2009-12-30

エコポイントの怪奇

このままだと「いんけつ」のまま年を越してしまうやんけ!
年末の寒さが、グチっぽくさせやがるぜ!
それにしても、世の中には、いろんな怪奇現象があるもんだ。

エコポイントは、申請の面倒くささの上に、その後の時間のかかること。最初から、こんな面倒なシステムは混乱の元だと思っていたが、想像を絶するレベルだ!なるほど、消費者庁ってこのために創設されたのかぁ。

1. 申請に始まって...2ヶ月過ぎ...
申請したのは夏頃であろうか。「1つの購入商品に1枚の申請書でお願いします。」と書いているので、二つの申請書を同封した。面倒だから、どちらも同じ商品を記載した。そして、忘れかけてた頃2ヶ月経って、一つの申請書分の商品が届いた。それから2週間経っても二つ目の商品が届かない。どんな処理をすれば、こんな現象が起こるのか?複雑怪奇!まさか!「一つの封筒に一つの申請書!」という意味じゃないよなぁ。説明書を何度も読み返してみたが、それはなさそうだ。心配になったので、商品の送り元に電話した。すると、同じ封筒に何枚か申請書を入れても、バラバラに指示がくるのだそうな。シリアルNo.で確認してもらうと、やはり二つ目は受け付けられていないらしい。
そこで、エコポイント事務局へ電話してみると、奇妙なメッセージが...
「22秒毎に10円の通話料がかかる...」とかなんとか。フリーダイヤルちゃうんか。その後に、「しばらくしてからかけ直してください...」と続く!
ポイントの問い合わせ「2番」にかけると、延々にこんな状態。仕方なく「1番」にかけるとつながるが、この番号では個人情報が扱えないらしい。結局、回されるだけ。つまり、自動メッセージが流れるか、交換手が喋るかの違いでしかない。
こうして毎日電話をかけ続け...一週間が経ち...一度もつながったことがない。これは通信業者の陰謀か?そもそも、「グリーン家電エコポイント事務局」ってなんだ?特殊法人か?いずれにせよ、経済に長けた人間が考えた仕組みとは思えない。時々サポートセンターでイライラさせられることがあるが、これは超スーパーウルトラ級だ!

2. 諦めきれずに...そして、まもなく半年が経過...
しばらく諦めていたが、1ヶ月経って気まぐれで電話してみる。すると、なんと!一発で繋がってビックリ!舞い上がってしまって、何を喋っていいか分からない!なんとなくホットなお嬢さんに電話しているような、奇妙な緊張感に見舞われる。
冷静さを取り戻して、シリアルNo.を確認してもらうと...
なんと!二つ申請したはずが...「三つ申請されてます!」だって。
番号が重複しているらしい。そんなミスがあるだけでも不安に駆られる。二つ目の申請書は、確かに受け付けられているらしいが、処理はされていないという。その理由は、機械で読み取れない場合は、手作業に回されるんだとか。コピーを眺めてみても、同じように記入しているようにしか見えないが、ほんまかいな?まぁ、おいらの字が汚いから機械で読み取れるレベルの境界にあるということにしておこう。書類に不備があれば、通知を出すということなので、問題はないだろうということらしい。そして、更に手作業で2ヶ月ぐらいかかると言われた。
それから2ヶ月が過ぎ...そして、最初の申請から半年が過ぎようとしている。だんだん諦めムードになりつつあるのが怖い。こうして年金を諦めた人が何人いるのかと思うとゾッ!とする。

3. 昨日、電話してみたら...
この記事を書く前に電話してみよう!少しは丁寧に答えるようにはなったようだが、情報量はまったく進化していない。
「もう半年になるよ!」と言うと、機関銃のように平謝りする。こっちの喋るいとまを与えないかのように。謝罪攻撃という戦術か?ちなみに、アル中ハイマーは酔っ払うと「謝り上戸」になるらしい。初対面の相手でさえも。受付嬢も酔ってんのか?俺に...
不備があったら通知を出すと言っているが、電話の窓口では、不備の通知を出したかどうかも分からないという。分かることは、「現在、審査中!」という情報だけだそうな。結局、待つしかないわけだが...まさか!不備の通知すら行方不明ってことはないだろうなぁ?なるほど、年金記録も消えるわけだ。
噂によると、処理が大変で人員を増強したと聞く。ほんまかどうかは知らん!もし事実とすれば、更に無駄な税金を使っているのは想像に易い。一旦、混乱が始まると、戦略的にうまくやらないと、人員の増強だけではむしろ収拾させるのは難しくなるはず。混乱のレベルは指数関数的に倍増するのだから。したがって、優秀なマネージャは、システムの仕様や稼動させるための事前検討を慎重にやる。安易な物量作戦に陥ることの危険性を充分に理解しているからだ。
ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?酔っ払いは、「エコ」という癒しの言葉に乗せられて環境破壊に貢献するのであった。

2009-12-27

もしも、アル中ハイマーな文学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな文学者がいたら...だめだこりゃ!

精神を、人間が体系化した言語という手段で完璧に言い表せるということは、人間が精神を凌駕したことを意味する。したがって、精神が、自らのボキャブラリ障壁を越えられなくて苛立つのも仕方があるまい。
ところが、だ!天才たちは、言語という手段で読者の精神を揺さぶりやがる。日常の些細な出来事の描写ですら、芸術性や独創性で仕掛けてくる。彼らには、いったい何が見えているのだろうか?


1. 文学の意義
文章は、ほとんど読み手のためにあると言っていいだろう。書き手も、いずれ読み手となる。このブログは、10年後に読み返すことを念頭に置いている。10年もすれば、人の思想や言論も変わるだろうから、当時を振り返るための記憶メディアとしたい。
ところで、言語には実に曖昧な表記法がある。言語は、伝達手段として使われる一方で、精神を曝け出す手段としても使われる。言語で精神が完璧に表現できるとは到底思えないが、巧みな文章で魅了する作家たちがいる。彼らは、限りなく抽象的な感覚を与えながら、冷静に観察すると単語一つ一つには具体的な言葉が踊ったり、詩的な音律を含んだりと、様々な感情を想起させようと仕掛けてくる。だが、その背後には、必ず論理性が潜んでいる。整然とした論理性があるかと思えば、論理を絶妙に崩すための論理性なるものが存在する。
そこで、「文学作品を作るのに体系化した黄金手法があるのだろうか?」という疑問がわく。形式的に言葉を並べたところで、感動できるフレーズが現れるはずもない。それは、天才たちの精神から自然に生まれる感性としか言いようがない。文学の意義とは、言語と感情の不変的な関係を探求することといったところだろうか。しかし、どんなに巧みな比喩を乱用しようとも、結局作者の意図から離れながら読者の個性によって調律される。よって、読者の微妙な感覚の違いを、わざわざ文学が統一することもなかろう。それは、どんな学問でも同じで、人間精神を統一することに成功した学問は未だ存在しないのだから。意義が明確にできるならば、問題ははるかに簡単である。説明がつかないから芸術の域にあると言えよう。
また、文学は、伝達手段として言語を扱うという意味で、現実的な学問とも言えよう。言語学という学問分野もあるわけだが、言語学という言葉を使うと社会学の領域にあるような印象を与える。文学や言語学は、数学や科学と明らかに違った性格がある。数学の一般的な考察では、公理から出発して定理が演繹される。対して、言語学の考察は、まず現実に使われる言葉から出発して、帰納法的に定理を発見していくことになろう。そして、どんな言語にでも当てはまるような普遍的な言語法則、あるいは文法法則が見出せるのか?これが文学や言語学の抱える基本的な課題であろうか。しかし、文章は人間精神と深く結びつくのであって、そこに答えが見つかるとも思えない。

2. 言語と精神
人間精神の本性が解明できないのに、人間の発明した言語体系で精神を言い尽くせるはずもない。人間は、精神の実存すら明確に説明できないでいる。そこで、哲学では奇妙な現象が現れる。一語多義的とでも言おうか、そこに一貫性があるのかも疑いたくなる。おまけに、作者独自の用語まで登場して、無理やり難解な文章を生み出しているかのようだ。にもかかわらず、なんとなく崇高な気分にさせるのも、そこに真理という味付けがあるからであろうか。作家たちは巧みな技法で芸術性をひけらかす。これは、自らの精神を曝け出した結果であり、文学作品に作者の哲学が宿るのも道理というものである。したがって、哲学は一般的に文学と化すはずだ。
自らの精神を表現するためには、自らの精神をどこか冷めた領域から眺める必要がある。これは、書き手から見た文章の役割でもある。物事を理解しているつもりでも、いざ文章表現しようとすると、意外と理解していないことに気づかされる。したがって、文学者は一般的に多重人格者になるはずだ。
文学の世界では、技法を無視した芸術性を顕にする。だから、意表をついて感動を与えるのだろう。だが、レベルの高すぎる技法は読者を困惑させる。言語は、意志を伝達する道具であり、平気で独自の用語を持ち出されても、共通認識がなければ読者は解釈できない。そこで、芸術家は絶妙なさじ加減で仕掛けてくる。言語体系という制約の中で巧みに鑑賞者の精神を揺さぶりやがる。
ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」
文法や技巧を習得したところで、精神を自由に解放できるわけではない。流派があるとすれば、それは芸術家の数だけあると言ってもいい。古い格言に「文は人なり」というのがある。これが真理だとすれば、アル中ハイマーは頭が痛い。酔っ払って誤魔化す文章も人となりというものか。

3. 共通認識と会話
人間は、集団社会の中で自分たちだけが認識できるような合言葉で、互いの意識を認め合うところがある。仲間意識の誇張とでも言おうか。流行語は、時代に遅れていないかの自分の存在位置を確認するためのものであろうか。ある集団が、他集団よりも優れているという勝ち誇った意識を持とうとすれば、彼らにしか理解できない専門用語を発明して優越感に浸る。人間が、難しい知識や言葉で武装しようとするのは、単に他人よりも優勢でありたいと願っているだけのことかもしれない。世界中で普遍的な共通認識が持てるような世界共通語なるものがあれば、意思疎通という意味では便利である。だが、意思疎通が曖昧だからこそ、そこに芸術性が生まれ、精神の高まりがあると言えよう。言語は、合理性の中で変化し続けるだろうが、歴史的背景を消し去ることはできない。
会話は、話し手と聞き手の役割分担があって、互いにその役割を交換しあうことによって成立する。これは、言葉の共通認識があるからこそ、成り立つメカニズムである。言葉から共通認識が得られるということは、そこに社会性があることを意味する。もっというなら、社会性には暗黙の認識のようなものがある。他文化を研究するとは、まさしくこの点を解明することであろう。言葉は一種の記号を示すが、それだけの機能に留まらない。人間は、言葉によって自由に恣意する。したがって、言葉のニュアンスが個人によって違ってくるのも自然である。これは、人間が精神を獲得した時点から持つ性質と言えよう。人間社会が進化するということは、社会環境が変化することを意味する。となれば、そこで使われる言葉に微妙な変化が見られるのも自然である。
客観性を持つはずの専門用語でさえ、組織の文化の違いによって、微妙にニュアンスの違いを見せる。例えば、技術分野では、画像処理系と通信制御系という分野の違いでも、用語の使い方が微妙に違い戸惑うことがある。ずっーと一つの組織に依存していると、組織文化に染まっていることすら気づかない。そして、当り前のように文化を押し付けて、言葉が通じないと馬鹿にされることもある。こっちが馬鹿だから仕方がないかぁ。一方で、そのニュアンスの違いを楽しむ人々がいる。そして、会議の前に、言葉のニュアンスを確認するだけでも信頼が築けることがある。近年、登場するネット関係の用語は、専門家でも明確に説明することが難しい。厳密で客観性を帯びるはずの専門用語は、ますます抽象化していくようだ。それも、人間社会の実体がますます仮想化へ向かっていることの証なのかもしれない。いや!そこに実体なんぞ最初から存在しなかったのかもしれない。

4. 国語辞典の役割
国語辞典には、その時代に意味する事柄を記録として留める役割がある。言葉を使う時の指標でもある。だが、言語を、無理やり機械的に体系化すれば、言語の柔軟性は失われるであろう。
アンブローズ・ビアス曰く、「辞典とは、ある一つの言語の自由な成長を妨げ、その言語の弾力のない固定したものにしようと案出された、悪意にみちた文筆関係の仕組み。」
国語学者は言語の変化を乱れとして説教するが、言語学者はその変化をおもしろがっている。国語辞典を完成させた者は権威者と見なされる。まるで一種の司法権があるかのように。しかも、世間はそれが法令であるかのように位置付ける。しかし、言葉は民族の慣習や文化と密接にかかわる。時代が進化すれば、慣習や文化にも変化が現れ、それにともない言葉も変化する。となれば、国語辞典を掟とすることもできないだろう。国語辞典が優れた単語に「廃語」の刻印を押したらそれで最後、もはや一般用語として復活することは難しい。国語辞典を神のように崇めた時、斯くして言語の貧困化は促進され堕落の一途を辿るというわけか。形容詞が最も古びやすいと言われるのも、時代背景によってもニュアンスが変わるからであろう。となれば、形容詞を節約すれば、文章は古びないのかもしれない。そうはいっても、形容詞は文学の華であり、比喩的表現とも親しい関係にある。形容詞は文学的価値を高める効果もあるので、一概には否定できない。「赤い」と形容しただけでも、薔薇色の情熱を描く人もいれば、血なまぐささを思い描く人もいよう。これは、生理的な現象であろうか?アル中ハイマーはブラッディ・マリーが飲みたくなる。ちなみに、鏡の向こうの住人は、赤い顔をしながら何やらつぶやいている。

5. 音声と雑音
とっさに言葉が思いつかない時に、とりあえず擬声語のようなものを使うことがある。静かな様を「シーンとする」とか、鋭い様を「スパッ!」とか、非常に寒い様を「うぅー寒ぅ!」とか。ちなみに、酔っ払いは、イチコロな様を「メロメロ」と表現する。人間は、言葉を発する時、まず音に頼っていると言えるのかもしれない。いや、象形文字のように形をイメージする場合もある。いずれにせよ、言語は、聴覚や視覚といった人間の知覚能力から発達したと言えそうだ。ただ、音声と意味が関連付けられるのも、慣習や文化などの経験的なものであって、動物の鳴き声を表すにしても、民族によって様々な違いを見せる。
おもしろいことに、人間は音声と雑音を区別する。音楽に癒しを感じたり、雑音に不快を感じたりする。大音量や小音量でイライラするのは、入力装置の限界点近辺の問題で、なんとなく分かるような気がする。だが、音声も雑音も同じ音波である。音波という物理現象に対する精神の動きは、経験則だけでは説明できそうにない。現実に、世界的にヒットする音楽が存在する。音響効果による精神の動きには普遍性のようなものがあるのだろうか?音や雑音の感じ方には、民族性を超越したものがあるような気がする。いずれにせよ、言葉の音素は、人間が発音できる口の形と動き、あるいは人間が聞き取れる音波の範囲で限定される。結局、入出力装置の性能によって決定されるわけだ。
人間が言葉を使う場面では、何かを思い浮かべながら、何か表現できるものを探しながら言葉を選んでいる。言葉が見つからなければ、別の表現方法を模索する。即座に反応できなければ、代名詞を発したり、ついには身振り、手振りといったしぐさが現れる。エスパーならば、テレパシーやテレポートを使えばいい。そのうち認識能力が高まり、脳波が発する電磁波を認識できるようになったら、世界は静かになるであろう。

6. 感情に欠けた言葉は存在しない
森鴎外の好きな随筆に「当流比較言語学」というのがある。それは、民族に欠けている感情は、言葉としても欠けているという話である。ドイツ人は「Sittliche Entrustung」という言葉を使うらしい。直訳すると道徳的(Sittliche)憤怒(Entrustung)となるのだが、嘲笑うという意味で使うという。これを鴎外流では「義憤」という言葉に当てはめている。例えば、ある議員に不祥事沙汰があると、必ず「けしからん」と捲くしたてる連中がいる。この「けしからん」が「義憤」である。日本人はよく義憤で世間を賑わすというわけだ。だが、他人の事を言えるほどの道徳心がおありか?と問えば嘲笑うしかない。鴎外は、こうした意味の言葉をドイツ人は持っているが、日本人には欠けていると指摘している。そして、日本人はそんな感情は当り前に持っており、道徳上の裁判官になる資格を持っていると皮肉る。当時、新聞の社説や雑報に「けしからん」という文字が乱れ飛んだ光景を絶妙に表現しているわけだが、現在も状況は変わらないようだ。
客観的に論理的に説明できる人を見かければ、憧れてしまう。しかも、冷静な面持ちで渋い声で語りかければ、それだけで世論はイチコロだ。ヒトラーのような演説の天才であれば尚更。政治マフォーマンスも政治能力の一つではあるが、大衆も経験を重ねるごとに、その言葉の胡散臭さを感じていくだろう。
似たような話で、映画「誇り高き戦場」のあるシーンを思い出す。アメリカ人捕虜がドイツ人将校に向かって、ドイツ人は相手に苦痛を与えることによって性的快感を味わうと皮肉る。すると、ドイツ人将校は、サディズムの語源はフランス語でありドイツ語にはないと反論する。日本語では加虐性愛と訳すようだが、いまいち表現しきれていないような気がする。ちなみに、おいらはMだ。

7. 文章の感性とプログラムの感性
文章を綴る時には、論理的思考を働かせているだろう。だが、前後関係の論理を完璧に辻褄が合うように記述することは難しい。ここに、コンピュータプログラムを書く感覚にも通ずるものがある。プログラムは表現する対象が狭く限られているが、精神を表すには無限の広がりがある。プログラムは些細な論理ミスがあっても正常に動作しないが、文章は読者に様々な解釈をさせる自由を与える。違いは、こんなところだろうか。誤字脱字や言葉の勘違いの多い酔っ払いは、文章を書くのにコンパイラのような存在があると便利だとよく思う。言語の究極な体系化が可能だとすれば、文学がプログラミングできる日も来るであろう。そうなると、人間の精神もプログラミングできそうだ。実は、プログラムには技術者の哲学が詰まっている。プログラムの効率性や移植性や柔軟性といったすべての要素が調和した時に、信頼性と美が融合し、コード作成者に対して芸術家に対するのと同様の敬意が表される。芸術性と論理性、主観性と客観性は、プログラムの本質である。自らの失敗を振り返り、より効率性を求めた結果、細かいこだわりが現れ、美の探求へと進化する。こうした感覚は、経験則から培われるところが大きく、技術者の生き様を物語っていると言ってもいいだろう。なるほど、文章の感性とプログラムの感性には似たものを感じるわけだ。

2009-12-23

もしも、反社会分子の社会学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、反社会分子の社会学者がいたら...だめだこりゃ!

人間社会は、ご都合主義と有難迷惑主義の呪縛からは、永遠に逃れられないであろう。自立を叫べば他人を犠牲にし、自己責任を叫べば他人に責任を押し付ける。人間社会とは奇妙な世界である。

1. 社会科学とカテゴリー分析論
あらゆる研究分野で「科学する」とは、よく耳にする言葉である。複雑な問題と対峙するにあたって、まず、その正体を科学的に解明しようと試みるのも悪くない。そこで、必ずと言っていいほど用いられるのが、区分や分類といった抽象化手法であり、そこに法則性や規則性を見出そうとする。一つの命題に対して論理的な裏付けができれば、そこに安心感が生まれる。人間が客観的論理性や体系化を追求するのは、精神が安住の場を求めているだけのことかもしれん。ただ、そこで得られる快感も主観で解釈するから、人間とは得体の知れない生き物である。
本来、人々が求めるものは、社会問題を解決することである。人間のタイプを、抽象化して区分や分類することは可能であるが、具体的に解決できるところまで学術的に高めることは難しかろう。人間精神を相手取った問題が、そう簡単に片付けられるわけがないのだから。そこで、「カテゴリー分析論で、いったい何が解決できるというのか?」と自問すれば、泥酔した精神は「では、それ以上にいったい何ができるというのか?」と返してくる。「思考の試みによって問題解決ができなければ、それは無駄というものではないのか?」と問えば、「人生とは、死までの暇つぶしである。」と答えやがる。
もし、複雑系と矛盾律が宇宙原理の本質だとすれば、物事の解釈は自己の中にしか見出せないであろう。ただ、科学的思考は、客観的で冷静な判断を試みる上でも有効であり、個人の主観的解釈を手助けしてくれる。頭に知識を詰め込むだけの知識至上主義では、答えを先に求めようとする傾向がある。だが、社会のような複雑系で、形式化した解決策を安易に求めるのは都合が良すぎる。知識を探求しながら、ある解釈に到達する過程にこそ、人生の醍醐味がある。どんな難問でも答えが簡単に見つかるのであれば、人生は虚しいものとなろう。そして、退屈のあまり、くだらない悩みを無理やりでっち上げてノイローゼになるのがオチだ。

2. 人生の多様性
人間の行動は、ある程度の利害関係によって説明できそうだ。だが、あらゆる利害関係は個人の価値観で判断されるから厄介である。また、人間の行動には、どうしても動機付けのできないものがある。人間は、近視眼的な利害関係に基づいて行動しやすい。その反面、歴史的理念や伝統的慣習、あるいは信仰的な倫理観などが、しばしば行動を動機付ける。経済学が扱う利害関係は物質的なものばかりに着目するが、実際には内面的で精神的な価値を求める人も少なくない。奉仕や援助といった行為もあれば、名誉や評判に固執する行為もある。人生の目標が金儲けだけではなく、精神の探求といった哲学的思想を拠り所にする人もいる。浪費に命をかける人もいれば、貯蓄に生き甲斐を感じる人もいる。なにがなんでも長生きしたいと願う人もいれば、短い人生でも有意義に生きたいと考える人もいる。自らの不幸な境遇から人道的に目覚める人もいる。協定や契約に縛られて、義務や使命感を強く持つ人もいる。これらすべて個人の価値観による利害関係と言えなくはない。ある人にとっての合理性は、他の人にとっては非合理性と見なされることがある。価値観は個人の理念で相対的に育まれるのであって、精神の合理性にはカオスの世界がある。となれば、無限の諸条件の中から法則性を見出すことは不可能であり、統計的に捉えるしかないように映る。しかし、多様性を平均することに意味があるのだろうか?あらゆる統計データはちょいと視点を変えただけで、どうにでも解釈できる。自由と平等を足して2で割ったところで、答えは見つからない。となると、統計的分析にも限界を感じ、もはや社会学の科学的分析は不可能のように思える。だからといって、諦めることにはならない。学問として法則性を追求することで、今まで見えなかった因果関連を解明できる可能性はある。そこに意義を求めなければ学問は成り立たない。少なくとも、物質的な価値評価のみで体系化できたと言い張るよりは、混乱を意識している方が健全であろう。生活様式や価値観が多様であるからこそ、互いの短所を認識することができる。運命のような明るい出会いがある一方で、運命のような事故や災害に見舞われることがある。健康で幸せな生活をしているからといって、いつ病や障害に見舞われるか分からない。結婚したからといって、円満でいられるとは限らない。子供ができたからといって、五体満足とは限らない。ましてや、親の言いなりになるわけがない。子供を欲しがっても恵まれない家庭だってある。どんな生活様式であろうが、人間は様々なリスクを背負いながら生きている。そもそも、人生は寿命のリスクからは逃れられない。自由を求めれば、制約の障壁にもがく。怠惰を求めれば、勤勉にならざるを得ない。欲望と抑制が均衡しなければ、精神は偏重する。すべての人間が一つの生活様式や価値観に向かえば、意識は固定化され偏った社会となろう。人間が多様化しなければ、人間社会は莫大な人口増加にも対応できないだろう。すべての人間が同じ価値観を持つということは、人類が絶対的価値観に到達したことを意味するであろう。しかし、政治屋や報道屋は一つの価値観を前提としながら世論を煽る。まるで、自らの理念や理性が最高であるかのように。「勝ち組」や「負け組」といったものは、まさしく経済人の指標でしかない。そもそも人生に勝ち負けがあるのか?彼らは、路線から外れた人生の多様さを想像できないでいる。彼らの人生設計では、会社や役所に就職して、何歳までに結婚して、子供は何人作って、などという価値観でしか物事が計れない。しかも、これが自立の道だと説く。まるで、宗教家のように。ありもしない人生の軌道に乗ろうと、幻想を追いかけるかのように。無理やり差別化を図り、自らを優位な立場に位置付けることによって、精神の安住を求めるかのように。

3. 自立と自己責任
自己責任と他人責任を区別するには、客観的判断が必要となる。となれば、自己責任の範囲、ひいては自我の縄張りを明確にするために、論理的な説明を模索しているとも言えよう。社会現象という複雑系が科学的に解析できるならば、論理的な政治判断も可能となる。だが、実際には人間の論理は穴だらけで、しかもご都合主義に支配される。マスコミの論調から外れた人々は、まるで社会の害虫のような扱いを受ける。フリーターやニートやパラサイトシングルなどがその典型で、自立できない人々と蔑まれる。だが、そもそも自立した人間なんているのか?彼らの中には自らのリスクを背負って生きている人も多い。定年まで安定した給料を当てにし、退職すると年金をたかり、一生を安穏とした立場で生きることが、はたして自立と言えるのか?低賃金労働者のおかげで正社員の給料が安泰とは、これいかに?大企業に恨みつらみを持ちながら、にこやかに振舞っている下請け業者も少なくない。健康診断にしても組織格差があり、胃や大腸といった内視鏡検査を組織側で負担するところもあれば、形式的に終わるところもある。優遇された人間は、優遇されていることにも気づかないだろう。アル中ハイマーも恵まれた環境に気づかないから、安心して酔っていられるのだ。現役労働者を犠牲にしてまで企業年金制度をいまだに固持している会社は、通常年金を放棄すればいい。いずれ正規雇用と非正規雇用の境界線も曖昧になるだろうが、会社が潰れた時に真っ先にうろたえるのは正規雇用者であろう。現実に、定年を迎えて生き方が分からなくなる人も少なくない。何のために仕事をしてきたのか?どうやって生きていくのか?それは定年のない主婦の方が理解しているように映る。キャリアウーマンでなければ能力がないなんて考えるのもナンセンスであろう。そういえば、政治家の発言に「女は子供を産む機械」というのがあった。男はその機械にさす油でしかないというわけか。議員定数を減らすとなると、最もうろたえる連中が騒ぎ出す。しかも、選挙では土下座までして。これが自立した人間の姿か?少なくとも、世襲議員が「自立しなさい!」と説教できる立場にはない。自立していると思い込むことができれば、気持ちは楽になれるだろうが。
世間が求める自立とは、核家族化を促進して、人口増加を煽ることなのか?これが、老人の面倒を福祉施設に押し付け、社会保障費を拡大していると解釈することもできよう。年老いて施設に入りたくても貧乏人にはできないわけで、社会保障の構造自体が格差を助長するようにできている。孤独死はますます増えるだろう。それも、理性を構築する上で良い修行の場と解釈することもできそうだ。共同墓地も賑やかでいいかもしれない。一方で、親の年金を当てにしながら大家族化するということは、生活効率が上がりゴミも減って環境的になり、社会保障費の効率を上げて社会貢献していると解釈することもできよう。親も子供から少し頼られるぐらいの方が、自らの存在を実感できて嬉しいかもしれない。自由を謳歌する人もいれば、痴呆症や障害者を抱えて介護を強いられる人など、様々な事情もあろう。実際に、介護で糞まみれに、尿まみれになる話を聞くと何も言えなくなる。ちなみに、幸せそうな家庭ほど、痴呆症になりやすいような気がするのは偶然だろうか?若い頃に苦労し、子供たちが巣立ち、多くの孫に囲まれ、後は楽しい余生を送るだけとなれば、気の緩みのようなものが生じるのだろうか?だとすれば、幸せはちっぽけなぐらいでちょうどいい。
次にフリーターに目を向ければ、社会保障なしの低所得者層の存在が、製造コストの抑制に貢献している。コストにおいて、機械の設備投資と低賃金労働者とで天秤にかけられ、機械コストの方が有利となれば、低賃金労働者はすぐに失業する。企業は、単純労働者に機械に徹することを要求する。機械に徹するということは、力仕事が要求され若年層へ目が向けられる。しかし、いずれ彼らも歳をとる。そうなってから職業訓練をしたところで効果はない。つまり、最初から低賃金労働者としてレールの引かれた構造がある。
銀行系シンクタンクの経済予想ほど恐ろしいものはない。バブル崩壊も予測できない、いや!バブルの仕掛人だ!生活保護者やニートを蔑む前に、経済危機になると真っ先に公的資金をたかる連中の方が、よっぽど自立できていないではないか。

4. 人口論
世界では、キリスト教右派などの人権団体が、宗教上の自由の侵害だとして、産児制限政策への批判を強める。人口問題は、移民問題とも関わり、政治的にタブーとされている国も多い。だが、アフリカをはじめとする発展途上国では、人口抑制政策をとっている現実がある。年金で扶養率を保ちながら、労働人口と非労働人口の比率を維持すると人口は増加する。おまけに、医療の進化が平均寿命を延ばす。日本政府は相変わらず人口増加を煽る政策を取り続ける。そして、少子化問題に育児問題を結びつけて論じられる。まるで、自分の年金を若年層からたかるかのように。だが、育児支援は昔からある問題であって、女性の労働的立場の平等に基づくものである。自論に追い風が吹けば、それに結びつけてごちゃごちゃにしてしまうのは、評論家や学者の得意とするところである。人間が生きるということは消費することを意味する。そして、消費に追従して生産を必要とする。人口増加は、単純に生産量を増やすことになる。人間が多すぎると、空間的にも窮屈を感じる。先進国で、高齢化社会となっていくのは、生物的な防衛本能が働いているのかもしれない。脂ぎった野心家よりも、草食系の方が、地球の未来像に合っているのかもしれない。人口問題は環境問題の根幹と言ってもいいだろう。世界人口が増えつづければ、いずれ子供を複数かかえる家庭は、罪悪感で悩まされる時代が来るかもしれない。少子化問題を唱える人は、まず日本人口や世界人口がどのぐらいが適当なのかを示してもらいたいものだ。

5. ネット社会とウィキペディア崇拝者
ステレオタイプという現象は、人間社会の持つ本質であろうか?ウォルター・リップマンは、その著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性に頼るしかないと悲観的に語った。
ネット社会が何も特別に高度な社会というわけではない。人間社会の一形体であって、社会問題の性格は昔と大して変わらない。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もなかろう。電子メールでは、真意が伝わらないと言う人もいるが、電話が登場した時代も、顔を合わせないと真意が伝わらないと叫ぶ人々がいた。新技術に馴染めないオヤジが難癖をつけるのも、人間社会の伝統であろうか。ネット社会を「大衆の叡智」と崇める風潮もあるが、それも怪しい。ネットでググれば、なんでも分かるという発想も危険である。安易に情報を信じる人が増えれば、エセ情報も拡散する。便利な世の中というものは、犯罪者にとっても便利ということだ。知識が真理を無視して多数決に支配されると悲劇である。いや!幻想に惑わされるのは喜劇か。現実にウィキペディア崇拝者も少なくない。高度な情報化社会が、生産性を高めるのは事実である。お陰で豊かな社会となった。だが、創造性が高まっているかは疑問である。なんでも質問をネットへ投げれば、誰かが答えてくれる。100点満点とは言えないにしても、80点ぐらいの回答はすぐにでも得られる。便利な世の中は、人間の思考力を奪うのか?古代の哲学的思考や科学的発想は、現代人の創造力をはるかに凌駕しているように思える。ちなみに、クラウドコンピューティングに、これだけ依存していいものか?と不安に思うことがある。確かに便利だが大規模なクラッシュなどのリスクも念頭に置くべきなのだろう、と言いながら酔っ払いは病みつきだ。
また、ネット社会では、情報が溢れているわりに、有用な情報を得るのが難しい。商品のお薦め度数には、売り手の思惑が見え隠れする。最近、本屋でも驚くような光景を目にする。それは、マスコミで露出される経済学者や評論家といった連中の本が溢れかえっていることだ。同じ著者でタイトルの違うものが、思いっきり平積みされている。しかも、写真入り。出版業界も苦しいのだろうが、著名人を前面に出せばいいという安易な商売戦略はいかがなものか?「これでもかぁ!」という陳列に、天の邪鬼は嫌悪感しかわかない。主信号にノイズが乗るのは仕方がない。だが、ノイズしか目立たなければ社会は騒がしくてしょうがない。と言いながら、このブログもノイズ生成器となっているのは面目ない。
すべての情報を相手にできるほど人生は長くない。そこで、いかに情報を捨てるかが鍵となる。雑音を気にしていては、前へ進むのが難しくなる。情報化社会では、情報を収集する能力よりも、捨てる能力の方が強く求められるであろう。何事をなすにしても、頑固さも必要というわけか。世間への反抗心が前へ進む力を与えてくれる。したがって、前へ進む力とは、情報を捨てる能力、あるいは忘れる能力であり、無視する力である。これが、悲観的思考から逃れる手段ともなろう。

6. 官僚化の法則
人間社会は、破壊のカオスの中にある。破壊と創造の繰り返しが宇宙原理だとすれば、精神の進化は自らの破壊から始めなければなるまい。しかし、人間には安定を求める性質がある。どんな組織や機関も、創設当初は美しいものであったに違いない。それらは、目前に迫った社会問題を解決するための現実的な手段として誕生したことだろう。だが、どんなシステムも長期化すると、既得権益が蔓延りながら腐敗していき、やがて社会の害へと変貌する。
近年、かつての終身雇用型体質を悪のように言う風潮がある。だが、一概に生涯に渡って職場が保証される仕組みが、革新的精神を妨げてきたとも言い切れない。少なくとも、この社会が、世界二位の経済大国にまで押し上げた事実は認めなければなるまい。アメリカ型の競争社会が、救いがたい格差社会を招いていることも事実である。年功序列が機能すれば、年下の部下を育てる義務という責任を負うことになる。責任が存在するということは、そこに生き甲斐を見出すことができる。その反面、居場所が保証された職場が、自己啓発や向上心を怠る風潮を生み、無能者を忠実さだけで評価するという慣行が蔓延るのだが。
しかし、現在のようにあまりにも経済情勢が不安定となれば、意欲よりも所属することを優先して、結局革新的精神の妨げになる。となれば、終身雇用自体が悪いのではなく、どんな体制も長期化の中で腐敗する原理が働くということになろう。
官僚体質の代表といえば、公的機関である。民間企業が利潤によって運営され、給料も成果の代価として支払われるのに対して、公的機関は予算によって運営され、給料も予算化される。公的機関の最大の問題は、予算消費型の組織ということであろう。予算消費型組織では、効率やコスト管理は美徳にはならない。予算の獲得に躍起になり、社会貢献が目論見に変貌する。少ない予算や、少ない人数で成果をあげれば、次年度の予算が削られるだけだ。予算を生み出すことが成果であり業績であると誤解する。そして、巻き起こる批判を避けるために、民衆を騙し、自らを欺く体質ができる。成果をあげるためには優先順位の高い目標に資源を集中させる必要があるが、そうした試みもなされない。つまり、予算消費型組織では、自らの存在感を示すために無駄な予算を計上することになる。コスト削減に努力した役人ほど、評価されずに葬り去られるわけか。となれば、公的機関の成功は、失敗よりも害が大きいことになる。
人間精神は、いつも安住の地を求めてさまよう。一旦その地を得れば、今度は頑なに守ろうとする。これが「既得権益の法則」である。人間社会は、伝統的慣習に縛られる傾向がある。伝統的慣習や信仰は精神に安定を与えながら、思考を脳死状態へと陥れる。となれば、自らの思考に疑問を持ち続け、常に検証しようとする努力が必要である。平穏な生活を獲得した人々にとって、革新的風潮は鬱陶しいものとなろう。問題は、誰もが平穏な生活をしているわけではないということだ。そこには、必ず既得権益に守られた支配層が存在する。一般市民の犠牲の下で裕福を堅守する連中がいる。社会学者ヴェーバーは、組織が大規模化する中で官僚体質となるのは、それが本質だからだと語った。人間の精神には、面倒なことや波風が立つのを嫌う面と、退屈を嫌う面が共存する。その衝動がどちらに振れるか、社会は気まぐれだ。極端に振り子が振れると、戻るのにも時間がかかる。一旦既得権益を獲得すれば人々は官僚的となり、それが絶えがたい不公平さとなれば革命が起こる。人間が官僚的になりがちなのも、自己防衛本能が働いているからであろう。一方で変化を求めるのも、精神が成長できない不安からの一種の防衛本能と捉えることができるだろう。人間社会は、個人の自己防衛本能に支配されながら、平穏と混乱、平等と自由といった精神の絡み合いの中で多様な状態遷移を経ながら、破壊と創造の間をうごめいている。

7. 環境問題
エコという言葉には、なんとなく癒しの響きがある。地球温暖化で騒がれるが、科学的な根拠が完璧に得られているわけではない。情報の捏造は、反対派の勢いを増すだけだ。ただ、温暖化の根拠がないからといって、人類が地球をレイプしていいということにはならないだろう。したがって、環境意識の高まりが悪いとは思えない。
ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?ブラウン管廃棄物はどこへ行くんだ?本当にリサイクル効率が高いと信じていいのか?まだまだ使える物を...物の有り難味を子供に説教したところで説得力はない。まさか!ゴミを外国へ輸出してるのか?日本を綺麗にして海外を汚染しているんじゃ、大人の行動を子供が尊敬できるわけがない。大人たちは、この制度を子供たちにどう説明するのか?
ちなみに、トイレで流す水量制限がないのは、日本ぐらいなものだそうな。

2009-12-20

もしも、アル中ハイマーな歴史学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな歴史学者がいたら...だめだこりゃ!

人類の歴史とは、「人間」という身分をめぐっての抽象化の歴史である。だが、どんなに抽象レベルが上がろうとも、人間は解釈することができても、永遠に理解することはできないであろう。

1. 歴史の法則
二千年以上前に比べれば、随分と抽象レベルも上がったのだろう。だが、人間の価値観はあまり進歩していないように映る。だから、未だにプラトン時代の哲学が通用するのだろう。トゥキュディデスの叙述を読めば、二千年以上も前の政治家たちの演説を通して、論理的思考や哲学的思考に優れていた様子がうかがえる。こういうのを見せつけられると、人類の歴史はむしろ退化してはいないか?と思わされるほどだ。
「歴史は繰り返す」とは、よく聞かされる。だが、歴史が繰り返されることはありえない。歴史を学んだからといって成功するとは限らない。だが、歴史を学ばなければ同じ失敗を繰り返す。これが、「歴史の法則」というものである。人口が増加し、社会構造が複雑系へと向かう中で、個人の生活様式や価値観も多様化し、もはや同じ現象を再現することは不可能と言っていい。したがって、歴史の評価を簡単に結論づけることはできない。にもかかわらず、安易に結論づける政治家や評論家は多い。おまけに、自らの政治行動を英雄伝説と結びつけながら自慢するという滑稽な姿まで曝け出す。政治家たちは、たまたま景気が回復すると自らの政治判断を絶賛して手柄話を捲くし立てるが、景気が悪化すると前代の政策を思いっきり批難する。いつもふんぞり返りながら、いざ選挙となると土下座までする輩だから、節操がないのも仕方があるまい。いずれにせよ、日本の政治家の判断だけで容易に方向性が示せるほど、人間社会は簡単な構造ではない。
あらゆる歴史事象は、多くの条件が絡み合う中で、いわば偶然的に発生する。人間社会は極めて神秘的な世界であって、単純な法則では説明できないほどの複雑系宇宙にある。だから、その瞬間を大切に生きたいものである。あらゆる成功例は、実に多くの成功要因によって構成される。よって、すべての要因を解明することは困難であり、ここに成功例から学ぶことの難しさがある。
一方、失敗例は、多くの要因の中の一つでも満たさなければ失敗するので、その要因も顕になりやすい。よって、失敗例から学ぶものの方が多いはずである。となれば、聖人から学ぶよりも、愚人を反面教師とする方が学びやすいのかもしれない。成功者の判断力は天性のセンスがあって、真似してもうまくいかない。判断力は自ら磨くしかあるまい。

「軍学とは、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。」
...「ナポレオン言行録」より...


2. 真実と真理
歴史の考察では、主観をいかに排除するかを問題にすることが多い。だが、この考えに少々疑問がある。人間の思考は、主観性が強い分、客観性に固執するぐらいで均衡がとれるのかもしれないが。
そもそも、客観的に語ると宣言して、そうだったためしがない。真の客観性を求めるならば、数学の公理のような表現しかできないはず。一般的に語られる客観性とは、業界の慣習や主観の多数決に従っているに過ぎない。それに、完全に主観を排除すれば、歴史学者の思考を放棄したことになりはしないか?単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできないのだから。歴史事象の原因性は、深い思考の試みがなければ解釈できない。一方、客観性に支配されると言われる科学の分野では、科学者が完全に主観を排除して思考しているわけではない。科学の進歩は天才たちの直観に頼ってきたところが大きい。直観は極めて主観に近い領域にある。したがって、主観と客観の按配こそ、歴史学者の腕の見せ所と言えよう。
歴史事象は社会現象の一つであって、その本質を解明することは難しい。現象は、偶然性に左右され、そこにはノイズが紛れ込む。ノイズを拾って結論付ければ誤謬が生じる。おまけに、時代に生きる権力者たちの都合で、その解釈も政治的に改竄されてきた。また、歴史事象の善悪にも複雑な事情がある。人間精神の表象は単なる認識現象であって、善悪は個人の感情に支配される。古来、善悪の規準は多数決によって運営されてきた。そして、善悪の規準は時代とともに変化してきた。つまり、絶対的な善悪の規準は不明のままだ。人間精神は、それが真であるという理由だけで、いかなる感情も抑制できるものではない。感情を抑制できるものは、個人の持つ理念や理性のみである。そこで、歴史には、現実的な手段としての先人たちの経験が蓄えられる。したがって、あらゆる学問は、歴史を無視しては成り立たないはず。もし、経験によって人類が成長するならば、時代によって歴史解釈が変化するのも道理というものである。
真実は一つ!、真理は一つ!とはよく聞く台詞である。しかし、それは本当だろうか?人類は、いまだ絶対的な認識能力を獲得できないでいる。いまだ絶対的な価値観に到達できないでいる。真実や真理が存在するとしても、相対的な認識から、絶対的な価値観とも言えるものに迫ることなどできるのか?真実や真理が認識できなければ、人間にとって意味がないのではないのか?ならば、様々な方法で歴史解釈がなされるのも仕方があるまい。にもかかわらず、教育者たちは歴史認識を強制しやがる。誰よりも認識能力が高いと自慢するかのように。そもそも、そこに、真実なんてものは、真理なんてものは、存在しないのかもしれない。

3. 批判的な態度の有効性
クラウゼヴィッツは、その著書「戦争論」の中で、批判的考察の有効性を説いている。単なる事象の指摘よりは、批判的な立場をとることで、もう一歩踏み込んだ思考に達するということであろう。確かに、批判的叙述には知的活動が現れる。ここで言う批判には、賞讃と批難の両面を含みたい。批判的考察では、実際に採用された手段ばかりか、採用されなかった手段も検討することになる。反対するだけでは思考停止状態となるが、代替案を提示することを前提としたい。
歴史事象は事実であるが、それが単なる現象なのか原因性を内包しているのかを判別することは難しい。例えば、ローマ帝国の衰亡をどこに求めるかは見解の分かれるところであろう。歴史教育では、異民族の侵入、特にゲルマン民族の移動が原因であると教える。しかし、タキトゥスの批判的叙述を読めば、既に元老院が機能しなくなり、ローマ帝国の腐敗が共和制の崩壊とともに、既に毒されていたことが想像できる。つまり、異民族の侵入は現象であって、その根底の原因はローマ帝国の内政問題と捉えることもできるわけだ。
はたまた、真珠湾攻撃に目を向けると、文化人類学者ルース・ベネディクトの分析はおもしろい。日本人が日露戦争で見せた態度には、ロシア軍人と互いに勇敢さを称える武士道精神があるが、太平洋戦争では、鬼畜米英という強烈な反米思想によって奇襲攻撃という卑劣な行為に至ったと。これは「汚名をそそぐ」ためならばなんでもありという日本式倫理観からくるもので、忠臣蔵と重ねながら、ポーツマス条約と海軍軍縮条約に果たしたアメリカの役割に対する恨みと分析している。しかし、民主国家では戦争を仕掛ける時は繊細な神経を使う。名目がない、正義がない戦争は世論が許さない。となれば、先に叩かせるのが手っ取り早い。なるほど、立場が違えば、様々な解釈ができるというわけか。
いずれにせよ、歴史解釈は難しいわけだが、一般的な解釈に対して、自らの解釈を持つように心掛けたい。とはいっても、酔っ払った天の邪鬼は、捻くれた解釈しかできないわけだが。

4. 天皇と系譜
時々、天皇の系譜で政治家たちが論争するのを見かけるが、これがよく分からん!どうせ、ひいきにしている専門家の入れ知恵、あるいは支持母体の圧力的解釈であろうが。
遡ること南北朝時代。建武の新政で失敗した後醍醐天皇を吉野へ追いやり、足利家は光明天皇を即位させた。これで皇位継承争いは、吉野の南朝と京都の北朝で分裂する。この時、北朝方が示した「三種の神器」は偽物だっとかいう噂もある。
ところで、よく分からんのが明治天皇の即位をめぐる議論である。明治時代、南北朝正閏論を収拾するために、系譜から南北朝時代の北朝方の天皇を外し、南朝方の天皇を認めた。南朝を復権させたということは、南朝こそ正統な継承者ということになりそうだ。だが、明治天皇は北朝の末裔だったという論調もある。建前は南朝なのか?南朝方が正統となれば、北朝方を即位させた足利氏は逆賊ということになる。こうした議論も、水戸藩が示した「大日本史」の影響があるようだ。徳川家からすると、足利家を逆賊扱いする方が、都合が良いのかもしれない。民衆が徳川幕府への不満を洩らす時に、足利家を代役にして皮肉るといった世評も現れるわけだ。そういう家康は、官職を得るために、藤原氏を名乗ったり、源氏を名乗ったりと忙しいことよ。征夷大将軍の地位を得るには源氏を名乗らなければならないわけだが、どっちが源氏の嫡流なのやら。主流派も反主流派も時勢によって、どうにでも解釈できるというわけか。秀吉が関白職を得るために藤原氏を名乗るなど、権力者の系譜はなんでもありか。なるほど、系譜を人類の発祥まで遡れば、どのように名乗ろうが大して不都合はないという証左である。
将軍家と天皇家の系譜を同列に扱うことはできないだろうが、実権を握る当人にせよ、それを利用する者にせよ、権力者の系譜というものは、政治利用されてきた歴史があるから当てにはできない。

2009-12-16

もしも、アル中ハイマーな法学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな法学者がいたら...だめだこりゃ!

「法律とは誰のためにあるのか?」
アル中ハイマーはドスの利いた声で、いかにもダーティハリーが吐きそうな台詞を返すのであった。
「法律なんてものは、都合が悪くなった人間が利用するためにあるのさ!」


1. 条文の不完全性
法律は条文で構成される。条文は言語で構築される。精神を人間が発明した言語で規定できるとすれば、人間は精神を完璧に解明できたことになる。したがって、法律に欠陥があるのは当然である。法が道徳を構築できるのか?法ができることと言ったら、せいぜい行き過ぎた欲望を抑えるぐらいであろう。法は、人間社会で理性が構築できないために、人間が考案した実践的な手段である。憲法に矛盾する法律が山ほどあるのは、条文の限界に対する応急処置なのか?法律が、社会秩序を守るための最後の砦であることに疑いがない。だが、現実には業界に支配された法律が続々と生み出される。どうみても、政界との癒着がなければ説明できないほどに。したがって、法律を言い訳に保身に走るということは、最も理性を失った行為と言えよう。しかも、立法権を持つ政治家たちが、いつも法律を楯にするとは、最悪の人種ということになろう。
アメリカ合衆国憲法は、あらゆる独裁者の出現を拒むように考慮されている。だが、数学者ゲーデルはその弱点を指摘した。かつて、世界で最も進んだ憲法と言われたワイマール憲法は一人の独裁者によって廃れた。しかも、ヒトラーはワイマール憲法に従って政権についている。つまり、合法的に独裁者を生んだわけだ。歴史的には「全権委任法」を議会で可決させたことでワイマール憲法は死んだとされる。そう、論理学には、一つの全否定によって全ての論理を否定するという恐ろしい技がある。
どんなに論理を整備しても、そこに不完全性が紛れ込むとすれば、法は成文法ではなく慣習法であることを認識すべきであろう。どんな組織にも、事実上反故にした規定がゴロゴロしている。人間が草案するもので、完璧な論理に従ったドキュメントなんて存在するはずがない。そもそも、人間は普遍恒久的な価値観に到達していない。永遠に到達できるとも思えないが。神は、人間を永遠に退屈にはさせてくれないようだ。したがって、あらゆる条文を生きたものにしたければ、常に検証を怠らないことである。

「身代わりを用意してある...黒幕だ!幽霊のまったくの架空の人物さ!書類上でしか存在しない。法には抜け道がある。黒幕君には出生証明も免許もある。当局は幽霊を追い回すって寸法さ...」
...映画「ショーシャンクの空に」より...


2. 法律が命令するもの
「法律は誰のためにあるのか?」と問えば、一般的には「国民のため」と答えるであろう。だが、法律には人々の行動規範が定められる。つまり、国家権力が人々に命令している。となると、国家権力を縛る仕掛けも必要であろう。それが憲法ということになろうか。だが、政治家は、憲法と明らかに矛盾するような法律を続々と誕生させる。銀行法は銀行に命令する。民法は国民に命令する。ちょっと変わったところでは、刑法には刑罰があっても犯罪を禁じているわけではない。なるほど、脅し文句か!いや、どうやら刑法は、裁判官に命令するもののようだ。裁判官の裁量で勝手に刑罰を決めることができないというわけだ。となると、刑事裁判で裁かれるのは、被告ではなく検察官ということになりそうだ。つまり、求刑するからには、その証拠が検証されなければならない。証拠の正当性が認められてはじめて、被告人に罪状が与えられるだけのこと。検察官は警察という行政権力の代理人というわけか。ここには、人生観や感情は一切排除されるはずだが、有罪率99%という数字が際立つ。この数字は、公平性よりも国家権力の面子を優先した結果なのか?
裁判の場は、真相を暴く所でなければならないと考える人も多いだろう。だが、現実には真相なんてどうでもよく、検察官と弁護人の弁論大会となる。そして、民衆は「遠山の金さん」のように公明正大な存在者を求める。だが、ちょっと考えてみると、自ら証拠集めをし自ら判決を下すのは、神を自覚しているようなものである。こんな独裁的な存在を民衆がヒーロー扱いするのは、一般的に裁判の公平性に疑いを持っている証でもあろう。政治の根本原理は公平性の構築にある。法律や裁判はその手段に過ぎない。主権国家である以上、国民の生命を守るという義務を背負う。そうでなければ、税金を払う義務もない。命令ばかりして義務を果たさない国家に存続する意味はない。
人間は過ちを犯しながら生きている。法律は過ちを認識するための一つの基準に過ぎない。そして、刑に服せば、すべての過ちはチャラになると解釈される。したがって、法律を言い訳にしながら生きている人間は、強制力や権威力に従うだけで、自主的に過ちを認識できないということになろう。

3. 選挙制度の懐疑
多数決が民主主義の絶対的なシステムではない。だが、効率的で現実的な手段である。となれば、民主主義を機能させるために、選挙制度は常に検証され続けなければならないはず。にもかかわらず、訳の分からん仕掛けが何十年も亡霊のように居座り続ける。
摩訶不思議な存在に、国政選挙で行われる最高裁の国民審査がある。投票用紙に×印を書かなければ、自動的に信任されるとは、これいかに?そもそも罷免された例があるのか?信任方向にバイアスがかかる仕組みが、民主主義のシステムだとは到底思えない。いまや、三権分立が機能していると信じる人も少数派であろう。社会の反抗分子としては、全て×印を書いたものだが、最近ではネット情報で判決状況が容易に分かるのはありがたい。インターネットというメディアが一般の報道機関を補完する役目を担っているのも事実である。
また、選挙区の規模に目を向けると、国政選挙は小さな地方選挙の規模に過ぎない。だから、地元への癒着が強すぎて国政を疎かにするのであろう。しかも、当選回数が多ければ、政党の中で次第に権力を増し、ついには派閥の親分や大臣になったりする。その人の支持率が全国的にどんなに低くても、地元の支持者だけで当選する仕掛けがある。しかも、選挙の勝敗の基準も彼らの主観に委ねられる。そして、ふんずり返る連中ばかり集まり、政界は困ったちゃんの世界となる。
知事選の方がはるかに多い得票数で選ばれるのだから、知事の方が権威があってもよさそうなものだが。比例名簿に順位をつけることがまともなのか?比例区と選挙区の割合の根拠もよく分からん。はたまた、一票の格差が民主主義のシステムとして妥当なのか?などなど...考えれば続々と疑問がわいてくる。まぁ、偉い人たちが決めたんだから、間違いはないだろう。なにしろ、選挙制度を国会が決めるということは、刑法を泥棒が決めているようなものだから。
いまや、選挙制度に寄生する国会議員が多過ぎる!国会議員に権威を与える意味でも、議員数を思いっきり減らすしかあるまい。選挙が民主主義を機能させるための根幹的システムであるとするならば、その仕組みの公平性は常に検証されなければならない。にもかかわらず、政党論争にかかわる情報は氾濫しても、選挙システムそのものの欠陥を指摘する情報があまりにも少ないのはなぜか?なるほど、民主主義のシステムを話題にしたところで、ワイドショーとしては成り立たんというわけか。

4. 有罪率99%の脅威
裁判官は、検察官を監視するという機能を本当に果たしているのだろうか?あちこちで取り上げられる有罪率99%というのは、考えてみれば恐ろしい数字である。そのうち冤罪率は?と問うたところで答えがあろうはずもない。あっても揉み消されるのがオチだ。この数字からして、無罪の人が有罪判決を下された可能性を想像すると、かなり高い確率になるだろう。更に、この数字が前提となれば、恐ろしいことになる。推定無罪という裁判の基本原則は推定有罪として機能する。無罪の人でも、この数字を恐れて有罪を認め、少しでも刑を軽くしようと現実的に取引するケースもあるだろう。警察に脅されて妥協するかもしれない。それでも頑強に無罪を主張すれば、逆に反省がないと悪い印象を与えて重い刑が下されることもあろう。最大の問題は、冤罪が存在するということは真犯人を野放しにすることを意味することである。「真実は神のみぞ知る!」というのも嘘っぱちだ。少なくとも裁かれる人間は知っている。
ところで、量刑相場ってものがあるのだろうか?求刑よりも重刑になった例もあるが、なんとなく求刑の8掛けといった具合で決まるように見えるのは気のせいか?裁判官の量刑は、検察官の求刑に一切影響を受けないのが建前であろうが、検察寄りであるという印象は拭えない。エリートたちの心理には、庶民に欺かれることを極端に嫌う傾向があるのだろう。

5. 裁判員制度の是非
裁判員制度が始まったが、その是非をめぐってはいまだに論争が尽きない。ただ、どちらの意見もしっくりとしない。
反対派は、有罪率99%をどのように捉えているのだろうか?裁判は、検察官の証拠を検証する場である。そして、法律によって、不正な判決を下さないように裁判官が監視される。だが、しばしば、人間観を疑うようなとんでもない判決を目にする。裁判は、人間社会における人間行動を裁く場であって、社会的認識が必要となろう。となれば、人間社会の認識にプロも素人もないだろうに。法律のプロとは、それを施行するための手続きのプロに過ぎない。反対派の意見は、どうみても裁判官と検察官の癒着構造を隠蔽するための論理にしか聞こえない。
まだしも、賛成派の意見の方がまともに見える。一般の人々に裁判を通して、社会認識を持たせようというのは、それなりに意味がありそうだ。民衆が裁判を監視するという意味でも、役立つ可能性がある。それならばなぜ?いきなり凶悪犯罪を対象とするのか?民衆の習慣として根付いているわけでもないのに。CGなどを駆使してビジュアル化し、複雑な事実関係や証拠を分かりやすくするということは、情報を加工していることを意味する。一審で有罪となり、高裁や最高裁あるいは再審で逆転無罪となった場合、有罪を言い渡してしまった裁判員経験者の中には、一人の人生に取り返しの付かないことをしたと、良心の呵責に苛まれる人もでてくるだろう。まず、社会的風潮として論理的思考に慣れる必要がある。毎日マスコミの論調を目にしていては、それも難しいだろうが。
ところで、裁判員制度の対象となるかどうかは、どうやって決められるのか?最初から裁判の形勢が決したものだけが選別されるような、そこになんらかの思惑が感じられるのは気のせいか?酔っ払った社会の反抗分子には、いつも疑いの目が付きまとう。この制度が失敗すれば、反対派の餌食になるだけだ。裁判の民主化と言えば聞こえもいいが、言葉でイメージ付けて欺瞞するのは官僚たちの得意技である。いずれの意見も、偉い人の考える社会的感覚にはついていけない。どんな制度も用い方しだいで善にも悪にもなろう。
ちなみに、凶悪犯罪の基準も警察と法務省でも事情が違うようだ。警察では、殺人、強盗、強姦、放火といったもので、法務省では、殺人と強盗だけといった違いがあるらしい。法務省の定義では、命が助かればだいたいOKってか。警察も、10年もすればチャラになるってか。どちらも、「すべて忘れて、ポジティブに生きようぜ!」ってなわけか。いずれにせよ、「他人が死んでも構わない!」という行為は、「自分が殺されても構わない!」を意味する。

6. 認識能力の実践
神学は道徳を規定する手段である。法学は法律によって道徳を実践する手段である。人間社会は、実践的に道徳を規定するが、いずれも強制力によって方向性を示しているに過ぎない。自律を欠いたところに、真の価値観を得ることはできないだろう。あらゆる抗争には排他論理がある。平和的な抗争が議論だとすれば、非平和的な抗争が戦争ということになる。もし、相手の存在を認め、共存の原理が働くとしたら、もはや沈黙するしかなくなるであろう。などと言えば、教育そのものが成り立たなくなりそうだ。では、理性が構築されるまで、大人が子供に思考を押し付けることになるのか?では、いつ理性が構築されたと判断するのか?それが一人前というやつか?人間は永遠に一人前になれそうにない。
物事の存在意義は、なんらかの目的を見出せた時に、その価値があると認識される。もし、人間の幸福が最高の目的だとすれば、人間の存在を宇宙創造の究極目的として前提されなければなるまい。だが、宇宙原理に絶対的な価値があるとしても、それが人間の幸福とは到底思えない。もしかしたら、カント的ア・プリオリな認識によって、人間の存在価値を認めることができるのかもしれない。天才たちに自殺する例が多いというのも、彼らがその価値観に到達した証であろうか?

2009-12-13

もしも、泥酔したイデオロギー論者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、泥酔したイデオロギー論者がいたら...だめだこりゃ!

カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに」

イデオロギーとは、理論が巧妙に宗教レベルにまで到達した状態を言う。

1. 迷走するイデオロギー論争
イデオロギー論争は、人間社会という複雑系と対峙しながら、破壊のカオスの中でうごめく。しかし、無謀な体系化で満足するよりは、迷走していることを認識できる方が都合がよい。世界を一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えないのだから。
資本主義の発達は、人間社会を富ませてきた。富は人間を盲目にするのか?科学界は物理法則に不確定な現象があることを発見した。解析不能とはいっても、確率論という道具を用いて計測しようと努力を続けている。数学界は算術の世界ですら不完全性に見舞われることを認めた。多くの微分方程式が解けないと認めつつも、極限に近づくことを諦めたわけではない。ニュートン力学が通用しなくなったからといって、ニュートンを蔑む量子論学者はいないだろう。ユークリッド空間が通用しなくなったからといって、ユークリッドを蔑むトポロジー学者はいないだろう。
ところが、イデオロギーってやつは、絶対に自らの立場が正しいという態度を崩そうとはしない。経済学では、相変わらず「神の見えざる御手」の信奉者と、ピラミッド造りすら容認する連中との間で、論争を繰り返す。これは、大して政策の違わない政治家同士の罵りあいにも通ずる。相変わらず、イデオロギー信奉者は過去の偉大な政治思想家や経済学者を罵りあう。自由放任思想は、貴族制や伝統主義に対する反発として生まれた。ケインズ思想には、市場経済の暴走がその背景にある。どんな思想にしても、時代背景を反発エネルギーとしなければ登場を見なかったであろう。最大の問題は、思想を崇めすぎるために歴史的背景という原因性を無視することにある。社会を良くするために考案された政治という人類の産物は、しばしば社会に悪しき作用を及ぼす。資金の流れを良くするために立案された経済政策は、リスクの高い場所から刺激が始まり、人間の欲望という領域を潤す。だが、政策の刺激が末端まで到達する前に、景気は下降局面を迎える。これが経済サイクルというものだ。規制と緩和はバランスしなければ受け入れ難い不平等を助長する。GDPのような経済成長の指標は、あくまでも総合指数に過ぎない。平均値のみが判断の基準となれば、社会現象そのものの分析を諦めたことになる。そして、結果的に社会不安を煽り、ますます社会は歪むであろう。人間社会は、いまだに自由と平等の概念が共存できないでいる。イデオロギーが胡散臭いのは、共存できることに気づかないからであろう。もし、人類が自然法則を受け入れるならば、時間はかかるだろうが、いずれ収束するであろう。それは「臨機応変」という新概念へと。

2. 資本主義の悪評
どんな政治体制であれ、その弱点を露呈すれば、旧体制を懐かしむ動きが生じる。せっかく民主化したにもかかわらず、一部の権力層の横暴な振る舞いが横行すれば、かつての独裁政権にすら郷愁を馳せる。ノーベル賞級のスーパースター集団による資本主義の醜態を目の当たりにすれば、東欧諸国で資本主義の悪評が広まるのも仕方がなかろう。社会主義体制にあって、民主化を掲げた改革派の政治家たちが、瞬時に財産を海外に持ち出したという噂は絶えない。これは民主化を偽った陰謀なのか?資本主義体制と社会主義体制の二大勢力がひしめく中、旧ソ連体制が崩壊すると資本主義が勝利したかに見えた。資本主義の恩恵である市場経済が、自由主義との組み合わせで発展してきたのは事実である。しかし、現在では市場経済の破綻が、一部の投機家によって引き起こされる脆さを露呈する。今になって、市場経済の暴走を抑制する手段で、マルクスや社会主義が見直されるとは、なんとも皮肉である。最大の問題は、どんな政治体制であれ、長期化の課程で、一部の既得権益者が蔓延り、彼らに搾取される仕組みを排除することが難しいことにある。搾取という意味では、資本家も共産主義者も似たようなものだ。これは、欲望という人間の持つ本質が絡む現象であり、どんな組織にも見られる。権力層に近い人間ほど、脂ぎった欲望や野望に飢えている。いつの時代でも、労働者階級は苦しめられる運命にあるようだ。自由も平等も人間の持つ本質であって、どちらも疎かにはできない。自由を崇めれば市場経済を暴走させ、平等を崇めれば官僚体質で腐敗する。人類の歴史は、資本主義と社会主義の双方の弱点を見事に再現してきた。
にもかかわらず、いまだに政治家たちはイデオロギー論争を繰り返す。まるで宗教論争のように互いの弱点を罵りあい、これを報道屋が煽るという構図からは逃れられない。欲望も理性的抑制も、人間の持つ本質である。おそらく、欲望という本質を認めながら、現実的に規制するしかないのだろう。いまだに人類はこの程度の価値観にしか到達できないでいる。

3. 民主主義と独裁主義
民主主義は、行動力の鈍い面倒なシステムである。なにしろ、民衆が政治権力を監視しなければならないシステムであるから。監視するからには情報の透明性が前提条件になるはず。となれば、政府や行政が情報を隠蔽すれば、どうにでも操れる仕組みとも言えるわけだ。
民主主義とは、民衆から選ばれた凡庸な人間によって、政治運営される仕組みである。独裁主義とは、自ら天才と信じる凡庸な人間、あるいは、宗教的に崇められた凡庸な人間によって、わがままに政治運営される仕組みである。どちらを選ぶかは好みの分かれるところであろう。少なくとも、悪しき方向に急激に振れないという意味では、民主主義の方がましである。しかし、政権交代がない、あるいは政権交代したところで癒着体質から脱することができないとなれば、独裁官僚制をますます強固にし、もはや民主主義が機能しているとは言えまい。いや、優柔不断な政治家よりも、優秀な官僚に任せる方がましなのかもしれない。政権が交代すれば、エリート官僚も総入れ替えするぐらでなければ、癒着を断ち切ることはできないだろう。エリート官僚たちは自らの存在感を強調するために、政権交代に影響しない中立の立場というもっともらしい弁明をする。言い換えれば、選挙で選ばれた議員に影響されることなく、民意を無視すると宣言しているようなものである。国会議員が民衆の代表であるならば、彼らは反目しあっている場合ではなかろう。

4. 共産主義の解釈
酔っ払いが解釈する共産主義とは、すべて平等で、すべての国民を幸せにしてくれる思想といったところだろうか。ひらたく言えば、「みんなの社会」にするということである。そのためには、あらゆる私有財産を没収する。私的所有の概念をすべて排除する。つまり、欲望という人間の持つ本質までも否定する。下手すると、個性をも否定しかねない。この仕掛けの矛盾は、欲望を捨てきれない脂ぎった人間によって運営されることである。そして、あらゆる裏工作がなされ、長期化するほど腐敗し、硬直した巨大官僚組織となりやすい。あなたのものは、みんなのもの!みんなのものは、権力者のもの!すべての借金は揉み消され、泥棒の概念すらなくなる。したがって、巨大官僚体制の下で堂々と、しかも合法的に搾取されるわけだ。あれ?ごく身近な国に似ていると思うのは気のせいか?強靭な理性の持ち主と自負する人々が権力の中枢に居座るからこそ、平気で搾取が実施される。しかも、彼らはすべて民衆のためだと、本気で信じている。猛烈な平和主義者が理想を崇めて戦争を招きいれるように、現実を直視しなければ悲劇となる。おそらく神様が運営すれば、素晴らしく機能する体制であろう。まだしも、人間の持つ本質を認めた資本主義の方が現実的と言えそうだ。酔っ払いの共産主義の解釈とは、所詮この程度のものである。
マルクス主義には、テキストの解釈権を党が独占したという経緯がある。これを、マルクス自身が意図したかどうかは知らん!どこぞの教会のように、恣意的に解釈されることを拒むような思想が、まともとは思えない。社会学者ヴェーバーの著書によると、マルクス主義を批判した文面が見受けられる。だが、大塚久雄氏は、マルクスとヴェーバーの類似点に着目して、むしろ批判の対象をドイツ社会民主党であると解釈していた。我が国で言えば、旧社会党系や共産党系といったところだろうか。こういう諸派も極少数派で存在する分には、資本主義を見直す意味でも、それなりに役立つのかもしれない。だが、旧社会党系には、かつての主流派にぶら下がり、一党の独走を許し、ことごとく連立政権を邪魔してきた経緯がある。今も変わらんかぁ。
よくマルクス・レーニン主義と呼ばれるが、マルクスとレーニンが同じことを主張していたのかも疑わしい。ロシア革命をマルクスの「資本論」の立場で見るのは頑固な態度のように映る。少なくとも、マルクスをボリシェヴィキと一緒に葬り去るべきではなかろう。それにしても、ロシアの代々の政治家たちの歴史評価はよく変わるものだ。ニコライ2世は、後に聖ニコライとなった。かつて父であり教師であったスターリンは、血なまぐさい怪物となった。聖者レーニンも、血なまぐさい噂は絶えない。ノーベル平和賞を受賞したからといって、後に歴史評価がどう変わるか分からない。
マルクスが、マルクス主義者によって悪者に仕立てられたのは、皮肉としか言いようがない。優れた思想にありがちな展開だ。創始者がどんなに天才であっても、その思想は凡人によって継承される運命にある。おそらく、あのナザレの大工のせがれは、噂されるほどの偉大な人物だったに違いない。お釈迦様が気の毒なのは、仏像として拝まれることである。あの偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。
世界恐慌の時代にも、共産主義がもてはやされた。というより、他人の家は良く見えるものだ。どんな社会でも巨大化すれば疎外を感じるであろう。疎外は、むしろ人口論とのかかわりが深い。哲学で疎外というと、やりきれない!自我の喪失!といった印象を与える。それが、資本主義から人間性が失われると解釈され、人間性を取り戻す意味での社会主義が生起し、その発展型が共産主義から全体主義となり、ついには完全に人間性を失うというわけか。

2009-12-09

もしも、アル中ハイマーな政治学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな政治学者がいたら...だめだこりゃ!

政治とは、規制という道具を巧みに用いて、無理やり政治屋たちの存在感を強調する仕組みである。したがって、政治屋の目立つ世の中は、ろくなもんじゃない!

1. 脂ぎった奴らと草食系
世間は、官僚組織を悪魔のように批難する。その通りであろう。だが、その行政をマネジメントできない政治家たちが同じ発言をするということは、もはや自らの存在意義を否定していることになる。彼らは、政党間の罵りあいが、自らの無能さを暴露しているということに気づかないのだろうか?そのくせ、政党間の選挙協力という約束事に縛られて、肝心な政治判断は先送りされる。彼らが重んじる義理人情とは、民衆への義務を反古にすることであり、脂ぎった奴らの仲間意識である。おまけに、政治家に群がる一部の国民と共謀して、公共施設に自らの名前をつけて自慢する。これを私物化と言わずになんと言う?彼らには、どんなに傲慢なことをしても、必ず付け加える言葉がある。「謙虚に!真摯に受け止める!」論理学の全否定とも言える構文だ。酔っ払いには日本語の論理がよく分からん!おそらく、日本語でプログラミングしたら暴走するだろう。
普段ふんずりかえる連中が、選挙直前になると土下座までする。その醜さは目を覆いたくなる。したがって、政治報道はR-18指定するがよかろう。なるほど、討論番組は、青少年に配慮して深夜に放送されるわけか。
また、脂ぎった欲望に満ちた政治屋や報道屋は、草食系を消費に消極的で、婚活に励まないとして、不景気や少子化問題と結びつけながら、社会の害虫のように捲くし立てる。脂ぎった連中は、自ら持つ欲望や野望以外の価値観を理解できないでいる。しかし、政治屋や報道屋の態度を眺めれば、草食系はそれを反面教師にした価値観とも言えよう。草食系と呼ばれる人種が現れたのは、なにも今に始まったわけではない。いつの時代でも、権力者に呆れた知識層から生じる現象であって、古くからニヒリズムや哲学的思想と結びついてきた。ニーチェ風に言えば、政治屋と報道屋は「余計な人々」というわけだ。

2. 政治力とは情報力に他ならない
日本の政治が三流と言われる要因の一つに外交力を挙げる人も多いだろう。情報力がなければ、外交力も失われるのは当然である。スパイ天国日本、情報漏洩で同盟国にすら信用されない日本、伝統的に情報音痴な日本、こんな国に自立を求めるのは無理な話である。憲法によって軍事的に制約を受けるのであれば、情報力で凌駕したらどうか。なにも強力な武器を保有することだけが防衛力の強化とはならない。どんなに立派な武器を備えても情報力が乏しければ、ものの役には立たないのだから。核を保有したところで実際に使用すれば、国家の権威を失墜させ、その指導者は人類共通の敵となろう。そのリスクを背負うことができるのは、狂乱者ぐらいなものだ。核の本質は抑止力であって、事実上の戦闘には使えない。となれば、経済力を圧迫するだけの存在でしかない。核の最大の脅威は、売買によってテロリズムと結びつくことであろう。
我が国には、専守防衛という概念がある。だが、現実には、本土侵略でもない限り、何をされても攻撃とは見なせないであろう。それは歴史を背負っているからであり、専守防衛は事実上の戦闘放棄となる。となれば、情報力はますます重要な位置付けにあるはず。現実に、我が国は、拉致問題によって、少数の犠牲ならば基本的人権すら放棄することを示した。しかも、民主国家としての誇りも放棄したかにように映る。なぜ?独裁政権との国交正常化を急がなければならないのか?そもそも民主国家が独裁国家を容認できるのか?守るべきは、国家体制ではなく、民主主義ではないのか?独裁政権と仲良くするよりも、相手国の民衆運動と結びつく方が、民主国家としは健全であろう。
冷戦構造が終結して平和の時代が来るかと思えば、前にもまして、ナショナリズム、地域紛争、宗教的狂信、資源帝国主義、核拡散など、危険な時代へと突入する。各国は国家存亡のために、諜報活動をますます強化する。ちなみに、超一流の諜報機関が予測したことは絶対に当たる。そりゃそうだろう。どこかで何年後に、紛争があると予測すれば、そうなるように仕組むだけのこと。明日誰かが死ぬと予測すれば、殺せばええだけのこと。彼らは面子にかけても仕掛けてくる。
諜報活動は、軍事面のみに留まらず外交戦略、経済戦略にも大きな影響を与える。それにしても、不思議なのは、日本には卓越した諜報機関がないにもかかわらず、世界二位までの経済大国になったことである。国家戦略とは別に、民間企業が個々に成長できたのはなぜか?それは民間企業が独自に情報収集してきた結果であろう。かつて、日本の総合商社は諜報機関の役割を果たしてきた。それは、企業としての生存競争の中で危機感を持っていた証である。日本政府は、経済発展は民間企業に任せ、軍事はアメリカに頼り、外交は形だけでやってきた。もし、経済大国の上に一流の諜報機関まで持てば脅威となろう。アメリカにとっては情報依存してくれるのはありがたいはず。都合の良い情報を与えておけば、それだけで日本をコントロールできるのだから。
日本が国連で存在感が薄いとなれば、まるで機嫌を取るかのように金をばらまく。借金大国の上にこれだけの不況!たまには、国連への資金提供を半分に減額するぐらいのことを発言してもいいのではないのか?政治家や官僚は、なにかと世界援助という名目で金をばらまくが、財政赤字とはこれいかに?日本には、友好的な国があっても、おそらく友好的な諜報機関は存在しないだろう。日本政府は各国の諜報機関に対してノーガード戦法で挑んでいる。軍事力となると目先の兵器ばかりに目を奪われるが、それ以上に重要なのが一流の情報力であることは、歴史的にも学んできたはずだが。

3. 幻想の平和論
世界は平和ではない。世界中を見渡せば、どこかで戦争や紛争が起こり続ける。戦争や紛争のない時代を探せば、原始時代まで遡らないと見当たらない。平和を謳歌しているのは、日本をはじめとする特定の地域のみ。しかも、日本は自力で平和を勝ち取ったわけではない。だから、アメリカの軍事力を後ろ盾に幻想の平和論で盛り上がるのだろう。平和国家であることを自慢しながら、ますます自己イメージを膨らませるかのように。
冷戦構造時代では、まだしも大国の圧力が暗黙の監視役となっていた。現在では、テロがどこで起こっても不思議はない。核は拡散し、偶発的に核戦争を招く可能性がある。状況は、過去にもまして脅威になったと言えよう。たとえ小規模な紛争であっても、大規模な悲劇を招く可能性がある。
また、脅威は戦争だけではない。むしろ経済危機による人為的脅威の方が大きいかもしれない。近代戦では、軍事行動だけとは限らず、心理的に仕掛けてくる。戦闘前から、国民の意志をくじくような、陰険で周到なプロパガンダ攻撃を受けることもある。民族紛争には、世界世論を味方に付けようとする巧みなメディア戦争の色が濃い。紛争がある度に、PR企業が繁盛するわけだ。どこの国にも売国奴がいる。その行為にジャーナリストや識者たち自身が気づかない。彼らは、自由や平和という美しい言葉で心を癒す。しかし、それを実践するには、それなりの覚悟がいることには目を背ける。高度な情報社会では、報道屋の扇動に負けずに、自分で考えることの難しさがある。

4. 世界の警察力
冷戦構造が終結し、アメリカは自らの理念に従い、強大な軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認する。そして、あらゆる紛争に自主的に介入してきた。その理想主義はある意味美しい。だが、警察行動は公平性を欠くと説得力を失う。情報を隠蔽し、警察行動が世論操作されるならば、もはや正義の旗はお飾りでしかない。見事なプロパガンダ技術で司法の判断までも世論に流されれば、それだけで世界を支配できる。人間の持つ美しい理想主義は、いずれ暴走する性格を持っている。アメリカは、国家戦略の中で、あらゆる手段を使って、特定の国に疑いをかけて裁いてきた。そして、同時に汚点も残してきた。国際裁判で有罪を下すからには、論理的な説明をする義務がある。これは、国際法から個人を裁くものまで全て同じである。そうでなければ誰が警察行動を信用できようか。証拠なしで仕掛ける軍事行動は、もはや警察行動ではなく、侵略戦争である。おまけに、充分な検証なしで、一国の軍事行動を無条件に支持することは無責任であり、もはや同罪である。

5. 「国民」という都合のよい言葉
どこの国でも、政府や高級官僚は嘘をつく。これに彼らは反論するだろう。すべて国益と国民のためだと!彼らが常に口にする「国益」や「国民」とは何を意味するのか?なるほど、彼らもまた国民である。彼らを取り巻く既得権益にぶらさがった連中もまた国民である。「国民」とは、国民を欺瞞するための実に都合のよい言葉である。少なくとも、くだらない陰謀を企てるよりは、国の理性を見せる方が国益というものであろう。
「改革」という言葉にも、なんとなく魅力を感じる。だが、本当に改革する意欲があるかは分からない。いつの時代にも既得権益にしがみつきながら、都合よく制度を決める慣わしがある。制度を変えればなんとなく改革した気分にしてくれるものだ。税金の無駄遣いを撲滅すると叫びながら、相変わらず議員定数が減ることはない。最も簡単な方策ですら手がつけられないでいる。既得権益を固持しながら、名目で欺くことは政治家や官僚の得意技というわけか。改革を実施しようとして急ぎすぎると、逆に中途半端となり、既得権益がゾンビのように復活する隙を与える。官僚体質を改革することは、新規でシステム化するよりも、はるかに困難である。

6. 国債の怪奇
相変わらず、日本政府は巨額な国債を発行し続ける。これだけ乱発すれば、いつかは暴落しそうなものだが。GDP比200%もの累積負債は素人目で見てもヤバいんでないかい?そろそろ新規発行額が一般税収を超えるかも。日本の国債が世界的に評価されないのも当然であろう。政権交代して、国債発行額が増えるとはお笑いだ!そのせいか知らんが?日本の株価の動きが全般的に重い。まさか、国家が市場から制裁を受けるなんてことはないだろうなぁ?今までの国際関係は、国家間の外交によって成り立っていた。特定の国に制裁を与えるにしても、国家レベルや同盟関係で圧力をかける。しかし、これからは国家という枠組みを超えて、巨大マーケティングによる圧力が加わるかもしれない。現実に、国家や国際協調レベルの経済政策が効果を発揮できないでいる。いまや、市場経済は各国政府が協調しても手におえないほど巨大化した。
ところで、国債を発行したからといって誰が購入するのか?不思議でならない。半強制的に民間企業に請け負わせるようなことでもないと説明できない。金融機関に預けた金で、無理やり国債を購入させているようなものか?間接的に民衆の預けたお金で国債を受け負わされているならば、銀行に公的資金が注入されるのも仕方がないのかもしれない。結局、みんなの金は、政府の金というわけか。ある意味、すげーぼったくり国家である。銀行や郵貯や簡保が、巨額の国債を引き受ければ、それだけである程度の金利がもらえる。ちょいと金利を眺めてみると、現在は預金よりも個人向け国債の方が有利である。しかも、名目上は元本保証。あくまでも個人向けなので、銀行が引き受ける金利は上乗せされるのであろう。つまり、銀行は新たな顧客を見つけなくても国債を買っていれば済む、それほどの低金利時代が続いているというわけか?相変わらず政府は、資金運用能力がないにもかかわらず、国債によって巨額な資金を集め続ける。その結果、国の借金を国民に肩代わりさせる構図からは抜け出せないでいる。国債の受け皿を無理やりにでも創出しないと、政府の予算案は簡単に破綻するであろう。なるほど、再び郵貯を「国債消化機関」として復活させたいわけか。そもそも、せっかく民営化した郵政事業の人事に国会議員が口を挟むのも奇妙である。政府と金融機関の癒着は永遠に解消されないわけか。
それにしても、政界には、凡庸な、いや!凡庸未満の酔っ払いには到底理解できない怪奇な現象ばかりで溢れかえっているものだ。国会議事堂が妖怪の館に見える。

7. 地方分権の議論
どんな組織においても、混沌として運営効率が悪くなれば、強烈なリーダーシップを持った指導者の登場が求められる。だが、活力に溢れた指導者に管理されると息苦しいものだ。大組織で民主主義を機能させても、変化は少しずつしか訪れない。しかし、経済破綻に民衆は我慢できない。となれば、改革を急激に望めば、その究極に独裁者の影が映る。そこで、適切な規模で機能する政治が求められる。それが地方分権というものだろう。そこには、地方のことは地方の方が熟知しているという行政の効率化がある。国政が必要ないというわけではない。地方行政と国家行政がバランスされた時に、行政が活気付く。地方分権の議論とは、政治や行政、あるいは経済効率を上げるための、組織規模を論じることであろう。企業で言えば、分社化やグループ化によって経営効率を上げるという意味に似ている。一票の格差是正にも効果があるかもしれない。その延長上に道州制の議論も登場するが、いまいちしっくりとしない。
一つの参考となる政治モデルに、古代ギリシャの都市国家群があるように思う。それは、全ギリシャという共通価値観を前提としながら、いざペルシャのような巨大な外敵が迫れば都市国家群で対処するといった共和的体制である。ただ、論理的思考や哲学的思考が根付かなければ、体制化するのも難しかろう。
日本人には、なにかと中央にお伺いを立てる体質がある。日本は島国なので、目に見えて守られる境界線がないと落ち着かない国民性があるのかもしれない。それは企業体にも見られる。課長や部長クラスが、一つのプロジェクトをクビをかけて潰すような、自分のキャリアを縮めるような、組織の枠組みからはみ出した行動は滅多に見られない。活力のある企業では、そのぐらいの覚悟を持った管理者ほど信頼される。だが、官僚体質に染まった組織では、見事に責任を押し付けられ、注文どおりにクビになる。おそらく、その管理者はクビになって幸せであろう。
権限が委譲されても、肝心なところで中央にぶら下がろうとするのであれば、いつまでたっても分権は実現できない。地方分権を叫ぶならば、独立宣言するぐらいの覚悟が必要であろう。いずれにせよ、霞ヶ関を向いたままでは、実践的な行政ができるわけがない。

8. 「労働組合」という不思議な組織
健康保険、年金、雇用保険、退職金を会社が負担するのだから、雇い主から見れば、優秀なフリーターほど大切にしたいはず。だが、建前ではそうはいかない。正社員を解雇すれば労働組合が黙っていない。それにしても、労働組合とは不思議な存在である。ある会社では、残業を拒否した社員がクビになると、「不当解雇だ!」と叫びながらビラを配って回る連中がいた。だが、遅刻や無断欠勤も多く、そろそろクビになるんじゃない!という噂もあった。そういえば、別のある会社の冗談のような話で、みんなで大笑いした覚えがある。昔々、コンピュータを正常終了させずに、直接電源スィッチを切る女の子がいたそうな。何度注意しても一行に言うことをきかないので、課長さんがコンピュータ使用禁止令を出したそうな。その女の子は労働組合に訴えた。すると、組合の連中が大挙して「男女差別だ!」と叫びながら乗り込んできたという。課長さんは、(小指をたてて)これで会社を辞めました、とさ!
こんな連中と交渉しなきゃならんのかと思うと、出世だけはしたくないと語り合ったものだが、無駄な心配だった。たかだか数百円の組合費だが、こんなことに使われるくらいなら、払いたくないと洩らす人も多い。
平等を訴えるすべての政治家がこの類に属す。労使間のパワーバランスが偏っていた時代には、労働組合の存在意義は大きい。しかし、いまや選挙の道具と化す。「平等」という言葉ですら選挙の道具にされる。労働組合が労使関係の均衡を保つことを主旨とするならば、非正規労働者にこそ必要であろう。労働組合は、相変わらず高度成長期の幻想に憑かれながら、臨時労働者や下請け業者を犠牲にしてまで賃上げ要求をする。一流と呼ばれる企業が、高額な企業年金に固執しながら現役労働者を犠牲にする。おまけに、経営不振ともなると公的資金をたかる。金持ちが国への依存度が高いとは、これが「勝ち組」の正体か?組織への依存度を増せば、隷属的にならざるを得ない。

2009-12-06

もしも、アル中ハイマーな経済学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな経済学者がいたら...だめだこりゃ!

経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師になり下がるであろう。

1. 奇妙な学問
経済学者は最近の出来事の予想が当たると思いっきり自慢する。だが、まったくと言っていいほど経済予測を継続的に当ててきた者はいない。経済学者は占い師か?
経済学は、他の学問に比べ、対象となる範囲が酷く限られる。学生時代、大学の学部で経済学部と商学部が分離されていることに疑問を持ったことがある。経済学部は社会学部経済科ぐらいでええんでないかい、商学部は社会学部経済科の中にある一教科ぐらいでええんでないかい、などと思ったものだ。ちなみに、哲学部なんて聞いたことがない、文学部哲学科ぐらいだろう。電磁気学部なんてものも聞いたことがない、工学部電子工学科には一教科としてある。これも、エントロピー増大の法則にしたがって学問の専門化が進んでいるということだろうか?なるほど、経済学は他の学問よりも形式化だけは早いようだ。ちなみに、経済学を専攻すると利己的になりやすい傾向がある、という統計情報もあると聞く。経済人は勘定に合わぬことはせぬ!というわけか。
あらゆる分野で深さを追求すれば、分化や専門化が進む。それと同時に、知識の縦割れ現象が起こり、総合的視野が失われる。学問の専門化も、その程度に善し悪しがあるのかもしれない。古代のあまり専門化の進んでいない時代には、知識を見渡せる総合的な視野に立つことができたことだろう。ネット社会では、情報が氾濫する分、知識も得やすい。知識が安易に得られる分、生産性も高い。だが、創造性や思考力が高まっているかは疑問である。安易に結論に飛びつけるということは、思考の過程を放棄することにもなる。少なくとも一つのことに熱中できるのは、一部の天才たちに与えられた幸せであろう。凡庸の、いや!凡庸未満の酔っ払いは、知識の縦割れどころか横割れ現象も起こるから困ったものだ。

2. 金融危機と「ウォール害」
米国発の金融危機が叫ばれながら、米国大手の金融系は、すぐに危機以前の水準までに業績が回復した。そして、大幹部たちの巨額な報酬が復活する。彼らは、短期的な利益によって評価されるために、わざわざ高いリスクの戦略を仕掛け、銀行を共倒れさせた。しかし、その後の損失によって責任を問われることがない。その影で、他業種は失業で喘いでいるというのに。この対照的な現象はなんなんだ?
レーガン政権下で銀行の規制緩和が実施されて以来、経済システム自体が金融化した。つまり、金融債権を細かく切り分けして、資金の移動をやりやすくしたわけだ。そして、流通や広告といった間接的な業務に大量な資金が流れ込むようになる。この傾向は、生産一筋で発展してきた資本主義の価値観を再構築したとも言えよう。
ここまでは良しとしても...
問題は、アメリカにおけるレーガン主義の根強さであろうか。あらゆる政府介入を常に悪とする風潮は、どうみても尋常ではない。オバマ政権が目指す公的医療保険制度でさえ、なぜ?そこまで目くじらを立てるのか?しかも、根拠のない反対派議員の発言に民衆が扇動されている状況がある。感情論が蔓延るのは民主主義の宿命か?
生産、流通、販売という経済の基本構造は、実体のないものに価値がシフトしてきた。これは疎外感の発展型か?証券取引所では、巨額な資金が流れるにもかかわらず、肝心な産業への資金が滞る。では、実体のないものは、どのように評価されるのか?ここに人間の欲望が群がり瞬時に価値が乱高下する。世界恐慌時代と原理的には大して変わっていないわけだ。金融系は、相変わらず実体のない金融商品を誕生させる。しかも、その価値やリスクの評価にお墨付きまで与える。実体がないものほど欺きやすいというわけか。物の価値を自然に市場に委ねるのと、とんでもない金融商品を自由に創出するのとではまったく意味が違う。実体のないものが社会で冷静に見直されると、瞬時に暴落する。これは自爆テロか?いや、通りすがりの人までも危険に曝す金融テロだ!「資本の民主化」と言ってしまえば聞こえはいいが、資本の自由化は金融寡占化を増幅する便法というわけか。
ウォール街には、金融危機を促した報酬制度という悪しき習慣が、いまだ健在である。しかも、政府は金融体質改善を迫る前に、公的資金によって真っ先に救済しやがる。ここには、まさしく政府が後ろ盾になった金融支配の構図がある。そもそも、銀行の本来の業務は、決済の仲介業務であるはず。リスク評価を最も冷静に判断できる第三者機関であるはず。いまや、まったく生産性のない業種が、資本主義の中枢を握る。銀行が本来の業務から離れるほど、社会の害になるというわけか。自動車会社が、わざわざ欠陥自動車を販売して、自動車保険の価格を吊り上げているようなものだ。依然として蔓延る旧体質は、新たな金融危機を招くであろう。そして、バブルは繰り返される。投機家たちは、次のバブルの機会を狙ってなりを潜める。経済の目的は、物の価値を正当な値で安定させることにあるはず。市場や流通の活性化は、その手段に過ぎない。一時的に市場が活気付いたところで、将来へ混乱を先送りするのであれば、むしろ害は倍化するであろう。

3. 空虚と価値
正当な株価は存在するのだろうか?株価は未来予想を含んだ企業価値で評価される。では、未来とはいつか?10分後か?明日か?1年後か?10年後か?もしかしたら、100年後を予想する投資家もいるかもしれない。現在の株価が妥当するかどうかは、投資戦略によって見方も変わろう。にもかかわらず、エコノミストたちは、現在の株価水準は低いという意見を強気で主張する。もっとも、銀行系や証券会社系の評論家は売買を煽ることしか言わない。なるほど、エコノミストたちは「株で儲ける方法」なんて本を売って儲けるわけだ。ならば、経済理論を組み立てるよりも、いっそ証券取引所に群がる群集心理を分析した方が手っ取り早い。取引で儲けるということは、差額を求めることである。アンブローズ・ビアス曰く、「儲かるとは、商品を卸で盗んで、小売で売ることである。」
証券取引所には、デリバティブ商品が横行する。そもそもデリバティブの役割とは、相場変動によるリスク回避のために用いられるはず。大阪商人によって始まった先物取引は、米の生産が気候変動に影響を受けても、予め米価を決めることによって、価格を安定させ社会混乱を避けようとする仕組みであった。ところが、現在ではデリバティブ商品が価格変動を煽る。そこに、価値の乱高下を好み、バブルを大歓迎する連中が群がる。
その一方で、経済学者や政治家は、バブル経済を悪魔のように言う。彼らも同様に、証券という空虚を追いかけながら、証券価値が下がることに過敏に反応する。そして、金利ばかりに目を奪われ、インフレを必要以上に懸念する。人類の歴史には、インフレで百倍にも千倍にも貨幣価値を瞬時に変動させた実績がある。そう!市場原理には、「無を存在とし、存在を無とする」奇妙な法則が働く。人間は、社会が複雑化し疎外を感じるようになると、空虚な世界に価値を求めるのだろうか?かつて、資本主義を牽引してきた製造業には、見るからに物作りの世界があった。今では、コンピュータ上でシミュレーションしながら物が作られる。大部分のハードウェアがソフトウェア化し、仮想的な世界で物が作られ、実体のない物の価値が高まる。なるほど、人間には、空虚なものに憑かれる性質があるのかもしれない。数学者が、無限数に憑かれるように。人間社会の進化は、哲学的な実存問題をややこしくしているようだ。何も語らずに何かを語ろうとしたり、修行や鍛錬で無意味な苦難の道を選んだり、自分の実存を絶望したり、実体のない信頼を拠り所にしたり、確証のない安全に身を任せたり、検証できない事に自信を持ったり、愛なるものに無限の期待をかけ続ける。人間はますます実体から離れていく。そもそも、そこに実体なるものは存在しなかったのかもしれない。

4. 賢明なる経済ビジョン
いまや、金利やマネーサプライのコントロールといった従来のマクロ経済学の発想では、景気が左右されることはないだろう。先進国が、通貨をコントロールして自国の生産力を強化しようと目論んだところで、生産拠点は労働コストの低い東南アジア系などに分散している。現在の経済システムでは、実体は自国にはない。企業が実質労働を派遣や下請けに委託すれば、空洞化は避けられず、ここにも実体はない。経済が、いや!人間社会そのものが、仮想化へ向かう。これが、人間社会のエントロピーであろうか?
ゼロ金利政策にしても、本当に銀行の経営体力を回復させたと言えるのか?貸し出し先を積極的に探す努力もせず、むしろリスクばかり追いかけているようにしか見えない。低金利政策をとったところで、資金供給量を増加したところで、一部の投機家を喜ばせるだけでしかない。しかし、いまだに経済学者や政治家は、この手法にとり憑かれている。市場原理が、人間のできない価値判断を自然法則に委ねるために存在するのも事実である。だが、現実には、一部の経済人の価値観によって支配され、市場に参加していない人々に多大の被害を与える。英国元首相サッチャーによる金融ビッグバンは、イギリスの銀行を衰退させながら、シティーを巨大化させてしまった。ウォール街の連中は、金融危機を招きながら、真っ先に金融体制を立て直し、一般企業に被害をそのまま請け負わせたままでいる。いまだ日本政府は、国家戦略的な経済政策を打ち出せないでいる。政治家は政治団体に支配され、ビジョンのないその場凌ぎの政策を繰り返す。しかし、それはある意味、賢明な態度なのかもしれない。国家主導型の経済戦略というものは、発展途上国で道しるべを必要とする段階において機能するだけのことだから。

5. 災害の多い国
日本の経済学界には不思議な現象がある。経済大国と評されながら、ノーベル賞級の経済学者がいないことである。その一方で、ほとんどノーベル経済学賞を独占するアメリカの格差社会は半端ではない。なるほど、ノーベル経済学賞とは、経済危機の実験によって理論を構築した業績を称えるものなのか。これだけ頻繁に総理大臣が変わっても、これだけマスコミが悲壮感たっぷりに扇動しても、経済はなかなかへこたれなかった。そろそろ息切れ気味のようだが。おそらく他の国だったら社会暴動は避けられないだろう。日本は災害の多い国であり、民衆は災害慣れしているのかもしれない。まさしく日本は政治災害に見舞われる。もはや、巨大官僚をコントロール不能にした政治家は、社会の寄生虫でしかない。
ようやく政権交代して、政治主導で盛んに予算削減の議論が進むかのように見える。今までのバラマキを一度凍結して、本当に必要なものは改めて見直すのも良い試みであろう。どさくさに紛れて、必要な予算が一時的に凍結するのも仕方がないのかもしれない。なにしろ、何が必要なのかを判断することができないのだから。プレゼンの出来栄えで判定されても困る。いずれにせよ、今まで検証を怠ってきたツケが回っているだけのこと。だが、科学技術をあまり疎かにすると国の行く末が案じられる。「世界1位ではなく2位では駄目なのか?」という訳の分からん発言をする議員もいる。1位を目指した結果が、3位だったり5位だったりするのだ。最初から2位を目指せば、30位ぐらいに転落するであろう。順位なんて関係なく、資源のない日本は技術大国として生きてきた伝統がある。先人達が育んできた生命線を我々の代で消すこともできない。科学技術は民間の貢献が大きいが、現実に民間はコスト削減のため研究費を抑えている。あまり研究開発を疎かにすれば産業が空洞化し、企業自身の首を締めるであろう。民間と国家戦略の協調は古くからの課題であるが、主力戦略のビジョンを明確に示さなければ、補助金は機能しない。政治家というものは、どうもバランス感覚のぶっとんだ輩ばかり目に付く。見直さないよりはマシだが、ほんの少し見直して改革気分に浸ろうとするところに、一種の麻薬効果がある。なにはともあれ、議員数を減らすのが最も手っ取り早いことは周知の通りである。とりあえず、4分の1ぐらいにしてみてはどうか...。ここから手を付けなければ、どんな改革案を持ち出したところで説得力がないことに、彼らは気づかない。いや!気づかない振りをする。

6. 自然増殖と突然変異
資本主義は自然増殖によって発展してきた。と言えば聞こえがいいが、その実体は自転車操業システムである。どこかの操業が停止すれば、すぐに不況へと傾く。そこには、資源資本と労働資本という実体の間で、空虚な金融資本が、うまいこと介入しながら資本を増加させる仕組みがある。しかし、資本増加を前提とした経済システムに終焉はないのだろうか?地球という閉じられた世界で生きるには、地球資源にも限界があろう。政治は、相変わらず人口増加を煽る政策を取り続ける。枯渇する資源資本と増加する労働資本の間で、資本の不均衡も生じるだろう。その不均衡を是正できるほど、空虚な金融資本に力があるのだろうか?あとは、人類の遺伝子構造に突然変異が起こることを期待するしかなさそうだ。人類が宇宙に飛び出しても生きられるような生命体に生まれ変わるような、そんな体を獲得できる日を!

7. 信用の本性
世の中は、なんの根拠もない信頼で成り立っている。考えてみれば、会ったこともないパイロットに命を預けるなんて信じられない。それほど、航空会社が信頼できるのか?しかも、高い金を支払わされる。そこには、わざわざ利用者が信頼を買っているという不思議な構図がある。
銀行はATMで手数料を取る。かつて、窓口業務で人の手間がかかっていたから手数料という理屈も分からなくない。しかし、自動機械を使うのは利用者であって、手間をかけているのは利用者である。むしろ、手数料を支払ってもらいたいものだ。銀行は手間を売っているというわけか。
ところで、「信用取引」という奇妙な言葉がある。資金を証券会社より借り入れて売買を行うわけだが、担保が必要だったり、期限があったりと、何かと制約がある。つまり、証券会社が顧客に対して、一方的に課した制約で成り立っている。本来、信用とは相互の認識が合った時に成立するものではないのか?ならば、「人質付き取引」あるいは「差し押さえ付き取引」と言った方がよかろう。

8. 自己資本の懐疑
銀行業が胡散臭いと思う理由の一つに、自己資本の概念がある。そもそも民間経営だから、自己資本で運営するのが基本だろう。だが、その水準の低さには唖然とする。BIS規制ですら、自己資本比率8%しか義務づけていない。専門家が経験から算出した数字だろうから、素人に議論の余地はない。それにしても、株式は自己資本で、債権を他人資本として扱うのも奇妙である。返済義務の有無で区別されるが、どちらも他人の資金ではないか。株式を社外の人間が持てば、外部からの余計な口出しを気にしなくてはならない。それを嫌うのも分かる。つまり、株式とは口出し料というわけか。ならば、事実上、他人資本となって機能するかもしれない。それらしい言葉で欺瞞するところに、まさしく詐欺師の高等テクニックがある。なるほど、銀行屋は自己資本を持ちたがらない連中というわけか。

9. 銀行に乗っ取られるベンチャー企業
エンジニア会社には、ベンチャーキャピタルに、日本の場合は銀行系であるが、安易に資本注入してもらって経営が安定したと喜んでいる経営者を見かける。そして、資本家の口出しには逆らえなくなる。資本が重要な要素であることは間違いない。だが、問題は会社の性格を理解していない連中が資本家になることである。当初、従業員の方を向いていた物分りの良かった経営者は、徐々に資本家の方を向くようになり、従業員からは頑固な経営者へ変貌する。そして、資金凍結の恐れから、会計報告に惑わされ、ひたすら黒字を装うことに躍起になる。そもそも、金融系とエンジニア系の神経ベクトルは真逆にある。エンジニア出身の経営者は経済学オンチという引け目からか?金融系の意見を素直に受け入れる。彼らは金のプロであって、エンジニア会社の経営のプロではないのだが。エンジニア系の経営者は、面倒なことを事務方に丸投げする傾向がある。側近に信頼できる事務方のパートナーがいればいいが、なかなかうまくいかない。次第に、目先の売上に囚われるあまり、人材派遣のような奴隷業務に追われるようになる。そうなると、優秀な人材が逃げていき、人材の入れ替わりの激しい会社へと変貌する。エンジニアが金の事を言い出したら末期症状だ。これは退職を仄めかししていると考えねばなるまい。だが、経営者は、その理由をまともに受け入れ、根本的な問題からは目を背ける。そもそも、退職理由を本音で語るのは稀であろう。人材の質も低下することは言うまでもない。
また、株式を公開した途端におかしなことになる会社を見かける。最初から売却目当ての経営者もいる。経営者はなぜ目先が曇るのだろうか?そもそも、なぜ起業しようと考えたのだろうか?人間とは、金が絡むと変貌する生き物というわけか。

10. 経済人の感覚
経済人は、勝ち組や負け組という言葉を使うのがお好きなようだ。政治家やマスコミは自らを勝ち組に位置付けながら、自らの幸福を確認しているのだろう。そもそも、人生に勝ちや負けがあるのか?物欲ばかり満たしても、資産を墓場まで持っていくことはできない。そういえば、バブル時代に有名な絵画を棺桶まで持っていくと発言した金持ちがいた。人類の財産をそこまで占有したいか?歪んだ所有の概念の持ち主と言わざるを得ない。ところで、高齢化社会では、労働力を失い経済が破綻すると発言する経済学者も多いが、それは本当だろうか?若年層の割合が減れば、労働人口が減ると単純に考えるのも奇妙である。健康寿命が延びている時代に、単純に年齢で区切る発想もおかしい。定年のない世界では、死ぬまで働いている人も珍しくない。定年のある世界では、働いてきた恩賞がもらえるのは当然だ!とでも考えるのか?なるほど、自分のもらう年金を確保するために、少子化問題を訴えるわけだ。人間社会は、永遠にご都合主義の呪縛からは逃れられないようだ。