2018-08-26

"ケルトの封印(上/下)" James Rollins 著

原題 "The Doomesday Key"
鍵となる言葉は、"Domesday Book(土地台帳)" と "Doomesday Book(終末の日の書)"...
11世紀、イングランド国王ウィリアムは、王国全域の調査を実施するよう勅命を下したそうな。調査結果は「ドゥームズデイ・ブック」と呼ばれる一冊の長大な書物に編纂され、中世の人々の生活を記録した最も詳細な書物の一つとされる。この壮大な記録は民衆の税金を適切に定めるのが目的... 少なくとも、表向きはそういうことになっている。ただそれにしては、あまりに詳細すぎる。しかも、編纂に当たった学者は一人だけで、難解なラテン語で記されたという。極秘にせねばならぬ事情でもあったのか?台帳には意味ありげな単語がちりばめられる。"vastare(荒廃した)" と...
土地の荒廃は、なにも戦争や略奪で起こるとは限らない。鍵となる土地は、アイルランドとイングランドの間に位置する島。かつてケルト人が所有していた異教徒の聖地。ここに呪われた地でもあるのか?"Domesday" に "o" の一字が加わって "Doomesday"... 単なる土地の記録が「最後の審判」と結びついて伝えられてきたとさ...

ロリンズ小説の魅力は、なんといっても歴史と科学を調和させる手腕。おまけに、知識としての事実と小説としての空想の狭間をさ迷わせ(さま酔わせ)、世界各地を駆け巡るダイナミックさ。歴史は過去の知識を掘り起こす立場にあり、科学は最新の知識を発展させる立場にあり、時間と空間を超えた知識こそ真理へ導くと言わんばかりに。いや、ここでは調和というより対決と言うべきか。古代人と現代人の。何事にも人為的な手が加わると、自然界ではありえない害虫どもが活動を始める。ホモ・サピエンスという種もその類いなのやもしれん...
歴史的事実では、ドゥームズデイ・ブックを支柱に、ケルト伝説、聖マラキの予言、ストーンサークル、黒い聖母などを絡め、科学的事実では、遺伝子組み換え作物、マルサスの人口論、蜂群崩壊症候群などを持ち出し、これらの知識を辿りながら、オスロ港の端に位置して処刑の歴史を持つアーケシュフース城、イングランドからスコットランドを望むバードジー島、北極圏ノルウェー領にあるスヴァールバル世界種子貯蔵庫、ナポレオンが刑務所に転用したクレルヴォー修道院といった地域を駆け巡る。
前提知識が絶対に欠かせないのもこのシリーズの特徴で、それだけで脳みそをグチャグチャにされちまう。それが、前戯好きな M にはたまらん...

特に注目したい地域は、観光地でも有名なホークスヘッド村だ。この周辺に広がるイングランドの湖水地方は、地下の泥炭が何世紀にもわたって燃え続けているという。豊かなピート香を放つスコッチウィスキーの製造に欠かせない特性なのである。ここでは癒やしの村として登場し、のどかな風景を綴った文章に癒やされる。そして、徹夜で一気読みしながら、ピート香こそ抑え気味だが、優雅な香味を放つグレンリベット18年を一本空けちまう。暗闇をさまよって黒い聖母を読破し、その達成感に浸りながら、眩しい朝日を浴びて飲むブラックコーヒーもまた格別...

尚、本書はΣフォース・シリーズ第五作。シリーズゼロから数えると六作目で、邦訳版では最初の作品が五番目に刊行されたという事情から、1, 2, 3, 4, 0, 5 の順にシリーズ番号が振られる。やや苦し紛れ感があるものの。このシリーズは十作を超え、まだまだ続きそうな勢い。おまけに、外伝シリーズまで始まった。惚れっぽい追い手は、いつまでも背中を追い続けるだろう。どんなに離されようとも。永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。その絶望感が快感に変わった時、M 性を覚醒させる。これを微分学の美学という...

1. あらすじ
サン・ピエトロ大聖堂の神父、マリ共和国の赤十字難民キャンプの大学生、プリンストン大学の教授、この三人の殺人事件には共通点があったとさ。彼らは何を調査し、何を知ったのか?そこに残される円環と十字のマーク、そして渦巻模様。この謎に様々な野望が群がり、Σフォースとテロ集団ギルドとの争奪戦が展開される。
鍵の在り処は、聖マラキの生涯と黒い聖母伝説が手がかり。だが、すでに破壊の種子が世界規模で拡散しつつあった。「ドゥームズデイの鍵」とは... それは人類救済の鍵なのか?それとも破滅の鍵なのか?お望みのものを手に入れれば、他の人間が代償を払う。これがスパイの世界の掟だが、信仰の世界も生贄を捧げるのが掟...
ところで、十字マークといえば、キリスト教で象徴的なものだが、紀元前のはるか昔から信仰されてきた。十字は直角を表し、これと真円を崇める伝統をピュタゴラス教団が受け継いだ。美しい形は、人間の魂を癒やしてくれる。彼らは定規とコンパスだけで描ける図形の虜となった。God(神) と Geometry(幾何学)は相性がいいと見える。そして、ギルド(Guild)の頭文字も G とくれば、悪魔との相性も良さそうだ。
この象徴が十字架の磔刑と結びついたのは偶然で、一段と崇高な存在にしたのか。あるいは、意図的に重ねたのか。いずれにせよ、国教に定め、しかも、四つの福音だけ公認すれば、排除の原理が働く。ローマの呪いか。あのナザレの大工のせがれは、あの世で呟いているだろう。わしはカトリック教会なんぞ知らんよ!と...

2. 人口抑制
この物語は、一つの問題を提起している。それは、マルサスが「人口論」でも唱えた人口抑制という問題である。量子力学は告げる... あらゆる物理現象は、臨界点に達した途端にまったく違った局面へ移行する。その存在すら危ぶまれるほどの... と。このまま人口増殖が続けば、いずれ食料供給量の臨界点に達し、人類の 90% が餓死の危機に追い込まれる、と予測する研究報告もある。マルサスの理論を克服したのは産業革命であったが、技術力によって、さらなる人口増殖を促進してしまったとも言える。青天井となった性向が暴走を止められないのは、金融危機が示してきた。
しかしながら、人口抑制はデリケートな問題であり、人口増加を抑制するための提言が極端に走っている面があることも否めない。強制的な産児制限、不妊手術、子供を作らない家庭に報奨金を支払うといった類いである。そうした政策が現実味を帯びる日が来ないよう願いたいものだが、差別好きな種は必要な人間と不要な人間で線引する。古代都市国家スパルタでは、未熟児や奇形児が廃棄された。優生学との境界も曖昧で、他族を劣等種族とみなすカルト集団もあれば、民族優越説なんぞを唱えはじめると、ヒトラーの最終的解決を想起させる。そして、正義をまとって異教徒の抹殺が使命となる。これはもう人間という種の性癖である。
本物語では、暗躍する民間企業が、石油化学製品から遺伝子組み換え種子産業へ鞍替えした目的を、世界規模で食糧の安定供給を目指す!と宣言しながら...
「石油を支配すると国家を支配できる。だが、食糧を支配すれば世界中の人々を支配することができる。」
ところで、化学兵器もどきの戦術は、古代エジプト時代からあったらしい。疫病を流行らせて民族レベルで抹殺しようといった類いの。井戸などに毒を仕込むのも古くからあるやり方。敵対国家の混乱を目的とした通貨偽造の歴史も古く、この手の発想で古代人と現代人との違いは技術と巧妙さぐらいであろう。人類のずる賢さという性癖は、エントロピーに逆らえないと見える...

3. 蜂群崩壊症候群
2006年から2008年頃、ミツバチの大量失踪事件が発生したと報道された。飼育されていた三分の一ものミツバチが何の前触れもなく姿を消したとか。「いないいない病」なんて俗語を耳にしたような記憶がかすかにある。ナッツ類、アボガド、キュウリ、大豆、カボチャなどの受粉に影響を与え、食料供給にも深刻な問題を与える。様々な憶測を呼び、地球温暖化や環境汚染が原因とする説もあれば、遺伝子組み換え作物が原因とする説もあり、宇宙人の仕業という説まである。
しかし、原因はすこぶる単純なものらしい。フランス政府がイミダクロプリドとフィプロニルという二つの農薬を禁止したところ、数年でミツバチが戻ってきたという。マスコミは、この成功例を報道しないらしい。ニュース価値がないんだってさ...
本物語では、暗躍する民間企業がこの現象を利用して、食糧供給量を制御しようとする。遺伝子組換え作物の種子が風で飛ばされ、他の畑や種苗会社の農場などに紛れ込むと、新種の害虫を誕生させる。ミツバチの個体数を制御するだけで、食糧供給量が制御できるという寸法よ。そして、トウモロコシを遺伝子操作するだけで...

4.スヴァールバル世界種子貯蔵庫
食糧の安定供給は、今日の重要課題の一つ。百年前、アメリカで栽培されたリンゴの品種は七千種以上あったが、現在では三百種にまで減少したという。七百種近くあった豆も、わずか三十種になったとか。実に、世界の生物多様性の 75% が、一世紀の間に消えてしまったというのである。絶滅種を救う!これがスヴァールバル世界種子貯蔵庫の主な目的で、世界中の種子がここに収容される。世界の種子銀行だ!地球最後の日のための種子貯蔵庫として、別名「ドゥームズデイ貯蔵庫」と呼ばれるそうな。種子版のノアの方舟か!
スヴァールバル諸島は、ノルウェーの北岸と北極の中間に位置する極寒の地にある。まさに人間の目の届かない場所に人間が建設したのだったが...
尚、本物語では、ホッキョクグマが警備に一役買っているが、それも事実だそうな...

5.聖マラキの予言
12世紀、アイルランドのカトリック司祭メル・メドック、後の聖マラキは、ローマへの巡礼中に幻覚を見たそうな。それは、世界の終末に至るまでのローマ法王に関するもの。112名のローマ法王についての暗号めいた予言は記録され、ヴァチカン公文書館に所蔵されたが、後に行方不明となり、16世紀に再発見されたという。その経緯から、偽物と見る歴史家もいるらしい。
いずれにせよ、予言は無気味なまでに的中しているそうな。例えば、ウルバヌス8世は「百合と薔薇」と形容されているとか... 彼は赤い百合を紋章とするフィレンツェ生まれ。パウロ6世は「花の中の花」... 彼の紋章は三輪の百合の花。ヨハネ・パウロ1世は「月の半分の」... 彼の法王在位期間は、半月から次の半月までのわずか一ヶ月。ヨハネ・パウロ2世は「太陽の労働によって」... 日食の比喩として一般的に使用される表現で、彼は日食の起きた日に生まれた。2013年に退位したベネディクト16世は「オリーブの栄光」... 名前の由来となったベネディクト会はオリーブの枝がシンボル。
そして何よりも気がかりは、法王ベネディクト16世が予言に記された111番目の法王だということである。つまり、次の法王のもとで世界は終末を迎えるということか...
「聖なるローマ教会への最後の迫害の中で、ローマびとペトロが法王の座に就く。彼は数多くの苦難の中で信者たちを導くであろう。その後、七つの丘の都は崩壞し、恐ろしい審判が人々のもとにくだされるであろう。」
2013年3月、アルゼンチン生まれのフランシスコが新たな法王に選出された。史上初のアメリカ大陸出身の法王誕生である。彼が、「ローマびとペトロ」なのか?ただし、最後の法王だけは番号が振られていないらしい。なので、111番目から最後までの間には、名前の挙げられていない法王が何人もいるのではないか、と楽観視する歴史学者も少なくない。そもそもローマ教会の運命で世界の運命を決めてもらいたくないものである。世界の宗教は実に多様性に満ちているのだから...

6. ケルト伝説
「荒廃した」と記される地域の一つに、アイルランドとイングランドの間に位置する荒れ果てた島があるという。古代ケルト人の聖地であったバードジー島。ただ、ケルト人よりも先に定住した民族がある。ストーンサークルといえば、最も有名なのはストーンヘンジだが、イングランド各地に点在する遺跡で、この島にも巨大な石が環状に並べられるという。宇宙人の仕業という説もあるが、ケルト人でなくても、そこに神が宿ると信じるだろう。
アイルランド神話によると、ケルト人が最初にアイルランドへやってきた時、すでにフォモール族という巨人族がおったとさ。ノアによって呪われたハムの子孫とも言われる。ケルト人とフォモール族は領有をめぐって何百年にも渡って争ったそうな。フォモール族は武器には長けていないものの、疫病を感染させる技術を持っていて、侵略者に「痩せ衰える死」を与えたとか。
フォモール族の女王は病を癒やす大いなる力を持っていて、疫病を治すことができたという。ケルト人がアイルランドを征服することになるが、女王の癒やしの力は崇拝され、この周辺を聖地としたらしい。アーサー王伝説にしても、アヴァロンをバードジー島が起源と信じている人も多いようである。ちなみに、アヴァロンはアーサー王の剣エクスカリバーが作られた場所で、地上の楽園とされる。
しかしながら、ケルト人もまたローマ人に征服される運命にある。この島は二万人の聖人が埋葬されることでも知られるそうな。まさに巡礼の島か!ローマ人もここを聖地としたのか?文化ってやつは、完全に抹殺したようでも、実は自然に組み込まれて生き残る性質を持っている。寄生虫のように。
「ドゥームズデイの鍵」とは、疫病を発生させる毒薬か?それとも、疫病の治療薬か?いや、その両方か?

7. 黒い聖母伝説
黒い肌で表現した像や絵画が、ヨーロッパ各地に点在するという。ポーランドのチェンストホヴァの黒い聖母、スイスの隠者の聖母、メキシコのグアダルーペの聖母など...
黒い聖母の作品には不思議な力が宿ると主張する学者もいれば、肌が黒いのはロウソクのすすが積もったり、木製の像や古い大理石が年代とともに変色しただけという学者もいる。カトリック教会は、こうした像や絵画の持つ意味や不思議な力に関しては、一切言及しないとの立場をとっているという。
本物語では、フォモール族の女王の肌が黒かったことから、黒い聖母伝説とのつながりを示唆する。肌の黒い巨人族は、古代エジプトの種族という説もあるという。フォモール族は、農業技術をケルト人に伝えているとか。ナイル川流域で培った技術を。
イングランドの各地に点在するストーンサークルを作ったのも、古代エジプト人ではないかと主張する歴史学者もいるようだ。アイルランドのタラにある新石器時代の埋葬地から、釉薬を使用した陶製のビーズで装飾を施した遺体が発見されているという。ツタンカーメンの墓から発見されたものとほぼ同じものだとか。イングランドのハル近郊には、紀元前1400年頃と推定されるエジプト様式の大きな船も発見されているとか。ヴァイキングなどの海洋民族がイギリス諸島を訪れるはるか昔に。ケルト人は、エジプトの女神イシスを崇拝したということか?

2018-08-19

"ランケとブルクハルト" Friedrich Meinecke 著

前記事「世界史的諸考察」の余韻に浸りながら古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。ドイツ史学界といえば、まずレオポルト・フォン・ランケの名を思い浮かべるが、その正統的な継承では、ヤーコプ・ブルクハルトに続いてフリードリヒ・マイネッケという流れがあるらしい。実は学生時代、ランケの「世界史」が未完に終わったことを知り、せめて選集ぐらいはと思い大学の図書館を漁ったものの、全巻見つけられず頓挫したまま。こうして断片の作品を漁ってお茶を濁し続け、もう三十年が過ぎた。
当時、ルネサンス時代の万能人たちに惹かれ、ランケの復古主義的な香りにも誘われたように記憶している。どんな分野であれ、創始者というのはそれなりに崇められるもので、ランケにもそのような地位を感じたものである。ところが、ブルクハルトに出会って風がちと変わり、天の邪鬼な惚れっぽい性癖がマイネッケへと導くのであった...
尚、中山治一, 岸田達也訳版(創文社)を手に取る。

歴史家が歴史学者になりきることは難しい。ナショナリズムを旺盛にする点では他の学問を寄せ付けないほど。当事者となれば尚更だ。とはいえ、学問の本質は客観的な視点を与えることであり、そうでなければ存在意義すら疑われる。宗教的な解釈の強すぎる時代、最初に実証主義的な立場を表明したランケの功績は大きい。
しかしながら、この大家をもってしても、まだまだ神の摂理に縋っていたようである。マイネッケは、ランケが提唱した「世界史の規則的な継続発展」という概念は信頼に足るか?と疑問を投げかける。ランケとブルクハルトの政治権力に対する態度は真逆である。ランケにとって権力は神の摂理が支配するもの、ブルクハルトにとって権力は悪、それも必要悪と見たようである。
古来、人間は生まれつき善か、生まれつき悪か、という論争があるが、ランケとブルクハルトの対置はその伝統を引き継いでいるかのようである。一人が、歴史にとって人間は何を意味するのか?と問えば、もう一人が、人間にとって歴史は何を意味するのかと問う。多神教の時代、人間にとって神は何を意味するのか?と問うたならば、一神教の時代にも同じことを問わねばなるまい。
歴史とは、ランケにとって神聖物だったのか、ブルクハルトにとって人類の恥部だったのか。両者とも歴史学者としての権威を獲得しているものの、プロイセン風ドイツ育ちと、中立国スイス育ちという地理的背景が、情熱的な語り手と冷めた目線の語り手とに分ける...

では、マイネッケはというと、ランケとブルクハルトを相互補完する立場を表明し、中道を模索する。あまりにも人間的なものを洞察した点では、ブルクハルトに軍配を上げ、国家、民族、制度といった客観的に考察すべき形成物に対して超人間的なものを要請した点では、ランケに軍配を上げる。
ブルクハルトの「人間的なもの」というのは、人間の本性、すなわち醜態にも深い洞察を与えたという意味で、はるかに現実的である。歴史とは、現実の連続であり、そこから目を背けるわけにはいかない。
だからといって、ランケも捨てたもんじゃない。ランケの「超人間的なもの」というのは、ニーチェが唱えた超人や永劫回帰にも通ずるものがある。
ただ、全般的には現実主義者持ちで、ブルクハルト評価の裏にランケ批判が見てとれる。真理が一つかは知らん。一つである必要があるのかも知らん。ただ、真理への道は多様性に満ちているのは確かなようである...

1. 歴史の距離感
歴史に法則性のようなものを感じても、そこに明確な法則があるのかは知らん。科学的に言えば、法則と法則性ではまったく次元が違う。どうしても説明のつかない法則性に対して神の意志を持ち出せば、それは宗教と何が違うのだろう。
歴史は不完全性に満ち満ちている。なにゆえ完全者が、なにゆえ万能者が、こんなものをこしらえたのか。しかも、繰り返し繰り返し。すべての出来事は必然だというのか。社会に蔓る悪は、善を認識させるための特効薬とでもいうのか。まったく神の忍耐強さには頭が下がる。すべてを神のせいにすれば、そりゃ楽よ。そして、いつか成熟した人間社会が実現されると儚い希望を抱き続ける。
しかしながら、人間の悪魔じみた性癖こそ歴史の本性であった。おそらくこれからも。集団性が暴走を始めると、もう手がつけられない。感情論が加熱すると、自分の主張がねじ曲がっていることにも気づかない。
だから、余計に優越感に浸ろうと懸命になる。学問ですら流行に走り、偏見を増殖させる。ヘーゲル的な歴史哲学にも危険性はあろうが、集団的な歴史観の危険性の方がはるかに大きいように思えてならない。
したがって、歴史学者の使命は、まずもって集団社会から距離を置くことになろう。ただ遠くからとはいえ、あまりに悪徳を眺め過ぎると、厭世観を肥大化させてしまう。集団性との距離感はなかなか手強い。ランケも、ブルクハルトも、歴史の理想像というものを描いたに違いない。そして、マイネッケも。人間社会が神の合目的に適っているかという観点では、ランケは楽観主義者で、ブルクハルトは悲観主義者である。
マイネッケはというと、二つの大戦というさらなる絶望を体験することになる。彼は、歴史考察の危険性を軍国主義、ナショナリズム、資本主義という三要素の結びつき方によって論じる。それぞれの要素が単独で非難されるべきものではなく、三者の運命的な出会いによって深淵に突き落とされたと。その態度は、必死に歴史との距離をはかろうとするかのように映る。ランケと距離をはかり... ブルクハルトと距離をはかり... 自己と距離をはかり...
「まず、軍国主義は国民皆兵制の導入によってはかりしれない物理的な力を獲得し、さらにそれは、ナショナリズムの興隆とあいまって、本来は弱小国の防衛手段であったはずの国民皆兵制を攻撃的手段へと転化し、西洋にとって戦争の危険となった。そしてこれらのものの上に、さらに資本主義的大工業による強力な技術的戦争手段の生産ということがくわわる。これらの諸要素の結合は、権力手段の拡大をひきおこし、これは権力政治に屈強の手段をあたえることになって、ここに国家理性の危機が生まれる。」

2.君主制と人民主権
十九世紀の生命要素として、ランケは、第一に君主制と人民主権という二つの原理の対立を強調し、第二に物質力の無限の展開を指摘する。
ついで、ブルクハルトは、フランス啓蒙思想とイギリス産業革命の結びつきという側面から、大衆の欲望が増大していく様を指摘する。しかも、その欲望を満たすべく国家の力が大衆の要求に応じて、ますます強大にならざるをえないと。
フランス革命からビスマルクに至る革命の時代、ランケとブルクハルトは両者とも力づくの行動を毛嫌いする保守派であり、ナショナリズムを旺盛にさせる近代国家の出現に戸惑ったと見える。フランス革命の論調では、ブルクハルトはランケよりもいっそう強く拒絶する。
それでもマイネッケは、近代民主主義の頑強な敵手とされるブルクハルトが、ランケより内面的に近く感じられると評している。
歴史事象の根底を懐疑的に捉えているのはブルクハルトの方であろう。ビスマルクの論調では、ランケは不快な現象と捉え、なかなか受け入れられなかったと見えるが、ブルクハルトは、ビスマルクが出現しなくても、大衆マキャベリズムへの流れは逆らえないと見ている。
そして、こう問わずにはいられない。かつての理想主義者たちが唱えたように、共和国化したからといって戦争は減ったか?と。悲劇を予言する眼光はまさにカッサンドラのごとく。案の定、大衆はナチス政権を許すことに...
「ブルクハルトは、あたかも鋭敏な地震計のように、大衆運動の中に潜伏していた最悪の可能性、すなわち極悪の人間どもが大衆の指導者としてあらわれてくることを感知する。」

3. 政治権力と文化
ランケも、ブルクハルトも、政治権力と文化の関係を論じたという。その違いは、神聖で高尚なものと捉えたか、俗物で劣等なものと捉えたか。
こうしてみると、文化の定義もなかなか手強い。まず自発的な活動であるということは言えそうか。それが普遍的であるかどうか、しかも、精神の発展を伴っているかどうか、などと線引きすれば、哲学的になり、やはり文化ということになる。だからといって、それ以外にも、充分に文化的なものを見つけることができる。隷属しているからといって、即座に文化的ではないとも言えまい。好んで隷属する場合もあれば、隷属していることに気づかない場合もある。人間の本性すべてが文化的要素になりうるはずだ。
ブルクハルトは、権力を握るための活動も、物質的な目的のための活動も、文化と見做す。悪徳までも。
歴史物語は、政治の側面から伝えられることが圧倒的に多く、支配者の系列や政変を論ずることで時代変化を追う傾向がある。平和で安定した時代の歴史は、退屈なものだ。それゆえ、政治というものが、高等な分野という印象を与える。
しかしながら、政治の世界ほど人間の醜態を曝け出すものはあるまい。支配欲、権力欲、名声欲、独占欲、金銭欲、物欲... あらゆる脂ぎった欲望を網羅し、まずワイドショーのネタで困ることはない。政治の役割が国民の幸福を実現することにあるとすれば、政治家に求められる最も重要な素養は、政策とその実行力ということになる。人格や高潔さなどは二の次。実際、民主主義の根幹をなす選挙では消去法が機能する。最も道徳的であるべき業界が法律のストレステストを繰り返すのは、自ら条文を検証しているとでもいうのか。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。二人の巨匠でなくても、政治的分析よりも文化的分析の方がはるかに高等に見えてくる。ただ、ランケの「世界史」は、文化的なアプローチを重要視すると宣言しながら、そうはなりきれなかったと見える...

2018-08-12

"世界史的諸考察" Jacob Burckhardt 著

歴史をつくる!
この言葉には、なにやら魅力的な響きがあり、英雄伝説を想起せずにはいられない。だが、英雄を必要とする社会は病んでいる証。悪に反発して善が生起し、善に退屈して悪が蔓延り、精神の最も病んだ時代に救世主あらわる。これが歴史というものか...
かのアレキサンダー大王は本当に偉大だったのだろうか。フリードリヒ大王やナポレオンはどうか。ウェルギリウスの登場は必然だったのだろうか。バッハやラファエロはどうか。そして、ツァラトゥストラの人格までも再評価してみたくなる。
歴史上の人物といえば、政治的な偉大さが優先されがち。だが、なによりも格別な存在は精神を征服した者である。宗教の創始者たちの扱いは他を寄せ付けない。それが反駁の形をとろうが、無神論を唱えようが、異教徒ですら意識せずにはいられない。
歴史の評価は、古くなるほど神格化し、現代に近づくほど移ろいやすい。現代の天才は古代の天才ほど神がかっている必要はないし、現代の芸術家はルネサンス期の芸術家ほど万能である必要もない。実際、劣っていそうだ。科学が進歩し、知識が広まれば、有識者たちも昔ほど知的である必要はない。実際、最も騒ぎおる。時代を経験するほど知性や理性が凡庸化していくとすれば、いよいよ平等の時代の到来か。
あらゆる歴史事象は、それぞれに転換点を示してきた。変化のない平凡な時代に歴史はつくられない。そして、いつの時代にも歴史はつくられてきた。人間社会は揉め事に事欠かない。こと政治においては、人間のワイドショー好きな性癖を隠しようがない...

大家ランケに学び、ニーチェとも交流したことで知られるヤーコプ・ブルクハルト。彼は反歴史哲学の立場を表明し、体系的なものを断念すると宣言する。それが、ヘーゲルに対するものであることは想像に易い。ヘーゲルの歴史哲学に対しては、偉大な試みに感謝すべきとしながらも、歴史と哲学は根本的に相い容れないと皮肉る。
「歴史哲学は一つの半人半馬(ケンタウル)で、形容詞において矛盾を犯すものといえる。なぜならば歴史とはすべての並列を許すことで、それは非哲学であり、哲学は序列をつけることで、それは非歴史だからである。」
ルソーの契約説に対しては、建設されるべき国家について説くことは、荒唐無稽!と言い放つ。確かに、それは空想的な理想主義かもしれない。歴史学は、現象を淡々と観察する立場であって、最善の場合でも、目的を不十分に、副次的に要求するだけ... だとか。哲学は普遍的な立場をとろうとする限りでは、歴史学よりも上にありそうか。こと人間社会においては、理想と現実が一致することはごく稀で、人類はいつも現実に翻弄されてきたし、理想論ってやつは仮説的な補助手段に過ぎないといえば、そうかもしれない。ましてや偉大な精神の歴史を、理性の向かうべき道としたところで詮無きこと。
しかしながら、哲学だって、過去の精神をないがしろにしては、偉大な精神を構築することは不可能である。ある学術研究によると、人類の進化は五千年前にとっくに終焉したという報告もあるが、あながち否定はできまい。古代エジプトのメネス王国のような考古学的伝承は、壮大な前史があったことを暗示している。
「最も傷ましく歎かわしいのはエジプトの精神発達史が不可能だという事実である。それを人は精々仮定的な形式で例えば伝奇小説(ロマン)として与え得るに過ぎない。やがてギリシア人において自然科学にとっての全くの自由の時代が来た。ただ彼等がそのためにしたところは比較的少なかった。なぜならば国家と思弁と彫塑的芸術が彼等の精力を先取りしてしまったからである。」

歴史家が客観性を保つ立場であることは疑いようがない。だが、これが最大の難題!人間のあらゆる解釈や思考が主観によって導かれ、歴史家たちの見解が歴史をつくってきたとも言えよう。ブルクハルトは、この... 歴史家が歴史をつくった... という見解を拒絶するかのように、従来の歴史評価に疑問を呈す。
学問をやる以上、懐疑論がつきまとうのは健全であろう。過去の思考に疑いを持ち、自己の思考に疑いを持ち、そして、どこまで懐疑的でいいか、そのバランス感覚が求められる。その意味で酔いどれ天の邪鬼の眼には弁証法的にすら見え、けしてヘーゲルと相い容れないようには見えないのであった。ここに、歴史哲学体系を真っ向から批判し、それでいて実に、歴史哲学的な性格を帯びた博大な書に出会えたことを感謝したい...
尚、藤田健治訳版(岩波文庫)を手に取る。
「極めて疑わしい、また疑わしさを免れないのは、教会の首長達の偉大さである。グレゴリウス七世とか聖ベルナルドゥスとかインノケンティウス三世とか、恐らくはさらに一層後期の人々のそれであろう。」

1. 三すくみ論
ブルクハルトは、歴史の考察を国家、宗教、文化の三つの関係から迫る。互いの規制関係として。国家は政治と密接にかかわり、宗教は教会と密接にかかわり、政治と教会の緊張関係が権力の均衡を保ち、政治と教会が手を結べば文化が監視役となる。時には、文学や哲学が国家を讃美したり、美術や音楽が教会に奉仕したり。二つが手を結んで規制を企てれば、一つが反抗して自由精神を目覚めさせるといった構図である。数学には三角形を崇めてきた歴史があり、人間ってやつは、三角関係がお好きと見える。
政治の在り方を問うたアリストテレスは、最善なのは君主制で、次に貴族制で、最悪なのは民主制というようなことを書いた。だが、真の君主はどこにも見当たらず、ことごとく僭主と化す。有識者や有徳者の集団ですら権力を握るとそうなる。人間の自尊心は、少しばかり大きすぎるようだ。自己肯定が少しばかり強すぎるようだ。やはり人間社会は、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。
そして今日、様々な政治体制が試されてきた中で、民主制が比較的マシとされる。政体の移行段階では無政府状態が出現し、政権交代のたびに無党派層を増殖させる。もはやアリストテレスが唱えた三つの政体では不十分、無政府状態も普遍の代表に加えねば。最も聖なる原理、そう、あの三位一体論は、こと人間世界では三すくみ論と化す...
ちなみに、ランケはこう言ったという。
「主権在民ということほど影響を及ぼした政治的理念は一つとして存在しない。折々は退けられ単に一般の見解を規定するに止まりながら、やがてまたふたたび突発的にあらわれ出て公然と認められ、決して実現されないがしかもいつも人の心に食い込んで行く点で、それは近代世界の永遠に醗酵する酵母である。」

2. 自己を克服できなければ、他人を征服にかかる...
宗教の偉大さは、人間の欠陥を超感性的な力で補足する試み。精神を無限の宇宙に引き入れ、崇高さをもって教化する。それ故、あらゆる道徳が宗教によって裏付けられれば、宗教戦争は最も恐ろしく、残酷なものとなる。宗教もまた応急処置的な手段の一つと心得ておかねば。もはや、あらゆる宗派から距離を置く無宗教という立場も普遍の代表に加えねば...
あらゆる闘争には、盲目的な美化がつきもの。国家も、宗教も、文化も、盲目的に礼賛されやすい。愛国心ってやつは、しばしば他民族に対する傲慢の形で現れ、政治ジャーナリズムが集団性の牙を剥く。自己を克服できなければ、他人を征服にかかる。これが人間の本性と心得ておかねば...
「国家は個人の利己の排除によって生じたのではなくて、国家はこの排除そのものでありその調整そのものであり、従ってそこでは最大限に多数の利害や利己が永続的に勘定が合い、遂には国家の存続が自己の生存と完全にからみ合うようになる。ついで国家がもたらし得る最高のものはよき国民連の義務感、すなわち祖国愛である。
...
もし国家が社会だけがなし得、またなすことを許される倫理的なものを直接実現しようと意図するならば、それは一つの堕落であり、術学的官僚主義的な不遜に外ならない。」

2018-08-05

"音楽における偉大さ" Alfred Einstein 著

もし、大バッハがいなかったら... 歴史は誰かにその代役を与えたであろう。バッハもまた誰かの代役を演じただけなのかもしれん。偉大さとは、偶然の出会いの積み重ね。もし、この出会いがなかったら... もし、この人物が生まれてこなかったら... つい、そんな安っぽい運命論を想像してしまう。ゲーデルは晩年、こんなことをつぶやいた... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見するだろう... と。この発言はおそらく正しい。真理の概念は必然的であり、概念の方が歴史の道を散歩している。人間とは、それを見つけ出すだけの存在であろうか...

本書は、"a controversial book" と呼ばれたそうな。褒めてくれそうな人には褒められ、非難を浴びせそうな人には非難されそうな。誰が偉大で誰が偉大でないか... そんな議論はほとんど主観的、いや独断的、好みや影響された人物を贔屓してしまう。
百年もすれば歴史の評価も変わる。バッハが登場すると、シュッツの輝きは弱まり、文献学に名を残すのみ。偉大さとは、実にはかない!尤も彼らは、自分が偉大だと思って生きたわけではあるまい。純粋に音楽の真理を探求した結果であろう。
ここに語られる、時代に逆らった者と時代とともに歩んだ者、早く生まれ過ぎた者と遅く生まれ過ぎた者、彼らは互いに影響しあい、互いに影響されて生きた。偉大さとは、まさに相乗効果が生み出した産物といえよう。人類の遺産を見つけ出す手助けをしてくれるアルフレート・アインシュタインという文才に出会えたことは、凡庸な音楽好きには大きな喜びである...

バッハやヘンデルにしても、モーツアルトやベートヴェンにしても、ヴァーグナーやブラームスにしても、ショパンやシューベルトにしても、ベルリオーズやヴェルディにしても... 彼らはもはや人間ではない。人間精神を徹底的に研究し、完全に人間を真似ることのできた半神半人だ。音譜は物理周波数を与えるだけの数学的な記号に過ぎないが、この手段をもって普遍的な言語体系を構築している。言語ってやつが、精神活動を通してしか実存し得ないことを、見事に体現している。
音響芸術は、言語芸術に対して翻訳が無用な分、優位にあるように思える。声楽曲では、多少なりと翻訳が必要なものの。芸術作品ってやつは、崇高な地位にあればあるほど解釈が難しい。これに人工言語による翻訳の苦難が加わると、翻訳者の技術力によって作品の景色ががらりと変わる。詩は散文よりも、叙事詩は長編小説よりも、音調的である分、より永遠的になる。こと音楽においては形式なしでは無に等しく、偉大な作曲家たちは方言を語ったわけではなく、最も純粋な言語、すなわち最も純粋な形式を語ったということになろうか。それを普遍性と呼んでも、それほど大袈裟ではあるまい。
おまけに、この記念碑的な連中ときたら、驚異的な多産性を魅せつける。シンフォニーの群れ... コンチェルトの群れ... オペラの群れ... ピアノ曲の群れ... それぞれが一つの物語を語り、これらの群れが集まって一つの宇宙を創造する。ケッヘル番号や BWV のおびただしい数。モーツアルトやシューベルトのような早世の人物ですら膨大な群れを所蔵している。真理への執念がそうさせるのか。大量生産は偉大さから遠ざかりそうなものだけど...
天才たちの生涯を通しての内的強制は、超自然的で悪魔じみており、デモーニッシュといった言葉ではとても表現しきれない。ヴァーグナーを多血質と呼んだり、ショパンを憂鬱質と呼んだりするのは、それほど間違ってはいないだろう。どんなに人間性を非難されようとも、どんなに人格を貶されようとも、作品の方が音楽家から幽体離脱をはかり、独り歩きをはじめる。もはや、この音楽家は、イタリア的とか、フランス的とか、ドイツ的とか、そうした帰属意識に根ざした議論は無用だ。彼らは、普遍性の世界に身を委ね、超国民性を発揮する。西洋の形式でありながら、東洋の文化にも訴えるものが大きい。思いっきり信仰的でありながら、宗教という枠組みをはるかに超越している。凡人は自己が征服できなければ、他人を征服にかかるが、天才は自己の征服に忙しく、他人にかまっている暇などないと見える。ましてや世間にかまっている暇など。普遍性とは、多様性に存分に寛大で、よほど心地よいものと見える。
そして、かつてのバッハ嫌いは、いまやバッハの虜に... かつてのモーツアルト好きは、いまやモーツアルト狂になっちまったとさ...

1. 完全性なるもの
芸術に完全性なるものが存在するのだろうか。天才たちには完成形なるものが見えるのだろうか。あるいは、彼らもまた妥協の世界を生きているのだろうか。凡人と同じく自己満足の世界を生きているのだろうか。対位法は、すでに完成しているのだろうか。少なくとも、彼らは作品群の中に一つの宇宙を描く。完全な宇宙というものが存在するのかは知らん。もし存在するとして、どれほどの意義を持つのかも知らん。人間は不完全な人生を送る運命を背負う。人生の BGM となる未完成曲を心の中で奏で、我が人生、未完なり!と叫びながら...
永遠に無知であることが、それを自覚できることが、人生を退屈させないで済む。宗教だって、永遠に盲目でいることが幸せだと言っているではないか。シューベルトの遺産「未完成交響曲」が完成しなかったことは、そこに大きな意義が唱えられていそうだ。人類の叡智とは、偉大な未完成を相続する幸せを世代に渡って謳歌するってことだろうか...
「一芸術家の偉大さは、一つの内的世界の建設であり、この内的世界を外的世界に媒介する能力である。両者は不可分なものであって、そのいずれも他のものなしには考えられない。最も強烈な感情と最も生き生きした想像力も、それが公表されなければ、人類にとって無価値である。最も偉大な形式的才能も、それが一つの宇宙を形成することのできる創造力に仕えるのでなければ、無価値である。」

2. 永持ちな万能性
偉大さの条件とされるものに、独創性ってやつがある。世間は、オリジナル性を声高に主張しては、コピーものを俗悪のごとく言う。
では、独創性とはなんであろう。人間という存在に、まったくゼロから何かを創造する力があるというのか。
本書には「永持ち」という言葉がちりばめられる。永持ちする偉大さと、その偉大さに出くわす幸福は、適切な時期にやってくるものらしい。
しかも、偉大な相続遺産なしには不可能なようだ。ルネサンス期の万能人たちは、偉大な作品を徹底的に模倣し続けた。ラファエロにしても、シェイクスピアにしても、偉大な遺産に魅せられ、それを継承しながら独創性を発揮するに至り、ゲーテは独創的な作家で終わらず、芸術的な大家となった。彼らの模倣は、猿真似とはまったく異質で、世間で言われるコピーものとは異次元にある。何事も早すぎても、遅すぎても、うまくいかない。自己の中で何かが覚醒させるまで、じっと待つしかない。真理のエネルギーが蓄積して自然に爆発するのを。その覚醒される瞬間を見逃さぬよう、常に準備を怠るな!独創性の源泉は継続性にあり!というわけか。
とはいえ、凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼は、そのような幸福な出会いに気づかないばかりか、報われることを期待しすぎるものだから意志も永持ちしない...
「真実の偉大さには万能性が不可欠である。それは二重の意味における万能性であって、すべての、あるいは少なくとも多くの音楽諸分野の支配の意味においての万能性か、あるいはある分野の専門家としても新しい世界像を提出し、以後働き続け生み続けるような内面生活の持続的な豊富化を提出するという意味における万能性か、いずれかである。」

「かくして生けるものは
 結果から生ずる結果によって新しい力を得る。
 なぜなら、心、この恒常なるもの
 それのみが、人間を持久するものにするのだ。」
... ゲーテ