2014-02-23

"エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話" Paul Valéry 著

ヴァレリーが、プラトン風の対話篇を書いているとは知らなんだ。本書に収録される三作品は、彼の最も美しいとされる対話篇だそうな。文学作品への想いが自然な物理現象として現れると、もはや余計な知識はいらない。文章の流れとは、川の流れのごときものであったか...
しかしながら、あらゆる物理現象は、観測することによって認識される。人間の認識能力では、観測系の介在なしに物理系を構築することができないのだ。人間が認識した途端に、あらゆる現象を捻じ曲げて見ていることになる。自然のままの自分の姿すら見えない。精神の投影を崇高な光に頼ったところで、光ってやつは障害物の前で反射し、屈折し、たちまち分散してしまう。人間ってやつは、生きている間に様々な知恵をつけ、その積み重ねが狡猾さを身に付ける。光はいつも回折し、余計な知識が真理への道を回り道させる。今宵も、琥珀色に染まったグラスの反射光がまぶしく、目の前がよく見えん...

「人間であるか精神になるか、そのどちらかを選ばねばならない。人間が行動できるのは、ただただ知らずにいることができ、人間の特異な奇癖である認識の一部分で満足できるからに他ならない、つまりこの認識というものは必要以上にすこし大きすぎるのだ!」

プラトン風の対話篇であるからには、ソクラテスが登場する。しかも、冥界に。お宅が隠遁したのは、騒ぎ立てる俗人どもが煩わしいからですかねぇ、ソクラテスさん?
「死者の国では思考は分割できない。いまではわたしたちはあまりに単純化されていて、何かある思考が動きはじめると、その動きが終点に達するまで、じっと堪え忍んでいるしかないのだ。生者には肉体があり、そのおかげで認識を中断して出ていったり、また戻ってきたりできる。生者は一軒の家と一匹の蜜蜂とからできているわけだ。」
魂が肉体という宿に住み着いている間は、純真な思考を呼び起こすこともできないというのか?ならば、目の前で思考している者がいれば、静かに見守り、余計な口出しをして邪魔をしないでおこう。ましてや人の話している途中で、言葉の揚げ足をとったり、大声で割り込んだりするのはやめるがいい。自由に話すから、自由に質問できる。まずは自分に問い、そして自分に答えることだ。沈黙を守ることで相手に犠牲を捧げることが、真理への道となろう。
ソクラテスは、一旦、理性をも蔑み、アンチソクラテスを演じて見せる。自己否定の試みか。既に社会が腐敗していれば、やがて肉体も腐り果てる。先んじて肉体を棄て、雲や風の動きに魂を同化させる方が、よっぽど有意義だとでも言わんばかりに...
「あの下界では、不滅だった、... 死すべき者たちに関連してのことさ!... しかし、ここでは... いや、ここというところはない、わたしたちがいま言ったことは、すべて、この冥界の沈黙の自然な戯れに他ならない、わたしたちを操り人形のようにあつかった、向こうの世界の、とある修辞家の気まぐれと同じように!」
なるほど、ソクラテスの試みもまた修辞家の気まぐれで、そこに不滅があるというわけか。そして、この気まぐれな修辞家こそが、ヴァレリーさん御自身でしたか...

「人間は自然全体ではなく、ただその一部を必要としている。もっとひろい考え方をして全体を所有したいと望むのが哲学者だ。だが人間は生きることしか望んでいなくて、鉄も青銅も必要とするのではなく、あるしかじかの硬さ、あるしかじかの可延性を必要としているにすぎない。... 人間は自分の目的しか見つめない。」

1. エウパリノス
ソクラテスとパイドロスを登場させ、冥界で対話させる。パイドロスは、高名な弁術家リュシアスの心酔者で、プラトン著「饗宴」にも登場する。話題は、偉大な建築家エウパリノスの言葉をめぐってのもの。
「愛する対象が人びとを動かすように、わたしの神殿は人びとを動かさねばならぬ。」
自然哲学への想いを強めるあまりに、人工物の限界を悟り、ついには建築物の可能性までも圧殺してしまうのか。なぁーに、心配はいらない。建築物の静的空間の中で、精神活動を反映する音楽へと議論が及ぶと、まさに静と動の調和芸術として蘇る。沈黙の建築が、魂の中で歌いかける建築へと昇華させるのだ。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとした。澄みわたった空の中に旋律の大建造物を想い描くと、一方の側に音楽と建築、他方の側にいろいろな芸術を位置づけるよう導かれるという。額縁に囚われた絵画は事物なり人物なりを装うだけ、彫刻も同じで視界を飾る一部分に過ぎないと。
確かに、絵画は静の手段である。だが、巨匠が手掛ければ、動画よりもはるかに動的な物語を演出するではないか。額縁が世界を閉じるというなら、壁画はどうか?建築物の装飾はどうか?そこに、なんらかの幾何学的形象が生じ、哲学的意義を与えるならばどうであろう。空間的な静と時間的な動とのコラボレーションこそが、ある種の小宇宙を形成する。永遠の存在を代弁する不動性と、奏でながら瞬時に過ぎ去る流動性との調和が、無限の宇宙を物語っているではないか...

2. 魂と舞踏
ソクラテスとパイドロスに、エリュクシマコスが加わって、舞踏の意義についての論議が始まる。エリュクシマコスは、同じくプラトン著「饗宴」に登場する医者で、ソクラテスの思想を注いで欲しいと願っている。だが、凡人は、知性よりも明日にも役立ちそうな知識に目を奪われ、美味の餌食となる。いくら思想のご馳走にありついても、消化不良に陥っては元も子もない。すると、医者の立場から身体の健康を気遣わずにはいられない。
川がただ水を上から下に流すだけの存在だというなら、人間はどうであろう。喰ったものを排泄しているだけではないか。しかも、川の流れよりもはるかに早く果てる。民衆の気移りは激しく、世論は右往左往し、どんな頑固爺であっても、自然の意志力には遠くおよばない。そんなものに、理性を獲得する能力があるというのか?本当に、魂は人間固有のものなのか?どんなに立派な人間であっても、喰うためなら何でもやる。生きるためなら何でもやる。理性が働くのは心に少し余裕がある場合であって、自己存在に保証がなければ何でもしでかす。だから、見下しながら施すか、見返りを求めながら施す。肉体が優雅に踊っていられるのも、魂に余裕があるからだ。知性も同じよ。モノの本質を見極めようとするのも、心のゆとりからくる。そこで逆説的ではあるが、自己の正体を知るために、純粋な魂を呼び起こすために、一旦、舞踏の享楽に身を委ねてみてはいかが...
「真実と虚偽とは同一の目的をめざす、... 同じひとつのものが、別々の仕方で振舞うだけで、わたしたちは嘘つきにもするし、真実を語る者にもする。」
ムーサイの舞いに見蕩れ、一旦、官能の世界へと魂を誘なう。優雅な踊り子たちと音楽の共演の中に身を委ね、さらに酒によって魂を浄化する。すると、素朴な無知者でも、自然美を見分ける能力を纏うことができるとでもいうのか?甘美な接吻の渦の中で、高貴な美脚をむさぼり、知性豊満なボディラインに顔をうずめてみよとでも。よーく分かった!さっそく従おう。真理の素はハーレムであり、真理の道とはエクスタシーへの道であったか...

3. 樹についての対話
古代ローマの詩人ルクレティウスと、ウェルギリウスの「牧歌」に登場する牧人ティティルスが登場する。晩年に相応しい樹齢を思わせるような作品。自然の偉大さに、人間の命の果敢なさを投影するかのような...
人間はたかだか生きて百年だが、植物には何千年と生きるものがいる。有史以来、人間どもをずっと観察してきたヤツもいるだろう。人間の知能で、自然のすべてが語れるとは思えないし、植物に意志があったとしても不思議はあるまい。植物にしても生あるものは、なんらかの周波数を発している。そこに、言葉がないと言い切れるだろうか。人間が言葉として捉えられるのは、知覚能力で制限される特定の周波数範囲においてのみ。自然の声を耳にするには、資格が必要なのかもしれない。曇のない心を持つ者なら、ひょとしたら聞こえるのかもしれない。
しかしながら、人間は純真さを失っていく。生きるための知恵ってやつが、狡猾さを身につけさせるのか。自然が神の恵みならば、知恵は悪魔の恵みなのか。人間どもには、いつだってメフィストフェレスに魂を売る用意がある。人間社会に横行する誇張、流布、デマの類いに耳を傾けるぐらいなら、川の流れる音、波の音、草木が風に揺られる音に耳を傾ける方がいい。芸術の天才たちは、自然とよしみを通じあう能力を持っているのだろうか。その資格を持っているのだろうか...

2014-02-16

"ムッシュー・テスト" Paul Valéry 著

ポール・ヴァレリーといえば、小説家というより評論作家という印象がある。いつも知性溢れる評論振りに魅了され、おかげでポーの「ユリイカ」やパスカルの「パンセ」にも出会うことができた。彼が評論した作品にはすべて触れてみたい!と願っているのだが、なかなか...
さて、「ムッシュー・テスト」は、ヴァレリーの残したただ一冊の小説集だそうな。ごく短い数篇の小説と断章群とから成り、その一つ「ムッシュー・テストと劇場で」は、小林秀雄訳以来(昭和7年)ずっと「テスト氏との一夜」という訳題がつけられてきたという。ムッシュー(Monsieur)という語はよく敬称に用いられるが、翻訳者清水徹氏によると、この小説では少し違うニュアンスを与えていて、わずかな軽蔑と皮肉、あるいは喜劇的な意味が込められているのだとか。また、テスト(teste)は、tête の古い綴りで、「頭、おつむ」といった意味がある。したがって、「ご立派なオッサン」といった感じであろうか。なるほど、評論作家としての優雅な皮肉振りが顕れている。下手な訳題が小説のイメージを壊すことがある。微妙なニュアンスは読者の感性に委ねた方がいい...

「わたしは文学を疑っていた、詩というずいぶん精密な営みに対してまでそうだった。書くという行為は、つねに、ある種の知性の犠牲を要求する。たとえばだれもが知るように、文学書を読むための諸条件は言語への過度の精密さとは相容れない。知性はえてして日常言語に不可能な完璧と純粋を求めたがる。しかし、精神を緊張させなければ快楽をえられない読者などめったにいるものではない。わたしたちは何やら面白がらせなければ読者の注意を惹きつけられないし、こうした種類の注意は受け身なものだ。」
ヴァレリーは、いきなり物書きとしての虚しさを語り始める。そして、テストという人物像は、彼自身の意志に酔っていた時代に、奇怪な自意識過剰の渦中から生み出されたと語る。学問の威信や魅力の大部分は、若干の約束事から借りてきたもので、青春とは、その約束事がよく分からぬ時期であり、また、よく分かってはならぬ時期であるという。人生には、盲目的に従ったり、逆らったりする時期も必要なのだろう。青春期には自由を奪われ息苦しく感じるもので、いまだ盲目的に逆らう酔っ払いは青春真っ盛りよ。
真理を言葉に求めれば、信念や偶像に対する軽蔑から生じる人間の悪魔性を恨み、やがて自己嫌悪に陥る。人格の可塑性は、情緒の激しい若年期に、社会への反抗という形で深く根付いていく。物書きの資質は、こうした精神活動から育まれるのであろう。ムッシュー・テストとは、ヴァレリーの分身であったか...
「存在する一切をただ自分だけに変形し、自分のまえに何が差し出されようと、それを手術してしまう、そんな精神の持ち主と見える存在に対して。わたしは想いをうかべるのだった。」
これは、哲学する自分自身を外から眺めているような人物の物語。哲学を疑う立場からの哲学論議とでもしておこうか。哲学する自分を観察しながら哲学をやり続けると、やがて思想、信条といったものに興味を失っていくのだろうか。客観性を身に付けるとは、そういうことであろうか...
人間は他人との比較、批判によって、自己の鏡像を見出そうとする。自分には自分の姿が見えないのだから。では、鏡像のない人間、あるいは、鏡像を必要としない人間とは、どういう存在であろうか?重量をまとった霊感のごときものか?まさか、それが悪魔ってやつではあるまいな!なぁーに、心配はいらない。人間の精神空間には、神の棲家も用意されている。なんじの悪魔を隠せ!と言うなら、なんじの神を隠せ!とでも言ってやれ!ただし、家を用意したところで、誰が住み着くかは知らん...

ところで、哲学には「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、理念的な... といったメタ的思考が。対して、形あるもの、時間や空間を含めた物理量で計測できるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神上でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而の上にあると、どうして言えよう?哲学が自問の原理に支えられる以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自分自身にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお精神が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となり、扱いは危険となる。ときには、人間の掟に背き、自我が構築してきた原則を破り、あるいは、自己の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。下手すると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。メタ的思考も、もうメタメタよ!
精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となる。思考の死が肉体の死を招くのかは知らん。精神の持ち主は、常に肉体が自我に弄ばれる宿命を背負う。ここに思考実験の恐ろしさがある。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対してですら残虐行為に及ぶことがある。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。幸福になりたいだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。信じるだけで導いてくれるのだから。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は、常になんらかの泥酔状態にあり、自我への陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。したがって、哲学するに、アルコール成分は絶対に欠かせない。強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでいいではないか。まろやかな香りが孤独を演出すると、そこには、琥珀色に染まったグラスに話しかける自我がいる。ちなみに、ヴァレリーにはフィーヌ・ブルゴーニュがよく合う...

1. 人生の終止符
精神の勝利の瞬間をいくつか数え上げようとすると、くだらない記憶ばかりが蘇る。いくつか読んできた本の内容ですら思い出せない。だから、こんなブログを書いているのかもしれん。思考の履歴を刻むために。良いことばかりが記憶に留まるわけではない。嫌なことを意識して忘れようとしたわけでもない。ただ残ることのできたものが、残っている。そのおかげで、歳をとることにも驚かずに済む。やがて、記憶の蓄積が知性へ昇華させ、死の恐怖を和らげてくれるのだろうか?その恐怖を自然に受け入れられる心境となった時、精神が勝利する瞬間となるのだろうか?それをじっと待ちながら、日々の作業に明け暮れ、自己の年代記を刻み続ける。
しかしながら、どんなに言葉を駆使しても、精神を言い当てるような的確な言葉は見つからない。必死に夢想したところで、自己の理想像を思い浮かべることもできない。思考を重ねれば、自己愛も、自己嫌悪も、その双方で旺盛となる。いつの日か、どちらの自分も受け入れられる時が来るというのか?それが、自分に終止符を打つということなのか?あるいは、単なる諦めの境地であろうか?
「透明な生活を営んでまったくひとめにつかず、孤独に生きて、世のだれよりも先がけて理(ことわり)を知っているひとたちだ。無名に生きながら、彼らはいかなる著名な人物をも二倍に、三倍に、数倍にも偉大にした人物だとわたしに思えた、... 幸運をつかもうと、独自の成果を挙げようと、それを世に示すことなど軽蔑している彼ら。思うに、自分は、そこらへんにあるものとはちがう、などと考えるのは拒んだことだろう...」
思考や行為を完全に自己管理できれば、完全な自由人となれるだろうか?いや、管理できない部分があるから人生は面白い。それを放棄するとは、なんともったいない!気まぐれほど偉大な精神活動はない。そのおかげで、知らない自分を発見することができる。そして、死期もまた突如としてやってくるのだろう。死期までも想定できたら、人生はますますつまらぬものとなりそうだ。生を律する倫理学があるなら、死を基軸に据える哲学があってもいい。精神の危機に対抗するために、死の意義を考え、そこに生の意義を求める。無を基軸とした人生観とでもしておこうか。
しかし、これは賭けだ。人間の能力では到底答えられそうにないのだから。それでもなお賭けに挑むのが、ヴァレリー流倫理学というものであろうか...
「ことはつまり、ゼロからゼロへの移行だ。そして、それが人生なのだ。無意識にして無感覚から、無意識にして無感覚へ。見ることの不可解な移行、なぜならその移行とは、見ないことから見ることへと移ったそのあとで、見ることから見ないことへと移ることなのだから。」

2. 死すべき人間
ヘシオドスの言った「死すべき人間」ってやつは、あらゆる場面で自己愛を見出す能力を持っている。時には自分を偉いと思い、時には自分を愛し、時には厭わしく思い、時には支離滅裂となり... そうしたことが、いかに自己を抹殺していることか。それにも気づかず、権威や名声や地位の殉教者と成り果てる。希望という幻想に魅入られると、絶望という名の希望に憑かれ、ついには人生に疲れる。自我ってやつは精神空間を、下等動物に位置づけるゼロ点と神を位置づける無限大点との間を、恐ろしく敏速に往来してやがる。自己の正体を知らないということが、無と無限の間を瞬時に移動させるのか?まるで株式の変動相場のように。慈しみと憎しみの間を瞬時に往来すれば、いつも両極に吸い寄せられて偏見となる。知性が... 理性が... いったい何を補完してくれるというのか?思想なるもの、信条なるものが馬鹿馬鹿しく見えてくる。これが死すべき人間の本性というなら、そうかもしれん...
「崇高なるものが連中を単純化している。断言してもいい、連中の考えるところは、そろって、しだいに同じことがらのほうへと向かってゆくんだ。やがては危機だか共通の限界だかをまえに、ずらりと等しなみに並ぶことになるのさ。もっともこの場合、法則はそんなに単純じゃないぞ... このわたしにはおかまいなしなんだから、...で ... わたしは現にここにいる。」

3. 意識の産物
「愛すること、憎むことは存在の下位にある。愛すること、憎むこと... それはわたしには偶然のように見える。」
俗人の愛といえば、家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろう。こうした愛は感受性に囚われる。しかも、憎しみの根源となるのだ。罵り合えば、双方に悪魔を目覚めさせ、空想の中に愛の理想像を描き続ける。憎しみの理想像までも。だから、すぐに現実逃避に走るのか。こんな都合のいい能力は、神ですら及ぶまい。なんでも実現できる神が、空想に縋るはずもない。いや、全能者なら空想をこしらえる能力もあるか。現実世界に、人間なんて不完全なものをこしらえるぐらいだ。まさか!神までもが、現実と空想の区別がつかない?ってことはないだろうなぁ...
すべてが意識の産物だとすれば、現実だろうが、空想だろうが、どっちでもええでねぇかい!ただ、空想だからやり直しができる、なんて特別扱いするから、自我を悲惨へ導く。宇宙にしても記述でしか示せず、紙の上にしか存在しないではないか。無限なんて大した問題じゃなければ、無なんて恐れるに足らん。神(かみ)と紙(かみ)が、同じ音律なのは、偶然ではないのかもしれん。そして、安心して自己を疑い、自己存在を否定することもできるという寸法よ。尚、亭主はかみさんに頭が上がらないものらしい。
道理に幻滅し、成功の確実性に嫌気がさしたら、冒険をしてみることだ。自分の中の所有者をくまなく探してみることだ。完全なんて糞食らえ!人生もまた、意識の産物でしかないのかもしれないのだから...
「わたしは馬鹿者ではない、なぜならば、自分のことを馬鹿者だと思うたびに、わたしは自分を否定しているからだ。自分を殺しているからだ。」

2014-02-09

"怒りについて 他二篇" セネカ 著

セネカをもう一冊...
本書には、「摂理について」、「賢者の恒心について」、「怒りについて」の三篇が収録される。その流れは、まず、自然の摂理によって生じる災難を試練と捉えた運命論を語り、次に、人間社会で受ける不正や侮辱に対抗する恒心を語り、最後に、最も心を乱す怒りの情念に対処する方法論を語る。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの語の音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん...

ストア派哲学者として知られるセネカは、カリグラ、クラウディウス、ネロという言わば病的で狂乱的な皇帝に仕え、ついには謀反の嫌疑で自裁を命じられる。政界には暗殺や陰謀が渦巻き、いかに毒された時代であったか。それはタキトゥスの批判的叙述を読めば想像に易い。社会の退廃は、思想家の間で道徳観念を優勢にさせる。ストア学派もまた、ローマ帝国にありながら、ポスト・アリストテレスの流れを汲むヘレニズム調の一派として育まれていく。そして、古代ローマ社会にとって、ストア学派はキリスト教の受容の素地となったとも言えそうか。社会の退廃を目の当たりにすれば、人間は誰しも愚痴っぽくなり、説教じみてくるものかもしん。賢者といえども...
ただ、あまりに完全無欠の賢者モデルが提示されると、こそばゆい。エピクロス派を非凡な義務を負わせていると批判して、凡人を導くものでなければ... などと語られるが、やはり凡人未満はストア派になれそうにない。尚、あるパブにセネカさんという女性がいると聞くと、そちら方面のセネカ派にはイチコロよ!

さて、心を最も乱す情念といえば、怒りであろうか。そのシンプルな形は復讐心として現れる。他人から不幸を被れば、倍返ししたいというのが人情。おそらく、法律の実践において最も機能するものが、復讐の及ぶ範囲の規定であろう。古くから、復讐行為に制限を与える法律が実践されてきた。ローマの十二表法では、怪我を負わせた者に対して同じ程度の復讐が許され、ハンムラビ法典には、目には目を歯には歯を... といった記述が見られる。武士の時代に仇討ちが合法化されたように、騎士の時代にも決闘の法慣例がある。いずれも同等の報復まででチャラにし、報復が無限に及ぶのを禁じようとするものである。
セネカは、怒りを不正に対する仕返しの欲望であるとしている。しかも、衝動ではなく、きちんと判断した結果であると。だからこそ、陰湿な陰謀といった行為に及ぶ。しかしながら、不正を規定することは難しい。誰もが都合よく解釈し、巧みに主張する者が勝つ社会となれば、正義が不正に加担することになる。怒りの情念は狂気の類いであり、些細な理由とて一旦激怒すれば、正義も真理も見分けがつかない。動物にも、衝動、狂暴、獰猛、攻撃性はあるが、それは怒りではない。動物には不正の概念がないからだ。満腹なライオンは人が側を歩いても襲わない。セネカは、怒りが存在しないのは奢侈がないのと大差ないという。ただし、ある種の快楽に対しては人間よりも無抑制ではあるけれど。
動物には、徳が認められなければ悪徳も認められない。となると、徳だけを持ち、悪徳を持たない人間なんて存在しうるのか?有徳者たちは悪徳にも優れているということか?だから、恥ずかしげもなくモラリストを演じていられるのか?慢性的に恐怖や不安を抱えていれば、その反動で怒りっぽくなり、最も動物性の強い情念を剥き出しにする。だが、怒りも捨てたもんじゃない。自己への怒りとなれば、自省自戒の念へと向かわせるだろう。やはり、怒りは排除すべきものとするより、自然の情念として受け入れ、抑制する手段を考えた方が良さそうである。
そこで、セネカは、生を浪費する人間どもに、時間と死の概念を伝授する。怒った相手には、議論を持ちかけるのではなく、考える猶予を与えること。怒った自己には、生の果敢なさ思うこと。
「何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである。」
いかに生を浪費させているかを知り、時間を克服し、存在を克服することこそが、心の平静を取り戻す極意というわけか。
しかしながら、怒りと同様に手強い情念がある。愛こそが、人々を盲目にする恐るべき相手だ。大衆の盲愛が個人崇拝に及べば、残虐な行為ですら命じられるがまま。しかも、自己が制御不能に陥っているにもかかわらず、自由意志で行動していると信じ込む。したがって、怒りに愛が結びついた愛憎劇ほど、最も過酷となろう。憎しみを快楽にしてしまうだけにタチが悪い!
「怒りが自然に即しているかどうかは、人間を観察してみれば明白だろう。心のあり方が健全であるかぎり、人間より穏やかなものがどこにあろう。だが、怒りより過酷なものがどこにあろう。人間以上に他者を愛するものがどこにあろう。怒り以上に憎むものがどこにあろう。人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破滅のために生まれた。人間は集合を欲する。怒りは離散を欲する。人間は貢献を欲する。怒りは加害を欲する。人間は見知らぬ人すら援助する。怒りは愛しい者すら苛む。人間は他人のため、進んでみずからを危険にさらす。怒りは危険の中へ、もろともに引き込むまで堕ちていく。だから、この獣じみた危険この上ない悪徳を自然の最善にして完全無欠の業に帰す者ほど、自然を理解していない者がどこにいよう。」

1. 摂理について
摂理が存在しながらも、なぜ善き人に災厄が降りかかるのか?自然の摂理とは、無作為にカオスから生じた結果でしかなく、そこには秩序は存在しないのか?宇宙のクラスタ化とは、いわば地方自治における秩序のようなものが自然に形成された姿ではないのか?なぜ、銀河団、太陽系、あるいは地球という単位で秩序らしきものが生じるのか?しかし、地球上にも不規則な現象が生じる。突然の嵐、炸裂する稲妻、怒り狂う火山、滑り落ちる地面、押し寄せる高波... 自然は人間にとって都合のよいものばかりではない。普段は神との和解によって、平穏が保たれているものの...
善き人という定義も難しい。人間社会にとって善き人でも、自然にとってはどうなんだろうか?正義も、道徳も、理性も、知性も... 精神の持ち主の気まぐれや退屈しのぎに過ぎないのかもしれん。精神の鍛錬と解釈すれば、悪もまた善に転換される。質素な生活が不憫とも言えないし、惨めに見えても本人は楽しんでいるかもしれない。一方で、裕福に暮らしてもなお自殺しおる。
「何にせよ度を過ぎれば害になるが、節度なき幸福は何より危険である。脳を揺さぶり、心を虚ろな妄想へ誘い込み、偽りと真実の中間の靄を大量にまき散らす。徳の支援の下に絶えざる不幸を凌ぐほうが、はてしない度外れの善で破裂するより、どれほどましなことか。断食の死のほうが楽である。食いすぎは破裂させる。」
自分に何ができるかは試さずに分かるはずもない。若い時の苦労は買ってでもせよ!と言うが、年を取っても悟れなければ、旅を続けるしかないではないか。寿命が延びれば、親より子供の方が先にあの世へ逝くケースも珍しくない。年齢は抽象化され、定年なんて概念も吹っ飛ぶ。
「私は信じる。不幸に遭わなかった者ほど不幸な者はいない。自分を試すことが許されなかったからだ。」
ストア派は、宇宙が究極的な善によって設計されているという一元的な理性主義の立場をとる。この宇宙原理を神と解することも容易いので、キリスト教とも相性が良さそうである。とはいえ、人の世には不合理が充満する。賢者ソクラテスですら名誉を汚され処刑された。弟子たちが脱走を促したにもかかわらず、国家の名の下で裁かれる方を望んだのだ。彼の意志が、能動的か受動的か、見解が分かれるところであろう。セネカは、能動的試練と捉えている。世間から不正や侮辱を受けても、いかに対処し不動心を会得するか、これを問うている。理性ってやつは、権威や名声なんぞに左右されないものらしい。
「成功は民衆や凡才にすら訪れる。だが、死すべき者を襲う危機と恐怖を打ち倒し、敗北の軛の下へ送り込むのは、偉大な者の本分である。実際、いつでも幸せで、心の苦しみを知らずに人生を送るのは、自然の今一つの部分を知らないでいることである。」

2. 賢者の恒心について
「賢者は安泰である。いかなる不正にも侮辱にも動じない。」
ソクラテスの精神「善く生きる」が、継承された作品ではあるが、どうも説教じみて聞こえる。というのも、賢者は一切の悪徳を持たないので、悪を受けることも、不正を受けることもないというのだ。しかし、ソクラテスは不正を受けて処刑されたではないか。当時のローマの愚暗な風潮から、悪徳を徹底的に糾弾せずにはいられなかったのか?侮辱という人間社会の軋轢や、集団的悪魔を風刺したような皮肉も見られる。おまけに愚痴ぽい。
「われわれは、途方もない浅薄さに至った結果、苦痛はおろか、苦痛の想念に悩まされている始末である。実に幼稚だ。」
不正が悪なくしては存在せず、悪は卑劣さなくしては存在しないとすると、おまけに、卑劣さが高潔さによって占められているところに到達できないとすると、不正が賢者にまで届く道理がないという。
「賢者は怒りを知らない。怒りを駆り立てるのは、不正の様相である。だが、怒りを知らないことは、不正も知らないのでなければ、ありえない。」
しかしながら、誰の威信も傷つけず、身体も傷つけず...という人間が存在するだろうか?社会競争に自身が曝されれば、人が生きるということ自体、誰かを犠牲にしていることにならないのか?賢者は、自分に不正が及ばないことを知っており、それゆえに自信と歓喜に満ちているという。
では、いつも憤慨している有識者や有徳者たちは、賢者とは程遠いというのか?これは納得!侮辱に動かされる者は、自らの内に何ら思慮も自信もないことを暴露しているという。賢者は、そうした心痛や不愉快の感情など、克服するどころか、感じすらないという。鈍感ってことか?不正も侮辱も感じないとすれば、復讐心も生じようがないので、人を罰する立場にはうってつけであろうけど。政治家どうしで罵倒し合い、社会に不快感をまき散らすのは、賢者でない証というのか?これも納得!
では、最高の徳の持ち主とされる政治指導者たちが賢者でないとすれば、どこに賢者がいるというのか?政治とは無縁な僧侶の中にいるというのか?お布施でベンツを乗り回すような、あるいは、神の代理人と自称する者か?どうりで、自信満々に理性を振りかざし、説教したがる輩が大勢いるわけだ。善が人間の本性なら、悪もまた人間の本性。超人でもなければ、完全に不正を断ち切ることなどできまい。悪徳の蔓延る社会が住みづらいのは確かだが、賢者ばかりの社会も窮屈そうである...

3. 怒りについて
社会の幸福を損ねる筆頭がローマ皇帝とすれば、権力抗争で皇帝自身が侮辱の餌食となる。総督、裁判官、民衆までも追従しては、狂気の沙汰よ。怒りは懲罰に貪欲で、自然本性は懲罰を愛好しないという。怒りを、復讐心に限定すれば、そうかもしれない。だが、有徳者や理性者ほど、罰則を強化せよ!と主張するではないか。管理や監視を強化したがるではないか。
怒りは、嫉妬からも差別意識からも生じる。見下した者が自分より賢い行為をなせば、腹立たしくもなる。エリート意識の類いだ。どんなに優れた法案であっても、政治家自身が主役になれなければ、抵抗勢力に成り下がる。自分が介在できなければ、他人の幸せまでも邪魔をする。怒りが自己愛からも生じるとすれば、賢者には自己愛がないというのか?
やはり、怒りとて必要ではなかろうか。自分への嘆きが怒りとなって、自己の欲望を抑制するところがある。怒りは、判断から生じるのか?衝動から生じるのか?ストア派の見解では、心が賛同しているとしている。不正を被って、復讐を熱望するということは、立派に判断が下されていると。ただ、深い思慮の下での判断かは別だが。他人の悪徳に依存するというくらい馬鹿馬鹿しい生き方もなかろう。絶えざる憤怒と憂いのうちに過ぎていく人生なんて。
しかしながら、非難すべきことを目にせず、憤慨せずに済む、なんてことがありえようか。仮に衝動だとしても、それがなければ退屈しそうである。つまらぬミスをした自分に、憤慨することがよくある。反省ではなく、怒るのだ。だから、また同じミスをやる。怒りは、嘘つきや悪賢さに比べれば純真に見える。だが、セネカはそれは純粋ではなく無分別だとしている。愚者、浪費家、放蕩家の類いか。
「怒りは贅沢より悪い。なぜなら、贅沢が堪能するのは自分の快楽であるのに対して、怒りが楽しむのは他人の苦しみだからだ。怒りは悪意と嫉妬を打ち負かす。それらは相手が不幸になるのを欲するのに対して、怒りは不幸にするのを欲するからだ。」
セネカは、怒りに対する処方箋を二つ提案してくれる。
一つは、時間の概念。怒りっぽくなったら、相手にも自分にも猶予を与えること。つまり、遅延だ。時間の役割は、なにも面倒なことを先送りによって安心するためのものではあるまい。時間の収支は常に赤字で、期限に追われ、機嫌を損なう素となる。人間社会では、なんでも早く片付ける事が善とされる。仕事、スポーツ、コンピュータ処理、速読法... これに速愛法を付け加えておこう。それもそのはず、生きる時間が限られているのだから。ただ焦っているだけという見方もできるか。愛する二人は、時間が止まってほしいと願う。それもそのはず、別れる運命を暗示しているのだから。
「怒りの最初の発作を言葉で鎮めようとしてはならない。耳が聞こえず、正気でないのだから。怒りに時の猶予を与えよう。緩和してきたとき、治療はよく効く。目が腫れ上がってる時は手当てを控え、力が冷えて固まっている時、動かすことで刺激する。他の疾患でも、激しい時は同様である。病気の初期段階は安静が癒してくれる。」
二つは、死への想い。永遠の生を承ったかのように怒りを宣言し、束の間の人生を霧消させる。自己の気高い喜びの時間を放棄し、他人の苦痛と呵責に費やす。そして、振り返れば、死が迫っている。
「今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できす、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えうるかどうか、気をつけるがいい。善き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受けとるのだ。」

4. アリストテレス論
アリストテレスは、怒りの情念を必要とした。それなくしては戦闘は不可能だし、精神と意気に火をつけることもできないと。ただし、それは指揮官ではなく、兵士に必要だとしながら。対して、セネカはこれを誤りだとしている。怒りの特性は頑固さであるが、勇敢さは怒りから生じるものではないと。理性に基づく怒りは、もはや怒りではないということか。
ちょいと、アリストテレスを弁護するなら...
怒りによって描写できる芸術というものがあろう。怒りが制御可能なほど小さい分には、大した問題になるまい。怒りに歯止めをきかせることこそが問われるべきではないか。人間が具える自然の情念を抹殺するとは、神経を切断するようなものではないか。一つの情念を抹殺すれば、別の情念を暴走させ、精神を歪ませることになりはしないか。もっと言うならば、抑制能力を身につける上でも、怒りは必要なのではないか。実際、自然の摂理に対しては、現実を受け止めて試練とせよ、と語っていたではないか。怒りは、人間にとって本当に自然本性的なものではないのか?怒りに対して抑制力を身につければ、あらゆる情念の暴走をも、自己への怒りとして抑制することができるのではないか。これが調和、すなわち、中庸の原理というものではあるまいか...
そもそも、人間精神は常に正気でいることの方が難しい。自己を完全に制御することは不可能であろう。目に見える身体ですら、血液の流れを止めたり、心臓の鼓動を自由に止めたりはできない。ましてや目に見えない、実体があるのかも分からない魂を完璧に制御するなど...

5. 僭主弑殺者の逸話
「怒りについて」で紹介される僭主弑殺者の逸話は、どこかで読んだような気がするのだが、ゼノンのパラドックスの類いであろうか?記憶が定かでない。それは、怒りが僭主をして僭主殺しに手を貸すというお話...
アテナイ王ヒッピアースの暗殺に失敗した者が捕らえられた。共謀者を白状するよう拷問にかけると、王の周りに立つ友人たちと、王の安全を大事にしている人々の名前を挙げていく。ヒッピアースは、名前が挙がる度に一人一人殺すよう命ずる。そして、まだ誰か残っているか?と尋ねると、後はお前一人だ!お前を大事にしている者は一人も残さない!と答える。己の防護を、己の剣で抹殺したのだった...
この逸話は、エレアの哲学者ゼノンに関わるものとされるそうな。
対して、アレクサンドロス大王は豪気だ!侍医ピリッポスの毒に気をつけるよう忠告されても、恐れもせず杯を受け取り、友人を信頼する自分を信じて怒りごと飲み干したのだった...

2014-02-02

"生の短さについて 他二篇" セネカ 著

前記事では、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの自省自戒の態度に魅せられた。彼に強く影響を与えたストア派哲学にも触れてみたい。とはいえ、あまり良い印象を持っていない。物理学や論理学を倫理学の中に押し込み、頭でっかちな道徳観念を押し付ける、いわば宗教の臭いがするからだ。しかし、酔っ払いの偏見かもしれない。実際、アウレリウスの唱えた不動心は、セネカあたりから発しているようである。

セネカという人物を知ったのは、タキトゥスの「年代記」を読んでからのこと。彼の死に様が克明に記されている。その箇所を、ちょいと読み返しておこう...
皇帝ネロに対するピソ一派の陰謀が露呈すると、その一味として疑われ自決を命じられる。百人隊長によって伝えられた命令に対して、泰然自若として遺言の書板を要求するも、拒絶される。すると、セネカは友人に言葉を残す。「最も気高い所有物を遺贈したい。それは、私がこの世に生まれた姿だ。」哲学の教えを忘れたのか?長年に渡って考え抜いてきた決意は?そして心の平静はどこへいった?と嘆きながら。生への執着よりも名誉ある死を選んだのは、ソクラテスの精神を継承している。ところが、セネカは相当年を食っていて、節食のため痩せ細り、血の出が悪いために、さらに足首と膝の血管も切られる。ついに友人の医者に毒を与えてもらうが、既に毒も効かないほど手足は冷えきり、五体の感覚も失われている。最後に、熱湯風呂に入り、熱気の中で息絶える。...
その壮絶な死は、画家ルーベンスの作品「セネカの死」にも描かれる。肉体の逞しさなど、タキトゥスの記述とは少し印象が違うにせよ、金属製のたらいに両足を入れて立たされた偉大な哲学者が、口を半開きにし、求めるように右手を差し出しながら、最期の言葉を語ろうとしている。背後で甲冑を身につけた兵士が見守る中、流れ出る血を拭っているのか抑えているのか、たらいの水は赤みを帯びていく。その足元には、言葉を待ち構えて筆を持った者がいて... まさに死にゆく姿が、そこにある。
本書は、タキトゥスやルーベンスの描いたセネカの死に様を、生の意義として蘇らせた作品と言えよう。セネカ哲学とは、生の意義から死を克服する道... とでもしておこうか。尚、ここには「生の短さについて」、「心の平静について」、「幸福な生について」の三篇が収録される。
「畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。」

人はなぜ、何事も都合よく解釈できるのか?なぜ真の姿を見ようとしないのか?いや、見ようとしないのではない。一向に見えてこないのだ。人間の営みってやつが... 義務は、社会に翻弄され、組織に翻弄され、おまけに自己の欲望に翻弄され、忙殺されていく。今やっている仕事は、義務と呼べるほどの代物なのか?と問えば、生活費を稼ぐためとしか答えられない。何かに燃え尽き、真っ白になると、真っ赤なネオンサインに照らして生の活力を蘇らせる。そして、その繰り返し...
人を難ずる前に我が身を省みよ!とは、実に耳の痛い御指摘である。誹謗中傷の類いは、大方この呪縛に嵌る。人間らしく生きるとはどういうことなのか?と問えば、刺激的に生きたいという願いだけが意識のどこかにある。人間社会そのものが、人間の数だけ無理やりにでも仕事を創出し、義務を創出し、価値の循環を煽らなければ成り立たない世界だとすれば、それは自然に適っているのだろうか?などと問うてみても、そうするしか術を知らない。真の義務や自由とやらは、永遠に見えそうにない。凡庸な、いや、凡庸未満の酔っ払いは大声で人生は短いと嘆き、自然な天才は静かに人生を謳歌する。生は短く、術は長い!とはよく言ったものだ。ならば、のんびりと精一杯生きるしかないではないか...

1. 生の短さについて
植物には何千年と生きるものがあるというのに、偉大な魂の持ち主とされる人間はたかだか生きて百年。あっさりと流れに乗って終焉を迎えるのが、死すべき者の持ち味というものか。しかし、その果敢なさを嘆くのは、生があまりに短いのではなく、多くを浪費するからだという見方も、もっともな話である。セネカは言う。人間の生もまた、立派に全うすれば十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられていると。
「死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。」
ある者は闇雲に利欲を貪り、ある者は酒霊に憑かれ、ある者は怠惰に耽けり、ある者はあくせく精出す無駄な労役に囚われれ、ある者は公職(好色)への野心で疲労困憊... 莫大な財産といえでも衝動に駆られ、たちまち雲散霧消!仕事にかこつけて、引退したら「第二の人生」などと言って、あたかもそこに希望を見出そうとする。遅蒔きなことよ。寿命が延びれば、生の意義までも先送り。自由の権利をやかましく主張しても、真の自由人になろうとはしない。実は、自由とは面倒なものなのか?アリストテレスが言った生まれつき奴隷ってやつは、あながち嘘ではなさそうである。
さて、セネカの思想の根幹には、ソクラテスの「魂の不死」があるのだろう。注目したいのは、生の意義を求める方法論として死の意義が位置づけられていることである。
「何かに忙殺される人間の属性として、真に生きることの自覚ほど希薄なものはない。もっとも、この生きることの知慧ほど難しいものもないのである。... 生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝に思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。」
さらに、閑暇に生の意義を求めることを「不精の多忙」、あるいは「怠惰な忙事」と呼んでいる。あまりの不精のせいで無気力になり、腹が空いたかどうかさえ自分には分からなくなると。
「すべての人間の中で唯一、英知のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、真に生きている人なのである。」
生きる術とは、死ぬ術のことであったか。死を恐れ遠ざけるだけでは、生と向き合うことも難しいのかもしれん。死を克服できれば、時間を克服し、生の意義を見出すことができるのかもしれん。そして、有意義に生きよ!との忠告に異論を唱えるつもりはない。
しかしながら、無駄を経験せずして、それを知らずして、有意義を知りえようか?有徳者の言うことを鵜呑みにすれば、宗教の類いと何が違うのか?無条件に信じて生きるだけなら、自己の所有までも放棄することになる。生きる道を探求するには、自律的、自発的でなければなるまい。そこには、寄り道や回り道といった道がありそうだ。生の意義を自問し続ければ、最も恐れる死に対しても自然に覚悟できるようになるというのか?少なくとも、死を恐れるがために、わざわざ死を崇高な地位に押し上げることによって、却って死に望もうなんてことはなくなるだろう。死ぬ瞬間まで生の意義を求め続ければ、現在の名声や地位に縋ることもなく、自我の亡霊に憑かれることもなくなるだろう。そして、死すべき者に安息できる場があるとすれば、それは墓場にしかなさそうだ...
「人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。」

2. 心の平静について
友人セレーヌスは「病気でもなく、健康でもない」苛立たしい厄介な精神状態を訴え、セネカに救いを求める。倹約を志したところで、贅沢に目を奪われる。労働を義務づけたところで、怠惰に向かう。善悪も分からず、二つの狭間で遅疑するのが、情念というものであろうか。悩まずともいいことに神経を擦り減らし、自己嫌悪に陥る。それでも、自覚症状があれば、まだ救いようがある。しかし、集団的悪魔になると、どうだろうか?セネカは、民主主義が心の平静を失う恐ろしさについて語ってくれる。
「三十人の僭主がずたすたに引き裂いたときのアテーナイ人の都ほど不幸な都が他に見出せようか。」
ペロポネーソス戦争の直後(紀元前404年)の一年間ほど、スパルタを後ろ盾とした寡頭派の「三十人会」が、アテーナイの実権を掌握し、民主派を粛清して恐怖政治を行った。最も神聖な裁判所アレイオス・パゴスも、理性的な長老議会も、民会も、みな狂気!千三百人もの市民を、それも最良の市民を殺害し、それでも幕を引かず、狂暴さを増していく。そんな渦中にあってソクラテスは、三十人の暴君たちとの間に入って、慨嘆する長老たちを慰め、国家に絶望する人々を励まし、貪欲な金持ちを叱りつけもした。だが、この賢者までも牢獄に閉じ込められ、処刑された。民主主義が暴走すると、法廷の判決までもが世論の機嫌を伺い、法治国家は放置国家となり下がる。
... などと綴ってみると、あまり時代は変わっていないか。人は皆、金銭や地位に嫉妬心と虚栄心が絡むと、偏見に蝕まれ、どことなく怒りを募らせ、隙あらば人を貶めようと狙う。健康な者までも狂気した社会に身を投じれば、心を病んでいく。エリートや有識者や有徳者といった連中が狂うと、これほどタチの悪いものはない。やはり、パスカルが言ったように、人間は狂うものらしい。
「失うよりは手に入れないほうが耐えやすく、容易なのであり、だからこそ、運命が贔屓の目を向けなかった者のほうが、運命に見捨てられた者よりも嬉々としているのだと分かるであろう。偉大な精神を持った人ディオゲネースは、それが分かっていたから、自分から奪われるものが何一つないようにした。」
セネカはめげず、自制心を鍛えよ!と励ます。贅沢を控え、虚栄心を抑え、怒りを鎮め、貧しさへの偏見を棄て、調和の精神をもって質素に価値を見出せと。自然の善行に耳を傾けることができれば、心は自然に平静へ向かうと。世間体や地位、あるいは金銭というものが、いかに自然的でないか、そんなことは凡人未満にだって薄々気づいている。それでも、やめられまへん!やはり、盲目でいる方が幸せなのだ。
「とはいえ、精神を解き放って歓喜と自由へ導き、素面のしかつめらしさをしばしば脱ぎ捨てることは、時には必要なのである。いかにも、ギリシアの詩人を信じれば、"時には狂ってみるのも楽しい"のであり、プラトーンを信じれば、"正気の人間が詩作の門を叩いてもむだ"なのであり、アリストテレースを信じれば、"狂気の混じらない天才はかつて存在しなかった"のである。」

3. 幸福な生について
幸福でありたいと願うのは誰しも同じであろう。だが、幸福をもたらしてくれるものを見極めるとなると、暗中模索にある。一旦、道を誤れば、生を遠ざける危険な道となり、慌てて急げばその呪縛から抜けられない。まずは、自分に足らないものを問うことから始まる。受け入れる度量が準備されていなければ、どんなに優れたものでも見過ごし、挙句の果てに蔑んでしまう。
「この旅にあっては、最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである。」
人と同じであることだけを旨として生きることほど、大きな害悪に巻き込むものはあるまい。自ら判断を下すことなく、他人の考えを当てにするだけなら、過ちは人から人へと伝播する。同じ事柄でも、ある時は是認し、ある時は批判する、といった現象が生じるのは、ただ多数というだけで下されるすべての判断の帰結であるという。そして、外部から毀損されず、征服されない人間を目指し、自ら生の創造者になれ!と励ましてくれる。そのために、知識の裏付けがなくてはならず、知識には恒心の裏付けがなければならないとしている。優柔不断やたじろぎは、精神の軋轢と恒心のなさの証であると...
「現実は、己の悪の弁護人となり、理性に敵対するのが、大衆というものなのだ。自分で選んでおきながら、移り気な人気が向きを変えるや、あの男が法務官に選ばれたとは、などと選んだ当人が驚いている民会での光景も、それゆえである。」
ここで、注目したいのは、エピクロス派の徳と快楽の関係を論じながら、ストア派の信条が語られることである。ストア派が、快楽を容認するのは賢者によるものだけだという。つまり、徳と結びついた快楽を選ぶこと。
「賢者の快楽は穏やかで、控えめで、ほぼ無力に近く、抑制され、ほとんど目立たないものなのである。それも当然で、賢者の快楽は招かれてやって来るわけではなく、また、快楽が勝手にやって来ることがあるにしても、敬意をもって遇されることも、それを知覚する賢者の何かの愉楽をともなって受け入れられることもないものだからである。いかにも、賢者は、真面目なものに遊びや冗談を織り交ぜるようにして、生にそうした快楽を綯い交ぜ、点綴するのである。」
対して、エピクロス派の快楽は、非凡な義務を負わせていると指摘している。一般向けではなく、高等向けということらしい。これを「快楽の毒見役」と称している。毒見役は奴隷の仕事であり、徳を快楽に隷属させるエピクロス派への皮肉というわけか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、理想を崇めること。実践的観念がともなわなければ、空論で終わるどころか、むしろ毒となる。そして、ストア派の信条というべきものが、これであろうか...
「大胆にこう公言してよいのである、最高善とは精神の調和である、と。協和と統一のあるところ、必ずや徳があるからであり、不和分裂は悪徳の習いとするところだからである。」