2012-05-27

"山椒大夫・高瀬舟 他四篇" 森鴎外 著

鴎外文学はなんとなく居心地がいい。数学的な美を感じる。物語の設定や定義となると、哲学書がごとくくどい有り様。ところが精神描写となると、科学論文がごとくバッサリと斬る。科学論文では主観を極力排除しようとするが、ごく稀に精神の奥行きまでも映し出す惚れ惚れするような記述に出くわすことがある。見事なまでに研究の情熱をコンパクトに言い放つ用法は、まさに鴎外文学の類型か。
鴎外小説は、知識を曝け出し過ぎだとか、設定が文学的でないだとか、様々な批判があるのも事実。だが、無味乾燥と呼ぶには、ちと違う。感情の喪失とも、ちと違う。あえて精神の破綻を表明しているのか?小説家そのものが、精神の枯渇を追い求める仕事なのかもしれん。描写そのものには激情を秘めつつも、あえて距離を置き、一定の価値観を押し付けない配慮を感じる。人間精神の多様性が真理だとすれば、様々な感情を呼び起こす余地を与えるのは、ある種の寛容性と捉えることができよう。余計な言葉を重ねて感情を誘導するよりは、淡々と綴って精神の葛藤を読者に委ねる。これぞ文学的、自然学的合理性というものであろうか。これほど澄んだ文章を見せつけられると、ぐれちゃう。どうあがいても、お喋りな酔っ払いには無理な芸当よ!今宵は「鴎外通り」を歩かずにはいられない。もっとも夜の社交場に因んで「美松通り」と呼んでいるが...

本書には、「山椒大夫」「魚玄機」「じいさんばあさん」「最後の一句」「高瀬舟」「寒山拾得」の晩年の六篇が収録される。
「山椒大夫」は、家族で父に会いに行く道中、人買いに攫われた子供が、なんの因果か大出世して、盲目となった母と再会するという物語。それを、陸奥掾正氏(むつのじょうまさうじ)が白河天皇の時代に罪を得て筑紫安楽寺に流された話と重ねる。
鴎外はこう語る。「とにかくわたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げたところを見れば、なんだか歴史離れが足りないようである。これはわたくしの正直な告白である。」
家族の絆と出世物語に、人身売買や貧困問題という胡椒を効かせた作品、もはや余計な感情表現はいるまい。
「魚玄機」は、美麗才女という男性諸君の憧れな存在が、嫉妬から殺人を犯すというサスペンス風の物語。恵まれているがゆえに精神の発育をともなわないギャップを描きたかったのか?それとも、美女への好奇心を魚玄機という歴史人物と重ねて哀れに描きたかったのか?その真意はよく分からん。
「じいさんばあさん」は、実にとぼけた題名だが、想像だにしない若き日の激情振りを、おっとりとした隠居生活と結びつける手腕は見物。人生の黄昏とは、こういうものであろうか。
「最後の一句」は、父の死罪に娘が直訴するという大岡裁きを期待するような展開を見せるが、同情されることはない。役人たちの硬直した価値観では、献身的な態度など分かるはずもないと言い捨てるかのように。ただ、父の命を救う代わりに子供たちの命を捧げるという展開には、ちと無理がないかい。武士の時代、子供ですら命を覚悟した。その伝統が大正デモクラシーで失われたことを嘆いているのか?だとしても、商売人の家族にそれを求めても仕方があるまい。あるいは、伝統的な子供の意志の強さと、近代的な大人の態度を対照的に描いているのか?結果的に娘の願いは入れられる。天皇即位による恩赦と結びつけて。結末を温情で終わらせたければ、恩赦にすがるぐらいしかないということか?これが現実的な解というのか?
「高瀬舟」は、弟の自殺を手助けして殺人罪に処せられた兄の心情を綴る。貧困であるがゆえに、病気がちの弟は兄の心労を軽くするために自殺を図る。もう手遅れとなれば安楽死させるしかない。遠島を申し渡されたにもかかわらず、兄の心は澄んでいる。なにしろ、小遣いをもらった上に食事が保証されるのだから。そういえば、年末になると軽犯罪者が再犯して、わざと刑務所に戻るという話を聞く。それに似た心情であろうか。人生で「足ることを知る」とはどういうことか?それを問うている。また、安楽死における悪意の境界とは?それは、法律上の悪意と人情上の悪意の狭間とでも言おうか。その境界を権威にどこまで信頼が置けるだろうか?近代社会で権威といえば法律である。都合が悪くなるといつも法律を盾にして逃れる政治屋たちを見れば...
「寒山拾得」は、唐の賢人を題材にしながら、俗人の学問に対する態度を皮肉る。寒山と拾得とは、道を極めた二人の禅僧のことで、ここでは寒山を文殊菩薩、拾得を普賢菩薩と重ねる。そこに、儒教をかじった俗人と仏教を極めた僧侶が絡むと面白いことに。悟りを得た者から見れば、俗人は笑われ者ということか。どおりでアル中ハイマーこと俗世間の酔っ払いは、いつも笑われるわけよ。

1. 山椒大夫
越後の道中、30歳を超えたばかりの母親、気丈な姉14歳の安寿(あんじゅ)、おとなしく賢い弟12歳の厨子王(ずしおう)、40歳くらいの女中の4人が歩く。この辺りは人買いが出没するので、国守の掟で旅人を泊めてはならないことになっていた。そこに現れたのが山岡大夫という船乗り。旅人たちに同情し、宿を世話してくれるという。母親は、掟に背いてまで救おうという志に感じ入り、筑紫へ行ったまま帰らぬ夫を訪ねる旅路であることを打ち明ける。山岡大夫は、陸路には難所があるので海路を勧めた。翌日、一行を船に乗せると、岩陰に止まっている二艘の船に合図する。重すぎて船足が遅いので分かれて乗った方がいいと、子供二人を越中宮崎の船へ、母親と女中を佐渡の船へ乗せる。二艘の船が遠ざかっていくと、母親は今生の別れを覚悟し叫び、女中は海に飛び込んで死んだ。
さて、丹後に奴隷ならいくらでも買う山椒大夫という分限者がいた。彼は、農業から狩猟や漁業、蚕飼、機織り、金物から陶器の製造など、手広く商売して儲けている。安寿と厨子王は売られ、安寿は潮汲み、厨子王は柴刈りの仕事に就く。安寿は、厨子王だけを逃して父親のところへ行かせようと考えるが、その談合に見廻りが気づき、逃亡した者は焼印される掟を話して脅す。以来、安寿の様子がひどく変わる。表情は硬くなり、遥かに遠くを見つめ、物を言わない。
しかし、春が訪れると、姉の表情は喜びに輝く。伊勢から売られてきた小萩(こはぎ)と一緒に糸を紡ぎながら、故郷からこの地までの道のりを詳しく聞いたのだった。安寿は弟と同じ山で仕事がしたいと願い出ると、厨子王に中山を越えれば都へ出られることを教え、守本尊を渡して独りで行かせた。安寿は、追手から逃れるために沼に入水して死ぬ。
厨子王は、中山国分寺の曇猛律師(どんみょうりっし)に匿われる。律師は厨子王を連れて都へ発つ。都に着くと律師と分けれ、東山の清水寺に泊まる。翌日、目が覚めると老人が枕元に立っていた。関白師実(もろざね)である。師実は、養女の病を直すためにお祈りをしていると、夢の中でお告げがあったという。左の格子に寝ている童が守本尊を持っているから、それを借りて拝むようにと。そして、厨子王から守本尊を借りて拝むと養女の病が回復したのだった。
厨子王は身を明かす。陸奥掾正氏(むつのじょうまさうじ)の子で、父は12年前に筑紫の安楽寺へ行った切り帰らぬことを。それは、筑紫へ左遷させられた平正氏(たいらのまさうじ)に違いない。そして使いをだすが既に死んでいた。師実は、その嫡子となれば養子に迎えたい。厨子王は還俗元服して正道と名乗った。その年、正道は丹後の国主に任じられ、最初の政(まつりごと)で人身売買を禁止する。山椒大夫は、奴隷を解放して大損したかに見えたが、前より盛んになり一族は栄えた。曇猛律師は僧都に任じられた。姉をいたわった小萩は故郷へ還された。安寿は懇ろに弔われ、入水した沼の畔に尼寺が建った。
正道は佐渡へ渡り、母親の行方を調べたが不明。一人途方に暮れていると、大きな百姓家があった。襤褸を着た盲目の女が、座って歌のような調子でつぶやいている。

  安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。
  鳥も生(しょう)あるものなれば、疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)わずとも。

2. 魚玄機(ぎょげんき)
魚玄機は、26歳の時、人を殺して投獄された。魚玄機は唐の女道士(道教の修行士)で、美麗な詩人としても名高い。そんな女性がいったい誰を殺したのか?風説はすぐに長安中に流れた。
さて、玄機は、18歳の時、温岐(おんき)という優れた詩人に好奇心を持った。彼は醜男で、温鍾馗と渾名された。ある日、温岐は美少女が詩を作るという噂を聞きつけ魚家を訪れる。そして、玄機の詩の才能に惚れ込み、度々魚家を訪れる。温の友人に李億(りおく)という素封家がいた。彼もまた玄機の詩に嘆賞する。玄機はその美しさから側室に求められる。側室になったものの、李が近づくとそれを避け、強いて迫れば号泣する。
李は諦め、玄機は咸宜観(かんぎかん)に入って女道士になる。道教の観とは、仏教の寺のようなものだそうな。玄機は、共に修行する女道士と親しくなり、寝食を共にする。この女は采蘋(さいひん)、16歳。女道士の二人が仲良くなるのを「対食(たいしょく)」と呼ばれ揶揄される。いわゆるレズか。秋になると、采蘋は失踪した。寂しい玄機は、楽人の陳某(ちんぼう)という少年と恋仲になる。
そして、七年が経った。陳の老婢が亡くなると、その後に緑翹(りょくぎょう)という18歳の女中が来た。美しくはないが、聡慧で媚態がある。女盛りの玄機に対して、垢抜けのしない緑翹。陳は緑翹を気にもかけていなかった。やがて、三人の関係が紛糾する。陳は、玄機の振る舞いが気に入らない時、寡言になったり、口を噤んだりする。そんな時、緑翹と語るのだった。その語りは温和。玄機はその様子を聞く度に胸が刺されるように感じる。玄機の猜疑心は次第に膨らみ詰問するが、緑翹は存じません!と繰り返すだけ。白状しろ!と迫って喉を閉めると、死んでしまった。玄機はその屍を埋め、しばらく殺人事件は発覚しなかった。玄機は、陳が緑翹のことを問うてくると予期したが、聞いてくる様子もない。夕べからいなくなったと言っても、そうかい!と意に介さない様子。
初夏の頃、死骸を埋めたあたりに蝿が群がり、客たちが訝しがる。話は従者に伝わり、従者はその兄に語った。従者の兄というのは、以前玄機を脅して金を奪おうとしたことがある。その時、玄機に笑い飛ばされ怨んでいた。その男は、緑翹の失踪と関係があると睨んで穴を掘ると、死体が発見された。玄機は逮捕されて処刑された。玄機を哀れむ者も多い。最も心を痛めたのは温岐であった。噂は聞こえたが、遠くにあって尽力することはできなかった。

3. じいさんばあさん
松平の家中、宮重久右衛門(みやしげきゅうえもん)が隠居所を拵えた。そこに、まず二本差しの立派な爺さんが入った。数日後、爺さんに負けぬ品格のある婆さんが入った。二人は隠居暮らし始めた。仲の良さは無類。ただ、夫婦にしては遠慮をし過ぎる感がある。富裕には見えないが、不自由なく幸せそうな二人。しかし、彼らの生涯は、平和な隠居生活からは想像もつかない激烈なものであった。
ある日、徳川家斉の命で、婆さんの永年勤務に褒美が与えられた。爺さんは、元大番組の美濃部伊織(みのべいおり)といって、宮重久右衛門の兄。婆さんは、伊織の妻るんといって、外桜田の黒田家の奥に仕えて表使格(おもてづかいかく)になっていた女中。婆さんが褒美を貰った時、伊織は72歳、るんは71歳。
二人が夫婦になったのは、伊織30歳、るん29歳の時。るんは美人というタイプではない。伊織は色白い美男。ただ、癇癪持ちという性癖がある。
その昔、るんが臨月にもかかわらず江戸に残して、弟の代役で京都へ出張することになった。仕事は無事に勤めるが、質流れの古刀に惹かれる。親しくはないが工面のよいと聞く下島甚右衛門に金を借りて刀を買った。気分のいい伊織は、親しい友人を招いて酒盛りをしていると、下島甚右衛門が来た。金を借りた義理があるので酒を振舞うが、刀のことで口論になる。そして、収めていた癇癪がでて刀で斬ってしまった。取調べでは、伊織は弁明しなかった。

  いまさらに何とか云わむ黒髪の みだれ心はもとすえもなし

伊織は知行を取り上げられ、越前丸岡に流された。残された家族は哀れなもの。二年ほど経って、祖母は病気というほどの溶体でもなく死ぬ。翌年、5歳になる息子は疱瘡で死ぬ。るんは一生武家奉公にでる決心をする。そして、31年間黒田家に奉公し、隠居を許されて故郷の安房へ戻った。翌年、伊織は罪を許され、るんは喜んで江戸へ来た。37年ぶりの再会であった。

4. 最後の一句
大阪で、船乗り業の桂屋太郎兵衞が、三日間曝された上に斬罪に処せられるという高札が立てられた。噂され、家族は二年間も世間と交流を絶っている。厄難に遭ってから、悔恨、悲痛の他に何事も受け入れられなくなった女房。そして、5人の子、長女いち(16歳)、次女まつ(14歳)、養子の長太郎(12歳)、とく(8歳)、初五郎(6歳)。
ある日、出羽国秋田から米を積んで出帆した船が、不幸にも暴風に遭って積荷の半分を流失した。雇い人の新七は、残った米を売って大阪へ戻ってきた。二人は大金に目がくらみ、米主に黙っておくことにした。しかし、米主が残った荷の調査に乗り出すと、新七は逃亡した。太郎兵衛は、入牢し死罪を申し付けられた。長女いちは、お奉行様に願い出ることを決心する。父を助けて、代わりに私たち子供を殺して下さいと!ただし、実子でない長太郎だけは殺さないようにと。太郎兵衛の女房と5人の子供を連れて、町年寄たちがやって来た。拷問の道具を前にして尋問が始まる。長女いちのみならず、次女まつも父の代わりに死ぬと答え、長太郎も兄弟一緒に死ぬと答える。さすがに、幼いとくは涙を浮かべ、初五郎も怯えて答えられない。
鴎外は、長女の意志の強さを強調しながら、「お上の事には間違いはございますまいから」と形式張った役人仕事に皮肉をこめる。そして、取調べを終えた役人たちの心境を、こう言い放つ。
「心の中には、哀な孝行娘の影も残らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷かに、刃(やいば)のように鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響しているのである。元文頃の徳川家の役人は、固(もと)より『マルチリウム』という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身の中に潜む反抗の鋒(ほこさき)は、いちと語を交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。」
結果的に娘の意志は貫徹し、太郎兵衛は死罪御赦免、追放ということになる。家族は再び奉行所に呼ばれ、父にお別れを言うことができた。しかし、小娘ごときの訴えで、死罪を免れるなんて世の中そう甘くはない。ちょうど桜町天皇の即位によって、恩赦が言い渡されたのだった。

5. 高瀬舟
高瀬舟とは、京都の高瀬川を上下する小舟である。京都の罪人が遠島を申し渡されると、この船で大阪に廻される。護送するのは京都町奉行の同心で、親類の主だった一人を大阪まで同船させる慣例があった。黙許である。この船に乗るのは極悪人がばかりではなく、過ちをした者も多くいる。
ある日、珍しい罪人が高瀬舟に乗せられた。喜助は親類がいないので一人で乗る。護送するのは、同心の羽田庄兵衛。ほとんどの罪人は気の毒な様子をしているが、喜助はまるで遊山船にでも乗っているような澄んだ態度でいる。庄兵衛は不思議に思い、心境を聞くと、喜助は答える。
「なるほど島へ往くということは、外(ほか)の人には悲しい事でございましょう。その心持はわたくしにも思い遣(や)って見ることが出来ます。しかしそれは世間で楽をしていた人だからでございます。」
遠島になると二百文の銭がもらえる掟があった。喜助はそれを手にして嬉しそうにしている。仕事をしてもらったお金は、右から左へ渡すだけの貧乏暮らし。牢に入れば、銭をもらった上に食事まで保証される。
庄兵衛は、そろそろ初老に届く年。妻と子供4人、それに老母の七人家族。必死に倹約しても、妻は金持ち商人の娘で贅沢が癖になっている。庄兵衛の生活も、給料を右から左へ渡しているようなもの。二百文の貯蓄すらない。貧乏の程度は違えども境遇は似たようなものか。
しかし、明らかに違うことがある。喜助には不思議と欲がなく、足ることを知っている。その違いはどこからくるのか?庄兵衛には養わなければならない家族がいる。とはいえ、独り身で気楽な境遇にあれば、同じように振る舞えるだろうか?いつのまにか、庄兵衛は「喜助さん」と呼んでいる。同心が罪人を「さん」付けで呼ぶとは。喜助は恐れ入った様子で真相を話し始める。弟は病気がちで働くのは兄ばかり、いつも済まなそうにしていた。
ある日、弟は血だらけになって布団に伏せていた。喉には剃刀が刺さっていて喋ることができない。自殺を図ったのだ。苦しいから剃刀を早く抜いてくれ!と眼が訴えている。ちょうどその時、弟の世話を頼んでいた婆さんが入ってきた。茫然とする喜助は、年寄衆に役場へ連れていかれた。喜助は誰も怨んでいない。病弱だった弟も、罪人にしたお上も。
庄兵衛は、これを殺人とすべきか?自問する。裁きは権威に任せるしかない。お奉行様の判断を自分の判断にしょうと思ったが、どこか腑に落ちない。ただ、喜助を無罪にして元の生活に戻ったとしても、貧困から逃れることはできない。

6. 寒山拾得(かんざんじつとく)
時代は唐の貞観の頃、閭丘胤(りょきゅういん)という官吏がいた。尚、閭が性で丘胤が名という扱いになっているが、実は閭丘が性で胤が名のようだ。宮内省図書寮が蔵する宋刻「寒山詩集」では、そうなっているそうな。鴎外は資料を徹底的に調べる小説家だそうだが、この作品に関してはほとんど参考書を見ずに書いたという。ここでは作品にならうことにしよう。
閭は、台州の主簿に任命された。主簿とは、日本の県知事くらいの官吏だという。長安から台州へ旅立とうとした時、頭痛を患う。そこに乞食坊主が訪れた。閭は、科挙を受けるために儒学を勉強したことがあるが、仏教や道教を学んだことはない。僧侶や道士を尊敬はしているが、何か高尚そうなものというぐらいで盲目的に尊敬している。鴎外は、盲目な尊敬を皮肉る。
「全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。
自分の職業に気を取られて、唯(ただ)営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。勿論書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着な人である。
次に着意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事を抛つこともあれば、日々の務めは怠らずに、断えず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教に入っても同じ事である。こういう人が深く這入り込むと日々の務めが即ち道そのものになってしまう。約(つづ)めて言えばこれは皆道を求める人である。
この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言って自ら進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念(あきら)め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮していって見ると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、偶(たまたま)それをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。」
坊主は、水一杯の呪いにて頭痛を直して進ぜようと、水を口に含み頭に吹きかけると頭痛はすっかり治った。この乞食坊主が天台国清寺の豊干(ぶかん)である。閭は、台州には会ってためになるような偉い人がいるかを尋ねた。豊干は、拾得と寒山の二人の名を挙げた。拾得は普賢という人物で、寒山は文殊という人物であると。
閭は台州に赴くと、さっそく国清寺へ出かけた。寺では、道翹(どうぎょう)という僧が出迎えた。豊干のことを尋ねると、行脚(あんぎゃ)に出ていて帰らぬという。更に、拾得という僧のことを尋ねた。道翹は不審に思いながら、よくご存知で!あちらの厨で寒山と火にあたっていると答えた。二人に会えるとは願ってもない。拾得は、豊干が松林の中から拾ってきた捨て子で、今では厨で僧たちの食器を洗う仕事をしているという。寒山は、国清寺の西方にある寒巌という石窟に住んでいて、拾得が食器を洗う時に残った飯や菜を貰いに来るという。二人は痩せてみすぼらしい姿をしていた。閭は二人のもとへ近づき、恭しく礼をして自己紹介をした。寒山と拾得は顔を見合わせ、腹の底からこみ上げてくるような笑い声を出し、駆け出して逃げた。「豊干がしゃべったな!」

2012-05-20

"山椒魚・遙拝隊長 他七篇" 井伏鱒二 著

いきなり飛び込んできた一文に思わず吹いた。
「山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。」
文学音痴でも楽しめそうだ...と思ったのも束の間、井伏文学はなかなか手強い!150ページほどの薄っぺらな本と侮っていると大間違い。忙しい合間に読もうなんて代物ではない。なんだこの曖昧さは?テーマや山場といったものが見当たらない。まるで推理小説を読んでいるような、それでいて空とぼけた文章がいい。哀愁漂う人間観察で、絶望論をユーモアと皮肉で綴る、とでも言っておこうか。
二度三度と読み返しながら全体を立体的に眺めようと試みる。だが、いくらでも奥深く解釈できそうで、結局分からん!これは高尚な文学なのか?それとも、ある種の宗教原理なのか?いや、そう想わせているだけのことかもしれん。小説家だって一般的な小説に飽きることがあろう。彼らの独創性ってやつは常軌を逸している。読者を泥沼に陥れてどうする!いや、もっといじめて!こいつは読者をMにしやがる。

本書には、「山椒魚」「鯉」「屋根の上のサワン」「休憩時間」「夜ふけと梅の花」「丹下氏邸」「槌ツァと九郎治ツァンは喧嘩して 私は用語について煩悶すること」「へんろう宿」「遥拝隊長」の九篇が収録される。
「山椒魚」は悲劇と喜劇をごっちゃにした哲学に魅せられる...「槌ツァと九郎治ツァン...」は感動しながら笑ろうた...「夜ふけと梅の花」はなんとなく自分が指摘されているようで怖い...「遥拝隊長」は読めば読むほど泥沼状態へ...

1. 山椒魚
岩窟の中で二年間を過ごし、成長した山椒魚は頭がつかえて外に出られない。そこが永遠の棲家となる。出口に顔をくっつけて、恨めしそうに外を眺める日々。
「くったくしたり物思いにふけったりするやつは、ばかだよ。」
なかなかの前向きの奴だ。哲学を否定する根性は認めよう。だが、外ではミズスマシや蛙が自由に泳いでやがる。
「諸君は、この山椒魚を嘲笑してはいけない。すでに彼が飽きるほど暗黒の浴槽につかりすぎて、もはやがまんがならないでいるのを、了解してやらなければならない。いかなる瘋癲病者も、自分の幽閉されている部屋から解放してもらいたいと絶えず願っているではないか。最も人間ぎらいな囚人でさえも、これと同じことを欲しているではないか。」
ある日、岩屋にまぎれこんだ蛙を閉じ込めた。頭で出口を栓して。散々眼の前で自由に動きまわった奴への嫌がらせだ。狼狽した蛙は、山椒魚と口論を始める。互いに罵り合い、一年が過ぎる。更に罵り合い、また一年が過ぎる。とうとう沈黙し、互いの嘆息が聞こえないように注意する。蛙の嘆息が先に漏れた。これを聞き逃す山椒魚ではない。蛙は空腹で動けないでいる。「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」精神を獲得した知的生命体の本来の姿は孤独ということであろうか...

2. 鯉
「すでに十幾年前から私は一ぴきの鯉になやまされて来た。」
学生時代の友人からもらった鯉。その厚意に感謝し、鯉を大事にすることを誓う。そして、下宿の瓢箪池に放魚した。鯉は、池の奥底に入って、数週間も姿を見せない。その年の冬、下宿を移った。鯉も連れて行きたかったが断念した。彼岸が過ぎた頃、瓢箪池に鯉を釣りに行く。ようやく八日目に釣り上げ、洗面器に入れて友人宅を訪ねた。そして、友人の愛人宅の広い泉水で預ってもらう。あくまでも鯉の所有権は、自分にあると力説しながら。友人は疎ましい顔をする。
それから六年目の初夏、友人は亡くなった。愛人は悲しみに耽っている。友人が疎ましい顔を見せたのは、鯉の一件だけ。主人公は、一刻も早く鯉を持ち帰りたいと思った。友人の愛人の了承を得て泉水から釣り上げると、今度は早稲田大学のプールに放った。鯉は広いプールを王者のごとく泳ぐ。幾匹もの鮒と、幾十匹もの鮠(はや)やメダカを従えて。だが、冷たい季節がくると氷が張り、鯉の姿が見えない。毎朝プールへ来るも、氷に石を投げて遊び、もはや鯉を探すことを断念している。鯉に亡き友人の姿を重ねているのだろうか...

3. 屋根の上のサワン
「おそらく気まぐれな狩猟家かいたずらずきな鉄砲うちがねらいうちしたものに違いありません。」
沼地の岸で撃たれて苦しむ一羽の雁を見つけると、家に持ち帰り治療する。親切を誤解した雁は足蹴りして手術の邪魔をする。雁の傷がすっかりよくなると、羽根を短く切って庭で放し飼いする。後をついてまわる人懐こい鳥にサワンと名付ける。
秋の夜更け、屋根に登ったサワンは月に向かって鳴き叫ぶ。ちょうど、三匹の雁が飛んでいた。三匹の雁とサワンは互いに鳴き交わす。一緒に連れて行ってくれ!と叫んでいるかのように。降りてこいと行っても、いつものように聞かない。三匹の雁が飛び去るまで、屋根から降りようとしなかった。そして、屋根に登って甲高い声で鳴く習慣を覚える。
ある夜、ほとんど号泣なほど甲高い声で鳴いた。羽根を切らないことにして、出発の自由を与えるべきだとも考えた。だが、愛着のわいた鳥を放す気にはなれない。翌日サワンが姿を消すと、主人公は狼狽する。 彼は僚友たちの翼に抱えられて旅だったのであろうか...

4. 休憩時間
「文科第七教室は、この大学で最も古く、最もきたない教室である。」
学生たちは、この教室での講義がこの上なく好きである。日本文学史的にも由緒ある記念館とも言うべき存在で、懐古的ないくつもの挿話を持っているからに違いない。
ある四十分ほどの休憩時間、学生たちは文学や劇について語り合う。早口で相手を言い負かそうとしたり、言い負かせられまいと大声で反論したり。そこに学生監が巡回して来た。黒板にフランソワ・ヴィヨンの詩を書いていた学生は、歯の高い下駄を履いていた。下駄は校則違反。ヴィヨンのデリケートな詩情に浸っていた学生は、腕を掴まれ連れていかれた。靴は濡れて底が破けていて、代わりがないと言っても、学生監は聞く耳を持たない。
一人の学生が立ち上がって演説した。級友はヴィヨンの詩を書き残して引致された、こんなつまらない懲罰は受け入れがたい、そこで古靴を寄贈したい、と主張し級友を追った。だが、違反した学生はその厚意を断った。そして、裸足で戻ってくるなり、黒板に書いた詩を消して何かを書きだした。アララギ派の傾向を帯びた短歌で、内容はすこぶる反抗的なもの。権威が芸術を罰することなどできないという意志である。学生たちは、彼の巧みな興奮歌を感嘆するあまり、湧いてくる芸術の衝動を称賛した。
ところが、別の学生が教壇に上がると、惜しげもなく黒板のアララギ派の詩を消してしまった。この闖入者は英語で詩を書き始めた。かかる非常時に季節感を歌い、格闘は呪われてあれ!と批判したのである。その詩の反響は若い反抗心にとって評判が悪い。
またもや教壇を立った者がある。西洋の神主だ。彼は英文を消して、こんな不愉快な争いを繰り返すのはうんざり!といった内容を書いて去った。次々に教壇を去っていく学生、次は誰か?
「青春とは、常にこの類(たぐい)の一幕喜劇の一続きである。」
権威に対する反抗心...束の間の青春は過ぎ去る...まさに休憩時間のごとく...

5. 夜ふけと梅の花
ある夜ふけのこと。梅の花咲く道を歩いていると、電柱の影から出てきた男に話しかけられる。男は酔っていて、顔にひどい怪我をしている。4,5人の消防の人から袋叩きにされたという。警察に行くから証人になってくれと、放してくれない。いざ交番の前に来ると、この近くの者だから大ぴらにしたくないと言いだす。傷口を診てやると、お礼にお金を握らされる。主人公は、お金を返したくて、気になってしょうがない。
一年が過ぎて、男の名は村山十吉といい、質屋の番頭であることが分かる。仕入れの買入れ金を持って失踪したらしい。すべてを忘れようと飲み屋をはしごする主人公。よろめき転びながら歩いていると、声をかけられる。「僕の顔は血だらけになってやしませんか?」昨年のあの声だ。心臓が止まる。だが、それは幻影だった。そうと分かれば、意気揚々とする。
「おれは酔っぱらえば酔っぱらうほど、しっかりするんだぞ。びっくりさせやがって、村山十吉!やい、ちっとも怖くはないぞ村山!出て来い村山十吉!早く出て来んか!」
小心者の遠吠えか!夜の社交場で大きな事を言っているどこぞの酔っ払いに似ちゃいませんか...

6. 丹下氏邸
丹下氏は、男衆を折檻した。丹下氏は67歳、男衆は57歳のエイ。年老いたエイは、昼寝ばかりして、性根を入れ替えてやらなければならないと。主人公は、折檻の様子を風呂場の影から覗く。丹下氏がここまで怒るのを一度も見たことがなかったという。
ある日、エイのところへ一通の手紙が届いた。それを主人の丹下氏に見せないで主人公に見せた。どうか読んで聞かせてくれと。識字のできない階級ということか。辺鄙な田舎では、老年の雇い人が手紙を受け取ることは、不幸の知らせでもない限り、生意気なこととされた。「私らはどのようにも、なるようにしかならんでありましょう。」手紙は妻からで、折檻されたことを知り、いつまでたっても世帯を持つことができないと嘆き、様子を見に行くというもの。
丹下氏は手紙の内容を主人公に聞く。そして、エイの来歴を語り始める。... 妻オタツは53歳、いまだ新婚のように亭主のことを案じている。それというのも、嫁入りしてすぐ奉公に出したのである。奉公女が、そうそう訪ねられるものではない。病気でもしない限り会う口実がない。二人にはどこにも帰る家がない。やってあげたことといえば、谷下英亮(たにしたえいりょう)という立派な名前を与えたぐらい。それで身分が変わるわけでもない。... と涙しながら語るも、エイの性根までは知らないし、夫婦の事情は夫婦の勝手と突き放す。
そして、オタツが訪ねてきた。二年ぶりの再会にも、二人は互いに非難しあって、そっぽを向く。オタツは亭主がへまをして主人に叱責された時だけ、詫びに来るのだった。オタツは丹下氏に雛を土産に持参したが、貧弱な土産はかえって恥ずかしくなったのだろうか。古ぼけた伏籠を物置から探しだして雛を入れ、槌を打ち下ろす。
...自暴自棄に悩む夫婦の姿を描いたのだろうか?悲しい小作人の物語であろうか?当時の身分階級を皮肉った物語であろうか?なんとも中途半端な気持ちにさせやがる。

7. 「槌ツァ」と「九郎治ツァン」は喧嘩して 私は用語について煩悶すること
主人公は、両親を古い呼び方で「トトサン」「カカサン」と呼ぶ。だが、農村漁村文化運動で「オトウサン」「オカアサン」と呼ぶ風習が広まる。農村部では、階級制度の余韻が残っていて呼び方も違うという。地主の子は「オットサン」「オッカサン」。村会議員の子は「オトッツァン」「オカカン」。自作農の子は「オトウヤン」「オカアヤン」。小作人の子は「オトッツァ」「オカカ」。成金と呼ばれる階層が生まれた時代、これらの階級的呼び方もごっちゃになっていく。
人の名を呼ぶにも、階級の区別があるという。いいところの子には「何々サン」、次が「何々ツァン」、その次が「何々ヤン」、その次が「何々ツァ」、その次が「何々サ」。父母を呼ぶような進展がなく、子供の時「槌(ツッ)ツァ」と呼ばれれば、村会議員で偉くなっても呼ばれ方は変わらない。
ここで、槌ツァは「槌(ツチ)サン」と呼ばれたい、そんな名誉欲に駆られる人物だと仮定しよう。村会議員の会合の時、村長が「槌ツァ」と呼ぶと、満座の中で恥をかかされたと食ってかかる。発言した側が素直に謝れば事はおさまるが、「それが悪いかのう」と反問すれば面倒なことになる。些細な揉め事から恨みを買い、無実の罪を讒訴される羽目に。互いの狭量が揉め事になる典型というわけよ。
さらに、村長は九郎治という名で、「九郎治(クロッ)ツァン」と呼ばれると気を悪くする。おまけに、村長の娘「お小夜サン」と槌ツァの娘「お花ヤン」の仲がいいとなれば、ややこしいことに。お花ヤンは、父親を「オトッツァン」と呼んでいたが、村長に負けん気で「オットサン」と呼べ!と言いつけた。九郎治ツァンの家では、「オットサン」「オッカサン」と呼んでいたからである。九郎治ツァンがその噂を耳にすると、都会風に「オトウサン」「オカアサン」と呼べ!と言いつけた。
しかし、都会的な風習はこの村ではあまりにも無謀であった。槌ツァも、負けじと一家で都会的な言葉を使い始めた。「おこしやす」とか、「おおきに」とか。誰もそれがどこの言葉か知らなかったが、じきに大阪弁ということが判明する。九郎治ツァンも負けてない。一家揃って東京弁を使い始め、やたらと語尾に「ねぇ」とつける。「ありやねぇ。...よかろうと思うがねぇ。」てな具合に。
ある日、主人公の家に強盗が入った。祖父は確信ありげに、強盗は東京弁を使ったと証言した。すると、槌ツァが強盗は九郎治だ!と言いふらした。警官も疑い、九郎治の言葉づかいに似ていたか?と祖父に訊ねた。とんでもない!強盗は他国者に相違ない、我々田舎者が東京弁を覚えるには少なくとも20年は東京に住まないとだめだと、九郎治ツァンを弁護した。この話が広まると、槌ツァが九郎治の東京弁はニセものだと悪口を言いふらした。以来、九郎治ツァン一家は東京弁を使わなくなった。槌ツァの家でも、大阪弁を使わなくなった。せっかく移入された都会の言葉は、村から消え去った。百年経っても、田舎弁は消えないだろう。そして、主人公は煩悶する。天地がひっくり返っても、時流に任せた言葉が使えない。これが唯一の悩みだと...

8. へんろう宿
遍路のことを「へんろう」と呼ぶ。一人、土佐の遍路岬に来て宿をとる。この村にはへんろう宿が一軒あるだけ。宿屋には「へんろう宿 波濤館(はとうかん)」の看板があり、50ぐらい、60ぐらい、70ぐらいの三人お婆さんが温かく迎え入れる。客間は三部屋しかない。漁師屋をそのまま宿にしたような。経営主らしき人もいない。客間の一つには、12ぐらいと15ぐらいの女の子が勉強し、その隣の客間には、大きな男が腹這いになっていて、さらに奥の客間に通される。
二時間も眠っていると、隣の泊まり客の男が、50ぐらいのお婆さんと酒盛りをはじめた。その話し声は、酔っているせいか?妙に明るい口調である。捨てられたのが男の子ならば、大きくなって困るから、親を追いかけてその子を返す。親が分からなければ、役所に届けて戸籍だけでもなんとかする。そして、女の子だけを引き取る。この宿では、代々置き去りにされた女の子が嫁にも行かず、浮気もせず、育てて貰った恩の為に宿を切り盛りしながら一生を過ごすという。勉強している二人の女の子も捨て子であろうか?
...四国八十八箇所、お遍路参りをする人たちは、様々な苦悩を抱えながら旅をするのであろう。貧困の時代、何らかの事情で子供を捨てなければならない人たちがいた。その一方で、捨て子を温かく受け入れる人たちがいた。罪と救済の共存を明るく綴るところに、不思議な奥行きがある。

9. 遥拝隊長
村の平穏な日常に破綻をきたすことがある。元陸軍中尉、岡崎悠一32歳の異常な言動である。普段はおとなしいが、戦争の後遺症で気が狂っている。今なお戦争が続いていると錯覚し、軍人のよう振る舞う。滅私奉公に精神を鼓吹する。道を歩きながら、歩調をとれ!伏せ!と命令したり、感極まると東方遥拝する。発作が起これば、通りすがりの人にも、いきなり命令したり、怒鳴りつけたり。軍国主義の亡霊じゃ!と激怒され、兵隊ごっこのひとりよがり!侵略主義!などと罵声を浴びる。それでも、近所の人たちは温かく見守る。戦争中、悠一が戦地で怪我をして脳を患って送還された時、陸軍病院からの退院を願い出たのは近所の人たちであった。母親が辞退したにもかかわらず。戦地から将校が帰ってくるとなると、鼻が高いというわけで隣組一同で決議したのである。
さて、悠一の自宅には杉の垣根があった。 この杉垣は、悠一の父が亡くなった後、母がひとりで稼いで作ったもの。コンクリートづくりの厖大な門柱まで作った。ちっとも調和のとれない風景だが、母の意気込みに周囲の人たちから一目置かれる。村長までがその門柱を見て模範的な一家だと称え、悠一は幼年学校に推薦された。父のない家のハンデを、貫禄のある門柱で乗り越えたのだった。
しかし、大陸戦争が拡大すると、学生たちは軍関係の学校に入学させられる。悠一は、幼年学校から士官学校を経てマレーへ派遣された。戦地でどうしてびっこになったのか?漠然としたことしか話さない。当初、帰還兵の悠一の無口は美徳とされた。ところが、戦後、価値観が反転する。口外できない理由があるに違いないと、いろいろと噂される。滅私奉公の口ぶりで喧嘩して足を折られたなどと。
そんな時、ある帰還兵の話で、悠一が怪我をした理由が判明する。故障したトラックの中で、戦争ってのは贅沢なもので、惜しげもなく爆弾を落としよる、費用もかかる、と呟いた上等兵がいた。それに怒った悠一は、上等兵を殴った。その瞬間、故障車を動かそうとして、隊長はよろけ上等兵にすがりついた。二人はトラックから転落して川へ落ちた。悠一は重傷を負い、一緒に転落した上等兵は死んだ。悠一は事故で死んだ上等兵の怨霊に取り憑かれたのか?
「あれを見い。わしゃうらやましい。国家がないばっかりに、戦争なんか他所(よそ)ごとじゃ。のうのうとして、ムクゲの木を刈っとる。」
悠一は遥拝癖のある軍人で、東方遥拝を部下にも強制させた。そして、遥拝隊長と呼ばれる。その異常さを、他の隊長は注意しない。いや当時の軍隊では歓迎される態度か。隊長の振る舞いには寛大!そのくせ、一兵卒には細かい事に厳しい。要領の悪い兵卒はたちまち袋叩きにされる。
その後、悠一は発作を起こして、山の中腹の共同墓地を歩きまわる。そして、べルトで一つ一つの墓をなぐりつける。ビンタをくらえ!貴様も!とつぶやきながら。たまには、近所の人たちも悠一の命令に芝居して付き合う。村人たちには、悠一が東方遥拝をする理由が分かっているようだ。その方角は母の作ったコンクリートの門柱であった。
...この作品には、狂気じみた軍国主義への批判が込められていることは想像に易い。だが、それだけだろうか?同時に、遥拝と母親孝行の信念を重ねるところに奇妙な関係がある。戦時中と戦後で価値観や道徳観が反転したのは確かであろう。過去の反省とは、当時の価値観をすべて否定することではないはず。そこに、民衆が盲目的に信じてきた社会風潮への批判を重ねるような...

2012-05-13

"小僧の神様 他十篇" 志賀直哉 著

かねがね日常の出来事を文章で魅了する小説家の凄みに感服してきた。取るに足らないものまで、さりげなく芸術にしてしまう、その技に。目の前の事象を素直に言葉にできるということは、自然学の極致と言えよう。
しかし、あまりにも平凡な題材が並べられると、少々疑わしくなる。目に映る被写体をすべて言葉にすれば、世間は騒がしくてしょうがない。これも徹底した現実主義か。知識とその奥行を見せつける鴎外文学や、奇抜なシナリオを展開する芥川文学と比べると、やや退屈感が襲う。志賀小説は国語教育の題材とされることも多く、頭でっかちなイメージがこびりついている。その弊害であろうか。そんな泥酔者でも、二度三度と読み返していくうちに、薄っすらと味わいが見えてくる。噛めば噛むほど...退屈な物語は退屈しのぎにいい。

本書には、「小僧の神様」「正義派」「赤西蠣太」「母の死と新しい母」「清兵衛と瓢箪」「范の犯罪」「城の崎にて」「好人物の夫婦」「流行感冒」「焚火」「真鶴」の十一篇が収録される。いずれも哲学的な様相をあまり見せない。素直で淡々とした文章から、心の奥底にしまいこんだもの、何か忘れかけているもの、そんなものを思い出させてくるような感じがする。デジャヴってやつか?文学作品というものは、文章の論理性と精神の合理性の調和によって癒されるところがあるが、ここでは、知性的に違和感があっても感性的に否定できないものがある。夢想的私欲をあっさりと書き流すところに、人間性の本質なるものが浮き彫りになるのか?いや、ある種の呪術か?所詮、文章なんてものは我欲を張った結果なのかもしれん。

1. 小僧の神様
鮨屋に入ってきた小僧が、一度持った鮨を値段を言われて、気まずそうに置いて出ていった。同情した貴族議員が、主人公の少年をその小僧と重ねて、鮨を思いっきりご馳走する。これは現実か?夢か?
しかし、作者は結末で筆を置くと宣言する。小僧が貴族議員の正体を確かめに行くと、その場所には稲荷の祠があったとさ...という展開にするつもりだったが、残酷な気がしたと。

2. 正義派
電車が少女を轢き殺した。運転手は慌ててブレーキをかけたが間に合わなかったと証言する。だが、線路工夫が「そら使ってやがらあ!」と叫んだ。やがて、形式だけの取り調べが始まる。みんな鉄道会社の仕事で飯を食っている。示談か?しかし、悪いことは悪い。良心との葛藤が続く。

3. 赤西蠣太
歴史的事件である伊達騒動を背景にした物語。赤西蠣太(あかにしかきた)は、伊達兵部の家来で、醜男で野暮臭い田舎侍。一方、銀鮫鱒次郎(ぎんざめますじろう)は、原田甲斐の家来で、美男で利口そうな侍。対照的な二人は将棋仲間で通っていたが、実は諜報員。蠣太は、ほぼ報告書が完成し、いつでも白石に引き上げられる。鱒次郎は、もう少し調査が必要。そこで、蠣太は先にずらかることにする。
さて、その方法を鱒次郎が思案した。蠣太が女に附け文をして肘鉄砲を食らわされ、物笑いとなって屋敷にはいたたまれなくなり夜逃げするという寸法。おあつらえ向きに、小江(さざえ)という美しい腰元がいた。蠣太は醜男に想われる小江が気の毒でしょうがない。艶書を出すのも慣れずドキドキする。しかし、その返事は以外なものだった。
「私は貴方に恋した事はございませんが、前から好意を感じておりました...」
なんと、前々から蠣太の知性に尊敬していたが、若侍たちにはそれがない。そして、新しい感情が湧いてきたという。やがて、蠣太と小江の恋仲が兵部に届く。
ある日、甲斐が兵部の屋敷を訪れ、二人のアンバランスな関係を話題にする。だが、甲斐はすぐに気づく、蠣太の行動が怪しいことに。間もなく伊達騒動が起こる。長いゴタゴタの結果、原田甲斐一派は敗者となり悪党呼ばわれする。事件が終わって蠣太は本名に戻り、鱒次郎を訊ねたが行方知れず。どうやら殺されたらしい。
尚、伊達騒動の講談では、小江は触れれば落ちる若いおさんどん風の女になっていて、下等な感じて滑稽に扱われるという。この女が実は賢く、蠣太が真面目な人物である事を見抜いていたとしたら、という仮定で書き下ろした物語だそうな。

4. 母の死と新しい母
母は17で直行という兄を生み、兄が三つで死ぬと、翌年に主人公を生んだ。それっきり12年間は一人っ子。日清戦争後、母が懐妊したという知らせがある。帰省すると、二十何人かの予備兵が泊まって騒いでいる中、病床についていた。母が亡くなると、それから二ヶ月ほどしか経っていないのに、自家では母の後を探し始める。43歳の父が再婚するということが、思いがけないこと。新たに母となる人は、若く実母より美しい。新しい母の優しさに、実母は過去へと追いやられる。
そして、翌々年英子(ふさこ)が生まれた。また二年して直三が生まれた。また二年して淑子が生まれた。また二年して隆子が生まれた。若く美しかった母も、疲れが見えてくる。女は子供を産むものという価値観の強い時代、世間的圧力の表れか。
この物語は、著者の少年時代の追憶をありのままに書いたものだそうな。そして、次のように語る。
「小説中の自分が、センチメンタルでありながら、書き方はセンチメンタルにならなかった。この点を好んでいる。」

5. 清兵衛と瓢箪
清兵衛の瓢箪の凝りようは烈しかった。茶渋で臭味を抜くと、父の飲みあました酒で丁寧に磨く。道を歩いていても、いつも瓢箪のことばかり考え、オヤジの禿頭を間違うほど。瓢箪を学校へも持っていき、授業中でも机の下で磨いていると、教員に見つかり取り上げられる始末。教員は、家庭訪問し、自宅で厳しく取り締まるように食ってかかった。父は、清兵衛を叱り、散々に殴りつけた。そして、家にある瓢箪を一つ一つ割ってしまった。
さて、教員は、取り上げた瓢箪が穢れ物でもあるかのように、年老いた小使にやった。小使は、瓢箪を骨董屋に五十円で売った。小使は、4ヶ月分の給料をタダでせしめ、何食わぬ顔をして幸せを味わう。もちろん、教員にも清兵衛にも黙っている。その後、その瓢箪の行方は誰も知らない。骨董屋が、その瓢箪を地方の豪族に六百円で売ったことまでは想像だにしない。
「清兵衛は今、絵を描く事に熱中している。これが出来た時に彼にはもう教員を怨む心も、十あまりの愛瓢を玄能で破(わ)ってしまった父を怨む心もなくなっていた。しかし彼の父はもうそろそろ彼の絵を描く事にも叱言を言い出して来た。」
大人は自分の価値観でしかものを考えず子供の個性を抑圧するが、子供の創造性は留まることを知らない。大人の権威主義と子供の独創性の対比はなかなか。

6. 范の犯罪
范(はん)という支那人の奇術師が、演芸中にナイフで妻の頸動脈を切断するという不意な事故が起こった。妻はその場で死亡。しかし、三百人もの目撃者がいるにもかかわらず、それが故意か、過ちかは分からない。その芸は、女を立たせておいて、体の輪郭に沿ってナイフを投げるというもの。証言によると、熟練者ならばそう難しい芸ではないという。范の普段の素行は、賭博も女遊びも飲酒もしない真面目な男。昨年あたりからキリスト教を信じるようになり、暇さえあれば説教集を読んでいる。妻の素行も正しい。二人とも他人に柔和で克己心も強く、けして怒るような人ではなかった。だが、二人だけになると、驚くほど互いに残酷になる。二年前、妻が赤児を産んだが、早産ですぐに死んだ。その頃から激しく口論するようになる。范は妻を愛せなくなったと証言する。妻の産んだ赤児が自分の子ではないことを知ったから、殺したいと思うことも度々だったと。そして、自分自身の中にいる悪魔と葛藤するうちに、故意だと思い込んでしまう。
しかし、最初から実証することが不可能な事件。無罪のためなら、自分を欺いてでも、過失を主張すればいいが、范は自分に正直でいられる事の方が遥かに強いと考える。結局、無罪判決。范は言う。妻の死を悲しむ心は少しもないと。

7. 城の崎にて
山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした。その後、養生に一人で但馬の城崎温泉を訪れた。秋の山峡に一人でいると、淋しく沈みがちになる。一つ間違えば死んでいたのだ。青い冷たい顔をした祖父や祖母の死骸が傍にあり、お互いの交渉もない淋しい光景を想い浮かべる。それでも、死を恐怖には思わない。
ある日、一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。他の蜂は気にする様子もなく働く。それが、いかにも死んだという冷淡な感じを与える。蜂の死を自分と重ね、親しみを感じるのだった。
またある日、小川に人の集まりがあった。大きな鼠を川へ投げこんで見ていたのだ。鼠の首には魚串が刺さっている。鼠が石垣を這い上がろうとすると石が投げられ、見物人は笑っている。鼠が必死に助かろうとする姿、その最期を自分の死と重ね、今度は恐ろしくなる。死後の静寂に親しみを感じても、死に至るまでの騒動は恐ろしい。
「自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまではあの努力を続けなければならない。」
いくら静かで穏やかな死を理想に思っても、もがき苦しみながら死ぬのが現実であろうか。
そして、またある日、小川の半畳敷ほどの石に、蠑螈(イモリ)がいた。もし蠑螈に生まれ変わったら、どうなるだろう?そんなことを考えながら、しゃがんで観察している。驚かせて水へ入れてやろうと石を投げると、蠑螈に当たって死んでしまった。なんてことを。
「可哀想にと思うと同時に、生き物の淋しさを一緒に感じた。自分は偶然に死ななかった。蠑螈は偶然に死んだ。」
少なくとも、助かろうと思わない限り助からない。一方で、生きたくても生きられない人たちがいる。とりあえず自分は生きている。そのことに感謝したい。生とは、死を感じて始めて感じられるものであろうか。生と死は両極ではなく、隣り合わせということであろうか。

8. 好人物の夫婦
のんびりとした秋の晩、妻は裁縫をし、夫はごろ寝している。夫の怠け癖と、妻がせっせと働く、昔ながらの光景であろうか。夫が気ままに旅行すると言えば、妻は淋しくて留守番が嫌だと言う。妻が浮気するだろうと問い詰めれば、浮気癖のある夫はしないかもしれないと曖昧な返答をする。妻の問答に付き合っているうちに、夫は急に気分が萎える。
翌朝、大阪から手紙が届く。祖母が病気だという知らせだ。妻は看護のために大阪へ向かう。夫も四週間ほどして大阪へ。そんな時、女中が妊娠し、夫が真っ先に疑われる。妻はうまいこと嫌味を言う。露骨に打ち明けられても落ち込むだけ、疑いで留めるのが親切というものか?夫は、今度は俺じゃない!と打ち明け、妻は涙する。
信じているのか?疑っているのか?信じたいという気持ちと、その自信のなさとの葛藤を描いた奇妙な作品。悲しみとは、自らの愚かさからくる誤解や意地っ張りが招き入れるものであろうか。

9. 流行感冒
最初の子が死ねば、ちょっとした病気でも死ぬんじゃないかと不安に襲われる。主人は、病的なほど子供の病気を恐れていた。裕福で、子供をあまりにも大事にする家庭があるかと思えば、貧困で、無神経に放ったらかしにする家庭もある。結果的に、どちらが善く育つかは分からない。小学校に乳児をおぶって通うような時代。どちらが自然な姿なのかは分からない。
さて、ある日、流感が我孫子の町に蔓延した。スペイン風邪が流行した頃か。芝居のような人が集まる場所へ行くだけで、感染が疑われ、道徳的な非難を浴びる。女中の一人が、こっそりと芝居を見に言った。長いこと楽しみにしていた芝居に嘘をついてまで。それを主人に見つかり咎められる。しばらくして主人が流感にかかり、妻、他の女中、そして最も大事にしている子供まで。だが、芝居を見にいった女中だけは元気で献身的に働く。あれほど喧しく言っておきながら、その主人が感染したのだから、彼女が痛快に思っても不思議はないのだけど。彼女には、欠点も多く、間抜けをしてよく叱られるけれど、悪い子ではない。そして、人間性を見直されるのだった。...我儘がちな主人が反省する様子がなんとも印象的だ。

10. 焚火
静かな晩、画家と宿の主人と、ある夫婦の四人で小舟に乗る。小鳥島の裏へ入ろうとする向う岸に焚火が見える。別の岸で、四人も焚火をはじめる。そして、山で怖いものの話を始める。蛇や山犬、あるいは、地獄谷の方で野獣の髑髏を見たとか、大入道を見たとか。気分が盛り上がったところで、宿の主人は不思議な体験を語り始める。
去年、雪が二、三尺も積もった頃、東京の姉の病気が悪いという知らせを受けて見舞いに行った。その帰り、鳥居峠を越える時、雪が腰くらいまで入るほど深くなっていて、引き返すこともできない。まるで蟻地獄。体力には自信があり、雪にも慣れていて、恐怖も不安も感じない。だが、もう一息、もう一息と、その道程りは遠い。そして、意識がぼんやりとしてくる。大概、雪で死ぬ人はそうなってしまうという。なんとか峠の上まで漕ぎつけると、遠くの方から提灯が見える。宿の主人の声を寝耳に聴いた母が、義理の兄を迎えによこしたのである。宿の主人の帰る日は未定だった。虫の知らせ!というやつか。母が聴いたのは、一番弱って気持ちがぼんやりしていた時。こんなことがあって、彼はいっそう母想いになったとさ。

11. 真鶴
伊豆半島の年の暮。十二、三歳の少年が弟の手を引いて歩いている。弟は疲れきって不機嫌だが、兄の方は物思いに耽っている。恋煩いというやつだ。父から歳暮の金をもらうと、小田原まで弟と二人で下駄を買いに行く。ところが、途中で唐物屋で水兵帽を見つけると、少年はそれが欲しくなり財布をはたいてしまう。叔父が海軍の兵曹長で、よく海軍の話を聞き憧れていたのだ。
更に、松飾りの出来た賑やかな町に通りかかると、騒々しく流している法界節の一行に出会う。一行は三人、チンドン屋か。一人は四十くらいの男で琴を鳴らし、一人は女房らしい人で甲高い声を張り上げて月琴を弾き、もう一人は少女で厚化粧をして唄っている。少年は、月琴を弾いている女性の色白さに魅せられる。少年時代、年上の女性に憧れることはよくある。少年は、尨犬のように弟の手を引いて、一行に付いていく。
日が暮れると、真鶴まではまだ一里あった。ちょうど熱海行きの列車が通りかかり、客車の窓からチラリと二人の横顔を照らす。弟は法界節が乗っていたと言う。弟の疲れきった様子にやっと気づくと、急に可哀想になり、おんぶする。そして、今の列車に乗っていたかと思うと空想が膨らむ。女性が何処かで自分を待っているという夢想を。この先の出鼻の曲り角で汽車が脱線し、崖から落ちて女性が倒れているところに少年が通りかかるというシナリオである。だが、出鼻へたどり着いても何事も起こるはずがない。それを曲がると提灯を持って来る女の姿があった。余りに帰りの遅いのを心配して迎えに来た母である。弟は兄の背中で眠っていた。母が、弟を少年の背から移そうとすると目を覚まし、今まで抑えに抑えてきた我儘を一気に爆発させた。母が叱ると、なお暴れた。少年は水兵帽を、弟にかぶせて、お前にやるから、おとなしくしな!と言った。少年は、もう水兵帽をそれほど惜しく思わなかった。...平凡な作品だが、なにやら懐かしい風を感じる。

2012-05-06

Fedora 14 から 16 へアップデート

実は昨年、Fedora 14 から 15 へアップデートしたが、再び 14 へ戻した経緯がある。マシンが古いせいか?シャットダウンの動作がたーまにコケたり、電源系が安定しない。ハードウェアの相性問題なら深刻か?ちなみに、マザーボードは GIGABYTE GA-8PE667 Pro...それほどマイナーでもないと思うが。ディストリビューションにこだわる必要もないが、Fedora Core 2 から使っているので、それなりに愛着がある。
てなわけで、GW連休中に腰を据えて当たることにした。17 リリースのカウントダウンも始まったことだし...

14 からのアップデートは yum だと 15 を経由する必要がある...とずーっと思っていたので憂鬱でいた。ところが、preupgrade を使うと直接 16 が選択できるではないか。前回のしくじりを踏まえて綿密に計画する。いや、覚悟する。
操作は、実に簡単!

  $ yum install preupgrade
  $ preupgrade
  待つこと1時間ほど...

これでおしまい!ドライバはすべて認識され、電源系も安定している。サーバの設定も、だいたい受け継いでくれたみたい。ほとんどトラブルもなく拍子抜け!
尚、remi系で 14 のゴミが残る... xulrunner11.i686  11.0-1.fc14.remi

やはり愚痴は gnome3 に集中する...
新しい環境に馴染めないのは年のせい...などとからかうんじゃない!
最初は気が狂いそうになったが、カスタマイズができていくうちに冷静になる。単に完成度が低いだけか?いや、肌に合わん気もする。デスクトップ環境を見直す日も近いかも...
尚、kernel 3.x で劇的な変化があるかと思いきや、何が変わったのか?よく分からん。

1. 何をするにも、「まずアクティビティ!」という思想
[アクティビティ]から[ウィンドウ] or [アプリケーション]という操作手順にイライラ![お気に入り]に置けば少し楽になるが、あまり多く置くと鬱陶しい。用途の限られた携帯端末では使いやすいのか???Windowsのスタートボタンと思えば、気にならないと思ったけど...
Win7 でも似たような愚痴をこぼしたが、スタートメニューは貧弱な方向にあるのだろうか?分かりやすいという言い方もできるかもしれんが。見た目ばかり大袈裟にしても...おいらの感覚が時代遅れなのかもしれん。
見たまんま!分かりやすい!...これほど説得力のあるものもない。しかし、慣れてくると、とっかかりの分かりやすさよりも効率性を求める。サーバー系で、いまだ GUI よりも CUI が好まれるのはそのためであろう。分かりやすさと効率性、あるいは厳密性とは、必ずしも同期しない。用途に応じた UI というものがあるだろう。
フォン・ノイマン型コンピュータが登場して、まだ半世紀余り。そのうち昔の UI が見直されるってことはないのだろうか?ヴィンテージ志向へ回帰するってことは?あらゆる学問がそうであったように...

2. deamon の自動起動でひと苦労!
ようやく systemctl というおまじないに気づく。SysVinit スクリプトが systemd へ移植された模様。

  systemctl enable xxx.service
  # systemctl start ... は、その場限り。
  # 実体はこのあたり... /etc/systemd/ と /lib/systemd/
  # /etc/systemd/system/multi-user.target.wants/

とはいっても、/etc/rc.d/rc.local は残っている。アップデートだからか?これも、systemctl で起動できる。

3. アプリの自動起動
~/.config/autostart/* がそのまま受け継がれる。セッションの設定画面が見当たらない...と彷徨していると、gnome-session-properties コマンドが見つかる。

4. ウィンドウテーマの変更 ...改善された模様。コメントへ...(2012-6-30)
[アクセサリ] → [高度な設定] → [テーマ]でウィンドウテーマを変更するが、いちいちログアウトしないと反映されない!ほんまかいな?Fallback mode ではリアルタイムで反映される。てなわけで、徹底的に Fallback mode で設定してから戻す。いや、永久に Fallback mode にする日も近いかも...

5. アプリケーション画面のアイコンが異常にでかい!
アイコンサイズは、cssファイルを直接編集する。gnome3 の完成度の低さを感じさせるところか。

例えば、こんな感じ(テーマによってCSS属性や値が違うだろう)。
  /usr/share/gnome-shell/theme/gnome-shell.css
  ----------------------------------------------------
  .icon-grid {
    spacing: 18px; /* default 36px */
    -shell-grid-item-size: 64px; /* default 118px */
  }

  .contact-grid {
    spacing: 36px;
    -shell-grid-item-size: 164px; /* 2 * -shell-grid-item-size + spacing */ /* default 272px */
  }

  .icon-grid .overview-icon {
    icon-size: 48px; /* default 96px */
  ----------------------------------------------------
反映させるためにgnome shell を再起動する。[Alt] + [F2] で r コマンドを叩けば簡単!