2020-09-27

"奇跡の脳 - 脳科学者の脳が壊れたとき" Jill Bolte Taylor 著

 ショパンの調べに乗せて、お決まりの TED.com を散歩していると、パワフルな脳科学者の Talk に出逢った。
表題 "My stroke of insight..."
stroke は脳卒中、stroke of ~ で、一撃で生じる、といった意味になる。なるほど、「脳卒中」という言葉に「衝撃による洞察やひらめき」といった言葉を掛けているわけか...
これに触発されて、竹内薫訳版(新潮文庫)を手に取る。

話し手の名は、ジル・ボルト・テイラー。脳神経科学の第一線で活躍していた彼女は、37歳のある日、脳卒中に襲われたそうな。幸い一命は取り留めたものの左脳が著しく損傷し、言語中枢や運動機能をはじめ、人格の制御回路までも機能しなくなったという。脳科学者が脳卒中になるとは、なんとも皮肉な運命。だがそれが、科学者として一段と覚醒させることに...
左脳マインドから解き放たれた右脳マインドは、自由奔放に振る舞う。言語中枢が機能しないために口うるさい人格から解放され、まるで大脳宇宙の右半球を謳歌するような。8年に及ぶリハビリを経て回復を遂げた彼女は、現在の心境を「ニルヴァーナ」と呼び、穏やかに語ってくれる。ニルヴァーナとは、インド哲学に由来する言葉で、輪廻からの解放といった意味が含まれる。
アーサー・C・クラークは、こんな言葉を残した... 十分に発達した科学技術は魔術と見分けがつかない... と。まったくである。
「波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の『やる』意識から右の脳の『いる』意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。過去や未来に想像を巡らすことはできません。なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。わたしが知覚できる全てのものは、今、ここにあるもの。それは、とっても美しい...」

ジルの言う脳の回復とは、どういう状態であろうか。「古い脳内プログラムへのアクセス権の再取得」といった定義をすれば、一部しか回復できていないという。脳の補完機能ってやつは、まさに驚異的!
左脳で損傷を受けた細胞を再生することはほぼ不可能でも、これを右脳でリカバリする可能性がある。意思の力がそうさせるのか。彼女は、脳内のニューロンの伝達経路を再構築したおかげで、左脳マインドに蔓延る嫌な人格とおさらばし、新たな人格を獲得したというのか。右脳マインドによって、悟りの境地を開いたとでもいうのか...
左脳マインドと右脳マインドは、まるでジギルとハイド。柔らかく言えば、建前と本音。本物語に、本音の解放という潜在願望を見る。
二重人格といった性質は、多かれ少なかれ、どんな人間にもあるのだろう。少なくとも、右脳と左脳で機能を分け合っているからには。その間にある脳梁ってやつのおかげで、絶え間なく情報交換することができ、互いに協調し合うことができる。それが、一つの人格の上で制御されているうちは可愛いもの。
しかし、自分の脳が発する言葉に耳を傾けることは難しい。自分自身の力で自我を覗くことは難しい。だからこそ、言葉を必要とする。とはいえ、言葉の力は、しばしば強すぎる。集団社会では尚更。自我を鎮めるには、少しばかり弱めておきたい。そして今、彼女は左脳が損傷したおかげで、言語機能が完全に沈黙してしまった。これを絶好のチャンスと受け入れるには、よほどの修行がいる...
「自己中心的な性格、度を過ぎた理屈っぽさ、なんでも正しくないと我慢できない性格、別れや死に対する恐れなどに関係する細胞は回復させずに、固体のようで、宇宙全体とは切り離された『自己』を取り戻すことは可能なの?あるいは、欠乏感、貪欲さ、身勝手さなどの神経回路につなぐことなしに、お金が大切だと思うことができるでしょうか?この世界のなかで、自分の力を取り戻し、地位をめぐる競争に参加し、それでも全人類への同情や平等な思いやりを失わずにいられる?」

ジルは、脳科学者らしく状況を観察し、事細かく自己分析を試みる。分析をするからには、それを記述する道具が必要だ。人間は、固体として存在している。少なくとも、そう意識しながら生きている。それを確かめるために言葉を欲する。
しかしながら、ジルは、自分の存在を流体のようだと語る。自然の中を流れ、春の風にでも揺られているような。彼女は、春風駘蕩の奥義を会得したのだろうか...
実は、人間精神を束縛しているものは、言葉かもしれない。言葉で組み立てられる論理的思考かもしれない。神が沈黙しているのは、自由を謳歌している証かもしれない。
そもそも、精神とはなんであろう。単なる原子の集合体ぐらいなものか。少なくとも脳の構造はそうなっている。ならば、原子の流れに身を委ねて生きるほかはあるまい。そして童心にかえり、脳の構築をやり直せるほどの流動性を会得したいものである...
「そもそも意識とは、機能している細胞による集合的な意識にほかならないとわたしは考えています。そして大脳半球の両方が補い合い、継ぎ目のないひとつの世界という知覚を生じさせるのだと、確信しています。」

DNA という分子は、地上で最も成功した遺伝プログラムかもしれない。人体を形成する細胞は、細胞核にある DNA の指令によって形成される。すべての型の細胞は遺伝子の組がほぼ同じ。遺伝子、RNA、タンパク質による複雑なメカニズムが、活性化部分のスイッチをオン/オフしながら多様な細胞をこしらえる。まるでプログラマブル・デバイス!
汎用的な論理セルが多数集積され、一つのセル内で必要に応じて配線をつないだり切ったりしてカスタマイズし、それぞれの機能の集合体として全体回路を構成するデバイスモデルに似ている。
となれば、左脳の死んだ機能を、右脳に復元させることも可能かもしれない。そもそも、人体の成長過程において、どの機能が右にあり、どの機能が左にあるといった基本的な配置が決まっているとしても、ニューロンの伝達経路まで同じとは言えまい。右利きの人もいれば、左利きの人もいる。そのネットワークの微妙な違いが、個性ってやつか。
右脳と左脳が持っているそれぞれの機能は、けしてバランスのよいものではない。大まかに、直観的にイメージする右脳と、言語的に考える左脳といった役割があるにせよ、概念や全体像を理解することに長けている人もいれば、記憶力や計算力に優れている人もいるし、たまには、左右で逆の役割を担っているかもしれない。人間らしさは、やはり気まぐれに求めたい...
「回復するまでに、頑固で傲慢で皮肉屋で、嫉妬深い性格が、傷ついた左脳の自我の中枢に存在することを知りました。エゴの心の部分には、わたしが痛手を負った負け犬になり、恨みがましくなり、嘘をつき、復讐さえしようとする力が残っていました。こんな人格がまた目覚めたら、新しく発見した右脳マインドの純粋さを台無しにしてしまいます。だから、努力して、意識的にそういう古い回路の一部を蘇らせずに、左脳マインドの自我の中枢を回復させる道を選んだのです。」

2020-09-20

"素数の音楽" Marcus du Sautoy 著

数学は、音楽とすこぶる相性がいい...
耳で感じる音律の概念は、オクターブの整数比で構成される。一つのオクターブを均等に十二分割したものは「十二平均律」と呼ばれ、「ドレミ」も、これに看取られている。
十二音の組み合わせは、ざっと数えて 12! = 479,001,600 通り。
音楽家たちは、この組み合わせの中から、魂をくすぐるパターンを見い出そうとする。いわば音楽は、音響組織の数学的合理化なのである。その合理化運動の歴史は、紀元前540年頃のピュタゴラスに遡る。そう、「万物は数である」という信仰だ。弦の長さを半分にすると、1オクターブ高い音が生じて元の音と調和する。この性質に気づくと、一弦琴で和音を奏でることができ、整数比からちょいと外れると、たちまち不協和音となる。
どうやら音楽は、数学に看取られているようだ。空を見上げれば、太陽も、月も、惑星も、多くの天体運動が数学に看取られ、天空の音楽を奏でている。音響工学で馴染みのあるデジタル信号処理にしても、フーリエ変換ってやつが正弦波成分と余弦波成分の和で幅を利かせ、周波数スペクトルという概念を与えている。音響組織は、このスペクトルに看取られている。
では、数学の素とされる存在は、どんな音楽を奏でているだろうか。それは、人間の耳で聴きとることのできる音楽であろうか。数学者マーカス・デュ・ソートイは、そんな問い掛けをしてくる...
尚、冨永星訳版(新潮文庫)を手に取る。

ところで、素数の意義とはなんであろう。それより小さな数の積では表せない存在。つまり、あらゆる数は素数の積で表せるってことだ。それは、物理学でいうところの原子のような存在か。あらゆる分子構造は原子の組み合わせでできている。素数の配列は、いわば、原子の周期表のようなものか。素因数分解は多くの物理現象の解析で重要な役割を担い、インターネットの暗号システムも素数なしでは存在し得ない。
ここで、ざっと素なる数を三つ拾ってみよう。

  {3, 5, 7} = 357 マグナム = コルト・パイソン

本書は、素数のプログラムを Python で書きたいという気分にさせやがる。おかげで、無矛盾コードの証明で翻弄される羽目に。それは、1オクターブ低い声に酔いしれ、自らのピロートークに翻弄されるに等しい... Q.E.D.

1900年、ダフィット・ヒルベルトは、新たな世紀の始まりを記念してドラマチックな公演を行った。聴衆に向かって、23 にも及ぶ未解決問題を突きつけたのである。まるで、20世紀という時代は、数学ですべての問題が解決できる世紀だ!と宣言したような...
確かに、問題の多くは解決された。しかし、21世紀の今でも取り残された問題がある。例えば、第8問題。それは素数に関するもの。素数が無限に存在することは、ユークリッドの「原論」にエレガントな証明が記される。
しかしながら、どんな風に出現するのか?どんな風に分布しているのか?そこに法則性は?と問うと、まるで見当がつかない。もし、素数の在り方がデタラメな配列だとすれば、単なる雑音ということか。あるいは、最も美しいホワイトノイズということか。素数が美しくも、単純でもないとしたら。いや、最も素である存在がノイズであってはならない。いや、そう信じたい。ただそれだけのことかもしれん。プラトンが、精神の原型であるイデアに完全美を見ようとしたように...

「数学が無矛盾なのだから、神は存在する。それを証明できないのだから、悪魔も存在する。」
... アンドレ・ヴェイユ


1. 篩にかけられた素数
最初に素数を篩にかけたのは、エラトステネスと伝えられる。彼は、指定した数より小さい素数を見つけるための単純なアルゴリズムを編み出した。そう、プログラミング学習の教材でも見かける「エラトステネスの篩」ってやつだ。
では、大きな数の方向に対しての素数の見つけ方はどうであろう。そもそも無限に存在することが分かっているのに、見つける意味があるのか。自然数の最大値は何か?と問うているようなもの。
とはいえ、そこに法則性が発見できなければ、せめて、より大きな素数は何か?と追いかけてみたい。それが、人情というもの。現時点で、人類が編み出した合理的な方法は、GIMPS というプロジェクトに垣間見る。それは、分散型コンピューティングによって、より大きなメルセンヌ素数を探すという試みである。
ちなみに、メルセンヌ数は、こんな形をしている。

  2n - 1

この形が素数になる場合があって、その計算のためにインターネットを介して世界中のリソースを総動員するわけである。素数を直接追いかければ、このような人海戦術的な発想にもなろう。
今のところ、51番目のメルセンヌ素数が発見されている模様(2018年時点)。

  282,589,933 − 1

一方、素数に新たな風景を見た数学者がいた。ベルンハルト・リーマンは、ゼータ関数を通してその風景を見たとさ。なにかとエイプリルフールの話題とされる数学の難問たち、「リーマン予想」とて例外ではない。
しかし、こいつの証明も叶わないとなれば、人海戦術的な発想に引き戻される。現代数学では、証明においてもコンピュータが大きな役割を果たしている。四色問題しかり、ケプラー予想しかり。人間が苦手とする、しらみつぶし的な方法論によって...
しかしながら、リーマン予想が、そういった類いの問題とは到底思えない。なにしろ、無限に存在するものを相手取るのだから。チューリングマシンにだって苦手な分野がある。それでも、今巷を賑わしている AI(人工知能)ならどうであろう。機械学習より賢そうなディープラーニングならどうであろう。リーマン予想の証明には、人間の能力を超えた証明アルゴリズムが必要なのやもしれん...

2. 素数の風景とゼータ関数の風景
リーマンは、ゼータ関数をこう定義した。

  ζ(s) = 

n=1
 1 
 ns 

こんなやつが、素数とどう関係するというのか。無限級数といえば、巨匠オイラーによる収束や発散の考察を思い浮かべる。オイラーは、調和級数の発散と素数が無限に存在する現象との間に、なんらかの因果関係がありそうな予感を匂わせた。指数関数に虚数を混ぜると三角関数になるというあの有名な公式も見逃せない。
さらに、リーマンは、ゼータ関数に虚数を何の気なしに混ぜてみたところ、素数の新たな展望が開けたという。そして、こんな予想を立てる...

「ζ(s) の自明でないゼロ点 s は、直線 1/2 上に存在する。」

ちなみに、s が負の偶数であれば、ζ(s) = 0 となり、自明なゼロ点は、s = -2, -4, -6, ... となる。
リーマンが注目したのは非自明な方で、その点在ぶりが素数の点在ぶりに重なるというのである。オイラーが調和級数の中におぼろげに見た素数の風景を、リーマンは解を複素数で抽象化することによって、より明確な素数の風景をあぶり出したというわけか。
ここで重要なのは、ゼロ点の存在位置を直線 1/2 上に決定づけていることである。つまり、これを証明するためには、位置を決定づける法則や公式が必要だってことだ。
ハイゼンベルクの不確定性原理によると、量子の位置と運動は同時に決定づけることができないことになっている。
では、ゼロ点の場合はどうであろう。振る舞いは決定づけることができなくても、位置だけでも決定づけることができれば展望が開けそうである。リーマン予想を証明するということは、ゼロ点の存在位置を決定づけることであり、素数の存在位置も決定づけられるかもしれない。ゼータ関数のゼロ点の風景は、素数の風景の投影というわけか。
しかしながら、この風景がどんな音楽を奏でているのか、人類にそれを聴く資格があるのか、まだ予想がつかない。

ところで、実数部の直線上にゼロ点が点在するとは、何を意味しているのだろう。ゼロ点を境界面にしながら、誤差のような余計な存在が奇跡的に相殺しあうとでもいうのか。量子力学ってやつは、真空に仮想粒子なるものを登場させたり、物質の誕生には反物質なるものを登場させたりと、何もない所でも負のエネルギーを登場させては都合よく宇宙を膨張させてしまう。プラスの現象には、マイナスの現象を無理やり登場させて相殺してしまえば、エネルギー保存則に矛盾せず、うまいこと説明がつくという寸法よ。ゼロ点境界面でも、それと似たような現象が起こっているというのか。
ある振幅の音と、それとは真逆の振幅の音がぶつかれば、互いに消し合い、そこに沈黙が生まれる。素数が奏でる音楽とは、崇高な沈黙なのであろうか...

3. ラマヌジャンの見た風景
分割数は、素数ほどデタラメに分布しているようには見えない。
とはいえ、ラマヌジャンが導いた分割数の公式は、なんじゃこりゃ!平方根やら、πやら、虚数やらが三角関数と複雑に絡み合い、微分まで顔を出してやがる。
Dn ときたら、まるで湯上がり気分の王子様気取り...

  P(n) =   1 
 π√2 
 

1≤k≤N
√k (  

h mod k
ωh,k e-2πi(hn/k) ) Dn  + O(n-1/4)

  Dn  d 
 dn 
{ ( cosh (  π√(n - 1/24) 
 k 
√(2/3) )  - 1 )/ √(n - 1/24) }

しかも、分割数の増え方は、量子力学や統計力学で分配関数と呼ばれるものに相当し、量子系のエネルギー準位を代弁するような関数だという。
ちなみに、フィボナッチ数にも自然界と不思議な関係が見て取れる。ヒマワリや松ぼっくりの種子の成長、巻貝の螺旋形状、兎の繁殖モデル、等々。フィボナッチ数列は黄金比に収束し、黄金比をもつ相似形には自然美に通ずるものがある。
だからといって、分割数の公式の複雑さは、自然美とは掛け離れ、とても人間業とは思えない。すると、デタラメ度からいって素数の公式は、もっと複雑になるというのか。やはり人間を超えた能力でなければ...

ところで、ラマヌジャンが示した無限和は、素人目にも驚異的である。

  1 + 2 + 3 + … + n + … = -   1 
 12

自然数の総和が、マイナスの分数に収束するというのだから、当初、奇人変人として相手にされなかったのも頷ける。これを変形すると...

  1 +  1 
 2-1
 +   1 
 3-1
 + …   1 
 n-1
 + … = -   1 
 12

なんと、ゼータ関数に -1 を入れた時の答えだ。これを発見したラマヌジャンの経歴も驚異的である。なにしろ、ヒンドゥー教の事務員からの転身だ。これも突然変異がもたらした自然美の一つであろうか...

2020-09-13

"代替医療解剖" Simon Singh & Edzard Ernst 著

著者サイモン・シンと翻訳者青木薫のコンビに触れるのは久しぶりで、「フェルマーの最終定理」、「暗号解読」、「宇宙創成」に続いて四冊目。共著者に名を連ねるエツァート・エルンストは、彼自身が代替医療に従事し、様々な治療法の有効性と安全性を検証してきた第一人者だそうな。
尚、「代替医療解剖」は、文庫版に際して「代替医療のトリック」から改題されている。「トリック」ってやると皮肉めいたものを予感させるが、「解剖」ってやると真実に寄り添う姿勢が感じられる。中身は、露骨なほどに皮肉が効いているけど。原題 "Trick or Treatment ?" らしく...

この物語は、二千年以上前、エーゲ海に浮かぶ島コスに生を受けたある人物の警句を指針にしているという。それは、医聖ヒポクラテスの言葉...
「科学と意見という二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む。」

科学は、真実について客観的なコンセンサスを得るために、実験や観察を繰り返し、議論を交える。一度結論に達してもなお、見逃している点はないか、間違いがありはしないか、とほじくり返し、自分自身の主張にも疑いの目を向ける。その意味では、自虐的な一面を曝け出すことに...
意見ってやつは、多数派に流されやすい。名声や権威ある者の意見なら尚更。主流派に逆らえば、理不尽な攻撃を喰らう。それは、医学界に限ったことではない。大衆社会では、最も宣伝のうまい者の意見が猛威を振るう。それだけに健全な懐疑心を保つには、よほどの修行がいる。本書には、「科学的根拠にもとづく医療」という言葉がちりばめられる...

ところで、医学は科学であろうか。いや、科学だ。間違いなく。いや、おそらく。では、医学に寄り添う医療はどうであろう。科学にも限界がある。けして万能ではない。少なくとも人類の知識では...
医療の現場では、しばしば身体の病よりも精神の病の方が手ごわい。しばしば医師の言葉よりも看護師の言動の方が頼りになる。
代替医療は、より正確に書くと「補完代替医療」となる。通常医療を補完する治療法ならば、それほど目くじらを立てることもあるまい。
しかし現実には、完全に独立した形で施術されるケースがあまりに多い。医師の意見を無視して併用したり、完全に通常医療に取って代わったりと。しかも、代替医療業界は、いまやグローバル産業に成長した。本書は、代替医療を「主流派の医師の大半が受け入れていない治療法」と定義し、何百万もの患者が、あてにならない治療法に金を使っている状況に苦言を呈す...

とはいえ、主流派の医師にも問題はあろう。そもそも、なぜ代替医療に駆け込むのか。通常医療に不満を抱く患者も少なくない。言いつけを守らないと、まるで罪人扱い。権威的で... 強制的で... 他の病気になりそう... そんな医師も少なくない。セカンドオピニオンといっても、なかなか言いづらい空気がある。そして、もういい!他の病院に行く!ってなる。言いやすい医師ほど、セカンドオピニオンなんて用語はあまり必要あるまい。すすんで別の病院や優秀な専門医を紹介してくれる医師もいるし、セカンドオピニオンによって横の繋がりを歓迎する医師もいる。
病は気から... とも言うが、人間精神において、気休めの占める領域は意外と大きい。プラセボ効果だって侮れるものではない。
ちなみに、うちの婆ぁやときたらジェネリック薬に拒否反応を示す。その薬のせいか分からないが、一度気分が悪くなって、ジェネリックと聞いただけでアレルギーときた。入院すると、国が奨励しているらしく、ジェネリック薬を強制されるので、病院にいるとかえって精神を病むから頭が痛い。おいらの場合は逆に、なるべくジェネリックを選択するようにしている。安ければ...
医者にかかれば、なにかと薬漬けにされる昨今、やはり気分の問題は大きい。合理性には、精神的合理性と物理的合理性があり、あとは使い分けるだけのこと。結局は、自己満足ってことか。自己陶酔ほど心地よい精神状態もなかろうて。
また、病気ってやつは、医師が一方的に患者を治してあげるというものでもあるまい。医師と患者が協力して立ち向かっていくものであろう。そこで、本音で語り合える主治医に出会えることを願うが、それにはちょいと運がいる...

1. 主要な四つの代替医療
本書は、主要な代替医療として、鍼治療、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法の四つに焦点を合わせ、付録では、三十以上もの治療法について外観させてくれる。

鍼治療...
古代思想を受け継ぎ、生命力の源泉とされた気の流れに応じた治療法。気の流れは体内の決まった経路を通り、これに沿って点在する経穴、すなわち、ツボを刺激することによって、気の流れを妨げているものを取り除く。古代の入れ墨でも、この経路に沿って掘られたという説を聞いたことがある。古代医学の気の流れは、近代医学の血液の流れと重なる。実際、瀉血があらゆる病気の治療法として用いられた時代がある。古代ギリシアから中世ヨーロッパに至るまで。ただ、おいらは鍼が恐い!

ホメオパシー...
同質療法とも呼ばれ、「類が類を治療する」という原理を利用する治療法。病気の原因となる物質が治療にも役立つという考えは、体内で抗体を形成するプロセスとも重なる。

カイロプラクティック...
脊椎を手で調整(アジャスト)して、腰痛の治療を行う。脊椎に与えた刺激は、神経系統を介して身体全体に渡り、今では、喘息をはじめ、どんな病気にも有効だとする医者が多数いるという。イギリスでは、主に腰痛や頚部痛の治療法として医療システムに組み込まれているとか。

ハーブ療法...
植物や植物エキスを用いる治療法。各地域に生息する植物と結びつき、最も古い歴史を持つとされる。おいらには、治療法というより健康法というイメージが強いが、どんな病気や予防にも効くと過大宣伝されるケースも見かける。

これら四つの代替医療は、それぞれに原理はもっともらしく、まだ良心的な方であろう。本書は、いずれの治療法にも、「プラセボ」が大きな役割を果たしているとしている。
とはいえ、人間にとってこれが一番効果がありそうな気がする。深刻な病でない限り。人間は感情の動物だ。主治医の言葉にしても、治療法を理解した上で任せているというよりは、医師を信じて任せている。科学的根拠と言われても、無知者は信じるほかはない。
例えば、地球が丸い!地球は太陽の周りを回っている!なんて常識とされる知識も学校で教わっただけのことで、自分自身で確かめたわけではない。ほとんどの知識が、信じるか、信じないか、で成り立っている。少なくとも、この酔いどれ天の邪鬼の場合は...

付録に目を向けると、胡散臭いものが勢揃い。おいらがよく利用するものでは、リラクゼーション、リンパドレナージュ、リフレクソロジー(足つぼ)、マッサージ療法といったところ。もっとも医療という意識はない。単なる気分転換。仕事で膠着状態にある思考回路を揉みほぐしてやるために。その意味では、バーに行ったり、バーバー(理髪店)に行ったりするのと同じ感覚。いくらなんでも、マッサージ師に癌を治してくれ!などとは言えまい。
しかしながら、藁にもすがる思い... という患者も少なくない。科学的に証明されてからでは遅すぎるという深刻な患者が。だから、現時点で科学的に立証できていなくても、近い将来、立証されそうな予感のする代替医療に縋る。だからこそ、本音で語り合える主治医が必要なのだ。
ちなみに、本書でも挙げられるサプリメントや漢方薬だが、これらを嫌う医者は多い。いや、勧める医師を見かけたことがない。西洋医学の立場では、そうなるのだろう。自然治癒を信条とする医師なら見かけたことがある。本人が病気になっても、絶対に痛み止めを飲まないそうな。痛みを感じるのは治癒に向かっている証拠で、自然治癒こそが最高の治療法というわけである。さすがに患者には処方するらしいけど...
他人から見れば、詐欺にあっているようでも、本人にしてみれば、安心を買っているということがある。宗教もその類い。お布施を捧げたから、今の災厄で済んでいると信じている人も少なくない。お布施を捧げなかったら、もっと酷い災厄にあっているはずだと。それで慰められるなら、これも見返りの原理というものか...

2. 臨床試験における客観性の壁
臨床試験の現場に目を向けると、客観性の壁にぶち当たる。そもそも、一人の患者で、一つの薬を投与するかしないか、一つの治療法を施すかしないか、ということができない。となれば、ある程度似たような症状の患者を集めて、同じ条件で試験をし、多くのサンプルを集めるしかあるまい。
しかしながら、同じ条件というのが、なかなかの曲者!条件設定をするのは観察者であり、それによって得られた統計情報は解釈の余地を与える。ベンジャミン・ディズレーリは言った... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と。
著名人あたりが、この薬が効きました!などと、ちょいと吹聴すれば、製薬会社はたちまち大儲け、ヘタをすれば政治利用される。もっとも本人は利用されているなどとは思いも寄らない。人間の性癖の一つに、自分が良い目に遭うと、他人に喋りたくて勧めたくなる、という衝動がある。布教の心理学とでも言おうか...
本書は、「ランダム化プラセボ対照二重盲検法」という用語を持ち出す。盲検法では、患者に薬や治療法を伝えすに試験をやることによって、患者側の意識バイアスを抑制する。さらに二重盲検法では、医師にも伝えず、観察者側の意識バイアスも抑制する。しかもランダムで。こうした多重条件下で、プラセボに対処している臨床試験の現場を紹介してくれる。

3. 瀉血と四体液説
瀉血は、四体液説によく馴染んだ治療法である。四体液説では、人体に「血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液」の四種類の体液が存在するとし、それぞれの性質と病理を関連づける。今日でも、四体液説のなごりを耳にする。あの人は、多血質でほがらかだとか、胆汁質でかんしゃくもちだとか、黒胆質で憂鬱症だとか、粘液質で無気力だとか。血気盛んという言い方も、その類いであろうか...
古代ギリシアの医師たちは、血液が体内を循環していることを知らず、病気になるのは血液がよどむためだと信じていたという。そこで、よどんだ血を取り除くことを主張し、病気に応じて方法論まで提示したとか。肝臓の病気には右手の血管を切り、脾臓の病気には左手の血管を切るといった具合に。
中世には、瀉血を受けられるほど裕福な患者は、修道士にその処理してもらったとか。1163年、ローマ教皇アレクサンデル三世は、修道士がこの血なまぐさい処置に携わることを禁止し、代わりに床屋が瀉血をやるようになったという。瀉血用の医療器具も進歩し、医療用ヒルまでも用いられる。ヒルは高額で売買され、市場を賑わしたとさ...
そういえば、理髪店の看板が赤白の縞模様で螺旋状に回転するのは、外科医の役割を果たしていた名残りとも言われるが、瀉血をやっていたことと関係があるらしい。赤は血液、白は止血のための包帯、円柱のてっぺんにある球は、真鍮製のヒル盥、そして、円筒自体は血液の循環を促すために患者に握らせた棒の象徴だとか...
ちなみに、アメリカ合衆国の建国の父とも言われるジョージ・ワシントンが瀉血で亡くなったとは知らなんだ。もともと持病があったようだけど。最初は風邪らしき症状で瀉血をし、さらに苦しみがるので瀉血を繰り返し、1リットルもの血を抜いたとか。偉大な人物の死は、伝統的に崇められてきた治療法に対して、医師たちが疑問を呈すきっかけになったとさ...
歴史は皮肉なもので、医者にかかれる裕福な人よりも、医者にかかれない人の方が死亡率が低い時代があったようである。瀉血が人口制限に一役買っていたのかは知らんが、ヴォルテールはこう書いたという...
「医師というのは、ろくに知りもしない薬を処方し、薬よりもいっそうよく知らない病気の治療にあたり、患者である人間については何も知らない連中である。」

4. 英皇太子に捧ぐ...
ところで、表紙の扉を開くと、いきなり意味ありげなフレーズが飛び込んでくる。「チャールズ皇太子に捧ぐ」と...
いち早く代替医療に関心を寄せた英皇太子は、通常医療との協力を奨励して「統合医療財団」を設立したという。科学ジャーナリストとして知られるサイモン・シンは、科学的根拠の示されない治療法に対して懐疑的な立場。実際、代替医療と呼ばれるあらゆる治療法に、多くの医師が疑いの目を向けている。
2008年、サイモン・シンは英国カイロプラクティック協会に名誉毀損で訴えられた。そう、本書が扱う四つの代替医療の一つだ。批判の矛先は、WHO や MHRA(英国の医薬品・医療製品規制庁)にも向けられる。翻訳者が改題したのも、こうした背景があったからであろうか...
ちなみに、イギリスでは、こうしたケースで名誉毀損で訴えられると、まず勝ち目がないという事情があったそうな。今は知らんが。国際的な団体や企業が事実上の口封じのために、イギリスを裁判地に選ぶことがよくあったとか。今は知らんが。国際司法界で噂される「名誉毀損ツーリズム(Libel Tourism)」ってやつか。自分に有利な判決が下される見通しのある外国の裁判所を探し回っては、そこに提訴するって寸法よ。
案の定、サイモン・シンは裁判に負け、裁判費用の負担ばかりか、多大な時間とエネルギーまでも奪われたという。しかし、科学者やジャーナリストたちが立ち上がり、これにコメディアンや芸能人なども加わって、カイロプラクティックを誇大宣伝するウェブサイトの摘発キャンペーンを展開。カイロプラクティック協会は、会員にサイトを閉鎖するよう通達したメールまでもリークされ、2010年に訴訟を取り下げたとさ...

2020-09-06

"リア王" William Shakespeare 著

かの四大悲劇を、ハムレットの復讐劇、マクベスの野望劇、オセローの嫉妬劇と渡り歩けば、トリは老王の狂乱劇ときた。やはり歳は、トリたくないもんだ。
シェイクスピアに魅せられると、人生ってやつがいかに悲劇の連続であるか、そして、道化を伴わず生きてゆくことの難しさ、そんなことを再認識させられる。老いてゆくには、苦難を笑う奥義を会得せねば...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。
「年寄りになるのは、智慧を貯めてから後の事にして貰いたいものだね。」

四大悲劇の魅力といえば、なんといっても道化が登場するところ。真理を語らせるには、この世から距離を置くものの言葉が説得力を持つ。人間が語ったところで、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。
ハムレットとマクベスは、この世のものとは思えぬ存在に操られ、オセローは現世を生きる安っぽい存在にしてやられた。道化は至るところで姿を変え、もはや、この世のものやら、あの世のものやら。
そして、道化の最高峰の作品が、この「リア王」。ここでは、現世を生きる道化役が堂々と道化を名乗る... この身はリアではない。こんな惨めな人間が俺であるはずがない。お前は誰だ。俺をよく知る者か。おいらはアホウ。爺様の影法師さ!... と。
人生なんてもんは、道化を演じながら生きているぐらいなものかもしれん。猿の仮面をかぶれば猿に、武士の仮面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じてゆくか。
そして気づく。自我を救う唯一の道が、狂気であることを。悲劇とは、まさに劇薬。それは滑稽劇のことを言う...
「然り、その通り、お前さん、結構いい道化になれるぜ。」

さて、この滑稽劇の筋書きを綴ろうとすると、道化のヤツが熱くさせやがる。こいつは、シェイクスピアの分身か...
まず、ブリテン王リアは、二人の客、フランス王とバーガンディ公爵を招いて宣言する。三人の娘に領土を譲って引退し、最も孝心の厚い娘に最大の恩恵を与えると。老リアは、長女ゴネリルと次女リーガンのえげつない甘言を大いに喜ぶが、末娘コーディーリアの実直な言葉に激怒する。「愛情は舌よりも重い」とコーディーリアが沈黙すると、「無から生じるものは無だけだぞ!」とリアは言い放ち、勘当したのだった。フランス王とバーガンディ公爵は、コーディーリアを嫁に迎えようと競っていたが、勘当の身となれば持参金もなく、バーガンディ公爵は辞退し、フランス王はそれでも連れ帰る。
そして、王の権力と財産のすべてが二人の姉に渡った時、老王はますます老いていったとさ...
道化が歌う...

「親爺ぼろ着りゃ、子は見て見ぬ振り
親爺財布持ちゃ、子は猫かぶり
運の女神は、名うての女郎
銭の無いのにゃ、何で戸を開けよう」

長女ゴネリルがやってくると、道化が愚痴をこぼす...
「こいつは驚いた、お前さんと娘共とは一体どういう血の繋がりがあるのかね、あの連中は俺が本当を言うと鞭をくれる、お前さんの方は嘘をつくと鞭だという、そうかと思えば、時には、黙っているからといって打たれる事もあるがね。つくづく思うよ、何になるにしても、道化だけはなるものではないね、といって、お前さんになるのも御免だよ、おっさん、お前さんという人は自分の智慧を両端から削って行って、中身が何も残らなくしてしまった人だね。それ、そこに、削り落しの一かけらがやってくる。」

老王は娘たちに放り出され、道化とともに荒野をさまよう。
「墓の中にいたほうが、まだしも楽であろう... 人間、外から附けた物を剥がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな二足獣に過ぎぬ。」

ここで重要な役割を演じるのが、忠臣ケント伯爵。彼はコーディーリアをかばって共に追放されるが、風貌を変えて別人を装い、老リアに再び仕える。だが、老いぼれには、ケントの忠節さえも救いにならないと見える。そして、リアの家来というだけで足枷を嵌められると、道化の解説付きという親切ぶり...
「は、は、は!ひどい脚絆があったものだ。生き物を繋ぐには急所があって、馬は頭、犬や熊は首、猿は腰、人間ならば脚と相場が決っている。殊にあちこちほっつき歩いて脚を使い過ぎると、必ず木製の靴下を穿かされるものさ。」

おまけに、リア王親子を投影するかのように、グロスター伯爵親子の滑稽劇を物語るという二重仕立て...
グロスター伯爵の庶子エドマンドは、父を奸計に陥れてグロスター伯爵の嫡子エドガーを勘当させ、領地を相続する。エドマンドは、次女リーガンの夫コンウォール公爵の目に留まり、召し抱えられる。グロスターは、リアの身を他人事とは思えず補助したために、リーガンの命で両目を抉られる。
そして、放り出されたグロスターは、自ら勘当したエドガーと、なんの因果か再会することに。愚かな盲目の父と、父の生贄になった乞食とは、妙に気が合うらしい。
「誰が言えよう、俺も今がどん底だ、などと... どん底などであるものか、自分から、これがどん底だ、と言っていられる間は。」
エドガーは、ドーヴァーの崖に父を連れ、その自然の景色を描写して聞かせる。盲目の絶望を弄ぶかのように。
父グロスターの思いは、この場で飛び降りて、死なせてくれ!といったところ。そこに、狂った老リアが合流する。
「今は末世だ、気違いが目くらの手を引く。」

老リアは愚かだ。そして、狂った。狂ったがために、王位という虚飾の中に人間存在の虚飾を見た。狂気とは、愚かの進化形か。
グロスター伯も愚かだ。そして、盲目にされた。盲目になったがために、真の人間存在を見た。盲目もまた、愚かの進化形か。
神は、狂人にしかまともな世界を与えんのか。盲人にしか真理を見せんのか...
「人間が虫けらの様に思われて来た... いわば気まぐれな悪戯児の目に留まった夏の虫、それこそ、神々の目に映じた吾らの姿であろう、神々はただ天上の退屈凌ぎに、人を殺してみるだけの事だ。」

ところで、この物語で踊らされているのは、男か、女か。実行犯は、ことごとく男ども。父を放り出すのが娘たちの夫ならば、グロスター伯爵の目をえぐるのも次女の夫。老リアが孤立した知らせを受けてフランス軍をドーヴァーへ派遣するのも、フランス王妃となった末娘の進言。男性社会などと息巻いている男どもをからかうかのように...
結局、フランス軍はエドマンド率いるブリテン軍に敗れ、リアとコーディーリアは捕らえられる。ゴネリルとリーガンは、夫そっちのけでエドマンドの男っぷりに惹かれる。ゴネリルは、あの人の事で妹に負ける位なら... と、リーガンを毒殺。わたくしが法よ...
そして、ゴネリルも自ら胸を刺して命を絶つ。こんなえげつない女がなんで自ら。女心は男には永遠に分からんだろう。エドマンドは二人の姉と誓い合った男。死者二人と婚礼を挙げりゃいい... とでも。
ゴネリルとリーガンの遺体が揃って運び入れられると、そこに、コーディーリアの遺体を抱いた老リアが入ってくる。コーディーリアは、獄中で絞め殺されたのだった。ついに老いぼれは、絶望のうちに死ぬ。
こうして、老リアと三人の娘は、死者となって再会したとさ...

最後に、ちと脱線するが... いや、筋書きだって結構脱線してるけど...
「リア王」をモチーフにした黒澤映画「乱」について、ちょっぴり触れてみたい。設定を日本の戦国時代に移し替え、王女三姉妹の代わりに武将三兄弟を登場させた物語である。そして、シェイクスピアが乗り移ったような台詞を道化に吐かせる。
「こいつはめでたい!狂った今の世で気が狂うなら気は確かだ!」
"In a mad world, only the mad are sane!"

本書の中にも、これに近い台詞を見つけることができなくはないが、これといって特定することは難しい。原文を読んだわけではないので何とも言えないが、むしろ、あちこちに散りばめられた道化の台詞を一言で表現すると、こうなりそうな。あの世で、シェイクスピアが黒澤明に座布団一枚!なんて言ってそうな。もしかしたら、シェイクスピアが他の場所で似たような言葉を漏らしたのかもしれないが、いや、乗り移ったような...
それにしても、道化の台詞を追っかけるだけで哲学できちまうんだから、おいらはイチコロよ...

「何と王様、狂うたか、アホウを相手に、いない - いない - ばあ」

「智慧の無い奴は、狂わぬうちに...」

「頭を突込む家を持つためには、まずその前に頭を持つ事だ。」

「逃げたヤクザは、アホウになるが、アホウは決して、ヤクザにゃならぬ...」