2020-05-31

"美術という見世物 - 油絵茶屋の時代" 木下直之 著

現代感覚から外れ、価値観体系からも外れ、世間から置き去りにされつつも、今尚ここに存在し、何事かとつぶやき続ける人たちがいる。文壇にも、ネット社会にも、オワコンと揶揄される域に...
古典の中にも、何千年も生き長らえるコンテンツが数多ある。どこにいてもコメントの嵐が吹き荒れる社会にあっては、こうした物静かに語ってくれるものに癒やされる。もはや、どちらが揶揄されているのやら...

木下直之氏は「近代」という用語に苦言をもらす。意味もよう分からん!と。この美術史家の攻撃対象は、近代美術館である。「近代」を名乗って一番大きな顔をしているのが、文学館でも音楽館でもなく、美術館であると...
そういえば、「近代美術館」と称する施設をあちこちに見かける。「近代」という用語がもてはやされたのは明治維新から間もない頃、急速な工業化とともに庶民も西洋かぶれしていく。漱石の「坊っちゃん」に登場する赤シャツも、その象徴のような存在。いわば、近代化が西洋化の代名詞とされた時代である。
その近代化の波に乗った庶民文化の一つに、油絵茶屋というものがあったそうな。西洋風のお茶をしながら、美術品を嗜む見世物小屋である。見世物というからには、それを大袈裟に演出するナレーション付き。芝居絵や浮世絵などを西洋伝来の油絵で描き、芸達者な口上とともにコーヒーや紅茶をやるのが、近代的なお洒落というわけである。無声映画の時代には、活動弁士という職業があったと聞くが、その類いであろうか。
やがて、けたたましい口上は姿を消し、静粛な空間の中に作品が閉じ込められていく。政治的な制度化にともない、「近代美術」という篩にかけられ、選ばれし作品だけが美術館の中で生き残っていく...
「それはまた、美術という言葉でくくるために、美術と呼んでもよかったかもしれないものを切り捨ててきた歴史でもある。」

アカデミズムな評価ってやつは、杓子定規なところがあって、趣向を凝らした技術を埋もれさせることがある。権威的であるが故に、遊び心を見落とすばかりか、見下しがち。基準から外れたアウトローたちは、その時点で消される運命にある。いつの時代も...
芸術は自由精神によって支えられ、遊び心のない自由ほど味気ないものはない。見世物小屋で技を競い合った連中は、実に多彩だったようである。油画師や彫刻師のほかに、曲芸師、軽業師、足芸師がいて、籠細工師、貝細工師、紙細工師、瀬戸物細工師、ギヤマン細工師、生人形師までも勢揃い。技を競うということは、自由を謳歌するということか。
本書は、こうした文化史の中に埋もれてしまった技を、美術の観点から再発掘してくれる。そのために、人間の本性を曝け出してしまう。見事なほど滑稽に。芸術とは、もともと滑稽に発するのやもしれん。社会への反抗心や体制への批判を、間接的にやんわり表現しようとすれば、皮肉っぽくもなろう。芸術と皮肉は、すこぶる相性がよいと見える。これが批判哲学の心得というものか...

油絵茶屋の時代というのは、近代化の波が大衆性や娯楽性と相俟って愛国主義を旺盛にさせていき、やがて訪れる国粋主義の時代を予感させる。それは、美術家たちがリアリズムやパノラマへ心酔していく様子に見て取れる。リアリズムを追求すれば、歴史を正確に描きだせそうなものだが、本書は、それは逆であろうと苦言をもらす。リアリズムに徹するほど、現実がたくさんの小さな事実に分裂してしまい、歴史の全体像はかえって崩れてしまう、と。特に戦争を描く時は、リアリズムを抑えなければならない、と。小さな事実を集めて大きな嘘をつくのでは、本末転倒。
「文字通りに観客を画中に入れてしまおうというパノラマの工夫は、リアリズムを愚直に追求していったひとつの到達点であった。大袈裟にいってしまえば、想像力の放棄はリアリズムの宿命である。」

大衆は、分かりやすいもの、見たまんまのもの、身近に感じられるものに群がり、テンポのいい口上に引き込まれやすい。それは、ある種のプレゼンテーション技術である。これらが集団性と結びついて熱狂的に受け入れられた時、奇妙な愛国主義を旺盛にさせることは、ゲッペルス文学博士が見事なほどに実践して見せた。
こうした傾向は、現在の高度化した情報社会とて同じこと。いや、より旺盛にさせているやもしれん。大衆は、より刺激を欲し、迫力ある映像を求める。真実よりも、分かりやすく真実っぽいものを求める。長文や難解な文章は昔から敬遠されてきたし、カントの三大批判書のようなものが大衆化することは永遠にあるまい。
そして、見えなかったものが見えるようになった分、見えていたものが見えなくなる。視界が相殺されれば、同じこと。大衆は、自分で思考することがよほど面倒くさいと見える。そして、この文面が現代社会への苦言にも映る...
「私は先に、床の間に掛けた山水画の効能についてふれた。それは縦に切り取られた小さな風景のはずだが、静かにそれを眺めるだけで画中に遊べるのだとしたら、そこでは、何よりもまず観客の想像力が要求される。もちろん無意識のうちにである。ところが、パノラマは逆に、想像力の放棄、一種の判断停止を観客に強いるはずだ。視野を限定しない画面は、観客の視覚を麻痺させてしまうからだ。それは、日常生活において、睡眠以外の時間はいつも目を開けたままなのに、ほとんど何も見ていないことに似ている。見るためには自覚が必要で、そのためには額縁のような枠が必要なのである。」

ところで、「生人形」に関する言及が、妙に目につく。こいつの読みは「いきにんぎょう」とするのが一般的なようだが、あえて「なまにんぎょう」としている。この方が、なまなましさが伝わるってか。確かに、インパクト大!奇妙なリアリズムをさらけ出し、まさに滑稽なほどに。松本喜三郎の「貴族男子像」あたりを見せられた日にゃ...

2020-05-24

"解析入門30講" 志賀浩二 著

数学の落ちこぼれを癒やしてくれる数学の書とは、こういうものをいうのであろうか。「数学30講シリーズ」は、群論に続いて二冊目。群論という巨大な要塞も三十にも分解しちまうと、軽やかな調べのように流れていく...

ここでは、微分と積分にまつわる物語。この二本を柱とする解析学の世界に一歩足を踏み入れると、底しれぬ数学の深海へ引き摺り込まれる。測度論、直交関数論、ポテンシャル論、変分法、調和解析... 等々解析学という名で包括される分野は計り知れず、集合論、確率論、整数論、幾何学などの研究にも解析的な方法が用いられる。この学問分野をどのように捉え、どのように接するかは、その広大さからして十人十色。おいらの目には、近似法の具体的な手段を提供してくれるツール群に映る。電子工学や通信工学では、多項式や微分方程式の類いによく遭遇するが、その解決策として...
フーリエ変換にしても、テイラー展開にしても、マクローリン展開にしても... コンピュータの物理構造は、冪級数と三角関数に看取られているようで、その背後にオイラーの影を感じずにはいられない。
ちなみに、おいらには、数学は哲学である... との信条がある。なぁーに、落ちこぼれの遠吠えよ...

さて、本書で注目したいのは、斉次多項式と C- 級関数の存在感を示してくれることである。前者では、解の全体がベクトル空間を形成することで群論に通ずるものを匂わせ、後者では、何回でも繰り返し微分することで循環性の威力を魅せつける。
ここで鍵となる数学の性質は、「連続性」ってやつだ。数直線上を埋め尽くすには有理数だけでは不十分だが、人間社会に登場する無理数は有理数で限りなく近似できる。近似では、循環小数という有理数の性質も非常に役立つし、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽したのも分からなくはない。だが、彼らが崇める図形、すなわち、正方形の対角線や真円の弧に出現すれば隠しおおせるものではない。無理数は連続性を補完する存在なのか、それとも、有理数が特異な存在なのか...

そんなことはさておき、関数が連続とはどういうことであろう。その定義では、あの忌々しいε-δ論法風の記法が示されるが、なんの抵抗感もなく、すんなり頭に入ってくる。

「f(x) が a で連続
⇔ どんな正数 ε をとっても、ある正数 δ で、
  |x - a| < δ ⇒ |f(x) - f(a)| < ε
を成り立たせるものが存在する。」

それは、微分可能か?積分可能か?最大値と最小値の存在は?といった問いに対する一つの答え。最大値と最小値の存在保証が叶えば、平均値の定理が輝きを放つ。
しかしながら、連続関数であっても微分不可能な奴らがいる。株価のランダムウォークを思わせるワイエルシュトラス関数、直角にくねるペアノ曲線やヒルベルト曲線、あるいは、フラクタルな世界にも病的な奴らが多くいやがる。この酔いどれ天の邪鬼には、連続性には程度というものがあるように見えてならない。無限という概念に、濃度(アレフ)という格付けめいたものがあるように...

そして、微分可能と積分可能とでは、必ずしも一致した見解ではなくなる。何事も現象を客観的に観察しようとすれば、より近づいて観る眼と、ちょいと遠くから眺める眼の両方が要請される。微分は、対象となる点に限りなく近づく視点。積分は、その点から距離を置く大域的な視点。
本書は、微分の視点に「一様収束」、積分の視点に「一様連続性」という用語を使い、それは妥協を模索した表現にも映る。
区間を指定するリーマン積分は、連続性が前提される。最初に定式化した人物の名に因んでいるだけで、最も馴染みのある形式である。
一方、抽象化の一歩進んだルベーグ積分は、非連続性を内包している。では、非連続性はどの程度まで許容できるのか。非連続部を加法的に連結すれば、いくらでも積分範囲を広げられるし、これを近似しようと思えば、いくらでも矩形で細分化すればいい。アルキメデス風の取り尽くし的な発想だ。
微分の場合は、より厳密性が要求されるが、積分の場合は、大雑把な傾向を観察するだけでもかなりの情報が得られ、大胆な加法が用いられる。それで用途に耐えうるかどうかは、当事者の眼に委ねられる。実際に物理現象を分析する際、微分における初期値の決定と積分における範囲の決定は、いつも悩ましい。そして、最終的な解決法は... 数学屋さんへボトルの差し入れよ。

そもそも、物理現象と微積分との相性の良さは、ニュートン力学の基本法則が微分方程式で記述されることにある。

 ma = m   d2x

 dt2 
 = f

それは、時間 t に幽閉された世界。とはいえ、時には、時間が不連続であることが心を癒やしてくれる。時には、記憶の曖昧さが幸せにしてくれる。しかも、時間や記憶の連続性は、アルコール濃度に比例して分解できるときた。
コーシー・アダマールの定理で収束半径を厳密に求めるのもいいが、境界線は少しばかりガウス関数でぼかした方がいい。不定積分を求めるにしても、有理数を部分分数に分解しておけば、なにかといいことがありそうな。
なにごとも近似で誤魔化す酔いどれ人生!なるほど、解析学とは、人生を測量するツールであったか...

2020-05-17

"グーグルに学ぶディープラーニング" 日経ビッグデータ 編

脳を模倣する計算機アルゴリズムの研究は、古くからある。1950年頃には、サイバネティックスという概念を提唱したノーバート・ウィーナーが「人間機械論」を書し、ノイマン型と呼ばれるコンピュータの基本原理を考案したフォン・ノイマンは「自己増殖オートマトンの理論」を提示した。「人工知能」や「ニューラルネットワーク」という用語も登場して久しい。そういえば、おいらの学生時代、ゼミの研究テーマに人工知能言語として Prolog を選択する学生がいた。もう三十年以上前かぁ...
ウィーナーやノイマンの後に訪れた AI ブームが第一次だとすれば、おいらの学生時代が第二次ブームで、「ディープラーニング」という用語が巷を騒がせている今が、第三次ブームということになろうか...
人間をこしらえたのが神かどうかは知らん。が、人間が人間を模倣するという夢は捨てきれないと見える。それは、人間が人間自身の正体を未だ知らないということであろう。その都度、挫折感に屈っしながらも、新たな概念が登場してはブームの火付け役となる。
そして再び、新たな用語の入門の入門書を手に取るのであった...

さて、ディープラーニングってなんだ?
こいつの仕組みをまともに説明できる人は、あまり見当たらない。日本語では「深層学習」と訳され、「機械学習」よりも賢そうか。おまけに、ブラックボックスとして振る舞い、結果に至る過程を一切見せてくれない。人間が見ても理解できんよ!と言わんばかりに...
与える餌は、入力データと出力結果という組み合わせだけ。この対パターンを大量に喰わせることによって、思考プロセスを勝手に組み立てる。なので、初期段階では、呆れるほど馬鹿な結果を示すが、喰えば喰うほど賢くなっていく。人間が思考プロセスを与えないということは、人間を超えた思考プロセスを形成する可能性があるってことか。ディープラーニングは、データハングリーな怪物か。
実際、囲碁や将棋などで人間を超えた思考能力を見せつける。過去の棋譜データを大量に喰わせ、勝敗の結果だけ教えてやれば、あとは未来志向でより有効なパターンを自動的に編みだす。この学習モデルは、教師あり、教師なし、といった状況を使い分ける人間の学び方に似ている。ただ、人間の方は、経験や知識に対して忘れっぽい上に、都合よく歪めて解釈する傾向にある。AI に解釈という概念はあるのだろうか... 解釈とは、自己存在を意識した時に発する心情であろうか... 主観と客観の境界面は、自己存在という意識との関係から生じるのであろうか...

では、ブラックボックスの中身はどうなってんだ?
本書は、人工知能、機械学習、ニューラルネットワークというキーワードから、ディープラーニングの像をおぼろげに映し出す。「人工知能」を知識の求められる処理をするコンピュータと定義するなら、「機械学習」の位置付けは、人間がプログラムするのではなく、コンピュータが自動的に判断する基準を作り上げていく学習モデルといったところ。
そして、「ディープラーニング」とは、機械学習の一つの手法で、ニューラルネットワークを多層に積み重ねた処理モデルのことを言うらしい。判断の数、すなわち、分岐点の数だけ人工的なニューロンを配置し、ブラックボックスの外から入力データと出力データのパターンを与えれば、あとは最適なニューロンの伝達経路を自動で探りにかかる。
例えば将棋であれば、ニューロンの数は勝敗が決まる手数以上は必要となろう。実際は最善手よりも悪手の方がはるかに多いので、手数の何百倍にも、何千倍にもなりそうだが、経験データの蓄積によって最適な経路を効率的に見つけ出すという寸法よ。また、入力データと出力結果の組み合わせを作りやすい分野に金融業界があり、ポートフォリオ戦略などで最適化モデルが実戦投入されていると聞く。

ところで、個々のニューロンの構造は、単純である。シナプスのような一方向の神経伝達系が、ニューロンとニューロンを結びつけるといったモデル。仮想的な分岐点であるニューロンを判断に必要なだけ多段に配置すれば、人工的な判断力モデルが形成できる。要するに判断とは、複雑な条件の積み重ねというわけである。人間が書くプログラムの原理にしても、条件付き分岐命令の羅列と多重化したデータ構造の組み合わせでだいたい説明がつく。ブラックボックスは、ニューロンの数を多く配置するほど賢くなる可能性があるというわけか。いや、ニューロンの数を自ら増殖させることだってできそうだ。それは、コンピュータの性能とリソースの豊富さにかかっている。
そして、あのテレビドラマのフレーズが頭をよぎる。
「人生は分岐点の連続である。」... 素敵な選TAXI
ドラマと違って過去には戻れそうにない...

本書は、タイトルで表明しているように、G さんの取り組みを紹介してくれる。会話をしながら人間をサポートする Google Assistant や、合成音声やピアノの曲も作成できる DeepMind の WaveNet など。
個人的には、G さん翻訳をよく利用していて、近年、そこそこ使えるようになってきたと感じている。ちなみに、Let it go! を翻訳機にかけると、現時点では「手放す!」という答えが返ってくるが、「アナと雪の女王」の主題歌 "Let it go!" の邦題が「ありのままに」と訳したデータが大量に出回れば、そうした柔らかい翻訳もできるようになるという。
また、ディープラーニングの成果を手軽に使える機械学習の API やライブラリも紹介してくれる。しかも、Python で書けば簡単に利用できるとか...

  Cloud Vision API: 画像認識や画像分析
  Cloud Speech API: 音声からテキストへ変換
  Natural Language API: 自然言語処理
  Translate API: 数千の言語ペアを動的に翻訳

しかしながら、ディープラーニングは万能ではない。得意な領域もあれば、不得手な領域もある。データが少なかったり単純なデータばかりだと、素直に丸覚えするだけ。見たことのないデータに出会えば不自然な結果を導く。
ツールの使い方ってやつは、人間がツールに合わせるか、ツールを人間に合わせるか、という問題がいつもつきまとう。いかに、概念的なものや構造的なものを理解した上で活用できるか... 元来、道具とはそうしたものだ。
例えば、AI の活況な実験現場として、自動運転システムがある。近年、トヨタが実証都市「Woven City」を立ち上げたことが話題になった。富士山の麓に、自動車社会の近未来都市を作るというものだが、閉じた社会ならば、住民の意識も浸透しやすく、成果はそれなりに期待できるだろう。しかし、このモデルをすべての都市に適応できるかは疑問である。都市の多様性は、想像以上に手ごわい。それは住民の意識格差として現れるだろう。近未来社会とは、ツールが人間どもを奴隷にする社会を言うのかもしれん...
ちなみに、自動運転技術では、Google から分社化した Waymo の実証実験もよく話題になる。Google ストリートビューの発明者が主導する会社だ。
いずれにせよ、AI の活用による人的犠牲は計り知れない。いや、人間がやっても同じことか。いやいや、同じ失敗を繰り返すかどうかの違いは大きい。完成までには、多少の失敗にも目をつぶる。少なくとも、完成までの期間は人間よりもはるかに上だし、統計的な犠牲者は、期間と相殺させるかもしれない。こうした分野では、失敗データの蓄積がものを言いそうである...

ん... 個々のニューロンの構造が単純でも、複雑な多重階層モデルとなると、やはり得体の知れない存在となる。ただ、得体が知れないから、惹かれるということがある。得体が知れないから、過剰な期待をかけるということがある。そして、分かった気分になれれば、幸せになれる。これも人間の性癖というものか...
人間は、人間を奴隷にするのが得意な動物である。いや、自ら望んで奴隷になる場合すらある。おいらは M だし。アリストテレスが唱えた生まれつき奴隷説もうなづける。
そして、AI によって人間を模倣し、AI を奴隷にしようったって、そうは問屋が卸さない。人間が奴隷制度に目くじらを立てる理由の一つに、人間の奴隷になることへの拒否反応がある。同じ種の奴隷になることへの。ならば、みんなで人間ではない存在の奴隷になるというのはどうであろう。これぞ実現可能な平等社会!ビッグデータの活用法で悩んでいる人間どもを尻目に、AI が自由気ままに人間どもを活用して問題を解決してくれる社会。AI に雇用をもっていかれて、なんの不都合があろう...

では、人間は何をする存在になるのだろう。過程を放棄した人間とは、いったいどんな存在なのだろう。人間は、退屈病を恐れる。入力情報から結果が得られる便利なブラックボックスを手に入れたがために、逆に、結果よりも過程の方に意義を求めるようになる。人生は結果ではない。生きている現実の連続である。人間を模倣しようとしたがために、ますます人間というものを考えさせられる。AI は、人間を哲学者にしようというのか。ブラックボックスの中身を理解できない限り、人間は永遠に人間というものを理解できそうにない...

2020-05-10

"ハインリッヒ・ヘルツ" Michael Eckert 著

今日の情報社会において、馴染み深い物理量の単位といえば、空間の概念と結びつく bit や、時間の概念と結びつく Hz といったところであろう。物理層における通信プロトコルでは二進対数に重要な意味を与え、これらを単位とした帯域幅やスペクトル効率などが論じられる。
言うまでもなく、Hz はハインリッヒ・ヘルツに因む周波数の単位だが、その業績となるとあまり知られておらず、単位名だけが独り歩きをしている感がある。ヘルツは、電磁波の発見によって不滅の名を残し、電磁気学で大きな役割を果たした。しかしながら、この方面では、電磁誘導のファラデーや方程式の名をかざすマクスウェルの方がはるかに有名である。

物理法則は、理論と実験の両輪によって成り立つ。ファラデーやマクスウェルは理論家で、ヘルツは実験家。こと電磁波の研究では、実験そのものは電気的な火花をたどるという地味な作業の繰り返し。ヘルツが生きた19世紀は、まだ電気の正体すら分かっておらず、電子という物質的な概念もない。光電効果や火花放電といった現象は、謎のまた謎。19世紀が終わろうとする時、ようやく電気照明が街を灯し始めたという次第である。
エーテル説がくすぶる中、マクスウェルはエーテルの存在を証明しようとして、あの有名な四つの方程式を導いた。これを実験で検証し、今日のエレガントな形で伝えられるのも、ヘルツのおかげである。彼は、マクスウェル方程式を異なった形で表現し、「磁気力と電気力は相互に交換可能である」と主張する。そして、こんな言葉を残したという...
「マクスウェルの理論とは何かという問いに対して、マクスウェルの理論とはマクスウェル方程式の体系である、ということほど簡潔で的確な答えは知らない。」

しかしながら、ヘルツ亡き後、ドイツでは狂信的な国家社会主義が旺盛となり、先祖がユダヤ系であったために、Hz という単位名はヘルムホルツの略字とされ、その功績も抹殺にかかった。ヘルツの名は、「物理学の帝国宰相」と呼ばれたヘルマン・ヘルムホルツの優秀な門下生という位置づけで記憶されることに...
歴史とは皮肉である。名を石に刻み、金属に鋳造するなどして英雄視することは、素晴らしい業績に対する見方を狭め、神話化を助長することがある。歴史は人が作る... とも言うが、皮肉な意味も含まれよう。
本書では、物理学における真の英雄像の一場面を、ミヒャエル・エッケルトが掘り起こしてくれる。ヘルツは一匹狼の実験家だったそうで、その成功と失敗の過程を日記や記録からたどる。マクスウェル理論に取り憑かれた人生。実験の喜びは、何ものにも代え難い冒険心。
だが、エーテル存在説の矛盾から、やがて激しい自己批判に陥る。36歳の若さで亡くなったことも、モーツァルトよりわずか一年上回った人生から、「物理学のモーツァルト」と呼ぶ。人類の叡智とも言うべき真に業績を残した人というのは、孤独家で地味な人生を送るものなのかもしれん。英雄ってやつは、外野が作るものなのかもしれん。この評伝を通じて、ヘルツという名を物理量の単位から解放し、自然科学者として知ることに...
尚、重光司訳版(東京電機大学出版局)を手に取る。

2020-05-03

"ペレス量子論の概念と手法" Asher Peres 著

ある大学の先生から、量子力学を勉強する下地に... と薦められた一冊。テクニオン - イスラエル工科大学のアッシャー・ペレス教授の書で、量子論の教科書的な存在だそうな...
この分野には実に多くの参考書が散乱し、エネルギー準位や遷移確率などの計算法を学ぶことができる。しかし、その存在論的な意味合いとなると、深刻な見解の相違が生じ、量子論的な認識論というものを意識せずにはいられない。認識論を数学という言語を用いて記述すると、どうなるだろう。本書には、そんな野心が見て取れる。あらゆる表現に数式が用いられるのも、客観的な記述の限界を試すかのようでもある。
本書は哲学の書ではない。著者もそう宣言している。ただ、おいらには、数学は哲学である... との信条があるので、これを哲学の書としてもまったく違和感はない。それにしても、これで大学院生レベルだというのだから...

本書は、「不確定性原理」のような明確に定義できない概念を避け、ベルの定理とコッヘン=シュペッカーの定理を中心に「隠れた変数決定論」というものが扱われる。光子系において、隠れた変数を導入することにより、古典的な決定論を回復させようという目論見か。この隠れた変数ってのが、例えば、超ひも理論あたりで議論される 10次元や Dブレーンのようなものを指すのかは知らん。要するに、概念的な話はおいといて、量子力学と古典力学が根本的に乖離するところを、ひたすら数学で記述しようというのだから尋常ではない。
注目したいのは、時空対称性や量子熱力学に情報理論を絡めた議論である。それは、エントロピーや不可逆性に至る議論で、技術屋にとってはなかなか興味深いものがある。演習問題を通して、光線どうしが重なり合っている部分を、光子という言葉でどのように記述したらよいだろうか?と挑戦的な疑問を投げかけたり... 個々の光子の偏光パラメータを測定する装置は存在しえないことを完全に納得するまで、諦めないでほしい!と励ましてくれたり... もはや、一つの光子の偏光状態はどうなっているか?などという質問に答えることはできないし、意味もない!と切り捨てたり... ちょっとした冒険心をくすぐる。
「偏光が光子からできており、そして光子は分割できない実体であるという考えを一度受け入れるなら、物理学はいままでと同じではありえない。乱雑性が基本的な要素になる。」

古典物理学では、物質の位置と運動量は同時に正確に測定できることが前提される。位置と運動量は客観的な性質で、観測者とは無関係な物理量と考える。だから、調和振動子の位相に対して一様分布や、気体の分子速度に対してマクスウェル分布を仮定したりできる。
一方、量子力学では、量子の位置と運動量は同時に正確に測定することは不可能とされる。観測環境では、対象となる物理系に観測系が関与するために、純粋な物理現象を得ることはできないというわけだ。運動量が不正確でも、位置を正確に知ることができれば、なんとなく存在は定義できそうである。逆に、位置が不正確でも、運動量を正確に知ることができれば、なんとなく存在は定義できそうである。
そして、量子の存在状態は確率論に持ち込まれる。それで、シュレーディンガーの猫が死んでいるか、生きているかまでは分からなくても、笑みを浮かべていそうなことぐらいは想像できる。不思議の国のチェシャ猫のように...

となると、人間の存在認識なんてものは、想像の産物ということになりはしないか。人体だって量子構造を持っているし、人間精神そのものが単なる量子の集合体から生じる現象かもしれないし...
我思う故に我あり... とは、あの大哲学者の言葉だが、実存とは、まさに自己認識に裏付けられた概念。つまりは、主観の領域にある。これを、数学で記述しようという野望は計り知れない。主観の正体を暴くための客観的方法とは。それが観測という行為に現れるが、観測環境は観測者の主観をも含んでいる。観測者の純粋客観なるものを夢みれば、カント風の主観論に引き戻され、自己矛盾を克服できそうにない。
では、観測をどう定義するか。観測の目的は、対象となる物理現象に客観的な視点を与えることにあるが、それは認識を与えることにほかならない。主観に頼らなければ認識すらできない知的生命体にとっては絶望的な状況にある。人類が編み出した最も客観的な記述法といえば、数学という言語を用いること。なるほど、量子力学とは、数学的記述法の限界を試す学問であったか...