避する羽目に...
ここでは、拒絶反応を少しばかり抑えて、ラプラス哲学に触れてみる。本書は、確率を誤差の振動と捉えれば、解析学に通ずることを教えてくれる。それは、再帰級数の応用と、最も単純な周期性を示すπとの関係であり、フーリエ級数のような三角関数によって近似値が得られる原理を匂わせてやがる。そして、解析学でよく目にする数式と出会えたことに感動するのであった...

ここでは、ラプラスの決定論的世界観を垣間見ることができる。すべての命題は、普遍命題へ向かう。それは、確率が 1 になることを意味する。ラプラスの崇拝するものはニュートン力学で、この時代、すべての知識は科学で説明できるとされた。なるほど、確率論とは、冷徹なほどに虚無をまとった形而上学であったか...
「したがって、われわれは、宇宙の現在の状態はそれに先立つ状態の結果であり、それ以後の状態の原因であると考えなければならない。ある知性が、与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の各々の状況を知っているとし、さらにこれらの与えられた情報を分析する能力をもっているとしたならば、この知性は、同一の方程式のもとに宇宙のなかの最も大きな物体の運動も、また最も軽い原子の運動をも包摂せしめるであろう。この知性にとって不確かなものは何一つないであろうし、その目には未来も過去と同様に現存することであろう。人間の精神は、天文学に与えることができた完全さのうちに、この知性のささやかな素描を提示している。」

現在でもなお、どんなに複雑な、どんなにカオスな、どんなに不完全な現象でも、そこに宇宙法則が潜んでいるに違いないという研究者の執念が、科学を支えている。目的因や偶然性で説明しようとするのは、真理を知らないことの証拠と言わんばかりに。ラプラスの知性は、地道に知識を積み重ねてきた連続性のテーゼによって支えられ、まさに永劫回帰と呼ぶべきものであろう。彼の唱える連続性が、解析学の根幹をなす微積分と相性がいいのもうなずける。
しかしながら、ラプラスの決定論は、なぜ不確かさが生じるのか?という問いには答えてくれない。無知ゆえに不確かだとすれば、無知をどう打破するというのか。結局、ソクラテス流の問答に回帰する。決定論と確率論は、本当に矛盾しないのか?と...
帰納法的な確率も、統計的な確率も、決定論で説明しようとすれば、もはや現象の解釈は主観に委ねられる。条件付き確率を唱えたところで、条件となりうる原因は多義的にならざるをえない。誤差の概念を持ち込んでも、誤差とは可能性であり、その可能性の解釈もまた確率で論じることになる。経験の積み重ねによって、確証の正解率を増大させるかもしれないが、無知もまた増大させる。物理現象を人間が認識するとは、純粋な物理系に観測系が関与することを意味するのであって、すでに主観と客観の狭間で自己矛盾に陥っているではないか。そして、決定論が理想像に崇められた時、もはや自問することをやめ、偉大な知性が暴走を始める。「ラプラスの悪魔」と呼ばれる所以だ。したがって、知性は、健全な懐疑主義と啓発された自己主義によって支えられている、としておこうか...
「確率は一部はこの無知に相対的であり、一部はわれわれの知識に相対的である。」

1. 確率の一般的原理
本書には、十の原理が羅列される。十戒のごとく。これらが、主観の原理によって支えられていることは確かであろう。注目したいのは、第三原理において確率と錯覚について言及している点、第八、第九原理において有利さの概念、すなわち好都合や、利益と損失の関係から期待値が心配値に変質する点、第十原理において人間存在の価値に言及している点である。つまりは... 偶然に関する理論は、事象の存在確率を問うことであり、好都合の比率こそが可能性の正体であり、分子は好都合の場合の数で、分母が可能な場合の総数であるような分数に他ならぬ... というわけだ。そして、物的期待値もあれば、精神的期待値もあるということを付け加えておこう。
尚、確率の公理の簡潔な数学的記述は、20世紀のコルモゴロフの登場を待つことになる。

[第一原理]
第一の原理は確率の定義にほかならない。確率とは、すべての可能な場合の数に対する好都合な場合の数の比である。

[第二原理]
ところが、第一原理は異なる場合が等しく可能であると前提している。もしそうでないなら、それぞれの場合の可能性をまず決定する。これを正しく評価することが偶然性の理論で最も微妙な点の一つである。この時、確率は各々の好都合な場合の可能性すべての和である。

[第三原理]
確率論において最も重要な点の一つであり、しかも最も錯覚を呼び起こしやすいのは、いくつかの確率が互いの組み合わせによって増加したり減少したりする仕方である。もし複数の事象が互いに独立であるならば、それらの事象がともに生じる確率は個々の確率の積である。

[第四原理]
二つの事象が互いに依存する場合、それら二つが複合した事象の確率は、第一の事象の確率と、その事象が生じたものとして第二の事象が生じるであろうという(条件つき)確率との積である。

[第五原理]
すでに生じた一つの事象の確率と、予期されるもう一つの事象とこの事象とを合わせた複合事象の確率とがアプリオリに計算できるものとしよう。この時、第二の確率を第一の確率で割ったものは、すでに観察された事象のもとでその予期された事象が生じる(条件つき)確率である。

[第六原理]
一つの観察された事象について、それを生み出しうる(そして互いに両立しない)原因がいくつか考えられるとしよう。この時、各々の原因が存在すると仮定した時にその事象が生じる(条件つき)確率が大きければ大きいほど、その原因(が当の事象の本当の原因であること)の確率も大きい。かくして、これらの原因の各々が存在する確率は、分子としてその原因を仮定した時にその事象が生じる確率をとり、分母として同様の確率をすべての原因にわたって合計したものをとった分数である。もしこれらの原因がアプリオリには等確率でない場合は、各々の原因を仮定した時の当の事象の確率の代わりに、その確率とその原因自体の(アプリオリな)確率との積を取らなければならない。これが、偶然性の分析のうちで、事象からその原因へと遡る推論の分野での基本的な原理である。

[第七原理]
未来の事象の確率は、観察された事象に基づく各々の原因の確率と、その原因が存在すると仮定した時のその未来の事象の確率との積をとり、それらの積すべての和をとったものである。

[第八原理]
この有利さがいくつかの事象に依存する時、数学的期待値は、各事象の確率とその事象が生じることで得られる利益との積を合計したものである。

[第九原理]
確率をともなう一連の事象のうち、あるものは利益を生み出し他のものは損失をもたらすとしよう。この時、全体からもたらされる有利さは、各々の好都合な事象の確率をそれがもたらす利益に乗じてそれらの積を合計したものから、各々の不都合な事象の確率をそれにともなう損失に乗じてそれらの積を合計したものを差し引くことによって得られる。もし、後の合計が前の合計より大きければ、利益は損失となり、期待は心配に変わる。

[第十原理]
無限に小さい額が持つ相対的な値は、その絶対値をそれと利害の関わりを持つ人の全財産で割ったものに等しい。これは、どのような人もなにがしかの財産を有しており、その価値は決してゼロではありえないと想定している。実際、無一文の人でも、自分の存在に対して、少なくとも彼が生きていくためにどうしても必要なものと等しいだけの価値は常に与えている。

2. 異常と誤差
異常とは、稀な事象を言うのか?あるいは不都合を言うのか?人間社会では、自分の属すグループの側を正常と呼び、それ以外のグループを異常と呼んで蔑む。ここには、ある種の排他論理が働いている。嘘もまた条件つき確率として振る舞い、集団性によって巨大な流言と化し、欺瞞の巧みな者がしばしば勝利する。アプリオリな決定の限界、すなわち主観判断の限界は、既にカントによって唱えられている。
ところで、統計学には正規分布というものがある。ガウス分布とも呼ばれるやつだ。これを正規と呼ぶことに少々違和感はあるものの、平均値を中心に左右対称の釣鐘型の曲線を描くという意味では、美しい関数特性を持っている。
また、近似モデルの一つに最小二乗法がある。誤差の2乗をとることで、プラスとマイナスで対称性をなす特徴があり、最良の誤差を数学的にどう捉えるかという観点から、正規分布と相性がいい。
こうした特性をラプラスは、死亡表と出生率などの事例から説明してくれる。わずかな幸福も、利益の可能性と無限の願いとの積からなるというわけか。そこには、医療福祉政策や年金制度を合理的に決定できるというメッセージが込められている。
しかしながら、無差別の原理を決定論でどう説明するか?という問題は、相変わらず残されている。これがラプラスの弱点であり、確率論の永遠のテーマなのかもしれん...

3.母関数と級数展開
一つの変数 x を持つ関数 A が、変数の累乗の大きさを昇っていく順に並べられた級数に展開される時、これら累乗の任意の一つ xm にかかる係数は指数関数となり、その係数を cm と表す。

  A(x) = ∑cmxm

この A(x) が母関数である。これは形式冪級数であり、係数が確率の質量を表すかのように振る舞う。x0項, x1項, ... を考察することによって、確率関数が記述できるという寸法よ。そして、これを有限界で解くことによって実用性をもたらしてきた。
しかしながら、数学者の興味は、無限へと向う。実際、無限における非連続性こそが、複雑な近代社会を投影するかのようである。金融危機や疫病の蔓延、突然勃発するテロや紛争などは、物理学的ブラックホールや数学的アトラクターといった力学系を持ちださなければ説明できそうにない。ラプラスも、極限の原理を導入することを示唆している。尤も連続性においてであるが...
「有限から無限に小さいものへの移行は、微分計算の形而上学に多大な光を投げかける。この移行により、微分計算は、不定な微小量だけそれぞれ増加させた指数の関数を級数展開し、その級数のなかで微小量の同じ累乗の係数を比較することにすぎない。」

ところで、解析学には、サブタンジェント(接線影)という概念がある。曲線 y = f(x) のサブタンジェンは、サブセカント(割線影)が絶えず近づいていく直線と考える。そして、サブセカントの二つの交点が累乗に従って展開された級数の第一項として記述し、これをテイラー展開する。こうした思考は、近似法において、すこぶる有効である。




ここで重要なのは、サブセカント s と y の関係である。

  y/s = ⊿y/⊿x ...(1)
  s = y⊿x/⊿y ...(2)

次に、y = f(x) において、⊿x → 0 で収束する様子を見る。

  y + ⊿y = f(x + ⊿x) ...(3)

この右辺を、⊿x の冪級数にテイラー展開すると、

  f(x + ⊿x) = f(x) + ⊿xf'(x) + ...

そして、(3)から y = f(x) を引き、両辺を ⊿x で割ると、この形になる。

 (y + ⊿y - y)

 ⊿x 
 =   f(x + ⊿x) - f(x)

 ⊿x 
 =   f(x) + ⊿xf'(x) + ... - f(x)

 ⊿x 

極限値を決定する上で重要なのは、第二項である。右辺の第二項は ⊿x で割り切れて f'(x) となり、左辺の第二項は ⊿y/⊿x となり、(2)より s の極限値は導関数 f'(x) で決定づけられる。

  ⊿x → 0 の時、s = y/f'(x)

これが、近似法におけるだいたいの主旨であり、結局、角θにおけるサブタンジェント(接線影)を問うことになる。
なんと!本書はこれを確率の視点から考察している。つまり、収束するか否かを。ただし、難解!その確率を求める計算式は、こんな形になるそうな...

 ⊿n{s(s - 1)...(s - r + 1)}i

 {n(n - 1)...(n - r + 1)}i 

尚、この場合の s は、最終的に 0 なるべき内部変数だとか。詳細はラプラス著「確率の解析的理論」を参照とのこと。確率とは、存在するか否かを問うことであり、存在するとは、影を引きずって生きることを言うのかもしれん。
ラプラスは、自らの方法論を「母関数の計算」と名づけている。
「定積分の極限が実数であり正であると仮定した場合に到達する級数は、その極限を決定する方程式が負あるいは虚数の解しか持たない場合にも同様に生じるということである。この正から負、そして実数から虚数への移行を利用したのはわたしが最初であるが、さらに、それによって、わたしはいくつかの特異な定積分の値を得ることができた。」

4. 大数の法則に見る哲学的意義
ラプラスは、ヤコブ・ベルヌーイの功績を称えながら、哲学的試論の意義を語る。
「理性、正義、および人間性の永遠の諸原理においてさえ、それにいつも伴う好都合な見込みだけを考えて原理に従えば大きな利益があり、原理から逸脱するなら重大な不都合を招く... こういったことを、人は疑いなく興味を持って理解することであろう。このような見込みが、富くじにおける有利な見込みのように、偶然性の揺れのなかでついには大勢を制するのである。」
実際、日常の経験に基づいた確率や、期待と心配によって誇張された確率は、純粋に計算で導かれる確率よりも強く作用する。そして、これは、大数の法則の極限的な表現である。
「観察と実験が限りなく繰り返されるならば、生じるはずの種々の事象の比率は、それぞれの事象の可能性の比率に、絶えず収縮する区間の限界内の差で近づき、この区間は与えられたどんな量よりも小さくすることができる。」

5. ド・モアブルの方法とスターリングの定理
ド・モアブルは、積分を極めて好都合に用いた方法論を見出したという。二項公式に基づいた方法で、その特徴は再帰級数の応用にある。
まず、以下の幾何(等比)級数を考える。

  a + ar + ar2 + ar3 + ...

n番目の二項の関係において、

  xn - rxn-1 ...(1)

添字 n を n-1 で置き換え、定数 k をかけると、

  kxn-1 - rkxn-2 ...(2)

(1) から (2) を引くと、

  xn - (r + k)xn-1 + rkxn-2 ...(3)

次に、公比が k に等しい別の幾何級数をとる。

  b + bk + bk2 + bk3 + ...

同じ手続きを繰り返すと、以下の三つの式が得られる。ただし、かける定数を最初の級数の公比 r とする。

  yn - kyn-1 ...(1')
  ryn-1 - rkyn-2 ...(2')
  yn - (r + k)yn-1 + rkyn-2 ...(3')

そして、二つの級数の項ごとに和をとると、

  (a + b) + (ar + bk) + (ar2 + bk2) + (ar3 + bk3) + ...

つまり、(3) および (3') と同型である。

  zn - (r + k)zn-1 + rkzn-2 ...(3'')

さらに、再帰級数で抽象化すると、

  c0 + c1t + c2t2 + c3t3 + ...

つまり、二つの幾何級数の和として記述でき、二つの解はこれらの級数の公比に他ならないというわけだ。これは、物理現象を解く上でしばしば見かける形であり、次元を思わせるような魔力を感じる。

さらに、ド・モアブルは、二項式の高い累乗においてスターリングの定理を利用したという。その特徴は、円周が半径に対して持つ比の平方根 √(2π) を導入する点にある。ちなみに、現代の記法では以下のようになる。この近似値はしばしば重宝してきたが、こんなところで出会えるとは...

  x! ≒ √(2π)・x(x + 1/2)・e-x

2015-11-22

"確率の哲学理論" Donald Gillies 著

確率論は人間社会にとって有用な道具であり、なによりも人生の選択が確率に支配されている。そう、人生はギャンブルだ。ギャンブルってやつは、賭けるものによって決定的な違いを見せる。勝てば単に賞金がもらえるのと、負ければ財産を失うのとでは、まったく意味が違ってくる。おまけに、過去を引きずるかどうか、という根本的な問題を抱えている。ベイズ的か、ランダム的か、それは極めて主観的な判断だ。負け癖がつけば、マルコフ性を超えた条件の暗示にかかる。大局ではエルゴード性を示しながらも、人生の成功には確率以上の嗅覚が求められる。人間の判断力を最も左右するものは、やはり恐怖心か。人生の岐路には、経済的破産と精神的破綻という恐怖が常につきまとう。
では、この精神作用を、どうやって数学的に説明できるというのか。ギャンブルに勝利の法則でもあるというのか。仮にあるとして、その法則をギャンブルの参加者が全員知っていたらどうだろう。もはや主観と客観の葛藤は避けられそうにない。確率論ってやつは、ある事象の存在確率を追求する学問であり、自己の魂の存在すら明確に説明できないのだから、仕方がないことかもしれん...

あらゆる物理現象や社会現象の確率性に関して、コンピュータ科学による一般化や法則化が進められているが、その有用性は確実に証明されておらず、それこそ確率的だ。そこには、確率を利用する帰納法の問題がある。そう、チューリングのテーゼに通ずる道だ。演繹法と帰納法とでは、おそらく前者の方が学問の王道であろう。だが、後者との調和によってはじめて実践的となる。
確率論の実践では、極めて経済学的な視点を要請してくる。世間では、リスク管理と呼ばれるやつだ。ケインズは、自由主義や資本主義がもたらす、経済循環の柔軟性は確率的にどこまで容認できるか、という問題を提起した。本書もまた、確率論に対するケインズの立場を紹介してくれる。同世代のフランク・ラムゼイのケインズ批判とともに。二人とも、元をたどれば数学者。
確率論を数学と呼ぶことに少々抵抗を感じるものの、少なくとも経済学や社会学と数学の架け橋となってきたことは認めよう。ただ、人間行動の不合理性を合理的に説明しようとする時点で、既に矛盾を孕んでいる。パスカルは、神の存在確率を問うた。カントは理性に問いかけても、まともな答えが返ってこないことに絶望した。悟性はいつも問いかけてくる... それは確率なのか、神の仕業なのか... と。勝利を神に祈るならば、同時に敗者の出現を祈ることになる。いつも成功し、いつも欲望を満たしていれば、確率に縋る必要はない。確率論とは、敗者の言い訳のために編み出されたものなのか。堕落した賭博者ほど神が見えるというのか。

現実世界は、あまりにも不完全なもので覆われている。それは、「確か」ではなく、「確からしい」という動機に支配されている。検索エンジンでは、完璧な結果を慎重に出力するよりも、そこそこ正しそうな結果を手っ取り早く出力することが求められる。純粋なランダム生成器を構築することは難しいが、擬似ランダムの生成ならば、すこぶる簡単だ。厳密な計算に要する労力と大雑把な思考法は、常にコストの上で天秤にかけられる。そして、面倒臭いという性癖が、集団的動機にバイアスをかけるという寸法よ。
確率論とは、数学に属しながらもなお、主観と客観の狭間をさまよう道のようである。著者ドナルド・ギリースは、確率論の歴史が、主観的な立場をとってきたことを物語り、古典理論、論理説、主観説、頻度説、傾向説、間主観説といった諸説、あるいは、ベイズ主義と非ベイズ主義、主観主義と客観主義といった立場の違いを紹介してくれる。彼は、どれが正しく、どれが間違っているなどと野暮なことは言わない。状況に応じてうまく調合する多元主義に立脚している。人間が絶対的な価値観に到達できない以上、人間の持つ合理性に近づくためには、主観と客観、双方とも欠かせまい...

1. 確率の解釈
今日、確率に対する主要な解釈は四つあるという。
  • 論理説... 合理的な信念の度合いとする解釈。すべての人間が合理的に行動することを前提。
  • 主観説... 特定の個人がもつ信念の度合いとする解釈。信じる信じないは個人の自由。
  • 頻度説... 長い系列において、事象が起こる有限な度合いを確率と定義する立場。
  • 傾向説... 繰り返される一連の条件に内在する性質や傾向であるという解釈。
さらにもう一つ、「間主観説」を提示している。主観説を発展させたもので、個人的な信念の度合いではなく、社会で合意された集団的な信念の度合いと解釈する。
哲学的には、認識論的な解釈と客観的な解釈で、二分されてきた経緯があるらしい。認識論的な解釈の側は、知識の度合いが違えば個人の信念も変わり、合理的な信念の度合いも変わる。このグループには、論理説、主観説、間主観説が属す。
客観的な解釈の側は、物質論を尺度とし、このグループには頻度説、傾向説が属す。
そして、社会学や経済学には、認識論的な解釈が適合しやすく、自然科学では客観的な解釈が適合しやすい。

2. 確率の源泉
確率の数学理論は、1654年に交換されたパスカルとフェルマーの書簡によって始まったとされるそうな。その中には、シュヴァリエ・ド・メレの問題が含まれている。
サイコロ賭博に溺れた世俗人メレは、厳粛なジャンセニスト(教会改革論者)のパスカルに問う。6のゾロ目が確実に出現するのは何度目か?と。堕落者が神の代弁者に縋ろうとも、確率は平等に与えられる。賭ける回数を増やして出現確率を安定させたところで、無駄な時間を捧げることになる。一瞬の輝きは神にしか見えず、そこには無限の原理が立ちはだかる。
ベルヌーイは、確率に関して初めて極限定理を証明したという。ちなみに、ベルヌーイの功績で、初歩的な法則では、コインの表と裏の出る確率は二項分布として知られる。また、彼は、経験則からやがて理論値へ収束するという大数の法則を示した。

初歩的な確率は、表か裏のどちらが出るかという二項定理において...

  Prob(n 回投げて表が r 回) = nCrPr(1 - P)n-r

最も単純な考え方は、n を無限大にとる。そして、二項定理から、以下の連続分布に至る傾向を持つという。そう、あの有名な正規分布だ。尚、σは標準偏差。

f(x) =   1

 σ√(2π) 
 exp (  (x - μ)2

 2σ2 
)

ちなみに、二項分布が n の増大にしたがって正規分布に近づくことを最初に示したのは、ド・モアブルだという。ド・モアブルの定理は、オイラーの公式に通ずる道である。
もう一つ、数学的に貢献した人物がベイズ。確率の哲学的試論では、ラプラスのものが有名だが、それはベルヌーイ、ド・モアブル、ベイズの示した結果を一般化し、改良したものだという。
社会学で応用される事例では、出生と死亡に関する統計を集めた商人ジョン・グラントの「死亡表に関する自然的、政治的考察」がある。「政治算術」を書したウィリアム・ペティの友人だ。この時代、予防接種の評価や、平均寿命と年金の適正問題があって、ド・モアブルも「生涯年金の論考」を書したという。保険業界を支えている数理統計学は、まさに確率論に支えられている。

3. 確率は魔物か?
ラプラスは、「確率の解析的理論」で、こう書いているという。
「自然を動かす一切の力と、自然を構成する諸々の実体とを把握できる知力が、これらの諸資料を解析するに充分なほど広大無辺であるならば、その知力は宇宙における最も巨大な諸物体の運動も、最も軽微な原子の運動をも同一の公式のうちに包含することができるだろう。この知力に対しては、不確実なことは何ひとつ存在せず、その知的両眼には未来も過去と等しく映るであろう。」
この巨大な知能が、「ラプラスの魔物」と呼ばれる。確率の理想像とは、悪魔なのか?ニュートン力学が崇められた時代、すべての知識は科学で説明できるとされた。だが、科学が宗教的迷信を打破すれば、今度は科学的信念が迷信化する。近代の客観性は、不確定性原理や不完全性定理に取り憑かれ、決定論がいかに無力であるかを思い知らせる。神のような絶対的な存在を、相対的な認識能力しか発揮できない生命体が利用すると、悪魔を蘇らせるというのか。もはや、信念の度合いと合理性の度合いの融合を図るしかあるまい。ハッキングは、こう論じたという。
「確率はヤヌスの面をもっている。一方でそれは統計的で、偶然的プロセスの法則に関わる。他方でそれは知識に関わり、統計的背景とあまり関係なく、諸命題への信念の度合いを理に適った仕方で評価するためにある。」

4. 確からしい公理
本書は、確率論の基本的な公理を三つ紹介してくれる。そこには、コルモゴロフの公理として知られるものも含まれる。

[公理 1]
いかなる事象 E に対して、0 ≦ P(E) ≦ 1。また、全事象 Ω に対して、P(Ω) = 1

[公理 2: 加法法則]
排反な事象 E1, ..., En において、P(E1) + ... + P(En) = 1

[公理 3: 乗法法則]
二つの事象 E, F において、P(E & F) = P(E | F)P(F)

確率論は、表記法において集合論と相性がいい。コルモゴロフの方法論では、確率は集合Ωの部分集合に割り当てられる。コルモゴロフは、こう定義したという。

P(E | F) = def   P(E & F)

 P(F) 
 , ただし P(F) ≠ 0

一方、ベイズ的思考では、確率 P における条件 e によって、h が決まる場合、P(h|e) は e のもとで h の事後的確率とされる。ベイズ学派の目的は、この P(h|e) を計算する方法を見つけることだという。

P(h|e) =   P(e & h)

 P(e) 
 =   P(e | h)P(h)

 P(e) 
 , ただし P(e) ≠ 0

ここに、コルモゴロフの公理とベイズの定理の共通哲学を見出すことができる。
また、加法性の法則は単純なように映るが、実際の現象を扱う場合、可算的な集合を持ち込むと、一様分布で考えることが極端に難しい。収束する無限級数に合致すればいいが、なかなかうまくいかない。そこで、分布モデルに当てはめながら、モデルを組み合わせて、近似モデルを構築することが現実的となろう。ブルーノ・デ・フィネッティは、こう述べたという。
「実際、事象 E1, E2, ..., En, ... が独立で確率 ξ について同じように確からしいとき、包括的事象 E に帰せられる確率が Pξ(E) であるとする。
いま Ei が限定的な分布 Φ(ξ) をもつ可換な諸事象とし、同じ包括的な事象の確率 P(E) は、

P(E) =  1
0
Pξ(E)dΦ(ξ)

である。この事実は、可換な諸事象に対応した確率分布 P は、線形結合の加重を Φ(ξ) であらわした場合に、独立して同様に確からしい事象に対応した分布 Φ(ξ) の線形結合である。」

デ・フィネッティの解釈は、主観的確率と可換性を好んで、客観的確率や独立性の概念を排除しているという。客観主義者が、形而上学的な観念を排除すると、こうなるかは知らん。ただ、客観的確率の独立性を、主観的確率の可換性に還元できるとしており、本書はこの還元説を批判している。ラムゼイよりも主観的動機が強すぎるというわけか。
実際、現象が過去に依存するケースは多く、連鎖グループは階層的な構造をしている。例えば、天気予報は昨日の天気との関連性が強い。独立性と可換性の等価性を主張するのは、ちと強引であろうか。確率の法則は、用いる事象によって効果がまったく違い、その見え方は統計学的ですらある。そういえば... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と語ったのは誰であったか。

5. 確率論のパラドックス
パラドックスの根源は、各事象の出現確率の和が 1 にならないことにあるが、ベルトランの逆説は、いつ見ても奇っ怪!
「ある円を考え、適当に弦を選ぶ。この弦が円に内接する等辺三角形の一辺より長い確率はいくつだろうか。」
この無差別に選択する問題は、三つの解を得る。

[第一の算出法]
円の中心点 O から問題を眺め、無作為な半径 R を選ぶ。内接する正三角形 ABC に対して、頂点 A から辺 BC に対して垂線を引き、交わる点を W とすると、OW = R/2 となる。OW < R/2 であれば、弦 BC は、円に内接する正三角形よりも長く、OW は、区間[O, R] の間で均一な確率分布を持つ。

  P(OW <1/2) = 1/2




[第ニの算出法]
円の端点 A から問題を眺め、無作為な円周上の点を選ぶ。点A の接線と弦ABのなす角をθとすると、内接する正三角形の一辺より長いのは、60度 < θ< 120度 となり、θは接線との関係から 区間 [0, 180] の間で均一な確率分布を持つ。

  P(60度 < θ <120度) = 1/3




[第三の算出法]
円の内部の点から問題を眺め、同じ中心点 O 上に半径 R/2 の円を描く。辺 BC を等分する 点W が内側の円の内部にあれば、内接する正三角形の一辺よりも長く、W は円の中で均一な確率分布を持つ。

P =   小さい円の面積

 大きい円の面積 
 =   πR2/4

 πR2 
 = 1/4




同じ問題でも、半径、端点、内部の点という観点の違いで、1/2, 1/3, 1/4 という確率分布のパターンが生じる。パラドックスとはいえ、整然と確率分布が編み出される様子は、芸術さえ感じるのだった...

6. 経験法則と不確実性
経験法則は、数学的に反証できないもどかしさがある。コイン投げのような偶然的ゲームから、生物学的な統計学、そして、量子物理学が扱う素粒子現象まで、繰り返し起こる事象や大量現象に対して、ア・プリオリな性質を感じることがある。このような形態を、リヒャルト・フォン・ミーゼスは、「性質空間」と名づけたという。その名は、今日では「標本空間」と変わってきたが、不幸な改悪であると指摘している。
可能性の集合、すなわち性質は、標本化、つまりサンプリングと本質的に関係がないという。サンプル数、すなわち集団性の性質を問うということは、それが極めて経験的であることは確かだが、経験を多く積めば真理に近づけるという単純なものではない。
本書は、デ・フィネッティの独立性を可換性に還元する方法論を批判しながらも、彼のこの言葉に共感している。
「確率と頻度との間の関係を正確にできないのは、ちょうどあらゆる実験科学において、理論の抽象概念と経験的現実を関係づけることが実質的に不可能なことに似ている... こう考えることで批判を免れることができると、しばしば思われている。
しかし私の考えでは、そのような類似性は幻想に過ぎない。たしかに確率以外の科学では、理論が完全に精密であれば、何が起こるかを確実かつ正確に主張し、予見することができる。しかし確率算においては、理論自身はすべての頻度の可能性を認めざるをえないような理論である。それ以外の科学では不確実性理論と事実の関連が不完全なことから帰結するが、反対に確率に関しては、この関連のなかにではなく、まさに理論自体のなかにこそ不確実性が存在する。」

2015-11-15

"解析概論 改訂第三版" 高木貞治 著

三十年来、引き戻され続ける書を、もう一冊。相も変わらず、しつこく仕事に絡んできやがる。お前は酔っ払いか。そして、電磁気学で苦しめられた、あの忌々しい奴らにやられる。そう、ガウスとストークスだ。おいらは永遠に赤点よ!ただ、数学屋ではないし、結果だけ知っていれば、道具とすることはできる。薄っぺらな知識しかなくても、生き方はある...

数学は代数学と幾何学の二大分野によって成し、解析学はその双方を調和する立場にある。物事を解析するには、記号的で論理的な思考も、空間的で感覚的な思考も欠かせない。そして、数式と数式の行間に隠された言葉を読みとる。これが解析学の醍醐味であろうか。
本書は、こうした思考原理が微積法にあることを教えてくれる。物理現象の本質を見極めるには、瞬時な方向性を観察するか、総合的な流れを眺望するか、いずれにせよ極限に迫る必要がある。話題の中心は、変数を複素数に拡張した関数。そう、初等関数ってやつだ。これを初等と呼ぶことに、いまだに抵抗を感じるのであった...

代数学の観点から眺めると...
現象を解析するということは、数学的な法則性を導き出すことを意味する。そこで重要となるのが、級数の概念だ。項を多項式などで抽象化し、無限和や無限積で記述できれば、極限値を得る可能性を匂わせる。級数が収束する性質を持つかどうかが、微分可能か、積分可能かの判定基準になる。そして、テイラー展開やフーリエ変換、あるいはゼータ関数といったものの性質が考察される。こうした概念は、アルゴリズムの実装時に非常に有用である。

幾何学の観点から眺めると...
アルキメデスに始まる細かく切断して足し合わせるという求積法が、直感的な思考法としてある。ここに、定規とコンパスで作図できるかという問いかけが、実数の連続性と結びつく。そこで、最初に登場する概念が、デデキントの切断だ。連続性で保証されるからこそ、大小関係が決定でき、適当なところで切断できる。おぼろげな対象には、大雑把な大小関係から始まり、徐々に目標を絞っていくという考え方が成り立つ... などと言えば、あの忌々しいε-δ論法だ。とはいえ、この思考法は、解析学の王道と言うべきかもしれない。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとって、絶対的な現象を認識することは難しく、なんらかの比較対象を必要とする。そして、認識能力の支柱をなしているのが、時間という連続性だ。精神病患者の多くは、時間の概念を失った状態とも聞く。連続性から大小関係という感覚的に対象に迫るという思考法は、人間にとって自然であり、合理的にも映る。

コーシーは、連続関数の積分和の極限値として、基本的な考察を試みたという。問題は、連続性が保証されない場合である。ルーベル積分の登場で、リーマン積分は中間的な存在になったという。連続性を仮定しなくても積分可能な条件を確定したのがリーマンで、特異点が無数にある場合を扱ったのがルーベルだとか。しかしながら、泥酔者にとって有用なのは有限区間を論じる定積分で、相も変わらずアルキメデスの世界観に幽閉されたまま。その証拠に、酒の力を借りて記憶がぶっ飛ぶと、連続性から解放されて幸せになれる。この現象も、デデキントの切断原理に付け加えておこう...

1. 実数の連続性
入門の概念として、実数の連続性に関する重要な性質を四つ挙げてくれる。

(1)デデキントの切断
実数の切断は、下組と上組との境界として、一つの数を確定する。

(2)ワイエルシュトラスの定理
数の集合 S が上方(または下方)に有界ならば S の上限(または下限)が存在する。

(3)有界な単調数列の収束
有界なる単調数列は収束する。

(4)区間縮小法
閉区間 In = [an, bn] (n = 1, 2, ...) において、各区間 In がその前の区間 In-1 に含まれ、n が限りなく増すとき、区間 In の幅 bn - an が限りなく小さくなるとすれば、これらの各区間に共通なるただ一点が存在する。

いずれも集合論と結びつく概念である。そして、幾何学に投影するために、座標点の距離を観察しながら、それらの大小関係を考察するといった思考を要請してくる。
いま、n次元空間における座標点を、P(x1, x2, ..., xn), P'(x'1, x'2, ..., x'n) とすると、その距離は...

  √{(x1 - x'1)2 + (x2 - x'2)2 + ... + (xn - x'n)2}

そして、三角関係 P, P', P" において、PP' + P'P" ≧ PP" が成り立つ。
さらに、P を中心とする半径 δ となる n次元の球の境界を考察すると...

   |x1 - x'1| < δ, |x2 - x'2| < δ, ..., |xn - x'n| < δ

まずもって数の連続性を想定することが、解析学における基本的な思考となるが、あの忌々しいやつが思いっきり匂い立ってやがる。ちなみに、ε-δ論法風に記述するとこんな感じか...

f(x) が x = a において連続であるということは、
  x → a の時、f(x) → f(a)
であることにほかならず、
  |x - a| < δ の時、|f(x) - f(a)| <ε
となるは必然...

2. 平均値の定理
連続性が想定できれば、平均値を考察するというのは、最も素朴な思考法であろう。そして、平均値を極限に近づけることが重要となる。
まず、微分における平均値の定理では、ラグランジェとコーシーのものが紹介される。

・ラグランジュの平均値定理
f(x) は区間 [a, b] において連続、(a, b) において微分可能とする。然らば、

 f(b) - f(a)

 (b - a) 
 = f '(ξ),  a < ξ < b

なる ξ が存在する。

・コーシーの平均値定理
区間 [a, b] において f(x), g(x) は連続で、(a, b) において微分可能とする。然らば (a, b) 内の或る点 ξ において、

 f(a) - f(b)

 g(a) - g(b) 
 =   f '(ξ)

 g '(ξ) 
,  a < ξ < b 

ただし、g(a) ≠ g(b)、f '(x), g '(x) は区間内で同時に 0 にならないと仮定する。

次に、積分法においては、第一平均値定理と第ニ平均値定理が紹介される。

・第一平均値定理
区間 [a, b] において f(x) は連続、φ(x) は積分可能で、一定の符号を有するならば、
a < ξ < b なる或る点 ξ において、

b
a
f(x)φ(x)dx  =  f(ξ) b
a
φ(x)dx

・第二平均値定理
区間 [a, b] において f(x) は積分可能、また φ(x) は有限で単調とする。然らば、

b
a
f(x)φ(x)dx  =  φ(a) ξ
a
f(x)dx  + φ(b) b
ξ
f(x)dx ,  a ≦ ξ ≦ b 

なるξが存在する。

3. 定積分の近似法
積分法を、平均値や総和で考察する観点は、統計学的とも言えよう。ここでは、シンプソンの方法とガウスの方法が紹介される。
尚、どちらも定積分のアルゴリズムとして実装しやすく、幾度となくお世話になっている。

・シンプソンの方法
区間 [a, b] を 2n 等分して、各分点に対応する f(x) の値を y0, y1, y2, ..., y2n とし、
h = (b - a)/2n と置き、近似値として、

 h

 3 
(y2i - 2 + y2i + 4y2i - 1)

を取って i = 1, 2, ..., n 上にわたって統計すれば、

b
a
f(x)dx  ≒   h

 3 
{y0 + y2n + 2(y2 + y4 + ... + y2n - 2) + 4(y1 + y3 + ... + y2n - 1)}

... これが、シンプソンの公式である。

一方、ガウスの方法では、ラグランジュの球関数を利用する。
いま、n - 1 次以下の多項式 Q(x) に関して、

b
a
Q(x)Pn(x)dx = 0

になるような n次の多項式 Pn(x) を求めることを考える。そして、区間 [-1, 1] において関数が定まるという。
Pn(x)  =   1

 2n・n! 
 dn

 dxn 
(x2 - 1)n

... これが、ラグランジェの球関数である。

・ガウスの方法
さて任意の連続関数 F(x) がある時、区間 [-1, 1] において、xv およびそのほか n 個の点、すなわち合わせて 2n 個の点において F(x) と等しい値を有する 2n - 1 次以下の多項式を f(x) として、それを F(x) に代用して、∫F(x)dx の近似値として、∫f(x)dx を取れば、

1
-1
F(x)dx  ≒  n

v = 1
PvF(xv)

n個のF(xv)だけを用いて、近似値が計算されるところにガウスの方法の特色があるという。

4. ガウスの定理とストークスの定理
多変数の積分は、なかなか悩ましい。ここで重要な数学の道具は、発散(div)と回転(rot)の概念である。ここでは、ガウスの定理とストークスの定理を挙げておこう。なにしろ電磁気学で欠かせないのだから。
まずは、ベクトル場の記述から、

  div u = ∂a/∂x + ∂b/∂y + ∂c/∂z
  rot u = (∂c/∂y - ∂b/∂z, ∂a/∂z - ∂c/∂x, ∂b/∂x - ∂a/∂y)

さて、ガウスの定理は、閉曲面 S において、内部区域 K に関する三次元積分を表す。具体的には、(x, y, z) の三つの関数において、

  a(x, y, z), b(x, y, z), c(x, y, z)

が、K において連続的に微分可能とすれば、



S
a dydz + b dzdx + c dxdy = 

K
(ax + by + cz)dxdydz

... これが、ガウスの定理である。
別の表記では、閉曲面 S の各点において、外部への法線の方向余弦を cos α, cos β, cos γ とすると、



K
(ax + by + cz)dω = 

S
(a cos α + b cos β + c cos γ) dσ

dω は K の微小領域、dσ は S の微小面積。
さらに、より簡単な記述は、(a, b, c) をベクトル u の座標とし、法線上に単位ベクトルを n とすると、



K
div u dω = 

S
u・n dσ

次に、ストークスの定理では、ガウスの定理において、div u = 0 の場合を考える。
任意のベクトル v = (a ,b, c) において、

  u = rot v = (cy - bz, az - cx, bx - ay)
  n = (cos α, cos β, cos γ)

と置くと、



S
u・n dσ = 

S
((cy - bz)cosα + (az - cx)cosβ + (bx - ay)cosγ) dσ

結局、曲面 S で面積分したものが、その境界線 C で線積分したものと一致するという。



S
(cy - bz)dydz + (az - cx)dzdx + (bx - ay)dxdy = 

C
a dx + b dy + c dz

... これが、ストークスの定理である。
さらに、C の接線 t と S の法線 n を対応させると、簡略化できる。



S
rot v・n dσ = 

C
v ・t ds

尚、ds は C の微小弧。

2015-11-08

"初等整数論講義" 高木貞治 著

ガウスは、整数論を数学の中の数学と論じたそうな...
整数論は、デジタルシステムを設計する上でも礎をなす道具。そして三十年来、この書にいつも引き戻される。今更感に苛まれながらも古典に縋る思いは、数学に落ちこぼれた者の宿命か、いや幸福か。もとより初等数学と高等数学に明確な境界はないが、有理数の領域に限定してくれるだけで、ちょっぴり安堵する。ここでは、ε-δ論法なんて言いっこなしだ!
しかしながら、素のイデアルを考察する段になると頭痛がはじまり、何度読み返しても最後まで辿り着けたためしがない。それも、プラトンが唱えたイデアという純粋な魂の型を完全に失った泥酔者の宿命であろうか...

デジタルシステムにおける最も有用な概念は、整数論的な近似法であろう。アルゴリズムの実装検討において、変数や定数を抽出し、多項式や微分方程式までは組み上げることができても、そこに解があるかどうかがシステム実現への鍵となる。問題は、解がない時である。解が見つからないから実装できない!などと言って仕事を放棄できればいいが、そうはいかない。人間社会では、じっくりと時間をかけて完璧な答えを得るよりも、思いっきり手を抜いてそこそこ正しそうな答えを得る方が有用な場合が多い。極端に言えば、解の公式よりも、そこに内包される判別式の方が重宝されるということだ。
ではどうやって、そこそこ正しそうな答えに迫るか?まずは数の本質を見極めること、すなわち素(そ)を探求することであろう。物理学が素粒子はどこまで素粒子なのかを求めるように、数学もまた数はどこまで素なのかを求めてやまない。いまや数学の研究対象は数(かず)ではなく、演算の結果、解がどの系に属すかという性質を巡ってのものへと移ってきた。自然数の弱点は、減法や除法によって解が系からはみ出すことにある。演算によって系が閉じられないという現象が、数の体系を整数、有理数、実数、複素数へと抽象化させた。そこに集合論が結びつくと多項式までも呑み込まれ、体、群、環、イデアルへと抽象度を高める。整数の正体を見極めるために素因数分解を試みるように、多項式もまた素となる成分で分解しようとする。
本書は、約数を持たない素数から、共通の約数を持たない互いに素の関係を経て、素のイデアルに迫ろうとする。その過程で、モジュロ世界に幽閉すれば、素の光景も変わって見える。そう、原始根ってやつだ。ある素数を法とする除法の周期性が、あるいは、その合同式が解を有するかどうか... こうした考察が、いかに数の本質を明るみにしてくれるかを味あわせてくれる。

また、二次体の理論において、x2 + y2 = a2 の解にこだわる様子は、複素共役の関係にあるノルムの意義のようなものを語ってくれる。ガウスは、四乗剰余の相互法則を求めるに際し、整数の概念を複素数に拡張する必要性を認めたという。共役な関係を同一の因数と見做せるならば、実装上の演算を極端に減らすことができ、めでたしめでたし!
複素数系における共役は、別の系では、ある単数型を掛けて符号が変わる関係というように単純化できる。そう、同伴の関係だ。i(愛)を賭(掛)けることが同伴を意味するとなれば、二次元愛の虜となろう。整域とは、まさに聖域!さっそく鏡の向こうの住人が、夜の社交場という聖域へ向かって同伴メールを送ってやがる...
そして更に、n次元で抽象化すれば、フェルマーの最終定理となる。解法の基本形式が円の方程式、あるいは、n次元の球の方程式で抽象化できるとすれば、整数がモジュロ世界に閉じられる様子は、まさに幾何学に投影した姿と言えよう。実際、三角関数で非常によい近似を与えてくれる古典的な方法にフーリエ変換があり、あるいは、暗号システムでは素数の原理とモジュロ演算が絶対に欠かせない。自然界は、人間社会で重宝される四則演算よりも、除法における余りの方が重要だと言っている。余り物には福があるとは、よく言ったものだ...

1. 数の体系と方程式系
本書は、不定方程式という伝統的な用語を用いている。ディオファントスの方程式と呼ばれるやつだ。そして、最も単純な一次不定方程式がこれ...

  ax + by + cz = k

この式が、解を有するための必要かつ十分な条件は、k が d = gcd(a, b, c) で割り切れることだという。gcd : greatest common divisor(最大公約数)
言い換えると...

  f(x, y, z) = ax + by + cz

によって表される数は、d = gcd(a, b, c) の倍数の全体である... となる。
そして、ある数の集合の元から加法や減法によって作られる数が、やはりその集合に属するかどうか、こうした性質を考察することが整数論、ひいては集合論の鍵となる。

2. 合同式の概論
人間社会では、四則演算が一定の地位を保ってきた。しかし、第五の演算と呼ばれるモジュロ演算こそ、四則演算のすべてを抽象化する能力を持っている。すこぶる単純な概念でありながら、人間の感覚では、ちと馴染みにくいというだけのこと。
例えば、整数 a, b の差が m の倍数であるとき、a と b は、 m を法として互いに合同である。

  a ≡ b (mod m)

こうした合同式は、相等、相似、対等などと同じ範疇に属する関係であるという。
反射的: a ≡ a (mod m)
対象的: a ≡ b ならば、 b ≡ a (mod m)
推移的: a ≡ b, b ≡ c ならば、a ≡ c  (mod m)

こうした性質は、数に対するだけでなく、多項式までも合同式として捉えると、解釈の幅が広がる。仮に、素数の分布に周期性があるとすれば、どの数を法とするか?などと悩む必要はなくなるかもしれない。さらに、ゴールドバッハ予想が正しければ、すべての数は素数と 1 の加法で定義できることになる。
「2 以外の偶数は二つの素数の和として表し得る」

そして、この定理がより一層輝きを放つであろう。
「法 p が素数である時、n 次の合同式 f(x) ≡ 0 (mod p) は、n よりも多くの解を有することを得ない。」

実際、ファルマーの小定理で定義される合同式は、暗号システムで重宝される。
「p が素数で、a は p で割り切れないならば、a(p-1) ≡ 1 (mod p)」

3. 平方剰余の性質
平方数の性質は、例えば... ある平方数を 3 で割った余りは 0 か 1 で、2 になることはない。4 で割った余りもまた、0 か 1 で、2 や 3 になることはない。ここで重要なのは、除数と素数の関係である。そして、合同式、xn ≡ a (mod p) が解を有するかどうか?を問うことが意味を持つ。
これをルジャンドルの記号で表記すると...

(  a

 p 
)  =  +1 or -1 (解がある時、+1, ない時、-1)

そして、次の法則が成り立つという。

「オイラーの基準
(  a

 p 
)  ≡  a(p-1)/2 (mod p)

「平方剰余の相互法則」
(  p

 q 
) (  q

 p 
)  =  (-1){(p-1)/2}・{(q-1)/2}

「第一補充法則」
(  -1

 p 
)  =  (-1)(p-1)/2

「第ニ補充法則」
(  2

 p 
)  =  (-1)(p2-1)/8

こうした性質を利用して、不定方程式の解の範囲を絞り込むという寸法よ。絞り込んだところで、完全な解が得られるとは限らんが...

4. 連分数とミンコフスキーの定理
実数の連分数展開が、有用な近似分数を与えてくれる。そこで、主近似分数と中間近似分数の見極めが重要となる。本書は、その手段として平面格子を用いた思考法を紹介してくれる。座標平面上の格子点が、有理数を表すことはイメージしやすい。
「面積 1 なる正方形を基本とする格子の一点に中心を置いて、面積 4 なる任意の平行四辺形を描けば、その内部または周上に中心以外の格子点が必ず含まれる。」

ミンコフスキーは、さらに拡張して平行四辺形を任意の有心凸形で置き換えたという。有心凸形とは、平行四辺形の辺を楕円で膨らませたような、卵型をしている。
「格子点に中心点を置いて面積が 4 なる有心凸形を描けば、その内部または周上に中心以外の格子点が含まれる。」

二次元空間における格子点で不定方程式の解が絞り込めるとすれば、ミンコフスキーの定理は二次体と相性がよさそうである。そして、複素平面も意味深いものとなる。
「二次無理数は、循環連分数に展開される。」

5. 二次体と同伴解
二次方程式 ax2 + bx + c = 0 の解と言えば、義務教育から叩きこまれたこの形...

 x   =   -b ± √(b2 - 4ac)

 2a 

ここで重要なのは、D = b2 - 4ac が判別式として使えること。中学レベルの算数も馬鹿にはできない...
「D が二次無理数の判別式であるがために必要かつ十分な条件は、D は平方数でなくて、D ≡ 0 または 1 (mod 4) であることである。」

そして、整数論において、二次体は重要な意味を持つことになる。
「二次不定方程式: ax2 + bxy + cy2 = k において、
(第一) D < 0  ならば、整数解があるとしても、それは有限個に限る。
(第二) D > 0  で、D が平方数でない時、解があるならば無限の多くの解があるが、それらの解は有限組の同伴解に分かれる。」

複素共役の重要な性質は、互いに掛け合わせると...

  (a + ib)(a - ib) = a2 + b2

つまり、複素数系において共役な関係を同一の因数とみなせば、整数系に引き出される。そして、ノルムに意義を与え、幾何学的には距離を考察することになる。

6. 二次体のイデアル
いま、x + y√m を簡単化するために、K(√m) と表記する。そして、二次体 K(√m) において、整数μで割り切れる整数の全部を一つの集合とすると...

(1) この集合に属す任意の二つの整数α, βの和および差は、やはりこの集合に属す。
(2) この集合に属す整数αの任意の倍数λαは、やはりこの集合に属す。
(3) α1, α2, ..., αn がこの集合に属すならば、λ1, λ2, ..., λn を任意の整数とする時、λ1α1 + λ2α2 + ... + λnαn もこの集合に属す。

(3)は、(1),(2)から導き得るが、(3)は(1),(2)の特別な場合だという。そして、イデアルをこう定義している。
「二次体 K(√m) の整数の集合が (1), (2) の性質を有するとき、その集合を一つのイデアルという。」

さらに本書は、共通の約数を持たない原始イデアル、あるいはイデアルの共役について考察し、素なるイデアルを探求する。互いに共役な二つのイデアルの積は一つの有理整数から生ずる単項イデアルに等しいという。素のイデアルとは、素数を集合論に拡張したようなものであろうか。二次体の判別式を求める段になってもなお、素数がまとわりついてきやがる。既に頭は、素っからかん!またもや最後まで辿りつけないのであった...

2015-11-01

"ロウソクの科学" Michael Faraday 著

マイケル・ファラデー... この名を耳にするだけで、あの忌々しい記憶が蘇る。電磁気学の赤点地獄!俗界の泥酔者は、純真な心を取り戻すために、このあたりから科学をやり直す必要がありそうだ。いや、燃え尽きた炎は取り返しがつかない...
1860年の暮、ファラデーは、Royal Institution(王立研究所)において、少年少女のために6回に渡って講義を行った。このとき七十... 1867年、静かな晩年のうちに逝く。本書は、その講義をウィリアム・クルックスが編纂したものである。ロウソクが如何に科学の夢を抱かせる題材となりうるか... ファラデーのクリスマスプレゼントが歴史を刻む。
尚、いくつか翻訳版がある中、科学のいにしえに浸るために、あえて黴臭い矢島祐利訳版(1956年, 岩波文庫)を手にとる。

人類の炎の歴史は、原始のたいまつからロウソクに至るまで長い年月を要してきた。火の使い手となり、火の崇拝者となり、やがて暗黒を照らす道具は信仰の域に達する。人々がどのような方法で家の中を照らしているかは、文化の尺度とすることができよう。そして近代文明は、イルミネーションという人々の心を動かす技術を開発した。燃焼エネルギーの余力によって。ただ、余力とは、浪費と解することもできる。
人生をロウソクになぞらえるのは、詩人や作家だけの特技ではあるまい。ファラデーは、ロウソクの燃焼原理を人体の呼吸メカニズムと重ねながら、熱機関の寿命としての等価性を熱く語る。主要な登場人物は、酸素、水素、窒素、そして炭酸ガス。中でも、燃えるために重要な役割を演じているのは酸素と水素だ。
しかしながら、本当に重要な役割を果たしているのは、不活性な気体の方かもしれない。本書は、空気中の酸素と窒素の容積比が 20 : 80 となり、総質量比が 22.3 : 77.7 となる様子を情熱的に物語る。つまり、不活性な窒素が圧倒的に多いことが、地上を炎の海に包むことなく、生命体にとって適度な環境をもたらしてくれる、というわけだ。動物が生きるためには酸素を必要とするが、植物が生きるためには炭酸ガスを必要とする。おまけに、動物は植物がなければ生きてはいけず、まったく自立性を欠いている。
何事も共存のためには、不活性な部分が必要である。動物よりも植物の方が圧倒的に多いから、生命体にとって地上は楽園であり続ける。政治論争においても、感情論に走ったり、暴徒化する連中を冷たい目で眺める人々がいるから、社会が成り立つ。この割合のバランスを欠くと、犯罪や武装勢力が勢いづき、緊迫した社会となろう。理性と感情、あるいは知性と衝動の割合は、どちらが多いかは知らん。そして質量比で逆転するのかもしれん。いずれにせよ、集団性において善玉菌よりも悪玉菌の方が感染力が強いのは、確かなようである。ファラデーは、講義の最後をこう締めくくる。
「諸君の生命が長くロウソクのように続いて同胞のために明るい光輝となり、諸君のあらゆる行動はロウソクの炎のような美しさを示し、諸君は人類の福祉のための義務の遂行に全生命をささげられんことを希望する次第であります。」

ところで、ロウソクの性能向上を実感できる場といえば、葬儀であろうか。遺体の前では、ロウソクの火を絶やさぬよう、一晩寝ずの番をする。だが、最近のロウソクは、一晩中消えないよう工夫がなされる。球形で、蝋が溜まる皿が大きくなるように。この原理が分からず、結局一晩、寝ずに考えこむ。とはいえ、科学の進歩は、ロウソクの火を3D映像化させるだろう。自分の身体が仮想空間にあるのかも分からない時代では、生きていることを実感することが難しい...

1. そこの奥さん、ちょっと、みてみてみて!
ファラデーは、実際にロウソクを作って見せる。どこぞの実演販売風に...
ここに取りい出したる、牛の肝臓の脂肪と硫酸。さて、やり方はこうです!まず、獣脂つまり脂肪を石灰で煮て石鹸をつくりましょう。次に、硫酸を加えて石灰を除き、脂肪の中のステアリン酸を取り出すと、グリセリンができました。このような化学反応によって、なんと獣脂からグリセリンができちゃいます。
ところで、そこの奥さん!グリセリンが砂糖にも似た味のある液体というのは、ご存知?さらに、圧出によって油酸を取り除きましょう。圧力をだんだん強くしますと、一緒に不純物が運び去られて固形体が残ります。これを溶かせば、はい!ステアリンロウソクの出来上がり...
尚、物理学の光度には、カンデラという単位があるが、これも獣脂ロウソクという意味のラテン語に由来するとされる。

2. 糸芯ロウソクの原理
ロウソクの原理は、単純そうで、なかなか手強い!ランプの場合は、油だけでは燃えないので、芯の先まで運ばれ、空気と触れて燃える。対して、ロウソクは、芯の先まで何も運ばれないのに、その場を維持して燃え続ける。摩訶不思議?これを、ファラデーは、空気の流動だけで説明してのける...
炎の熱のために、下から上に向かって空気の流れが生じる。外側は冷却されることになるから、炎の縁は真ん中より温度が低い。内側は炎が芯を伝わって下へ行って溶けるが、外部は溶けにくい。したがって、炎の周辺の蝋は、中央が凹んだ皿を作る。重力が蝋の液体を表面張力によって水平に保とうとし、皿から液が溢れ出て落ちる。しかもその溢れ出る外側を溶かす速度で燃え続けるという寸法だ。
言い換えれば、燃える時に、上部で皿を作る性質を持たない物質では、ロウソクは作れない。
また、炎が燃焼物質を捕まえる原理は、「毛細管現象」と同じだという。細い管を水の中に浸すと、水が水面よりも上に管を登る。水銀の場合は、逆に降りる。溶けた蝋は表面張力によって維持され、溶けた脂肪の油が芯を伝わって登っていくというわけだ。上昇気流による冷却と、皿を作る性質というだけで... これほど自然を味方につけた技術があろうか!

3. 燃えないものと燃えカス
燃焼の結果、残るものは窒素で、匂いもなく、味もない。水にも溶けず、酸性でもアルカリ性でもない。人間の感官ではほとんど感じられない、まさに虚無な存在。
酸素はものを盛んに燃えさせるが、窒素は火を加減し、人間の使用に耐えうるよう調節してくれる。人間社会にとって、すこぶる有用な働きだ。まったく無気力な存在が、燃えすぎる存在を抑制してくれる。情報化社会で加熱する世論の中にあって、集団性から距離を置き、ニヒリズムが旺盛になるように。窒素は、酸素の他の物質とも容易に結合しようとはしない。共有や仮想友人で結びつきの旺盛な社会では、なおさら貴重な存在だ。
しかしながら、残るものはそれだけだろうか?残るのではなく、燃焼によって発生するものがある。そう、炭や煙、すなわち、炭素や炭酸ガスだ。動物から見れば燃えカスだが、植物から見れば、まさに生命の源。人間は生きてせいぜい百年だが、植物には何千年も生きるものがいる。有史以来、人間どもをずっと観察してきたヤツもいるだろう。静粛しきった植物だって、なんらかの周波数を発している。そこに言葉がないと言い切れるだろうか。人間の知能で自然のすべてが語れるわけもない。人間が言葉として捉えられるのは、知覚能力で制限される特定の周波数帯域のみ。自然の声を耳にするには、資格が必要なのかもしれん。曇のない魂の持ち主ならば、ひょとしたら聞こえるのかもしれん。植物たちは、動物たちが何をそんなに騒いでいるのか?と冷たい眼で眺めていることだろう。炭酸ガスは、空気よりも重たい気体となるところに意味がある。CO2の多い世界とは、騒がしい世界を少し静かにさせようという神の目論見であろうか...

4. 燃料電池の先駆けを垣間見る
ファラデーは、ヴォルタ電池を使って、燃える原理を説明するための実験を披露する。二枚の白金板を置いて、銅と硝酸からできた溶解液を接触させると、白金板の表面に銅が付着し、電極が形成される。この溶解液に何を用いるかが、科学者の見せ所!
カリウムが水を分解する様子は、ちょうどロウソクが空気から酸素をとるように、水から酸素をとって水素が分離される。カリウム自身は酸素と化合する。水素が分離されるということは、燃えやすい部分を切り離すことを意味する。水素と酸素の混合物を燃やしてみると、その配分によっては、水素が多いと爆発するほどのエネルギーを秘める。ロウソクが燃焼することで、取り出した水素を燃やし、水を作るのと同じ原理だ。そして、カリウム、亜鉛、鉄などにどんな燃焼力が潜んでいるか、化学の成果というべきものを披露してくれる。
「水素はその燃焼の産物として水を生ずるところの、自然における唯一の物質であることを記憶にどとめておくことが肝要です。」
このような物語を眺めていると、今日注目される燃料電池を彷彿させる。燃料電池は、まさに水素と酸素から電力を取り出す原理を利用する。これをロウソクの産物と解するのは行き過ぎであろうか...