2022-08-28

"日本の酒" 坂口謹一郎 著

この書を前に、純米酒やらずして無礼であろう。今宵は酒の精にあやかり、老子の言葉を引く、上善!水の如し...

酒の発祥は知らない。「猿酒」と言うぐらいだから、人類の発明ではあるまい。まさか猿でもあるまい。果実などの養分が地面に落ちて腐り、それが雨水などと混ざって樹木の窪みなどに溜まり、偶然できちまったものを通りかかった人が口にした... などと想像する。
とはいえ、麹菌を発見したのは、やはり人間であろう。これを繁殖させる技術を編み出したのも、やはり人間であろう。自然界の化学反応に看取られた酒造りの世界は、伝統によって近代科学を凌駕した酒の化け学とでもしておこうか。
本書は、醗酵学者の目で日本酒造りの世界を熱く語ってくれる。酒造家魂には、なにやら技術屋魂に通ずるものがある...

「日本の酒は、日本人が古い大昔から育てあげてきた一大芸術的創作であり、またこれを作る技術の方から見れば、古い社会における最大の化学工業の一つであるといえる。」

日本酒造りは、「一麹、二酛、三造り」と言われる。良い麹なくしては始まらぬ。
麹とは、蒸した米に麹菌というカビを生やしたもの。カビってヤツは、腐った物や毒物といったものを連想させる。人や組織が古臭く、時代にまったくついていけないような状況でも形容され、カビの生えた野郎!といった表現があるぐらい、巷ではケチョンケチョンな言われよう。そんなカビの胞子を混ぜて造る飲み物とは、いったいどんな飲み物か...
一方で、清酒と呼ばれるヤツがある。腐ったものを混ぜて清いとは、これいかに。御神酒ってヤツもある。半ば腐った物を神様にお供えするとは、これいかに...

カビといっても、善玉と悪玉がある。麹カビは日本酒や焼酎だけでなく醤油や味噌を造る時にも使われ、青カビはチーズを造る時に使われる。
ちなみに、青カビの周りにバクテリアが生えない性質から、ペニシリンが発見された。ペニシリンという名はアオカビの属名に因んだものらしい。対して、食パンやお餅に生えるカビなどは有害とされ、小学校の理科の実験で繁殖させた記憶がかすかに蘇る。

そもそも「腐る」とは、どういう現象を言うのであろう。物質は一定時間を置くと化学反応を起こす。だから、「化け学」と言う。腐るとは、それが人間にとって有害となる場合に、そう言うだけのことか。つまりは、人間のご都合主義か。口にすれば健康を害し、近寄れば悪臭たちこめ不快にさせる。そんな腐り物が、動植物にとっては養分になる。
とはいえ、清酒だって、やりすぎれば身体に悪い。
酒造りとは、腐らせずに名酒にする技術を言うのか。あるいは、腐らせ方の奥義を言うのか。程よく腐らせれば、「熟成」と呼ばれる。人間然り、ちょいと腐らせた方が、人格もまろやかになると見える...

古くから、「名酒はよい水から生まれる」と言われる。理屈の上では、麹の力を引き出すのによい性質の水もあれば、酵母の醗酵に好都合なミネラルを含む水もある。
例えば、宮水は、昔から日本酒に適しているとして知られる。西宮神社の南東側から湧き出る「西宮の水」のことで、三方からの影響を受けいてるという。一つは、夙川の伏流水。二つは、六甲山から流れ出る炭酸塩を含んだ水。三つは、海からの塩分を含んだ水。これらが合流して燐酸や加里を多く含んだ水となり、酵母の養分に具合がいいらしい。自然界が創り出した偶然の賜物というわけか...

また、麹菌の純粋性を保つために「灰」を使うという。蒸米に灰をかけて麹を造ると、麹菌はよく生えるが、アルカリに弱い他の雑菌は生えることができないそうな。灰には害菌を防ぐ作用があるばかりか、灰に含まれる燐酸や加里が麹菌を育てる養分になるとか。しかも、灰の中の微量な銅や亜鉛などや、その他のミネラルが胞子を多くつけ、色もよくさせるそうな。灰の力、恐るべし!そりゃ、ピート香に誘われるのも無理はない...

さらに、日本酒造りで特徴的な方法に、「火入り」というものがあるという。50 度から 60 度くらの低温で殺菌する方法で、フランスでは「低温殺菌法」がパスツールによって発表されたが、それよりもずっと前からの伝統手法として日本酒造りに用いられているらしい。
そういえば、現在でもパスチャライゼーションという殺菌法を耳にする。低温殺菌牛乳といった商品も目にする。
科学的根拠とは別に、職人の勘と技で磨いてきた方法論は、まさに技術国の片鱗を見る思い。火入りの主な目的は殺菌だが、それとともに熟成の効果も狙っているようである。

こうして酒造りの工程を見渡すと、偶然というか、自然というか、うまいこと化学反応が寄与していることが見て取れる。
古くから、人類には火を崇めてきた歴史がある。屍体を焼くのは素朴な土に戻すためとも言われ、着ていた物や使用していた布団も焼いたりする。
しかしながら、バクテリアの中には、そんな風習を物ともせず、焼かれて灰になってもなお生き残る連中がいる。これが純粋性というヤツかは知らんが、このしぶとい奴らのお陰で、腐ったものにも価値を与えてくれる。
例えば、100 度ぐらいの沸騰水の中でも短時間なら平気なバクテリアがいる。こんな奴らを殺すには、缶詰のように高圧蒸気で 100 度以上に加熱する必要がある。

ところが、だ!
幸いなことに、酒のような酸性の強いものの中では繁殖できない性質を持っていて、それ故、カビや酵母を殺すことのできる 50 度から 60 度ぐらいの低温でも、5 分から 10 分ぐらいで殺菌効果が得られるという。
さらに、「火落菌」という酒好きの菌があるらしい。他のバクテリアは、牛乳、肉汁、野菜スープなどの中で喜んで生えてくるのに、こいつだけは一向に生えてこない。
ところが、だ!
わずかの清酒を入れると、盛んに生えてくるという。おまけに、こいつが清酒ではなく、葡萄酒やビールを入れたのでは決して生えてこないというから、摩訶不思議!
こうした醸造技術は、論文になることもなく、研究発表されることもなく、むしろ極秘とされてきた。ひたすら味の極意を会得しようとしてきた化学技術の結晶を見る思い。
本書の冒頭には、日本酒づくりの光景を思い浮かべる歌が紹介される。喜びは、味と香りの出来栄え、それと喉越しに尽きるというわけか...

「夜のうちに湧きつきにけりフラスコの液のおもてに泡ぞみなぎる
 つつしみて護りし種ゆまさしくもたふときいのち生(あ)れいでにけり
 うたかたの消えては浮ぶフラスコはほのぬくもりて命こもれり
 見入りたる接眼鏡(オクラル)のはての薄明にこの世のほかのいのちひしめく
 たまゆらに視野を横切るものありて待ちはてにつる心ときめく

 かぐはしき香り流るる酒庫(くら)のうち静かに湧けりこれのもろみは
 留うちて後は静かやあけくれにうつろふ泡のゆくへをぞ守(も)る
 冷え冷えと寒さ身にしむ庫のうち泡の消えゆく音かすかなり
 湧きやみて桶にあふれし高泡もはだれの雪と消え落ちにけり
 泡蓋を掻けばさやけきうま酒の澄みとほりてぞ現はれにける
 泡分けてすくひとりたる猪口(ちょく)のうちふくめばあまし若きもろみは
 待ちえたる奇しき香りのたちそめて吟醸の酒いま成らむとす

 うまさけはうましともなく飲むうちに酔ひての後も口のさやけき」
... 「歌集 醗酵」より

2022-08-21

"書物の破壊の世界史 シュメールの粘土板からデジタル時代まで" Fernando Báez 著

破壊された書物を紹介する本が、ある種の目録になっている。過去に灰になった本に泊がつくのも、皮肉な話である。
破壊がすべて悪とは言えまい。創造あるところに破壊あり。人類の歴史は、創造と破壊の繰り返しであった。創造主は同時に破壊者でもある。大地を揺るがす地震は神の怒りか。一瞬にして暗闇にしてしまう日食は神のお告げか。破壊の神話は救済の神話にもなってきた...
尚、八重樫克彦 + 八重樫由貴子訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

「人間が創り出したさまざまな道具のなかでも、最も驚異的なものは紛れもなく書物である。それ以外の道具は身体の延長にすぎない。たとえば望遠鏡や顕微鏡は目の延長でしかないし、電話は声の、鋤や剣は腕の延長でしかない。しかしながら書物はそれらとは違う。書物は記憶と想像力の延長なのである。」
... ホルヘ・ルイス・ボルヘス

破壊者たちは、なにゆえ書物を恐れるのか...
書物の破壊は、自身の愚かさや無知に気づかぬ者の所業と思われがちだが、それはまったくの見当違いだという。
ビブリオクラスタ(書物破壊者)とは、むしろ用意周到な人間を言うらしい。頭脳明晰で世情に敏感、完全主義者で注意深く、並外れた知識の持ち主、抑圧的で批判を受け入れることが苦手、利己主義で誇大妄想癖あり、比較的恵まれた家の出で幼少期にトラウマを抱え、権力機関に属していることが多く、カリスマ性すら持ち合わせているとか。
確かに、無教養な人間が書物を恐れる理由は見当たらない。哲学者や作家が、書物の破壊行為を公言した例も多い。ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」によると、プラトンですら論敵デモクリトスの著作を燃き、自作の詩も焼いたという。書物は、迫害の目的だけで焼かれるわけではない。自身の落胆や失望までも絡む。作家が、自らの作品の不完全さを嘆き、処分を遺言する事例も見かける。ウェルギリウスは、未完に終わった長編叙事詩「アエネーイス」の焼却を遺言したと伝えられる。

図書館戦争ともなると、血なまぐさい歴史が浮かび上がる...
アレクサンドリア図書館の変遷には、黒い噂がつきまとう。真の創始者とされるデメトリオスは、エジプトコブラの犠牲になったと伝えられるが、それは事故か、自殺か、それとも他殺か。検死をした医師たちは沈黙を守ったとされるが、それは保身のためか。女性天文学者ヒュパティアの悲劇は、映画「アレクサンドリア」にも描かれる。ギリシアとローマの伝統を併せ持つコンスタンティノープルでも、図書館は焼かれた。プラトン、アリストテレス、ヘロドトス、トゥキュディデス、アルキメデスらの功績が灰に...

「コンスタンティノープルの略奪は歴史上でも類を見ぬ性質のものだ... 第四回十字軍以上に、人類に対する最大の犯罪はないと思う。」
... 歴史家スティーヴン・ランシマン

イスラム世界には、「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」という学術機関があったそうな。コンスタンティノープルから難を逃れた人類の叡智を、フナイン・イブン・イスハークやサービト・イブン・クッラといった翻訳家たちが辛うじて救った。それでも、ほんのわずかであろうが...
イスラムの科学者たちは、古代ギリシア、インド、ペルシア、バビロニア、中国の知的遺産をアラビア語に翻訳することで、自らの文化に取り入れたという。そして、継承した遺産に独自の思索と研究を加え、昇華させた上で西洋社会へ引き継いだ。アッバース朝の時代には、個人図書館を有する者も多かったとか。彼らの意思を継ぎ、翻訳や写本の絶え間ない努力によって、今日まで叡智が生き残ってきたことはありがたいことである。コンピュータ工学に欠かせないアルゴリズムの語源になったフワーリズミーの功績も...
そして、知恵の館もまたモンゴル帝国の侵略によって灰燼に帰す...

「本を燃やす人間は、やがて人間をも燃やすようになる。」
... ハインリッヒ・ハイネの戯曲「アルマンゾル」より

戦争や迫害が書物を焼いてきた例は目にあまる。異端審問にかけられた書物の群れ。パスカルは警告した、「人は宗教的確信に促されて行なうときほど、完全に、また喜んで悪事を働くことはない」と...
ダンテの作品は幾度も焚書とされ、その生涯は受難ばかり。永久追放に、焚刑に、放浪中に何度も殺されかけ、そして客死。だから、「神曲」で最初に遭遇するのが地獄ってか...
自由主義者が自由な執筆を妨げ、平等主義者が書物が平等に行き渡ることを拒み、モンテスキューやルソーも焚書とされた。
大衆もこれに呼応し、本を焼くだけでは不十分!書いた奴も燃くべきだ!と叫ぶ。人間の優越主義には呆れるばかり、書物のゲルニカはビブリオコーストに投影される。それは政治思想や宗教思想に留まらない。数学や科学でさえ、劣等民族の功績とされるものは抹殺されてきた。グノーシス文書の消滅にしても、よく推理小説の題材にされ、なにやら陰謀の臭いがする。人間は陰謀論に目がないときた。
ただ、過去の記録がすべて正確とは限らない。どんなに優れた叙述家でも、当時の時代背景から都合よく改竄した可能性もある。時には、自らの主義主張のために。時には、保身のために。人類の歴史は、改竄の歴史でもあり、改竄の応酬の歴史でもある。

では、21世紀の今はどうであろう。検閲主義から解放されているだろうか...
誹謗中傷の嵐は荒れ狂い、改竄の手口は巧妙化し、集団的抹殺はますます旺盛に。書物の媒体も電子化が進み、その記述も半永久的な存在となった。そして、その破壊の歴史は、まだ序章なのやもしれん...

「ここでひとつ引用させてもらおう。『芸術家の個性は、本来妨げられることなく発展させるべきものだ。われわれが要求するのはただひとつ、われわれの主義主張を公言することだ。』これはナチス・ドイツの大物、ローゼンベルクの言葉だ。それからもうひとつ。『どの芸術家にも自由を創作する権利がある。しかしわれわれ共産主義者はひとつの計画に適合することを余儀なくされている。』こちらはレーニンの言葉。あまりに似かよっていて、仮にこれが悲劇でなかったとしたら、実に笑える話なのだが...」
... ウラジーミル・ナボコフ

2022-08-14

"非常民の民俗文化 - 生活民俗と差別昔話" 赤松啓介 著

人間は、表と裏のある動物である。建前と本音を使い分ける動物である。
アリストテレスは言った、人間はポリス的な動物である... と。ポリス的とは、単に社会的という意味ではない。精神的に最高善を求める共同体、その一員としての合目的的な存在といった高尚な意味が含まれている。
しかしながら、善を知れば、悪をも知ることになる。最高善を求めれば、その対極にある悪魔的な意識をも相手取ることになる。善悪ってやつは、表裏一体で迫ってくる。それは、相対的な認識能力しか持ち合わぜていない知的生命体の宿命であろう。
そして、人間社会にも表と裏がある。陽な側面と陰な側面とが。いつの時代も、力ある者が力なき者を足蹴りし、才ある者が才なき者の鼻面を引き回す。堂々と正義を掲げる輩の陰に、権利の主張もできず、ひたすら耐え抜く人々が。これが人間力学というものか。本書は、陰の側面から人間社会を直視する、いわば、本音の社会学とでもしておこうか...

「これは一人の男の、敗北と挫折の記録である。いまから金儲けしようとか、立身出世したいという希望をもっているような人間が読んで、ためになるような本では断じてないだろう。また労働運動、反差別運動、平和運動など、いわゆる社会運動のなかで、あるいは加わって、民衆を指導し、指揮しようという大志をもつ連中も、読まない方がよい。社会変革を達成するために、民衆、あるいは市民を鼓舞激励する手法などは、なに一つ発見できないからである。むしろ、民衆とは、、市民とは、こんなつまらないものであるかと、失望するだろう。いや、そう見せかけて、実は、民衆の、あるいは市民の、かくされた大きな潜在力を暗示し、その発掘を示唆しているのだ、などと買いかぶるのはやめてもらいたい...」

民俗学の用語に、柳田國男が提唱した「常民」という概念がある。本書は、これに疑問を投げかけ、「非常民」の側面から人間社会というものを物語ってくれる。柳田民俗学を陽とするなら、赤松民俗学は陰ということになろうか。
そして、人間の本質は陰の部分にこそ露わになる。人が正直に生きることは難しく、自己までも欺瞞してかかる。しかも、無意識に。無意識の領域は意識の領域よりも遥かに広大で、これを相手取るにはよほどの修行がいる。
古来、哲学者たちは問い掛けてきた、人間は生まれつき善か、それとも悪か、と。悪とするぐらいが控え目でよかろう。それで謙虚になれる。いや、本当に悪魔になりきるやもしれん。自分の理性に自信を持てば、理性が暴走を始める。理性ってやつは、脆弱である。実に脆弱である。しかし人間社会は、これに縋るほかはない。ならば、自問する力こそが問われよう...

いまや学問は、大学や研究機関だけで営まれる時代ではない。優れた研究者がアカデミズムの外にも溢れ、魂のこもった仕事をしている多くに在野の研究者を見かける。そして、彼らは反主流派に位置づけられる。著者の赤松啓介も独学で取り組んだ一人。
確かに、人間社会には必要悪というものがある。例えば、人類最古の商売とされる売春が、売春防止法なんぞでなくなると信じるお人好しは、そうはいまい。いじめのない世界なんて信じるおめでたい人は、そうはいまい。差別のない世界なんて信じるおめでたい人は、そうはいまい。村八分社会や階層社会なんてものは、日本社会のあらゆるところに蔓延る。その証拠に、世間には勝ち組と負け組で区別することのお好きな輩に溢れ、自分自信を勝ち組の側にいると信じて安心を買おうと必死だ。
おまけに、理性屋どもは、人間社会に蔓延る悪癖にこぞって目くじらを立てる。おそらく、彼らは清廉潔白なのだろう。清廉潔白な人間?それは本当に人間なのだろうか。人間の皮をかぶった悪魔にも見えてくる。正義依存症や道徳依存症といったものは、アルコール依存症や麻薬依存症と何が違うのだろう。幻想を追いかける点で同類項にも見えてくる。天の邪鬼の眼には...

「柳田民俗学には、日本人は太古の昔から優秀な民族で、これからも繁栄して行くという空疎な前提がある。だから差別や階層、性、犯罪、革命などという醜悪なことは、日本の民俗や精神生活にはあり得ないと信じようと苦心していた。したがって、そうした視角からより民俗や精神文化、経済社会、生活環境を見ることができなかったので、その調査も、研究も、表面を撫でさすっただけのキレイゴトに終わっている...」

2022-08-07

"奇想の図譜 - からくり・若冲・かざり" 辻惟雄 著

「文化は遊びの形をとって生まれた、つまり、文化はその初めから遊ばれた...」
... ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」より

時系列では「奇想の系譜」から隔てて刊行された「奇想の図譜」だが、姉妹書として意図されていることが伺える。「奇想の系譜」では、近代絵画史で長らく傍系とされてきた達人たち... 岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳らを主流の前衛として紹介してくれた(前記事)。江戸の時代を生きたアバンギャルド!として...
ただ、奇想キテレツ流で欠かせない葛飾北斎については末尾で軽く触れるに留まっていたが、ここでは挨拶代わりに、いきなり北斎のワニザメで度肝を抜かれる。自由自在なる趣向といえば、やはり北斎か。日本画に見る装飾やかざりの極意。すべてのものに魂が宿ると信じるアニミズム。その影響力は、現代のアニメ作品にも見てとれる。
本書は、日本の美を貫くモチーフに遊び心と飾りを配置しながら、人間は生まれながらにしてお洒落であること、飾るという美意識は本能的欲求であることが論じられる。日本は個人主義後進国と揶揄されがちだが、こと日本美術における個性では一目置かれるらしい...

「日本の装飾の魅力をなすもの、それは、いつもその装飾の与え方に現れるファンタジーと奇想である。」
... フランスの美術評論家エルネスト・シェノー

ところで、ワニザメって、どんな生き物?
おいらは、こういうウンチクに目がない。「世界大百科事典」の「ワニ」の項によると、もとは山陰地方における鱶(ふか)の方言で、中国南部に棲む「鰐」に日本語のワニをあてたのは、古代日本における中央文人の誤りだったという。だとすれば、ワニとサメの重ね言葉ということになり、凶暴さと獰猛さのコラボで強烈なイメージを与える。
しかし、架空の動物だ。人間が架空の存在に思いを寄せるのは、精神そのものが仮想的な存在だからであろうか。得体の知れないもの同士で引き合うものがあるのだろうか。臆病であるが故に、怖いもの見たさという衝動が抑えられず、悪魔的なイメージを駆り立てるのやもしれん。
鑑賞者が飽きっぽいなら、作者も負けじと刺激を求めてやまない。そして今、ジュラ紀の映画などでは、ますます強烈な怪物を生み出す。いずれ人類は、仮想的な存在に飽き足らず、遺伝子技術によって本当に恐ろしいものを作り出すであろう...

1. 「をこ絵」と「絵難房」
「今昔物語集」の巻二十八には、比叡山無動寺の義清阿闍梨という僧の説話があるそうな。変わった人柄ゆえ世人には受け入れられず、ただ「をこ絵(嗚呼絵)」の名手として知られていたという。「をこ」とは、笑いをさそう馬鹿げた行為を意味し、義清は「をこ者」として描かれているとか。風刺や滑稽を描いた戯画の先駆者であろうか。柳田國男は、こんなことを指摘したという。「をこ」とは、思慮の足りない愚行のみを意味するのではなく、むしろ逆に、並より鋭い人物が、わざと「をこ」を演じる部分もある... と。
狂言や歌舞伎にしても、風刺や滑稽が芸術の域に達した結果であり、それは、正気よりも狂気の方に人間の本質が内包されているからであろう。芸術ってやつが、自然物ではなく、人為的産物であるがゆえに、達人たちは悪魔的な要素を描かずにはいられない。こうした絵画の傾向は、12世紀頃に出現したらしい。「鳥獣人物戯画」などは、人間どもをおちょくった感がいい。水木しげるを思わせるような動物の擬人化は、まさに現代漫画の先駆け。
また、時代を同じくして、「絵難房」と呼ばれる人物がいたそうな。どんな絵にも難癖をつけては批判することから、そう呼ばれるのだけど、こちらも、まさに現代的キャラクター。本書は、リアリズム評論家として紹介してくれる。新たな試みには批判がつきもの、抑圧には反抗がつきもの、これが人間社会の力学というものだが、いずれも自由精神の体現であり、芸術精神の根源的なもの。12世紀頃、平安から鎌倉にかけての時代に、近代芸術の先駆的意義を探ろうとする本書の試みは、実に興味深い...

2. 白隠慧鶴の禅画
白隠の絵は、「禅画」と呼ばれるそうな。但し、禅画という呼び名はもっと古くからあり、狭い意味で、白隠や仙厓ら江戸時代の禅僧の余技としての意味らしい。本書は、この禅画に、巧みなアマチュア的趣向を紹介してくれる。
禅の精神を伝える題材として、よく用いられるものに、寒山拾得や布袋がある。寒山拾得は小説にもなり、布袋は七福神の一人。こうした題材を率直でユーモアに伝える絵画論は、部分的には、一見しまりなく下手くそに見えながら、全体像では、技巧を超えた徳のようなものを滲ませる。あえて技工を捨てる素人観。それは、熟練工にしかできない芸当であろう。純真な精神を解放するには、高度な知識を捨てねばならぬことがある。神聖な精神が滑稽を演じるようにプロがアマチュアを演じて魅せるのは、厳格化された専門知識に対する、彼らなりの反抗であろうか...

3. 写楽別人説
江戸時代末期の浮世絵師「東洲斎写楽」という人物は、いまだ正体が掴めないらしい。やはり本命は、斎藤十郎兵衛説か。だが、一度はこれの否定説が有力視されたり、写楽北斎同一人説が飛び出したり、はたまた、外国人説が飛び出したり、様々な新説、珍説が後を絶たない。時期によって作風が変われば、独りの人物のしわざかも疑わしい。
現在では、斎藤十郎兵衛説に再び戻って落ち着いたようだけど、歴史なんてものは、新たな古文書の発見でどんでん返しを喰らう。しかし、真に歴史を動かしてきた人物というものは、歴史に名を残してこなかったのやもしれん。ましてや、政治的に目をつけられるほどの奇抜な創造力を持った人物ともなれば... なんらかの形で正体を隠し、世間を欺かなければ、自由精神が体現できない時代ともなれば... そして、現代も...

4. 風流の総括
風流という言葉には、なんとなく惹かれるものがある。風流に、粋に、生きたいものだと。日本的風流といえば、わび、さび、といった質素な感覚があるが、本書が題材とする装飾や飾りは、むしろ逆の立場。しかし、明るい装飾が存在するからこそ、質素な優雅さが際立つ。辻惟雄は、風流という言葉を、陽と陰の両面から、こう総括する...

「風流はきわめて多義である。風狂、好色もまた風流である。みやび、みさお、幽玄、風雅、すきなど、風流に関連する言葉は多い。風流の共通項をあげるなら、松田修氏のいわれるように虚構性ということしかないだろう。私の自己流な分類によれば、風流は陰と陽との両面にわたっている。陰の風流とは、隠遁趣味に結びついた高踏的風流、『かざり』との関連でいえば、あまり飾り立てない風流である。『わび』『さび』はおそらくこれらの風流に結びつくだろう。それに対し、陽の風流とは、賑やかに飾り立てるハレの風流である。いまたどってきたのは、大体この陽の風流の系譜であり、それは『かざり』と『奇』に焦点をしぼった風流の部分象かもしれないが、風流の本質がそこに含まれていることは確かだと思う。口はばったいことを申せば、『わび』『さび』や『ひえかれる』美意識は、この『陽の風流』のはなやかな装飾世界を前提として成り立ったものである。」