2008-12-26

アル中ハイマー流「悪魔の辞典」

今年の最後はこのネタで締めくくろう。今宵もいい感じで酔っている。hpにもアップしとこうっと。

西暦2108年、とある人工島で100年前の古い文献が発見された。その人工島は、かつてアドベンチャーな企業が集まり経済の中心地であったという。現在では、当時の面影はまったく残っておらず、ゴーストタウンと化している。発見された文献の名は、「アル中ハイマー流、悪魔の辞典」。ちなみに、著者は読み人知らず。昔々社会混乱のさなか、アル中ハイマー病を患い半狂乱した人物によって記されたものらしい。

1. 政治学
政治屋...
それがどんなに善行であっても、自分を経由しなければ反対の立場をとる輩。政治家は前の代の政治家が残した批難材料をそのまま引き継ぐ宿命を背負う。それゆえに、前の代の政治家は今の代の政治を猛烈に批判する。

議会制民主政治...
議員たちが揉めている隙に官僚体制を強固にしてしまった、もはや取り返しのつかない我が国特有の政治システム。議会が機能しないという弱点を有するが、全く心配はない。もっと上手の官僚が仕切っているから。この世界では、賛同しない者を不誠実と呼び、自らの斡旋を中立独立と呼ぶ。都合が悪くなると誠意がないと叫び、正義にかられて偽証できない者を自重しろと説教する。中国の官僚制は1500年もの長い年月をかけて科挙を廃止してきた。にもかかわらず、未だに古代システムの亡霊に憑かれている。日本の官僚制はその亡霊を猛スピードで追いかけている。

第三者会議...
その人選は当人が決める談合会議。したがって、この会議が完璧に機能した時は政策に反映されない。

有識者会議...
そもそも、会議というものは無識者で構成されるものだというこを知らしめてまわる言葉で、極めて政治力の強い世界で使われる専門用語。尚、会議に参加できるのは自称有識者に限る。

骨太の政策...
身と肉を削る政策。また、自ら過大評価していることを知らしめてまわる政界の専門用語。真に充実した政策ならば、くだらない形容は不要なはず。類似語に「百年安心の年金制度」というのがある。

2. 社会学
社会学...
人間の行動によって引き起こされる矛盾した現象を扱う学問。人間社会には、政治家が政治を破壊し、経済学者が経済危機を起し、道徳家が道徳を崩壊させ、平和主義者が戦争を招くといった現象がある。

報道屋...
言論の自由を訴えながら、他人の意見を迫害する輩。強大な権力者には優しく弱者をいじめる連中。したがって、落ち目の権力者は徹底的に叩かれる運命にある。そして、なによりも正直者である。決してデマを流すわけではなく、些細な事実を思いっきり盛り上げ、重大な事実をささやかに伝える。したがって、彼らの情報操作は超一流だ!

大新聞...
民衆の誰もが信じる最も洗脳性の強い新聞。だからこそ、どの大新聞もこぞって同じ記事を掲載する。彼らは透明性のない記者クラブの下で情報を作成する。クラブ活動とはよほど楽しいものらしい。ちなみに、アル中ハイマーも夜のクラブ活動に励んでいる。

天職...
どんな人間であっても、性格や趣味などその人間性に似合った職業が用意されている。自然法則を探求したいから科学者になる。あらゆる美と戯れたいから芸術家になる。詩の虜になれば文学の道がある。精神の持つ真理を覗きたいならば哲学者にもなる。統計をとって社会の行く末を占いたいから経済学者になる。説教をしたい輩は教育者にもなろう。噂を広めておもしろがってる輩は報道屋になればいい。「火の無い所に煙は立たない」と言うが、自ら油をまいてマッチを持ってまわる放火魔もこの職に属す。では、腹黒い人間には、いったいどんな職業が用意されているというのか?神はその救済に政治家という職業を用意したのであった。

自由と平等...
近代のイデオロギーは、「自由」と「平等」の互いの関係をめぐっての論争の中にある。一方の派は、「平等」を「自由」と敵対する概念と考え、自由至上主義を唱える。他方の派は、「自由」を悪魔のように考え、やたらとバラマキ政策を唱える。前者は「平等」的な政策をアカと呼び、後者は「平等」的な政策にピラミッド造りを推し進める。いずれのイデオロギーも、「自由」と「平等」がいまだ共存できることに気づいていない。

アル中ハイマー病...
精神と記憶がアンダーステア状態で、自分が何を語っているかも分からない病。よって、いつも人から馬鹿にされる。ただ、それすら分からないので、人生は気楽だと信じこんで幸せである。ちなみに、アル中ハイマーの愛車のセッテイングは、軽いアンダーステアだ。ここから得られる帰結は「人間はちょっと馬鹿なぐらいがちょうどええ!」

3. 歴史学
歴史のメカニズム...
「歴史は繰り返す」と言うが、歴史を繰り返すことはない。その法則性は人間社会の複雑系の中に紛れるからである。だが、歴史を学ばなければ失敗を繰り返す。これが歴史のメカニズムである。成功例から学ぶものが少ないのは、そこに偶然性が潜むからである。しかし、失敗例から学ぶことは多い。失敗の因果関係は表面化しやすいからである。したがって、偶然性を高く評価できる人間こそ、その因果関係に精通することができる。

人類の歴史...
「人間」という身分をめぐっての抽象化の歴史。「人間」という身分をどの範囲に適応するかで、その人が人間扱いされるかが決まる。よって、古代哲学がいまだに通用するのは、倫理観が古代から進歩していない証である。

4. 経済学
経済学者...
物質的な利害関係のみで人間社会が成り立っていると思っている狂信者。経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師である。ある統計情報によると、経済学を勉強すると利己的になる傾向があるらしい。アマチュアの唱える経済学は危険である。だが、プロの唱える経済学は危険の度を通り過ぎている。経済人の非合理性は、別の人間には合理性となりうる。つまり、合理性の定義は個人によって違う。人間の理念は十人十色ということだ。ところで、占い師ってどうすればなれるの?

銀行屋...
他人資本を自己資本と勝手に思いこんでいる輩。そして、他人からの資本提供によって儲けた金を自分の金だと得意げに語る。彼らは、資金難に陥ると、公的資金を注入しないと潰れるぞ!と脅す。潰れると預金が戻らないから民衆は怖気づく。これは学生時代の教訓そのものである。金を貸した時、「返さないぞ!」と脅されて反論できなかった。

景気対策...
好景気とは、金持ちだけが潤った状態。不景気とは、貧乏人が自殺を覚悟する状態。したがって、景気対策はもっぱら好景気を目指す。金持ちが貧乏人を牽引するというが、貧乏人が牽引される前に不景気局面となる。したがって、貧乏人は永久に好景気を知らない。これが経済サイクルというものだ。つまり、景気対策とは格差促進を意味する。ところで、人類最初の経済学者はコロンブスだと揶揄する話がある。インドだと思ったらアメリカ大陸だったのだ。つまり、それだけ経済政策は的を外しているということらしい。

経済分析...
市場経済の分析にはファンダメンタルズ派とテクニカル派がある。アル中ハイマーは市場経済に重力法則が成り立つと信じているので、限りなくファンダメンタルズ派に近い。だが、実際に適正な市場価値を判断できる人間はこの世にはいない。ファンダメンタルズ派であっても、株価を判断するのに過去の経験則を用いて計測する。アル中ハイマーも夜な夜な経済分析を繰り返す。したがって、今では、夜のテクニシャンと名乗っている。

消費者金融...
一昔前はサラ金と呼ばれていた。呼び名が変わっただけで上場もできる。

派遣労働者...
一昔前は日雇い労働者と呼ばれていた。派遣会社と名乗れば上場もできる。

下請けいじめ...
大企業の業績を支えている企業形態。ある日、某大手企業とその下請け企業の間でスポーツの試合が行われていた。下請け企業の凄まじい応援には、根深い恨みが現れていた。

5. 哲学
宗教家...
どんなことでも無条件に信じる特徴を有し、脳死状態に陥った幸せな連中。しかも、その幸せを他人にも強要するので、善人とも呼ばれる。

偶像崇拝...
お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることである。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。そういえば、土下座してまで当選回数にこだわった政治家がいた。どうやら銅像が建つらしい。

物事の本質...
物事の本質を探求するとは、よりプリミティブへと向かうことである。科学は宇宙全体を解明するために原始粒子を探求する。芸術は精神を解明するために自然を探求する。精神の中にある「笑う」という感覚は幸せを与える。そして、その感覚もまたプリミティブへと向かう。つまり、箸が転がるだけで笑える感覚こそ、精神の本質がある。したがって、アル中ハイマーは女子高生に弟子入りしようと、逆援助交際を目論む。

知識人...
自らの知識に絶対的に自信を持ち、他人を蔑む輩。そして、どんな話題にも獰猛に喰いつき、他人の間違いばかり指摘し、自らの精神は語れない。彼らの「姑チェック」は完璧だ。したがって、知識馬鹿ほど便利な存在はない。

思考力...
外圧から解き放たれた時に働く気まぐれ。したがって、ベロンベロン状態にこそ最強の思考力が得られる。ただ、同時に記憶力が失われるという反作用を具える。つまり、思考力とは、虚しさを意味する。

時間の収支...
10年早くこの知識に出会っていたら、10年早くこの人に出会っていたら、10年早くこの勉強を始めていたら、とはよく聞く台詞である。人生は短い。人生は後悔の連続なのだ。そんなことを考えていると、すべてを忘れるために飲まずにはいられない。そして、10年後に同じ台詞を言うのであった。時間の収支は永遠に赤字なのである。

人徳...
ゲームの中に登場する人物のパラメータ。なぜか?この数値が高いと限りなくゲームを有利に展開できる。したがって、人徳とはゲームのテクニックに違いない。

道徳家...
人徳を有する人。つまり、ゲームの達人。得意なゲームは「人生ゲーム」。ちなみに、「人生ゲーム」の欠点は、必ず結婚して必ず子供ができることである。彼らは、紋切り型の人生しか想像できない。

自由意志...
コントロールできそうで、実は手に負えない自我。自由意志がコントロールできたら、人間は自らの存在そのものを罪と感じるだろう。したがって、最も人間らしい精神は、気まぐれである。ところで、精巧に造られたロボットには霊的なものを感じる。ここにも自由意志は生成されるのだろうか?一昔前、ソニーの犬型ロボットAIBOが登場した時、足を付け替えたりすると、子供は足をもいでいると勘違いして虐待だと叫ぶ。しかし、これはロボットだ。映画「ターミネーター」でシュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。これもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気持ち悪い。では、女性ロボットとの関係に不倫は成立するのだろうか?

幸せ...
ちょっとした不幸によって帳消しになる現象、または錯覚。幸せな生活とは束縛を意味する。愛は本来自由なものであったはずだが、結婚すると愛は義務と変貌するらしい。なるほど、義務とは息苦しいものである。一般的に人間は幸せを求める。なるほど、一般的に人間はMということか。「手のしわとしわを合わせて幸せ」って聞いたことがあるが、「指のふしとふしを合わせて不幸せ」ってのもあるらしい。どちらも誰が言ったかは知らん!

6. 科学
物体の本質...
ポーは著書「ユリイカ」で、物体は引力と斥力の二つの基本要素のみで成り立つと直観的に語った。だから、二つの原始粒子が引力によってどんなに近づいても、斥力によって一つに融合することがない。つまり、男女がどんなに愛し合って合体しようとも、決して心は一つにはなれない。これが宇宙原理というものだ。

熱力学の法則...
一瞬で燃え上がる愛情熱は一瞬に失う理性エネルギーと相殺する。これが熱力学の第一法則である。そして、愛情熱は冷める方向へと進み、愛情の縺れはますます混沌へと向かう。これが熱力学の第ニ法則である。

エントロピー増大の法則...
爆発的な人口増加によって人間社会が複雑系に向かう法則。凡庸な政治指導者がますます増えるのも、この自然法則に従ったものだ。

微分学...
永遠に到達できない概念。正弦波を微分すると余弦波になる。これは、波をいくら微分しても永遠に波でありつづけることを意味する。そして、千鳥足は永遠にゆらぎ続ける。永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する。すなわち、愛は永遠に到達できない。しかも、到達したと錯覚する特異点では急激に発散する。これを愛の興ざめと言う。

電波の枯渇...
周波数帯の枯渇は電波の奪い合いを引き起こす。なるほど、「運命の赤い糸」のコードレス化が進んだわけだ。

リーマン予想...
アル中ハイマー病患者の行動パターンに関する予測。「ゼータ関数の自明でない零点の実数部はすべて1/2である。」には、実は素数定理とは違った深い解釈が内包されている。「自明でない零点」は「記憶にない例の店」を意味する。夜の社交場へまっすぐに向かう足取りこそ、クリティカル・ラインが現れる。そして、アル中ハイマー流に書き換えると、「記憶にない例の店では、実は半分しか飲んでいないのに、虚空間では無限に飲んでいるかもしれない。」となる。また、ゼータ関数は都合よく定義域によって形が変化する。たとえ、ベロンベロンに酔っ払っ(発散し)ても、別の人格(定義域)では、俺は酔ってないぜ!(収束している)と主張する。つまり、ゼータ関数はアル中ハイマーの気まぐれな行動を示している。

フーリエ解析...
飲酒状態を解析する方法。いろんな酒を飲むと、つい悪乗りして行き過ぎた行動にでる。これは、いろんなアルコール成分の係数和が急激に振動して、人格がオーバーシューティングするためである。これがギブス現象の正体だ。この現象は、どんな人格であっても、波の成分とその成分の係数が分かれば解析できることを意味する。ここで解析に使われる波は、直交特性が必然である。例えば、千鳥足のような「ゆらぎ」の中で夜の社交場へ直行する性質である。そして、ベロンベロン状態であればあるほど精度は高い。

7. 夜の社交学
夜の社交場...
ホットな女性から発生される一種の電磁場。「君に酔ってんだよ!」とドスの利いた声が自然に出る場。煙草をくわえるとお姉さんが火をつけ、「おっと俺の心に火をつけやがったな!」と条件反射で答える場。一人の女性がいるとそこには磁場が発生する。この微力な磁場を強力にするには、男性が回りを囲めばいい。これがソレノイドである。目をつけた女性の視線は直進性が高い。これは一種の電磁波である。永遠に進み続ける電磁波にアル中ハイマーはいちころである。これが「夜の社交場の法則」である。

親切...
酔いつぶれている人に、もっと酒を勧めるのが親切なのか?それとも、酒を止めてあげるのが親切なのか?いや、責任をとって「俺が飲む!」が答えである。

恋と愛...
下心があるのが「恋」。心を下に書くので下心がある。見返りを求めないのが真の「愛」。心を真中に書くから。...とバーでgさんがほざいていた。

女に優しい男の美学...
麻雀をやっていると、「俺は女からは当たらない主義だ!」と主張する奴がいる。彼はその美学に酔って生きる。つまり、女に優しい主義とは、その美学に酔って淋しく生きることである。

酔っ払い達のテロ行為...
気分悪そうにしゃがんでいる人に大丈夫か?と尋ねると、決まって大丈夫という返事が返ってくる。そこで、安心して背負うと、なんとなく首筋が生暖かくなる。これを「延髄ゲロ」という。ベッドの中で仰向けでやっているのを「自爆ゲロ」という。その横で一緒に寝ると「ゲロ心中」となる。他人の顔の上でやると死刑は免れない。電車の中で、綺麗な女性がこちらを真剣に見つめている。駅に着くと突然、女性はゴミ箱に向かって突進した。その瞬間、ゴミ箱に顔を突っ込んで...しばらくすると、そのままゴミ箱と一緒にお寝んねしてしまった。これを「特攻ゲロ」という。

2008-12-20

"不完全性定理" クルト・ゲーデル 著

おそらく、数学の本を岩波文庫で読むのは初めてだろう。こうした気まぐれも悪くない。本書は、冒頭から「不完全性定理」の翻訳から始まる。立ち読みしている時は、どう処理したものかと悩んだが、その後に続く解説はおもしろいので買うことにした。この翻訳文と解説がセットであることが、価値を高めていると言ってもいい。ちなみに、翻訳と解説は、林晋氏と八杉満利子氏。

不完全性定理といえば、数学というよりも哲学の香りがする。そうした感覚が、チューリング・モデルを推奨する純粋数学者たちにとっては気持ち悪いものに映るのだろう。アリストテレス以来、論理学は真か偽のどちらかを追求してきた。昔から数学は完全なのか?数学は絶対的真理でありうるのか?という哲学的論争がある。一つの問題を解決すれば、新たな問題が生じる。つまり、数学は常に不完全な状態にある。これは悲観論というより積極的に捉えるべきであろう。数学や論理学には、直観と形式の対立が常に見られる。いわば、主観と客観の対立である。両者は対立するほどのことではないのだが、しばしば研究者は些細な論理の違いを強調していがみ合う。これは、厳密性を追求するからこそ現れる態度であろう。方法論においても哲学的な相違が見られる。大別すると直観的なアプローチと形式的なアプローチである。人間味と無味乾燥の対立とでも言おうか。今日でも、科学者たちの中にプラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な宇宙現象も、その背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた執念である。直観と形式の融合あるいは合理化は、数学に留まらず、人間の永遠のテーマなのかもしれない。

ゲーデルは、なぜ不完全性定理のようなものの考え方をしたのだろうか?本書は、ヒルベルトの提唱したヒルベルト・プログラム、つまり、公理論と無矛盾性の証明に関する計画を振り返り、その考えに至った歴史背景を物語る。19世紀から20世紀初頭にかけて世界の数学界を牽引し、数学の方法論に方向付けをしたのが、ヒルベルト・プログラムである。国際数学者会議で発表された「ヒルベルトの23の問題」の中に、連続体仮説やリーマン予想などがある。このプログラムは、数学の絶対的な安定性と完全性を保証し、ヒルベルトのテーゼとして定着させようとした。ヒルベルトは、永遠に枯渇することのない数学を夢見ていたのだろうか?この時代の数学的論争は、ヒルベルトの形式主義、ラッセルの論理主義、ブラウワーの直観主義の三派の争いに単純化してしまいがちだが、実は複雑な様相を見せる。本書は、多くの論争の勝者であるヒルベルトの立場から描かれる。ヒルベルトは、非計算的数学という革命を起こし、集合論のパラドックスという危機と、それに伴う反革命を、数学的かつ政治的に捻じ伏せた。この論争のどの立場にも属さなかったゲーデルは、その勝者をも打ち破り、論争自体に終止符を打った。この論争には勝者も敗者もいない。どの論派も間違ってはおらず、数学は総合的視野が必要な段階まで到達したということであろう。ゲーデルの超数学的推論は、通常の数学とは異なる。ヒルベルト・プログラムの終焉が、ゲーデルの不完全性定理の幕開けとなった。だからと言って、ヒルベルトの功績を蔑むことにはならない。ヒルベルトこそが、数学論に論争を与え、不完全性定理を呼び込んだと言ってもいい。多くの数学者は集合論に安定性を求めていない。ましてや集合論が数学の本質とも考えていない。集合論は一つの便利な数学の道具である。
ところで、科学の進歩には、誰かが失敗するように運命付けられる。数学の進歩は多くの部分を形式化するかと思えば、また新たな問題を発見し、そこに哲学的論争が生まれる。数学と哲学の距離は離れては近づき、これを繰り返すかのように見える。不完全性定理は、人間が不完全であることを証明しているのかもしれない。

1. ヒルベルトの公理論
ヒルベルトの方法論は、有限算術化に無限算術化を融合した。つまり、算術に頼る数学から、計算しない数学へと世界観を変えたのである。例えば、ゴルダンの問題のように、アルゴリズムが複雑過ぎるものは当時は現実的に計算できない。ヒルベルトは、こうした複雑なアルゴリズム自体の存在意義を疑っていた節がある。複雑過ぎるアルゴリズムによる証明は、数学の本質を隠す可能性があることも事実だ。そこで、無限的方法や集合論といった、大胆で新しい概念と推論による方法を支持する。そして、カントールの集合論やリーマン面のように、哲学的恣意性に訴える。数学における存在の証明は三段階ある。第一にその存在だけを証明する。第二にどこに存在するかを証明する。第三に実際に計算する。ヒルベルトは、第二、第三の方法しかなかった代数学に、第一の段階を取り入れ、不変式論や整数論に革命を起こした。その世界観を、伝記作家コンスタンス・リードは、「ゴルディオスの結び目」の逸話に喩えたという。ちなみに、この逸話は、それを解く者がアジアの王になるという伝説があって、アレキサンダー大王はこれを剣で切断して解いたという話で、おいらの好きな逸話の一つである。数学を公理からの演繹で構築する方法は、ユークリッド時代からの古い手法である。かつて数学は、公理から論理推論だけで理論を積み重ねることで発展してきた。これに対してヒルベルトは、定理の論理的依存関係に目をつけ、概念の総合的視野として数学を眺める。注目点が、一つ一つの真理から、その相互依存関係に変わる。また、公理が無矛盾であるだけでなく、互いに独立であることを求める。この新公理論は、数学をシステムとして捉えている。ヒルベルトは超限数の公理系を定義する。これは、実数論の公理系が示す結合の公理、計算の公理、順序の公理、連続性の公理に類似している。この公理系で示される式と推論法則を、機械的に定義できれば形式化できると考える。現在では、チューリングの機械的定義を当り前のように使うが、当時は形式化するだけでも容易なことではない。ヒルベルトの定義には曖昧さも現れている。

2. コーシーの解析学
当時、解析学は、ニュートンやライプニッツなどによる無限級数を代数的に扱う手法を用いていた。そこに、コーシーは無限小の変量を与える。
「ある変量xが特定の定数aに限りなく近づく時、関数値f(x)とその定数bとの差はいくらでも小さくできる」
この定義が、真の意味で解析学に厳密性を与えるきっかけとなったという。コーシーは、連続関数は微分可能であるという事実を前提に証明しているが、実は、その事実は成立しない。極限への定義には曖昧さが残っていたのである。この極限の定義が厳密化され、解析学の証明を本当の意味で自律させたのは、カール・ワイエルシュトラスのε-δ論法である。この論法で示される極限の定義は、分かり難いので有名だ。おいらは、これのおかげで大学時代に数学とおさらばした。ただ、分かり難いから直観の入る余地が少ないとも言える。その検証も機械的となり、誤りを自律的に排除できる。この解析学の厳密性は、ヒルベルトのテーゼとなる。

3. カントールの集合論
カントールは、集合の要素の数を無限集合へと拡張した。その定理に、実数は自然数の数よりも大きいというのがある。彼は、数えるという動的行為を、1対1で対応付けるという静的条件に置き換えた。無限集合を数えることは無理でも、1対1の対応付けは可能である。彼は、実数と自然数の対応付けから背理法によって証明した。そして、集合の要素の個数を「濃度」と呼び、実数の濃度は自然数の濃度よりも大きいとした。カントールの発見で印象深いのは、平面上の点と直線上の点が同じ濃度であるという定理である。
ところで、無限に濃度が存在するならば、濃度の分割ってできるのだろうか?
「任意の無限集合は、それを元の全体と同じ個数を持つ二つの部分集合に分割できる」
無限を分割しても無限ではないのか?無限には宗教的意味合いを感じる。伝統的にヨーロッパの数学界から、無限を排除する動きがあったのもうなずける。カントールはこのタブーを打ち破った。カントールの無限集合の本質は超限数論にある。そこに無限への批判も起こる。クロネカーによる批判である。カントールの論文は、クロネカーの雑誌をはじめ、多くの雑誌から掲載を拒否されたという。これはクロネカーによる出版妨害であるという説もあるが、単に時代精神が受け入れなかったという説もある。無限集合を扱う数学では、「答えが存在する」という証明ができても、実際には計算できないことが多い。カントールは、数学界に哲学や神学は排除されるべきかといった問題を提起したようにも映る。

4. ラッセルのパラドックス
集合論と不完全性定理は密接な関係にある。その最大の関係は対角線論法であるという。
「任意の集合Xについて、Xの濃度よりも大きな濃度をもつ集合Yは必ず存在するか?」
これが成り立てば、集合の世界は無限に膨張を続ける。Xのべき集合、つまり、集合Xの部分集合をすべて集めた集合を考えると、そのべき集合の濃度は、集合Xの濃度よりも大きいことになる。ここで、自らを要素として含まない集合を考えるとパラドックスが現れる。そもそも集合とはそういうもので、全ての数の集合は数ではない。全ての犬の集合は犬ではない。しかし、通常ではありえない、それ自体を集合として含む集合がある。集合の集合はどうか?複数の集合を、集めて一つの集合とした場合、要素に集合が含まれる。この問題は自己言及に基づいている。ここで、集合Xについての条件Aは、「Xは、X自身の要素とならない集合である」とする。そして、「集合Xは要素ではない」と仮定すると、条件Aを満たすので、集合XはXの要素となり、仮定が崩れる。「集合Xは要素である」と仮定しても、条件Aを満たさず、集合XはXの要素とならないので、仮定が崩れる。この議論は、「この文章は偽である」という文章が正しいのかどうか?という問いに似ている。論理学のあらゆる矛盾は、こうした自己言及の罠に嵌る。自己言及は自己陶酔を招き自らをアル中にしてしまう。そして、アル中ハイマーが「俺は酔ってないぜ!」と主張するのも、あながち間違いとは言えないのだ。

5. 批判者ポアンカレ
ポアンカレは、数学は常に人間が介在するものであり、ヒルベルトのような意味では形式的には扱えないと考えた。彼のヒルベルト批判は、数学的帰納法が最大のポイントであるという。自然数の公理系には数学的帰納法が必要である。これがないと理論展開ができない。したがって、数学的帰納法を公理として追加する必要がある。ヒルベルトは、数学的帰納法を追加しても、無矛盾性の証明が可能であると主張する。しかし、ポアンカレは証明できるはずがないと主張する。帰納法は、出発点で検証し追加点でも検証できれば、全てが証明されたことになるという考え方である。よって、ヒルベルトが提唱した方法で説明するならば、帰納法で帰納法の無矛盾性を示すという循環論法に陥る。パラドックスを引き起こした集合論では、循環論法によって容易に矛盾が生じる。ポアンカレは、その解決策として、一般の無限概念は認めず、自然数の無限個までは認めたという。そして、カントールが考えた無限集合は数学では考えられないとした。つまり、数学的帰納法は、人類がぎりぎり使える無限の道具であり、これを数学的方法で正当化することは無意味であると主張したのである。

6. 不完全性定理
不完全性定理は難しい文章で表されるため、これをアル中ハイマーの理解力で記すことはできない。ただ、本書は、その意味を分かりやすく説明してくれる。
第一不完全性定理
「数学は、矛盾しているか不完全であるか、そのどちらかである。」
第ニ不完全性定理
「数学の正しさを確実な方法で保証することは不可能であり、それが正しいと信じるしかない。」

ゲーデルの定理の本質は、ラッセル・パラドックスの変装した姿であるという。なるほど、第一不完全性定理の基本的な仕組みは、このパラドックスの表現に似ている。不完全性定理は、もはや数学には解の得られない問題があると述べている。人文科学や社会科学の理論は、個人によって解釈が違い、その真偽を決める絶対的な方法は存在しないだろう。その一方で、数学の解釈が、他のいかなる分野よりも、安定しているのは事実である。その中で、この定理は数学でありながら人文学的な解釈があるところに難しさがある。一般的に不完全性定理は、人類の知の限界を示すものであるという見解がある。しかし、ゲーデルはそれを否定しているという。本書は、数学が完全であるかを問う前に、数学自体が何か?を議論する必要があると語る。数学論と、数学の形式系とは同一視してはならないということらしい。論理数学から見た数学観には、哲学の見地から見た数学を顕にする。物事が全て機械的に定義できるならば、コンピュータがすべて計算して判断できることになる。ヒルベルトのテーゼは、機械仕掛けの数学を数学論と同一視している点が問題であるという。ゲーデルは、数学論そのものに不完全性の存在を認め、ヒルベルトのテーゼを否定した。

2008-12-14

"はじめての「超ひも理論」" 川合光 著

量子論というのは、なんでもありなのか?真空には突然仮想粒子を登場させ、物質の誕生には反物質を登場させる。また、何もないところに負のエネルギーを登場させ、都合よく宇宙を膨張させてしまう。プラスの現象には、マイナスの現象を登場させて相殺してしまえば、エネルギー保存則になんら矛盾することなく、何事もなかったかのように説明できるというわけだ。このようなウルトラCの技が続々と登場する様は、高度な科学のようで巧みな詐欺のようでもある。量子論の本筋は極微な世界を覗くことである。ところが、物質を細かく見れば見るほど巨大宇宙の解明につながるから摩訶不思議である。本書は、こうした酔っ払った感覚しか持ち合わせないアル中ハイマーにも分かりやすく解説してくれる。何よりも分かった気分になれるのが幸せである。

物質を細かく見ていくと、そこには原子があり、原子核の中に陽子と中性子があり、その核子を構成するクォークがある。そして、全ての素粒子の根源に「超ひも」が登場する。超ひもの形状には、両端が開いたものや輪ゴムのように閉じたものが考えられている。これらが絶えず運動し静止することはない。回転したり、振動したり、伸び縮みしたり、変形したりと。これは想像の世界ではなく、厳密な理論上の計算から導き出されるらしい。超ひもが様々なエネルギー状態によって異なる振動をすることによって、いろんな粒子に見える。現在の素粒子は、クォークと、電子やニュートリノなどのレプトンであるとされているが、その素粒子の正体は、一個のひもであるという。これは、熟成させたスコッチが琥珀色に見えるのも、ピート香やスモーキーさも、単に生命の水が振動しているだけだということを暗示しているのかもしれない。超ひもは、原理的には、引き伸ばして人間の目の見える大きさにすることも可能なのだそうだ。ただ、それに必要なエネルギーはというと...ミニブラックホールができてしまう。超ひも理論のおもしろいところは、ひもの長さの半分を考えた場合、それがニ倍に等しくなるという。はあ?時間も半分がニ倍に等しくなる。はあ?量子論の世界では、コップの半分しか飲んでいないのに、二杯分請求されるということか?これは詐欺ではないか。いや!二杯飲んでも一杯も飲んでいないと言い張ることもできるわけだ。つまり、飲んでも飲んでも酔えない世界のようだ。

極微の世界では、もはやニュートンやアインシュタインの力学は通用しない。しかし本書によると、超ひも理論によって、全ての物理現象を統一して記述できる可能性があるという。物理学には、重力、電磁力、弱い力の相互作用、強い力の相互作用の四つの力がある。重力はエネルギーを持つものの間で働く力、電磁力は電荷のあるものの間で働く力、弱い力は中性子のベータ崩壊などを起こす力、強い力はクォーク間で働く力。この四つのうち重力を除く三つまでは、ゲージ理論によって統一される。ゲージ理論は、ローレンツ変換で見られるように、どのような慣性系に変換しても理論は不変であるというところから発展した理論である。それは、座標そのものの変換ではなく、時空の各点毎に変換しても不変性が保てるということである。歴史的には、一般相対性理論はゲージ不変をもった最初の理論ということらしい。ここで、人間が親しみやすい重力が力学の統一で最も遅れをとっているとは、なんとも皮肉である。人間が直観できる世界とは、宇宙では超常現象なのか?人間は自然法則を無視した悪魔か?量子力学といえば、波動関数によって完成させたシュレディンガーと、行列力学を確立したハイゼンベルグが思いつく。これらは等価であり、そのアプローチが微分か行列かの違いである。超ひも理論では行列模型を用いる。この行列模型は、非可換幾何学という数学の道具にも関係し、超ひもの挙動を明らかにするという。

1. 宇宙の起源への挑戦
宇宙の起源の謎を解くには、アインシュタインの方程式では扱えない領域を覗くことになる。それは、これ以上小さくできないプランクの長さ、これ以上過去へさかのぼれないプランク時間、エネルギーの限界値プランクエネルギーであり、いわゆるプランクスケールへの挑戦である。プランクの長さは、超ひもの大きさに相当し、プランクエネルギーは超ひものもつエネルギーとも言える。アインシュタインは、時間と空間を混在させて時空という概念を持ち出した。極小空間へ迫るということは、極小時間へ迫るということである。そしてビッグバンへと迫る。結合エネルギーは、素粒子間の振る舞いを力学的に説明できる。それを細かく観察するには、高エネルギー状態が好都合である。そこで、エネルギーを拡大する実験装置に加速器が使われる。粒子と粒子を高エネルギーで加速して衝突させることによって、量子の世界を覗く。宇宙の成長過程をさかのぼればのぼるほど、高エネルギーであると考えられる。原子核に電子が回っているのは、太陽系のように地球が回っているようなイメージはできない。素粒子の運動には、位置と運動量を同時に決められないという不確定性原理がつきまとうからである。位置と運動量が同時に決まらなければ、電子の軌道は特定できない。ものを細かくみるための指標として温度も重要ある。温度とエネルギーは比例関係にあるからである。素粒子のエネルギーは、プランクエネルギーが上限であるのに対して、超ひもではそれ以上のエネルギーを持ちうる。エネルギーが増えた分、超ひもの形状はいくらでも伸びることができる。エネルギーがどんどん増えると、温度の上昇はしだいに小さくなり、やがて上限値に達するであろう。この温度の上限が「ハゲドン温度」である。実際には、プランクエネルギーよりも高エネルギーになったとしても、ハゲドン温度のままという事態が起こるという。ところで、超ひもには密度という概念はないのかな?密度が低くなる分エネルギーに転換されるってことか?ますます謎は深まる。

2. クォークの誕生
クォークが誕生するまでに四つのステップがあるという。それを逆にさかのぼると。四つ目のステップは、安定段階で三個一組のクォークがくっつきあって核子を構成している。三つ目のステップは、この安定段階よりもエネルギーを上げていくとクォークが不安定に動く状態になる。クォークどうしがねばねばとした力線を伸ばし、無秩序にくっつきあってどろどろのスープのようになる。二つ目のステップは、更にエネルギーを上げると、単独で動くクォークが質量を獲得する。そして一つ目のステップが、真空から励起される段階である。どんな構成要素でも、結合エネルギーよりも高いエネルギーを与えれば分離することができる。しかし、クォークは、加速器でいくら高エネルギーを与えても、引き離してクォークを取り出すことはできない。これが「クォークの閉じ込め」である。クォークの閉じ込め以前、宇宙には陽子と反物質である反陽子があったと考えられている。反物質とは、物質と電荷などが反対で、性質は同じもののことを言う。現在、反物質は存在しない。物質と反物質が対消滅し、なぜか反物質よりも物質が多かったため、物質だけが残ったということのようだ。この対消滅を経て、個性をもった核子として陽子が生まれた。陽子と反陽子には、それぞれクォークが三つ入っていて、クォークと反クォークが混じりあった状態を「クォーク・グルオン・プラズマ状態」という。グルオンは、クォーク間に働く強い力の相互作用を媒介するゲージ粒子のことである。ゲージ粒子とは、四つの力の相互作用(ゲージ相互作用)を引き起こすボース粒子のことで、電磁気力を伝える光子、重力を伝える重力子、弱い力を伝えるWボソン、強い力を伝えるグルオンがある。

3. ヒグスメカニズム
クォーク間の強い力の相互作用を生んでいるのが「グルオン場」であり、四つの力を作り出している場を総称して「ゲージ場」という。重力場や電磁場もあるのだが、ここでは重力場が統一見解から外れる。クォークが質量を獲得する場が「ヒグス場」である。いわば質量の起源である。ヒグス場は対称性を破りやすい性質を持っているという。この対象性を破る現象でクォークが質量を獲得するのが「ヒグスメカニズム」である。ひもの挙動を調べていくうちに謎のグラビトン(重力子)が発見される。素粒子はスピン(自転)している。エネルギーを与えれば、その回転は大きくなり質量が増える。しかし、グラビトンはスピンがあるにも関わらず質量がゼロである。この重力子の発見によって、超ひも理論が、重力場をも含む統一見解を示唆することになる。

4. インフレーション理論
ビッグバン宇宙論は、主に二つの観測で裏付けられる。一つは、様々な銀河の光が赤方偏移していることから、多くの銀河が遠ざかっていることがわかる。ハッブルは、銀河の後退速度とその銀河までの距離が比例していることを見出し、遠くにある銀河ほど速く遠ざかっていることを発見した。ハッブル定数は宇宙の年齢や大きさに目安を与える。二つは、3K宇宙背景放射で、温度3Kの電磁波が宇宙のあらゆるところから地球へやってくる。人工衛星WMAPは、3K宇宙背景放射のゆらぎまで観測できるという。インフレーション理論は、水素原子の原子核が一気に地球の公転軌道ほどの大きさに広がったとするもので、ビッグバン宇宙論を補完したものである。実際に宇宙をプランク温度になるまでさかのぼると、その時の宇宙の大きさがとてつもなく大きく、平坦に近い状態になってしまう。よって、宇宙の創世をプランクの長さとするならば、どこかで爆発的に大きくなる瞬間が必要である。この平坦問題を巧みにというか、無理やりこじつけたのがインフレーション理論である。インフレーションの間、絶対温度はほぼゼロと考えられている。あまりにも急激な膨張によって密度が薄められるからである。プランクの長さの宇宙は冷たく高エネルギーをもった真空である。そこから、急激な膨張によって、エネルギーは温度に化け、冷たい宇宙は再加熱され、場が振動し粒子が励起され物質が誕生する。この高エネルギーはどこから得られるのか?そもそも、真空にエネルギーがあるのか?アインシュタインの方程式は、この真空のエネルギーを導き出せるという。真空のポテンシャルエネルギーが正の値で、しかもあまり運動をしない状態では、アインシュタインの方程式で圧力が負になるという。この負の圧力が膨張エネルギーを自己調達させて勝手に膨らむといった現象が起こるというのである。本書では、風船を膨らますのに、空気を入れなくても勝手に膨らむという説明がなされる。確かに、内圧がゼロで外圧が負ならば、相対的に風船は膨らみそうだ。では、その負の圧力はどこからくるのか?エネルギーのタダ食いか?それがアインシュタインの方程式だという。この負の圧力を生み出す真空のエネルギーはアインシュタインの宇宙項で表される。この宇宙項は、インフレーションの時期に使い果たしたと思われがちだが、実は今も少し残っているとされる。だから、宇宙は今もエネルギーのタダ喰いで膨張をするということになる。

5. Dブレーン
アメリカの物理学者ポリチンスキーが発見したDブレーンは、超ひもからなるエネルギーの塊である。超ひも理論の古典解としてDブレーンという安定したエネルギーが見つかった。この安定したエネルギーの塊が「ソリトン」である。例えば、波が押し寄せる様子で、波が形を変えずに安定した形状を保ちつつ押し寄せる姿がソリトンである。今までの摂動論では、いろいろな真空の間を偏移することを表すことができなかった。つまり、エネルギーがゼロの基底状態、すなわち真空から少しだけ励起された状態で、多くのひもが同時に関係する現象は扱えなかった。これに対して、Dブレーンは多くのひもがいっぱい詰まっている状態と見なして摂動論の限界を超える。ちなみに、Dは、微分方程式のディリクレ条件の頭文字に由来するらしい。Dブレーンは、超ひもが密集するいろいろな次元の面と考えることができる。Dブレーンの功績は、様々な真空の重ね合わせができたことである。トンネル効果もDブレーンによって引き起こされたと考えれる。例えば、アルファ線が原子核を抜け出すような現象を説明する時、ある確率で真空を超えられる。ここで、オリエンティフィールドというマイナスのエネルギーをもった変わったDブレーンが登場する。プラスとマイナスでエネルギーを相殺する現象は、真空を重ね合わせる上で好都合である。安定した空間を説明するためには、このエネルギーの相殺が必要である。超ひも理論は、10次元の理論とも言われるらしい。無数のタイプの真空があるからであろう。物事を一般化するというのは視点を増やすことにもなろうが、時空の次元を増やしてやれば、矛盾の生じない統一理論ができるということなのか?ところで、人類の住む宇宙は、その真空のどれにあたるのか?人類は10次元宇宙に浮かぶ4次元空間に住んでいるのか?人類へ影響を及ぼす相互作用は重力である。逆に言うと重力を感じない陰の空間が目の前に存在しても感じることすらできない。これが霊感なのか?なんとなくパラレルワールドへと導かれる。普段、均衡しておとなしくしている異空間から、突然表れる重力波を感じても不思議ではないのかもしれない。天体規模ではニュートンの重力法則は成り立つが、超接近するとその関係が崩れるのではなく、別のDブレーンの存在が影響しているだけなのかもしれない。気持ち良くゆらぐ千鳥足に向かって、突然重力点(店)からの影響によって軌道がずれるのも、そこにDブレーンが潜んでいるからに違いない。

6. サイクリック宇宙論
超ひも理論を支持する素粒子物理学者たちは、多くの宇宙研究者に支持されるインフレーション理論とは違った見解を持っている。それがサイクリック宇宙論である。人類は、ビッグバンとビッグクランチのサイクルを30回から50回繰り返した途上の宇宙に住んでいるという見解である。宇宙は膨張しているのか?縮小しているのか?それとも定常宇宙か?宇宙の膨張のしかたは、宇宙項と、宇宙に存在する物質の密度との関係によって論じられる。宇宙項は、真空がどの程度のエネルギーを持つかを表す定数である。宇宙項が大きいほど、エネルギーのタダ食い効果が大きく、宇宙は速く膨張する。物質の密度は、銀河と銀河がどの程度離れて存在するかを意味する。つまり、万有引力の関係で、密度が高ければ、それだけ収縮する力が強いことになる。現在の宇宙は膨張し続けているので、密度は下がり膨張速度も減速する方向であるが、宇宙項の加速方向との競合によって、宇宙の運命も決まる。インフレーション理論では、宇宙のエントロピーは、ただの一回の指数膨張と、それに次いで起こる再加熱によって作り出されると主張する。一方、サイクリック宇宙論では、ビッグバンとビッグクランチを繰り返しながら、徐々にエントロピーを蓄えてきたと考える。そこから計算されたのが30回から50回で、インフレーションという特異点を考慮する必要がないわけだ。宇宙は、ビッグバンとビッグクランチを繰り返していくうちに、だんだん巨大化しているのか?ちなみに、ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間で受け継がれるという。ただ、アル中ハイマーには、一晩に同じ店へ何度も繰り返して立ち寄る現象は、虚時間を持ち出さないと説明がつかない。サイクリック宇宙論には精神の輪廻を思わせるものがある。人間の肉体が成長して亡びていく様は、遺伝子で継承される。サイクリック宇宙論はなんとなくDNAを暗示しているように感じる。自然法則は、宇宙にも生物にも成り立つ可能性があるだろう。そして、人間の精神は、だんだん巨大化していくのだろうか?

2008-12-07

"ガリア戦記" ユリウス・カエサル 著

岩波文庫の歴史叙述はなるべく読みたいと思っている。それも時代によって廃れることがないからである。ただ、手を出すのに気が向かない大作も多い。例えば、昔からトゥキュディデスを読みたいと思っているが、いまだに果たせないでいる。本書で登場するゲルマーニアの考察には、タキトゥスに受け継がれるものを感じる。タキトゥスといえば、その代表作に「年代記」があるが、これも昔から目をつけている。いずれも、その大作を目の前にすれば尻込みしようというものだ。

ところで、歴史学の考察には、主観をいかに排除するかを問題にすることが多い。人間の思考は、主観に傾く傾向にあるので、客観に固執するぐらいでちょうど均衡がとれるのかもしれない。ただ、この考えに少々疑問を持つことがある。完全に主観を排除すれば、歴史学者の思考を放棄したことにならないだろうか?単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできない。歴史事象の原因は、深い思考の試みがなければ解明できないことも多い。一方、客観性に支配されると言われる科学の分野では、科学者が完全に主観を排除して思考しているわけではない。科学の進歩は天才たちの直観に頼ってきた面も多い。直観は極めて主観に近い領域にある。主観と客観の境界線も個人差があって微妙である。したがって、主観と客観の按配こそ、歴史学者の腕の見せ所であると考えている。主観も客観も人間の持つ本質であって、どちらからも逃れることはできないだろう。主観には精神の高まりを呼び起こし思考の深さを牽引する役割があり、客観には理性を研ぎ澄まし精神と知性の均衡を保つ役割があると考えている。アル中ハイマーは、主観と客観の両面を凌駕してこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。
歴史学の考察では、別の角度の論説を唱える歴史家もいる。クラウゼヴィッツはその著書「戦争論」の中で、批判的考察の有効性を説いている。単なる事象の指摘よりは、批判的な立場をとることで、もう一歩踏み込んだ思考に達するということだろうか。このあたりの詳細は、いずれこの大作を読み返してブログ記事にしたいと考えている。だが、その分厚さを目の前にすれば、またもや尻込みするのであった。

「ガリア戦記」は、紀元前58年から51年にかけて行われたローマ軍のガリア遠征を記したものである。8年に及ぶ征服の記録は一年毎に巻を改めて全8巻あるようだ。ただ、カエサルが記したとされるのは、第7巻までで第8巻はカエサルの死後ヒルティウスが書き加えたものとされている。歴史家によってはカエサルの自筆という説に異論を唱える人もいるようだが、傑作であることは間違いない。ガリアの遠征は、紀元前52年のアレシアの決戦でその目的を達成し、51年は匪賊討伐でおまけのような印象を与える。本書も多くの訳書の慣例にならって第7巻までが記される。そこには、戦記はもちろん、部族統治や、種族の風習といった文化的考察にも長けている様がうかがえる。それもカエサルの政治家としての手腕を示していると言えるだろう。また、歴史の回想録として感嘆させられるところも、モンテーニュから優れた歴史家と評される所以であろう。
カエサルは、ローマ軍の指揮官として、毎年元老院に詳細な報告書を送った。そして、元老院を熱狂させ、敵からも味方からも賞賛と尊敬を得たという。従う部族には、その忠実性を評価して、功績に対しての免税や、部族の掟と法を復活させたりする。その一方で、抵抗する部族には容赦しない。相手を野蛮人と呼びローマ軍の正義を強調する。部下たちもカエサルからの親愛を得たいと願って奮起する。そして、ガリア平定とゲルマーニア人との戦争へと向かっていく。本書は、カエサルが惨めな者や嘆願する者に慈悲深い人物であった事を描いている。これが自筆かどうかは別にしてもローマ側からの視点なので、ある程度差し引いて受け止めなければなるまい。

1. ローマとガリア
ローマとガリアの関係はカエサルよりも300年も前にさかのぼる。ガリー人の将ブレンヌスがローマを攻略したのは紀元前390年、その後もガリア人はたびたびローマを脅かした。紀元前3世紀になるとガリー人は、エトルスキー人やサムニテース人と結んで反ローマ同盟を結成する。これを最後にして、その後ガリー人が北伊を下ることはなかった。ハンニバルのローマ遠征を通じて北伊のガリー人は勢力回復を試みるが、紀元前2世紀には内部分裂を重ね、もはやローマに対抗する力がなかった。ローマは盟邦マシリア(マルセイユ)を援助して南ガリアへ侵入する。紀元前121年にはガリー人の連合軍を撃破して周辺を属国とした。こうして、カエサル以前からガリア遠征の下準備は整っていたのである。
ちょうどその頃、ガリアでは、レーヌス河(ライン河)を越えてゲルマーニア人の進出が度々見られるようになった。ガリアは東からのゲルマーニアと南からのローマの危機に直面していた。ガリー人の中で、その危機の打開運動が起こり、これがローマのガリア遠征への直接のきっかけとなる。カエサルにとって、ガリア遠征の勝利は英雄伝となり、ローマのすべてを支配することになる。

2. ガリア平定
ガリー人の中には、ゲルマーニア人の進出を恐れてローマに肩入れした部族もあれば、ゲルマーニア人に肩入れした部族もある。カエサルはどんな部族にも二つの党派が存在するのは必然であると語る。勝者が敗者に思いのまま命令するのは、当時の戦争の掟である。ローマも敗者に命令する。カエサルは、人質を差し出し年貢を納めれば、どんな種族にも不当な戦争をしかけず友邦と見なす。しかし、怠れば残虐行為が待っている。ゲルマーニア人は、法外な体格を持ち、信じられないほど勇気があり、戦争に鍛えていると、ガリー人や商人が伝える。しかし、カエサルはそんなものを恐れない。もともと、大柄なガリー人は小柄なローマ人を軽視する風潮があるという。ローマ軍が移動小屋を建て、牆壁を築き、遠くに塔が組み立てられるのを見ると、なんのためにそんな遠くで造るのかと、そんなに重い塔をこちらの防壁まで運べるわけがないと嘲笑したという。ところが、本当に動かし城壁に向かって近づくのを見ると、おじけづいて講和の使節を送る。カエサルは、破城槌が防壁に触れる前に降伏すれば、部族を存続させるが、武器を渡さなければ降伏を認められない。そして、圧倒的な近代武力の前に次々と武装解除させる。ガリー人は、地形と人工で固められた町が、ローマ軍の到着後わずか数日で落とされるのを見ておじけづく。ローマ軍の圧倒的勝利の評判は部族間に伝わる。そして、各地の部族から人質を差し出す使節がカエサルの下へ送られてくる。

3. ガリー人の分析
カリー人のほとんどが奴隷と見なされ、多くの人が借金と重税で有力者の乱暴に屈して隷属しているという。その中で尊敬される人間は二種類で、僧侶と騎士である。これは、カエサルにしてみれば服従させるのに問題があった人種でもある。僧侶は神聖で公私の犠牲を行い宗教を説く。公私のあらゆる論争や、犯罪や殺人、相続や国境をめぐる闘争が起こると、裁決して賠償や罰金を決める。個人でも部族でもその裁決に従わないと、最も重い罪となり社会的制裁を受ける。僧侶の中でも最も勢力を持つ一人がすべてを支配する。それは投票で選ばれ、時には武力で争う。僧侶は戦闘に加わらないのが普通で、税金も支払わない。その大きな特典に多くの人が憧れる。僧侶は、霊魂が不滅であることを説き、死後霊魂があちこちに現れることを教える。ガリアの部族は宗教に深く打ち込んでいて、重病人や戦争などで危険に身をさらすものには生贄を差し出す風習がある。人の生命を捧げなければ、不滅の神々はなだめられないと信じている。盗みや強奪などの罪で捕まった者の刑罰は、不滅の神々に喜ばれると思っている。しかし、そんな人間がいない時は、罪のないものまでも犠牲にする。夫は子供にも妻にも生死の権利を持つ。葬儀はガリー人の文化に比して仰々しい。生前に愛した動物を火にかける。そして、愛されていた奴隷や被護民も葬儀が済むと一緒に焼かれる。

4. ゲルマーニア人の分析
好戦的なゲルマーニア人との衝突は、レーヌス河の近辺で度々繰り返されカエサルを悩ませる。ゲルマーニア人の文化は、ローマやガリアとまったく風習が異なるという。神聖な仕事をする僧侶もなく犠牲にも関心がない。はっきりした形に見える太陽や火や月だけを神々とする。生活は狩猟と武事に励み、幼い頃から労働と困苦を求める。最も長く童貞を守ったものが絶賛され、童貞を守ることが身長も伸び、体力や神経が強くなると信じている。河で混浴し、獣皮や馴鹿の短衣を着ているので、身体の大部分は裸である。農耕にも関心がない。自分の土地や領地を持たない。首領や有力者は部族や血族に土地を割り当てるが、翌年には移動させる。その理由は、戦争する熱意を農耕にとって代わらないため、広い領地を得た有力者が下賤から財産を奪うといった心を抱かせないため、寒さ熱さをしのぐのに気を使って建築させないため、争いの元である金銭の欲望を起こさせないため、民衆が有力者と平等に扱われていることで満足させるため、という具合に分析している。自分の周囲を荒廃させて、国境を無人にして置くことは最大の名誉だという。これが、不意の侵入を防ぎ安全だと考えている。平和時には、首領はおらず、地方の有力者が裁判をし論争を静める。部族の領地外では強奪は不名誉にならない。むしろ青年を訓練し怠惰を抑えるために良いとしている。かつては、ガリー人がゲルマーニア人より武勇で優り、レーヌス河の向こうに植民した時もあったという。ゲルマーニア人は、不足と貧乏と忍耐の生活を続け、食料も衣服も変わらない。一方で、ガリー人は舶来品をおぼえ贅沢や便宜も多く与えられる。そして、幾度かの戦争に敗れ、次第に敗北に慣れ、武勇でゲルマーニア人と争おうともしなくなったと語る。

5. ゲルマーニア人との衝突
レーヌス河近郊に住む部族は、商人とも交流があり、ガリアの風習にもなれていた。カエサルはこうした部族とは友好を結んでいる。しかし、ゲルマーニアの各部族がところてん式に刺激されて、西方へ追い出されてくると、ガリー人との武力衝突が起こる。ローマ軍もゲルマーニア人と戦い、政治的解決も試みる。といっても人質を差し出すように要求するのだが、素直に従う部族もあれば、拒否する部族もある。カエサルはレーヌス河の渡河を決意する。船で渡るのは安全ではないので橋をかけることを検討する。河の幅と深さ、流れの速さで困難ではあるが、土木工事で奮闘する様も描かれる。橋が作られ始めると、逃走したり、人質を差し出す種族も現れる。そして、ある程度レーヌス河を越えてローマの栄誉と利益のために十分に貢献したと見るや橋を壊した。

2008-11-30

"「人間嫌い」のルール" 中島義道 著

本屋をぶらぶらしていると、あるキーワードが目に留まった。「人間嫌い」という言葉には、潜在意識を呼び起こす何かがあるのだろうか?こういう本は、教育者や宗教家といった、いわゆる善人と呼ばれる人々から批難されるに違いない。おいらには幼い頃、自虐的で鬱病の気があった。その原因はやりたい事が見つけられなかったことにある。高校時代までそれがなかなか認識できなかったが、原因さえ認識できれば楽になれる。大学時代からは自由奔放でそれなりに楽しく生きている。自らの向上心と言い訳しながら会社を転々とし、ついに独立してしまった。要するにわがままなのである。決して社交的にうまく振舞えないわけではない。ただ、いつも疲れる。合う合わない人間もはっきりしている。合わない人間は嫌う前に遠ざける。そう言えば、友人達は押したり引いたりと距離を保つのがうまい連中ばかりである。だから長続きしているのだろう。

著者は還暦を迎え、その10年も前から「人間の半分を降りる」宣言をしたという。親戚や家族との交流を避け、カトリック信者の妻とは離婚できないが、滅多に顔を合わせない。親戚付き合いを絶って叔母の死さえも知らせてこない。そういう生き方が寂しいわけではなく、むしろ歓迎している。著者はかなり重症な「人間嫌い」のようだ。教育では「人は一人では生きていけない」と教える。まったくその通りである。善人たちは協調性がなくては生きる資格がないように脅迫する。そして、徹底的に共感する術を教え演技力を身につけさせる。それが巧みな人間ほどズルい立派な大人になる。その一方で、自らの素朴さを誤魔化せず、思ったままにしか行動できない人々がいる。共感することに疲れる人々がいる。信頼が最も重要であると教えるが、信頼にはエゴイズムが潜む。人間は恩を売ると見返りを望む。社会には、「俺が世話をしてやった」という台詞が氾濫する。「情けは人の為ならず」という諺がある。これを「情けを与えては人のためにならない」と誤った解釈がよくなされるが、人に情けをかければ、回り回って自分の報いになるという意味である。善人たちはいじめに合う人間に、あなたは決して一人ではないと励まし自己満足に浸る。しかし、自殺まで追い詰められた人間は集団から排斥されても一人で生きていけるという確証がほしいのだ。嫌いな人間の前で嘘や媚が正当化され、うまく振舞えば大人であるが、うまく振舞えないと病人扱いされる。「人間嫌い」とは、そうしたことに息苦しさを感じる人々のことである。著者は、思いやりの押し付けを、善意と疑わない鈍感さが嫌いであると語る。協調性を謳う善人に、そうした鈍感な人が多いように感じられる。ただ、人間嫌いは、大多数の人間を嫌っても、大多数の人間から賞賛されたいと願っている。その矛盾性の根底には自己愛が存在する。著者は世間からつまはじきにされてもいいと覚悟して生きていると語る。そして、最初は多くの人に誤解されたが、今では少なからず賛同者がいるという。その中で、互いに縛らず、互いのわがままを尊重する奇妙な関係が形成されていく。人間嫌いでも努力すれば豊かな人間関係が築けると主張し、それをしないのは怠惰だからだという。
また、夏目漱石、永井荷風、芥川龍之介、三島由紀夫などの著名人の人間嫌いぶりを紹介し、人間嫌いの分類学も披露する。こうして見ると、実に多くの天才たちが「人間嫌い」の資質を持っているものだ。
本書を要約するとこういうことであろう。人間嫌いを無理に治す必要はない。そもそも病人ではない。人間嫌いを無理に理解しなくてもいい。どうせ善人たちに理解などできない。ただ、人間嫌いが迫害さえされなければそれでいい。

ベンチャーと称する会社にいると、協調という言葉に胡散臭さを感じている人が多いようだ。むしろ共感とか協調性を主張する人間の方がつまはじきにされる。おいらの経験した所が異常なのかもしれない。もちろん向上心を持っている人もいるが、精神的に安心できる空間を求めている人が多い。どう見ても大企業には合いそうもない連中ばかりであるが、不思議なことに大半が大企業経験者である。会社あげての忘年会やらがあると、それに欠席するでけで査定にひびくというから大組織とは滑稽である。おいらの学生時代は、就職というと、まだ終身雇用の時代で、それだけで人生が決まるように脅されたものだ。その時代に比べれば、今では多様化が進み窮屈さを感じなくなった。しばしば子供っぽい態度しかとれないおいらには、大人の態度が本当に大人なのか?と疑問に思うことがある。人間は経験を重ねると思うような態度がとれなくなる。だんだん臆病になるのも一種の自己防衛である。紳士で冷静な態度を自然にとっているように見える大人に憧れるが、自分にはできない態度だと諦めて自らを曝け出すしかない。大人たちの行動にはおもしろいものがある。典型的なのは、官僚政治の監視役も務まらない政治屋は互いに罵りあっても自らの醜さを省みない。いじめを批判する報道屋は自らのいじめ報道を正当化する。政治屋はまともな政治ができないだろう。報道屋はまともな報道ができないだろう。教育屋はまともな教育ができないだろう。それは、彼らが自らの世界に閉じこもっているからである。といったことを、純米のまろやかさを曝け出す日本酒を飲みながら、ぶつぶつと呟いてしまう本である。

ところで、「人間嫌い」の境界線を考察していると、微妙な人種に出会う。知識馬鹿とでも言おうか。優れた知識を身に付け、常に相手の間違いを指摘する輩がいる。いや!指摘しかできない。いかにも論理的に語り、相手の揚げ足を取るだけで、自らの精神を語ることはない。そうした現象は、討論会などでもよく見かける。何かに憑かれたように、知識を吸収することに専念するが、その知識を、自らの精神で消化しようとはしない。したがって、そのまま知識を披露することしかできない。常に「姑チェック」を怠らず、どんな話題にも獰猛に喰いついてくる。その存在は時には便利である。だが、少々間違った知識はいくらでも修正できるので、大した問題にはならない。むしろ、自らの精神を語れる人間の方がはるかに貴重である。では、知識もなければ精神もない人間はいったいどうなってしまうのだろうか?アル中ハイマー病とはそうした病である。

1. 人間嫌いの生産
幼少時の虐待、過酷ないじめ、あるいは親友からの裏切りなどによって、他人を信頼できなくなる人々がいる。こうしたことは、ちょっとしたきっかけで簡単に克服されるだろう。しかし、そうした境遇にも巡りあえず、一生他人を信頼できず、他人を恐れ、他人を軽蔑しながら生きる人もいる。本書は、それでも豊かな人生になりうると語る。そういう人は、むしろ暴力、残虐、冷酷、卑劣なことに対する感覚が研ぎ澄まされるかもしれない。そもそも普遍的に人間嫌いな人がいるのだろうか?ある人が無性に嫌いでも、世間を気にして表明できないことも多い。自分に対して害を及ぼさないと分かっていても、波長の合わない人間はいる。こうした現象はまだ穏やかであろう。障害者や犯罪者、ホームレスといった社会的弱者として、あからさまに差別される人もいる。理不尽にも社会的に運命付けられ、なぜ自分だけに重荷を課せるのか?といった疑問を持ち自ら絶望の淵に追い詰める。おまけに、その逃避先がカルト宗教だったりする。本書は、こうしたことから脱出する唯一の方法は、他人を普遍的に嫌うことだと語る。特定の人物を嫌わなければ自責の念は消える。そして、自分自身を嫌い、他人から嫌われても耐えられるという。人間の純粋さや誠実さ、それ自体に人間嫌いになる要因はない。必ずズルイ人間が存在するから、人間嫌いになる。彼らは、平気で嘘をつき、権力者に媚を売り、非権力者を足蹴にする。誠実でない人間ほど、自ら誠実ですと訴える。人徳のない人間ほど道徳について説教する。ほとんどの人は、不都合があっても生きる術としてその場をうまく誤魔化すことができる。ほとんどの人が、特定の人が嫌いでも、それを隠して嫌いではないように振舞える。これが大人の態度である。大人の振る舞いは自責の念にさいなまれることはない。それどころか、こうした態度が正しいと信じて、そうした態度が取れない人を批難する。人間嫌いは、まさに彼らによって生産されると語る。

2. 社交的な人間嫌い
善人の中にも、ほとんど嫌いに思われない人がいる。それは、他人を嫌いにならないからであろう。こういう人は、知識などに興味を持つが、固有の人間に興味がない。自分の価値観や人生観はずっと前から確立していて、どんなことに直面しても揺らぐことはない。どんな集団の中でも心地良さそうに分け隔てなく誰とでも付き合う。誰にでも愛想が良く悪口も言わない。物腰は常に紳士的で激しく怒ることもない。悩みを相談されても理解できないし、理解しようともしない。いずれ、その人間を知っていくうちに何も期待しなくなる。こういう人は、あらゆる個人的な問題を自己解決する。誰にも泣き言を言わない。そして、全ての人はそうするべきだと考えている。本書は、こういう人を自ら他人の悩みを見ないようにした結果、本当に見えなくなってしまっていると指摘している。悪口を言わないのは道徳観からではなく関心がないだけであると。誰に批難されようが、罵倒されようが、痛みを感じないと。彼らは、自己防衛のために、他人からは傷つけられない安全な空間を自ら確保している。本書は、こういう人までも人間嫌いの範疇に入れるか?戸惑いを見せる。頭はいいが、人間を見る目が無い人。パスカル風に言えば、「幾何学的精神」は異常に発達しているが、「繊細な精神」は幼児段階に留まっている人。こういう人は人間嫌いとは言わないだろう。人間嫌いというと、気難しく捻くれ者と思われがちである。だが、本書は、如才なく振る舞い、人あたりがよく、社交的な人間嫌いも多いという。他人に無関心な人は、ごく自然にそういう生き方を選んで、自分に絶望することはない。しかし、社交的な人間嫌いは、ちょっと油断すると絶望に陥る。たとえ嫌いな人間であっても、ある程度距離を置けば、その人間の持つ長所については尊敬することだってできる。だが、こちらの世界に深く入ろうとする無神経さには我慢できない。

3. 人間嫌いのルール
ここで本書で紹介される「人間嫌いのルール」10カ条を羅列しておこう。
(1) なるべくひとりでいる訓練をする
(2) したくないことはなるべくしない
自信を持ったおおらかな自己中心的な人間というのは、だいたい特殊な才能を持ち、それを支える特殊な感受性が社会的に認められた人である。こうした自己中心的な人は、他人の自己中心も尊重する。
(3) したいことは徹底的にする
したい事をして失敗した人は、したい事をしないまま人生を終えるよりもずっと豊かで充実しているだろう。家族や子供のためにとか、勇気がないからとか、才能がないからとか、いくら理由を並べても無駄である。
(4) 自分の信念にどこまでも忠実に生きる
他人を理解することは時間もかかるし努力も必要である。そうしたことに時間を割くのではなく、他人が抱く信念を妨げない。実際問題として、自分と対立する信念の持ち主と時空を共有することは不愉快である。したがって、彼らを尊重し遠ざかっていけばいい。
(5) 自分の感受性を大切にする
(6) 心にもないことは語らない
本心だけを語って生きるのは難しい。本当に信頼している者同士でも通用するか分からない。それでも本書は、それほど親しくない人にも適用してみることを薦める。そして、「心にあることはそのまま言う」ではなく、「心にもないことは語らない」という否定的な意味で捉えれば、人を傷つけるようなことから回避できるという。人は、なぜ心にもないことを言うのだろうか?相手を傷つけないためという良心的な意味もあるが、ほとんど自己防衛のためであろう。
(7) 人がいかに困窮していても、頼まれなければ何もしない
むやみに他人に干渉しないと言い換えてもいい。これは他人の困窮に見て見ぬふりをするという意味ではない。きちんと見た上で、場合によっては手伝うが、拒否されれば何もしないということである。もちろん、他人が生命の危機にあるとかいうレベルではなく、日常的なレベルである。人間は往々にして見返りを求める。社会は恩を忘れないように教える。言い換えれば、恩を計算することを教える。もっと言い換えれば、そうしない人は軽蔑し排斥すべきであると教える。
(8) 非人間嫌いとの接触事故を起こさない
(9) 自分が正しいと思ってはならない
相手が正しくないという感情が混入した人間嫌いは多いという。人間嫌いは、感受性や信念が一般人とずれている人種である。どちらが正しいわけでもない。両者は異なっているだけである。善人たちは、往々にして自分は正しいと信じている。それも愚かなことであるが、だからといって人間嫌いも同様に自分が正しいと思えば、同じ愚かさを共有することになる。
(10) いつでも死ぬ準備をしている

2008-11-23

"戦場の現在(いま)" 加藤健二郎 著

著者は、自ら戦争に強い思い入れを持って戦地へ赴いたと語る。幼少の頃から戦争に興味を持ち、兵士に劣らず専門知識を勉強したが、各地で志願しても視力が低いなどでうまくいかず、仕方なくジャーナリストになったという。そして、15年以上もの間、世界の戦場を渡り歩いた様子を回想する。著者にとって戦争取材は戦場へ向かうための手段に過ぎない。ちなみに、アル中ハイマーは、むかーし防衛大学を受験した。おいらも視力が低いがそれ以上に学力が低い。
戦争取材をする人の多くはジャーナリストやカメラマンである。だが、著者はジャーナリストはやじ馬の香りがするので嫌いだという。いまだにそのイメージは拭いきれずジャーナリストとしての誇りが持てないという。著者は、戦場に突入する時、「特に根拠のない自信」を持たないと弱気になって失敗すると語る。そして、検問や包囲網を潜り抜け、ゲリラと行動を共にし、拷問覚悟で拘束される様子や、列車の中では無理やり現地人と親しそうに大げさに笑ったりして検閲から逃れる様子などが語られる。それも、映画「大脱走」のシーンを重ねながら意外と明るい感じでつづられ、まるで冒険小説のようでもある。生命の危機を体験した人は明るく語れるのだろうか?何事も前向きでないと成功しないということだろうか?苦しい時にこそ明るさが必要なのかもしれない。ちなみに、アル中ハイマーは少し落ち込んでいる自分が好きである。ちょっとMだし。

日本人が戦争体験をすることは非常に難しい。平和ボケし、どっぷりとぬるま湯に浸かった酔っ払いに、こうした体験を綴ってくれるのはありがたい。本書を戦争好きな人間による平和論として読んでいる。それは、実際に戦っている兵士同士の醜さよりも、軍の威厳や政治の思惑あるいはメディア戦争といった外圧によって、対立を煽られている様子を物語るからである。平和論者は戦争を悪魔の代名詞のように叫ぶ。だが、その悪魔を解明しなければ、泥沼へ落ちていく姿にも気づかない。建物を破壊したり人を殺すという意識には全く進歩がないようだ。闘争本能は人間の本質としてある。近代戦争は、ハイテク化する分、被害範囲を狭めることができるかもしれない。しかし、巧みな諜報活動や正当化を装うメディア戦が存在する分、複雑でやっかいである。

近代戦の風景では、ユーゴが空爆に曝された時、首都ベオグラードの雰囲気は呑気なもので、深夜になっても灯火管制がひかれるわけでもなく、日中は商店やカフェバーなどに人々が出入りしていたという。ジャーナリストは、燃える建物や病院の犠牲者など、これぞ戦争!という映像を並べるが、彼らは戦争らしい絵を撮るために各地を駆けずり回っているだけだという。そして、死体袋に入った死体を求めるのではなく、現場に放置された残虐無残な死体を求める。彼らは、軍部や政府の暴走と報道しても、マスコミの暴走とは報道しない。戦況報告を水増ししたところで、大した問題にならないのだろうか?死者が多ければ、被害者意識を煽り国際世論を味方に付けることができる。攻撃側から見れば戦闘効果をアピールできる。そこで問題になるのが、その死者は戦闘員か?民間人か?である。誤爆などは、被害者側の絶好の宣伝材料だ。近代戦争では、死者の数の正確性よりも、プロパガンダ性を重要視する傾向にあるようだ。いつの時代でも、戦争の死者数を低い方へ修正しようとすると批難される。戦争は派手に注目され、歴史のページを飾りやすい。にも関わらず、あまりにも不正確な情報が飛び交うのも皮肉である。歴史として残りやすいから、有利になるように画策される。そもそも歴史文献には、時代の権力者が都合の良いように伝えるという性格がある。これを鵜呑みにして、史実を解明していることを嘆いている歴史学者も少なくない。ましてや戦争資料となると捏造が氾濫し正確な歴史解明は難しい。著者は、戦場写真は証拠を撮るという意識のある人は稀で、芸術性を求める人が多いという。現地住民がいつも命をかけて紛争を求めるとは考え難い。どこの住民でも平和を願うだろう。にも関わらず、軍部や政治屋にメディアが加担して戦争を煽られる様子がうかがえる。著者は、戦闘シーンを求めて駆けずり回った挙句、戦後の光景を眺めると虚しさを感じると語る。そこには、新築住宅が出来上がり、商店が並び、着々と復興する姿がある。これは、現地住民が平和に暮らすことを願っている証でもある。著者は次のように語る。
「戦争について生き生きとしているのは、外国人ジャーナリストだけか」

1. 戦場の光景
銃撃戦の最中、弾をかいくぐる兵士の描写は生々しい。その中で、著者自身の緊張と興奮が伝わる。拳銃の音は映画で見られる撃つ側からの音はほとんどせず、撃たれる側の銃弾の唸る音を伝える。戦地の中でもサラエボなどはホテルで宿泊しながらの取材だから楽だという。それに比べてジャングル戦は過酷で、一に体力、二に体力。先に衰弱した方が注意力と冷静さを失い危機となる。こうした状況下で、著者は日本人の代表という意識を持ったという。実際の検問の厳しさは、地元住民が普通に使っている路線バスなどで移動しないと分からないらしい。タクシーやチャーター車では、外国人ジャーナリストというだけで特別にパスできるからである。また、安全上でもチャーター車を利用すると、目撃者がいない状態となって狙われやすいという。紛争地で犠牲になる日本人は、チャーター車での移動中というケースが多いようだ。

2. チェチェンの爆撃
1994年、チェチェンはロシアからの独立を求めて、第一次チェチェン戦争が始まった。1996年、激しいテロ活動のためにロシアは撤退する。しかし、1999年バサエフ率いるチェチェン共和国は、隣国ダゲスタンを攻撃したため、これにロシアが介入し第二次チェチェン戦争が勃発する。2004年、ロシアでは連続して大規模なテロが発生。バス停爆破、地下鉄駅爆破、旅客機二機の爆破による墜落、北オセチア共和国の小学校占拠人質事件。これらの事件に犯行声明を出したのが、チェチェン独立派の司令官シャミール・パサエフである。彼は、チェチェンの英雄となり、ロシア側からはテロリストとして恐れられた。著者は、このパサエフの部隊に従軍した。この頃の著者は、最前線でのノウハウを身に付けていたが、ロシア語もチェチェン語も勉強せず手抜かりがあったことを反省している。言語に対する手抜きは、近年のジャーナリストに多く見られる傾向らしい。イラク戦争を取材している日本人ジャーナリストでアラビア語を習得している人は極めて少ないという。言語の習得は重要で、現地人と本音で話す機会を得たり、危険を察知する手段でもある。ここでは、圧倒的に優勢なロシア軍に包囲されていた様子を物語る。膠着状態で戦場にしばらく生活していると、敵の射撃音や飛翔音の微妙な違いを聞き分けることで、着弾地点が推定できるようになるという。それは、敵が火砲位置を変えずに射撃しているからであり、砲兵隊としては手抜きである。陸上自衛隊などは、射撃をしたらすぐに移動するのが鉄則である。このような点からも、当時のロシア軍のレベルがそれほど高くないことがうかがえる。また、暗視装置もそれほど充実しておらず、夜間攻撃の数も少なかったという。米国防省が公表した資料によると、毎日の犠牲者が部隊の3%に達すると、戦意喪失につながる危険領域だとされているらしい。こうした戦場心理を統計データと現実とを比べて体験できることが、著者にとっての関心事だという。チェチェンでは、その統計データのぎりぎりのところでの防衛戦だった。やがて、部隊の配置をロシア軍に発見され、包囲からの脱出が始まる。著者は、その脱出部隊のトラックに同乗しロシア軍の側を通過したという。無駄な戦闘は避けたいという心理はロシア軍にもあって、包囲から逃げられたのも、そうした心理が働いたからであろうと語る。強硬派のテロリストとされるバサエフの部隊でも、それほど狂信的な兵士が集まっていたわけでもないという。

3. 誇張される戦況
バグダッド侵攻で、攻撃ヘリ部隊の強襲を伴うような激戦があったと発表されても、実は戦闘そのものがなかったことや、事実と違う発表がなされることが多いという。戦車を爆破したという発表も、実はエンジントラブルだったという話はよくあるそうだ。こうした傾向は戦況報告ではよくあることで、逃亡する敵を追いかけて進撃したというよりは、激しい抵抗の中で進撃したとする方が、相手の名誉も傷つけず、味方の勇敢さが誇張できる。犠牲者にしても誇張される傾向にある。それだけ損害賠償の対象にもなるし、戦後復興のために世論の同情を引きつけることができる。バグダッド突入作戦で、二千人のイラク兵を殺したと米陸軍第三師団のHPでも発表されたらしい。しかし、これほど大規模な戦闘が行われているのも疑わしいという。その突入の後に残されていたイラク兵の死体は、50体ほどと言われているらしい。実際に死体を回収したイラク人によると、死体は250体ほどで、その多くは状況を知らずに歩いていて射殺された民間人が多く含まれていたという。メディアは、注目を集めるために血みどろの大激戦を期待し戦況を誇張する。そこに、勝者と敗者、軍部の思惑、政治の思惑の利害が一致するという奇妙な構図がある。本書は、次にように語る。
「日本では平和ボケという言葉が使われることが多くなっている。その言葉を借りるなら、負けると分かっている戦争で徹底抗戦するなどと予測する専門家たちこそが、まさに平和ボケしていたのである。」
自爆攻撃を敢行する一部の人々が、人民の意志を代表しているという考えこそ、大きな平和ボケだという。米軍の空爆による近代兵器の威力だけでなく、情報通信システムの脅威を見せ付けたことも、戦意を失わせるのに充分な効果があったことを物語っている。あまりにも一方的過ぎる戦況は、軍事予算を計上し難いということか。

4. メディア戦争
ボスニア・ヘルツエゴビナの紛争では、セルビア人が悪者とされ、ユーゴスラビアは国連から除名された。これは、先日の「ドキュメント 戦争広告代理店」でも記事にした。セルビアは既にメディア戦で負けていた。セルビア当局が何十人かの民間人の死体が発見されたと発表すると、外国人ジャーナリストはアルバニア人か?セルビア人か?と聞く。そして、セルビア人だという答えが返ってくると、記事にならないとして取材希望者がいなくなり、イタリア人記者一人と著者の二人だけになったという。セルビア戦争ではセルビア人の被害を取材してもあまり報道されない。更に、コソボ紛争では、取材すらしないといった状況があったという。本書は、コソボ南西部の町で出会ったアルバニア系の男の言葉を紹介している。
「ジャーナリストなら真実を書けよ。自分の目で見たこと聞いたことだけを書いてくれ。戦争を起こす方向に持っていくような報道は迷惑だからやめてくれ!」
悪者にされるセルビア人だけでなく、アルバニア系の人にも明らかにメディアに対する不信があったという。日本のメディアの偏向報道も酷いものだと常々思っているが、欧米はさすがにスケールが違う。アルバニア系の人々は独立を希望しているが、戦争を望んでいたわけではないという。そして、セルビア人の一方的な虐殺を報じることが、戦争を煽る結果となっていると指摘している。こうなると、軍事産業で利益のある国の思惑が潜んでいるように思われる。アメリカの攻撃を一方的に受ける運命にある勢力に共通して言えることは、既にメディア戦争に負けているということだ。
ところで、セルビアでは、闇商売があまり広がらなかったという。警察が厳しく規制していたのものあるだろうが、「自国が空爆されているときに私腹を肥やすなんてけしからん」という風潮もあるらしい。

5. 日本大使館のエピソード
湾岸戦争の時、イランの動向を調査するために入国した時のエピソードは笑える。と言ったら著者に怒られるかもしれないが。仇敵イラクと戦うのか?イスラムの敵米国と戦うのか?この時点ではまだ誰も予測できない。そこで、著者は軍隊がどこに集結しているかを観察して回る。そして、イラン警察にパスポートを没収され難儀する。ホテルで、私服警官三人がカラシニコフを持って部屋に入ってきて、フィルムなどを没収される。日本大使館に電話したら、「イラン警察はパスポートを取るなんてしません。それは盗賊ですよ。」と、逆に、著者の不注意を責められたという。当時の日本大使館が、イランの危機的情勢をあまりにも理解していないことを呆れている。日本大使館などに電話した自分が愚かだと反省しきりで、二度と日本大使館とは関わりたくないと語る。官僚に危機的状況を説明したところで、こちらのせいにされるのが落ちだ。日本大使館から警察当局に抗議できるものと思ったら、どうやら違うらしい。外交ルートを通じてイラン警察に釈明を求めるが、その外交ルートというのがおもろい。まず、東京の外務省からイランの外務省に事件の釈明を求めて、イランの外務省から警察に釈明させ、その釈明内容をイラン外務省から東京の外務省に伝え、東京からイランの日本大使館に報告するというものらしい。少し外務省を弁護すると、当時に比べれば現在では外務省の動きは格段に素早くなっているという。それも、日本人が拘束される事件などを経験したからであろう。更に、著者とイラン当局のやりとりもおもしろい。著者はスパイ容疑がかかっている。当時アメリカ大使館がイランに存在しなかったので、日本大使館を通じて諜報活動をしていると睨んでいる。そして、著者があっさりと日本大使館から見捨てられた理由を探ろうとする。

6. クルド人
クルド人は国家を持てない悲劇の民族と言われる。彼らはトルコ、イラク、イラン、シリアなどに住んでいる。しかし、クルド人同士の内紛も多く、他国の介入がなくても団結するのは難しいという。湾岸戦争以降も、イラクとトルコのクルド人は内紛を続ける。湾岸戦争でイラクが敗北したことで、クルディスタン自治州が誕生した。そこでも、KDP(クルド民主党)とPUK(クルド愛国同盟)の内紛が収まらない。そして、KDPは、フセインに依頼してイラク軍の派遣を請うというように、各勢力で後ろ盾を確保しようと画策する。クルド人同士で団結するというより、隣のクルド人と戦うために隣国の軍隊を引き入れるといった歴史を持っているという。

7. 見せかけのイン・パ戦争
パキスタンとインドは、カシミール地方の領有を巡って対立する。イギリス領から独立した時、ヒンズー教徒の多いインドと、ムスリムの多いパキスタンに分裂した。カシミール地方は、大多数がムスリムであったが、藩主がヒンズー教徒であったためにインド領となる。そのためにカシミール地方の住民は、パキスタンへ帰属を望む人が多いという。その抵抗をインドが弾圧し、パキスタンはカシミールのムスリムを支援するという構図がある。一次、二次イン・パ戦争を経て、第三次では、パキスタンが敗北し、東パキスタンがバングラデシュとして独立する。現在では、その紛争も沈静化しているようだ。機関銃陣地の視察で、防弾遮蔽に対する気配りや、機関銃の配置具合を見ても、とても両国が戦争しそうな雰囲気はないという。実際に現地の軍人にインタビューしても本音が返ってくるわけがない。そこで、企業経営者たちの意見を聞いてみると、軍部が権限と予算を保持するために、無理やりカシミールの戦争が重要だとアピールしているに過ぎないといった意見が大半だという。世の中にある紛争の火種は、その多くが軍部の権益や政治利用のためのものであろう。火種を用意しておいて、いつでも政治利用できるように確保しておく。そこに、メディアがマッチを持って歩いて回る。これが多くの紛争の正体なのかもしれない。

8. 日本政府の姿勢
対テロ戦争や自衛隊のイラク派遣は、アメリカに追従した日本政府の姿勢である。第一次派遣隊の壮行会で、「米軍が13万人以上の部隊を展開しても、どうにもならないイラクで、500人の自衛隊が役に立つなどと思わない方がいい。イラクに駐屯するのが目的である。」といったスピーチがあったという。プロの自衛官を誤魔化すようなスピーチをしても無駄ということらしい。本当の目的は、国内における自衛隊の地位向上、権限拡大、運用範囲の拡大であると考えている国民も多いだろう。戦争をやりたがる政治屋は、自衛隊で地獄のレンジャー訓練を経験させなければならないといった意見もある。戦争では、命との関係を語られることが多い。しかし、実際は、命だけでなく、重たい装備を持ち歩き、汚い環境で生活し、下痢で苦しむなどの体験をしただけでも、二度と戦争などしたくないと思うはずだという。首相からの命令には、意義を唱えずに服従するのが良い軍人であるとされる。軍が勝手な意志で行動することの危険性は歴史が示している。統帥権の微妙な位置付けが、軍部の暴走を助長したとも言えるだろう。やはり、シビリアン・コントロールが基本である。だが、現場の本音や真実が国家指導者に伝わる可能性が低いという矛盾がある。平和主義を唱える政治家が選挙に勝つことが圧倒的に多いが、平和主義を履き違えているケースも多い。軍事研究をしない政治家による舵取りの危険性はどうやって解消すればいいのか?歴史には平和主義者が戦争へ誘い込んだ例は多い。少なくとも防衛大臣が戦略の素人では話にならない。

2008-11-16

"ドキュメント 戦争広告代理店" 高木徹 著

本屋をぶらぶらしていると、なんとなくタイトルに惹かれた。本書は、NHKスペシャルで放送されたドキュメンタリー番組「民族浄化 - ユーゴ・情報戦の内幕」に、番組で紹介しきれなかった記事や、その後の情報を加え、国際紛争の仕組まれたPR戦争の実態を記したものである。この番組は観た覚えがある。その中で紹介される民族浄化のCMには、嫌悪感を抱いたものだ。そこには、血筋を清めるためのレイプなどの残虐行為がある。

民主主義の下で軍事行動を起こすには、正義の旗印を掲げることが絶対条件である。そうでなければ世論を納得させられない。逆に言うと、なんでも正義の口実をでっちあげればいい。本書は、メディア戦略に左右される民主主義の恐ろしさを露呈している。今日では、インターネットなどの高度な情報手段が発達し、あらゆる情報が簡単に入手できるようになった。これは、国際世論を扇動するための政治戦略の道具となる。巧みな情報操作とは、デマを流布すことではない。重大な事実を過小評価させ、些細な事実を誇張することである。これは報道にもよく見られる傾向であり、当人が意識しているかに関わらず、情報が捻じ曲げられる。言論の自由を叫ぶメディアが、自由な言論を迫害する現象もある。その結果、世論に煽られて正義と悪が入れ替わる可能性だってある。民主主義 + 情報化社会には、それを助長する危険性をはらんでいる。優れた情報戦略やPR戦略を具えた組織が、経済活動や軍事活動を有利にさせるのは、民主主義の宿命なのかもしれない。W.リップマンは、その著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性にかかっていると悲観的な結論で締めくくった。現実に、国際紛争や経済活動の中で陰の仕掛人が暗躍しているが、PRのうまい方が勝つというのも幼稚な社会に見える。軍事戦略やマーケッティングのみならず、規格化競争しかり、討論会しかり。世の中が便利になればなるほど人々は横着をし、情報を得るにしても手軽な手段に走りがちになる。それも仕方がないだろう。多くの知識を得る機会が増えて、その恩恵を受ける場合も多い。ただ、それをプロの情報屋がやっては、本質から遠ざかる傾向となる。人類には、時代の流れをものにした者が勝利してきた歴史がある。人間社会では、優れた方が必ず勝利するという原理は機能しないようだ。

ここで扱われる題材は、90年代に起きたボスニア紛争である。紛争後、ボスニア・ヘルツエゴビナの首都サラエボでは、世界からの援助によって資金や人材が流れ込む。その一方で、セルビア・モンテネグロの首都ベオグラードでは、NATO軍の空爆でトマホークの直撃を受けたままの瓦礫の山で放置される。同じ旧ユーゴスラビアでありながら、なぜこのような違いが現れるのか?本書は、それがまさしくボスニアが情報戦争に勝利した証であると語る。ボスニア紛争は、冷戦構造の終結と共に起こった民族紛争の中でも最大級のものである。著者は、この紛争が実際にはどういったものなのか?誰が加害者で誰が被害者なのか?それを客観的に述べられる人物は世界中どこを探しても居ないという。分かっているのは、この紛争で失われた命は数十万人、その後のコソボ紛争やNATO空爆によって更なる犠牲者を生んだという事実だけである。冷戦構造の終結後、西側諸国は民族紛争でどちらに味方していいのかを判断するのが難しい。国際世論はどちらにでも傾く可能性がある。そこで重要な役割を果たすのが巧みなPR戦略である。本書は、そのPR戦略で活躍したアメリカの民間企業とアメリカ国務省の姿を物語る。国際世論は、セルビア人を悪とし、モスレム人を悲劇の主人公とした。その手段は、「民族浄化」と「強制収容所」という二つのbuzzwordによってもたらされた。国連も、世論に従いユーゴスラビア連邦を追放した。しかし、著者は、セルビア人だけが悪とされる論調に疑問を投げかける。セルビア人だけでなく、モスレム人にも、クロアチア人にも責任があると主張する。世論が一方的になったのは、国際的に関心のなかったボスニア紛争に、最初の段階でイメージを定着させたことにあるという。本書の主題は、この差が生じた原因に迫ろうとする。それは、PRのプロを雇ったモスレム人と、雇えなかったセルビア人との差である。実際に、旧ユーゴ戦犯法廷ではモスレム人も収容所をつくり、人権侵害を行ったとして逮捕者が出ている。戦場からネットを通じて、国際世論を誘導する手段には倫理上の疑問が残る。だからといって情報を規制すれば、権力によって情報を支配されてしまう。情報の検証も必要である。湾岸戦争のように少女の証言による「やらせ」などは批難されるべきである。紛争はいつもどこかで起こっていて、ますますPR企業は繁盛しそうだ。本書は、紛争に介入するPR企業は「情報の死の商人」であると語る。

本書で恐ろしく感じるのは、アメリカのPR企業のレベルの高さだけでなく、彼らは民間であるがために、どこの国とも契約する可能性があるということである。政権が交代する度に、高級官僚は総入れ替えとなり、民間と政府の間を行き来しているというのも、日本では考えられない光景である。アメリカの柔軟さは、国際紛争のPR活動で成功した者が望めば、国務省入りすることもあり得るということだ。本書は、そうした懐の深さが、国際政治のPR戦略を立案するためには絶対に必要であると語る。日本では、大学を卒業したら外務省に入り、一生その中で生きていくのが大半である。最近では、多少の人材を民間から登用することもあるが、量、質ともに話にならない。著者は、硬直しきった官僚の人事制度を根本的に変革しない限り、日本の国際的地位は下がると断言している。こうしたPR戦略は、民間企業で起こるスキャンダル問題でも当てはまる。不祥事や事故などの事態で、多くの企業がメディア対応の失策によって社会から葬り去られている。発展途上国の成長によって、いずれ日本は経済的な優位性を失うだろう。そして、国際世論の奪い合いといった舞台に引きずり出される。日本の政治家や官僚は、世論に訴えるよりも、相変わらず有力者に接近するという手法を繰り返す。コネ社会という伝統がそうした行為を根付かせているのだろう。日本は、ナチスと同盟したファシズム国家であったという過去の看板を背負っている。現代感覚からすると、なんとも馬鹿馬鹿しい発想であるが、PR戦略はどんなことでも材料にして攻撃を仕掛ける。こうした時代の流れは、好まずとも押し寄せるであろう。

1. ボスニア紛争
指導者チトーの下、40年間続いたユーゴスラビア連邦は、六つの連邦で構成される多民族国家である。チトーの死と冷戦構造の崩壊は、民族独立の気運を蘇らせた。まず、最も西に位置するスロベニアが独立。次にクロアチアが独立。これに対して連邦政府は軍事力で独立を阻止する。当時の政府は、セルビア共和国の大統領ミロシェビッチらに牛耳られていた。その構図は、ユーゴスラビア体制を維持しようとするセルビア人と各民族との対立である。ここで注目すべきは、ボスニア紛争は他の独立とは事情が違っている点である。スロベニア共和国は、その大半がスロベニア人で占められる。クロアチア共和国もクロアチア人で占められる。しかし、ボスニア・ヘルツエゴビナは、最大民族モスレム人でも四割を占める程度で、三割のセルビア人、二割のクロアチア人といった具合である。モスレム人は、中世に征服したオスマントルコの影響によってキリスト教からイスラム教に改宗した人々の末裔だという。当時のボスニア・ヘルツエゴビナは、モスレム人による政府である。ボスニア紛争は、モスレム人とセルビア人の対決である。

2. PR企業ルーダー・フィン社のジム・ハーフ氏
物語は、1992年、ボスニア・ヘルツエゴビナの外相ハリス・シライジッチがアメリカを訪問するところから始まる。彼は人権活動家や国務省の要人と会い、アメリカを味方につけようとするがうまくいかない。アメリカの中東介入が素早いのは、その関心事が石油だからである。バルカン半島の紛争は、所詮ヨーロッパの裏庭の揉め事でしかない。また、バルカン半島はパルチザンの伝統を持つので、地上戦ともなれば泥沼化しそうである。アメリカに限らず軍事介入は避けたいところだろう。アメリカ政府を味方につけるためには、まずアメリカ世論を動かすことだ。世論の後ろ盾無しで予算を付けることは、政府としては自殺行為である。そこで登場するのが、アメリカの大手PR企業ルーダー・フィン社の幹部ジム・ハーフ氏である。通常の顧客は民間企業であるが、ハーフ氏の得意分野は国家そのものを顧客とし国益を追求することだという。彼は、1991年にクロアチアと契約しバルカンの文化や歴史を研究し、クロアチア独立戦争に正当性をアピールした経験があるという。民族紛争を小国の内部紛争で終わらせるかどうかは、国際問題にできるかどうかにかかる。ハーフ氏の手法は様々な点で関心させられる。人間は、外部から窮地に追い込まれると、それを訴える時には、どうしてもその経緯を感情的に説明したくなるものである。だが、ハーフ氏はそれはタブーだという。そうした前提を説明している間に視聴者はチャンネルを変えてしまうからである。歴史的経緯などはどうでもよく、その瞬間に起きている悲劇を訴えないと効果はない。物事を一言で印象付けることができればその効果は絶大である。そこで登場させるのがキャッチコピーである。頭が良い人ほど一言で物事を判断できるだろうが、おいらにはゆっくり観察する時間を与えてくれないと理解できないので、歴史的背景などを説明してくれる方がありがたい。情報化が進む分、頭が悪いぐらいがちょうどよいのかもしれない。

3. 民族浄化
ボスニア紛争が他の紛争と違っているのは、「民族浄化」を謳っている点である。PRビジネスとは、メッセージのマーケッティングでもある。いかにミロシェビッチが残虐行為をしているかを宣伝することが仕事である。アメリカという国は、民主主義や人権という価値観に敏感に反応する。「民族浄化」というキャッチコピーには、欧米人にとってナチスの迫害を思い浮かべるものがあり、見事に大戦のトラウマをついたものである。日本人のおいらでも、この言葉にはインパクトを感じる。ハーフ氏は、セルビア人 = ナチスというイメージを見事に作り上げた。ただ、ホロコーストやナチスという直接の表現は避けている。残虐の規模からすれば比べようもなく、下手するとユダヤ人への冒涜となる可能性があるからである。「民族浄化」という言葉は、バルカン半島には以前からある言葉らしい。第二次大戦時に、セルビア人とクロアチア人の紛争で使われたという。当時、クロアチアにはナチスの傀儡政権があった。多民族が混在する中、無理やり「クロアチア人の純血国家」とする政策をとり、「セルビア人狩り」をした。これは、セルビア人の六人に一人が殺されるという凄まじい残虐であったという。この言葉は、戦後チトー政権の元で封印されたが、うってつけの言葉である。アメリカ国務省もこの言葉に目をつける。ミロシェビッチを、サダム・フセインやカダフィと同じように、残虐者という印象を与えるのに都合が良い。その一方で、歴史的には、イギリスもフランスもセルビアに親近感があった。第二次大戦でナチスの傀儡政権に、死力を尽くしたのはセルビア人である。よって、当初ヨーロッパとの歩調は合わなかったが、「民族浄化」という宣伝文句が後押しをする。アメリカでは、連日ボスニアの話題がマスコミを賑わす。アメリカ人の中には、ボスニアで親を失った子供を養子に迎えたいという申し出まであったという。アメリカの国民性は、こうした苦難に直面している人々を見ると、奉仕の精神を見せるところがある。この点は素晴らしいが、それを逆手に取る連中がいつも付きまとう。実際に、モスレム人だけが被害者なのかということに疑問を持っている知識人も多かったという。しかし、世論の風向きからして発言するには勇気がいる空気が流れていた。

4. 強制収容所
「民族浄化」がナチスを直接言及しなかったのに対して、「強制収容所」はナチスのイメージそのものである。セルビア人がモスレム人を収容しているというスクープをしたのは、ニューヨークのタブロイ紙ニューズデイだという。以前から、強制収容所らしきものがあるという噂が渦巻いていたが、その情報を具体化させた。確かに収容所はあったが、それほど残虐なものだったかは疑われたまま、セルビア人による報道規制などの状況から想像して記事にされたという。その後も十分な証拠に裏付けされたものかどうかは判断できないらしい。しかし、その記事を書いたガットマンという記者は自信満々だったという。彼はピューリッツァー賞に輝いた。ある情報では、ボスニア・ヘルツエゴビナで若い記者が事実を捻じ曲げた情報を、メディア本社に送っていたという証言もあるらしい。ニューズディはタブロイド版の地方新聞に過ぎないので、それだけでは世間を賑わすことにはならない。この記事にハーフ氏が目をつけ、このイメージが大手メディアに浸透していく。強制収容所の衝撃は、国連と議会を刺激する。こうして、セルビア人が加害者でモスレム人が被害者という構図が出来上がったという。

5. 国連軍のマッケンジー将軍
国連軍サラエボ司令官のマッケンジー将軍は、カナダ軍の名声を高めた英雄として凱旋した。将軍は軍歴の大半を国連平和維持活動に捧げた人物として紹介される。彼はハーフ氏から警戒されていたという。悪いのはセルビア人だけではないと発言したからである。現場の将軍の発言には説得力がある。そもそも国連は中立でなければならない。マッケンジー将軍は、紛争に介入することではなく、監視する役割を十分に認識していたという。将軍は後に中立であることにこだわり続けたと述べている。実際に、セルビア人による残虐行為の情報には、根拠のないものも多かったらしい。例えば、動物園のライオンの檻に、モスレム人の赤ちゃんが餌として投げ込まれているとかいう話が、真面目に大新聞にも掲載されたという。大砲をわざと病院の脇に設置するなどといったことを双方ともやっている。国際世論を惹き付けるための行為は互いに卑劣で、被害者になるように仕組んでいると将軍は証言している。国際世論を敵に回したセルビア人からすると西側の記者は敵である。期待に応えて侮辱的なゼスチャーもするだろう。これが更に悪いイメージとして報道される。メディアは、決まってわざと感情を煽り、人間性をカメラの前に曝け出そうとする。こうした挑発的な態度でメディアを敵にして墓穴を掘った著名人も多い。マッケンジー将軍にとって不運だったのは、任務を終えた頃、ちょうど強制収容所説が大ブレークしたことであるという。国連本部での記者会見でも、その質問が浴びせられたが将軍は一度も見ていないと発言した。これはハーフ氏にとっては死活問題になりかねない。強制収容所説がでっち上げとなり、敵のPR戦略の材料にされかねない。将軍の発言はカナダ政府への抗議となった。上院での公聴会では、議員たちが詰問調の質問を浴びせかける。地元カナダの論調も英雄扱いから、疑念の目で見られる。ただ不思議なのが、マッケンジー将軍が帰国した、そのタイミングで強制収容所説が湧き上がったことである。まさしくPR戦略の餌食にされたのかもしれない。将軍は様々な中傷を受けたという。将軍自身がサラエボの収容所でモスレム人の女性をレイプしたといった話まで飛び出す。国連軍の将軍として派遣されたからには、双方の政府が接触してくるだろう。セルビア人と面会した事実もあるに違いない。そうしたこともPR戦略では材料にされる。こうして、将軍は人生を狂わされ軍を去ったという。

2008-11-09

"武装解除" 伊勢崎賢治 著

本屋を散歩していると、ある言葉に目が留まった。「職業: 紛争屋」アル中ハイマーはこの宣伝文句にいちころである。著者は、アフリカのシエラレオネという最貧困国とも言うべき国で国連NGOとして活動し、東ティモールでは県知事を務め、アフガニスタンでは日本のODAに参加した経験を持つ。紛争を目の当たりにした立場からの論議は、視野の狭いアル中ハイマーに新たな角度を与えてくれる。人類の歴史には、平和主義者が戦争を呼び込んできた例が多い。また、本当の意味での平和を願っているのは軍人であると主張する偉大な軍略家も少なくない。実際に軍事の現場を見た人間でないと、真の平和論は語れないのかもしれない。人間社会はおもしろいもので、経済学者が経済危機を引き起こし、政治家が悪しき政治を招き、道徳家が道徳を乱すといった現象がある。

ここで言う「紛争屋」とは、国連が乗り出す紛争処理を渡り歩いている連中のことである。世界で紛争が起こると国連安保理が乗り出し、PKOなどの国連ミッションが生まれる。紛争処理の現場はものすごい速さで動くため、多くの人が招集され各国代表も殺気立つ。紛争国に権益がある国にとっては、ここで政治力を発揮できないと外交力のない国と見なされる。こうした短期決戦の場では、幹部ポストの人間は自分の息のかかった人物を集める。これは縁故主義ではあるが、人間関係を新たに構築する暇はない。したがって、紛争処理の現場では顔見知りの人間と出会う機会が多くなるという。

本書は、平和を支える治安装置の意義に、日本のメディアは嗅覚が麻痺していると語る。国際援助では、留置場、刑務所などの体制系インフラは、小学校や病院などの癒し系インフラに比べ、興味を引きにくい。メディアが好む映像もその傾向にあり、日本の論調もその流れに乗る。統一国家が形成される中でもっとも重要なのは治安である。本書は、小学校よりも刑務所の方が大事だということを、日本国民も認識すべきだと訴える。海外の軍事行動を監視するのは官ではなく民であって、民意を創るジャナーリズムが有効である場合が多いという。ジャーナリズムの眼が愚かな政治判断の抑止にもなる。しかし、日本のジャーナリズムは大本営化していると嘆いている。各社が大挙して護送船団のように押しかけ同質の報道を続ける。イラクにおいても、自衛隊の広報が流した情報をあたかも自ら取材したかのように流す。戦場報道に限らず政治報道においても、その癒着体質は報道内容からも見てとれる。

本書は、日本政府の援助は政治的な条件をつけることを知らないと嘆く。それを内政干渉と見なし避けてきた伝統がある。しかし、平和を願って出される血税の使い道を監視するのは当り前である。軍事行動に独自判断を許すわけにはいかない。そこで、軍隊には最良のパートナーが必要となる。平和目的の軍隊はシビリアンコントロールが原則である。自衛隊の海外派兵が、どこの国策にも影響されない中立なパートナーによってコントロールされることが望ましい。国連は完全に機能していないにしても、米国よりは公正に思える。平和への理念は、政治や外交を超越した世界であり、各国の利害関係を優先するものではない。しかし、各国は一つの外交手段として権益を主張する。そもそも、そんなに貧しい国に、カラシニコフが大量に出回るとはどういうことか?巨大な武器生産国が、国連の常任理事国を占めているのも、紛争屋にはやるせないだろう。今日、一国の内戦という事態を、国際社会が見過ごすことはない。国際社会は民主主義の構築を求める。そのために莫大な予算が飛び交う。たとえ民主主義が自然発生的に起こらなくても、非民主的だという理由で、その手段が侵略であっても、無理やりにでも誘導する。そして、紛争屋も繁盛する。

本書は、自衛隊の平和利用のための具体的な方法も提起している。軍事力を持つ自衛隊の存在に、憲法との矛盾を感じている人も多いだろう。日本には、憲法に関する根本の議論を避けてきた経緯がある。ここを避けて自衛隊の海外派兵を既成事実化する。安全な場所への派兵という言い訳ならば、民間を派遣すればいい。後方支援という言葉も意味をなさない。何よりも気の毒なのが、実際に活動する自衛隊である。本書は、自衛隊の一つの貢献方法として、国際軍事監視団に参加することを提案している。平和憲法を掲げる日本にとってうってつけの役割にも見えるが、あっさり却下されたという。監視団は、武装勢力の中に入って双方の武器使用の監視を行うわけだから、危険地域に入り込むことになる。それも優れた軍事知識がある部隊でないと務まらない。たとえ危険地域に入っても、他国が護衛するのであれば、護衛する側も納得できないだろう。せっかくの派兵も迷惑ということにもなりかねない。また、本書は、憲法はそのままでODA大綱に反映する形で現実性を持たせることができないかと模索する。ただ、その議論にも少々無理があるように思える。読んでいると、著者は改憲論者であるかのように思えるのだが、最後に護憲論者であることを告白している。それも、今の政治議論の元で生まれる改憲案が、現実的なものになるだろうかと疑問を投げかける。むしろ、もっと悪しきものになる恐れがある。少なくとも現状の憲法は、愚かな政治判断のブレーキになっている部分もある。政治家は永田町の論理に長けた政治屋であって、あまりにも社会の論理に疎い。この悲観的意見には、現場で煮え湯を飲まされた人間の気持ちが伝わる。

そう言えば「憲法9条を世界遺産に」といった意見も聞く。おそらく冗談で言っているのだろう。日本国憲法が世界で唯一の平和憲法という主張は、日本は最高の民族であるといった神話と大して変わらない。西洋には、聖書の時代から神との契約条項を策定したきた慣習がある。日本人は、国民と国家権力の間で結ばれる契約条項である憲法をまとめるのが、比較的苦手なのかもしれない。グローバル化が進む中で、ビジネス業界では条文による契約が定着しているものの、日本人の慣習として定着しているとは思えない。それは、契約条項をろくに読まず、保険契約を結んでしまうような行動にも現れる。そもそも、理念を条文によって完璧に制御できるのか?世界に誇れるだけのオリジナル性があるのか?第一次大戦後、国際連盟は「侵略戦争は国際犯罪」とした。その後の、ケロッグ=プリアン条約では、戦争放棄と国際紛争の禁止を明確に規定している。そこで論争となるのが、自衛のための戦争を否定できるかである。アメリカでは自衛戦争は許されるとしたが、日本では未だに決着を見ない。そもそも、「自衛」という言葉が抽象的であって、兵器が革新化すれば「侵略」の概念も異なり世論をいかようにも操作できる。ケロッグ=プリアン条約が戦争を止めることができなかったのは、歴史的事実である。憲法9条はケロッグ=プリアン条約の延長上にあるように思える。
アメリカ合衆国憲法は、あらゆる独裁者の出現を拒むように考慮されている。だが、その論理的弱点を指摘した数学者がいる。これは、暗に条文を完全な論理で表すことはできないことを示しているのではないだろうか?これは、ドキュメントを作成したことがある人なら分かるだろう。規格の策定、組織の規定、契約書、仕様書などあらゆる文書において、人間の思考を完璧に表し尽くしたものなど存在しない。広範にカバーしようとすれば、極めて抽象的なものとなる。抽象的な表現は異なる解釈を生む。あらゆる条文はこのジレンマに陥る。イデオロギーや条文を完璧だと信じると、もはや人間は脳死状態に陥る。人間の生産物である憲法を普遍原理とすることは、人間を神に崇めるのと同じではないのか?思想や条文を生きたものにするためには、常に検証され続けなければならない。現在の政治権力が三権分立によってバランスされていると信じる者は少数派であろう。そうなると、権力の暴走を抑える最後の砦が憲法ということになる。だが、もやは憲法が機能していると信じる者も少ないだろう。憲法で「国民の生命と財産を守る」と謳いながら、拉致被害者を見捨ててきた政府は立派な憲法違反を犯している。にも関わらず、政治犯として裁かれた政治家を知らない。「憲法よ!お前は既に死んでいる!」こうした状況で、どんなに立派な憲法を草案しても、運営理念がなければ意義を無くす。どうせなら自衛隊を完全に国連に委ね、日本政府から独立させるのが手っ取り早い。自衛隊は、憲法にすらその存在を否定されている。自分の職業が憲法違反だと言われたら、酔っ払うしかないではないか。大人たちはこうした矛盾をどう説明するのか?確かに世の中は矛盾で成り立っている。せめて憲法ぐらいは筋を通す努力をしてもいいのではないか。

1. 米国のダブルスタンダード
9.11が人類の悲劇と言われているが、自業自得という冷ややかな目で見ている人も少なくない。その被害者が3000人ほど。しかし、シエラレオネでは、殺人よりも惨いとされる手足を切断された子供達は数千人、内戦で犠牲になったのは5万人から50万人とも言われるらしい。犠牲者の数だけで語るのも不謹慎であるが、なぜ世界的な悲劇と叫ばれるのか?こうした疑問は、犠牲者を目の当たりにするアフリカ人は一般的に持っているという。オサマ・ビン・ラディンを米国の副大統領にすると武装解除されるだろうというブラックジョークまで飛び出す。シエラレオネで、大虐殺の首謀者フォディ・サンコゥを副大統領に祭り上げたのは米国である。おまけに、その郎党に恩赦を与えた。さすがに国連も副大統領にするのは躊躇したらしいが、強い反対をしたわけではない。泥沼化した内戦を収拾させる苦渋の選択ということだろうか?その理屈からすると、米国がオサマ・ビン・ラディンを許し、和解することは可能ということになる。タリバンも同様、米国の傀儡であるカルザイ政権にタリバンを恩赦させ、アフガン選挙にタリバンを一政党として参加させるのは難しいことではないと皮肉る。シエラレオネでは、恩赦を受けた反政府軍のゲリラたちは、日々被害者と同じように暮らすという。家族が殺され手足を切り取った連中が恩赦を受けて、法的にも罪状を問われない。そうした連中を目の前にして被害者はどういう気持ちでいるだろうか?日本には、復讐の連鎖になるから暴力では何も解決できないという風潮がある。日本の社会も捨てたもんじゃない。しかし、被害者は和解を承諾したわけではない。復讐する気力もないほどに絶望を受け入れたのだ。そこには和解という暴力がある。国際世論は、被害者だけに寛容さを求めるべきなのだろうか?この問い掛けには、感情移入させられるものがある。

2. DDR: Disarmament、Demobilization & Reintegration
DDRとは、武装解除、動員解除、復員事業の順に治安回復を行うプロセスである。軍事組織というよりは盗賊集団と言った方がいいかもしれないが、そうした民兵集団にも命令系統はある。動員解除は下っ端の組織から段階的に行うことで上官に最後まで責任を追わせるというやり方が、政治的に有効であるという。そして、動員された貧困層が再動員されないように、復員事業で一般社会へ再統合する。復員事業では職業訓練を行うが、疲弊しきっている国で職業が見つかるはずもない。むしろ貧困層への再統合となるだろう。人を殺しても恩赦され、国際社会が特別な恩恵までくれるとなると残虐行為は繰り返されるだろう。シエラレオネの場合は、前線に繰り出されたのは少年兵だったという。
復員事業は期限を決めて、一般大衆が寛容さを保っている間に集中的に行わなければならないという。首謀者たちの政治的野心は絶えない。蜂起の口実は、一党独裁や政治腐敗を理由にした革命である。これに、一般市民までもが拍手喝采する。その革命が、子供達の手足を切り落とすまでの大虐殺になるとは誰もが予想だにしない。これは、失業問題を解決したヒトラーを一時的に支持した社会と似ている。
民主主義へのプロセスでは、紛争後の初めての選挙をどうやるかが焦点となるという。このあたりはいつも疑問に思うのだが、民主主義と選挙を同列にした偏った思想があるように思える。理念と手段を同列にしてはならない。多数決は民主主義の運営を効率化する手段であって民主主義の本質ではない。民族の歴史を無視して、その国民が有権者としての認識がなくても、無理やり教育して選挙をやる。教育は慣習として根付かなければ効力を失う。民主主義を異なる意見を持つ政治フループの闘争とするならば、それを武器でやるのが紛争である。民主主義とは、過激派が武装解除して政治家になるだけのことかもしれん。武装解除させるためには、平和維持活動する立場からすると、中立性を示さなければならない。反政府ゲリラとも交渉する必要がある。おまけに、武装解除後の報復措置はなし、民主主義国家への政治参加も保証しなければ、武装解除に応じない。なんとも矛盾した立場である。賄賂がまかり通る腐れきった行政、部族や宗教価値でしか政治理念を見出せない政治家のエゴイズム、主権とは名ばかりの無政府状態、こうした状況が内戦へと導く。それでも国連は、この主権を建前にしなければならない。武装解除といっても単なる武器回収ではない。選挙で、元反政府ゲリラが大敗すると、その後の動向を監視する必要がある。当然、停戦合意違反も起こる。ほとんどの場合、ちょっかいを出すのは親政府側なのだそうだ。国連が主権政府寄りだと高をくくって、驕りが目立ちお行儀が悪いという。

3. アフガニスタン
アフガニスタンの歴史は、中央と地方勢力の間で様々に変化する力関係に、隣接国をはじめとする外国の介入もあり常に混乱した状態にある。そこには、ロシアと英国の利権争い、英国が決めたアフガニスタンとパキスタンの国境、イスラム原理主義を含めた反対勢力の弾圧、といったクーデターや権力抗争の歴史が続く。1979年、アフガニスタンの革命を救うという名目でソ連が介入すると、パキスタンやイランに逃れた難民は、ムジャヒディン(聖戦の戦士)となり、ソ連軍から奪回するジハード(聖戦)を誓う。彼らはCIAから援助や訓練を受けて勢力を拡大する。その中にオサマ・ビン・ラディンも加わったとされる。内部紛争の中で新勢力のタリバンも出現する。当初米国はタリバンに好意的であったが、オサマ・ビン・ラディンを匿っていることが明らかになると一転して反タリバンの立場をとる。米英は、タリバン、アルカイダ掃討作戦を決行しカブールを占拠する。著者が足を踏み入れた2002年頃、アフガニスタンの首都カブール周辺では、多くの軍閥が蔓延っていたという。カルザイ大統領は暫定政権の中で軍閥の非軍事化を宣言した。独立で武装する集団は全て違法であるが、カブールから一歩出ると群雄割拠の状態にある。アフガニスタンでの国連ミッションは、DDRの順番がRDDになったという。つまり、武装解除の前に復員事業を行ったというのだ。これは、民族性、政治グループと軍閥間のパワーバランスを考慮したものであるが、著者はこのアプローチは奇妙であると語る。泥沼化した戦争の責任を負っている米国は、作戦の多国籍化を謀る。この構図はイラク戦争と同じである。しかし、国連は米国が始めた戦争だからという理由で、復興の主導権を握らず意識的に影を薄くする。結局タリバンやアルカイダの脅威は米連合軍には任せられず、逆に軍閥が強化されてたという。アフガン社会で自称兵士を募ったら、成人男子の全員が手を挙げかねないお国柄なのだそうだ。ここでの復員事業は、川口順子外相がアフガン訪問の時に、日本主導で行うことになっていたという。復員事業は、日本も戦後で経験しているので、もっとも貢献できる分野であるという乗りで日本政府が手を挙げたらしい。本書は、この日本の主導権獲得は浅はかであると指摘する。日本のマスコミも、Rを先にやれば、DDは自然とついてくるという論調が支配的だったという。だが、現場はDDが完了するまで、復員業務はできないと突っぱねたという。副大統領に解体すべき軍閥の元帥がついていて、率先して武装解除をさせない。こうした政治に疎い軍人が重要ポストについている。そこで、国防省の首脳陣改革が行われない限り、日本の血税はびた一文も使わないと、脅迫に近いロビー活動を行ったという。新国軍建設と国防省建設の責任国は米国である。表面的な人事で頓挫していた国防省改革を、日本のDDR援助を人質にしたことで動き出した様子を語る。この日本のこだわりは、戦後のODAの歴史上初めての直接的な内政干渉だという。この内政干渉で経済的な格差を利用し、著者たちは地元新聞からも叩かれ、テロの標的になることも覚悟したという。外交で物申すことはそれなりにリスクも背負う。日本のODAが国防軍の中立にこだわったとは意外である。

4. 世界初の国連軍事監視団
日本の血税が特定の武装勢力の増強につながれば、日本国民や日本国憲法に対する背信行為となる。日本の支援が中立なものであるかを監査するシステムも必要である。これを著者たちは国連に求めたが、反応が薄かったという。外交交渉で相手のコミットメントを引き出すには、まず「俺がこれをやるから、お前はこれをやれ!」といったような外交カードが必要であるという。しかし、日本は軍事に関しては外交カードがない。日本主導のDDRだけに外務省を通じて自衛隊にこの監視役を依頼したという。だが、外国軍を相手取るより、外務省を相手取る方が難しい交渉なのだそうだ。非武装で武装地域に入るのだから、マスコミからも叩かれるであろうし、そうした反応も想像がつく。本書は、日本の政治家は自衛隊の最も有効な魅力的な役割にも気づかないと嘆く。よって、日本の現役自衛官を国際監視団の顔にするのは諦め、退役自衛官に期待する。そして、地雷処理で実績のあるNGOに委託したという。米国は自らの兵力を温存し民兵組織が貢献していると宣伝し、武装解除をさせない口実を広めたという。彼らに武力供与しているのは米国である。これを米国は否定しているが、著者は監視団長の立場を利用して現場の兵器庫から確認しているという。ここでのネックは米国も一枚岩ではないということだ。戦争プロセスの米国防省と、平和プロセスの米大使館と民政担当の米軍の立場が共存する。そして、武装解除、動員解除が進んでいる一方で、米軍に動員される現実がある。著者たちは、米国軍に特定の軍閥と手を切るように働きかけたという。

2008-11-02

"ガウディ 芸術的・宗教的ヴィジョン" R.Descharnes & C.Prevost 著

古本屋を放浪していると、掘り出し物を見つけた。定価15,244円(本体14,800円)、どうやら消費税3%の時代のようだ。重さ約2kg、その重量感からも迫力がある。中古にしては状態もいい。んー!10,000円、貧乏人には辛いが、ここは奮発しておこう。秋という季節はなぜか感傷的にしやがる。こうした時に芸術に浸るのも悪くない。芸術に長けた人は、優れた作品を観ただけで、そのヴィジョンを見抜くことができるのだろう。しかし、芸術オンチには詳細な解説でもないと味わうことすらできない。本書はそうした人間にうってつけだ。アル中ハイマーは芸術なんぞに全く縁のない人間であるが、いつのまにか購入している。もはや精神の泥酔は留まるところを知らない。ちなみに、酔っ払うと謝り上戸になると聞いていたが...とりあえず、鏡の向こうの赤い顔をした住人がなにやら話しかけてくるので、謝っておこう。

本書は、ロベール・デシャルヌの文章とクロヴィス・プレヴォーの写真によって構成され、その主題は「サグラダ・ファミリア聖堂」である。そこには、真の芸術家によるリアリズムの追求がある。その思想には何かに憑かれたような神秘主義の世界があり、命がけのモデルを使った非人道的な姿には芥川龍之介の「地獄変」を思わせるものがある。ガウディ曰く、「私は人が死んでいくのを見れば見るほどますます霊魂不滅を信じる。」
本書はかなり宗教色が強い。それも、ローマカトリック教に絶対的信仰を持ち、作品を創造主への敬意として表すからであろう。そこには、禁欲的で奉仕的な世界がある。本書は、ガウディを理解したければ、まずカタルニャ精神、すなわち並外れた自尊心と誇張の情熱を理解する必要があると語る。また、地中海の光を神聖な精神に位置付けている様子がうかがえる。地中海には幻想的なものを感じさせる何かがあるのだろうか?この地を題材にした芸術家も多く、中でも作家ポール・ヴァレリーの短編を思い浮かべる。古代ギリシャを始め地中海を中心に文明が栄えたのも偶然ではないのかもしれない。
個人的には、あまり神秘主義や宗教色の強い作品には拒否反応を起こす。宗教というやつは、勝手に信仰して大人しくする分には、ひょっとしたら素晴らしいものに映るかもしれないが、考えを押し付け、おまけに染め上げようとするから大嫌いである。と言いながら、実は聖書を持っている。むかーし、ある女性からサイン入りでもらったが、一度も開いたことがない。今、探してみると、本棚の一番奥に思いっきり埃をかぶっているのが見つかった。しかも、圧力で少し変形している。こういうのを処分すると罰が当たるんだろうなあ。神様とは、酔っ払いにとってはやっかいな存在である。
本書にしても、キリスト教への信仰心がない人間には、その価値はあまり理解できないのだろう。それでも歴史的観点から興味がある。また、自然主義、写実主義という意味では、宗教抜きでも十分に味わえる。さて、今宵はシェリーといきたいところだが、個人的には濃厚なブランデーがピッタリと嵌る。

著者デシャルヌは、サルバドール・ダリ研究者としても知られるらしい。ダリはガウディの叙情的建築を弁護したという。ダリは「五感の建築」と題して、次のように記したという。
「現代のガウディ称賛者たち、すなわち、五感によって彼の作品に近づくことをしなかった者たちは、ガウディの精神に対して、破廉恥にも五つの重大な裏切りを犯した。」
ダリは、新しい天才が出現しない限り、サグラダ・ファミリアは完成しないだろうと述べたという。天分なしに、合理的な役所仕事的な方法で仕上げるならば、ガウディを裏切ることになると。たとえ未完成でも、巨大な虫歯のような姿であっても、可能性に満ちたまま残すほうがましであると。本書は、ダリが最も偉大な哲学者と考えるフランセスク・プジョルスという人物のエッセイ「ガウディの芸術的、宗教的ヴィジョン」を使って、偉大な建築家を提示したいという意向から生まれたという。

アントニ・ガウディは、サグラダ・ファミリアの建築監督を引き受け、生涯をその建築に捧げた。そして、この聖堂でヒューマニティ全体を表現しようとする。ガウディにとって建築とは、他の芸術を支配する空間を組織することと考えた。彼は、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家になる。建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるという。ガウティの建築は、数々の料理が一度に同じ皿に盛られる食事に似ているといった感じで喩えられるらしい。頑丈な胃袋だけが、ご馳走を消化できるというわけだ。彼は見た目を楽しませるような装飾を好まない。空間を組織するとは、構造に物質性を失わせて生命を与えることで、構造を精神化することである。そこには、カタロニャ精神とも言える熱狂振りがうかがえる。

1. ガウディの死
本書は、いきなりガウディの死の場面から始まる。そこには、キリスト教的な貧者を代表した姿がある。また、その幻想的な文章には文学的な価値もある。あまり簡略化すると作品のイメージを壊しそうだが、あえて要約しておこう。
...
春も終わりに近いある夕方、一人の老人がランブラス通りの群集から離れていった。彼は、毎晩、いつもするように祈りの言葉を捧げるためにサン・フェリペ・ネリ聖堂へと向かう。この日は普段よりも精神的夢想に耽っていた。貧者の大聖堂が完成し落成式を待つばかりであった。ラス・コルテス・カタルーニェス通りを横切ろうとした時、足が縺れて電車の前に転ぶ。意識不明で助け起こされるが、浮浪者と間違えられ、そのまま歩道の端に放置された。その姿は、苦行者で乞食のようであった。その夜遅くにようやく身元が確認される。この老人こそガウディその人であった。彼は三日後に息を引き取る。
...
これを「厳粛な貧者の栄光ある死」と表現している。

2. カタルニャ精神
ガウディは、海に特別な思いがあるようだ。海は、空間の三次元を総合する要素を表すもので、幾何学的本質があると捉えた。彼は、ジャーナリストとの会話の中で次のように述べたという。
「マドリッドがスペインの首都であるのは残念なことだ。フェリペ二世は、セビリアかバレンシアに宮廷を置けばよかったのだ。バルセロナと言っていないことに注意していただきたい!すべての偉業は海の上で成し遂げられてきた。海は人類の最も驚くべき企てに参加してきたし、これからも参加するはずである。」
ガウディは、建築の勉強のために21歳でバルセロナに来た。以後、短期の旅行は別としてバルセロナを去ることがない。一定の場所にこれほど集中して作品をもつ建築家も稀である。世界をかけめぐることがなく、世界を一転させた芸術家というところに凄みを感じる。神秘主義者であるガウディは、精神を広めるためには、布教者となって海外を回る必要のないことを知っていたという。彼は、カタルニャ人であることを誇りにし、この地のために精魂を使い果たした。

3. 超自然主義
ガウディは、その場所の地理的条件、気候的条件にあった直線や曲線の体系を造ろうとした。自然条件を満たされなければ、重苦しい感じを与えるからである。この点で、パリのオペラ座ほど見事に失敗した例はないと批難する。オペラ座は、世界中から集められた大理石を使いながら、見掛け倒しの方法で奇怪に誤って建てられたもので、誰も満足できない異国趣味の家具や彫刻でいっぱいだという。ガウディは想像を越えた要素を建築と合体させる。筋肉、骨、種子、花、木、泡、渦巻、氷、煙、雲などなど、あげると切りがない。例えば、制作物の要素には、固有の色ばかりでなく独自の音を所有すると考える。空気はそれらを伝播する媒体であって、地中海の光だけを再現するだけでは不十分だというのである。そこで、時間による大気の流れ、湿度、温度、気候変化を研究し、鐘の黄昏時に鳴らす音を再現しようとする。四方八方から風が吹き込む塔を作り、その塔は羅針盤のように風の方向を教える。そこには、一日中途切れることのない音が現れるという。まさしく超自然主義とも言うべき独創性がここにある。作家ジョゼップ・プラは、ガウディのヴィジョンを次のように要約したという。
「自然の中に直線が表れるのは稀である。自然は数学ではない。だが、規則的なスタイルは精神を満足させる。無秩序でないものに人間は満足感を得る。だからといって、人間を満足させるように努めるだけが能ではない。」

4. サグラダ・ファミリア
ガウディは、当初の計画であるフランシスコ・ビリャ-ルの構想を改良するところから着想したという。それは、当時あらゆる宗教的建造物に企てられたネオ・ゴシック様式に則ったものを見直すことである。当時、既に物質主義的風潮があり、彼はこの風潮に危険性を感じていたという。そして、伝統的ゴシック様式は死んだ様式であり、まず力学的構造にしなければならないと主張した。その死の要因は、支える要素と支えられる要素の不連続性にあるという。ゴシック様式は、不連続な部分を装飾で隠そうとする。これは、偽りの便宜的解決法であると指摘する。ガウディは、設計図を完成させず、詳細に書き留めることを嫌い、大雑把な見取り図しか示さなかった。このような場当たり的な仕事に、批判的だった人も少なくなかった。彼は、数学的あるいは物理的な考察の上で、模型を作り実験を繰り返す。幾本の細紐で、穹窿や円屋根の形、力線の網、それらを支える支柱の傾斜をつくり、全体の放物線を描く。そして、荷重を計算しアーチの曲率を求め、穹窿の力学的問題を連続する要素として解決する。身廊の放物線状の構造では、解決に10年も要したという。無限の母線から生み出される双曲面、螺旋面、放物面は、直感的に無限を思わせるものがある。放物線は、精神の絶頂を神へ導くと考える。双曲面は、あらゆる方向に回折する光を表す。螺旋面は、運動、生命、精神的エネルギーを表す。双曲放物面は、三位一体の完全な表現であるという。ダリは、人体の他の部分よりも骨格にこそ最大の美的長所があると考えたらしい。ガウディも、骨組に重要性を認め、次のように述べたという。
「建造物の輪郭は、もっぱらその構造によっている。しかもこれらの構造は正しい必要がある。したがって、われわれは絶対に直観に忠実であるべきなのだ。直観はわれわれが知らないことを知っており、ひとつの線が適切なものであるかどうか、自然法則にかなっているかどうかを直接あかしてくれる。」
人間は聖堂を造ってきたが、それを住居とすることはなかった。ガウディは、聖堂を人の住める空間にし、この聖堂の正面玄関を全人類が通るように希望したという。昼の太陽に照らされた栄光のファザード、あるいは生命のファザードと呼ばれる正面ファザードは福音を表す。それは、天地創造、人類の起源と進化、生命、死、地獄、煉獄、最後の審判、贖罪を想起させる。聖堂の内外に、写実主義をもって新旧聖書のメッセージを刻みこむ。聖堂内部の配置は、典礼の規則に厳密に則り宗教的祭式に合わせるよう研究されているという。サグラダ・ファミリアは、聖書と同じように貧者の書物がイメージされている。

5. インテリア構想
ガウディの計画には、家具調度の構想も含まれている。建築家にとってインテリア整備を他人に任せるのは、一貫性を欠くという信念があるらしい。ここでも、自然との調和を重視した鋭い感覚が見られる。構造を骸骨に、量感を生命器官に、装飾を皮膚に対応させ、人間の解剖学が現れる。椅子の構造で、ある逸話が残っているという。それは、スペイン内乱の時、爆弾の炸裂で壊れた椅子は、構造的によく研究されたもので、壊れ方一つにしても正確な壊れ方をするので、復元するのが容易だったという。自然構造に忠実であれば、壊れ方にも自然法則が現れるというのか?これにはカタルニャ風の誇張も感じられる。インテリア構想では、人体的で生物学的な要素が細部に渡って観ることができる。椅子の着想では、足を組むと座り心地が悪いばかりでなく、居たたまれなくなるように、わざとデザインする。これは、神前で信徒たちがきちんとした態度を保たざるをえないように考慮したものである。人間の欲求は、感受性と同様、生理的な必要性にも左右されるが、その生理的追求にも迫力がある。

6. 超写実主義の彫刻
ガウディは、完全に経験主義的な方法をとる。彼にとって、ごくわずかな不正確な線、小さな姿勢の誤りが、真実に対する虚偽であり、単なる過失であるばかりか、宗教上の罪となる。彫刻家カルラス・マニ製作のブロンズの十字架のキリスト像は、写真で観ても、瀕死の肉体の痛々しさが伝わる。これはリアリズムの追求のためにモデルを使って、ガウディ流を忠実に再現したものだという。彫像技術では、生きた人間から直接鋳型をとる方法を用いる。この時代、人間から直接鋳型をとるとモデルが死ぬ事故もあったという。高い熱と強い圧力が、致命的な窒息を惹き起こすのである。もちろん批難もされる。ロダンも「青銅時代」という作品で、モデルのベルギー兵士から直接鋳型をとって批難されたという。本書に掲載されるキリストや聖母など、数々のモデルの写真は生々しい。聖母のモデルは石工の妹の老嬢、ユダのモデルには仕事場の番人、ローマ兵士は居酒屋の給仕。ガウディには、民族の姿を別の人間で置き換える独特の感覚があったという。例えば、ギリシャ人のタイプはアンプルダンの人、フェニキア人のタイプはイビサ原住民といった具合。こうしたエゴイズムで対象人物のモデルを見出す。そこには、まさしく人体実験の光景がある。本書も、これには神秘的霊感としてしか説明できないという。聖ヨゼフが選ばれた逸話にはこんなものがある。ある日、石工がボロボロになった穴だらけで、藁が飛び出した哀れな布団に寝ているのを見つけた。壁には聖人の版画が掛けてある。妻は跪いて聖母に賛歌を捧げて治癒を祈っている。この懸命な夫婦を見て「聖ヨゼフを手にいれた!」と叫んだという。

7. アメリカン・ホテル
ガウディがスペイン以外で建設を決意した唯一の建物に、アメリカン・ホテルがあるというから驚きだ。ニューヨークで企画されたこの建物は、最も知られていないものとして紹介される。その高さは310メートル、当時、巨大主義の時代でもあった。パリのエッフェル塔は垂直方向の巨大主義、ロンドンのクリスタル・パレスやパリの機械館は水平方向の巨大主義。ニューヨークでも摩天楼の競争が激化していた。この計画は、エンパイヤ・ステートビルよりも先んじているが、ニューヨーク行きが突然取り消されたために計画倒れとなっている。その理由は不明らしい。本書はその計画のデッサンを紹介してくれる。そこには、サグラダ・ファミリアから得られた実験的研究の帰結が表れるという。ガウディがこの巨大化競争に参加していたというから二重の驚きである。

2008-10-26

"方法序説" René Descartes 著

科学者の本を読んでいると、デカルトの解釈について語っているものをよく見かける。それも、科学や数学の根底に哲学があることの証であろう。その解釈とは、デカルトの言葉をめぐってのものである。デカルトの名前を見かけるごとに、なにやら懐かしい風を感じる。ちょいと、昔読んだ本を読み返してみることにした。本書を読んだのは、おそらく20年ぐらい前であろう。デカルト曰く、「我思う、故に我在り」そして、自己の存在を証明し、神の存在までも証明してしまう。ちなみに、アル中ハイマー曰く、「我時々思う、故に我時々存在するような気がする」そして、自己の酔っ払いを証明し、俗世間では皆が泥酔していることを証明してしまう。

古代ギリシャやローマ時代から営まれた奴隷制を核とする伝統主義は、ゲルマン人によってヨーロッパの隅々にまで浸透させた。中世ヨーロッパには、伝統的慣習は絶対であるという思想を元に、ローマ教会の権威によって統一された世界がある。しかし、その時代に思想の大変革が起こる。宗教改革やルネサンスである。宗教改革は伝統主義を打ち破り、奴隷に強制された労働の価値が見直される。奴隷は農奴という地位を獲得し、労働そのものが神聖なものへと変貌する。この思想の流れは、いずれ資本主義や民主主義といった思想を加速させることになる。その一方で、ルネサンスは昔の時代を懐かしんだ文化の再発見をする。そこには秩序を重んじる思想がある。そして、宗教改革による人間の解放と、それを秩序立てる文化思想が融合し、政治思想的なものが誕生する。従来のローマ教会を中心としたヨーロッパ集合体のようなものが、いずれ国家単位による政治体制を形成することになる。デカルトはそうした変革の流れで生きた偉人の一人であるが、変革気運が一気に高まり近代社会の基礎とも言える時代を生きたのも、単なる偶然ではないのかもしれない。

デカルトの言葉は揶揄されることも多い。ただ、そう簡単に片付けられるような内容だったっけ?高尚な哲学者や文学者というものは、物事をストレートに表現しないことも多い。そこに、照れ隠しのように暗喩めいたものを匂わせ、どことなく芸術性を高める。逆に、一つ二つの言葉から、とんでもない解釈を生み、それが流布されることもある。哲学や思想の解釈では、どれが正しいかというのが重要であるが、どの解釈を好むかも重要な要素としたい。それにしても、哲学という世界には、なんと無意味な命題が氾濫していることか。人間の存在すら無意味であるという証なのかもしれない。多くの哲学者や数学者は人間の精神を論理的に解明しようとしてきた。はたして、論理的思考がどこまで真理に近づけるだろうか?ウィトゲンシュタイン曰く、「示すことができても語ったことにはならない。」まさしく、デカルトの言葉は、とらえどころのない命題である。

「方法序説」は、デカルトが初めて公刊した著作であるが、1637年に著名者なしで出版されたという。正確なタイトルは、こんな感じで長ったらしい。「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」これは、500ページを越える大著で、最初の序文78ページが「方法序説」に当たるらしい。デカルトは、精神と身体、主体と客体の二元論、精神と神の形而上学、数学をモデルとする方法論、自然や宇宙の探求など、新しい学問を提示する。ただ、デカルトの生きた時代は、ガリレオの断罪事件でも見られるように、新しい思想を唱えると弾劾された時代でもある。コペルニクスの書が法王庁の禁書目録に加えられ、宇宙の無限を構想したジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられるなど、アリストテレスやスコラ哲学に反する説は、死に処せられた。こうした時代背景で、異端審問に怯えつつ「方法序説」の発刊をためらう様がうかがえる。自然学全体を秩序立てて調べようとした著書「世界論」は、刊行を中止したという。なんとなく愚痴っぽい文章には社会への反感が表れる。だが、普遍的な価値を信じ、使命感により後世に残すことを決意した旨を語ってくれる。本書は、真理を探究するための方法を万人向けに示すものではなく、デカルト自身が真理探究をした体験談である。

1. 学問の探求
冒頭から「良識は、この世でもっとも公平に与えられるもの。」と始まる。デカルトは、良識は誰もが十分に具わっていると主張する。真偽を区別する能力は、本来、良識や理性と呼ばれるもので平等に具わっているという。よって、意見が分かれるのは、ある人が他の人よりも理性が具わっているということではなく、異なる道筋で導き、同一のことを考察していないことから生じるというのである。また、大きな魂ほど、最大の美徳とともに最大の悪徳をも生み出す力があると語る。デカルトは、次のように学問の探求へと誘う。
「雄弁術には、比べるもののない力と美がある。詩には、うっとりするような繊細さと優しさがある。数学には、精緻を極めた考案力がある。神学は、天国に至る道を教えてくれる。歴史や寓話は、世紀を渡って人々と交わる旅へ導く。哲学は、どんなことでも、もっともらしく語り、学識の劣る人に自分を賞賛させる手だてを授ける。法学、医学は、それを修める人に名誉と富をもたらす。」
学問するということは、どんなに迷信めいたことや怪しげなものにも、欺かれないように気をつけるために良いものであると語る。たとえ、修辞学などを習っていなくても、強い思考力を持ち、自らの思考を秩序よく明晰で分かりやすくする人ほど、主張を納得させることができるという。そして、その着想は人の意にかない、しかも、それを文飾と優美の限りをつくして表現できる人は、詩法など知らなくても最良の詩人であると語る。
デカルトは数学を愛した。それは論証の確実性と明証性に惹かれたからである。これとは反対に、習俗を論じたストア派の書物は、壮麗で豪華ではあるが、酷く美徳を持ち上げ、この世の何よりも尊重すべきものと見せかけるので、砂上の楼閣であると酷評する。ストア派が語る美徳は、無感動、傲慢、絶望、親族殺しになることが多いと皮肉る。また医学への思いも熱く語る。健康はまぎれもなくこの世で最上の善であると考えた。精神でさえも健康に依存するものだ。人間を賢明で有能にする共通な手段があるとすれば、それは間違いなく医学の中にあると信じているという。その中で、機械的な人体論、心臓と血液循環、動物と人間の差異などが哲学的に語られる。
デカルトは言う。
「生きるために残った時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使うまいと決心した。」

2. 「我思う、故に我在り」
形而上学的では、まず自らが何ものかを定義でなければならない。しかし、目の前の実体が、何もかも夢を見ているかのように感じることはよくある。人生そのものが夢のようでもある。身体もなく、世界もなく、自分のいる場所など無いと想像するのは案外簡単である。だからといって、自分が存在しないと想像するのは難しい。この精神の存在を説明するのは難しいものだ。デカルトの言葉は、思考することこそ、自分自身の実体を認識できるというものである。逆に言えば、思考をやめるだけで、自分自身が存在する理由もなくなる。自己という実体の本質は、考えるということだけであって、存在するためにどんな場所も必要なく、いかなる物質的なものにも依存しないということである。ここでは、魂は身体という物体と完全に区別される。そして、精神は身体よりも認識しやすく、たとえ身体がなかったとしても認識できるものだと語る。人間が実体を意識する時、だいたいはその形やら色やら五感で感じられるものをイメージするだろう。しかし、デカルトは、何かをイメージできないと考えられない人は、神を認識することも、魂が何であるかを認識することもできないという。デカルトは、神や魂の存在が信じられない人々に語りかける。身体や天体や地球が存在するというのだって不確かであると。神の存在を前提としなければ、三角形の角の和がニ直角に等しいなどの幾何学の問題も、夢の思考も、人の想像力も、説明できないではないかと。よって、全て実在であり、神に由来することは真であると。
そうなると、天邪鬼のアル中ハイマーは思いっきり疑問を投げつけてやるのだ。人間の観念に虚偽や不完全性が含まれるのはなぜか?人間は完全無欠ではないことをどう説明するのか?神は完全でまったく真であるはずではないのか?神に由来するということは、真理や完全性が無に由来するのと、同じくらい矛盾するではないか?ちなみに、デカルトもこうした疑問があることも認めているようだ。

2008-10-19

"ソクラテスの弁明・クリトン" プラトン 著

学生時代から、それほど感性が変わっているとは思えないのだが、昔読んだ本が新鮮に感じられるのは、自分自身に多少の変化があるのだろうか?いや!単に記憶領域が破壊され、精神が泥酔したに過ぎない。アル中ハイマーが、本書に出会ったのは、おそらく20年ぐらい前であろう。本棚を整理していると、なんとなく読み返したくなった。なぜか?ブログを始めてから、こういう心情になることが多い。それも悪くない。書籍代も節約できてありがたい。

奴隷制度の盛んな古代ギリシャ時代にあって、現在においても全く違和感なく読めるのも不思議である。それだけ「人間」の範囲が進化したという証であろうか?人類の歴史は、「人間」という身分を巡っての抽象化の歴史と言ってもいい。アリストテレスの世界観には「生まれつき奴隷」という概念がある。対して、ディオゲネスの逸話には、こんなものがある。「人間どもよ!と叫ぶと人々が集まった。おれが呼んだのは人間であって、がらくたなんぞではない。」労働は奴隷に強制し、哲学できる身分と言えば「人間」という特権階級に与えられた時代。哲学は多忙過ぎる労働者には馴染まない。そこには素朴な精神の解放が求められるからである。哲学は暇人の学問であると思う所以である。

プラトンの対話篇の中でも、「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「ファイドン」の三つの作品は、ソクラテスを登場させる不朽の名作と言えるだろう。プラトンは、ソクラテスの生き様に影響を受け、真の哲学を会得しようとした。ソクラテスがいかに生きたかは、彼自身書き残したものがないため、弟子たちの描いたものに頼るしかない。これらは、おそらく創作的なものが多く、神聖化あるいは理想化したところもあるだろう。どこまで、ソクラテスの精神に近づいているかは、歴史的には解明する術がないようだ。ただ、プラトンという詩人を通して、一つの芸術に達しているのは間違いない。プラトンは、ソクラテスの行動を正しいものとして証明しようとする。師と仰いだソクラテスが、不信心にして、新しき神を導入し、青年を腐敗せしむる者として死刑を宣告されたことに我慢がならなかったのだろう。ソクラテスの弁明というよりは、プラトンの代弁と言った方がいい。

1. ソクラテスの弁明
ソクラテスは、裁判によって弾劾される。そして獄中からアテナイ市民に語りかける。その弁明は、ソクラテスが最高の賢者であるという「デルフォイの神託」が下ったところから始まる。ソクラテスは、神託に対する反証をあげるために、賢者たちを尋問してまわる。そして、政治家がほとんど知見を欠いていることを暴いてしまう。詩人にいたっては、作者以上に鑑賞者の方が優れた芸術性を理解していることを見破る。彼は、賢者と言われる人々が虚偽を言いふらしていることを公表したために、多くの敵を作り、多くの誹謗が起こる。賢者の無知を論証するごとに、ソクラテスが賢者であるという評判も高まる。
「人間達よ、汝らのうち最大の賢者は、例えばソクラテスの如く、自分の知恵は実際何の価値もないものと悟った者である。」
ソクラテスが国家の信じる神々を信じないで他の新しき神霊を信じるが故に、青年を腐敗させるとして悪評が広まる。だが、ソクラテスは反論する。国民議会の議員や、裁判官たちに青年を教育したり、善導する力があるのかと。そして、彼らが、青年たちのことを心配などしていないことを論証する。ソクラテス自身は、青年たちを腐敗する者ではない。あるいは、もし腐敗させる者としても故意ではない。ある神々の信仰を教えているところからしても、無神論者ではない。ちなみに、無神論者を罪とする風潮があった時代であるから、そのあたりはしっかりと反論する。ソクラテスは、おそらく、裁判官に媚を売り、罰金も払えば、無罪になったであろうと言われている。友人や弟子たちに説得もされたであろう。だが、自身の信念を変えようとはしなかった。
「死とは、人間にとって幸福の最上なるものかと問えば、知っている者はいない。では、最悪のものかと問えば、人々は覚知しているかのごとく、死を恐れる。」
ソクラテスは、自ら善か悪かも分からないものを恐れたり避けたりはしない。死を恐れて、正義に反して譲歩などするはずもない。死を禍とは思わない。彼は、他の不正裁判によって殺された昔の人々に逢えるとしたら、愉快なことであるとも語る。そして、死を課した人々へ予言する。ソクラテスに課した死刑よりも、遥かに重い罰が諸君に下るであろうと。今よりも多くの問責者が出現し、彼らによって深く悩まされるであろうと。不正裁判で人々を殺すことによって非議を阻止するならば、それは間違いであると。死期に迫った人間には、最も強い予言力を発揮できるとして警告を発する。

2. クリトン
獄舎に面会に来た友人クリトンとソクラテスが対話する。クリトンは、なんとかソクラテスを救おうと思っている。そして脱獄するように説得する。真の賢人の死は世のためにならないと。青年たちを教育できる者が死を望むなど裏切り行為であると。息子達を見棄ててはならない。死は一番楽な道である。徳があって勇敢な人が選ぶ道ではない。一生を徳の涵養に捧げると公言する者なら、なおさらである。不名誉なことであるから熟考してくれと訴える。そして、クリトンの主張するソクラテスの命を救うための論理と、ソクラテスの主張する生き様という論理の問答が始まる。ここで描かれるテーマは、国家の意志に服すべきか、それとも矛盾する正義に従うべきかである。法の決定が個人の意志によって左右されるような国家は存続できない。人々は、法に教育されて、市民権を行使する能力と資格とを獲得している。国民が存続できるのは国法のお陰である。国民は生まれながらにして国民たる義務を果たす契約をしている。ソクラテスはそうした立場を通した。そこには、ソクラテスの愛国心が強かった様が描かれる。しかし、国家こそが不正を行い、正当な判決を下さなかったのだ。これは両者の意見とも一致する。ソクラテスは続ける。死ぬ恐れのある戦場へ送られるだけのことで、戦場でも法廷でも、同じことではないのかと。気に入ることには服従し、気に入らないことには服従しないのでは、もはや国家は成り立たない。国法を無視して、これを滅ぼそうとする行動はできない。これも神のお導きだとする論理が展開される。ソクラテスは自らを死へ導いているかのようである。クリトンは最後に言う。もう何も言うことはないと。

2008-10-12

"人間の安全保障" Amartya Sen 著

今夜は、最近マスコミを賑わしている三大キーワード「ノーベル賞」、「株価暴落」、「事故米」で作文して遊んでみたが、ちょっと無理があるなあ。

ちょうどノーベル賞の受賞ラッシュで沸きあがる。それも、理系の分野で日本人が活躍しているのは喜ばしい。だからというわけではないが、立ち読みしながら物色しているとノーベル賞ネタを見つけた。ただ、ここで扱うのは分野が違う。著者アマルティア・センは、アジア初のノーベル経済学賞の受賞者。著者に興味を持ったのは、経済学を社会学の延長として捉えているところである。また、インド人の立場からの意見も興味深い。ちなみに、アル中ハイマーは、ノーベル賞で経済学賞と平和賞を懐疑的に思っている社会の反抗分子である。それも仕方がないだろう。経済学賞では、LTCMで代表されるように、国際経済危機に陥れた人物が受賞している。そもそも、経済学賞はノーベルの意志で継がれた部門ではない。平和賞では、極めて政治色が強く、共産主義体制から民主化への移行に貢献したと言われながら腐敗組織を温存したままの改革だったり、環境問題に貢献したと言われながら指導的立場にあるにも関わらず自国政治の環境意識はほったらかしだったりする。
連日、株価暴落がマスコミを賑わしているが、はたして実態経済はどうなっているのだろうか?最大の問題は、経済が金融システムの依存度の高いところにある。金融危機に陥いると、金融システムの体力がそのまま経済に悪影響を及ぼす仕組みとなっている。銀行の自己資本比率の低さには素人ながら唖然とさせられるが、BIS規制ですら8%の義務しか課していない。しかも、自己資本という定義も怪しい。株券で集めた資本は寄付金ぐらいにしか思っていない。確かに、金融システムからの資金提供が大きければ、それだけダイナミックな経済活動を誘導できるだろう。だが、無理やり資金を動かし不良債権化を拡大する結果を招いている現実は見逃せない。彼らは、リスクを複雑化して偽装するのが得意だ。まるで、将棋のような論理ゲームで不利と見るや、無理やり形勢を複雑化する手を打って、勝負の行方を難しくするかのように。おまけに、格付機関が、そのリスク評価に最高の信用度を与える。まるで、裏取引でもあるかのように。世の中が何かの拍子で社会不安に陥ると、群集意識は一斉に危機感を募らせ、行動もある方向へ一斉に向かわせる。しかも、こうした行動をマスコミの扇動が増幅させる。宇宙の持つ合理性は、群集の持つ不合理な行動によって相殺される。その一方で、常識では不合理とされる現象を、合理性と解釈する人々がいる。ヘッジファンド系の投機家連中は、そうしたイベントをいつも待ち構えている。彼らは、群集が向かう方向と逆ポジションで仕掛ければいい。そもそも、宇宙には合理性というものが存在するのか?人間の都合で解釈されるものではないのか?株価の暴落で資産が減った人々は、こういう危機を理解しているだろうが、それが原因で社会不安まで引き起こされては迷惑な話である。十年に一度、金融危機が起こるという現象からして、もはや、金融システムは社会の邪魔でしかない。一般企業では、金融の依存度を少しでも低減したいという防衛意識も芽生えるだろう。製造業などが、自らのグループ会社に金融部門を設けようとする動きも分からなくはない。資本主義が成熟すると、金融の役割も終わりを告げるのかもしれない。
そもそも、経済は何のために存在するのか?政治や経済が貢献するべきことは、社会安定を図ることではないのか?経済システムは、資産価値の評価を正当なもので安定させる必要がある。いまや、金融システムに依存しない体質を持った社会システムの構築が急務である。そのためにも、資本主義とは何か?民主主義とは何か?という素朴な疑問に立ち返ることであろうが、政治 + 金融 + マスコミという魔のトライアングルにはダース・ベイダーが潜み、人間社会の転覆を目論んでいる。今宵の純米酒は、やけに愚痴っぽくさせやがる。事故米でも入っているのかな?
さあ!遊びはこのぐらいにして、そろそろ本題に入ろう。

ちょうど株価暴落が伝えられることもあり、経済学をネタにするのも悪くないと思ったのだが、本書は社会学に属する。経済学を掘り下げると、どうしてもそうなるのだろう。世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とすると言われるが、それは本当だろうか?現在のグローバル化に警告を発する専門家も少なくない。彼らはグルーバル化を反対しているのではない。市場の意識や制度的な枠組みにバランスを欠くと訴えている。著者も、そうした中の一人であろう。本書は、市場システムや経済活動が、民主主義の確立や初等教育の拡充といった問題よりも、市場の拡大にばかりに関心を持ち、弱者の社会的機会を奪っていると主張する。題目の「人間の安全保障」とは、紛争や災害、人権侵害や貧困など、地球規模の問題から生命、身体、安全、財産を守ることである。あくまでも個々の人間生活に焦点を当てたもので、軍事的に解釈する「国家の安全保障」という官僚的な概念とは同列に扱ってもらいたくないと熱く語る。そして、人権には倫理的な力と政治的な認知を必要とすることを訴えている。

1. 基礎教育
教育格差を縮めることが、世の中をより安全にし、より公平な場所にできるだろう。これが社会で最重要なのかもしれない。作家H.G.ウェルズは、「世界文化史大系」の中で、「人類の歴史では、教育と破滅のどちらが先になるのか、ますます競争になる。」と述べたという。
本書は、最も基本的な問題は、識字力や計算能力がないことであるという。読み書きや計算、あるいは意思伝達ができないことは、とてつもなく困窮状態と言える。生きることに必要なものが欠乏しているのに、その運命を回避する機会をも奪っていることになる。健康問題においても、感染症の蔓延を教育によって遮断できる。女性の教育と識字力が子供の死亡率を下げる。その一方で、女性の地位向上と自立能力が出生率を下げる。ここでは、イギリス連邦諸国の教育格差を焦点に語られる。それも、著者がインド人だからであろう。植民地時代の過去は根深いものを感じる。著者は、市場システムの擁護派が、学校の授業料を市場原理に任せようとしている動きを牽制している。学校教育は、自己認識や他人を見る目を養うためにも、行われれなければならないだろう。原理主義の宗教学校など、寛容性に欠ける狭量な教育が、子供たちの視野を狭める。公共機関による教育施設がないことが、好戦的な政治活動家によって、宗教学校の人気を助長させる。宗教を中心とした文明で人間を分類することは、政治不安を引き起こす。イギリス政府ですら、宗教別の公立学校を拡大しているという。元々多民族国家でありながら、イスラム教、シク教、ヒンドゥー教学校の創設運動が進んでいるのだそうだ。著者は、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」のような分類は、いかにも西洋主義的で、世界に政情不安を煽るものだと批判する。特にインドを「ヒンドゥー文明」として描いているのは、歴史的配慮が足らないと主張する。おいらは、「文明の衝突」は、おもしろく読んだが、民族問題を抱える社会や多宗教社会では繊細な問題のようだ。日本のなぬるま湯で暮らす酔っ払いは鈍感である。ただ、文明の分類とナショナリズムの高揚を同列にすることもないだろう。

2. グローバル化
グローバル化とは、世界を西洋化することではない。これは多くの経済学者が指摘していることだ。好意的な人は、世界に対して、すばらしい西洋文明の貢献だと考えるだろう。西洋文明が、良し悪しは別にして世界に大きな影響を与えてきたことは事実である。ルネッサンスに始まり、啓蒙思想が生まれ、産業革命へと発展し、西洋諸国の生活水準を上げてきた。その一方で、帝国主義のような支配が、問題の元凶となっているのも確かである。現在においても通商関係のルールは、世界の貧困層をより貧困へと導いている。本書は、こうした西洋化が、グローバル化の本質なのか?と疑問を投げかける。現在のグローバル化を、西洋的な一種の帝国主義と見るのは分からなくはないが、グローバル経済が、様々な地域に貢献している事実もあり、前向きに捉えるべきところもある。ただ、グローバル経済が、民主主義の確立や、初等教育の拡充、または、弱者の社会的機会といった問題に無関心なのも事実である。現在の制度的な枠組みは、全体のバランスを欠き、利益の配分を不公平にする。グローバル化の波は、今後も押し寄せるだろう。グローバル化そのものが悪いのではない。投資家ジョージ・ソロスは、「国際的な企業は、統制の取れていない民主主義国家よりも、秩序の整った組織的な独裁主義国家での活動を好む。」と指摘しているという。

3. 民主主義
民主主義は、歴史的にみても西洋文明だけのものではない。世界の至る所にその源泉を見ることができる。国際社会には、民主主義の本質を、公開選挙と主張する動きがある。しかし、権威主義社会では、独裁政権が驚くべき勝利をおさめた歴史がある。投票行為に圧力をかけられるだけでなく、検閲制度や反体制派の弾圧など、市民の基本的権利や政治的自由を侵害され、公の場で議論すらできなくなる。公開選挙は、一つの手段に過ぎない。これを主眼にすると独裁者を支援することにもなりかねない。公の場の自由な議論と相互の協議を保証することに主眼を置く必要がある。原則は、多様性を認め、多元主義に寛容であることであろう。著者は、民主主義の最重要課題は、公開選挙ではなく、基本的な権利と自由を認めることであり、重要なのは公共の論理であると語る。ところで、民主主義社会では飢餓は起こらないらしい。飢餓が起こるのは、帝国の植民地、軍事独裁政権、一党独裁国家であり、民主主義では、飢餓が起こる前に世論の批判に持ちこたえられないという。もし、飢餓が起こるとしたら、その国の民主主義に欠陥があるということか。著者は、西洋的主張が強い民主主義には、まず選挙という思考が働くことを嘆いている。
ところで、民主主義の基本は多数決と発言する人も多いが、それは本当だろうか?多数決の始まりは知らないが、おそらくローマ皇帝や国王の後継者を選出するあたりであろう。民主主義とは、本来、面倒な仕組みであり、議論の収束が難しい制度である。その効率化を図る一つの手段に過ぎないことを認識するべきであろう。多数決は、少数派に犠牲を強いていることにもなる。多数決の原理は、衆愚化させる可能性を否定できない。

4. インドの核兵器
核兵器や強大な軍事力は、本当に国力を高めるのだろうか?軍事費の圧迫によって、国家を弱体化している面もあるだろう。インドの周辺は、パキスタンや中国の核武装化もあり、ナショナリズムが高揚する地域でもある。日本では、今のところ、核武装の議論は世論によって阻止される。ただ、あまりにも拒否反応が強くて、核武装と原子力を同列に扱われるのはどうかと思う。核兵器は有益で、ただ威嚇のみに存在し、決して使うものではない、といった論調には説得力を感じない。これが、賢明な国家の自衛策なのか?と著者は疑念を抱く。インドやパキスタンだけを非難しても始まらない。そもそも、そうした非難をする国々は、ことごとく核を保有している。地球規模で不均衡な核の秩序が存在する。高度な武器を生産する大国は、軍事産業で自国産業を支えている。顧客を作らなければ、軍事産業は成り立たない。自国の安全のためなら、他国を大量虐殺しても構わないという論理、こうした政治家どもの横暴は、世論が監視するしかない。核を保持すれば、その維持費は税金で賄われることを自覚すべきであろう。核武装によって紛争が抑制できるという主張も怪しい。本書は、少なくともインドとパキスタンの間では、紛争を抑制できていないことを紹介してくれる。世界が冷戦時代に、核の危機から人類滅亡のシナリオを選択してこなかったのは、単なる偶然かもしれない。では、現在はその危機から脱しているのだろうか?更に、危険な領域に入り込んだと見ることもできる。インドでは、核の保有が常任理事国入りできる条件と考える動きもあったようだ。どこの国でもそう考える連中がいる。もし、核保有で常任理事国入りが認められれば、同様の国が増殖する。著者は、インドとパキスタンは、核保有で自ら墓穴を掘っていると嘆いている。

5. 人権と自由
人権を定義づける理論というものがあるのだろうか?人権とは、とらえどころのない概念である。国籍やその国の法律とは関係なく持っていて、誰もが尊重しなければならない基本的な権利、人間が生まれながらに持っている自然権という概念には、説得力が欠けると主張する人も多いようだ。アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言で語る歴史家も多い。日本の憲法にも、基本的人権は謳われる。自然権など戯言に過ぎないという有識者や法理論学者は案外多いらしい。その一方で、過剰な人権を主張する人々がいる。本書は、人権の宣言とは、本質的には倫理的な表明であって、法的な主張ではないと語る。人権が認められれば、その一方で大きな責任を負うことになる。倫理的な義務が生じる。人権を立法化する必要があるのかどうかは分からない。意味がないことなのかもしれない。地球規模で基本的な人権の範囲を規定することも難しい。規定すれば、法的な違反への罰則も必要だろう。著者は、公平に福祉が受けられないからといって人権を侵害していることになるのだろうか?と疑問を投げかける。そもそも経済が貧困で、福祉が成り立たない国があることを訴えている。自由が氾濫すると、人間は自由の概念を拡大する傾向にある。イギリスの経済学者ジェレミー・ベンサムは、法的な立場から自然権を攻撃したという。そして、功利主義が公然と主張される。いかにも経済学者が好みそうな世界である。権利の範囲を議論するならば、義務の範囲も議論されるべきであろう。人権の立法化、制度化の必要はあるのだろうか?制度化されなければ権利は認められないと主張する人もいる。確かに、制度化されないと不安ではある。制度化されない領域で人権を尊重できるほど人類は成熟していないかもしれない。しかし、法律は厳密さを要求するものであり、自然権や人権の自由といったものは厳密性とは相反する概念である。法律は万能ではない。法律とは、所詮、都合が悪くなった人のための言い訳の道具である。国連が主唱した世界人権宣言があるにも関わらず、人権が守られていない国でも公然と軍事援助がなされる。

2008-10-05

"スピノザの世界" 上野修 著

久しぶりにアマゾンを放浪していると、お薦めにスピノザの名前があった。以前から、彼の大作「エチカ」を読んでみたいと思っているが、なかなか手を出す勇気が持てないでいる。とりあえず、本書を手に取ってみよう。
スピノザは、17世紀の偉大な哲学者の一人であり、汎神論を説いた。それは、神(自然)が唯一絶対の実体であるとする考えである。彼は、アムステルダムのユダヤ商人の家庭に生まれ、幼少の頃からユダヤ教団の学校で学ぶが、自由思想家の影響で懐疑的となり、異端のかどで教団を破門となる。匿名で出版した「神学政治論」は無神論との批判を受け禁書ともなっている。その人物像は、批判者からでさえも「有徳なる無神論者」と呼ばれるほど高潔だったという。ちなみに、この形容は無気味な雰囲気を漂わせていたという。そもそも、無神論者を異様な人物とされた時代でもある。質素な暮らしぶりや、ハイデルベルク大学からの招聘を辞退するなどの有名な話も残っているが、決して社交的でなかったわけではなく、知的交流も多かったという。

スピノザになんとなく興味を持つのは、宗教が主張する神とは一線を画し、極めて科学的に捉えようとしているところである。それは、神というより宇宙法則という意味合いが強い。彼は、全ての事物や現象を神と呼び、そこには全て実体があると主張する。そこには、気象現象で雨や風や気圧といった様々な物理現象を組み合わせて「台風」と呼ぶように、神はあらゆる事物の属性から成り立つ唯一の実体、他を絶する実体といった考えがある。人間の精神も、一つの属性で一つの自然現象と捉える。名著「エチカ」は、正確には「幾何学的秩序で証明されたエチカ(倫理学)」というらしい。そして、ユークリッドを引き合いに出し、神や人間の自由について、幾何学的に考察されているという。はたして、ユークリッド的な幾何学原論のような主張が、哲学をどこまで掘り下げられることができるのだろうか?公理系のような書き方で、どこまで語ることができるのだろうか?幾何学仕様の倫理学というのも、なんとなく謎めいている。「エチカ」の訳書は、岩波文庫から出ているので、いずれ挑戦してみたい。本書は、スピノザがどんな事を語ったのか?どんなものを見たのか?を紹介してくれる入門書である。

スピノザは、世界そのものが真理でできており、人間はその真理の一部であると語る。そして、人間の精神も真理の一部であり、思考が真ならば、思考されている事柄と一致しなければならないという。また、現実にある事柄で、それを対象とする真なる思考に一致しないようなものはないと語る。だが、ばらばらに存在する人間が、知性において全員一致する真理に到達しようとしているとは、なんとも信じ難い。人間の真なる思考も、真理空間の一部に過ぎないというなら、なんとなく分からなくはない。そもそも真なる思考とは何か?そういうものが存在するとしても、未だに人類は到達できていない。いや、永遠に到達できないかもしれない。ただ、アル中ハイマーの思考が真だとすると、宇宙はハーレムになってしまう。多数決が正義だとすれば、多くの男性諸君に支持される真理であろう。

スピノザが、世間から無神論者とされるところは、ニヒリズムにも通ずるものがある。それも、宗教とは違って無条件に受け入れるのではなく、論理的解明を試みる世界があるからであろう。哲学は精神の論理的探求を求め、宗教は精神の絶対的服従を求める。人類が哲学を論理的に解明しようと試みるのは、宇宙の正体が単純な法則に従っているに違いないと信じるからであろう。そこには、真理には美しい何かがあると信じてきた偉大な哲学者や科学者の執念がある。だが、哲学的思考が人間の精神の領域に到達すると、ついに語れない境界があることを知らされる。哲学は、誰のためにも語ることはない。うんちくや説教も垂れない。ただ、闇雲に真理を探究し、永遠の旅を続けるだけである。スピノザは、永遠についても語る。ここでいう永遠とは、始まりも終わりもない無限の時間のことではない。今あるリアルな存在のこと。時間はリアルな瞬間の連続であるが、その瞬間が永遠の真理だという。真理は時間の影響を受けないと言ってくれれば、なんとなく分かった気になれるのだが、はたして、そう言っているのだろうか?
「人間精神は身体とともに完全には破壊されず、その中の永遠なる何ものかが残る。」
これは、魂は不滅と言っているのだろうか?少なくとも死後の魂とは違うようだ。また、何が残るというのか?記憶や名誉のようなものか?それだって、歴史上の人物以外は、ほとんど無名で残らない。歴史だって、いつまで残るかわからない。DNAのことか?物質の構成要素である原子ことか?ここで、はっきりした答えがあると、いんちき宗教になり下がるであろう。真理は、ベールのようなもので包むから崇高な地位に押し上げることができる。女性の持つチラリズムにこそ美的興奮を与える何かがある。その探求を永遠に求めることが男の美学というものだ。そこには、「意味があるのか?」といったくだらない疑問は存在しない。ただ愉快なだけ。答えの見つからない命題を思考し続けると、アルコール欠乏症で手が震えだす。

1. 知性改善論
スピノザの著書「知性改善論」は、「エチカ」の入門書に仕立てようとしたものであるが、解説書のようなものを期待してはならないという。幾何学的でわざと解説を拒んでいるようでもあると紹介される。「知性改善論」の冒頭で、スピノザが哲学を始めた理由が語られる。天才でも始まりは平凡なようだ。全ての事象が空虚で無価値であることが経験で分かってくると、真の善というものは存在するのだろうか?といった疑問がわく。スピノザは、他の全てを捨て去っても、それだけで心が刺激されるようなものが存在しないだろうか?そういうものが見つかれば、喜びを永遠に享楽できるのではないか?と考えたという。だが、人間の欲求は、富、名誉、快楽に帰着する。どんなに善や道徳を語ろうとも言い訳に見えてくる。道徳が自己目的化すると人を、ますますダメにする。スピノザ自身、所有欲、官能欲、名誉欲を捨てることができなかったと告白する。こうしたものを悪と呼んだところで、決して悪を捨て去ることなどできない。捨て去ろうと思っている間は、捨てられないことを証明しているようなものである。そして、善悪を語る道徳家は悪の塊ということになる。ところが、精神の探求を続けると、こんなものへの執着がなくなり、妨げにすらならないことが理解できるという。禁欲が探求を可能にするのではなく、探求が禁欲を不要とするというのだ。これが悟りの境地ということか?そもそも捨て去るべき欲望など存在しないということか?知性と欲望が対立するのではなく、知性そのものが欲望である。精神の探求そのものが欲望である。欲望を遠ざけては、真理へ近づくことなどできないということだろうか。

2. 目的と衝動
目的とは、何かを達成するものであり、そのために努力するものだろう。ここでは努力は義務となる。だが、スピノザは、目的とは衝動であると語る。自分が目的に向かっていると、勝手に信じているだけのことかもしれない。人間は、その目的が善と信じているから、努力し犠牲も強いる。そして、努力や犠牲といった行為そのものも善と信じる。だが、目的や義務を追求していくと、エゴや自己愛に辿り着く。結局、欲望のためであり、衝動からくることに気づかされる。こうなると、人間の意識は、すべてあべこべに表象している可能性がある。人間は自由意志を信じ、万事は目的のために為されると信じても、自由意志の存在すら示すことができない。「エチカ」の理論では、人間は意欲や衝動を意識できるが、心が動く原因までは解明できないという。おいらは、精神の本質は「気まぐれ」であると考えている。最も人間らしい感情が「気まぐれ」であると思っている。義務や目的のために精神を制御しているつもりでも、実は衝動に支配される。義務感が強い人ほど、実は、ちゃらんぽらんなのかもしれないと思うことがある。欲望や衝動を自由に放任できる人ほど、義務や努力に励むのかもしれない。それは、義務の本質を探究しようとせず、ただ従うことに命をかける人とは違う。スピノザは、欲望とは意識を伴った衝動であると語る。ここで、おもしろいのは、「目的とは衝動である」と語りながら、「衝動とは目的とは言えない」とも語る。この非対称性が重要であって、これが抜けるとスピノザは単なる欲望至上主義に陥る。本書は、ここを理解することがスピノザの理解への鍵であると語る。目的のために欲望を捨て去らなければならないという発想は間違いで、単に強い欲望が弱い欲望に勝っていると考えるべきだという。道徳家が意見するような、善なる目的のために欲望を断念するということではない。善には優先順位があるということである。では、最高の善とはなんだろうか?スピノザは、より強い存在になりたい、より完全になりたいという欲望が、最高の善であると考えている。人間の本性の探求、完全な人間とは?という問い、こうしたものへ近づくことが享楽へと導くという。スピノザは、欲望や自己愛を肯定している。人間は案外素直に自分を愛することが難しい。それは利己的でエゴな部分が共存するからである。それでも、人間の自己愛は寛大で、自分自身が一番可愛い。利己とエゴは人間の持つ本質であろう。自己肯定の衝動は精神の本質なのかもしれない。その本質を誤魔化し、自己愛を公然と言えるように武装したものが道徳というものの正体ではないだろうか。

3. 宇宙の真理
あらゆる宗教は「神」の存在を出発点とする。しかし、スピノザは「神」は出発点ではなく定理として導く。実体とは、唯一性、自己原因と永遠性、無限性などの属性を持ち、その正体を考察していくうちに、無限なる本質、無限の属性を持つ絶対的な実体が現れる。「神」は、これらを表現するのに都合の良い言葉ということである。自然は、目的のために働くものではない。なんだか分からないが、とにかく何かがある。そうした中で、神の存在は、公理から演繹されて、どうしても出現してしまうという。神の存在は、ある種の避けがたい論理的帰結なのかもしれない。多くの神の存在論というのは、胡散臭いものがある。だが、ここで現れる神は、むしろ、偉大な宇宙といった感がある。いくら無神論者であっても、絶対的に逆らえない実体かあるような気がするものだ。ところが、人間のご都合主義はおもしろいもので、幸福が訪れれば自分自身の努力のお陰だと喜び、災難に遭遇すれば神にすがる。神は万物を創造したという説はよく耳にするが、スピノザは神を創造者とは言わない。動物だの、地震だの、戦争だの、いろいろな有限な存在や出来事があり、これら全てを包括して無限に実体が存在する。これがスピノザのいう神である。人間の存在意義、宇宙の存在意義なんてものはありえないのかもしれない。それは、ただ存在するだけ。登山家は言う。「なぜ山に登るのか?そこに山があるから」アル中ハイマーは言う。「なぜビールを飲むのか?そこにビールがあるから」

4. 精神
デカルトは人間の精神を一つの実体と考えた。つまり、精神は物体的属性とは違った属性を持つ実体である。そうなると、思考の位置付けはどうなるのか?人間の内に現れる思考は、精神の実体と一致するというのか?また、思考と身体に共通点すら見えないので、精神と身体が一つである状態すら想像できない。酔っ払いには、ますます人間という実体が見えなくなる。デカルトが「心身合一の問題」を残したのも分かる。
スピノザは、精神も一つの事物と捉えた。というより、精神なんてものは無く、ただ思考のみが存在すると考える。いずれにせよ神や自然の属物である。これで問題が解決するとは思えない。ただ、デカルトのように精神の実体を求めるよりは想像しやすい。スピノザは、神にも人間にも自由意志など存在しないと主張する。そして、自由意志の否定が、安らぎと幸福を教え、運命に振り回されない力を与え、自らを許し、人間を許し、社会を許し、神と世界を許すという倫理観が得られると結論付けている。自由意志を信じたところで、酔っ払いは気まぐれに支配される。自由な決意が、物事を語り、全ての行為に及ぶと信じても、それは目をあけながら夢を見ているようなものかもしれない。スピノザは、精神の決意と身体の決定は、表現が違うだけで同じ行為であるという。それゆえに、身体を蔑視する闇雲な精神主義におさらばしたというわけだ。人間を許せないというのは、そもそも人間には自由意志があると信じているからである。不快に思うのは、相手の自由意志によって引き起こされると考えるからである。だからと言って、自然現象のように許すことなどできようか?台風から避難するように、不快から遠ざかるしかないということか。だから、酔っ払いはいつも酒に逃避するのか。スピノザの倫理は、徹底して自己肯定の原理に基づいているようだ。間違って解釈すると、利己的になりそうである。人間の歴史は理性よりも感情によって導かれてきた。人間は孤立の恐怖から逃れるために群がる。その代表が国家である。国家は政治を生んだ。もし、人間の本性が最も有益なものへ向かうならば、何の方策も必要としないはずである。だが、政治は、群れに共通の恐怖を与え、あたかも一つの精神によって結びついているかのように仕向ける。
賢人は、魂の平安を有しているというが、賢人の精神が乱れないというのは本当だろうか?そもそも、賢人は存在するのだろうか?そのように装うのが巧みな人はいる。アル中ハイマーは、感情的になりやすく、精神はしばしば乱れる。不快な感情を察知して、予め逃避するように努めるがうまくいかない。賢くありたいとは思うが、知識を得たところで賢人になれるわけでもない。

2008-09-28

"ナポレオン言行録" ナポレオン・ボナパルト 著

前記事でニーチェを読んでいると、学生時代、独裁者の心理に興味を持っていたことを思い出す。本書に出会ったのは20年以上前。コニャックを飲みながら本棚を眺めていると、なんとなく読み返したくなる。
一般的に呼ばれる「ナポレオン戦争」は、人類史上初めての世界規模の戦争と言える。アル中ハイマーは、これこそ第一次世界大戦と呼ぶに相応しいと思っている。だが、あえてナポレオンその人の名で呼ばれるところは、それだけインパクトのある人物であったことの証であろう。その影響範囲はアメリカや極東にまで及ぶ。ナポレオンは、フランス領ルイジアナをアメリカへ売却し北米大陸から撤退した。中南米のフランス領およびオランダ領はことごとくイギリスによって攻略された。そして、イギリス海軍による海上封鎖によって米英戦争が勃発する。長崎で起きたフェートン号事件も、ナポレオン戦争が波及したものと言える。当時、そうした興味から本書を読んだはずなのだが、その印象はジョゼフィーヌへのラブレターのオンパレードということぐらいしか残っていない。不貞の女性がそこまで愛される資格もないのだろうが、不安、悲しみ、希望など愛にあふれた詩が綴られていたように記憶している。ところが、今読むと、愛妻への手紙もさることながら、戦争を続けなければならなかった心境や、彼の理想としたヨーロッパ観が描かれていることに感動してしまう。特に、セントヘレナでの回想は、文人ナポレオンの姿が現れる。素朴な心情に、威風堂々としながらも風流。自らの思想の気高さを語り、時には自らの手段の誤りを認める。もはや、表舞台がなくなる運命にあると、自らの回想録に浸るしかないのだろうか。最高潮な時ほど見えないものも多いが、流人の身ともなれば率直な姿や、自らを美化した姿も見えてくる。そして、ナポレオンは歴史家となった。また、ローマ皇帝を擁護している部分もある。ローマ皇帝たちはタキトゥスが中傷するほど悪い人間ではなかったと語り、尊敬の念も抱く。こうした回想場面は、全く記憶に留まっていないので、新鮮な書物として読める。これも記憶領域の破壊されたアル中ハイマーの特権なのである。

本書は、岩波文庫で絶版となっているようだ。もったいない!原標題を「ナポレオンの不滅の頁」と言うらしい。そこには、手紙、布告、戦報、語録など厳選されたものが並び、ナポレオンの自筆によって残された生々しさがある。編集者オクターブ・オブリ氏によると、ナポレオンの文章には、イタリア風なところもあるという。ナポレオンは、フランス語とイタリア語を操り、フランス語に当てはまらない言葉をイタリア語に求めている。ただ、思想も文章もイタリア的ではなく、フランス的で省略や簡潔なところもあるが、これは、フランス語固有なものだという。軍人の布告の中にも詩人としての姿を現す。また、自らを解放者と呼び、その傲慢さには見事な独裁者振りがある。ナポレオンは新聞の重要性を理解していた。フランス革命も新聞が無ければ成り立たなかったかもしれない。彼は新聞を監視し鼓吹する。そして、世論を惹きつけるための論説も書いている。政治家が偉業を成し遂げるためには、詩的な風格と傲慢さの両方を具える必要があるのだろう。偉大な行動には、一種の興奮状態になることもある。詩的でなく、高揚のセンスを欠き、知識や視野の狭い政治家は、つまらない政治屋ということか。精神の詩人は多くの書物で見かけられるが、ナポレオンは政治や戦争を通しての行動の詩人と言える。

ヨーロッパのこの時代は、一時的とはいえ世論の支持がないと独裁者として君臨できないはずである。にも関わらず、ナポレオンという独裁者の出現を許したのはなぜか?フランス革命が起こりブルボン王朝は崩壊する。しかし、革命後の共和政はすぐに恐怖政治へと変貌する。こうなると、歴史の振り子は王政復古へと振れそうだが、そうはならなかった。それも、人民の王家に対する反感が根強いものだったのかもしれない。君主制を避けたからといって独裁者が出現しないわけではない。また、共和政と民主政を比べるべくもないが、現在においても、マスコミなどの世論扇動によって恐怖政治のような流れを感じることがある。大衆は感情に流されてきた歴史がある。こうした光景は、どんな政治体制であっても、人間に内在する本質なのかもしれない。民主主義を永続させるためには、民衆が世論扇動に惑わされないように思考するしかない。ところで、近代民主主義に独裁者が出現する可能性はないのだろうか?ゲーデルは合衆国憲法の条文で独裁者が現れる可能性を指摘したという話を読んだ覚えがある。人類の発明した言葉による条文によって、論理的矛盾を完全に解消できるとは信じていない。戦争放棄を謳ったところで、戦争を完全に回避できるわけではない。歴史には平和主義者によって戦争を招いた例も多い。そこで、条文を補完するための慣習が必要となる。人類は未だ恒常不変の善悪を知らないのだから。

1. ラブレター
やっぱり、妻ジョゼフィーヌへの手紙が多い。自らの名誉へ執着するのは、彼女が名誉へ執着しているからだとか、戦場で早く勝利しようとするのは、彼女に一日でも早く会うためだとか、手紙をくれないことを嘆いたり、まるで片思いかのような必死さが伝わる。本書で一番多く登場する単語は、「ジョゼフィーヌ」であろう。そこには、皇后のためなら二十万人を犠牲にしても構わないなどという傲慢さが表れる。ナポレオンは、妻ジョゼフィーヌとの間に子が生まれないのは、自分の能力のせいだと疑っていたようだ。家族会議でも、ジョゼフィーヌとの間に子ができないことを精神的苦痛であると語る。そして、愛人マリア・ヴァレフスカ伯爵夫人との間で子供ができて、離婚を決心したと言われている。ちなみに、ジョゼフィーヌは、ナポレオンとの結婚が再婚で連れ子もいた。不貞も多かったと言われる。離婚後、オーストリア大公の娘マリ=ルイーズと再婚し、ナポレオン二世が誕生する。当初、ルイーズはナポレオンとの結婚を望まなかったが、宰相メッテルニヒの策略で実現したという。そして、二人の皇后への書簡が続く。なかなかマメなおっさんである。もし、この時代にインターネットがあったら、戦争中に嫁さんとチャットしている光景が目に浮かぶ。

2. 皇帝としての立場
ナポレオンは、帝政時代、ヨーロッパにおける自らの地位について語る。そこには、戦争を持ちかける心理がうかがえる。当時ヨーロッパでは、五つか六つの名家が帝位や王位を分け合っていた。それぞれの名家は、一介のコルシカ人が帝位の一つについていることに我慢できない。これら名家に対抗するためには、ナポレオンの恐怖下に置くことのみが、彼らと同等の立場を維持できる。ナポレオンという皇帝が、恐れられる者でなければ、フランス帝国は滅ぼされると考えていた。ナポレオンは、他国の企てを監視し鎮圧せずにはいられない。他国から威嚇されれば反撃せずにはいられない。古い家柄の王にとっては些細な事でも、ナポレオンにとっては存亡をかけた重要な問題となる。もし、息子が同じ態度を取り続けなければ、簡単に帝位から失脚するであろう、と語るあたりは、一つの君主制を固めるためには一人の人間では成しえないことを理解していたとも言える。ルイ14世にしても、長く続いた王家の継承者でなければ、簡単に王位を失っていたかもしれない。ナポレオンにとって、自身の存続やフランス帝国の存亡が、侵略戦争にかかっていた。

3. フランス革命を回想
イギリスは、数々の植民地の喪失、特に北アメリカの独立について、ルイ16世を赦していなかったという。ルイ16世は、高慢な政策によって、フランス海軍を世界第一の列に押し上げた。もし、フランス革命が起こらなかったら、ルイ16世によって英仏両国で通商貿易を独占し、両国民の恩人となるはずだったという。フランス革命は、初期においてルイ16世の庇護の下に進行した。ところが、民衆が宮殿を囲み、王が侮辱された事件が起こる。これは、フランス人によってのみ惹き起こされたのではなく、イギリスの悪しき助言があったという。その後、ルイ16世はヴァレンヌへ逃亡。これは裏切りとされ、王位を転覆させようとした少数派の餌食とされた。コブレンツにおける亡命軍の集結、ピルニッツの会議、滑稽なプロイセンとの戦争、更に滑稽なのが組織されていないフランス軍を前に退却したプロイセン軍、これらが、革命熱を最高潮にした。そして、立法議会から、国民公会の時代へと移り、革命を恐怖政治へと変貌させた。イギリスは、こうしたフランスの破壊的徴候を見て喜んだ。しかし、イギリスは敵を見誤ったがために、革命の気運が飛び火した。ルイ16世の処刑という暴挙を傍観していると、共和国という恐ろしい力が起こる。イギリスはフランスを圧殺しようと、ヨーロッパに莫大な軍援助金をばらまいたが、その負債を各国は冷ややかに見ていた。プロイセンはイギリスから離れ、ロシアは遠く見守っていた。ただ、オーストリアだけが復讐すべき侮辱を受けていた。エスパニアは、おのが利益のためなら血縁関係をも犠牲にする。イギリス首相ピットの反革命戦略は、オーストリアと神聖ローマ帝国といったゲルマン諸国のみがささえていた。キブロンでは、ブルターニュ海岸から身を投げた亡命者や銃殺された亡命者を、イギリス艦隊は傍観した。ピットはイギリス議会で、こうした政策の犠牲になった者たちを持ち出されると、イギリス人の血が流されなくて良かったと答えたという。キブロンの出来事は、フランスにとってのみ不幸をもたらし、イギリスにしてみれば金がかかっただけであると語る。

4. ナポレオンの理想
ナポレオンは、ヨーロッパを一つの世界帝国として再構築する理想を掲げていたようだ。アウステルリッツで勝利した時、アレクサンドルを捕虜にもできたが自由の身にした。イエナで勝利した時、プロイセンの王家に王位を残した。ヴァグラムで勝利した時、オーストリアの君主国を分割することを怠った。これらを、寛大処置として非難されても仕方が無いと振り返る。それは、もっと高い思想に憧れ、ヨーロッパ諸国の利害の融和を夢見ていたという。人民と王たちを和解させようという野心を抱いていた。そのために、王たちの支持も必要とした。人民による非難も覚悟の上だったが、自らを全能だと信じていた。エスパニアについては、後方に放置した事で、イエナでの対戦中、宣戦布告された。この侮辱を罰するべきだった。勝利の疑いもなかった。しかし、この勝利の容易さが逆に迷わせた。エスパニア国民は政府を軽蔑していたので、平和裡に改革ができると信じていた。そこで、自由主義的な憲法を与え、ナポレオンの兄弟を王に据えた。これはエスパニア国民から反感を買う。彼らの王朝を変えるべきだと思ったのは軽率だったと語る。ポーランドについては、再建しなければ、オーストリアとプロイセンは、依然として世界最大のロシア帝国に立ち向かわなければならない。1812年には、オーストリア、プロイセン、ドイツ、スイス、イタリアはフランス軍旗の下に進軍していた。もし、ロシア遠征で勝利していたら、ヨーロッパにおける百年の平和問題は解決されていたと主張する。しかし、そこにはフランス帝国が第一であるという前提がある。あらゆる独裁者たちは、ことごとく同じ論理に辿り着くようだ。自らが中心となって...という論理である。

5. 自画像
ナポレオンは、自己防衛のためにしか、決して征服を行ったことはないと主張する。そして、フランスは、無政府状態にあり、共和国を救うために独裁者が必要であったと語る。ヨーロッパはフランスの諸原理のためにフランスと戦うことを止めなかった。打倒されないためには、打倒するしかなかった。平和な時であれば、独裁は行わず憲法による統治を進めていたという。また、自らの行動を、当時のヨーロッパで最も自由主義的なものであったと主張する。無政府状態の溝を埋め、革命の汚れをすすぎ、民衆を栄光へ導き、王たちの地位を固めた。もはや、歴史家は、自分を批判することなどできないと語る。更に、ナポレオンは自問する。自分がどこから来たのか?どういうものか?どこへ行くのか?この神秘的な疑問が宗教へと走らせる。そこで、教育が待ったをかける。宗教にとって教育と歴史は大敵であり、宗教は人間の不完全さによってゆがめられる。ナポレオンでさえも信仰には逆らえない。盲目的に信じられれば幸せであろう。ナポレオンは言う。イエスが神になれたのは十字架の上で死んだからである。世界平和のために、ナポレオンもルソーも生まれてこなかった方がよかったのだろうか?それは未来が教えてくれるだろうと。

6. ナポレオンの戦争論
本書には、あちこちにナポレオンの戦争論がちりばめられる。それは、クラウゼヴィッツの「戦争論」を思わせるところがあって興味深い。その言葉を拾ってみよう。
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避けられない戦争は常に正戦である。あらゆる攻撃的戦争は侵略戦争である。作戦計画は前提や状況に応じて無限に変化する。軍学とは、戦地にどれくらい兵力を投入できるかを計算することである。軍学は、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。指揮をする術を知るためには服従する術を知らなければならないというが、40年間服従することしか知らない人間は、もはや指揮能力はない。60歳を過ぎた将軍があってはならない。名誉ではあるが、何もすることのない地位を与えるべきだ。作戦会議を重ね過ぎると、最悪の策が採られる。最悪な策とは最も臆病な策である。戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を温存しておく将軍は敗れる。将軍は常にその場に居るべきである。ガリアを征服したのはローマ軍ではなくカエサルである。ローマを恐れさせたのはカルタゴ軍ではなくハンニバルである。ヨーロッパ最強の三大国から、プロイセンを7年間防衛したのはプロイセン軍ではなくフリードリヒ大王である。フランス軍が最強なのは下士官が引っ張るからである。対等な立場だから、下士官は兵卒を傷つけない。仕官たちが亡命し、下士官が将軍や元帥になったから無敵なのである。フランスの兵隊は他の国の兵隊よりも統率が難しい。それは機械ではなく分別ある連中だからである。フランスの兵隊が議論好きなのは、頭がいいからである。彼らは作戦計画と機動演習とを議論する。そして、作戦行動を是認し、指揮官を尊敬していれば、どんなことでもできる。だが、その逆の時は失敗する。退却の術はフランス軍には難しい。敗北は隊長の信頼を失い、命令に反抗する。ロシアや、プロイセンや、ドイツの兵隊は、義務観念から持ち場を守るが、フランスの兵隊は名誉観念から持ち場を守る。前者は敗戦に無関心だが、後者は敗戦に屈辱を感じる。国民的栄光と戦友の尊敬よりも、生命を大切にする者はフランス軍の一員になるべきではない。
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2008-09-21

"ツァラトゥストラはこう言った(上/下)" ニーチェ 著

学生時代、新潮文庫版の「ツァラトストラかく語りき」を読んだ。もう20年以上前かあ。本屋を散歩していると、なんとなく岩波文庫版が目に留まる。そういえば、学生時代、独裁者の心理に興味を持っていた時期があった。その時、ニーチェに影響された独裁者につられて読んだのである。もしかしたら、アル中ハイマーのニヒリズムの原点は、この本にあるかもしれない。本書は間違いなく名著だ。だが、薦めはしない。今、酒樽の中から神託が下った。「汝は再び、これを買うであろう!」

そこには、国家は敵、親友は最大の敵、道徳や宗教を否定し、学者は嘘つき、詩人は口先だけ、聖職者は誹謗者、人間は生まれながらに死を運命づけられた死刑囚、といった御託が並べられる。「神は死んだ!」この言葉で象徴されるように、読み方を間違えると危険な思想に嵌りそうな香りがしたのを思い出す。純情なアル中ハイマーは、ニーチェのおかげで哲学恐怖症と宗教拒否症を患ったものである。それでも、人間の深層心理を鋭く抉る感覚には魅了された。それが今読むと不思議なことに癒される。それだけ邪悪な社会を見てきたということか?いや!単に精神が泥酔しているに過ぎない。どんなものであれ、出会った時の精神状態によって解釈が違うことがよくある。気づかなかった日常の幸福にも、やがて見落としていたことに気づく日がくるかもしれない。ただ、こういう本は、酔っ払いのお喋りが「かっぱえびせん」状態になるから困ったものだ。しかも、鏡の向こうの住人が、赤い顔をして「ああ気持ちええ!」と呟きながら延々と話しかけてくる。

アル中ハイマーの住む業界では精神病や脳卒中といった病を患う人が多いようだ。それが当人だけでなく、奥さんや家族に伝染するのは偶然だろうか?ちなみに、おいら自身が5年ほど前に脳梗塞と診断されたことがある。即日入院させられたが、厳密には一歩手前であろう。酔っ払っているお陰でまったく自覚症状がない。医者は騒ぎおるわい!ただ、看護婦さんに会える口実を与えてくれたことを喜んでいる。
哲学という一見高度に見える思考は、生きる上であまり役には立たない。哲学は苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。論理的な解明を深めると鬱病にさえなる。だからといって、それ以外に何ができるだろうか?できるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせる可能性を示せば、そこには、崇高な地位へと押し上げる何かがある。これが哲学の極意というものだ。 絶望という名の希望は、生きる上で時々立ち止まり、そして、時々振り返ることの大切さを教えてくれる。本書には、絶望の末に到達したニヒリズムがある。

宇宙の存在意義とは、自らの精神を意識できる瞬間でしか意味がないのだろうか?魂が死んだらどうなるのか?人類が宗教を発明した理由の一つは、人生がこの世で終わるのでは、たまらない!と人々が願うからであろう。無神論者であっても、「あの世」とか、「天の声」といった言葉を使うものだ。ご都合主義の人間が、来世を信じるのも分からなくはない。いずれ、地球は死滅し、人類が死滅する日がくるだろう。そうなると、自分の生きた証どころか、人類の歴史が全て失われる。宇宙の歴史からすれば、人間など「うじ虫ども」の地位にしかない。偉大な生物の歴史では、一匹のプランクトンよりも役立った人間などいないのかもしれない。

本書は、この手の文献にしては珍しく注釈がない。文章も翻訳にしては分かりやすく、仏教的な用語に置き換えていると思われる部分もある。だいたい、この手の本が読み易いわけがない。直訳するとへんてこな日本語になるはずだ。訳者氷上英廣氏の意向が感じられる。こうした意図は、学術的な立場からすると許されないだろうが、酔っ払った凡庸な読者にはありがたい。
「ツァラトゥストラ」とは、古代ペルシャのゾロアスター教の開祖の名前である。ニーチェは、主人公にツァラトゥストラを登場させ自らの哲学を代弁させる。これは、矛盾した宗教への挑戦か?善悪を語る道徳への皮肉か?キリスト教をパロッた場面もちりばめられる。そこには、「人間は人間を克服しなければならない」と語り、「超人」と「永遠回帰」という二つの概念が語られる。凡人は生まれて死ぬものであり、無情な時間の中でもがく。だが、「超人」は、この時間をも克服してしまう。それは、自己目的で完結してはならず、時代のかけ橋となることを意味する。そのために自らの没落を勧める。没落とは自己犠牲とも微妙に違う。人間の最も恐れるものは退化である。それは、自らの意志を次の世代に受け継ぐことの意義を教えている。だが、精神や道徳は、何度試みては失敗し誤ったことか。人間とは単なる試みなのか?昔から受け継がれた理性によって、今もなお精神は錯乱する。「永遠回帰」は自己克服と成熟を求めるが、人類は物事の真理を探求しながら、未だに答えを見つけられない。人類は未だ恒常不変の善悪を知らない。そもそも、善悪は存在するのだろうか?人間を克服するとは、善悪の創造者になることである。そのために思考し続けるが、精神は迷い続け、永遠に矛盾と対峙する運命にあるようだ。

人生には悩みが付きまとう。生き甲斐なんてものは、思い上がりなのだろうか?謙遜という意志ほど難しいものはない。人間はなぜ生きようとするのか?そこには限りない欲望が渦巻く。幸福は、苦痛を忘れた瞬間に訪れる。その瞬間を作ってくれる芸術や音楽には、癒しの力がある。逃避的で消極的な幸福は、癒しの空間を与えてくれる。だが、ニーチェは、更に生きる苦痛を正面から受け止めよ!「勇気こそ人生の先史学」と訴える。消極的な幸福よりも、積極的に覚悟を決めることによって癒される何かがあるというのか?永遠に苦悩する勇気によって、次の瞬間に何かが悟れるとでもいうのか?それが「永遠回帰」ということか?本書は、人間を蔑み、人生を散々否定的に語っておきながら、それを直視し真理を探究し続けることにこそ、自己克服があると語る。自由な精神を獲得するには、究極まで思考し続けるしかない。だが、どうせ答えなど見つからない。真理には不思議な性質があって、近づこうとすれば逆に遠ざかる。まるでホットな女性のように。

さて、次の20年後に読み返すと、どんな解釈が得られるだろうか?その頃は何歳だ?今、16進数で20代だから...そのうち16進演算も怖くなりそうだ。次はモジュロ計算で生まれ変わるとしよう。
それでは、大作の中からストレス解消になりそうな愚痴っぽいところを、ほんの少し摘んで要約しておこう。なぜかって、そこに辛さの効いたカラムーチョがあるから。この辛さはビールのピッチをあげる。

1. 人間
ツァラトゥストラが愛する人間は、没落を願う人間、破滅に向かう人間である。ツァラトゥストラは病人には寛大だ。神を渇望する人々には、実に多くに病的な輩がいる。暗黒な時代では、信仰は妄想であり、理性は狂乱となり、冷静な懐疑は罪とされる。世界の背後には、救済と称した信仰が蔓延り血が流される。そして、戦争や闘争といった悪は必然となる。人間は、徳どうしの妬みや不信と誹謗からは逃れられない。人間は徳によって滅びようとする。かつて精神は神であった。やがてそれは人間となった。今では賤民にまでなり下がる。

2. 国家
国家は冷めた怪物である。国家は民族であると嘘をつく。民族には、善悪を表す言葉に風習と掟がある。国家があらゆる言葉を駆使して善悪を語っても、それは全て盗み取ったものだ。国家にひれ伏し拝むならば、この新しい偶像は人々に餌をばらまき、人々から美徳と誇りを買い取る。国家は余計な人間を生みだし、庶民の財産を盗み取る。この窃盗を教養と呼ぶ。中には人々を感情で逆なでする者もいる。これを新聞と呼ぶ。彼らは互いに貪りあう。この余計な人々は、富を手に入れ権力を欲する。だが、ますます貧しくなることに気づかず、王座を欲する。まるで王座に幸福があるかのように。だが、王座は泥に過ぎない。国家という新しい偶像を崇拝する者どもは、ことごとく悪臭を放つ。

3. 民族
地上において善悪ほど大きな力を持ったものはない。まず、民族が生きていくには、善悪の評価が必要である。どんな民族も隣国どうしで理解し合ったものはない。民族にとって手に入れることの難しいものが善である。民族を支配と勝利と栄光に導き、隣国にとって恐怖と嫉妬の的にされることが、高貴なものとなる。ギリシァ人は、他者よりも秀でることを美徳とした。ペルシァ人は、真実を語ること、弓矢に練達することが困難であると知りつつも好んだ。ユダヤ人は、父母を敬い、父母の意志に従うことを不滅とした。ドイツ人は、忠誠を尽くし、たとえ悪いことでも名誉と血を賭けることを教えとし、自らを強制した。民族にとって善悪の価値は自己を維持するために必要だった。だが、人類はいまだに共通の目標を見つけることができない。人類に目標がないのなら、人類そのものもまだ成り立っていないということではないか。

4. 自由な死
「ふさわしい時に死ね!」。これがツァラトゥストラの教えである。だが、ふさわしい時に生きたことがない者が、どうしてふさわしい時に死ねようか。ツァラトゥストラは言う。「余計な人々は、そもそも生まれてこなければよかった。」余計な人々は死をもったいぶる。全ての者が死を重大視する。だが、死はいまだに祝祭とまではならない。多くの人は、自らの真理をつかむ頃には、あまりにも歳をとり過ぎる。栄光を欲する者は、良い潮時に名誉に分かれを告げ、良い時に逝くという難しい術を習得しなければならない。あのヘブライ人イエスは、あまりに早く死んだ。彼がもっと長生きしていれば、おそらく彼自身の教えを撤回したであろう。撤回できるほど十分高貴な人間だったが、未熟なうちに死んだ。

5. 聖職者
生きるということは羞恥の連続である。他人を同情することで自らの幸福を確認する。自己を喜ばせようとすれば、他人を悲しませ困難や迷惑を与える。小さな悪行を楽しめば、大きな悪行をしなくて済む。裁判で裁かれれば、罪を償ったと勘違いして自らの罪を忘れる。聖職者たちは、あまりにも苦悩してきた。そのため彼らは他の者にも苦悩を与える。彼らの謙遜ほど復讐心に満ちたものはない。救済は、偽りの価値と虚妄の言葉を浴びせかける。彼らの神の愛し方は、人間を十字架にかけることしかできなかった。彼らは屍として生きようとした。自らの屍を黒衣で覆い、その説教からも死体置場の嫌な臭いがする。彼らの同情によって神は死んだ。教会は神の墓場である。

6. 有徳者
有徳者たちは、なぜ徳に対する報酬を受けるのか?徳はそれ自体が報酬ではないのか?徳には、報いと罪という嘘っぱちが持ち込まれる。有徳者は、自らを高めるために、他人を低める。徳は必要だと叫ぶより、警察は必要だと叫んだ方が説得力がある。名高い賢者たちは、大衆に奉仕し、迷信に奉仕してきたのであって、真理に奉仕してきたのではない。だから、大衆に尊敬される。彼らは大衆の代弁者として誇りを持つ。まるで神の代弁者かのように。

7. 詩人
詩人は嘘をつき過ぎる。弟子がなぜか?と質問する。ツァラトゥストラは「なぜ?」と尋ねられると困る人間だと白状する。だが、ツァラトゥストラも詩人なのだ。詩人は、知識に乏しく学ぼうとはしない。だから嘘をつかざるをえない。詩人は、淋しい丘に寝ころび耳を澄ませると、天地がささやいてくれると、得意げにふれまわる。詩人は、天上と言って神々を比喩するが、それは表面に過ぎず自らを深く見せかけようとしているだけ。詩人の精神は見物人を欲する。自虐的な「精神の苦行僧」は、詩人から生まれた。

8. 善人
あらゆる人間は、いたわられ同情されたがっている。善人と自称する者は、無邪気に嘘をつく。善人たちは、同情という嘘をつくように教える。隣人愛という言葉ほど嘘と偽善のために役立ったものはない。かつて人々は予言者と占い師を信じた。運命という言葉を信じた。やがて人々は、予言者と占い師を疑うようになった。そして、一切は自由であり、自由意志を信じるようになった。しかし、それは妄想であって、本当は何も分かってはいない。かつて、略奪はいけない、殺してはいけない、ということが神聖とされた。だが、生きること自体が略奪と殺害を含んでいる。善人は、古い価値を壊す者を犯罪者と呼ぶ。そして、創造する者を憎む。なぜならば、善人たちが創造できないからである。善人たちは、新しい価値を掲げる者を十字架にかける。善人たちは常に終わりの始まりである。

9. 先史学
昔々紀元の始まった頃、ローマは堕落し娼婦になり下がった。ローマ皇帝は家畜になり下がり、神様もユダヤ人になった。ツァラトゥストラは言う。「私以上に神をなすものがあろうか。神は死んだ!」そして、人々を無神論に改宗させる。神は死ぬしかなかった。神は、人間の奥底に隠された汚辱と醜悪を見た。神の同情は少しも羞恥を知らなかった。人間はそのような目撃者がいることにに堪えられない。人間とは、なんと醜く、苦しげに喘ぎ、無駄な羞恥に満ちていることか。にも関わらず、人間は自分自身を愛する。自らを散々軽蔑しながら自らを愛す。人間の自己愛はよほど広大なものに違いない。人間には古くからの恐怖心がある。それが洗練され、知性化され、今では学問と呼ばれるに至った。そして、勇気こそが先史学である。人間はあらゆる動物の勇気を妬み奪い取った。

2008-09-14

"ポアンカレ予想を解いた数学者" Donal O'Shea 著

ポアンカレ予想を解いた数学者と言えば、グレゴリー・ペレルマン。彼を知ったのは、フィールズ賞を辞退した唯一の数学者として話題になった時である。彼は数学界からも去った。金銭にも名誉にも興味を示さなかった彼の残した言葉はこれである。
「有名でなかった頃は何を言っても大丈夫だが、有名になると何も言えなくなってしまう。だから、数学から離れざるを得なくなった。」
偉大な仕事を成し遂げるためには純粋な精神が必要なのだろう。科学者が科学以外に関わらなくてよければ、それは一つの理想像と言える。本書は、様々な書籍で見られるように、数学の難問の発端を古代ギリシャに求め、人類の遺産として残された歴史ロマンを語る。そこには、幾何学が非ユークリッド世界へと飛び出し、位相幾何学、微分幾何学へと発展した数学史が描かれる。アル中ハイマーには、トポロジーの世界は酔っ払った景色にしか見えないのだが、本書のおかげでなんとなく興味が持てるようになった。
本書は、地球儀と世界地図を対応させるように、二次元の折り紙の世界から説明してくれる。こうした初心者への配慮がうれしい。地図から再現される地球の形は、ドーナツ形にも、無限に伸びる円筒にもなる可能性がある。これは、北極と南極が地図という座標系における特異点と見ることもできる。二次元の地球表面は、三次元の視点からでしか観察できない。三次元の宇宙の形は、四次元の視点が必要であるが、四次元の世界は人間には体感できない。ところが、数学は四次元の世界どころかn次元の世界をも定義できる。ポアンカレ予想とは、宇宙を理解する上で中心的な役割を果たす物体の理論で、宇宙のあり得る形に関する大胆な推測である。

世界のあらゆる形について考察する上で、「二次元多様体」または「曲面」という概念がある。全ての二点について、関係を定義できなければ世界地図は成り立たない。つまり、二点間の関係は、二次元で示せる。物体を表現するのに、三次元は必要であるが、二次元多様体は何らかの立体の曲面として表現できる。
また、「境界」という概念がある。二次元多様体には境界を持つものと持たないものがある。平面状の円盤は境界を持つが、球面は境界を持たない。地球の表面を移動する生物が地球の果てを見つけることはできない。厳密に言えば、球に囲まれた球面そのものが境界なのだ。「境界」という概念は、次元をまたがる。ある物体が有限であるためには、境界を持っている必要がある、という考えはよくある勘違いということか。本書を読む時は、こうした考えは捨て去る必要がありそうだ。
いつも思うのだが、天才は特異点が登場するとブチきれた発想をする。宇宙の特異点を消してしまったホーキングしかり。ペレルマンもまた、特異点に立ち向かう。ここでは時間関数ではなく、空間スケールを変数にする。だが、酔っ払いにしてみれば、飲む時間も、夜の社交場の湾曲具合も同じように見える。また、次元の移り変わりも速い。いつのまにか、別の店に瞬間移動するのも、ブラックホール付近では空間多様体が多重連結されている証拠なのかもしれない。ちなみに、次元大介は早撃ち0.3秒、なんといっても、帽子がゾウアザラシのオス四歳の腹の皮製というのが鍵なのだ。

1. トポロジー(位相幾何学)の世界
二つの物体の形が同じであるかどうかは、見る人の観点によって違う。通常、形について語る時は、大きさや距離といった属性に着目する。ここで重要なのは、大きさや距離といった幾何学的な特性は無視することである。引き伸ばしたり、ちょっとした変形などは意味がない。一方の曲面上の点を、他方の曲面上の点に、一対一で対応することができれば、それらの二つの曲面は位相的に同じであると定義する。位相幾何学では、このような同相であるかどうかが議論の的となる。ドーナツのような形状をトーラスといい。多数穴は1穴トーラスの連結和と見なす。したがって、有限な二次元多様体のあり得る形は、平面か、球面か、トーラスのどれかになる。トーラスと球面の違いを区別する方法は、多様体の住人が周遊旅行することを想像する。出発点に糸を結び付け、その糸を垂らしながら旅行し、出発点に戻ると巨大なループが形成される。そこで糸を巻き上げると、住んでいる世界が球面または平面であれば巻き上げられるが、トーラスでは、引っかかって巻き上げられない。つまり、一点上に縮めることができるループがあるかどうかで判別する。これを三次元多様体に拡張することが、宇宙の形に近づく議論となる。現在の有力な説が正しければ、宇宙は有限である。宇宙全体の形を思い描くのが難しいのは、宇宙の外には出られないことだ。これが地球と宇宙の違いである。宇宙に境界がないと仮定しても、無限であるとは言えない。宇宙が無限ではなく、宇宙に壁がないとすれば、宇宙は湾曲しているということか?こうして、宇宙のあり得る三次元多様体とはどんなものかという議論が始まる。

2. ユークリッドの「原論」
ユークリッドの「原論」は厳密性を極めた書物として有名である。となれば、どれほど厳密かという議論は絶えない。ユークリッドは、公理や定義のみに基づいて議論を展開したとされ、何世代にも渡って礼賛される。ただ、暗黙のうちに述べられているものもある。本書は、「原論」の合理的というよりいい加減なものに映る可能性を指摘している。一部の学生には数学離れを引き起こし、自らの理解力を嘆き、数学は高嶺の花だと結論付けてしまう恐れがあるという。特に、第五公準は他の公準に比べてもかなり複雑である。これは、平行線公準としても有名であるが、おいらには何度読み返しても理解が難しい。しかし、人類が示す論理的思考には、直感や暗黙の了解から得られる社会的文脈や、文化的文脈によって継承されるところがある。言語表現にも限界がある。多少の欠陥があるにせよ「原論」の寿命は恐るべきものを感じる。ただ、ユークリッドの著作の半分は残っていないのは残念である。アレキサンドリア図書館の火災がなければ、人類の歴史も違っていたかもしれない。

3. ベルンハルト・リーマン
ガウスは、「原論」の第五公準が成り立たなくても、成立する幾何学があることを確信していたという。そして、曲率をめぐった議論が始まる。平らな平面では、三角形の内角の和は180度である。ただ、空間が湾曲している場合は、これに限らない。180度より大きければ、その平面は、正の曲率を持ち、小さければ負の曲率を持つ。こうした議論が非ユークリッド幾何学を誕生させる。リーマンは微分幾何学を導く。彼は、n次元多様体を実数の配列で表した。点を数とみなし、一次元は一つの実数で数直線上に表れ、二次元は二つの実数で平面上に表れ、三次元は三つの実数で立体の中に表れる。四次元以上は想像できなくても、実数の並びと考えれば定義できる。リーマンは、無限次元多様体の存在までも認めている。数学では、直線を二点間を最短で結ぶ線と定義する。これは「測地線」と呼ばれ、その空間の住人にはまっすぐに見える。直線が定義できれば三角形を定義することができる。三角形は、三本の測地線分を境界とする図形である。三角形が定義できれば曲率を定義することができる。三次元多様体では、一つの点を通過する二次元平面が多く存在する。その点を通過する様々な平面の曲率は、それぞれ異なる可能性がある。二次元多様体で地球のような球面では、子午線と赤道のような大円が測地線である。球面上では三角形の内角の和は180度より大きくなり、曲率は正である。こうした整った形を相手にしているうちは気分がいい。だが、ゴツゴツしたジャガイモのような形に幾何構造があるかと言われると違和感がある。なんといっても、幾何構造の美しさは対称性にある。また、トーラスには、正の曲率と負の曲率が共存する。酔っ払いの神経では、空間のねじり曲がったリーマンの世界に慣れ親しむことができそうもない。よって、ここで芋焼酎をおかわりするとしよう。

4. アンリ・ポアンカレ
クラインとポアンカレは、二次元曲面での位相幾何学が、ユークリッド幾何学と深い関係があることを導いたという。それは、どんな曲面にも曲率が一定になる幾何構造を持たせることができるというのである。そして、曲面の分類が始まる。単位元の多様体の基本群が、三次元球面と同相でない可能性はあるのか?多様体の基本群を、多様体上の一点を基点とするループの集合と定義し、一方のループを変形させると、もう一方のループになれば、同じループと見なす。ループが一つの点にとどまるならば、それを単位元とする。つまり、単位元はループを縮めると一点になる。基本群が単位元になるということは、多様体上のすべてのループを一点に縮められるということで、これを単連結というらしい。そして、ポアンカレは問う。
「三次元球面と同相でない多様体で、その上のすべてのループを一点に縮めることができるものが存在するだろうか?」
境界を持たず、無限に広がることのないすべての単連結な三次元多様体は、三次元球面だけなのか?ポアンカレ予想は一般相対性理論との関わりも大きい。アインシュタインは、重力の正体を時空の曲率とした。アインシュタインは、リーマンの理論が自らの物理法則を説明するのに最適であると認識していたという。物質は時空を湾曲させ、光も曲がる。というより光は測地線に沿って通るだけである。

5. 高次元への展開
ジョン・ミルナーは三次元空間内の閉曲線に関する問題を解決した。どの次元にもユークリッド空間はある。同じように、どの空間にも球面がある。例えば、二次元球面は、三次元空間内である原点から一定の距離だけ離れた点集合である。三次元球面は、四次元空間内である原点から一定の距離だけ離れた点集合である。ただ、ここでいう四次元空間は、四個で一組の実数集合で単なる数学的表現に過ぎない。これはn次元球面に拡張できる。ユークリッド空間内では微積分ができる。微分可能構造とするには、一貫性のある変化率を定義できればいい。つまり、線形ということである。ミルナーは、二つの七次元球面が同相であるにも関わらず、微積分の方法が多く存在し、その値はすべて異なるという衝撃的な発見をしたという。
スティーブン・スメールは、一つ高い次元の多様体の境界にある二つの多様体の性質に関する重要な結果を証明した。そして、3を上回る次元のすべての多様体は、実際には球面であることがわかったという。
ウィリアム・サーストンは、幾何学の流れを根底から変えた。二次元には三種類(平面、球面、トーラス)ある幾何構造が、三次元では八種類あり、それ以外にはないことを示した。
リチャード・ハミルトンは、熱が温かい部分から冷たい部分へ流れるように、多様体では湾曲のきつい部分からゆるい部分へ曲率が流れるという考え方を提唱した。曲率がもっとも大きくなる方向で距離が最も速く縮むように空間上の計量を変えるのである。といっても、温度よりも曲率ははるかに想像が難しい。温かい部分から冷たい部分へ流れる熱法則を定量化するには、ある点を中心とする平均温度へ向かうことを想像すればいい。だが、曲率では、次元が高くなれば変数が増える。また、熱方程式に相当する曲率を表す式を求めなければならない。曲率の変化を表す式、これこそがアインシュタインの直面した問題である。
ここで、自然な変化を表現する解析の道具にラプラシアン演算子がある。これを、ある点を中心とする小さい球面上の数量を平均化することに使う。熱伝導の場合、時間に対する温度の変化率は、ラプラシアンの符号を負にしたものに比例する。ちなみに、金融市場のオプションの値を決めるのに使われるブラック=シュールズ方程式の基盤となるメカニズムは、これと同じである。曲率の場合、これをリッチ・フローと呼ぶらしい。ハミルトンが提案したリッチ・フロー方程式は偏微分方程式である。すべての点のすべての方向で目的の変化率を求めるように、様々な方向の変化率を指定できる意味で、偏微分は有効である。ちなみに、マクスウェルの方程式は、電場と磁場を統一した偏微分方程式である。アインシュタインの方程式は、物質、空間の曲率、重力を結びつける意味で偏微分方程式で表す。流体の流れや熱伝導を支配する方程式も、量子力学のシュレディンガー方程式も、偏微分方程式である。ただ、偏微分方程式にはしばしば特異点が現れる。ハミルトンもこの悲劇からは逃れられない。三次元多様体では、リッチ・フローが特異点を与えることを証明してしまったのだ。ポアンカレ予想への証明は絶望かと思われた。

9. ペレルマン
ペレルマンは計量の階層という概念を持ち出す。大距離スケールでは互いに遠く離れているように見える領域どうしが、小距離スケールでは互いに近づいている可能性があるという。なんと、リッチ・フローが特異点に到達すると、大距離スケールでは別々の連結された部分の領域が隣接する可能性もあるというのだ。ここでは、時間の関数ではなく、スケールをパラメータとしている。数学者は、なるべくなら特異点を避けたいと考えるだろう。ペレルマンはリッチ・フローの特異点について徹底的に追求したという。そして、多様体内の空間が崩壊する寸前まで曲率が大きくなった時、予想外の規則性が生じることを発見した。なんと、特異点が発生した時点で、元の多様体から切り取って、同種の幾何構造を持たせることができるというのだ。特異点では、別の空間を連結させてフローを継続できるとでも言うのか?もしかしたら、これがブラックホールの姿で、この付近で多重連結でもされるのか?都合が悪くなったら多様体を自由に分割したり、合体したりして、なんとも幼稚園で積み木遊びでもしているように見える。ペレルマンは、その多様体が単連結ならば、リッチ・フローが曲率の極限を平坦にならしてくれて、元の多様体と同相な一定の正の曲率を持つ多様体が形成されることを証明したという。んー!ますます酔っ払いの見える空間はねじれていく。
ところで、肝心の宇宙の形はどうなるというのか?現在、多くの天文学者の観察が、宇宙の平均曲率がきわめてゼロに近いことを示唆している。宇宙物理学者の間では宇宙は平坦であるという意見が支配的だが、宇宙はわずかに正の曲率を持っているというのも否定できない。ただ、負の曲率を持っている可能性は、実験的証拠によって否定されているらしい。

2008-09-07

"プログラミングのための線形代数" 平岡和幸 & 堀玄 著

一日中、本屋で数学の本を立ち読みしながら頭の体操をした。んー!やっぱりタダ酒は美味い!本書は、線形代数を題材として、その概念を大切にしている。中でも、数学の道具として有効な行列式を扱っているところがうれしい。ただ、本書は立ち読みで済ませるには少々重たい。ちょいと腕が疲れたので買うことにした。
アル中ハイマーは大学時代に数学を挫折した。特に、ε-δ論法という殺虫効果の強い落ちこぼれスプレーを浴びせかけられると、ピクリともしなくなった。以来、原理の意味合いや過程を無視して、結果だけを使って誤魔化している。数学ができないことが、仕事の幅を狭くしていることは、今でも苦々しく思う。

コンピュータの世界は、ムーアの法則に従い高密度化や高速化が進むとはいえ、その分、高機能が要求される。仕事を容易にこなせるようにツールも進化するが、その分、複雑なアルゴリズムが要求される。人間は、ますます贅沢になるが、それに伴い仕事量も増えるようにできている。「働けど働けど、我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る。」これが労働の法則というものである。自然法則は、人間を永遠に努力させるように留めおくようだ。
おいらの主な業務は、LSIに内臓される電子回路の設計である。設計の基本方針は、分かりやすくするのが最も重要であると考えている。しかし、回路規模や処理速度によって制約を受ける場合も多い。画像処理などの複雑な演算では、いかに効率良く近似値を求めるかが鍵となる。実装の際には、計算量を減らすことも課題の一つである。こうしたアルゴリズムの検討では、数学の道具である行列式の恩恵を受けることも多い。だが、優れた道具を使っても、その変換系が発散してしまうのであれば、物の役には立たない。本書は、その判定を容易にしてくれる固有値と固有ベクトルの概念をわかりやすく説明してくれる。

一つの行列は、ベクトルからベクトルへの写像を示し、一つの変換系を表している。そして、行列の積は、写像の合成であり、変換系の合成とも言える。ここまでは簡単な概念である。だが、昔から連立方程式をまともに解くことしか考えなかったアル中ハイマーには、ブロック行列を使った解法で、行の入れ替えなど単なるご都合主義にも見える操作を繰り返すことによって、いつのまにか解が得られるのを見ると、なんとも魔法のように思えたものである。また、座標系も軸が直交するとは限らないし、内積は座標系が違えば値も変わるし、外積は三次元で扱うには便利であるが特異に思えた。本書は、空間感覚のない酔っ払いでも、行列式を空間に対応させてくれるところがありがたい。空間を引き伸ばせば、体積拡大率は大きくなり、密度が下がるといったことが容易にイメージできる。行列の演算は、Octaveのような数値演算言語を使えば、LU分解までも一発で計算できるが、本書はLU分解の意義も説明してくれる。

変換系は、それが発散するかどうかは重要な問題となる。もともとの対象が対角行列ならば問題はない。大抵の行列は乗算やN乗すると極端に複雑になる。ところが、うまい具合に正則行列を見つけて対角化できれば、発散するかどうかが判別できる。対角化さえできれば、演算数を大幅に減らし、実際に解ける可能性が出てくる。微分方程式も対角化できれば解ける。固有値の目的は、それを使って行列の対角化ができると見ることもできる。ある行列に固有値と固有ベクトルが求まる絶妙なケースが見つかれば、標準形に持ち込むことができる。ただ、おいらには固有ベクトルが複素数の領域になるとわけがわからない。
ニールス・アーベルの証明やガロア理論の結論では、5次以上の代数方程式の解は存在しない。これは、5x5以上の行列で固有値を求める方法がないということである。つまり、有限回の計算で固有値をピッタリ求める一般的な計算法が存在しない。したがって、コンピュータの計算では、相似変換を繰り返して徐々に対角行列に近づけていくという反復計算が用いられる。本書は、その近似法のアルゴリズムとしてJacobi法とQR法が紹介される。

対角という性質には、複雑な物事を単純化する何かがありそうだ。周波数解析で有名なフーリエ解析やウェーブレット解析では、直交性質を利用する。この数学の美しい性質が、波のゆらぎを観察するのに適しているのも偶然ではない。そして、酔っ払って千鳥足で歩くゆらぎ具合も解析されるのである。夜の社交場を見渡せば、行付けの店が、ことごとく「鴎外通り」から対角に配置されているのも偶然ではない。これも、くだらない精神を酔わせ、人生を単純化する効果がある。

2008-08-31

"ホーキング 虚時間の宇宙" 竹内薫 著

著者の本は何冊か読ませてもらっている。そのくだいた表現力には毎度関心させられる。おいらは、技術の話を人に説明する時、いつも悩まされる。大学では数式で誤魔化す先生も多い。ところが、著者はほとんど言葉で流すところが凄い。哲学や思想の領域まで踏み込まないと、分かりやすく表現するのは難しいだろう。学生の理系離れが叫ばれる昨今、こうした企画は貴重である。

アル中ハイマーには、量子論の世界はなんでもありなのか?と思えて仕方がない。真空で何もない空間に、都合よくエネルギー保存則が成り立つようにプラスとマイナスの粒子が突然発生し、更に都合よく、ブラックホールになるかならないかの境界線で、プラスとマイナスが分かれて、一方は放射し、一方は吸い込まれる。これ全て不確定性で片付けられても、酔っ払いには「飲みが足らん!」と言われているようである。アインシュタインですら、量子論には抵抗感があったというから尚更である。更にホーキングは、実時間では特異点に始まり特異点に終わると言われる宇宙も、虚時間という概念を持ち込んで、特異点を無くしてしまい、宇宙の境界線すら消してしまう。天才が考えることは、どこかブチ切れている。地球表面上に住む人間は、地球の果てを求めて探検しても、その果てを見つけることはできない。これは、平面上を歩いていると信じていても、実は球面上を移動していることを知らずに、境界の無い世界をさまよっているようなものである。実数の指数関数も、虚数の概念を持ち込めば、複素平面上をぐるぐると回る。そもそもマイナスとマイナスを掛けるとプラスになるという発想は、人類のご都合主義によるものなのだろうか?むしろ、虚数の世界にこそ、自然法則が顕になる何かがあるのだろうか?人類は、実存論への答えすら見つけられず、空虚な世界をさまよう運命にあるようだ。
実は、おいらも虚時間を体感している。行付けの店に入り込めば、ブラックホールに落ちるかのようにアルコールによって分子レベルまで分解される。そして、気づいた時には亜空間な別の店に存在する。その店間経路は、虚時間によって受け継がれることにしなければ説明がつかない。

スティーブン・ホーキングは、「車イスのニュートン」と呼ばれ、ニュートンが在職したルーカス職の数学教授を勤めた。彼はALS(筋萎縮性側索硬化症)という不治の病にかかったことでも有名である。ALSは、発病すると手足の自由がきかなくなり、話すことも食べることも呼吸さえも困難になる難病である。発病当初は余命数年と宣告されたという。しかし、彼は前進を続け現在も活躍する。発病した頃、最愛の女性と結婚し三人の子供をもうけ、巨大な富を得て、そして、離婚、再婚と波乱万丈である。
科学者の世界には、二つの相反する研究態度がある。それは、実在論と実証論である。自然現象を、なんらかの物理的存在理由があると考えるか、あってもなくてもいいと開き直るかの違いである。ホーキングは典型的な実証論者のようだ。その理論を分かりにくくしている原因がこの思想にありそうだ。彼は、自分の研究の利点を強調する時に、他人の欠点を嘲笑うことが多いという。頭にくると電動イスで相手の足を轢いてしまうという逸話がたくさん残っているらしい。
本書は、ホーキングの研究論文は、一貫してアインシュタインの正統な後継者を思わせるものがあると語る。彼は、アインシュタイン理論をブラックホールや宇宙といった対象にあてはめた。そして、相対性理論に量子効果を加味した考察が特色である。本書はこの言葉から始まる。
「ホーキング博士によれば、ブラックホールは、本当はグレーホールであり、つまり、熱くて周囲に放射を出しているのであり、時間が経つと蒸発して消えてしまうのだそうである。」
通常の物質は、いろいろな分子からできていて、色や堅さといった属性を持っている。ところがブラックホールは、質量、電荷、角運動量といった属性しか持たない。では、ブラックホールに落ちた情報はどこへ行くのだろうか?存在し続けるのか?永遠に失われるのか?2004年ダブリン会議でのホーキングの講演はこうした問題を扱っていた。ホーキングは、アインシュタインとファインマンを足して2で割ったような人だという。アインシュタインの重力理論に、ファインマン流の経路和をつかった量子論を利用するからである。歴史的には、理論物理学者は相対論派と量子論派に分かれる。現代物理学の懸案は、重力理論と量子力学を統一して、量子重力理論を構築することである。そのアプローチに、どちらから迫るかという選択がある。「超ひも理論」の素粒子物理学者は、量子力学からアプローチしたものである。ホーキングは重力理論からアプローチする。そして、異常なほど宇宙の始まりについて固執する。まるで旧約聖書に反論するかのように。

1. 相対性理論
相対性理論では、時空という概念がある。単に時間と空間を一緒にしたものではなく物理的に混ざったりする。また、数式だけでは理解し辛いので、ビジュアル的に捉えられるように時空図が考案されている。時空図は、三次元で表現され、縦軸の時間に対して、二次元平面の空間を表す。本書も、この時空図を使って説明してくれる。また、幾何学単位系を用いてできるだけ省略する。(光速cを1とし、ニュートンの重力定数Gを1とし、プランク定数hも1とする)本書は、アインシュタインは物理学を幾何学としてとらえたが、その精神からするとあらゆる物理量の単位をなくして、純粋な数字であつかう方が自然なのだろうと語る。ちなみに、特殊相対性理論は、特殊な座標変換に対して物理量は不変であると主張する。対して、一般相対性理論は、光速を固定する。どんな変換系であろうと、どんな空間であろうと光速が変化しないということは、時間と空間の方が伸び縮みするということである。アインシュタイン理論では、空間の曲率は物質の質量に比例するので、平らなユークリッド空間からズレが生じる。つまり、空間が曲がっているということは、物質が存在するということと同義である。

2. 特異点を追求した科学者たち
(a) カール・シュヴァルツシルト
シュヴァルツシルトはブラックホールの半径を計算した。彼は重力場を記述する特殊解を見つけ、ブラックホールの存在を示唆した。これは「シュヴァルツシルト半径」や「事象の地平線」と呼ばれ、時間が消えて空間が無限大になる境界線である。通常の星では、シュヴァルツシルト半径は星の半径よりも十分小さいので、星の内部に隠れる。
(b) スブラマニアン・チャンドラセカール
重い星は自らの重力によって収縮し潰れるはずである。しかし、量子論では星が潰れるのを防ぐ面白い法則がある。それが「パウリの排他律」である。同じ状態にある電子どうしをくっつけることはできないということがわかっているらしい。つまり、重い星がある程度まで収縮すると電子どうしが接近して反発するようになる。パウリの排他律とは、電子どうしが互いに排他的になるという意味である。しかし、チャンドラセカールは、太陽の1.4倍より重い星の場合、パウリの排他律による反発力でも支えきれずに星が潰れてしまうことに気づいた。星が収縮し続けると、いずれシュヴァルツシルト半径という魔の領域に到達するかもしれない。すると、時間が消えて空間が無限大になるような時空の境界線が、星の外部にはみ出してしまう。
(c) ハートランド・スナイダー
光は音波と同じように遠ざかると周期が間延びするので、星が収縮している間は光波も間延びする。しかし、ある程度収縮すると光波も安定する。ブラックホールが「凍りついた星」と呼ばれる所以である。ところが、星の表面で観測すると別の光景が待っている。観測者にしてみれば、シュヴァルツシルト半径を超えたとしても、それを感じる徴候は何もない。そこでは、重力もさほど強くなく、空間に亀裂が入るわけでもない。観測者の時計が止まることもない。しかし、一旦シュヴァルツシルト半径の内側に入ったら、そこから脱出することはできない。観測者は、どんどん中心に向かって落下しつづけることに気づくだろう。やがて、観測者は左右から押し付けられ、上下に引き伸ばされる力「潮汐力」を感じる。そして、身体もバラバラになり分子レベルまで分解され点にまで潰される。スナイダーは、シュヴァルツシルト半径が後戻りできない線であることと、遠方からは凍りつく場所であることを示した。シュヴァルツシルト半径では、光でさえ脱出できない。
(d) ロジャー・ペンローズ
魔の境界線は消え去っても、ブラックホールの芯が残る。この芯こそが特異点である。特異点といっても、大きさがゼロの点で、物理量が定義できるわけではない。物理学者はこの特異点に悩まされる。分母にはゼロを与えられない。ここで本書は、地球儀を使って、おもしろい特異点の話をしてくれる。地球儀は、どこの都市でも緯度と経度という座標系で場所を特定できる。しかし、北極と南極は特定できない。緯度が90度でも経線が集中する。これも、緯度線と経度線という座標系に潜む特異点である。では、シュヴァルツシルト半径の数学的特異点とは、座標系がまずいのであって、適した座標系に変換すれば除去できるのだろうか?どんな座標系でも除去できない本物の特異点がある。それは、温度や圧力、空間の曲がり具合といった物理量自体が無限大になる点である。ペンローズが証明したのが、まさしくこの本物の特異点の存在である。ブラックホールの芯では、そこで物理が終わってしまう。時間と空間の終わりである。
(e) ホーキング
ホーキングは、ブラックホールになる仮定を時間反転して、宇宙の始まりは特異点であり、ビッグバンから始まる宇宙論を証明した。ただし、ホーキングの特異点原理は、アインシュタインの重力理論が前提である。もし、アインシュタインの理論が間違っているとしたら、この証明は学術的意味を失う。ここで微妙なのが、宇宙の初期状態では、アインシュタインの重力理論は成り立たないと考えている物理学者が多いことである。
ホーキング曰く。「特異点定理は、必ずしも時間の始まりがあったということではなく、アインシュタインの重力理論だけでは、宇宙の始まりは扱えないことを意味している。」

3. ホーキング放射
ホーキングの計算によると、シュヴァルツシルト半径はブラックホールの質量に比例するという。そして、ブラックホールの面積は質量の二乗に比例し、ブラックホールの温度は質量に反比例する。つまり、熱いブラックホールは軽く、冷たいブラックホールは重いことになる。ホーキングは、ブラックホールが周囲に熱を放出する割合を求めた。これが「ホーキング放射」である。通常、星が崩壊してできたブラックホールは、最低でも太陽の質量の1.4倍が必要で非常に冷たい。通常のブラックホールは周囲の宇宙の温度よりも圧倒的に低い。だから、周囲から吸収する熱の方が、放射する熱よりも大きい。だが、宇宙が膨張しつづけると宇宙の温度はどんどん下がり、いずれブラックホールの温度は宇宙の温度よりも高くなるだろう。その時点から、熱の流れが逆転し、ブラックホールは熱とエネルギーを放出し始める。周囲からエネルギーを失うにつれて、ブラックホールは軽くなり熱くなる。そして、ほとんど絶対零度に近い宇宙空間でブラックホールだけがどんどん熱くなる。やがて、エネルギーを放出し続けると、しまいには質量はゼロになって蒸発してしまうという筋書きだ。だが疑問は残る。光さえ脱出できないのに、なぜ放射できるのだろうか?その答えは量子論の不確定性原理にあるという。いよいよ、やっかいな「ハイゼンベルクの不確定性原理」が登場する。ホーキング放射のメカニズムでは、まず、シュヴァルツシルト半径の近辺で粒子と反粒子が生成され、そのどちらかがブラックホール内に落ち込み、残された方が遠方へ逃げていくという。この粒子と反粒子は、ともに量子であり互いに反対の電荷をもち、短時間だけ存在してやがて衝突して消えるもので、仮想粒子と呼ばれる。本来、真空には何も存在しないが、エネルギーと時間の不確定性により、極めて短時間でエネルギーが「ゆらぐ」ことが可能だという。真空ではエルギーがゼロだから、粒子が一つ生成されるのであれば、エネルギー保存則が成り立たない。そこで、ペアでならプラスとマイナスで「ゆらぐ」ことが可能というわけだ。シュヴァルツシルト半径の外では、粒子と反粒子はすぐに衝突して消えてしまう。しかし、境界線では、都合よく内側に生成された方が特異点に向かって落ちていき、残った方は自ら消えることができないので外へ逃げていく。こうして、ブラックホールから粒子が放射されるように見え、ホーキング放射として観測されるという。ただ、放射される側は、プラスのエネルギーと決まっていて、特異点へ落ちるのは必ずマイナス側というのも奇妙な話である。
そのことについてホーキングはこう語っているという。
「ブラックホールの内部の重力場は極めて強いので、その中では実存粒子でさえも負のエネルギーをもつことができる。」

4. ファインマン流の経路和
物体の移動では、経路の足し算をすることはない。移動の経路は一つだからである。しかし、電子や原子のようなミクロな世界では、あらゆる可能な経路の足し算をして確率を求める。それも、複雑過ぎて確率論に持ち込まないと議論できないからである。学校教育では、光子の入射角と反射角は等しいと習うが、実際は光子の経路は無数にある。足すといっても、方向があるからベクトル演算である。光子の場合は方向を考慮すれば良いが、それ以外の量子となると複雑である。電子は運動エネルギーの他に位置エネルギーも考慮しなければならない。ここでも、位置と運動量の二つの情報は不確定性に支配されるという。量子論の世界では、光は直進するという古い考えを捨てなければならないようだ。ファインマン流に言えば、次のようになるという。
「不確定性原理はもはや原理ではない。それは経路和という原理によって導かれる一つの結果に過ぎない。」
経路和は量子の波動性を示す。もともと粒子と波動の違いは、重ね合わせることができるかどうかである。つまり、干渉効果があるかどうかである。ベクトルが同じ方向を向いていれば強調し、互いに逆方向を向いていれば打ち消しあうのも、波動の性質と言える。ファインマンの矢印である確率振幅は、波動関数と呼ばれることも多いという。但し、量子は粒子性もある。その挙動は確率的な推測しかできず不確定性に支配される。これが量子の本質のようだ。

5. 無境界仮説
古典的には粒子は壁を通り抜けることができないが、量子的には壁を通り抜ける可能性がある。これがトンネル効果である。この通り抜ける確率を表したのが波動関数である。ホーキングは、経路和を使って宇宙の波動関数を計算してみせたという。ところで宇宙に経路なんてあるのか?とりあえず、宇宙の始点をビッグバンとし、終点はビッグクランチとする。その間には、曲率がプラスだったりマイナスだったりと、様々な形をした宇宙がある。宇宙の違う経路とは、アインシュタインの重力理論による空間の曲がり具合ということである。また、空間に存在するあらゆる物質の分布状態も考慮する。そして、ビッグバンから始まったあらゆる空間の曲がり具合と、無数の物質の分布状態を足し算することによって波動関数を求めるという。無数といっても、現実には多数で近似する。その近似方法に、宇宙は「均一」で「等方」であると仮定する。だが、こんな計算が本当にできるのか?学術的に意味があるのか?天才が考えることは神がかりである。更に、ホーキングは特異点すら除去しようと、恐るべき提案をする。
「宇宙の波動関数の境界条件は、境界がないことである」
そもそも境界条件を与えないで、波動関数が得られるのか?どうせ量子重力理論は完成していないので、量子効果によって特異点が消滅するなんて証明できないから、なんでもありなのか?ビッグバンの最初の特異点は尖った点であるが、これを丸く均すことを考える。これは、数学のトリックを使って、時間を虚数にすることで実現できるという。実時間では空間と時間が区別できるが、虚時間では空間と時間の区別ができない。これが、本書では時空図で説明され、なんと!特異点が丸くなっちゃった。言いかえると、密度も温度も無限大という「時間の始まり」は存在しない。では、ファインマンの経路和を宇宙に当てはめる時、なぜ実時間ではNGで、虚時間ならOKなのだろうか?本書は虚数の指数関数を用いて説明する。通常の指数関数はプラス方向に急激に増大する。しかし、虚数の指数関数は波の性質がある。具体的には三角関数でオイラーの公式に従う。実数を虚数にするだけで、急激に増大するものが、くるぐると回る永遠のループになる。ところで、虚時間という概念に何の意味があるのか?ここで重要なのがホーキングの実証論者という哲学的立場である。

6. 超ひも理論
ブラックホールはあらゆる物質やエネルギーや情報を呑みこんでしまう。そして、やがてホーキング放射によって蒸発して消滅する。その際、落ち込んだ情報はどうなるのだろうか?相対論派は、ブラックホールに落ち込んだ情報は回収不能で、蒸発する時に一緒に消滅すると主張する。量子論派は、蒸発する時に元の情報を回収できると考える。この論争の解決策は「超ひも理論」にあるという。超ひも理論では、宇宙のあらゆる物質は、素粒子よりも小さい「ひも」からできていると主張する。そして、「ひも」の様々な振動状態が素粒子に見えるという。「ひも」は、ひも状になったエネルギーという意味のようだ。「ひも」はあまりにも小さいので、数学的にはブラックホールと同等に扱うらしい。そして、物質のエネルギーや情報がブラックホールに落ちこむ際、その全情報は「事象の地平線」にコピーされて残るというのだ。ブラックホールが持っている情報は、その表面積に比例するのである。ただ、ホーキングは情報が消えるという結論に飛びついてしまったという。本書は、ホーキングもアインシュタインと同じく重力理論の影響を強く受け、量子論を受け入れられなかったようだと語る。