2010-11-28

"プリンシピア" アイザック・ニュートン 著

デカルト、ライプニッツとくれば、次はニュートンであろうか...などとこじつける。
近年なぜか?古典を読みたいという衝動に駆られる。現代書よりも新鮮さを感じるからであろうか?現在の瞬間的な現象は、後世の歴史に照らしてみないと冷静に評価することが難しく、そのほとんどは評価の間もなく廃れていくだろう。現在まで生き残ってきた古典は、それだけ洗練されていることの証しであり、ハズレる確率が低いのは確かなようだ。

大学の図書館で「プリンシピア」を初めて見かけた時、その分厚さに圧倒されたか、枕にちょうどいいと思ったか、は定かではない。これを入手することは難しい。古書専門店でも見つけられず、ネットでは中古品に3, 4倍の値がついている。ということで市立図書館を利用した。実は、むかーしから注目している古典で図書館にもないものがいくつかある。電子書籍の話題で盛り上がる昨今、新しいメディアの果たす役割は未知数だが、古典パワーこそ見せつけてほしい。本書が、閉架扱いされ、おまけに特別参考室に保管されるのは、それだけ貴重な資料ということなのだろう。状態も良く、図書館職員の情熱が感じられる。尚、これを貸出期限2週間で読破するのは難しい。延長!延長!

ニュートンが生きた17世紀頃は、まだ純粋幾何学が客観性において最高の地位にあったようだ。あらゆる自然現象を数学の法則に従わせようとした基本思想は、現代に受け継がれる。
本書には、真理はすべて幾何学にあると信じ、合理的な力学はすべて幾何学で説明できるはずだという執念が感じられる。人間が直接感じられるのは重力であり、物理学は重力を中心に発展してきた。本書はそれを体現している。原著は、当時の慣例にならってアカデミックなラテン語で書かれているという。その形式は、ギリシャ幾何学書の体裁を整えユークリッドを彷彿させる。ニュートンは、今日の微積分法である「流率法」を発見した。本書にも微積分の概念が図示される。
本書は、序論と三つの編から構成される。
序論では、力学概念である質量、運動量、力をはじめ絶対運動が定義され、続いて、運動の3法則や力の合成分解の法則が記され、力学の理論的、方法論的な基礎が確立される。これらの基礎を踏まえて第I編と第II編では、物体の運動をひたすら数学的原理で記述される。客観的な考察ができないところは、数学的な記述よりも実験データを根拠にしている。少々異質に思える粒子による流体運動が持ち出されるのは、渦動説批判への布石か?あるいは、流体の渦巻状の運動を天体運動と重ねながら銀河系の形状を想像し、更には宇宙の形状を語ろうとしたのか?
そして、第III編では、無味乾燥的な考察に陥らないように哲学的論究を加えると宣言され、数学的原理が天体へと拡張され、いよいよ世界体系へと踏み込む。これが本編と言ってもいいかもしれない。それは、「プリンシピア」の正式名称が「自然哲学の数学的原理」であることからも納得できよう。
また、結びとして設けられた「一般注」では、「Hypotheses non fingo(仮説をつくらない)」という有名な言葉とともに、当時の風潮への批判がうかがえる。それは、デカルト派をはじめとする渦動説に対するものであり、いかにも仮説の嫌いなニュートンの性格が表れている。更に、敬虔なキリスト信者が到達した宇宙論とも言うべき神学の持論を展開する。ただ、宇宙論的世界観が唯一キリスト教と結び付くように語られるところに違和感があるが...

「プリンシピア」は、けして読み易い本ではない。専門用語でも現代感覚とは微妙に違うように映る。「物体の運動」といえば通常は位置の変化を表すのだろうが、ここでは運動量であったり、質量と速度の相乗積であったりと、少し想像を膨らませないと解釈しずらい。「物質の量」も、質量と解せば読みやすい。「正弦」は、高さと斜辺の比ではなく高さそのものを表したりと、言葉の使い方にも少々違和感がある。「モーメント」は力の能率といったものではなく、流率法特有の言葉で微積分における微小や増分に相当するようだ。
一つ一つの命題や定理は、明確な論理で記述されるので、じっくりと読めば理解できそうだが、物量作戦の感があって、これらを体系として解釈しようとするとたちまち難解な書となる。真理に近づこうとすれば、多くの場面で抽象的な表現からは逃れられず、科学書というよりは哲学書の性格を帯びてくる。そもそも人類が発明した体系で、絶対的な真理を語れるはずもないのだけど...

1. ニュートンの生い立ち
1642年、リンカーンシャー州ウールスソープに生まれる。父は一小農で、生まれる2、3カ月前に死去。母が再婚すると、母方の祖母と一緒にウールスソープに残される。12歳でグランサムの公立中学校に入り、ある薬剤師の家に住みこんだという。その薬剤師との出会いが化学に興味を持たせたようだ。
1656年、再婚相手が死去して母が再びウールスソープに戻ってくると、長子ニュートンに農場経営をさせるために学校をやめさせた。しかし、彼が農業に興味がないことが分かると、親戚の助言もあって、1661年ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに籍を置く。最初に影響を受けたのがケプラーの光学書だそうな。そして、ユークリッド幾何学を勉強して当たり前だと片づけてしまうと、デカルト幾何学に影響を受け独創的な数学の研究を始めたという。
1665年、ペストが大流行すると大学が閉鎖され、リンカーンシャーの農場に退避する。そして、光学や化学に集中できる環境を得て、重力理論の思索が始まる。この頃、二項定理や流率法を発見したそうな。後年ニュートン自身が、65年から66年の2年間が数学的で哲学的な思考が全盛であったと回想しているという。
1667年、ケンブリッジ大学でトリニティー・カレッジが再開されると、フェローに選ばれる。
その二年後、友人で師でもあるバロー博士の後を継いでルーカス講座の数学教授に任命される。幼年のニュートンは母の愛情に飢えていたとも言われ、後に、猜疑心が強く、異常に怒りっぽく、執念深く笑わない性格が形成されたとも言われる。王立協会では、よく会員たちと論争を巻き起こしたらしい。ニュートンは、自責の言葉を残しているという。
「まぼろしを追い求めて自分の心の平静という大きな恵みを手放す結果になったのは、自分の無分別のせいである」

2. 絶対性と相対性
本書は、絶対時間、絶対空間、絶対運動について言及している。
「真の運動と相対運動とが相互に区別されるその原因は、運動を起こすために物体に加えられる力である。真の運動は、物体にある力が加えられ、それによって動かされるのでなければ生成もされないし、変化もしない。しかし相対運動は、物体に何らの力をも加えることなしに生成され、あるいは変化する。なぜならば、そのめにはただ、この物体が比較されるべき、他の諸物体にある力を加えるだけで充分だからである。」
一般的に運動は、物体の位置の変化で定義される。つまり、相対的な位置関係が変化すれば、なんらかの運動が観測できる。だが、絶対的な場所が規定できなければ、絶対運動や絶対静止を観測することはできないだろう。つまり、人類は、いまだ真の運動の正体が分からないままでいる。強いて言えば、それは光速であろうか?そして、絶対運動を定義しようとすれば、自己言及に嵌り、ついには自己矛盾に陥るしかない。
人間が計測できる時計、つまりは物体の運動によって測れる時間は、相対的な見かけ上の時間でしかない。人間の認識能力は、周りの物体の運動を認識することによって生じる。人間の定義するという行為そのものが、相対的認識に過ぎない。すなわち、科学が認識できる物理現象は、あらゆる観測系に人間が認識できる時間の一方向性が介在するからこそ、生じる現象ということになろうか。その帰結は、エントロピーの可逆性は得られないということになろうか。だって、人間には時間は逆転できないとしか認識できないのだから...
もし、あらゆる物理現象に可逆性を観測することができれば、絶対運動なるものを認識することができるかもしれない。では逆に、相対的な運動や認識が絶対的なものになると、人間はどういう存在になるのだろうか?生命体そのものの意味が失われるのかもしれない。それは、人間精神が絶対的価値観に到達することを意味するのだろうか?

3. 物体の運動
微積分法のアプローチでは、ライプニッツと対立関係にあるとされる。
本書には代数学的な方法ではなく、幾何学的な作図法が用いられる。この視覚的概念は数学の入門者にとってありがたい。ニュートンの第2法則で力の定義を質量と加速度の積で示されるのは、お馴染みのやつだ。加速度は速度の変化率であり微分である。速度は物体の位置座標の微分である。つまり、軌道から微分によって力を求めることができ、力から積分によって軌道が求まることを意味する。
ここでは運動法則に微積分の概念が埋め込まれ、与えられた焦点から楕円運動、放物線運動、双曲線運動の軌道を導く方法が論じられる。考えてみれば、楕円の面積を考察する時に、極限的な求積法を用いるのは自然な発想のように思える。まぁ、既に導関数を学んでいるから、そう思えるのかもしれないが...
楕円方程式は、長半径a、短半径bとすると、以下のように表される。
x^2 / a^2 + y^2 / b^2 = 1
これは、x方向に x = a sin ωt で運動し、y方向に y = b cos ωt で運動しているとすると、以下のように導かれる。
(sin ωt)^2 + (cos ωt)^2 = 1
x = a cos(ωt + θ)としても、楕円であることに変わりはない。
ここには、三角関数の直交性質が表わされ、解析学の概念が内包されている。むかーし、フーリエ解析を楕円解析と言ってもいいじゃないかと思ったりもした。周期を持つという意味では円運動も波動も同じで、モジュロ計算という発想も成り立つだろう。酔っ払って目が回るのも、千鳥足という揺らぎも、空間運動としては周期的に同列に扱えるはず。だから、アル中ハイマーの年齢もモジュロ計算され、永遠に生まれ変わるというわけさ。

4. 世界体系
本書は、地球上の物体運動を考察する時にひたすら数学的原理を用いてきたが、天体運動を考察する段階になると詳細な実験データで補う。太陽系内の惑星と、惑星をとりまく衛星との位置関係や、軌道と周期を考察する時はひたすら観測データに頼る。太陽や月の軌道から潮の満ち干の観測、地球の自転と遠心力との関係から楕円球形になる観測、ハレー彗星の軌道予測など、ここには自然哲学と実験哲学の融合が見られる。目の前にある現実から、けして目を背けようとはしない一貫した姿勢には、執念のようなものがある。
太陽は不断の運動によって扇動されてはいるが、、太陽系の全惑星の共通重心から遠く離れることはないとしている。そして、世界体系の一つの推論を立てている。
「世界体系の中心は不動であること。」
推論であるからには仮説ではないか。んー、ニュートンらしくない。

5. 一般注
世界体系の最後に「一般注」が付けられる。これは重力に関するニュートンの総括である。ただ、あからさまに渦動説を批判している。ニュートンの運動法則がデカルトの影響から生まれたのは間違いなかろう。デカルトは、自然界が一つの機械であると考え、慣性力や運動量保存の法則を導き、更には渦動説を唱えた。渦動説とは、物体の運動は互いに接触して押し合うことで生じることを前提とし、宇宙空間に充満する物質の存在がなければ天体は動かないとする仮説である。この思想がエーテル充満説を登場させた。
ただこの時代に、ルネッサンスの自然主義、あるいは自然魔術的な思想が流行り、占星術や錬金術に勢いがあったことに注意せねばなるまい。その中にはオカルト的な思想も蔓延り、まさしく磁石には魔術のような香りがしたことだろう。磁力とは不思議なもので、真空であっても物質を引き寄せる何かを感じる。ホットな女性の周りには磁界が生じ、あらゆる男性を引き寄せれば、空間に小悪魔の存在を前提しなければ説明できない。いずれにせよ、引力の正体を何かに求めることになる。ケプラーは引力を天体間の磁力で説明しようとしたのだろうか?
本書によると...
渦の運動でケプラーの第2法則を説明しようとすれば、渦の各部分の周期は太陽からの距離の2乗に比例しなければならない。しかし、ケプラーの第3法則を説明しようとすれば、渦の各部分の周期は太陽からの距離の3/2乗に比例しなければならない。より小さな渦が他の惑星の周りで小さな公転を保持し、しかも、太陽のより大きな渦の中で乱されることなく泳ぎうるためには、太陽の渦の各部分の周期は相等しくなければならない。しかし、これらの渦運動と一致するはずの太陽や惑星の自転運動は、それらの比率とはまるでかけ離れている。つまり、渦動説からは、太陽や惑星の自転や公転の周期、はたまた彗星の軌道もまったく説明できない。
...と指摘している。
更に総括では、重力理論を神学の領域にまで押し上げる。
「全知全能の神は、世の霊としてではなく万物の主としてすべてを統治する。そしてその統治権ゆえに「主たる神」あるいは「宇宙の支配者」とよばれるのが常である。なぜなら、神というのは相対的なよび名であり、僕(しもべ)に対してかかわりをもつものであって、神性とは、神を世の霊であると空想する人びとが考えるように、神自身の体へのその君臨ではなくて、僕(しもべ)の上に及ぶ支配だからである。至高の神は、永遠、無限、かつ絶対に完全な存在者である。しかし、たとえどんなに完全であっても、支配を欠く存在者は主なる神とはいえない。」

2010-11-21

"モナドロジー, 形而上学叙説" ゴットフリート・ライプニッツ 著

前回、前々回とデカルトを記事にしたので、その批判的立場にあったライプニッツにも触れてみたい。
数学者ライプニッツといえば、ニュートンと微積分の功績を争ったことで有名であるが、デカルトの運動量保存則の批判者としても知られる。とはいえ、デカルトと同じように自然学的立場にあったのは間違いないだろう。双方とも精神構造を機械的に説明しようしたが、自己矛盾に陥ることは避けられず、ついには神の存在を前提することになる。それは、矛盾と無矛盾、完全性と不完全性、善悪の規範といったあらゆるものを抽象化してしまうほどの絶対的な存在の必要性に到達したかのように...若き日に哲学や倫理学を蔑み、数学だけが真理を与えるとしながら、結局哲学へ帰依していった偉大な数学者は珍しくない。純粋な真理を探究すれば、純粋な精神を探求せずにはいられなくなるのだろう。道徳家や宗教家が語る神は、なんとなく胡散臭く、こそばゆいが、なぜか?科学者や数学者が語る神は素直に耳を傾けられる。信じるかどうかは別だけど...主観性の強い権威的な神に対して、客観性の強い自然的な神と言ったところだろうか。自然学的な絶対神は、なんとなくその存在を意識しても、人間の認識能力を超越した宇宙論的存在にならざるを得ない。少なくとも、神を擬人化する行為や、祈りを捧げることによって運命を変えられるなどと信じる行為ほど神を冒涜するものはないだろう。

本書には、「モナドロジー」「形而上学叙説」の二作品が収録される。スピノザが世俗的な生活を嫌い禁欲的で孤独な書斎裡として生きたのに対して、ライプニッツは実践的な世間活動に生きた。実践的という意味で、彼の著作のほとんどは未完結な「機会の書」であるという。その中でも、この二作品は体系的な部類になるようだ。
「モナドロジー」は、死の二年前の著作で、ライプニッツの遺書とも言うべきものである。それが、アリストテレスに影響されたことは疑うべきもない。実存的要素の概念では、単純素朴な物理的な原子にあるのではなく、形而上学的な「モナド」にあるとしている。ちなみに、「モナド」は、ギリシア語の「モナス」に由来し、究極的不可分の「一」を意味する。それは、あらゆる実体を形成する単純な素要素とでも言おうか...
幾何学的座標で表される「点」は、客観的に「一」という素要素として存在するが、あくまでも抽象的な観念論であって実在的ではない。対して、精神が表現と表出を形成するのは、モナドが過去、現在、未来、あるいは無限を表象しうるものとして存在するからだという。そして、精神は、単に存在するものとしての実体ではなく、作用を本性とする主体であるとしている。
ライプニッツは、お気に入りの言葉をプラトンの著書「パイドン」から紹介してくれる。
「叡知的な存在はあらゆる事物の原因であって、それが事物を適当に配置し、またその価値をたかめたのである。」
これは、唯物論的哲学者を批判する時に、ソクラテスの言葉として用いている。

ライプニッツの時代は、三十年戦争の余韻が残り、カトリックとプロテスタントが分裂したままで、物質的にも精神的にも荒廃していた。この時代のドイツは悲惨で、人口を三分の一にまで減らしたと言われるほどに。政治団体には、あらゆる悪徳と癒着が蔓延したという。政治が堕落すれば、民衆は哲学に目覚めるのだろうか?科学者や数学者であっても、神学論や政治論、あるいは国家論を語らずにはいられなかったのかもしれない。ライプニッツは、教会再統一のための政治活動にも没頭したという。挫折に終わったようだが...
文化政策にも熱心で、歴史、政治、神学、哲学、数学、技術、あるいは中国文化やモンゴル文化にまで及ぶ博学振り。彼は、あらゆる学問の普遍的統一を夢見ていたのだろうか?その多様性から均衡と調和の哲学と見ることができそうだ。思想的には、伝統的なスコラ学と自然学との対立を調和しようとする。そして、「神はいかにして人間の悟性に作用するか」あるいは「神はいかにしてわれわれの魂を強制せずして傾動させるか」といった問題と対峙する。

一般的に、宇宙の形状が球形と想像するのは、精神的真理なのかもしれない。例えば、一本の糸で端と端をつなげて空間をできるだけ大きくするには、どのように糸を描くか?と問われれば、幾何学的に示されるように円形にするだろう。等しい周囲を持つ図形で最大面積を持つのは円であるから。それを三次元空間に拡張すれば球形となる。何か得体の知れない物体があれば、なんとなく球形のような空間を想像する。精神という宇宙もなんとなく球形のような空間を思い浮かべているような気がする。楕円しているかもしれないが。こうした直観的感覚は、案外真理なのかもしれない。
一方で、真理に似たような存在で、人間が定義するものに公理や公準というものがある。公理や公準は、何事も前提しなければ証明できない根源的な概念であって、つまりは真理ということになろうか。あらゆる公理は、別の公理から証明することができても、それ自体だけで純粋に証明することはできない。三角形の内角の和が二直角に等しいというのも、別の公理を前提するから証明できる。公理が、純粋真理のような存在だとすれば、自己矛盾に陥るのは避けられないだろう。
では、真理や公理の源泉とは何か?人間の直観なのか?もっと言えば、人間の気まぐれなのか?算術は、記号や符号を定義するから実現できる。あらゆる定理は、言葉や記号を前提して、はじめて推論することができる。人間は、あらゆる事物に適合する表記法を編み出して秩序立ててきた。その意味で、宇宙の秩序には人間のご都合主義が介在してきた。一定の秩序や一定の様式に従ってさえいれば、方程式の解のように、ある決まった形で一致をみる。真理は、事実として認めるしかないのであって、人間にとってこれ以上受動的にならざるものはないはず。にもかかわらず、人間が秩序立てるという奇妙な関係がある。いったい神は人間に何をさせようというのか?何を求めようというのか?いや!神は何も求めておらず、単に気まぐれでやっていることを、真理などと崇めて神を理解しようと努力する人間どもを滑稽に眺めているだけのことかもしれん!

1. 17世紀という時代
15世紀を「学芸復興の世紀」とするならば、16世紀は「理性の世紀」と呼ばれるという。そして、17世紀はデカルト、ロック、ホッブズ、スピノザなどの偉人を排出した「天才の世紀」と呼ばれ、18世紀は「哲学者の世紀」と呼ばれるという。まぁ、世紀の呼び名は各学問の視点から様々な見解があろう。いつの世紀にも天才や偉人が出現するであろうから。ちなみに、20世紀は「殺戮の世紀」とでも呼んでやるか。21世紀は仮想化で邁進する「空虚の世紀」か?あるいは精神が荒廃する「不毛の世紀」か?
16世紀から17世紀にかけては、ルネサンスに対して、宗教改革で思想の動乱が起こったバロックの時代でもある。ちなみに、バロックとは、「いびつな真珠」を語源にし、ルネサンスの古典的調和に対して激動と氾濫を意味するそうな。
カトリック教会が普遍的地位から転落し、プロテスタント教会との対立を激化する。プロテスタントでも、ルター派とカルヴァン派が骨肉の争いを繰り返す。いずれにも属さない中立の立場の人々は無信仰とされ、これまた異宗教扱いされる。芸術の分野では、ルネサンス対バロックの構図がはっきりする。
「一人の教皇と一人の皇帝」というヨーロッパ体制が崩壊し、神聖ローマ帝国による支配力も名目的なものと化す。そして、現ヨーロッパの国家基盤となる独立した諸国民国家が成立した。
思想領域においては、スコラ学に対する自然科学的哲学が台頭し、プラトンやアリストテレスを源泉とする哲学思想は多様化を見せ、思想の分野に続々と科学者が名乗りを上げた時代とも言えよう。知識は権威や伝承から得られるとした伝統主義を打破し、人間の認識力による知性によって得られるとした。新たな思考方法では、フランシス・ベーコンが「新機関」を、デカルトが「方法序説」を発表し、続いてスピノザやライプニッツが体系化に挑む。この流れは、カントの悟性理論へと継承され、18世紀には哲学が英雄的な学問を脱し市民権を獲得することになる。

2. 数学者ライプニッツ
ライプニッツの数学者としての功績といえば、微積分の発見であろう。これがニュートンとの優先権問題を引き起こし、両者は和解することはなかったようだ。ニュートンが円の求積法から研究したのに対して、ライプニッツはパスカルの「サイクロイドに関する書簡」とデカルトの「解析幾何学」の研究から接線の問題と対峙し、その手法の独創性が証明された。微積分の発見そのものはニュートンの方が先であったが、ライプニッツの記法は優れていて現在でも受け継がれる。
また、計算機でも知られるらしい。もともと計算機はパスカルの発明であるが、加減算だけである。更に、ライプニッツは剰余と開平を可能にしたという。
彼の晩年は、学問の競争者との対立を激化し、孤独で暗いものだったという。葬送には、40年間も宮廷に尽瘁したにもかかわらず、一人の参列者もいなかったそうな。無信仰者として扱われ、プロイセン科学アカデミーですら創立者ライプニッツに対して沈黙したという。

3. モナドロジー
「モナドは自然における真のアトムである。」
アリストテレスの用語に「エンテレケイア」というのがある。これは、あるものがその可能性を完全に実現しうるものとして、その目的に到っている状態とでも言おうか。プラトンは、あらゆる性質はイデアという原型なるものから派生して存在すると考えたが、アリストテレスは、質料と形相とを存在の根源とし、それらは分離できないと考えた。
本書は、まず形を持たない質料、つまりは第一質料の段階では受動的存在であるが、第二質料の段階では能動的原理が働くとしている。この能動的原理である原始的エンテレケイアが、生命の原理として表象する力を与える。しかも不滅。これが魂というものだそうな。
魂は、広義では「生命」あるいは「生命の原理」と同じもので、単一者モナドの内に存在する内的作用の原理であるという。そして、内的作用に外的作用が応じて「単一者における複合体の表現、一における多の表現」が表象を構成するとしている。
狭義では、魂はもっと高尚な生命の一種で感覚的生命だという。この場合は、単なる表象的能力ではなく感覚能力となり、表象に注意や記憶が加わっている状態としている。これは、精神がいっそう高尚な魂であろうとするような、理性や真理の普遍性が付加された状態を言っているように映る。
生命が表象の原理となるとしても、表象がすべて知覚されるわけではない。睡眠や失神といった、まったく意識のない表象もある。あらゆる原始的エンテレケイアは、生命の原理に自然的機械が結び付くという。この機械は、有機的物体である身体として自己に属するとしている。モナドは、「形而上学的アトム」であり、部分を持たず、自然的に生じたり滅びたりするものではないという。精神を形成する根源的な要素として存在するだけでなく、あらゆる実体の要素として存在するというわけか。したがって、精神や魂はあらゆる実体に存在するもので、けして人間や動物を優越するためのものではないとしている。
「どの物体の中にも一種の感情、欲求、精神があるから、人間にだけ実体形相や精神を承認するのは馬鹿らしいことである。そしてこれは、あらゆるものが人間だけのために造られているとか、地球が宇宙の中心だとか思うのが馬鹿らしいのと同様である。」
あらゆる実体が複合体として存在する以上、なんらかの基本的な単一体が存在するのかもしれない。その森羅万象の要素なるものが、モナドということのようだ。あらゆる素粒子が宇宙創生期に誕生し自然消滅することがないように、モナドもまた神の創造物として誕生し自然消滅することはないというわけか?もし消滅するとすれば、それは宇宙の終焉と運命をともにするということか?そりゃ、魂が永遠の存在となれば、宗教家は喜ぶさ。
また、様々な原子の種類が存在するように、モナドも異なる性質を持った個として存在するという。そして、内部が他の被造物によって変質や変化を受けることはないとしている。変質や変化をともなうのは、それが複合体だからだそうな。

4. 形而上学叙説
最高かつ無限の知恵の持ち主は、形而上学的だけにとどまらず、道徳的にも完全なもの、善の規範とか完全性の規範を超越した無限の存在だという。しかし、人間には、神を自己流に歪め、妄想を仕立てあげる性質がある。人間の持つご都合主義と有難迷惑主義もまた神のお導きであろうか?神ほど意地悪な存在はない。永遠の真理は、ほんのわずか数学の領域に見せてくれるだけなのだから。神の行いがすべて善であるとしても、人間はその善を理解することすらできない。人間ができることといえば、真理を導く努力、善を導く努力を怠らないことぐらいか。
本書は、精神の幸福が神の主な目的だとしている。人間以外にも精神の持ち主がいるのかもしれないが、人間はしばしば精神の持つ動物は人間だけだと考え、人間だけが幸福になる権利があると解釈してしまう。そもそも、神の目的を語る人間って、神を冒涜していることにならないのか?
また、神の行為で、秩序に外れるようなものは何一つないという。異常現象に見えるのは特殊な秩序に照らしただけのことで、矛盾や不完全性といった気持ちの悪い現象は、人間の価値観で勝手に評価しているに過ぎないのだろう。ただ、すべての現象が神の意志だとすると、人間の悪行もまた神の意志ということにならないのか?それも、人間に悪を知らしめ、善の尊さを教えようとしているのか?
本書は、スコラ学者を批判する立場にありながら、一方でスコラ学の省察を無視してはならないと指摘している。それは、場所をわきまえて適当に用いるならば、思ったよりもしっかりしたところがあるという。実体の本性について深く考察すると、物体の属性である形、大きさ、運動といった表面的な現象に囚われる。だが、それだけでは説明ができない。人体を機械的機能から考察しても、精神や魂との結び付きを感じないわけにはいかない。
「あらかじめ定められたとおりに起こることは確実ではあるが必然的ではない。」
人間の自由が奪われ、絶対的運命に支配されているような錯覚に陥らないためには、偶然的真理と必然的真理を区別して認識する必要があると指摘している。

5. 運動量保存則への批判
デカルトは、運動量と運動力を同一視するが、ライプニッツは運動力は保存されるが、運動量とは同一でないことを論証する。つまり、デカルトの誤謬は運動量と力を同一視したことにあると指摘している。
ここで持ちだされる物理現象の例はおもしろい。要約するとこんな感じだろうか。
...
物体Aが高さDから落下した場合と、物体Aの4倍の質量の物体Bが高さ1/4Dから落下した場合を考えると、力においては、同じ結果が得られるのは明らかである。
では、運動量においてはどうか?落下速度は加速度運動をするので、物体Aの速度は物体Bの速度の2倍しか得られない。運動量は、質量 x 速度で得られるので、物体Aの質量を1とすると、物体Aの運動量は、1 x 2 = 2 となり、物体Bの運動量は、4 x 1 = 4 となるので、2倍の違いが生じる。したがって、運動量と力には大きな違いが生じる。
...

デカルトは運動の保存量が速さや時間に比例すると考えたが、ライプニッツは保存量を活力とし距離に比例すると考えたようだ。運動量保存則に対して、力学保存則、あるいはエネルギー保存則のようにも見える。デカルトは、物体から自発的運動能力を排除し、精神と物体を峻別した。対してライプニッツは、実体の本性を力に求め、精神的被造物と物体的被造物の統一性を示す。したがって、物体的実体も、なんらかの精神的で能動的作用があると捉えたのであろう。確かに、人間の行動の可能性には、物理的可能性に精神的意欲が加わる。その性質が、しばしば偏重した精神論を持ち出す輩を育てるのだが...
「力学の一般的原理は幾何学というよりもむしろ形而上学である。」
デカルトの運動法則は、静的あるいは受動的機械において成立することを唱えたわけだが、ライプニッツは、あらゆる実体を能動的機械として考察するべきだと言っているのかもしれない。あるいは、受動的実体と能動的実体の調和を唱えているのかもしれない。いずれにせよ、両者の物体観と実体思想という世界観の違いであって、もっと言うならば宗教観の違いであろう。ニュートンと折り合いがつかなかったのも、ニュートンが宗教論争を煙たく思ったからであろうか?

2010-11-14

"情念論" René Descartes 著

「情念」という言葉を定義するのは難しい。感情の中でも根深く激しく、本質的な精神から生起する想念といったところであろうか。アリストテレス的でスコラ学的な伝統的教説では、情念(パトス)を悪とし、理性(ロゴス)を善としてきた。精神の原理が、根拠の薄弱さと矛盾に見舞われるため、その思想も分からなくはない。現在においても、報道屋や政治屋が曝け出す醜態を眺めれば、感情論が災いをもたらすと考える人の方が多数派であろう。感情は精神から受動的に呼び起こされるために消極的な印象を与え、知性は精神を能動的に制御しようとするために積極的な印象を与える。人間社会において、一般的に積極的な方に高い評価を与えるのは、自由意志の存在を信じている証であろうか。
一方、デカルトは、情念を精神の持つ本性と認め自然学的に善とし、感情の行き過ぎを理性的に導くことを説いている。それは、情念の動きを妨げるのではなく、存分に解放しながら、知性と結びつけて精神のバランスをとるといったところであろうか。情念の存在が実存主義的に真である以上、それを善へ導くしかない。その存在認識を、神という原因性に委ねるならば受動的にならざるをえないが、その存在を前提しない限り能動的な理性も生起しない、というのがデカルトの考えであろうか...あくまでも勝手な解釈だけど...
本書が、アリストテレスやスコラ学を批判する立場にあるのは冒頭から伝わる。人間は主観的思考の方が強いように思えるので、客観的思考を強調するぐらいでちょうどいいのだろう。どちらも人間の持つ本質であるからには、そこから逃れようがない。主観性と客観性の双方を凌駕してこそ、精神の持つ合理性へ近づくことができるであろう。本書は、善悪を判断できる理性をともなう限り、豊かな情念を持った人間にこそ、多くの喜びを享受できると主張する。しかし、人間にはどう足掻いても制御できない精神要素がある。どんなに崇高な理性をまとうことができたとしても。それが「気まぐれ」ってやつさ!

デカルトと言えば、精神と身体(物体)とを峻別した二元論の印象が強い。本書にもその傾向が現れる。前半では、身体に帰するものは精神なき物体のうちにあるもの、精神に帰するものは物体に属しえないものとしている。しかし、後半ではこれらの一元論が展開される。二元論と一元論が混在して矛盾するようにも映るが、精神を考察して矛盾に遭遇しないわけがない。前記事の「哲学原理」でも、心身の結合という問題に触れており、更に「情念論」でその一元論を深めているようだ。
まず、精神は、精神のうちに対しては受動的に働くが、身体に対しては能動的に働くとしている。情念を生物的精気の運動によって精神のうちに引き起こされる思考であるとし、外的対象に対する感覚と、身体の内的状態に対する感覚とを区別している。そして、善悪と道徳、あるいは自由意志と神の存在から、偶然性と運命性を区別しながら、情念の一般的治療法が語られる。
中でも、情念は身体の生理的現象でもあり医学的観点から、人体の構造と機能を機械論的に考察されるのは興味深い。言い換えれば、人体を、心臓の活動と血液循環で構成される一種の熱機関として捉え、精神を血流の変化による物理現象として説明している。物体が運動すればエネルギーを放出し、精神が思考すれば血流を促し蒸気として表面化するというわけだ。身体が病がちになれば、気力を失い血流も損なわれ、気力が充実すれば、胃袋の働きも活性化するだろう。精神的プレッシャーを感じれば、筋肉を収縮させ自由な運動を妨げるだろう。
「目は口ほどに物を言う」という格言があるが、それを視神経の太さと、眼には蒸気が通る小さな動脈が多数あることで説明している。情念によって多量の血液を心臓に送り多量の蒸気が眼に送られるというわけだ。また、年をとると涙もろくなると言われるが、それは老人特有の体質の冷たさによって動揺が緩慢になり、悲しみの情念が先行しなくても蒸気が冷やされ液体に変わるためだという。ほんまかいな???
これは自然科学的哲学である。そして、あらゆる感情現象は物理学で説明できそうな気がしてくる。夜の社交場で放出されるオーラのようなものも、血流運動で説明できるかもしれない。ホットな女性の周りには明らかに違った電磁場が発生する。電流が走れば、そりゃぁ...しびれるさ!

1. 受動と能動
情念が、身体の入力装置である五感によって作用する場合には受動的と言えよう。そして、その情念の影響で身体を動かす場合には能動的と言えよう。ただ、視覚対象を精神に表象するのは、単に目に映る画像情報だけで作用するのではなく、脳の中で何かが起こっている。人間は、物体を知覚する時、冷たいとか熱い、堅いとか軟らかいといった感覚を一般的に持っている。だが、怒りや喜びといった感情は実に個性があって、くだらない事に怒りを覚えたり、つまらないことに喜びを感じたりする。また、外的情報にだけ反応するわけでもなく、精神内部から湧き上がるようなものがある。
こうした精神を動かす原理とは何か?本書は、思考以外に精神に帰するものは何もないという。そして、精神の能動は意志のすべてであり、思考は知性と意志の活動であり、知覚や知識は精神の受動に属するとしている。
しかし、精神の活動を受動と能動で区別したところで、相対的に解釈するしかないだろう。幻想や夢想は、無意識に起こる現象なので精神の受動的活動のように思える。だが、そこで思い描くものは個人的なもので、これを想像力と解するならば能動的のようにも思える。ただ、どんなに頑張って能動的な意志を強調したところで、気まぐれには勝てない。心地よい夢を見ればいいところで目が覚め、続きを見ようとして二度寝したところで、熟睡して寝過ごすのがオチだ。
精神の原因性を宇宙論的に説明しようとすれば、すべての認識は運命的で受動的にならざるを得ないだろう。だが、宇宙の存在を絶対的な神の仕業としたところで、神の正体を知る由も無い。となれば、すべての意志は能動的で、自由意志の存在を信じるぐらいが幸せでいられそうだ。
ところで、人間の中心機能は何か?と問えば、一般的には脳や心臓と答えるだろう。脳は、思考によって能動的に活動する印象を与えるが、心臓は、その動きを意志によって制御できるわけではないので受動的な印象を与える。なるほど、愛を語る時にハートを強調するのは、従属するという意志が無意識に働いているわけか。そこに、ご都合主義に支配された人間独特の所有概念が生じるから訳が分からん!

2. 六つの基本情念
本書は、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみを六つの基本情念と定義し、他のあらゆる情念は基本情念の複合形や系統に含まれるとしている。
では、情念の原因とは何か?精気が脳の中の小さな腺を動かす動揺が一つの要因であるという。だが、それだけでは説明できない。対象を捉えようとする積極的な意志によっても引き起こされ、身体の状態や脳内にたまたま生じた刻印によっても引き起こされる。ただ、対象が自分に害をなしたり、利益をもたらしたりする時に、なんらかの情念が働く。
本書は、最初に働く情念を「驚き」だとしている。
まず注視することから精神の活動が始まり、驚きの度合いで精神の成熟度が測れるとしている。驚きの情念への生来的傾向をまったく持たない人は無知であるが、過度な驚きは理性を歪めるとしている。過剰反応は、最初のイメージだけに注意を払い、重要な認識を見落とすことになろう。現れた事物を、反省と注意に向かわせるためには、できるだけ客観的な観察が必要である。
「愛」の情念は、多種多様なところを見せる。
その対象が、異性に向かう時は独占欲が働くくせに、家族や組織などに対しては分有欲が働く。名誉や金や自然に対する愛も、同種の感覚とは思えない。
だが、その反対にある「憎しみ」の情念は感情的には単純であるという。それは、諸悪の違いに差異を認めないからだそうな。
「欲望」の情念は不思議なもので、未来への善として認識され、なかなか悪とは認識しないものである。大まかには、知への純粋な欲望と、脂ぎった欲望とに分けることができるだろう。スコラ哲学では、善の追求に向かう情念のみを「欲望」とし、悪の回避に向かう情念を「嫌忌」とするそうな。しかし、本書は、善の行為に、悪という認識が欠如すれば、それは積極的な悪であるとしている。そして、「欲望」と「嫌忌」を抽象化し、善の要求と悪の回避の両方をともなうことが「欲望」の情念だと定義している。
「喜び」の情念は、精神の快い情動で善の享受とし、「悲しみ」の情念は、無気力感や精神の不調だとしている。
ところで、精神とは奇妙なもので、必ず快い情念を求めているわけではない。自らの身を危険に曝すといった衝動もある。勇敢さを試すかのように。わざわざ難局に立ち向かう衝動もある。何か悟りでも得ようとするかのように。こうした情念は、一種の満足感であろうか。あるいは、より高尚な欲望への開眼であろうか。
また、喜びなのか苦しみなのかも分からない奇妙な情念もある。快感であるはずの恋はなんとなく息苦しい。不快であるはずの憎しみが病みつきになったりする。
情念を生みだす血液と精気の運動が外的表象としてある。目や顔の表情で、ある程度の精神状態を測ることができる。となると、喜び多き人生を送れば、表情が習慣的に穏やかになるのだろうか?悲しみ多き人生を送れば、自然に顔のしわが増え、憎しみ多き人生を送れば、自然にしかめっ面になるのだろうか?顔が赤いのは、怒り多き人生を送るからであろうか?いや、単なる飲み過ぎだろう。

3. 情念の矛盾性
精神の苦痛は、まず悲しみの情念を生みだし、次にその苦痛を引き起こす原因性に憎しみを持ち、更にそこから逃れようとする欲望を生みだすという。
一方、精神にとって有益なことは、ある種の心地よさであり、これが喜びの情念を生みだし、次に心地よさの原因性に愛を感じ、更に喜びの持続あるいは享受させようという欲望を生みだすという。
情念の根源を辿ると、第一にくるのが防衛本能からくる悲しみや苦しみであろうか。そして、喜びは不可欠となる。となると、基本情念は、悲しみと喜びで、だいたい説明ができそうな気がする。
本書は、「憎しみは愛よりも不可欠」であるとしている。なぜなら、害となるかもしれないものを斥ける方が、生きるために必要な完全性を獲得するよりも重要だからだという。これは、宗教家からは非難されそうな発言だ。宗教は、憎しみを捨てることを説き、愛を強要する。だが、憎しみを知らなければ、愛を知ることもできないだろう。善を行うために悪を避けようとする行為は、悪を知らなければできない。善は、悪への憎しみから生じるとしたら、憎しみという情念も捨てたものじゃない。憎しみと悲しみが極度になれば健康を害す。だからといって、愛と喜びが極度になれば悪の認識を欠如させ無意識に悪を犯す。結局、人間は相対的に認識することしかできないのであって、その対称性から善悪を認識している。ここに、情念の矛盾性があり自然性がある。自らの道徳観に自信を持つ者は、悪徳の達人となろう。愛の達人は、憎しみの達人というわけか。

4. 自己重視と自己軽視
認識力は、何をどれだけ注視するかにかかっている。まず、自分自身を重視するか軽視するかによって分かれる。人間が最も不快を覚えるのは、自分の存在を否定されたり、自尊心を傷つけられることであろうか。なにかと他人からの評価は気になるものであろう。自己の重視と軽視のバランスを保つことは難しい。自分自身を軽視するよりも、他人を軽視することの方がはるかに容易いのだから。いかに自分自身を客観的に見られるかは、最も難しく鍛練を必要とする。精神修行とはこれに尽きるのかもしれない。
本書は、自己重視の観点から「高邁」「高慢」を考察し、自己軽視の観点から「気高い謙虚」「悪しき謙虚」を考察している。高邁と高慢は、自らに高い評価を与える点では同じであるが、その性質はまったく異なり、正当な評価が高邁で不当な評価が高慢である。そして、最も高邁な人が他人を重視すれば、最も謙虚な人になるとしている。これが、「気高い謙虚」である。自己の情念を支配しうるのは、高邁な資質にあるのかもしれない。つまり、自分を含めたすべての人間を重んじるということである。自分の徳で精神が安定していれば、他人の徳を冷静に観察できるだろう。真の高邁とは、誇りという言葉で換言できるかもしれない。
一方、無知で愚かな者ほど偽の高邁、つまりは高慢に陥るとしている。高慢は、自分を高めながら他人を低めようと努める。おまけに、脂ぎった欲望の奴隷となって、憎しみ、羨みに執着する。高慢とは反対であるが、同類の精神構造に卑屈がある。これが「悪しき謙虚」である。卑屈は、自らの不当な低い評価から憎しみを生じさせる。自分が弱く決断力のない人間と信じ込み、自虐の念に陥る。自分だけでは生きていけないと極度に自信を失い、何事も他人に委ね、自ら努力を怠る。人間が完全な自立を果たすことは不可能であろう。だが、自立を諦めるのと努力するのとでは意味が違ってくる。正当な自己評価は人間の認識能力で最も難しいように思える。そうでなければ、自己矛盾に陥ることもないだろう。

5. 崇敬と憐れみ
「崇敬や敬意」は、その対象を重視するだけではなく、対象に好意を持ち、精神のうちにある不安をも服従させるという。少なくとも、善と判断したものに対する情念であろう。その反対に軽蔑がある。絶望は希望の裏返しにある。精神が達成できない未来像を描く時、希望は絶望へと変貌する。勇気の持ち主は、自分の臆病を知っているのだろう。恐怖心を自覚しているのだろう。真の勇気とは、客観性に裏付けされた冷静な判断力である。偽装した勇気は、単なる強がりであり、無謀となる。死への恐怖心があるから生へ執着できる。臆病だから、危険を察知することができ工夫が生まれる。だが、臆病、驚愕、不安の過剰反応は、逆に行動力の妨げとなる。
「憐れみ」とは、宗教的によく使われる言葉だ。最も憐れみやすいのは、自分を弱い人間と認め、偶然的運による逆境に屈しやすい人としている。それは、他人への愛よりも、自分自身に向かう愛によって憐れみに動かされるからだという。自己愛がなければ生きていくのも難しいのだけど...宗教家というのは、最も自己愛の激しい連中なのだろう。
ところで、事業で大成功を収め大金持ちになった人が、突如として慈善事業を始めたりするのはなぜか?散々金儲けをした挙句、欲望行為に対する懺悔心でも生じるのか?精神の奥底に眠っていた良心が、突然湧き上がるのか?あるいは、慈善活動をする自分を眺めて、自己愛に酔いしれるのか?いずれにせよ、裕福でないにもかかわらずボランティア活動に励む人が、真の慈善家ということになろうか。

2010-11-07

"哲学原理" René Descartes 著

本書に登場する「運動量保存の法則」は、現代科学の感覚からすると簡潔過ぎるきらいがある。幾何学至上主義に陥りやすい時代ではあったのだろう。科学的知識から精神的意義を求めようとした挙句、一般的な自然科学からやや離れていく気もしなくはない。それでも、その延長上にニュートン力学や相対性理論の影を感じる。デカルト座標は、義務教育ですら当たり前のように使われるが、デカルトという名前で馴染んでいないのはなんとも惜しい。デカルト哲学と言えば、「我思う、故に我あり」という言葉が象徴するように形而上学的な狭義の哲学を意味するのであろう。本書にもその路線がはっきりと見える。しかし、ここでは数学的原理が語られる。もっとも、数学は哲学だと思っているので、まったく違和感はない。
「私は自然学においては、幾何学もしくは抽象数学におけるとは違った原理を、容認もしないし、望ましいとも思わない。なぜならば、かようにしてすべての自然現象は説明されるし、それについて確かな論証を与えることができるから。」

当初、デカルトの体系構想は、次のようなものだったという。
  • 第一部、人間認識の諸原理について
  • 第二部、物質的事物の諸原理について
  • 第三部、可視的世界について
  • 第四部、地球について
  • 第五部、動物および植物の本性について
  • 第六部、人間の本性について
しかし、実際に書かれたのは第四部までで止まっているそうな。本書はそのうちの第二部までが記される。
第一部では、形而上学的思想が語られ、これは伝統的な哲学に属する部分である。その思想は、デカルトの著書「省察」とほぼ同じ内容だそうな。思考プロセスを辿りたければ「省察」の方がお勧めらしいが、形の整ったものとなると本書の第一部になるらしい。
第二部では、物体の運動法則を中心に自然学が語られる。
また、序文には「エリザベート公女殿下にささぐ」と題して献辞が付せられる。デカルトが王女と文通をしていた証拠が残るのは、歴史的に貴重なものだそうな。

「まず最もふつうのことから始めて、哲学とは何であるかを説きたかったのです。」
哲学とは知恵の探求を意味し、それは処世の知恵ばかりではなく、日常生活や健康に対する思慮から技術革新に至るまで、人間の知りうるすべての知識を意味する。そして、あらゆる知恵の原因性を導き出すことが、最終的に善の正体を知ることとしている。また、知恵は段階的に得られるものであって、神的啓示のように一挙に信仰によって高められるものではないと指摘している。
そこには、キリスト教的で予定説的な影響を受けながら、客観的思考を加えながら、宇宙論的思想を構築していく様子がうかがえる。偉大な数学者が、若き日に数学だけが真理を与える信じながら、独自の神学を構築した例は珍しくない。デカルトにとって、哲学とは科学をも含めた総合的な学問だったのだろう。哲学は自然の一切を対象とし、人間精神もまた自然現象の一つである。哲学的宇宙論とは、神学と科学の融合と解することもできよう。あらゆる原因性を探求することこそ「哲学する」ということであろうか。したがって、哲学的思考のない学問なんてありえないように思える。ただし、不毛な議論となることを覚悟せねばなるまいが...

プラトンは、師ソクラテスに素直に従い、自分では何も見出すことができなかいことを認めた。そして、真理らしく見えるものを語り、若干の原理を想定するに留めた。一方、アリストテレスは、師プラトンとは違った原理にすがり、師匠ですら見えない真実を確実なものとして提示した。未だ哲学原理が真理を確実なものにできない以上、どちらにも欠点があるのは仕方がない。ただ、哲学論争は、熱を帯びるほど真理から遠ざかる傾向にある。よって、どんなに偉大な哲学者の主張であれ、盲目的に従うわけにはいかない。尊敬と崇拝の境界線も実に微妙で、人物や思想を絶対的に崇めた時、宗教的思考に陥る。完全に納得できる原理的体系を、精神のうちに構築することは不可能であろう。
したがって、信頼とは、完全に信仰して思考停止状態に陥ることではないのだろう。信頼とは、欠点を認めながら受け入れるということであろうか。こうしてみると信頼という言葉の意味でさえ、分かっていないことに気づかされる。自分の思想に疑いを持つことは勇気のいることであるが、それが知性の源泉であろうか。何事もちょっと疑うぐらいがちょうどいい。恋愛もちょっと嫉妬するぐらいでちょうどいい。
尚、下記はデカルトが意図したことかは知らん!泥酔者の思考が発散した結果なのだから...

1. 「エリザベート公女殿下にささぐ」
エリザベートとは、ファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女エリザベート・フォン・ベーメンのことのようだ。彼女は24歳の頃からデカルトの教えを受けたという。デカルトは、自らを「殿下の最も献身的な崇拝者」として書簡している。
知恵には、知性の認識と意志の傾動の二事が必要であると説く。ただ、誰にでも意志はあろうが、知性には個人差がある。知識を得たからといって、正しい知性へ導くとは限らない。誤謬に陥れば、むしろ有害となろう。本書は、ほとんどの人々が、形而上学に拘われば幾何学的なことを恐れ、逆に幾何学を研究すれば哲学を理解しないのが常であると指摘している。
「明敏な頭脳と、真理認識の最高の配慮とを、兼ね具えた者こそ、遥かに優秀な人々なのであります。」

2. 哲学原理
「神なるものがあること、それはこの世界に存ずる一切のものは創造者であり、あらゆる真理の源泉であるから、我々の知性が、その極めて明晰判明な認識を持つことについて下した判断において、間違いをするような性質には、決して造らなかったということです。」
すべての実体が、物体的で自然学的に運動しながら存在するということ、これが哲学原理の基本的な考えである。そして、あらゆる知的事実は、感覚的知覚に支えられるというわけか。しかし、神を見たり触れたりすることはできず、その実体は精神の内、つまりは認識の中にしかない。
哲学的思考を高めるためには、論理学の研究も怠ることはできない。だが、それはスコラ学のようなものではないという。スコラ学の論理は、既に知っていることを他人に理解させたり、知らないことですら言葉巧みに語る手段を教える論弁術に過ぎないと蔑む。精神の論理性は、しばしば慣習に左右される。純粋な客観性を求めるならば、その訓練は数学的思考を重ねることになろう。
「真理を探究するには、生涯に一度すべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。」
日常では、ほとんどが感覚的判断に委ねられる。すべての物事をいちいち疑っていては判断が遅れて実践的ではない。そのために、多くの先入観に囚われることになる。
ところで、数学的証明を疑うことができるだろうか?今まで自明であった、あるいは自明であると信じてきた原理を、見直す必要があるのか?という疑問はある。だが、トポロジーはユークリッドの第五公準への疑いから始まったと言えよう。自由意志の源泉とは、まさしく疑問を持つという思考にあるのかもしれない。

3. 実存論
「我々は疑っているとき、自ら存在していることを疑うことはできない。」
思惟する精神が存在するからこそ、物体的存在を認識できるわけで、もはや精神の実存は自明というわけか。確かに、物事を認識できるからには、自己の存在を前提しないと説明できない。
しかし、だ!自らの存在を疑ってみることも肝要であろう。思惟する精神の存在を疑うように思惟するとは自己矛盾に陥りそうだが、その自己矛盾にこそ宇宙原理があるのではないだろうか。自己矛盾に陥りながら、美味い酒を飲んで心地よくなる。これこそ「哲学する」ことだと思っている。したがって、自己の存在に疑いを持つことに何の恐れがあろうか。
本書が言うように、精神の内に実存認識が根底にあるのは認めよう。そして、存在する空間をイメージしながら、時間という一方向性の中を精神がうごめいているような気がする。しかし、その存在認識ですら現実なにか夢想なのか、はっきりとせずさまようのが精神の得体の知れないところである。実存を過信し自己の存在感を強調するから、それが革新的精神の妨げであっても、既得権益に固執し権威を誇示するような振る舞いが生じる。神の存在を過信するから、宗教的信仰に欺かれる。
また、実存認識の前提として神の必然性が語られるわけだが、デカルトの言う神とは、けして人間の知りうるものではなく、人間の発明した宗教から導き出せるものではないということであろうか?つまり、宇宙は必然的に存在するわけで、人間の信仰などには一切かかわりのないもの。そのように勝手に解釈するならばなんとなく理解できる。神のような存在があると仮定して、それは矛盾の概念すら凌駕するような最高完全者、いや、完全性と不完全性でさえ抽象化してしまうような絶対的な寛容さがなければ、宇宙の創造主の存在は説明できないだろう。完全性や不完全性、あるいは矛盾や論理性などという概念は、人間が勝手に認識しているだけなのかもしれない。
となれば、神の存在に対して、人間の存在は受動的あるいは消極的に受け入れるしかできないはず。しかし、人間社会は、能動的あるいは積極的な活動に高い評価を与える。そして、政治屋や報道屋は余計な行動に明け暮れる。ただ、あらゆる事象に疑いを持つという行為も、精神の積極的活動である。
「神によって啓示されることは、たとい我々の理解を超えていても、すべて信ずるべきである。」
そりゃそうだろう。だが、神が啓示することって、どうやって認識できるんだ?例えば、「三角形の内角の和は二直角である」といった数学的公理のようなものか?だとすると、神の啓示するものは、自然数学からしか得られないだろう。
本書は、三位一体の秘儀をこの種のものだと述べているあたりに、宗教的思考の入り込む隙を与えているように映る。神は欺瞞者ではなく誠実な存在者であるというが、誠実という人間の価値観で測れるものなのか?科学がいくら自然現象を解明しようとも、結果論を説明したに過ぎず、すべては神の思し召しなのかもしれないが。...結局、知的生命体には、永遠に知性の探求を課せられたということであろうか...

4. 物理的存在と空間認識
「物体の本性は、重さ、堅さ、色等のうちにではなく、ただ延長のうちに成り立つ。」
物体認識では、重さや堅さといった属性によって刺激を受けるのではなく、長さや幅や深さの拡がりによって刺激されるという。本書は、物体を認識する本質的感覚を「物体を構成する延長」という言葉で表現している。延長とは、空間的延長であって、離れたところから観察して得られる感覚的認識といったところであろうか?確かに、物体に直接触れなくても、その質感や運動を眺めることによって存在が認識できる。そして、空間の中における相対的な位置関係を認識している。人間が認識できるのは相対的運動であって、絶対的運動なるものを計測することはできない。絶対的静止というものの正体すら知らないのだから。
あらゆる物体認識には、空間認識が前提にある。空間とは、自己を中心とした空間である。その空間も、仮想空間といった想像を働かすことができるので、すべての空間が空虚という可能性もないとは言えない。精神とは、空間的な存在であって、そこに実存するかもしれないという錯覚から生じるのかもしれない。
では、精神の内に空間的イメージが無くなれば、はたして精神の居場所を認識することができるのだろうか?空虚と無を感じることができる人は、精神病をも恐れない勇気の持ち主なのかもしれない。精神病とは、時間の連続性が失われた現象だという話を聞いたことがあるが、空間感覚も空虚や無を直接感じることができるのかもしれない。ただ、絶対的な認識は、空虚や無を感じられなければ獲得できないような気がする。精神病とは、精神の進化する過程なのか?

5. 運動量保存の法則
「神は運動の第一原因であり、そして宇宙のうちに常に同じ運動の量を維持する。」
本書は、どんな複雑な運動もすべて神の前の完全性で説明できると主張し、運動法則を神の不変性にまで崇めている。運動とは、時間の関与があって成立する概念であろう。一般的には、運動はある物体がある場所から他の場所へ移動する働きであると定義される。運動が始まるには作用が必要である。その作用の根源とは何か?物体を押せば動く。その押す力は外部要因である。その外部要因を与える力もまた、どこかの別の外部要因である。そして、そのまた外部要因も...などと考えを巡らすと眠れなくなる。
物体への働きかけ、つまりは抵抗力の根源とは何か?静止している物体が静止を維持しようとして、抵抗力が発生するのは容易に想像できる。では、運動している物体の抵抗力の根源とは何か?そもそも、静止を基準に考えるからおかしなことになるのかもしれない。あるいは、静止状態も運動状態の一種と考えるべきなのかも、いや、静止している物体なんて存在しないのかも。などと考えれば、運動の不変性は神の仕業としか説明ができないのかもしれない。
ところで、すべての物体の運動エネルギーの総和は、宇宙創生時の総エネルギーで説明できるのだろうか?物体の運動は、単純な慣性力の重なり合いとして、ある程度は説明できるだろう。となれば、人間社会における複雑な運動を、基本運動の重なりとして完全に説明できると考えるのも不思議ではない。ただ、人間社会における運動は、しばしば政治や経済の暴走という形で現れるから厄介である。人間社会では、相対的な静止ですら維持しようとする努力は半端ではない。振動は永遠だが、静止は永遠ではないのか?静止は特異点なのか?だとすると、安定した社会を構築するためには、心地よい振動が必要ということになる。なるほど、酔っ払った時の体の揺れには心地よいものがある。自己中心説を唱えるならば、すべての物体が静止しているつもりだ!などと皆が主張して騒がしいことになりそうだ。それで酔っ払いほど、自分は酔っていないと言い張るわけか。