2015-01-25

理性の検閲官ども

なぜ、人は群れるのか...
人との付き合いに飽きれば、自然との戯れを欲し、いつも何かと接していないと落ち着かない。それゆえに、自我を肥大化せずにはいられないのか。知識や美徳を求めるのも、詫や寂を欲するのも、その類いであろうか。人はみな、寂しさに耐えながら生きている。ただ、それだけのことかもしれん...

人間には、心地良いものに群れる習性がある。虫が灯りに引き寄せられるように。都合の良い解釈で集まり、似たもの同士の相乗効果によって感情論を増幅させる。個人で見せる豊富な寛容さや冷静さは、集団の中ではまったくの無力。人間社会では、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強そうだ。堂々とした悪徳と陰湿な正義が同居し、加害者が正義を装って被害者の側に回ることもあれば、真の被害者が退場させられることだってある。売り言葉に買い言葉... 何気ない一言に怒号が群れ、理性の検閲官を自認する者が、ますます横暴に振る舞う。たとえ小さな善意の集まりであっても、しばしば大きな悪意へ変貌し、正義ですら社会的制裁だけでは飽き足らず、ストレス解消の道具とされる。
人の集まるところに欲望が群がる。善意によって集められた支援金は、多額なだけに質ちが悪い。一人で良い目にあうと、それを誰かに伝えたくてしょうがないものらしい。善意の性分は、押し売り根性と相性がいい。
人には、集団からはみ出すことを嫌う性向がある。派閥を作っては、自ら思考することを放棄し、一人の長に意思決定を委ねる。正直者は堕落と官僚主義に押し流され、集団的な堕落は、不和から生じるのと同じくらい同意からも生じる。戦争とは、集団性の産物でしかあるまい。
おまけに、プレゼン力やアピール術が物を言うと真理は多数決に流され、魔女狩りの類いは過去にもまして牙を剥く。情報が氾濫する社会では、情報のS/N比を低下させ、弁論術はソフィストの時代よりもいっそう盛況となる。露出狂と暇人が共謀してゴミ投稿を煽り、ネット資源を浪費し続ける。
こりゃ負けちゃおれん!そして、自己の馬鹿を曝け出し、自己の馬鹿を舐めるように愛しながら書く。そう、ジャンク長文で応酬だ!

1. 個人と集団の差異
人体は原子の集まりによって形成され、そこには一つの魂が宿る。人間社会は個人の集まりによって形成され、ここにもまた集団的な意思が生じる。個人と集団の違いは、原子には意思なるものがないが、個人にはあるということぐらいであろうか。純粋なものが集まれば秩序が生じ、意思あるものが集まれば秩序を乱すというのか?だから、政治家どもは思考しない国民を求めているのか?なるほど、思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
固い結束はファシズムと相性がいい。自意識を高めた輩が群れると、正義や義務までも凶暴化する。一昔前、B29に竹槍訓練で対抗しても仕方がないと呟けば袋叩きに合い、講和論を唱えようものなら非国民と呼ばれた。そして今、東京オリンピックの開催に苦言をツィートすると非国民と罵られる。福島原発のあの有り様を見て、なにが復興オリンピックなのか?泥酔者にはとんと分からん。
近年、国粋主義や全体主義から離れて、違った形でファシズムが横行する。禁煙ファシズム、エコファシズム、友愛ファシズム、絆ファシズム、原発ファシズム、脱原発ファシズム... 集団が束になって流行めいたものを追いかけるという意味では、一種のファッション感覚。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ...とは、まさにこれだ。高度な情報社会には、戦時中にもまして検閲官どもが溢れている。人間の意思ってやつは、大勢の語り手に圧倒されると、狂気するものらしい。では、誰も悪くないというのか?いや、誰もが少しずつ悪いのだろう...

2. 笑い禁止令
笑いを感じる能力は、音楽を感じる能力と似ている。音楽センスに長けた者が美しいメロディーを感じることができても、目の前にある芸術にまったく気づかない人もいる。そこに確実に存在するものは、音波という物理現象のみ。それを感知する能力は、極めて主観的で、どこか狂っている。論理をもってしても、理性をもってしても、説明できない。だから面白い。真の芸術は、わざわざ権威を示す必要がない。理解者のみが自然に堪能できればいいのだから。それは、聖書を理解できる者が、その権威を示す必要がないのと同じであろう。笑いもまた高度な芸術の領域にあるのだろう。笑いの能力は高等な動物の証とされる。それゆえに検閲の対象は、まずもってこの方面へ向けられる。
しかしながら、理性が暴走すると、冗談も言えない息苦しい社会となる。エイプリルフール禁止運動まである。確かにネット社会には、行き過ぎたイタズラの類いが風説流布となって猛威をふるう。目を覆いたくなるようなものまで。これに対抗して、理性の検閲官はちょっとした冗談でさえ許さず、ソーシャルメディアという裁判に引き出し、集団リンチにかける。リンチに参加するつもりがなくても、無責任にコメントしたり、気軽に賛同するだけで参加させられる。責任ある立場の者が問題を曖昧にする分、明確な意見を言う者がバッシングされる。謝罪はもはや形式だけ、真摯、誠実、反省... こうした言葉をますます安っぽくさせる。凡庸を自覚できなければ、その他大勢にも完璧を求めるというのか。まるで言霊信仰!情報社会が高度化すると、情報の自由化が進み、知識や価値観に多様性をもたらしそうなものだが、逆に同じ解釈をする人々が集まって二極化する。
しかしながら、多様性は寛容性と相性がよく、笑いのセンスほど多様性に富んだものはない。笑いのレベルで社会の成熟度を計ることができよう。冗談も通じない社会となれば、言葉が貧弱になり精神もまた貧弱になる。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、それらが共存するためには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。笑いを禁止しなければ理性が保てないとすれば、理性もまたどこか狂っている...

3. バラエティー化と引き算の法則
マスコミの正義ほど違和感を覚えるものはない。悲劇を演出しながら、人格まで事細かく報じ、被害者を晒し者にする。被害者の写真のドアップが、加害者よりも、はるかに放映時間が長いとはこれいかに?マスコミは、人に勝手なキャラクターを植え付け、メディアという舞台で演じさせる。マスコミ嫌いには悪役のレッテルを貼り、媚びを売る者には善人役を与えるのだ。したがって、論理的に語れる者よりも、感情的に巧みな者の方が、好人物の役柄が得られることになる。スポーツ中継では、アスリートですら勝手にキャラクター付けされ、純粋に楽しめない。場内音声のみという選択肢しかないか。題材とは無関係のタレントを出演させ、スポーツや政治など、あらゆる分野にバラエティーを混入し、双方の世界を台無しにする。視聴率主義が、なんでも足し算させようとするのだろうか?
政界にも、足し算の法則に目を奪われ、政党の合併や選挙協力によって支持層を増やそうとする目論見が横行する。まったく性質の合わない政党が結びつけば、却って逃げていく支持者がいる、という思考は働かないらしい。無節操な混ぜあわせは、引き算の法則が働くであろうに...

4. 良識派ども
自称良識派は実名主義を掲げ、理性的な議論を求めるために極論を持ち出す。だがそれは、価値観の押し付けという側面がある。実際、正義感旺盛のネット民によって、実名はオモチャにされ、脅迫、誹謗の類いに曝される。法に基づかない私的制裁が、社会的制裁に変貌するのに大して手間はかからない。これは、実名うんぬんより、集団性の法則として承知しておくべきであろう。自由主義の暴走は、迫害にも自由を与える。
市民運動にだって利権が絡み、真の意味での民主主義運動を見分けることは難しい。中には、純粋な動機で参加している人々もいるが、その運動に利権を絡めた政治屋が暗躍することも多々ある。尚、ここで言う政治屋とは、政治家だけではない。あらゆる集団には謀略好きな輩が必ずいるということだ...

2015-01-18

暴走老人症

文豪ゲーテは、七十を過ぎて二十歳前の娘に求婚したという。not 酒豪も負けちゃおれん!一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。ホットな女性の数だけ愛があるとすれば、惚れっぽい独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう...

さて、歳を重ねると丸くなると言うが、それは本当だろうか。心配症を募らせ、せっかちになり、頑固になり、嫌味の一つも口にしないと気が済まない。説教することでストレスを発散させているのだ。おまけに、足が臭くなり、口が臭くなり、酒の場で醜態を演じながら、肉体も精神も腐っていくのを感じる。
信じられない速さで去っていく... 時とは、そういうものらしい。だからこそ、自然で風狂な言葉を欲するのであろうか。死に近づけば、詫び、寂びってやつが見えてくるのかは知らん。だが、そうした美意識にでも縋らなければ生きることも難しくなる。沈黙の美徳を忘れ、相手を黙らせてまで議論に割って入り、批判論、いや愚痴論を喋らずにはいられない。これも、ある種の依存症か。
もはや、デジタル依存症などと若者たちに説教を垂れている場合ではない。ちなみに、スマホを自宅に忘れ、オンライン(二段階)認証ができないと騒ぐオヤジがいる。

経験を積んだからといって理性的になるわけではない。経験したからといって理解したことにはならない。生まれたばかりの幼児は、野心や邪心の欠片もない純粋な状態にある。対して、大人はどうであろう。
プラトンは、森羅万象の原型であるイデアなるものを唱えた。魂にも原型のような状態があり、そこから善の根源的な意識が芽生えると。しかし、知識を得れば、そのすべてを脂ぎった欲望に注ぎ込み、もやは知識のない頃の自分を思い出すこともできない。人の言葉は耳に入らず、思いやりや友情などという言葉に照れくささを感じ、正義や道徳という言葉ですら虫唾が走る。子供が素朴な哲学者とすれば、大人は脂ぎった屁理屈屋というわけだ。寛大な者を僻み、人々に愛される者を妬み、知識ある者を羨み... 魂は嫉妬の塊に成り果てる。おまけに寿命が延びれば、生への執着は衰えるどころかますます旺盛となり、命が一番大切だと叫びながら、他人の命を押しのけてまで助かろうとする。そして、どう生きるかではなく、長く生きることが目的と化す。ますます自己保存に執着し、未練を永遠に断ち切れそうにない。
その一方で、余命宣告を受けた者が、超人的な能力を発揮することがある。死に近づくことによってしか、生を問う機会が訪れないというのか。平均寿命が延びれば、新たな世代層が生まれ、社会の構成員が変わり、幼年、少年、青年、壮年、老年の概念も変わっていく。だが、いつの時代も、古き時代を鼻で笑い、新しき時代に過剰な期待をかけることに変わりはない。新技術や最先端という言葉に目を奪われ、進化や進歩という言葉までも迷信化する。そんな時代にあっても数千年前の哲学が輝きを失わないとすれば、人類は慢性的に老人症にかかっているのかもしれん...

受け入れる度量のない子供に道徳観や倫理観を期待しても、人間が人間でなくなることを期待するようなものである。とはいえ、大人だって具体的に指示しなければ、行動できないではないか。大人だって大きな子供でしかない。
孔子曰く... 十五で学問を志し、三十で独立精神を持ち、四十であれこれと迷わず、五十で天命をわきまえ、六十で人の言葉を素直に聞き入れ、七十で思うままに振る舞って、それで道を外れないようになる...
しかし現実は、十歳でお菓子に、二十歳になると快楽に、三十になると野心に、四十になると愛人に、五十になると利欲に憑かれる。そして、迷信、偏見、誤謬へ導き、自分を賢いと信じ、人を見下すような権威主義に陥り、人権はとるに足らないものとなる。都合の悪い問いかけは、脂ぎった魂が常識とやらで片付けてくれるという寸法よ。
腐敗は、生あるものの本質か。自己に疑問が持てなくなったら、腐っていると見るぐらいでちょうどいい。大人から教わることは、たいてい本を読めば済む。だが、子供から教わることは、理屈では説明できないことが多い。R-18 指定すべきは、理性や知性の方かもしれん。酒の味を知らぬ者が、プラトンの「饗宴」を読んだところで得られるものはあるまい...

1. ささやかな煩悩
一霊四魂という思想があると聞く。勇、親、愛、智によって構成される魂が、一つの霊によって統括されるという思想である。いずれの魂も孤立すれば、邪気となる資質を具えている。邪気が悪魔の手に落ちれば、たちまち邪悪な鬼と化す。血塗られた歴史の陰には、いつも邪鬼が潜んでいた。アダムとイブが禁断の果実を食して以来、人間は神の意を解すことができなくなり、お釈迦様ですら菩提樹の下で心を惑わせた。イエスは敬虔な使徒に裏切られ、シーザーは誠実な盟友にあやめられ、芸術を愛した皇帝ネロを暴政に狂わせ、ボルジア家を強欲の代名詞とし、建築家を夢見た内気なヒトラーをば悪魔へ変貌させた。人の心には、恐ろしき邪鬼の棲家がある。歳を重ねれば、心の病を克服することができるだろうか?
仏教では、克服すべき最も根源的な三つの煩悩を三毒と呼ぶそうな。貪、瞋、癡が、それである。一つの欲望を満たせば、すぐに次の欲望に走る。他人が持っているものが良く見え、それを欲する。カネが欲しい、愛人が欲しい、時間が欲しい、快楽が、才能が、知性が、理性が... まったく懲りない性分よ。すべての欲望を放棄できれば、精神は自由になれるであろうに...
しかしながら、精神は欲望によって成長する。欲望を捨てたいというのも、これまた欲望!精神とは、欲望に幽閉された存在というだけのことかもしれん。
一方で、芸術家の目覚めは精神を悟るに、いくら狂っても足りない。四魂の邪鬼を存分に解放させてもなお、猛烈な狂気の調和を目論んでやがる。ただ、能力が欠けていても夢を描くことはできる。偉大な夢を実現できたら、どんなに幸せであろう。せめて過ちを夢に閉じ込められたら、どんなに楽になれるであろう。そして、狂人の悲痛な叫びを聞くがいい... おいらのささやかな望みは、ハーレムに収監されたいだけなのだ!

2. 頭脳年齡と知性年齡
若い頃は、優れた人物の言葉に率直に耳を傾け、同世代の仲間と議論することで、より多くを学ぶことができる。だが、大人になると防衛意識や縄張り意識のようなものが働き、似た者同士で集まろうとする。寛容性では子供の方が優れていそうだ。友情とは、人を利用するために育むものではあるまいに...
本質を学ぼうとする資質も、政治的な思惑に毒された大人よりも、純粋に学びたいと願う子供の方が優っていそうだ。やはり大人になるほど狡猾になるものらしい。
しかしながら、大人や子供の指標は年齡では計れない。仮想社会の奇妙な人間関係が、妙に社会的な意識を成熟させたり、大人顔負けの戦略的思考を実践する者までいる。大人たちがネット社会から子供を守ろうと手引を思案している間に、子供たちは遥かに有用な行動をしている。むしろ大人たちの方が、子供の持ちかける議論に感情的になり、子供じみた犯罪を繰り返しているではないか。
長老という威厳も過去のものか。寿命が延びれば、親より先に逝くケースも増え、世代の概念までも曖昧にさせる。頭脳年齡や記憶年齡というのは、確かにある。肉体が衰えれば、人体の機能組織が衰えるのも道理だ。知識を得ようとする意欲もまた年齡に関係しそうなものだが、死ぬ瞬間までその意欲を持続させる者がいる。持続力とは、天才の特質であろうか。知性年齡や理性年齡なるものは、時間とは別の次元にありそうだ...

3. 遠近法と老眼法
情報の溢れる社会では、あまりにも身近なために、つい見過ごしてしまうことがある。情報収集の難しい時代は、瞬時の変化を探知する微分的視点が必要であったが、今日では、積分的思考の方が有効であろう。世間から少し距離を置くことも大切にしたい。意欲さえあれば、情報は自然に得られる時代、くだらない意欲さえ放棄できれば、くだらない情報は自然に遮断されるであろう...
分かりやすい情報は目の前を通り過ぎて行きやすい。そこに疑問を感じなければ、思考する機会も訪れない。その点、難解な書は思考の材料にうってつけだ。だからといって、理解できると期待してはいけない。目は文章を追うものの、頭は別のことを考え、幽体離脱のような気分にさせる。絵画を鑑賞するようにページを眺め、数十ページ単位で後戻りするのもしばしば。少し目を離し、遠近法のような立体的な観点を要請してくる。そういえば最近、近くが見えにくい... 老眼って言うな!

4. 地球の老化とともに
毎日、顔を合わしていれば、十年経っても変化した様子が見当たらないというのに、十年ぶりに友人に会うと、歳をとったなぁ、という印象を与える。そして、毎日、自分自身を鏡に映し、明日はまだ大丈夫!と自分に言い聞かせる。そして、保証のない安心を買い、不摂生を繰り返す羽目に...
地球環境も似たようなものであろうか。平凡な日常が、環境の変化に気づかせない。百年前の人が現在にタイムスリップしたら、空気の香りや山の景色に驚愕し、町の汚染に幻滅するかもしれない。温暖化と寒冷化の繰り返しは、生物の生存分布に大きな影響を与える。今後、十年から二十年ほどのスパンで世界的な食料危機が訪れると言われている。ある研究報告によると、植物が光合成によって生産する有機物の総量、いわゆる純一次生産が、地球上でほぼ一定だとか。つまり、地球上の植物で養うことのできる生命の総量が決まっているということだ。
もし、その量が限界に近づいているとすれば、酸素を必要とする動物たちを激減させて、二酸化炭素を吸収する植物の社会からやり直さなければなるまい。それが、氷河期の意義であろうか?やがて氷河期を迎え、人類がまた生き延びられるかは知らん。ただ、偉大な地球の歴史に照らせば、エネルギー消費量の高い生物は、その数を思いっきり増やしてきたツケを払わされることになろう...

2015-01-11

暴走主義

暴走好きな人間という種をこしらえたのは誰か?やはり神も暴走好きであったか...

人はよく、権利だ!義務だ!責任だ!なんてことを言う。だが、そんなものは都合よく解釈されるだけのこと。無駄、無意味、無価値といったものもそうだ。そして、正義ですら解釈される。この方面で、人類はいまだ普遍性なるものを知らない。
パスカルは言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。良心の妄想ほど正義と相性のいいものはない。良心ってやつは、押し付けがましく、自信満々なだけに厄介となりやすい。歴史を振り返れば、人類愛を唱える修道士ですら侵略者のごとく残虐行為に及んだ。愛の押し売りほど残酷なものはない。神の代弁者... 神の生まれ変わり... といった思想はいまだ健在。神に憑かれた狂気は、悪魔に憑かれるがごとく。
権利の暴走がタカリ屋を増殖させ、義務の暴走が思考を停止させ、責任の暴走が迷信を助長させる。おまけに、情報社会が高度化すると、皮相の見は独り歩きを始め、庶民の集団性が理性の検閲官となり、魔女狩りの類いはますます猛威をふるう。正義漢とは、一過性の熱病のようなものか。決疑論は集団性によって研ぎ澄まされ、有徳者や有識者ですら駁論を見出すことができないばかりか、煽る側に立つ。ますます自意識を膨らませ、どんな残虐行為でも、これは犯罪ではない!と叫ぶことができるのだ。そして、妄想的な成敗が現実のものとなる。
一方で、必殺仕事人は、お金を貰わないと絶対に仕事をしない。どんなに少ない金額でも、依頼者が精一杯工面したという理由付けだけが、正義の暴走を食い止める唯一の動機となるからだ。理性も、知性も、正義も、道徳も、愛情も... 心地よく響く言葉は、すべて暴走する性質を持っている、と心得ておくぐらいでちょうどいい。善意の増殖は、ある閾値を超えると悪意へ変貌する、と...
では逆に、悪意の増殖は、ある閾値を超えると善意へ向かうだろうか?いや、マクスウェルの悪魔君をもってしても、この方面のエントロピーは絶大だ。逆説的ではあるが、正義という自意識を放棄しなければ、正義を冷静に実践することはできないのかもしれん。ならば、無責任な泥酔者は、世間を笑い飛ばしながら生きていく...

人間ってやつは、心の拠り所となる何かをこしらえないと、不安でしょうがない。神とは、人間が都合よく編み出した偶像であろうか。真理もまた、究極の退屈しのぎのために編み出した妄想であろうか。神の狂信者は神の寛大さに縋って無限の赦しを乞い、真理の探求者は真理の偉大さに縋って無限の知を求める。
しかしながら、不死を求めても永遠の魂は得られず、知識の永続を求めても永劫回帰の道は遥か彼方。人類は、自己存在を証明するための言葉を求めてきた。神の言葉を... 真理の言葉を... そして言葉は知の象徴となった。だが、どんなに言葉を求めても、神も、真理も、一向に見えてこない。生命は定められた道を行くしかなさそうだ。人類は、いまだ自然の意図を解せないでいる。それどころか、自分自身が自然状態であるのかも疑っている有り様。その証拠に、「自然」に対して「人工」という言葉を編み出した。有史以来、人類はせっかく記録という概念を発明しながら、寿命の限界を打ち破れずにいる。
ウィトゲンシュタインは言った... およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない... と。もはや、残された道は沈黙しかないというのか。冥界には、沈黙との自然な戯れがあるとでもいうのか。真理の道とは、沈黙を守ることで犠牲を捧げることなのか。だから、あのナザレの人は無実を承知で黙って血を捧げたのか。
しかしながら、言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を得れば、それをひけらかさずにはいられない。経済社会が消費を煽らなければ成り立たないように、知識社会もまた情報を煽らなければ成り立たない。知性ある者が知識を自慢するだろうか?理性ある者が道徳観や倫理観を自慢するだろうか?
そして、鏡の向こうでは、お喋り好きな酔いどれが長ったらしい文章を書き続け、夜の社交場でウンチクを垂れてやがる。パスカルが言うように、やはり人間とは狂うもの、いや、自己陶酔するものらしい... いやいや、君に酔ってんだよ!

1. 覗き穴のモラル
着替えに集中しているホットな女性に声をかけるのは、礼儀に反する。せっかく湯につかってくつろいでいるのに、声をかけるとは言語道断!紳士のおいらができることと言えば、壁穴から温かく見守ってあげることぐらいさ...

2. 理性ってなんだ?
良心と相性のいいものに理性というものがあると聞く。我が家の国語辞典によると... 物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力... とある。道理ってなんだ?... 物事の筋道... とある。筋道ってなんだ?... 物の道理、条理... とある。まるで堂々巡り!国語辞典ですらまともに説明できないものを、一介の酔いどれごときがどうして知り得よう。
数千年に渡って、偉大な哲学者たちは中庸の原理を唱えてきた。万物のバランスこそが宇宙の真理であると。それは、陽と陰、善と悪、美と醜など、あらゆる対比から生じる相対性認識論と言うべきものである。精神を歪ませれば、あらゆる病を引き起こす原因となる。いや、歪んだ心で眺めれば、病気はむしろ健康に見えるか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、まさにそれだ。なんと幸せなんだろう。人間とは、幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるものらしい。カントは、理性批判の中で普遍的な道徳法則のようなものを語った。道徳ですら、理性ですら、暴走する危険性があることを匂わせて。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん。
有徳者どもに理性があるか?と問えば、馬鹿にするな!と言わんばかりに怒鳴る。ならば、いつも憤慨しているのはなぜか?理性の力をもってしても、心を平静に保てないというのか?仮に理性を実践し、義務を果たしているというのなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい...

3. 知性のコーナーを攻める!
教育が専門化によって没落するという意見を耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。間違っているのは、専門化ではなく、問題に対する理解の深さが欠けていることであろう。つまり、哲学的観点が欠けていること。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。
人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。知識が豊富でも精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれたアル中ハイマーには知性なんぞ永遠に無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしであり続けるだろう。
知性は、健全な懐疑主義と自己啓発された個人主義に支えられている。ならば、精神をちょっと破綻させ、ちょっと狂っているぐらいでちょうどいい。それを自覚できれば、なおいい。ちょっと馬鹿なぐらいでちょうどいい。ちょっと自信がないぐらいでちょうどいい。ちょっと幸せを意識するぐらいでちょうどいい。そして、コーナーの限界を攻めるには、ちょっとアンダーステアぐらいでちょうどいい。
ちなみに、夜の社交場では、ちょいワルぐらいでちょうどいいと助言を頂いたが、清楚で通っているおいらには無理な相談よ!

4. デモクラシーの象徴ども
フランス革命が提示した、自由、平等、博愛という三大原理は、いずれも単独で大暴走する性格を持っている。それは、既に恐怖政治で実証済みだ。三位一体の調和が崩れた時、自由主義が弱肉強食的な資本主義を煽り、平等主義が搾取的な共産主義を敢行し、博愛主義が魔女狩り的な盲目主義を崇める。
愛が暴走する代表的な情念に、愛国心ってやつがある。愛国心の弱点は、自国を誇りに思うことと、他国を蔑んで優位に立つことを混同すること、そして、誰もが狂信的な愛国者へ変貌する恐れがあることだ。国家を支える理想主義には、既に予知された災厄が潜んでいる。経済政策さえうまくやれば、少々無謀でリスクの高い外交政策にも世論は目を瞑る。
民主主義の弱点は、誰もが厄介事に眼を背けることと、責任の所在が明確でないことに加え、集団性がこれらの性質を助長することだ。個人では理性的に振る舞うことができても、集団化すると悪魔化する。しかも、それに気づかない。集団ってやつが人をこうも浅ましくさせるものであろうか。人はみな、少しずつズルい!エリート集団が厄介なのは、責任や義務を巧みに逃れ、権威だけを増幅させることだ。かつて強者が弱者を叩く時代があった。今は弱者がより弱者を叩く。社会システムが抽象化すれば、世論は鈍感になるのか。
どんなに美しい理念も、他との調和を失った途端に暴走をはじめる。善も、悪も、理性でさえ、知性でさえ。そして、暴走してみて初めて、自分自身の愚かさを知る...

2015-01-04

こけた...

証拠物件1:


昨年は午年ということで、跳ね馬のごとく駆け抜けるつもりであったが、暴れ馬のごとくこけた!バイクの修理代が痛い...
今年は、羊のごとくおとなしくするつもりでいる。おっと!夜の社交場方面から初詣のお誘いが...