2011-08-28

"バッハの風景" 樋口隆一 著

「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ」(BWV140)を聴きながら記事を書いている。急遽CDを仕入れて...
正直言ってバッハの音楽は難解だ!おかげでバロック音楽はちょっと敬遠してきたところがある。バロックいう言葉には「いびつな真珠」という意味があり、血なまぐさい宗教戦争の香りがする。もともとキリスト教には多くの福音があったはず。2世紀頃、リヨンの司教聖エイレナイオスが「異端反駁」で、四つの福音書以外は認めないなんてするから受難の歴史が始まったんじゃないの?ナザレの高貴なお方は抽象的な事しかおっしゃらない。なのに、凡人は具体的な言葉を求めるからややこしくなる。ちなみに、冒頭の「光よあれ」の解釈は、正統派ヨハネよりも異端派トマスの方が好きだけど。
まぁ...そんな偏見はさておき、激動の時代だからこそ宗派を超えて、民衆を励ましたり安らぎを与えたりするような音楽が求められる。今宵は、この「いびつな真珠」に嵌りつつある。

バッハは、バロック末期に登場し、続く古典派の準備段階を生きた。当時の評価は、オルガニストとしてはピカイチでも、作曲家としてはイマイチだったそうな。啓蒙主義の影響やイタリアオペラの流行で、バッハの音楽は深遠で複雑で時代遅れとされたらしい。通説によると、バッハの芸術は死後すぐに忘れられたとか。ドイツ音楽の父という地位は、ヨハン・ニコラウス・フォルケルの著書「バッハの生涯、芸術および芸術作品について」(1802年)によるという。更に1829年、ベルリン・ジングアカデミーでメンデルスゾーン指揮による「マタイ受難曲」の演奏の大成功が復活気運を高めた。
バッハのオルガン曲は二つに大別できるという。一つは、前奏曲(あるいは幻想曲やトッカータ)とフーガの組み合わせ。二つは、ルター派プロテスタント教会の礼拝と密着したコラール(讃美歌)に基づくコラール前奏曲の類い。
彼の教会音楽の代表作といえば、「マタイ受難曲」(BWV244)とするか「ミサ曲ロ短調」(BWV232)とするか意見の分かれるところであろうか。「マタイ受難曲」は、カンタータの創作活動の大きな波がほぼ終わろうとした頃に書かれた、ルター派教会音楽の集大成と言うべき作品だという。「ミサ曲ロ短調」もまた最晩年の作品で、人生の集大成とも言うべき作品なのだろう。ただ、作品の性格と意義はまったく違っていて、ミサ曲で完成させたのは、カトリックやプロテスタントの宗教的立場を超越した思想という見方もあるそうな。バッハは歴史意識を強く持った芸術家だったようだ。バロック期から古典派期を呼び起こす新旧芸術の融合を計ったと解釈する意見も多いようだが、時代の偶然性からして、ちと理想化し過ぎか。ルネサンス期でもあるし、やはり中心はイタリアかもしれない。
音楽家バッハの生涯を眺めると、彼が転々と勤め先を替えていることが分かる。ワイマールとケーテンが貴族のための宮廷音楽であったのに対し、アルンシュタット、ミュールハウゼン、ライプツィヒでは民衆のための町の教会音楽家として活動した。宮廷音楽には華やかだが主君の束縛があり、町の教会音楽には義務もあるが自由がある。彼の生涯はこの二つの狭間で揺れ動く。どちらが経済的に有利だったかは知らんが、所得倍増計画では成功したようだ。

ところで...
「バッハのカンタータの歌詞は、なんでああ大げさでばかばかしい内容のものが多いのかね。イエスと魂が延々とラブシーンまがいの台詞を言い合うのにはまったくうんざりするよ。」
という印象を持っている人は少なくないだろう。ドイツ人でも奇妙に感じているらしい。19世紀、ベルリンを中心にバッハ復興運動が起こった時、カンタータの普及を妨げたのが歌詞の問題だったという。バッハの声楽曲演奏の第一人者だったカール・フリードリヒ・ツェルターでさえ、友人ゲーテに宛てた手紙に、「最大の障害は、まったく破廉恥なドイツ語の教会詩にあります」と記したという。宗教色を強調したければ、誰にでも分かりやすく大袈裟に俗っぽく叫ぶ方が洗脳しやすい。ドイツ語の分からない日本人には、翻訳でバロック的な誇張は弱められるが、それでもやっぱり...
歌詞の問題は、バッハに協力した神学者や宮廷詩人たちのせいだという。中でも、バッハの友人にして専属詩人の印象の強いクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーキ(ヘンリーツィ)。彼は、ピカンダーの筆名で風刺的あるいは卑猥な詩を書いて名を上げていたという。バッハがピカンダーの歌詞に基づいてカンタータ年巻を書いていたという推定もある。いわゆる「ピカンダー年巻」だ。

歴史的に興味深いのは、「12音技法」に関する記述である。アルノルト・シェーンベルクが考案したとされる作曲技法のこと。対位法は、それぞれの旋律に独立性を保ちつつも調和させる音楽的技法であるが、古くから教会音楽に根付いている。ただ、12音技法の体系化となると20世紀になってからで、シェーンベルクはバッハを「最初の12音作曲家」としている節があるらしい。「バッハと12音」と題するメモが紹介される。
「おそらく私は次のことをすでにどこかに書いているし、いずれにせよ弟子たちに述べてきた。"バッハは(逆説的に表現すれば)最初の12音音楽家なのである"
事実、バッハはネーデルランドの対位法の秘術を有していた。すなわち七つの音を互いに、その動きの中で起きるあらゆる響きが一つの協和音のように把握されるような位置にもたらす技術である。この秘術を彼は12音に拡大した。
したがって彼が「平均律クラヴィーア曲集」を書き、それがまさに12音のすべてを考慮しているというのも決して偶然ではないのである。」
ちなみに、シェーンベルクは、ユダヤ人の靴屋の息子として生まれ、まったくの独学で音楽を勉強したという。後にユダヤ教からルター派プロテスタントに改宗しているのも、バッハに通じるものがある。だが、ナチス政権下では、抗議のため画家シャガールの立ち会いのもとに、わざわざユダヤ教に改宗しているという。これも、芸術家の持つ自由への執念であろうか...

1. バッハの源流を遡ると、ルター派教会音楽に辿り着く
宗教改革の動乱のさなか、ルターは民衆が自国語で歌える音楽があるといいと考え、作曲家ヨハン・ヴァルターの協力で約40曲の讃美歌集を出版したという。それは、コラールやキルヒェン・リート(教会歌)と呼ばれるもの。コラールは、当初から単旋律で歌われただけでなく、多声に編曲され、また楽器付きで演奏されたそうな。その編曲は、当時の音楽様式を反映して、テノール声部にコラールが置かれたテノール・リートの様式で書かれたという。
16世紀末、主旋律はテノール声部からディスカントゥス(ソプラノ)声部に移され、四声体の簡単な和声付きで歌われるようになる。これが、カンツィオナール・ザッツ(カンツィオナール書法)と呼ばれるものらしい。バロック音楽は、主旋律を簡単な和声で支えるホモフォニックな様式で、世俗的な歌曲を繁栄させた。また、歌詞だけを宗教詩に置き換えるコントラファクトゥムの手法によるコラールも生まれたという。一種の替え歌だ。この二つの傾向を、バッハは「クリスマス・オラトリオ」(BWV248)と「マタイ受難曲」(BWV244)で効果的に用いているという。
バッハよりも100年前、初期のバロック音楽に貢献したハインリッヒ・シュッツという作曲家がいる。彼は、最初の国際戦争と呼ばれる三十年戦争を生きた。ドイツ人口を三分の一にまで減らしたと言われる戦争だ。その厳しい時代に宗教曲が民衆の支えになったことは想像に易い。シュッツは、晩年に「マタイ受難曲」(SWV479)、「ルカ受難曲」(SWV480)、「ヨハネ受難曲」(SWV481)を作曲したという。
ここには、ルター派の教会音楽がシュッツを経て、バッハ音楽を形成したという系譜がある。

2. アイゼナハからオールドルフの幼年期
1685年、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはアイゼナハの町に8人兄弟の末子として生まれる。父は町楽師ヨハン・アンブロジウス。町楽師は一応音楽家のようだが、「町の笛吹き」と呼ばれたという。主な仕事は、塔の上からラップを吹いて時を知らせたり、外敵来襲の警報を吹くこと。その任務からして管楽器が主であるが、弦楽器など多くの楽器に精通している多面性こそが町楽師の特質だそうな。町主催の踊りや音楽会、あるいは婚礼などでも演奏し、市民行事には欠かせない存在だったという。バロック期には、教会音楽においてもオルガン以外の楽器の占める割合が大きくなり、町楽師の役割も増えていき徒弟を抱えるほどになる。
10歳の時に父が死去し、オールドルフの町の長兄ヨハン・クリストフの家に引き取られ、ラテン語学校で勉学に励む。クリストフは巨匠ヨハン・パッヘルベルにクラヴィーアの手ほどきを受け、オールドルフのミカエル教会オルガニストに就任している。クラヴィーアは、今ではピアノを指すことが多いだろうか、当時はオルガンやチェンバロなどの鍵盤楽器の総称だったようだ。この頃、ゲオルク・エルトマンと出会い終生の友人となる。エルトマンは、後にダンツィヒ駐在のロシア大使にまで出世する。
バッハの旺盛な向上心と勤勉さでは、ある逸話が残されている。兄クリストフは、パッヘルベルをはじめ、フローベルガー、ケルルなどの作品を集めたクラヴィーア曲集を所有していた。少年バッハは、それを見せてくれるよう兄に頼んだが、なぜか見せてくれない。毎晩、みんなが寝静まるのを見計らって楽譜棚へ行き、月の光のもとで6ヶ月もかけて書き写したという。ほどなく兄に知られ、取り上げられるのだけど。この写譜を、兄が1721年に亡くなるまで再び手にすることはなかったという。これほどの才能の持ち主だから暗記していたであろうけど...

3. リューネブルクの学舎で学ぶ
1700年、リューネブルクに移りミカエル学校に入学。リューネブルクの聖ミカエル教会にはエリート合唱隊が組織されていた。通常は声変わりまで間のある10歳前後の少年が対象とされたが、15歳のバッハと17歳のエルトマンが入学できたのは例外。その理由は、ローレンツ・クリストフ・ミーツラーの「故人略伝(追悼記)」による、特別に美しいソプラノ声だった、というのが従来の説のようだ。だが近年の調査で、バスのパートが不足していたために、その補充として入学できたという説が浮上しているという。
リューネブルクの学舎では、人文主義が高い領域にまで導かれたという。ヘブライ語、ドイツ詩学、物理学、数学、論理学に通じ、ローマ修辞学の大家キケロやギリシャ哲学者ケベスやフォキュリデスを学ぶ。ハインリヒ・トレ著「ゲッティンゲン修辞学」は、音楽における修辞学的教養の基盤になったという。
リューネブルクでは、教会オルガニストのゲオルク・ベームと交流があったらしい。
また、当時有名だったヤン・アダム・ラインケンを聴くために、時々ハンブルクを訪れたという。ラインケンの室内楽曲集「ホルトゥス・ムジクス(音楽の園)」から3曲を選び、「フーガ 変ロ長調」(BWV954)、「ソナタ イ短調」(BWV965)、「ソナタ ハ長調」(BWV966)というクラヴィーア曲に編曲しているという。
更に、ツェレという町にもよく出かけフランス音楽にも接したという。この時期に、フランス音楽と出会ったことが、後の音楽思想に重大な意味を持つという。

4. アルンシュタット...本格的な音楽活動を始める
1703年から半年間、ザクセン=ワイマールのヨハン・エンスト公の従僕となる。もっともバッハ自身は宮廷楽師と称していたらしいが、宮廷の記録には「従僕」としかないそうな。そこからほど近いアルンシュタットに新教会が建設されることになり、オルガニストとして迎えられる。既に才能を高く評価されていたとはいえ18歳という若さ。
1705年、北ドイツのリューベックへ長期旅行をする。巨匠ディートリヒ・ブクステフーデのオルガンを聴くためだ。その二年前に、マッテゾンとヘンデルもリューベック旅行をしているという。高齢なブクステフーデの後任候補として招待されたが、その条件がブクステフーデの娘との結婚ということでハンブルクに逃げ帰ったとか。バッハにも同じ条件が提示されたかは分からないらしい。ちなみに、同年代のヘンデルに出会うことはなかったようだ。
アルンシュタットの記録に、バッハのスキャンダルが残っているという。「見知らぬ女性」を教会の合唱隊席に入れて演奏させたという非難である。あるバッハ研究家によると...教会はバッハが生徒たちとモテットなどの込み入った合唱曲を上演することを望んだが、生徒たちの水準は低く若いバッハとの関係も良くない。その代替措置として技術のある少人数の歌手を使ったのではないか...というもの。女性スキャンダルとした方が、面白おかしく注目されるのだけど。

5. ミュールハウゼン...カンタータの創作が始まる
1706年、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストのヨハン・ゲオルク・アーレが世を去る。その後任をめぐって、1707年の復活祭にバッハの試験演奏が行われた。初期カンタータの名作「キリストは死の縄目につきたまえり」(BWV4)こそが、その試験曲とされるらしい。
同年、それぞれの父が従兄弟同士という遠縁にあたるマリア・バルバラ・バッハと結婚。結婚式は、アルンシュタット近郊の小村ドルンハイムで行われた。司式にあたった牧師は、まもなくマリア・バルバラの叔母と結婚。これらの結婚式のどちらかのために「主は我らを心にとめたもう」(BWV196)が作曲されたのではないかという説があるが、確証はないらしい。
尚、ミュールハウゼン時代に作曲されたことが証明できるカンタータは2曲しかないという。「神はいにしえよりわが王なり」(BWV71)と「主よ、深き淵からわれ汝を呼ばん」(BWV131)の2曲。
「アクトゥス・トラギクス(哀悼行事)」の名で知られる葬送カンタータ「神の時は最善の時なり」(BWV106)も、様式的には初期カンタータの一つの挙げられるが、自筆譜もオリジナル楽譜も残されていないらしい。リコーダ2本とヴィオラ・ダ・ガンバ2本、それにオルガンを中心とした通奏低音のみの伴奏による、このカンタータは特にブクステフーデの影響が大きいという。
後年、ブラームスが交響曲四番終楽章のためにシャコンヌ主題を借用したことでも知られる「主よ、わが魂は汝を求め」(BWV150)や、結婚式のためのカンタータ「主はわれらを心にとめたもう」(BWV196)も、初期のカンタータに属すとされるらしい。

6. ワイマール...多くの教会カンタータを作曲
1708年、再びワイマールに戻り宮廷オルガニストになる。イタリア音楽の影響を受けつつ作曲家としての成熟を深め、同時にオルガニストとしての名声を確立。
1716年、宮廷楽長J.S.ドレーゼが世を去り、バッハに昇進の期待がかかる。この時、5曲の傑作カンタータ(BWV155, 70a, 186a, 162, 147a)が毎週書かれるという異常なまでの熱心さ。しかし、故人の息子で副楽長J.W.ドレーゼが新楽長に就任した。がっかりしたバッハの前に現れたのは、無類の音楽好きアンハルト=ケーテン侯レオポルト。バッハが辞職を願い出ると約一か月の禁固処分にされる。失寵による解雇が通告され堂々とケーテンへ赴く。

7. ケーテン...器楽曲や世俗カンタータを作曲
1717年、アンハルト=ケーテン侯宮廷楽長兼宮廷楽団監督に就任。しかし、ケーテンはカルヴァン派とルター派の抗争が熾烈だった。しかも、カルヴァン派のレオポルトはルター派を弾圧した。それでも、バッハがエルトマンに宛てた書簡によると、バッハとレオポルト侯との関係自体は問題がなかったという。ライプツィヒ移籍後も元ケーテン宮廷楽長を名乗り続け、1728年のレオポルト侯の葬儀では「葬送音楽」(BWV244a)を捧げたという。
1720年、バッハが避暑地カールスバートから戻ると、妻マリア・バルバラが突然世を去っていた。この年を、バッハのケーテンにおける危機の年とする見方があるらしい。ルター派教会音楽が重視されなかったため、創作意欲はもっぱら器楽曲や世俗音楽に向けられる。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001-06)が書かれたのがこの年。「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」が書かれたのもこのあたり。「アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳」を書き始めたのが1722年。独奏曲やクラヴィーア曲に集中される。こうした変化は、ルター派弾圧による宮廷予算の縮小や人員削減によるものではないかという説がある。宮廷楽団の中にもルター派が少なくなかったようだ。予算や人員の減少は回復している年もあるので、やや懐疑的であるが...
1721年、ソプラノ歌手アンナ・マグダレーナと再婚。「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集」の第一集の表紙には「アンチ・カルヴィニズム」というメモが記されるという。これはルター派神学者アウグスト・プファイファーの神学書の名で、カルヴァン主義の聖体拝領解釈を公然と批判していることになる。バッハにとってケーテンは居心地が悪かったようで、ライプツィヒのトーマス・カントルの職に応募する。

8. ライプツィヒ...教育者としての晩年
1723年、ライプツィヒ市音楽監督兼トーマス・カントル(ライプツィヒ聖トーマス教会のカントル)に就任。バッハは本質的に独学者だったという。また、優れた教育者でもあり、多くの弟子を多く輩出している。理論家ではなく実践派で自由精神を尊重した作曲を教えたそうな。オルガニストの教育に配慮した曲も手掛けている。「正しい手引き」と題した序文が、その熱心な教育姿勢を物語る。
「これは鍵盤楽器の愛好家、また特に熱心な学習者に、二声できれに弾くことを学ぶだけでなく、さらに進歩したければ、三声の独立した声部を正確かつ快適に処理するわかりやすい方法を教示する。またその際、同時に、よい着想(インヴェンツィオ)を得るだけでなく、それを快適に展開し、しかも多くの場合、演奏に際してはよく歌う(カンタービレ)方法を学び、それと並んで作曲についてのかなりの予備知識を会得するためのものである。」
インヴェンツィオとは、バッハがリューネブルク時代に学んだ修辞学の用語の一つだという。修辞学とは、いかに立派な文章に仕立てるかという方法論である。まず何を語るべきか、それは着想を得ることから始まり、全体の配置を構成して、更に細部の彫琢を加え、最後に発話や表現で仕上げるといった具合...つまり、この序文は修辞学の体系を作曲に応用している。まさしく音楽修辞学の体系というわけだ。
クラヴィーア演奏での指の使い方では、興味深い話がある。今でこそ親指は当たり前のように使われるが、当時はほとんど使われなかったという。大家は、よほど大きく手をひろげて弾かねばならない時以外は、親指を使わないとしていたが、バッハは「自然がいわば使ってほしいと望んでいるとおりに使おうとした」という。クラヴィーア演奏で親指に要職を与えたのはバッハということか。
1750年、この地で世を去る。

9. 社会風刺の世俗カンタータ
バッハは18世紀のドイツ社会を描写した風変りなカンタータを書いている。「農民カンタータ」(BWV212)は、キスをさせろ!いやさせない!などと、いきなり男女の本音が単刀直入に語られるという。その後の展開は急転直下で、徴兵逃れに税金問題、殿様は情け深いが税金泥棒の阿漕などと...ちなみに、この台本はピカンダーが書いたらしい。
「コーヒー・カンタータ」(BWV211)は、毎日三回コーヒーを飲まなければ、ひからびた山羊の焼き肉みたいになってしまうと主張する娘と、あの手この手で悪習をやめさせようとする父親の物語だそうな。
他にも、知人の誕生日、教授就任祝いや送別、結婚祝いなどでカンタータを作曲している。また、ザクセン選帝侯国がポーランドをめぐって権力闘争した時を反映したカンタータなど、歴史や政治にも絡む。

10. カンタータの教会暦
ルター派の礼拝は、新約聖書や福音を朗読することが基本にある。バッハの教会カンタータの歌詞は一種の教説でもあった。礼拝で朗読される聖句は教会暦で規定される。
キリスト教では、イエスが復活した日曜日に礼拝のために集まるが、一年間の日曜日はイエスの生涯を基準にして意味が与えらえる。まず、主な二つ祝祭、降誕祭(クリスマス)と復活祭が基準としてある。バッハのカンタータも教会暦との結びつきが強く、季節によって上演される作品も違うようだ。迫害を恐れるな!と説くカンタータもあり、キリスト教初期の迫害された時代も色濃く感じられる。当時のドイツの社会風潮には反ユダヤ主義が根強く残っているようにも映る。その背景を、カルヴァン派からの弾圧と重ねたのだろうか?
バッハは三位一体節のために「わが神、わが光なる主を誉めまつれ」(BWV129)を作曲している。父である神と、神の子としてのイエスと、その父と子から永遠の愛として地上に注がれる聖霊の三者は、唯一無限の神として一つであると...

11. 受難曲の歴史
キリスト教の礼拝において、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書から、受難に関する章句を朗唱する伝統は、かなり古くからある。最古の記録では、4世紀にエルサレムを訪れた女性エゲリアという巡礼者が聖週間の礼拝について述べたという。5世紀には、教皇レオ1世は、枝の主日から聖水曜日までのミサでは「マタイによる福音書」、聖金曜日には「ヨハネによる福音書」から受難の聖句を朗唱するように定めたという。その後、聖水曜日には「ルカの福音書」、聖木曜日には「マルコの福音書」から受難の聖句が読まれるようになったそうな。朗唱の方法は、初期の段階から演劇的要素が備わっていたという。
13世紀にクレルボーのベルナルドゥスによって神秘主義的傾向を強め、受難の追体験としてコンパッシオの意義が強調される。
15世紀になると追体験だけにとどまらず、直接体験による「キリストのまねび」が説かれ、受難曲はしだいに長くなる。そして、複数の人物によるトゥルバ(群衆)の部分と、イエスの言葉が協和するポリフォニーが導入される。いわゆる「応唱受難曲」の成立である。
受難曲は、16世紀にはカトリックとプロテスタントの双方で作曲されたが、17世紀から18世紀にかけて特にルター派プロテスタント教会の礼拝音楽として盛んに上演されたという。ドイツ語の応唱受難曲の手本になったのは、ルターの友人ヨハン・ヴァルターによる「ヴァルター受難曲」だという。

2011-08-21

"パタン・ランゲージ" Christopher Alexander 著

前記事で扱った「アドレナリンジャンキー」が、この本の形式を参考にしたということで、ちょっと興味を持った。ひたすら実践例が羅列されるわりには、要所に一般的な抽象論が盛り込まれ、意外と秩序ある構成となっている。本書は建築と都市計画に関する分野で、おいらにはあまり馴染みがないのだが、精神を取り巻く空間の構築という意味では興味がある。

「パタン・ランゲージ」とは、町、近隣、交通網、住宅、庭、部屋などの細目にわたる原型(パターン)を、言語体系(ランゲージ)として統合するという意味がある。ここには具体的に253ものパターンが紹介される。これらを散漫に組み合わせても、それなりの形にはなるだろう。多くのパターンを同一空間内に重ね合わせることも可能だろう。だが、どんなに斬新的な着想であっても、精神の収まりが悪いのではすぐに廃れてしまう。ここに調和の難しさがある。
また、「パタン・ランゲージ」を共通言語に持ち込もうとすれば、抽象的に述べざるを得ない。それでも、あえて具体的に述べようとすれば、考えを押し付けないことが肝要である。本書はそれを十分に心得ているようだ。
本書は、街づくりを通しての一種の環境論といった様相を見せる。そして、自然と人工のコラボレーションを通して、いかに人間精神を自然に帰するかという哲学に則っている。その背後には、街の歴史や政治、あるいは人類学、心理学、環境工学、物理学といった包括的な知識を感じる。技術至上主義に陥る専門バカへの警告であろうか?なんとなく説教に聞こえてくる。
「生き生きとしてまとまりのある社会には、独自で固有の明確なパタン・ランゲージがあり、しかも社会のすべての個人が、部分的に共有するとしても、全体としては自分の気持に合わせた、独自のランゲージをもつであろうということである。この意味で、健全な社会には、たとえ共有され、類似していても、人間の数だけパタン・ランゲージが存在するであろう。」

パターンの序列は、地域や町といった大きな視点から、近隣、建築物、部屋、アルコーブなどを経て、施工の細部に至る。その序列は直列的なシーケンスで示され、これが「パタン・ランゲージ」をうまく機能させるという。基本的な構想では、大まかな空間設計から細部を展開するトップダウン的な発想がなされる。細部を考察する時も全体像を念頭に置きながら組み立てる。とはいっても、下位を知らなければ上位を構想することも難しい。実際には、全体構想と細部の検討を並列で行うようなイメージであろうか。
また、パタン・ランゲージのシーケンスに従えば、初期の決定が無効になるほどの大幅な変更は生じないという。それは、パターンを一つの実体として捉え、実体を認識できるまで上流工程の検討を十分にやるということであろう。
何事も理論と実践の両面から理解できれば幸せである。理論だけで実践できるものではないし、実践しているうちに後から理論がついてくる場合もある。おまけに、どんな分野においてもパターンは生き物のように進化する。人間はいつも改良パターンを模索しながら生きているのだから。となると、実践の書の位置付けは微妙となる。印刷物に依存するような危険性がないとは言えないだろう。実践例を参考にするには、読者が哲学的な領域まで理解して独自の考察がなされた時に非常に有効となる。だが、読者が無条件に信者となってしまっては有害となりかねない。最初から最適な解を書籍に求めるのは、むしろ思考を混乱させるであろう。脇道に逸れながら思考を繰り返すから本筋なるものが見えてくる。本書は、理論的に記述するか、実践的に記述するか、その按配の難しさという問題を提起しているように見える。

ここには、様々な町の構造や住宅のアイデアがスケッチされ、それを眺めるだけでも和む。写真よりも、フリーハンドのスケッチが圧倒的に多いのは、心の中に広がるイメージを大切にしているからであろうか。デジタルコンテンツに慣らされている昨今、逆にフリーハンドに癒される。写真を用いる場合でも、素人感覚では現物のカラー写真を掲載する方が分かりやすいと安易に考えてしまうが、あえて白黒写真を用いてコントラストを大切にしている。なるほど、空間イメージを強調するのに優れた方法というわけか。
「現場にしばらく留まって、敷地が語りかけてくる秘密に耳を傾ける。」
パターンの具体的な姿を思い浮かべながら、精神が自然と同化する瞬間を感じるまで哲学的に問い続ける。これが建築家の仕事であろうか。まさしく建築家とは芸術家であることを感じさせてくれる。ガウディは、建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとして、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家など様々な役割を演じた。

「大地は、途方もなく大きな家族のものだ。生ける者はわずかでも、過去から未来への無数の家族たちが使うのだ。」
-- ナイジェリアの一原住民の言葉 --

1. 町づくりと地方分権
「町やコミュニティの骨組に重大な影響を及ぼす大きなパタンが、中央権力やマスタープランによってつくり出せるとは思えない。その代りに、大小の建設行為が、個々に責任をもって、世界の片隅で大きなパタンを少しずつ形成していけば、徐々に、有機的に、しかもほぼ自動的に大きなパタンが出現するものと確信している。」
町というものは、その瞬間を眺めただけでは構造を理解することはできないだろう。町には、環境意識や文化意識、あるいはコミュニティの成長過程が刻まれる。社会的集団や政治的集団は、国家、地方議会、近隣社会、家族など階層的に組織される。それぞれの組織やコミュニティの階層において意思決定がなされ、各段階で責任が生じる。となれば、個々に責任が分散されない社会では、地域に調和した効率的なパターンは生じないだろう。ここには、地方分権の原理があるように思える。
お偉いさんが目の届かない余計な責任まで背負いこむということは、地域社会を硬直化させるだろう。現実に自立することは難しい。だが、少なくとも自立を目指す意欲がなければコミュニティは活気づかない。都市の伝統は、予測したよりも経験的合理性に基づいている。にもかかわらず、都市計画では、地域分析を疎かにして大都市の流行を追う傾向がある。地方行政が大都市型の商業都市を夢見て、税優遇などを餌に大企業の誘致を繰り返し、伝統的な商店街を破壊するような例は珍しくない。大企業の扱う高価な商品が、地域住民に合わないために業績を悪化させ、あっさりと撤退してしまう。残された跡地にはペンペン草も生えず、結果的に地元経済を悪化させる。現実に、歩行路、田園、住宅、工業用地などの配置と分散は、町づくりの視点よりも政治的な思惑によって決定される。哲学的観点から町づくりがなされることはない。おそらく土地倫理学などという思考が働かないのだろう。
本書は、田舎町や下町に大都市の風潮を猿真似して、二流の田舎町を創り出すことほど馬鹿げたことはないと指摘している。
「どんな地方や町、あるいはどんな近隣にもその地域と住民のルーツとを象徴するような特別な場所が存在する。そこは過去から受けつがれた自然の美しい場所かもしれないし、歴史的ランドマークかもしれない。だが、それは、どんな形にせよ本質的な場所である。」

2. 適切な規模
生物学者J.B.S.ホールデンは、「適性規模について」という論文で次のように述べたという。
「あらゆる動物に最適規模があるように、人間のあらゆる制度にもそれがある。ギリシャ型の民主主義においては、全市民が居並ぶ雄弁家達の演説に耳を傾け、立法採決には直接投票が可能であった。かくして、かの哲学者達は小都市こそ最大の民主国家なりと考えるようになった。」
規模が大きすぎれば、自治体は機能しない。それは、アメリカ民主政治に対するジェファーソンの提言でもある。規模が大きすぎれば、一部の指導者による制御は不能に陥り、官僚主義があらゆるプロセスを圧倒する。小規模な国家ほど、民主主義が発達しやすい。したがって、大規模な国家ほど地方分権を確立しなければ、民主主義は発達しないことになり、ますます国家は余計な存在となろう。理想的な地域国家は、1000万人ぐらいという意見をよく耳にする。幅を持たせて500万人から2000万人ぐらいであろうか。このあたりの規模は、英国のウエイマス卿が「世界連邦 - 1000の国家」と題してニューヨークタイムズ紙に投稿したところからきているらしい。シンガポールなどの国々を眺めれば、説得力のある数字だ。組織の中で自己の存在感と疎外感との境界線がこのあたりにあるのかもしれない。
地域に属するという意識が、その地にある名物やシンボルに誇りを与える。だが、地域社会が小規模過ぎても国家の集団的パワーは生じないだろうし、大都市に集中し過ぎても国民認識は偏重するだろう。外国人から日本人は感情論に流されやすいとよく指摘される。確かに、首都圏集中型の人口分布や世論の激変ぶりを眺めれば反論できない。マスコミの扇動ぶりを眺めればどこの国も大して変わらないじゃないかと反論しても、報道姿勢が論理的かどうかの違いは大きいと指摘される。地方分権の必要性が叫ばれて久しいが、民主主義の根付きにくい国民性が妨げているのかもしれない。

3. 文化交流と民主主義
混成都市は、多様な人間が混在し、互いの生活様式や文化には無関心であるという。各地から人々が集まれば多様性に満ちているように見えるが、実は類似性を促すだけだと指摘している。一方、数多くの小規模なサブカルチャーが、分かりやすく分割しているような形態では、それぞれの文化が選択できて、異なる生き方が体験できるという。文化は、単に混合すればいいというものではなく、はっきりと特徴が把握できた上で自由選択を与えることが肝要というわけか。
大都市のように価値、習慣、信仰などが拡散し混在する社会では、そこで成長する人間もとりとめなく混乱した人間になると指摘している。しかも、そこに生じる弱い性格は大都市社会の直接的産物だとしている。確かに、得体の知れない隣人が増えれば増えるほど不安が増すだろう。そして、子供には矛盾だらけの要求が課せられ、調和した性格形成を妨げる。心の平安と自尊心の代償に不調和を強要する。得体の知れない価値の混合が得体の知れない人間を形成するとすれば、哲学的意識がはっきりと区別できる個性の集団を求めることになろう。それが民主主義の基本原理であろうか。
「たびたび独りになる機会がなければ、他人とも親密になれない。」
人間は他人との交流がなければ生きてはいけないが、同時に自己を見つめるための孤独も必要である。文化交流の基本は、相手の文化を理解せずに無条件に受け入れるのではなく、理解した上で交流の選択をするということになろうか。とはいっても、文化を理解するのは難しく、とりあえず交流してみるしかない。少なくとも、文化の境界があることが、交流できないということにはならないだろう。文化の交流とは、同質化することではない。ましてや生活様式の多様性を殺してまで個性の成長を阻害することではない。そこを誤ると、文化の押し付けが生じる。
自分の個性を認識するためにも、明らかな近隣の個性との違いが認められると助かる。同質からは特質は発見しにくいのだから。家族形態も多様化する方が互いに刺激しあえるだろう。核家族化一辺倒では、価値観も同質化するだろうから。生活環境の違いを眺めるだけで、新たな価値の発見があるかもしれない。
「行動を見ることが行動への引き金となる。街路からいろいろな空間をのぞき込めると、人びとの世界は拡大し、豊かになり、さらに理解が深まり、街路にコミュニケーションと学習の可能性が生まれる。」

4. おまけ...医療の町
これは本書とは関係ない。なーに、20年ぐらい前に考えたことを思い出しただけのことだ。
ある地方に心臓病などの重大な病気に関する権威的なお医者さんがいる。うちもお世話になった。その病院には全国から患者が到来する。必然的に病院の周りには宿泊場があり、病院が仲介してくれる。だが、民間の宿泊場なので、長期間ともなれば負担が大きい。そういう町では、商業都市を夢見るのではなく、「医療の町」というものを掲げてはどうだろうか。高齢化社会にもよく調和する。すべての医療機関を一か所に集め、宿泊施設を整備する。
実は、そういう目的に合致した町がある。旧産業で一世風靡した過去の栄光にすがり、企業誘致のための土地を確保しているが、空き地のままだ。にもかかわらず、病院をあちこちにちりばめ、どこの病院も駐車場問題を抱えている。マイクロバスで駐車場と病院の間を送迎したりと。あるいは、無計画で無作為に空き地があれば老人ホームを建て、同じ管理者が数キロメートル離れたところに別の医療施設を建て、その間をマイクロバスが往来するという効率の悪い所も珍しくない。こんなことは行政指導で効率性が図れるはずだが。
ならば、せっかくの空き地を、全国でも最大規模の医療センターに仕立てる手はあるだろう。優秀な医学が実践できるとなれば、優秀な医学生も集まるだろうし、大学病院も近接させればいい。入院患者を全国と言わず海外からも受け入れられるように宿泊施設も整備すればいい。医療システムは、医療メーカから機器メンテナンス業者、あるいは情報システムから最先端の産業技術など、あらゆる分野との関わりがあり、事業の拡大の可能性は計り知れない。そういうことを行政と医療団体が一体化して考えれば、大医療都市ができそうな気がする。日本の医療レベルからすれば、そんな町が一つぐらいあってもよさそうなものだ。町づくりの方向性に将来像がなければ、いくら招致しても無駄だ。IT業界など流行りの業種を誘致しても、すぐに行き詰まるだろう。向こうから来たいと思わせなければ持続しない。国家における社会的役割を考えながら、得意分野を発展させる方が町に馴染みやすいし、事業の成功率も高くなるだろう。
しかし、行政は、相変わらず首都圏のような商業都市を夢見る。そしてうまくいかなければ、観光地化にも手を出す。50年ほど前に複数の市が合併してできたためか?いまだに行政派閥の亡霊がつきまとうかのように、中途半端な再開発が順番に行われる。テクノパークを作ったかと思えば、遠く離れたところに大学と企業が連携できるような学園都市を作ったりと節操がない。人口を減らさないために周辺の自治体を吸収していくという戦略は、一貫しているようだが。おかげで、人口密度が減っている。人ごみの大嫌いなアル中ハイマーにはありがたいことだけど...
尚、これはずーっと昔に思ったことで、今どうなっているかは知らん!

2011-08-14

"アドレナリンジャンキー" Tom DeMarco 他著

ちらっと表紙をめくった瞬間、眼の中に飛び込んできたフレーズに思わず買ってしまう。
「抽象化は人間独特のものだ。私たちはいつ何どきでも、目覚めているかぎりは抽象化を行っている。しかし、ずっとそうしてきたわけではない。有史以前のいつか、はじめて抽象化が行われた瞬間があったはずだ。原始の人類が何かを見つめ、なんとなく見覚えがあるなと思い、突然 "ああ、またアレだ!" とひらめいた瞬間が。それが最初の抽象化である。その瞬間から、何もかもが変わった。人はこの地球上に解放された。」
トム・デマルコ氏の本を読むのは久しぶりか。相変わらずリズミカル、やはり仕事で最も大切なのはリズムである。仕様検討から成果物を出すまでの周期、あるいは達成感を得る周期、こうしたものが仕事にリズムを与え意欲を持続させる。
一方で、大変だ!急げ!などと、いつもアドレナリン全開で働いている組織を見かける。しかも、全員が120%努力しているにもかかわらず、確実に日程が遅れる。そして、必ず耳にするプロマネの口癖は「日程を死守せよ!」である。死んでもらいましょう!道連れなしで...

「アドレナリン中毒の組織は、猛烈に動き回ることが健全な生産力のあかしだと信じている。」
政治的にアドレナリンジャンキーな状況に追い込まれることがある。例えば、過去の技術資産を流用すれば日程が大幅に短縮できる!なんて甘い誘惑に、部長クラスのオヤジたちは簡単に引っ掛かりやがる。政治的に持ち込まれるブラックボックスは悪臭を放つ。黒幕のゾンビが潜んでいる違いない。そして、システムにマッチするかどうかも検討されずに、日程会議だけが先行するのだ。
上流工程を疎かにすると、リリースに近づくほど厄介な問題が発生するようにできている。このようなプロジェクトでは、優先順位が絶えず変化する。仕様書の変更が重要かと思えば、すぐに妥協して次の作業にとりかかある。致命的な問題を抱えながら、緊急作業が続々と発生し、その状態が慢性化するのだ。とにかく突っ走る。忙しくしていないと落ち着かない。この種の組織文化では、死に物狂いに作業することが、効率性と同一視される。
とはいっても、アドレナリンジャンキーがいつも失敗するわけではない。猛烈なペースで何年も事業を続ける場合だってある。だから余計に厄介なのかもしれない。しかし、安定性と長期計画の必要な仕事では、必ずボロを出すだろう。
このような組織体質は、ひとえにプロマネの体質で決まるだろう。要するに、仕事に対する戦略的思考が欠けているのだ。充分に検討された仕様は日程の精度を上げる。それを知っているプロマネは、部下をこのような状況にけして追い込まない。メンバーがモチベーションを失うことが、品質にとって最も危険であることを知っているからだ。最初から成功の見込みがない仕事もある。しかも、誰も意見しようとしない空気が深刻さを物語る。問題点を挙げようものなら、ヤル気がないやら、チームワークを壊すやらと言われ徹底的に叩かれる。そして、本当にヤル気を失う。チームが成功への情熱ではなく、恐怖心を原動力とするようになれば悲劇だ。いや、喜劇か。このような状況に追い込まれるぐらいなら、最初から仕事を潰した方がみんな幸せになれるだろう。そぅ、人生は短いのだ!そして、二度ほどプロジェクトを葬ったプロマネは「プロジェクトの必殺仕事人」と呼ばれるのであった。
...尚、これはフィクションです... ヘーックション!

本書には、どこかで見かけたような86ものパターンが、気の向くままに羅列される。しかも、良い例と悪い例を混在させながら、あえて善悪を示さない。構造的に知識を理解する方法もあろうが、あえて実践的なパターンに触れることで直感を研ぎ澄まそうという魂胆だ。
尚、特に決まった順序立てもなく様々なパターンを紹介する構成は、建築家クリストファー・アレグザンダーの著書「パタン・ランゲージ」の影響だそうな。この書にも興味がわく。わぁお!1万円もするのかぁ...
原著は、コンピュータ業界のオスカーともいわれる「Jolt Awards」を受賞(2008)。著者は、トム・デマルコ、ピーター・フルシュカ、ティム・リスター、スティーブ・マクメナミン、ジェームズ・ロバートソン、スザンヌ・ロバートソンの6人で、アメリカ、イギリス、ドイツを拠点としながら、年に一週間だけカリフォルニアに集まって書き上げたという。究極の分散チームから生まれた一冊というわけだ。パターンの中には洒落た題目や惚れ惚れするフレーズがちりばめられる。どれも甲乙つけがたいが、スパイシーの効いたところを、経験と重ねながら摘んでおこう。なぜかって?泡立ちのいいビールの横に、辛さの効いたカラムーチョがあるから。

1. 幸福礼賛会議
「みなさんの意見を聞かせてください!」と発言する友愛的な人間が仕切る会議を見かける。だが、そういう人に限って突飛な意見を迷惑がるようだ。実は意見を求めているのではなく、賛同してほしいのだろう。意見の対立や批判が人間関係をぎくしゃくさせると考える時点で、議論の意味を失っている。感情論に走られても困るが、論理的な意見であれば、むしろ歓迎する技術者は多い。本音で議論するからには、ある程度の感情を表現してもよかろう。議論に熱中すれば、気持ちも熱くなるものだ。
哲学的な共通認識をチームに植え付けてさえおけば、互いの指摘は批判まで発展せず、互いに成長していることを実感できるだろう。グチりやすい雰囲気って、なんか楽しい!冗談で言えるうちは。チーム内に不満や批判が生じないとすれば、互いに向上心を放棄したことになろう。

2. アイコンタクト
プロジェクトの地理的な分散化は、時代の流れでもあろう。だが、場合によっては、全員を同じ場所に集める方が良いこともある。例えば、緊急かつ複雑な場合。
「フルタイムの熱心なプロジェクトメンバーが1か所に集まると、ある種の奇跡が起こる。ほかのメンバーのニーズや能力を理解するようになり、それにともない、チームの力を最大限生かせるように自分自身のやり方を修正していくのだ。」
これは古い考えにも映ろうが、チームの本質かもしれない。少数精鋭で集まる方が良いのは、今も昔も変わらないだろう。
一方で、コンサルに乗せられて、コストダウンのために「分散化チームの神話」を鵜呑みにする経営者たちがいる。だが、分散化を機能させるには、互いの意思疎通が築けた時であろう。機械的に分散すれば、むしろ効率性は失われるだろう。また、メールのような文章は意図が伝わらないことが多い。文章だけでは情報量は意外と少ない。あまり面識のない相手の場合、論理的な文章が険悪な雰囲気にさせることもある。それを考慮して、文章に冗談を巧みに埋め込むことのできるような能力を持った人がいる。こうした能力の持ち主は、直接顔を合わせるべきかどうかの按配をよく心得ているようだ。人間関係が軌道に乗れば、ネットなどの通信手段は予想以上に効果を上げるだろう。

3. 信者とミケランジェロ組織
「特定の方法論を教義のように受け入れる人がいる。教典から少しでも外れるのは冒涜だと思っている。」
プロジェクトの方法論には、万能な黄金手法など存在しないだろう。したがって、現場の経験から育まれるものが多く、組織によって独自の手法が生まれるのも自然であろう。
「プロジェクトに信者がいると、身動きがとれなくなることがある。コンテンツに集中せず、手法戦争を始めるのだ。」
ちなみに、コンサルが信者だと質が悪いという話を聞く。「コンサルとは、混乱した猿!」と誰が言ったかは知らん。いや「混乱させる猿!」だったけ?
また、自動ツールに憑かれるプロマネがいる。リソースが足りないという圧力を受けながら、藁にもすがる思いで。そして、見事にツール営業マンにしてやられる。ツールが便利なことは言うまでもない。だが、ユーザにも相当のスキルが求められるという事実を見落としていると指摘している。
「たがねは買ってやった。なのに、どうしてミケランジェロになれないんだ?」
こうした愚痴をこぼす組織にかぎって、能力よりも給料の安さで人材を雇うという。ミケランジェロ組織には、買ったきり積まれたままのツールの山があるという。

4. プロは技術に魂を売らず、魂を貸す!
「一流のプロのほんとうにすばらしい点は、確立された個人やチームの能力に問題をはめ込むのではなく、問題に合わせて解決策をつくろうとすることだ。」
長年かけて習得したスキルを捨てることは容易ではない。だが、新しいアイデアの優位性を認めたならば、乗り換え意識を働かせるのが技術者の宿命であろう。それには、新しいというだけで鵜呑みのするのではなく、その長所を十分に吟味する必要がある。だが、新しいアイデアを片っ端から調査することは不可能だ。流行りのアイデアともなれば、誇大宣伝の魔力に憑かれる。深く考えないまま熱狂すれば、魂までも売り渡すことになろう。技術を手法として捉えるだけではなく、哲学的に理解している人は、意識の移行も素早いようだ。ここで述べられるのは、あくまでも姿勢の問題である。

5. 永遠の会議
「いつまでも不満を与える権利を与えていて、結局は何も決まらない。」
できれば余計な論争を避けたいというのも分かる。だが、プロマネが悪役を買って出なければ、プロジェクトは迷走するだろう。賛成しろ!と命じたところで無駄だ。決定に従うことと、賛成することは別なのだから。メンバーたちは、そういう日和見的な態度をよく観察している。好転したプロジェクトの影では、あらゆる意思決定の権限を持つプロマネが、穏やかな独裁者として振る舞っているものだ。プロマネが勇気を持って決断しなければ、チームを狂乱させるだけだ。

6. 映画評論家
「映画評論家とは、プロジェクトにとって自分の価値は、過去や今後の間違いを指摘してやることだと思っていて、間違いを正すためには何もしないメンバーや傍観者のことである。」
開発途中でほとんど発言しない者が、リリース直前になって意見する場合がある。今まで何をしてたんだ?と言いたくなるような。だが、批判者が必ずしも映画評論家になるとは限らない。違いは時期にある。問題に気づいてすぐさま指摘するならば建設的な意見となるが、映画評論家が発言するのは映画が完成してからだ。映画評論家は、プロジェクトの成否にかかわらず、自分が正しいと思われたいだけだという。政治家に多いタイプか。
一方で、プロジェクト開始当初から、少し距離を置いて評論家の立場を表明する人を見かける。しかも、優秀で意見も鋭い。こういう人物を、いかに中心的人物に押し上げるか、これこそプロマネの腕の見せどころであろう。

7. かかし
「かかし」は抽象化モデルではなく、ソリューションだという。クライアントの要求を引き出したり、クライアントの批判を避けるために、最小コストでプロトタイプを提供する。優秀なアナリストは、「何がお望みですか?」とは聞かないという。それが不快な質問になりやすいことを知っているから。人は白紙から答えをつくることを嫌がるが、既に存在するものに対して批評するのを好む傾向がある。
「クライアントは、実物を見るまで、そして「これは違う」と思うまで、自分が何が欲しいのかわからない。」
最高のかかしモデルには、意図的な間違いまでも組み込まれているという。わざと批判の余地を与え、そこに注意を促せば、弱点を目立たないようにもできる。間違いを見せることで、その修正から方向性を導くこともある。完全に近いモデルからは間違いに気づきにくい。議論を活性化させるには、道化を演じることも大切というわけだ。
「すでに自分はかかし戦略を使っていると思う人も多いかもしれないが、そのモックアップを指さされ、笑われたことはあるだろうか。そこまでしてこそかかしである。」
なるほど、その域までは達していないなぁ。笑わせるつもりがなくても、人間性そのものが笑われているけど...

8. ダボハゼ
「コスト削減と人員削減の時代、企業は新しいソフトウェアを十分に開発していないため、戦略的に優位に立つ機会を失っているというのが、少なくともITプロフェッショナルの間の一致した見方になりつつある。この見方に賛成だという人は、その反対の状況についてちょっと考えてみてほしい。もしかしたら、ソフトウェアをつくりすぎているのかもしれないと。」

9. 裸の組織
「組織で何をするにも全員がすべてのことを知っている必要があるなら、その組織はおしまいである。」
組織の体質がオープンであれば、なんとなく自由を感じ、民主主義的で美しい組織に映る。しかし、オープン過ぎるのも弊害がある。情報が多すぎれば注意力も緩慢となり、なによりも個人の責任範囲が明確になっていないことを意味するだろう。プロマネが、何もかもみんなに知ってもらいたいという主旨も分からなくはない。そこには人材を育てたいという意図も加わる。ある程度のオープン化は必要であろうが、完全なオープン化は機能を妨げることになる。その按配が難しいのだけど...

10. ブルーゾーン
「チームに少なくともひとり、いつも与えられた権限以上のことをするメンバーがいる。」
上司がいないかのように振る舞う人がいる。プロジェクトにとって純粋に良いと思って、命令に関係なく勝手に行動する。それが、やり過ぎるというわけではない。自分の権限を限界まで引き延ばすだけのこと。この領域が「ブルーゾーン」だ。対して、指定された任務だけを遂行するのは「グリーンゾーン」で、権限の範囲外を侵すのが「レッドゾーン」。ブルーゾーンで行動する根本には自由思考がある。その範囲を心得ている人は、レッドゾーンで動く時には必ず許可を求める。つまり、その境界を認識できる優秀な人材で、チームにとって非常にありがたい存在なのだ。おそらく、それで失敗してクビになっても本望だと思っているのだろう。そのぐらいの覚悟と自信があるのだろう。
また、給料よりも仕事そのものが好きという人たちがいる。仕事が好調だったり、製品がクールだったりして。給料が上がればそれはそれでうれしいが、それ以上に仕事の質にこだわる人たちだ。落ち着いていて、仕事を楽しむ雰囲気を醸し出し、チームに良い酸素を与えてくれる。しかも、監督する必要がまったくない。自然体で純粋に知への渇望をみなぎらせている。こういう人物は扱いやすい。だが、ちょっと扱いを間違えると、あっさりと組織から去っていく。優秀だからといって何もかも仕事を押し付けると、次第に嫌気がさす。そういう人間の代用は容易には見つからない。

11. 隠れた美
「完璧というものは、付け足すものがなくなったときではなく、取り去るものがなくなったときに達成される」
-- アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ
隠された機能が美的感覚など無縁だというのは、とんでもない間違いだと指摘している。そして、仕事の成果がほとんど見えない状況では、細部までもよく見てデザインの質を評価するマネージャの存在は、設計者に大きな影響を与えるという。自己満足かもしれないが、コードにはエレガントに書きたいという欲望が込められている。見えないところにこだわりを持ち、宇宙原理のような崇高な領域に向かったりするのが、プロとしての特質でもあろうか。この特質は、芸術家のそれと似ている。

12. 生半可なアイデアの美徳
「強いチームは、未完成のアイデアでも安心して口にする。このようなことを奨励しているチームは多い。」
強いチームは、生半可に思えるアイデアでも育てようとするという。ブレーンストーミングや、創造的なワークショップがうまくいくのは、そのアイデアが不完全でも、不可能に思えても、馬鹿げているようでも、臆せずに発言できるところにあろう。そこに個人的な中傷や嘲笑などはない。完全武装しないとアイデアが発言できないのであれば、イノベーションの起こる可能性を封じることになる。したがって、雑談もまた仕事のうちと考えている。もしかして、雑談好きの酔っ払いには困ってるかい?

13. テンプレートゾンビ
「文書の内容を検討することより、標準文書を作成することに懸命になっているプロジェクトチームを見つけたら、そこはテンプレートゾンビの国である。」
テンプレートが必ずしも悪いわけではない。むしろ、一貫性のある文書は読みやすい。だが、すべてのドキュメントが、内容的に画一化できるものではない。
ちなみに、ドキュメントレビューで、文字の大きさ、フォントの種類、誤字脱字などを指摘することを、我チームでは「姑チェック」と呼んでいる。こういう気配りのできる人は非常に貴重だ。おまけに、内容までチェックしてくれれば、これほど強力なことはないのだけど...いや、すぐにそうなるさ!

2011-08-07

"シックスシグマ" シビル・チョウドリ 著

本棚を眺めていると、時々まったく見覚えのない本に出くわす。だが、嘆くことはない。アル中ハイマー病患者のささやかな喜びなのだ。そして今宵も、百ページほどの入門書を見つけて首をかしげる。アマゾン履歴では十年前に購入したことになっている。そういえば、シックスシグマという言葉が流行ったような。
...んー!今宵の酒は愚痴を加速させやがるぜ。

品質保証がうまくいっているチームは、精度の高い工程管理がなされている。その一方で、工程表に憑かれたプロマネがいる。綺麗に整えられたドキュメントを眺めては、満足感に浸っているようだ。工程表は効率を図るための手段に過ぎないのに、工程表の作成自体が目的化している例は珍しくない。
工程表といえば...日本政府は、福島原発の進捗状況をほぼ工程表通りだと発表した。いまさら何を。そして8月、オープン化された枝野官房長官の定例会見へのフリーランス記者の申し込みがゼロだったことが報じられた。4月に遡ると、海外メディア向けに開催された東電、原子力安全、保安院の合同記者会見で、出席者ゼロだったことは記憶に新しい。政治屋や大本営化した大手マスコミが肝心なことを発表しないことは、世間では周知とされつつある。一方で、記者クラブの団結力は相変わらずか。クラブ活動とは、よほど楽しいものらしい。アル中ハイマーも夜のクラブ活動は欠かせない。
プロマネが工程を誤魔化し始めると、最悪な状況に向かいつつある前兆だ。そして、納期ギリギリで重大な問題が発覚するようにできている。これは、一種のマネジメント法則と言っていい。日本政府の様子をマネジメントの失敗事例として眺めるならば、これほど良い題材はなかろう。...any questions ? (無人の聴衆に向かって)

ISO9000のような国際標準規格を取得して、鼻高々にしている品質管理部長を見かける。理想郷にでも憑かれたかのように。そして、現場から愚痴が聞こえてくる...わざわざプロセス間のドキュメントを増やしてどうする!品質保証とは効率を悪くすることなのか?開発計画を短縮しても開発期間が延びるという矛盾を誰か説明してくれ!などと...
監査資格を持った連中を接待して経費が嵩むとは、なんとも滑稽だ。そういえば、むかーし職印の日付部分が、はめ込み式だと面倒だから、全員に回転式が配られたという話を聞いたことがある。今ではデジタルスタンプでバッチリかな?なるほど「カイゼン」とは「カイザン」のことか。それにしても、TQMやらISOやらと連呼しながら、資格や肩書きに目がないオヤジたちがいる。これも一種の宗教のようなものか。アル中ハイマーもウィスキーの銘柄には目がない。

シックスシグマの語源は、統計学の標準偏差に用いるσ記号である。もともとは、品質特性を正規分布と仮定した場合、欠陥率を100万分の3か4に抑えて、バラツキ範囲を6σにするという発想だ。1980年代、モトローラ社は日本式品質管理を参考にしながら、その概念を拡張させて品質改善手法を開発した。この手法にGEが目を付けると、統計学的な経営理念に発展させ、世界中に広まった。ジャック・ウェルチは、シックスシグマにおける活動を「GEが取り組んだなかでもっとも重要な活動」と語ったという。
しかし、多くの企業はよく理解せずに導入したために、成果が上がらず経営者たちを失望させた。コンサル会社が巧みに語れば、お偉いさんは楽園のようなものを夢想する。そして、大金を投じた企業も少なくないだろう。6σというネーミングが、管理職をビビらせるところもある。「コンサルとは、混乱させる猿」と誰が言ったかは知らん。いや、自ら「混乱する猿」だっけ?
得体の知れない新プログラムを宣伝効果だけで導入すると、新興宗教と化す。そして、最大の被害を受けるのが中間管理職だ。上級管理職のオヤジたちが、あまりにも現場から乖離したシステムを導入したがるのはなぜか?そのリスクを考えないのか?あるいは、現場を知らないだけか?
改革の成否は、現場の人間にいかに哲学的に浸透させるかにかかっている。シックスシグマの本当の力は単純さだという。それはピープルパワーとプロセスパワーを組み合わせたプログラムだという。
「シックスシグマにおいて品質の向上は、目標を達成する手段に過ぎない。目標そのものではないんだよ。目標は品質向上のための品質向上ではなく、顧客満足度を上げて収益を増すことだ。仮に品質を向上させても、顧客が不満を感じたり収益が減ったりしたら、本末転倒になってしまう。」

1. 思想と理念
あらゆる製造工程において品質が求められるのは当然だ。欠損が増えれば、それだけ収益が減るのだから。不良品をなくそうとすれば、検査を厳しくするという防御的な発想に走りがちだ。人間は目の前の現象に囚われるやすい。
しかし、シックスシグマの理念には、不良品が発生する原因を根絶するという思想がある。例えば、製造ラインにおいて、不良率を高める原因が機械設備にあるとすれば、それを客観的に判断できるところまで計測して、大胆にシステムを入れ替えるという攻撃的な発想をする。コスト削減だけからは、何も生まれない。だが、何をやっていいか分からなければ、それぐらいしかできないのも事実だ。
ここでは、品質を重視するのは当然だが、それ以上に「やり直しをしない!」ことに重点を置く。優秀なプロマネは、後戻りすることが最も無駄だということを知っている。
また、よくある考えに品質向上にはコストがかかるというのがあるが、それは間違いだという。シックスシグマを導入した企業は、逆の発想をするらしい。
「導入企業は、品質がコストを節約するということを理解している。不良品、保証にかかる金、返品を減らせるんだからな。そのすべてが収益増につながる。」
シックスシグマは、財務と品質を区別するのではなく、協調関係にある画期的なプログラムだという。
こうした発想は、開発や設計の思想にも導入できるだろう。開発者は要求仕様に忠実に設計しようとする。そして、仕様通りになっているか、厳しいチェック作業を行う。だが、仕様自体が思想的におかしいとか、一貫性がないといった場合も少なくない。企業文化によっては、部署の力関係によって仕様が決定されることもある。そのために奇妙なチェック項目が増えて意欲が削がれる。複雑な仕様は検証工程を指数関数的に増加させるだろう。
ならば、最初からミスの起こりにくいエレガントな仕様を目指してはどうだろうか。奇妙なデザインは捨てることから検討したい。おいらは、上流工程にこそ設計品質の根幹があると考えている。充分に検討された仕様は日程の精度を上げる。そして、問題は早めに発覚し、最初は苦労するものの仕事をだんだん加速させる。なによりも大きな効果は、エレガントな組織文化が開発者のモチベーションを持続させることだ。

2. 分析と数値化
シックスシグマでは、あらゆる要素が測定され数値化されるという。そして、規律、ストラクチャ、統計に基づく意思決定を土台とし、投資利益率や人材利益率を最大にするという。シックスシグマの専門家は、「自分が話したいことを数値で表現できないうちは、そのことを理解しているとは言えない」とよく言うらしい。
また、シックスシグマを導入したからといって、必ずしもシックスシグマの品質が達成できるわけではないという。数値的には、ワンシグマで約30%、ツーシグマで約70%、3.8シグマで99%、きちんと仕事をしていることになる。そして、シックスシグマに近づくように努力する。ほとんどの事業は、スリーシグマからフォーシグマあたりで行われているという。1%のミスでも大きいが。測定する際には、DPMO(Defects per Million Opportunity)という指標を使うという。
 DPMO = (欠陥数/機会) x 100万 :100万機会当たりの欠陥数。
確かに、開発、設計、生産、検査、サービスなどあらゆる工程において客観的判断を下すために、数値化できればありがたい。しかし、それが最も難しいだろう。シックスシグマを機能させるためには、統計情報の収集方法と分析能力が鍵を握りそうだ。統計情報の扱いを一歩間違えば、とんでもない方向に導くことになる。

3. ピープルパワーとブラックベルト
「トップの連中が時間をかけてシックスシグマを理解し、サポートしてくれなきゃ、プロジェクト・リーダーに勝算はない」
そんなことは、シックスシグマに限ったことではない。中間管理職が特攻隊になっている組織を、時々見かける。
シックスシグマを実践する組織はトップダウンで形成されるという。まず、取締役の一人が「エグゼクティブ・チャンピオン」となって、プロジェクト全体の監督とサポートにあたる。そして、全員に熱意を伝えたり、社内の障壁を取り払い、専門プロジェクトを完全サポートする。エグゼクティブ・チャンピオンは、実際に仕事をする「ブラックベルト」を指名する。それは、最も信頼のおける人物で、シックスシグマの真のリーダである。そのサポートスタッフが「グリーンベルト」である。ブラックベルトは、管理能力と技術能力を兼ね備え、熱意や知力があって創造的でなければならないという。しかし、組織にそんな人材を一人見出すだけでも難しいだろう。組織と現場の双方を熟知した人物となれば、中間管理職ということになろうか。だが、中間管理職にそこまで権限を与えていいのか?と抵抗する上級管理者も少なくない。選出の段階から政治的な思惑が絡めば成功の見込みはない。ブラックベルトが企業の未来を担うというわけか。となれば、エグゼクティブ・チャンピオンの現場感覚と眼力にかかっていると言ってもよかろう。

4. プロセスパワー
プロセスで重要なのは、まず問題点を明確に定義すること、そして、結論を急ぎ過ぎないことだという。だが、お偉いさんの最も悪い癖は結論を急ぐことである。その気持ちも分からなくはないが...会議では、あからさまに結論だけ述べろ!と指示するオヤジがいる。最初から考える気がなさそうだ。経営会議の前日になると、現場の意見を集めて回るオヤジまでいる。基本は入念に情報を集めることであろうが、収集方法の違いだけでまったく違った結論を導いたりする。統計情報から様々な解釈ができるのは、今日の社会学者や経済学者たちが証明している。
目的からすると、顧客を不愉快にさせる原因から手をつけるのも一つの考え方であろう。だが、製品やサービスの満足度を調査するにしても、顧客の本音を引き出すことは難しい。アンケートを実施したとしても、不満のある場合、細かく指摘する人もいれば、二度と買わないから答えないという人もいる。満足していても厳しい意見はあるだろうし、不満でも人が良くて優しく振る舞う人もいるだろう。よく見かけるのは、サービス解約時にその理由をアンケートで答えろ!というものだが、真面目に答えると思っているのだろうか?
しばしば経営者は、「顧客目線になれ!」と檄を飛ばす。その通りだろう。だが、本当にその意味を分かっているのだろうか?新製品を開発するにしても、顧客自身が何を求めているか分からないことが多い。アンケートをとったところで、せいぜい現存製品に改良したものを思いつくぐらいであろう。顧客から現存しない新アイデアをもらおうなんて、虫が良すぎる。だから、プロトタイプのようなものを提供しながら、顧客の様子をうかがったりする。新製品の開発にリスクをともなうのは当然だ。にもかかわらず、マーケティング部は、「顧客が求めているのはコレだ!」と強気だ。まるで株価上昇を連呼する証券アナリストのように。彼らの市場調査を疑いたくなる。だいたいの企業において、営業と開発はあまり仲が良いものではないようだ。
経営者は、技術者はマーケティングを考えていないと批判する。そして、新製品は世間に登場させるタイミングが重要で、スピード勝負だ!と強迫する。近年、なんでもスピード重視の傾向がある。その割には、負荷を減らしてスピードを買うといったことはあまりなされない。プロジェクトで適切に処理できないほどの仕事を受けるプロマネは卑怯であろう。大胆に仕様を削ったり、やってはならないプロジェクトを止める決断が重要なのだ。尻を叩いて品質を犠牲にすれば、技術者の精神状態は危険になる。優秀な人材は他に活路を見出すだろう。そこで経営者たちに問いたい!多くのケースで二番煎じが成功するのはどういうわけか?
...愚痴おしまい!