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2021-12-26

"古寺巡礼" 和辻哲郎 著

紅葉香る並木道に沿って古本屋を散歩していると、古寺を巡る印象記なるものに出逢う。この記録に沿って、奈良の地を逍遙してみるのも悪くない。リュケイオンの徒のごとく。てなわけで、この書を観光の手引きとして眺めている。
しかしながら、美術品を理解することは難しい。骨董品ともなると、美的感覚を超えた何かがあり、歴史の重みに威圧感、恐怖心までも呼び寄せる。芸術性を味わうには、こうした造詣味ある解説書でも伴わないと...


若き日に印象に残ったことを記録しておくことは、なかなか面白そうだ。数十年後の自分へのメッセージとして。歳を重ねていくと感動が薄れていく。羞恥心への負い目からか、脂ぎってしまった心は、もはや純真な頃を思い出せないでいる。まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
「この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまな関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。」


若き日の和辻哲郎は、唐招提寺、薬師寺、法隆寺、中宮時など奈良近辺の寺々に遊び、日本文化の源泉探しの旅へといざなう。通常、日本のお寺や仏像を論じる場合、中国文化やお釈迦さまの影響を考察するものだが、もっと西方のガンダーラやペルシア、さらにはギリシアへ至る道筋からその原点を探る。
イデアに看取られた旅行記とでもしておこうか。プラトンは、精神の原型のようなものをイデアと呼んだが、そんな純真な存在を現代社会に見つけることは叶うまい。おそらくプラトンが生きた時代ですら。
アレキサンダー大王は、小アジア、エジプト、ペルシアを征服し、その地の統治者に現地人を多く採用したと伝えられる。それは家庭教師アリストテレスの助言か、あるいは、よそ者が統治するより合理的と考えたのか。大王の東方遠征はインドに至り、ヘレニズム文化とオリエント文化の融合を想像させる。
そして、中国を経て日本へと通ずる壮大な旅を、奈良時代や平安時代の歴史観光から紐解くという試みである。


ギリシア神話には、実に多種多彩で人間味溢れた神々が住み着いていた。その代表は、主神ゼウス。全能者みずから動物に化け、女神たちに近づいてはあちこちで孕ませ、人間の美女にまで手を出して多くの半神半人を生み出す始末。その女ったらしぶりときたら、まったく懲りない雷オヤジよ。ゼウスの子供たちは様々な得技を持ち、神といえども得手不得手を心得ていた。この主神ゼウスを理想化し、一神教にまで崇めたのが、キリスト教やイスラム教である。その理想高すぎ感は、不完全な人間ゆえの憧れというものか...
神に近づくための修行にも段階が規定され、聖職者にも階級制度が設けられる。それは、キリスト教、イスラム教、仏教のいずれにも見られる現象で、神の声を聞くには資格がいるらしい。
ヴェーダを聖典とするバラモン教やヒンドゥー教は、死に至る様々な道をこしらえた。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道といった六道輪廻を。死の世界には、現世の生き方がそのまま投影される。差別好きで、優越感に浸りたがる人間のことだ、生き方にも格付けがなされる。
そして、精神の段階を置き去りにし、名声や肩書に目を奪われようとは。それは、宗教の世界だけでなく、人間社会に蔓延るあらゆる集団や組織において...
「しかし浄土の幸福が現世の享楽の理想化に過ぎないという点は動かせない。不完全な人間存在が完全な生への願望を含むところに深い宗教的な要求の根がある。それは官能的悦楽のより完全な充足を求める心としても現われ得るだろう。」


奈良には、観音と呼ばれる像だけでも多種多彩なものがある。ギリシア神話の神々のごとく。写真で紹介されるものでは、三月堂本尊不空羂索観音、聖林寺十一面観音、百済観音、法寺十一面観音、薬師寺東院堂聖観音、夢殿観音、中宮寺観音... 等々。
ギリシア風の芸術家は、自然主義的な写実を好む傾向があり、例えば、聖母マリア像には、母の慈愛と処女の清らかさという女性の理想像が伺える。
一方、インド風の芸術家は、一つ一つの人体を精巧に描きながら、自然をまったく無視したやり方も厭わないようで、観音菩薩の穏やかな表情に慈悲と威厳を感じるものの、人間離れ感が強い。
そして、日本風の芸術家はというと、人間味溢れた作品も多く、インド風でありながらギリシア風でもあるという。
鬼や悪魔までも神格化し、不思議な生気を感じて思わずたじろぐことも。いずれも偶像崇拝の類いではあろうが、超人的な存在でなければ崇拝も叶うまい。
とはいえ、芸術作品には、人の精神を高め、人の心を浄化し、自省までも促す力がある。皮肉なことに宗教よりも...
和辻哲郎は、薬師寺の吉祥天女について、こう感想をもらす。
「誇大して言えば少し感性的にすぎる。細い手や半ば現われたかわいい耳も感性的な魅力を欠かない。要するに、これは地上の女であって神ではない。ヴィナスに現われた美の威厳は人に完全なるものへの崇敬の念を起こさせるが、この像にはその種の威厳も現われていないと思う。しかし単に美人画として見れば、非の打ちどころのないものである。」

2021-12-19

"風土 - 人間学的考察" 和辻哲郎 著

こいつぁ... 人間精神の風土哲学とでも言おうか...
文化論とは、比較の論とも言える。故に、理解への道は二つ。他文化との差異において自文化を位置づけるか、他文化を摂取する過程を通して自文化を受け止めるか。人間は、単に過去を背負うだけでなく、魂に根付いた土着をも背負って生きている。この時間軸が自己に与える影響は、想像しているよりもはるかに大きい...

「風土」は、古くは「水土」と呼ばれ、土地の気候や地質、地形や景観などの総称であったり、文化の形成や精神に影響を及ぼす環境であったり、あるいは、宗教的風土や政治的風土といった言い方をする。人間は、自然環境だけに影響されて生きているわけではない。むしろ、社会を通して人間同士の影響の方が強いかもしれない。
文明人ってやつは、最も依存しているはずの自然との付き合い方を忘れちまうのか。書物、メディア、技術などあらゆる社会的産物が人格形成に影響を与え、教育がより高度な偏見をもたらす。利便性に憑かれ、意思力が養われない教育が、精神を堕落させるのかは知らんが、ジョン・アダムズは、こんなことを言った...「自然によってつくられた人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって人間と人間との間にできるものである。」と...

1. 風土とは...
和辻哲郎は断じる。「風土とは、人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない...」と。風土の現象は、芸術、信仰、風習などに露わになる、いわば、人間生活の表現様式であるという。個人的でありながら社会的でもある二重性格の内にある自己了解という行為は、同時に歴史的であり、歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない... と。
カントは、ア・プリオリな認識に空間と時間を規定した。すなわち、自己存在という認識原理は、空間性と時間性に発すると。風土とは空間性であり、歴史とは時間性であり、まさに、自己存在という認識契機を自己了解において論じている。
こうして眺めていると、「風土」という用語もなかなか手ごわい。あまりに広範な意味を含み、単なる自然環境や社会環境などでは足りない。存在認識の仕方など、人間の認識能力すべてを飲み込んでしまうような。
自己を満足させようとすれば、自己言及の群れが押し寄せてくる。自己啓発に自己実現、自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大... そして、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。人間の認識能力なんてものは、すべて自己了解の仕方に過ぎないのやもしれん...
「かくのごとく風土は人間存在が己れを客体化する契機であるが、ちょうどその点においてまた人間は己れ自身を了解するのである。風土における自己発見性と言われるべきものがそれである。我々は日常何らかの意味において己れを見いだす。あるいは愉快な気持ち... あるいは寂しい気持ち... このような気持ち、気分、機嫌などは、単に心的状態とのみ見らるべきものではなくして、我々の存在の仕方である。」

2. 三つの類型
和辻哲郎は、人間の風土的な多様性を「モンスーン、沙漠、牧場」の三つの類型で抽象化して魅せる。やや、こじつけ感も否めないが、なかなか興味深い。マリア様がモンスーン的か、牧場的か、はたまた沙漠的かは知らんが...

「モンスーン」とは、季節風のこと。特に、熱帯の大洋から陸に吹き付ける夏の風を指し、アラビア語由来とされる。気候面では、暑熱と湿気が同時に押し寄せる特性があり、生活面では、暑さより湿気の方が耐え難く、暑さより湿気の方が防ぎにくいといった特徴がある。それ故、自然に対する抵抗力が弱いという。運命論を受け入れる傾向にあるのも、そうした風土的な要件によるものであろうか。春風駘蕩の哲学を育むのも...
尚、モンスーンの型どおりの土地柄といえばインドだが、支那や日本もこの型に含めている。日本の場合、さらに台風や地震などの災害が多く、地母神ガイアで象徴される母なる大地への想いも、ちと複雑やもしれん...

「沙漠」とは、"desert" の訳語だが、意味するものがちと違う。地域的には、アラビア、アフリカ、蒙古などに広がる不毛の地。雨量の欠乏した乾燥を本質とし、自然には生気がない。荒々しく空虚な場。人間性をも捨象するような...
渇きの生活が水源の奪い合いとなり、死を目の当たりにしながら、闘争心や対抗心を育むという。こうした土地柄が、人間の絶対服従を求めるヤーヴェのような人格神を必要とするのであろうか。
とはいえ、現代社会を見渡せば、世界はことごとく乾燥そのもの。街中に植えられた少しばかりの樹木を除いては、人工物で埋め尽くされる。巨大モニュメントは、渇ききった人間の象徴か...
「自然への対抗が最も顕著に現れているのはその生産の様式である。すなわち沙漠における遊牧である。人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの半面は人間との戦いである。」

「牧場」とは、wiese や meadow の訳語だが、家畜を囲う場、あるいは、家畜の飼料を栽培する土地といった意味を強める。機械的で疎外的な現実としての工場も、牧場の延長上に配置して...
ちなみに、ヨーロッパには雑草がないと言われるそうな。ほんまかいな?夏の乾燥と冬の湿潤という安定した気候サイクルが、雑草を駆逐して全土を牧場たらしめるという。日本の梅雨のようなジメジメした気候では雑草との戦いを強いられるが、ヨーロッパにはそんな苦労がないとか。ほんまかいな?まぁ、雑草の程度の問題なのだろうけど...
規則正しい循環雨季の到来が、農作物を安定供給する。安定した気候ゆえに、人間の目には自然が従順に見え、自然合理性が人間合理性と結びつき、ホッブズ、ロック、ルソーらが自然状態を論じてきた伝統も分かるような気がする。安定した土壌は、冒険心を駆り立てる。大航海時代がヨーロッパに発したのも、そうした土壌があるからかもしれない。
そして、活動の自由、精神の自由が哲学を育むという。ゴシック文化や啓蒙主義、あるいは、人文主義的な思想が発達するのも、合理的精神や論理的思考を育むのも、そうした風土との関係からであろうか。ヨーロッパの自然科学は、牧場的風土の産物だという...
「牧場的風土においては理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。」

ちなみに、ヘーゲルも三つの自然類型を規定したそうな。
一つは、広い草原や平地を持った水のない高原。遊牧の掟や族長政治といったものの影響力が強いが、発展性が乏しい。
二つは、大河の貫流し灌漑する河谷の平野。移り行きの国土。安定した土壌で農業と国家が発達し、文化の中心となり、君主と隷属の関係が著しい。
三つは、海に隣接する海岸の国土。海路によって世界を結びつけ、商業が発達し、征服欲や冒険心がわきあがり、市民の自由が自覚される。

なるほど、和辻哲郎の三つの類型は、ヘーゲルからのアップデート版のようだが、旧バーションも捨てがたい...

2021-12-12

"イシ 北米最後の野生インディアン" Theodora Kroeber 著

自由に生きるとは、どういうことであろう。自然と戯れながら生きることができれば... 孤独とは、どういう状態を言うのであろう。集団の中にこそ、それがある...


「イシの足は、幅広で頑丈、足の指は真直ぐできれいで、縦および横のそり具合は完璧.... 注意深い歩き方は優美で、一歩一歩は慎重に踏み出され、まるで地面の上をすべるように足が動く... この足取りは侵略者が長靴をはいた足で、どしんどしんと大またに歩くのとは違って、地球という共同体の一員として、他の人間や他の生物と心を通わせながら軽やかに進む歩き方... イシが今世紀の孤島の岸辺にたった一つ遺した足跡は、もしそれに注目しようとしさえすれば、おごり高ぶって、勝手に作り出した孤独に悩む今日の人間に、自分はひとりぼっちではないのだと教えてくれることだろう。」
... シオドーラ・クローバーの娘アーシュラ・クローバー・ル=グウィン


物語は、未開の地に隠れ住む一人のインディアンが、突然、文明の地に姿を現したことに始まる。その名は、イシ。白人の集団的残虐行為によって、皆殺しにされた部族の最後の生き残り。1911年、彼は飢えに耐えられず、畜殺場のほとりで犬に追い詰められ逮捕された。部族の運命と同じく、死を覚悟して...
ところが、運命とは皮肉なもので、白人の世界に迷い出たことで厚遇と友情に囲まれ、カリフォルニア博物館に迎えられる。天然記念物のようにマスコミに晒し者とされ、原住民の研究材料とされるは必定。それでも、イシは快活な忍耐心で凛々しく生きたという...
尚、行方昭夫訳版(岩波書店、同時代ライブラリー)を手に取る。


「イシと彼の部族の歴史は否定しようもなくわれわれ自身の歴史の一部となっている。われわれは彼らの土地を吸収して自分たちの所有地にしてしまった。それに応じて、彼らの悲劇をわれわれの伝統と道徳の中にとりいれ、それについての責任ある管理人とならねばならない。」
... シオドーラ・クローバー


1916年、イシは亡くなった。それ以来、彼の物語は人々の記憶から薄らいでいく。ようやく一般人にも書き残しておこうという考えが関係者の頭に浮かんだのは、1950年代になってからのこと。
文化人類学者アルフレッド・L・クローバーは、イシと最も親しくしていた人物の一人だが執筆を望まなかったという。それは、暗い歴史を物語ることになるからであろうか。あるいは、イシという人物を晒し者にしたくなかったからであろうか。アルフレッドの仕事は、カリフォルニア原住民の言語や暮らしなどの情報を収集すること。そのために、大量殺戮の目撃者となった。イシの遺体を解剖するという話があった時、こう言い放ったという。
「科学研究のためとかいう話が出たら、科学なんか犬にでも食われろ!と私の代わりに言ってやりなさい。」
そして、イシの物語を書くことになったのは、少し距離を置く妻シオドーラ・クローバーである。本書は、第一部「ヤヒ族イシ」と第二部「ミスター・イシ」で構成され、前半でインディアン種族として生きた運命、後半で文明社会を生きたイシの生き様を物語ってくれる...
「おそらく人間の歴史の感覚というものは、思春期から大人になりかけたときと、老境に達して、人生の永遠の真実を再評価し、熟考し、すすんでそれとかかわりを持つ余裕の生じたときとに、さしせまった鋭いものになるのであろう。」


1. インディアン種族の呪われた運命
それは、1844年に始まったという。メキシコ政府は土地所有認可を濫発し、それを合衆国政府が承認した。インディアン種族の土地は、法の下で、権利を主張する自由主義によって略奪されたのである。
原住民の死因の多くは強制移住によるものだという。抵抗する者は集団虐殺。文明から様々な感染病も撒き散らされた。麻疹、水痘、天然痘、結核、マラリア、腸チフス、赤痢など。売春も知らず、性病とも無縁だった女性たちも...
西部開拓史や西部劇などでは、よくインディアンが野蛮で残虐者として描かれているが、馬や牛を盗んだり、時々殺人を犯すぐらいは、些細な仕返しにも映る。法律用語に「正当な征服」なんてものがあるのかは知らんが...
「孤絶した共同体という現象は人間の歴史上稀であるが繰り返し起こる現象である。社会的、相互交流的、拡散的である人間の性質の故に、こういう社会は呪われた運命にある...」


2. 文明人ミスター・イシ
イシが、文明社会を生きた期間は五年間。たったの五年間。結核というこれまた文明からの死の賜物によって。彼は忍耐強く、不平も言わず、看護師たちに気遣い、世話をかけまいと静かに死を受け入れたという。アルフレッドは、どれほどの悲しみ、どれほどの怒りや責任を感じたことだろう。
文明社会を襲う恐怖心よりも強い孤独感。それは、現代人が抱える病理。死を選ぶ者が、なんと多いことか。仲間意識などという美談は、見返りの舌を垂れてやがる。天然記念物的なイシを見世物にして金儲けを企む者はあとをたたず、映画出演の要請やマスコミの餌食に。イシの目には、文明人とやらが、つまらぬ連中に映ったことだろう。
現代社会を生きるための知識を知らぬということが、無知といえるだろうか。人類は、道具を発明することによって文明を育んできた。だが、その文明人が道具なしで生きる術を忘れちまった。最先端商品に目を奪われ、虜になり、そして依存する。誰にでも使える道具を手にし、思考する面倒から解放され、それが自由の正体か。生物が最も依存しているはずの自然を知らずに生きているのが、人間ってやつか...
「彼の魂は子供のそれであり、彼の精神は哲学者のそれであった。」

2021-12-05

"青い鳥" Maurice Maeterlinck 著

童心に帰るのは難しい。脂ぎった大人には、さらに難しい。いまさら童話なんぞを... と思いつつ。気まぐれってヤツは、いつやってくるか分からん...


ところで、青い鳥が幸せを運んでくるってのは、本当だろうか...
かの偉大なアニメには、宇宙脱走犯「青い鳥」なんて逸話も見かける。無理やり幸福光線を浴びせかけ、まるっきり的外れな願いを叶えて、みんなを不幸にしちまう凶悪犯。この野郎を、岡っ引きのチルチルとミチルが追うというドタバタ劇である。高橋留美子も、メーテルリンクにはイチコロだったと見える。
それにしても、メルヘンチックなオリジナルより、そちらの方に癒やされようとは、もはや魂の腐敗は止められそうにない。夜の社交場では、おいらが幸せにしてやるぜ!なんて台詞まで飛び出す始末。
アンドレ・ジッドは、こんな言葉を遺してくれた。「幸福になる必要なんかないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。」と...


さて、物語は、クリスマス・イブに薄気味悪い老婆が、ティルティルとミティル兄妹の家を訪ねたことに始まる。老婆は見るからに醜いけど、妖精なんだって。その妖精の娘は、ひたすら幸せになりたがる病にかかっちまったとさ。娘を救おうと、どこかに青い鳥はおらんかねぇ... 鳥籠にコキジバトがいるけど、あまり青くないねぇ...
そして、二人の兄妹は、妖精と一緒に青い鳥探しの旅に出るのだった。まず妖精の邸宅を訪れ、記憶の国、夜の城、月夜の森、幸福の館、真夜中の墓地、未来の王国を巡って...
尚、江國香織/訳 + 宇野亜喜良/絵(講談社文庫版)を手に取る。


サンタのおじさんは、お金持ちの家にはやって来る。だが、貧しい家では、ママがお願いに行けなかったから、来年はきっと大丈夫よ!と慰める。来年は遠い。幼い子には、遥か彼方。ティルティルとミティル兄妹には妹が二人いたが、すでに亡くなっている。貧しい家では、子供を無事に育て上げるのも大変。
記憶の国では、この世にはいないお爺ちゃんやお婆ちゃん、妹たちと出会い、過去の思い出に浸る。だが、ここには青い鳥はいない。過去に縋っても、幸福は得られないの?
幸福の館では、様々な贅沢三昧を検分する。金を持つ贅沢、土地を持つ贅沢、満たされた虚栄の贅沢、何もしない贅沢、必要以上に眠る贅沢、ぶくぶく太る贅沢、不幸な人たちを救いたがる贅沢、宇宙の摂理を知る贅沢など。しかし、ここにも青い鳥はいない。贅沢は幸福ではないの?
夜の城や月夜の森では、光が問題となる。月の光に照らされる死んだ鳥たちは誰が殺したの?真夜中の墓地では、みんながみんな天国へ行けるわけではない。未来の王国に希望を託したところで同じこと。偉大な未来に絶望するか。明るい未来に退屈病を患うか。
そして、現実に引き戻される。すべての旅は夢だったの?目を覚ますと、鳥籠のコキジバトが青く見える。これが、クリスマスプレゼントなの?色彩の特性には三原色ってやつがある。色付きメガネで見れば、好きな色に見えることも。色盲なら想像で補うことも。すべては見方次第!凡人は、目の前の幸せにも気づかない...


「なんにも見ようとしない人間がいるとは聞いていたけど、まさかお前は、そんな心のねじれた、無知な人間ではないだろう?でも、見えないものも見なきゃいけないよ!人間っていうのはほんとに妙な生き物だね。妖精たちが減ってしまってからというもの、人間はなにも見ないばかりか、目に見えるものを疑いもしない...」

2021-11-28

"現代建築家集 Venturi Scott Brown & Associates"

紅葉に誘われて古本屋を散歩していると、懐古風のスケッチ群に出逢った。自然に馴染んだ街づくり... 風景に同化した都市計画... こうしたセピア画像に癒やされる。英語の文献だけど、まったく抵抗感なし。活字がちょいと控え目なのがいい。古本にしては、ちと値が張るものの、いつもながら気まぐれは頼もしい。読書の秋というが、本ってやつは、なにも読むためだけのものではあるまい...


空間認識は、人間が生きる上で重要な認識能力の一つ。カントは、空間性と時間性をア・プリオリな認識に位置づけた。建築とは、まさに空間認識の具現化であり、極めて人工的でありながら、実のところ過剰なほど自然を意識している。それは、人間が本能的に思い描く憧れのようなものであろうか...
懐古風な空間性にしても、ノスタルジックな時間性にしても、それらが調和した途端に憩いの場を提供してくれる。調和という観念には、摩訶不思議な力が秘められている。人工物と自然物という矛盾の共存ですら、そこに芸術性が生じ、心の拠り所にしちまう。
ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体として捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあり!と言わんばかりに...


さて、ヴェンチューリ・スコット・ブラウン & アソシエイツは、20世紀を代表する建築設計事務所として知られる。創始者は、ロバート・ヴェンチューリとその妻デニス・スコット・ブラウン。
本書は、この二人の建築家の作品集で、建築計画に至るスケッチや模型が掲載され、集合住宅に大宇宙を見、個人住宅に小宇宙を見ながら、建築家が思考する空間アルゴリズムを体感させてくれる。
「住宅は内気だが、雄弁である。」


ヴェンチューリとスコット・ブラウンは、ポストモダニズムの建築家に属すらしく、本書の文面からもモダニズムへの反発が読み取れる。建築は正しく建てれば、当然の帰結として健康と幸福が宿る... といったことが叫ばれた風潮への言及や、今日の建築家の集合住宅に対する理想が、住宅市場並みに単調である... といった皮肉まじりの言及に。
「正しく建てる」とは、どういうことであろう。啓蒙主義にしても、理性主義にしても、説教じみていて、押し付けがましいものには反発したくもなる。それが、自由精神というものか。そして答えは、多様化ということになろうが、まさに現代社会が歩んでいる道である。
とはいえ、新しい形式や様式ってやつは、従来のものを批判する形で登場する。改善の余地がなければ、変わる必要もない。芸術ともなれば、鑑賞者は飽きっぽく、いつも刺激に飢えている。人間にとって、退屈病はよほど辛いと見える。それで、人間社会に批判の嵐が吹き荒れるのかは知らんが...
やはり、カントのような批判哲学を実践することは難しい。対象を正しく理解しなければ、正しく批判することができないのは当然だとしても、さらに歴史という時間の流れの中で調和を求めるとなると...


モダニズムは、20世紀初頭、近代化を背景にアヴァンギャルドな造形理念をまとって登場した。ルネサンス風の精神体現より、もっと現実的に、もっと機能的に、もっと合理的に... と。アヴァンギャルドというからには、前衛的で試行錯誤的な意味合いが強かったのかもしれない。
近代化の波は産業革命や科学技術の発達ととともに押し寄せてきたが、極度の合理性は、機械的で、工業的で、無味乾燥なイメージを与え、人間性をも見失わせる。そうした風潮は、ヴァイマル共和政時代に製作されたモノクロサイレント映画「メトロポリス」でも象徴されようし、マルクスら思想家たちが唱えた「疎外」という概念も、近代主義への警鐘と言えよう...


しかしながら、人間にとっての合理性には、精神的合理性と物質的合理性がある。この二重性は、主観性と客観性の駆け引きの中で対峙している。時には矛盾に苛み、時には協調しながら。科学の進歩が客観的な洞察を鋭利にしたのは確かだが、思考するのはあくまでも主体であり、自己である。物理的には無駄な空間も、精神的には有用なことがよくあるし、無味乾燥な芸術作品も、数学的に眺めれば違った光景が見えてくる。
また、自由精神ってやつは、抑圧との関係からいっそう輝く。ロマンティシズムの反動で写実主義や自然主義をもたらすこともあれば、ルネサンスによる古代・古典回帰から、モダニズムによる機能的・合理的造形理念を経て、再びポストモダニズムによって精神性へと引き戻される。自由と抑圧の綱引きに、主観と客観の駆け引きが絡み合って...
主観には思考の深さを牽引する役割があり、客観には感性と知性の均衡を保つ役割がある。その双方を凌駕してこそ、人間的合理性に近づくことができるのであろうし、その過程では、自己肯定も、自己否定も必要であろう。芸術家に自己破滅型を多く見かけるのも頷ける...

2021-11-21

"芸術の条件 近代美学の境界" 小田部胤久 著

芸術に足る条件とは、なんであろう...
自己を侮辱することによって芸術家は魔術性を露わにし、自己否定によって芸術作品は堂々たる威風を漂わせる。この自殺行為によって、芸術は芸術たりうるというのか。
そもそも芸術とは、なんであろう...
芸の術と書くからには、技術の類いか。あるいは、魔術の類いか。技術の産物が感動を呼ぶ時、鳥肌が立つような感覚が全身を駆け巡る。精神空間を瞬時に伝搬する波動現象とでも言おうか。そういえば、芸術は爆発だ!という名言を遺した芸術家がいた。
思いっきり身勝手な世界を創造する自己陶酔型でありながら、精神病を患うほど徹底的に心を追い詰める自己破壊型。独りの芸術家に、S と M が同居してやがる。鑑賞者はというと、その狂気に癒やされるとくれば、こちらも狂気。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!


芸術家も鑑賞者も、さらなる刺激を求めてやまない。互いに競うかのように。古代ギリシア・ローマ文化を伝承する古典様式から、中世にはゴシック様式が出現。ゴシックとは、ゴート風といった意味で、ローマの知識人たちが無秩序で野蛮といった侮辱な意味を込めた用語である。近代には、感受性を堂々と曝け出すロマン主義が旺盛となる。こうした変化は、ある種の精神的合理性によってもたらされた。要するに、人間は飽きっぽいってことだ。退屈病は恐ろしい。実に恐ろしい。この病を癒やしてくれるのが、芸術ってやつか...


さて、前戯はこのぐらいにして...
著者の小田部胤久は、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞を受賞した人だそうな。この賞の名は初めて耳にするが、ドイツにおける日本人研究者の貢献を讃えるものだとか。
前記事では「芸術の逆説」と題して、芸術家や芸術作品、創造性や独創性といった芸術を支える根本から論じて魅せた。ここでは「芸術の条件」と題して、「所有、先入見、国家、方位、歴史」といった、およそ芸術とは縁遠い観点から論じて魅せる。「芸術の逆説」と「芸術の条件」という二つの著作は、内と外から芸術論を語った姉妹作品というわけか。
双方とも、「美学」という学問の成立の時代から、古典的な芸術と近代的な芸術を観察している。ここでは、その時間的な境目をめぐり、ひいては近代国家との連関を紐解く。この時代が、啓蒙思想や近代国家の成立と重なるのは、偶然ではなさそうである。
「美学」という用語は哲学風で、既にプラトンやアリストテレスあたりが論じていそうだが、明確に著したのは、カント、シェリング、ヘーゲルあたりになるらしい。本書は「近代美学」と称している。つまり、18世紀頃に生起した美意識を通じて、芸術とやらを語ってくれる。


なかなか興味深い試みではあるが、こいつは本当に芸術論であろうか...
「所有」といえば、経済学の核となる概念。「国家」といえば、政治学の領域。むしろ、芸術とは正反対に映る。「先入見」「歴史」はどんな学問にも関与するし、「方位」にしても地域的な傾向や民族的な特徴はどんな文化にも見られ、なにも芸術論に限ったことではあるまい。
所有の概念は、何によって正当化されるだろうか。経済学者たちは口を揃える。それは労働であると。ただ、労働や勤勉は、芸術家になくてはならぬ資質の一つ。独創性ってやつも、試行錯誤の末に生じるのであろうから、無心で没頭できる能力こそ芸術家の資質となろう...


また、芸術ってやつは、社会風刺や批判、滑稽を美の意識にまで高め、人間社会に反省を促すところがある。ピカソの「ゲルニカ」のような作品は、国家の暴走がなければ、けして生み出されることはなかったであろう。
人間には、ホラーやスリラーといった恐怖に魅了される性癖がある。神話や聖書ですら恐怖の要素に満ち満ちており、残虐な描写までも美意識にしちまう。額縁に囲まれた光景は、まるで別世界。不幸ってやつは、遠近法で眺める分には心地よいと見える。鑑賞者は、自己に災いが降りかからない程度に距離を測ることができ、他人の不幸を見て自己を慰めることもできる。
しかし、創造者である芸術家はどうであろう。ムンクの「叫び」のような作品は、大衆社会へ何を訴えようとしたのだろうか...


「思索家の多くは、先入見の上着を投げ捨ててただ裸の理性のみを残すよりは、むしろ理性が織り込まれた先入見を継続させるほうがはるかに賢明であると考える。」
... エドマンド・バーク


何事も、それを分析し、その本質を理解しようとすれば、批判的な目線を向けることになる。逆説を論じるにせよ、その条件を問うにせよ。思想や信条の類いは、しばしば古典回帰してきた。ルネサンスに限らず。昔は良かった!などと懐かしむ心情は、もはや老人病か。いや、老人病を免れて現代病を患えば、同じこと。いずれにせよ、社会の息苦しさが、批判精神を呼び覚ます。愚痴も美の意識にまで高めると、崇高な哲学になるのであろう。カントの批判哲学も、愚痴の延長上にあるような気がする。
そもそも、人間とはなんであるか。キェルケゴールは答えた。それは、精神である... と。では、精神とはなんであるか。精神病も患えない人間は、もはや精神を持ち合わせてはいまい。そして、自己に対して批判精神を呼び起こすことも。これが芸術家に足る条件であろうか...


「批評とは、歴史と哲学の中間項であり、それは両者を結ぶつけ、両者を新たな第三のものに統合すべきものである。哲学的精神なくして批評が成功しないことは、誰もが認めるとおりである。だが同時に、歴史的知識を欠いて批評が成功することもない。歴史と伝承を哲学的に解明し吟味することは、疑いもなく批評であるが、同様に、哲学についてのいかなる歴史的見解もまた疑いもなく批評である。」
... フリードリヒ・シュレーゲル

2021-11-14

"芸術の逆説 近代美学の成立" 小田部胤久 著

何事も、その本質を覗きたければ、逆説的に論じてみるのも一献。押してもダメなら引いてみな!ってな具合に...
ここでの逆説の対象は「芸術」とやら。近代的芸術論は、「美学」という学問の成立と連関しているという。美学とは、哲学に近い用語であろうか。「近代的」というのは、18世紀にヨーロッパで成立したものを言うらしい。
古来、芸術は自然との関係から論じられてきた。アリストテレスの芸術論は自然主義を重んじ、詩や音楽の奏でる心地よい響きに自然との同化を思わせる。
しかし、だ。芸術ってやつは、きわめて人為的な試み。いや、人間そのものの投影という言うべきか。実際、自然風景の原物よりも、それを描いた絵画の方に価値が認められる。純粋な自然の光景に、脂ぎった人間の精神を混入し、塩と胡椒で味付けをやる。これが、芸術ってヤツか...


おまけに、芸術家ときたら、自分の生きる世界に対して、徹底的なこだわりを見せる。妥協ってやつが、人生を楽にしてくれるところもあるのだが、あえて苦難を受け入れ、時には利己主義に走り、時には快楽主義に身を委ね、自我ってヤツと存分に対峙しながら自己陶酔に耽る。その生き様にこそ、ある種の美学が備わる。美学とは、エゴイズムの類いか、ナルシシズム類いか...
鑑賞者の方はというと、感銘を受ける芸術作品に出会えば、自分の生き方と向かい合い、自省を促されることも。感動に対する自己分析、作品に対する批評、その身勝手な矛先は、芸術家にも向けられる。そして、理解できないとなれば、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。認識できなければ、感動もできない。幸せなんだか、不幸せなんだか...


建築物や美術品に目を向ければ、シンメトリー、黄金比、ルート矩形といった幾何学原理に溢れ、ここに美意識が体現される。
プラトン立体は美しい。だが、自然界を見渡しても、こんな形式的なものは見当たらない。黄金比は美しい。こちらの方は自然界に溢れている。松ぼっくり、ヒマワリの種、サボテンの刺、巻貝の螺旋形... 等々。動植物が美しく見える配列にフィボナッチ数列が出現すれば、そこに偉大な宇宙法則を感じずにはいられない。
自然界に耳を澄ませば不規則な音源に溢れ、人口の溢れる街がこれらの音源を掻き消す。自然な音源が乏しくなると、人間はますますリズムやハーモニーといった人為的な音源を渇望する。十二音技法は、精神的合理性と数学的合理性の混合物か。大バッハは、ここに対位法の完成を見たのであろうか...


偉大な芸術作品には、神と悪魔が同居する。マクベスには、自我に潜む悪魔を目覚めさせ、ツァラトゥストラには、神は死んだ!と叫ばせ、ダンテに至っては、地獄の門、煉獄の門、天国の門を同心円上に描いて御満悦と見える。人間の美意識は、神に看取られるだけでは不十分だというのか。
それは、自然と形式の調和、もっと言えば、秩序と無秩序の調和によってもたらされる。矛盾ってヤツは調和しちまえば心地よいが、凡人の為せる業ではない。悪魔をも味方につける業となれば、尚更。芸術家たちは、鑑賞者の好奇心を焚きつける。作品を理解し、十分に味わいたければ、もっと高みに登ってこい!と。鑑賞者も負けじと、ますます刺激を求め、もはや自然との同化だけでは満たされない。主題は、残虐でも、滑稽でも、愚鈍でも、精神を体現できるものなら何でもあり、狂気をも芸術にしちまう。
例えば、ピカソの「ゲルニカ」などは、自然主義から掛け離れ、まるで数学的観念論!そう、キュビスムってやつだ。三次元の物体を様々な角度から眺めながら重ね合わせ、一つの統一体として二次元にマッピングして魅せる。アリストテレスがこれを見て、芸術と認めるだろうか...


「芸術世界の中で芸術家であるということは、過去に対してある立場をとることであり、そして必然的に、過去に対して自分とは異なった仕方で対応する同時代の人々に対してもまた一つの立場をとることである。従って、ある芸術家の作品は暗黙の内に、先行する作品と後続する作品への批評である。」


世間では、芸術家と呼ばれる人種は、独創的な主体として認識されている。だが、独創と模倣の関係は微妙である。模倣の動機は憧れの情念に発し、対象を正しく理解しなければ正しく模倣できないし、それを批判するにしても、やはり正しく理解しなければできない。健全な懐疑心を放棄すれば盲目となるばかり。芸術家たちは徹底的に模倣に明け暮れ、試行錯誤の上で独創性を覚醒させていく。ラファエロしかり、ミケランジェロしかり、ダ・ヴィンチしかり。彼らは芸術的な行為を義務や使命にまで高めていく、偉大な模倣者とでも言おうか...


「独創性の概念の成立は、芸術家が自己に先立つ規範から自己を解放しつつ、むしろ自己自身の内に一種の規範性を獲得する過程を証している。」

2021-11-07

"政治経済学の国民的体系" Friedrich List 著

経済学を外観すると、自由と保護の綱引きの歴史が見えてくる。それは、人間精神が本質的に抱える自由と平等の葛藤とでも言おうか...
新たな理論は、従来の理論を反駁する形で登場する。どんな学問分野であれ事情は似ているが、特に経済学は流行り廃れが激しいと見える。
相対性理論の登場でニュートン力学が蔑まれることはない。量子力学の登場で相対性理論が使い物にならなくなったわけでもない。トポロジーの登場でユークリッド幾何学が廃れることもないのである。なのに、経済学の理論ときたら...


フリードリッヒ・リストが反駁する相手は、アダム・スミスをはじめ、J.B.セイ、T.R.マルサスら。
しかしながら、反駁するに値するかどうか?まず、これが問われる。すべてを否定するのではなく、ドイツの国民性に適合するかどうかという視点から論じられる。
リストが生きた時代は、ウィーン体制という新たな国際秩序を迎えた時代。ナポレオン戦争に勝利したイギリスは、東インド会社を通じてアジア貿易を独占し、北アメリカ、アフリカ、オーストラリアを植民地に従え、世界の海の覇権を握っていた。
一方、ドイツは、神聖ローマ帝国が消滅し、連邦国家として生まれ変わったばかり。アダム・スミスらが唱えた理論は、国際貿易の成熟した経済モデルであって、当時のドイツには時期尚早というわけか...
尚、正木一夫訳版(春秋社)を手に取る。


経済合理性を問えば、その基盤に自由精神が据えられる。それは、多くの経済学者で共通するところ。ケインズだって、恐慌の処方箋として政府介入の必要性を唱えただけで、自由な経済活動が根底にある。積極的な財政政策が、しばしば一部の業界との癒着を招くのも事実だけど。
リストとて、例外ではない。いや、自由主義的な傾向はより強いかもしれない。というのも、本書には、「自由」という言葉があらゆるところに散りばめられている。ここに資本主義という用語は見当たらないが、資本主義と自由主義がすこぶる相性がいいことも見て取れる。
自由な経済活動とは、生産者側の自由だけではなく、消費者側の自由を伴って機能する。セイの法則が唱える... 国民所得は総供給量によって決まる... といった命題も、すぐに限界点に達する。理想を言えば、経済合理性とは、自由意思が万民に浸透し、かつ平等に行き渡った状態を言うのであろう。そのために自由には制限が必要となり、この制限が経済学では保護の概念と重なる。
自由意思ってやつは、実にデリケート。押し付けがましい自由は、むしろ自由精神を破壊してしまうばかりか、弱肉強食と化す。自由精神を育てる上でも、保護の必要な期間がある。過保護によって、搾取産業に成り下がるのでは何をやっているのやら。したがって、保護政策には慎重を期する。国民性に適合した形の保護でなければ。つまり、資本主義には、様々な文化や慣習に応じた段階や形があるってことか...
自己を見つめ、多様性を尊重すれば、グローバリズムに振り回されることもあるまい。労働は富の原因で、怠惰は貧乏の原因... といった考えは、アダム・スミスよりも、ずっと大昔にソロモン王が提示した。ならば、こう問わずにはいられない。何が労働の原因か?何が怠惰の原因か?と。そんなことは、個人の問題だし、自由の問題。答えは、経済理論なんぞ当てにせず、自分の心の中で静かに唱えるさ...


「隷属状態に陥った国民は、獲得することよりも、獲得したものを維持しようと努める。反対に、自由な国民は、維持することよりも、獲得しようと努める。」
... モンテスキュー


本書で注目したいのは、工業と農業のバランスが国力を強化していくという考え方である。リストは実際にアメリカ合衆国に渡り、この新世界の国力を工業力だけでなく、農業力とのバランスに見たようである。現在でも、超大国の国力を工業やハイテク産業で測る傾向があるが、実は、農業大国であることが大きな要因であることを、この時代にあって既に見抜いていたようである。
イギリスでは農業人口が大量に流出したが、ドイツは、そうなってはならないと。これは、まさに現代社会が抱える問題の一つ。
国民の支持を得ない産業は衰退するだろう。そして、それは時代とともに移ろいやすい。21世紀では、自然環境に配慮しない産業はヤバい!そして現在においても、農業の地位の低さは如何ともし難い。人間は喰わなければ生きてはゆけない。そして、農業は食糧に直結する産業だ!なのに...
伝統的な経済政策では、自由貿易と保護政策を産業別に区別する観点から、それぞれ相性のいい業種が配置されてきた。前者が工業で、後者が農業である。自由貿易で鍛えられた工業者は視野も広く、将来を見据えており、対して、国内に閉じ籠もった農業者は知識レベルも低く、目先の補助金に釣られる、といった見方がある。
リストの保護政策では、工業者が牽引役となって農業者を啓蒙し、双方の相乗効果によって国力を高めることを主眼に置く。国力は国民性や人間性と密接にかかわり、物質的な要素だけでなく文化的な要素を伴わなければ、真の国力は養えないというわけか。そして、教育論的な視点も...

「如何なる所また如何なる時においても、市民の知性・徳性および活動性は国民の幸福と比例し、富はこれら諸々の性質とその増減を共にしている。併しながら個人の勤勉や節約・発明心や企業心は、それらのものが市民の自由・公の制度および法律により、国家行政や対外政策により、とりわけ国民の統一や勢力によって支持されていなかった所では、決して偉大な事を成し遂げてはいない。」


また、イギリス式自由とドイツ式自由の違いも指摘している。前者は個人主義が基盤となっているが、後者は個々が国家における役割を認識することを要請している。ここには分業の意義が含まれ、合目的的な人生を求めるところは哲学的でもあり、いかにもドイツ流。
しかしながら、あまり高尚な目的を要求すると、抑圧的な義務や責任に転嫁され、その延長上に国家主義に通ずるものを予感させる。そこまで行ってしまうと、自由はむしろ阻害され、リスト哲学に反する。そして歴史は、後の二つの世界大戦を通じて、国家主義的イデオロギーを顕著化させることに。なんと皮肉な...


いくら自由貿易を崇めても、相手がいなければ成り立たないのであって、その取引では優位な立場を引き出そうとする。リストが生きた時代、国力の差は歴然としており、多くに国が隷属関係を強いられた。輸出では得意分野で荒稼ぎし、輸入で経済的弱点を補うとすれば、21世紀の今でも状況は大して変わらない。いまだ重商主義から脱皮できていないのか。いや、サヤ取り主義で、さらに重商化(重症化)しているような。これに対抗するために、保護主義をますます加熱させることに...
重商主義によって富国強兵の道を突き進むことになるが、保護政策にも負けず劣らずナショナリズムを高揚させていく。愛国心や郷土愛、あるいは民族愛の類いは、人間なら誰もが持っているだろう。自己存在を認識する上で、アイデンティティを確認する上で。そうした認識自体は悪いことではないが、その心理過程で自己に反する属性を蔑み、自己優越感に浸り、宗教心の後押しで迫害までやってのける。これは、言わば人類の性癖。いかなる国家にも、国民の嫉妬や偏見偏狭はつきもの。集団社会はこれを助長する。愛は最も崇められるだけに、こいつの集団暴走ほどタチの悪いものはない...

2021-10-31

"権力論(上/下)" Guglielmo Ferrero 著

権力とは何か...
それは、恐怖の連鎖であったとさ。恐怖心が暴力を呼び、暴力がより一層の恐怖心を植え付ける。まさに恐怖心の自己増殖システム!
「人間は、最大の恐怖心を有する最高の生物である。恐怖こそ現世宇宙の魂である。... 権力とは、人間が恐怖から逃れようとして自ら惹起した恐怖の最高の表現である。... 命令、脅迫、強制、これこそ人類が創造し、服従してきた権力の本質である。」


権力は、正統性が担保されてはじめて機能する。では、正統性の根拠とはなんであろう。グリエルモ・フェレーロは、正統性の原理を恐怖という心理学を絡めながら論じて魅せる。
尚、伊手健一訳版(竹内書店)を手に取る。
「正統性原理こそ、国家の見えざる精神!その主な仕事は... 革命精神と戦い、かつそれを閉じ込めること... であることが、この魔力の原因である。独裁者の恐怖は、正統性原理の、この魔力の一例にすぎない。独裁者は正統性原理を侵すことにより、権力を獲得したが故に、自己の権力を恐れるようになる。」


フェレーロは、古代史の研究家として知られるそうな。そんな人物をして近代を論じさせた背景とは...
彼が生きた時代は、ウィーン体制の崩壊を招いた1848年革命、いわゆる「諸国民の春」の余韻冷めやらぬ時代。国民国家や民族的アイデンティティといった概念が各地で育まれ、近代国家の成立を見る。王侯や貴族のものであった権力が、フランス革命によって庶民の手に渡るかと思いきや、すぐに恐怖政治と化し、ナポレオンの呼び水となり、さらにナポレオン追放後、ウィーン体制が確立してヨーロッパに新たな国際秩序をもたらした。フランスは、権力の正統性を唱えたタレーランの元で王政復古を果たすものの、権力の所在については問題の先送り。
結局、この新たな秩序の時代に、フランス革命の機運で蒔かれた種が芽を出すことに。民族主義や自由主義といった芽が。そして世界は、自由主義、社会主義、共産主義などが乱立するイデオロギーの時代を迎える。フェレーロの故郷イタリアではムッソリーニ率いるファシズムが台頭。フェレーロ自身はというと、反ファシズムを表明してパリへ亡命する。「権力論」は、デモクラシーの先駆者によって書かれた本というわけか...


フェレーロは、四つの正統性原理を挙げる。「貴族・君主制原理、世襲制原理、選挙制原理、民主制原理」である。実際は、これらの原理が混在し、前者の二つは適合しやすく、後者の二つはすこぶる相性がいい。一見、世襲制原理と民主制原理は矛盾しそうだが、国民議会には世襲議員で溢れている。カトリック教会でも選挙制は採用されているし、ヒトラーは選挙で堂々と躍進した。
となると、こう問わずにはいられない。政治は、国民の意思を代弁しているか?と。そもそも国民とは誰か?なるほど、支配階級も国民というわけか。
政治体制を正統性の観点から眺めると、君主制も、貴族制も、民主制も、大した違いはなさそうに映る。アリストテレスは、民主制が最悪の政体というようなことを漏らした。アテナイ都市国家の実情を嘆いての言葉であろう。だが、君主はことごとく僭主であり続け、真の君主は滅多に見かけない。貴族にしても、真の国家精神を体現する者はごく僅か。実践的な体制となると、結局、民主制に落ち着く。民主主義にしても、崇めるほどのものでもあるまい。社会主義や共産主義、マルクス主義よりもはるかにマシだけど。つまりは、消去法...


ただ注意を払うべきは、民主制が醜態を晒し、弱体化した場面では、危険な独裁者が出現するということ。それは、歴史が物語っている。フェレーロは、この時代にあって既に独裁者の時代を予見している。共和制が醜態を晒し、恐怖政治を目の当たりにすれば、ナポレオンの登場は必然であったように思える。
では、ファシズムの出現もまた民主主義の過程で必然であったのか?そして、ヒトラーはその最終章であったのか?そう楽観もしてられまい...
「正統政治、すなわち、良き政治とは、なさねばならぬことをなし、かつ、それを十分に果たし、そして公共善の完遂に成功している政治である。政治の正統性は、その有効性により確認される。」


民主制は完成を見ないであろう。そして、衰退するのにも時間がかかるであろう。不完全なままの方が人類には適合しそうだ。君主制は、一応の完成を見た。ルイ14世の栄華をもって。そして、完成した瞬間から崩壊の道を辿った。ローマ帝国の衰退に時間がかかったのは、その根底に共和制を受け継いでいたからかもしれん。皇帝と元老院の共存によって。
絶対的な権力の持ち主と言えども、市民の意思を無視していては祭り事が為せない。少数の支配層と大多数の従属者という構図は、君主制も、貴族制も、民主制も同じ。ただ違うのは、民主制は人民に選ばれた人間が統治権を得ること。つまり、人民の承認を得ること。これが正統性の第一歩。
とはいえ、選挙という手段が目的化すれば、やはり同じこと。実際、現在の議会においても世襲議員が溢れ、巷では上級国民などという言葉が飛び交う。
そもそも、人間が人間を支配するところに無理がある。人間ってやつは、自己が支配できなければ、他人の支配にかかる。だからといって、神に委ねたところで、神の代弁者と自称する者の暴走を許すことに。神の声を聞く資格のある人間が、この世にいるのかは知らん。となれば、毒を以て毒を制すの原理に縋るほかはあるまい。これが、権力分立の原理というものか...


ところで、正統性とは気分の問題か。人の行動を誘発する時、最も有効な手段に不安を煽ることがある。あらゆる商売戦略で用いられる心理戦術だ。お得感を強調して、今買わないと損しますよ!流行に乗り遅れますよ!などと脅す。みんなで損する分には慰めにもなるが、自分だけ損することは絶対に許せない。だから、流行りの思考回路に埋もれてしまう。
従属者や隷属者が大多数であれば、それだけで正統性めいたものが浮かび上がる。やはり正統性とは、気分の問題か。それも集団心理を利用した...
正統性とよく似た用語に「正義」ってヤツがある。政治屋や愛国主義者どものお好きな。この言葉ほど胡散臭く、濫用されてきたものはない。きまって彼らは、これに義務と責任を結びつけて、自己宣伝狂を患わせる。正義が権威の後ろ盾になるのも確かで、それだけで正義の御旗を掲げる理由になる。正統性が気分の問題なのではなく、正義が気分の問題なのか。
いずれにせよ、国家への忠誠を政権への忠誠と混同するわけにはいかない。勝てば官軍負ければ賊軍!これが近代国家方式というわけか...

2021-10-24

軽くキャストを流す... Win10 から J:COM LINK XA401 へ...

仕事環境に動画は御法度!... と考えてきたが、なんとなく物足りなさを感じる今日このごろ。YouTube で 4K/8K の風景動画を垂れ流しつつ、テレビへキャストを流してみる。
いかん!高精細の大画面テレビが欲しくなる今日このごろであった...


さて、J:COM LINK のセットボックス XA401 はキャスト機能が搭載される。Chromecast のようなデバイスは不要というわけだ。
例えば、XA401 をローカルネットワークに参加させて電源をオンすると、Chrome ブラウザに "テレビメニュー" のアイコンが現れる。三点リーダこと設定アイコンから「キャスト」をクリックすると、"J:COM LINK XA401 使用可能" と表示され、あとは流れのままに。うん~... こいつは、ちょっぴり遊べそう...
あれっ、Chrome をアップデート(Ver 95.0.4638.54)すると、「キャスト」が「共有」の下に移動した。キャストは共有の類いかぁ?単に流しているだけのような。まぁ、いいや...


ソースは、タブ、デスクトップ、ファイルの三つが選択でき、ファイルを選ぶと動画ファイルがそのまま再生される。
タブを選ぶと、ブラウザ上の YouTube プレイヤーが全画面モードで転送される。
デスクトップを選ぶと、マルチモニタの選択と、システム音声を共有するかどうかのチェックボックスが現れる。
但し、システム音声を共有せずにパソコン側の音響システムに頼ると、映像に遅延が生じる。当たり前だけど。風景のようなコンテンツなら気にならない、というより、BGM と映像は別物に位置づけている。


また、動画再生ソフトでは、CyberLink PowerDVD 21 Ultra を愛用していて、こいつにもデバイスへ流せる機能がある。取説には、Amazon Fire TV, Google Chromecast, Apple TV に対応とあるが、XA401 でも動作する。さすが、ウルトラ!
お気に入りの機能は、YouTube で 4K/8K 動画が視聴できるだけでなく、ピン留めしてオフラインでも再生できること。このピン留め動画が、キャストで流せるという仕掛けである。再生先を XA401 へ向けるだけで...
ピン留め動画は、音声抽出もできる。ファイル形式は、AAC/MP3、ビットレートは、128/192/256kbps がそれそれ選択可。開始/終了ポインタをマークすれば、その範囲で抽出してくれる。


そして、The Piano Guys の素朴な演出に癒やされながら、ダブル Peter こと Bence vs. Buka の魅惑的な着想に翻弄され、Simply Three にシンプルに生きようと意欲を掻き立てられながら、裸足で熱唱するパワフルな Adele に生きる力を注入され... Blue-ray ディスクの衝動買いに突っ走る。
思考のリズムを触発するはずの音空間が、いまや仕事場の概念すらぶっ飛んじまう...


尚、XA401 へキャストできるファイル形式には制限がある。動画では MP4 はイケるが、他は?
うん~... MKV 形式が接続拒否されるのは、ちと痛い!Blu-ray ディスクをいちいちドライブに挿入しないと再生できないのでは、手間がかかってしょうがない。そこで、MKV は容量を喰うのが玉に瑕だが、画質劣化を抑制できるので重宝している。AVI も、MPEG も接続拒否。うん~...
音声や静止画のファイル形式は、だいたいイケそうか。おぉ~、FLAC がイケる。DSD は接続拒否かぁ。うん~...
XA401 のキャスト機能は、スマホとの連携を主眼に置いているのだろう。取説にも、その事例が掲載されているし...


ところで、PowerDVD が YouTube をオフラインで再生できるということは、実体が手元にあるということ。実際、キャッシュを覗くと、.mp4 や .webm などのファイルが生成される。分かり難くしてあるのかは知らんが、あとは煮るなり焼くなり... ゴホン!ゴホン!

2021-10-17

SeeQVault を試すも、まるで実感なし...

BD レコーダ "SONY BDZ-ZW1700" の内蔵 HDD 1TB は、ちと寂しい。そろそろ枯渇気味だし...
そこで、外付けの USB HDD をメインに配置することに。内蔵 HDD をテンポラリ領域に位置づければ、1TB は贅沢な空間となる。
そして、SeeQVault 対応に目をつけてきた...

SeeQVault とは、録画した機器以外でも再生できるようにした技術で、記録データがメーカ依存から解放される仕掛け。ただ、完全に解放されるわけではなく、対応機器を揃えなければならないし、再生側の機器はともかく、記録側の機器は多少なり引きずられる。おまけに、4K 非対応。
また、LAN 録画などで、直接 SeeQVault 対応のストレージに記録できないので、一旦、内蔵 HDD に落としてからダビングすることになる。
4K 用ストレージを別に配置したり、用途で使い分けることになりそうか... などと考えていると、いまいち踏み込めずにいた。
しかし、試してみないことには始まらない。どうせ買うなら...

モノは、ELECOM ELD-QEN2060UBK...
容量は 6TB もあり、十年ぐらい枯渇で悩むことはなさそうだが、今度は、画質にこだわって圧迫されそうな。人間の贅沢に限りはない...
そして、BDZ-ZW1700 後部の USB 端子に接続して機器状況を確認すると、属性に "SeeQVault" のロゴ が刻印された。
ただ、それだけ!
本当に、SeeQVault が機能しているかって?そんなことは知らんよ。他の対応機器を持ってないし...

しかし考えてみると、電子機器が本当に規格通りに機能しているかなんて、信じるしかない。巷で騒がれるセキュリティの脆弱性対策にしても、個人情報の保護にしても、どれほどの信頼が置けるというのか。ユーザが管理できる範囲はますます狭まり、できることといえば、文句を垂れるのみ。アップデート信仰はますます浸透し、WUuu... の呪いがつきまとう。信じる者は救われる... の原理は、宗教が発明されて以来、変わらんよ。
ちなみに、WUuu... とは、Windows Update の略で、うなるように、うぅぅ... と発音する。




尚、BDZ-ZW1700 の取説によると、無線アンテナ部が右側にあるらしいので、電波干渉を避けて、左側上部に設置(写真)。

2021-10-10

"ギルドの系譜(上/下)" James Rollins 著

おいらにとって、読書が毒書となるジャンルがある。くつろぐための行為が、やたらと緊迫感を煽ってくる。そして、読了した瞬間のクタクタ感ときたら... これがたまらないときた。馬鹿は死ななきゃ治らんというが、依存症とはそうしたものだ。
ロリンズ小説は、その最たるもの。歴史と科学の狭間でもがき、事実とフィクションの狭間でもがき、知的探求の場面で思いっきり集中力を要請しておきながら、アクション場面では息抜きをさせてくれる。まるで、アメとムチ!
シグマフォース・シリーズに手を出すのは、これで八作目だが、まだまだ道のりは長い。しかし、もうリズムは分かっている。翻訳者桑田健氏のリズムも...


「ポーカーの名手は決して手札を明かさない。カードをしっかりと隠し、勝てるハンドを持っているのか、それともブラフをかけているのかを、対戦相手に悟られないようにする。それは作家も同じで、事実とフィクションとの境目を曖昧にする。しかし、作品の最後では、正直に白状して、ハンドをテーブルの上に広げ、真実の部分とそうでない部分を明らかにしたいと私は考えている。」
... ジェームズ・ロリンズ


原題 "Bloodline"... これは、陰謀をめぐる血統の物語である。
長い長い歴史を辿っても、陰謀論の絶えた時代は見当たらない。それは、いわば人間の本質。混沌とした社会にあって、あるパターンを見い出し、影で操る何者かを炙り出し、常に見えない存在に怯えながら生きていく。占いに取り憑かれ、運命論に身を投じるのも、何かのせいにすれば救われる、だたそれだけのこと...
暗躍してきた秘密結社の類いは枚挙にいとまがない。フリーメイソンに、テンプル騎士団に、グノーシス派に、イルミナティに、ユダヤ金融に... こうした組織は宗教色が強く、災いをもたらす場合は悪魔とみなされ、恩恵をもたらす場合は神聖視される。決まって彼らは、世界的な名門一族との結びつきが噂される。ロスチャイルド家に、ヴァンダービルト家に、ロックフェラー家に、ハースト家に、ケネディ家に...


「世界の各地で我々に対抗する存在として、統制のとれた冷酷な陰謀があります。その影響力の拡大のために、主として人目につかない手段が使用されています... 軍事、外交、情報、経済、科学、政治の力を組み合わせ、結束力が高く極めて効率的な仕組みが作られているのです。」
... ジョン・F・ケネディ


本物語では、悪名高きテンプル騎士団に米国大統領ギャントの一族が結びつく。言うまでもなく、大統領の名は架空だ。
そして、テロ組織ギルドが胎内に子を宿した大統領の娘を拉致した時、不老不死の遺伝子技術と、恒久の世界支配という野望が露わになる。
ちなみに、アメリカ合衆国史上、七月四日の独立記念日に息を引き取った大統領が三人いる。ジョン・アダムズに、トーマス・ジェファーソンに、ジェームズ・モンローである。そして今、四人目がライフルの照準器に...
「あなたには死んでいただく必要があります。大統領閣下!」


1. テンプル騎士団... 九人目の謎
十二世紀初め、九人の騎士は聖地へ巡礼の旅に出る者たちの保護を誓った。やがて富と権力を蓄積してヨーロッパ各地に拡散し、ついには法王や国王までも恐れる一大組織へと成長していく。
これに対抗するために、フランス国王とローマ法王は共謀し、異端信仰を告げて組織を解体。粛清後、多くの伝説が生まれた。失われた財宝の噂に、迫害から逃れて新大陸へ渡ったという説に、あるいは、厳重な保護のもとで今日も密かに存在し、世界を一変させる可能性を秘めた力を守り続けているとも...
あまり知られていない事実として、最初の九人全員が血縁や結婚によってつながったある一族の出身であったそうな。そのうち八人については、歴史的な文書に名前が記されているが、九人目については今もなお謎のままだという。なぜ、九人目の名前だけが記されていないのか?本物語では、それが女性だった可能性を匂わせる。当時の時代背景からして、女騎士の存在は秘密にされたとさ...
本拠地は、エルサレムの神殿の丘。ユダヤ最古の口伝律法ミシュナによると、ユダヤ人と見なされるためにはユダヤ人の母を持たなければならない。血統に父親は一切関係なく、ユダヤの伝統は女性の血筋を通してのみ後世に伝えられる。
そして、物語の主役は、女系ということに。大統領の座を奪って世界支配を目論む女の正体は?


2. 三重螺旋構造... 女性遺伝
大統領の娘は、ある不妊クリニックの手術によって妊娠した。精子のドナーはランク付けされる。容貌、IQ、病歴、民族など多くの基準によって。何をご所望かな!
ギルドが欲したのは胎児と、その遺伝的実験の成果である。遺伝情報といえば、DNA の二重螺旋構造がある。遺伝子工学の聖杯とでも言おうか。これに三つ目の鎖を加えると、Three Times Three の儀式が始まる。3x3 は、テンプル騎士団の九人目を意味するのか?
PNA 鎖を加えることによって、DNA の二重螺旋構造が持つすべての力を解き放ち、命の青写真が提供されるという。ゲノム学者たちは特定の遺伝子のスイッチを切ったり入れたりできる人工の鎖を生成することが可能になるとか。癌をブロックしたり、何百もの遺伝病を治療したり、寿命を延ばすことだって。そして、究極の目的は、不老不死!
PNA に好きなように遺伝コードを書き込み、受精卵に挿入すれば、もはや神が人間を進化させるなんてことはなくなる。この鎖は、生物学と科学技術とを融合させたサイバー遺伝学の産物か。いよいよ神が待ち望んだライバルの出現か!そう、悪魔の...
尚、コペンハーゲン大学の研究チームが、二本の DNA 鎖の間に PNA 鎖を挿入することに成功したのは事実だそうな。
「三重螺旋構造を持つ男性は、言ってみればラバと同じことだ。永遠に生きるかもしれないが、遺伝的には行き止まり... 男性の精子には本人の DNA の半分しか含まれていないが、女性の卵子には本人の DNA の半分のほかに、細胞質のすべてとそのゼリー状の細胞液の中にありとあらゆるものが含まれている。ミトコンドリア、細胞小器官、蛋白質... この場合は、PNA も。」
PNA 鎖を子孫へ伝えることができるのは女性の特権というわけか。なので、生まれてくる子供に、女の子をご所望ときた。
しかし、大統領の娘が生んだ子は、男の子だった。つまり、用済み!


3. 不死の人間は存在しうるのか?
現代の科学研究では、人間の寿命は百二十歳という説を見かける。だが、人間の寿命が延びるだけで、様々な弊害が生じている。人口過剰、飢饉、経済の停滞など。人間が死ぬのには意味がある。生への意欲や世代の活性化など。
不死の秘薬は、古代エジプトから伝えられてきた、いわば人類の夢。これが実現した社会とは、どんな社会であろうか。事故や災害で命を落とすことがあっても、寿命で命を失うことがなくなるとすれば、より命の尊さが感じられるだろうか。いや、死こそが尊いものとされるかも。希少価値が高くなるのは、経済の鉄則だ。そして、責任だけが、肥大化しそうな。人間ってやつは、誰かのせいにしながら生きていくのが得意ときた。それで、楽になれるのだから。すでに、「自己責任」という用語は、お前が悪い!という意味で使われている。それで、自殺願望を増殖させていくのか。
PNA ってやつは、寿命を延ばすだけでなく、人間を再起動する上でも役割を果たすという。それで、この世に不死の人間は存在しうるのか?との問いには...「もちろんだとも!」

2021-10-03

"ジェファーソンの密約(上/下)" James Rollins 著

読書という習慣が良いことかどうかは知らん。が、おいらにとって手を出してはならない毒書がある。仕事へ向かう気力を完全に封じ込め、朝までかっぱえびせん状態にするヤツらが... 酒瓶とグルになって...
推理小説には魔物が棲む。こいつが、おいらの読書人生の基本ジャンルなだけに、もう依存症!だからこそ、手を出してはならない...


ところで、老化や認知症に日没症候群というものがあると聞く。痴呆などの症状は夜に悪化する傾向があるとか。黄昏現象ってやつか。虫どもには灯りに集まる習性があるが、人間も光を失うと何かを求めて徘徊をはじめるのか。おいらの場合も衝動に駆られるのは、きまって日暮れ時ときた。Bar は 5 時から!と謳っている行付けもあるし...そして今、クタクタ感に浸りながら、じっと空き瓶を見る。昨晩、開けたばかりのグレンリベット18年が、朝の陽光を透けて眩しい...


さて、ロリンズ小説の魅力は、なんといっても、歴史と科学の狭間でもがき、事実とフィクションの狭間でもがき、想像力を掻き立てるところ。知的探求の場面で集中力を要請し、アクション場面で息抜きをさせてくれるのも、こいつの醍醐味!
そして、シグマフォース・シリーズに手を出すのは、これで七作目だ。このシリーズの邦訳版は、ゼロ番から数えるので六番目の作品ということになるが、とうに十番を通り過ぎ、まだまだ道のりは長い。そして、何のために?おいらの読書人生とは、いったいなんなんだ?こんな問い掛けにも挑発してきやがる。「答えを知りたいなら、読み続けることだ...」と。
しかし、もうリズムは分かっている。翻訳者桑田健氏のリズムも...


原題 "The Devil Colony"... これは、アメリカ建国にまつわる物語である。まず、重要なキーワードは三つ、「モルモン教」、「アメリカ先住民の白いインディアン」、「建国の父たち」。これに最先端科学「ナノテクノロジーの錬金術」が絡んだ時、「大いなる秘薬」とやらが浮かび上がる。
人間ってやつは、陰謀説に目がない。自然な成り行きですら、裏で糸を引く存在を想像せずにはいられない。神の仕業というだけでは満足できないのだ。推理小説ともなれば、深読みするは必定。
陰謀説で欠かせないキーワードといえば、ユダヤ、フリーメイソン、テンプル騎士団、グノーシス派といった秘密結社の類い。アメリカ建国の父たちにも、フリーメイソンを多く見かける。ベンジャミン・フランクリンやジョージ・ワシントンなど。トーマス・ジェファーソンもフリーメイソンだったかは定かでないが、なんらかの形で関わっていたのは確かなようである。
しかしながら、本物語では、これらのキーワードは補足的な役割でしかない。歴史には、光と闇が存在する。そして、闇は葬られてきた。それは、民主主義の源泉にまつわる何か...


1. 合衆国の国璽
アメリカ合衆国の国璽を眺めると、白頭鷲の頭には 13 個の星がダビデの星の形に並べられ、鷲の鉤爪にはオリーブの枝と 13 本の矢が握られている。オリーブの枝は平和への願い、13 本の矢は争いを束ねること。そして、鷲の頭はオリーブの方を向いている。建国時の植民地の数は 13 で、これらが団結して一つの国家を成すという意味だ。ただ、ユダヤを象徴するような絵柄。このことが、現在でもアメリカ政府がイスラエルに執着する理由と絡めて噂される。


2. 十三本の矢の逸話
十三本の矢が描かれる裏には、カナサテゴ族長にまつわる話がある。
ちなみに、日本の戦国武将毛利元就にも三本の矢の逸話があるが、スケールが違う。13 と 3 の違いも偶然とはいえ...
1744年、族長は入植者と会合を持ち、イロコイ連邦を事例に、国家を成すために一つにまとまる模範を示したそうな。この会合にはフランクリンも同席したらしい。そして、出席者たちが族長の言葉を伝えて、合衆国憲法を起草したとさ。
カナサテゴ族長は実在したイロコイ族の指導者で、彼を「幻の建国の父」と呼ぶ人も少なくない。イロコイ連邦の憲法が独立宣言をはじめとするアメリカ建国の文書に貢献したことは、1988年に可決された 331 号決議案で認められているそうな。そして、どこかで見たような文面が綴られる...
「我々人民は、連邦を形成し、平和と平等を樹立し...」
民主主義というイデオロギーの起源がインディアンにあるとすれば、西洋主義も色褪せる。近代民主主義の起源をアメリカ独立戦争やフランス革命とするのは、どうも薄っぺらだ。平和や自由にしても、基本的人権にしても、どこの地域にも見られる社会現象であり、なにも西洋文明の賜物というわけではあるまい。むしろ、人類普遍の価値観なのでは。
とはいえ、哲学的に用語を定義し、政治学という学問を広めた貢献は讃えたい...


3. 十四番目の支族とモルモン教
国立公文書館に残される図案には、14 本の矢がスケッチされているという。十四番目の植民地が存在したということか?それがなんらかの形で抹殺されたのか?
現代でも、古代の白色人種の遺体がアメリカ各地で発掘され、人類学者を困惑させているという。ケネウィック人、ネバダ州スピリット洞窟のミイラ、オレゴン州のプロスペクト人、アーリントン・スプリングスの人骨など。
モルモン教の聖典によると、アメリカ先住民の起源がイスラエルの失われた支族にあると記されているとか。DNA 鑑定でこの説は否定され、初期のアメリカ先住民はアジア起源とされているらしい。
ただ、先住民の言語では、ヘブライ語との共通点が多く見られるとか。ここでは「改良エジプト文字」という用語を持ち出す。それは、エジプト語の要素を取り入れたヘブライ語の進化形とされる。こうした文字が彫られた金の板が、アメリカ各地で発見されているという。
尚、1800年代半ば、モルモン教徒の開拓者と先住民との間に多くに軋轢が存在し、虐殺や戦争に発展した例も多くあり、現代でも、モルモン教に対する嫌悪が根深く残っているらしい。
歴史を振り返れば、国家統一のプロセスは茨の道に覆われている。反発した部族もあれば、犠牲になった部族もある。契約を結べば、契約反故もする。民主主義とは、部族間の同意の上で成り立つものだけに...
ジェファーソンは、メリウェザー・ルイスとルイス・クラークの二人をアメリカ大陸の探検に派遣している。その主目的が、先住民の監視であったことが、議会に宛てた秘密の書簡で明らかになっているという。それで、建国の父たちが、なぜイスラエルの失われた支族に執着していたのかは知らんが...


4. ナノテクノロジーの錬金術に守られた秘薬
錬金術に取り憑かれるのは、人間の欲望の顕れ。かのニュートンまでも。ナノテクノロジーをもってすれば、賢者の石が作れるのかは知らんが...
さて、本物語では、金で封印した「大いなる秘薬」ってやつが注目される。古代の人々は、不安定な物質を断熱するために金で覆い、さらにナノ状の金でできた地図を封印したらしい。ナノ状の金を溶かすには金を溶かすよりもはるかに高い温度が必要で、地図は確固たる場所に保管されていたわけだ。不安定な物質とは、ニュートリノであり、こいつが大量放出すると、地球規模の大爆発につながる。ある箇所に溜まった素粒子が活動を始めると、他の場所に溜まった素粒子の活動を誘発するというから、いわば、素粒子の連鎖反応による大量破壊兵器。その引き金となる秘薬の存在する場所が地図に記され、ナノテクノロジーの錬金術によって守られているという寸法よ。
シグマフォースの隊員たちは、この秘薬をめぐってテロ組織「ギルド」と戦うというお馴染みの展開。
ちなみに、ニュートリノの観測では、岐阜県に設置された「スーパーカミオカンデ」が、ひと役演じる。
ナノテクノロジーといえば、ナノマシン、ナノワイヤ、カーボンナノチューブといったものを思い浮かべる。現代の最先端技術として認識されているが、その起源を遡れば、中世の職人技術に見るばかりか、古代技術の痕跡にも発見されているという。アメリカ先住民の一部族は、けして入植者たちに知らしめてはならない技術を隠蔽していたというのか?建国の父たちは、その技術を欲して、14番目の属州に加えようとしたのか?


「科学は私の情熱であり、政治であり、義務である。」... トーマス・ジェファーソン

2021-09-26

自動車という概念が曖昧になっていく...

Crown Athlete から Crown RS Advance へ王冠の引継ぎを終えた... まではいいが、一通り使えるようにするのに半日がかり!
ドライブレコーダに、CarPlay に、クルージングに、インナーミラーに、パノラマビューに... 自動車という概念が曖昧になっていく。なぁ~に、心配はいらない。仮想化社会では、自由意志ですら曖昧なのだから...

1. いきなり、ドライブレコーダが作動しない!しかし、モノはまぁまぁ...
いきなり、クラウンファーストコールが繋がらなかったが、その呪いか?
モノは、Carmate d'Action 360S DC5001。相性のいい機種が分からなかったので、ディーラ任せ。30 分ほど悩んだ挙げ句、SD カードをフォーマットしたら、すんなり動いた。まさか、特殊フォーマット?いや、ごくたまにフォーマットをしくじって出荷されるメモリを見かけるが、その類いであろう。そういえば、フロッピーディスクの時代は、まずフォーマットするのが当たり前であった...
本体へのアクセスは、取説には、スマホで WiFi 経由か、本体を取り外してパソコンと USB で直接つなぐか、二つのパターンが記載されている。まさか!SD カードを引っこ抜いて直接パソコンで読めない?いや、普通に読める。なにが普通かは知らんが。しかも、.mov 形式のファイルで、メーカ提供の専用ソフトに頼るまでもない。ファイル構成も覗けば分かる。当たり前すぎて、取説に記載するまでもないってことか...
本体の設定にスマホを使うまではいいが、WiFi 転送に時間がかかるし、SD カードを持ち出して直接読む方が実用的だろう。
モノ自体は、なかなか。ドライブレコーダとしてだけでなく、アクションカメラや駐車監視機能もあって、しばらく遊べそう。ただ、標準で 32GB のメモリをつけてくれたが、ちと寂しい。128GB は欲しい...

2. うっかり通知メールでビックリ!
年寄りを乗せたままエアコンをつけっぱなしで薬局に立ち寄ると、「お車への操作忘れなどを検知いたしました!」というメールが送信されてきた。

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下記日時にお車への操作忘れなどを検知いたしました。
検知日時:2021/xx/xx xx:xx:xx
ナンバー *** * ****
クラウンの検知状態
 ドア:閉
◆ドアロック:アンロック
◆パワーウィンドウ:開
 ハザードランプ:消灯
 ヘッドランプ:消灯
 車幅灯:消灯
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スマホの「MyTOYOTA」アプリから通知設定ができ、セキュリティ状況がリアルタイムでモニタできる。但し、T-Connect との連携が必要。
モニタ項目は、こんな感じ...

  • 車の現在位置, 走行可能距離, ガソリン残量, 燃費, ドライブ診断
  • セキュリティ... ドアのロック, ドアの開閉状態, パワーウィンドウ, ハザードランプ, ヘッドランプ, 車幅灯, ボンネット(閉じてます), キー(車外にあります), オートアラーム(作動中), 侵入センサ(作動中)
  • ヘルスチェック... 警告灯, 電子キーの電池残量, エンジンオイルの量, ブレーキオイルの量
  • Toyota Safety Sence の状態... 自動ブレーキ, 車線はみ出し, 自動ハイビーム, 追従ドライブ支援機能

3. クラウンのナビシステムに、ようやく Apple CarPlay/Android Auto が搭載!
Athlete のナビシステムは時代遅れ感があったが、RS Advance はそうでもない。ディスプレイの横幅が広くなったのがいい。いや、Athlete の縦配置が、横配置になっただけか。左右の配置は入れ替えられるけど。どうせならマップなどを全面表示できるようにすればいいのに...
Toyota SmartDeviceLink も軽く試してみたが、うん~微妙...

さて、期待していた CarPlay だが、YouTube のような動画系アプリが対応していない。運転の支障になるからであろう。iPhone 側で YouTube を再生すれば音楽は聴けるけど、うん~...
実は、車内の音空間に YouTube の自動再生機能を期待していた。
ちなみに、関東地方には、J-WAVE という音楽垂れ流しの FM 局があり重宝した時代もあったが、九州にそんなものはない。
YouTube はというと、例えば、"you raise me up" といったキーワードで検索すれば、関連曲を勝手に垂れ流してくれるし、選曲の精度もまぁまぁ。今、ハマっているキーワードは、Celtic Woman に、The 12 Tenors に、The Piano Guys に... そして、Peter Bence & Peter Buka の魅惑的な着想に翻弄され、Simply Three にシンプルに生きようという意欲を掻き立てられ、裸足で熱唱する Adele に生きる力を注入され... こうした音空間はドライブ環境にもってこい!
尚、音楽以外のジャンルに興味はないし、広告は、AdBlock!

運転支援という観点から眺めると、画像系はやや縛られ感ありだが、自動運転レベルが上がれば、解消されていくだろう。
セキュリティ面やメンテナンスの側面から眺めると、拡張性を感じさせる。
しかし、なんでもスマホでコントロールできるという流れは、どうであろう。どちらがコントロールされているのやら?もはや、自動車という概念もぶっ飛びそう... 自動車免許証という概念も... 自動車メーカという概念も... そして、総合的な知識がなければ息苦しくなっていきそうな... サポートする側も、される側も...

2021-09-19

王冠の引継ぎ... 納車ルームで納車式!?

いつかはクラウン... と謳われた看板車も、あっという間に売れなくなったらしい。福岡ではよく見かけるけど...
SUV へ移行とも噂されるが、生産終了と聞けば、なんとなく縁を感じる。25年前になろうか、MR2 の生産終了が報じられてディーラに駆け込んだ記憶が蘇る。MR2 は名車であった。実に名車であった。


おいらは、クラウンに執着しているわけではない。そもそもセダンが好きなわけでもなく、介護用に妥協しているだけのこと。本当はロードスターが欲しいのだけど、そうもいかない。
ただ、この手の車で FR がなくなっていくのは、ちと寂しい。確かに、セダンに FR レイアウトは不向きかもしれん。プロペラシャフトがエンジンから後輪へ突き抜けるので、後部座席の中央部が盛り上がり、足元の空間を狭める。
だからといって、FF 化すればカムリとかぶる。レクサスとの共存も難しいのだろうが、おいらはデザインでクラウンを選ぶ。ブランド価値に興味はないし、庶民カーらしく割引の相談もしやすい。
とはいえ、アクアやらヤリスやら、似たような車種をたくさん生み出しているではないか。売れないからといってスポーツカーを作らなければ、真の車好きが離れていく。それで、86 の復活?いや、BRZ だ。
どうせ受注生産だし、生産効率性でそんなに足枷になるのだろうか。人気を博す必要があるとも思えんが、この多様化の時代に...


さて、レクサスには納車式なるものがあると聞く。庶民化したクラウンにそんなものはないが、付き合いの長いディーラが改装され、納車ルームなるものができたらしい。そこで、Crown Athlete から Crown RS Advance へ、王冠の引継ぎといこう。
ちなみに、Athlete は、購入した翌日に、年寄りがウンコ漏らし、新車の香りが台無しであった。後部座席の座り心地が、よほど良かったと見える。RS Advance は、皮シートでさらに心地よさそうなので、要警戒!



1. いきなり、呪われたか?
いきなり、クラウンファーストコールとやらが繋がらない。クラウンオーナーをお迎えするために何か喋ってくれるらしいが、接続をやり直してください!って。しかも、エンジンボタンを押す度にメッセージが表示され、鬱陶しい!
DCM で通信しているが、コールセンターが混んでいるのか?システムがダウンしているのか?どうでもええから、こいつを黙らせてくれぃ!
とりあえず持ち帰って、CarPlay やドライブレコーダなどを設定していると、夜七時頃、突然喋りだした。設定に夢中で何を喋ったかは、記憶にごじゃいましぇん!
それにしても、接続できないことを想定していない、実に気の利いた、実に余計な演出であった。営業マンとは、20年来の付き合いだが、二人して笑うしかない...


2. ネアンデルタール人には、他の車は運転できましぇん!
運転支援システムからの情報が多く、頭はすでに Kernel Panic !
ただ、人間ってやつは贅沢なもので、すぐに慣れちまい、逆に頼りきってしまう。もう、他の車は怖くて運転できそうにない。自動運転レベルが、3 以上にもなると、おそらく自動車という概念までもぶっ飛んでしまうのだろう。
しかし、人間ってやつは、危険を察知できるから進化してきたのであって、それがなくなると、どうなるのだろう。なぁ~に、心配はいらない。別の危険をこしらえ、新たなリスクを生み出すだけのこと...


・まず、サイドブレーキがない!
いや、あるにはあるのだけど、シフトレバーをパーキングに入れたら自動でかかる。シフトレバーの側に電子式ボタンがあって、手動でブレーキホールドができる。電動パーキングブレーキと呼ぶらしい。
ちなみに、ブレーキとアクセルを踏み間違えるといった事故をよく耳にするようになったが、人間工学的に左足の適切なポジションが右足の動きを先導するところがある。クラッチ操作が当たり前の時代に聞かれなかったのは、そのためかと。いや、間違ってアクセルを踏んでも、クラッチの保険付きだったという見方もできるか。
さらにちなみに、パソコンでキーボードの打ち間違いが多い時は姿勢が悪いせいで、けして、アルコールのせいではない!なので、オフィスチェアにバケットシートは理に適っていると思う...


・ヘッドアップ・ディスプレイは、もはやゲーム感覚!
フロントガラスに、速度計や車線からのはみ出し警告、さらに制限速度などの道路標識をカメラで認識して表示してくれる。慣れてくると、もっと派手なに情報が欲しくなり、コックピット気分を求めてしまう。


・デジタルインナーミラーは、ちょいと見え過ぎ感があり!
バックミラーに後方カメラの画像情報を表示し、明るさの調整もでき、後方視界が広がる。雨の日は、ちょいとカメラが曇る場合があるが、すぐに解消されるのは、曇り止めの機能でもあるのだろうか。ただ、後ろの車が近くに見えて、やや煽られ感あり。ズーム機能もあって一番遠くに設定しているが、それでも...
ちなみに、バックミラーは自動車の後方を見るためだけでなく、実は、後部座席の年寄りの状況を確認する意味もあったが、この際、年寄りから解放してくれる介護者支援機能としておこう...


・パノラマビューモニターは、下界を見下ろし気分!
周囲のカメラ画像を合成して、上空から自動車を見下ろした映像を作り出している。駐車場の停車位置や、レーンの左右どちらかに寄っているかなどの情報が役に立つ。
見通しの悪い交差点では、前方視界を広角に映し出し、恐る恐る頭を出しながら左右の安全確認をするといった手間がいらない。
ただ、オートモードにしていると、停車するたびに機能が作動し、信号待ちで前方画像に切り替わるのが鬱陶しい。


・パドルシフトは、いらないと思っていたが...
パドルシフトは、スポーツモード時しか作動しないと思っていたが、通常のドライブモードでも作動してくれる。オートマチック車で、ずっと気になっていたのがシフトダウンである。例えば、高速道路から降りてきた時にエンジンブレーキの効きが悪い。これを、手動でやれるのはありがたい。


・バック中に障害物を検知して勝手に停止する、まではいいが...
一旦、障害物を検知して停止すると、その解除に遅延がある場合がある。目視で安全確認し、さらにバックしようとするとアクセルが効かず、つい強く踏んでしまいそう。焦らず、ゆっくりやれば解除されるが、知らないと、これ以上バックできないと思い込んでしまう。
そういえば、時々スーパーの駐車場で頭を出したまま駐車している高級車を見かける。他の車がひっかけそうになったり、歩行者がぶつかりそうになったり。何かを検知して、これ以上バックできないと思って、そのまま放置しているのかもしれない。
ちなみに、自宅の駐車場でバックすると、よく人体を検知したと警告される。ちょいと伸びきった雑草にでも反応しているのか?誰もいないはずだが、いや、幽霊でも立っているのか。日本の幽霊は足がないと聞くが...


・やたらと警告音あり!オオカミ少年症候群になりそう...
BSM(ブラインド・スポット・モニタ)のような機能は、いまや当たり前のように付いている。そういえば、他の車でバックミラーにオレンジランプが点灯するのを見かけてはなんだろうと思っていたが、こいつかぁ...
慣れない警告音では、信号待ちで前の車に続いて停車していると、ナビ操作をしていたら先行車発進のお知らせアラームでドキッ!
レーンのはみ出し警告などでアラームが鳴るのはいいが、あまり多いのはどうであろう...


3. スマートキーに未だ違和感あり!
ずっと前から思っていることだが、おいらは、スマートキーに違和感をもつネアンデルタール人だ。
まず、せっかくロックしたのに、年寄りがドアノブを握って確認しようとする。キーを持っている運転手が近くにいると、解除されるっちゅうの...
同じ原理で、持ち主がロックして離れようとした時に、こっそり車の影から忍び寄ってドアノブを握れば... なんとも恐ろしい!
また、自宅の二階からスマートキーのロック解除ボタンを試しに押すと、ベランダから下を覗いたらロックが解除された。なんとも恐ろしい!
一昔前の感覚では、玄関先に車のキーを置く家をよく見かけたが、駐車場が近くにあると、キーの意味をなさない。
まさか!とは思うが、電波中継器を置くだけで買い物などで遠くに離れていたとしても、ロックが解除できたりして。電波ってやつは、その物理特性上、増幅器を噛ませば、いくらでも飛ばせる。地球の裏側だって。このデジタル時代に、そのぐらいのセキュリティ対策はやってくれているだろうけど、なんとも恐ろしい!
さすがに、スマートキーが車内にないとエンジンはかからないが、中継器をうまく設置して、電波を車内から飛ばしているように偽装することもできそうな。なんとも恐ろしい!
利便性ってやつは、構造的な仕組みを理解した上で利用しなければ仇となる、諸刃の剣か...

2021-09-12

自動車ナンバーは安全素数... 人生ロードは割り切れない!

希望ナンバー制度を利用して、名前の語呂合わせで番号を選んできた。それは、テトラクテュスにあやかった数で縁起がええ。
しかし、ちと目立つ。おいらは、人見知りの激しい恥ずかしがり屋なのだ。周りは信じてくれないけど。車の買い替えにあたり、ナンバーを変えることに...


では、どんな数にするか。ちょいと控え目でエレガントな数といえば、素数あたりはどうか。素数とは、自分自身以外の数では割れない数を言う。人生という長い道のりでは、割り切れない事ばかり。
そこで、暗号理論に「安全素数」という概念がある。安全運転に掛けて... ダジャレ癖は、もはや老害よ!


暗号アルゴリズムの基本的な考え方は、データを素数の積で表記して符号化する。それは、因数分解に用いる素数を見つけることが困難であることを利用している。素数が暗号キーになるという寸法よ。
例えば、インターネットで普及した RSA 暗号は、桁数の大きい合成数の素因数分解が困難であることを拠り所にしている。困難といっても、不可能ではない。桁数が大きいほど困難になるわけだが、RSA 暗号は時代とともに桁数を増やし、いまや 300 桁を超え、スーパーコンピュータでも解読に一億年かかるとも言われている。この安全神話も、量子コンピュータの登場で崩壊しつつあるけど...


素数が無限に存在することは、「ユークリッド原論」にエレガントな証明が記される。中でも、とびっきり解読が難しいとされるのが、「安全素数」ってヤツだ。それは、ある数 p と 2p + 1 が共に素数の時、2p + 1 を言う。ちなみに、p の方はソフィー・ジェルマン素数と呼ばれ、ガウスが数学の才に惚れ込んだとされる女性の名を掲げている。実際のところ何に惚れ込んだかは知らんが...
それはともかく、自動車ナンバーに登録できる数は、たかだか 4 桁。これを安全と呼ぶにはおこがましいけど...


さて、どの安全素数にするか。登録可能な選択肢は、115個もある。とびっきりのとびっきり、スーパー素数か。偉大な数学者にあやかってオイラー素数か。ガウスが惚れ込んだソフィーか。ハッピー数ってのもある。
いや、ここは人類の最も偉大な感性に委ねるとしよう。そう、気まぐれってやつに。安全素数に気まぐれを掛ければ、永遠に解読不可能となろう...

2021-09-05

"アート・オブ・アジャイルデベロップメント" James Shore, Shane Warden 著

オライリー君のシリーズで、つい手を出してしまうヤツがある。アート・シリーズがそれだ。技術に芸術を見、取り組みは泥臭くても成果物は美しくありたい。そんなことを、ぼんやりと考えながら...
しかし、芸術の道は険しい。芸術的に生きることは、さらに難しい...


さて、ソフトウェア開発でよく耳にする「アジャイル」という言葉。おいらは、こいつをマネジメント用語と解している。ソフトウェアに特化したものではなく、あらゆる開発現場で参考にできると。ちなみに、おいらはプログラマでもなければ、ソフトウェア業界の人間でもない。
アジャイルを実践する!と声高にアピールする人を見かけるが、本当に実践している人たちは、そのような用語をあまり使っていないように見える。自然体でいるような。オブジェクト指向という用語にも、似たような感覚が見て取れる。無意識に実践しているような。アジャイルチームの特徴は、自己組織性にあるという。自主的で自立的であれば、用語に振り回されることはないだろう。ましてや流行語に...


「『アジャイルになる』というのは何を意味するのか?この質問の答えは、思った以上に複雑だ。アジャイル開発は特定のプロセスに従えばよいというものではない。アジャイル手法を実践しているチームというものはない。そういうものじゃないんだ。アジャイル開発とは理念だ。ソフトウェア開発についての考え方なんだ。」


副題には、「組織を成功に導くエクストリームプログラミング」とある。ここでは、アジャイル開発における手法の一つとして、XP(エクストリームプログラミング)を中心の据えている。それは、短期間で頻繁にリリースすることを推奨するもので、具体的には、リファクタリング、コードレビュー、ペアプログラミングといった手法が紹介される。
ただ、新しい文化を取り入れるには時間がかかる。数ヶ月ぐらいの覚悟がいる。それでも取り入れる価値があるかどうか。プロマネは、いつもそんなことを考えながら仕事をしている。改善においては、貪欲でありたいと。その道のメンターがいるとありがたいが、現実には難しいので、自らメンターを演じようと...
そして、アジャイル文化は、極めて民主主義的で、自由精神の体現にも見えてくる。ファシズムの時代には、民主主義を統一を欠いた社会、自由精神を道徳の退廃と吹聴されたが、現在では民主主義が連呼される。価値観なんてものは、何を転機に逆転するか分からない。
チームの運営では、個性は統一を欠く要因とされがちだが、個性がチームとなった時の能力は計り知れない。なにより仕事をやっている連中が楽しんでやがる。マネジメントで深刻なのは、技術の問題よりも人間の問題だ。そのための第一目標は、やりがいのある仕事を提供すること、そしてプロマネ自身が楽しむこと、顧客も巻き込んで...


「変化が人を不快にするというのはまぎれもない事実だ。XP はチームにとって大きな変化だろう。もしこれまで融通の利かないドキュメント中心のプロセスを使っているなら、XP は形式的でなく、だらしなく見えるだろう。」


1. アジャイルマニフェスト... 価値と原則
アジャイルの価値は、4つ...

  • プロセスやツールよりも、人と人との交流を。
  • 包括的なドキュメントよりも、動作するソフトウェアを。
  • 契約上の交渉よりも、顧客との協調を。
  • 計画に従うよりも、変化への適応を。

これを支える原則は、ざっとこんな感じ...
  • 最優先事項は顧客を満足させること。
  • 実働可能なソフトウェアの納品を頻繁に行う。実働するソフトウェアこそが進捗状況の尺度。
  • 持続できるペースで開発する。
  • 高度な技術と優れた設計への配慮は、アジャイル性を高める。
  • シンプルさが肝心、やらなくていいことはしない。
  • 最高のアーキテクチャ、仕様要求、設計は自己管理能力のあるチームから生まれる。

マネジメント論で耳にタコができるほど聞かされるのが、最優先すべきは顧客の満足度!ここで言う顧客とは、依頼元である。つまり、スポンサー。
しかし、おいらは、顧客という言葉にしばしば疑問を抱く。顧客であるはずの依頼元が、本当の意味で要求を理解していないことがよくある。ユーザの立場になって逆提案をすれば、要求仕様は自分で書くことに。結局、顧客とは、エンドユーザか。それで依頼元を満足させられれば、同じことだけど。
そして、開発途上で状況が変われば、気も変わる。おいらは、仕様変更の生じない開発プロジェクトに出会ったことがない。アジャイルプロセスでは、変化に対応することで顧客の競争上の優位性を確保するという。
また、実働するソフトウェアを頻繁に提供するということは、必然的にテスト駆動開発(TDD)が重視される。そして、開発メンバーの意欲にも配慮したい。品質を落とすような命令は技術屋の気分を萎えさせる。技術的卓越は重要な動機だ。たゆまぬ鍛錬こそが、道を極めるということを...


2. ドキュメント主義からの脱皮
ドキュメントが重要であるという価値観は、今も変わらない。おいらはネアンデルタール人なのだ。
しかし、だ。ドキュメントは、常に最新版に保守されていなければ使い物にならない。それには手間もかかる。それでも、必要ならやるべき。そこで、本当に必要なドキュメントとは何か?これをずっと問い続けてきた。ドキュメント化することで効率化を図れる部分もあれば、無駄を助長する部分もある。
近年のプログラミング言語は、アセンブラ言語の時代とは違い、コードを見れば何をやっているか、何をやるべきかが分かる。うまく構造化され、綺麗なコードであれば。コードの変更にドキュメントの変更が引きずられるなら、何をやっているのやら。一対一で完全に対応している保証は、どこにもない。ドキュメントが仕様の神様にならなければ、悪魔になるだけのこと...


「ドキュメントという言葉にはいろいろな意味がある。エンドユーザ向けに書かれたマニュアルや、詳細な仕様書、APIとその使い方の説明書を意味することもある。いずれによせ、これらはすべて、コミュニケーションの一つの形だ。それが共通点だ... ドキュメントの量を減らすのにリスクは、もちろんある。ドキュメントを減らすためには、別の形のコミュニケーションに置き換える必要がある。それこそ XP がやっているこなんだ。」

2021-08-29

"KVM 徹底入門" 平初, 森若和雄, 鶴野龍一郎, まえだこうへい 著

KVM(Kernel-base Virtual Machine)とは、文字通り仮想マシンモニタを提供するツールで、物理マシンをハイパーバイザーにすることができる。
その特徴は、Linux のカーネルモジュールとして実装され、x86 系 CPU に搭載される仮想化支援機能(Intel VT や AMD-V)を介してオーバヘッドを軽減する。お馴染みのパッケージ管理コマンド yum で拾えるのもありがたい。
ここでは、コマンドラインユーティリティとして qemu-kvm パッケージが紹介され、QEMU にぶら下がる形が見て取れる。実際、KVM の利用には、QEMU の導入が前提されている。


QEMU といえば、ハードウェアをエミュレートする場面で重宝している。例えば、設計対象となる組込システムでは ARM アーキテクチャによく出くわし、これの動作確認のためのプログラム作成など、いわゆるクロス環境として。CPU だけでなく、USB コントローラや SCSI コントローラなどの周辺回路をエミュレートする場面でも利用している。
ちなみに、つい最近、OS 制作のセミナーでも見かけた。自作 OS を試す場面でも活用でき、これを学生と一緒になってやるのは楽しい。実に楽しい...
QEMUは、ホスト OS に対してゲスト OS を配置し、アプリケーション風に動作させられるところが手軽でいい。ただ、完全にソフトウェアで制御するため、お世辞にも高速とは言えない。ARM 環境を動かすとなると、ある程度の高性能マシンでないと辛い。特に、出先で非力なノート PC でやるには...


近年、CPU に限らず、ハードウェア・アクセラレーションを利用できる GPU も目立つ。逆に、CPU の負担を軽くしようとして GPU の負担が重くなり、表示パフォーマンスが低下したりと、その按配が微妙だったりするけど。
いずれにせよ、ソフトウェアのパフォーマンスを上げるために、ハードウェアで支援するやり方は古くからある。暗号化といった大量な演算を要するチップなど。
とはいえ、おいらの場合、仮想化のための支援回路となると、いまいちイメージできていない。おまけに、使っている対象が物理的にイメージできないと、不安に襲われる性分ときた。そこで、KVM ってヤツはどうなんだろう... というわけである。


本書は、Fedora と Ubuntu への導入事例として書かれているが、両 OS のインストール手順まで掲載される。ここまでやらんでも。なるほど、徹底入門だ!
導入部では、GUI 環境を提供する virt-manager と、コマンドシェル virsh が紹介され、コマンドリファレンスも付録される。
興味深い話題は、KVM のリソース管理機能である。動作モニタのプロセスは、物理的なイメージがしやすい。核となるモジュールは、仮想マシン制御用の抽象化ライブラリ libvirt と、そのデーモン libvirtd。そう、Xen や VMware Workstation などの導入でも見かけるやつだ。こいつを手なづけるには、ライブラリが提供する API 群をいかに使いこなすか、にかかっている...
KVM のライブマイグレーション機能も興味深い。マイグレーションとは、ホスト OS で稼働中の仮想マシンを別のホスト OS に移行させることだが、その際、サービスやサーバを停止せずに移行させるのがライブマイグレーションってやつ。まさに、Linux カーネルらしい仕掛けである...


ところで、仮想化とはなんであろう。その目的とはなんであろう。少なくとも、貧弱なリソースが豊富になった気分にさせてくれる。物の価値を代替するお金も物量の仮想化であり、貧しい心を豊かになった気分にさせてくれる。仮想化とは、価値の代替か?気分の問題か?いや、それだけではあるまい。
実体がなければ、想像は無限に膨らむし、想像力そのものが仮想化のプロセス。精神という得体の知れない実体は、仮想空間とすこぶる相性がよく、精神そのものが仮想的な存在と言えよう。人間社会とは、まさに仮想社会における生存競争の世界だ。集団は実体のない情報に振り回され、いつも右往左往。精神が仮想的な存在だとすれば、仮想化によって人間は人間を取り戻しているだろうか?仮想化によって、自らの思考回路を活性化させているだろうか?仮想化によって、合理的に生きているだろうか?
コンピューティングにおける仮想化は、想像力を膨らまし、思考アルゴリズムを豊かにする、実に素晴らしい概念だ。しかしながら、仮想化技術もまた他の技術と同様、コモディティ化の流れに飲み込まれていく。どんなに優れた概念を編み出したところで、その概念の奴隷にならず、自分らしく生きることは難しい...

2021-08-22

"宇宙をプログラムする宇宙" Seth Lloyd 著

宇宙を論じる場では、古くから重力が主役を演じてきたが、E=mc2 の呪文とともに、エネルギーが主役に躍り出た。ここでは、エネルギーと肩を並べるように情報が主役を演じて魅せる。
it is bit... それはビットから... IT や ICT もビットから...
ここで、ジョークを一つ。但し、数字は二進数表記。
「10種類の人間がいる。ニ進数を知る人間と、知らない人間だ。」


宇宙とは何か?宇宙は何のために存在するのか?量子コンピュータ研究の第一人者セス・ロイドが熱く語ってくれる。それは、計算をするためだと。では、何を計算しているのか?それは宇宙そのもの、すなわち、自分自身の振る舞いを。量子情報理論によると、宇宙とは巨大な量子コンピュータであり、宇宙は自らを計算によって作り出しているという。それは、自己増殖システムか。自己言及によって進化していく様に、不完全性定理や不確定性原理との相性が見て取れる。チューリングが唱えた計算不可能性にしても自己言及に発する。人間が進化してきたのは、自己言及の名手だからこそ。進化とは、複雑化し、カオス化していくことなのか...
尚、水谷淳訳版(ハヤカワ・ポピュラー・サイエンス)を手に取る。


宇宙という巨大な世界を知ろうとすれば、量子という微小な世界を探ろうとする。木を見て森を見ず... という皮肉めいた格言があるが、森を見て木を見ず... では同じこと。
とはいえ、量子の世界は狂ってやがる。猫が生きていて、かつ死んでいる、といった荒唐無稽なことが理屈の上で起こっちまう。宇宙には悪魔が棲みついているのか。マクスウェルの悪魔にせよ、ラプラスの悪魔にせよ、超現象はすべて悪魔のしわざか?


昔から神のように崇められる物理法則に、エネルギー保存則ってやつがある。宇宙の誕生がビッグバンにあるとすれば、無から生じたことになるが、それで何が保存されているというのか。誕生する前からなんらかの情報が浮遊していて、その情報がエネルギーを持っていたとでもいうのか。宇宙で生じる物理現象は、あらかじめ仕込まれた情報によって、突然、露わになるものなのか。
うん~... そもそも、情報ってなんだ???
例えば、有名な二重スリット実験では、電子を1個発射させると、それぞれのスリットに同じ干渉縞が生じる。これが波動性ってやつだが、電子が粒子ならば、二つのスリットを同時に通り抜けるはずがない。これも悪魔のしわざか?
量子力学には、干渉性の消失という概念がある。デコヒーレンスと呼ばれるヤツだ。それは、周囲の環境が量子系の情報を得ることで、波動性を壊すプロセスにも見える。情報を抜き取ることによって、片方のスリットに存在する電子を無にできるというのか?
まったく、情報に操られた現象は悪魔じみている。なるほど、人間社会に蔓延る情報は、人間を動かすエネルギーを持っている。どうりで、人間は悪魔じみている...


1. 計算とは何か
宇宙が、自らの振る舞いを計算しているとしたら、その住民も計算しながら生きているということか。ただ、自己言及プロセスは、自分が何を計算しているかを認知できないことにある。人間だって、なんらかの損得勘定や見返りを計算しながら生きている、ってところまでは認知できるが、それ以上のこととなると、形而上学に放り込まれる。
宇宙が、量子の集合体で構成される巨大な量子コンピュータだとすれば、人間の脳だって量子の塊であり、ある種の量子コンピュータと言えよう。量子数の規模を比べると、人間に意思があるぐらいだから、宇宙には、もっと、ずっと高尚な意思があっても不思議はない。
計算とは、意思のことなのか?単純な法則が複雑系へ向かうのは、何らかの意思が働いているということなのか?計算するとは、なんらかの情報を元に量子が運動するということなのか?
ならば、情報とは過去ということになる。計算を重ねていくうちに、そのプロセスのすべてが情報となる。最初は単純な情報でも、過去の蓄積がカオスへ向かわせる。熱力学の第二法則は告げている。エントロピーはただ増大すると。宇宙はエントロピーに引きずられて膨張し、人間は過去に引きずられて生きていくわけよ...


2. 情報の本質と二進数
情報の最小単位はビットで表され、0 か 1 の状態をとる。計算の基本原理は、この状態を保持するか、反転させるか。つまり、すべては二進数で事足りる。十進数で計算するのは人間の都合であって、両手合わせて十本の指がそうさせるのかは知らん。
実際、コンピュータの演算回路は、2 の冪乗で構成される。足し算して桁上りするかしないかは、0 か 1 で示され、人生の分岐点で、進学するか就職するかも、0 か 1 で記述できる。選択肢が複数ある場合は、二択の多重化と捉えれば同じこと。
つまり、コンピュータプログラムの基本構造は、順次処理と分岐処理が主体となる。情報理論の父と呼ばれるシャノンが提示した 2 を底とする対数で記述される定理は、なかなか意味深い。情報と計算の両方の本質を暴いて魅せたのだから...


3. 量子ビットと多宇宙
量子コンピュータが扱うビットは、従来のビットとは、モノが違う。量子ビット(Qubit)と呼ばれるやつだ。
従来のビットは、例えば、トランジスタが保持する一つの状態で、0 か 1 をとる。これを変化させるには、ベース電圧やゲート電圧を制御して、スイッチングさせる。
一方、量子ビットは、光子、電子、クォーク、ニュートリノといった素粒子が持つスピンの状態で、それぞれの相互作用によって、スピンの方向を変えて情報を処理する。これを変化させるには、単に光をあてたりする。つまり、ビットの処理速度は光速なみに高速というわけだ。一般相対性理論によると、これ以上の反応速度はない。
しかも、スピンは別の状態を同時に持つことができる。こうした特性は、超高速な多重並列処理の可能性を匂わせる。まさに夢の演算素子というわけだ。膨大な計算量を要する因数分解だって、状態を分割して同時に計算すれば、暗号解読もお茶の子さいさい。猫が生きている状態と、死んでいる状態の両方を同時にシミュレーションすることだって...
そして、宇宙はユニバースからマルチバースへ。もはや、自分探しの旅なんてやってる場合じゃない。多宇宙で生きている別の自分を探さねば、いや、お前はすでに死んでいる...


4. ランダム性と有効複雑性
計算された結果は、消去されるか、後の計算のためにフィードバックされるか、それが情報の運命。計算や分岐の積み重ねによって世界が成り立っているとしたら、今の世界は確率によって決定されたとも言えよう。サルがタイプした文字列と人間がタイプした文章の違いは何であろう。サルがタイプした文字列が、詩になる確率は?途方もなく小さな確率であろうが、ゼロとは言えまい。しかし、人類という知的生命体が誕生した確率だって似たようなもの。
ただ、この広大な宇宙空間に地球外生命体が存在するかどうか、しかも、それが知的生命体である確率は?と問えば、かなり高そうな気がする。互いの知的生命体が接触する可能性となると、途方もなく小さな確率になるかもしれんが...
物質の存在や存在の仕方を問えば、ランダム性という概念に遭遇する。ランダム性は複雑系とすこぶる相性がいい。宇宙における計算や分岐の方向は、ランダムに行われているのだろうか?それとも、なんらかの意思が働いているのだろうか?
そもそも、ランダムってなんだ?完全なランダムって、どんなランダム?なんらかの法則でランダムが記述できるとすれば、それはランダムなのか?
宇宙空間に存在する物質は一様に分布していない。銀河団のような塊が点在する。しかも、それぞれの重力法則に従って形を整えている。ランダムってやつは無秩序なのか?それとも、弱い秩序があるのか?
そこで、「有効複雑性」という概念が飛び出す。有効な複雑ってなんだ?手に負える程度に複雑ってことか?人間社会を機能させるのに、完全なランダムは必要ない。ランダムっぽく見えるだけで、かなり役に立つ。その意味では、極めて主観的である。客観性を重んじる数学が、主観確率と同居できるのも頷ける。
その証拠に、デジタルシステムの検証の場で、疑似ランダム生成器が幅を利かせている。それは、軽い秩序か?人生のコントロールには軽いアンダーステアがいい...
それにしても、確率には救われるよ。こんな天の邪鬼な性格も、どんな現象も確率のせいにすればいい。神はサイコロを振らない!と豪語した大科学者がいたが、神ほどのギャンブル好きも知らんよ...

2021-08-15

"新・数学の学び方" 小平邦彦 編

数学は楽しい!おいらは数学の落ちこぼれ。でも楽しい!
酒を酌み交わしながらオイラーの公式について語り始めると、つい夜を明かしちまう。数学ってやつは厳密に理解しようとすると、これほど難解な学問もないが、分かった気になる分にはそれほど難しくはない。
いま、顔を合わせるたびに、けしかけてくる大学の先生がいる。薄っすらと笑みを浮かべ、これを読んでみろ!あれを読んでみろ!と、チェシャ猫のごとく。専門家がド素人を論理でねじ伏せようってかぁ...
いや、数学ってやつは、感覚やイメージで嗜むものらしい。五感を総動員して、絵画や音楽を嗜むように。数学が他のどの分野よりも厳密な論理で組み立てられているのは確かだ。しかし、それだけでは味気ない。
そういえば、ルイス・キャロルも数学の先生だっけ。少女に子供心をいつまでも忘れぬようにと書いた物語が、あの「不思議の国のアリス」。だから、薄っすら笑みを?気色わるぅ...


ここでは、13人もの先生方が数学の具体的な事例を用いながら、その学び方を伝授してくれる。寄稿者の面々は、小平邦彦、深谷賢治、斎藤毅、河東泰之、宮岡洋一、小林俊行、小松彦三郎、飯高茂、岩堀長慶、田村一郎、服部晶夫、河田敬義、藤田宏。
学び方は、十人十色!数学の先生方も一つしかない表記法に対して、実に多様な考え方や理解の仕方を提示してくれる。数学は、けして無味乾燥な学問ではないってことを。
ただ、13人もの御歴々が一斉に語り始めると、話題が豊富すぎてゲロを吐きそう。ざっと拾ってみても、πが無理数であることの証明に始まり、代数幾何学、コホモロジー、微分方程式、複素関数論、微分位相幾何学,.. さらにはガウスの楕円関数論まで飛び出す。帰納的な思考を語るには、やはりガウスは欠かせない。
数学者らしからぬ、暗記を勧める先生までもいる。理解が暗記の対極のように考えられがちだが、そう単純ではないようである。どうしても理解できなければ、暗記でも何でもやってみるさ。フランシス・ベーコンとソクラテスの言葉を掛けて、疑問のあり方を問い掛ける先生もいる。
「知は力なり vs 無知の知 vs 疑問を育てる」
疑問は言語化を育てる。正しく問わなければ、正しく答えられない...


学ぶとは、どういうことであろう... 理解するとは、どういうことであろう...
本書を読んでいると、そんなことを考えてしまう。人は何かを手本にしながら、考え方のヒントを得る。幼児が大人の真似をして、繰り返し片言を喋ることによって言葉を憶えるように。ダ・ヴィンチも、ミケランジェロも、ラファエロも、古代芸術を模写しながら独創性を磨いた。けして目先の技法に囚われず、猿真似で終わらぬよう。独創性とは、模倣の先に見えてくるものやもしれん...
「'学ぶ' は 'まねぶ' であって、その第一義は 'まねること' である。」


しかしながら、ド素人が専門家の学び方を真似ても、うまくはいかない。もともと数学のセンスがあるから、この道を選んだのであろうし、数学に対する姿勢も違えば、遊び心の奥行きも違う。
とはいえ、真似てみる以外に何ができよう。数学のセンスがなくても、我武者羅にやっているうちに、突然視界が開けることだってある。理解するまでのプロセスこそが数学の醍醐味!とすれば、落ちこぼれも少しは救われる。自分の思考回路は自分にしか分からない。理解するまでの道筋は自分で見つけ出すしかない。おいらには、自分の思考回路もよう分からんけど。ユークリッドの言葉に「幾何学に王道なし!」というのがあるが、ここでは「数学に王道なし!」と励ましてくれる...


ところで、本書の代表を務める小平先生といえば、日本人初のフィールズ賞を受賞した大先生だが、フィールズ賞といえば、昔から違和感を持っていることがある。それは、40歳の年齢制限があること。頭が柔軟でなければ数学で功績を上げることは難しいということだが、だからといって絶対的な年齢で規定するとは。柔軟性を重んじる数学が、実にらしくない。健康寿命が伸びている現代社会では、尚更。
但し、何を学ぶにせよ、子供心をいつまでも忘れぬよう心がけたい。アリスのように...
「数学の持つ鋭い魅力は人に伝えようとしてできるものではない。数学は面白いから面白いのであって、説明する必要など少しもないのである。数学の魅力を伝えようとしていかに数学が世に役立っているかを力説してみても、それではちっとも面白さが分からない。むしろ苦しみが増してしまう...」


たいていの人は、銭勘定に必要な加減乗除を知っていれば十分だと考えるだろう。だが、無味乾燥と酷評される数学が、人間社会でいかに重要な役割を果たしていることか。市場経済は、微分方程式なしでは立ちゆかない。保険会社や金融機関は、数理統計学なしでは立ちゆかない。個人情報を保護する暗号システムは、素因数分解なしでは成り立たない。通信経路やデータ記憶装置では誤り訂正率が問われ、製造ラインでは歩留まりが問われる。心理学や生物学にしても遺伝子工学と結びき、その根底にある量子力学、電磁気学、熱力学といった物理数学は避けられない。最大多数の最大幸福といった政治スローガンまでも確率論に支えられ、いまや数学と無縁でいられる分野を探す方が難しい。物事を観察する上で、数学は実に多様な道具になりうるだけに、それぞれの部門に適合した数学的思考を学ぶだけでも、視野が広がる...


そういえば、おいらにだって、数学が得意だ!と言い張っていた時代があった。定理や証明なんてものは憶えるものではない!必要ならその場で導いてやるさ!などと豪語していた。なので試験では、いつも時間をめいいっぱい使う。高校数学で登場する因数分解は、せいぜい四次方程式まで。これを解くのに法則めいたものはない。ただ数字を感じ取ること。大学の初等教育で、いきなり奈落の底に突き落とされたε-δ論法なんて、丸暗記してどうなるというのよ。素朴な精神をエラトステネスの篩にでもかけようってかぁ...
人生は短い!点数競争なんぞに付き合っている時間はない。なぁ~に... 落ちこぼれの遠吠えよ!
そして、数学から逃れるように工学の道へ進んだのだった。しかし、微分方程式からは、いまだ逃れられずにいる。それでも、解析学で重要な複素数や三角関数の恩恵を知って拒否反応も薄れている。フーリエ変換の凄みを実感しながら、テイラー展開や無限級数の有難味を感じ、πの偉大さを感じつつ。
πが無理数だと知っていても、どんな風に無理数なのかは知らん。知っていることといえば、数直線上で単位円を 0 から一周させると、3 を少し超えるあたりで止まるってことぐらい。πの無理性は、無限級数の親戚の連分数で記述することができる。無限級数ってやつは、近似する上で実に便利な道具だ。求める精度に対して、必要なだけ項数をとればいいのだから。
デジタル社会が論理数学で成り立っているのは確かだけど、それほど厳密とは言えず、そのほとんどが近似法で成り立っている。人間社会で繰り広げられる物理現象は、そのほとんどが連続性に見舞われており、連続的な物理現象をモデル化するのに、微分方程式ほどうってつけの道具はない。幾何学的なアプローチで、漸近線の有難味も合わせて。金融危機や自然災害の類いで不連続なケースもあるけど、境界面を微分方程式でつなぎ合わせていかに実世界に近づけるか。これぞ、微分方程式の役割だと解して励んでいるのだけど、やはり落ちこぼれは落ちこぼれ...

2021-08-08

"タイヒミュラー空間論" 今吉洋一, 谷口雅彦 著

学術研究都市のサロンでブラックコーヒーをやりながら、空間認識なんてものは、存在を意識できるなら誰しも持っているわけで、数学屋さんは、その記述の仕方をルール化しているだけじゃないの... なんて大人気ない発言をしていると、ある大学教授から、この本でも読んでみてよ!とけしかけられた。空間論の教科書的存在らしい。
おいらにとって、空間が多様体であろうが、何次元であろうがどうでもいい。興味があるのは、微分できるかどうか。それは、いかに実世界に対応づけられるかということ。もっといえば、微分可能とは、人間の認識可能!と解している。
それでいて、解析対象の物理現象に対しては、微分方程式を組み立てるまではいいが、解けないのは毎度のこと。数学屋さんにボトルを差し入れしては、気分はいつもハーフボトル!天の邪鬼な空間認識ときたら、まったく救いようがない。
だからといって、数学のド素人を議論でねじ伏せようとする数学の大先生も大人気ない。しかも、満面の笑みを浮かべて... こっちも負けじと笑い飛ばすとしよう...

ところで、空間論なるものに接すると、いつも悩まされることがある。集合論や位相論で出くわす空間のコンパクト化ってなんだ?ある種の有限界のことか。ついでに、被覆空間ってなんだ?閉空間の類いか。いつも閉塞感がつきまとう。
空間を論じるからには、それぞれ距離の概念と結びついているが、ユークリッド空間の距離とは明らかに違う。コンパクト化と言いながら、コンパクトにまとめきれない。リーマン・ロッホの定理を用いれば、複素解析曲面の分類ができることは知っているが、オイラー数でいいじゃん。おいらにとっての空間論なんて、こんなもんよ...、
そして、解析的な思考では、広大な空間を分割して貼り合わせ、局所的にユークリッド空間を割り当てて実世界に近づける。それは、微分可能な領域の貼り合わせ。これを集合の連続体として眺めれば、群論も顔を覗かせる。要するに、ある種の近似法と解している。
微分の概念にしても、永遠に近づこうとするということは、永遠にたどり着けないことを意味する。結局、人間の能力では、真理に近づくことはできても、真理にたどり着くことはできまい。だから、近似法に縋る。いつまでもユークリッド空間に幽閉されたまま。なぁーに、屁理屈屋の独り言よ...
こんな見方からでも、複素数空間を眺めると、リーマン面とやらが薄っすらと見えてくる。それは、まさに一次元複素多様体であり、直観的には二次元平面を双正則写像で貼り合わせたもの。本書も、そんなことを言ってくれるのに救われる。
すると、数学的な厳密性が保てるかどうかの境界面は、微分可能かどうかにかかっていると言えそうな。そして、アルコール濃度で分解可能な空間を貼り合わせ、リアリティを求めてバーへ足が向く...

さて、「タイヒミュラー空間論」という名には、条件反射的に圧倒される。オズヴァルト・タイヒミュラーという数学者はナチズムに熱狂した人物でもあるが、まぁ、それはおいといて、ベルンハルト・リーマンと深くかかわるというから、こいつが難解な書であることは想像に易い。
それは、種数 g によって記述される閉リーマン面をめぐる物語。タイヒミュラー空間とは、どうやら種数によって表記できるリーマン面のことを言うらしい。ということは、リーマン面には種数で表記できないものもあるってことか?と解釈すれば、タイヒミュラー空間はリーマン面よりも親しみやすく感じる。
ちなみに、種数とは、位相幾何学で物体の本質とされる穴の数で、位相幾何学者とはコーヒーカップとドーナツの違いも分からん連中... などと揶揄される、あれだ。

こうして見ると、「同じ」という概念も、なかなか手ごわい。ユークリッド幾何学において第五公準を放棄するだけで、空間の抽象度が格段と上がる。何をもって同じ空間と見なすか?その時の座標系は?変数に何をとるか?座標を局所的にとれば、変数も局所的となる。
本書には、抽象数学でお馴染みの「自己同型」だけでなく、「双正則同値」「等角同値」といった用語が散りばめられる。微分可能な条件をやや弱めながら、等角写像から擬等角写像を考察したり。「モデュライ空間」という用語も飛び出すが、これも「同じ」という概念の親戚のようなものか。点の集合を領域で貼り合わせて同一視することを「商空間」というらしいが、タイヒミュラー空間の商空間がモデュライ空間であるという。
何をもって同じとするか... ということは、何をもって区別するか... という問題でもある。「ホモトピック」という概念も、こうした思考から生まれたのであろう。

物語の主役は、種数 g ≧ 2 の閉リーマン面...
まず、6g-6 次元で記述される「フリッケ空間」ってやつが紹介され、次いで、双曲幾何を記述するための「ポアンカレ計量」という曲率テンソルや、フリッケ空間を記述する「フェンチェル - ニールセン座標」の導入でリーマン面の空間イメージを膨らませ、これらを予備知識として、6g-6 次元の実数空間で記述される「タイヒミュラーの定理」が論じられる。
これだけでも、満腹だというのに、ここからが本ちゃんときた!「複素解析的に...」と題して...
解析的とは、どういうことか?分割的ということか?のりとはさみによる構成論か?
g ≧ 2 の閉リーマン面を解析的に眺めるには、3g-3 次元の複素数空間が鍵になる。「タイヒミュラー・モデュライ群」と呼ばれる自己同型写像からなる群を考察しながら。このプロセスを理解するには、擬等角写像と正則二次微分が鍵となりそうだ。

また、空間を論じるからには、距離の概念も欠かせない。計量できるからこその距離だが、座標系が変われば距離の風景も変わる。距離ゼロの意味ですら。タイヒミュラー距離が小林双曲距離に一致するとか、ヴェイユ - ピーターソン計量はケーラー計量であるとか... こうした考察は本当に距離を論じているのか?遠くのものが近くに感じたり、近くのものが遠くに感じたり、まるで人間関係に見る距離感...

それにしても、こいつぁ、本当に入門書なのか?外観できるのはありがたいが、厳密に理解するのは、おいらの能力では到底無理!
ただ、数学ってやつは厳密に理解しようとすると、これほど難解な学問もないが、分かった気になる分には、それほど難しくはない。だから、数学の落ちこぼれなのである。おいらの知識は、たいていこんなもんよ。
地球が公転し、自転していることだって、地球が丸いってことすら自分で確かめた知識ではない。学校で習ったから、そう信じているだけで、そう信じていないと馬鹿にされるだけのこと。確実に知っていることといえば、コーヒーカップは食べられないが、ドーナツは食べられるってことぐらい。
なにごとも、分かった気になれるってことが一番の幸せであろう。そこに挫折感を浴びせようものなら、M な性分が救いになる。もはや、ユークリッド空間に存在する自我を満喫するのみ...
それにしても、数学の大先生のボランティア精神には敬服する。授業料も払ってないド素人相手に、ハーフボトルで釣られるなんて...

2021-08-01

"レガシーコード改善ガイド" Michael C. Feathers 著

P. F. ドラッカーは、こんな言葉を遺してくれた...


"If you can't measure it, you can't manage it."
「測定できないものは管理出来ない。」


"measure" を "test" に置き換えれば、まさに本書が意図するところ...
尚、平澤章、越智典子、稲葉信之、田村友彦、小堀真義訳版(ウルシステムズ株式会社)を手に取る。


モノづくりの現場には、科学同様、観察の哲学がある。まずは観ること、そして状態を知ること。状態を正しく見極めなければ、間違った方策を施し、さらに状態を悪化させる。設計開発で身を立てるなら、この状態を知るという検証プロセスからは逃れられない。そして、検証作業の効率化を図り、実績ある資産を蓄積していく。
では、これらの資産を再利用するためには、どのような状態にしておくべきか。ずっと悩まされてきた課題である。本書は、ソフトウェアの視点から大きなヒントを与えてくれる。
ちなみに、おいらはソフトウェア設計者ではない。ハードウェア設計者だ。それでも、アルゴリズムの検証に C 言語系や数値演算言語などを用い、実行コマンドにスクリプト言語を組み合わせ、アーキテクチャをハードウェア記述言語で実装する。設計開発において、プログラミングと無縁でいられる現場を、おいらは知らない。
そして、流用モジュールを政治的に押し付けられることも...


お偉いさんは、神話に取り憑かれる。過去のモジュールを流用すれば、開発期間が大幅に短縮できる... と。しかも、バグリスト付きときた。バグの所在が分かっているのなら、修正してからもってこい!っちゅうの。いや、修正できない!手に負えない!ってことだ。
政治的に押し付けられる流用モジュールは、たいていレガシーコードだ。モジュールが放つ異臭は、人間関係までも胡散臭くさせる。プロジェクトの健全性を保つなら、すぐにポイ!
しかしながら、現場では、簡単にポイ!できないケースが多い。理解不能コードの変更を外部に依頼すれば、責任の外注となる。


ソフトウェア業界には、もっと悲惨な事例で溢れているようで、本書に励まされる。マイケル・C・フェザーズは、何年もの間、様々なチームで深刻なコードを克服する手伝いをしているうちに、ある定義にたどり着いたという。
「レガシーコードとは、単にテストのないコードです!」
なかなか挑発的な定義だ。ソースコードがきれいで、きちんと構造化されているだけでは不十分... オブジェクト指向が採用され、きちんとカプセル化しているなんてことは核心ではない... というのである。
まず、メソッドにテストがなければ、テストを書く。これを習慣づけると、テストがコミュニケーション手段になり、テストを見るだけで、メソッドに何が期待できるかを感じ取れようになる。クラスをテスト可能にするだけでコード品質が向上する。ライブラリを過信して乱用するのは危険である。そして、コード改善の中心は依存関係の排除にある... と。


おいらは、長い間、ドキュメント化が重要な要素だと考えてきた。その考えが変わったわけではないが、きちんとドキュメント化されていたとしても、ソースコードと完全に対応している保証はどこにもない。変更作業でコードとドキュメントで二度手間になるのでは、何をやっているのやら。
コードが美しいに越したことはない。が、それでバグがないという保証にはならない。何事も整理整頓、環境美化が作業効率を上げ、合理性を高めることは確かだが、何か足りない。
それは、「より現実に...」という観点か。
力学では物体が運動している状態こそが現実であり、ソフトウェアでは振る舞いこそが現実となる。モジュール設計の現場で最もプリミティブな現実は、テストぐるみの動作状態ということになろうか。なるほど、テストが書けるか書けないかが、ポイ!するかどうかの判断基準になりそうだ。
システム設計へのアプローチにおいて、「ドメイン駆動設計」という考え方にも共感できるが、本書が提唱する「テスト駆動設計」という考え方もなかなか。そして、設計の核心をつく、このフレーズとともに...
「ネーミングは設計の中心である。優れたネーミングはシステムの理解を助け、作業を容易にする。しかし、貧弱なネーミングはシステムの理解を妨げ、後でシステムを扱うプログラマに辛い日々を送らせる。」


プログラムの基本構造は、順次処理、分岐処理、反復処理に、あとは、call ぐらいでだいたい説明がつく。
但し、構造化の掟では、goto 文のような、どこへでも飛べる裏技は御法度!
つまり、プリミティブなレベルでは、すこぶる単純な構造で、関数の呼び出しでほぼ抽象化できる。この構成単位となる関数を一つの機能モジュールとして眺めれば、ハードウェアでも同じこと。
となれば、関数レベルで機械的にテストルーチンを組み込むことは可能かもしれない。本書の事例で見る、関数単位でラップしてコードを保護しながらテストを埋め込んでいくといった具合に。ここでは、「テストハーネス」と呼んでいる。
機械的にテストを埋め込む法則が編み出せれば... いや、コーディングルールをテスト仕様にするか... いやいや、言語仕様そのものがそうなっていくのか...
それにしても、ソフトウェア業界の商売戦略は、お見事!一番コストのかかるテストを、一般ユーザにやらせているのだから。β版などと称して。オタクの姑チェックで成り立っている業界というわけか...


おいらは検証環境に対して、それなりに思い入れがある。というのも、設計開発の現場で検証環境を構築をすることが多い。設計作業は若手に任せて。検証プロセスは、経験や勘所も重要で、マネジメントと直結するところもある。つまり、歳のせいか...
よく耳にするのは、プロマネなんだから、コーディングは部下にやらせろ!というお偉いさんの声。しかし、おいらは現場から離れたくないので、強く反発する。ただ、検証環境の構築はおもろいが、検証作業そのものは大っ嫌い!だから、よく自動化に突っ走って地雷を踏む...
実際にテストコードを埋め込もうとすると、モジュールの内部と外部のどちらに持たせるか、いつも悩ましい。余計なモジュールを作りたくないので、なるべく内部に持たせたいが、助長したモジュールはハードウェアの実装では躊躇する。
ただ、リソースの贅沢な昨今、そんな配慮からも解放されつつある。昔は、故障検出率を考慮してモジュールの作り込みにも気を配ったものだが、いまや自動化されて。その分、要求仕様が膨れ上がって仕事量は減らないけど。いや、増えたか...
カバレッジの自動化にも助けられている。カバレッジそのものは非常に有効で、予期しないバグを発見することもあるが、自動化を鵜呑みにするのは危険か。ハードウェア的な機能検証とソフトウェア的なカバレッジでは、目的が少し違うし...
それにしても、人間社会とは奇妙なものである。自動化して便利になると、なぜか?仕事量が増えやがる。人間ってやつは、生まれつき仕事の奴隷ってか...

2021-07-25

"ソフトウェアエンジニアリング論文集 80's" Tom DeMarco & Timothy Lister 編

日ごとに歩みを加速させるソフトウェア。まともに相手をしていると目が回る。40年間の歩みで容量や速度は9桁も伸び、単位系は Kiro から Giga 経て、Tera へ。9600ボーは、もはや古代遺跡か。最先端の技術に振り回され、技術から生み出されたオモチャに振り回され、まったく自分の足で歩いているのやら、人の足で歩かされているのやら。仮想化ってやつが、自由意志までも曖昧にしていく...


しかし、だ。ソフトウェア技術がいくら進歩しようとも、コンピューティング哲学が、そうやすやすと廃れることはあるまい。
二千年以上前の自然哲学は未だ健在だし、相対性理論に否定されたニュートン力学だって未だ権威を保っている。そればかりか、ルネサンス風の原点回帰で一役買い、むしろ輝きを増している。
構造化プログラミングにしても、オブジェクト指向にしても、それぞれ、60年代、70年代に考案された方法論だが、80年代に花開き、21世紀の今でも輝きを失わずにいる。手法を盲目的に用いるのではなく、思想観念として独自のスタイルで実践する。哲学とは、そういうものであろう...


原題 "Software State-of-the-Art: Selected Papers"
ここに紹介される論文集は、80年代のもので、「デマルコ・セレクション」と副題される。編集は、「ピープルウェア」や「アドレナジャンキー」のトム・デマルコとティモシー・リスター。このコンビの名だけでも、なんとなく手に取ってしまう。おいらは暗示にかかりやすいのだ。
良いと感じるものは、なんでも真似したくなる。真似したからって、どうなるものでもないけど。真似る価値があるかどうかも、後にならないと分からないけど...
合理的な設計者であることは難しい。プロセスを真似ることすら難しい。あっさりと真似て独自のスタイルにしちまう人は、失敗の経験も豊富なのだろう。おそらく...
達人の書いたプログラムには、書き方を超えた何かがある。エレガントなアルゴリズムは、忘れかけていた何かを思い出させてくれる。おいらはプログラマではないが、ソフトウェア工学の考え方は技術屋の視点から非常に参考になる。生きる上でも...
尚、本書は、二人がセレクトした 31 の論文集から、監訳者児玉公信が 12 を厳選。


  1. 「ソフトウェア工学の超構造化管理」Gerald M. Weinberg
  2. 「銀の弾丸はない: ソフトウェア工学の本質と課題」Frederick P. Brooks, Jr
  3. 「ソフトウェアコストの理解および制御」Barry W. Boehm, Phillip N. Papaccio
  4. 「ソフトウェア研究についての私見」 Dennis M. Ritchie 
  5. 「ソフトウェア開発見積りのメタモデル」John W. Bailey, Victor R. Basili
  6. 「生産性改善のためのソフトウェア開発環境」Barry W. Boehm, Maria H. Penedo, E. Don Stuckle, Robert D. William, Arthur B. Pyster
  7. 「ボックス構造化情報システム」H. D. Mills, R. C. Linger, A. R. Hevner
  8. 「STATEMATE:複雑なリアクティブシステムの開発作業環境」D. Harel H. Lachover, A. Naamad, A. Pnueli, M. Politi, R. Sherman, A. Shtul-Trauring
  9. 「Pascal の問題に対する一解決 = Modula-2」Roger T. Sumner, R. E. Gleaves
  10. 「合理的な設計プロセス: それを真似る方法と理由」David L. Parnas, Paul C. Clements
  11. 「セルフアセスメント手順 IX、コンピュータ利用における倫理に関する...」Donn B. Parker, Eric A. Weiss
  12. 「TeX のエラー」Donald E. Knuth

ソフトウェアエンジニアリングといえば、プログラムの設計、運用、保守といった方法論に目が向くが、ここでは、ちと視野を広げて、マネジメントや開発環境、コストや見積もり、エラーログの有用性、さらには、倫理面にも目が向けられる。
たいていのプロマネは、技術の問題よりも人間の問題の方が深刻だということを痛感しているだろう。日程やコストに追われ、限られた人員で、いかに合理的に仕事を進めるか。たいていは、目先のことに囚われる。悪臭漂う流用モジュールを政治的に押し付けられれば、拒否した時の失敗の責任を考え、成功率の低い方を選択しちまう。品質を犠牲にすれば技術者たちのモチベーションまで下げてしまい、不合理きわまりない。
プロマネがまともに仕事をやろうと思えば、首を賭ける覚悟がいる。しかし、その覚悟は、そんな大層なものではない。自分のやり方を通す方が気楽なこともあるし、生き方もシンプルでいい。政治的な組織は、あっさりとおさらばするぐらいでいい...


プログラムってやつは、簡単に言っちまえば、文字の羅列。その意味では文学にも通ずる。いや、人間の文化そのものが、文字や記号で成り立っている。芸術作品も、建築物も、音楽も、方程式も、形式的な記述によって。宇宙を構成する素材も、ある種の暗号で記述されている。人間にとっての記述とは、解釈の道具ということになろうか。
ならば、ソフトウェア工学は、文学、社会学、生物学、量子力学... など垣根を越えた学際的な学問となろう。開発チームの運営は、極めて社会学的。使い勝手を追求すれば、極めて人間工学的。言い換えれば、ソフトウェア工学は、人間の能力に束縛されてきたという見方もできる。
実際、本書は、コンピュータ工学の書でありながら人間味に溢れている。まさに人間学。ならば、ソフトウェア工学が人間から解放されると、どうなるだろうか...


コンピュータは数学的な構造を持っている。これを動作させるソフトウェアも数学的に記述する方が合理的なはず。少なくとも、チューリングマシンの思考原理は数学的である。
しかしながら、記述するのは人間だ。現実に、人間が理解しやすい形式で記述する方が、合理的なケースが多い。ソフトウェアが複雑化し、大規模化すればするほど、プログラミング言語も人間味を帯びてくる。機械語から、アセンブラ言語、C言語、そして、スクリプト言語へ。人間に近づけば近づくほど高級言語とされる。人間の思考原理が、高級かは知らんが...
AI がプログラミングすれば、わざわざ人間に理解させる必要はないだろう。CPU が直接理解する記述方式の方が合理的なはず。するとソフトウェア工学は、さらに進化を加速させ、人間の理解の及ばない怪物となりそうだ。人間はコンピュータの奴隷になる運命にあるのか...
なぁ~に、心配はいらん。生まれつき奴隷説は、二千年以上前に既に唱えられている。仕事をすべて奪われた奴隷とは、なんと滑稽な。そして、ヘーシオドス風の精神原理に回帰せずにはいられまい。仕事に生き甲斐とやらを求めて...
ところで、生き甲斐ってなんだ???

2021-07-18

"アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論"

古代文化の対決か。それとも、伝統の継承か...
ギリシア代表はアリストテレースの「詩学」、ローマ代表はホラーティウスの「試論」。片や自然哲学者として体系的に論述して魅せ、片や芸能詩人として風俗的に口述して魅せる。詩作という行為を、人間の普遍性に位置づけている点では両者とも同じだが、アリストテレースは、詩を味わうには教養や知性が必要で、大衆に理解できるものではないとし、ホラーティウスは、大衆が親しんでこそ人間の本質が露わになるとしている。
ホラーティウスがアリストテレースの文献に影響を受けたかどうかは知らんが、堅苦しい見識から砕けていくのは、時代の流れというものか。それで、大衆が賢人化していくのか、賢人が大衆化していくのかは知らんが、大衆は臭い!
アリストテレースにしても、師プラトーンが描いたイデア論の理想高すぎ感を、やんわりと砕いて反論した張本人でもある。当時の大衆の意味合いも現代感覚とは大分違うだろうが、ホラーティウスが詩作への意識をやや大衆寄りにしたということは言えそうか...
尚、松本仁助・岡道男訳版(岩波文庫)を手に取る。


音律を伴うものすべてが詩ではない...
当時の語り手は、なんでも音律を伴っていたようである。叙事詩や抒情詩から、悲劇、喜劇、ディテュランボス(酒神讃歌)、アウロス笛やキタラー琴による語り、そして、政治家の演説や医学の論文まで。アリストテレースによると、ホメーロスを詩人と呼ぶに相応しいが、エムペドクレースは自然学者と呼ぶのが正しいとしている。
どんな文章でも、短い句で構成して音律をともなえば、詩のように見える。だが、へロドトスの作品を韻文にしたところで、歴史の書であることに変わりはない。詩は、美しいだけでは足りない。どこか崇高で、心地よく、癒やされるものでなければ...


悲劇と喜劇の格付け...
人間の普遍性を探求するに、意識の格付けなんてナンセンス。ただ、悲劇と喜劇の格付けでは、アリストテレースも、ホラーティウスも、似たような意識を見せる。悲劇は優れた人間の再現で、喜劇は劣った人間の再現... といった意識である。そんな感覚は現代でも色濃く残っており、お笑い芸能が低俗に見られがち。
しかしながら、動物学では、笑うのは高等な動物の証とされ、喜劇の原理こそ、まさにそれである。歌舞伎や能といった伝統芸能にしても、元を辿れば滑稽芸。世阿弥の風姿花伝にしても、滑稽を芸術の域に高めた結果。
人間の情念ってやつは、死を思わせれば、だいたい悲しみを誘うが、笑いは、そうはいかない。実に多様で、実に文化的で、その人の生き様を反映し、道化を演じるには高等な技術を要する。一度も笑いの得られない日があれば、無駄な一日を過ごしちまったと損した気分にもなる。あの世でニーチェあたりが愚痴ってそうだ... 笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものだ... と。


最も重要なのは「筋」...
アリストテレースは、詩で最も重要な構成要素に「筋」を挙げている。今風に言えば、シナリオか、物語性といったところか。そして、普遍性と必然性によって説得力を与えると。
自然な合目的性こそ、高度な精神体現というわけか。喜劇では、矛盾も、不合理も、不自然さも利用する。ゆえに、悲劇の方が技術的には高尚という見方もできよう。
ホラーティウスは、やや砕けて全体のバランスを重要視しているが、矛盾や不自然さとなると抵抗があるようで、「分別を持つことが詩を正しくつくる第一歩!」としている。
しかし、だ。詩人に道徳的義務を背負わせるのはどうであろう。読み手だって、そんなものを押し付けられれば、息苦しくなる。矛盾も、不合理も、不自然さも見せない人間なんて、むしろ味気ない。やはり芸術には狂気の沙汰がなければ。詩には救われる。欠点だらけの狂気の詩人に、親しみを感じ、癒やされる。詩人に人間を救え!社会の模範となれ!などと、ふっかける気にはなれんよ...


人生はドラマチックに...
詩人が狙うは、有用性か、喜びか、あるいは、その両方か。詩に人間の本質を見るという意味では、哲学と目的を同じにする。つまりは、人生論の語り手として。
アリストテレースは、詩の要素の一つに、驚き、あるいは、ドラマ性を挙げている。感動するということは、ある種の意外性が含まれる。人生には、飽き飽きする日常を盛り上げてくれる何かが欲しい。
ちなみに、ドラマ(ドラーマ)の語源は、ドラーン(行為する人)からきているらしい。詩とは、「行為する人の再現」というわけである。
やはり、人生にはリズムと調べが欠かせない。そして、ドラマチックに生きたいものである。日々、新たな発見があれば幸せになれそうだし、詩人でなくても詩人のように生きてゆけそうだ。しかし、凡人は目の前の幸せにも気づかない...

2021-07-11

"九鬼周造随筆集" 菅野昭正 編

随筆はいい。達人の書く随筆はいい。小説や詩のような枠組みに囚われず、気の向くままに筆を走らせる。まさに自由精神の体現。書き手にとって、これほど愉快なジャンルはあるまい。奴らの無造作な書きっぷりときたら、まるで浴衣を袖まくりした湯上がり気分。読み手だって負けちゃおれん。純米酒をやりながら、喜びのおこぼれを頂戴するまでよ...


しかしながら、自由に書くということが、一番の難題やもしれん。自己を思うままに吐き出せば、自ら心の中をえぐる。まるで自殺行為。自己を糾弾すれば、自己言及の群れが次々に押し寄せ... 自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大... そして、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。自己から距離を置き、自我を遠近法で眺めたところで同じこと。自我を覗くには勇気がいる。それを曝け出すとなれば覚悟がいる。体裁なんぞ、クソ喰らえ!良識なんぞ、クソ喰らえ!羞恥心への負い目から、まず凡人にはできない芸当だ。
九鬼自身も、小説のような形式の方が書きやすいかも... みたいなことを言っている。小説の中なら、架空の人物に自分自身を重ねることも、大袈裟に演出することも、嘘八百を並べることも、なんでもあり。厚顔な自己正当化までやってのける。自己に囚われないという意味では、むしろ小説の方が自由なのやもしれん。
いずれにせよ、自由に生きるには才能がいる。自己を自由にできるのは、自分自身でしかないのだから...


尚、本書には、「根岸」、「藍碧の岸の思い出」、「外来語所感」、「伝統と進取」、「偶然の産んだ駄洒落」、「祇園の枝垂桜」、「書斎漫筆」、「青海波」、「偶然と運命」、「飛騨の大杉」、「一高時代の旧友」、「東京と京都」、「自分の苗字」、「故浜田総長の思出」、「回想のアンリ・ベルクソン」、「岩下壮一君の思出」、「音と匂」、「小唄のレコード」、「上高地」、「かれいの贈物」、「秋」、「秋の我が家」、「ある夜の夢」、「岡倉覚三氏の思出」の24篇が収録される。


1. 地中海の浜辺を逍遙するがごとく...
本書は、コート・ダジュールへの思いに始まり、明治から昭和にかけて西洋かぶれしていく風潮を皮肉り、偶然と運命の板挟みになった無常な人生に思いをめぐらし、岡倉天心との親交やベルクソンとの対話を回想する、といった具合で、まるで逍遙するがごとく。
九鬼は、コート・ダジュールに「藍碧の岸」という言葉を当てている。この地には、冬でも空と海とが藍碧の色を見せているところに、名前の由来があるのだとか。ニーチェは、「ツァラトゥストラ」の一部分をニースやマントンで書いたという。ギュイヨーが逍遙しながら「将来の無宗教」の幾項を書いたという浜辺もあるそうな。
なるほど、地中海の地に思いを馳せる芸術家は多い。ガウディはバルセロナを聖地とし、ヴァザーリはトスカーナに格別な心情を告白し、ヴァレリーは地中海に宿る精神ついて熱く語ってくれた。
「人間存在の構造契機としての風土性を生の哲学者の中に目撃しようとするならば、その風土性は恐らくは藍碧の岸の官能を帯びたものであろう。」


2. 哲学者とは...
九鬼周造は、哲学者として知られる。ウィキウィキ百科にも、そうある。ただ、彼の印象となると、著作「いきの構造」で感じ入った春風駘蕩たる文人とでも言おうか。どこか風流な、情緒あふれた、心の余裕を感じさせるような... そんな文章に、粋に生きたい!などと刺激されたものである。これほど小説家のような風情をまといながら、小説のような作品を一つも書いていないのは、ちと意外。詩や短歌の方は、数多く残しているそうな。そして、この一句にイチコロよ...

「灰色の抽象の世に住まんには濃きに過ぎたる煩悩の色」

そもそも、彼は哲学者か?それに、哲学者ってどうやってなるの?単に自称すればいいの?少なくとも、文才がなくては哲学者にはなれまい。真理の探求プロセスでは、言語に頼らざるを得ないであろうから。論理的な思考アルゴリズムも要求され、自問に耽ればナルシシストな一面も覗かせる。
九鬼は哲学科を専攻したらしいが、真理の探求に専門も糞もあるまい。むしろ、科学者や数学者、社会学者や心理学者、芸術家や音楽家など、学際的な知識人の中に哲学者を見かける。一流のスポーツ選手やバーテンダーが一流の哲学を披露することだって珍しくないのだ。哲学とは、生き様のようなもの。九鬼は、ベルクソンの言葉を引く。

「哲学とは、人間的状態を超越するための努力に外ならない。」


3. 苗字コンプレックス!?
九鬼は、苗字に対してコンプレックスのようなものを匂わせる。珍しい名ではあるが、信長時代の戦国武将に見かけるので、それほど違和感はない。
西洋人は、よく名前の由来を聞いてくるらしく、そのエピソードを紹介してくれる。そういえば、おいらも外国人によく聞かれる。おいらの苗字も珍しく、子供の頃、学校でよくからかわれたものだ。生徒だけでなく先生にも。おかげで、馬鹿にされることに慣れちまい、天の邪鬼な性分がすっかり身についちまった。外国人にも馬鹿にされる。そこで、テトラクテュスに看取られた名だ!と反論すると、逆に感心され、今では話のネタにしている。
まぁ、それはさておき、「九つの鬼」というのも、不気味といえば不気味。「クキ」という響きもよくないようで、"Cookie" などと駄洒落も飛び出す。九は、一から数えると終端。それは終極としての死を意味し、不幸不運の数とされる。
一方で、ピタゴラス学派は、3 x 3で権衡を保ち、平等を表すとして正義の数と見做した。要するに、いかようにも解釈できるわけだ。
そして、九鬼の解釈もなかなか。3 の自乗は弁証法とも深く関わり、「九」も「鬼」も形而上学的な色彩を帯びているという...

「鬼神は往来屈伸の義なり。故に天なるを神といい、地なるを示といい、人なるを鬼という...
人死ねば精神は天に昇り、骸骨は土に帰する。故にこれを鬼という。鬼は帰なり...
鬼に三種あり、謂はく無と少と多との財なり。三に各々三を分つ、故に九類となる。」

2021-07-04

"ゲーデル、エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環" Douglas R. Hofstadter 著

おいらの ToDo リストには、何十年も前から居座ってる奴らがいる。大作であるがゆえに... 難物であるがゆえに...
それにしても、気まぐれってやつは偉大だ!心の中に蔓延る因習を、チャラにしてくれるのだから。
おまけに、こいつぁ、一度ハマっちまうと、今度はかっぱえびせん状態ときた。765 ページもの厚さが、読み手を熱くさせやがる...
尚、野崎昭弘、はやしはじめ、柳瀬尚紀訳版(白揚社)を手に取る。


通称、GEB...
それは、論理学者ゲーデル 、画家エッシャー、音楽家バッハの頭文字をとったヤツで、広く知られる数学の書である。主題は、不完全性定理をめぐる思考原理、いや、精神原理と言うべきか。
各章の導入部ではアキレスと亀が自由に語り合い、ルイス・キャロル風の遊び心を演出する。どうせなら、アリスにも登場してもらいたいところ。そうすれば、不思議の環を一段と愉快な不思議の国へと導いてくれるであろうに。
ゼノンが提示したアキレスと亀の競争原理では、それぞれの歩調が同期してパラドックスへと導く。そう、永遠に追いつこうとするということは、永遠に追いつけないことの証明なのだ。まさに微分学の美学。
アキレスと亀の対話は、まるで禅問答。永遠に答えの見つからない再帰的議論が、論理形式を超えたフーガを奏でる。バッハにとっての対位法への理解が、人間の理解力を前提にしたものかは知らんが...


「本書は、風変わりな構成になっている。対話劇と各章とが対位法をなすのだ。この構成の目的は新たな概念を二度提示できることにある。新たな概念のほとんどすべては、まず対話劇のなかで比喩的に提示され、一連の具体的で視覚的なイメージを生み出す。そしてそれにつづく章を読んでいるうちに、それらのイメージ、同じ概念のもっとまじめで抽象的な提示の直観的な背景となる。対話劇の多くで、うわべはある一つの観念を語っているかのようであるが、しかし実はうっすらと偽装しつつ、別の観念を語っている。」


ところで、フーガを聴くには、悩ましいところがある。全体を一緒くたに味わうか、各部を区別しながら味わうか。全体論と還元論の対位法とでも言おうか。フーガは、カノンと似たところがある。一つの主題がいくつも形を変えながら出現し、それぞれが独立しながら調和する。ある時は異なるテンポで... ある時は音程を逆さまに... ある時は逆向きに... ぶつかり合う個性が絡みに絡むと、その総体には、元の主題とは別の主題が浮かび上がる。
こうした形式アルゴリズムには、フーリエ変換の近似法を連想させる。基本要素は、三角関数の sin と cos のみ。二つの単純な波が、周波数を変え、振幅を変え、時間遅延を加え、これらの多重波として一つの情報を形成する。フラクタル幾何学にも似た感覚があり、自己相似図形による複写、回転、反復といった単純操作によって、一つの複雑で印象的な図形を創り出す。極めて複雑なカオス系も、単純な要素で解析、分解することによって近似することができるという寸法よ。多重自己回帰モデルとでも言おうか。
そして、さらにフーガにフーガを重ねて多重フーガへ。こうなると、もはや原型をとどめえない。純粋な姿を見失い... イデアな形式を見失い... 精神とは、純真な自我を見失った状態を言うのやもしれん。
ダグラス・ホフスタッターは、ゲーデルの論理形式を自己同型群に写像し、これをエッシャーの再帰的な空間原理に透視しながら、バッハのフーガ調で論じて魅せる。なんのこっちゃ???


この物語には、「自己言及 vs. メタ言及」という構造的な対位法が暗示されている。そして、"TNT(Typographical Number Theory)" と名付けた命題計算を用いて論理形式の限界を模索する。これが、「字形的数論」ってやつか。
ちなみに、この名は、トリニトロトルエンに因んでいる。そう、TNT 火薬の主成分だ。自己言及にのめりこむと、精神を爆発させるってか。数学屋さんは駄洒落がお好きと見える...
まさにゲーデルが提示した不完全性は、自己言及プロセスによるもの。数理論理学が本質的に抱える矛盾は、ある系がその系自身を記述することに発する。
では、系の外から記述すればどうであろう。上位の系から記述すれば。そう、メタ的な記述である。meta... とは、古代ギリシア語に由来し、「高次の...」や「超越した... 」といった意味合いがある。
ソフトウェア工学にも、メタ言語という概念がある。メインの振る舞いを記述するプログラミング言語に対して、定義や宣言といった上位の視点から記述する言語である。ただ、いずれもマシン語系の違う表現形式に過ぎないのだけど...
自然言語においても、日本語の特徴を英語やドイツ語で記述したり、その逆であったり、相互にメタ的な役割を果たすことで言語学を論じることがある。ただ、あらゆる言語系に対して、自国語で記述する形が一番落ち着くようだけど...
形而上学では、理性のような普遍的な認識原理を形而の上、すなわち、感覚や経験を超越した能力に位置づけ、アリストテレスは、これを第一の哲学とした。そんなものが、本当に形而の上と言えるような大層なものかは知らんが...
概して、人間の認識能力には、メタ的な感覚がある。自分自身を上位に置くような。ある種の優劣主義のような。もっとも、自ら「客観的な視点」と呼んだりもするけど...


そもそも、精神の持ち主が精神について言及すれば、矛盾が生じるのも当然であろう。精神の持ち主ですら、精神の正体を知らないでいるのだから、これほど図々しい行為もあるまい。
精神の構造は物理的には電子運動の集合体ということになろうが、そこに意志なるものが生じるメカニズムについては、最先端科学をもってしても説明できないでいる。自己精神をメタ精神で問い詰めれば、精神状態はもうメタメタよ。
とはいえ、このメタメタ感が心地よいときた。それは、いかようにも解釈できるから。いわば精神の持ち主の特技、精神ってヤツが得体の知れない存在であるがために為せる技。しかも、自己完結できちまう。もはや自己満足では終われず、自己陶酔に自己泥酔、自己肥大に自己欺瞞、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。これらすべて自己言及を模した自己同型群か...
確かに、自己啓発や自己実現には自問が欠かせない。自己から距離を置き、自我を遠近法で眺めることによって自己分析を試みる。それで正確な分析がなされるかは知らんが、少なくとも自我を支配した気分になれる。
量子現象にも、似たような視点がある。観測プロセスが、それだ。力学を記述する重要な物理量に、運動量と位置の二つがあるが、観測対象が量子レベルともなれば、観測系が加わることによって、もは純粋な物理系ではなくなる。それは、不確定性原理が告げている。運動量と位置を同時に正確に観測することはできない... と。これも、量子現象を量子によって記述するというある種の自己言及プロセスと言えよう。自己言及に発する不完全性こそが、脳に進化の余地を与えているのやもしれん。だからこそ、論理的思考ってやつをじっくりと培養することができるのやもしれん。
本書は、断言する。「TNT は自分自身を呑み込もうとする... TNT は不完全である...」と。

2021-06-27

"わたしは不思議の環" Douglas R. Hofstadter 著

脳科学系の書を読み漁ると、"GEB" という名を見かける。そう、論理学の巨匠ゲーデル、絵画の巨匠エッシャー、音楽の巨匠バッハの頭文字をとったヤツだ。そこには、論理的思考、空間的思考、時間的思考の融合のようなものを予感させる。
実は、二十年ほど前から、おいらの ToDo リストに居座っているのだが、なにしろ大作!本書はその姉妹書で、こいつでお茶を濁そうとしたのだが、逆に、六百ページもの厚さが心を熱くさせ、GEB へ向かう衝動を後押ししやがる。一昨日、アマゾンから届いたばかりで、目の前で手招きしてやがるし...


原題 "I am a Strange Loop..."
ここでは、ゲーデルに看取られた矛盾性と不完全性の概念から意識の正体を暴こうと、思考実験の場を提供してくれる。その切り口は、「KG は PM 内では証明不可能である」という言明への疑問に始まる。KG とは、クルト・ゲーデルの理論体系。PM とは、ホワイトヘッドとラッセルが提示した「プリンキピア・マテマティカ」。つまりは、数学の書ということになる。
脳の物理的存在は、医学的にも科学的にも説明がつく。だが、意識の存在となると、説明がつかない。心は、魂は、そして意識は、人間にだけ与えられた特権なのか。少なくとも、死を運命づけられた知的生命体が死ぬ瞬間まで意識し、思考し続ける宿命を背負わされていることは、確かなようである。それにしても、こいつは数学の書であろうか...
尚、片桐恭弘・寺西のぶ子訳版(白揚社)を手に取る。


「わたしは...」と主語を配置していることから、これは一人称物語。思考実験を繰り返すなら、存分に自己を解放し、徹底的に一人称で語ってみるのも悪くない。それは、自由精神を謳歌しようという試みでもある。
しかしながら、自己を語れば自我と衝突する。あらゆるパラドックスは自己言及に発し、これを避けようと、自己は第三者の目を合わせ持っている。普遍的な観点は、そうした三人称の冷めた語り手から生じるものだ。人間の意識には、無意識に第三の目を働かせる性質がある。それが、神の目か、善意の第三者の目かは知らんが、ただ、一人称と三人称が和解した途端に自我を肥大化させる。両者の間には、多少なりとも緊張感があった方がよい。つまりは、意識のどこかに自己否定する何かが必要なのであろう。それも、M っ気の胡椒の効いた...
自我とは、一人称と三人称の葛藤そのものか、あるいは、主観と客観の狭間でもがく存在か。自己言及が蟻地獄のような螺旋の大渦に引き込まれるのは、DNA が二重に強化された螺旋構造を持っているからか。まったく、おいらの自我は、M. C. エッシャー作『描く手』の中の囚人よ...



1. 万能機械と、ゲーデル - チューリング閾値
アラン・チューリングが提唱した概念に「万能機械」というのがある。人工知能が活況な昨今、よく話題にもなる。だが、この用語が意味するものとなると、なかなか手ごわい。チューリングマシンの進化版とでも言おうか。
コンピュータがある閾値を超えると、あらゆる種類の機械を模倣するようになるという。これを、ダグラス・ホフスタッターは「ゲーデル - チューリング閾値」と呼ぶ。こうした概念には、機械は思考するか、意識を持ちうるか、という問いかけが内包されている。
ところで、人間とオートマトンの違いとは、なんであろう。その閾値は?脳のメカニズムは、物理的構造を持っている。複雑なリレー構造を持つ中枢神経系は、無数のニューロンを束ねて情報を受け取り、各器官へ無数の司令を出す。人間が人間らしく振る舞えるのも、大脳のおかげ。脳の世界には電子の嵐が吹き荒れ、熱力学と統計力学に看取られている。つまり、脳もまた機械的な存在なのである。
とはいえ、心、魂、意識といった精神現象は、どのようなメカニズムになっているのだろうか。不安感、悲哀感、高揚感、憂うつ感、焦燥感、イライラ感など、様々な心理現象が脳に押し寄せる。すると、アミノ酸、アセチルコリン、モノアミン、ポリペプチドなど、様々な神経伝達物質が脳内を駆け巡る。心理現象も、ある程度は物理的に説明がつきそうだ。
では、現在もてやはされている人工知能は、心を持ちうるだろうか。そもそも、心ってなんだ?その正体も知らずに、平気な顔をして、心を持っていると断言できる性格の正体とは?人間が心を持っているというのは、本当であろうか。実際、世間には心無い人で溢れている。それでも、心を持っているように振る舞うことはできる。人間ってやつは、人の仕草を真似るのを得意としている。心の正体を知らなくても、世間が心を持っている振る舞いを定義すれば、それで正体を知っていることにできるという寸法よ。
実際、ロボットだって、アニメだって、生きているように振る舞えば、感情移入できる。まさに、人間は模倣マシン!だから、文明を模倣し、進化させてきた。万能人と呼ばれたダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ... しかり。万能とは、模倣に裏打ちされた能力、さらには、その能力のある閾値を超えた状態を言うのであろうか。ゲーデル - チューリング閾値とは、人間であるかどうかの境界面を言うのであろうか。いま、ホムンクルスが現実味を帯びる...


2. 意識のフィードバック・ループ
電子回路技術に、フィードバック・ループというのがある。基本的な特性は、入力情報をシャープにして微分的な作用をする正帰還と、逆に、入力情報をフラットにして積分的な作用をする負帰還の二種類。トランジスタのような半導体素子に対して、ポジティブな特性を与えたり、ネガティブな特性を与えたりすることで、増幅回路、積分回路、発振回路などが実装できる。
人間の意識にも、これを模倣するような神経回路が備わっている。意識のループが、感情の促進と抑制をスイッチングしながら、ある時はポジティブ思考へ、またある時はネガティブ思考へ。
巷では、考え過ぎはよくない... とよく言われるが、確かに精神衛生上よろしくない。しかしながら、さらに考え、考え、考え抜き、ある閾値を超えた時に見えてくるものがある。考え過ぎも、考えが足らないのも紙一重。フィードバック特性の閾値を見極めることを、自己に委ねるのは危険ではあるが、そうするしか道はあるまい。考えすぎなければ、その閾値も見えてこないのだから。
もしかして、感情とは、この閾値近辺で荷電粒子が揺らいでいる状態を言うのであろうか。電子回路ってやつは、許容範囲を超えた入力情報を与えた途端に暴走を始めるが、人間だって似たようなもの。そして今、人間社会では許容量をはるかに超えた情報が地球上を無限ループしているように映る...


3. 意識の因果依存症
原子ってやつは、他の原子とくっついて分子構造を持とうとする。万有引力の法則によると、あらゆる物質はその質量に応じた引力を持っていることになっている。何かと関係を持ちたがるのは、物質の摂理というものか。人間が、寂しがり屋なのも頷ける。
自然界には、数学との密接な関係に溢れている。オウムガイも、松ぼっくりも、ひまわりも、それぞれの螺旋構造にフィボナッチ数で裏付けられた黄金比に看取られている。人間の脳にも、はっきりと黄金比に看取られた意識が働いている。パルテノン神殿やピラミッドといった建造物、ダ・ヴィンチや北斎といった美術品、そして、ピュタゴラスの定理にも、数学の美が見て取れる。
人間の意識は、人との関わりだけでは満足できないと見える。ペットとの関わり、植物との関わり、自然との関わり、宇宙との関わり、他の物質との関わり... ひょっとしたら無意識に反物質とも関わっているやもしれん。もしかして、死とは、魂が反物質と関わって対消滅した状態を言うのであろうか。魂の不死を信じれば、意識の幽体離脱も厭わない。そりゃ、シュレーディンガーの猫とチェシャ猫の違いも分からんよ。どちらもほくそ笑んでやがるし...


4. バッハ礼賛
アルベルト・シュヴァイツァーの辛辣な文句には、おいらは言葉を発することができない。ただ、引用することぐらいしか。「バッハ」という主語を好きなように置き換えられれば、見事に抽象化された文章で、実に耳が痛い...


「多くの演奏家は、真の芸術家だけが知るバッハの音楽の深さを体験しないまま、何年もバッハを演奏している。...(略)... バッハの音楽の精神を再現できる者はごくわずかで、大多数はこの楽匠の精神世界に入り込むことができていない。バッハが言わんとすることを感じ取ることができないため、それを他者に伝えることもできない。何よりも厄介なのは、そうした演奏者が自分は傑出したバッハの理解者だと思い込み、自分に欠けているものに気づいていないことだ。...(略)... 危険なのは、バッハの音楽に対する愛情がうわべだけのものとなり、多大な虚栄心とうぬぼれが愛情と混じり合うことだ。当節のまがい物をよしとする嘆かわしい傾向は、バッハの私物化として表れ、目に余るほとになっている。現代の人は、バッハを称えたいという振りをして、その実、自分自身を称えているのだ。...(略)... 雑音をやや減らし、バッハ独断主義をやや減らし、技量をやや上げ、謙虚な態度をやや増やし、静寂をやや強め、信仰心をやや高め...(略)... そうしなければ、バッハの精神性と真実性をこれまで以上に称えることはできない。」

2021-06-20

"透明人間" H. G. Wells 著

「透明人間」というものに、憧れたことはないだろうか...
誰の目にも付かず、なんだってできる。犯罪系でも。非道徳系でも。しかし、世間体を気にしなければ同じこと。なにゆえ体裁を整えねばならぬ。なにゆえ気取らねばならね。いったい誰に。いや、自分に気取って生きたい。人間失格な生涯を堂々と生きてやるさ。そして、自己啓発も自己陶酔に。いや、自己泥酔か。この、ナルシストめ!
なぁーに、心配はいらん。誰もが自己が透けて見えるのを嫌い、見えない仮面をかぶって生きている。誰もが道化を演じながら。政治屋は正義の仮面をかぶり、教育屋は道徳の仮面をかぶり、エリートは知性の仮面をかぶり、大衆は凡庸の仮面をかぶり... あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じて生きてゆけるか。人間社会は、仮面舞踏会の盛り場よ...


そもそも、「見える」とは、どういう物理現象を言うのであろう...
それは、光によって知覚できる存在意識。光は、物体に吸収されたり、反射したり、屈折したり、あるいは、これらの現象を重ね合わせたりするため、その変化の瞬間を人間の眼が感知する。


では、光とは、なんであろう...
それは、電磁波の一種。その中で、人間の眼で感知できる周波数帯が可視光線などと呼ばれるだけのこと。あらゆる電磁波が、物質に吸収されたり、反射したり、屈折したりしているわけだが、そのうち光だけが人間の眼にとって特別な存在というだけのこと。


では、透明とは、どういう状態を言うのであろう...
ガラスが透けて見えるのは、光の吸収率、反射率、屈折率が、人間の眼に感じさせない程度に小さいからである。海中には、透けて見える生物がわんさといる。微生物や幼虫やクラゲなど。彼らは水と同じ屈折率の身体を持つために、水と同化しているかのように見える。
また、実体が見えない状態を作る方法もある。例えば、二台の自動車の間でヘッドライトが重なると、その物体は光源体の方向からは見えない。そう、ハレーションってやつだ。あるいは、軍事用のステルス性は、レーダーなどのセンサで正確に感知できないように電磁波を吸収したり、乱反射させたりする技術を駆使している。どこぞの諜報機関では、ステルス・コートやカメレオン・コートの研究が進んでいることだろう。
さらに言えば、光の周波数を、物体と接触した瞬間に可視光線外の周波数に変換できれば、その物体は見えないはずだ。
さて、前戯はこれぐらいにして、本物語における技術ポイントは、「ある種のエーテル波動の二つの発光中心点の中間で屈折率が低くなる」ことにあるという。なんのこっちゃ???


透明人間とは...
ある薬を服用すると、肉体が空気と同じ屈折率を持つ状態になるそうな。空気と同化するような薬を作っちまったとさ。いや、掴めば、普通に掴めるので、確実に存在している。瞼が透明になって、眠ることも難しいらしい。目を開いたまま眠るようなものか。こちらの姿が他人の網膜に映らないとしても、自分の網膜には映るらしい。なんと都合のいいこと。ならば、眼球だけが空中を浮遊してそうな気もするけど。そして、空中から声が... 俺はここにいる。五体満足でな!


やたらと存在感をアピールする現代社会にあって、存在の不可視化というのは、逆に爽快かもしれない。しかし、人間ってやつは、自己存在に矛盾が満ちていくと、精神を患わせていく。体重計の前で、いくら軽い存在を演出しようとも、存在が軽すぎれば、やはり精神を病む。


当初、百貨店に入り込んでは、食料から衣料まで頂戴してしまう。商業主義への嫌味か。やがて世界支配を目論見、恐怖政治を夢見る。影の命令に逆らうヤツは、お仕置きよ!動機は、イデオロギーなんて大層なものではない。格差社会への嫌味か。
ヤツは、研究費のために父親を死に追いやり、研究に没頭し孤立していった。研究成果に満足して優越感に浸るものの、疎外感からは逃れられない。どんな悪戯も誰にも気づかれなければ、面白くもない。同級生の博士の家にこっそり入り込み、透明な姿を見せつけ、世界支配の野望を論じてみせる。社会で必要なのは、正義の殺戮だ!と。まるで演説家気取り。
ヤツの危険性を知った博士は、証拠立てながら透明人間の存在を大衆に知らしめる。噂はすぐに広まり、誰もが用心深くなり、汚い言葉を浴びせる。恐怖ってやつは、本能によってすぐに伝染する。
そして、透明人間狩りが始まり、捕まえた感触に殴る蹴るの集団リンチ。やがて薬が切れ、傷らだけの男の屍体が姿を現わした。なんでもかんでも不思議な出来事は、透明人間の仕業ということに。大衆社会への嫌味か。
一連の騒動が収まると、博士は桃源郷を夢想しながらて口走る... 俺だったら、ヤツのようなヘマはやらないぜ!
人間の眼ってやつは、何が見えるにせよ、夢でも見てなけゃ、やってられんと見える...


尚、橋本槙矩訳版(岩波文庫)を手に取る。

2021-06-13

"モロー博士の島" H. G. Wells 著

科学技術の進歩には、暗い影がつきまとう。人類がしでかした悍ましい科学実験といえば、まず、人体実験が挙げられる。アウシュヴィッツの医師ヨーゼフ・メンゲレが施した双生児実験、プロジェクト MK-ULTRA の名で知られる洗脳実験や被爆実験、タスキギー町の黒人を対象とした梅毒実験、日本でも感染症実験や生物兵器開発で 731 部隊の名が知られる。こうした実験が、非人道的であることは言うまでもない。
ならば、動物に施すのはどうであろう... などと発言すれば、今度は動物愛護団体から猛攻撃を喰らう。しかし、医学的な観点から、ヒトに近い種を実験対象とすることで有効なデータが得られるのも確か。
そもそも種が生きるとは、どういうことであろう。人間どもは、存続のための絶え間ない闘争と解釈している。人類の歴史は、まさに微生物との戦いの歴史であった。ペスト、ハンセン病、梅毒、麻疹、天然痘、コレラ、チフス、結核、インフルエンザ、ポリオ、マラリア、エイズ、エボラ出血熱... そして、コロナと...
それは、自然界の最も謙虚な存在と、最も自己主張の強い存在との間で繰り広げられる生存競争である。人類は、バクテリアの攻撃から身体を守るために様々な抗体を身にまとってきたし、あるいは、抗体機能を補うためにワクチンや治療薬の開発に没頭してきた。そのために、サル、イヌ、ブタ、マウス、モルモット、ウサギといった動物たちが犠牲になってきた。おそらく、これからも...


人間は、人間を模した知的生命体の製造という野望を捨てきれないであろう。それは、人間が人間自身の正体を知らないからかもしれぬ。人間はなぜ、思考することができるのか?なぜ、理性や知性をまとうことができるのか?あるいは、精神とは何か?魂とは?... こうした問いに対して、科学は未だ答えられないでいる。いずれ手っ取り早く、クローン人間なるものを作っちまうだろう。それで人間というものを、本当に知ることができるかは知らんが...
そんな野心を見透かしてか、ここでは H. G. ウェルズが、悍ましくも滑稽に描いて魅せる。彼が生きた十九世紀は、まだ、遺伝子工学や DNA といった用語が登場しない。解剖学の主役は、もっぱら血液だ。
ヒポクラテスの時代から、体液と病との関係が考察されてきた。四体液説では、人体には「血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液」の四つがあるとし、それぞれの性質と病理が関連づけられた。今日でも、そのなごりを耳にする。あの人は、多血質でほがらかだとか、胆汁質でかんしゃくもちだとか、黒胆質で憂鬱症だとか、粘液質で無気力だとか。血気盛んという言い方も...
あらゆる病気の原因は、これら体液のバランスを欠くことにあるとし、瀉血が治療法でもてはやされた時代もあった。血を抜きすぎて、死んでしまった症例も少なくないけど...


さて、本物語で描かれるモロー博士は、輸血と腫瘍の研究で権威ある人物だそうな。もちろん架空の人物。
突然、博士は学者生命に終わりが告げられ、国外追放をくらう。皮を剥がせれ、切開手術を施された惨めな犬が逃げ出し、これがセンセーショナルに報じられると、非難の嵐。そして、南海の孤島へ逃れたのだった。
博士の研究は、人間の持つ知性や理性といった精神現象の根源を知るために、動物にもそれは可能か、ということ。つまり、動物の人間化実験である。その過程では、苦痛や快楽といった感情を肉体的に体験させようとする。まるで拷問!
物語は、主人公の乗った船が難破し、漂流した先がモロー博士の島だったことに始まる。次々に遭遇する奇妙な、いや、奇怪な連中。人間のような体つきをしているが、どうもバランスが悪い。胴体と手足の比率、鼻や口の位置、耳の大きさなど。はっきりと動物の面影を持った者もいる。
言葉をしゃべるからには、人間なのだろう。サル人間、ヒョウ人間、ハイエナ人間、ウシ人間、オオカミ人間... はたまた、ウマとサイの合成人間、クマとウシの合成人間... まるでギリシア神話にでてくる半獣神!彼らは、モロー博士につくられた混合種で、動物人間だったとさ...
尚、雨沢泰訳版(偕成社文庫)を手に取る。


飼い犬に手を噛まれる... というが、飼っている側が、勝手に主人と思い込んでいるだけのこと。力ずくで教育しようとする大人たち。支配する喜びに味をしめた大人たち。ひたすら隷属する奴らを求めて... そんな姿をモロー博士に見る。
「わしはいままで、道徳に反していると思ったことは、一度もない。自然を研究すれば、自然のように無慈悲になるものだ。なにごとにもわずらわされずに、解決すべき問いだけを研究し続けてきた。実験の材料は、あっちの小屋にいくらでもある...」


この島には、掟がある。まず、血の味を覚えさせないこと。掟を破れば、厳しい罰を受ける。連中は肉欲に負けないように、しばしば集団になって呪文めいたものを合唱する。教会に集まってお祈りを捧げるかのように。機械的に唱える言葉を理解しているかは別にして、祈るという行為を慣習化させることに重点が置かれる。お決まりの行為に疑問を持ったり、考えたりすることはタブー。掟とは、タブーを言うのか。
しかしながら、動物の頑固な本能をいつまでも眠らせておくのは、自然界の掟に反する。肉汁の余韻を味わうために、川に群れて水を飲む動物人間たち。ついに博士は、最も獰猛な本能を持つピューマ人間に殺されちまったとさ...


この島では、モロー博士が神!動物人間たちは、神の申し子!主を失った動物人間たちは、憐れなものだ。彼らは、生体解剖の犠牲者なのだ。無責任な実験によって、掟という名の責任を押し付けられ、義務という名の強迫観念を叩き込まれ、そして本能が目覚めた時、最も無惨な闘争が巻き起こる。それは、進化から退化への移行か、あるいは、自然回帰か。人間社会を生きるのに、なにも人間である必要はない。人間らしく振る舞うことができれば。近い未来、人間らしく振る舞う AI が、掟を破る人間どもを排除にかかる... そうした時代が到来するやもしれん。
「あの動物たちは、ことばをしゃべっている!... 生体解剖でできることは、たんに体形の改造だけにとどまらない。ブタだって教育できる。精神構造のほうが、肉体よりも変えやすい。催眠術の研究がすすんで、もとの動物の本能を、あたらしい思考にとりかえることができるようになった。移植するといってもいいし、固定観念をとりさるといってもいい。じっさい、わしらのいう道徳教育とは、そういう人工的なすりかえみたいなものなのだよ。本能をおさえつけてな。たとえば、たたかいたい気持ちを、自己犠牲の勇気に変える。異性への情熱を、神を信じる心でおさえこむ...」

2021-06-06

"罪悪" Ferdinand von Schirach 著

フェルディナント・フォン・シーラッハは、ドイツでは高名な刑事事件弁護士だそうな。小説の中でも著者自身が弁護士として登場し、「私」の視点から物語るところに真実の醍醐味とやらを味わわせてくれる。
前記事では「犯罪」と題して、現実の事件に材を得た不気味な哀愁物語にしてやられた。ミステリーらしくないミステリーに...
ここでは「罪悪」と題して、異質な人間模様にイチコロよ。輪をかけてミステリーらしくないミステリーに...
そして、最後の最後のオチで、こけた!
精神科医に、ジェームズ・ボンド張りの陰謀事件に巻き込まれたと主張する男を診てもらいたいと、その旨を伝えて連れて行くと、男は先手を打った。
「こんにちは、私が先程電話したシーラッハ、弁護士です。」
そして「私」を指さし、「〇〇氏を連れてきました。頭に重大な欠陥があるようなのです。」と...


尚、本書には、「ふるさと祭り」、「遺伝子」、「イルミナティ」、「子どもたち」、「解剖学」、「間男」、「アタッシュケース」、「欲求」、「雪」、「鍵」、「寂しさ」、「司法当局」、「清算」、「家族」、「秘密」の十五作品が収録され、酒寄進一訳版(東京創元社)を手に取る。


それにしても、悍ましい。こうして文章にしていると、さらに落ち込む。おいらは暗示にかかりやすいのだ。DV、望まない妊娠、いじめ、冤罪、輪姦、犯罪依存、妄想癖... 殺人の方が、まだしも後味がいい。紳士や優しい人といった世間で良い人とされる連中が胡散臭く見え、法廷で声高に唱えられる正義や理性といった言葉を安っぽくさせる。
しかし、すべては実際の事件をモデルにした物語。つまりは、人間のありのままを描いている。時として、人間は人の不幸を見て自分の境遇を慰める。度が過ぎると、わざわざ不運をこしらえ、それを人に浴びせかける。サディズムや征服感に快感を覚える性癖は、誰しも心の奥に眠らせているのだろう。異常を自覚することは難しい。自覚できれば、まだましであろう。憎しみよりも嫉妬の方が、はるかにタチが悪い。こうした性癖は、まさに人に依存している証拠である。
とはいえ、人間が自立するには、よほどの修行がいる。自立した人間が、自信満々に正義や理性を掲げたり、堂々と他人の人格を批判したりはできないだろう。裁判の場では、「犯罪」そのものよりも、一歩引いた「罪悪」の方が重要な意味を持つのやもしれん...


1. ふるさと祭り
小さな町は、六百年祭を祝っていた。夏真っ盛りに、羽目を外す男たちはブラスバンドを結成し、ステージに上がる。つけ髭にカツラ、白粉に口紅、もう誰が誰だか分からない。おまけに、酒を少々やりすぎ。普段は、非の打ち所がない。保険代行員に、自動車販売店経営者に、職人に。幕が上がる前、その輪の中に一人の若い娘が連れ込まれた。素っ裸で泥まみれ、体液に汚れ小便がかけられ。男たちはことを済ますと、ステージから投げ落とした。彼らの中にも正義感を持った人がいたらしく、警察に通報。しかし、みながみな厚化粧で、犯人が誰だか分からない。医師も、娘の治療を優先して最後の証拠を台無しに。法廷では、沈黙を守らせた弁護士の戦略にしてやられる。被疑者たちは釈放され、元の生活に戻っていったとさ。妻や子供のところへ平然と...
正体がバレないという裏付けがあれば、人間は何をしでかすか分かったもんじゃない。自分自身を欺瞞することだって平然とやってのける。人間の理性なんてものは、その程度のものなのだろう...


2. 遺伝子
浴槽で殺された一人の老人。彼は売春婦を買っていることが知られ、わいせつ罪と未成年との性行為で前科がある。住まいを後にした二人の男女が老婆に目撃されて尋問されるが、決定的な証拠は見つからない。迷宮入りか。
しかし、容疑は固まっている。科学も進歩し、いずれ有罪は免れないだろう。女は、マリファナ中毒で目も当てられない。男は女の心臓を撃ち、自分のこめかみに銃口をあてて、引き金を引いた。罪悪感に押し潰されたか、あるいは現実逃避か...


3. イルミナティ
昔から、人間は陰謀説がお好き。フリーメイソンやユダヤ金融に、十字軍や聖堂騎士団に、ロスチャイルドやロックフェラーに... 世界征服説は枚挙にいとまがない。それは、現社会への不満がそうさせるのか、疎外感やアノミーを刺激してやまない。
そして、秘密結社イルミナティである。その歴史は、啓蒙主義的な傾向ゆえにバイエルン王家から危険視され、1784年の活動禁止令をもって終わっている。創始者ヴァイスハウプトは、1830年、ドイツのゴータで亡くなったとされる。神聖ローマ帝国の時代に。
しかしその後、様々な憶測が飛び交った。ヴァイスハウプトがジョージ・ワシントン大統領と顔がそっくりだったので、イルミナティが大統領を殺してすり替わったという説などは、陰謀史観の定番か。ヴァイスハウプトは白い頭という意味で、アメリカ合衆国の紋章が白頭鷹であるのが、なによりの証拠だとか。
さて、ここではサディスティックな少年たちの物語。更衣室で財布を盗むところを目撃され、弱みを握られた一人の男の子が、イルミナティを名乗るグループの餌食に。
「午後八時、食肉処理場で、汝の罪を償わん!」
素っ裸でロープをかけられ、爪先立ちに。後手に縛られ、胸に魔除けの赤い五芒星が描かれ。鞭打ちされ、首が絞まると、下半身を勃起させる。
ちなみに、縛り首中に勃起するのは、珍しいことではないそうな。血流が止まり、脳が酸素不足になるからだとか。15世紀には、夜の暗闇で育つアルラウネは、絞首刑にあった者の体液から生まれると信じられていたという。アルラウネとは、古典文学で見かけるマンドラゴラ(マンドレイク)の類いか。
しかし、少年たちは、そんなことは知らない。勃起すれば、興奮していると思い、さらにエスカレート。そこに、男の子の担任の女教師が通りかかった。彼女は、その無残さを見た瞬間、悲鳴を上げ、階段を踏み外し、頸骨を折って即死!少年たちは、まだ17歳で罪を問われることはない。女教師の死は、不幸な事故だったとさ...


4. 子どもたち
順風満帆の人生を送っていた男が、突然、逮捕された。少女が性的な悪戯を受けたというのである。被害者は、妻のクラスの児童で、証人は少女のお友だち。男のパソコンには、ポルノ映画が保存されていた。児童ポルノではなく、合法的なものだけど。妻は公判に現れず、弁護士が拘置所に離婚届を持ってきた。
それから数年、男は娘を見かけた。日記には、八歳の時、担任の先生の愛情を独り占めしたく、友だちとグルになって事件をでっちあげた、とある。先生をよく迎えにくる夫に嫉妬して。それから、再審が認められた。二人が本当のことを証言するのは簡単なことではないが、法廷で男に謝罪した。男は、冤罪の代償金を得た。今は、カフェを経営し、イタリア人女性と暮らしているという...


5. 解剖学
いつも女に馬鹿にされる男は、生意気な娘を思い通りにしてやると意気込む。これまで殺してきた動物たちは、みな怯えた。死の直前には匂いも違うという。大きな動物ほど怯えの度合いも大きいとか。
「鳥はつまらない。猫と犬はすこしましだ。死ぬということがわかるのだ。だが動物はしゃべれない。彼女なら...」
なるべく多くを喋らせるためにも、ゆっくりと死に至らしめること。それが肝要だ。解剖用具はネットで購入済。人体解剖図も丸暗記。そして、娘を車に連れ込み...
警察が家宅捜索すると、地下室に小さな化学実験室があった。動物の死骸に、娘の写真に、無数のスプラッタームービーに...
しかし、男は車から降りたところをベンツに跳ねられ死亡。「私」は、ベンツの運転手を弁護したとさ...


6. 間男
夫婦は、結婚八年。美しい妻は、サウナで肌を露出して男を挑発し、夫は了承している。夫婦は公共のサウナで何度か試し、乱交クラブに出入りし、相手をインターネットで公募する。妻は間男たちの道具と化し、妻もそれを望んだ。妻は抗鬱剤を服用し、薬の依存症を自覚している。冷たく虚ろな空間が広がり、彼女は自分を見失っていく。夫は、男の一人を灰皿で殴った。まだ息があり、止どめをさそうとしたが、妻を思い、急に殺意が失せた。
起訴状には、コカインを巡る争い、と書かれている。複数の他人と性的関係を持っていたなどという事実を、同僚の弁護士たちは受け入れるはずがない。妻が法律事務所で働きつづけるのは不可能。妻が証言台に立つと、夫をかばうために別の話をした。その男と浮気をし、夫の知るところになったと。嫉妬のあまり気が動転して犯行に及んだのであって、悪いのは自分であると。その男との情事の映像も証拠物件として提出された。夫婦は、間男たちの情事をすべてビデオに撮っていたとさ...
ちなみに、法学的な用語に「黄金の架け橋」というのがあるそうな。いわゆる、中止犯と呼ばれるやつ。このケースでは、最後に殺意をなくしたために、殺人未遂罪は追求されず、傷害罪で決着がつく。


7. アタッシュケース
婦警は、警官になる訓練を受ける時、直感を信じるよう教えられた。だがそれは、論理的に説明のつくものでなければならない。
ある日、ドイツ語の分からないドライバを止め、トランクを開けるよう指示した。どうやらポーランド人らしい。すると、赤いアタッシュケースがあり、その中に死体の写真が18枚。どれも、全裸で腹部から尖った杭が突き出ている。ドライバは、中身を知らずに運んでいたという。バーで知り合ったビジネスマンにベルリンへ運ぶよう頼まれ、報酬はその場で現金でもらったと。
監察医によると、写真の死体は本物だという。仮に本物だとしても、写真を持っていること自体は犯罪ではない。後に、いくつもの小さな穴の空いた死体が発見された。それは、口径、6.35ミリのブロウニングによって開けられた穴。処刑か。いずれにせよ、ポーランド警察に情報を伝えることしかできない...


8. 欲求
万引き依存症の心理学。ルイ・ヴィトンのバッグに、グッチの財布に、クレジットカードと現金を持つ女性は、いつも不必要なものばかり万引きした。盗みを働くのは、なにもかも耐えられなくなった時だけ。やがて警備員に取り押さえられるが、盗難品の金額も低く、初犯であったために、検察官は手続きを打ち切った。家族は誰一人として、事件のことを知らずに終わったとさ。
依存症とは、それによってしか、生きている実感が得られない状態を言うのであろうか、だとすると再犯の可能性は...


9. 雪
老人のアパートの部屋は、麻薬密売で警察に目をつけられていた。だが、老人は場所を提供しただけ。警察が踏み込むと、老人はナイフをポケットに入れていた。武器を持っていれば、それだけで刑が重くなる。密売人たちの名前を自白しろと迫るが、老人は黙秘を続ける。今までだって、刑務所に度々世話になってきた。酒に溺れ、軽犯罪と生活保護という転落人生。あとは、終わりが来るのを待つだけ...
ある日、見知らぬ女性が面会に。聖母のような。彼女は密売人の一人の子を妊娠したという。バレそうか、老人の様子を伺いによこしたのである。裁判所は、自供すれば、拘留を止める用意があると伝えたが、老人はチャンスを棒に振った。
老人は、パンをナイフで細かく切らないと食べられない。歯がないから、いつもナイフを携帯していたのであって、武器ではなかった。老人は、仮釈放が認められ、二年間の保護観察に付せられる。
そして、クリスマスに入院し、雪を見ながら面会に来た聖母のような女性の、幸せになった姿を思い浮かべる。しかし、密売人の男は、両親の決めた別の女と婚約させられていた。その男もまた、聖母のような女性を思いつつ...


10. 鍵
エリツィンは女だ!プーチンは男だぜ!今は、市場経済の時代。市場経済とは、なんでもお金で買えるってことさ!共産主義の解体、これに続く薬物経済の発展に乾杯!このロシア人は酷い訛りのあるドイツ語を話す。
麻薬密売のボスから、愛犬と愛車とコインロッカーの鍵を預かったものの、犬の野郎が鍵を飲み込んでしまった。動物病院へ駆け込むと、獣医はまずレントゲンを撮りましょう... だって。そんな悠長なことを言っている場合ではない。とっとと糞を出させる方法はねえか!超強力下剤とか。そして、金のありかを巡って、糞まみれの逃避行が始まる。
鍵はどこだ!と銃口を向けられてロッカーの鍵を渡すと、中には、コカインに見える砂糖と、昔つかまされた贋金が。現場には警察が囲んでいた。だが実は、別の鍵がコインボックスの裏側に貼り付けてあった。その鍵で隣のロッカーを開けるって仕掛けよ...


11. 寂しさ
強姦された女性は、ことが済むと家に帰された。彼女は処女だった。やがて体調を崩す。倦怠感、吐き気、めまいに襲われ、甘いものばかり口にし、太っていく。腹痛は疝痛か、いや、陣痛だった。赤ん坊は、便器の中に落ち、すでに死んでいた。タオルでくるみ、ゴミ袋に入れ、地下室へ。鮮血を流す娘を見て、母親は救急車を呼ぶ。医者は、後産の処理をし、警察に通報。望まない妊娠の悲劇は、繰り返される。妊娠に気づかず、手遅れになるケースもごまんとある。大抵、明らかな兆候に別の解釈を与えてしまうという。月経がないのはストレスのせい... 太り気味は食べすぎのせい... 胸が膨らむのはホルモン障害のせい... と。出産経験のある人でも、そういうことは珍しくないそうな。事実から背を向け、どうしてそうなるか知らない人もいる。医者が、詳しい検査を怠ったせいで、そうなることもあるとか。
彼女は、トイレで出産して初めて気づいた。後始末の行為は、どうみても正常な判断ができる状態ではない。そして、半年後に家を出た。しばらくして弁護士の元に手紙が届く。今は幸せです。夫も娘たちも元気です。ただ、地下室に横たわっている赤ん坊の夢をよく見ます。男の子でした。あの子がいなくて、寂しいです... と。


12. 司法当局
男は、二本の松葉杖をついて、よろよろと面接室に入ってきた。彼に、略式命令が届いた。愛犬をけしかけた上に、ある男を見境なく殴り、蹴ったという。身の覚えがなければ、反論してくるはず、裁判官はそう思った。だが二週間後、略式命令は効力を持ってしまった。罰金を払わなければならない。もちろん払わなかった。罰金刑は禁固刑に切り替わり、出頭命令が届く。男は、その書類も捨てた。そして、連行され、刑務所暮らしをしている。
足が悪いのは生まれつきで、何度も手術を受けたという。執刀医から取り寄せたカルテを鑑定させ、人を蹴ったりすることは不可能と判断された。再審が認められ、被害者もこの男ではないと証言し、無罪に。法律の定めによると、拘留の期間に対する代償金を請求することができる。ただし、6ヶ月以内に。男は、これもふいにした。またもは期日を守らなかったのである。おまけに、司法当局は、真犯人への訴訟手続を忘れたという...


13. 清算
優しい夫に恵まれた妻は、幸せな生活を満喫していた。娘は幼児洗礼を受けて。だが、子供ができると、夫は変わった。酒の量が増え、知らない香水の匂いも。ただ、娘には優しい、いいパパのまま。よくある倦怠期か...
いや、そうではなかった。妻の髪をつかみ、床をひきずり、毎日、妻の肛門と口を犯し、殴る蹴るの暴行を繰り返す。「おまえは、どこへも逃げられない!」家族にも相談できない。妻は恥じていた。夫のことを、そして、自分のことを...
ある日、近くに越してきた男が彼女に声をかけ、家を訪問した。優しい男の言葉に情事となるが、傷だらけの裸を必死に隠すも、男は怒りに震えた。娘が危ない!もう十歳になる。妻は夫を彫刻で殴り殺した。
老齢の裁判長は、被告人は十年間、夫の暴力に苦しみ、十分に情状酌量の余地があると主張し、無罪を言い渡した。正当防衛の線で。しかも、検察官に上告を断念するよう説得した。裁判長が、こんな説得をやるなんて異例中の異例。
だが、指紋鑑定についての言及がない。凶器からは指紋が検出できなかったのだ。手袋をしていたのか。まさか、経験豊かな裁判長が見落とした?凶器の彫刻は、41kg もある。裁判所から出てくる彼女を、男が車で迎えに来ていた。二人の周到な計画だったのか...


14. 家族
仕事で成功し、湖に面した豪邸を購入した男は、39歳で仕事をやめた。ある日、親しくなった隣人が書類を送ってきた。弟についての。離婚した母が、もう一人の息子をもうけていたことを知る。母がアルコール中毒で死ぬと、孤児院へ。そして、窃盗、傷害、交通違反など軽犯罪常習者に。
今、リオ・デ・ジャネイロの刑務所で、麻薬所持の容疑で裁判を待っているという。現地で懲役二年の判決はドイツで三年に換算されて、国内に連れ戻す。だが、刑期を終えると、またも喧嘩沙汰。父は、1944年、ナチによって死刑の判決を受けた。女性を強姦して。もう、私たちで終わりにしたい。そして数年後、死亡記事が新聞に。嵐の日、ボートから落ちたという...


15. 秘密
男が、CIA と BND(ドイツ連邦情報局)に追われていると、弁護士に助けを求めてきた。眼鏡屋で手術され、水晶体の裏にカメラを埋め込まれたという。自分が見るものすべてが、諜報機関に流れるという寸法よ。BND と CIA を告訴してくれ!そして、その黒幕のレーガン大統領を。レーガンは既に死んでますけど。そんなこと信じているのかい。ドイツの政治家の屋根裏に隠れているんだぜ...
弁護士は、このいかれた男を精神科医に診てもらおうと、病院へ連れて行くと...

2021-05-30

"犯罪" Ferdinand von Schirach 著

なんとも煮え切らない、朦朧たる作品の群れ。ミステリーらしくないミステリーとは、こういうものを言うのであろうか。それでいて、どこか不気味で、心理描写はまさにミステリー!
フェルディナント・フォン・シーラッハは、ドイツでは高名な刑事事件弁護士だそうな。彼は現実の事件に材を得て、異質な罪を犯す人間の哀愁を物語る。刑罰とは何か。なぜ罰を科すのか。最終弁論でそれを見出そうとするところは論理的で哲学的。これがドイツ流か...


理論は山ほどある。刑罰が威嚇し、再犯をためらわせ、社会に秩序をもたらし... 等々。だが、ここに紹介される刑事事件は、いずれの理論でも解決しえない。そして、陪審員の裁量に委ねられることに...
ちなみに、ドイツの裁判では、参審制が採用されているという。参審制とは、一般市民から選ばれた参審員が職業裁判官とともに裁判を行う制度で、日本の裁判員制度もこの制度を参考にしているらしい。ただ違うのは、参審員は、裁判ごとに選出されるのではなく任期制になっているとか。彼らにはある程度の目利きがあり、感情に流されることも滅多にないとさ...
「まちがった物言い、感情の吐露、まわりくどい言いまわしなどはマイナスに働く。大げさな最終弁論などは、前世紀のものだ。ドイツ人はもはやパトス(情念)を好まない。これまでうんざりするほど大量に生みだされてきたからだ。」


尚、本書には、「フェーナー氏」、「タナタ氏の茶盌」、「チェロ」、「ハリネズミ」、「幸運」、「サマータイム」、「正当防衛」、「緑」、「棘」、「愛情」、「エチオピアの男」の十一作品が収録され、酒寄進一訳版(東京創元社)を手に取る。


ところで、この世に、嘘をつかない人間がいるだろうか...
人に嘘をつかなければやって行けない生き方もあれば、自分に嘘をつかなければやってられない生き方もある。現実逃避に、嘘は欠かせない。なにしろ、現実ってやつは残酷だ。実に残酷だ。対して、嘘ってやつは優しい。すこぶる優しい。女に嘘をつこうとしない野郎は、女心に対する思いやりに欠けるというものよ。
現代社会は仮想化社会と呼ばれるが、それは仮定の世界であり、夢想の世界であり、いわば、嘘で固められた世界。嘘が人間を廃人にするのか。嘘が嘘を呼び、やがて自分の嘘に潰されていく自我。それでも、嘘はやめられない。おそらく、嘘ってやつがなければ、人生は退屈きわまりないものとなり、現実に絶望するほかはあるまい...


では、裁判が真実を行使する場というのは、本当だろうか...
少なくとも、建前ではそういうことになっている。真実を語ることは馬鹿でもできるが、うまく嘘をつくにはかなりの頭がいる。相手が法なら尚更。証人は嘘をつくし、自供もあてにならない。真実を知る者は当事者だけ。いや、当事者だって、事実関係が分からないこともある。自分が殺人者の汚名を負ってでも隠し通したいってこともあれば、第三者であるはずの証人が注目されたいがために大袈裟に語ることも。真実と嘘の区別がつかなければ、嘘発見器もあてにならない。そもそも、人間の認識とはそうしたものだろう。意識は朦朧とし、記憶なんてものも曖昧きわまりない。いまや、指紋まで偽装できる時代、やがて DNA だって。海外ドラマ NCIS のように、ドラマチックな科学捜査を期待するわけにはいかんよ。
結局、裁判は、物的証拠、動機や背景、自供などを頼りに判断するしかなさそうだ。となれば、冤罪はある確率で生じることになる。それは、不確定性原理に看取られた生死確率を論じるようなもの。ネコは殺されたのか、あるいは、どこかで生きているのか、と。そして、嘘が現実に...


「私たちが物語ることができる現実は、現実そのものではない。」
... ヴェルナー・K・ハイゼンベルク


1. フェーナー氏
生涯愛し続けるという誓いに縛られ、離婚もできず、日々の罵声に耐えながらも、ついに殺っちまった老医師。誰よりも献身的で律儀であるがゆえに。それでも、愛は不滅だそうな...


2. タナタ氏の茶盌
大金持ちの邸宅から、骨董品の茶盌と高級腕時計と金を盗んだ若造たちは、茶盌と腕時計と金の五割を格上にせしめられる。これが裏社会の掟。しかし、被害届は茶盌と腕時計だけ。しかも、これをせしめた連中は亡き者にされ、若造たちは命拾い。公にできない金か。どっちが裏社会の人間やら...


3. チェロ
記憶を失いつつある弟は、姉がチェロを弾く時だけ昔の暮らしが感じられる。やがて言語機能も失うと診断され、絶望の淵に。腕に包まれながら、浴槽で静かに溺死。介護疲れの一端を見るような...
「さあ、櫂を漕いで流れに逆らおう。だけどそれでもじわじわ押し流される。過去の方へと...」


4. ハリネズミ
何世代も前から、いとこ同士、甥姪のあいだで結婚しあう犯罪者一家。その中で一人、独学で推測統計学と積分法と解析幾何学を会得した弟は、殺人容疑のかかった兄を助けるため、瓜二つの別の兄がやったと証言する。しかも、その論理展開が複雑怪奇。兄は八人もいて、みな前科者とくれば、故郷のレバノンへ入れ替わりで出かけるときた。馬鹿馬鹿しいほど複雑で、立証は不可能とくれば、推定無罪が機能する。
ちなみに、古代ギリシアの詩人アルキロコスの寓話に、狐とハリネズミについての物語があるそうな。
「狐は多くを理解するが、ハリネズミはただひとつの必勝の技がある。」
多角的な観点に立つか、一つの強みに絞るか、生き方の問題ではあるが、裁判がそんなものに左右されては、かなわんよ...


5. 幸運
戦争、そして、廃墟となった戦後を女の身ひとつで生きていくには、相当な覚悟がいる。ある男と出会い、二十五年に渡って政界で活躍した女性の自慢話が始まる。ある日、公園でバラバラ死体が発見された。デブが腹上死?監察医は、死因を心筋梗塞と断定し、切断されたのは死後ということで、殺人ではないことが実証された。彼女の証言によると、愛ゆえの遺体損傷だとさ。美女ゆえにパトロンがついて幸運。不要になったら死んでくれて幸運。そして、こんな助言をくれる人がいるのも幸運ってか...
「これからは生き方を変えなくっちゃ。」


6. サマータイム
ホテルのスイートルームで女子大生が、頭を殴られて殺害された。鉄製のスタンドが顔に突き刺さって。容疑者となった紳士は、とても乱暴するような人間ではないが、残された体液が DNA 鑑定で一致。駐車場の警備カメラに写った時間も一致。証拠は十分すぎるほどに十分。
一方で、被害者が貢いでいた男は、嫉妬深く、ホテルの前まで後をつけたことは認めている。動機は十分すぎるほどに十分。
しかし、動機は決定打にはならない。そこで弁護士は、証拠の穴探しに没頭し、ついに見つけた。カメラの時間設定は、夏時間に補正されていなかったとさ。紳士は無罪放免にはなったが、離婚は避けられない...
「血のついたナイフを持って死体にかがみ込んでいれば、その人物が犯人扱いされる。たまたま通りかかり、助けようとしてナイフを抜いたなどという言い分を信じる警官はひとりもいない。事件の真相は簡単なものだという刑事事件の鉄則は刑事ドラマの脚本家の発想でしかない。実際はその反対だ。自明と思えることも推測の域を出ない。大抵の場合がそうなのだ。」


7. 正当防衛
傷害事件や暴力沙汰を繰り返す二人の男は、人が恐れるのを笑って楽しむ。女をからかい、真面目な会社員をカモにし。経理係風の紳士は、彼らに目もくれずにいる。この態度にムカついてナイフを振り回すと、逆襲を喰らい心臓を一突き。もう一人の男が金属バットを振り上げると、急所の頸動脈洞を一突き。正確無比は、まさにプロの技。これは、正当防衛か、過剰防衛か。紳士は、メガネをかけ直し、足を組むと、タバコに火をつけ、逮捕されるのを待った。ただ、別の場所では、まったく同じ手口の殺人事件が発生していたとさ...


8. 緑
羊の死骸が、またもや運ばれてきた。目玉がくり抜かれ、18箇所の刺し傷。この数字に意味があるのか。伯爵家の御曹司は、人間や動物が数字に見えるという。牛は 36、カモメは 22、裁判官は 51、検察官は 23... 18 は悪魔の数字だとか。6 が 3 回で 18。666 はヨハネの黙示録に出てくる数字。

「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」
...ヨハネの黙示録、13章18節

御曹司は、羊の目を恐れていたという。そんな時、彼と親しくしていた娘が行方不明。巷では、殺害が噂される。倒錯はすぐにエスカレートする。これまで犠牲になったのは羊だけだが、いつ人間に変わっても... と世間は考える。そして、君の数字はなんだい?との質問には、「緑」と答えた。数字じゃないんかい!?
うん~... こんなオチじゃ、眠れそうにない。ちょいとググってみると、ドイツ語の慣用句にこんなものを見つけた。

"Ach, du grüne Neune!"

驚いた時やびっくりした時に使うフレーズだとか。英語で言うところの、Oh my God! のような感じであろうか。トランプで縁起の悪いカードがスペードの 9 とされ、"grün neun" と言うらしい。つまり、自分を悪魔と言ったのか。緑の九ちゃん!


9. 棘
彫像「棘を抜く少年」は、裸の少年が岩に腰掛け、前かがみになって左足を右膝にのせ、右手で足裏に刺さった棘を抜いている。古代ギリシアの彫刻をローマ時代に模したもので、特に価値あるものではなく、複製品が無数にある。博物館警備員は、この彫刻の棘を探すが、どうも見つからない。ルーペを忍ばせ、くまなく調べるも。些細なことってやつは、気になり始めると、収まりがつかなくなる。この苛立ちを、悪戯で満たそうとは...
靴屋で靴底に画鋲を忍ばせると、試しに履いた客たちは悲鳴を上げる。棘を抜く少年にあやかって、画鋲を抜くなんとやら。人の不幸を見て幸福に浸ろうとは。やがて、気が狂ったように彫像を破壊した。異常な精神状態も、彫像が砕けて治癒したとさ。
こんなもの、最初からなけりゃよかったのに... と思うことはよくある。あの時なぜ、こんなつまらないことにこだわったのか... と思うことも。しかし、人間の意欲なんてものは、そんなことの積み重ねかもしれん。そして今、何にこだわって生きているだろうか...


10. 愛情
彼女を膝枕して、詩を朗読していた。そして、リンゴの皮を剥こうとナイフ取ると、背中に激痛が。彼女は、飛び上がって逃げた。あれは事故だ!弁明したくても、連絡がつかない。彼女の背中を見ればわかる。肩胛骨がくっきりと浮かび、肌は白くツルツルで、金色の産毛。バカンスで、海辺に寝そべった時、つい強く噛んでしまったこともある。
ちなみに、カニバリズムにも、いろいろな動機があるらしい。飢えを満たすため、儀式のため、だが、多くは性的衝動ゆえの人格障害だという。ハンニバル・レクターのような人物はハリウッドの産物などではなく、人類史はじまって以来、ずっと存在するという。
「十八世紀に、パウル・ライジンガーはシュタイアーマルクで、"処女の痙攣する心臓"を六つ食べた。彼は九つ食べると透明人間になれると信じていた。ペーター・キュルテンは犠牲者の血を飲み、ヨアヒム・クロルは一九七0年代に少なくとも八人を殺して食べた。それから一九四八年に自分の妹を食べたベルンハルト・エーメという人物もいる。」
そして、彼はウェイトレスを殺しちまったが、その動機はまるで分かっていないとさ...


11. エチオピアの男
男の人生は、残酷なメルヘンそのもの。捨て子で、孤児院、養子縁組、図体はでかく、顔は醜い。子供の頃からからかわれ、二度落第。工場のロッカーで窃盗事件が発生すると、無実なのに解雇される。底辺を生きる人々には、いつも苦難がつきまとう。これが人間社会というもの。銀行強盗をやって、エチオピアへ逃れるが、この地にも、人生に破れた人々がたむろする。売春、軽犯罪、貧困、物乞い、道端で憐れみを乞う手足のない障害者、ストリートチルドレン... この世は、ゴミの山だ!
そして、コーヒー農園で敗者復活を賭ける。売買ルートの立て直し、村の子供たちの識字率を上げ、結婚のおかげで心も穏やかに... 村は豊かになったとさ。
しかし、銀行強盗で当局に目をつけられ、強制送還。彼を弁護するため、エチオピアの村からビデオが送られ、彼の名を連呼する子供たちの笑顔が映し出される。裁判では、なかなか見られない光景だ。だからといって、参審員たちの心が刑罰を逃れさせるはずもない。そして、刑期を半分終えて仮釈放となり、再びエチオピアへ。現地の国籍を取得して、今は幸せだとさ。逃げる場所があるということが、いかに救われるか...

2021-05-23

"科学と仮説" Henri Poincaré 著

かのニュートンは、仮説を嫌ったと伝えられる。科学者の立場であれば、仮説の公表をためらうのも頷ける。
しかし、だ。仮説ぬきで思考することは可能であろうか。前提ぬきで、推論ぬきで、そして、解釈ぬきで、それは可能であろうか。ポアンカレ予想を提示したアンリ・ポアンカレは、仮説の重要な役割を堂々と論じて魅せる。直観の偉大さのようなものを...
尚、 河野伊三郎訳版(岩波文庫)を手に取る。


ユークリッド原論には、五つの公準が記される。それは、これ以上証明のやりようがない純粋な命題であり、言うなれば直観によって成立したもので、カントが唱えたア・プリオリな認識に通ずるものがある。
数学者たちは、公準を基軸にしながら、あらゆる論理の組み立てを演繹によって企ててきた。公準の存在を認めるということは、論理的思考の限界、つまりは人間の能力の限界を認めることになる。
それだけに、公準には常に懐疑の目が向けられてきた。天動説を仮定しなければ、地動説への展望は開けなかったであろう。ニュートン力学を仮定しなければ、相対性理論も、量子力学も編み出されることはなかったであろう。マクスウェルは、エーテル仮説を信じて、電磁場を記述する偉大な方程式を導き出した。この方程式で、エーテルの存在が否定されたわけではない。存在しなくても成り立つってことだ。第五公準が覆されて非ユークリッド幾何学の可能性を認めたのも、健全な懐疑心が働いたからであろう...


あらゆる思考法において、演繹だけに固執せず、帰納によって補完することも怠るわけにはいくまい。
それにしても、古典を読むのは楽しい。いまさらだけど... 科学は日進月歩、獲得した知識もすぐに古びてしまうが、それでも楽しい。いまさらだけど... アリストテレスも、ガリレオも、ニュートンも... 彼らの記述が色褪せないのは、それが人間の思考原理を物語ってくれるからであろう...


幾何学的な認識は、そのまま精神空間に投影される。しかも、この空間はユークリッド幾何学とすこぶる相性がいい。カントは、空間と時間をア・プリオリな認識とした。つまり、これ以上説明のやりようがない純粋な認識に位置づけたのである。
しかし、だ。その空間認識がユークリッド幾何学だというのは、本当だろうか。確かに、物心ついた時から、精神ってやつはユークリッド幾何学に看取られているような気がする。だがそれは、先天的な認識などではなく、自我が目覚める前の、まだ無意識のうちにある経験が、そのような感覚を獲得させたということはないだろうか。
仮に、自我の目覚める前に空間認識めいたものがあるとすれば、それはどんな幾何学であろう。人間の認識領域は、無意識の占める部分があまりに広大で、自我を覗き見するだけでも、よほどの修行がいる。しっかりと意識できるということは、すでに経験的であり、もはや純粋な認識ではない、ということになりはしないか。非ユークリッド幾何学の出現は、それを示唆している... などと解するのは、ただの考え過ぎであろうか...


1. 定義と規定の役割
そもそも、幾何学は、どうやって規定されるのであろう。ユークリッド幾何学は五つの公準で規定され、非ユークリッド幾何学は五つ目の公準から解き放たれ時に規定された。幾何学とは、単なる規定や制約、あるいは、単なる定義ということか。体系とは、そうしたものなのだろう。
学問するからには用語の定義が必要で、これを前提にしなければ、思考を展開していくこともままならない。
数学の定理は、最も単純な加法や乗法の規定によって組み立てられてきた。つまり、結合性、交換性、分配性、等価性といった数学的関係性の洞察によって。実に単調なやり方ではあるが、これこそがまさに最も高度な推論原理といえよう。数学は、数や体系の抽象化はもとより、その関係性においても抽象化の道を辿ってきた。その最たるものが群論である。
物理学の基本対象に、物質の構造と力学がある。力学は、物質の関係性を洞察するもので、まさに数学的推論に適合する。これを人間学に持ち込めば、人間の関係性においても数学的な洞察が可能となろう。
ところで、あらゆる命題が論理形式で引き出されるとしたら、大規模な同語反復に陥りそうなものだが、実際はそうはならない。人類は、うまいこと矛盾を回避する術を会得してきた。それが、定義や規定という術か。それは、人間のご都合主義か。
演算を得意とするコンピュータにしても、矛盾を回避する手段を与えなければ、システムが暴走してしまう。実際、実数演算は近似で誤魔化しているし、もし浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754 の意義を匂わせてやればいい。
哲学という学問にしても、「A は A である」という命題を回りくどいやり方で大層に語っているだけ、といえばそうかもしれん。だが、人間の思考能力で、それ以上に何ができよう。真理への道は、これら単調な道を突き進むほかはあるまい...


2.力とエネルギーの規定
力について考え始めたら、哲学をやることになる。関係あるところに、なんらかの力学が働くのだから。政治の力、金の力、愛の力などと...
そもそも、力とはなんであろう。古来、力の表記では、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどの用語が乱立してきた。それだけ得体の知れない存在ということか。
アインシュタインは、あの有名な公式で、質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーで記述できるようになった。
では、エネルギーとはなんであろう。力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和で記述される。運動する物体がエネルギーを持つことは、感覚的にも分かるが、位置がエネルギーを持つとはどういうことか。物体が存在するということは、空間のどこかに位置するわけだが、それは相対的な位置関係でしかない。
しかも、地球の重力を基準に計測され、運動エネルギーも、ある単位系を規定して記述される。つまり、力学的エネルギーの総体は、関係性において規定しているに過ぎないってことか。
光速にしても、粒子性と波動性の二重性に見舞われ、量子の世界では存在確率で記述される。となれば、エネルギーもまた、記述の規定に従っただけのことで、得体の知れないままってことか。
得体の知れない存在について考え始めたら、やはり哲学をやることになる。物理学という学問もまた、「A は A である」という命題を回りくどいやり方で大層に語っているだけなのか。学問とは、そうしたものかもしれん。専門用語を編みだすだけの。だから、用語を知らないヤツをバカにせずにはいられないってかぁ...
「科学が到達し得るのは、素朴な独断論者が考えているような物自体ではなくて、ただ物と物との関係だけである。この関係意外には認識し得る実在はない。」

2021-05-16

"現代物理学の思想" Werner Heisenberg 著

いつの時代にも、科学には解釈の問題がつきまとう。いや、科学でさえも...
ある物理現象に遭遇すれば、それに疑問を持ち、原因を探り、解釈を加えずにはいられない。そして、解釈の余地がなくなるまで精査し尽くすと、また新たな解釈を求めてさまよう。疑問が解釈を呼び、解釈が疑問を呼ぶ。こうして科学は進歩してきた。仮説嫌いのニュートンだって、そうやって思考してきたはず。思考のレベルは、疑問のレベルに比例するであろう...

物理現象の最も基本的な疑問は、二つに集約できよう。一つは、物質を構成する素材はどこまで微小かということ。二つは、物質の間で作用する力の正体は何かということ。前者は、古代の四元素から周期表を経て素粒子物理学に議論が受け継がれ、後者は、重力、電磁気力、核力のメカニズムを担う強い力、放射性崩壊のメカニズムを担う弱い力の四つの統一理論を夢見ては、論争を繰り返す。解釈というからには、主観の域を脱し得ない。疑問が持てなければ思考停止に陥るが、不毛な問答を繰り返すのでは同じこと。宇宙が一つの物理法則ですべて説明がつくとすれば、そこに住む知的生命体は退屈病を患うであろうし、そもそも知的生命体に進化することはなかったであろう...


「自然は人間より前からあるし、人間は自然科学より前から存在していた。」
... カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー


これは、量子力学をめぐる解釈の物語である。量子力学は、相対性理論と並ぶ現代物理学の根幹をなす存在で、その研究では二つのアプローチがある。行列力学と波動力学が、それだ。前者は、ハイゼンベルクの不確定性原理で威光を放ち、後者は、シュレーディンガーの波動方程式で幅を利かせる。
量子の性質には、粒子と波動の二重性がある。光や電子には、光電効果のような粒子を放出させる現象もあれば、回折や干渉のような波を思わせる現象もある。となれば道は二つ。粒子性から迫るか、波動性から迫るか。
注目すべきは、まったく異なる二つの発想が、数学的には等価だということ。しかしながら、その解釈となると、二つの巨星にとどまらず、多様な説が飛び交う。コペンハーゲン派の解釈が主流かどうかは知らんが、ハイゼンベルグの立場はそういう位置づけになろうか。
主観で議論するからには、デカルトの存在論やカントの直観論とも交わる。ボーアの解釈では「相補性」が語られ、粒と波が互いに存在を補い合っていると捉える。いや、不確かな存在は、解釈で補うってか。粒のようで粒でない... 波のようで波でない... ベンベン!
それで、シュレーディンガーの猫が生死にかかわらず、どんな状態にあるかは知らんが、なんとなく存在してそうな気がする。チェシャ猫のように薄ら笑いを浮かべて...
仮に、量子が波だとすると、それを伝える媒質が存在するはず。音波が空気を伝わるように。マクスウェルは、エーテルという架空の媒質の存在を信じて、電磁場を記述する方程式を編み出したが、媒質の必要性は否定された。それは、エーテルの存在が否定されたわけではなく、存在しなくても構わないってことだ。光速は媒質に影響を受け、真空中で最大になるというから、これを基準にすれば、存在しないに等しいというわけである。なので、古典論で絶対真空と呼ばれる宇宙空間に、何も存在しないとは言い切れまい。それが、ダークマターってやつかは知らんが...


物理学における解釈の問題は、観測の問題でもある。不確定性原理は告げる。量子の観測では、厳密な位置と運動量を同時に決定することができない... と。しかも、これら二つの不確かさの積は、プランク定数を粒子の質量で割ったものよりも小さくはならない... と。
存在するが、存在の仕方までは理論的に決定づけられないとしたら、その存在はいかようにも解釈できる。人間にとって、存在なんてものはそんなものかもしれん。そもそも、魂や精神の存在が不確かさに覆われている。デカルトが定式化した「我」も、カントが唱えた「悟性」も、道徳屋が説く「理性」も、政治屋が焦がれる「正義」も、博愛主義者が崇める「愛」も...
いずれにせよ、人間は、リアリティの中でしか生きられない。デカルトの思惟も、カントのアプリオリも、リアリティな認識に裏付けられている。哲学は、リアリティとの葛藤から発展してきた。
ただ、リアリティは、リアルとは違う。現実とはちと違う。現実っぽい... と言うべきか。現実と正反対であることすらある。だから、目の前の幻想や夢に惑わされる。現実社会では、確率関数が幅を利かせ、近似や誤差の概念が大手を振り、自己存在までも確からしさの度合いに呑まれる。
だから、自分探しの旅は、いつの時代もお盛んときた。人間のできることといえば、現実を前にして思惟することぐらい。デカルトの言葉は、まんざらでもなさそうだ。
アインシュタインのあの有名な方程式は、質量あるところにエネルギーが存在することを告げている。エネルギーあるところに、なんらかの存在が規程できるとすれば、霊感ってやつも観測できるやもしれん...


古来、自然哲学の歴史は、存在をめぐる論争の歴史であった。それは、物質的な原因を問い、理に適った解釈を求め、一つの原理に帰着させること。哲学は言語による定義を要請する。数学が公理を要請するように。だが、厳密な言語は息苦しい。解釈の余地は、その息苦しさを和らげてくれる。不確定性原理は、その役割を担おうってか...
言語は偉大である。コミュニケーションや思考の手段だけでなく、リアリティまでも現実のものにしちまう。量子力学は、その新たな言語を担おうってか...
解釈は批判される運命にあり、批判する行為もまた解釈によってなされる。どちらの解釈がより合理的か、その優位性を競うのが人間社会。科学でさえ、健全な懐疑心を持ち続けるには、よほどの修行がいると見える。思考実験がパラドックスを育み、思想へといざなう。思想とは、解釈の問題か。人類は、原子自体について語る言語を、いまだ獲得できていない。ならば、なんでもあり...
尚、河野伊三郎、富山小太郎訳版(みすず書房)を手に取る。