2017-10-29

"ウバールの悪魔(上/下)" James Rollins 著

シグマフォースシリーズは十作品を越え、もうついていけない。学生時代であれば、間違いなく追尾していたであろう。一旦、推理モノに手を出せば、かっぱえびせん状態に陥り、次の日はまず仕事にならない。おいらの読書スタイルの基本がこのジャンルであり、それが幸か不幸か...
そして、のんびりとシリーズ 1 から「マギの聖骨」、「ナチの亡霊」、「ユダの覚醒」、「ロマの血脈」の順に追ってきたが、なぜか、ここでシリーズ 0 に戻る。というのも、「ウバールの悪魔」は最初に発表されながら、日本では、5番目に刊行されている。0番を加えたのは、やや苦し紛れ感があるものの、シリーズ半ばで原点の作品に立ち返ってみるのも悪くない。惚れっぽい追い手は、素直に出版順に従うのであった...

原点に立ち返る意味で、シグマフォースという組織を軽くおさらいしておこう。それは、米国防総省の DARPA(国防高等研究計画局) 直属の秘密特殊部隊で、「殺しの訓練を受けた科学者」と形容される。Σ(シグマ)記号は数学では総合和を意味し、物理学、生物学、電子工学、考古学、人類学、遺伝子工学などあらゆる専門知識を融合した天才集団というわけである。もちろん架空の組織だ。ただ、DARPA は実在するし、これに相当する組織がないとは言い切れまい。
ロリンズ小説の最大の魅力は、科学と歴史学を融合させる手腕にあると思う。科学は最先端の知識を重んじる立場にあり、歴史学は過去の知識を遡る立場にあり、各々が時間と空間を越えて調和してこそ、真の知識を覚醒させると言わんばかりに。しかも、古代知識の偉大さを描きながら、歴史の可能性ってやつを匂わせてやがる。現代人が流行知識に振り回される様を嘲笑うがごとく...
また、あらゆる行動には緻密な分析がともない、アクションと知識、すなわち、動と静の絶妙なバランスも見逃せない。ただ奇妙なことに、動の領域に文章のオアシスを感じる。静の領域はあまりに知識が溢れ、何度も読み返して疲れ果てるのだ。無尽蔵な知識の中に放り込まれるとアクションの方に安らぎを覚え、動脈と静脈が逆流するかのような感覚に見舞われる。結果よりも原因や過程、さらには背景に重きを置き、読者にかなりの気合と体力を要請してくるのも、前戯の大好きな酔いどれには、たまらない...

舞台は、大英博物館、ナビー・イムラーンの霊廟、アイユーブの霊廟、そして、シスルへ。大英博物館の功績の一つに、皮肉にも植民地時代にコレクションされた人類の遺産の保管場所になっていることが挙げられる。時の征服者たちは考古学的な発見に価値を見いだせず、破壊された事例も珍しくないが、ここに収集されれば安全管理される。
本物語では、その遺産の一つが爆発した謎の物理現象が発端となる。それは、アラビア半島の東端に位置するオマーンで発掘されたナビー・イムラーンの霊廟に関するもの。アラビアで最も有名な墓は、聖書やコーランにも出てくる人物を祀っている。そう、ナビー・イムラーンとは聖母マリアの父だ。本当に、ここに眠っているのかは知らんが...
暗号を解読した一向は、次にアイユーブの霊廟へと導かれる。アイユーブは旧約聖書ではヨブと言い、これまた聖書にもコーランにも出てくる人物で、神への信仰を貫いたことで知られる。そして、最後に導かれる場所はシスル、そこはシバの女王が封印した古代都市ウバールだったとさ...
この道しるべとなるのが、いずれもユダヤ教、キリスト教、イスラム教で共通して崇められる人物である。人類の禁断の知識、すなわち、パンドラの箱を開けるには、一つの宗教に頼るのでは心許ない。だからこそ、人類共通の悪魔を封じ込めるために、宗教を越えて崇められるほどの存在に縋ったというのか。
しかし皮肉なことに、もともと兄弟であった三つの主教が骨肉相食むという長い歴史がある。人間の憎しみってやつは、血が濃いほど倍増するものらしい。
一方、大英博物館の爆発原因の方はというと、鍵となる物理現象は、古くから伝えられる球電現象から始まり、乾燥状態で起こりやすい静電気、砂漠特有の巨大な砂嵐、そして、無尽蔵のエネルギー源となる反物質へと至る。この反物質ってやつが、すべてのエネルギーを引き寄せる。人間どもの野望までも。人間精神の物理構造が原子や電子で構成されているのだから、それも自然というものか。
しかしながら、物質と触れた瞬間に対消滅してしまう代物だ。物質同士が反応すれば、いがみ合うっていうのに。存在を重んじる物質界の住人にとっては、なんとも掴みどころのない存在なのである。反物質を安定した状態で物質界に留まらせる方法があるとすれば?それが大英博物館のコレクションの中にあるのか?シバの女王が封印しなければならぬほどの脅威とは?人類にはまだ、それを知る資格がないということか...

1. あらすじ
激しい雷雨に見舞われた夜、大英博物館で爆発事件が発生。防犯カメラには、青い火の玉を追う警備員の姿が映っていた。これが、古代から伝えられる球電ってやつか。オマーン出身の学芸員サフィア・アル=マーズは、爆発物の痕跡から古代アラビア語で「UBAR」に相当する文字を発見し、現地調査へ向かう。
一方、シグマフォースのペインター・クロウ隊長は、爆発の陰に無尽蔵のエネルギーを持つ反物質が存在していることを掴み、身分を隠してサフィアたちに同行する。無尽蔵のエネルギーと聞けば、各国政府の諜報機関だけでなく、あらゆる集団が群がる。テロリストも、ブラックマーケットの裏組織も。反物質にはそれだけの魅力がある。1グラムもあれば、原子爆弾相当のエネルギーを生み出す力があるのだから。
テロ組織ギルドも反物質を狙っていた。サフィアはギルドに拉致され、霊廟で発見された手がかりをもとに古代都市ウバールの場所を突き止める。ペインターたちもサフィアの足取りを追ってウバールへ。
しかしながら、超大型の砂嵐が迫り、地下に封印されていた反物質の湖が攪拌し始めていた。不安定になった反物質は、いままさに膨大なエネルギーを放とうとしていたのである...

2. 失われた古代都市
紀元前九百年頃、都市ウバールは数少ない水場の近くに建設された。シバの女王が生きていたとされる時期に。この地は、オマーンの沿岸部の山々の乳香の木々の林と、北の豊かな都市の市場とを結ぶ「乳香の道」の重要な交易所となった。
庭園都市サラーラはドファール特別行政区の中心都市で、このあたりだけがモンスーン気候に恵まれ、一定の雨量が観測されたという。ペルシア湾からアラビア半島にかけて、このような恵まれた気候は他に例がなく、そのために希少な乳香の採れる樹木が育ったのだとか。二万年前、オマーンの砂漠が緑豊かなサバンナに覆われ、川や湖が多く点在したことは、考古学的にも明らかにされているそうな。砂漠化したのは、「軌道強制力」「ミランコビッチ・サイクル」といった自然現象のためだと考えられているとか。
古代都市ウバールは何世紀にも渡って繁栄したが、西暦三百年頃に巨大な陥没穴にのみ込まれ、迷信深い住民たちは砂に埋れた街を放棄したと言い伝えられている。王が預言者フードの警告を一笑したために神の怒りに触れ、都市は地上から姿を消したとさ。アトランティスの砂漠版か。
ウバールは、イラーム、ワバール、「千の柱の都」などの名で呼ばれ、都市伝説はコーランやアラビアンナイト(千夜一夜物語)、あるいはアレクサンドリア図書館所蔵の文献にも見つけることができるという。
人間や動物が石になったという物語は、各地の神話で無数に伝わるが、「千夜一夜物語」の中にも二つある。「石になった町」「真鍮の都」で、どちらも失われた砂漠の街の発見にまつわる物語。一つ目は、退廃した街は神の怒りに触れ、住民たちは罪によって固められてしまい、二つ目は、真鍮にされてしまう。本物語では、この二つ目の伝説と失われた都市を結びつける。
尚、シスルは最初にウバールの廃墟が見つかった場所で、1992年、アマチュア考古学者ニコラス・クラップによって衛星地中レーダーを使って発見されたという。

3. ツングースカの大爆発
球電現象は、古代ギリシア時代から報告され、現在でも目撃例があり、多くの記録が残される。原理には諸説あり、雷雨の中で電離した空気によって生じる浮遊性のプラズマという説や、雷が地面に落ちた際に土壌中から蒸発した二酸化ケイ素とする説など、あるいは、UFO説との関連までも囁かれる。
では、本物語の爆発事件とどう関係するというのか?雷雨や落雷で、静電気が起こりやすい状況にあったことは考えられる。静電気に誘発されて何かが化学反応を起こした結果なのか?
ちなみに、1908年、ロシアのツングースカで大爆発が発生した。隕石が衝突して、大気中で爆発したと思われる事件である。だが、隕石落下説には、いくつかの問題が指摘されている。電磁パルスが地球の半分を覆ったほどの大規模な現象であったにもかかわらず、隕石の欠片を発見することができなかったこと。爆発の衝撃は、40メガトンとも、後に、5メガトンと訂正されたりと、情報が錯綜している。
尚、約五万年前のアリゾナの事例では、2メガトンほどの衝撃で、直径約1.5キロ、深さ150メートルの巨大クレーターを残しているが、ツングースカではクレーターも見つかっていないらしい。樹木が爆心地を中心に外側へ倒れたために、爆発の中心点がはっきりと判明しているというのに。
通常、炭素系の隕石はイリジウムの痕跡を残す。本物語では、証拠となるはずのイリジウムの塵すら見つかっていないとしているが、後に検出されたという報告もあるようだ。
ただ、この地域では、興味深い生物学的な影響が見られるそうな。シダ類の成長が早まったり、マツの木や種子や葉、さらにはアリにまでも遺伝子異常が見られるほどの突然変異が増加したり。この地域に住むエヴェンキ族の間では、血液 Rh 因子に異常が見られたという。いずれも放射線被曝による影響で、ガンマ線由来の放射線の可能性が高いということらしい。
本物語では、赤血球細胞の突然変異によって超能力を有する女系種族が鍵を握る。そして、爆発物はオマーンの遺跡から発掘された隕石で、しかも、この隕石に反物質なるものが封じ込められていたという想定で。反物質ってやつが、量子力学的に神の賜物である超能力を目覚めさせるのか...

4. 反物質とバッキーボール
量子論ってやつは、なんでもありか。量子物理学者は、物質界で説明のつかないエネルギー源を、反物質なるものを登場させて説明を企てる。プラスの現象には、マイナスの現象を登場させて相殺すれば、エネルギー保存則に矛盾することなく説明できるという寸法よ。超対称性ってやつだ。
重力子も、この類いで説明される。例えば、銀河系の形状を保つために必要な引力が不足しているとされるが、仮想粒子なるものを登場させればいい。宇宙空間には、ビッグバンの名残である反物質でできた小惑星や彗星が存在するのではないかという説もある。地球上層には、常に宇宙線に含まれる反物質の粒子が降り注いでおり、大気中の物質に触れるとたちまち消滅してしまう。そもそも物質でできた人間が、反物質なるものを認識すること自体に矛盾がある。宇宙誕生説が、いまだに神との結びつきを断てないでいるのも道理というものか。
さて、反物質が物質界で存在できる原因を、どう説明できるというのか?彫像や隕石の内部に保存されていたとしても、その容器の役割を担う存在が物質であれば、やはり消滅するはず。これを説明するために、結晶学には「バッキーボール」という五角十二面体の結晶構造がある。建築家バックミンスター・フラーにちなんだ名である。
物質界に存在する水素と酸素で構成される分子構造は、周囲の分子とすぐに反応する性質があり、極めて不安定ということができる。例えば、水の分子構造 H2O は、O に対して2つの H が角度を持っているために若干の極性を持つ。バッキーボール構造ならば満遍なく力が均衡し、非常に安定した状態で分子の中心に反物質を閉じ込めることができるというのである。
実際、反物質の生成や保存に成功したという実験が報告されている。スイスの CERN(欧州原子核研究機構)は、反物質の粒子を実際に生成し、ナノセカンドの単位で保つことに成功したなど。近年では、半水素原子を人間が十分に感じられる時間単位で閉じ込めることに成功したという研究報告もあり、SF の域を脱しつつあるようだ。
本物語では、古代都市ウバールの地下に貯まった水が、バッキーボールの湖だというわけである。安定性が高いほど崩壊した時のエネルギーが膨大となるは、物理学の掟。この湖に巨大な砂嵐が近づき、強力な静電気の場が生じたとしたら、青い精霊(ジン)が砂漠の悪魔を目覚めさせる。ここは、ニスナスの住む国だ!

5. 無性生殖と物質界の掟
古代都市ウバールは、ノアの曾孫たちによって築かれたとされる。本物語では、その子孫となる二つの部族が鍵を握る。それは、他の部族と接触を持とうとしないシャフラ族と「ラヒーム」と呼ばれる女系種族である。シャフラ族はドファール山脈に実在し、自らウバール王の跡継ぎと称して、今でもアラビア最古とされる方言を話すそうな。いわば、ウバールの門番か。
さて、興味深いのはラヒームの方である。なぜ女性だけの種族が、数千年に渡って存続しうるのか?これには聖母マリアの処女伝説を見る思い。本物語では、ウバールに祝福された女性たちは不思議な能力を持っている。テレパシーやテレポーテーションの類いだ。自分の意志を他人の心に反映したり、単純な動物ほど操るのが簡単。ただし、しっかりとした意志を覚醒させた者を操ることはできない。
神からの賜物とは、自分の意志で妊娠することである。女性にとって最高の祝福は、子供を授かることという価値観。この生殖アルゴリズムは単為生殖か、いや、無性生殖か。単為生殖とは、昆虫や動物で見られる生殖過程の一つで、雌の遺伝子コードを含む完全な核を持った子供が生まれる。遺伝子的に完全な複製となるが、この女系はクローンとは違う。通常、体の細胞は分裂し、まったく同じものを作り出す。卵巣と睾丸の生殖細胞だけが、女性の卵子と男性の精子という元の遺伝子コードの半分だけを持つ細胞を作り出すように分裂し、それによって遺伝情報が混じり合う。
しかし、もし女性だけが何らかの方法で、例えば意志の力で、未受精卵の分裂を止めることができるとしたら、その結果として生まれる子供は母親の完全な再生となる。そして、この言葉がなんとも薄気味悪い。
「わたしたちが、シバの女王なのです。」
ただ、神から授かった能力も徐々に薄れ、中には男性と恋に落ちて村を離れたり、男が生まれることもあり、純粋な女系血統は徐々に数が減っていったとさ。
子孫の複製では、ほとんどの生物が二つの個体で結ばれることを望む。雌雄同体であっても。生命の複製だけなら単体で生殖する方が合理的であるが、自然界はそうはなっていない。遺伝子にはほんの少し変身願望があるようで、なにかと結合を求めてやまない。これが物質界の掟なのだ。これを人間界では進化と呼ぶが、宇宙法則の観点から進化なのか退化なのかは知らん。反物質ってやつは、物質と接触した途端に無に帰するというのに、物質ってやつは、物質同士で接触すると、さらに欲望を倍増させやがる。

6. ラヒーム女系族とミトコンドリアの突然変異
地下のバッキーボールの湖のように、ラヒーム族の赤血球細胞や体液中には、バッキーボールが満ちているという。だから、テレパシーのような強い意志の力が保存できるということらしい。
この能力は、ミトコンドリア DNA の突然変異だとか。ツングースカの大爆発で植物相や動物相に突然変異が発生したような。それも、自分のDNAではなく、細胞のミトコンドリアのDNAだ。ミトコンドリアとは、細胞の中の小器官で、細胞質の中に浮いていて細胞のエネルギーを作り出す小さなエンジンみたいなもの。大雑把に言えば細胞の電池である。ミトコンドリアは、かつてはバクテリアの一種で独立した生命体であったために、生命体の遺伝子コードとは別に独自の DNA を持ち、進化の過程で哺乳類の細胞に吸収されたと考えられているそうな。
ミトコンドリアは細胞の細胞質にしか存在しないので、母親の卵子中のミトコンドリアがそのまま子供のミトコンドリアになる。だから、この能力は女王の血筋だけに受け継がれたというのである。そして実は、サフィアも...

2017-10-22

"学問の進歩" Francis Bacon 著

"scientia est potentia (知識は力なり)" との格言を残したフランシス・ベーコン。彼は人類に奉仕するために生まれてきたと信じていたようで、ルネサンス人によく見られる傾向である。万能人という特質が、そのような使命を駆り立てるのか。そして、知識の発見や知識を生かす技術に着目して学問の尊厳と価値を説き、さらには、学問の進歩のために何がなされ、また何が欠けているかを論じる。学問と知識の喜びを語り、まがいものの快楽とは違うと...
学問には、主観的で感情的な精神に、冷静な目を向けさせる役割がある。冷静さとは、ちょいと客観性を混ぜ合わること。主観をほんの少し遠慮がちにさせることができれば、自己から粗野と野蛮を取り払うことができよう。古来、哲学者たちが語ってきた... 謙遜は悪徳を知ってからでなければ身につかない... というのは本当かもれない。
「疑いもなく、学芸の忠実な履修は、品性を柔和にし、たけだけしさをなくさせる」
... オウィディウス「黒海のほとりから」

徳を知っていても、徳を身につける手段と、これを用いる方法を知らなければ、ものの役には立たない。学問が導くものはこれか。したがって、学問は、経験的で帰納法的なプロセスをとり、試行錯誤の上で省察となるであろう。
客観性へと導く論理学には、根本的な思考原理に三段論法ってやつがある。こいつは人間精神と非常に相性がよく、大前提、小前提、そして結論へと導くやり方が妙に説得力を与える。それゆえ、古くから熱病のごとく研究されてきた。おそらく論理学の王道は演繹法であろう。人間の能力だけで世界を完全に説明できるならば、演繹法だけで済むはずだ。
しかしながら、現実世界を説明するならば、帰納法に頼らざるをえない。ベーコンの学問の立場は、まさに観察や実験を重んじる帰納法的考察にある。彼は、理論傾向の強かった哲学を、実践傾向へと向かわせた。散歩するがごとく自由に試行錯誤することが、学問の真髄と言わんばかりに。
ただ、このルネサンス人をもってしても、やはり真理を語ることは難しいと見える。その証拠に、学問の進歩を語る段になるとアフォリズムを展開し、過去の偉人たちの言葉に縋る。既に真理は語り尽くされていると言うのか。いや、そうするしかなかったのだろう。学問の道は、真っ直ぐすぎてはつまらない。寄り道、回り道があってこそ道となる...
アリストテレス曰く、「わずかなことしか考慮しない人びとは、容易に意見をいえるものだ。」

尚、ここで言う説明とは、存在意義や合目的を問うことであって、最も説明の難しい手強い相手が人間精神そのものである。古来、偉大な哲学者たちは、自己を説得するために弁証法なるものを用いてきた。弁証法とは、矛盾と対峙する上で有効な弁明術とでもしておこうか。人間は、人間自身の存在意義を求め、その言い訳をしながら、学問を進歩させてきたのである。
それゆえ、学識が人を傲慢にすることもしばしば。知らない相手を小馬鹿にしたり、有識者たちの議論でさえ知識の応酬に執着したりと、結局は自己存在を自己優越に変えてしまう。人間が編み出した知識が永遠に完全になりえないとすれば、学べば学ぶほど謙虚になりそうなものだが、そうはならないのが人間の性。答えの見つからない命題があれば、いかようにも解釈できる。
そして、説明に困った挙句に登場させるのが、完全なる神の存在である。神とはなんであろう。万能の知識といえば、そうかもしれない。科学や数学といった客観的知識が、主観的知識を拒んで無神論者にさせ、今度は宇宙法則の偉大さという側面から、絶対的な存在を受け入れる。これを神と呼ぶ者もいるが、少なくとも既存の宗教が定義しているような存在ではない。
「浅はかな哲学の知識は人間の精神を無神論に傾かせるが、その道にもっと進めば、精神はふたたび宗教にたちかえるということも確実な真理であり、経験から得られる結論である。」

ベーコンは、学問に対する功績ある事業や行為には、三つあるという。それは、学問の行われる場所、学問をおさめる書物、そして、学問をするその人である。
古来、実に多くの学院や図書館が建てられてきた。学問の体系化ではアリストテレスの功績が大きく、その流れから学問分野は細分化され、多彩な専門科目を生んできた。
子供たちには、義務教育の名の下で一般教養が強要される。真の教養は強要からは導けないだろうが、知識が強要されるべき時期は必要であろう。ガリレオは言った... 人にものを教えることはできない。できることは、相手のなかにすでにある力を見いだすこと、その手助けである... と。
では、大人はどうだろう。自分自身で学ぼうとしなければ同じこと。鉄は熱いうちに打て!というが、大きな子供ほどタチが悪い...

2017-10-15

"カルダーノ自伝 ルネサンス万能人の生涯" Gerolamo Cardano 著

自伝の類いでは、聖アウグスティヌスの「告白」、マルクス・アウレリウスの「自省録」、チェッリーニの「自伝」、ルソーの「告白」などに触れてきた。人生の終わりが見えてくれば、生きてきた証のようなものを残したいと考える。それは、遺言書の類いか...
しかしながら、なかなか勇気のいることでもある。どんな醜態にも弁解がつきまとい、美化、正当化の誘惑を免れない。たとえ偉人であっても。自伝を書く前で、誠実であれ!などと命ずる者はいない。いるとしたら自分自身だ。正直に書いたとしても、下手をすれば単なる暴露本になりかねない。書くほどのものなのかと問えば、それほどの人生を送ってきたのかと問わずにはいられない。実際、彼らはこれを問い続け、ジェロラーモ・カルダーノ自身もまたアウレリウスに触発されて書くといった旨を語っている...
尚、清瀬卓、澤井繁男訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

自伝を書く理由とは、なんであろう。自伝を書かずにはいられない心境とは、いかなるものであろう。そして、自伝を書く資格とは。ある作家は言った... それは、五十を過ぎてからにしなよ... と。人類の叡智という衝動が、そうさせるのか。魂が不滅だとしても、どのように不滅なのかは知らないし、それがどれほど大事な目論見なのかも知らない。ただ、読者は知っている。名誉というものが、いかに災いをもたらすかを。虚栄心とは、いわば人間の性癖の一つで、名誉欲と表裏一体。人から良く思われたいということは、人目を気にしながら生きているということ。これが、自伝を書く理由の一つでもある。もはや、ある種の依存症!あらゆる依存症は自立や自律を拒み、何よりも自由を犠牲にする。
とはいえ、生き甲斐を見つけるということは、依存できる何かを求めているということ。なによりも万人の夢みる幸福ってやつが、何かに依存している状態なのだ。人間にとって不幸のタネは二つあるという。一つは、万事は果敢なく空虚なものであるにもかかわらず、人間が手固く充実したものを追い求めようとすること。二つは、人間が知りもしないことを知っていると思い込むこと。あるいは、そうした振りをすること。
さらに、ものの考え方を変える要因は三つあるという。年齢と幸運と結婚がそれだ。なるほど、わざわざ自伝を書かずとも、人生に言い訳を求めてさまようことに変わりはなさそうだ...

1. カルダーノの業績
当時、カルダーノは医者として名声を博し、数学者、哲学者、占星術などに秀でた百科全書的な奇人。本書には賭博師ぶりが目につく。ダ・ヴィンチを友人にもつ父は法律家でありながら、数学など多くの学問に通じていたという。彼を万能人とさせたのは、父の影響が大きいようだ。ただ、カルダーノは父の研究主題について、気移りが激しいと指摘している。
カルダーノの方はというと、本業ではミラノ医師会から入会を拒否されたそうな。貧乏人が社会的地位を得るための最良の道だが、私生児という理由で拒否されたんだとか。処女作で医師たちの慣習や処方を批判し、多くの敵をつくったようである。異端の嫌疑をかけられたのも、キリストを星占いしたことに起因するらしい。結局才能が勝り、後に医師会会長になったものの。
しかしながら、カルダーノを有名にさせたのは、本業よりも数学の方であろう。まず、三次方程式の解の公式をめぐっての論争が挙げられる。この公式はニコロ・フォンタナ・タルターリアが長らく秘蔵していたが、カルダーノが公表しないと誓いを立てたので教えた。だが、カルダーノは自著でこれを公表したために、タルターリアとの間で論争となる。また、四次方程式の解を導いたのは、カルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリであった。
尚、三次方程式と四次方程式の代数的解法は、偉大なる技法を意味する「アルス・マグナ」に掲載され、タルターリアの名前もきちんと記載されているとか。この書は、虚数の概念を登場させた最初の書としても知られる。デカルトが初めて虚数という用語を持ち出したとされるが、概念そのものは既にカルダーノが記述していたのである。実数と虚数の組み合わせで表される複素数の概念は、電子工学においても物理量演算で絶対に欠かせず、ずっと悩まされてきたが、いまや数値演算言語やスクリプト言語でも扱えるようになり、ちょっぴり幸せを享受している。
しかしながら、数学史においては、初めて確率論を書したことの方が評価が高い。ベキ法則や事象概念などを初めて論じたのだから、いや、イカサマ論を記述したのだから、ギャンブラー理論の先駆者と言うべき存在なのだ。尤も当時は、確率論を数学の一分野に受け入れられていなかったようである。どうやら賭け事にのめり込みやすいタイプか。尤も賭け事が好きなのではなく、引きずり込まれたと言い訳めいたことを語っているけど...

2. 苦難の宿命から天啓へ
自伝を書くなら、やはり苦難や不幸事がなければ締まらない。時代は、神聖ローマ皇帝カール5世とフランス国王フランソワ1世のイタリア支配権を巡る戦乱のさなか。おまけに、宗教改革やら、対抗宗教改革やら、異端の嵐が荒れ狂う。この時代に多くの万能人を輩出したのは偶然ではあるまい。それは、夢や幻への逃避なんぞではなく、真理を渇望した結果であろう。
カルダーノは、自身の呪われた宿命を語る。まず、母は中絶を試みて失敗したという。そして、黒死病が流行り、母はミラノからパヴィアへ移ってカルダーノを産んだと。金星と水星が太陽の下に位置し、奇形児の生まれやすい位置関係で生を授かったと。彼の不幸ぶりを列挙すると、先天的な病に後天的な病、長男の無残な死、不肖の次男、娘の不妊、そのうえ性的不能に加えて絶えざる困窮、さらに誹謗中傷や名誉毀損の奸策を被り、ひっきりなしの訴訟事件、おまけに投獄体験ときた。
カルダーノは逆境を生き抜くための術に、「天啓」という言葉を持ち出す。あらゆる学問への興味は閃きと守護霊の恩恵であり、天啓を完全なものにしようという努力であったと。好きな事とやりたい事を分けるものが、これだ。好きな事は、少々の苦難があると挫折してしまうが、本当にやりたい事は、苦難をもろともしないばかりか、底知れぬ力に変えてしまう。天才には、何か途轍もないものが取り憑くようである...
「自分の境遇を嘆く権利などない。アリストテレスの言葉を信じるならば、重大な事実について確実でしかも稀な知識を豊富に持っていることからすれば、わたしはほかの人々よりずっと恵まれていると自認している。」

3. 万能人に欠けるもの
この万能人にして、欠けているものが多すぎると告白してやがる。自分の内気な性格や気難しい両親を嘆き、友人や頼みとする家族を欠いたうえに、記憶力や身のこなしが欠落していたと。あまりにも卑屈すぎはしないか。いや、その反骨精神が万能人たる所以なのか。凡人は欠けているものを隠そうとするものだけど。
カルダーノに取り憑いた守護霊だって、理性を欠いた獣の霊と化すこともあれば、欺瞞に動かされることもある。霊魂ってやつは公然と警告してはくれない。自問している自分が答えるだけだ。
そして、社会を嘆き、人間を嫌い、自己嫌悪に陥り、反社会分子的な性格を覗かせる。この万能人には、占星術師らしい中世の神秘主義者と、その中世の価値観を否定するルネサンス人が共存するかのようである。
さらに、ラテン語の習得が遅れていたことを嘆く。この時代の文献といえば、ニュートンのプリンキピアを思わせるような整然としたラテン語で書くのが慣例であるが、自伝の原書は、俗語とも古典ラテン語ともつかぬラテン語で残されるそうで、中世ラテン語と呼ばれるとか。カルダーノは、あえて俗語的なラテン語で世に問おうとしたのだろうか...
「さて、読者諸君へのお願いが一つある。この書物をざっと飛ばし読みして、その目的が人間の束の間の栄光であると考えてもらっては困る。かえって、われわれの惨めで難儀な一生をすっぽり覆っている重苦しい暗闇を、広大な地上と天体とに比較してほしい。そうすれば、わたしが物語っていることがいくら奇跡めいているとはいっても、信じがたいことは何も含んでいないとたやすくわかってもらえるはずだ。」

2017-10-08

"意志と表象としての世界(全三冊)" Arthur Schopenhauer 著

アルトゥル・ショーペンハウアーの随筆をいくつか拾い読み、ようやく彼の大作に挑む下地ができたであろうか。実は、この大作を避けに避け、お茶を濁そうと目論んできたが、気まぐれには勝てそうにない。随筆のような形式を好むのは、本音を覗かせるところにあり、なにより著者の愚痴が聞こえてきそうなところにあるのだが、哲学書として構えられると、学識張っていてどうも近寄りがたい。プラトンの対話篇は学生時代から馴染んできたが、アリストテレスの学術書となると、手に取るまでにかなりの時間を要した。カントの三大批判書にしても、ゲーテをはじめとする文芸家や科学者たちの書で引用されているのを見かけるうちに衝動にかられ、ダンテの大叙事詩に出会えたのも、ルネサンス期を生きた美術家たちの言葉によって導かれた。
そして、ショーペンハウアーはというと、西欧ペシミズムの源流とも評され、ニーチェや森鴎外などの文芸書に、はたまた、シュレーディンガーやアインシュタインなどの科学書にも、その名を見かける。
ただ当時は、厭世主義、非合理主義、反動主義などとレッテルを貼られ、フェミニストからは女性の敵と叩かれ、有識者からは頽廃の哲学と非難されたようである。産業革命にはじまった合理的な生産社会は、明るい未来を想像させ、楽観主義を旺盛にさせたが、同時に、人間中心的な享楽主義によって自然への配慮を忘れさせてきた。ショーペンハウアーは、人類の浪費癖と、人間社会が自然物から乖離していく様を嘆いているが、そうした風潮は、21世紀の今日に受け継がれ、現代悲観主義を先取りしていたようにも映る。
俗世間では、楽観主義を、明るい... 積極的... などの形容詞と結びつけて肯定的に捉え、悲観主義を、暗い... 消極的... などの形容詞と結びつけて否定的に捉える風潮がある。ショーペンハウアーは、これに逆らうかのように積極的な悲観論を受け入れ、自己否定論にも臆することはない。むしろ現実を直視する立場にあり、見方をちょいと変えるだけで楽観主義と悲観主義が逆さまにもなる。狂気した社会に対抗するには、世間から狂人と呼ばれる立場に自ら身を置いてみることだ!と言わんばかりに。楽観論の渦巻く暴走社会において、唯一歯止めを利かすことができるとすれば、それは悲観論にほかなるまい。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... とはこの道か。ショーペンハウアーは、あえて世間の敵役を演じているのやもしれん...
尚、西尾幹二訳版(中公クラシックス)を手に取る。

ショーペンハウアーという人物は、自由ハンザ都市ダンツィヒの生まれだけあって自由を信条とし、何ものにも屈しない激しい気性の持ち主だったようである。ちょうどフランス革命の時期に生まれ、政治、経済、文化、宗教などあらゆる既成価値が崩壊していく時代。革命が急進化すれば、政敵は次々と断頭台へ送られ、恐怖政治と化す。民衆は革命派にも、保守派にも希望が持てず、もはや旧体制に戻ることすらできない。ショーペンハウアーの気性は、こうした時代を反映しているかのようである。特に、自由人は集団的性向を嫌うところがある。だからこそ、自己を徹底的に追求することができたとも言えそうか。近代的市民の自立性を体現しているような...
人生ってやつは、苦悩と退屈の二部構成の人間悲劇、いや人間喜劇。苦悩がなければ、人生は怖ろしく退屈なものとなり、暇が過ぎれば、ろくなことを考えない。主観と客観の葛藤も、あらゆる論争も、暇つぶしにはもってこい。ドグマに没頭するのは暇な理性のやることだ。人間ってやつは奇妙な存在である。役に立つとか、立たないとか、そんなことにこだわらないと生きられないのか?生きているだけで幸せとは思えないものなのか?... などと問わずにはいられないのも、これまた人間の悲しい性。意識が完全になるほど苦悩も露わになる。知識を高め、認識が明晰に達するほど苦悩も増す。芸術家が苦悩に悶えた挙句に自ら抹殺にかかるのも、天才であるがゆえの結末か。命の存続を望むのは、生への愛着だけではあるまい。死を忌み嫌うのは、恐怖からだけではあるまい。悲観主義を講じて虚無主義に進めば、いや皮肉主義に陥れば、酔いどれ天の邪鬼の共感をますます誘う...
「すべての幸福は本性のうえから消極的にすぎず、積極的なものではない。だからこそ永つづきする満足や幸せというものはあり得ず、いつもただ苦痛や欠乏から脱出し得たという思いがあるだけであって、その後に必ずつづいて起こるのは新しい苦痛か、さもなえればもの憂さ、空しい憧れ、そして退屈ですらある。」

ところで、認識論の不完全性は科学的にも暗示されている。それは、不確定性原理の哲学的な解釈をめぐってのものだ。物理現象を観測するということは、純粋な物理系に観測系が加わってはじめて成り立つ、との主張は観察者効果と呼ばれ、不確定性原理とは一線を画すものの、人間がある存在を純粋のまま認識することは不可能だと言っている。精神がニュートン力学に幽閉されていれば、尚更だ。感覚器官で知覚することはできても、真の姿を知ることはできない。だから、耳鳴りがしたり、錯覚を見たり、霊感を感じたり、ついにゲシュタルト崩壊を起こす。時間にしても、空間にしても、相対的に認識することができるだけで、それは意識の産物でしかないのではないか、と疑いたくもなる。人間認識が介在した時点で純粋な現象ではありえないとすれば、プラトンの唱えるイデアを認識することも叶うまいし、それが無機的な存在か、有機的な存在かも分かろうはずがない。
そして、人間とは何であるか?精神とは何であるか?と根源的な存在を客観的に捉えようとしても、矛盾に辿りつくのが関の山。この矛盾こそが、哲学する者にとっての真理となり、心地よい矛盾となるのであろう。
対して、この酔いどれ天の邪鬼ときたら誤謬の奴隷であり続け、永遠に真理など見えてきそうにない。だから、幸せでいられるのだろう。ジョージ・バークリーはこう言ったという、「考える人は少ない。しかし誰もが意見をもとうとする」と...
迷いを断ち切るだけで、悩みの多くを削ることはできよう。謙虚とは、誇り高く過信しないことであり、それは断じて卑屈ではない。もし悔いなき生涯を送るとすれば、凡人には忘却の道しか残ってなさそうだ。悲しみを背負った者でなければ、魂に平和が訪れぬとすれば、悟りは悲観論の側にあるのやもしれん...

「世界そのものの声をもっとも忠実に復唱し、いわば世界の口述するところをそのまま写しとった哲学のみが真の哲学である。それはまた、世界の模写と反射にほかならず、なにか自分自身のものをつけ加えたりせずに、ただひたすら繰り返しと反響をなすだけのものである。」
... フランシス・ベーコン「学問の発達」より

1. ショーペンハウアー vs. ヘーゲル
ショーペンハウアーは、ヘーゲルと対立したことでも知られる。当時の書評にも、犬猿の仲のように描かれたそうな。世間ってやつは、対立構図を大袈裟に煽るのが好きなものだけど。ヘーゲルの方はというと、哲学界に確固たる地位を築きつつあり、まだ若造であったショーペンハウアーを意識した形跡はないらしい。そして二人の死後、ヘーゲル学派とショーペンハウアー学派の論争が激しさを増す。本書では、ヘーゲル学派への毛嫌い振りを、序文のカント批判に対する反論に垣間見ることができる。
「他人の叙述からカントの哲学を知ることができると思いこんでいるような人は、救いようのない謬見にとらわれている... ごく最近の数年において、ヘーゲル主義者によるカント哲学の解説の著書がわたしの目の前に現われたが、これはまことに他愛のない作り話に終わっている。」
両派の衝突は、どうやらカントの解釈をめぐってのものらしい。カントは、ア・プリオリという直観概念を持ち出して主観の偉大さを語った。それは、ユークリッド原論で唱えられた公理や公準の位置づけのように、これ以上証明のしようのない命題がこの世には存在するのだという純粋直観に通ずるものがある。
対して、ヘーゲルは、思弁的な立場から客観を重要視した。だからといって主観を完全否定したわけではないし、人間の論理的思考が永遠に矛盾と対峙する運命にありながらも、弁証法が輝きを失うことはあるまい。
ショーペンハウアーにしても、ヘーゲル式弁証法を真っ向から否定しているわけではあるまい。実際、本書では主観と客観の調和めいたものを唱え、彼の随筆集を読んでも思弁的な態度と相性が悪いようには映らない。
となると、同時代を生きたから、ライバル意識を燃やしたのだろうか。同じベルリン大学に在籍したことが、余計にそうさせたのだろうか。時間といい、空間といい、二人は近すぎたのやもしれん。カントぐらい少し離れた時代を生きれば、素直になれたのかも。
あるいは、カント哲学を信条とするだけに、ちょうど動揺を誘う的を射てしまったのか。人間なら誰しも、指摘されるとつい感情的になってしまう事柄を、一つや二つ抱えている。エピクロスは言っている、「人間の心を乱すのは事物ではなく、事物についての意見である」と...
主観と客観は表裏一体、争えば大きな災いとなり、協調すれば大きな力となる。尚、この酔いどれ天の邪鬼は... 哲学する者の資格は、啓発された利己心と健全な懐疑心に支えられていると信じており、前者がカント風の直観概念と、後者がヘーゲル風の弁証法的思考とすこぶる相性がいい... と考えている。
「理性によって正しく認識されたものが真理であり、悟性によって正しく認識されたものが実在である。真理はすなわち、十分な根拠をそなえた抽象的な判断のことである。実在はすなわち、直接的な客観における結果からその原因への正しい移行のことである。」

2. 意志と表象
人間の定義となると、すこぶる難しい。それだけに偉人たちは多くの名言を残してきた。デカルトは、「思惟する存在」とした。ショーペンハウアーは、「意志こそ第一のもの」としている。そして、意志と表象は表裏一体であると...
「表象」という用語は、なかなか手強い。単なる現象ということもできるわけで、自由意志ってやつは崇めるほどのものなのか。哲学では、こうした精神現象を形而上学の名の下で語り、物質的な存在を形而下と呼んで差別する。原子論に照らせば、どちらも単なる物理現象にしか見えてこないのだけど...
また、「意志は完全に自由である」としている。いっさいの目標がないということ、いっさいの限界がないということ、これが意志の本質であると。意志は、終わることを知らない努力というわけである。そして、意志の段階ではまったく認識を欠いていて、盲目的で、抑制不可能な衝動に過ぎないという。
「後悔はけっして意志の変化から生じるのではなく、認識の変化から生じる。」
意志は、けして変化するような代物ではないというのだ。純粋な衝動は無限をまったく恐れず、意志は普遍的であり続け、だから、ひたすら邁進することができるのか。プラトンのイデアとは、そのようなものを言うのかもしれない。そして、意志の継承が人類の叡智と呼ばれるのであろう。
さらに、意志が知識を得て認識に変化した時、不自由を感じるという。となれば、不自由を感じて行動が変化するのも、やはり意志なのでは?福音などというものは認識だけが残った状態で、意志が消えてなくなってしまった状態にほかならない。自己に命じることのできるのは、福音でもなければ、プラトンでも、カントでも、ましてやメフィストフェレスでもない。自分自身だ。そして、意志の命ずるままに、死を恐怖して生きるか、死を覚悟して生きるか、それが生き様というもの。生死を超越した「意志と表象」の思想は、ニーチェの永劫回帰を想わせる。だから、この酔いどれ天の邪鬼は、自らの意志である衝動を「崇高な気まぐれ」と呼んでいる...
「意志はつねに努力して止まない。努力こそ意志の唯一の本質であるからだ。目標に到達しても努力に終止符が打たれることはない。努力はしたがって最終的な満足を覚えることはできず、ただ阻止されることによって止まり得るだけで、そのままにしておけば限りなく進んでいく。」

3. 正義 vs. 良心
人間社会における規定おいて正義や道徳なんてものがあるが、これに良心とやらがなんとなく加わって独特な規定を構成してやがる。人間の自然状態に近いのは、正義よりもはるかに良心の方であろう。しかしながら、現実社会では良心よりもはるかに正義の方が力を持つ。だから、扇動者は正義という言葉を巧みに利用する。良心が優っていれば、けして言葉で欺瞞しようなどとは考えないはずだが...
不正を被りたくないという自己の意志が、他人に対する不正を抑制するところがある。あいつは死んでもいい!などといじめ抜くとしたら、自分が殺されたって文句は言えないってことだ。したがって、目には目を歯には歯を!という信条が法典となるのも、伝統的に不正の程度に対して罰則が規定されるのも、社会合理性が含まれている。
「誰も不正を行おうとはしない、ということが個人の場合における正義のあり方であると思うが、誰も不正をこうむりたくないので、そのために適切な手段が完全に講じられている、ということが国家の場合における正義のあり方である。」
法の執行は、復讐代行業として機能しているところが多分にある。だから、優秀な法律家を金で囲おうとする。本当に法が平等ならば、そんな手の込んだことをやる必要はないし、そもそも法律家の腕で決定されるものではないはず。
自然状態における人間本来の所有権というものは、おそらく存在するのだろう。だが現実に、本当に所有権なるものが存在するかも疑わしい。復讐業の類いが映画やドラマの題材とされ、大盛況となるのは、大衆がそう認識しているからであろう。実際、民主主義社会で求められるのは強力な指導者であって、それは言い換えれば、健全な、いや健全そうに見える独裁者であって、すでに民主主義と矛盾している。理性は、辛うじて良心が砦となり、その砦を正義がことごとく破壊していく。そして救世主は、正義、同情、聖者、裏稼業の順に出現する...
「国家は、人間のエゴイズム一般ないしエゴイズムそのものとは逆の方向を向いているものではなく、それどころか国家は、万人のエゴイズムに端を発している。」

2017-10-01

"読書について 他二篇" Arthur Schopenhauer 著

ショウペンハウエルは、これで四冊目。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼は、暗示にかかりやすいのだ。この厭世哲学者ときたら、とことん積極的なネガティブ思考を仕掛ておきながら、奇妙なポジティブ思考へと誘なう。怖いもの見たさのような。悲観主義を徹底的に貫くと、楽観主義に辿りつくというのか。それは、楽して儲けようという人種が、そのために情報収集に努め、社会システムを駆使し、結局は勤勉になるようなものか。彼の主著「意志と表象としての世界」があまりに分厚いので、お茶を濁そうと随筆ばかりに手を出してきたが、この大作へ向かう衝動を抑えられそうにない。
ところで、障害が大きいほど燃える!というが、それは本当だろうか?愛の場合はそうかもしれん。だが、速読術は速愛術のようにはいかんよ...
尚、本書には、「思索」、「著作と文体」、「読書のついて」の三篇が収録され、斎藤忍随訳版(岩波クラシックス)を手に取る。

ショウペンハウエルは、警句箴言の大家と見える。ホラティウスやゲーテといった偉人たちの言葉を引用しては、皮肉たっぷりに余人に問う。それだけ彼が多読してきた証でもある。そして、「読書」には「思索」という言葉を対立させ、読書は思索の代用品に過ぎない!と吐き捨てる。
「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。」
いつの時代でもハウツー本は盛況ときた。考えることを面倒臭がり、愚鈍で怠惰な人間ほど、読書は危険な行為となろう。安全な道を模索して他人の経験を犠牲にし、手っ取り早く結論に飛びつく。そして、同じ過ちを繰り返すのである。著作家もまた報酬を求めて書き始めれば、読者を欺くことになる。そんな書群が巷を騒がせば、ショウペンハウエルが愚痴るのも分かるような気がする。
しかしながら、いまや読書にも至らない時代。ちょいとググれば知識はいつでも手に入るし、知識を会得することよりも検索術の方が評価される。考える力までも仮想空間へ追いやられるとしたら、人間とはどんな存在なのだろう。なぁーに、心配はいらない。仮想空間が幻想だとすれば、魂だって、精神だって、同じことではないか。そもそも、人間存在に対して明瞭確実に説明できる哲学を、おいらは知らない。ちなみに、宗教にはよく見かけるけど...
一方で、永遠の生命が吹き込まれたような書物がある。もはや著作家の意志から独り歩きをはじめ、幽体離脱したような。自分で考え抜いた哲学だと思っていても、古典に触れているうちに、既に過去に編み出されていたことに気づかされ、がっかりすることはよくある。それでも、すぐに思い直して、それが却って心地よかったりするもので、普遍的な抽象原理にはそうした力がある。意志の継承こそ人類の叡智。この領域に、報酬や著作権などという概念はない。ちなみに、A. W. シュレーゲルの警句に、こんなものがあるそうな...
「努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし。」

ところで、「読書」というからには、本を選ぶという行為がともなう。多少なりと興味がなければ、その本を選ぶこともできない。学校教育などで強制的に読まされるのでもなければ。興味があるということは、似たような思考性向を既に持っているのでは。それは、思索のための題材に飢えているような、いわば暇つぶしに苦慮した心境とでも言おうか。類は友を呼ぶ... という言うが、本を選ぶのにも似たところがある。心を打つ言葉に出会った時、既にその言葉を受け入れる度量が具わっていたことを意味する。もし、心の準備が整っていなければ、偉大な芸術を目の前にしても何も感じることはなく、この作者はいったい何がいいたいのか?などと最低な感想をもらすのがオチだ。寂しがり屋は、そこに共感めいたものを期待し、本を漁っては立ち読みを繰り返す...
「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがある。」

思索の段階では、言葉を探そうとする行為がある。もやもやした思考の中から具体的な言葉を発見した瞬間、思考から真剣さが失せ信仰の段階へ。多読に費やす勤勉な人ほど次第に自分でものを考える力を失っていく。これが、大多数の学者の実状だと指摘している。
思索は主観性の領域にとどまり、知識を獲得すると客観性の領域へと引き出される。思考中は、衝動的なつながりと気分的なつながりを感じながら悶え苦しむことになるが、それでもある種の快感を得ることはできよう。ドMなら尚更だ。それは、酔いどれ天の邪鬼が最も崇拝している「崇高な気まぐれ」を実践している状態とでもしておこうか。
そして、ショウペンハウエルの読書に対する態度を、勝手にこう解釈するのであった... 自己知識に対して常に、カント的な批判的態度とヘーゲル的な懐疑的態度を見失いわないこと。そして、最も純粋な哲学、すなわち思索の最も基本的な態度は、自問であるということ... と。ちなみに、ショウペンハウエル自身は、ヘーゲル学派を毛嫌いしているようだけど...
「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。」