2017-09-24

"自殺について 他四篇" Arthur Schopenhauer 著

「やがて老齢と経験とが、手をたずさえて、死へと導いてゆく。そのとき悟らされるのだ、- あのように長いあのように苦しかった精神であったのに、自分の生涯はみんな間違っていたのだ、と。」
... ゲーテ「詩と真実」より

アルトゥル・ショウペンハウエルは、これで三冊目。さらに、まだ手を付けていない数冊が目の前に積んである。惚れっぽい酔いどれは、どうやら嵌ってしまったようだ...
彼に言わせると、人生とは、こういうものらしい。
「裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときには遅すぎる過ちの連続...」
さすが、西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるだけあって、ネガティブ思考を徹底的に追求してクタクタにさせた挙句に、ポジティブ思考へ誘なおうってか...
尚、本書には、「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」、「現存在の虚無性に関する教説によせる補遺」、「世界の苦悩に関する教説によせる補遺」、「自殺について」、「生きんとする意志の肯定と否定に関する教説によせる補遺」の五篇が収録され、斎藤信治訳版(岩波文庫)を手に取る。

人類が編み出した言語体系には、存在を強烈に意識させる動詞が具わっている。英語の be 動詞やドイツ語の sein 動詞の類いが、それだ。日本語では真実を語る時、ある!ある!と語尾を強める。存在意識は、極めて経験的でありながら、最も自然に発する観念と言えよう。それは、まずもって自己を意識することから始まり、他との比較から徐々に自分自身の状態を把握していき、やがて自我を確立させていく。なにより苦難を感じるということが、自己を意識している証なのだ。他との相対的な関係からでしか自己存在を認識できないとすれば、人間が自己中心的であるのも当然である。死という得たいの知れないものが近づけば、生に対して未練がましくもなる。
そこで、しばしば卓越した知性の持ち主が荒唐無稽の観念に憑かれ、とても消化できそうにない不合理に絶えず悩まされる。死後も魂は生き続けるという、あの観念に。だが気をつけた方がいい。魂の不死を受け入れれば、心霊と肉体を対立させ、ついに肉体の存続を悪として攻め立てることになる。自我が重荷となると、今度は集団の中に安住の地を求め、やがて奴隷根性が染み付いていく。魂の棲家は、有益な誤謬ほど居心地が良いと見える。いずれにせよ、人間は生涯ド M な存在というわけか。自立の道は険しい。自由の道は果てしなく遠い...
「だから真理の代用品などというものはあぶなっかしいものだ。」

自殺を罪悪とする宗教があれば、自殺を美学とする文化がある。ストア派哲学にも、高貴な英雄伝説として語り継がれるものを見かける。その代表格がセネカのものだ。終わりがあってはならないという愚かな希望... 自己という有機的存在が実は無意味であったという絶望... そんなことは、現実社会で十分過ぎるほど体験してきたはず。まったく無力であったことを。
にもかかわらず、無の恐怖に駆られて自虐の門を叩く。人間の怖いもの見たさというのも、困ったものだ。生が夢まぼろしであるなら、死はその目覚めということか。人生とは、死から融通してきた借金のようなものか。睡眠とは、その借金から日毎に取り立てられる利息のようなものか。人はみな、自分の人生に価値を求めずにはいられない。でなければ、自己を否定することになる。しかしながら、そんなこだわりから解放されてこそ、真に意志を目覚めさせるのであろう。それが自由意志ってやつか...
現代社会では死はどこまでも否定的なものとされるが、死にも積極的な面はある。意志の継承が、それだ。輪廻では、霊魂がそっくりそのまま別の肉体に乗り移るとされる。しかるに再生では、個体の解体と再建によって意志だけが継続されることになる。新しい存続の形体は、さらに新しい知性を獲得していくことだろう。生きんとする意志が自己を肯定し、自己に教説を与えていくことだろう。知性は意志の源泉となり、意志は世代を越えて受け継がれる。まさに永劫回帰の道よ...
「知性は救済の原理であり、意志は束縛の原理である。」

ところで、個体が不滅となれば、死を恐れる理由はなくなるだろうか?自己存在という幻想を滅却すれば、無に帰することが出来るだろうか?いや、わざわざ無に帰せずとも、記憶を抹殺すれば同じこと。あらゆる悩みは記憶から生じる。知性の喪失とは、ほかならぬ意志の忘却ではないか。永遠の克服が忘却にあるとすれば、アル中ハイマー病患者にも希望が持てる。神の合目的を解し、あらゆるものに存在意義を与えようとは、なんとおこがましいことか...
人生とは、どうせ思い込みの中をさまよっているようなもの。この能力は、神にも及ぶまい。神は何をやり直したいのかは知らんが、常に新しい生命体をこしらえ続ける。まったく気まぐれな完全主義者にも困ったものよ。破壊と創造こそが永遠のサイクル、やり直しは永遠なり、そのために宇宙は神の実験室であり続ける...

2017-09-17

"知性について 他四篇" Arthur Schopenhauer 著

アルトゥル・ショーペンハウアーは、「幸福について」に続いて二冊目。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼は、またもや嵌りそうな予感...
彼は、西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるだけあって、ここでも積極的なネガティブ思考を要請してくる。いや、皮肉屋の愚痴か。悲観主義に皮肉が混じると、奇妙なポジティブ思考へいざなう。「常に多くを学び加えつつ年老いん」とは、ソロンの言葉であったか...
尚、本書には、「哲学とその方法について」、「論理学と弁証法の余論」、「知性について」、「物自体と現象との対立に関する二三の考察」、「汎神論について」の五篇が収録され、細谷貞雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

知識をいくら詰め込んでも、知性豊かになれるわけではない。ただ、知識なくして、知性は育まれそうにない。知識は極めて客観性に近い領域にあるが、知性は、これを解釈し、理解することによって身につけていくので、極めて主観性に近い領域にあるということになる。本来、知性とは、自己を客観的な脳髄として現象化するもののはずだが...
それ故に、知性は暴走しやすいということも言えよう。歴史を振り返れば、実に多くの社会的暴走が有識者たちによって扇動されてきた。大衆は、彼らの言葉を自分の意志と解して同調する。思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。下手に知識があるために判断を誤るということはよくあることだが、それもまた主観が介在した結果である。
知性には自由意志がともなう。従って、真理の探求者は、常に自分の意志にも疑いを持つことになろうし、要請されるは、意志に奉仕する知性とでもしておこうか...
「哲学するために最初に求められる二つの要件は、第一に、心にかかるいかなる問いをも率直に問いただす勇気をもつということである。そして第二は、自明の理と思われるすべてのことを、あらためてはっきりと意識し、そうすることによってそれを問題としてつかみ直すということである。最後にまた、本格的に哲学するためには、精神が本当の閑暇をもっていなくてはならない。」

自由を謳歌するということは、自分の意志を弄ぶということであろうか。自分の居場所を自己の中にどっしりと構え、自然と戯れるがごとく意志を貫く。春風駘蕩とは、こうした奥義を言うのやもしれん...
しかしながら、凡人は集団の中に居場所を求めてやまない。孤独を寂しいものとして忌み嫌い、いびつな仲間意識を助長させ、自立や自律を妨げる。儀礼的な態度に徹しては、ひたすらグループに属すことを生き甲斐とし、奴隷根性が染み付いていく。いくら哲学書を読み漁っても、哲学者にはなれない。いくら芸術作品に触れても、芸術家にはなれない。自由を謳歌できる者は、詩人のごとく天賦にしてはじめて成しうるということか...
「自分の知性をいくらかでも純粋に客観的に使用できる人々の間の対話は、その内容がどんなに軽いものであっても、そしてただの洒落におわるようなものであっても、ともかくもすでに、精神的な力の自由な遊びになっているので、ほかの連中の対話にくらべれば、歩行に対する舞踏のような感を与える。」

1. 知性は、本当に形而上学に属すのか?
「知識欲は、普遍的なものへ向かうときには学究心と呼ばれ、個別的なものへ向かうときには好奇心と呼ばれる。」
人間の知識の限界は、例えば、ユークリッド原論が公理と公準という形で示してくれる。それは、これ以上、証明できない自明な原理に支配されるということ。カントは、認識論においてア・プリオリな概念を導入した。それは、時間と空間という直観的存在が、どんな認識原理よりも先立って認識されるということ。プラトンは、イデアという精神の原型なる存在を唱えた。だが、文明人の魂に原型を垣間見ることはできそうにない。
人間の知識は、こうした素なる存在から派生した認識能力によって組み立てられる。その素なる存在は、まさに説明不可能なものとして君臨しているわけで、ここに形而上学の本分がある。その過程では、まず身近な事象を具体的に知覚し、やがて抽象的に捉えようという意識へ変化していく。個別的な意識から普遍的な意識への昇華とでも言おうか。
客観的に説明できないものが存在すれば、もはや主観に頼るしかない。不可知なものを主観で語るということは、独り善がりな議論ともなり、知性は極めて経験的となる。ショーペンハウアーは、哲学が対象とするところは経験であるとし、その意味で、こうも言っている。
「知性は形而下的であって、形而上的ではない、と言うこともできよう。」

2. 合理主義と照明主義
あらゆる時代の自然哲学は、合理主義と照明主義の狭間で揺れ動いてきた。時には、カント式批判原理によって、時には、ヘーゲル流弁証法によって。人間の解釈能力は、恐るべきものがある。なにしろ普遍的な真理を、俗的で特殊な真理もどきに変えてしまうのだから。どうやっても答えの見つからない事象と対峙すれば、客観性を崇める者は懐疑主義や批判主義に走り、主観性を崇める者は宗教に魂を売る。精神を語ろうとすれば、合理主義から逸脱し、超越的な仮説の領域に踏み込む。
だが、宇宙の本質を知らぬ人間どもが精神の本質を語れるはずもなく、形而上学は信仰の領域に踏み込まざるをえない。ならば、何事にも批判的な態度で立ち向かうことにも、ある程度の合理性を見出すことはできよう。実際、議会における野党のごとく、ただ批判するだけでも、ある種の真理を含んでいることもある。たまには...
ショーペンハウアーは、単に利口なだけなら懐疑家の資格にはなろうが、哲学者の資格にはならない、と言っている。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼に与えられる資格とは、皮肉屋になって自己陶酔することぐらい。そして、おいらの耳に、この言葉が嫌みに聞こえる...
「とのような時にせよ、異を立てようという気になるな。無知の人々と争えば、賢者も無知に沈むのだから。」... ゲーテ「西東詩集」箴言の書二七番

3. 時間と空間の観念性
カントが唱えた「時間の観念性」は、既に力学で説かれた「慣性の法則」の中に含まれているという。時間は物理量というより、認識主観から発現するものであると。時間の観念性については、古代の哲学者たちも仄めかしてきた。プラトンは「時間は、永遠の動く影」と表現し、スコラ学派は「永遠性は時間の終わりなき継続ではなく、恒常の今である」と言明し、スピノザは率直に「時間は事物の状態ではなく、思惟の様態にすぎない」と語ったとか。この酔いどれ天の邪鬼ですら... 時間は認識の産物に過ぎない!... といったことは言えるのである。永遠性は、その性質上、時間の反対ということもできよう。ショーペンハウアーは、こう言っている。
「永遠が存在しなければ、時間もありえない。いな、われわれの知性が時間を生じうるのは、われわれ自身が永遠の中に立っているからにほかならない。」
時間の観念性が自己存在を想定する上で重要であることは明らかだ。ただ、もう一つ重要な概念に空間の観念性がある。おそらく空間を想定せずに、あらゆる存在を認識することはできまい。もちろん、それがユークリッド空間である必要はない。脳内に構築できる想像可能な思考の次元空間であれば、なんでもありだ。そして、あらゆる事象に対する認識は、時間と空間に支えられた副次的な偶有的な現象にすぎない、ということは言えそうである。
では、空虚とはどんな空間あろうか?時間の観念を失うだけなら精神病患者に見て取れるが、空間の観念をも失えば、もはや人間ではなくなるのだろうか?
ところで、人間の本質的に具わるもの、根源的な思考をもたらすもの、それは意志の存在だという。空間と時間の次にくる観念性は意志ということか。ならば、意志の解放こそが、哲学に求められる資質ということになりそうだ。直観的な認識から知識を汲み取り、自然、世界、人生を直視し、自己の思想原典としていく。それが、自己実現ってやつか。自然と現実は、けして欺かない。無知を自覚してはじめて自然の導きに素直に応じることができる。子供が最も素朴な哲学者!と言われる所以だ。しかしながら、大人になればなるほど知識は歪められ、自ら道化を演じてやがる...

「われわれ自然の道化どもが
 われわれの心には及びえぬ思想で
 かくも怖ろしくわが身をゆさぶる」... シェークスピア

2017-09-10

"幸福について - 人生論" Arthur Schopenhauer 著

「総じて賢者というものは、いつの時代の賢者でも、結局同じことを言ってきたのであり、愚者すなわち数知れぬ有象無象どもは、いつの時代にも一つのこと、つまりその逆をおこなってきたのだが、こいつは今後といえども変るまい。だからヴォルテールは言っている、『われわれはこの世をみまかるときも、この世に生れて日の目を仰いだときと同じく、愚かで悪党であることだろう』と。」

本書は「処世術箴言」の全訳で、「幸福について」という邦題は原題には見当たらない。このタイトルにやや違和感があり、また照れ臭さを感じるのは... いや胡散臭さか... いずれにせよ精神が腐っている証であろう。悪魔に魂を売り、おまけに酔いどれとくれば、それだけで愉快になれる。だから天の邪鬼なのだ。人生を論じれば、いかに楽しく、いかに幸せに過ごすか、という技術に囚われる。その意味で、人生論とは幸福の指針ということになる。
では、幸福とはなんであろう。これを冷静に客観的に捉えることは至難の業。強いて言えば、生きていないよりはまし!と言えるような人生にすることぐらい。あのお笑い芸人が言った... 生きてるだけで丸儲け!... とは、なかなかの真理をついている。現実をすべて受け入れれば、絶望論や悲観論を避けられない。それは、欲望と表裏一体に存在する情念を刺激する。こうした性向は、極めてネガティブ思考と相性がよく、精神と完全に融合してしまうと厄介だ。
「幸福は人間の一大迷妄である。蜃気楼である。が、そうは悟れないものである...」
そこで、この厭世哲学者は、悟れない人間を悟れないままに、幸せの夢を追わせたままに、救済しようというのである。それゆえ、すべての事物を諷刺とユーモアで語ることになり、著名人たちの俚諺、格言、詩文が皮肉めいた金言となって鏤められる。これら一大哲理の背後に、ペロリと舌を出す爺っちゃまの顔を想像せずにはいられない。厭世哲学者という皮肉屋の。人生論とは人生喜劇!なぁーんだ、ポジティブじゃねぇか...
尚、橋本文夫訳版(新潮文庫)を手に取る。

ところで、積極的と消極的、ポジティブ思考とネガティブ思考、これらの組み合わせで四つのパターンができる。積極的なポジティブ思考は無防備な陽気に行動を委ね、消極的なネガティブ思考は敗北主義的な態度で無条件の信仰へと誘なう。消極的なポジティブ思考は慎重すぎる上で行動を定義し、積極的なネガティブ思考は悪魔性を問い詰めた上で信念を切り開く。どれを選択するかはお好み次第、その時々の精神状態によっても違ってくる。
差し詰め、手っ取り早く幸福に浸りたければ、前の二つであろう。後ろの二つには少々困難がつきまとうが、中庸の哲学を実践するにはこの道しかあるまい。西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるアルトゥール・ショーペンハウアーは、積極的なネガティブ思考を要請してくる。そして、アリストテレスが表明した「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」という命題こそが、処世哲学の最高原則だとしている。処世術の詩人ホラティウスは、こう歌ったとか...

「中庸の美徳を愛する者は
 貧困の汚れに染まず、賢くば、
 人の羨みの邸宅の華美をも好まず。
 松高ければ嵐ますます猛り、
 山高ければ、雷(いかずち)まずこれを撃ち、
 塔高ければ倒壊の惨はなはだし。」

1. 人生の生贄
セネカは言っている、「精神活動を伴わぬ余暇は死であり、人間の生きながらの埋葬である。」と...
肉体的享楽もさることながら、精神的享楽となれば、自分を楽しむ... 自己を楽しむ... という表現がよかろう。だが、人生を楽しむ!この当たり前の事を実践することは難しい。人は誰しも、自分の存在を正当化しようとやまない。そうしなければ、生きて行くことも難しいのだ。才能ある人ならば、能力を存分に発揮し、知識をとことん突き詰め、それを謳歌することができよう。だが、凡人に何ができるというのか。
「人間の幸福は、自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある。」とは、アリストテレスの説だ。優れた人間と言えども、憂鬱質をもっているものらしい。いや、才能豊かなだけに、余計に敏感なのかもしれない。そのために、自分自身に愛想を尽かすという苦しい思いもする。他人に同情すれば惨めになるが、自分自身に同情すれば悲惨。誰しも自分以上のものの見方はできない。だから、人間は盲目と言うしかほかはない。ゲーテは言っている、「人間のこの知的無能のために、優れたものの発見はもとより稀であるが、優れたものが認識され、それ相当に評価されるのは、なおそれ以上に稀だ。」と...
幸福は、憂鬱質を克服し、いかに鈍感に生きるかにかかっているというのか。それは、凡人の得意技だ。人のせいにできれば、そりゃ楽よ。神のせいにすれば、神も本望だろう。だが、自由意志を尊重すれば、言い訳は無用だ。そして、自由との引き換えに孤独を生贄に捧げよというのか...
「ところで『悪魔には生贄を捧げよ』というのをわれわれの格言にしようではないか。言い換えれば、災難の起りうる可能性を封じるためには、労苦か時間か不便さか回りくどさか金銭か困苦欠乏か、何か或る程度の犠牲を忍ぶことを恐れぬがよい。そうすれば、未然に防いだその災難が大きかったはずであればあるほど、困苦欠乏は小さく、かすり傷程度で、本当とは思えないくらいなものになるであろう。この原則を最も明瞭に例示するのが保険料である。保険料はすべての人が公然と悪魔の祭壇に捧げる生贄である。」

2. 孤独礼賛
世間には、孤独を死のごとく忌み嫌う風潮があり、報道屋は、孤独死を最悪の不幸のように報じる。だが、人は誰しも、いつかは独りで死と向かい合わなければならない。人生の意義の一つに、死に向かう心の準備というのがある。すっかり年老いて、慌てて孤独に耐えようとしても無理な話。社交界の役割の一つにも、相対的に孤独を知るということがある。怨みや妬みが罪だというなら関係を放棄してみては... 画策や思惑が罪だというなら集団から距離を置いてみては...
とはいえ、独りの世界に篭もれば、自分自身が見えなくなる。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体には、他人を観察することによってしか、自己を観察することができない。ラ・ブリュイエールは言っている、「われわれの不快はすべて独りでいることができないということから起ってくる。」と...
孤独は、およそ優れた人間の運命的な持ち分だという。才知に富む人ならば、独りぼっちになっても、自分の能力でけっこう慰められようが、愚鈍な人々は、社交やら、娯楽やら、ひっきりなしに目移りし、死ぬほど辛い退屈をどうにも凌ぎようがない。
「人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独のなかで自分自身に耐えられないからである。社交を求めるのも、異郷に赴いたり旅に出たりするのも、内面の空虚と倦怠とに駆られるためである。」
凡人には、独自の運動を自ら摘むだけの原動力が不足している。そのために、孤独に恋い焦がれれば、メフィストフェレスの囁きによって反撃を喰らう。社会を嫌い、人間を嫌い、自己嫌悪に陥り... 自虐の道をまっしぐら。この愚かさを承知しつつも、この道へ向かう衝動は抑えられない。アポロン神殿に刻まれた「汝自身を知れ!」という言葉は、いささかでも心得ておくべきであろうが...
「『愛しもせねば憎みもせぬ』という言葉にはおよそ処世術の一半が含まれている。『何も言わず何も信じない』という言葉には残りの半分が含まれている。とはいえ、こうした原則に類するものを必要ならしめるような世界には、背を向けたくなるだろう。」

3. 人間の規定
本書は、人間の根本を三つで規定している。
一つは、「人の在り方」、すなわち、品格、人柄、人物。これには、健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびに完成度も含まれ、これが最優先される。
二つは、「人の有するもの」、すなわち、あらゆる所有物。
三つは、「人の印象の与え方」、すなわち、外見、名誉、階級、思惑。
あらゆる差別意識は、人間が設けた規定から生じる。幸福と不幸の基準も。生き方そのものが、自分自身の中にあるにもかかわらず、他人との比較によってしか自分自身を発見できない。それゆえ、他人の欠点を探し、それを指摘し、自分の欠点を覆い隠そうとするのか。他人の弱点を見つけ出しては、自己優越感に浸って御満悦。他人の思考を気にせず、他人に依存せずに生きることは、よほどの修行を要する。
「内面的な富をもっていば、運命に対してさほど大きな要求はしないものである。」

4. 金銭欲
「人の有するもの」の代表に、金銭欲がある。しばしば世間では非難の的となるが、衣食住も、医療も、健康も、すべては金次第というのが現実だ。それは相対的な量で、要求と財産との比例に基づき、財産が増えれば、ますます貪欲となる。金では買えないものがある!というが、売っている所を知らないだけだろう。ちなみに、愛は買えるらしい。売人は小悪魔だという噂だ。フランクリンはこう言ったとか、言わなかったとか... お金と人間は持ちつ持たれつ。人間は贋金をつくり、金は贋の人間をつくる... と。
世間には、金を持っている人とは別に豊かな人がいる。能力によって金を稼ぐようになれば、その能力が固定資本となるものの、大きく儲かれば、自分の才能の利子だと自惚れる。精神のための自己投資は享楽のための投資へ向かい、ついに精神の自己破産を招く。貧困が身にしみた人ほど、この危険は大きいものらしい。本当の金持ちは、普段はあまり金持ちには見せないものらしい。富やら、階級やら、そんなものは芝居の中で演じている王様のようなものか。巨額な財産の持ち主より浪費癖が甚だしいのも、これまでの苦境の憂さ晴らしであろうか...
「内面の富を十分にもち、自分を慰める上に外部からほとんどあるいは全然何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福である。」

5. 名誉欲
「人の印象の与え方」の代表に、名誉欲がある。
「名誉とは、客観的に見ればわれわれの価値に対する他人の思惑、主観的にみればこの思惑に対するわれわれの畏怖の念である。」
それは、人間の本性に具わる特殊の弱みとでも言おうか、虚栄心が満たされるところの評判の類いである。人はみな、人からどのように思われているか気になってしょうがない。まさに、生まれつきの自然な不合理性!タキトゥスは言っている、「名誉欲は賢者にとっても最も放棄しがたいものだ。」と...
名誉欲は、誇りと密接に関係する。名誉は人間社会を生きていく上で非常に有益であるために、不名誉を避けようと敏感になる。集団に対する帰属意識が強いほど。集団に属す人は、集団の欠点や弱点を熟知しているために、それを改善したいと考えるだろうし、カント的な批判哲学が有効となるだろう。
「名声は名声を求める人を避け、名声を顧みぬ人に従う。」
一方、政治的な扇動では、民族的な優越を誇張しては、凡庸な人々に勇気を与え、団結を求めようとする。賞讃を貪ろうと。
「誇りのなかでも最も安っぽいのは民族的な誇りである。なぜかと言うに、民族的な誇りのこびりついた人間には誇るに足る個人としての特性が不足しているのだということが、問わず語りに暴露されているからである。」
虚栄心は自己欺瞞と相性がいいが、真の名誉は自己欺瞞と相容れない。
「虚栄心は人を饒舌にし、誇りは寡黙にする。」
芸術家たちは、永遠の生への思いを労作に込める。好きで好きでたまらなく、自然に魂を解放した中で生み出された労作でなければ、芸術は完成しないだろう。邪念は無用だ。これが、寿命を克服するってことであろうか。しかしながら、そんな人生が送れるのは、一握りの才能の持ち主の特権。ただ凡人にだって、自然の導くままにとまでは言わなくても、力まずに肩の力を抜いて生きてゆくことはできそうか。これを、崇高な気まぐれとでもしておこうか...
「最も真性な名声すなわち死後の名声は、本人の耳に達することは金輪際ないけれども、しかしその本人は幸福な人とみられる。してみれば幸福は名声を得たゆえんの優れた性質そのものにあり、またその人がこの性質を発揮する機会を掴んだこと、すなわち自分に適したとおりの行為をするか、ないし気の向く好きな仕事に従事するか、どちらかの境遇に恵まれた点にあったことになる。」

2017-09-03

"自然学" アリストテレス 著

天文学がまだ占星術の域を脱せず、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽していた時代、科学的な知的探求は「自然哲学」と呼ばれた。「科学」という用語が広く認知されるようになったのは十七世紀頃、科学革命の時代になってからである。
知るには、まず観ること!ここに思考の原点がある。学ぶためには知識が前提され、この受動的な思考活動の蓄積が、やがて能動的な思考活動へと昇華させる。自由意志の覚醒とでも言おうか。
観測の歴史は、実に古い。古代人が天体観測に憑かれたのは、地上の投影に思いを馳せたからであろうか。そこには自分自身を知りたいという願望を覗かせる。つまり、人類は永遠に自己を知り得ない存在ということか。そして、本格的な観測活動が始まったのは、天体望遠鏡が進化を遂げたガリレオの時代になってからのこと。観る精度が上がれば、知識はより確かなものとなる。しかしながら、人間ってやつは、近代科学をもってしても流言に惑わされ続け、アリストテレスの迷信の時代とそれほど変わりはないようだ。
本書は、観測的な根拠がないにもかかわらず、ひたすら直観によって導かれる宇宙論の醍醐味を魅せつける。その根源的な思考原理は、人類が発明した論理学の偉大さとでもしておこうか。弁証法的な方法論の萌芽を見ているような... それは、カントやヘーゲルより二千年も昔のことである。
尚、出隆 + 岩崎允胤訳版(岩波書店)を手に取る。

「自然学」は全八巻で構成され、古くは「自然学講義」と呼称されたアリストテレスの講義集だったそうな。書として成立した時期も巻によって違うようで、七巻まではプラトンの学園「アカデメイア」にいた頃のものとされるらしい。すなわち、「リュケイオン」の設立前である。そのためか?プラトンへの批判はかなり遠慮がちで、相違点を軽く指摘している程度。イデア論に対する独自の見解を示しながらも、「われわれプラトン主義者は...」という記述もある。
議論は反駁の形で展開されるが、相手はレウキッポスやデモクリトスが唱えた原子論。これは徹底的な機械論を唱える立場で、愛や理性といったものまで否定したようである。
対してプラトンは、イデアという万物の原型のような存在を中心に据えた観念論を展開した。アリストテレスは、イデア論を批判する唯物論的な立場にあるので、むしろ機械論の方が相性が良さそうに見えるが、観念的な存在まで否定する気にはなれなかったと見える。プラトンやアリストテレスは、自然哲学が無味乾燥となっていく様を嘆き、観念論へ引き戻そうとしたのだろうか。
プラトンは、真の知識は超越的で恒常的なイデアを対象とする哲学と、これに準ずる数学のみとし、現実的な物理現象を軽視した。これに対して、アリストテレスは、もっと現実を見よ!としたのである。プラトンが普遍性を重んじ、アリストテレスが多様性を重んじたと解するのは、ちとやり過ぎであろうが、前者が理想主義者で、後者が現実主義者という見方はできそうか。冷徹なほどに虚無をまとった形而上学と、崇高なほどに成熟した科学は、よほど相性が良いと見える...

アリストテレスは、形而上学を第一の哲学とし、自然学を第二の哲学とした。しかしながら、どちらを優先したところで、双方の間には矛盾がつきまとう。唯物論と観念論とて同じこと。論理崇拝者が矛盾に遭遇すれば、動揺は隠せない。アリストテレスは、あえて動揺する自己を曝け出すことによって、人間自然論を語ろうとしたのだろうか。矛盾を前にして人間の出来ることといえば、弁証法に縋ることぐらい。しかも、そこに解が見つからなければ、双方の中間に身を委ね、中庸の哲学を模索せよ!とでも言うのか。そうかもしれん...
ちなみに、レーニンの言葉に、こんなものがあるそうな。
「アリストテレスによるプラトンのイデアの批判は、観念論一般としての観念論にたいする批判である。... 或る観念論者が他の観念論を批判するとき、そのことで勝つのはつねに唯物論である。」

抽象的思考とは、自然界の合目的を知るために、目先の目的をぼかした見方とすることはできそうか。アリストテレスの運動論は、「存在」という観念的な上位概念から発していることが伺える。デカルトがそうであったように。
物理学の発展は、最も基本的な物理量としての「重力」をめぐるものであった。それは、存在する場と変化する状態、すなわち、空間と時間をめぐるもの。人間の根源的な意識が自己存在から発しており、これほど存在を意識させられる物理量が他にあろうか。にもかかわらず、女性は体重計の前では必死に存在の軽さを演じる。おいらが純情無垢な美少年だった時代、理科の先生が、真空ポンプで熱心にデモンストレーションをやっていた。どんなに重くても、どんなに軽くても、物体は同時に落ちるという実験である。先生には悪いが、おいらは懐疑的に眺めていた。ガリレオが正しいと分かってはいても、酔いどれ天の邪鬼はアリストテレスの世界で生きている。その証拠に、アルコール度数の重い方が沈むのも速い...

1.質料と形相
アリストテレスは、根源的な存在に「質料」という概念を持ち出す。物事は、素材である質料に形式を与えた時、はじめて成り立つというわけである。そして、形式化されて出現する存在に「形相」という概念を対置させる。原子構造が同じでも、DNA構造が似通っていても、形成されるものは違う。属性的な存在である質料に何かが働きかけた時、形相なるものが生じる。運動論の観点から、質料は動かされるもの、形相は動くもの。動くものはすべて何かに動かされ、さらに、動くものと動かされるものは接触していなければならないとしている。アリストテレスの時代には、真空という概念がない。近代科学をもってしても、物質や圧力が完全無の状態は見つからず、絶対真空は仮想的な状態とされ、ここにエーテル説の源泉を見る思いである。それは、受動的な知識から、能動的な自由意志なるものを覚醒させるような関係にも映る。自由意志とは、無への反発なのかもしれん...
対して、プラトンは、大や小などの属性を質料とし、基本的な唯一の存在としての形相を説いた。まずイデアという原型の存在が前提され、その変化した形である大や小、あるいは濃密や希薄といった性質の違いは、同じものだと考える。理性の原型もあれば、知性の原型もあり、様々な形で分岐した形は変質した存在に過ぎないというわけだ。こうした思考は、フラクタル幾何学や位相幾何学に通ずるものがある。
しかしながら、現実社会を見れば、もはや原型とされる理想形などというものは、欠片も残っちゃいない。質料にしても、形相にしても、おぼろげな物理量にしか見えず、真理は常にぼやけてやがる。人間社会で最も明白で明瞭なものといえば、混然たる集団そのものだ。その中に存在する一人の人間は、一つの物体か、それとも一つの霊魂か、依然釈然としない。
ただ、一つの実体ですら多様性に満ちているのは、人間だけの特質ではない。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではなかろう。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化するのは必然だというのが真の意図だと思う。法則は単純でも現象は複雑というのが真相なのだ。
とはいえ、宇宙は単純な法則に支配されているはずだ... との研究者たちの信念が科学を発展させてきた。物事を知るということは、そこに内包される原理や原因、あるいは構成要素といった本質を知り尽くすこと。こうした学問精神は、プラトンとアリストテレスで共通しており、現代科学に受け継がれる。
人生を単純化できれば、きっと幸せだろう。ただ、ある大科学者は言った... 物事はできるかぎり簡潔に、ただし簡潔すぎないように... と。理想像とする原型を崇めすぎても、はたまた、多様な現象のすべてを受け入れても、真理から遠ざかる。中間的な原理を見出すことの方に、真理に近づく道があるのかもしれない。ただし、永遠に近づくということは、永遠に到達できないことを意味する。微分学の美学とは、このもどかしさを言うのであって、ドMにはたまらない...

2. 有と無
アリストテレスは、原理は二つか三つだと言っている。原理が一つでは、あまりにも単純すぎて人間は認識能力を発揮できないであろうと。原理が多すぎれば、これまた混沌の中で認識不能に陥るであろうと。そして、「質料」「形相」という二つの原理に対して、「欠除」という第三の原理を加える。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、一対で存在するということが知る上で鍵となる。善の認識は、悪の認識によって可能となるのだ。
質料と形相は、対置関係にあっても共に有の存在で、これに欠除という無の存在を絡めて、より一層理解を高めようというわけだ。ただ、二つの有に一つの無が絡んで三つ巴となれば、三体問題のような状況になる。世間では三角関係と呼ばれる状態だ。生成するものはすべて消滅の運命を背負い、無から有が生じ、有から無が生じる関係を崩すことはできない。
では、魂の不死ってやつは、単細胞生物のような存在を言うのだろうか?一つの細胞が永遠に細胞分裂を繰り返せば、永遠に若返ることができる。人間が精神分裂症を患うのも、不死に焦がれた結果であろうか。ただ、いずれは環境に影響されて分裂は止まる。中途半端な分裂状態ほど厄介なものはない。では、DNAのような単なる分子構造ならどうであろう。受動的なままでいれば、消滅もありえないのか?永遠に存在したければ、無のままでいることか?だとすれば、死にも幸せを見い出せるかもしれない。人は、まず受動的な存在として生まれてくる。生まれることも、生まれる場所も、選べない。にもかかわらず、生き方となると、自ら支配しようとする。さらに、死との向かいた方となると、選択肢は二つしかない。必死に生きるか、必死に死ぬか。死を完全に支配しようとすれば、自殺の道ぐらいしか残されていない。天国への道は受動的でも、地獄への道は能動的なのだ。人は誕生日を祝う。死に近づくことをみんなで祝う。生とは、死の運命を背負うこと。それを知りながら。はたして、生きている自分と、死んだ自分とでは、同じ存在であろうか?
時間は、善意にも、悪意にもなりやがる。たった一分でも、地獄のように長く感じるかと思えば、一年を与えられても、天にも昇る気分のうちに一瞬で過ぎ去る。昨日はもう来ない。明日は来るかも分からない。現在に絶望すれば、未来に根拠のない希望を抱く。これが能動的な生き方なのか。過去は、片時も休まず未来を抹殺し続け、希望はすぐに絶望に変質する。すべては意識の産物か、幻想か。有限もまた無限に飲み込まれ、結局は同じことか...

3. 自然物と人工物
「自然」を理解するためには、これに対置する言葉が欲しい。世間では「人工」という言葉を当てる。人間は、自然物ではないというのか?それとも、自然から逸脱して取り返しのつかない状態とでもいうのか?この方面でのエントロピーは絶大のようである。芸術では、自然は神の代替物として描かれる。宗教では、自然の合理性から神の合目的が説かれ、あちこちに神の代弁者を名乗る者がわいてでる。人工とは、悪魔の仕業か?人間は、そうした意識を潜在的に持っているようだ。その証拠に、自然災害に対して、人災という言葉を持ち出しては有識者どもが憤慨する。もし人間が神の子だとすれば、人間が人間を抹殺にかかることの説明がつかない。
ただ、言葉の対置は、あくまでも認識能力からくる人間の都合であって、これが真理なのかは分からない。それでも、言葉からでしか学問を発展させることは叶わない。すべての知は言葉や記号で構成され、無知の知というものを自覚した時、精神のうちに何かを覚醒させることが可能となる。
そして、人間は、言葉で自問し、自己を語り、自己を崩壊させる運命にあるのか。ならば、無知のままで、そして、永遠に奴隷のままでいる方が幸せかもしれない。アリストテレスの「生まれつき奴隷説」も捨てたもんじゃない。ドMには...

4. ゼノン仮説の論駁
ユークリッド幾何学のような純粋数学を記述するには演繹法が輝き、おそらくこの思考法が王道なのだろう。しかし、人間社会を記述するには、帰納法が現実的である。前者をプラトン流だとすれば、後者はアリストテレス流とでもしておこうか。実際、本書には帰納法が鏤められる。
ただ、帰謬法となると、毛嫌いする記述も目立つ。帰謬法とは、ある命題をまず偽と仮定し、その矛盾を示すことによって命題が偽ではないことを証明する方法で、背理法と呼ぶ方が馴染みがあろうか。どうもアリストテレスは、偽を仮定することに抵抗があると見える。ニュートンが仮説を嫌ったように。それが顕著に現れる議論が、ゼノンの運動否定論に対する論駁である。それは、アキレスと亀のレースで語られる二分法の原理。そう、ゼノンのパラドックスっやつだ。
「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である。」
アリストテレスは、あらゆるパラドックスを受け入れれば、運動そのものを否定することになると指摘している。そもそも人間の存在が矛盾しており、神の合目的に照らしても説明できない。そして、矛盾が矛盾を呼び、人間そのものを否定せざるを得なくなる。ここに、論理の限界がある。人間が存在するかも怪しいとなれば、仮想社会に邁進するほかはあるまい。ちなみに、宗教があらゆる存在の意義を唱え、死後の世界を必ず用意しているのは、そうでもしないと、庶民がついて来れないという事情がある。

5. 無限の境界面をさまよう...
「万物は数である」とは、ピュタゴラスの教義である。自然数で表されるものは、すべて実存として定義できる。例えば、直角三角形の二辺を自然数で描いてみれば明白であろう。古代ギリシアで、作図問題が実存証明において重要とされたのも頷ける。有理数は、分母と分子を自然数で記述するので、実存を示している。アリストテレスは、人間が力学を観測できるのは、空間と時間の有限界においてのみだとしている。
では、無理数は記述できるだろうか?無限はどんな存在であろうか?数学は、∞ という記号を用いる。こいつは数と呼べる代物なのか?便宜上のズルではないのか?コンピュータだって無理数を近似演算で誤魔化しているではないか。無限には、永遠に吸い込まれそうな魔力を感じる。有限と無限の境界は、記述上では近くにあっても、実存となると果てしなく遠い。とはいえ、単位正方形の対角線は、どんなに目盛りを細かく切った定規を使っても、正確に長さを測定することができない。そこに、√2 という無理数が現れるからだ。しっかりと図形で描けるということは、無理数の実存性が証明できているではないか。そりゃ、数に実存性を求めたピュタゴラス教団が隠蔽するのも無理はない。
アリストテレスは、無限は実存しないとし、空虚の類いとして扱っている。しかしながら、無限までも大小関係を記述した野郎がいる。カントールは、無限の濃度を定義しやがった。そう、アレフってやつだ。数学は魔物か?これをアリストテレスが聞いたら、どう反駁するだろう?前提知識が違うだけで、賢さはこっちが上手だとでも言うだろうか?どんなに賢明な思考でも、その根源にはいつも疑問がつきまとう。ならば、答えよりも疑問の持ち方、質問の仕方の方が重要と考える方が賢明かもしれない。結果よりもそこに至る思考過程の方が重要と考える方が。ただ、過程にあるものは、不完全であることを意味する。なぁーに、心配はいらない。不完全な存在はどうせ完全には到達できない。真理の探求とは、微分学の美学を示している通り、もどかしいものらしい...

6. 深遠な真円よ!
真理が、無理数、無限、無秩序など無の側にあるとすれば、有限界に生を授かった人間にとっては絶望的である。しかしながら、有限界にも無限モデルが存在する。そう、円運動だ。幾何学が真円を崇めるのは、生に希望を持たせるためか?人間が創作意欲を持ち続けるのは、創生に限界がないこと、ひいては、自己存在が永遠であることへの願望であろうか?有限界だけでなく、無限界にも、安住の地を見い出せれば幸せになれそう...
アリストテレスは、移動を「第一の運動」とし、円運動を「第一の移動」としている。本書には「慣性」という物理用語は登場しないが、円運動のみが永遠に連続的であるしている。円運動は、時間までも凌駕する。運動方向が同じでも、角度によって状態を変え、おまけに逆戻りを必要としない。180度の移動は人格を正反対にし、360度ならば昔のまんま。始端も終端もなければ、誕生も死滅もない。この無限モデルは図形に描くことも簡単なのだから、実存することは明白だ。
ちなみに、四則演算に対して第五の演算と呼ばれるものに、モジュロ演算がある。この演算法は、幾何学的に投射すると円運動をする。しかも、四則演算をすべて可能とする深遠な演算となるのだ。モジュロ演算は、剰余演算とも呼ばれる。割り算の余りとは、数の残り物。昔の人はうまいことを言う。残り物には福がある... と。