2023-09-24

"ダーウィンの警告(上/下)" James Rollins 著

本書は、シグマフォースシリーズ第 10 弾、邦訳版は 0 から数えるので、第 9 弾となる。このシリーズは、いつのまにやら第 14 弾まで足を伸ばし、なかなか追いつけずにいる。
しかし、推理モノはいかん。ちょいと手を出すと、かっぱえびせん状態。特に、作家ジェームズ・ロリンズと翻訳者桑田健のコンビは。おかげで、徹夜明けのブラックコーヒーが美味い...

原題 "The Sixth Extinction"
第六の絶滅とは、何を意味するのか。進化論を唱えたダーウィンの警告とは... それは、人類は本当に進化しているのか?という問い掛けでもある...

「絶滅が規則であって、生存は例外である。」... カール・セーガン

古生物学者たちの推定では、地球上の生態系は、過去に五度の絶滅を経験しているという。一度目は、約四億年以上前のオルドビス紀末、ほとんどの海洋生物が姿を消した。二度目は、約三億年以上前のデボン紀末、三度目は、ニ億五千年前のペルム紀末、陸と海の双方で 90% 以上が死滅した。四度目は、約ニ億年前の三畳紀末、そして五度目は、六千五百年前の白亜紀末、恐竜が絶滅した。原因については、地球規模の気候変動やプレートの移動、あるいは、隕石の衝突などが考えられている。
おかげで、人類は大手を振って生きられる時代を迎え、いまや地上を支配するに至った。だが、かつての原因に加え、大量生産や大量消費で人口増殖を爆発させ、自らこしらえた深刻な環境問題に直面している。過去四百年で実に多くの生物種が絶滅し、かつての絶滅率と比較してもかなり高い割合で進行しているようだ。
そして現在、科学者たちは、地球上の生態系が六度目の絶滅へ向かっていると結論づけたという...

「この惑星上の生命は常に微妙なバランスのもとに成り立っている。それぞれがつながり合った複雑な関係性は、驚くほどもろい存在である。主要な構成要素を取り除けば、あるいはただ変化させただけでも、その複雑な網はほつれ、破れてしまう。」

物語は、カリフォルニア州の軍事研究施設から、爆発とともに謎の物質が流出したことに始まる。施設から発信された最後のメッセージは... 殺して!私たち全員、殺して!
謎の物質とは、なんらかの生命体か。その遺伝子構造からは、必須元素であるリンの代わりにヒ素が検出された。ヒ素を必要とする生命体の生物圏が、地球上のどこかに存在するのか。遺伝子の螺旋構造が、糖のデオキシリボースを根幹としていないとすると...
真相を知るはずの研究所長は拉致され、その行方を追っていくと、南米奥地で環境保護者がやっていた禁断の遺伝子実験と、南極大陸に潜む「影の生物圏」とが、あるキーワードで結びつく。そのキーワードとは、「XNA(ゼノ核酸)」
それは、情報貯蔵生体高分子として、DNA や RNA の代替となる合成物質。地球上の多種多様な生物種は、A, C, G, T というわずか四つの遺伝文字に基づいている。スクリプト研究所は、この配列に人工の塩基対 X, Y を加えた細菌を作り出すことに成功した。しかも、DNA より耐性があることが証明され、理論上はすべての生物の DNA と置き換え可能だという。かつて地球上の生物は、XNA の方が優位を占めていたと考えられているらしい。
本書は、DNA を「利己的」と形容し、XNA を「破壊的」と形容する。そうした生命の生き残りが、人類より優れた遺伝構造を持ち続け、今もどこかで...

"Life will find a way.”
「生命は生きるための道を見つける。」
... 映画「ジェラシック・パーク」より

また本書には、氷で覆われていない南極大陸と思われる古代の地図が何枚か登場する。これらの地図は、実在するそうな。古代人は現在考えられているよりもはるか昔に、世界中の大洋を航海していたらしい。南極大陸には、まだまだ人類の踏み入れたことのない未開の地が残されているのだろうか。
しかし、古代知識の宝庫であったアレクサンドリア図書館は、ずっ~と昔に破壊された。過去に数々の図書館が焼かれ、どれほどの知識が灰燼に帰してしまったことか。現代人が知識の再獲得に乗り出したところで、まだその序章ということか...

「人類の歴史を通じて、知識は増加と減少、隆盛と衰退を繰り返している。かつて知られていたことが、時間の流れの中で忘れ去られ、時には何百年もの長い歳月を経た後に再発見されることもある。」

環境主義にもいろいろあろうが、本書に登場する環境保護者の言い分は、なかなかの見もの...
彼が作ったものとは、プリオンの一種か。プリオンとは、タンパク質からなる感染性因子。ある種の殻のようなもの。しかも、とびっきり頑丈な。ウィルスの DNA の一部を切り取り、外来の XNA と入れ替えると、その遺伝子配列が殻を開く鍵のような役割を果たすという。
そして、感染力の強いノロウィルスの遺伝子を操作し、致死性の高いプリオンを短時間で広範囲にばらまくようにしたのか。いや、この合成物が人間や動物を殺すことはない。感染性蛋白質に手を加え、認知障害をもたらそうという企てか。
しかし、頑丈な殻に収納されたウィルスが、人間の神経機能を破壊し尽くすのでは。いや、怖がることはない。致死性を取り除き、おまけに一定の段階に達したら自己破壊するように手を加えた... ってさ。

「ある種の贈り物だよ。この贈り物を受け取った感染者は、より質素な、より自然と調和した形で、高次認知機能から解放されて残りの人生を過ごすことができる。言葉を変えれば、我々を動物と同じ状態にするというわけだ。それによって地球はよりよい環境になる。非人道的な行為こそが人類のためになるのだよ。もはや我々は、倫理を振りかざすだけの獣(けだもの)も同然じゃないか。我々が宗教や政府や法律を必要としているのは、その卑しい本性を少しでも抑えようとしているからにほかならない。私の意図は、知性という名の疾患を取り除くことにある。人類こそがより力強い存在で、この惑星にとってよりふさわしい存在だ、などという思い違いをさせるような欺瞞を排除することにある。」

歪んだ正義、暴走した正義が、テロリズムを覚醒させる。人間ってやつは、自己主張や自己存在の正当化のためには、いかようにも理屈づけをやる、特異な存在なのであろう。
現実に、森を焼き払い、海を汚染し、氷冠を融かし、二酸化炭素を大気中にばらまいてきた。人類こそが大絶滅を引き起こす原動力で、人類自身が絶滅の危機にある... という主張も否定できない。人間にとっての天国は、自然界にとって地獄なのか。それとも、自然界にとっての天国は、人間にとって地獄なのか。今、人類は自然との付き合い方が問われている...

「社会というのは支配のための破壊的な幻想であって、それ以上の何物でもない。」

2023-09-17

"チンギスの陵墓(上/下)" James Rollins 著

本書は、シグマフォースシリーズ第 9 弾。邦訳版は 0 から数えるので、第 8 弾となる。このシリーズは、いつのまにやら第 14 弾まで足を伸ばし、なかなか追いつけずにいる。おいらにとって推理モノは、読書の基本ジャンルとはいえ、手を出すには勇気がいる。つい徹夜で一気読みしちまい、翌日は、まず仕事にならん。まるで麻薬!作家ジェームズ・ロリンズと翻訳者桑田健のコンビは、特にタチが悪い。やめられまへんなぁ...

原題 "The Eye of God"
なにゆえ、こいつの邦題が「チンギスの陵墓」となるのか?それが、読者に課したテーマである。「神の目」に映った未来と、その墓の暴かれし日が時空でもつれ合う時、世界は終わりを告げる...

物語は、米国の軍事衛星が彗星の尾に接近後、地球に墜落したことに始まる。衛星に搭載された観測用の水晶には、彗星が地球に衝突した後、廃虚と化した都市群が映し出された。
一方、ローマに送りつけてきた考古学的な頭蓋骨にも、世界が滅びるとの予言が記されていた。しかも、水晶が捉えた映像と頭蓋骨に記された期日は、同じ四日後が刻まれている。
頭蓋骨は誰のもので、予言の主は?という疑問は置いといて、衛星は時空をさまよって、時間を先取りしたというのか。衛星の名を、IoG(Interpolation of the Geodetic Effect: 測地線効果内挿)とし、こいつの語呂合わせで Eye of God. では、ちとこじつけ感が...
ちなみに、「神の目」は実在するらしい。科学者たちは、これまでに四つの完璧な球体の水晶を生成しているという。これらは、重力観測衛星のジャイロスコープとして、地球周辺の時空の曲率の計測に使用されているとか。神の目が複数存在するとは... 宇宙は多神教であろうか...

「過去、現在、未来の違いは、頑固なまでに消えることのない幻想にすぎない。」
... アルバート・アインシュタイン

量子の世界では、過去、現在、未来の順番を問わない。生と死を同時に体現しちまう、まったくシュレーディンガーの猫のような奴ら。神の目とは、猫の目のようなものか...
すべてを知り尽くした全能者ともなれば、過去も、現在も、未来も、時間という一つの次元に収まった同列の概念に過ぎない。それを尻目に、過去を悔い、現在で藻掻き、未来に翻弄されるのは、時間の矢に幽閉された知的生命体の宿命。そして、死んだと思われた登場人物が、ことごとく生きていたとする展開は、シュレーディンガーの猫を夢見る人間どもの滑稽な願望が透けて、ちとこじつけ感が...

とはいえ、歴史と科学を融合させるロリンズの手口は、相変わらず切れてやがる。
ざっとキーワードを拾うと、歴史の観点から... 使徒トマスの十字架、フン族の王アッティラ、モンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハン。
科学の観点から... オールトの雲、量子力学、ダークエネルギー... といったところ。

まず、彗星はどこからやって来るのか?それは、太陽系の誕生と関係する。ざっと太陽系を外観すると...
お馴染みの八つの惑星の外側には「カイパーベルト」と呼ばれる氷を主成分とする破片の大群が周回しており、はるか遠くの外縁には「オールトの雲」と呼ばれる領域がある。そこには氷を主成分とする彗星が無数に存在するとされている。まるで彗星の貯蔵庫!
しかも、これらすべてが同一円盤状に配置されていて、衝突の脅威となる彗星は黄道面からやってくるというわけだ。
近年、仮想的な面「空黄道面」ってのも耳にする。彗星がやってくる軌道は、この二つの面に集中するらしい。太陽系の果てに、魔物の棲家でもあるのか...

そして、やって来る彗星に、使徒トマスの聖遺物が絡む。トマスの十字架は、約2800年前に、隕石を彫って作られたとされる。東方のネストリウス派の司祭の手によって...
こいつに、ダークエネルギーが潜んでいるのか。現在の科学では、宇宙の質量とエネルギーに占める割合は、通常の原子などの物質が 4.9%、ダークマターが 26.8%、ダークエネルギーが 68.3% と算定されている。つまり、人類の知らないダークな領域が、95% 以上もあるってことだ。
ずーっと昔に衝突した隕石と、今、衝突しようとしている彗星が、同じオールトの雲からやって来たとすれば、同種のエネルギーを帯び、互いに引き寄せ合っている... というのが筋書きである。この聖十字架にダークエネルギーを持った別の物質を反応させて対消滅させれば、彗星の軌道が逸れて、地球への衝突が避けられるって寸法よ。
したがって、シグマの使命は、量子のもつれを断ち切れ!落下した衛星の破片、すなわち、神の目がダークエネルギーを帯びているはずなので、こいつを回収し、十字架に重ねて量子エネルギーを対消滅させよ!

「私たちは星屑(ほしくず)でできている。私たちは宇宙が自らを知るための一つの方法なのである。」
... カール・セーガン

ところで、題目にあるチンギス・ハンといえば、中国北部、中央アジア、東ヨーロッパなどを次々に征服し、人類史上最大規模のモンゴル帝国を築いた人物。当時、世界人口の半数以上を統治したと言われる。彼には血に飢えた暴君のイメージがある一方で、先進的な考えの持ち主でもあったという。初めて国際的な郵便制度を確立し、外交特権という概念を取り入れ、政治の場に女性を登用し、それまでに類を見ないほど宗教に寛容であったとか。
彼が使徒トマスの聖遺物を大切に身に着け、墓場まで持っていったという筋書きも、もっともらしい。チンギスの死後、臣下たちは葬儀や墓の建設に関わった者を全員抹殺したという。そのために、陵墓の所在地は現在に至るまで謎のまま。陵墓には征服した土地から奪った財宝が隠されているとの噂が...

驚くべきことに、全世界の男性の二百人に一人が、チンギスと遺伝的関係があるという。モンゴルの男性にいたっては十人に一人が。これは、ハプログループ C-M217(Y染色体)を構成する 25 の遺伝子マーカーから実証されているそうな。一夫多妻制や数多くの国々を征服したことの痕跡が、遺伝子の征服にも現れているとは...

フン族の王アッティラの墓にも、チンギスと似たような状況があるらしい。アッティラの埋葬に携わった人々も全員抹殺されたとか。西暦 452 年、アッティラはローマへ侵攻したが、ローマ法王レオ 1 世と会見し、勝利を目前にしながら陣を引き払ったという。これは、歴史的にも謎とされているそうな。法王レオ 1 世は、ローマ救済のためアッティラに財宝を献上したかどうかは知らん。それも、強力な呪い?強力な魔除け?
そして、チンギス・ハンが征服の道のりでアッティラの墓を発見し、密かに財宝を受け継いだという筋書きである。結局、シグマの御歴々は、トマスの聖遺物に振り回されたってわけか。真実に翻弄され... 現実に愚弄され... 

「真実とは何か?過去について考えると、これは答えるのが難しい質問である。ウィンストン・チャーチルは、かつて『歴史は勝者によって書かれる』と語った。その通りだとすれば、本当に信用できる歴史的文書などありうるのだろうか?」

「現実とは何か?答えるのが極めて簡単であると同時に、極めて難しい質問でもある。この問題は長年にわたって哲学者と物理学者の双方を悩ませてきた。プラトンは著書『国家』の中で、本当の世界とは洞窟の壁に揺れる影にすぎないと述べた。奇妙なことだが、それから二千年以上を経て、科学者たちも同じ結論に達している。」

それは、量子のゆらぎってやつか...

2023-09-10

"条件なき大学" Jacques Derrida 著

小雨降りしきる中、古本屋で宿っていると、ある一文に引き寄せられる。おいらは暗示にかかりやすい...

「今からお話しすることは、おそらく、信仰告白のようなものとなるでしょう。あたかも自分の習慣を守らない許可を、自分の習慣を裏切る許可をみなさん方に求めるかのように振る舞う、そんな教師の信仰告白のようなものになることでしょう。」

「条件なき大学」とは、なんと大胆な題目であろう。ユートピアにでも誘おうというのか。ジャック・デリダは、自前の教育論で大雑把なテーゼを掲げる。それは、大学への信、特に、人文学への信である。大学は真理を公言し、真理に対して際限のない誓約を約束する、と...
真理の世界では、真実や真相が鍵となる。だが、なんでも議論の対象にでき、なんでも問い掛けができ、なんでもありの世界でなければ、深淵な思考は促せまい。思考を高めるためには、真実や真相だけでは足りないってことだ。それを尻目に文学の世界では、フィクションが大手を振って、まるで湯上がり気分の王子様気取り。悪魔や悪徳までも主役に仕立て上げる。デリダは、すべてを言う権利を文学調レトリックで唱えて魅せる。おまけに、きわめて難解な文体で、推理小説バリの演繹力を要請してきやがる...
尚、西山雄二訳版(月曜社)を手に取る。

「私の目からみると、文学はある種の特権を保持しています。文学はエクリチュールの出来事からこの特権を主題化するからです。また、文学はその政治的な歴史を通じて、『すべてを言うこと』を原理的に説明することに結びついているからです。『すべてを言うこと』によって、文学は独特な仕方で、真理、虚構、模像、学問、哲学、法、権利、民主主義と呼ばれるものに関係します。」
... ジャック・デリダ「中断付点」より

大学には自由なイメージがあり、大学は自由な研究の場であるべき、との主張にも頷ける。しかし、研究にはカネがいる。予算が貧弱だと、ろくな研究もできまい。では、スポンサーは?国が予算をつければ、国家や官僚が主導することになる。自由を信条とする大学が政治権力の影響下にあるとは、これいかに。現実に、大学は独立を主張することができずにいる。無条件を原則としたところで、同じこと。結局、教育論ってやつは、合目的性なんぞとは程遠く、市場原理やナショナリズムと結びつく。

自由主義社会だからといって、なんでも言えるわけではない。発言の自由には、社会的な責任がともなう。カントは、自分の理性を公的に使用する時は、いつでも自由でなければならない、といったことを主張した。私的に使用する時は、極めて制限されるべきとしながら。カントが生きた時代は、教会権力や国家権力による露骨な検閲制度があったが、21世紀の今、そんな制度は殆ど見かけない。少なくとも民主主義国家では。
だからといって、検閲もどきの機能がなくなったわけではない。ネット社会では、理性の検閲官どもがリアルタイムで監視し、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。
人は、自分の自由を主張しながら、他人の自由には厳しい。特に、批判的な態度に対して。となれば、例えばヘーゲル哲学を理解しようとすれば、ヘーゲル的な方法と非ヘーゲル的な方法を同時に用いるような、そんな二重思考を試みることも必要であろう。それには、健全な懐疑心、あるいは、健全な批判精神が求められるわけだが、これを実践するにはよほどの修行がいる。
カントの批判哲学は、自らを対立する立場に置くことで、デリダ流の「脱構築」を図ったという見方もできよう。同じやり方で、条件なき大学を論じれば、同時に、条件付き大学を論じることになる。そして、理想と現実のギャップを埋める作業に追われ、ついには、自ら理想高すぎ感を認めざるを得ない。
だから、冒頭の宣言のように「信仰告白のようなもの...」というわけか。だからといって、人文学に教育を救え!などと責任を押し付ける気にはなれんよ。デリダ先生!

本書は、教育論を通じて労働説にも触れている。デリダには、マルクスの労働価値説に対して強い意識を感じる。労働価値説そのものは、政治算術という考え方を提示したウィリアム・ペティに発し、マルクスは労働の剰余価値に着目して、これと利潤との関係を論じて発展させた。現実に、労働が経済的価値を生み出すが、経済的に豊かになってくると生活の余裕を感じ、労働意欲にも差異が生じる。かつて多くを支配してきた強制的、受動的な労働と、わずかに経済的に余裕のでてきた能動的、積極的な労働との間にも、利潤や合理性に差異が生じる。
デリダは、労働の終焉によって目的を成す、といった見方を提示する。もっといえば、従来の労働は終焉し、これから真の労働が始まる... とでも言おうか。大学の研究を従来型の労働と見なすなら、これからの大学の研究は新たな形の労働によってもたらされる。それが、真の人間らしい生き方を意味するのか知らん。人生に合目的なんてものがあるのかもわからん。
ただ、デリダ流に言えば、労働という概念の再構築を促し、労働の「脱構築」ということになろうか。そして、いまだ真の労働は生じておらず、労働の終焉が起源説になるといった表現となり、本書に提示される「労働の終焉 = 目的」という図式になるのではないかと... こんな勝手な解釈では、デリダ先生に叱られそう。
それにしても、これほど読み手に様々な解釈と想像を強いる書き手も珍しい。M には、たまらん!

2023-09-03

"精神について" Jacques Derrida 著

原題 "De l'esprit"
ドイツ語では "Geist"、ラテン語では "Spiritus"、英語では "Spirit"、そして、日本語では「精なる神」と書く。これらの用語は、人間性を表明する重要な意味を持つが、同時に、得体の知れない存在であることを黙認している意味もある。
同じ母国語を用いる人々の間でも、この用語のニュアンスは微妙に違うであろう。時には情熱的に、時には狂乱的に、時には哲学的に、時には弁証的に... それで議論が成り立っているのだから、やはり人間ってやつは、得体の知れない存在である。翻訳するのも困難であろうが、そこは慣例によって、だいたい一対一の語で定義づけされる。でないと、議論も成り立つまい...
尚、港道隆訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

「De l'esprit` これは大いにフランス語的なタイトルだ。Geist の le geistige や le geistliche(精神的なもの)を聴き理解できるようにするには、あまりにもフランス語的にすぎる。しかしだからこそ、ひとはおそらく、それをドイツ語としてもっとよく聴き取ることになるだろう。おそらく、いずれにせよ、その語を翻訳の試練にかけるべく一外国語の方から鳴り響かせておくならば、いやむしろ語の翻訳に対する抵抗を試練にかけるなら、われわれはこの語のドイツ性にもっと的確な形で敏感になるであろう。そして、われわれが自分の言語(ラング)を同じ試練に従わせるならば...」

副題には、「ハイデッガーと問い」とある。
ジャック・デリダは、ハイデッガー相手に、どんな対決姿勢を見せるというのか。ハイデッガーは著作「存在と時間」の中で警告したという。「いくつかの用語を避ける(vermeiden)べきである」と。それは、回避や否認という意味ではなさそうだ。存在を論じるには存在という用語から距離を置け!といった意味であろうか。翻訳できない用語があることを知れ!といった意味であろうか。そして、「精神」という用語も...
デリケートな用語を文章に直接流し込むと、文体のバランスを欠く。そうした用語から距離を置く記述のテクニックに、引用や原注といったやり方もある。
「精神」とは、神に近づきたいという切望から生じた用語であろうか。神を論じたければ、神という概念を創出した人間を論じる方が合理的かもしれない。それで存在を論じるのに無を論じるってか。自由意志を本望とする書き手は、自らの自由を拘束する。哲学ってやつは、チラリズムに看取られているらしい...

「私の知る限り、ハイデッガーは一度もこう自問しなかった。精神とは何か?と。」

デリダは熱く語る。「精神とは火、炎、燃焼である」と。
ちなみに、キェルケゴールは... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは、それ自身に関係する関係の... と、精神の正体をあらゆる総合的な関係で語った。
関わるものに対する情熱によって、あるいは、情熱をもって関わることによって自己が形成されていく。自己実現も、自己啓発も、自己陶酔も、自己泥酔も、なんらかの情熱に導かれ、精神あるところに、熱エネルギーを感じずにはいられない。
しかし、デリダの熱には、もっと重い意味が込められているようである。彼は、ホロコーストの時代を生きたアルジェリア出身のユダヤ系フランス人。古来人類は、街を焼き、建物を焼き、書物を焼き、そして、人間を焼いてきた。集団的な情熱が大衆を煽り、集団的な狂気が非人道的な行為へ走らせる。精神ってやつは、危険である。燃え上がると、更に危険である。
ハイデッガーは、精神を悪と認めつつ、その内にある純粋性を救おうと苦悶したようである。しかも、非キリスト教的に。だが西欧人にとって、キリスト教の呪縛から逃れることは容易ではあるまい。西欧哲学の弱点が、ここにあるのやもしれん。デリダは、それを指摘しているのだろうか...

「私は、亡霊と炎と灰とについてお話しようと思う。そして避ける(éviter)が、ハイデッガーにとって、何を言わんとするのかについて...」

デリダが唱える「エクリチュール」という概念は、なかなか手ごわい。とりあえず、思惟する主体の言明、あるいは、書き手の本質の言明、とでもしておこうか。
主体を言明する有効な方法に、書くという行為がある。書くことによって、思惟する自己を確認することができる。主観を観察するのに、客観的な視点は欠かせない。
だが、あまり文体や書き方に集中すると主体そのものを見失い、今度は思惟する自我と対決することになる。エクリチュールという概念をもってしても、やはり自我は手に負えないと見える。ならば、自我を避けるしかあるまい。だが、避けようにも自我の実体すら見えてこない。
ところで、デリダの文体は、翻訳の手口を拘束すると見える。翻訳者の愚痴まで聞こえてきそうな...

「翻訳は常に危険と裏腹だ。翻訳は文化の豊かさに寄与することもあれば、その足を引っ張ることもある。功罪の危うい活動である。そこに、我有化の欲望を持ち込むなら、デリダのテクストそのものを読んでいないという結果を排出するしかない。自ら著名をしたい欲望に突き動かされるのであれば、それ自体を私は否定しないが、そのことがデリダの問いかけを逸する確率を高くする。また翻訳するたびに、翻訳の政治性を改めて考えることを強いられる。『私はまだ読まれていないのではないか』という、不遜との印象を与えかねないデリダ最後のインタヴューでの発言も改めて真摯に受け取りたいと思っている。沈黙と饒舌との間に介在する沈黙の中で...」
... 港道隆