2010-02-28

"存在と時間(上/下)" Martin Heidegger 著

マルティン・ハイデガー著「存在と時間」は、いくつかの翻訳版があるようだが、本書は、ちくま学芸文庫版(訳:細谷貞雄)である。

難解な哲学書を読むといつも思うことがある。用語の使い方が一語多義的とでも言おうか、その発言に一貫性さえ疑いたくなる。しかも、辞書にも載っていない作者独自の用語が登場し困惑さを増す。だが、その困惑さには真理という味付けがなされるせいか、心地良いものがあるから不思議である。哲学者は、人々が国語辞典の世界に幽閉されるのを横目で眺めながら、存分に自由を謳歌しやがる。哲学書とは、作者が自ら創造主となる世界というわけか。本書はその傾向が際立っている。翻訳するにしても、通常の日本語に対応させると違和感があるのだろう。おそらく研究者の間で、ハイデガー語録といったものが出回っているに違いない。あるドイツ人は、「存在と時間」は、いまだドイツ語ですら翻訳されていないと語ったという。そもそも、精神を表象するのに、言語体系で言い尽くすことなどできない。哲学するとは、言語の限界に挑むことであろう。したがって、哲学書が文学作品としての芸術性を発揮するのも道理というものである。
古来、人間精神は実存の概念と対峙してきた。「存在」とは、実に分かりきった概念であるが、その正体を厳密に暴こうとすると説明できない。そして、自己の存在そのものを疑いたくなる。不思議なことに、人間は物事を理解しようとすればするほど深みに嵌り、無限地獄に陥る。人間は解釈することができても、永遠に理解することはできないであろう。したがって、理解した気分になれることほど幸せなことはない。神は、人類が歴史をあげて永遠に見つからない真理に取り組んでいるのを眺めながら、滑稽に思っているに違いない。

人間の認識能力には、「存在」という基底認識があるように思える。つまり、認識は、精神の中ですべての対象の存在を意識するところから始まる。その対象が現実的に、あるいは仮想的に存在するかは別にして。これがデカルト的な実存であろうか。そして、「存在」の対象としてのスーパークラスに自己の実存があり、すべての認識はサブクラスとして派生しているかのように映る。これがプラトン風のイデア論に通ずるものを感じるわけだ。したがって、すべての認識は自己の実存を前提としている。その前提が崩れた時、自己喪失に悩み、精神分裂に陥る。人間がもっとも怒りを覚えるのは、自尊心を傷つけられることであろうか。これは、自己の存在を否定されることへの反応である。地位や名誉を誇示したり、既得権益にしがみつくのも、自己の存在意義を求めているのだろう。こうしてブログを書くのも自己の存在を確認しているのかもしれない。したがって、充実とは、自己の存在を確認できる瞬間ということになろう。そして、自己の存在を無意味と結論付ければ、自ら命を絶つ。人間は、自己の存在という実存証明のできない概念を追いかけながら、そこになんらかの意味を持たせたいと願って生きている。
「存在」を基底認識とするならば、「時間」もまた、基底認識に限りなく近い位置にあるような気がする。人間は、あらゆる存在を時間の流れの中で認識しているように思えるから。時間を抽象化すると、過去、現在、未来で集約できる。ただ、現在だけが瞬間という特異な性質を持っている。認識は現在という瞬間にだけあり、精神はその瞬間しか味わうことができないのに、過去と未来を意識しながら、現在の存在位置を確認する。しかも、過去と未来は永遠に感じる。両者の性質は完全に異なり、過去は悲しみと失望で暗く、未来は繁栄と喜びで明るい。おまけに、過去は片時も休むことはなく未来を抹殺し続ける。昨日はおとといの未来であり、明日はあさっての過去であって、結局は同じものなのに。突然人生の岐路を向かえると、その重要さにも気づかず、後になって準備が整っていなかったことを悔やむ。おまけに、神は「おとといおいで!」と囁きやがる。これを「後悔先に立たずの原理」という。
本書がカントの主張をちりばめながら論究しているあたりは、カント哲学を前提にしているのだろう。カントが純粋主観を存分に堪能させてくれるのに対して、ハイデガーは客観を混ぜながら味付けする。前者はモルトの味わい深さを語り、後者はブレンデッドも負けていないと語りかける。だが、結局、客観の限界から主観に引き戻される感がある。やはりモルトかぁ。いずれにせよ、哲学するとは、美味い酒を飲むことに違いはなさそうだ。カントは、認識の第一歩を「関心」で語った。ハイデッガーは、実存認識の第一歩を「気分」で語る。ちなみに、アル中ハイマーは、それらを「気まぐれ」と呼んでいる。

カントは、純粋な認識を「空間」と「時間」だけで説明し、「ア・プリオリ」という言葉を登場させた。ハイデガーは、更に掘り下げて、空間性よりも時間性を崇高な地位に置きつつ、実存性に時間性を加えた「現存在」という言葉を登場させる。そして、「現存在」の本質的目的は、良心を持とうとする意志と死へ向かう存在によって規定されるという。ただ、実存の概念が説明できないのに、その終焉である死の概念を説明できるはずもない。
おいらの感覚では、すべての認識は精神の中で空間イメージとして意識しているような気がする。ボトルという空間の中で酒が存在するように、すべての存在認識は、なんらかの空間を前提している。数学の方程式や命題を理解しようとする時も、独自の空間イメージを想像しながら思考している。ただ、肉体や物体は空間の中で物理量として測れるが、精神の実体を測ることはできない。現実に、強烈なアルコール度数は実存空間を崩壊しやがる。となれば、精神に空間的イメージが無くても、なんらかの認識ができるのだろうか?
本書は、存在認識の根底に時間性があると主張する。精神から時間性までも奪ってしまえば、認識すらできないのだろうか?すべての事象は時間性という無常の中で存在するのだろうか?いや、そうとも言い切れまい。何かに集中すれば、精神はフロー状態となって、無我の境地のような心地良い気分になることがある。これは時間が無と化す現象のように思える。しかし、崇高な無限を感じる瞬間と説明できなくもない。時間ゼロも無限時間も一種の時間性であり、本書の言うように、精神は時間性に支配されるのかもしれない。精神病患者が時間の断絶によって分裂症を起こす現象も、通常の人が時間の連続性を認識するのに対して、離散的に認識しているという説明ができるかもしれない。では、精神の持つ純粋量を時間性だけで規定すれば、果たして精神の存在を説明できるのか?本書は、それで完結するわけではない。訳者細谷貞雄氏の後書きの言葉は印象的である。
「卓越した著作というものは、それが未完結のままであるときには、完成した著作とはことなる一種特有の衝動を読者に与えるものである。」
本書は、様々な立場から解釈がなされ、様々な評価と批判が試みられてきたという。その真意は、依然としてモザイクのままだ。あらためて哲学とは、無責任に問題提起をしながら、完結できない学問であることを知らされる。すべての学問が、そうした性格を持っているのかもしれないが...
哲学という一見高度に見える学問は、生きる上であまり役に立たない。この学問は苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。論理的な解明を深めようとすると鬱病にさえなる。だからといって、それ以上に何ができようか?自己にとって重要なのは「生き方」である。人間は、自己の存在に重みがあると信じながら生きている。ハイデガーは、このような人間の有様を「現存在」と呼んでいるのだろうか?本書は、ひたすら「現存在」について言及を繰り返す。実存論は、盲目なパラドックスと不条理との衝突で挫折するか、あるいは、ご都合主義の一人合点で空転するよりほかはないかのように。「現存在」は、自己の存在を了解しながら宇宙空間と慣れ親しむ。そこに理論的な洞察を必要としない。目の前の純米酒の存在に、理論的な意味など必要ないのだ。味わい深い酒を求めてとか、癒しの空間を求めて、なんて理由はいらない。五感を総動員させて精神と戯れたいからなどという御託もいらない。アル中ハイマーが実存論の本質を語るとすれば、「そこに酒があるから」と一言で片付けるのであった。

尚、以下は、難解な文章に、泥酔者が勝手な解釈を加えた結果である。

1. 現存在
哲学の「存在」は、原子のような物理学的な存在を問題にするのではなく、生への問い掛けを探求する。精神を生物学に組み込んだところで、なんの埋め合わせにもならない。精神は、ただ「生きているだけ」では説明がつかないのだ。本書は、現存在の構成要素は「世界 = 内 = 存在一般」であるという。世界の内とは、空間を意味し、現存在とは、空間で互いの存在を意識し合う存在者といったところだろうか。ただ、空間の存在は物理的な存在であり、客観的事実あるいは客体である。それが認識の中で、主観的あるいは主体と混ざりながら、精神という得体の知れない存在者が浮上する。得体が知れないから霊的な洗脳も現れる。精神が単純明快な構造であれば問題にもされないだろう。だが、人間は得たいの知れないものに憑かれる習性があり、おまけに錯覚や誤謬を犯す。誤謬認識は、信じている間は正当化され、もはや、現存在を客観性だけで説明することはできない。主体とは、人間が精神を獲得した時点で成り立つ概念と言ってもいいだろう。自分がそこに居るということは、環境を含めた主体として認識される。人間が主観的思考が強いのも、自らの存在意義を認めたいという欲望が働いているだけのことかもしれない。精神を持つということは、他から差別して自己の優位性を保ちたいと願う一種の自己主張なのかもしれない。生存競争に勝利したいという一種の自己防衛なのかもしれない。思い上がった時に一種の解放感のような喜びを感じるのも、快感を求める本能なのかもしれない。とはいえ、この主体的認識を感情論だけで説明することはできそうにない。

2. 用具的存在者
人間は、あらゆる事物との関わりを認識する。関わりとは、有用性や利便性といった意識である。対象が人間同士であっても、自己の都合によって道具としての認識が働く。道具の持つ性格は、それが持つ属性にかかわるもので、客観的に存在する。人間は、道具の属性という知識を持っている。だが、それを用いる時、主観的な認識が介在する。道具は、優れたアイデアによって使われて、はじめて能力を発揮する。道具は、しばしば製作者の意図と反する使われ方をする。数学は客観的な道具であるが、科学や工学で用いられる時その使い方までも意図されるわけではない。古代数学者は、素数の発明が暗号化アルゴリズムに使われるとは考えもしなかっただろう。まさか、占いの手段が、コンピュータ工学に利用されるなどとは思いもしなかっただろう。太陽という天体は、日常生活に明るさや温かさを提供し、現在ではエネルギー資源となる。つまり、人間は自然の存在物ですら道具と見なしてきた。自然に芸術性を感じるのも、精神を癒すための道具と解釈することができる。客体は、精神の中で主体と結びついてこそ、その威力を発揮すると言ってもいい。本書は、人間認識で「主観 = 客観 = 関係」を前提しなければならないと主張している。

3. 死に臨む意識
実存を語るには、実存しない状態を考察してみるのもいい。そこで、人間が必ず直面する問題に死がある。この絶対的な存在に代理人を立てることはできない。しかし、自らの死を認識するには、その瞬間の前後を認識できなければならない。現在という瞬間は、過去と未来に挟まれながら連続性で認識されるのであって、もはや自らの死を語ることは不可能であろう。ただ、他人の死から肉体の残存を観察すれば、客体的に体感することはできる。とはいっても、人間の実体を肉体のみで説明することはできない。死の解釈は様々である。影響力のある者は、死んでもなお人々の心の中に生き続ける。こうした心情は、実存論と言うよりは、むしろ信仰に属すのかもしれない。学問においても死の解釈は異なる。生物学では、死は生命現象の一つであり、その人の生きた証は遺伝子構造で受け継がれる。歴史学では、人物の残した功績が伝えられる。神学では、呪術や霊感といった力を発揮する。いずれにせよ、人間世界における勝手な解釈に過ぎないが、最も客観性に近いのは生物学的な解釈であろう。ならば、実存も生物学的に解釈するのが自然に思える。だが、人間認識は極めて主観的な領域にあるから厄介なのだ。死の概念が客観的になれないのは、死人の立場を語れる人間がいないからであろう。人間が死について最も親身に語れるのは、自らの死が迫った時だけかもしれない。人間は自らの死から逃れられない。だが、精神的に死の意識から逃れることはできるかもしれない。悔いのない人生を送ろうと考えるのは、死に臨む意志を示している。老人病とは、自らの死を恐れず、自然を受け入れる度量を身に付けることかもしれない。「生きる」とは、自己の死を受け入れる精神修行の場と言えよう。死を覚悟できた時に真の幸福が得られるのかもしれない。命を賭けられるものが見つかれば、幸せになれるだろう。
本書は、「時は過ぎ去る」と言うのに、「時が発生する」と言わないのはなぜか?と問い掛ける。人間は不快な状態があれば、「時間よ去れ!」と念じ、不快が永遠に続くと思い込めば、墓場で安住したいと考える。人生とは、死までの暇つぶしであり、生き甲斐とは、死の恐怖から逃れる手段というわけか。

4. 良心の呼びかけ
第三者から呼びかけられるような存在を感じることがある。これが良心というものか。カントは、道徳形成において、自己の中で立法的な立場のような認識が主導すると語った。それは、良心の呵責とでも言おうか、自己を客観的な立場に置こうとする意志である。人間は、主観性によって精神が暴走することを、本能的に知っているのかもしれない。人間精神には、自らを談判する機能が具わっている。同時に、良心的意志には、世間体を気にしながら自己を客観的に装う見栄もあるのだが。孤独を求めるのも、精神の中の第三者に相手にしてもらいたいという意識が働いているのかもしれない。あるいは、孤独を感じながら世間の中の位置付けを客観的に確認しようとしているのかもしれない。こうした意識は、自己への関心によって生じるのだろう。人間は寂しがり屋なのさ!人間は、あらゆるものを批判しながら、愚痴を言いながら、勝手な能書きを並べながら、自己の存在を確認しているのだろう。精神は自己の立法権を有し、最高裁のようなものを自己の中に形成する。これが理性というやつか?
本書は、良心の呼びかけは、了解の意識が働いている証だという。良心の呵責を感じるのは、そこに「負い目」があるからであろう。では、誰が負い目を告げるのか?宗教家は平気でそれが神であると答える。なるほど、精神構造をすべて神のせいにすれば楽になれる。そして、犯罪も残虐もすべて神のせいにできるわけだ。義務とか責務の根源は、自己の実存認識からくるように思える。つまり、自らの存在を無意味にしたくないという欲望に過ぎない。存在とは、重荷なのか?良心の根源も、負い目であり、重荷なのか?精神を持つこと自体が重荷だとすれば、キェルケゴール的な絶望が見えてくる。人間は恥ずかしい過去を隠しながら生きている。自虐的な精神も一種の呼びかけであろう。自虐的な心は、良心の存在を確認しながら精神に一種の平穏をもたらす。ただ、度が過ぎるとノイローゼになる。良心は、前向きにも後ろ向きにも警告を発する。良心の自己満足と、良心の呵責によって。絶対的な価値観を見出すことが不可能であれば、相対的な価値観に頼るしかない。そして、他人よりも優れた認識の持ち主であることを競う。その認識を知識や経験で武装する。したがって、知的生命体が精神を持つということは、欲望の度を増すことになろう。そして、究極の知的生命体は悪魔へと進化するだろう。神は退屈しているのかもしれない。神は、悪魔という永遠のライバルが登場するのを酒を飲みながら、のんびりと待ち受けているのかもしれない。

5. 認識の歴史性
「歴史とは、実存する現存在の、時間のなかで起こる特殊的な経歴であって、そのさい相互存在のなかで過ぎ去りかつ同時に伝承されてきて、今日なお影響しつづけているものが、とくに強い意味で歴史として受けとられるのである。」
歴史は時間的存在者であるという。つまり、経験したことや、過去の出来事もまた、認識の中で存在し続ける。
「死へ臨む本来的存在、すなわち時間性の有限性こそ、現存在の歴史性のかくれたる根拠である。」
歴史が優位性を保つのは、既成事実だからであろう。既成事実は了解して覚悟するしかないのだから。なるほど、女性から「できちゃった!」と告白されれば、男性は沈黙するしかない。そして、自らの実存性を否定しながら法律的に処理する。つまり、法律とは、実存論者の避難場所というわけか。
現在の評価、あるいは位置付けは、歴史に照らして判断される。それは、現在のその瞬間が絶対的な存在ではなく、過去と未来の間で相対的に存在するからである。したがって、理念構築は、経験の積み重ねを前提するしかない。未来予測は、現在の瞬間から予測されるのではなく、過去からの流れから予測される。ニーチェはその著書「反時代的考察」で、好古的、批判的、記念碑的という三つの様式で歴史学を区別したという。なるほど、歴史の解釈には、擁護派と批判派とその中間派で争われる。この三重性で、どれが正しいかを判断することは難しい。ただ、歴史の解釈が多数決で決定付けられるならば、誤謬を犯すことになる。そうなると、おそらく誤謬すら認識できないだろう。ここに歴史学の有害性が現れる。
人間は過去の出来事を忘れても、記憶の欠片の中で時間性を持たせる。記憶違いで前後することがあったり、連続性を失い離散的になっても、不都合を感じないように埋め合わせる。痴呆症を怖れるのは、時間性を失うことを自我を失うことと同じと考えるからであろう。自己喪失とは、自己の時間性を失うことかもしれない。だとすると、記憶が部分的に失われても、時間性を保つために、何かで埋め合わせできれば精神病にならないのだろうか?自我の本質とは、時間性にあるのかもしれない。なんとなく自我(じが)と時間(じかん)には同じ音律を感じる。

6. ヘーゲルの時間的解釈
「歴史の発展は時間のなかへ落ちる」
ヘーゲルは、時間が精神を収容しうるものとして解釈しようと試みたという。アリストテレスの「自然学」では、時間は場所と運動に連関するとし、ヘーゲルはこの伝統を受け継ぐようだ。ただ、ヘーゲルは、時間と空間を並列的に一括したわけではないという。つまり、空間の存在は時間に規定され、空間よりも時間の方がより崇高ということらしい。だが、物体は空間の中で存在しうる。物体である肉体は、宇宙空間の中でしか存在しえない。もし、精神が肉体を離れ死を超越した存在であれば、それは時間の中で存在するのであって、もはや空間など、どうでもええことになる、などと言えば宗教家は喜ぶだろう。精神は、時間を客観的な存在者と認識しているのかもしれないが、主観的に認識しているところが大きい。だって、ホットな女性と空間を共有すれば、時間は思いっきり短く感じるではないか。いや、アインシュタイン的に言えば、女性の発する電磁波効果で空間が歪み、本当に時間は短くなっているかもしれない。
ヘーゲルは、精神が時間という絶対者に支配され、その中へ落ちていくと言っているのか?言い換えれば、時間を凌駕しない限り、真の精神が宿ることはないということか?んー、よく分からん!ということで、購入予定リストにヘーゲル哲学を加えておこう。

2010-02-21

"ゲーテ格言集" 高橋健二 編訳

ゲーテほど、その残した言葉を引用される人物も珍しいだろう。その領域は文学にとどまらず、科学や数学にも及ぶ。なにかにつけて、文章構成にゲーテの言葉を埋め込むと引き締まるから不思議である。アル中ハイマーが誤魔化すためによく使う手だ。
改めて格言集を読むのもおもしろいが、原作を読まないとニュアンスの掴みにくいものも多い。本書は、どの作品から引用しているかが明示されているので、ゲーテの作品の道しるべになってありがたい。
格言の中には、多くの矛盾が見られる。正反対のことが言えるということは、人間の不完全性を暗示していると言えよう。たとえ、その言葉が間違っていると感じたとしても、そんな感覚ですら捻じ伏せてしまうような「言葉の力」なるものがあるように思える。論理を超えた論理性と言おうか...また、ゲーテの哲学には、キリスト教の予定説的な世界観が潜んでいるように映る。それは、運命とも言うべきか、宇宙原理に支配された自然観であって、アリストテレス的な人間中心的で目的論的自然観とは少々異なる。晩年、ゲーテは次の言葉を繰り返したという。
「沈んでは行くが、いつも同じ太陽だ。」
これは、肉体は死んでも精神は永遠であることの隠喩だという。ゲーテのお気に入りは、次の言葉だという。
スピノザ曰く、「真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならない。」
なんとなくスピノザの影を感じながら読んでいたが、納得である。

ちょいと、ゲーテの言葉を引用しながら作文してみよう。
ゲーテ曰く、「たやすく獲得されたものは気が向かない。無理に手に入れたものがひどく喜ばす。」
恋愛は、所有していると錯覚するところから始まる。人間は愛する者が幸せになるだけでは満足できない。自分が幸せにしたと自負できなければ気が済まない。自分自身が介在できなければ不幸になることすら望む。単に恋愛で勝利したいがために。これが人間の持つエゴイズムであり、人間特有の「所有の概念」であろうか。実は、人生で所有できるものなんて何もないのに。女性という寿命の長い生き物を理解することは永遠にできないだろう。
ゲーテ曰く、「理解していないものは、所有しているとは言えない。」
一般的に、夫婦の組合わせを眺めると、夫の方が年上というケースが多いのも不思議である。10年も長生きする上に年下では対抗する術がないではないか。とはいっても、若い娘の前でにやけてしまうのは男の悲しい性である。女は永遠の若さを装うために化粧を塗りたくり、男は永遠の若さを信じて女に溺れる。永遠の生を願うかのように。
ゲーテ曰く、「年をとることは何の秘術でもない。老年に堪えることは秘術である。」
男は看取られる運命にあるのか?男は死に顔を曝け出して愚痴られる運命にあるのか?そして、残された女は財産計算に明け暮れる。これが「所有の概念」というものか。したがって、借金を残しておっ死ぬのが男の甲斐性というもである。
...なるほど、ゲーテの言葉を引用するだけで作文は楽しくなる。

さて、酔いが回ってきたところで、気に入ったところを軽くつまんでみよう。なぜかって、そこにスモーキーなモルトにピッタリのおつまみ、燻製チーズがあるから。

1. 真理と誤り
「信用というものは妙なものだ。ただひとりの言うことを聞くと、まちがったり誤解したりしていることがある。多くの人の言うことを聞いてみても、やはり同じ事情にある。普通、多ぜいの言うことを聞くと、全く真相を聞き出すことができない。」

「人間と、人間をとりかこむ色々な条件から、直接生ずる誤りは赦すべく往々尊敬に値する。しかし、誤りの後を追う者はそんなに公平に遇されるわけにはいかない。口真似して言われた真理はもう魅力を失っている。口真似して言われた誤りは味もそっけもなく笑うべきものである。自己の誤りから脱出するのは困難である。往々にして偉大な精神や才能の人においてさえ不可能である。他人の誤りを受け入れながらそれに固執する人は、働きの乏しいことを示す。誤りの本尊の頑固さには腹が立つが、誤りの模倣者の強情さは不愉快でしゃくにさわる。」

「真理と誤りが同一の源泉から発するのは、不思議であるが、確かである。それゆえ、誤りをぞんざいにしてはならぬことが多い。それは同時に真理を傷つけるからである。」

「もし賢い人が間違いをしないとしたら、愚か者は絶望するほかないだろう。」

「権威がなくては人間は存在し得ない。しかし、権威は真理と同様に誤りを伴うものである。それは、個々のものとして消滅すべきものを永遠に伝え、固く把持さるべきものを拒み消滅させる。こうして権威は往々人類をして一歩も先へ歩かせぬようにする原因となる。」

2. 自然と科学
「自然研究の歴史を見て終始気づくことは、観察者が現象からあまりに早く理論に急ぐため、不完全になり仮説的になるということである。」

「プラトンは、幾何学を知らないものを彼の学校に入れなかった。仮に私が一つの学校を作るとすれば、何らかの自然研究をまじめに、かつ厳密に選ばない人間の入学を許さないだろう。」

「でき上がったものが硬化しないように、作りかえるために、永遠の生きた活動が働いている。...瞬間とどまることがあってもそれは外見だけである。永遠なものは一切のもののうちに活動し続ける。万物は存在に執着するならば、崩壊して無に帰するほかはないのだから。」

3. 芸術と文学
「芸術は一種の宗教心に、深いゆるがぬ真剣さに基づいている。それゆえ、芸術は宗教とよく結びつく。宗教は芸術心を必要としない。宗教は独自の真剣さに基づく。」

「われわれは芸術によって最も確実に俗世間を避けることができる。同時に芸術によって最も確実に俗世間と結びつくことができる。」

「古典的なものは健全であり、ロマン的なものは病的である。...新しいからロマン的なのではなく、弱々しく病的で、実際むしばまれているから、ロマン的なのだ。古いから古典的なのではなく、強く生き生きとして、快活で、健康だから、古典的なのである。」

「文学は、人間が堕落する度合いだけ堕落する。」

「フランス語は、書かれたラテン語からではなく、話されたラテン語から生じた。」

「それによってすべてを知るが、結局かんじんなことは何もわからないような本がある。」

4. 政治と歴史
「自分自身の内心を支配することのできぬものに限って、とかく隣人の意志を支配したがるものだ。」

「財貨を失ったのは、...いくらか失ったことだ!新たなものを得なければならない。
名誉を失ったのは、...多く失ったことだ!名声を獲得しなければならない。
勇気を失ったのは、...すべてを失ったことだ!生まれなかったほうがよかっただろう。」

「不正なことが不正な方法で除かれるよりは、不正がおこなわれている方がまだいい。」

「立法者にしろ革命家にしろ、平等と自由とを同時に約束する者は、空想家にあらずんば山師である。」

「歴史を書くのは、過去を脱却する一つの方法である。」

「二つの平和な暴力がある。法律と礼儀作法とがそれだ。」

「優れた人々は他の者より損である。人々は自分を優れた人々と比較できないので、優れた人々を監視する。」

5. 哲学
「こうしてわたしは、たえまなく聖ディオゲネスのように、わたしの樽をころがす。まじめなことあり、冗談のことあり、愛あり、憎しみあり、これかと思えば、あれ、無いかと思えば、何かあるもの。こうしてわたしは、たえまなく、聖ディオゲネスのように、わたしの樽をころがす。」

「人間があんなに犬をかわいがるのに不思議はない。お互いに憐れむに堪えた浅ましい奴なんだから。」
当時、犬儒学派が流行していたことを揶揄しているような...キュニコス派あたりへに皮肉だろうか?その一方で、「聖ディオゲネス」と持ち上げながら...

「各個人に、彼をひきつけ、彼を喜ばせ、有用だと思われることに従事する自由が残されているがよい。しかし、人類の本来の研究対象は人間である。」

「完全は天ののっとるところ、完全なものを望むのは、人ののっとるところ。」

「人間が、かつてできたことを今でもできると考えるのは、きわめて自然である。未だかつてできなかったことを、できると思う人があるのは、いかにもおかしいが、珍しいことではない。」

「不死の思想は、現世の幸福を取り逃がした人の考えることである。」

6. 自己と自由
「考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである。」

「無制限な活動は、どんな種類のものであろうと、結局破産する。」
「豊かさは節度の中にだけある。」

「自分に命令しないものは、いつになっても、しもべにとどまる。」

「人は自分の肉体あるいは精神についてよく考えると、たいてい自分が病気であることを発見する。」

「すべての人間が自由を得るや、その欠点を発揮する。強い者は度を超え、弱い者は怠ける。」

「人は少ししか知らぬ場合にのみ、知っているなどと言えるのです。多く知るにつれ、次第に疑いが生じてくるものです。」

「自分の持っているものを管理することのできる人は裕福です。それを心得なければ物持ちであるということは煩わしいことです。」

「孤独はよいものです。自分自身と平和のうちに生き、何かなずべきしっかりしたことがあれば。」

「感覚は欺かない。判断が欺くのだ。」
「欺かれるのではない、われみずからを欺くのである。」

「情熱は欠陥であるか美徳であるかだ。ただ、どちらにしても度を越えているだけだ。大きな情熱は、望みのない病気である。それを癒し得るはずのものが、かえってそれを全く危険にする。」

「憎しみは積極的不満で、妬みは消極的不満である。それゆえ、妬みがたちまち憎しみに変わっても怪しむにたりない。」

7. 生き方
「すぐれた人で、即席やお座なりには何もできない人がある。そういう人は性質として、その時々の事柄に静かに深く没頭することを必要とする。そういう才能の人からは、目前必要なものが滅多に得られないので、われわれはじれったくなる。しかし、最も高いものはこうした方法でのみ作られる。」

「人は一生のうちにしばしば述懐する。色々なことに手を出すのを避けなければならない、特に、年をとればとるほど新しい仕事につくことを避けなければならない。だが、そんなことを言ったって、自他を戒めたって、だめだ。年をとるということが既に、新しい仕事につくことなのだ。すべての事情は変わって行く。われわれは活動することを全然やめるか、進んで自覚をもって新しい役割を引き受けるか、どちらかを選ぶほかない。」

「人間は現在を貴び生かすことを知らないから、よりよい未来にあこがれたり、過去に媚びを送ったりする。」

「真剣さなくしては、この世で何事もなしとげることができない。教養のある人と呼ばれる人たちの間に、真剣さはほとんど見出されない実情がある。」

「経験したことは理解したと思い込んでいる人がたくさんいる。」

「愚かな者と賢い者は同様に害がない。半分愚かな者と半分賢い者とだけが最も危険である。」

「なんでも初めはむずかしい。それはある意味では本当かもしれない、だが、もっと一般的にはこう言うことができる。...なんでも初めはやさしい。最後の段階をよじ登るのこそ困難で、それをやりとげることは、きわめてまれであると。」

「古い基礎を人々は貴ぶが、同時にどこかで再び初めから基礎を築きだす権利を放棄してはならない。」

「印象を極めて新鮮に力づよく受け入れ、これを味わうということは、青年のうらやむべき幸福です。批判的認識が増すにつれ、次第に、あの濁らぬ喜びの泉は涸れます。」

「少年のころは、打ちとけず反抗的で、青年のころは、高慢で、御しにくく、おとなとなっては、実行にはげみ、老人となっては、気がるで、気まぐれ!
君の墓石にこう記されるだろう。たしかにそれは人間であったのだ。」

2010-02-14

"ファウスト(第一部/第二部)" Goethe 著

ゲーテを好むようになったのは10年ぐらい前であろうか。その頃に本書を読んで、鳥肌の立つような迫力を感じた覚えがある。前記事で「ウェルテル」を扱ったので、ついでに読み返すとしよう。
ゲーテは、この作品を20歳から想を練り、24歳で書き始め、82歳で書き終えたという。彼は83歳で没したので、この天才詩人にして全生涯をかけた大作ということである。本書は戯曲であり、台詞調で、しかも韻文で書かれているので、調子に乗って一気に読んでしまう。それにしても、この癒される感覚はなんなんだ!音楽の流れるような文章の連続には、もはや手も足もでない。真の芸術は鑑賞者を無言にさせるというわけか。うなるような酒が酔っ払いを黙らすかのように。読み終えた時には満腹過ぎて、いまや何を読んだのかも思い出せない。真の感動から感想を語るのは難しい。感じるままに綴ろうとしても、精神をどこか冷めた領域に置かないと文章は書けないから。感想文を書くということは、余韻に浸るには余計な行為なのかもしれん。したがって、この記事を書くために、またまた再読するしかないのであった。

16、17世紀頃、ドイツには「ファウスト伝説」という広く伝えられた魔術伝説があると聞く。古来から魔術は、宗教と同じように人間の魂を支配してきた。だが、宗教と魔術は真逆な立場にある。宗教が神に帰依し身を捧げるのに対して、魔術は策略をもって神にとって代わろうとする。昔々、科学は魔術に属していた。宗教家にしてみれば、科学は神を冒涜する目障りな存在だったことだろう。13、14世紀頃盛んだった錬金術は万物を黄金に化けさせる。医術や錬金術や占星術は神秘思想と結びついて神の行為を自ら行うものと解釈され、錬金術師や占星術師は人間を惑わせる魔術師と呼ばれた。錬金術が化学の前身であるならば、占星術は天文学の前身と言えよう。本作品は、実存したと言われる錬金術師ドクトル・ファウストの伝説を題材にしている。そのラテン語形「ファウストゥス」には、「幸福なる」という意味があるという。いかにも、神にとって代わりそうな名前である。
主人公は、ファウスト博士と悪魔メフィストフェレス。ファウスト博士は、哲学、法学、医学、また要らんことに神学までも研究した大学者である。彼は、学問からは何も得られないと無力感に絶望している。さて、ファウストの運命は、天国と地獄のいずれへ導かれるのか?悪魔メフィストフェレスは、地獄へ導いて見せると、神と賭けをする。そして、ファウストをあらゆる官能的享楽へと誘惑する。女性美を与えながら次の瞬間には悲劇を与えて精神を没落させようというわけだ。だが、ファウストは悲劇の経験を重ねるうちに、精神の本質を悟っていく。日々勤労に励み、自然の脅威や権力の脅威を恐れることなく、自由に生きることを理想とするのである。そして、ファウストは天国へ導かれるように世を去る。ここには、ファウストの感情論にメフィストフェレスのニヒリズムを対抗させた構図がある。そして、悪魔に人間精神の本性を代弁させる様子がちりばめられる。悟性の発達した現実主義者が数々の教訓を与えるのは、夢想家にとってこれほど役立つものはない。悪魔の策略は、人間を没落しようと刺激しながら、かえって神の業を助けるかのようである。なるほど、宗教も魔術も同類項というわけか。そして、アル中ハイマーは魔術を求めて夜の社交場へと繰り出す。酔っ払いを女性美によって没落させようとしても、小悪魔はかえって若返りの薬となろう。

本書には、西洋思想の転換期と言われる宗教改革やルネサンス時代の精神が現れているように思える。それは、カルヴァン主義の予定説的な天職理念と、自由の概念の対比である。また、知識に頼る人間の性格を批難すると同時に宗教批判もうかがえる。
ところで、ファウストはゲーテ自身を描いているのだろうか?そう思っても不思議ではないだろう。ゲーテが体験的な詩人であることは広く知られる。だが、訳者相良守峰氏は、速断できないと指摘している。
また、専門的なことはよく分からないが、ギリシャ神話にまつわる妖怪たちが登場し、妖怪の性格と人間精神の本質とを絡めながら巧みに構成されるあたりの文学的な意義も深いのだろう。なにしろ、ドイツ哲学とギリシャ神話との融合が見られるのだから。本作品から影響を受けた芸術家が多いのは想像に易い。

[舞台の前曲]
座長、座付詩人、道化人の3人の会話から始まる。座長は、詩人と道化人に盛り沢山をお願いする。とはいえ、見物人の多くは退屈まぎれにやってくる。ご馳走の後の腹ごなしにやってくる。新聞を読み飽きた挙句にやってくる。ご婦人は着飾った我が身を見せものにやってくる。こんな観客の前でやる気が出るはずもない。そこで、座長は煙に巻きさえすればいいと説得する。詩人は、ならば奴隷でも探したまえと座長をあしらう。すると道化人は、その結構な力を使って詩人商売でもおやりなさいと詩人をあしらう。
「有頂天になっていると、悩みが生じる、ほら、いつのまにか、ちゃんと一篇の小説だ。」

[天上の序曲]
主は言う「地上の国では永久に何ひとつ気に入るものはないのか。」
悪魔は答える「気に入りませんなあ、あそこはいつも変わらず困ったもんです。」
主は言う「ファウストは、わしのしもべだ。」
悪魔は言う「なるほど、あの男の奉公ぶりは、地上のものではない。...自分に気違いめいたことも半分は気づいているし、快楽をきわめようとする。」
主は言う「人間は、努力する限り迷うものだ。」
神は、ファウストの悩む姿を見て、いずれ正しい道へ導くつもりでいる。対して、悪魔メフィストフェレスは、人間どもは神に与えられた理性をろくな事に使っていないと揶揄する。そして、ファウストを地獄へ導けるかという賭けが始まる。神が去った後、メフィストフェレスは呟く。
「時々、あのおやじに会うのは悪くないて。だからおれは仲違いしないように、気をつけている。悪魔を相手に、あれほど人間らしく口をきいてくれるとは、しかし大旦那として感心なものだ。」

[第一部]
1. 悪魔と契約
学問に絶望したファウストは、地獄や悪魔も恐ろしくはないが、その代わりにあらゆる歓びを奪われた。それでも、一角のことを知っていると己惚れるよりはましだと慰める。ところで、人間は自我を認識できているのだろうか?人間はあらゆるものを認識しようと努力する。そして、認識していると自負した時にやっかいとなる。永遠の真理に近づいたと己惚れ、悟りの境地を見開いたかのように神と同列に置いてしまう。ファウストには二つの衝動の魂が住み着く。一つは、愛欲に燃え官能をもって現世に執着する。もう一つは、塵の世を離れ、崇高な先人の霊界へ昇っていく。ファウストは自らの霊を呼び込み、霊は衝動と共に天と地の間をさまよう。そして、新たな境地へ連れ出してくれることを願う。そこへ、メフィストフェレスが近づき、悪魔と契約すれば永遠の苦痛から解放されると持ちかける。
「悪魔や幽霊には掟がありましてね、忍び込んだ口から出てゆかねばならんのです。はいるときは勝手だが、出るときは奴隷の身です。」
地獄にも規律があって、悪魔は紳士であり、契約を結んでも安全というわけだ。だが、ファウストは困苦や欠乏は美徳であると反論する。安息できるのは墓場だけなのかもしれないと。メフィストフェレスは「そのくせ死は一こう歓迎される客じゃありませんね。」と皮肉る。そして、メフィストフェレス自身が奴隷にも、しもべにもなると言って享楽へと誘う。

2. 学問という教義
メフィストフェレスはファウストに扮して学生と面会する。学生は弟子にしてくれと迫る。そこで、まず論理学の勉強を勧める。だが、哲学者があらゆる事象を論理的に導いても、その道理を理解するわけではない。おまけに形而上学を学ぶと、理解できないことでも深遠な意味付けをしてしまう。
次に、法律学は関心しないという。法律や制度には、永遠の病が遺伝されていて、条理が非条理となり、善事が苦悩の種になるから。しかも、人間が生まれながらに有する権利などは問題にすらされないと。
では、神学はどうか?この学問となると、誤った道を避けることが難しいという。神学には多くの毒が潜んでいるが、それが良薬と見分けがつかない。しかも、その教えを金科玉条とする。
また、医学の精神などつかむに造作はないという。
更に、言葉には概念があるはずだが、まさに概念の欠けているところに、言葉がやってくるという。言葉だけで立派に議論もできる。言葉だけで体系化することもできる。言葉だけで立派に信仰を示すこともできる。結局、誰しも自分の学び得るだけしか学べるものではないので、学問に励んでも無駄だと説く。
となれば、何を学ぶのか?メフィストフェレスは、女の操縦術を学ぶことを勧める。女の要求や希望に実直そうに応えれば、それだけで丸め込むことができる。まず、学位をとって優れていることを女性に信じこませれば、いちころ!というわけだ。
悪魔は、必ず魔女のような老婆を登場させて魔術を見せる。メフィストフェレスはその種を明かす。人を騙すには、学問と技術だけでは足らず、忍耐が必要だという。そこで、年季の入った「人間もどき」を登場させて説得させる。なるほど、学者や政治家のような権威も似たようなもので、賢そうに見せなければ詐欺は成立しないというわけか。戒律は、正当な論理が記されるよりも、権威のありそうな言葉を並べる方が、ずっと効果があるだろう。知識や学識は、人を騙すための最高の道具となり、あらゆる権威を手中にする山師を育てるというわけか。人間は、知識や技能といった優位性を築きながら、互いに騙し合いながら生きているのかもしれない。酔っ払いがどんな立派なことを語ろうとも、説得力がないのは道理というものである。

3. 少女マルガレーテ(愛称グレートヘン)との出会い
メフィストフェレスは、ファウストにあらゆる女性の典型のような人物を拝ませる。ファウストはグレートヘンにすっかり夢中になる。嘘などついた事のない、純心な真心というやつで。男を改心させるには、一人のホットな女性がいれば十分というわけか。そりゃそうだ!天使のような女性が教祖様ならば、おいらだってカルト宗教に嵌るだろう。真心という欺瞞は、理性と対立するのか?純心な精神には、やがて悪業が宿る。これが人間の本性か?精神が純心なまま鈍感であり続けることが、唯一の救済法なのかもしれない。理想論ばかり主張しながら、美しい言葉だけで啓蒙できると狂信する思想家は、精神の苦しみが少ないのかもしれない。鈍感だからこそ、自分の価値観が最高だと信じて押し付けがましい態度がとれるのかもしれない。物事を探求し知識を得るほど、ますます理解できなくなり、ますます苦しみを背負い込むような気がする。精神の成長とは、没落を意味するのか?本質が見えたと錯覚したあたりで、思考を止めればいいものを!したがって、純米酒は、純心のままでいられる鈍感力を与えてくれるから美味い!

4. マルガレーテとの悲劇
メフィストフェレスは、ファウストをワルプルギスの夜の饗宴へと連れて行き、官能の泥沼に引きずり込む。ファウストが享楽に溺れていると、その中に不吉なグレートヘンの幻を見つけ、彼女に死刑の危機が迫っていることを知る。グレートヘンはファウストの子供を産んでいた。そして、子供を抱いてさすらった挙句、池に投じて殺してしまった。彼女は重罪人として投獄される。彼女を救わんがためにファウストはメフィストフェレスを伴って牢獄へ救いに行く。しかし、グレートヘンは自らの死を恐れ生を切望しながらも逃げようとはせず、神の審判に委ねて刑に服す。自らの罪を認めているところは純心でもある。そして、グレートヘンは裁かれて死ぬが、天上の声は「救われた」と叫ぶ。だが、罪深き人間の精神を、この一言で救済できるのか?メフィストフェレスは、人間が狂乱するのを楽しむかのように、悲劇的な運命を与えた。

[第二部]
1. 宮廷デビューと懲りないファウスト
ファウストは、悲劇の心を癒すため、自然美の探求者となる。
「虹こそは人間の努力を映す鏡だ。あれに思いをいたせば、もっとよく分かるであろう。人生は、彩られた映像としてだけ掴めるのだ。...一切の無常なるものはただの映像に過ぎぬ。」
立ち直ったファウストは、メフィストフェレスに上流社会へ導かれる。彼は、メフィストフェレスによって巧みに道化の地位を手に入れ、神聖ローマ帝国の王座の間にデビューする。しかし、皇帝は遊び好き、宮廷では享楽に溺れ、国法は行われず、財政困窮で国家は危機に直面している。仮面舞踏会で、ファウストは富貴な神プルートゥスに扮し、メフィストフェレスはその逆の強欲を演じる。二人は、遊戯に陶酔している皇帝に、地価に埋蔵される無限の宝を担保とした兌換貨幣の発行を認めさせる。しかも、皇帝はその記憶すらない。国中が歓楽しているうちに、国家の財政は立ち直り、ファウストは皇帝の信任を得る。
次に、皇帝は世界一の美男と美女とされるギリシア神話上の人物、パーリスとヘーレナを見たいと言い出す。神話上の人物を現世に連れて来ようというのだから、とてつもない欲望である。ファウストはメフィストフェレスの魔力を当てにして承諾する。ちなみに、パーリスはトロイア国の王子で、ヘーレナはスパルタ国の王妃。そして、香の煙の中からパーリスとヘーレナの姿が現れると、ファウストはヘーレナに恋する。ここには、実体のない形態に過ぎない、いわばプラトンのイデアのような存在がある。ファウストがヘーレナに触れた途端に爆発して、霊は霧となって消える。メフィストフェレスは、またもや美女にうつつをぬかす姿を見て、懲りない人間にうんざりする。人間はアダムとイブの時代から、誘惑されっぱなしというわけか。

2. 時空の旅、ギリシャ神話の世界へ
ファウストが書斎へ戻ると、助手ワーグナーが教授となっていた。ワーグナーは人造人間ホムンクルスを造る。小人間ホムンクルスは、レトルトに入れた原料を蒸留して化学的に造られた、いわば肉体を持たない純粋生命体である。ここには唯心論的な世界が組み込まれているようだ。ホムンクルスは、ファウストの夢までも見通す力がある。ファウストはヘーレナの夢を見るが、メフィストフェレスには何も見えない。ファウストは、夢の中で古典的ワルプルギスの夜へと時空の旅をしている。それを追いかけて、ホムンクルスとメフィストフェレスは、古代ギリシャ神話の発祥の地テッサリアへ飛んでいく。場面は、ギリシャ神話にまつわる妖怪たちがたくさん登場し、時空を超えた旅が続く。ヘーレナは、スパルタ王メネラス(メネラオス)の宮殿の前に立っていた。トロイアの城が陥落し、ギリシャ軍によって奪い返された彼女は、夫のメネラスの元へ帰ってきた。宮殿には、醜い妖怪フォルキュアスに変装したメフィストフェレスが現れた。メネラスは、フォルキュアスにヘーレナを神の生贄にするように命じていた。嫉妬のための刑罰である。ちなみに、一般的な説、いわゆる「パリスの審判」によると、パーリスはオリュンポスの女神に惑わされてヘーレナを奪い、それが原因でトロイア戦争が起こったことになっているが、ヘーレナが美男パーリスに誘惑されて、自らトロイアへ走ったという説もあるようだ。フォルキュアスは、助かる道はスパルタ北辺の異民族の首長の元へ逃れるしかないと教える。その首長とはファウストのことである。見事にそそのかし、ファウストはヘーレナと結婚する。そして、二人の間に早熟な天才児オイフォーリオンが生まれる。蛮族に征服されたギリシャが独立戦争を始めた時、オイフォーリオンはその戦争を身近で体験しようとして、両腕を翼のように広げて飛び立つが、深い谷間に墜落死する。ヘーレナも子供の死を追って悲劇で終わる。
グレートヘンといい、ヘーレナといい、悲劇のたびにファウストは精神を目覚めさせていく。その中で、ファウストの心がメフィストフェレスから離れていくのは想定外である。ちなみに、解説ではオイフォーリオンは、イギリスの詩人バイロンの運命を示しているという。バイロンは、若くして世を去ったが、ここにはその才能を惜しんだ意味が込められているそうな。

3. 欲望の変化、美的享楽から国家建設へ
ファウストは、享受のあとはいつも、一人自然の中に逃避する。彼はグレートヘンとヘーレナへの思いに耽っていた。メフィストフェレスは、今度は栄華な王朝生活で誘惑しようとする。しかし、ファウストは名声は空虚であると主張し、あらゆる無限の追求は、もはや人間の幸福のための創造的な活動に変わっていた。美的享楽は終わりをつげ、ファウストの欲望は、隣人のための行動が新たな指針となり、理想国家を築くことへと変貌する。そのためには、まず土地を所有しなければならない。ちょうどその時、皇帝は弊政のために人民に謀反されて僣帝の軍と戦争をしている。皇帝は劣勢であった。そこで、メフィストフェレスは、皇帝に味方して巻き返せば、海岸地帯の土地を褒美にくれるだろうと持ちかける。そして、魔力によって勝利し広大な土地を得る。

4. 開眼
ファウストは、旧制度から解放して新国家を建設し、人々は幸福を得た。だが、丘の礼拝堂のそばに住む老夫婦の小屋が目障り。彼はここから国内を展望したいのだ。老夫婦は立ち退きに応じない。その礼拝堂の鐘がファウストを狂わせる。やむなくメフィストフェレスに命じて老夫婦を移そうとするが、家屋に火をかけるなどの乱暴な振る舞いで老夫婦を殺してしまう。ファウストは移転させよと命じたのであって、殺害せよと命じたわけではない。彼は、その責任を感じて心が重くなる。そこに、焼跡から漂う煙の中から四人の灰色の女が現れた。それは「欠乏」「罪責」「憂愁」「困窮」の四人。「憂愁」のほか三人は、富貴なファウストに近づくことができない。悪魔こそが自由を束縛するものと感じて、メフィストフェレスと縁を切りたいと思っていた。この心の隙間に「憂愁」という幽霊が入り込み、ファウストを盲目にする。結局、人間とは、どんな享楽にも飽くことなく、どんな幸福にも満足せず、移り変わる様をひたすら求め、ついには、永遠の虚無を悟るものなのか?そして、ファウストは百歳に達して開眼する。自由な土地に自由な民と共に過ごしたいと願い、日夜励んで国土を開拓し、自然の脅威や権力の脅威を恐れることなく生きることに喜びを見つける。かくて人生の意義を認めたファウストは言う。
「瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう、留まれ、お前はいかにも美しいと。」
そして、ファウストは死んだ。メフィストフェレスは賭けに勝ったように見えるが、ファウストの描いた理想は天国に近いもので、地獄に属するものではない。天国から舞い降りた天使が撒き散らす紅薔薇は悪魔たちを焼き、ファウストの魂は天使によって救済される。そこに、かつての最愛の女性グレートヘンの魂が贖罪人として現れ、聖母に祈りをささげてファウストの魂が天へ昇る。

2010-02-07

"若きウェルテルの悩み" Goethe 著

岩波文庫の表紙の文句で衝動買いしてしまうことがある。本書はゲーテの晩年の言葉で誘惑しやがる。
「もし生涯に、ウェルテルが自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」
ここには禁断の愛とその破局が描かれ、どう見てもアル中ハイマーの読む世界ではない。だが、今こうしてウェルテルを読んでいる。ゲーテだから読んでいるのだろうが...
本を選ぶ規準は人それぞれであろう。自分の置かれた境遇に類似した世界を求めながら、共感したいがために選ぶ場合もあれば、現実逃避を求めて選ぶ場合もある。本の世界には、精神を別世界へ誘導できるところにおもしろさがある。

人間は、愛する者が幸せになることだけでは満足できない。自分が幸せにしてやらなければ気が済まない。自分自身が介在できなければ不幸になることすら望む。単に恋愛で勝利したいがために。これが、人間の持つエゴイズムであり、人間特有の「所有の概念」といったところであろうか。実は、人生で所有できるものなんて何もないのに。人間にとって、自らの精神の弱点と正面から対峙することは難しい。人間は自らの精神を欺きながら生きている。自らの醜さを見ぬ振りをして生きている。そうでなければやってられない。自らを自殺に追い込んでどうする。自らの醜さと正面から対峙できる勇気は、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いには持てそうもない。揺るぎない理性を獲得するには、あまりにも人生は短い。そして、泥酔した精神は現実逃避のために夜の社交場に執着する。お金を毟り取られると承知していても。「金の切れ目が縁の切れ目」というわけか。

本書には、なにやら懐かしい香りがする。恋愛は成就するまでの過程が最も幸せな時間であろう。そのじれったさが、切なさとなり苦しみとなるが、後に振り返れば、その時が最も幸せであったことに気づく。幻想を追いかけていると知りながら所有できない苛立ちさ、そのドキドキ感がなんともいえない。所有できないかもしれないという不安は、やがて奪い取りたいというスリルに変化する。不倫は禁断ゆえに燃え上がる。しかし、離婚してそれが成就した瞬間に急激に興醒めする。所有した安心感から緊張感を失い次の刺激を求める。人間は退屈さにすぐに飽きてしまう。精神は、してはならないという意識が衝動へ変化した時に興奮を駆り立てる。精神は怖いもの見たさという欲情に憑かれる。相手を知らないという情報の欠落感が想像を膨らませる。しかし、相手を知り所有できたと錯覚した瞬間から幻滅が始まる。そして、興味は次の所有へと移る。これは恋愛に限らず権益や物質的な奪い合いにも見られる現象である。これが人間の本性であろうか。
ところで、女性の向上心には目を見張るものがある。あれだけ化粧品に執着し、ダイエットに執念を燃やす生き物も珍しい。永遠の若さを獲得しようとする執念には、滑稽とも思える自己満足の世界がある。若いうちは、むしろ自然体の方が美しいのだが、ひたすら塗りたくるのは、もったいない!これが寿命を10年長くする秘訣だろうか?子供ができると、これほど豹変する生き物も珍しい。ちなみに、化粧をするということは、化生に変身するということか?これは、もののけや妖怪の類か?現実を認められる勇気が持てた時に、はじめて冷静な諦めが生じる。
アル中ハイマー曰く、「女は永遠の若さを求めて化粧を塗りたくり、男は永遠の若さを求めてホットな女性の尻を追いかけ続ける。」

本作品は、ドイツ文学を外国に広めた先駆けでもあるという。そして、ヨーロッパでベストセラーとなり、ウェルテル熱なる精神的インフルエンザが広まったという。若者がウェルテルの服装を真似たり、自殺したり、離婚が流行するといった社会現象を引き起こした。当時、ライプチヒ市会はこの作品の発売を禁じたという。同時代のナポレオンも本作品を愛読したと言われる。なるほど、ロッテへの思いは戦場からジョゼフィーヌ宛に書簡されたものに通ずるものを感じる。それは「ナポレオン言行録」にも表れる。
ゲーテは、薄倖なウェルテルの自殺を偉大な行為として描きたかったのだろうか?ここには、ある種の精神の解放が表れている。人間の存在のはかなさといったニヒリズム的な台詞が繰り返される様は、自らを励ましているかのようでもある。心の隙間を埋めるかのように。もはや、ウェルテルの悩みを救済できるのは「笑うセールスマン」しかいないだろう。

1. ウェルテルとゲーテ
本書は、書簡体小説の形態をとることで生々しさを演出する。それもゲーテ自身の体験に基づいているらしい。物語は、主人公ウェルテルが既にアルベルトとの婚約がきまっている女性ロッテへ憧れるところから始まる。二人は付き合うが、いずれ破局することが見えている。居たたまれないウェルテルは別れを告げずに町を去る。しかし、その後も、ロッテとの交際は続き、往復したり手紙のやりとりをする。やがて、成就するはずもない気持ちを、自虐心が追い討ちをかける。ウェルテルは、アルベルトとロッテとの仲を自分が破壊してしまったと感じて、しきりに自分を責める。そして、ロッテが尊敬するほどの女性であることを示そうとするが、この行為が自らを狂わす。数々の失策や屈辱の中でアルベルトへの反感も混じる。ついに、虚しさ切なさが自らを自殺へと追い込む。ウェルテルの死後、残された書簡がロッテに届けられる。そこには、死を決意した様子が感傷的な誇張もなく表される。これは絶望ではなく、自我の狂乱から解放するための自殺であると。ロッテはウェルテルを側に置いておきたかった、自分の兄弟にできたら、自分の女友達と結婚させられたら、などと呟く。アルベルトはロッテがウェルテルの死で感傷に浸るのを見て、おもしろいはずがない。
本書は、愛という熱病が、自らの理性を失わせ、人間のエゴイズムを剥き出しにする標本のようでもある。そこには、悪霊に憑かれたように自己分裂していく様や、熱病に侵された挙句、拳銃自殺するといった様が描かれる。晩年のゲーテは、この作品が出版されて一度も読み返したことがないと語ったという。
「あれは危険な花火だ!読んでいておそろしくなるし、生み出した当時の病的な状態をもう一度くりかえして感ずるのが心配だ。」
大学を卒業したゲーテは父の勧めでライン地方のヴェツラールに行き、帝国高等法院で裁判事務の見習をする。この地には頑固なほどの官僚的空気があったという。階級観念やプロテスタントとカトリックの対立が渦巻く。この町の雰囲気に反感を持っていたことも本書に表れる。また、作品でモデルとなった二人の人物が実存したようだ。アルベルトの原型となったケストナーと自殺したエルーザレムである。ゲーテはヴェツラールで最もケストナーと親しくしていたという。ケストナーは仕事に忙しく社交の席にも顔を出さない内気なタイプ。当初、彼のいいなずけのシャルロッテ・ブフ(愛称ロッテ)とゲーテとの仲に嫉妬や敵意をはさむことなく、むしろ両者を信用して歓迎していたという。ケストナーは本作品がヒットしたことに対抗して、真相を知らしめるために「ゲーテとウェルテル」という本を書いているそうな。友人エルーザレムは、教養も高く頭脳も鋭く、文学、芸術、哲学にも精通していたが、憂鬱で厭世観を持った人間嫌いな資質があったという。彼は人妻を愛し、成就しない恋のために自殺する。後に、ゲーテも人妻に恋をし、エルーザレムの苦悩を実感することになる。こうした背景が本作品を完成させたようだ。

2. 気に入ったフレーズをメモっておこう。
「世の中のいざこざの元になるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だね。」

「威厳を保たんがためにいわゆる賤民から遠ざかる必要があると信じている人間は、敗北をおそれて敵から身をかくす卑怯者と、同じ批難に価する。」

「たいていの人間は大部分の時間を生きんがために働いて費す。そして、わずかばかり残された自由はというと、それがかえって恐ろしくて、それから逃れるためにありとあらゆる手段を尽くす。おお、人のさだめよ!」

「活動したり探求したりする人間の力には、限界があって制約されている。すべての人の営みは、しょせんはさまざまな欲求を満たすためのものだ。しかも、この欲求とて、そのねがうところはただ、われらのこの哀れな存在を引きのばそうとするにすぎない。」

「不機嫌は...愚劣な虚栄によって煽られた嫉妬とつねに結びついている。」

「全くぼくは一個の旅人、地上の巡礼者に過ぎない。」

人間の精神は、悩みにも苦しみにもある程度までは堪えられるが、やがて限界が訪れる。精神的にも肉体的にも限界を超えた時に、絶望を招いて生を絶つ。これを卑怯者と言えるだろうか?こうした病に陥った人の自殺する行為を弁明する場面で...
「冷静で理性的な人がこうした不幸な人間の状態を見ぬいても、それはむだです!忠告をしても、なんにもなりません!ちょうど健康な人が病人の枕頭に立って、自分の力をほんのすこしでも吹き込んでやることができないようなものです。」

「幸とか不幸とかは、けっきょくはわれわれが自分を対比する対象次第のわけだ。だから孤独ほど危険なものはない。...文学の空想的な幻想に煽られて、しらずしらずに存在の一系列をつくりあげてしまう。そして、自分はその最下位にいるが、自分以外のものはもっとすぐれている、他人は誰でもずっと完全だ、と思い込む。...自分に欠けているものは他人が持っているような気がするものだ。そればかりではない。自分のもっているものを全部他人に贈物にして、おまけに一種のこころよい理想化までする。このようにして、幸福なる人間像ができあがるが、それはわれわれ自身が描きだした架空の幻にすぎない。」