2021-01-31

人格操作社会... パーソナルコントロール

あの高橋留美子の偉大なアニメに、こんなエピソードがある...
パーソナルコントローラとは、取り憑いた人の性格を思いのままに操ることのできる代物。バッジになりすまし、さりげなく胸に張り付き、人格の 90% を支配して深層心理に働きかける。知らず知らずに忍び寄る悪魔のささやき。だが、そんな便利な道具も意地悪な持ち主の性格が受け継がれ、もはや操っているのやら、操られているのやら...

いつの時代でも、為政者にとって最も都合の良いことは、情報をコントロールできること。それは、ゲッペルス文学博士が証明して見せた。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない。
しかしながら、ネット社会では多くの為政者が嘆く。どんなに情報をコントロールしようとも、デマがすぐに拡散してしまうと。民衆も負けじと警戒する。為政者がインターネットを利用し、より簡単に情報操作ができるようになったと。どちらも事実を含んでいるだけに、どちらも被害妄想に取り憑かれる。

「真実が靴をはく間に、嘘は地球を半周する。」... マーク・トウェイン

情報を牛耳るための効果的な方法に、文字情報の独占がある。日本では武士の時代から識字率が高かったとされる。識字率が高いということは、情報も伝わりやすい。伝言板や回覧板の類いには古い歴史があり、政治的にも利用されてきた。鎖国のような政策下では画一的な情報が蔓延し、風通しの悪い社会では情報通ほど厄介となる。
識字率が高いために、目に見えない言論統制に翻弄され、分析力や判断力を麻痺させるばかりか、放棄してしまう。自分で考えて行動するという習慣が根付かないのは、そのせいかは知らんが、識字率の高さを誇ってばかりはいられまい。
思い込みは一見頑固なようだが、実は移ろいやすく、操作されやすい。危機的な状況ともなると社会不安が伝搬し、人を批判するだけの正義中毒症を蔓延させる。ポピュリズムを煽り、あちこちで炎上騒ぎ。正義ってやつは、よほどストレス解消に効くらしい。
もはや、情報を操っているのやら、情報に操られているのやら...

「全員が誤っているときには、全員が正しいことになる。」... ピエール・ド・ラ・ショッセ

口は災いの元... というが、昔から、露出度が高く、目立ちたがり屋ほど胡散臭く見られる。情報インテリジェンスには、目立たぬように行動するという基本的な態度があり、優秀な諜報工作員ほど凡庸を装っているものだ。
しかし、政治屋や報道屋ときたら、見た目が勝負!分かりやすいメッセージを発信し続ける者ほど人気を集める。だから、やってます感を演出しようと躍起だ。企業戦術においても、プレゼンをスマートにやれば、そこに人は群がる。うまくアピールした者の勝ち!それは、情報社会の掟。伝達法や話し方といった類いの HowTo 本は、ますます大盛況ときた。
とはいえ、見知らぬ人を評価するのに、見た目以外で何ができよう。現代社会では、誰もが情報操作の餌食にされることを覚悟せねば... いや、人格までも操作されていることを...
ますます高度化していく情報化社会にあって、健全な懐疑心を保つには、よほどの修行が要ると見える...

「もしもすべての誤りに門戸を閉ざすならば、真実もまた締め出されてしまうことになる。」... ラビンドラナート・タゴール

2021-01-24

血は水よりも濃い... 政治 vs. 宗教

血は水よりも濃い... と言うが、繋がりが断ち切れなければ、憎さも倍増する。人間の本質が自由精神にあるとすれば、政治の第一の目的は、まずもって個人の自由と安全を保障することになる。だが自由は、しばしば集団暴走の火種となり、社会の安全と相い反するところがある。それゆえ、個々を屈服させることが政治の手段となる。
ただ、手段ってやつは、そのまま方法論となるばかりか、これに固執すると、目的化してしまう性質がある。手っ取り早く集団の意思を操作する方法は、思想観念を叩き込むこと。その意味で、政治と宗教は原理的にすこぶる似ている。どちらも民衆の精神を支配しようというのだから。目的が同じならば、互いに手を結びやすい。まさに血を分けた兄弟!
なるほど、政教分離をやらなけば危険だというのも一理ある。

西洋史は、宗教と政治の精神的支柱をめぐっての争いの歴史とも言えよう。古代エジプトの王ですら神託には逆らえなかったし、キリスト教世界における皇帝と教皇の力関係の逆転は、聖職叙任権をめぐるいざこざに見て取れる。こうした信仰原理には、「人間は神がこしらえたもの」という大前提がある。どんなに図々しい皇帝でも、神を無視するのは、なんとなく後ろめたいところがあると見える。つまりは、気分の問題か...
ならば、こう問わずにはいられない... なぜ万能な神がこんな不完全な存在をこしらえたのか?それは、単なる気まぐれか?それとも、完全な存在の有り難さを知らしめるためか?... と。すべてが完全ならば、不完全を認識する必要もなければ、完全という概念も無用。だから、滅びゆく運命にある存在も必要だというのか...
神は、単純な宇宙法則をこしらえておきながら、それによって生じるカオスな現象にまで責任を負う気はないと見える。いや逆に、「神は人間がこしらえたもの」とすればどうであろう。その方が筋が通る。少なくとも聖書は人間がこしらえた。神の意志が、これを書かせたと主張する者もいるが、絶対なる完全者の意志を不完全者が汲み取ることができるなんて、なんとおこがましいことか。これこそ神の冒涜!

現代社会は仮想化社会と言われるが、すでに仮想化は、神の偶像化によって成熟している。お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることだ。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。ナザレの御仁も再臨すれば、キリスト教なんぞ知らん!と突き放すかもしれない。偉大な魂の持ち主であったからこそ黙って十字架に晒されたのであろうし。
いまや世界中で偶像崇拝が蔓延る。偶像を完全に放棄しているのは、科学と呼ばれる宗教ぐらいなものか。いや、仮説という偶像をまとえば同じこと。科学に宗教を説得する力はないし、政治にいたっては銅像になりたがる輩が蔓延る。望み通り生き埋めにしたら...

2021-01-17

森を見て木を見ず... 自我を見失い...

木を見て森を見ず... というが、どれほどの木が集まれば森になるのだろう。どれほどの家が集まれば町になるのだろう。どれほどの人が集まれば社会になるのだろう...
人間の洞察には、常に上辺と深さの対立がある。目の前に立ちはだかる木々は、森という総体を覆い隠す。人は、本当の森が、見えぬ木々によって構成されていることを知っている。それは、言葉によって知っているだけだろうか。
人間認識ってやつは奇妙なもので、なんとなく集合体に属すというだけで、自己存在を確認させ、根拠のない安心感を与える。森の中心がどこにあるかも分からずに。ならば、自己を中心に置いて観察してみるしかあるまい。
しかしながら、俗世間では、個人主義と利己主義が混同される。英語で言うところの individualism という用語は、自己を大切にし、自我と向き合う... といった積極的な意味合いがある。これを村社会では、利己主義と翻訳しては負のイメージを植え付ける。不協和音の権化のごとく。自己観察もままならず他人を考察したところで、どうなるものでもあるまい。いや、自我が見えないから、人の目を気にし、人の行動が気になってしょうがないのかもしれん...

自我と向き合い、人生の大局観を覗き見するには、よほどの修行が要ると見える。真理を見るには、眼を閉じる方がよさそうだ。深い森の中で眼を閉じ、小鳥のさえずりに耳を澄まし、草木の匂いをかぎ、水の流れる音を肌で感じる。どうやら真理とは、癒やされるものらしい。
偉大な開祖たちが使徒に先立って隠遁したのは、気まぐれではなさそうだ。仏陀は森に入った。ムハンマドは天幕に引き篭もった。キリストは四十日間も荒野をさまよった。彼らは、わざわざ苦悩を求めたのだろうか、それとも、真の癒やしを欲したのだろうか。彼らの行動に、広大にして深遠な自我への沈潜を垣間見る...

しかしながら、凡庸人が眼を閉じるのは危険だ。抽象概念に振り回され、目の前の現実すら見えなくなる。まさに、森を見て木を見ず...
人間は、本当に真理を重要視しているのだろうか。真理っぽく見えるものに焦がれているだけでは...
現実主義とは、現実を直視することではなく、現実っぽく見えることに希望を抱いているだけでは...
人間社会で生きるには、真の人間である必要はない。人間らしく振る舞うことができれば、それで十分。実際、人間性を失った人間がわんさといるし、そんなものを自分自身に問うてみてもようわからん。
物理構造を鑑みても、人間なんてものは原子の集合体でしかないし、自由意志だって自由電子に振り回されているだけのことかもしれん。感情と呼ばれる心理現象にしても、ぜんまい仕掛けのオートマトンに過ぎないのかもしれん。近い将来、AI の方が人間らしく見える日が来るやも...

2021-01-10

「数える」という本能めいた行為... 万物は数なり!

人間は、精神的な緊張を別の単純行為で和らげることができる。この特性を利用しない手はない。
例えば、電話中に落書きをしたり、プレゼン中に手のひらでビー玉をコロコロさせたりすると、言葉が出やすい。
おいらの場合、思考中に歩き回る癖があり、ベランダをうろうろしたり、散歩したりして、思考のリズムをつくる。思考を促すために、大音量の BGM も欠かせない。一旦集中してしまえば、ほとんど耳には届かなくなる。
こうした単純動作へのこだわりが、脳内 cpu にクロックを安定供給し、自己肯定感を高める。
おまけに、おいらは閉塞感の漂うオフィス空間が大の苦手ときた。十年以上前は煙草も頼りになる相棒だったが、今ではお香を焚く。近年では介護モードも加わり、日々の炊事やお掃除が妙に思考のリズムと合う。風呂掃除だけはリズムがとれなくてストレスを増幅させるのだけど...
物理的合理性は計測しやすいが、精神的合理性は十人十色。そして、余暇や堕落も、回り道や寄り道も、人生に意味を与えてくれる...

そんな多種多様な単純動作の中でも、特別な存在がある。普遍的と言うべきか。「数を数える」という行為が、それだ。
数には、なにやら心を落ち着かせるものがある。精神病患者や知的障害者などは、心が落ち着かない時に数を数え始めると聞く。ある種の儀式のように。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ったりする。まさに、万物は数なり!
ちなみに、おいらが美少年と呼ばれた小学校低学年の時代、さんすうが大の苦手であった。放課後、一人残されては計算をやらされる。数ってやつがまったくイメージできず、机の下に手を隠して指を折って数える。すると叱られた。堂々とやれ!って。ごもっとも!当時の女の先生が鬼にも、天使にも見えたものである。やがて数の概念が理解空間と結びつきはじめると、いつの間にか、数の虜に。鶴亀算があまりにもすんなり数える概念と結びつき、こいつが方程式ってやつだと理解するのに大して手間はかからなかった。
しかしながら、大学の初等教育で再び奈落の底へ。高校までの数学がいかに算数であったかを思い知らされる。抽象化の概念は、指では数えられんよ。そして、数学の落ちこぼれになっちまったとさ...

「数」という概念と「数える」という行為は、ともに抽象化の道を歩んできた。数える行為を合理化するために記号を発明すれば、記号の関係性を求めて関数を編み出す。やがて、同じ性質を持つ数の集まりをひと括りにし、性質そのものの関係を探るようになった。「数」という概念は記号で抽象化され、「数える」という行為は関係性を結びつける関数に抽象化されてきたのである。
さらに、無限までも数えてやろう!という欲望に及ぶと、数の大小という関係は、濃度という概念へ飛躍する。アレフってやつだ。「数える」というからには整数論の領域にあるはずだが、まったく数に見えないのに整数とはこれいかに?有限界を生きる知的生命体が無限界に口を出すと、まったく悪魔じみている。とはいえ、すべては「一対一の対応」という手続きの元で引き出された知識である...

「数える」という行為は、進化論とも関係がありそうだ。原始の時代、人類は指を折って数え始め、数の概念はまずもって両手合わせて十本の指に乗っ取られた。人間の思考が十進法に憑かれるのも、その名残りか。女性の妊娠期間が約十ヶ月なのは、単なる偶然か。記念日や儀式に追い回されるのも、カレンダーの呪いか。ある原始民族では、手足合わせて二十進法を用いたという説もある。
しかし、だ。数の学問において、十進法ほど厄介な道具はない。コンピュータは二進法とすこぶる相性がよく、計算機工学では、8 進法や 16 進法が用いられる。つまり、2 の冪乗数があらゆる計算において優れているってことだ。情報理論の父と呼ばれるシャノンは、2 を底とする対数関数に情報の本質があることを見抜いた。ラプラスも、こんなことをつぶやいたとか。「ライプニッツは二進法の算術に『創造』」の形象を見た... 『一』は神を表し、『零』は空を表す...」と...
そして今日、デジタル社会では、0 と 1 があれば事足りる。なのに、人類が十本の関節を持つ指を授かったがために、十の数が崇められる。こんな自然に反するものを、誰が授けたかは知らんが...
ただ人類はどんなことでも、いかようにも解釈できる性癖も授かった。その見返りかは知らんが、幸福の原理として君臨している。
ピュタゴラス教団は、四元素とされた火、水、空気、土を底辺とする三角数 4 + 3 + 2 + 1 = 10 をテトラクテュスと呼んで崇めた。正三角形の頂点が神に通ずるとでも考えたか。
ただ、数学者がどんなに巧みな概念でねじ伏せようとも、計算ではスーパーのレジのおばさんの方が位取りで一枚上手ときた。
ちなみに、鏡の向こうから「十の時が流れる」という名を持つ野郎が、顔を赤らめてこちらを見つめてやがる。どうやら数に酔ったらしい。あヤツはテトラクテュスの申し子か?いや、君に酔っるだけだよ...

2021-01-03

自己責任から逃れる術... 幽体離脱!

おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間における脳内マッピングとでも言おうか。
子供の頃からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか舐めていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。
サヴァン症候群のダニエル・タメット氏は「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。まるで精神空間を投影するような感覚...

しかしながら、記憶空間となると様相がまるで変わる。あれをやらなければ!と思って、いざやろうとすると、別の自分が既に仕事を終わらせている、といったこともしばしば。記憶がない!ということが、いかに幸せであるか。
一方で、その逆は皆無ときた。もうやったはずだ!と思って、いざ成果物を覗こうとすると、まるで終えてない。記憶を楽観視することが、いかに危険であるか。
理解空間でせっかく会得したことも、記憶空間ではチャラ。そして、しょっぱなからやり直し。こんなことを何度繰り返してきたことか。まるで自我空間を失っていく感覚...

自我を覗くために、夢を観察してみるのもいい。夢ってやつは実に奇妙な現象で、むかーしの知人が登場したり、これに現在進行中の仕事関係の人が入り混じったり、絶対ありえないシチュエーションにもかかわらず、見ている間は妙にリアリティがある。夢なんぞを本気で相手にしているのだから、現実のまやかしモノを信じてしまうのも仕方あるまい。バカバカしいほど単純な情報でも...

腹を抱えて大笑いし、自分の声で目が覚めることもある。振り返っても、何がおかしかったのか思い出せず、余韻だけが残り、奇妙な笑みを浮かべて周りから気持ち悪がられる始末。
そういえば大学時代、夢の中の自我を解析しようと実験をよくやったものだ。講義中に眠くなった自己に話しかけ続ける。すると金縛りになって、友人から大笑いされる。朝方、目を覚ましそうな時に実験をやると、よく金縛りになる。頭元に霊が現れるような感覚に、最初は怖さを感じるものの、慣れてくると、これが病みつき。金縛りこそ潜在意識そのものだと考え、こいつを完全にコントロールしてやろうと意気込んだものである。
そして、楽しんでいるうちに力が完全に抜けきって、もう金縛りになることもなくなった。どうやらストレスを感じないと、金縛りにはなれないらしい。遊びを一つ失ったのは実に寂しい!
今では、主治医に処方してもらう睡眠薬で、眠くなった状態でどこまで意識を持ち続けられるか、という実験をやる。目覚めの金縛りに出会えないとしたら、今度は、絶えず眠りにつこうとする自我を観察しようというわけよ。そして、睡魔と限界まで戦う快感に、遊びを一つ覚えちまった。金縛りにしても、睡魔にしても、まるで幽体離脱していくような感覚...

自我を覗くのは難しい。なによりも勇気がいる。自分自身のバカさ加減には、もううんざり。ひょっとしたら自分は天才じゃないか!と思う瞬間が、年に一度や二度あるものの、なんでこんなことも分からないんだ!なんでこんなことも気づかないんだ!と自分に怒鳴るのは、ほぼ毎日ときた。
おいらにだって、一歩引いて自己を眺めようとするメタ認知的な意識があるにはある。しかしながら、自己の思考空間には無意識の領域が果てしなく広がり、この広大無辺な領域に本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的と言わざるを得ない。メタ認識で、自己認識はメタメタよ。
それでも、自己を知ろうとする衝動を抑えられずにいる。自己を知るには責任がいる。無意識の自己に、どう自己責任を押し付けようというのか...
自我は曖昧なぐらいがいい。その方が幸せであろう。真理を覗くことによって精神を抽象概念へいざない、ますます自我を曖昧にさせる。「哲学する」とは、そういうことであろうか...
普遍的な思考に居場所を求めれば、神に看取られていると思い込むこともできる。そして、自我から幽体離脱し、責任は肉体に押し付けるさ。肉体を創造した神に押し付けるさ。それで神も本望であろう。
もはや、自己責任論から逃れる術は、幽体離脱しかない...