2019-02-24

"エドガー・アラン・ポー 怪奇・探偵小説集(2)" Edgar Allan Poe 著

頭がきれる探偵が登場すれば、そいつと張り合う気持ちで読み入り、つい夜を徹してしまう。これが推理小説の醍醐味!そして、意外な結末に悔しい思いをし、もう一勝負を挑む。これが短編集の醍醐味!名探偵と銘打つだけで、その人物の言葉を信じてしまい、読者をステレオタイプに飼い馴らす。これが小説家の腕前!もはや語り手は、読者の代理人として行動してやがる。
たいていの推理小説の構成には、ポーの影を感じずにはいられない。ゲーテはカントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。ミステリー界にあって、ポーはまさにそんな存在であろう。彼の仕掛ける基本原理には、読者の心理を操作して物語を真理へ導くところにある。心理も、真理も、音調が同じとくれば、意味するものも紙一重。人間ってやつは、心理的な妄想を満たしてくれるだけで真理に触れた気分になれる、実に幸せな存在ときた。
推理モノの定番といえば、密室のような不可能性と犯人の意外性、盲点に仕組まれるトリック、暗号といったところであろうか。名探偵の引き立て役としての愚鈍な警部の配置も欠かせない。柔軟で行動力のある人物と頭でっかちで官僚的な人物との対比は、平凡な日常に束縛された読者に刺激を与えてくれる。お馴染みのシャーロック・ホームズ、刑事コロンボ、金田一耕助といった名探偵たちにも、ポーが創作した C・オーギュスト・デュパンの面影がある。江戸川乱歩が描いた明智小五郎はまさに生き写し。ここには、推理小説の歴史を垣間見るような作品群... 「モルグ街の殺人」,「ぬすまれた手紙」,「おまえが犯人だ」,「黄金虫」の四篇が収録される。
尚、谷崎精二訳版(偕成社文庫)を手に取る。

「物質界には、非物質界とよく似たものがいたるところにある。それゆえ、隠喩または直喩が、議論を強めたり叙述をかざったりするのにもちいられる修辞学上の独断(ドグマ)が、いくらか真理らしく思われたりする。たとえば惰性力の法則は、物理学でも形而上学でも同一であるらしい。物理学で、大きな物体をうごかすには小さな物体をうごかすよりずっと困難で、それにともなう運動量もこの困難に正比例するとみとめている。このことは、能力の大きい知力は劣等な知力よりもずっとその動作において強く、不変であり有効であるが、その行動のはじまりにあってはずっとぎこちなく面倒で、ためらいがちなものである、と形而上学でいわれることとおなじことである。」

「モルグ街の殺人」
モルグ街の惨劇が新聞に掲載され、デュパンが興味を示す。被害者は母娘。母は、足と腕の骨は挫かれ、脛骨と肋骨が折られ、無残に切り裂かれている。娘は、絞殺され、暖炉の煙突に逆立ち状態に。なんと非人間的な残虐さ。
証言者たちの主張もまちまち... フランス人はスペイン語を話していたと言い、オランダ人はフランス語だと言っている。イギリス人はドイツ語だと思い込んでいるが、ドイツ語を知らない。スペイン人は英語だと思い込んでいるが、英語をちっとも喋れない。イタリア人はロシア人と話したことがないのに。もう一人のフランス人はイタリア語も知らないのに... みながみな自分の話せない言語だと思い込んでいる。ヨーロッパの五大国民の耳では聞き分けられないとなれば、アジア人か?アフリカ人か?犯行現場に残された毛は、人間のものではない。逃走ルートを検討してみても、とても人間の運動能力では説明がつかない。この超人的な身のこなしは... デュパンの推理は、いや、オチは... オランウータン!?

「ぬすまれた手紙」
宮殿で消えた手紙をめぐって、貴婦人からパリ警察に依頼が。政治的陰謀の臭いのする手紙。大臣は貴婦人の弱みを握って権力を思いのままに。スキャンダルネタか?この際、内容はどうでもいい。
手を焼いた警視総監 G はデュパンに意見を求める。手紙は大臣の官邸内にあるはず。しかも、すぐ取り出せるところに。大臣は大胆にも、あえて隠そうとはしない手段に出て、警察を欺く。警視総監は大臣が馬鹿だと決めつける... だって大臣は詩人だよ。詩人なんてものは馬鹿と隣あわせよ... と。
ちなみに、論理学には「媒辞不拡充」という概念があるらしい。「あらゆるばかは詩人である」という大前提に対して、「彼は詩人である」という小前提があり、ゆえに「彼は馬鹿である」と結論づける。これが三段論法。ここで、「ばか」を大名辞、「彼」を小名辞、「詩人」を媒辞または中名辞。媒辞は大前提と小前提を仲立ちし、両方に拡充して意味を結び付けなければならないのに、意味不明で拡充できていない。愚鈍な警視総監を揶揄した概念というわけか。
さて、デュパンは、大臣の狡猾さを逆手にとり、手紙をすり替える。大臣は、貴婦人を権力に従わせたが、今度は貴婦人の権力に従う羽目に。彼はまだ手紙が手元にあると信じており、そのつもりで無茶をやり、政治的破滅を招くであろう。失脚するのだ。地獄に堕ちる道はやすし...

「おまえが犯人だ」
ラットル町で、裕福な老紳士バアナバス・シャットルワージーが殺害された。被害者の甥ペニフェザーが容疑者として拘束される。遺産をめぐって揉めていたという証言もある。
そこで、被害者の親友チャールズ・グッドフェローが、事件の真相を暴こうと乗り出す。彼は「オールド・チャーリー」と呼ばれ、正義の人という評判。しかも、ペニフェザーを弁護し、人間性においても寛大さを印象づける。
発見された弾丸は、ベニーフェザーの鉄砲の口径と一致。動機と情況証拠が揃い、住民の非難轟々の中で法廷に引き出され、陪審員は第一級殺人犯の判決を下す。死刑!
一方、オールド・チャーリーの気高い態度は、住民たちに称賛されて祝賀会が催された。そこに、シャトー・マルゴーの大箱が配送される。箱を開けると、血まみれの死体がむくむくと起き上がって、「おまえが犯人だ!」と告げる。青ざめたグッドフェローは罪を告白する。これは、犯人の良心に訴えた仕掛けだとさ...

「黄金虫」
暗号小説の草分けとも評される作品。黄金虫は金持ちだ... という童謡もあるが、コガネムシはゴキブリの方言という説もあるらしい。この虫にかまれたら、金の臭いをかぎつけ、金の猛者とさせるのか。
ポーは、こいつにキャプテン・キッドの財宝伝説を絡めて、黄金探検活劇へといざなう。語り手の友人ウィリアム・ルグランは新種の昆虫を発見して興奮した様子。その場で羊皮紙を掴んでスケッチを描いたが、木の枝にとまっている甲虫がどうにもドクロにしか見えない。彼は「甲虫は財産の手引き」と主張し、語り手と共に宝探しへ。
羊皮紙にスケッチした時には、何も描かれていなかったはずだが、炙り出しのような化学反応から、文字が浮かび上がる。海賊の暗号文書か?言語解析で、まず用いられる方法は、最も多い文字と最も少ない文字を抽出する。そう、頻度分析だ。各国語には特有の性質があり、例えば、英語では "e" が最も頻度が高いので、これに当ててみる。そして、"e" を含む最もありふれた語は "the" で、その前後の文字に当ててみるといった具合に。これは、初歩的な換字式暗号ではないか。この作品には、ポーの暗号理論が暗示されている、というのはちと大袈裟であろうか...

2019-02-17

"エドガー・アラン・ポー 怪奇・探偵小説集(1)" Edgar Allan Poe 著

奇っ怪なものに触れると、心までも奇っ怪になる。陰鬱の感染力はよほど強いと見える。そこにあるは不気味さと恐怖感。恐怖感を説明することは意外と難しい。ふと冷静になってみると、なにゆえこんなものを... と。なんとなく... といった感覚が輪をかけて妄想を掻き立てる。
一方で、説明が不要なほど明らかな恐怖感がある。生きながら埋葬され、棺の中でもがき苦しむのを想像すれば、身の毛もよだつ。もし、火葬中に目を覚ましたら... と。生に執着すれば、最大の恐怖は死ということになる。死臭ほど不気味さを演出するものはあるまい。そんな臭いのしてきそうな作品群... 「黒猫」,「大うずまき」,「ウィリアム=ウィルスン」,「早すぎた埋葬」,「細長い箱」,「アッシャー家の崩壊」の六篇が、ここに収録される。
尚、谷崎精二訳版(偕成社文庫)を手に取る。

毎日、夜になると眠る。これを一時的な眠りとすれば、死は永遠の眠りと位置づけられる。その違いはなんであろう。一時的な眠りでは夢を見る。では、夢を見るか見ないかの違いか。いや、熟睡すれば、夢も見ない。眠りの中で認識論を語るのは難しい。なにしろ無意識な自我を相手取るのだから...
しかし、人間の本質はむしろ無意識の領域にありそうだ。たとえ行動が意識できたとしても、その動機を説明することは難しい。怖いもの見たさ、といった衝動はどこからくるのか。やってはいけない!と分かっていながら、ついやっちまうのはどういうわけか。退屈病がそうさせるのか。刺激を求めすぎて哲学病を患えば、天邪鬼精神を旺盛にさせる。そして、意識と無意識の境界は、生と死を分ける境界にも見えてくる。人生とは、生まれながらにして生と死の狭間をさまよっているようなものか...
すべての物事を認知できるような全知全能な人間なんていやしない。どんな人間にも、認知できない領域がある。知らぬが仏というが、それはどうやら本当らしい。神はその能力ゆえに思い煩い、言葉にもできないでいるのやもしれん。言葉が発せられるのは、まだ余裕のある証か...
死生観は、生ある者の深層心理を支配する。では、死する者にとっての死生観とは、どんなものだろう。少なくとも、生きている間は生きている者同士で騒ぎ、死んだら死んだ者同士で静かに言葉を交わし、生きている者に邪魔をされたくないものである...

「黒猫」
愛猫の名はプルートー。それは閻魔という意味。もともと優しい性格で動物好きな主人公は、この猫の喉首をとらえ、目玉をえぐりとる。この愚行を呪いながら身体中に熱を帯び、執筆中ときた。そして、涙を流しながら、首に縄をかけ、木に吊るして殺してしまう。さらに、呪われた行為は妻に及ぶ。愛という衝動に悪戯という衝動が重なると、こうも残虐非道になれるものなのか...

「大うずまき」
ノルウェーのロフォーテン諸島海域に「メイルストロム」という大うずまきがあるそうな。海峡の中心には、地球の中心を貫いてどこか遠くへ出る深淵があると伝えられる。例えば、ボスニア湾はその一例とされるとか。この手の言い伝えには、海の怪物伝説が語り継がれ、漁師たちを恐れさせてきた。そして、老人の容貌をした男が体験談を語る。大うずまきに吸い込まれ一命をとりとめたものの、冷静に振り返ってみると、あまりの恐ろしさに一夜にして髪が真っ白になっちまったとさ...

「ウィリアム=ウィルスン」
善と悪が一人の人間の中に共存する。心の葛藤の末、片方がもう片方を殺してしまう。だが、生き残った方も自ら抹殺せずにはいられない。恐ろしい良心を相手取る男の運命は...

「早すぎた埋葬」
19世紀初頭、生きながらの埋葬の惨事がフランスで起こったそうな。事実は小説よりも奇なりというが、どうやら本当らしい。
しかし、ここでは実際に生き埋めにされた恐怖を描いているのではない。あれこれ想像することで恐怖心を煽っているだけ。死と見間違えられた昏睡状態から目を覚ますと、そこは狭く窮屈な棺の中。絶対的な暗黒と深海の沈黙に支配され、いずれ肉体を蝕むであろうウジ虫の大群が襲ってくる。そんなことを想像しながら、疑惑が駆け巡る。なぜこんな目に?ヤブ医者の犠牲か?人体を医学的に無理やり生きているように見せかけることは可能であろう。だが、生きることと死なないということは同意ではない。機械仕掛けの人体を永遠停止と定義できるものとは。実体の死よりも、想像の死こそ真の恐怖というものか...

「細長い箱」
船上で不気味さを醸し出す箱の中身を想像するお話。箱は船倉ではなく、主人公夫妻の船室に運ばれた。主人公は画家で、箱の中身は絵であろうか。いや、後から思えば、妻というのは、あれは召使いだったのか。船は嵐に襲われて難破。海に放り出された箱を追って、主人公も海の底へ。箱の中身は愛妻だったのか...

「アッシャー家の崩壊」
思い悩んだ兄は、人里離れた古い館に旧友を招く。兄妹は双生児で、妹は遺伝的な神経疾患を患っているという。兄はほとほと疲れた様子。やがて妹は息を引き取ったと告げ、亡骸を地下室に安置する。だが実は、妹は生きていたと告白する。生きていると知っていながら棺の中に閉じ込めたというのである。隠者は断末魔とともに蘇る。重い黒檀の扉が開くと、妹が震えながら立っていた。彼女は兄に覆いかぶさり、断末魔の苦しみのうちに死ぬ。彼は恐怖心の犠牲となったのか。そして、アッシャー家の館も崩れ落ちたとさ。
ところで、ヒポコンデリーという病があると聞く。心気症とも呼ばれる。病気を苦に、精神障害までも引き起こす負の連鎖作用のような。妹がなんらかの病気であったことは本当であろう。だが、深刻な精神病を患っていたのは兄の方であったか...

2019-02-10

"開高健ベスト・エッセイ" 小玉武 編

小説「ロマネ・コンティ...」に誘われ、なにやら懐かしい風を感じる文体に吸い込まれる。デジャヴってやつか...
やはり随筆はいい。小説家の書き下ろした随筆はいい。小説の仕事は、著者の筆を物語の設定や形式の中に封じ込める。わざわざ息苦しい枠組みを自らこしらえ、煩悶する。なにゆえ、そのような企てを試みるのか。M な性分がそうさせるのか。そこから自己を解き放った時、その反動から何が見えてくるかを期待してのことか。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、真の自由を知ろうとすれば、束縛をも受け入れなければならない。求められる視点は、日常に対する鋭い観察眼、人間観察と自己観察。随筆とは、まさに人生試論!過去の作品群と対峙する自省論は自らの歩みを露わにし、顔を赤らめずにはいられまい。この試みが、人生哲学をより明確にすれば、自己破壊へ導かずにはいられまい。なぁーに心配はいらない。人間狂わずして、何が見えてくるというのか...
「何かを手にいれたら何かを失う。これが鉄則です。何物も失わないで何かを手に入れることはできない。それは失ったものに気がついてないだけ、あるいは手に入れたものについて気がついてないだけ。失ったものと手に入れたもののバランスシートは誰にもわからない。」

さて、開高健というと、ウィスキーの CM のイメージがいまだ残っている。モンゴル草原に幻の魚を求めては、私はさまよっていた... などとつぶやく釣師に、タヌキを水筒代わりに腰にぶらさげてアラスカ列車に FLAG STOP をかける冒険家といったイメージである。両人対酌すれば山花開く、一杯一杯復た一杯(李白)... こうした名文に出会えたことも喜びであった。
彼は、壽屋(現、サントリー)の専属コピーライターとして活躍した。酒の宣伝で欠かせない BGM といえば、ウィスキーを注ぐ音... ドクドクドク。これには学生時代の悪夢が蘇る... レッドやトリスを一気飲みさせられて... 毒、毒、毒!そして、あの有名なフレーズが蘇る。
「人間らしく やりたいナ トリスを飲んで 人間らしく やりたいナ 人間なんだから...」

本書の魚釣りの場面では、「キャッチ & リリース」という言葉が登場する。このフレーズも、開高健が広めたという説を聞いたことがあるが、真相は知らない。哲学者たちが遺してきた名言や格言の類いは人生のキャッチコピー、いやキャッチ & リリース、言葉をキャッチして次の世代に解放していく。一度捕まえた恋人も、いずれ手放すことに。随筆も、小説という枠組みに囚われながら、自我を解き放つ。人生は、まさにキャッチ & リリースの連続か...
酒も、魚も、心地よく食すには腐らせ方の按配が難しい。やはり人間も、腐らせ方が肝要なようである。年老えば、足が臭くなり、口が臭くなり、酒宴の席で醜態を演じ、精神が腐っていくのを感じる。現在は瞬く間に過去となる。いい頃合いにリリースしてやらねば... 智恵が哀しみにならぬうちに...
ちなみに、いい酒とは、こういうものを言うそうな...
「こんな女がいたらさぞや迷わせられるだろうな、と思いたくなるような酒がいい酒なの。黙ってても二杯飲みたくなる酒がいい酒なの...」

「釣師というものは、見たところ、のんきそうだが、実は脱走者で脱獄者だ。仕事から、世間から、家庭から脱出しようとあがきながら、結局、脱出できないことを知って、瞬間の脱獄気分を楽しんでいる囚人だ。」
... 林房雄「緑の地平線」より

1. 小説は文学か、文楽か...
「気質からいえば私は文学部へいくべきであったかも知れないが、当時の気持では、大学の文学部の存在理由が私にはのみこめなかった。経済学や法学などは "学問" の対象として扱ってもさしてむりはないように思うが、だいたい文学部で教えることは語学をのぞけば、小説や戯曲などの解説である。古典作品、現代作品の区別を問わず、いったいこうしたものは "学問" といえるものなのだろうか。いわゆる文学的感動なるものはしばしばゴロリとねころがって読んでいるときに訪れるではないか。"文学" とは本来 "文楽" と書かれるべき性質のものではないか。教壇のうえから教えられたところでどうなるものでもあるまい。のみならず、たいていのものは教壇にのぼると、砂をかむようなものになってしまう。これがこわい。ほんとに文学を愛するものは文学部と無関係である。アホらしい...」
そう考えて法学部へ進んだそうだが、出くわす文章がことごとくハイボールからウィスキーを抜いたような代物ばかりで、およそしらじらしきこと。たちまち言葉の鬱へ導かれる。自分の思考を確かなものにしようと思えば、精神の実体を確かなものにしようと思えば、言葉にしてみることだ。生きることが息苦しければ、言葉に救いを求める。言葉が記憶を確かなものにし、歩みを確かなものにする。
とはいえ、言葉だって実体があるかどうかも分からないし、もしかしたら幻想かもしれない。開高健は小説家としての持論を軽く言い放つ...
「食べ物と女の話が書けたら一人前だ!」

2. 喜劇の時代
小説作品は、発作にそそのかされて編み出されるものらしい。衝動によって導かれるのであれば、道徳に反抗する形で現れる。天国の言葉を軽く、薄っぺらなものにし、煉獄や地獄の言葉を重く、哲学を匂わせる。
小説を書くとは、ある種の病いか。もがき、あがき、慢性宿酔で苦しみ、気がつくと酷い体力減退。しかも締切に追われる日々に、自由な筆も義務と化す。義務も、依存症も、たいした違いはなさそうだ。小説家とは、なんと儚い職業であろう。いや、読者だって儚さでは負けちゃいない。歳を重ね、くだらない経験を積んでいくと、癒やされる文章に縋るしかないのだから...
「現代は考えることのできる人にとっては喜劇、感ずることのできる人にとっては悲劇、こういう時代です。いつの時代もそうかもしれないがね。それで、考えることのできる人と感ずることのできる人の数を比べてみると、いつの時代も感ずることのできる人はごく少ない。だから喜劇の時代だということになるな。」

3. 釣師、荒野をさまよう...
釣師は、手錠をはめられるのを待っている脱獄囚のようなものらしい。荒野を求めて旅をする。黄昏を求め、自然と戯れるために。だが、荒野は地の果てにあるとは限らない。大都会にも、ネオンの荒野がある。集団社会の中にこそ孤独の荒野がある。結局、真の自由はどこにも見つけられず、言葉の幻想に縋る。息苦しい現実社会にあって自由を求めれば、自己破壊を企てるしかなさそうだ。自然を懐かしみ、醜いものを排除し、遠くへ行き過ぎれば、戻ってくるのが難しくなる。なにかを得るために、なにかを失わねばならぬという苛酷な鉄則は、文明でも、革命でも、また小説でも同じことか...
「赤い荒野には《物》しかながったが、そのことに私はおびえていたたまれなくなりながらも、どこかで、優しいと感じていたはずである。《物しかない現代の悲惨!》という文明評論家の蒼白な肥満の糾弾にときとして私は憤怒と侮蔑をおぼえることがある。この人は《人》にも《物》にも絶望したことがないのではないか。《人》に絶望した人は《物》をこそ優しいと感ずるはずなのである。なぜなら《物》は原子爆弾のボタンであろうと自転車修理用のペンチであろうと、つねにそこに確固とした形をとって存在し、つつましく沈黙し、《人》にふれられるまではけっしてうごこうともせず、変貌しようともせず、転向しようともしない。そしてふれられたときにはあらかじめ予測された仕事を、一連の体系をやってのけるだけであって、その結果が地球の破壊であろうが、川沿いの五月の道の散歩であろうが、けじめしない。《物》は冷酷であるがゆえに謙虚であり、実力にみち、優しいのである。このことを知っているのは労働者と農民だけで、知識人たちはまったく《物》にふれたことがないのだ。」

2019-02-03

"ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説" 開高健 著

本書には、「玉、砕ける」、「飽満の種子」、「貝塚をつくる」、「黄昏の力」、「渚にて」、「ロマネ・コンティ・一九三五年」の六作品が収録され、捉えどころの難しい作品群は主義や思想などという枠組みでは規定できそうにない。美酒、美食、阿片、魚釣への好奇心は、単なるエピキュリアニズムか。それとも、もっと深い何かが。政治的な出来事や歴史的な背景を盛り込み、求道的な陰翳を語っているようにも映る。いや、そう感じさせるだけで、読者に意地悪をしているのかも。いずれにせよ、文体の黄昏感に癒やされるのであった...
ちなみに、北京官話の語感で「開高健」の反語は、「閉低患」となるらしい。発音は、カイ・カオ・チェンがピー・ティー・ファンに...

人生論に縋りはじめたら、そろそろ終わりが見えてきたということか。郷愁に誘われながら、性懲りもなく繰り返す愚行論。歳を重ねると感動が薄れていき、憂鬱に浸ったまま無気力になっていく。もう未来に高揚感も湧かない。頭が朦朧とした中で青春の映像をセピア色に染め、自己陶酔に耽る。このビンテージ感ときたら。そして、夕焼けに染まる時刻になると、飲まずにはいられない。
ちなみに、二十年来の馴染みに「BARは5時から...」というキャッチフレーズを掲げるバーがある。「いくつものドラマがはじまるバーの扉は午後5時に開きます...」だとさ。それにしちゃ、バーの扉は重い。紳士淑女でなければ、開ける資格がないと言わんばかりに。心身ともにくつろごうとする場で、緊張感を煽ってどうする。扉の重厚感の前で、客は怯んで引き返すか、バーテンダーに勝負を挑むか、選択肢は二つ。まさに人生は、選択の中で進行していく。それも後戻りのできない選択だ。
そして、物語が迫ってくる。「白か黒か、右か左か、有か無か、あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す!」と。しかも、選択の余地がありそうで、相手は最初からどちらを選ぶか決めている気配。どう答えても幸せにはなれそうにない...

ちょっと待ってくれ!考える時間をくれ!まずは、スパでリラクゼーション!アカスリでもして人生の垢を落とそう。その垢ときたら、固く固く固まってウズラの卵ぐらいの玉に。フルチンじゃ、「玉、砕ける」。垢を落とし、爪を切り、排泄物を流し、ろ過作用を促すも、体内の不純物を蒸留し、すかさず蒸留酒を補給。ん~... 気分転換しても答えが出そうにない。コインでも投げて、どちらか選べば楽になれそうだが、選択しないという選択肢も欲しいところ。人生のドラマは、軽々しく選択できるものではなさそうだ。一九三五年モノともなれば、扉の重々しさはさらに増す...
「馬でもないが虎でもないというやつですな。昔の中国人の挨拶にはマーマーフーフーというのがあった。字で書くと馬々虎々です。なかなかうまい表現で、馬虎主義と呼ばれたりしたもんですが、どうもそう答えたんではやられてしまいそうですね...」

1. 飽満な魔力... 阿片
禁断療法がどれほどの苦しみかは知らんが、阿片を「飽満の種子」と書き残した者もいるらしい。この魔力は、温和で爽快な疲労回復剤にとどまることはないようである。阿片中毒者ジャン・コクトォは著作「阿片」の中で、こう書いたそうな。
「永続的快感の状態にある阿片喫煙者を見て堕落だと責めるのは、例えば大理石を見て、これはミケランジェロにそこなわれた結果だと言い張り、画布を見て、これはラファエルに汚されたのだと叫び、紙を見て、これはシェークスピアにけがされたのだとあわれみ、沈黙を見て、これはバッハに破られたのだと云うのと同じことになる。阿片喫煙者、これほど不純でない傑作はまたと他にはない。だがすべてに分配を求めてやまない社会が、この傑作を、目に見えない美、切売りの出来ない美だと認めて、排斥するのも、また極めて当然だ。」

2. 聞きしにまさる官能酒... ロマネ・コンティ
「小説家は耳を澄ませながら深紅に輝く、若い酒の暗部に見とれたり、一口、二口すすって噛んだりした。いい酒だよ。よく成熟している。肌理がこまかく、すべすべしていて、くちびるや舌に羽毛のように乗ってくれる。ころがしても、漉しても、砕いても、崩れるところがない。さいごに咽喉へごくりとやるときも、滴が崖をころがりおちる瞬間に見せるものをすかさず眺めようとするが、のびのびしていて、まったく乱れない。若くて、どこもかしこも張りきって、潑剌としているのに、艷やかな豊満がある。円熟しているのに清淡で爽やかである。つつましやかに微笑しつつ、ときどきそれと気づかずに奔放さを閃かすようでもある。咽喉へ送って消えてしまったあとでふとそれと気がつくような展開もある。」
これが、酒についてのくだりであろうか。思えば、美酒への欲望も、美女への欲望も同類、官能的な酒が官能小説を際立てる。人生にくたびれた老人をボトルのくびれが癒やし、ワインがグラス越しにエクスタシーを物語る。
ちなみに、VSOP には二つの意味があるそうな。通説の Very Superior Old Pale. と、もう一つは、Vieux Sans Opinion Politique(政治的意見に関係なく古い).
政治家ってやつは、あまりに脂ぎっているために、ビンテージもののようにまろやかにはなれないものらしい...

3. あの荘子と恵子の論争... 魚の気持ちなんか知らんがね
「昔、中国に哲学者がいた。その哲学者が、ある日、弟子をつれて散歩にでた。河岸へくると、魚が泳いでいるのが見えた。それを見て、哲学者は、魚が楽しんでいるといった。弟子は、あなたは魚ではないのにどうして魚が楽しんでいるとわかるのですと、たずねた。すると哲学者は、おまえはおれではない。それならば、おれが魚の楽しみをわかってはいないと、どうしておまえにわかるのだといった。すると弟子は、私はあなたではないのだからもちろんあなたのことはわからない。あなたはもちろん魚ではないのだから、あなたに魚の楽しみはわからない。これはたしかだ...」